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2016/02/22

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(補遺) / 「一目小僧」~了

     補  遺

この三週間に新たに現はれた材料を一括して、今一度自分の説の強いか弱いかをしらべてみようと思ふ。材料の一半は親切な讀者の注意によるものである。

本年三月刊行の加藤咄堂氏編日本風俗志上の卷の一六三頁に、四種の恠物の圖が出て居る。出處を明らかにして無いが、江戸時代の初期より古い繪では無いやうである。其中の「山わろ」と云ふ物は半裸形の童形で、兩手に樹枝を持ち腰に蓑樣のものを纏ひ、顏の眞中に眞圓な目が一つである。即ち土佐などで山爺を一眼と云ふのと合致する。但し脚は立派に二本附いて居る。

[やぶちゃん注:「加藤咄堂」(とつどう 明治三(一八七〇)年~昭和二四(一九四九)年)は仏教学者・作家。

「日本風俗志」大正六(一九一七)年から翌年にかけて新修養社から加藤が刊行した全国規模の民俗資料。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで同書当該頁の画像を視認出来る。]

小石川金富町の鳥居強衞君から、「朝鮮の迷信と俗傳」と題する一書を贈られ、其中にトツカギイ或はトツケビイと云ふ獨脚の鬼の記事があることを注意せられた。大正二年一〇月刊行、楢木末實と云ふ人の著である。自分は此半島の獨脚鬼に就ては未だ何程も調べては居らぬ。支那でも山海經に獨脚鬼の事を記し、或は本草に山?は一足にして反踵などゝあるさうだが、他の方面にもよくよくの類似點が無い限りは、三國一元と云ふやうな推定には進まぬつもりである。從つて只參考品としてのみ陳列して置くが、此書の記す所に依れば、トルケビイは通例樹蔭深き處に出沒し、色は最も黑く好んで婦女に戲れ、或は人に禍福を授けると傳へられる。さうして目はいまでも兩箇を倶へて居る。

[やぶちゃん注:「小石川金富町」「金富」は「かなとみ」と読む。現在の東京都文京区春日(かすが)地区内。ここは永井荷風の生誕地である。

「朝鮮の迷信と俗傳」京城・新文社刊。二〇一四年に復刻されている。

「山海經」「せんがいきやう(きょう)」。幻想的地理書。私の愛読書である。魯迅も偏愛した。

「本草」ここは「和漢の本草書」という一般名詞の用法ととっておく。但し、次注の最後を参照されたい。

「山?」音なら「さんさう(さんそう)」、本邦では「やまわろ」と訓じている。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「やまわろ」はそれなりの私の考証注を入れてあるのでそれを参照されたい(「?」が使用出来なかった古い電子化であるため、ページ内検索「やまわろ」でお願いしたい)。因みに、「やまわろ」の次にはまさに一本足「反踵」(はんしよう(はんしょう):(かかと)が反り返っていることを言うが、これは寧ろ、中華の本草類の怪人では「後へに向」いている、即ち、足首が反り返るどころではなく、大腿骨骨頭以下が逆についているというのが圧倒的な実体図像である)の「山精」が出るのでそちらも是非どうぞ。画像附き。というより、柳田が万一、「本草」を一般に知られる明の李時珍の「本草綱目」の意で使っているとすると(但し、仏はその場合、一般的には「本綱」と略すことが多い)、柳田が頻りに一足反踵と言っていること、「山?」は「本草綱目」には載らないことから、この「本草綱目」に出る「山精」や「山丈山姑(やまをとこやまうば)」を「山?」と誤認している可能性が高いように思われる。]

磐城平の出身なる木田某氏の注意に、自分が彼地方で「山の神はカンカチで外聞が惡いと言つて十月に出雲へ行かれぬ」といつて居る其カンカチを、眇目のことに解して居たのは誤りだとのことである。平町附近でも眇目は他地方と同樣にメツカチ又はカンチと謂ひ、カンカチと云ふのは火傷の瘢のことを意味する。是は山神が山の精で山に住んで居る爲に折々山火事に遭ひ火傷をするのだと説明せられて居るさうである。自分は一知半解の早合點で、カンチともメツカチとも謂ふからカンカチも片目のことだらうと思つて大失敗をした。固より第一の報告者の高木誠一君がさう言はれたので無いが、念の爲更に同君に聞合せてみると、その返事も全く同樣であつて、大變な間違だから注意しようと思つて居た所だつたとのことである。是で自分の一目小僧の話を書く動機になつた好材料の一つが、空になつたわけであるがどうも仕方が無い。其爲に山の神の祭に關する一部分の話は中途から見合せることにした。

[やぶちゃん注:「五」章の重大補正箇所である

「磐城平」岩城平とも書く。旧陸奥国磐前郡の城下町で現在の福島県の東部の浜通り地域。

「平町」「たいらまち」。福島県浜通り南部にあった旧町名。現在はいわき市平地区の常磐線いわき駅周辺に相当する。

「瘢」全集版は『きずあと』とルビする。]

高木君は此序を以て十年前に亡くなられた御祖父樣から聞いたと云ふ話を一つ報ぜられた。石城郡草野村大字水品(みづひな)の苗取山に水品神社と云ふ社がある。もと三寶荒神樣と稱し五六十年前までは物凄い森であつて、天狗が住んで居て大きな音をさせるとも言ひ、又一目小僧が居るともいつて誰も怖がる場處であつた。或晩この社の宮守をして居る法印樣が便所に往つて、足を取られて吃驚して用も足さずに歸つて來たことがある。明る朝夙く起きて行つて見ると、古狸が引込み時を忘れてまだ其に居つた。古狸は一目小僧に化けるものだと御祖父樣が云はれた云々。又木田氏の羽書には斯う云ふことが書いてあつた。此地方の一目は大入道の姿で出る。足のことは何とも言はぬが眼は丸々としたのが額の眞中に一つあり、暗い夜白い衣物で出るものと子供の時に毎度聞いて居た云々。即ち此點が既に全然朝鮮のトツケビイと共通で無い。

[やぶちゃん注:「高木君」不詳。

石城郡草野村大字水品(みづひな)」「みづひな」はママであるがルビの誤植の可能性が高い。現在の福島県浜通り南部にある、いわき市平地区の水品(みずしな)。全集版も『みずしな』とルビ。

「水品神社」現在のいわき市平水品(たいらみずしな)荒神平に鎮座。個人サイト「いわきの鎮守様」の「水品神社」に詳しい解説と写真が載る。

「この社の宮守をして居る法印」とあるから、この高木氏の祖父の話は廃仏毀釈よりずっと以前の江戸時代の話である。]

信州松本地方の一目も又小僧では無くて入道である。是は貉の化けるものと傳へられて居る由、平瀨麥雨君から新たに報ぜられた。但飛驒の高山のやうに雪降りの晩に出るとは言はず、此方は別に雪降り入道雨降り入道などがあつて、山から出て來るとも言ふが、是には一眼又は一足の沙汰は無いさうである。同君又曰く、何でも物の高低あるものを山の神と謂ふと書いたのは、聊か精確で無い、寧ろ高さの均しかるべき物が不揃ひになつたのをさう謂ふと言ふべきである。通例の適用としては、下駄と草履と片方づゝ履いたことを、履物を山の神に履いたと云ふなどである云々。

[やぶちゃん注:「五」章の補正。]

一眼一足と云ふやうな珍しい話が、懸離れた東西の田舍に分布して存するのは意外だと言つて、靑森縣中津輕郡新和村大字種市の竹浪熊太郎氏が、其少年時代に聞いて居られた次のやうな話を報ぜられた。此地方の山神祭は舊曆十二月の十二日である。この日は昔から大抵吹雪が烈しく、且つ野原に出ると山神に捕へられると言つて、特に半日の休日になつて居る。山神はこの吹雪を幸ひとして、背には大きな叺を負ひ、人間殊に小兒を捕へに里に出て來ると云ふ。是を見たと云ふ人はまだ聞いたことが無いが、古い人たちの話ではやはり眼が一つで足が一本である。山神祭には何れも長さ二尺以上もある大きな草鞋又は草履を片足だけ作つて、村の宮の鳥居の柱に結び附けて置くのである。是を見ても其一本の足と云ふのがよほど大きなものと想像せられて居たことがよく分かる。但し今日では此風習も追々廢つて行くやうだとのことである。此話は南伊豫の正月十五日の大草履片足の由來を推定せしめる材料であるのみならず、又自分の不名譽なる失敗を或程度まで恢復するものである。即ち山の神の一目と云ふものが信ぜられて居た一の例證にはなるので、只殘念ながら一目とはメツカチのことだと云ふ方の意見に對しては、何らの援助も得られ無いのである。

[やぶちゃん注:全集版では『この話は南伊予の正月十五日の大草履片足の由来を推定せしめる材料である。すなわち山の神の一目というものが信ぜられていた一の例証にはなるので、』とあって「のみならず、又自分の不名譽なる失敗を或程度まで恢復するものである。」がない。確かにちょっと柳田先生、人の褌で我田引水の気味がなくもない。カットするのがよろしいでしょう。

「靑森縣中津輕郡新和村大字種市」現在は青森県弘前市種市(たねいち)。

「竹浪熊太郎」不詳。

「二尺以上」六十一センチメートル以上。]

國書刊行會の某役員から一目小僧の記事が此八月彼會出版の百家隨筆第一の五〇五頁落栗物語の中に出て居るが知つて居るかとの注意であつた。早速出して讀んで見たが其大要は斯うである。雲州の殿樣がある時親しい者に今夜は化物の振舞をするから來いと招かれたので、一同如何なる趣向かと往つて見ると、淋しい離れ座敷に通され、やがて茶を持つて出たのは面色赭く醜くして大きな眼の額の眞中に一つある小法師であつた。次に出た給仕は身長七尺餘の小姓であつた。後で聞いてみると後者は出羽から出た釋迦と云ふ相撲で十七歳で七尺三寸ある少年、前者は侯の領内の山村に住んで居た片輪者で、斯な者が二人まで見付かつたので此催しをせられたのであると云ふ。珍しい話ではあるが此材料は自分の手に合はぬ。如何した事かを考へる前に確かな話か否かを正してみねばならぬ。此書は京都の人の聞書であると云ふから、大分多勢の好事家の耳口を經て來たものと思はれる。

[やぶちゃん注:「落栗物語」全二冊。従一位右大臣藤原家孝による文政期(一八一八年から一八三〇年)の随筆とされる秀吉の時代から寛政までの見聞逸話集であるが、内容から寛政四(一七九二)年以降の成立と見られる。本文のそれは大正六(一九一七)年から翌年にかけて刊行された図書刊行会編刊「百家随筆 第一」所収のものを指す。本箇所は坪田敦緒氏のサイト「相撲評論家之頁」の相撲関連古典テクストの「落栗物語下册にまるまる見出だせる。漢字を正字化して以下に示す。

   *

松江少將は所領十八萬石餘の主にて。おかしき人なりけり。或時親しき人々を集るとて。今宵は化物の饗をし侍るよし云ひやられければ。怪き招きかなと思ひながら皆打つれて行ぬ。館のさまいつに變りていと靜に設けなし。常には目馴ぬ前栽の竹の間より細き道を開き。ひとつの東屋を建たり。其所のさま物さびていと淋しげ也。主もいまだ出逢ねば。客人達打向ひ物語し居たり。夜寒の風の身に沁むまゝに。燈火暗くなりたる時。放出の方より。淸げに引繕ひ半臂着たる小法師の。梨地の托子に白がねの茶盞をすへて持出たり。近く寄來るまゝによく見れば。面の色赤みてゑも云わず見にくきが。眼は大にて額の程にたゞ一ッ付てあり。人々驚きけれど。兼ねてのあらましなれば。念じて見居たるほどに。座中の人に茶を引渡して入ぬ。とばかり有て。身の長七尺餘と見ゆる童子の。かたちは太く逞しけれど。眉のかゝり目見なんどはいと幼くて。年の程十六七と見ゆるが。柳の衫着て瓶子に土器持て出たり。此度は堪えかねてあれば。いかにとどよめき騷ぎければ。彼者打笑ひて引入ぬ。やがて主の少將出來て數々のもてなしあり。各興に入ける時。前の事を問ふに。少將はたゞ知らずとのみ答て其夜は止ぬ。後に聞ければ。彼小法師は少將の領地の山里に住けるかたは者。童は出羽國の相撲にて釋迦と云者也。年は十七に成けるが。身の長は七尺三寸有しとぞ。少將は此二人の者を得しよりぞ。かゝる招きをばせられける。此釋迦。京へ上りて鴨川の東にて相撲せし時。近衞舍人共見に行て。高き棧敷の上に居て釋迦を呼。盃をとらせしかば。其下に寄立て酒を飮しに。首のほどは上に居たる人より高く見えしとぞ。又。或人此者に向て其骨柄を譽めければ。答て云樣。それがしはかく相撲し歩きて有なん。姉にて候者は今一かさまさりて大に候ほどに。見苦しとてみづから歎き候へ共。せんかたなく候と語りしとぞ。

   *

少し語釈しておく。

・「松江少將」柳田も「出雲」とするから松江藩主であるが、少将であったのは複数おり、十八万石とあるからには松平直政以下の松平家藩主であるが、それでも少将は六人いる。しかし、全景の茶道の風流という点から見て、恐らくは第七代藩主松平不昧公治郷(はるさと)かと推理したら、検索中に「甲子夜話」(遅々として進まぬが私も電子化注をしている)の巻五十一「貧醫思はず侯第に招かる事」に非常によく似た話(但し、シチュエーションは江戸)が載っていることを知って確認してみると、これは「松平南海」の仕業とあり、これは治郷の父第六代藩主松平宗衍(むねのぶ)の隠居出家後の号であることが判った(長いし、別に電子化してこともあるから節としてこの話自体は示さない。しかし同じく一目童子と異様にデカい青年が登場するのはマンマ)。ウィキの「松平宗衍」によれば、『隠居してからの宗衍は奇行を繰り返したため、それにまつわる逸話が多い。家臣に命じて色白の美しい肌の美女を連れて来いと命じ、その女性の背中に花模様の刺繍を彫らせ、その美女に薄い白色の着物を着させて、うっすらと透けて浮き上がってくる背中の刺繍を見て喜んだといわれる。刺青を入れられた女性は「文身(いれずみ)侍女」と呼ばれて江戸の評判になったが、年をとって肌が弛んでくると宗衍は興味を失い、この侍女を家臣に与えようとしたが誰も応じず、仕方なく』千両を『与えるからとしても誰も応じなかったという』。また、『江戸の赤坂にある藩邸の一室に、天井から襖まで妖怪やお化けの絵を描いた化け物部屋を造り、暑い夏の日は一日中そこにいたといわれる』ともある。この御仁、まあ、尋常じゃあ、ネエ。

・「饗」「あへ(あえ)」と読んでおく。饗応。馳走。

・「放出」「はなちいで/はなちで」で、寝殿造などで寝殿や対屋(たいのや)などから張り出して造った建物。或いは、庇(ひさし)の間を几帳や障子・衝立などで仕切って設けた部屋のこと。後者であろう。

・「半臂」「はんぴ」で、武家の束帯や舞楽の装束で袍(ほう)の下に着る袖無しの胴着のこと。

・「梨地」「なしぢ(なしじ)」で蒔絵技法の一種。器物の表面に漆を塗って金・銀・錫などの梨地粉を蒔き、その上に透明な漆を塗って粉の露出しない程度に研いだ技法。梨の肌に似ているところからこの名がある。

・「托子」「たくし」で茶托 (ちゃたく)のこと。

・「茶盞」「ちやさん(ちゃさん)」で比較的小さな茶碗。

・「念じて」我慢して。

・「七尺」二・一二メートル。

・「衫」「さん」でここは裏地のない単衣(ひとえ)の謂いであろう。

・「瓶子」「へいし」で、酒を入れる細長く口の狭い焼き物。

・「七尺三寸」凡そ二メートル二十一センチメートル。

・「近衞舍人」「このゑのとねり(このえのとねり)」で、内裏の近衛府の下級官吏。宮中の警護や天皇・皇族・大臣らの近侍などを務めた。

 なお、私は多分、柳田とは違う意味でこの話、私の性(しょう)に合わぬ。健常者の歪曲した猟奇的生理が生み出した、実に気味(きび)の悪い感じのする話であるからである。これは柳田が疑うようには作話ではないかもしれないが、とすれば、なおのこと、ホラー以前に悪趣味で私は生理的に嫌悪するものである。

神樣が眼を突かれたと云ふ話も、亦其後三つ四つ集まつて來た。小石川原町の沼田賴輔氏の知らせに、同氏の郷里相模國愛甲郡宮瀨村の村社熊野神社は、熊野樣であるにも拘わらず、祭神が柚子の樹の刺で眼を突かれたと云ふ傳説があり、それ故に村内には柚子を栽ゑぬことゝしてあり、又植ゑても實を結ばぬと申して居ると云ふ。

[やぶちゃん注:「小石川原町」現在の文京区白山及び同区千石。

「沼田賴輔」(よりすけ/らいすけ 慶応三(一八六七)年~昭和九(一九三四)年)は紋章学者・歴史学者。相模国愛甲郡宮ヶ瀬村(現在の神奈川県愛甲郡清川村)生まれ。明治一九(一八八六)年に神奈川県師範学校高等師範科を卒業、県内の小学校長となり、その後の明治二三(一八九〇)年に理科大学簡易科第二部を修め、次いで歴史科・地理科・植物科などの教員免許を得た。明治三〇(一八九七)年に開成中学校教諭となるが、その傍ら、文科大学史学科編纂係も勤めた。明治三四(一九〇一)年に鳥取県米子中学校教諭、明治三九(一九〇六)年に西大寺高等女学校長となった後、明治四四(一九一一)年には山内家史編纂所主任となったが、編纂所に初めて出勤した際に山内侯爵から山内家が何故桐の家紋を用いているのかその理由を質問されるも即答することが出来なかったことに発憤、それ以来、紋章の研究に専心して、大正一四(一九二五)年に「日本紋章学」(刊行は翌年。明治書院)を完成、翌年、帝国学士院恩賜賞を受賞、昭和五(一九三〇)年、文学博士。他にも考古学会副会長や人類学会及び集古会の幹事でもあった(ウィキの「沼田頼輔」に拠る)。

「相模國愛甲郡宮瀨村の村社熊野神社」明暦元(一六五五)年創建の宮ヶ瀬の氏神社であるが、平成三(一九九一)年に宮ヶ瀬ダムの建設により旧地は水没、現在の宮ヶ瀬湖畔に遷座、村民も厚木市宮の里へ移住させられているので、本禁忌は失われたと考えた方がよいか。]

信州小縣郡長久保新町の石合又一氏の報道に依れば、同地鎭座の郷杜松尾神社でも、氏子の者が一般に胡麻を作らず、若し作ると必ず家族に病人が出來ると言ひ傳へ、今でも此禁を破る者が無い。つい近頃も他より寄留して居る者が、此説を信ぜずして胡麻を栽ゑ、眼病に罹つた例があると云ふ。是は同郡浦里村の小林君が、他にも幾つか例があると言はれた一つであらうと思ふが、既に何故にと云ふ點が不明になつて居ると見える。

[やぶちゃん注:「信州小縣郡長久保新町」現在の長野県小県(ちいさがた)郡長和町(ながわまち)長久保(ながくぼ)。

「石合又一」不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの明治一六(一八八四)年刊の『明治協会雑誌』書誌データに筆者不詳の「石合又一君東坡赤壁遊記ノノ問ニ答フ』というのがあるが、この人物と同一人か。

「松尾神社」現在の長野県長和町長久保宮所に鎮座。祭神は大山咋大神(おおやまくいのかみ)。但し、調べてみたところ、当地の「道の駅」の特産品としても野沢菜漬には胡麻が使用されていることが検索で判った。一応、言い添えておく。

「同郡浦里村」現在の長野県上田市の北西部の国道百四十三号沿線及び小県郡青木村大字当郷に相当。

「小林」第「六」章に出た小林乙作氏(詳細事蹟不詳)と同一人物。]

又福島縣三春町の神田基治郎氏からは同縣岩瀨郡三城目(さんじやうのめ)村に竹の育たぬ理由を報ぜられた。昔鎌倉權五郎と云ふ武將が、竹の箭で目を射られ漸くにして之を引拔いた。其以來此村では、如何に他方面から移植して來ても竹は成育せぬ。同氏も數囘往つてよく知つて居るが、隣村には有るのに此村だけには竹を見ぬと云ふ。或は鳥海彌三郎と戰つた處はこの村だとでも言つて居るのであらう。單に御靈社が有るだけで此くの如き結果になるのでは、箭は先づ竹だから、東北などでは竹を産せぬ地方が非常に多くなる都合である。

[やぶちゃん注:「福島縣三春町」現在の福島県田村郡三春町(みはるまち)。

「神田基治郎」不詳。

「同縣岩瀨郡三城目(さんじやうのめ)村」福島県西白河郡矢吹町(やぶきまち)三城目。]

武州野島村の片目地藏と同系の話が、東京のごく近くに今一つあつた。これも十方庵の百年前の紀行に出て居るが、東小松川村の善通寺は本尊阿彌陀如來、或時里の鷄小兒に追はれて堂に飛込み、距(つめ)をもつて御像の眼を傷けた。其よりして今に此阿彌陀の片目より、涙の流れた痕が拜せられる云々。是とても木佛金佛が人間同樣の感覺を具へて居たと云ふ以上に、格別靈驗の足しにも成らぬ事を傳へるには、別に隱れたる沿革が有るものと解するのが相當である。是には佛樣の中に特に子供が御好きで、子供のした事は一切咎められぬ御方があることを、考へ合せて見ねばならぬ。

[やぶちゃん注:「十方庵の百年前の紀行」既注の「遊歴雑記」。

「東小松川村」現在の東京都江戸川区東小松川。

「善通寺」真光山明証院善通寺現在は同江戸川区平井へ移転して現存する。同寺については、いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」のこちらに詳しいが、それによると千田真太郎宗信(法名蓮真)なる人物が康正年間(一四五五年~一四五七年)に「善導院」と号して別な場所で創建したらしく、その後移転を繰り返し、六世林説上人の代(慶長元(一五九七)年)に東小松川に移った上で「善通寺」に改号、荒川開削に伴い、大正四(一九一五)に年当地へ移転したとされる。本尊阿弥陀如来は曼荼羅でこれについては「江戸川区史」に、『本尊は中将姫作の蓮糸織阿弥陀如来曼荼羅をまつる。中将姫は聖武帝の御代横佩右大臣豊成公の女で、十六歳の時当麻寺に入り実雅阿闍梨を師とし法名を善心法女といった。日夜誦経念仏していると、ある日尼僧が現われて、極楽浄土を見るには蓮糸で極楽浄土を織っておがむがよいといわれた。その事が朝庭に達すると百駄の蓮茎が集められた。法女は尼僧と共に糸をとって洗うとこれが五色の色に染まった。そして夕方になると一人の織女が現われて、その夜のうちに一丈五尺の大曼陀羅を織り上げ、翌朝織女はこれを両尼に渡すとどこかに消えてしまった。また尼僧も観無量寿経の話を終ると、私の仕事はもうこれで終ったといって紫の雲に乗って帰られた』。『善心法女は残りの蓮糸で、如来の髪には自分の髪の毛を織りこんで六尺の尊像を織り上げて、これを庵室に安置して日夜誦経念仏すると、その部屋に紫雲が常にたなびいていたという』。『その後千葉介常胤が当麻寺からこの尊像を願い求めて守り本尊とした。かくて常胤より九世平氏胤の次男で下総国曾谷の城主千田太郎宗胤に伝わり、宗胤は後に入道して善導院願阿と号した。その嫡子真太郎宗信は康正年中大谷蓮如上人の弟子となり蓮真と号し、帰国の後小松川に一寺を建立して善導院と名づけ、この尊像を本尊とした。これが善通寺の始まりで、その頃お堂から光明が発するので「光御堂」といわれたという』という奇瑞が語られている。私は当初、鶏の爪で何で本尊の眼が傷つくのかやや不審であったが、これ、織られた幅の曼荼羅絵なれば、鶏が蹴爪で掻いて傷つけた、というのが目から鱗ではないか!

本多林學博士の編輯せられた大日本老樹名木誌の中には、又次のやうな例もある。土佐長岡郡西豐永村の藥師堂の逆さ杉は、もと行基菩薩の突立てた杖であつたと云ふ傳説がある。然るに或時或名僧がこの山に登つて來て、此杉の枝で片目を突き、其故に其靈が此杉に宿つて、今でも眼病の者が願掛けをすると效驗があると稱し、「め」の字の繪馬が樹の根元に澤山納めてある由。處が藥師如來は斯んな事が無くても、固より眼の病を禱る佛樣である。

[やぶちゃん注:「本多林學博士」この「林學」は名前ではなく、造林学の博士号のことで、日本初の林学博士となった本多静六(ほんだせいろく 慶応二(一八六六)年~昭和二七(一九五二)年 旧姓・折原)のこと。造園家としても知られ、「日本の公園の父」と称される。ウィキの「本多静六」によれば、『武蔵国埼玉郡河原井村(現埼玉県久喜市菖蒲町河原井)に折原家の』第六子として『生まれた。東京山林学校に入学するまでの間河原井村で少年時代を過ごした。当時の河原井村は、戸数』二十五軒ほどの『小さな村だったが、中でも折原家は代々名主役を務める裕福な農家だった』。ところが九歳の時、『父親が急死すると同時に多額の借金が家に舞い込み、今までとは違った苦しい生活を強いられるようになった』。『それでも向学心は衰えることなく』、十四歳の年、『志を立てて島村泰(元岩槻藩塾長)のもとに書生として住み込み』、農閑期の半年は上京して『勉学に努め、農繁期の半年は帰省』、『農作業や米つきに励むという変則的な生活を三年間繰り返した』。明治一七(一八八四)年三月に『東京山林学校(後に東京農林学校から東京帝国大学農科大学)に入学』、卒業時は首席で、銀時計が授けられている。卒業一年前の明治二二(一八八九)年五月に元彰義隊隊長本多敏三郎の娘詮子』(「あきこ」と読みか)『と結婚し、婿養子となった』。『東京農林学校(現在の東京大学農学部)を卒業とともに、林学を学ぶためドイツへ留学した。ドイツでは』まず、『ドレスデン郊外にあるターラントの山林学校(現在はドレスデン工科大学林学部)で半年、この後ミュンヘン大学へ転校し、更に』一年と半年、『学問を極めた。ドクトルの学位を取得、欧米を視察した後帰国し、母校の助教授、教授になった』。その後は『日比谷公園を皮切りに、北海道の大沼公園』、『福島県の鶴ヶ城公園、埼玉県の羊山公園、東京都の明治神宮』、『長野県の臥竜公園、石川県の卯辰山公園、福岡県の大濠公園』など、『設計・改良に携わった公園多数。東京山林学校卒業後に留学したドイツを始め、海外に十数回視察に赴き、明治期以降の日本の大規模公園の開設・修正に携わった』。『東京駅丸の内口駅前広場の設計も行っている』。『また、関東大震災からの復興の原案を後藤新平内務大臣より依頼されて、二昼夜不眠不休で作成し』てもいる。

「大日本老樹名木誌」本多静六編。大正二(一九一三)年大日本山林会刊。当該頁を国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で読める。何となく、当該箇所を電子化したくなった。字配は再現していない。

   *

   〔四一五〕 藥師堂ノ逆杉

所在地 高知縣長岡郡西豐永村藥師堂附近

地上五尺ノ周圍 六尺

樹高 七間

樹齢 千餘年

傳説 枝條地ニ向テ垂下スルヲ以テ此名アリ 傳ヘ言フ天平ノ昔行基菩薩登山ノ際携フル所ノ杖ヲ逆サマニ挿シ置キタルガ根ヲ生ジ枝ヲ出シテ終ニ成木シタルモノナリト云フ又曰ク「名僧某ノ登山ノ際此枝先ニテ眼ヲ突キ盲目トナリ歿後其靈ア此杉ニ宿リ世ノ眼病者ヲ救フ」ト故ニ眼ヲ病ム者此樹ニ祈願スルモノ多ク樹下ニ目ノ字ヲ書キタル紙ノ散在スルモノ多シ又或時之ニ隣接スル民家ニ火ヲ失スルモノアリ折カラ山風ニ火勢甚ダ盛ナリシガ火焰皆反對ノ方向ニ靡キ然モ類燒ヲ受ケザリシト云フ

   *

引用中の「五尺」は百五十一・五センチメートル、「六尺」は百八十一・八センチメートル、「七間」は十二・七二六メートル、「樹齢 千餘年」は伝承をそのままに受けたものか。

「土佐長岡郡西豐永村」現在の高知県長岡郡大豊町(おおとよちょう)内。

「藥師堂」これは同大豊町にある真言宗大田山大願院豊楽寺(ぶらくじ)はと号する。本尊薬師如来。別名を「柴折薬師」と称し、「日本三大薬師」の一つに数えられる。古い村名の「大杉」の起源となった特別天然記念物指定の日本一の杉の巨木が現存する。「嶺北広域行政事務組合」(住所:高知県長岡郡本山町本山)公式サイト内のこちらに解説と写真がある。それによれば、同寺は神亀元(七二四)年、行基の創建で、行基(ぎがこの地を訪れて豊楽寺を開いた折りのこと、持っていた杖を挿すと、根が出てきて一本の杉として育ったという伝説があるという。「逆さ杉」の樹齢は約四百年で、名の由来は殆どの『枝が通常とは逆の下向きに伸び、まさに地上に垂れようとする姿に』ある記す。別に、行基と言わず、『「ある時名僧が来て豊楽寺に登る途中この枝先で目を突き盲目となってしまったが、この僧の死後その霊がこの杉に宿った。」という言い伝えもあり、目の病気を治療するのに効果があるとして祈願する者も多い』。『「草創の古より法灯大いに栄え、山腹には大田寺、南大門、極楽寺、蓮華院等の堂塔伽藍が立ち並んで繁栄していた。」と伝えられている。逆さ杉は大豊町寺内字ダイモンにあり、ダイモンは南大門の建っていた場所だと伝えられている』。『豊楽寺の境内には国宝に指定されている薬師堂があり、平安時代の建築様式を色濃く残していて美しい。更にその内部には釈迦如来坐像、(しゃかにょらいざぞう)薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)、阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)の三体の仏像が安置されていて、国の重要文化財に指定されている』とある。

『「め」の字の繪馬が樹の根元に澤山納めてある』眼病平癒祈願では、全国的に古くからポピュラーな絵馬であるが、実物を見た時には結構、ギョッとする(グーグル画像検索『「め」の絵馬』。つげの「ねじ式」の『ちくしょう 目医者ばかりではないか』のカットのようにシュールレアリスティクでさえある)。同寺では今は日本一の杉に掛けて「日本一の願掛け絵馬」が二〇一二年から出されてあるらしい。杉にとってもよろしくなく、根元に収めるのだけは「だめヨ」。]

佛教の方の御本尊に片目の話があつても、其を本國から携へて來たものとは言はれぬ。名ばかり佛であり僧であつても、信仰の内容は全然日本式になつてしまつたものは是のみでは無いのである。殊に地藏尊がさうであるやうに自分は思ふ。

近江神崎郡山上村の大字に佐目と言ふ部落がある。以前は左目と書いて居たやうである。逆眞上人と云ふ人の左の眼が流れて來て止まつた處なるが故に左目と謂ふと、近江國輿地誌略卷七十一に出て居る。逆眞は如何なる人であつたか、未だ自分は些しも知らぬが、やはり土佐の山の名僧の一類であらう。

[やぶちゃん注:「近江神崎郡山上村の大字に佐目と言ふ部落がある。以前は左目と書いて居たやうである」「神崎(かんざき)郡山上(やまかみ)村」と読む。現在の滋賀県東近江市佐目町(さめちょう)かと思われる。

「逆眞上人」不詳。宗派も推定出来ない。個人ブログ「自然体で、興味を持ったことを・・平成25年6月:間質性肺炎患者に」のこちらに『左目:逆真上人の左眼の流れ止るところで左目といったとか、猛牛が村に暴れ困らせていた時、左眼の童子がこれを退治して救ったことから、童子の功績を後世まで伝えんためにこれを記念して左目としたとかの話が伝えられている』とある。柳田よろしく私も「土佐の山の名僧の一類」で誤魔化して納得したことにしよう。

「近江國輿地誌略」既注。]

片目の魚の例も幾つか增加した。伊勢の津の四天王寺の七不思議の一として有名な片目の魚の池を、如何云ふわけで落したかと「津の人」から注意せられた。自分は確かに知つて居る分だけを列記したので、此外にも無數に同じ話のあるべきを信じて居た。津の話も由來等をもつと詳しく聞きたいものである。

[やぶちゃん注:「伊勢の津の四天王寺」三重県津市栄町にある曹洞宗塔世山四天王寺。推古天皇の勅願により聖徳太子が建立したと伝えられ、藤堂高虎所縁の寺であるが、衰亡・復興を繰り返した。

「七不思議の一として有名な片目の魚の池」津市図書館『ようこそ図書館へ』二〇〇八年四月第四号(PDF)の「レファレンス事例集」の回答に、『七不思議の記述についての資料は少ないが』としつつ、「津市案内記」(津市役所発行)・「津市郷土読本」(津市教育会分類)『によると、「血天井・景清鎧掛松・亀の甲の三尊像・蛇の鱗・薬師堂の瓦・風呂神・生佛」が四天王寺の七不思議の伝説とある』とあり、「片目の魚」はない。不審。津の郷土史家の方の御教授を切に乞う。]

作州久米郡稻岡の誕生寺、即ち法然上人の生地と傳ふる靈場にも、片目の魚の話があつたやうだと、あの國生れの黑田氏は語られた。

[やぶちゃん注:「作州久米郡稻岡」現在の岡山県久米郡久米南町誕生寺里方。

「誕生寺」浄土宗栃社山(とちこそさん)誕生寺(たんじょうじ)。本尊は圓光大師(法然源空の没後に朝廷から贈られた大師号)。鎌倉幕府御家人であった熊谷直実は法然の弟子となって出家、法力房蓮生と法号したが、建久四(一一九三)年に法然の徳を慕って、法然の父である久米押領使漆間時国の旧宅のこの地に寺を建立、それを本寺の始まりとする。

「片目の魚の話があつたやうだ」誕生寺内を流れる川を現在も「片目川」と呼ぶが、「久米南町」(くめなんちょう)公式サイト内の「観光・イベント」の「片目川」によれば、『誕生寺の寺域を貫流する小河川。弓の腕をめきめきと上達させていた勢至丸(法然上人)に夜襲の際右眼を射られた明石定明が、側の小川でその目を洗ったため、以後片目の魚が出現するようになったと言われ、川そのものも片目川と呼ばれるようにな』ったと明記されてある(下線やぶちゃん)。明石定明(あかしのさだあきら)は美作国久米郡稲岡荘の預所を務めた武将であったが、法然の父時国と意見が対立、数百の軍勢をもって時国を襲撃、殺害に及んだ。死に臨んで勢至丸(後の法然)には、特に復讐の無益を説いて亡くなったとされている。

「黑田」前出せず、不詳。この書き方はひどい。]

相良子爵の舊領肥後の人吉の城下の北に、一の祇園社が有つて亦片目の魚の居る池があつた。祇園樣が片目だから魚も片目だと言つて居たさうである。猶此より上流上球磨の田代川間(かうま)と云ふ處には、斑(まだら)魚と云ふ魚の口が二つあるものが居るとも傳へられた。參考の爲に取調べをさせ猶出來るなら二種の魚の干物を取寄せてやらうと、同子爵は言はれた。

[やぶちゃん注:「相良子爵」旧人吉藩(ひとよしはん・肥後国南部の球磨(くま)地方を領有した藩。藩庁は人吉城(現在の熊本県人吉市))十三代藩主相良長福の長男で貴族院議員であった相良頼紹(さがらよりつぐ 嘉永六(一八五四)年~大正一三(一九二四)年)であろう。従五位・子爵。父が没した時は幼少であったため、叔父の頼基が十四代藩主となり、後に頼基の養子となった。明治八(一八七五)年に養父頼基が隠居、家督を継いだ。明治一四(一八八一)年には伊藤博文の憲法調査に随行している。明治一七(一八八四)年、子爵に叙爵(以上はウィキの「相良頼紹」に拠った)。

「人吉の城下の北に、一の祇園社が有つて亦片目の魚の居る池があつた」「一」は「ひとつ」と訓じておく。熊本県人吉市南泉田町これは城との位置関係(現在の人吉城趾の真北)から見て、現在の八坂神社(祇園社)と考えられる。「片目の魚」は検索に掛からないが、個人ブログ「ブログ肥後国 くまもとの歴史」の「【人吉】八坂神社(祇園社)」に建武元(一三三四)年、相良第五代『頼広(よりひろ)の夫人の希望によって創設』された社で、建てられた二月十日の『真夜中に、社殿の下からにわかに清水が湧きだした。その水は甘露のように甘く、曼荼羅川と名づけられた』とあって水と関係があるから間違いあるまい。

「上球磨の田代川間(かうま)」現在の熊本県人吉市段塔町(だんとうまち)の田代川間(たしろごうま)。現住所表記と読みはサイト「村影弥太郎の集落紀行」のこちらに拠った。

「斑(まだら)魚と云ふ魚の口が二つあるもの」不詳。山間渓流に棲息する魚であるから、ゴリ(淡水産の類脊椎動物亜門条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属 Cottus)等の類か? 相良が「二種の魚の干物を取寄せてやらう」とまで言うのであるから、人吉では極めてポピュラーなもの(であった)と思われる。人吉の郷土史家の方の御教授を切に乞う。

鰹魚の嗜な田村三治君が、曾て東海岸の或漁師から聞かれた所では、鰹魚は南の方から段々上つて來て奧州金華山の沖まで來る間は皆片目である。金華山の御燈明の火を拜んで始めて目は二つになるので、一同是までは必ずやつて來ると言つた。是は同じ方向にばかり續けて泳ぐので、光線の加減か何かで一方の目に異狀を呈するのであらうと、今までは思つて居られたさうである。

[やぶちゃん注:「嗜な」「すきな」。

「田村三治」ジャーナリストで作家でもあった田村三治(さんじ 明治六(一八七三)年~昭和一四(一九三九)年)か? 東京市本所生まれ。東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科明治二五(一八九二)年卒。在学中に『青年文学』同人となり、国木田独歩と親交を結び、明治二十七年に中央新聞社に入社、後に主筆となった。独歩の死後には田山花袋らと「欺かざるの記」の校訂などもしている。他に『中央新聞』に伝記物なども書いている(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「金華山の御燈明」城県石巻市の牡鹿半島東南端に相い対する島、金華山に鎮座する黄金山(こがねやま)神社の御灯明(おとうみょう)。

「同じ方向にばかり續けて泳ぐので、光線の加減か何かで一方の目に異狀を呈するのであらう」このような魚類の走性偏移と陽光を原因とする眼球異常について私は未だ嘗て聴いたことは一度もない。似非科学の部類と私は思うが、もし事実であるならば是非、お教え頂きたい。]

中村弼氏は越後高田の人である。其話に、靑柳の池の龍女に戀慕した杢太と云ふ人の居た安塚の城は、高田から四五里の地で、靑柳村も亦其附近である。この靑柳の池の水と地の底で通つて居ると云ふ話で、杢太は池に入つて池の主となつて後も、此水を傳つて屢々善導寺の和尚の説經を聽聞に來た。只の片目の田舍爺の姿で來たさうである。どうやら見馴れぬ爺だと思つて居ると、歸つた後で本堂の疊が一處沾れて居たと云ふことである。

[やぶちゃん注:「中村弼」(たすく 慶応元(一八六五)年~大正八(一九一九)年)はジャーナリスト。越後(新潟県)出身。尾崎行雄の文部大臣時代(第一次大隈内閣/明治三一(一八九八)年)に秘書官を務めた。明治三十三年に『朝野(ちょうや)新聞』から『二六新報』に移り、主筆となった。大正三(一九一四)年には「日本移民協会」の創立に係わり、幹事長となっている(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「四五里」十五・七~十九・六キロメートル。

「善導寺」現在の新潟県上越市寺町にある浄土宗真光山光明院善導寺か?

「沾れて」「ぬれて」。]

まだ些し殘つて居るが、あまり長くなるやうだから其は第二の機會まで貯へて置く考へである。あゝ詰らない話だつたと言はれなければよいがと思ふ。

      (大正六年八月、東京日日新聞)

[やぶちゃん注:「大正六年」一九一七年。

 以上で「一目小僧その他」の巻頭「一目小僧」のパートは終わる。]

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