日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (32) 鍋島公の正餐に招待さる【不審記事】
鍋島侯爵が私を正餐に招いてくれた。恰もサミュエル・ブライト夫人が我々を訪れていたので、彼女もまたモース夫人と一緒に招れた。食卓には二十人以上の人がいたが、ブライト夫人は、そこに列る紳士達の宗教を知り度いといい出した。これはいささか困った質問だったのである。私は前もって彼女に教養ある日本人は、彼等がかつては持っていたであろう、仏教なり神道なりの信仰から、既に進歩して脱出して了っていることを、説明しておいたのである。この質問は鍋島侯爵によって巧に提出されたが、一人のこらず、ニコニコ笑いながら、宗教的の信仰から自由になっていることを自白した。
[やぶちゃん注:「鍋島侯爵」鍋島直大(なおひろ 弘化三(一八四六)年~大正一〇(一九二一)年)。肥前国佐賀藩最後の第十一代藩主。ウィキの「鍋島直大」によれば、第十代藩主鍋島斉正(直正)の長男で初名は直繩(なおただ)で明治維新以前(藩主在任中)は将軍徳川家茂の偏諱を冠し茂実(もちざね)と名乗っていた。維新後は新政府に出仕し、『軍制改革と海軍創設の急務を説き、議定職外国事務局輔、横浜裁判所副総督、外国官副知事等、江戸開市取扱総督等を歴任した。父の代にオランダから佐賀藩が購入し明治政府が徴発していた軍艦電流丸で』、明治元(一八六八)年には『大阪の天保山沖で日本初の「観艦式」に旗艦として臨ん』でおり、また明治二年に『議政官が行政官に統合された折、それまで』三十一名いた『議定の公選により、筆頭輔相に三条実美、続く定員』四名の『議定に岩倉具視、徳大寺実則とならび大名家から唯一、直大が選出された。また戊辰戦争の功績で賞典禄』二万石を『賞与された。直大は亡くなった藩士を奉じて佐賀縣護國神社を建てた』。明治四(一八七一)年の『廃藩置県によりに佐賀知藩事となったがこれを辞して岩倉使節団としてアメリカに留学、また』明治六(一八七三)年には二人の弟直虎・直柔とともにイギリスに留学している(この間に起きた江藤新平らが起こした佐賀の乱は父直正が鎮定した)。明治一一(一八七八年)年の帰国後は、翌年に外務省御用掛となり、明治一二(一八七九)年には『渡辺洪基、榎本武揚らと東京地学協会設立、徳大寺実則、寺島宗則らと共同競馬会社設立などに動き』、明治一三(一八八〇)年、『駐イタリア王国特命全権公使となる。次女伊都子はこのとき産まれた子で名前はイタリアにちなんでいる』。明治一五(一八八二)年に帰国、『元老院議官、宮中顧問官等を歴任。明治天皇・大正天皇の信頼も厚かった』。翌明治十六年には『鹿鳴館や上野不忍池の競馬場の運営に与し、鉄道建設、音楽推進など数少ない洋行帰りの名士として井上馨とともに近代化政策を牽引した』。このシーンの翌明治十七年に侯爵に列し、明治二三(一八九〇)年には貴族院議員となっている(従って、ここでモースが「侯爵」と言っているのは正しくない。但し、原文は“Prince”で、これは「公爵」以外に、所謂、普通に旧藩主などの敬称としての「公」と考えれば、彼の事蹟として全くおかしくないことになる。従って寧ろここは「鍋島侯爵」ではなく、「鍋島公」と訳すべきところだったのではあるまいか?)。明治四四(一九一一)年には皇典講究所第四代所長となり、國學院大學学長に就任している。
「サミュエル・ブライト夫人」原文“Mrs. Samuel Bright”。ネットで種々検索をかけて見たが全く不詳である。宴席であろうことか、ホスト以下の男性諸氏の全部の信仰を平然と問うという、とんでもないことをして、それを当然の問いとしていられるところがヒントであろう(実際、モースが内心では焦っている感じが表現から伝わってくる)。キリスト教布教或いはキリスト教関連団体の関係者か? 識者の御教授を乞う。
「モース夫人」原文は確かに“Mrs. Morse”とあるのであるが、これは甚だ不審。この三回目の来日時、モースは単身で夫人は同伴していないからである。こうはっきりと記しているところを見ると、これはもしや、二回目の来日中の記憶を誤ってここに記してしまったものか? 同行している「サミュエル・ブライト夫人」も不祥なためによく分からない。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」にも鍋島直大もサミュエル・ブライトも登場しない。やはり識者の御教授を乞うものである。]
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