柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(六)
六
今若し兩眼の一を盲して居るのを名づけて一目(ひとつめ)と謂ふたとすれば、神樣の一目も決して珍しい話では無い。又確とした社も無いやうな山神樣のみには限らぬのである。
勿論斯んなことは神社の記錄に出て居るわけでも無く、又國學院でも出られた程の神官ならば、必ず之を否認せられるに相異無いが、如何せん氏子がさう言ふのである。氏子の中でも一層神と親しい老人たちが言ふのだから仕方が有るまい。さうして又其を聞書きした書物なども段々殘つてゐる。
自分の郷里などでも、何村の氏神さんはかんちぢやさうなと云ふ類の話を、幼少の折に屢々聞いて居る。それが多くは最初からさうだとは言はず、不思議なことには隣村の鎭守と喧嘩をして石を打たれた爲と云ふやうに、何れも或時怪我をしてさうなつたと云ふことになつて居る。
[やぶちゃん注:「自分の郷里」既注であるが柳田國男の故郷は飾磨(しかま)県(現在の兵庫県)神東(じんとう)郡田原(たわら)村辻川(現在の兵庫県神崎(かんざき)郡福崎町(ふくさきちょう)辻川)。]
此點を是から些し考へて見たいと思ふ。お斷りをする迄も無いが、自分は決して此類の言傳へある村々の神を以て、かの一目入道等の徒黨だと論ずるのでは無い。只妖恠だからどんな顏をして居てもよいやうなものゝ、人間の形である以上は、額の眞中に圓が一つと云ふことは有るまじきやうに思はれ、事に依ると以前はこれも山神の眷屬にして、眇目と云ふことを一つの特徴とした神のなれの果てでは無いかと推測し、他の方面にも神の片目と云ふ例は無いか、あるならどう云ふ樣子かと云ふことを、參考の爲に調べて見るだけである。氣樂だけれども是も一つの學問には相異無いのである。
神樣が一方の眼を怪我なされたと云ふのは、存外に數多い話である。失禮ながら讀者の中には、まだ其を我在所だけの珍話だと思つて居られる人が有るかも知れぬ。
さて是をどう解釋してよいかは、先づ幾つかの同じやうな例を列べて見た後にした方が便利であらう。自分の得た例は信州のものが最も多かつた。同じく平瀨君の報告によると、松本市宮淵に在る勢伊多賀(せいたか)神社の氏子たちは、此神降臨の時栗の毬で御眼を突かれたと言ひ、それ故に村内には栗樹決して生ぜず、栽ゑて若し生長すれば、其と反比例にその家が衰徴すると信じて今でも之を栽えず、東筑摩郡島立村の三の宮沙田(いさごだ)神社の氏子には、此神樣松で眼を傷つけられたと云ふを理由として、正月に門松を立てぬ家が少なく無いさうである。
[やぶちゃん注:「勢伊多賀(せいたか)神社」長野県松本市宮渕(みやぶち:現表記)にある。
「毬」老婆心乍ら、「まり」ではなく「いが」と読む。
「沙田(いさごだ)神社」現在は編入して長野県松本市島立(しまだち:全集版にルビがないのは不親切である)三ノ宮となっている。ウィキの「沙田神社」によれば、祭神は彦火火見尊(ひこほほでみのみこと)・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)・沙土煮命(すいじにのみこと:神世七代第三代の神で、本来は男神「うひぢに」と、この女神「すひぢに」の二神一柱。それまでが独神であったのが、この代で初めて男女一対の神が出現する。神名の「う」は泥(古語で「うき」、「す」は「砂」の意味であるから大地が泥や沙によってやや形を成し始めた様子を表現したものであるとウィキの「ウヒヂニ・スヒヂニ」にはある)。この三神は『穂高系の神(海神系・天津神系)と見られているが、当社は御柱を建てる諏方神社系の祭祀も行なっている』。『なお、祭神を景行天皇皇子の五十狭城入彦命』(いさきいりひこのみこと)と伝える説もあるという。『社伝によると、古くは筑摩郡鷺沢嶽(現・松本市波田鷺沢)に鎮座していたとい』い、大化五(六四九)年に『信濃国司が勅命を奉じ初めて勧請して創祀』、その後、大同年間(八〇六年~八一〇年)に『坂上田村麻呂が有明山の妖賊討伐にあたって、本社の神力が効したとして国司と共に社殿を造営したと伝える』。『以上の伝承から、当社は波田から流れ出る梓川の水霊を祀ることに始まったと見られ』、『鷺沢の旧跡地と伝わる地には当社の奥社が立っている。また、現在の本社は梓川の水を引き入れた古代条里的遺構の上にあり、当地開発当初からの古社であるとも推定されている』とある。]
神が眼を突かれたと云ふ植物は、他の例では妙に農作物が多い。小林乙作君の話に、同じ信州の小縣郡浦里村大字當郷字管社の鎭守樣に合祀せられてある神樣は、昔京都からこの地へ御入りの時に、胡瓜の蔓に引掛つて轉んで、胡麻の莖で御眼を突いた。其からして胡麻を作ることは禁制で、今も百七十戸の部落が一戸も之を栽える者が無い。此附近には猶五六ケ處でも胡麻を氏子に作らせぬ社がある。其神樣は一々違ふが、御眼を突いたと云ふ話だけはみな一樣である云々。
[やぶちゃん注:「小林乙作」不詳。識者の御教授を乞う。読みは「おとさく」か「おつさく」。
「小縣郡浦里村大字當郷字管社」「大字」(おほあざ(おおあざ))と「字」(あざ)のポイント落ちは底本の表記(以下、この注は略す)。「小縣(ちいさがた)郡浦里(うらさと)村大字當郷(たうがう(とうごう))」と読む(「管社」の読みは不明。後述)。浦里村は現在の上田市北西部の国道百四十三号沿線及び青木村大字当郷に相当するが、その後者。「管社」はバス停名であるが読みは幾ら調べても判らぬ。しかしごく近くに冠者(かんじゃ)岳という山があるから、これで「かんじや(かんじゃ)」と読ませるのかも知れない。因みに全集版にはやはり不親切にもルビがない。言っておくが、ちくま文庫版は編者が読みを勝手に追加している。追加するなら、ここや先の「しまだち」に打たないのは編者として失格であると私は断言したい。]
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