「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 丈六に陽炎高し石の上 芭蕉
本日 2016年 2月20日
貞享5年 1月19日
はグレゴリオ暦で
1688年 2月20日
伊賀の國阿波庄(あはのしやう)と云ふ所に、俊乘(しゆんじよう)上人の舊跡あり。護峰山(ごほうざん)新大佛寺とかや云ふ名ばかりは、千歳(ちとせ)の形見(かたみ)となりて、伽藍は破れて礎(いしずゑ)を殘し、坊舍(ばうしや)は絶えて田畑と名の變(かは)り、丈六(ぢやうろく)の尊像は苔の綠に埋もれて、御髮(みぐし)のみ現然と拜まれさせ給ふに、聖人の御影(みえい)は未だ全おはしまし侍るぞ、其代(よ)の名殘(なごり)疑ふ所なく、涙こぼるるばかりなり。石の蓮台(れんだい)、獅子(しし)の座などは蓬(よもぎ)葎むぐら)の上に堆(うづたか)く、雙林(さうりん)の枯れたる跡も目(ま)のあたりにこそ覺えられけれ。
丈六に陽炎(かげろふ)高し石の上
「笈の小文」より。日附は例によってサイト「俳諧」の「笈の小文」に従った。真蹟詠草は、
阿波大佛
丈六にかげろふ高し石の跡
とし、「笈日記」は、
丈六のかげろふ高し石の上
「三冊子」は、
かげろふ俤(おもかげ)つくれ石のうへ
推敲形と思しいものが載り、更に「芭蕉翁全伝」にもこの変形である、
陽炎の俤つゞれいしのうへ
が載るが、命令形は全くいただけない。本句の恥である。
「阿波庄」三重県の旧阿山(あやま)郡大山田村。現在の伊賀市大山田。
「俊乘上人」東大寺大勧進職として焼失した東大寺復興に尽力した浄土宗の名僧重源(ちょうげん 保安二(一一二一)年~建永元(一二〇六)年)の坊号。
「護峰山新大佛寺」神龍寺(山本健吉「芭蕉全句」)、一名新大仏寺。後に復興したらしく、現存する(但し住所は伊賀市富永)「真言宗 新大仏寺」公式サイトによれば建仁二(一二〇二)年に源頼朝が後鳥羽法皇の勅願寺として開創、開山を重源上人とし、全国にあった七ヶ所の東大寺別所の中の一つとあって、『重源上人像や廬舎那仏をはじめとする数多くの重要文化財や俳聖松尾芭蕉の句碑などがあり、山門・墓所も整備されてい』るとある。新潮古典集成の「芭蕉文集」の富山奏氏の注には、『創建当初は十一宇の大伽藍であったが、後世』、『衰微し、寛永十二年』(一六三五年)『の大雨で山崩れに遭い』、『荒廃していた』とある。芭蕉が訪れた貞享五年は一六八八年であるから、実に五十三年もの間、放置されていたことになる。景、凄絶なること、よく、再現あれかし。
「千歳の形見」創建当時からなら実際には四百八十六年前であるが、「千歳」は長い年月の謂いであるから問題ない。
「丈六」一丈六尺は約四・八メートルで、仏教では一丈六尺の高さを持つ、極めて一般的な立像仏像を指す(これは釈迦の身長が常人の倍の一丈六尺あったという信仰に基づく)。胴体は死体の如く、すっかり地に埋もれてしまい、苔がびっちりと生えているのである。
「御髮(みぐし)」この場合は「御首」で、頭部だけが地面に晒し首のように、突っ立っているばかりなのである。丈六だと、頭部は八十センチメートルほどしかない。それがまた地面に沈んでいるのであるから、我々の視線は頗る低い。
「聖人の御影」開山俊乗坊重源の尊像。富山氏の注には『上人堂に安置していた』とあるから、この堂は当時も現存していたらしい。先の同寺公式サイトによると、現存もするようである(大仏(廬舎那仏)は画像が載るが新造と思われる)。
「雙林の枯れたる跡も目のあたりにこそ覺えられけれ」釈迦入滅の際には沙羅双樹(さらそうじゅ)の林が一斉に枯れたと伝えられるが、いや、その光景もかくや! と思わるるほどにもの凄き荒景を目の当たりにした、そこには真に無常の思いを惹起させる恐るべき棄景があったことだ! と芭蕉は感慨するのである。
「芭蕉庵小文庫」(史邦編・元禄九(一六九六)年刊)の上巻には(加工底本として個人サイト「旅のあれこれ」の「『芭蕉庵小文庫』(史邦編)」を使用させて戴き、また山本健吉「芭蕉全句」を参考にしたが、一部原文本文を恣意的に補正した。読みは私が振った)、
伊賀新大佛寺之記
伊賀の國阿波の庄に新大佛といふあり。此(この)ところは、ならの都東大寺のひじり俊乘上人の舊跡なり。ことし、舊里(ふるさと)に年をこえて、舊友宗七、宗無ひとりふたり、さそひ物して、かの地に至る。
仁王門、撞樓のあとは、枯(かれ)たる草のそこにかくれて、「松ものいはゞ事とはむ石居(いしずゑ)ばかりにすみれのみして」と云(いひ)けむも、かゝるけしきに似たらむ。なを分(わけ)いりて、蓮華臺(れんげだい)・獅子の座なんどは、いまだ苔のあとをのこせり。御佛は、しりへなる岩窟にたゝまれて、霜に朽(くち)、苔に埋(うづも)れて、わづかに見えさせ玉(たま)ふに、御(み)ぐし斗(ばかり)はいまだつゝがもなく、上人の御影をあがめ置(おき)たる草堂のかたはらに安置したり。誠に、こゝらの人の力をついやし、上人の貴願いたづらになり侍ることもかなしく、涙もおちて談(ことば)もなく、むなしき石臺(せきだい)にぬかづきて、
丈六に陽炎高し石の上
と出る。
本句の眼目は
――台座の後には仏なく、時の流れの無常を感じさせ、この世の儚さを指すようにゆらゆらと視界を崩すところの陽炎が、今は亡き仏像のその「丈六」の高さまで、虚しく立ち昇っているではないか――
という断腸の懐古の情にこそある。
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