柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十六)
十六
神社によつては必ずしも丸一ケ年と云ふやうな永い期間で無かつたかも知れぬが、大祭が春か秋か、兎に角年に一度であつて、色々の六つかしい儀式は其物忌の間に擧行するのが例であつた故に、生牲の魚の進獻と放養も、やはり一年前にするものが多かつたことゝ自分は思ふ。少なくとも八幡宮に於て此式を放生會などゝ誤り傳へるに至つた原因は、其日が前の年の同じ日であつたこと、かの近江の磯崎大明神などの通りであつたからに相異ない。又放養の期間が此の如く永かつた爲に、片目の魚が住んで居ると云ふ噂ばかりが、獨立して人に記憶せられる結果にもなつたのであらう。
其ならばどう云ふ理由で捕りたての新しい魚類を即時に調理して差上げなかつたかと云ふと、是は後々の説明では「今まで何を食つて居たか分からぬから」と言うたであらうと思ふ。我々の勝手元でも、鰌や貝類などは一晩泥を吐かせるがいゝと言ふが、人間とは比べ物にならぬ程淸淨潔白なる神樣の御體の一部に成るべき品であれば、其だけの用意の有るは當然である。併し自分の見る所では、右の如き思想も亦一朝にして起つたもので無く、更に一段と悠遠なる所に由來を有つて居るやうである。
前に擧げた片目の鮒を請けて歸つて瘧のまじなひにしたと云ふ話でも稍察せられるが、或地方では生牲に指定せられた魚を以て、單純なる御食料とのみは見ず、これを神の從屬者乃至は代表者の如く考へて崇敬して居た形跡がある。是などは到底鮒のやうな微々たる動物に付いて、新たに言ひ始めたもので無いことは明かである。即ち生牲は一方に神の御心を取るべき禮物であつたと同時に、地方氏子等に向つては、量り難い靈界の消息を通信する機關でもあつた故に、少しでも永い期間之をかこうて置く必要があつたことと思ふ。
各府縣の府縣社郷社の古傳を集めた明治神社誌料と云ふ書に、次の如き話が載つて居る。日向國兒湯(こゆ)郡下穗北村大字妻の縣社都萬(つま)神社に於ては、宮の御手洗の花玉川の流れに今も片目の魚を生じ、或は片目の魚を以て神の御眷屬と稱へて居る。それは大昔祭神の木花開耶姫尊が、此川に出て御遊びなされた時、神の御裝ひの玉の紐が水中に落ちて鮒の目を貫いた。片目の魚の居るのは其爲で、又此地に於ては玉紐落の三字を書いて布那(ふな)と訓ませて居る云々。即ち幽かながらも此口碑から窺はれるのは、魚の目一つは神業であつたことゝ、目を傷けたが爲に神靈界に入ることを得たことゝである。
[やぶちゃん注:「明治神社誌料」「府県郷社明治神社誌料」の略称。明治四五・大正元(一九一二)年明治神社誌料編纂所編・刊。全三巻。詳細はウィキの「府県郷社明治神社誌料」に詳しい。
「日向國兒湯(こゆ)郡下穗北村大字妻」現在の宮崎県のほぼ中央に位置する西都(さいと)市大字妻(つま)。児湯郡は現存するが、既に同郡域からは離脱して西都市に編入されているので注意。
「都萬(つま)神社」同所に現存する都萬神社(都万神社)。ウィキの「都萬神社」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『「都万」の社名について、「妻万」とする説が古くからある。またその場合、読みを「つま」のほか「さいまん」とする説がある。現在も地元では、「おせんさま」という「さいまん」の転訛による呼称が残っている』。祭神は本文通り、木花開耶姫命
(このはなさくやひめのみこと:後注参照)で、『社名の「都万」は「妻」のことであり、祭神の木花開耶姫命が瓊々杵尊』(ににぎのみこと:天孫降臨の際の降臨神)『の妻であることによるという』。但し、『一説として、祭神は柧津比売命』『という説もある』。『創建の年代は不詳。当社周辺には、木花開耶姫命と瓊々杵尊が新婚生活を送ったという伝承地が残っている。当社近くには全国屈指の大古墳群である西都原古墳群があるほか、屯倉設置の推定地や日向国府跡もあり、日向の中心地であったことがうかがわれる』。『なお本居宣長以来古くから、当地の地名「妻(つま)」を『魏志倭人伝』に見える「投馬国」に比定する説がある(確証はされていない)』。『国史の初見は、『続日本後紀』の承和四年(八三七年)八月一日条の「日向国子湯郡子都濃神。妻神。宮埼郡江田神。諸県郡霧島岑神。並預官社(都農神社・都萬神社・江田神社・霧島神社を官社に預かる)」という記事である。その後、神階は天安二年(八五八年)に従四位下まで昇進』した。「延喜式」中の「神名帳」では『日向国児湯郡に「都万神社」と記載され、式内社に列している。日向国府は当社近くに設けられており、また「五社明神」という別称から日向国の有力社を合祀していたと見られることから、当社は日向国の総社の機能を担ったとする説がある。また、都農神社』(つのじんじゃ:宮崎県児湯郡都農町にある)『に次ぐ二宮として崇敬されたとする説もある』と記す。
「花玉川」現在、同神社の東側を流れる桜川「同名の母子再会の謡曲「桜川」の舞台)に流入するまでの同神社境内の御手洗(みたらし)の池からの瀬流れの名称かと思われる。「居酒屋なんじゃろか」のサイト内の「都萬神社」の『「片目の鮒」の伝承池』の条に、この池については「日本の伝説」によると、と前置きの上、『日向の都万神社のお池、花玉川の流れには、片目の鮒がいる。大昔、木花開耶姫がこの御池の岸に遊んでおいでのとき、姫の玉の紐が水に落ちて、池のフナの目を貫いた。それから後、片目の鮒がいるようになった。玉紐落(たまひもおつ)と書いて、この社ではそれを鮒と読み、鮒を神様の親類というようになった』とある(下線やぶちゃん)。
「木花開耶姫尊」(このはなさくやひめ)は「このはなのさくやびめ」とも読み、一般には「木花咲耶姫」と記されるが、「古事記」には「木花之佐久夜毘売」、「日本書紀」では「木花開耶姫」の表記で出る。通常は富士山を神体山とする富士山本宮(ほんぐう)浅間(せんげん)大社(静岡県富士宮市)及びその配下の日本国内約千三百社に及ぶ浅間神社に祀られている富士の守護神とされる女神である。大山祇神(おおやまつみ)の娘で天照大神の孫瓊瓊杵尊の妻とされる。以下、参照したウィキの「コノハナノサクヤビメ」によれば、同女神は『木の花(桜の花とされる)が咲くように美しい女性の意味とするのが通説である。ただし類名に、コノハナチルヒメがあり、サクヤビメの「ヤ」を反語の助詞ととると意味に違いが生じる』。『古事記における本名である神阿多都比売(カムアタツヒメ)の「阿多」は、薩摩国阿多郡阿多郷(現在の鹿児島県南さつま市金峰地区周辺)のことであるとされている』。『なお、コノハナノサクヤビメを祭神とする富士山本宮浅間大社には、竹取物語とよく似た話がその縁起として伝わっている』。『神話では、日向に降臨した天照大神の孫・ニニギノミコトと、笠沙の岬(宮崎県・鹿児島県内に伝説地)で出逢い求婚される。父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出したが、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを送り返し、美しいコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。オオヤマツミはこれを怒り』、『「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギノミコト)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と告げた。それでその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである』(人の寿命限界の神話的解説)。『コノハナノサクヤビメは一夜で身篭るが、ニニギは国津神の子ではないかと疑った。疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中でホデリ(もしくはホアカリ)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦、山稜は宮崎市村角町の高屋神社)の三柱の子を産んだ(火中出産を参照)。ホオリの孫が初代天皇の神武天皇である』とある。
「玉紐落の三字を書いて布那(ふな)と訓ませて居る」この「布那」という発音には魚の鮒とは全く無関係なある種の呪力があるのではないかと私は考える。何故なら、あを氏のサイト「古事記を学ぶ」の「禊ぎ/投げ棄てた物に成る神々(2)」に、伊弉諾命の黄泉の国からの呪的逃走のシークエンスで、「日本書紀」第一書(第六)の「ことど渡し」に、『因りて曰く、「此こよりな過ぎそ」とのたまひて、即ち其の杖を投げたまふ。是れを岐神(ふなとのかみ)と謂(まお)す』とあるが、この「岐神」の訓注には、『岐神、此れを云く、「布那斗能加微(ふなとのかみ)」と』(訓読は私の恣意)とあるからで、この話はもしかすると片目の聖痕の鮒とはやや別系統の呪的な「ふな」の流れがあるのではなかろうか? 同リンク先ではこれを「経勿所(ふなと)」と字解、これは「通ってはいけない場所」という禁止の意味に解釈出来、まさに禁忌の片目の魚と一致するとも言えるのである。]
同じ書には又斯んな話もある。加賀國河北郡高松村大字横山字龜山の縣社賀茂神社は、大同二年に現在の社地に遷座せられたと言つて居るが、其理由は至つて不思議な話である。或日此社の御神鮒に身を現じて御手洗川に遊びたまふ時、遽に風吹き立つて汀の桃水中に落ち、其鮒の目に中つた處が、忽ちにして四面暗黑となり人みな之を恠んで居ると、其夜靈夢の御告があつて、終に社を今の場處に移すことゝなつた云々。是だけでは何だか桃が落ちて御怪我をなされたのに御憤りあつて、前の社地を引き拂へと仰せられたやうにも解せられるが、それは大根に躓いて御轉びなされたと云ふ話と共に、桃の木を忌む風習の説明を誤つた結果であつて、要領は却つて片目の生牲を介して、神意を知り得たと云ふ點にあるのであらう。神が御身を鮒に託せられたと云ふ點は、日向の話よりも更に一段進んで居る。
[やぶちゃん注:「加賀國河北郡高松村大字横山字龜山」現在の石川県かほく市横山。
「賀茂神社」祭神は加茂別雷神・貴布禰神・天照大神。「石川県神社庁」公式サイト内の「賀茂神社」によれば、『当社の史書に見ゆるは、敏達天皇』二年の条に圭田五十七束奉り『云々と見えたるを始めとし』、[やぶちゃん注:中略。]ここに記すように大同二(八〇七)年に神託を蒙って『現今の地に遷座、平城天皇の祈願所として』六千二百歩(ぶ)余を『寄せ給い、醍醐天皇の』延喜五(九〇五)年には三百六十町歩の『田地を賜り、十二坊三神主を附置かれたという。延喜の制、国幣の小社に列した名社』でその後も『藩主前田利家公、羽柴秀吉の命を受け、山城国下加茂社に当庄十ヶ村を寄進』後に兵火を受けたが、江戸時代になって万治元(一六五八)年に『本殿拝殿等を再建』したとある。
「汀」「みぎは(みぎわ)」。]
入らぬ講釋かも知らぬが、右の二件の傳説に、神が遊びに出られたと云ふのは祭典のことである。祭の日祭場へ御降りなさるのが即ち神遊びであつて、人間のやうに暇があるから遊びに御出でなさると云ふことは、神樣には無いことである。鮒の目の傷の偶然でなかつたことは是からでもわかる。
[やぶちゃん注:「入らぬ講釋」はママ。「要らぬ講釋」が普通であろう(全集は『いらぬ』と平仮名書き)。]
« 飯田蛇笏 山響集 昭和十四(一九三九)年 長良と紀の海 | トップページ | 柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十七) »