北條九代記 卷第七 將軍家佐渡前司が亭に入御
○將軍家佐渡前司が亭に入御
同九月五日、將軍家、佐渡前司基綱が大倉の亭に入御したまふ。武蔵守經時、左近將監時賴、遠江守朝直以下の輩、供奉し奉る。和歌の詠、取々(とりどり)秀逸の句を出し、詞は古きを用ひながら、意(こゝろ)は新(あたらし)き歌どもなり。次に管絃を初められ、將軍家は御笛(おんふえ)を遊(あそば)され、能登前司は琵琶を仕り、二條中將、和琴(わごん)を彈き給ひ、壬生侍從(みぶのじじう)、唱歌せらる。笙瑟(しやうひつ)の調(しらべ)、音冴えて、秋風樂(しうふうらく)を奏すれば、折に叶へる秋の風に、木の葉縺(もつ)れて舞ふが如し。萬秋樂(ばんしうらく)の聲(こゑ)の内には、千代を重ぬる壽(ことぶき)を、君が爲(ため)にと歌ふなり。世は治(をさま)る太平樂、四海の外まで靡くなる、納蘇利(なそり)や羅綾王(らりようわう)、廻る盃(さかづき)、數(かず)添(そ)ふは、胡飮酒(こをんじゆ)、酒胡子(しゆこし)、廻盃樂(くわいはいらく)、誠(まこと)に妙(たへ)なる音樂に、陸(くが)には馬も秣(まぐさ)に仰(あふ)ぎ、水には魚の踊(をどる)らん。素(もと)より此所は、閑寂(かんせき)山陰(さんいん)の幽栖(いうせい)なり。古松(こしよう)、枝垂(た)れては、千年の色を見せ、老槐(ろらうかい)、葉、茂くして、萬世の德を表す。端山(はやま)の紅葉(もみぢ)、籬(まがき)の菊、露重(おも)げなる萩が枝(え)も、枯たる後ぞ面白き。岩を疊める中よりも、靜(しづか)に落つる瀧の絲(いと)、來る人毎(ごと)に眺めては、心を繼(つな)ぎて止(とゞ)むらん。既に暮掛(くれかゝ)りければ、白拍子兩三人參りて、今樣、朗詠し、雪の袖を返しけり。猿樂を招きて舞跳(まひをど)らせ、樣々(さまざま)の御遊に、將軍家、興を催され、雞鳴(けいめい)に及びて還御あり。基綱、大に喜びて、樣々の御送物(おんおくりもの)をぞ奉られける。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十五の寛元元(一二四三)年九月五日に基づく。
「佐渡前司基綱」後藤基綱(養和元(一一八一)年~康元元(一二五六)年)は藤原秀郷の系譜を引く京武者後藤基清の子。ウィキの「後藤基綱」によれば、但し、『その活躍は武士としてよりも、文官に近い実務官僚としてであり、また歌人としても有名で』あり、説話集「十訓抄」の著者とする説さえもある。『承久の乱では軍奉行を務めたと見られ、後鳥羽上皇方に付いた父基清を幕府の命令により斬首し』、嘉禄元(一二二五)年には新設された『評定衆の一員となり、恩賞奉行や地奉行となっている。その後藤基綱が記した記録は、かなりの量が『吾妻鏡』に利用されていると見られる。恩賞奉行として四代将軍藤原頼経の側近でもあった為か』、寛元四(一二四六)年六月七日、『宮騒動によって評定衆を解かれ頼経とともに京に同行。その』六年後に再び引付衆として返り咲くものの、既に七十二という『高齢に達しており、後藤氏の名誉回復に近いものであったとも見られる』とある。『その子後藤基政は引付衆から六波羅評定衆となり、以降後藤氏は六波羅評定衆を世襲』した、とある。
「左近將監時賴」当時、満十六歳。
「能登前司は琵琶を仕り」三浦光村。藤原孝時から伝授を受けた琵琶の名手であった。
「二條中將」公卿で歌人の飛鳥井教定(あすかいのりさだ)。頼経・頼嗣・宗尊親王と三代の幕府将軍に仕え、蹴鞠や和歌を指導した。
「笙瑟」「笙」は狭義には笙の笛を、瑟は大型の琴を指すが、ここは笛と琴の謂い。
「秋風樂」雅楽の唐楽の一曲。盤渉(ばんしき)調と呼ばれるものの中曲(雅楽の唐楽曲の分類名で「大曲」「小曲」に対する中くらいの規模の曲の意)で舞いは四人舞いであるが、現在は曲・舞ともに廃絶している。
「萬秋樂」増淵勝一氏の割注によれば、「萬歳樂」の誤りとする。舞楽の新楽の一つで、平調(ひょうじょう)の中曲。もと六人による女舞いであるが、現行は四人による男の平舞(ひらま)いとなって伝わる。常装束(つねしょうぞく)に鳥甲(とりかぶと)をつけて舞う。煬帝(ようだい)万歳楽とも。
「太平樂」雅楽の唐楽の一つ。太食 (たいしき) 調と呼ばれる新楽の中曲。朝小子 (ちょうこし) ・武昌楽・合歓塩 (がっかえん) からなる合成曲で、舞いは四人舞い。即位の大礼の後などに演じられる。武昌破陣楽。
「納蘇利(なそり)」納曽利とも書く。雅楽の高麗楽(こまがく)。高麗壱越(こまいちこつ)調と呼ばれる小曲。舞いは二人の走り舞で、一人で舞う際には「落蹲(らくそん)」と呼ぶ。双竜舞(そうりゅうのまい)。
「羅綾王(らりようわう)」「陵王」とも呼ぶ雅楽の唐楽。壱越(いちこつ)調と呼ばれる古楽の中曲。仏哲という僧が伝えたとされる林邑(りんゆう)楽の一つで、舞いは一人舞の走り舞い。中国の北斉の蘭陵王が周軍を破る姿を写したものとされる。番舞(つがいまい:舞楽で左方の舞いと右方の舞いとを組み合わせて一番とするもの)は前掲の「納曽利」という。
「胡飮酒(こをんじゆ)」現行では「こんじゅ」と読む。雅楽の曲名で唐楽 (左方) 壱越 (いちこつ) 調に属する。林邑 楽の一つとする説もあるが、明らかではない。舞い人は頭に長い毛のある茶色の大型の面を附け、太い桴 (ばち) を持って朱色の裲襠 (りょうとう) 装束という衣裳で一人で舞う。
「酒胡子(しゆこし)」雅楽の一つで唐楽。壱越(いちこつ)調と双調(そうじょう)と呼ばれる管絃曲。現在は舞いは廃絶。「酒公子(しゅこうし)」「酔胡子」等とも表記し、「すこし」とも読む。
「廻盃樂(くわいはいらく)」「廻杯楽」「回杯楽」とも書き、「くわいばいらく(かいばいらく」とも読む。唐楽壱越調の中曲の新楽で、現行では舞いはない。
「馬も秣(まぐさ)に仰(あふ)ぎ」馬も馬草を喰うことを忘れて、妙なる音に耳を傾ける如く御殿を仰ぎ。
「素(もと)より此所は、閑寂(かんせき)山陰(さんいん)の幽栖(いうせい)なり」「佐渡前司基綱が大倉の亭」とあり、彼の邸宅は現在の覚園寺に近い薬師堂谷(やくしどうがやつ)にあったから、山蔭に閑寂(かんじゃく)にして幽邃な地であった。
「槐」マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ
Styphnolobium japonicum 。中国原産であるが、古くから本邦にも植栽されていた。かなりの巨木になる。
「靜に落つる瀧の絲、來る人毎に眺めては、心を繼ぎて止むらん」「絲」を「來る」で糸を繰る、その「絲」で「來る人」「來る人」の「心を」皆、「繼」なぎ「止」める、という縁語と掛詞になっている。これは本「北條九代記」の筆者の采配である。]
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