生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(1) 序
第十九章 個體の死
「生あるものは死あり」と昔から承知して居ながら、やはり死にたくないのが人情と見えて、少しでも物の理窟を考へる餘裕が出來ると、まづ第一に死のことから注意し始め、想像を逞しうして、不老不死の藥とか、無限壽の仙人とかの話を造り出す。それより智力が進めば進むだけ、死に關する想像も複雜精巧になり、想像と實際との區別がわからぬためにさまざまの迷信が生じて、今日に至つても、死に就いては實に種々雜多の説が行はれて居る。生を論ずるに當つても、材料を人間のみに取つては一部に偏するために、到底公平な結論に達すべき望がないのと同じく、死を研究するにも、まづ廣く全生物界を見渡して、種々の異なつた死にやうを比較する必要がある。そして廣く各種の動物に就いて、その死にやうを調べて見ると、或は外面だけが死んで内部が生き殘るもの、前半身が死んで後半身が生き殘るもの、死んで居るか生きて居るかわからぬもの、死んでも死骸の殘らぬものなど、實に意外な死に方をするものが澤山あつて、人間の死の如きはたゞその中の最も平凡なる一例に過ぎぬことが明に知れる。
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