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« 生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(1) (序) | トップページ | 生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(3) 二 優れた者の跋扈 »

2016/02/29

生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(2) 一 劣つた種族の滅亡

      一 劣つた種族の滅亡

 

 いつの世の中でも種族間の生存競爭は絶えぬであらうから、相手よりも遙に劣つた種族は到底長く生存することを許されぬ。同一の食物を食ふとか、同一の隱れ家を求めるとか、その他何でも生存上同一の需要品を要する種族が、二つ以上同じ場處に相接して生活する以上は一競爭の起るのは當然で、その間に少しでも優劣があれば、劣つた方の種族は次第に勢力を失ひ、個體の數も段々減じて終には一疋も殘らず死に絶えるであらう。また甲の種族が乙の種族を食ふといふ如き場合に、もし食はれる種族の繁殖力が食ふ種族の食害力に追ひ附かぬときは、乙は忽ち斷絶するを免れぬでゐらう。かくの如く他種族からの迫害を蒙つて一の種族が子孫を殘さず全滅する場合は常に幾らもある。そして昔から同じ處に棲んで居た種族の間では、勝負が急に附かず勝つても負けても變化が徐々であるが、他地方から新な種族が移り來つたときなどは各種族の勢力に急激な變動が起り、劣つた種族は短日月の間に全滅することもある。ヨーロッパに、アジヤの「あぶらむし」が入り込んだために、元から居た「あぶらむし」は壓倒されて殆ど居なくなつたこともその例であるが、かゝることの最も著しく目に立つのは、大陸と遠く離れた島國へ他から新に動物が移り入つた場合であらう。ニュージーランドの如きは從來他の島との交通が全くなくて、他とは異なつた固有の動物ばかりが居たが、ヨーロッパ産の蜜蜂を輸入してから、元來土著の蜜蜂の種族は忽ち減少して今日では殆どなくなつた。鼠もこの島に固有の種類があつたが、普通の鼠が入り込んでからはいつの間にか一疋も殘らず絶えてしまうた。蠅にもこれと同樣なことがある。

[やぶちゃん注:「あぶらむし」ここで謂うのは恐らく、有翅亜綱半翅目(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea に属するアリマキ(蟻牧)類のことであろう。但し、今のところ、丘先生が述べておられるような侵入によるヨーロッパ産の在来種のアリマキが圧倒されたという学術的記述を見出せない。調査を続行するが、是非とも識者の御教授を乞うものである。

「ニュージーランド」の固有種(という意味であろう)「土著の蜜蜂の種族は忽ち減少して今日では殆どなくなつた」という種も確認出来なかった。これも調査を続行するが、やはり是非とも識者の御教授を乞うものである。

「鼠もこの島に固有の種類があつたが、普通の鼠が入り込んでからはいつの間にか一疋も殘らず絶えてしまうた」というのも同定出来なかった。ただやや不審なのは、ニュージーランドにはキーウィ(鳥綱古顎上目キーウィ目キーウィ科キーウィ属 Apteryx)などの飛べない特異な鳥類が豊富にいるが(但し、近年は移入動物のネズミやネコの食害により個体数の深刻な現象が起こっている)、これは元来、ニュージーランドには彼らの天敵となるネズミやネコといった小型哺乳類がいなかったことが、固有の生態系と種を保存出来たと私は認識しており、この固有の齧歯類(ネズミ)というのにはどうも引っかかる。これも調査を続行するが、やはり是非とも識者の御教授を乞うものである。

「蠅にもこれと同樣なことがある」固有種の同定不能。これも調査を続行するが、やはり是非とも識者の御教授を乞うものである。

Baison

[アメリカの野牛]

Dodo

[モーリシヤス島に居た奇体な鳩]

[やぶちゃん注:以上の二図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 近代になつて絶滅した種族もなかなか數が多いが、その大部分は人間がしたのである。鼠とか雀とか蠅とか「しらみ」とかの如き常に人間に伴うて分布する動物を除けば、その他の種族は大抵人間の勢力範圍の擴張するに隨うて甚しく壓迫せられ、特に大形の獸類、鳥類の如きは最近數十年の間に著しく減少した。近頃までアメカ大陸に無數に群居して往々汽車の進行を止めたといはれる野牛の如きは、今は僅に少數のものが特別の保護を受けて生存して居るに過ぎぬ。ヨーロッパの海狸も昔は各處の河に多數に住んで居たが、今は殆ど絶滅に近いまでに減少した。獅子・虎の如き猛獸はアフリカやインドが全部開拓せられた曉には、動物園の外には一疋も居なくなるであらう。人間の力によつて已に絶滅した種族の例を擧げて見るに、マダガスカル島の東にあるモーリシアス島に居た奇態な鳩の一種は今から二百年餘前に全く絶えてしまうた。またこの島よりも更に東に當るロドリゲス島にはこれに似た他の一種の鳥が住んで居たが、この方は今から百年程前に捕り盡された。これらは高さが七六糎以上目方が一二瓩以上もある大きな鳥で、力も相應に強かつたのであるが、長い間海中の離れ島に住み、恐しい敵が居ないために一度も飛ぶ必要がなく、隨つて翼は退化して飛ぶ力がなくなつた所へ西洋人の航海者がこの邊まで來て屢々この島に立寄るやうになつたので、水夫はその度毎に面白がつてこの鳥を打ち殺し、忽ちの間に全部を殺し盡して、今ではどこの博物館にも完全な標本がない程に絶對に絶えてしまうた。シベリヤ・カムチャツカ等の海岸には百五六十年前までは鯨と「をつとせい」との間の形をした長さ七米餘もある一種の大きな海獸が居たが、脂肪や肉を取るために盛に捕へたので、少時で種切れになつた。前の鳥類でもこの海獸でも敵に對して身を護る力が十分でなかつたから、生存競爭に劣者として敗れ亡びたのであるが、もし人間が行かなかつたならば無論なほ長く生存し續け得たに違ない。劣つた種族が急に滅亡するのは大抵強い敵が不意に現れた場合に限るやうである。

[やぶちゃん注:「近頃までアメカ大陸に無數に群居して往々汽車の進行を止めたといはれる野牛」偶蹄目ウシ科ウシ亜科バイソン属アメリカバイソン Bison bison 。別名、バッファロー(buffalo)。ウィキの「アメリカバイソン」によれば、分布は『アメリカ合衆国(アイダホ州、アリゾナ州、カリフォルニア州、サウスダコタ州、モンタナ州、ワイオミング州、ユタ州)、カナダ』。『以前はアラスカからカナダ西部・アメリカ合衆国からメキシコ北部にかけて分布していた』が、『ワイオミング州のイエローストーン国立公園とノースウェスト準州のウッド・バッファロー国立公園を除いて野生個体群は絶滅し、各地で再導入が行われている』。体長はで三〇四~三八〇センチメートル、で二一三~三一八センチメートル。肩高はで一六七~一八六センチメートル、で一五二~一五七センチメートル。体重はで五四四~九〇七キログラムにも達し、は三一八~五四五キログラム。の最大体重個体では実に一トン七二四キログラムのものもいた』。『肩部は盛り上がり、オスでは特に著し』く、『成獣は頭部や肩部、前肢が長く縮れた体毛で被われる』。『湾曲した角』を有し、最大角長は五〇センチメートル。分類学上は二亜種に『分ける説がある』一方、『生態が異なるのみとして亜種を認めない説もある』。

ヘイゲンバイソン Bison bison bison (Linnaeus, 1758)

シンリンバイソン Bison bison athabasca Rhoads, 1898

『草原、森林に』棲息し、『以前は季節により南北へ大規模な移動を行っていた』。と幼獣からなる群れを形成し、が『この群れに合流するが、これらが合流して大規模な群れを形成することもある』。同士では『糞尿の上を転げ回り臭いをまとわりつかせて威嚇したり、突進して角を突き合わせる等して激しく争う』。『食性は植物食で、草本や木の葉、芽、小枝、樹皮などを食べ』、『通常の成獣であれば捕食されることはないが、老齢個体や病気の個体・幼獣はタイリクオオカミ・ピューマに捕食されることもある』。『また、イエローストーン国立公園において、若い成獣がヒグマに捕食されたことが観察されている』。  ~九月に交尾を行い、妊娠期間は二百八十五日。四~五月に一回に一頭の幼獣を出産、は生後三年で、は生後二~三年で性成熟する。『ネイティブ・アメリカンは食用とし、毛皮は服・靴・テントなど、骨は矢じりに利用された』。『ネイティブ・アメリカンは弓や、群れを崖から追い落とすなど伝統的な手法によりバイソンの狩猟を行っていた。特にスー族など平原インディアンは農耕文化を持たず、衣食住の全てをバイソンに依存していた』。十七世紀に『白人が北アメリカ大陸に移入を開始すると食用や皮革用の狩猟、農業や牧畜を妨害する害獣として駆除されるようになった』。十八世紀に『人による、主に皮革を目的とする猟銃を使った狩猟が行われるようになると、バイソンの生息数は狩猟圧で急激に減少』、一八三〇年代以降は『商業的な乱獲により大平原の個体も壊滅的な状態となり、ネイティブ・アメリカンも日用品や酒・銃器などと交換するために乱獲するようになった』。一八六〇年代以降は『大陸横断鉄道の敷設により肉や毛皮の大規模輸送も可能となり、列車から銃によって狩猟するツアーが催されるなど娯楽としての乱獲も行われるようになった』。『当時のアメリカ政府はインディアンへの飢餓作戦のため、彼らの主要な食料であったアメリカバイソンを保護せずむしろ積極的に殺していき、多くのバイソンが単に射殺されたまま利用されず放置された。この作戦のため、白人支配に抵抗していたインディアン諸部族は食糧源を失い、徐々に飢えていった。彼らは、アメリカ政府の配給する食料に頼る生活を受け入れざるを得なくなり、これまで抵抗していた白人の行政機構に組み入れられていった。狩猟ができなくなり、不慣れな農耕に従事せざるを得なくなった彼らの伝統文化は破壊された。バイソン駆除の背景には牛の放牧地を増やす目的もあったとされ、バイソンが姿を消すと牛の数は急速に増えていった』。一八六〇年代以降は『保護しようとする動きが始まるが、開拓期の混乱が継続していたこと・ネイティブ・アメリカンへの食料供給の阻止・狩人や皮革業者の生活保障などの理由から大きな動きとはならなかった』。十九世紀末から二十世紀になると、フロンティアの消滅に伴って、『保護の動きが強くなりイエローストーン国立公園などの国立公園・保護区が設置されるようになり』、一九〇五年になってやっと保護を目的とする「アメリカバイソン協会」が発足された。『白人が移入する以前の生息数は』約六千万頭だったと推定されているが、一八九〇年には千頭未満まで激減した。一九七〇年には一万五千から三万頭まで増加したとされる、とある。鯨から油だけを搾り採り、肉を日本に売っていた、「世界正義」を標榜するアメリカの実態がこれだ。

「ヨーロッパの海狸」「海狸」は「かいり/うみだぬき」で「ビーバー」と読んでおく(既に丘先生は本文で「ビーバー」と表記しているからである)。哺乳綱齧歯(ネズミ)目ビーバー科ビーバー属Castor の一属のみ)。ここで謂うのはヨーロッパ北部・シベリア・中国北部に生息する

ヨーロッパビーバー Castor fiber

であるが、他にもう一種、北アメリカ大陸に生息する

アメリカビーバー Castor Canadensis

がいる。丘先生は専ら前者の急激な減少のみを問題にているように読めるが、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑5 哺乳類」(平凡社一九八八年刊)の「ビーバー」の項を見ると、ビーバーは『かつて北半球に広く分布していたが』、『近世以降』、『高価に取引きされるために乱獲され』、『個体数は著しく減少』、十七世紀に『イギリスやフランスの上流階級のあいだでビーバーの毛皮でつくった山高帽が流行』、『これが植民地時代のアメリカにおける本格的な乱獲に火をつけたといわれる』とあり、十九世紀前半には年間十万頭から五十万頭ものビーバーが毛皮用に殺され、『ハドソン・ベイ・カンパニー(北米原住民との毛皮取引きを目的として設立されたイギリスの会社)の紋章にもなった』。十九世紀半ばに『なって乱獲は下火となったが』、『一時は絶滅寸前かと噂された』。『二十世紀に入ってからは各州』(これは明らかにアメリカである)『の保護のもと』、『個体数は多少増えつつある』とあるから、乱獲と個体数激減で深刻だったのは寧ろ、アメリカビーバー Castor Canadensis の方だったことが窺えるのである(下線やぶちゃん)。

「マダガスカル島の東にあるモーリシアス島に居た奇態な鳩の一種は今から二百年餘前に全く絶えてしまうた」マダガスカルの東方八百九十キロメートルのインド洋上マスカレン諸島に位置する、イギリス連邦加盟国であるモーリシャス共和国(Republic of Mauritius)の首都ポートルイスのあるモーリシャス島に棲む、

ハト目ドードー科 Raphus 属モーリシャスドードー Raphus cucullatus

で、一般に単に「ドードー」と呼んだ場合は本種を指す。ウィキの「ドードー」によれば、『大航海時代初期の』一五〇七年に『ポルトガル人によって生息地のマスカリン諸島が発見された』。一五九八年に八隻の『艦隊を率いて航海探検を行ったオランダ人ファン・ネック提督がモーリシャス島に寄港し、出版された航海日誌によって初めてドードーの存在が公式に報告された。食用に捕獲したものの煮込むと肉が硬くなるので船員達はドードーを「ヴァルクフォーゲル」(嫌な鳥)と呼んでいた』『が、続行した第二次探検隊はドードーの肉を保存用の食糧として塩漬けにするなど重宝した。以降は入植者による成鳥の捕食が常態化し、彼らが持ち込んだイヌやブタ、ネズミにより雛や卵が捕食された。空を飛べず地上をよたよた歩く、警戒心が薄い、巣を地上に作る、など外来の捕食者にとって都合のいい条件が揃っていた』『ドードーは森林の開発』『による生息地の減少、そして乱獲と従来』は『モーリシャス島に存在しなかった人間が持ち込んだ天敵により急速に個体数が減少した。オランダ・イギリス・イタリア・ドイツとヨーロッパ各地で見世物にされていた個体はすべて死に絶え、野生のドードーは』一六八一年の『イギリス人ベンジャミン・ハリーの目撃を最後に姿を消し、絶滅した』。『ドードーは、イギリス人の博物学者ジョン・トラデスカントの死後、唯一の剥製が』一六八三年に『オックスフォードのアシュモレアン博物館に収蔵されたが、管理状態の悪さから』一七五五年に『焼却処分されてしまい、標本は頭部、足などのごくわずかな断片的なものしか残されていない』。『しかし、チャコールで全体を覆われた剥製は、チェコにあるストラホフ修道院の図書館に展示されている『特異な形態に分類項目が議論されており、短足なダチョウ、ハゲタカ、ペンギン、シギ、ついにはトキの仲間という説も出ていたが、最も有力なものはハト目に属するとの説であった』。『シチメンチョウよりも大きな巨体』『で翼が退化しており、飛ぶことはできなかった。尾羽はほとんど退化しており、脆弱な長羽が数枚残存するに過ぎない。顔面は額の部分まで皮膚が裸出している』。『空を飛べず、巣は地面に作ったと言う記録があ』り、『植物食性で果実や木の実などを主食にしていたとされる』。『また、モーリシャスにある樹木、タンバラコク(アカテツ科のSideroxylon grandiflorum、過去の表記はCalvaria major〈別称・カリヴァリア〉であった)と共生関係にあったとする説があり』、一九七七年に『サイエンス誌にreportが載っている』。『内容は、その樹木の種子をドードーが食べることで、包んでいる厚さ』一・五センチメートルもの『堅い核が消化器官で消化され、糞と共に排出される種子は発芽しやすい状態になっていることから、繁茂の一助と為していたというものであった。証明実験としてガチョウやシチメンチョウにその果実を食べさせたところ、排出された種子に芽吹きが確認された記述もあった。タンバラコクは絶滅の危機とされ』、一九七〇年代の観測で老木が十数本、実生の若木は一本とされる。『ただし、この説は論文に対照実験の結果が示されていないことや、サイエンス誌の査読が厳密ではなかったと推測する人もおり、それらの要因から異論を唱える専門家も存在する』。『ドードーの名の由来は、ポルトガル語で「のろま」の意』で、また、『アメリカ英語では「DODO」の語は「滅びてしまった存在」の代名詞である』とある。但し、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻1 絶滅・稀少鳥類」(平凡社一九九三年刊)の「ドードー」によれば、『一説によると』、『ドードーという名前そのものが』、『この鳥の鳴き声だともいう』とある。ヒトに見つけられて絶滅させられるまで、たった百四十七年であった(下線やぶちゃん)。

「ロドリゲス島にはこれに似た他の一種の鳥が住んで居たが、この方は今から百年程前に捕り盡された。これらは高さが七六糎以上目方が一二瓩以上もある大きな鳥で、力も相應に強かつたのであるが、長い間海中の離れ島に住み、恐しい敵が居ないために一度も飛ぶ必要がなく、隨つて翼は退化して飛ぶ力がなくなつた所へ西洋人の航海者がこの邊まで來て屢々この島に立寄るやうになつたので、水夫はその度毎に面白がつてこの鳥を打ち殺し、忽ちの間に全部を殺し盡して、今ではどこの博物館にも完全な標本がない程に絶對に絶えてしまうた」これは、モーリシャス島の北東五百六十キロメートルに位置するモーリシャス領の孤島で三つの島からなるロドリゲス島(Rodrigues Island)にのみ棲息していた、

ハト目ドードー科 Pezophaps 属ロドリゲスドードー Pezophaps solitaria

を指す。別名、「ソリテアー」(solitaire:ひとりもの)で、『形態などの差異からモーリシャスドードーとは別属に分類されている』。体長一メートルほどで、『体重は最も肥満する時期で』二十キログラム以上にも達した。『体色は主に褐色で白いものもある。飛べない。歩く速度は、「開けた場所なら簡単に捕まえられるが森の中ではなかなか捕まえられない」程度。卵は地上に葉を積み上げた巣に』、一個だけ産む。敵がおらず、『生息地が限られている環境で種を維持するには』、二個以上の卵を『産むのは不適当だったからであろうが、この習性が人間がロドリゲス島に来た後になって個体数の回復を難しくした可能性が高い』。この鳥を一六八九年に『はじめて発見したフランソワ・ルガの手記によると、多数が生息していたにもかかわらず複数で行動しているところはみかけなかったとのことで、別名のソリテアー(ひとりもの)と学名の種小名solitaria はそこから名付けられた』。一七六一年を『最後に目撃者がおらず、絶滅したとされる。標本は残っておらず、ヨーロッパに持ち込まれたこともない。人間による捕獲とネズミなどの移入動物による(特に卵や雛の)捕食が絶滅の原因とされている』とある。ヒトに見つけられて絶滅させられるまで、こちらは実に七十二年しかかからなかった。なお、ドードーには今一種、モーリシャス島西南方百九十キロメートルに位置するレユニオン島(現在はフランス領)に棲息していた、

レユニオンドードー Raphus solitaries

 

がいた。ウィキの「レユニオンドードー」によれば、『島を訪れた航海者の手記によると、「シチメンチョウ程度の大きさで、太ったおとなしい鳥」。羽毛は白、クチバシと羽の先は黄色。飛べない』。モーリシャスドードー Raphus cucullatus と同様の理由によって十七世紀末には絶滅したとされており、二羽ほどが『ヨーロッパに送られたらしいが、標本は残っていない。なお』、同島内では『ロドリゲスドードーに似た痩せた姿のレユニオンドードーも目撃されており、絵が残されている。日本の鳥類学者蜂須賀正氏はこれをレユニオンドードーとは別の種』(同氏は「ホワイトドードー」(victoriornis inperialis)と「レユニオンソリテアー」(Ornithaptera solitaria)という、孰れも別個立ての新属として種小名も「レユニオンドードー」(Raphus solitaries)とも異なる二種に分けて命名している)『としたが、今のところ一般には採用されていない』とある。「世界大博物図鑑別巻1 絶滅・稀少鳥類」で荒俣氏の記載にも小さな島(百九平方キロメートルしかない)に『類似した種が二つもいるとは考えられぬとして否定的な意見が多い』とある。私も同感である。なお、モーリシャス島・ロドリゲス島・レユニオン島では、他にも多くのリクガメやゾウガメの仲間が同時期に絶滅してもいる。

「シベリヤ・カムチャツカ等の海岸には百五六十年前までは鯨と「をつとせい」との間の形をした長さ七米餘もある一種の大きな海獸が居たが、脂肪や肉を取るために盛に捕へたので、少時で種切れになつた」ベーリング海に棲息していたジュゴン科に属する寒冷地適応型の一種で、体長七~九メートル、最大体重九トンにも及ぶ哺乳綱海牛(ジュゴン)目ダイカイギュウ科ステラーカイギュウ亜科ステラーカイギュウ属ステラーカイギュウHydrodamalis gigas  ロシアのベーリング率いる探検隊の遭難によって一七四二年に発見された彼らは、その温和な性質や傷ついた仲間を守るため寄ってくるという習性から、瞬く間に食用に乱獲され、一七六八年を最後に発見報告が絶える。ヒトに知られてから何と、僅か二十七年の命であった「地球にやさしい」僕らは、欲望の赴くまま、容易に普段の「やさしさ」を放擲して、不敵な笑いを浮かべながら、第二のステラーダイカイギュウの悲劇を他の生物にも向けるであろう点に於いて、何等の進歩もしていない。この頭骨の語りかけてくるものに僕らは今こそ真剣に耳を傾けねばならないのではないか? 自分たちが滅びてしまう前に――

 

 人間の各種族に就いても理窟は全く同樣で、遠く離れて相觸れずに生活して居る間は、たとひ優劣はあつても勝敗はないが、一朝相接觸すると忽ち競爭の結果が顯れ、劣つた種族は暫くの間に減少して終には滅亡するを免れぬ。歷史あつて以來優れた種族から壓迫を受けて終に絶滅した人間の種族は今日までに已に澤山ゐる。オーストラリヤの南にあるタスマニア島の土人の如きは、昔は全島に擴つて相應に人數も多かつたが西洋の文明人種が入り込んで攻め立てた以來、忽ち減少して今から數十年前にその最後の一人も死んでしまうた。昔メキシコの全部に住んで一種の文明を有して居たアステカ人の如きも、エスパニヤ人が移住し來つて何千人何萬人と盛に虐殺したので、今では殆ど遺物が殘つて居るのみとなつた。古い西洋人のアフリカ紀行を讀んで見ると、瓢を持つて泉に水を汲みに來る土人を、樹の蔭から鐡砲で打つて無聊を慰めたことなどが書いてあるが、鐡砲のない野蠻人と鐡砲のある文明人とが相觸れては、野蠻人の方が忽ち殺し盡されるのは當然である。今日文明人種の壓迫を蒙つて將に絶滅せんとして居る劣等人種の數は頗る多い。セイロン島のヴェッダ人でも、フィリッピン島のネグリト人でも、ボルネオのダヤック人でも、ニューギニヤのパプア人でも、今後急に發展して先達の文明人と對立して生存し續け得べき望みは素よりない。文明諸國の人口が殖えて海外の殖民地へ溢れ出せば、他人種の住むべき場處はそれだけ狹められるから、終には文明人とその奴隷とを除いた他の人間種族は地球上に身を置くべき處がなくなつて悉く絶滅するの外なきことは明である。人種間の競爭に於ては、幾分かでも文明の劣つた方は次第に敵の壓迫を受けて苦しい境遇に陷るを免れぬから、自己の種族の維持繼續を圖るには相手に劣らぬだけに智力を高め文明を進めることが何よりも肝要であらう。

[やぶちゃん注:「タスマニア島の土人の如きは、昔は全島に擴つて相應に人數も多かつたが西洋の文明人種が入り込んで攻め立てた以來、忽ち減少して今から數十年前にその最後の一人も死んでしまうた」タスマニア島の原住民であったタスマニアン・アボリジニ(Aborigine:アボリジニーはオーストラリア大陸と周辺島嶼(タスマニア島など。ニューギニアやニュージーランドなどは含まない)の先住民。タスマニアン・アボリジニーは一八〇〇年代前半に起こったイギリス植民者との「ブラック・ウォー(Black War)」で敗北、大量に殺戮され、或いは小島に移住させられて、ほぼ絶滅させられた。ウィキの「ブラック・ウォー」によれば、『この戦争は公式な宣戦布告無しで開始されたため、その継続期間についてはいくつかのとらえ方がある』。一八〇三年に『タスマニア島に最初にヨーロッパ人が入植した時に始まったとする見方もある。 最も激しい衝突があったのは』一八二〇年代で、『特にこの時期をブラック・ウォーと呼ぶことが多い』。この一八二〇年代の激しい衝突の後、一八三〇年にイギリス人副総督ジョージ・アーサー(George Arthur)は、『タスマニア島内のアボリジニーを一掃する計画を立てた。この作戦はブラック・ラインとして知られ、流刑者まで含めた島内全ての男性入植者が動員された。入植者は横列を組んで南と東に向け数週間かけて進み、タスマン半島へとアボリジニーを追い込もうとした。しかし、ほとんどアボリジニーを捕捉することはできなかった』。『もっとも、ブラック・ラインの実行は、アボリジニーを動揺させ、フリンダーズ島への移住を受け入れさせることにつながったと一般に考えられて』おり、約三百人の生き残っていた『タスマニアン・アボリジニーの大半は』、一八三五年末までにジョージ・ロビンソン(George Augustus Robinson)の提案に従って、『フリンダーズ島へ移住して、事態の鎮静化までの「保護」を受けることになった。そして、この移住完了をもってブラック・ウォーについて戦争終結と見るのが一般的である』。しかし、『フリンダーズ島への移住後、劣悪な生活環境とヨーロッパ人がもたらした疫病によりタスマニアン・アボリジニーの人口は激減』、一八四七年に『タスマニア島のオイスター湾保護区に再移送されるまでにタスマニアン・アボリジニーは約』四十人にまで減少、『その固有の文化も失われた。民族浄化というブラック・ラインの目的は、フリンダーズ島移住によって代わりに実現されたことになる』。『ジョージ・ロビンソンは』、一八三九年に『ポート・フィリップ地区の主席アボリジニー保護官に任命された。彼の下でオイスター湾の保護区は運営され』、一八四九年末に閉鎖された。このおぞましい大虐殺について、かのイギリスの作家H・G・ウェルズは、その「宇宙戦争」(The War of the Worlds:一八九八年刊)の序文で、次のように触れている。(火星人の侵略について考えるに際して)『われわれ人間は、自らが行ってきた無慈悲で徹底した破壊という所業を思い起こす必要がある。それも、バイソンやドードーといった動物を絶滅させただけでなく、われわれの劣等な近縁種たちまでも手にかけてきたことを。タスマニア人たちは、われわれ人とよく似ていたにも関わらず、ヨーロッパからの移民が行った駆除作戦によって』、五十年の『うちに絶滅させられてしまったのだ』(下線やぶちゃん)。同時代に生きた丘先生の本パートはまさにウェルズと同じ慙愧の念を以って語られているとは思えないか?

「昔メキシコの全部に住んで一種の文明を有して居たアステカ人の如きも、エスパニヤ人が移住し來つて何千人何萬人と盛に虐殺したので、今では殆ど遺物が殘つて居るのみとなつた」テノチティトランと呼ばれた現在のメキシコ市の中心部に都を置き、アステカ文化を花開かせた彼らは、十四世紀からスペイン人によって征服されてしまった一五二一年まで栄えた。「アステカ(Azteca)」とは彼らの伝説上の起源の地「アストラン(Aztlan)の人」を意味する(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。以下、ウィキの「アステカ」から滅亡の前後を見よう。『メソアメリカ付近に現れたスペイン人は、繁栄する先住民文化をキューバ総督ディエゴ・ベラスケスに報告した』。一五一九年二月、『ベラスケス総督の配下であったコンキスタドールのエルナン・コルテスは無断で』十六頭の『馬と大砲や小銃で武装した』五百人の『部下を率いてユカタン半島沿岸に向け出帆』、『コルテスはタバスコ地方のマヤの先住民と戦闘を行』って、『その勝利の結果として贈られた女奴隷』二十人の『中からマリンチェという先住民貴族の娘を通訳として用いた』。『サン・フアン・デ・ウルア島に上陸したコルテスは、アステカの使者からの接触を受けた。アステカは財宝を贈ってコルテスを撤退させようとしたが、コルテスはベラクルスを建設し、アステカの勢力下にあるセンポアラ(スペイン語版、英語版)の町を味方に付けた。さらにスペイン人から離脱者が出ないように手持ちの船を全て沈めて退路を断ち』、三百人で内陸へと進軍『コルテスは途中の町の多くでは抵抗を受けなかったが、アステカと敵対していたトラスカラ王国とは戦闘になり、勝利し、トラスカラと和睦を結んだ』。十月十八日、チョルーラの町で彼らを礼節を以って迎えた三千から六千人ともされる無辜の民をおぞましい方法で大虐殺し、その後、千人の『トラスカラ兵と共にメキシコ盆地へと進軍』、一五一九年十一月十八日、『コルテス軍は首都テノチティトランへ到着』、モクテスマ二世は『抵抗せずに歓待』、コルテス達はモクテスマ二世の父の宮殿に入って六日間を過ごしたが、『ベラクルスのスペイン人がメシカ人によって殺害される事件が発生すると、クーデターを起こして』モクテスマ二世を支配下に治めた。翌一五二〇年五月、『ベラスケス総督はナルバエスにコルテス追討を命じ、ベラクルスに軍を派遣したため、コルテスは』百二十人の守備隊をペドロ・デ・アルバラードに託して一時的にテノチティトランをあとにした。ナルバエスがセンポアラに駐留すると、コルテスは黄金を用いて兵を引き抜いて兵力を増やした。雨を利用した急襲でナルバエスを捕らえて勝利すると、投降者を編入した』。『コルテスの不在中に、トシュカトルの大祭が執り行われた際、アルバラードが丸腰のメシーカ人を急襲するという暴挙に出』たことから、『コルテスがテノチティトランに戻ると大規模な反乱が起こり、仲裁をかって出た』モクテスマ二世は『アステカ人の憎しみを受けて殺されてしまう』『(これについては、スペイン人が殺害したとの異説もある)』。翌月末の六月三十日、『メシーカ人の怒りは頂点に達し、コルテス軍を激しく攻撃したので、コルテスは命からがらテノチティトランから脱出した』。『王(トラトアニ)を失ったメシーカ人はクィトラワクを新王に擁立して、コルテス軍との対決姿勢を強めた』。翌一五二一年四月二十八日、『トラスカラで軍を立て直し、さらなる先住民同盟者を集結させたコルテスはテテスコ湖畔に』十三隻の『船を用意し、数万の同盟軍とともにテノチティトランを包囲』、一五二一年八月十三日、『コルテスは病死したクィトラワク国王に代わって即位していたクアウテモク王を捕らえアステカを滅ぼした』。その後、『スペインは金銀財宝を略奪し徹底的にテノチティトランを破壊しつくして、遺構の上に植民地ヌエバ・エスパーニャの首都(メキシコシティ)を建設した。多くの人々が旧大陸から伝わった疫病に感染して、そのため地域の人口が激減した(但し、当時の検視記録や医療記録からみて、もともと現地にあった出血熱のような疫病であるとも言われている)』。『その犠牲者は征服前の人口はおよそ』一千百万人で『あったと推測されるが』、一六〇〇年の『人口調査では、先住民の人口は』百万程度に『なっていた。スペイン人は暴虐の限りを尽くしたうえに、疫病により免疫のない先住民は短期間のうちに激減した』のであった。当ウィキの注釈には、『アステカ王国がわずかな勢力のスペイン人に』たった二年半で滅ぼされてしまった『理由が、白い肌のケツァルコアトル神が「一の葦」の年に帰還するという伝説があったため』、『アステカ人達が白人のスペイン人を恐れて抵抗できなかったというためだったという通説については、異論を唱える研究者もいる。大井邦明によれば、ケツァルコアトルが白人に似た外観であったというのはスペイン人が書き記した文書にのみ見られるという。白人が先住民の支配を正当化すべく後から話を作った可能性があるという』。『また、スーザン・ジレスピー(フロリダ大学)によれば、アステカ側の年代記制作者が、わずかな勢力に王国が滅ぼされたことの理由付けとして後から話を作った可能性があるという』。『実際の理由としては、アステカがそれまで経験してきた戦争は生贄に捧げる捕虜の確保が目的であ』って、『敵を生け捕りにしてきたのに対し、スペイン人達の戦い方は敵の無力化が目的であり』、『殺害も厭わなかったこと』、『また、スペインの軍勢の力を見せつけるべくチョルーラで大規模な殺戮を行うなどしたが、アステカの人々にとっては集団同士の戦いでの勝敗はそれぞれの集団が信仰する神の力の優劣を表していたこと』、『そしてまた、スペイン人達は銃や馬で武装しており、アステカの軍勢は未知の武器に恐れをなしてたびたび敗走したこと』、『スペイン人がアステカに不満を持っていた周辺の民族を味方につけたこと』『などが挙げられる。これらの他、モクテソマ王自身が、不吉な出来事や自身が権力の座を失うことなどに不安を募らせ』、『希望を失なって首都を離れようとするなど』、『厭世的な気持ちに捕らわれていたことがアステカの軍勢の士気をも落としていただろうという指摘もある』とある。

「劣等人種」「鐡砲のない野蠻人と鐡砲のある文明人」時代的限界性からこれらが現行では許されない表現であることは言を俟たない。しかしどうあろう、丘先生はこれらを一種鉤括弧つきで皮肉に用いておられるようにも私には思われるのである。生物学的な「進化」の観点からは「劣等」「優等」という措辞を完全抹消することは恐らくは出来まい。そうして、例えば「鐡砲のない野蠻人と鐡砲のある文明人」を、現代の合わせて私は「鐡砲のない野蠻人と」全人類を何度も絶滅し得るだけの馬鹿げた核兵器を保持し、ゲーム感覚の電子精密「鐡砲」で無辜の民を殺すことに興じている「文明人」と言い換えてみたくなる。私は――「瓢」(ふすべ)「を持つて泉に水を汲みに來る土人」でありたいが、「樹の蔭から鐡砲で打つて無聊を慰め」る「文明人」には金輪際、なりたくないのである。――

「セイロン島のヴェッダ人」ウィキの「ヴェッダ人(英語:Vedda)によれば、『スリランカの山間部で生活している狩猟採集民。正確にはウェッダーと発音するが』、これは実は侮蔑語であって、彼らの『自称はワンニヤレット (Wanniyalaeto, Wanniyala-Aretto)で「森の民」の意味である』。『人種的にはオーストラロイドやヴェッドイドなどと言われている。身体的特徴としては目が窪んでおり彫りが深く、肌が黒く低身長であり広く高い鼻を持つ。 記録は、ロバート・ノックス』(Robert Knox)の「セイロン島誌」(An Hiatorical Relation of the Island Celylon in the East Indies,1681)に遡り、人口は一九四六年当時で二千三百四十七人、『バッティカロア、バドゥッラ、アヌラーダプラ、ラトゥナプラに居住していたという記録が残る』が、一九六三年の統計で四百人と『記録されて以後、正式な人口は不明で、シンハラ人との同化が進んだと見られる』。『現在の実態については確実な情報は少ない。伝説の中ではヴェッダはさまざまに語られ、儀礼にも登場する。南部の聖地カタラガマ(英語版)の起源伝承では、南インドから来たムルガン神が、ヴェッダに育てられたワッリ・アンマと「七つ峯」で出会って結ばれて結婚したとされる。ムルガン神はヒンドゥー教徒のタミル人の守護神であったが、シンハラ人からはスカンダ・クマーラと同じとみなされるようになり、カタラガマ神と呼ばれて人気がある。カタラガマはイスラーム教徒の信仰も集めており、民族や宗教を越える聖地になっている』。八月の『大祭には多くの法悦の行者が聖地を訪れて火渡りや串刺しの自己供犠によって願ほどきを行う』。『一方、サバラガムワ州にそびえるスリー・パーダは、山頂に聖なる足跡(パーダ)があることで知られる聖地で、仏教、ヒンドゥー教、イスラーム教、キリスト教の共通の巡礼地で、アダムスピークとも呼ばれるが、元々はヴェッダの守護神である山の神のサマン』(英語:Saman)を『祀る山であったと推定されている。古い神像は白象に乗り弓矢を持つ姿で表されている。サバラガムワは「狩猟民」の「土地」の意味であった。古代の歴史書『マハーワンサ』によれば、初代の王によって追放された土地の女夜叉のクエーニイとの間に生まれた子供たちが、スリーパーダの山麓に住んだというプリンダー族の話が語られている。その子孫がヴェッダではないかという』。『また、東部のマヒヤンガナ』『は現在でもヴェッダの居住地であるが、山の神のサマン神を祀るデーワーレ(神殿)があり、毎年の大祭にはウエッダが行列の先頭を歩く。伝承や儀礼の根底にある山岳信仰が狩猟民ヴェッダの基層文化である可能性は高い。なお、民族文化のなかで、一切の楽器をもたない稀少な例に属する』とある(下線やぶちゃん)。

「フィリッピン島のネグリト人」「ネグリート」とも呼ぶ。ウィキのネグリト(英語:Negrito)から引く。彼らは『東南アジアからニューギニア島にかけて住む少数民族を指し、これらの地域にマレー系民族が広がる前の先住民族であると考えられている。アンダマン諸島のアンダマン諸島人』、(十族)と、『Jangil、ジャラワ族、オンゲ族、センチネル族』を合わせた十四の『民族、マレー半島と東スマトラのセマン族』、『タイのマニ族』、『フィリピンのアエタ族・アティ族・バタク族(英語版)・ママンワ族』の四民族、『ニューギニアのタピロ族』『などの民族が含まれる』。『身長は低く、諸民族の中でも最も小さな人々であり「大洋州ピグミー」とも呼ばれる。オーストラロイドに属し、暗い褐色の皮膚を持ち、巻毛と突顎を持つ。山地にすみ単純な採集や狩猟を行い、移動焼畑を行う場合もある採集狩猟民である。フィリピンのアエタなどは火を使用するが、アンダマン諸島民は火を使わない。セマンは木の皮を叩いてやわらかくして衣服を作り、洞窟や木の葉で覆った家に住んでいたと記録されている』。『ネグリトという言葉はスペイン語で「小柄で黒い人」という意味であり、当初スペイン人航海者たちはネグリト人の肌の黒さからアフリカ人(アフリカの黒人)の一種かもしれないと考えていた。マレー語ではオラン・アスリ(orang asli)、すなわち「もとからいた人」と言う。フィリピンでは、現在のマレー系の民族が舟で到来する前の先住民とされ、パナイ島の伝説ではボルネオ島から渡ったマレー人たちがネグリト系のアエタの民から土地の権利を買ったとされている』。『ネグリトの人々は他の民族と比較して最も純粋なミトコンドリアDNAの遺伝子プールを持つとされ、彼らのミトコンドリアDNAは遺伝的浮動の研究の基礎となっている。またニューギニアに住む集団は、ネグリトとはさらに別に、メラネシア・ピグミーとされる事がある』。使用言語の項。『アンダマン諸島やニューギニア島のネグリトは固有の言語を持つが、マレー半島やフィリピンのネグリトは周辺諸族(非ネグリトのモンゴロイド)と同様のものを話す。これは過去のある時点で固有の言語を喪失したものと考えられている』。平凡社「世界大百科事典」(一九九八年版)の「ネグリト」によれば、インド洋のアンダマン諸島に約六百人、タイ南部と半島マレーシアの内陸に約二千五百人(セマン族)、フィリピン群島に約千五百人(アエタ族)が居住するとある(下線やぶちゃん)。

「ボルネオのダヤック人」平凡社「世界大百科事典」(一九九八年版)の内堀基光氏の「ダヤク族」(英語:DayakDyak)によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・追加した)、『オランダ系の民族学においては、ボルネオ島(カリマンタン)に住むプロト・マレー人系の原住民の総称として「ダヤク」の名称が一般的に用いられる。したがってこの語に各民族名を冠し、「カヤン・ダヤク」、「クニャー・ダヤク」、「ヌガジュ・ダヤク」、「海ダヤク(イバン族)」、「陸ダヤク」などの複合名称がしばしば用いられる。ダヤク諸族間の言語・文化的類縁関係については諸説があるが、ごく大きく分けて、(一)フィリピンの諸民族と近い北部群(とくにムルット族)、(二)中央カリマンタン諸族(カヤン族・クニャー族を含む)、(三)西ボルネオ諸族(イバン族・陸ダヤク)の三群を認めることができる』。『ダヤク諸族全体を通して焼畑陸稲栽培、顕著なアニミズム的世界観、発達した葬制、双系的な社会構造などの共通性が存在する。農耕方式における例外としては、北部高地のケラビット族の棚田耕作、西部海岸のミラナウ族のサゴヤシ栽培が文化史的に重要である。ボルネオ島の各地方海岸部に住むマレー人の起源は、多くの場合、イスラム化したダヤク族に求められるであろう。現在でも進行中の社会過程としてダヤク族のイスラム化=マレー化は、東南アジア島嶼部の歴史を理解するうえで重要な現象である。ボルネオ北西部を占めるサラワク(現・マレーシア領)では、イギリス植民地時代から「ダヤク」の語を「海ダヤク」と「陸ダヤク」に限定して用いてきた。日本でダヤク(ダイヤ)族という場合、実際にはイバン族をさしていることが多い』とある(下線やぶちゃん)。

「ニューギニヤのパプア人」平凡社「世界大百科事典」(一九九八年版)の畑中幸子氏の「パプア人」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・追加した)、『ニューギニア島の高地に住む人々を指す場合と、パプア・ニューギニア(ニューギニア島東部)に住む人々を指す場合がある』(丘先生の謂いはこの両者を含むと考えてもよいが、少数の被圧された種族という意味ではニューギニア高地人で採るのがよかろう)。『高地に住む人々は、人種的にはオーストラロイドまたはオセアニック・ネグリトといわれ、アジア大陸から太平洋に向かって押し出された最古の集団である。これらの人々は約三万年前にニューギニア島に到着していた、後から来たモンゴロイド系に高地に追いやられた。一般にニューギニア高地人と呼ばれ、他のメラネシア地域とは異なる人種集団を形成している。一時期に大規模な人種の混血があったため、身体的特徴も地域により異なる。一九六〇年半ばから始まった考古学調査によると、高地の各地の渓谷に約一万年前に人が住んでいたことが明らかとなった。ベールに包まれたまま長く外界と孤立していたパプア人の多くは、第二次世界大戦後、オーストラリア行政と接触した。しかし六十年代までパプア人社会に近代化政策がもち込まれなかったため、発展が遅れた』。『パプア諸語には、数百を下らぬ数の異なる言語が含まれ、それぞれの言語の話者数は、数百から十五万人以上とさまざまである。パプア人社会は威信の獲得、蓄積を競う男性社会によって支配される部族社会であり、その特徴は中央集権化された政治組織および体系化された宗教がないことにある。儀礼が発達しており、多くはシングシング』(singsing:南西太平洋のメラネシア、特にパプア・ニューギニアでよく使われる、主として踊りなどを指すピジン・イングリッシュ)『が伴う。リーダーシップは世襲ではなく、戦闘や部族間の交易によって築かれ獲得されたもので、氏族(クラン)ごとにいるリーダーはビッグマン(ピジン・イングリッシュで「首長」の意)と呼ばれた。ビッグマンは氏族の全面的支持を背景として対外関係を処理してきた。部族間の取引関係を通じて通婚関係や同盟が成立していたが、張合いと攻撃性はしばしば武力抗争にまで発展した。貝貨・豚は欠かすことのできない財であった。技術の発達は遅れており、一般に階層分化も社会分業も未発達であった。人々はすべて形あるものは精霊から授けられると信じ、また呪術が部族間・部族内を問わずはびこっていた。彼らは根茎類(ヤムイモ・タロイモ・サツマイモ・キャッサバなど)の栽培を生業とする自給農民であるが、主として女性が農耕に従事する。主食のサツマイモは約三〇〇~三五〇年前にポルトガル人あるいはマレー人によって海岸地方にもたらされ内陸部に達したもので、これが高地の人口を増加させ、社会を変えたといわれる。一九六〇年代には換金作物の茶、コーヒーが導入されて栽培に成功、国の経済発展に一役買っている』。一九七三年に『パプア・ニューギニアに自治政府が樹立され、パプア人たちも政治に参加する機会をえた』。一九七五年には『イギリス女王を元首とする立憲君主国として独立したが、パプア・ニューギニアの約三百六十万人』(一九八四年次推定)の人口の三分の二が『パプア人である。メラネシア人との人種混血がおきており、ラネシア人国家ということから国民の間にメラネシア人としてのアイデンティティ(同類意識)が育ちつつある。西欧文化との接触が新しいため、土着文化が西欧文化と共存している』とある(下線やぶちゃん)。]

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