「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 古里や臍の緒に泣く年のくれ 芭蕉
本日 2016年 2月 1日
貞享4年12月30日
はグレゴリオ暦で
1688年 2月 1日
古里(ふるさと)や臍(ほぞ)の緒(を)に泣く年のくれ
「笈の小文」より。表記は、
舊里や臍の緒に泣としの暮
などであるが、真蹟遺墨に、
旧里やへその緒に泣くとしの暮
というのがあるとし(岩波文庫版中村俊定校訂「芭蕉俳句集」)、「若水」(嵐雪編・貞享五年刊(但し、初版本は未発見)の元文六(一七四一)年再版本)には、
歳暮
ふるさとや臍の緒なかむとしの暮
とする。
芭蕉はサイト「俳諧」の「笈の小文」のこちらの旅程によれば、貞亨四年十二月二十一日には郷里伊賀上野に到着しているが、「年のくれ」を厳密に受けて当時の大晦日を当句の詠に比定することとする。
生家にて兄松尾半左衛門より亡き母が守り続けた芭蕉の臍の緒を見せられた折りの歳末吟。
安東次男氏は中公文庫「芭蕉」の中でけんもほろろに批判する。本句を引き、さらに自身の死に先行する数ヶ月前のかの寿貞尼の悼亡の句「數ならぬ身とな思ひそ玉祭り」の句を引いた上で、『西行と比べて何か女々しいもの、釈然とはせぬものを、私は覚える。そこが芭蕉の人間臭さであろう。しかしどこかきれいごとがある。悲しみは深くない』とやらかす。
そうだろうか?
私はいつもなら安東節(ぶし)に諸手を挙げるが、ここは組み出来ない。安東氏は所謂――安易に見える――「見える」のであって本当に「安易」かどうかは問わない――ロマンティシズム的同調――それが安東氏には付和雷同に見えたことは疑いがない――が大のお嫌いで、複数の識者や自他ともに認める大家が安易に肯んじ合うように見える(ここも「見える」だけで事実そうかどうかは問わない)対象はわざと嫌いだ、胡散臭い、といって敬遠する気味があるように思う。それが正しい真理に辿りついている場合は、頗る孤高の屈原よろしく、よい。しかし、そうでないこともままあり、そうすると、彼は偏屈原になってそれこそ臍を曲げ、お前らには判らん的なジョーカー出しで煙に巻くことがしばしばある(ように私は感ずる)。実は私自身、かつてそうした傾向を強く持っていたから、よく判る(気がする)。
そうである。西行は女々しくは確かに――ない。彼の歌は何をとっても論理的に冷たく釈然とするものばかりである――とも言える。およそ妻子を捨てて冷酷にも庭へ娘を突き落しても平然としていられる――人間離れした人非人である。さればこそ遁世も出来たとのであろうが、しかし同時に彼は終世、ある種の徹底した冷徹な対人計量測定と虚無的な笑いを以って現実をせせら笑う人生を送っていたと私は思う。そういう彼だからこそ人生を馬鹿に出来たのだし(そもそも人生を徹底的に馬鹿に出来ないと出家遁世は出来ない)、頼朝が呼び込むのを確信犯で待って鶴岡八幡宮社頭を偶然のようにうろついたりしていたのだ。どうも今となっては私は実は、西行を好きになれなくなりつつあるのである。
山本健吉氏は「芭蕉全句」で本句を、『何の寓意も比喩もなく、単純直截に、太い線で力強く叙述した句』とされ(そういう句は安東氏は元来が好かない。法医学者の腑分けよろしくテツテ的にバラして、普段は見えない筋を抉り取って、メスの先にぶら下げて見せ、「どうよ!」というのが安東流である)、『まず「旧里や」と置いて、自分で自分を確かめるように、今故郷の土を踏んでいるのだという、言語に絶する感情を反芻する。その形をなさない感慨を、具体的に形に示すと「臍の緒に泣く年の暮」なのである。「泣く」は感傷ではない。能舞台で俯向きに面をくもらせる時のような、流涕の型を思い出した方がよい。単純なようで、この句の感銘は単純ではなく、古拙な力強さがある』と述べておられる。今の私にはこれが腑に落ちる。母との関係は各人の絶対原理の中に、ある。それは句の解釈などという形而下の問題とは異なる、と私は思うとのみ言っておく。
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