日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (40) 当時の東京の殺人事件(過去十年間)はたった十三件だった!
私は東京に於る統計局の長をしている杉氏〔統計院大書記官杉亨二郎〕と知合になった。彼は日本の青物、茶の湯、及びそれに頼するものに趣味を持つ、非常に智的な人である。彼から私は東京の保健状況に関する、興味のある事実を沢山聞いた。ミシガン州ランシングの、州立保健局長官、ドクタア・ベーカアが、私に彼の一八七九年の報告書を送ってくれた。重要な統計中、その年八十七件の故殺が行われたことを私は発見した。その時のミシガン州の人口は、東京の人口よりすこし多いので、私は杉氏にその一年間、東京で何件の故殺が行われたかを質問した。彼は皆無だといった。事実過去十年間を通じて、東京では故殺が十一件と、政治的の暗殺が二件行われた丈である。
[やぶちゃん注:「杉氏」底本では直下に石川氏の『〔統計院大書記官杉亨二郎〕』という注が入る。しかしこれは亨二郎ではなく、杉亨二(すぎこうじ 文政一一(一八二八)年~大正六(一九一七)年)と思われる。日本の統計学者で官僚にして啓蒙思想家・法学博士。「日本近代統計の祖」と称される人物で、初名は純道。以下、ウィキの「杉亨二」より引く。『肥前国長崎(現在の長崎県長崎市)に生まれ、大村藩の藩医村田徹斎の書生を経て』、弘化五・嘉永元(一八四八)年に大坂の緒方洪庵の適塾に『入ったが病のため同年帰国した。翌年には江戸に出て中津藩江戸藩邸の蘭学校(慶應義塾の前身、福澤諭吉が出府するのは』安政五(一八五八)年)だが『その後も慶應義塾に出入りしている)で教えた後』、嘉永六(一八五三)年には『勝海舟と知り合い、その塾の塾長から老中阿部正弘の侍講(顧問)とな』った。万延元(一八六〇)年には『江戸幕府の蕃書調所教授手伝となり』、四年後には『開成所教授となる。この頃、洋書の翻訳に従事している際にバイエルン(現在の独バイエルン州)における識字率についての記述に触れたのが統計学と関わるきっかけになったと後年回想している』。『明治維新後は静岡藩に仕え』、明治二(一八六九)年『には「駿河国人別調」を実施したが藩上層部の反対で一部地域での調査と集計を行うにとどまった』。明治四年十二月二十四日(一八七二年二月二日)に『太政官正院政表課大主記(現在の総務省統計局長にあたる)を命じられ、ここで近代日本初の総合統計書となる「日本政表」の編成を行』っている。また、明治六(一八七三)年には明六社の結成にも参加している。『一方、現在の国勢調査にあたる全国の総人口の現在調査(当時は「現在人別調」と称した)を志し、その調査方法や問題点を把握するため』、明治一二(一八七九)年に『日本における国勢調査の先駆となる「甲斐国現在人別調」を甲斐国(山梨県)で実施した。同年の』十二月三十一日午後十二時現在の居住者を対象として行い、調査人二千人、調査費用約五千七百六十円、調査対象となる甲斐国の現在人数は三十九万七千四百十六人という結果を得た。『その後は政府で統計行政に携わる一方、統計専門家や統計学者の養成にも力を注いだ。統計学研究のための組織である表記学社や製表社(後に変遷を経て東京統計協会)を設立して後進育成を図る一方』、まさにこの年、明治一六(一八八三)年九月には『統計院有志とともに共立統計学校を設立し自ら教授長に就任した。しかし、「統計学校」の「統計」という訳語が、スタティスティックスの本来の意味を表現していないとしてよしとせず、自ら漢字を創作して使用した』(ウィキ嫌いの、公権力に追従するアカデミズムの信望者の方のために「総務省統計局」公式サイト内の『日本近代統計の祖「杉 亨二」』をリンクさせておくが、そこでは杉が考案した漢字の画像を見ることが出来る。必見)。その後、明治一八(一八八五)年に、『統計院大書記官を最後に官職を辞し、以後は民間にあって統計の普及につとめた』。明治四三(一九一〇)年には『国勢調査準備委員会委員となり、統計学者の呉文聰や衆議院議員の内藤守三らとともに長年の念願であった国勢調査の実現のため尽力したが、第1回の国勢調査が行われるのを見ずして病没した』とある。
「ランシング」(Lansing)はアメリカ合衆国ミシガン州州都。大部分がミシガン州インガム郡に位置する。人口二〇〇九年現在十一万三千八百十人。一八四七年に「デトロイト市」から「ランシング町」に州都が移転、一八五九年には「ランシング町」から「ランシング市」に命名を変更、一八七九(本記載時間より四年前の明治十二年相当)年には新州庁舎が実に百五十一万百三十ドルの費用をかけて建設されている。参照したウィキの「ランシング(ミシガン州)」によれば、『アメリカ合衆国統計局によると、この都市は総面積』は九十一・三平方キロメートルとある(因みに、単純に比較することは出来ないが、現在の東京都の面積百九十・九平方キロメートルであるが、当時の東京府のそれは調べ得なかったものの、
この作品時間から三十七年後の大正九(一九二〇)年でも東京特別区二十三句の面積は八十一・二四平方キロメートル
でランシングよりやや狭いこと、遡るこの十年前に当たる
明治六(一八七三)年一月一日の東京府の人口は百八万六千七百十八人
であったというデータもある。この数字と、モースが「その時のミシガン州の人口は、東京の人口よりすこし多い」と言っている点に着目されたい。因みに現在の東京都の人口は二〇一五年現在で千三百五十万六千六百七人で、二〇一一年の資料で東京都の殺人件数はたった一年間で百七十九件で本邦ワースト1である)。現在の状況ではあるが、同市の人口の十六・九%及び家族の十三・二% は貧困線(poverty line;poverty threshold:統計上で生活に必要な物を購入出来る最低限の収入を表す指標。それ以下の収入では一家の生活が支えられないことを意味し、貧困線上にある世帯や個人は娯楽や嗜好品に振り分けられる収入が存在しないとされる)『以下である。全人口のうち』十八歳未満の二十三・二%及び六十五歳以上の九%は『貧困線以下の生活を送っている』。『州都であるため、多くの雇用者は政府職員である。また、市の周辺にゼネラルモーターズが複数の工場を持っており、住民の多くが雇用されている』とある。
「故殺」原文“murders”。
「過去十年間を通じて、東京では」「政治的の暗殺が二件行われた丈」明治一六(一八八三)年から十年前であるから明治六(一八七三)年以降であるから、一件はモースの記憶に傷ましいものとして残った大久保利通暗殺事件(「紀尾井坂の変」とも呼ばれる)明治一一(一八七八)年五月十四日に起った、内務卿大久保利通が東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で不平士族六名によって暗殺された事件であろうが、今一件は不明である。識者の御教授を乞う。大物政治家で暗殺された者には民部大輔や参議の要職を勤めた広沢真臣(さねおみ 天保四(一八三四)年~明治四(一八七一)年)がいるが、彼の暗殺は現在では政治的なものとは考えにくいとされていること(当時は木戸や大久保などが暗殺の黒幕であるとする説はあった)、さらにこの事件は十二年前になることが悩ましい。]

