日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (34) 日本人の不思議と好古家たちの不思議
鑑定家の蜷川氏(彼のことはすでにこの著述のどこかで述べた。彼は一八八二年に死んだ。)は、ちょいちょい私を訪問した。別の鑑定家古筆氏も、時時やって来た。私が住んでいる小さな家の前面の方は、直接私が書斎、仕事部屋、寝室に使用している部屋にひらく。冬、この人々はやって来ると戸を叩き、私はすぐにそれを彼等のためにひらく。彼等は帽子を脱いで階段に置き、頸にまいた毛布を取って畳んで帽子の上にのせる迄は、決して、私がそこにいることに気がついた様子をしない。そこで初めて、二、三度丁寧にお辞儀をし、私がそれを返すに至って、彼等は家に入って来る。この二人は一度も一緒にやって来なかった。二人の間が面白くないかどうか私は知らぬ。私が日本で会った各種の鑑定家が、お互同志の仕事について、何も知らぬらしいのには驚かされた。蜷川は石版刷の美事な挿絵のある、日本の陶器に関する面白い本を出版したのであるが、而も私が今迄にあった陶器の鑑定家は、その存在をまるで知らぬらしかった。
[やぶちゃん注:「蜷川氏(彼のことはすでにこの著述のどこかで述べた。彼は一八八二年に死んだ。)」蜷川式胤はモースの関西行の最中であった前年の明治一五(一八八二)年八月二十一日にコレラ(モース談)によって亡くなっている。その死から三ヶ月後の行われた葬儀をモースは「第二十五章 東京に関する覚書(16) 蜷川式胤の葬儀――谷中にて」で克明に記している。
「古筆」既出の好古家古筆仲。
「私が住んでいる小さな家」既注であるが、東大が今回来日したモースのために無償で提供した、本郷加賀屋敷内の天象台附属官舎のこと(現在の東大工学部七号館附近)。
「蜷川は石版刷の美事な挿絵のある、日本の陶器に関する面白い本」明治九(一八七六)年からこの明治一一(一八七八)年にかけて刊行された蜷川式胤著述になる「観古図説」。ウィキの「蜷川式胤」によれば、内務省博物館掛退職前の明治(一八七六)年一月、『屋敷の一部を出版所『楽古舎』に改め、川端玉章、高橋由一らを雇い、『観古図説陶器之部』を刊行したとある(後に第六冊・第七冊も刊行している)。これはモースの言うように、『石版刷りに彩色を施した画集である。京都玄々堂の松田敦朝が刷った』もので、『仏文あるいは英文の解説も付けられ、殆どが輸出され、海外コレクターの指標になった』とある。この五冊、モノクロームではあるが、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーのここでその総て見ることが出来る。「第十五章 日本の一と冬 蜷川式胤との出逢い 附 目利きの達人モースの語(こと)」も参照されたい。]
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