生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(3) 二 非業の死
二 非業の死
非業の死といふ文字は新聞紙などで屢々見掛けるが、これは何か不意の出來事のために命を取られることで、人間の社會では寧ろ數の少い例外の如くに見倣されて居る。即ち人間は慢性の病氣にでも罹つて死ぬのが自然の死にやうで、強盜に殺されるとか、汽車に轢かれるとかいふのは。もしその事がなかつたならば、なほ生存し續け得や筈の所を自然に反して無理に命を奪はれたのでゐるから、これを非業と名づけるのであらう。尤も非業といふ中にも種々の程度があつて、死にやうが劇烈でない場合は、事實非業であつても通常これを非業とは名づけぬ。例へば何か事業に失敗して心痛の餘り病氣となり、入院して死んだとすればこれまた非業の死といふべき筈であるが、この位では世人は非業の死とは見倣してくれぬ。もしかやうな場合までを非業の方へ算へ込めば、人間の非業の死の數は餘程殖えるが、それでもまた決して大多數とはならぬ。しかし他の動物では如何と見ると、これはまるで趣が違ふ。
前に幾度も遠べた通り、多くの動物は無數の卵を産み放すが、これから孵つた兒は殆ど悉く非業の死を遂げる。魚類は數十萬の卵を産み、「うに」・「なまこ」・「ごかい」・「はまぐり」などは數百萬の卵を産むが、大概は發生の途中に命を失つて、生長し終るまで生存し得るものは極めて少數に過ぎぬ。産む子は多くてもこを常食とする敵動物が待ち構へて居るから、多數はその餌となつてしまふ。その他風雨のために吹き流されて死ぬものもあり、怒濤のために岩に打ち附けられ濱に打ち上げられて死ぬものもあり、旱魃のために干枯らびて死ぬものもあれば、洪水のために溺れて死ぬものもあらう。また同僚との競爭に敗けて餌を求め得ずして餓ゑて死ぬものや、仲間同志の共食ひで食ひ殺されるものもあらう。とにかく何らかの方法で發生の中途に命を失ふものが非常に多數を占め、生長し終るまで生き殘るのは平均十萬疋中の二疋、百萬疋中の二疋に過ぎぬ。即ち十萬疋の中の九萬九千九百九十八疋、百萬疋の中の九十九萬九千九百九十八疋は悉く非業の死を遂げるのである。
子を産み放しにする動物では、かくの如く非業の死を遂げるものの數が極めて多いが、子を世話する種類では保護養育の程度の進むと共に、非業の死を遂げる子供の割合が次第に減ずる。同じ魚類でも巣を造つて卵を保護する「とげうを」や、雄の腹の嚢に卵を入。れる「たつのおとしご」では、非業の死を遂げるものの數は餘程少くなくり、蛙の中でも背に子を負ふ種類、背の囊に卵を入れる種類では、非業の死を遂げるものは更に少い。これらの動物は皆子を産む數が少いから、もしも普通の魚類や「ごかい」・「はまぐり」などに於けると同じ割合日に、多數の子が死んだならば忽ち種族が斷絶する虞がある。人間は最も少く子を産み、最も長くこれを保護養育するもの故、發達の途中に命を失ふものの數は他の動物に比すると遙に少く、且その中特に悲慘な死にやうをしたものでなければ非業と名づけぬから、それで非業の死が稀な例外の如くに見えるである。
動物に非業の死の多いことは何を見ても直に知れる。魚市場や肴屋・料理屋の店にある魚類は悉く非業の死を遂げたもので、これらの魚類の胃を切り開いて見ると、また非業の死を遂げた小さな魚や蟲や貝類などが充滿してゐる。そしてこの小さい魚や蟲の腹の中には更に小さな幼蟲や卵などが一杯にあるが、これまた非業の死を建げたものである。およそ肉食する動物がある以上は、その餌となる動物は日々非業の死を建げるを免れることは出來ぬ。また田圃で害蟲を騏除すれば敷千萬の蟲が非業の死を遂げ、養蠶を終れば何百萬の蛹が非業の死を遂げる。その他自然界に於ける非業の死の例を算へ擧げたら際限はない。されば、非業の死なるものは、人間社會に於てこそ稍々稀な場合である如き感じがあるが、廣く自然界を見渡せば非業の死は殆ど常の規則であつて、その中極めて少數のものが半ば僥倖によつて生長を終り子を殘し得るのである。
[やぶちゃん注:一言言っておく。捕鯨に反対する連中は皆、完全菜食主義であって、しかも無論、高級な絹製装身具なんざ、着ちゃいないんだよね?
「僥倖」老婆心乍ら、「げうかう(ぎょうこう)」と読み、思いがけぬ幸運のことを言う。]