北條九代記 卷第七 泰時奇物を誡めらる
○泰時奇物を誡めらる
曆仁二年二月十日、改元有りて、延應元年と號せらる。同月に、後島羽〔の〕院隱岐〔の〕國にして崩じ給ふ。聖算(せいさん)六十歳とぞ聞えし。同三月に北條時房、卒(そつ)せらる。同十月に、三浦義村、逝去あり。延應二年七月十六日改元ありて、仁治元年と號せらる。三月十八日、右京權大夫泰時、仰せ出さるゝやう、「關東の御家人竝に鎌倉伺候の輩(ともがら)、近年、奇物を翫(もてあそ)び、過差(くわさ)を好み給ふ、是(これ)、甚だ然るべからず。儉約を守り給ふべきの由、條々の沙汰あり。若(もし)、違背の輩は、見及ぶに隨ひ、法に任せて行はるべし」と、堅く禁制せられけり。これ泰時は世の費人(ついえ)の勞(いたはり)を、深く悲しみて、理政(りせい)安民のことをのみ、常に思ひ給ふよりほかは又、他事なし。若は諸國参覲(さんきん)の大名小名、或は珍しき雜具(さふぐ)、新渡(しんと)の唐物(からもの)等を參(まゐら)する事あれば、大に氣色(きしよく)を替へて、宣ふには、「この代物は定(さだめ)て莫大にぞ候らん。是等(これら)の具に、差(さし)て德を供へたるにても候まじ。たゞ類(たぐひ)少(すくな)く珍らしき故にぞ泰時には賜りぬらん、御志の程は感じ候へども、是更に撫民國政(ぶみんこくせい)の用には立つまじ、別に詮(せん)なきものに候。かゝる無用の具を買(かひ)求めて、國財を盡されんは、口惜(くちをし)き御計(はからひ)にや。此代物を出し給はんには、領地の百姓らに賦斂(ふれん)を重くして、取集(とりあつ)め給ひぬらん。又御自分も、財盡きて貧匱(ひんき)になり給はば、自然國亂れん時、遠國在陣(ざいぢん)の賄(まかなひ)、郎徒の扶助には、何をか致し給はん、頗る覺束なく候」とてその代物を辨(わきまへ)出されしかば、奇物を奉る事は止みにけり。又、頭人(とうにん)、評定衆も、「諸大名の土産(どさん)を受けては其より倍して返禮せらるべし」と仰出されたり。「遠國より在鎌倉し給はんには、さこそ世財(せざい)も匱(とも)しくおはしますらん、近國に所領を持ちながら、扶助こそなからめ、剩(あまつさ)へ遠國の輩に財物を受け給はん事は、法に背き義に違(たが)ひ候」と恥められしかば、土産(どさん)の事は止みにけり。諸將諸侍、自然に侈(おごり)を省(はぶ)き、過差(くわさ)を止(とゞ)め、風儀(ふうぎ)物毎(ものごと)にしみやかにぞなりにける。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十三の延応元(一二三九)年三月十七日(後鳥羽院崩御の件のみを短く記し、葬送は二十五日とある)、十二月五日(三浦義村逝去の件)、及び延応二年一月二十四日(北条時房逝去の件)、三月十八日の記事に基づく。最後の贅沢停止の命を含むもののみ後掲する。
「曆仁二年二月十日、改元有りて、延應元年と號せらる」七日の誤り。嘉禎四年十一月二十三日(ユリウス暦一二三八年十二月三十日相当)に天変により暦仁(りゃくにん)に改元するも、この翌暦仁二年二月七日(ユリウス暦一二三九年三月十三日相当)には延応に改元しており、試みに数えてみると七十四日ほどしかなく、ウィキの「暦仁」によれば、『日本の元号の中では最も日数が短い』とする。「百錬抄」によれば、『世間では「暦仁=略人」すなわち、この世から人々が略される(=死んで消えてしまう)とする風評が発生したために再び改元を実施したとある(ただし、詔書では「変災」を理由としている)』とある。
「同月に、後島羽院隱岐國にして崩じ給ふ」改元から十日後の延応元(一二三九)年二月二十日のことであった。
「同三月に北條時房、卒せらる」年月誤り。延応二(一二四〇)年一月二十四日逝去。享年六十六。彼は鎌倉幕府初代連署であったが、彼の死後は七年間、宝治元年(一二四七)年に甥(北条義時三男で泰時の異母弟)の北条重時が就任(三浦氏を滅ぼした宝治合戦後)するまで空席となった。
「同十月に、三浦義村、逝去あり」これも月間違い(というか前の時房が後)。延応元(一二三九)年十二月五日死去(生年不詳のため、享年不詳)。
「延應二年七月十六日改元ありて、仁治元年と號せらる」改元は彗星・地震・旱魃などによるとされる。
「費人(ついえ)の勞(いたはり)」身分の高い連中の要らぬ消費によって民草が疲弊し苦労すること。
「理政安民」政治が正しく行なわれて、民衆の暮らしが平和で豊かであること。
「参覲(さんきん)」「参勤」と同義。出仕して主君にまみえること。
「風儀(ふうぎ)物毎(ものごと)にしみやかにぞなりにける」「風儀」は日常の生活慣習。「物毎(ものごと)に」は「それぞれに・孰れも」、「しみやかに」聴き慣れない語であるが、文脈から贅沢を廃してすこぶる質素清貧な感じになっていったことであるよ、というのは判る。
以下、「吾妻鏡」延応二(一二四〇)年三月十八日の条。
○原文
十八日壬午。關東御家人幷鎌倉祗候人々。萬事停止過差可好儉約條々事。日來有沙汰。今日被造其制符。自來四月一日。固可禁制之云々。又御家人郎等任官事。向後所被停止也。依之。關東家人之由稱申者。糺明主人。□□□□相觸重時可被申任之趣。兼日可被示置官藏人方以下公事奉行人之旨。被仰遣六波羅。
○やぶちゃんの書き下し文
十八日壬午。關東御家人幷びに鎌倉祗候(しこう)の人々、萬事、過差(くわさ)を停止(ちやうじ)し、儉約を好むべき條々の事、日來(ひごろ)沙汰有り。今日、其の制符(せいふ)を造らる。來たる四月一日より、固く、之れを禁制すべしと云々。
又、御家人・郎等(らうどう)の任官の事、向後、停止せらるところなり。之れに依つて、關東家人の由、稱し申さば、主人を糺明し□□□□重時に相ひ觸れ、申し任ぜらるべきの趣き、兼日(けんじつ)に官の藏人(くろうど)方以下の公事(くじ)奉行人に示し置かるべきの旨、六波羅へ仰せ遣はさる。
・「祗候」伺候に同じい。
・「過差」既に出てきており、意味も判ろうが、一応、ここで注しておく。分に過ぎたこと。分不相応な奢り。贅沢。
・「御家人・郎等の任官の事」幕府御家人及びそれに従う郎等らが朝廷へ任官を希望したり、その主人に従って朝廷の下働きで雇われたりすること。
・「重時」は当時、六波羅探題北方(最高責任者)であった。
・「兼日に」普段から。
・「官の藏人方」幕命の朝廷への実務上の取次人(メッセンジャー・ボーイ)。
・「公事奉行人」裁判の実務決裁の担当者。]
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