北條九代記 卷第七 將軍賴經公職位を讓る
○將軍賴經公職位を讓る
同二年三月、將軍家、鎌倉中の堂舍佛閣、巡禮し給ふ。思召し立つ事のおはしますを以てなり。去年より打續(うちつゞ)き、天變地妖、樣々なり、殊更、極月二十九日には、白虹(びやくこう)ありて、天涯(てんがい)に亙り、日を貫きて、時を移す、彗星(すいしやう)、客星、隙(ひま)なく出でて、風雨、更に時に叶はず。諸寺諸社に仰せて、修法祈禱の絶る間(ま)なし。諸国の訴(うつたへ)、非法の犯科(ぼんくわ)、御心を惱(なやま)し給ふ。なにはに付けて、浮世の中、兎に角にも厭果(あきは)てさせ給ひて、如何にもして遁ればやとぞ、おもひ立ち給ひける。然(しか)のみならず、御病氣、折々、差起(さしおこ)りて、合期(がふご)に堪へ給はず。數輩(すはい)訴訟のことも棄捐(きえん)せられ、庭中に言上する者、決断の遲々(ちゝ)する事を歎き奉る。武藏守經時も、病気、常に絶(たえ)ざるを以て、攝津〔の〕前司、佐渡〔の〕前司、信濃〔の〕民部〔の〕大夫入道等にまかせらる。彼(かれ)といひ、是(これ)といひ、政務に懈怠(けたい)あれば、京都鎌倉、諸人の口も煩(うるさ)く思召しければ、將軍賴經公、御若君、未だ六歳にならせ給ふを、同四月二十一日、御(ご)元服の事ありて、賴嗣(よりつぐ)とぞ號しける。京都に奏聞して、征夷大將軍の職を讓られ、同七月五日、大納言賴經公は、久遠壽量院(くをんじゆりやうゐん)にして、御餝(おんかざり)下(おろ)して、法名行智(ぎやうち)とぞ申しける。年來の御素懷(ごそくわい)なりとて、今は御喜びましましけり。年改(あらたま)りて、春にも成りなば、京都に御上洛ありて、六波羅邊(へん)に御坐あるべしとて、豫(かね)てより御所を造置(つくりお)かせ給ふ。同九月十三日、諸事の奉行等(とう)、悉(ことごと)く定められたり。同二十八日に三條〔の〕局、卒去せらる。この尼は女性(によしやう)ながらも才智深く、御所の内外(うちと)に付けて、故實を存じ、何事にも知ざる道はなかりしに、六十二歳の秋の風に、一葉(えふ)の命落ちければ、諸人、是(これ)を聞傳へ、惜(をし)まぬ者はなかりけり。同十二月二十六日、北條武藏守經時の亭より火出て、舍弟左近將監時賴の第(てい)失火し、餘熖(よえん)飛行(ひぎやう)して、政所(まんどころ)、焼失す。されども、記錄等(とう)は取出しぬ。不日に作立(つくりた)つべしとて、番匠大勢、召し集めて、土木の功をぞ急がれける。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十五の寛元元(一二四三)年十二月二十九日、寛元二年三月一日、四月二十一日、九月十三日・二十八日、十二月二十七日、寛元三年七月五日などに基づく。これを以って「北條九代記」巻第七は終わる。
「同二年三月」「吾妻鏡」によれば、寛元二(一二四四)年三月一日。
「極月」前年還元元年十二月。この年の十二月は小の月なので、二十九日は大晦日。
「白虹」太陽や月に薄い雲がかかった際、その周囲に光の輪が現れる大気光学現象のこと。特に太陽の周りに現れたものは「日暈(ひがさ/にちうん)」と呼ぶ。参照したウィキの「白虹」には『中国では古代、白虹が太陽を貫くことは、兵乱の兆しとされた。白虹は干戈を、日は天子を表すという。司馬遷』の「史記」「鄒陽列伝」に、『「白虹日を貫けり。太子畏ぢたり」とあり、燕の太子丹(たん)の臣、荊軻(けいか)が始皇帝暗殺を謀った際、白い虹が日輪を貫き、暗殺成功を確信させたが、それでも丹は計画の失敗を恐れたという故事が見られる。他にも「彗星(妖星)の飛来」』「太陽が二つ現れる」などが『兵乱、大乱の予兆といわれるが』、二つの『太陽とは「幻日」のことであり、それと同時に観測されることが多い「幻日環」がここでいう白虹のことではないかとする説もある』とある。ここではまさに「日を貫きて、時を移す」(太陽を白虹が貫いて、それが二時間にも及んだ)とあるのは、まさしく兵乱の予兆を感じさせたに違いない。
「天涯」空の果て、辺縁。
「御心を惱し給ふ」以下の強い抑鬱的厭世怠業傾向を示したのは将軍頼経である。実務処理は執権以下で成し得ても、型通りとは言えども、最終決裁指示は将軍が下した。
「合期(がふご)」定式の裁決決裁の時間。
「棄捐(きえん)」判断を停止して捨て置いてしまうこと。
「攝津前司」中原師員。
「佐渡前司」藤原基綱。
「信濃民部大夫入道」二階堂行盛。
「彼といひ、是といひ」「彼」は将軍頼経、「是」は執権北条経時を指す。
「懈怠(けたい)」怠惰。積極的ないこと。
「京都鎌倉、諸人の口も煩(うるさ)く思召し」たのは無論、次に続く「將軍賴經」である。
「賴嗣」頼経と藤原親能の娘大宮殿の子で継嗣の九条頼嗣(延応元(一二三九)年~康元(一二五六)年)。
「御餝(おんかざり)下(おろ)して」落飾。出家。
「同九月十三日、諸事の奉行等(とう)、悉(ことごと)く定められたり」これは行智(元将軍頼経)の上洛の際の奉行人の選定である。
「三條局」は幕府女官。熱田大宮司季範(すえのり)の孫で父は法橋(ほっきょう)範智。相模守顕季(あきすえ)と結婚した後、源頼朝の女官となった。古儀に通じ、幕府営中にあって重きをなした。建保七(一二一九)年に鎌倉雪ノ下に屋敷を与えられいた。生年未詳であるが、本書の筆者の言うように、「六十二歳」で亡くなっているとすれば、生年は寿永二(一一八三)年ということになる。]
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