生物學講話 丘淺次郎 第十八章 教育(4) 五 命の貴さ / 第十八章 教育~了
五 命の貴さ
以上述べ來つた通り、人間は種族維持のために最も有力の武器である知識を競うて進めねばならず、その結果として、他の動物には到底その比を見ぬ程の長年月を教育に費すが、かくしては各個體が團體競爭に與る一員として完成する時期が非常に後れる。無數の子を産むものは、そのまゝ捨て置いて少しも世話をせず、一生懸命に子の世話をするやうなものは子の産み方が頗る少いことは、全動物界に通ずる規則であるが、人間の如くに子の教育に手間のかかる動物では勢ひ子の數らは最も少からざるを得ない。現に人間の子を産む割合は女一人につき平均四人か四人半により當らぬが、この位少く子を産む種類は決して他にはない。そしてこの少數の子を一人一人戰鬪員として役に立つまでに育て上げるために、親もしくは親の代理者が費す時間と勞力とは、他の動物が子を教育する手間に比べて何層倍に當るかわからぬ程である。
[やぶちゃん注:「與る」老婆心乍ら、「あづかる(あずかる)」と訓ずる。
「人間の子を産む割合は女一人につき平均四人か四人半により當らぬ」一人の女性が一生に産む子供の平均数は「合計特殊出生率」と呼ぶ。ウィキの「合計特殊出生率」によれば、日本の戦後のそれは昭和二二(一九四七)年で四・五四であり、丘先生の数値に近い。戦前の合計特殊出生率を検索してみたところ、不破雷蔵氏のブログ(サイト)「ガベージニュース」の「日本の出生率と出生数をグラフ化してみる(2015年)(最新)」に『戦前のデータはほとんどつぎはぎだらけ』とされており、『確定値の限りでは』と断りを入れて、
大正一四(一九二五)年で五・一一
昭和五(一九三〇)年で四・七二
の『値が確認できる。戦前最後の』
昭和一五(一九四〇)年は四・一二
とある。本書は、
大正五(一九一六)年刊
である。因みに、
二〇一四年の日本は一・四二
にまで下がっている。因みに国際連合の公式データでは、現在、世界で合計特殊出生率が四~四・五を示す国は、降順で
モーリタニア(四・五二)から
コンゴ共和国・ガーナ・トーゴ・スーダン・グアテマラ・イラク・パプアニューギニア・トンガ・パキスタン・バヌアツ・
コモロ(四・〇〇)で
、世界保健機関(WHO)によれば
世界平均は二・四
である。]
さて戀愛に始まり教育に終る生殖事業の目的は、いふまでもなく自己の種族の維持繼續にあるが、この點から見ると、個體の命の價値は生殖法の異なるに隨つて、非常に相違があるやうに思はれる。各個體の命は、それを有する個體自身から見れば無論何よりも大切なもので、自身一個を標準として考へれば、命を失ふことは、全宇宙の滅亡したのと同じことに當るが、種族の生命を標準として考へると、個體の命なるものは全くその意味が變つて來る。まづ無數の子を産み放して、少しも世話をせぬやうな種類に就いて論ずるに、およそ種族維持のためには一對の親から産まれた子の中から、平均二疋だけが生き殘れば宜しく、また實際その位より生き殘らぬから、生まれた子が五十疋や百疋踏み漬されても食ひ殺されても、種族としては少しも痛痒を感ぜぬ。しかも後から後からと盛に子を産むから、かやうな動物の命は恰も掘拔き井戸の水のやうなもので、絶えず盛に溢れて無駄になつて居る。この場合には個體の命の價は殆ど零に均しい。かやうな蟲を殺すことを躊躇するのは、恰も掘拔き井戸の水を柄杓で酌むことを遠慮して居るやうなものである。
[水が涸れて死ぬ魚]
[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]
これに反して、稍々數の子を産む種類では、それが更に減じては親の跡を繼ぐだけの子が生き殘り得るや否や頗る疑はしくなるから、種族維持の上からいふと、一疋でも甚だ大切である。それから實際かやうな動物では親が何らかの方法で子を保護し、また進んでは養育もする。そして夫婦で五十疋の子を産む種類ならば、その中四十八疋死んでも宜しいが、十疋より産まぬ種類では、その中八疋以上死なれては後繼者がなくなるから、種族維持の上からは前者に比して後者の方が數倍も一個體の命が貴い。そして貴いだけに實際かやうな種類では、必ず親が一生懸命になつて長くこれを保護し養育して居る。およそ物の價は何でも需要が多くて供給の少いものが高く、また製産に費用の多く掛つたものが高いのが當然で、命の價もこの規則に隨つて高いのと安いのとがあり、概していふと個體の命の貴さは、個體を完成するまでに要する保護・教育の量に比例する。他の動物とは飛び離れて多くの教育を要する人間仲間で、個人の命が他の動物とは比較にならぬ高い程度に貴ばれるのは、やはりこの理窟によることであらう。無數に子を産む動物では、全局を通算して種族維持の見込みが附けば宜しいのであつて、各個體の一々の生死の如きは殆ど問題にならぬが、人間などはその正反對で、實際些細な事柄でも、事苟も人命に關すると切り出されると、止むを得ずこれを重大事件と見倣さねばならぬこともある。かくの如く人間は常に命を非常に貴いものとして取扱ふ癖が附いて居るから、これより類推して、他の生物の命もすべて貴いものの如くに思ひ、蟲一疋の命を助けることをも非常に善いことの如くに譽め立てるが實際を調べて見ると、こゝに述べた通り、種類によつては命の價の殆ど零に近いものが幾らもある。自然界には命の消費せられることが隨分盛で、命を貴いものと考へる人から見れば、如何にも勿體なくてたまらぬやうに感ぜられることが常に行はれて居る。大陸の河が旱魃のために涸れたときには、最後まで水のある處に魚が悉く集まり來り、そこまでが涸れゝば、何萬何億といふ魚が皆一時に死んでしまふ。風が少しく強く吹けば、海岸一面に種種の動物が數限りもなく打ち上げられて居るのを見るが、何十粁も沿岸の續く處ではどの位の命が捨てられるか想像も出來ぬ。しかしこれらの損失はときどきあるべきこととして、各種族の豫算には前以て組み込んであり、生殖によつて直に埋め合す豫定になつて居るから、初から別に惜まれるべき命ではない。無益の殺生は決して譽むべきことではないが、印度の宗教の如くに生物の命を一切取らぬことを善の一部と見倣して、蚊でも蚤でも殺すことを躊躇するのは、生物の命をすべて貴いものの如くに誤解した結果で、實は何にもならぬ遠慮である。
[やぶちゃん注:「貴さ」私はあくまで総て「たふとさ(とうとさ)」と訓ずる。学術文庫版なでは「尊さ」に書き換えられて「たっとさ」(歴史的仮名遣「たつとさ」)のルビが振られてあるのだが――「尊さ」は「たっとさ」であり、「貴さ」は「とうとさ」である――と私は小学生以来、教え込まれて来たし、「尊(たっと)い」という語には超自然的非人間的な(ある意味では「厭な」)響きがあると私は信じている人間である。人間の持つ暖かな精神的な高「貴」とは「貴(とうと)さ」であると私は思うし、それを誰かが馬鹿にしても、その人物を私は逆に馬鹿にするだけのこと、だからである。
「全局」全局面。全生活史に於けるそれぞれのステージ総て。
「印度の宗教の如くに生物の命を一切取らぬことを善の一部と見倣して、蚊でも蚤でも殺すことを躊躇するの」ヒンドゥー教の不殺生は仏教のそれと基本、変わらないので特異的な例としてはちょっと弱い気がする(ヒンドゥー教徒は菜食主義者が多いことは事実であるが、それでもでも牛以外の肉食を可とする信者もおり、下級カーストに屠殺業を配している)。寧ろ、もっと厳格なアヒンサー(サンスクリット語の「暴力(ヒンサー)の忌避」の意)を強く求める、ヒンドゥー教・仏教と同じく古代インド起源であるジャイナ教を指しているように思われる。ウィキの「アヒンサー」によれば、『ジャイナ教におけるアヒンサーは如何なる肉食を避けるだけでなく、植物の殺生に通じる芋などの球根類の摂取が禁じられている。さらに小さな昆虫や他の非常に小さな動物さえ傷つけないようしようと道からそれるなど、毎日の生活で極力動植物を害さないようにと少なからぬ努力を行う。この方針に従い、農業それ自体と同様に、その栽培が小さな昆虫や虫を害することになる作物を食べることが慎まれている』とあるくらいである。]
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