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2016/02/15

柳田國男「一目小僧その他」  附やぶちゃん注 一目小僧 (四) 

 

     四

 

 一目が同時に一つ足であつたと云ふ話は又越中國にもある。肯構泉達錄の卷十五に、同國婦負(ねひ)郡蘇夫嶽(そふだけ)の山靈は一眼隻脚の妖恠にして、曾て炭を燒く者二人此に殺され、少し水有る蘆茅の中に投げ棄てゝあり、又麓の桂原と云ふ里の者夫妻、薪を採りに登りて殺さる。腦を吸ふと見えて頂に大いなる穴が明いて居たとある。誰か喰ひ殘されて見屆けた者があつたのでなければ、到底恠物の正體が右の如く世に傳はる道理は無いのである。

[やぶちゃん注:「肯構泉達錄」「こうこうせんたつろく」と読むが、実際には「肯搆泉達錄」が正しい。「富山県立図書館」公式サイト内の「古絵図・貴重書ギャラリー」のこちらに、野崎雅明の著で『越中通史の先駆けともいえる壮大な物語記録』とあり、文化一二(一八一五)年に完成とある。『野崎雅明の祖父伝助は富山藩に御前物書役として仕え「喚起泉達録」を著した。その志を継いで業をなしたことから「肯搆」と名付けた。雅明は学問熱心であり』、享和二(一八〇二)年から『藩校広徳館の学正を勤めた』。全十五巻で、初めの十二巻分は『古代神話から書き起こし前田氏の治世に至り、終わりの』三巻に『紀行・地誌・年表を加える』とある。

「蘇夫嶽」現在の富山県南部、富山市八尾にある祖父岳の別称。

「蘆茅」「あしかや」(全集版ルビに拠る)。]

 更に不思議なのは、江州比叡山にも一眼一足と云ふ化物久しく住み、常は西谷と東谷の間に於て人は之に行き逢ふが、何の害をもせぬ故に知つて居る物は之を怖れないと云ふ話がある。萬世百物語には此事を載せて、更に或法師が一夜月光の隈無き時、圖らず此物を見たと云ふ話を錄し、さうして「前の山を足早に驅け降るを見れば云々」と言つて居る。足早に驅け降るなどゝ云ふことは、足が二本以上ある者にして始めて望み得べきことである。

[やぶちゃん注:「萬世百物語」「ばんせいひやく(ひゃく)ものがたり」と読む。寛延四・宝暦元(一七五一)年刊の東都隠士烏有庵(とうといんしうゆうあん(仮訓))なる人物(事蹟不詳)が百物語をした際の記録という、百物語にありがちな体裁の怪奇小説集。]

 話が岐路に入るが、序に言うて置く。右の叡山の一眼一足に就ては斯う書いてある。曰く「十五六、にも見ゆる喝食(かつしき)の、顏はめでたけれども目一つなるが、厠の口に近寄りてそと彳む。こは如何にと見れば足も又一なり云々」。喝食とはまだ知つて居る人も多からうが、大寺の僧に隨從して給仕慰籍を一つの任務とした一種の宗教的少年である。大入道には事を缺かぬ比叡山に在つて、特に一目をこの種の子供だと言傳へたのは、是も上方一帶に亙つての俗信と關聯する所があるのかも知れぬ。自分としても此化物が老婆だ老翁だと聞いては一寸合點が行かぬ氣がする。但し目が一つであるのに「顏はめでたけれども」は、如何に興味を主とする物語でもあんまりだと思ふ。

[やぶちゃん注:「喝食」「かつじき」の音変化だが「かっしき」の方が一般的。ここはウィキの「喝食」を引くのがよい。『正式には喝食行者(かつじきあんじゃ/かっしきあんじゃ)と呼ばれ、本来は禅寺で斎食を行う際に衆僧に食事の順序などを大声で唱える者。本来は年齢とは無関係である』。『禅宗とともに中国から日本に伝わったが、日本に以前からあった稚児の慣習が取り込まれて、幼少で禅寺に入り、まだ剃髪をせず額面の前髪を左右の肩前に垂らし、袴を着用した小童が務めるものとされた。室町時代には本来の職掌から離れて稚児の別称となり、中には禅僧や公家・武家の衆道の相手を務めるようになった』とある(下線やぶちゃん)。ここで意味深長に柳田が言っているのも暗にそれをベースに物謂いしているらしいことはお判り戴けるものと思う。以前にも別な所で書いたが、日本の民俗学の二大巨頭柳田國男と折口信夫との間にはどこかで性的な解釈や発言を民俗学上でなるべく露わに書くことを控えようという密約があったものと私は信じて疑わない。それに美事、敢然と嚙みついたのが南方熊楠であったのである。

「彳む」「たたずむ」。]

 それよりも猶一層始末の惡いのは足の方である。苟くも深山に出沒しようと云ふ妖恠が肝腎の足が只一本ではどう成るものか。是が文字通りの變化の物であつて、何なりとも入用な形に身を變へて出る先生であつたとすれは、物嗜好(ものずき)にもそんな不自由な支度をして來る筈が無い。然るに此妖恠ばかりは久しい間、善く民間の言傳へた通りを遵守して居たのである。其には何か相當の理由があつたことゝ考へる。其理由の見付からぬ限りは、折角今の時世に流行らぬ化物の話をしようと云ふ人も、やはり鍔目が合はぬと嘲られるのは厭だから、つい足の所は略してしまふやうなことになる。

[やぶちゃん注:柳田先生、現今、一目も片足も甚だしい差別表現とされて、最早、自由に考察することも困難になっているなどとは、これ、想像だにされておられなかったでしょうね。

「鍔目が合はぬ」刀を鞘に戻した際、その鍔が鞘の鯉口とぴったり合わない、話がかみ合わぬ、の謂いであろう。]

 自分の判斷はいつも無造作であるが、是ほど無理な一本足の話が、彼地でも此地でも語り傳へられて居ると云ふ事實は、既にそれ自身に於てよくよく深い因緣の存することを暗示すると思ふ。土佐では一眼一足を山鬼また山爺などゝ謂ふ外に、又片足神と稱する神樣が處々に祀られてあつた。例へば安藝郡室戸元村船戸の片足神などは、巖窟の中に社があつて、此神は片足なりと信じ、半金剛の片足を寄進するのが古來の風であると南路志に見えて居る。東日本の田舍でも、神に捧げる沓草履がたゞ片一方だけである場合は多い。何故と云ふことは知らぬやうになつたが、或は同じ意味に基づいて居るのかも分らぬ。長山源雄君の話に依れば、南伊豫の吉田地方では正月の十六日には必ず直徑一尺五六寸もある足半草履(あしなかざうり)を只片方だけ造り、此に祈禱札を添へて村はづれ、又は古來妖恠の出ると云ふ場所に置いて來る。わが村には此草履を履く位の人が居るから、何が來てもだめだと云ふ事を示す趣旨であると云ふ。

[やぶちゃん注:「安藝郡室戸元村船戸」現在の、高知県室戸(むろと)市佐喜浜町内。「ふなと」か?

「半金剛」不詳。「はんこうがう(はんこんごう)」で一部を金属で作った義足のことか?

「南路志」文化一二(一八一五)年に高知城下朝倉町に住む武藤到和・平道父子が中心となって編纂した実に百二十巻にも及ぶ高知地誌の大叢書。「高知大学」公式サイトの「総合情報センター 図書館」のに拠った。

「長山源雄」(もとお 明治一九(一八八六)年~昭和二六(一九五一年)。愛媛の郷土史研究家。「愛媛県立宇和島東高等学校近畿同窓会」公式サイト内のによれば、北宇和郡吉田町本町生まれで、東京錦城中学校卒業後、松山第二十二連隊で軍曹に進んだ後、『自らの出身地域南予の古代史に関心を示し、ことに考古学方面で県内の貝塚はじめ、弥生・古墳・歴史時代にわたりよく渉猟』し、大正五(一九一六)年に『「南伊予の古墳」を中央の「人類学雑誌」に寄稿した。その後も「南予にて発見の銅鉾」「松山市及付近出土の弥生式土器」「南伊予における石器と土器」「伊予国越智郡乃萬村阿方貝塚」などを同誌に寄せ、「古代伊予の青銅文化」「伊予出土の漢式鏡の研究」「伊予出土の古瓦と当時の文化」などの研究を「伊予史談」に連載して考古学界に広く貢献した』。『さらに文献学的にも深く研究し、橘氏・日振島・宇和郡棟札などから歴史地理的条理制・荘園分布・守護職・郡司の再確認にまでも及んだ。古代・中世のみならず,「伊予に於ける小早川隆景」その他』六十余篇を発表、『またこれらの総括ともいえる『伊予古代文化の研究』の稿本が、県図書館にあったが逸失して見られず、僅かに部分的な『伊予古代文化』、吉田町刊の『南予史概説』などの謄写本に、その片鱗と氏の適確な研究態度を窺うことができる』。『晩年は、大分県に入植した。直入郡柏原村寓居で、同地方関係の考古論文を「考古学雑誌」に寄稿した』とある。

「南伊豫の吉田地方」現在の愛媛県南西部、宇和島市内北部。宇和海に突き出した半島と付け根の部分に相当する。

「一尺五六寸」四十五・四五~四十八・四八センチメートル。以下の注も参照されたいが、これを履くというのは巨大な足の持ち主であることが判る。

「足半草履(あしなかざうり)」踵のない短い草履の一種。足の前半分だけの草履で、私は初めて知ったが、個人サイト「中世歩兵研究所」の足半についてを見ると、一見、特殊に見えるものの、『見た目以上に便利な履物で、今ではその名前すら忘れ去られつつある足半であるが、中世の武家にはポピュラーな履物であったし、半世紀前くらいの農村では、立派な現役の履物で』、『現在でも鵜師の足下に見る事が出来る』とあり、『水の抵抗が少なく、川の流れに足を取られる事がない。さらには鼻緒に芯縄を使うので、草履の様に鼻緒が切れる事が無く丈夫である』ものの、独特な歩行法を採る『故に、長距離の歩行には向かなかった』とある。リンク先には実物のカラー画像がある。必見!]

 さうして見れば一つ足で能く奔ると云ふ不思議も、我々の祖先にはそれだから神だ、それだから妖恠だと云ふやうに、寧ろ畏敬を加へる種となつて居たのかも知れぬ。奇恠千萬などゝ云ふ語が、詰責の時に用ゐられるやうでは、最早世の中も化物の天下では無い。

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