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2016/03/31

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 赤翅蜂

Akabati

あかはち

赤翅蜂

チッ ツウ フヲン

 

本綱赤翅蜂狀如土蜂翅赤頭黒大如螃蟹穿土爲窠食

蜘蛛蜘蛛遙知蜂來皆狼狽藏隱蜂以預知其處食之無

獨蜂 作窠於木其窠大如鵞卵皮厚蒼黃色只有一箇

 蜂人馬被螫立亡也

蜂 在褰鼻蛇穴内其毒倍常中人手胸即圮裂非方

藥可療惟禁術可制

[やぶちゃん字注:「」=「虫」+「各」。]

獨脚蜂 在嶺南似小蜂黒色一足連樹根不得去不能

 動揺

又有獨脚蟻是亦如此蓋嶺南有樹小兒樹蛺蝶及此蜂

蟻皆生於樹是亦氣化乃無情而生有情也

 

 

あかばち

赤翅蜂

チッ ツウ フヲン

 

「本綱」、赤翅蜂、狀、土蜂のごとく、翅、赤くして、頭、黒く、大いさ、螃蟹〔(かに)〕のごとく、土を穿ちて窠と爲し、蜘蛛を食ふ。蜘蛛、遙かに蜂の來ることを知りて、皆、狼狽(うろた)へて藏(かく)れ隱(かく)る。蜂、以預(あらかじ)め、其の處を知り、之〔(れを)〕食ひて、遺(のこ)すこと無し。

獨蜂 窠を木に作る。其の窠の大いさ、鵞卵のごとし。皮、厚く、蒼黃色にして、只だ、一箇の蜂、有り。人馬、螫されて立処に亡〔(し)〕す。

蜂〔(らくほう)〕 褰鼻蛇〔(けんびだ)〕の穴の内に在り。其の毒、常に倍す。人の手・胸に中〔(あた)〕れば、即ち、圮(やぶ)れ裂く。方藥の療すべきに非ず。惟だ禁術(まじな)ひて制すべし。

[やぶちゃん字注:「」=「虫」+「各」。]

獨脚(かたあし)蜂 嶺南に在り。小蜂に似て、黒色、一足。樹の根に連なりて、去ることを得ず、動揺すること、能はず。

又、獨脚(ひとつあし)の蟻、有り。是れも亦、此くのごとし。蓋し、嶺南に〔は〕樹小兒〔(じゆしやうに)〕・樹蛺蝶〔(じゆけふてふ)〕、有り、及び、此の蜂・蟻〔も〕皆、樹より生(しやう)ず。是れも亦、氣化なり。乃〔(すなは)〕ち、無情より有情を生ずるなり。

 

[やぶちゃん注:いろいろ探ってみると、この「赤翅蜂」とは、クモを襲うという限定的習性に着目するなら、

膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ギングチバチ科ギングチバチ亜科ジガバチモドキ属 Trypoxylon のジガバチモドキ類

と判定する。「モドキ」とあるぐらいで、実は細腰(ハチ)亜目アナバチ科ジガバチ亜科ジガバチ族 Ammophilini とは形状が酷似しながら、科のタクサで異なる全くの別種であるので注意されたい。調べた限りではジガバチモドキ類は総てがクモを狩るようである。但し、彼らの多くは、土中ではなく、竹や木の孔の中に営巣産卵(例の麻酔されたクモに産卵してそれを封入するタイプの寄生蜂である)するようである。翅ではないが、スリムな腹部上部が鮮やかな赤い色をしている但し、ウィキの「ジガバチによれば、アナバチ『科で似た生態だがジガバチ亜科でない』キゴシジガバチ亜科の『Sceliphron 属はクモを捕る』とはあるので、これも同定候補とはなる(但し、封入は土中と思われる)。

「螃蟹〔(かに)〕」は現代中国語でも広く甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目 Brachyura に属するカニ類を指す。

「褰鼻蛇〔(けんびだ)〕」東洋文庫版では『白花蛇。中国南方山中にいる』と割注するが、これは有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ上科クサリヘビ科マムシ亜科ヒャッポダ属ヒャッポダ Deinagkistrodon acutus のことである。「百歩蛇」でこれは、咬まれると百歩歩くうちに死ぬとされる伝説的な実在する毒蛇である(但し、後で引用するが、毒性そのものは強くはない)。ウィキの「ヒャッポダ」によれば、特に台湾で「百歩蛇」と呼ばれ、『日本名、英名もこれに準ずる。中国では』「白花蛇」「百花蛇」「五歩蛇」「七歩蛇」とも、また、その独特の頭部の形状から「尖吻蝮」(音なら「センフンフク」)とも呼ぶ。分布は『中国(南東部、海南島)、台湾、ベトナム』で全長は八〇~一二〇センチメートル、『ニホンマムシと同じく、全長に比して胴が太く体形は太短い。体色は濃褐色で、暗褐色の三角形に縁取られた明色の斑紋が入る。この斑紋は落ち葉の中では保護色になる。鱗には隆起(キール)が入る』。『頭部は三角形で吻端は尖り、上方に反り返っている。目は金色で細い縦長の瞳を持つ』。『毒自体の強さは高くないが、毒の量が多く』、咬まれた場合は危険である。『山地の森林に住み、特に水辺を好む。動きは緩怠』。『食性は動物食で、ネズミ、鳥類、カエル等を食べ』、『繁殖形態は卵生で』、一回で二十~三十個を産卵する。『数が少なく、蛇取りもなかなかお目に掛かることがないため、幻の蛇と呼ばれている』。

「獨蜂」前の章の「露蜂房」に既出。不詳。

蜂〔(らくほう)〕」不詳。強烈な毒性(或いはアナフラキシー・ショック。人の手や胸にちょっと刺さっただけでそこが爛れ破れて裂け、本草記載であり乍ら、処方箋もないと匙を投げ、あろうことか、呪(まじな)いしか手はない、とは何ちゅうこっちゃ! と義憤に駆られるのだが、これは実はまさに劇症型のアナフラキシー・ショックを連想させるようでもあるのである)からやはりオオスズメバチの類いであるか。

「其の毒、常に倍す」他の蜂に比すと、という意。強毒ヒャッポダの強毒共生することによる毒の強化という連想、所謂、「類感呪術」的な似非本草家が思いつきそうな――何だかな――ではある。しかし、よく想像してみると、ヒャッポダがとぐろを巻いている色とその形は、スズメバチ類が地面や木の洞(うろ)の中に作る円盤状の何層もの大きな巣を、どこか連想させる。これこそまさに「類感」なのではなかろうか? などと妄想してしまった。

「獨脚(かたあし)蜂」この名前は、現行では前にも出した膜翅(ハチ)目広腰(ハバチ)亜目キバチ上科キバチ科キバチ亜科 Siricinae のキバチ(木蜂)類を指す。キバチ類は腹端に角状の有意に長い突起を持つが、それを一本足と見立てたものだろうか?

「嶺南」現在の広東省・広西チワン族自治区の全域と湖南省及び江西省の一部に相当する地域の古称。

「黒色、一足。樹の根に連なりて、去ることを得ず、動揺すること、能はず」……真黒で一本足で木の根っこに連なっている……ように見えるというのは……これ、地面の中に根を張っているように見え……そこから直立して生えているように見えるということだろ?……しかもそれは蜂なんだよ……確かに蜂なんだよ!……だのに、羽根を広げてそこから飛び立つことも出来ず……微動だにしないんだよ!……どうも、これ……おかしいぞ?!……これは……特定の蜂に寄生する「冬虫夏草」じゃあ、あるまいか? おった!おった!ズバリ! 菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門フンタマカビ綱ボタンタケ亜綱ボタンタケ目オフィオコルディケプス科オフィオコルディケプス属ハチタケ Ophiocordyceps sphecocephala つぅがおるやないかい!(画像も発見したが、エグいのでパス)

「獨脚(ひとつあし)の蟻」特定のアリの「冬虫夏草」じゃねえか? 凄いのがいるぞ! アリに寄生してアリを操作して適切な場所に移動させて(!)発芽するちゅう Ophiocordyceps属のとんでもない奴が!(やはり画像も発見したが、エグいのでパス)

「樹小兒〔(じゆしやうに)〕」これもい小さな人の形に見える「冬虫夏草」か、或いは、最近、日本でも問題になった、触れただけで毒にやられる(!)ちゅう、子嚢菌門カノコカビ綱ニクザキン目ニクザキン科ニクザキン属カエンタケ Hypocrea cornu-damae なんてどうよ! 俺にはありゃ、赤い腹掛けした子どものようにも見えるで!(これも画像はワンサカあるが、色も形も結構、強烈なのでパス)

「樹蛺蝶〔(じゆけふてふ)〕」…………人の小躍りに水を注すものを見つけてしまった……この「蛺蝶」に東洋文庫版現代語訳は『あげはちょう』とルビするんだわ(悔しいから言わしてもらうとや! 「樹」は何やねん!)……鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科 Papilionidae のことだね……しかも……さらに調べてみるとだな……「蛺蝶」はこれで普通に「たてはちょう」、鱗翅目アゲハチョウ上科タテハチョウ科 Nymphalidae と読むことも知っちまったんだわ……でもなぁ、やっぱさ……「樹」が頭についとるやで! 動かんのやで! ぴくりともせえへんのやで! 「冬虫夏草」なら、総て丸く収まるんだけどなぁ……(ト、筆者、未だ納得出来ぬ風にて、下手へすごすごと退場)

「氣化」五行説や漢方医学で、ある物質を別の物質に変化させる気の働きを言う語。以下にように「無情より有情を生ずる」という驚くべき「化生(けしょう)」(仏教の謂い)のことらしい。]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 露蜂房

Hatinosu

はちのす  蜂腸 蜂

露蜂房   【與窠同】 百穿

       紫金沙

ロウ フヲン ハン

[やぶちゃん字注:「」=「果」*「力」。]

 

本綱露蜂房味甘鹹有毒有四件

黃蜂窠 乃山中大黃蜂窠也其房有重重如樓臺者其

 大者圍一二丈在樹上内窠小隔六百二十六箇大者

 至千二百四十個其褁粘木蒂是七姑木汁其蓋是牛

 糞沫其隔是葉蕊也

石蜂窠 在人家屋上大小如拳色蒼黒内有青色蜂二

 十一箇或只十四箇其蓋是石垢其粘處是七姑木汁

 其隔是竹蛀也【或云其隔葉蕋也】

獨蜂窠 大小如鵞卵大皮厚蒼黃色是小蜂幷蜂翅盛

 裏只有一箇蜂大如小石燕子許人馬被螫着立亡也

 俗名七里蜂者是矣

草蜂窠 尋常所見蜂也入藥以草蜂窠爲勝

主治蟲牙痛喉痺及舌上出血吐血衂血或二便不通者

 

 

はちのす  蜂腸〔(ほうちやう)〕 蜂〔(ほうくわ)〕

露蜂房   【は窠〔(くわ)〕と同じ。】 百穿〔(ひやくせん)〕

       紫金沙

ロウ フヲン ハン

[やぶちゃん字注:「」=「果」*「力」。]

 

「本綱」露蜂房、味、甘く鹹。毒、有り。四件、有り。

黃蜂窠 乃ち、山中の大黃蜂の窠なり。其の房、重重として樓臺のごとくなる者、有り。其の大なる者、圍〔(めぐり)〕一、二丈。樹の上に在り。内の窠、小にして、六百二十六箇を隔(へだ)つ。大なる者は千二百四十個に至る。其の褁〔(ふくろ)〕、木に粘〔(ねん)〕ず。蒂(へた)は是れ、七姑木〔(しちこぼく)〕の汁、其の蓋(ふた)は是れ、牛糞の沫〔(あわ)〕、其の隔ては是れ、葉の蕊〔(ずゐ)〕なり。

石蜂窠 人家屋上に在り。大小、拳(こぶし)のごとく、色、蒼黒なり。内に青色〔の〕蜂、二十一箇有り。或いは只だ、十四箇。其の蓋(ふた)は是れ、石垢、其の粘ずる處は是れ、七姑木の汁、其の隔ては是れ、竹の蛀(むしくだ)なり。【或いは云ふ、其の隔ては葉蕋なり〔と〕。】

獨蜂窠 大小〔(あり)〕。鵞卵〔(ぐわらん)〕の大いさのごとく、皮、厚く、蒼黃色なり。是れ、小蜂幷びに蜂〔の〕翅〔(はね)を〕裏〔(うら)〕に盛る。只だ、一箇蜂、有り。大いさ、小〔さき〕石燕子〔(せきえんし)〕の許〔(ばか)〕りのごとく〔して〕、人馬、螫着(さゝ)れて、立ちどころに亡〔(し)〕すなり。俗に七里蜂と名づくる者は是れなり。

草蜂窠 尋常に見る所の蜂〔の窠〕なり。藥に入るるには、草蜂窠を以て勝れりと爲す。

主に、蟲牙(むしば)痛み・喉痺〔(こうひ)〕、及び、舌の上より血を出し〔て〕吐血・衂血(はなぢ)〔(せるもの)〕、或いは二便〔の〕通〔ぜざる〕者を治すると云ふ。

 

[やぶちゃん注:蜂の巣である。私は小学校五年生の時、母が受付をやっていた、清泉女学院(向かいの玉繩城址に建つ)高等部の生物の先生が蜜蜂の飼育箱を開けて見せて呉れ、「巣を取って食べてごらん」と言われ、手ずから採って巣ごと食べた。あの時の至福の甘さを忘れることが出来ない。なお、蜜を蓄える蜂類は膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属 Apis だけではない。 ハナバチ AnthophilaBee)類(以下。ここはウィキの「ハナバチ」に拠ったが、その後の部分はネット上の複数の記載を参照した)は蜜を貯留する。

 ヒメハナバチ科 Andrenidae

 ミツバチ科 Apidae

 ムカシハナバチ科 Colletidae

 Dasypodaidae

 コハナバチ科 Halictidae

 ハキリバチ科 Megachilidae

 Meganomiidae

 ケアシハナバチ科 Melittidae

 Stenotritidae

但し、養蜂に用いられるミツバチ科ミツバチ族ミツバチ属 Apisや(狭義のミツバチ属の種群はウィキの「ミツバチに詳しいのでそちらを参照されたい。その記載によれば、現生種は世界で九種、その中で最も養蜂用に用いられている知られたセイヨウミツバチ Apis mellifera は二十四亜種あるとある)、南米で養蜂用に用いられているミツバチ科ハリナシバチ亜科ハリナシミツバチ亜科ハリナシミツバチ族Meliponini 以外では、人が恒常的に食用に供し得るほどに採取することは出来ないらしい。例えば、よく蜜を採るのを見かけるミツバチ科クマバチ亜科クマバチ族クマバチ属 Xylocopa は確かに「ハナバチ」の類で集蜜するが、彼らは単独生活をしており、蜂蜜としてして集めるのは不可能に近いのである。

・「圍〔(めぐり)〕一、二丈」周囲約三~六メートル十センチ弱。

・「六百二十六箇」ネット上の「本草綱目」の電子データの中には「六百二十六」とするものと、「六百二十」とする二種が存在するが、後者の二倍が丁度が「千二百四十個」であることを考えると、「六」は衍字か誤字のように私には思われる。

・「蒂(へた)は是れ、七姑木〔(しちこぼく)〕の汁、其の蓋(ふた)は是れ、牛糞の沫、其の隔ては是れ、葉の蕊〔(ずゐ)〕なり」これとか以下の同様の箇所は、巣の各部分の素材が本来は何であるかを示したものである。それらを巣を作る蜂(働き蜂)が自身の唾液と各素材を混ぜ合わせて構築するというのである(これが真実だとするなら、観察者はファーブル並みの根気強さを持っていたことになるが……)。「七姑木〔(しちこぼく)〕」は不詳。読みも単に単漢字の音を私が当てただけである。ネット検索をかけても、この「本草綱目」の記載に基づくものしか見当たらないようである。東洋文庫版現代語訳も『(不明)』と割注するばかりである。

・「鵞卵」鵞鳥の卵。現代医学で腫瘍(良性・悪性とも)の大きさを示すのに最大のそれの場合を「鵞卵大(がらんだい)」と称し、約十二センチメートルである。

・「石垢」川床の石などに付着した珪藻植物門珪藻綱のケイソウ類。細胞膜に特殊な構造のケイ酸質の殻を生じ,褐色の色素を有する単細胞の微小な藻類。淡水・鹹水(かんすい)・土壌中に広く分布し、種ははなはだ多い。殻の形が筆箱状のもの、円盤乃至は円筒形のもの二種類に大別される。単独又は群体で浮遊するプランクトン性のものと、集合着生するものとがあり、前者は魚の餌などとしても用いられる。

・「竹の蛀(むしくだ)」「蛀」は現代中国語で「木食い虫」と出るので、竹を食害するキクイムシ類を指すようである(一般に鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae のキクイムシ類は成虫・幼虫ともに食害する)。本邦ではナガシンクイムシ科ヒラタキクイムシ属ヒラタキクイムシ Lyctus brunneus などが代表種のようである。

・「小蜂幷びに蜂〔の〕翅〔(はね)を〕裏〔(うら)〕に盛る」これは事実とすると、乏しい私の知識の中でも、ややおかしい感じがする。小さな蜂や蜂の翅(はね)を以って蜜の貯留巣の裏張り(或いはこの「裏」は内の謂いかも知れない。その場合は内壁ということになる)をするとなると、その蜂は肉食性(雑食性を含む)である可能性が強いことになるからである。しかし、肉食性の蜂は蜜を摂餌はするものの、蜜を貯留することはしない。こんな蜂蜜巣を形成する単独生活をする蜂を御存じの方は、是非、御教授下されたい。

・「石燕子」東洋文庫版現代語訳では『つちつばめ』とルビするのであるが、種が分からん。「土」と「石」なら「岩」が連想される。スズメ目スズメ亜目ツバメ科ツバメ亜科 Delichon属イワツバメ(ニシイワツバメ:独立種説)elichon urbica のことだろうか? イワツバメの成鳥は全長十三~十五センチメートルでそれより小さいということで、六~七センチメートルととってよいか? とするとこれはもう(羽も含めりゃ、これくらいの大きさには感じる)、まさにオオスズメバチの類だわな。

・「七里蜂」不詳。

・「蜂〔の窠〕なり」意味が通らないので、無理矢理、補填した。

・「喉痺〔(こうひ)〕」口腔及び咽頭の炎症を起こして閉塞する病気。急性扁桃腺炎など。

・「舌の上より血を出し〔て〕吐血・衂血(はなぢ)〔(せるもの)〕」「衂血(はなぢ)」の「衂」(音「ニク」「ヂク(ジク)」)は単漢字で「鼻血」を意味する。但し、この部分、良安は「本草綱目」の「露蜂房」にある多量の「附方」の一部分を、よく意味もよく考えずに滅茶苦茶に継ぎ接ぎしたとしか思えない箇所であって、これは明らかに「舌上出血竅如針孔」(舌の上に出血があり、舌に針の孔ほどの小さな穴が開いている症状の謂いか)と、その次に出る「吐血・衄血」の症状名を繫いで無理矢理に訓じてしまったものである。今回、試みに「本草綱目」と対照して見て、そのひどさにただただ呆れかえっている次第である。]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 大黃蜂 附 胡蜂

Yamabati

やまはち

大黃蜂         【也末波知】

タアヽ ハアン フヲン

 

[やぶちゃん注:ここ以降は、今まで絵の下の項目名の上下を分割して並べて表記していたものを、原則そのまま表記することとする。]

 

本綱大黃蜂其狀比蜜蜂更大其色黃在人家屋上及太

木間作房大者如巨鐘其房數百層土人采時着草衣蔽

身以捍其毒螫復以烟火熏去蜂母乃敢攀緣崖木斷其

蒂一房蜂兒五六斗至一石捕狀如蠶蛹瑩白者然房中

蜂兒三分之一翅足已成則不堪用

 くろはち

 胡蜂

[やぶちゃん注:以下は原典では「二種也」までが「胡蜂」の下、二字下げの位置に記されてある。この注は書き下し文では略す。]

壺蜂2蜂玄瓠蜂大黃蜂之黑色者也

凡物黒者謂胡故也乃是大黃蜂一類二種

[やぶちゃん字注:「1」=「侯」+「瓜」。「2」=「婁」+「瓜」。]

按黒蜂遍身正黒唯背一處自頸至腰正黃身肥圓四

翅六脚其脚末曲如鐡把而尻出刺能螫人

 

 

やまばち

大黃蜂         【也末波知。】

タアヽ ハアン フヲン

 

「本綱」、大黃蜂は其の狀〔(かたち)〕、蜜蜂に比すれば、更に大なり。其の色、黃なり。人家屋の上、及び太木〔(たいぼく)〕の間に在り、房を作る。大なる者は、巨鐘のごとく、其の房、數百層。土人、采る時、草の衣を着て、身を蔽(おほ)ひ、以て其の毒螫〔(どくばり)〕を捍(ふせ)ぐ。復た、烟火を以て熏〔(ふす)〕び、蜂の母を去り、乃ち敢へて崖・木に攀緣(よぢのぼ)りて、其の蒂(へた)を斷(き)る。一房に蜂兒(こ)、五、六斗より一石〔(こく)〕に至る。狀、蠶(かいこ)の蛹(こ)のごとく瑩白〔(えいはく)〕なる者を捕る。然れども、房中の蜂の兒、三分の一、翅・足、已に成れば則ち用ふるに堪へず。

 くろばち

 胡蜂

壺蜂〔(つぼばち)〕・2蜂〔(こうらうほう)〕・玄瓠蜂〔(げんこほう)〕大黃蜂の黑色なる者なり。凡そ、物の黒〔なる〕者を「胡」と謂ふ故なり。乃ち、是れ、大黃蜂と一類二種なり。

[やぶちゃん字注:「1」=「侯」+「瓜」。「2」=「婁」+「瓜」。]

按ずるに、黒蜂、遍身、正黒。唯だ、背一處、頸より腰に至りて、正黃。身、肥〔へ〕、圓〔(まろ)〕く、四の翅、六の脚。其の脚の末、曲りて鐡把のごとくにして、尻、刺〔(はり)〕出でて、能く人を螫す。

 

[やぶちゃん注:さてもこの二種も同定はすこぶる迂遠である。

 今までの記載の流れから言えば、この「大黃蜂」は大型種で黄色の紋を持ち、人家の屋上や大木の間に恐ろしく大きな多重層構造の巣を営巣し、人が食用にするためにその「蜂の子」(蜜でない点に注意)を採取する際には刺されないように厳重な防護服を身につけるとあることから、これ、すんなりと、

細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科スズメバチ属オオスズメバチ Vespa mandarinia 或いはヒメスズメバチ Vespa ducalis などの中大型のオオスズメバチ属 Vespa のスズメバチの仲間

と同定して何ら問題ないようにも思われかも知れない。

 しかし、である。この挿絵をよく見て戴きたい

 このずんぐりとしたそれは、これ、どう見ても、オオスズメバチ或いはスズメバチ亜科 Vespinae のそれのようには私には見えないのである。この絵のそれは形状(腹部の縞部分に眼をつぶると)は私には、

細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科クマバチ亜科クマバチ族クマバチ属 Xylocopa

の類に見えるのである。因みに、本邦のクマバチ類は一種ではない。ウィキの「クマバチ」によれば、一般に我々が「クマバチ」(熊蜂)と認識している、

クマバチ(キムネクマバチ) Xylocopa appendiculata circumvolans(北海道南部から屋久島に分布)

以外に、

アマミクマバチ Xylocopa amamensis(口永良部島から徳之島に分布)

オキナワクマバチ Xylocopa flavifrons(沖永良部島から沖縄本島に分布)

アカアシセジロクマバチ Xylocopa albinotum(多良間島から与那国島に分布)

オガサワラクマバチ Xylocopa ogasawarensis(小笠原諸島の父島列島・母島列島に分布)

する他、外来侵入種として、

タイワンタケクマバチ Xylocopa tranquebarorum

が二〇〇七年に東海地方で確認されているとある。

 そう考えたところで、「大黃蜂」の同異種として示してあるところの、この「胡蜂(くろばち)」の本文記載を読むと、

全身が真っ黒であるが、ただ、背の一ヶ所だけ、具体には頸部から腰部にかけて真っ黄色であり、その身はよく肥えて丸く、四枚の翅で六脚とし、その脚の尖端は曲って鉄の取っ手のような形状を成す

という。これを読むや、これはもう(以下、引用はウィキの「クマバチから)、

『体長は』二センチメートルを『超え、ずんぐりした体形で、胸部には細く細かい毛が多い。全身が黒く、翅も黒い中、胸部の毛は黄色いのでよく目立つ。体の大きさの割には小さめな翅を持つ。翅はかすかに黒い』。は『顔全体が黒く、複眼は切れ長。額は広く、顎も大きいため、全体に頭が大きい印象。それに対し』て、は『複眼が丸く大き目で、やや狭い額に黄白色の毛が密生し、全体に小顔な印象』

とある、

クマバチ属 Xylocopa と完全に一致するように私には見える

のである。なお、本文では、尻に針が突出しており、よく人を刺す、とあるのであるが、クマバチはのみが棘針を持ち、『巣があることを知らずに巣に近づいたり、個体を脅かしたりすると刺すことがあるが、たとえ刺されても重症に至ることは少ない(アナフィラキシーショックは別)』とある。

 さてそうして、同ウィキはさらに「スズメバチとの誤解」という特別項を設け、

クマバチ『は大型であるために、しばしば危険なハチだと』誤『解されることがあり、スズメバチとの混同がさらなる誤解を招いている。スズメバチのことを一名として「クマンバチ(熊蜂)」と呼ぶことがあり』、『これが誤解の原因のひとつと考えられる』。しかし、『花粉を集めるクマバチが全身を軟らかい毛で覆われているのに対して、虫を狩るスズメバチ類はほとんど無毛か粗い毛が生えるのみであり、体色も大型スズメバチの黄色と黒の縞とは全く異なるため、外見上で取り違えることはまずない』のが冷静な観察上の事実なのである。この誤解については、『ハチ類の特徴的な「ブーン」という羽音は、我々にとって「刺すハチ」を想像する危険音として記憶しやすく、特にスズメバチの羽音とクマバチの羽音は良く似た低音であるため、同様に危険なハチとして扱われやすい。クマバチは危険音を他のハチ類と共有することで、哺乳類や鳥類に捕食されたり巣を狙われたりするリスクを減らしている、という説もある』(但し、ここの説には要出典要請がかかっている)。また、文学やメディア上の影響として、『かつて、児童文学作品の』「みつばちマーヤの冒険」(ドイツの作家ワルデマル・ボンゼルス(Waldemar Bonsels 一八八一年~一九五二年)の一九一二年作のDie Biene Maja und ihre AbenteuerThe Adventures of Maya the Bee))『において、蜜蜂の国を攻撃するクマンバチの絵がクマバチになっていたものがあったり』、メルヘン・テレビ・アニメーション「昆虫物語 みなしごハッチ」(原作・制作は吉田竜夫。初回放映は昭和四五(一九七〇)年四月七日から翌年十二月二十八日までフジテレビ系で放送。全九十一回)の第三十二話「ひとりぼっちの熊王」の中で、『略奪を尽くす集団・熊王らがクマバチであった。少なくとも日本において、ミツバチのような社会性の蜂の巣を集団で襲撃するのは肉食性のスズメバチ(特にオオスズメバチ)であり、花粉や蜜のみ食べるクマバチにはそのような習性はない。この様に、本種が凶暴で攻撃的な種であるとの誤解が多分に広まってしまっており、修正はなかなか困難な様子である』

とあるのである(最後の部分は昆虫の苦手な私でも知っている、昆虫愛好家の間では、かなり有名な批判対象ネタである)。なお、クマバチの呼称についても以下のようにある。

『「クマ」とは哺乳類の熊のほか、大きいもの強いものを修飾する語として用いられる。このため、日本各地の方言において「クマンバチ」という地域が多数あるが、クマンバチという語の指す対象は必ずしもクマバチだけではない場合』(他に地域によってスズメバチ・マルハナバチ・ウシアブなど多様な別種を指す)『があり、多様な含みを持つ語である。クマバチとクマンバチでは別のハチを指す場合もある』

さても、これも私は「クマバチ」の兇悪誤認に強く影響していると考えている(下線部は総てやぶちゃん。なお、同ウィキには『「ン」は熊と蜂の橋渡しをする音便化用法であり、方言としても一般的な形である』ともある)。

 以上から、私は、取り敢えず、

「大黃蜂」は攻撃性の強いオオスズメバチ Vespa mandarinia 或いはヒメスズメバチ Vespa ducalis などの中大型のオオスズメバチ属 Vespa のスズメバチの仲間を主記載としながらも、性質の至って温和なクマバチ属 Xylocopa を幾分か混同して誤認したもの

とし、

「胡蜂」は全くその逆に、温和なクマバチ属 Xylocopa を同じ大中型の攻撃的なオオスズメバチ属 Vespa の類とやや混同して誤認したもの

と採るものである。大方の御叱正を俟つものである。考えてみると、クマバチ(キムネクマバチ) Xylocopa appendiculata circumvolansに刺されたという人は私の五十九年の人生では知らない。ただ、小学校六年の夏、亡き母が干していた靴下の中にクマバチ(キムネクマバチ) Xylocopa appendiculata circumvolans が潜り込んでいたことがあった。母が摑んだ途端、物凄い羽音がして、床の上で靴下が生き物のように跳ね躍った。母は刺されはしなかった。しかし、母があんなに真っ青になったのを初めて見たことを、何故か今、思い出した……

・「攀緣(よぢのぼ)りて」「攀緣」の二字を「よぢのぼ」と訓じている。

・「蒂(へた)」巣が対象物に附着している接合部。蜂類の場合、営巣の状態によっては、柄(え)のような形状を成し、果実の出っ張っている萼(がく)の部分に似ていないとは言えない。

・「五、六斗より一石」現行の尺貫法では、一斗は十升で約十八リットルであるから、「五、六斗」は九十~百八リットル、一石は十斗で百八十・三九リットルに相当するが、「本草綱目」の明の頃は、一斗は十・七四リットル、一石は単純にはその十倍であるから、「五、六斗」は五十三・七四~六十四・四四リットル、一石は百七・四リットルにしかならないので注意が必要。

・「瑩白〔(えいはく)〕」汚点のない、磨き上げたような輝く鮮やな白さを指す。

・「2蜂〔(こうらうほう)〕・玄瓠蜂〔(げんこほう)〕」(「1」=「侯」+「瓜」。「2」=「婁」+「瓜」。)読みは東洋文庫版現代語訳のルビを参考に歴史的仮名遣を推定して振った。

・『物の黒〔なる〕者を「胡」と謂ふ故なり』間違ってもらっては困るが、「胡」という漢字には色としての「黒」の意はない。これは察するに、「胡」は狭義には中国北方の異民族である匈奴(きょうど)を指すものの、異民族を十把一絡げにした意味で、西方の異民族、もっと広く異邦人を「胡人」とも称した。当然、その中で目立つのは、見た目日焼けた遊牧民の肌の黒い人、実際に肌に黒い色素を持つネグロイド(Negroid)系の人々もいたから、それから「胡人」「異人」「黒」い肌「黒」い色という認識が生じたものであろう。]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 木蜂

Mikabati

みかはち

木蜂

 

木蜂

【和名美加波知】

 

本綱木蜂似土蜂而小在樹上作房人亦食其子【蜜蜂土蜂木蜂黃蜂子俱可食】

 

 

みかばち

木蜂

 

木蜂

【和名、美加波知。】

 

「本綱」、木蜂は土蜂に似て、小さく、樹の上に在りて、房を作る。人、亦、其の子を食ふ。【蜜蜂・土蜂・木蜂・黃蜂の子、俱に食ふべし。】

 

[やぶちゃん注:ここで遂に、蜂の子の話が出、実は前掲の「蜜蜂」も「土蜂」もこの「木蜂」も、それから次の「黃蜂」の子も、「どれも皆、食べられる」とくる。中華ならではであるが、本邦でも蜂の子は昆虫食のチャンピオンとして好んで食われる。しかもそこで「蜂の子」として人の食用対象となるのは主に、細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科 Vespinae のスズメバチ類の子である。ウィキの「スズメバチによれば、『他の利用法は主に食用である。長野県の伊那谷地方を中心に、クロスズメバチ』(クロスズメバチ属クロスズメバチ Vespula flaviceps)『類(地方名スガレ)の幼虫、さなぎを食用にすることが他地方でもよく知られるが、実際には同地方ではさらに大型のキイロスズメバチ』スズメバチ属キイロスズメバチ Vespa simillima xanthoptera)『などの幼虫、さなぎの巣の捕獲、食用も盛んに行われている。また岐阜県の恵那市・中津川市などの東濃地方では、クロスズメバチの幼虫を「へぼ」と呼び、炊き込み御飯』「へぼめし」『にして食べる習慣がある。甘露煮にした瓶詰も作られて販売されている』。『こうした食習慣は日本国内ではその他に九州の熊本県、大分県、鹿児島県、宮崎県にまたがる九州脊梁山地でも盛んであり、この地方では特に大型の幼虫が得られるオオスズメバチ』(スズメバチ属オオスズメバチ Vespa mandarinia japonica)『を好んで採集する習慣も根強い』。『収獲方法としては、殺したアカトンボ類、小さく切った鶏肉やカエルの足の肉を置いて働き蜂に肉団子を作らせ、肉団子の処理過程に巧みに介入してこより状にした真綿を肉団子やハチの胴に絡ませて目立つようにし、その働き蜂を追跡して営巣場所を突き止める蜂追いが行われる。エサを肉団子にしている間は他の物に興味を示さない習性を利用したものである。一方最近では、天然で大きく育った巣を採集するのではなく、営巣初期のまだ若い小さな巣を採集し、人家の庭先で巣箱に収容して川魚の肉などを与えることで、より多くの幼虫やさなぎを収めた大きな巣を得ることも盛んになっている。また、軒下に形成された巨大なキイロスズメバチの巣に対しては、防護服を着用した上で、業務用の強力な掃除機で攻撃してくる成虫を全て吸い込み、巣を採集する人もいる』。『巣の採集の際は、線香花火などの比較的穏やかに燃焼する黒色火薬の煙を吹き付けて働き蜂の攻撃を封じ、巣を崩して幼虫やさなぎを採取している。この地方ではこうした巣の採集が盛んなため、専用に硫黄分を多くした黒色火薬製品である煙硝が市販されている』。『また、最近では地方特有の食文化というだけはなく、多種のアミノ酸が含まれていることなどが着目され、成虫を蜂蜜や焼酎に漬けたものや、成分を抽出したサプリメントなどにも注目が集まっている』。『日本国外では大型のスズメバチ類の種多様性が最も高い中国の雲南省でもスズメバチ類の幼虫、さなぎに対する食習慣が非常に盛んであり』、『最近の経済開放政策に伴う盛んな商品化のための乱獲が懸念されるほどである。雲南では、成虫も素揚げにして塩をまぶし、おかずとして食べる。また、スズメバチ類の個体群密度や巣の規模が大きな熱帯アジア各地にも(例えばミャンマー』)、『同様の食習慣を有する地方は多い』とあり、さらにウィキの「はちのこ」の方には、『はちのこ(蜂の子)は、クロスズメバチなどの蜂の幼虫(蛹、成虫も一緒に入れることもある)で、日本では長野県・岐阜県・愛知県・静岡県・山梨県・栃木県・岡山県・宮崎県など』『の山間部を中心に日本各地で食用とされている。古い時代では蛋白源が少なく常食され』、『クロスズメバチの他、ミツバチ、スズメバチ、アシナガバチなども食べられている。近年は高級珍味として、缶詰や瓶詰でも販売されている』。『猟期は秋、長野では「蜂追い」(すがれ追い)と呼んでかつては子供の遊び、現在では半ば大人のレジャー化している。クロスズメバチの場合、地中に巣を作るため、まず巣を発見しなければならない』。『ハチの巣を見つけ出すには、ハチの移動経路や営巣場所となりやすい場所を注意深く観察し、飛翔するハチを手掛かりに巣の場所を予測して見つけ出す方法と、エサを巣に運ぶハチを追跡する方法とがある』。『後者の場合、綿を付けた生肉(カエルの肉が良いとされる)や魚、昆虫等をエサにハチをおびき寄せ、巣に運ぼうとするところをひたすらに追跡する。綿は飛翔するハチの視認性を良くし、空気抵抗によってハチの飛翔速度を落として追跡しやすくする役割がある。綿が小さすぎるとハチを見失う可能性が高くなり、大き過ぎるとハチがエサの運搬をあきらめてしまうことがあるため、綿の大きさの調節には経験が必要』。『ハチは畑や川、人家、道路などの上を直線的に飛翔し、また上方を飛ぶハチを見ながら走って追跡することになるため、追跡には交通事故、転倒、転落などの危険が伴う。加えて、追跡時に田畑の農作物を踏み荒らす原因になることから、「蜂追い(ハチ取り)」を禁じている地域もある。こうした事情から、現在では都市部はもとより、郊外においてもこの方法を取ることは難しい』。『巣が発見できたら煙幕花火などを使って巣を燻し、ハチが一時的に』(一~二分程度)『仮死状態となっている間に地中から巣を掘り出す』。『幼虫は、膜を張った巣の中にいるので、ピンセットを使い、膜を剥がし取り出す。味は淡白で炒ったものは鶏卵の卵焼きを想起させる味である』とある(下線は総てやぶちゃん)。実は海産生物なら何でも来いの悪食(あくじき)食いの私は、実は小学校二年の時にアシナガバチに刺されたトラウマがあって未だ「蜂の子」は食べたことがない(イナゴやザザムシは大好物である)。嗅覚もなくなったから近いうちに挑戦してみようと思う。

 以上、長々と引いた理由は、主に下線部の記載に注目して戴きたいからである。「はちのこ」の記載の方には確かに、『ミツバチ』・『アシナガバチなども食べられている』とはある。あるが、実際に実見したことがある人は一目瞭然であろうが、スズメバチ類の蜂の子の方がこれらよりも圧倒的に大きい(オオスズメハチなどでは、異様なほど遙かに、である)。さればこそ、食用対象としてはスズメバチ類を一般的と考えるのが自然である(そもそもがここまでの食用の「蜂の子」の種対象はクロスズメバチであることが御理解戴けるはずである。とすれば、やはり営巣から考えるなら、前の、

「土蜂」はクロスズメバチ属クロスズメバチ Vespula flaviceps かその仲間

と考えるのが妥当であろう。しかし問題はこの「木蜂」で、この記載では『土蜂に似て、小さ』いとする、樹上営巣の蜂ということになるのだが、実はクロスズメバチはスズメバチ類の中でも最小種(十~十八ミリメートル)に属し、少なくとも本邦ではこれより小さい樹上営巣をするスズメバチがいないのである。しかし、ここだけは「本草綱目」の記載ということで何時ものように目をつぶらせてもらうなら、

「木蜂」はスズメバチ属 Vespa の中では最小(働きバチで十七~二十四ミリメートル)の大きさのであるケブカスズメバチ Vespa simillima simillima 或いはその亜種であるキイロスズメバチ Vespa simillima xanthoptera かその仲間、或いはスズメバチ属ではない、体長十四~二十二ミリメートルのホオナガスズメバチ属キオビホオナガスズメバチ(黄帯頬長雀蜂)Dolichovespula media か、その同属の仲間

を同定候補と出来るようには思う(以上は主にウィキの「スズメバチを参考にしている)。なお、「みかばち」は「和名類聚抄」に出る古式ゆかしい古名で、漢字では「樹蜂」を当てるのだが、辞書類を調べると、これを現在は、膜翅(ハチ)目広腰(ハバチ)亜目キバチ上科キバチ科キバチ亜科 Siricinae のキバチ(木蜂)類に同定していることが判った。この蜂は円筒状に細長く、は尾端に太い一本の棘状の強固な長い産卵管を持ち、これを木の中に深く刺し込んで産卵する(この際、木材腐朽菌の胞子を卵とともに材中に植えつけるために大きな林業被害を与えるともされ、庭園樹木や鉛管へ穿孔して通信ケーブルに被害を与えることもあるという)種であって、これから樹木に営巣などしないと考えてよく、除外出来る

・「黃蜂」ここで始めて出る。しかし「本草綱目」では、この箇所を含む、三箇所の本文中にしか出ず、その一つは明らかに「大黃蜂」のことを指していることが判る。しかも、項目(見出し)としては「黃蜂」は存在しない。従って、時珍が言う「黃蜂」は「大黃蜂」と断定してよい。されば、次の「大黃蜂」の項で考証することとする。]

2016/03/30

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 土蜂

Yamabati

ゆすらはち

土蜂

 

蜚零 蟺蜂

馬蜂

【和名由須

 留波知】

 

本綱土蜂山谷穴居作房赤黒色最大螫人至死亦能釀

蜜其子亦大白

 

 

ゆすらばち

土蜂

 

蜚零 蟺蜂

馬蜂

【和名、由須留波知。】

 

「本綱」、土蜂、山谷〔に〕穴居して、房を作る。赤黒色にして、最も大〔きく〕、人を螫〔せば〕死に至る。亦、能く蜜を釀す。其の子、亦、大にして白し。

 

[やぶちゃん注:「蜂」の項に出た際には、ミツバチの一種として見たが、「能く蜜を釀す」という部分に目をつぶると(元が「本草綱目」だからこれに拘る必要はないと考えてよい)、体色といい、成虫個体も幼虫も有意に大きいことといい、人を刺せば、人が死に至るという記載は、もう、細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科 Vespinae のスズメバチ類、特に本邦でなら、クロスズメバチ属クロスズメバチ Vespula flaviceps などを想起せざるを得ない。但し、同種は、ウィキの「スズメバチ」の「クロスズメバチ」によれば、体長は十~十八ミリメートルと『小型で、全身が黒く、白または淡黄色の横縞模様が特徴である。北海道、本州、四国、九州、奄美大島に分布。多くは平地の森林や畑、河川の土手等の土中に多層構造の巣を作り』、六月頃から『羽化をする。小型の昆虫、蜘蛛等を餌とし、ハエなどを空中で捕獲することも巧みである。その一方で頻繁に新鮮な動物の死体からも筋肉を切り取って肉団子を作る。食卓上の焼き魚の肉からも肉団子を作ることがある。攻撃性はそれほど高くなく、毒性もそれほど強くはないが、巣の近くを通りかかったり、また缶ジュース等を飲んでいる際に唇を刺される等の報告例がある。同属で外観が酷似するシダクロスズメバチ』(Vespula shidai)は、海抜約三百メートル以上の『山林や高地に好んで生息し、クロスズメバチよりもやや大きく、巣は褐色で形成するコロニーもやや大型になることが多い』とある。同属か、その近縁種の中国産の大型種か。なお、現在の日本で「土蜂」に近い「地蜂」という呼称は狭義には本クロスズメバチを指すことが多い。因みに、現行で「中華馬蜂」(上記の別名に出る。馬蜂というのは大きい形容というより、寧ろ、細腰のすらりとした形状に由来するようにも思われてくる。そういえば、図の形状もこれって、脚長蜂だべ!)という種がおり、中文サイトを見ると、これは本邦でも普通に見られるスズメバチ科アシナガバチ亜科Polistes属フタモンアシナガバチ Polistes chinensis を指す。調べると、刺されると相当に痛く(電撃的とある)、傷にも水泡が生じたりして侮れないようである。同様に「蜚零」で検索すると、中文サイトでは明らかにアシナガバチ然とした個体の写真が添えられてあったりもする。現行の和名ではズバリ、ツチバチ(土蜂)科 Scoliidae がおり、これは比較的大型の種が多く、黒地に黄・橙・赤などの斑紋を持ち、黒又は金色の剛毛で覆われるものの、この仲間は例のが地中のコガネムシ類の幼虫に産卵し、幼虫がこれを食べて発育する寄生蜂として知られるグループで、凡そこの記載条件からは遙かに遠いので除外される(しかし、ネット上の記載を見ると、これらを広義に「地蜂」と呼称している傾向が学術的な記載の中にさえ見られることも言い添えておく)。なお、なんともゆかしい「ゆすらばち」は現在では死語のようである。少し、哀しい気がした。]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜜蠟

Miturou

みつろふ

蜜蠟

 

本綱取蜜後煉過濾入水中候凝取之有黃蠟有白蠟與

今時所用蟲造蠟不同

按華之蜜蠟形方如雙六局而黃色不鮮明一箇約五

 十斤許倭之蜜蠟形圓如鍋而正黃色用倭爲佳

 

 

みつろふ

蜜蠟

 

「本綱」、蜜を取〔(つて)〕後、煉〔り〕、過濾〔(かろ)〕〔し〕、水中に入れ、凝〔るを〕候〔(うかが)〕い、之を取る。黃蠟、有り。白蠟、有り。今時、用ふる所の蟲造〔(ちゆうざう)〕の蠟と〔は〕同じからず。

按ずるに、華の蜜蠟は、形、方にして雙六(すご〔ろく〕ばん)のごとくにして、黃色、鮮明ならず。一箇約五十斤許り。倭の蜜蠟は、形、圓く、鍋のごとくして正黃色なり。倭を用ひて佳と爲〔(す)〕。

 

[やぶちゃん注:図に「漢」「倭」のキャプションが入るのは極めて珍しい。ウィキの「蜜蝋」によれば、『ミツロウ(蜜蝋、BeeswaxCera alba)はミツバチ(働きバチ)の巣を構成する蝋を精製したものをいう』。『蝋は働きバチの蝋分泌腺から分泌され、当初は透明であるが、巣を構成し、巣が使用されるにつれ花粉、プロポリス、幼虫の繭、さらには排泄物などが付着していく』。『養蜂においてミツロウ以外のものを基礎として巣を構築させた場合、それらがミツロウに混入する可能性もある』。『精製の方法には太陽熱を利用する陽熱法と、加熱圧搾法とがあり、効率の点では加熱圧搾法のほうが優れている』とあり、『色は、ミツバチが持ち運んだ花粉の色素の影響を受け、鮮黄色ないし黄土色をして』おり、『最大の用途はクリームや口紅などの原料』であるとある。私の家にも停電用、いざとなれば非常食にもなるということで置いてある。

「過濾」濾過。

「五十斤」三十キログラム。かなり巨大で重い。しかし、ちょっとデカ過ぎないか?]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜜

Mitu

みつ

 

蜂糖 蜜【俗字

 和名美知】

 

本綱蜂蜜【生涼熟温】不冷不燥得中和之氣故十二臟腑之病

罔不宜之但多食蜂采無毒之花釀以小便而成蜜

其功五清熱補中解毒潤燥止痛

石蜜 生巖石色白如膏最爲良

木蜜 懸樹枝作之者色青白

土蜜 在土中作之者亦色青白味醶

人家及樹空作者亦白而濃厚味美

北方地燥多在土中南方地濕多在木中凡新蜜稀而黃

陳蜜白而沙也煉蜜以噐盛置重湯中煮掠去浮沫候滴

水不散取用一斤只得十二兩【△加水四十錢煉之去沫得百二十五錢】

以水牛乳沙糖作蜜僞之凡試蜜以燒紅火筯插入提出

起氣是眞起煙是僞。

△按蜂蜜出於紀州熊野者最佳藝州之産次之今多用

 沙糖蜜僞之沙糖與膠飴相和作之眞蜜黃白僞蜜色

 黒易乾

用蜜煉藥者其藥末與蜜宜等分

用蜜丸藥者蜜内滅二分半加水二分半共爲等分不然

 則難乾【假令藥末百目蜜七十五錢水二十五錢爲準】

 

 

みつ

 

蜂糖 蜜【俗字。和名、美知〔(みち)〕】

 

「本綱」、蜂蜜【生は涼、熟は温】、冷ならず、燥〔(そう)〕ならず、中和の氣を得、故に十二臟腑の病ひ、之に宜(よろ)しからざると云ふこと罔〔(な)〕し。但し、多く食ふべからず。蜂、無毒の花を采りて、釀〔(かも)〕するに小便を以つて蜜を成す。其の功、五つ、熱を清〔(せい)〕し、中〔(ちゆう)〕を補ひ、毒を解〔(け)〕し、燥を潤〔(うる)〕ほし、痛みを止〔(と)〕む。

石蜜は 巖石に生ず。色、白くして膏のごとし。最も良と爲す。

木蜜は 樹の枝に懸けて之を作るは、色、青白。

土蜜は 土の中に在りて之を作るは亦、色、青白。味、醶(えぐ)し。

人家及び樹の空(うとろ)に作るは亦、白くして濃厚、味、美なり。

北方は、地、燥(かは)く。多くは土の中に在り。南方は、地、濕(しめ)る。多くは木の中に在り。凡そ新蜜は稀にして、黃なり。陳蜜は白くして沙〔(しや)〕なり。蜜を煉〔(ね)〕るに、噐を以て盛つて、重湯の中に置きて煮〔(に)〕、浮きたる沫〔(あは)〕を掠去〔(かすめさ)〕つて、水、滴〔るも〕、散らざるを候〔(うかが)〕い、一斤を取り用ゐて、只だ、十二兩を得〔るのみ〕。【△水四十錢を加へて之を煉り、沫を去つて百二十五錢を得。】

水牛の乳・沙糖を以つて蜜に作り、之に僞(にせ)る。凡そ、蜜を試みるに、燒紅〔(しやうこう)〕(せる)火筯〔(ひばし)〕を以て插入〔(さしいれ)〕、提げ出〔ださば〕、氣を起す、是れ、眞なり。煙を起すは、是れ、僞なり。

△按ずるに、蜂蜜、紀州・熊野より出ずる者、最佳なり。藝州の産、之に次ぐ。今、多く、沙糖蜜を用ひて、之を僞る。沙糖と膠飴(ちやうせん〔あめ〕)と、相ひ和して之を作る。眞蜜、黃白たり。僞蜜は色、黒くして乾き易し。

蜜を用ひて藥を煉るは、其の藥末と蜜と、宜しく等分にすべし。

蜜を用ひて藥を丸(まろ)めるは、蜜の内、二分半を滅して、水、二分半を加へて、共に等分に爲す。然らざれば、則ち、乾き難し。【假令(たとへば)、藥末百目、蜜七十五錢、水二十五錢、準と爲〔(す)〕。】

 

[やぶちゃん注:例えばここで「生は涼、熟は温」とあるように、本文中に頻繁に現われる漢方の四気五味(四性ともいう対象物の薬性を示す四つの性質「寒・熱・温・涼、及び平」と、味やその効能に基づく五つの性質「酸味・苦味・甘味・辛味・鹹味(かんみ=しおからい味)、及び淡味」)の意味については、例えば以下の鍼灸院のサイトの解説等を参照されたい。これについては向後、一切注を加えない。なお、「熟」は「生」に対する「煮熟〔(しやじゆく)〕す」ること、煮て熱を加え、しっかり煮詰める謂いである。

・「和名、美知〔(みち)〕」とするが、古語辞典を見る限りでは「みち」は「みつ」の転訛である。

・「冷ならず」「冷」と「温」の中庸、中和状態。

・「燥ならず」「燥」と「湿」の中庸、中和状態。

・「十二臟腑」漢方で言うところの「心」「肺」「肝」「膻中(だんちゅう)」「脾」「胃」「大腸」・「小腸」「腎」「三焦」「膀胱」。

・「多く食ふべからず」ウィキの「蜂蜜によれば、現代の医学的知見では、ボツリヌス菌及び有毒の蜜源植物による危険性が指摘されてあるので、以下に引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『蜂蜜の中には芽胞を形成し活動を休止したボツリヌス菌が含まれている場合がある。通常は摂取してもそのまま体外に排出されるが、乳児が摂取すると(芽胞の発芽を妨げる腸内細菌叢が備わっていないため)体内で発芽して毒素を出し、中毒症状(乳児ボツリヌス症)を引き起こし、場合により死亡することがあるため、注意を要する。芽胞は高温高圧による滅菌処理(摂氏百二十度で四分以上)の加熱で不活性化されるが、蜂蜜においては酵素が変質するのでこの処理は不向きである。日本では一九八七年(昭和六二年)に厚生省が「一歳未満の乳児には与えてはならない」旨の通達を出している。同省の調査によると、およそ五%の蜂蜜からボツリヌス菌の芽胞が発見された』。『なお、ボツリヌスによる健康被害を防止するため、日本国内の商品には「一歳未満の乳児には与えないようにしてください」との注意書きがラベリングされている』。『専門の蜂蜜採集業者によるハチミツでの中毒報告例は極めて希であるが、自然蜂蜜(天然ハチミツ)では蜜源植物として意図しない有毒植物からの蜜が混入している事があり食中毒事例が報告されている。例えばトリカブト、レンゲツツジ、ホツツジの花粉や蜜は有毒である。ツツジ科植物の有毒性は古くから知られ、紀元前四世紀のギリシャの軍人・著述家のクセノフォンは兵士たちがツツジ属植物やハナヒリノキの蜜に由来する蜂蜜を食べ』、『中毒症状を起こした様子を記録している。古代ローマ時代にもグナエウス・ポンペイウス率いる軍勢が敵の策略にはまり、ツツジに由来する蜂蜜を食べて中毒症状を起こしたところを襲われ』、『兵士が殺害されたという話がある』。

・「中」東洋文庫版では『(脾胃)』とある。上記の臓腑ではしばしば「脾」と「胃」が一緒になっており、それで漢方に於ける消化吸収に関わる人体機能の全般を総称する。

・「空(うとろ)」「うとろ」はママ。姫路市林田町上伊勢にある室町時代の山砦「空木城」跡の「空木」は「うとろぎ」と読む。木の空(うつ)ろ、空洞、洞(ほら)になった部分。

・「陳蜜」「陳」は古くなっている状態、古くて劣化・悪化した状態を指す。古くなった蜜。

・「沙〔(しや)〕なり」粘体ではなく、結晶が不揃いに出来て、砂粒のようにざらざらしていること。舌触りが、であろう。

・「候〔(うかが)〕い」「い」はママ。違った読みの可能性もあるか。

・「一斤」六百グラム。一斤は十六両。

・「十二兩」四百五十グラム。

・「四十錢」一銭は本書執筆当時は約三・七五グラム(弱か)と思われるから、約百五十グラム。

・「百二十五錢」約四百六十八グラム。

・「燒紅〔(せる)〕火筯〔(ひばし)〕」真っ赤に焼けた鉄製の火箸。

・「氣」白い蒸気。

・「煙」焦げ臭い煙。牛乳が主成分の一つなら動物性脂肪と蛋白質だから納得は出来る。

「蜂蜜、紀州・熊野より出ずる者、最佳なり」「安全な食べものネットワーク オルター」の「小谷蜂蜜 幻の日本ミツバチの蜂蜜」に『日本ミツバチの蜂蜜(和蜜)は、古来より民間薬として珍重されてきました』。『この蜂蜜が珍重されてきた理由のもう一つは、洋蜜と比べて格段においしいということです。日本ミツバチは日本の在来の野性種で、北海道以外の全国で生息が確認されています。その伝統的養蜂は、大木をくり抜き、天井をふさいだ円筒形の巣箱(ゴウラ)で飼うもので、西日本では和歌山県の熊野、奈良県の十津川、四国、長崎県対馬などの山間部で農林業の片手間に行われてきたものです。江戸時代には和歌山、熊野の蜂蜜は「大閣蜜」のブランドで熊野詣の人々に親しまれていました』とある(下線やぶちゃん。現在の困難な状況などを含め、リンク先の引用部の続きは、必ず読まれたい)。

・「藝州の産、之に次ぐ」前にも引いた「日本養蜂協会」公式サイト内の「日本の養蜂の歴史」に、『動植物の分類に大きく貢献した小野蘭山が著した「本草綱目啓蒙」は』、文化二(一八〇五)年に出版され(本書刊行の九十三年後)、『ハチミツの産地として芸州広島の山代、石州、筑前、土州、薩州、豊後、丹波、丹後、但州、雲州、勢州、尾州を上げています。しかし、販売されるときには、すべて“熊野蜜”として売られており、当時、熊野がハチミツの最大の産地としてブランド化されていたことがうかがえます』とある。

・「膠飴(ちやうせん〔あめ〕)」当て読み。音は「コウイ」で、これは米(特に糯米(もちごめ)が適するとされる)・小麦・粟などの粉に麦芽を混ぜて糖化させ、それを煮詰めた水飴状のもので、ちゃんとした漢方の生薬で、滋養強壮・健胃・鎮痛・鎮咳作用がある。

・「百目」三百六十五グラム。

・「七十五錢」約二百八十一グラム。

・「二十五錢」約九十三グラム。]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜂

和漢三才圖會卷第五十二

  蟲部

      攝陽 城醫法橋寺島良安【尚順】編

  卵生類

Hati

はち

【音峯】

唐音

 フヲン

[やぶちゃん字注:底本では絵(画像はここのみ掲げ、書き下し文では省略する。画像は東洋文庫版(現代語訳)のそれをトリミングして配した)が最上部で前四行が絵の下に、以下がその下にある。左右に縦罫。以下、この注は略す。]

 

1【音范

   和名波知】

[やぶちゃん字注:「1」=(上)「范」+(下)「虫」。]

 

本艸綱目云蜂尾垂鋒故字从夆蜂有君臣之禮範故一

名曰1有三種

野蜂 在林木或土穴中作房

家蜂 人家以噐収養【以上二種】並小而微黃蜜皆濃美

山蜂 在山巖高峻處作房卽石蜜也其蜂黑色似牛

三者皆群居有王王大於衆蜂而色青蒼皆一日兩衞應

潮上下凡蜂之雄者尾鋭雌者尾岐相交則黃退嗅花則

以鬚代鼻采花則以股抱之窠之始營必造一臺大如桃

李王居臺上生子於中王之子盡復爲王歳分其族而去

其分也或鋪如扇或圓如罌擁其王而去王之所在蜂不

敢螫若失其王則衆潰而死其釀蜜如脾謂之蜜脾凡取

其蜜不可多多則蜂飢而不蕃又不可少少則蜂惰而不

作其王無毒嗚呼王之無毒似君德也營窠如臺似處國

也子復爲王似分定也擁王而行似衞主也王所不螫似

遵法也王失則潰守節義也取惟得中似什一而税也凡

群蜂旦出午時銜花蘂等來入衙竅有二大蜂兩衙之竅

口相對如改群蜂所銜來花若有不銜花而來者逐還不

入有争拒者則群蜂螫殺之【衙音牙天子居曰衙行曰駕今官府亦曰衙也】

蜂子【氣味】甘平微寒

按蜂人不觸則不螫如行於巣下則追來螫【蜂羽傳油則不敢動】

[やぶちゃん注:「2」=(上){「匃」から一画目及び二画目を除去した内側}+(下)「虫」。]

 

 

はち

【音、「峯〔(ハウ)〕」。】

唐音

 フヲン

 

1【音、「范〔(ハン)〕」。和名、「波知」。】

[やぶちゃん字注:「1」=(上)「范」+(下)「虫」。]

 

「本艸綱目」に云はく、蜂の尾、鋒を垂る。故に、字、「夆」に从〔(したが)〕ふ。蜂に君臣の禮範有り、故に一名、「1〔(ハン)〕」と曰ふ。三種有り。

野蜂(のばち)  林木、或いは土穴の中に在りて、房〔(ばう)〕を作る。

家蜂(いへばち) 人家に噐〔(うつは)〕以て収養す。【以上、二種】並びに小にして微黃なり。蜜、皆、濃美〔(のうび)〕と云ふ。

山蜂(やまばち) 山巖・高峻の處に在りて、房を作る。卽ち、石蜜なり。其の蜂、黑色にして牛2(あぶ)に似れり。三つの者、皆、群居して、王、有り。王は衆蜂より大にして、色、青蒼。皆、一日に兩〔(ふた)〕たび、衞〔(ゑい)〕す。潮〔(しほ)〕に應じて上下す。凡そ、蜂の雄なる者は、尾、鋭(するど)なり。雌なる者は、尾に岐(また)あり。相ひ交(まぢ)はるの時は、則ち、黃、退〔(しりぞ)〕く。花を嗅(か)ぐ時は、則ち、鬚を以て鼻に代ふ。花を采〔(と)〕る時は、則ち、股を以て之を抱く。窠〔(す)〕の始めて營めること、必ず、一臺を造る。大いさ、桃李のごとく、王、臺上に居て、子を中に生ず。王の子、盡(ことごと)く復た、王と爲り、歳〔(とし)〕ごとに其の族を分〔(わかち)〕て、其の分を去るなり。或いは鋪〔(し)〕きて、扇のごとく、或いは圓〔(まどか)〕にして罌(もたい)のごとし。其の王を擁して去る。王の所在〔(あるところ)〕、蜂、敢へて螫さず。若し、其の王を失すれば、則ち、衆(みな)潰(つぶ)れて死す。其の蜜を釀(かも)すること、脾のごとし。之を蜜脾と謂ふ。凡そ其の蜜を取ること、多くすべからず。多き時は、則ち、蜂、飢えて蕃からず。又、少なくすべからず。少なき時は、則ち、蜂、惰(おこた)りて作らず。其の王は、毒、無し。嗚呼(あゝ)、王の毒無きことは、君の德似たり。窠を營(つく)ること、臺のごときは、國を處〔(たつ)〕るに似たり。子、復た、王と爲るは、分定するに似たり。王を擁して行くは、主を衞〔(まも)〕るに似たり。王の〔ある〕所、螫さざるは、法に遵(したが)ふに似たり。王、失する時は、則ち、潰るるは、節義を守るなり。取るに、惟だ中を得るは、什一〔(じふいつ)〕して税するに似たり。凡そ群蜂、旦(あし)たに出でて、午〔(ひる)〕の時、花蘂〔(くわずゐ)〕等を銜(ふく)みて來つて衙竅〔(がけう)〕に入る。二つの大なる蜂、兩衙の竅〔(あな)〕の口に有りて、相ひ對して、群蜂、銜へ來たる所の花を改むるがごとし。若〔(も)〕し、花を銜へずして來たる者有れば、逐還〔(おひかへ)〕して入れず。争ひを拒(はゞ)む者有らば、則ち、群蜂、之を螫殺〔(さしころ)〕す。【「衙」は音、「牙」。天子の居(いどころ)を「衙」と曰ふ。「行く」を「駕〔(が)〕」と曰ふ。今、官府も亦、「衙」と曰ふ。】

[やぶちゃん注:「2」=(上){「匃」から一画目及び二画目を除去した内側}+(下)「虫」。]

蜂の子【氣味】甘、平、微寒。

按ずるに、蜂、人、觸(さは)らざれば、則ち、螫さず。如〔(も)〕し、巣の下に行けば、則ち追ひ來りて螫す。【蜂の羽に油を傳〔(つ)〕くれば、則、ち、敢へて動かず。】

 

[やぶちゃん注:蜂総論。であるが、概ね、蜜蜂を対象としている。

・『「本艸綱目」に云はく』とはあるが、以下は「本艸綱目」の抜粋抄録(主に「卵生類」の「蟲之一」の「蜜蜂」の記載)であるので(良安の見解も含まれている)、『 』で括ることをしない。向後も同じい。

・「故に一名、「1〔(ハン)〕」と曰ふ」東洋文庫版では、この「1」の下に『(規範)』と訳者の割注がある。以下に示された高高度に社会性昆虫として特化した、厳格な規範規律遵守の生物への褒賞的命名ということであろう。

・「野蜂」現行中国語では、膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属 Apis の野生種を指す。ウィキの「ミツバチ」によれば、ミツバチ属 Apis は現生種ではコミツバチ亜属 Micrapis、オオミツバチ亜属 Megapis、及びミツバチ亜属 Apis の三亜属の、計九種に分類される、とある。次の注も必ず参照のこと。

・「家蜂」養蜂種。本邦の場合はミツバチ属ニホンミツバチ Apis cerana japonica とセイヨウミツバチ Apis mellifera の二種が飼育されている。後者の人工移入は明治一〇(一八七七)年十二月二十八日に明治新政府内の勧農局がアメリカからイタリア国種のミツバチを購求、これを新宿試験場で飼養して試験したのが、恐らく、本邦初のセイヨウミツバチと考えられいる(「日本養蜂協会」公式サイト内の「日本の養蜂の歴史」に拠る)から、良安の時代には前者ニホンミツバチ Apis cerana japonica一種のみが日本の蜜蜂であった。

・「山蜂」恐らく、時珍の言うそれは、中国産の本邦には棲息しないミツバチ属 Apis の一種である可能性が強いように思われるが(色が有意に異なるように記載されてある)、本邦に限って言うと、前に注した通りで、その「日本の養蜂の歴史」の中にも、宝永五(一七〇八)年(本「和漢三才図会」完成の四年前)に『出版された、貝原益軒が日本で最初に体系的に編纂した生物誌である「大和本草」には、採蜜場所が異なっても、生産する野蜂、家蜂、山蜂はどれも同じミツバチであると述べられて』ある、とある。

・「石蜜」「せきみつ」と読んでおく。「ウチダ和漢薬」公式サイトである「生薬の玉手箱」の蜂蜜の記載の中に(コンマを読点に変更した)、『中国医学では、薬用として『神農本草経』の上品に「石蜜」が収載され、「心腹の邪気、諸驚癇痙を主治し、また五臓を安んじ、諸々の不足を主治する。気を益し、中を補い、痛みを止め、毒を解し、衆病を除き、百薬を和す。久しく服用すると志を強くし、身を軽くし、飢えることなく、老いることもない」とあります。石蜜とは高山巌石の間に営巣されたものから得た蜜のことであり、蜂が営巣する場所によって、木蜜や土蜜などと区別されていました』(前注通りである)。『『名医別録では「色白くて膏の如きものが良い」と記していますが、陶弘景はさらに蜂蜜の色や味について、石蜜は青赤で少し酸味があり、木蜜と呼んで食するもののうち』、『蜂が樹の枝にぶら下げて作るものは青白く、樹の空洞や人家で養蜂して作るものは白く味が濃厚で、さらに土蜜は土中に作るもので、青白くて酸味がある、と概要を述べています。アカシアやレンゲ由来の蜜は淡黄白色であり、ソバ由来の蜜が最も濃い褐色を呈するなど、蜂蜜の色は、蜜源となる植物種によって淡黄白色~褐色と異なり、また香りや味も異なります。陶弘景が云う青白い蜜とは、アカシアやレンゲ、あるいは百花蜜とよばれる雑蜜のように比較的淡い色を示すものであったと思われます。味については一般に果樹系の蜜は酸味が強いといわれることから、陶弘景が記した酸味のある蜜は果樹由来であったのでしょうか』とある。

・「牛2(あぶ)」(「2」=(上){「匃」から一画目及び二画目を除去した内側}+(下)「虫」。)「牛2」の二字に「アブ」とルビする。現行で「ウシアブ」と称した場合、狭義には双翅目短角(ハエ)亜目アブ下目アブ上科アブ科アブ亜科アブ属ウシアブTabanus trigonus 或いはその近縁種を指す。この類は平均して体長二センチ七ミリ内外で、灰色の地に暗色の斑紋を有し、雄の腹部両側は茶色を帯びる。日本各地に多く、は人畜を吸血し、は花や樹液に集まる。但し、この場合は吸血性の中大型のアブを広く指していると考えてよかろう。

・「一日に兩〔(ふた)〕たび、衞〔(ゑい)〕す」一日に二度、女王蜂(「女」とは言っていないが、出産をすると書いてあるのでかく記載して問題あるまい)のところに行って、警護を行う。無論、このような習性は、ない。採蜜行動の規則的なところから、帰還して女王蜂に蜜を献上するために参内するという擬人表現を用いたものであろう。

・「潮〔(しほ)〕に應じて上下す」蜂の終日行動や採蜜行動の記憶システムには太陽の位置を認識記憶し、それを仲間にダンスによって伝達するシステムが存在していることは広く知られているものの、潮汐現象(月の引力)というのは、私は聴いたことがない。石川誠男氏の「生き物の謎と神秘」の「ミツバチ社会と環境」にある、ハタラキバチの行動様式の記載(前段にダンスの非常に判り易い詳細記載もあるので必読!)よれば、伝達をするハタラキバチの『ダンスの最初の直線部分によって太陽の方向に対する餌のある方向を知り、円ダンスの動きの速さで餌までの距離を知る』という。『さて、ダンスの直線の方向と重力の方向との間の角度で太陽の方角に対する餌の方向を示すことが分かったが、太陽が雲に隠れて見えない時はどうだろうか。どこかに青空の一角でも見えている場合にはその青空からの偏光をミツバチの眼は感ずることができ、青空からの光線に含まれる偏光のパーセンテージと振動方向についての分析の能力によって実際には見えない太陽の位置を判定できるらしいのである。これに加えて、ミツバチは人が見ることのできない紫外線を見ることができ、薄曇りならば、雲が覆っていても太陽のある位置から他の場所よりも少し多く透過してくる紫外線を感じて太陽の位置を判定できるという。また、ここでは詳しく述べる余裕はないが、ミツバチは体内時計を持っており、時間の変化とともに変化する太陽の位置の変化を予測することが可能だという』と説明された後、『次に、重力の方向はどうして感知できるのだろうか。人の三半規管のような平衡器官を蜂は持っていない。しかし、蜂の頭部と胸部との境に頸部器官と呼ばれる簡単な器官があり、これによって重力に対する自分の体の位置を知ることができるという。ミツバチのおどり手も、またそれに追従する仲間も、垂直面上で自分の体軸と重力の方向とのずれを精密に測定することのできる器官を生まれながらに持っているのである。この収穫ダンスは光に対する行動から重力に対する行動への転換が行われたことになるが、この行動の転換は昆虫一般によく見られるものだという。ダンスをしている時に人為的に巣枠を青空の下に出して水平にすると、直線部の動きは太陽に対する実際の餌場の方向を指すという』とある。重力を感じる能力があるとすれば、蜂に月の引力を感ずる能力などあるはずがないと断ずることは出来ないであろう。

・「蜂の雄なる者は、尾、鋭(するど)なり。雌なる者は、尾に岐(また)あり」勿論、生物学的に誤りであるが、針を持つのがと捉得る気持ちは分らぬではなく、時珍はその殆んどがであり(一般にミツバチの一つの巣のの比率は全体の五~一〇%しかいないとされる。言わずもがな乍ら、ミツバチのは未授精であって単為生殖(染色体数はの半分))、に至っては女王蜂と交尾するためだけに生まれて来て、交尾直後に生殖器が女王蜂の体内に残って引き抜かれてしまい、必ず死んでしまうことなどを知れば、これ、卒倒しかねないこと請け合いである。

・「相ひ交(まぢ)はるの時は、則ち、黃、退〔(しりぞ)〕く」交尾する際には体の黄色い色が褪せる、というのである。私はミツバチの交尾を見たことはないが、こんな話は聴いたことがない。なお、信頼出来る記載によれば、ミツバチの♂♀の識別は、複眼の大きさで区別することが可能であるが、自然状態での判別は非常に難しいとある。

・「王の子、盡(ことごと)く復た、王と爲り」言わずもがな乍ら、これも誤認。

・「其の分を去るなり」新たな女王となることが決定したら、分家をし、その巣を去る。

・「鋪〔(し)〕きて、扇のごとく、或いは圓〔(まどか)〕にして罌(もたい)のごとし」(「もたい」のルビはママ。正しくは「もたひ」(「甕」の意)である)時に平たく敷いたようになって、見た目は扇のように連なったり、或いは丸(まあ)るい形で、一見、水や酒を入れる大きな甕(かめ)のようにも見える形状になって。ここは老婆心乍ら、新王が旧主の巣を離れる際の、恐るべき量の蜂の群れの空を飛ぶ形状を形容しているのである。

・「脾のごとし」脾(臓)のようである、の謂いであるが、これは現在の内臓器官の「脾臓」ではなく、所謂、漢方で言うところの「五臓六腑」、肝・心・脾・肺・腎の一つであるところの「脾」で、漢方医学では主に食物の消化吸収(ここでは蜂が採取して来たものを消化吸収して変容させて蜜を創り出す現象を相似的として喩えたのである)になどを掌ると考えられているもので、現代医学に照らし合わせると、膵臓に相似性を求めることが出来る。

・「蕃からず」読み不詳。「ばんからず」では如何にもである。「蕃」は繁殖して増えるの謂いであるから意味は判る。

・「分定」読み不詳。「わけさだめる」と訓じておくか。子の王に王としての権利を分与し、新たな国家・社会としての巣を作るように勅定するということか。

・「取るに、惟だ中を得るは、什一〔(じふいつ)〕して税するに似たり」前の蜜の採取を載道史観によって説明する場面である。人が蜂蜜を採取する際に多くもなく少なくもない、中庸の量を採るのが正しいというのは、君子が民草から十分の一の税をのみ徴収して、民の生活をも十全に保障してやるという仁の理(ことわり)に似、それが彼らの仁の世界と照応して適った行為であるからである、というのである。これはフレーザーの言うところの類感呪術的発想と言える。

・「旦(あし)た」原典画像では明らかに「且」であるが、誤字と採って例外的に訂した。

・「花蘂〔(くわずゐ)〕等」かく書く良安は、蜂蜜の主体は、花の蜜ではなく、これら花の蘂や(恐らくは脚に多量に附着しているところの花粉)を原料として想定していたのではないか、と私には読めるのである。

・「争ひ」漢字はママ。

・「群蜂、之を螫殺〔(さしころ)〕す」これは恐らく、別集団の蜂や、破壊目的で侵入してくるスズメバチ類などに対する防御・攻撃行動を観察した誤認である。]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蟲の用 / 卵生類 目録

    蟲之用

蚑行【和名波布】蟲之行也 蠢【無久女久】蟲之動※1也 螫【音釋】蟲之

 行毒也※2蠚並同【訓佐須】蜂蠆之類能※2人也 蛻【退税兩音】

 蟲之解皮也【訓毛沼久】 蟄【須古毛留】蟲之至冬隱不出也

※3【須太久】蟲之聲也詩召南※3※3草蟲 啾喞蟲之小聲也

         古今 秋の夜の明くるもしらす鳴く虫は我こと物や悲しかるらん

凡蟲魚之牝牡者牝大牡小也鳥獸之雌雄與人同而雌

 小雄大也

[やぶちゃん字注:「※1」=「扌」+{(「揺」-「扌」-(つくり)の下半分)+(その除去した下半分に「正」を置き、二画目の縦画を上に突き出す)}。「※2」は「蛬」から中央右に払う一画を除去した字体。「※3」=「口」+「要」。]

 

    蟲の用

「蚑行(は)ふ」は【和名、波布。】蟲の行(あり)くなり。 「蠢(むくめ)く」は【無久女久。】蟲の動※1(うご)くなり。 「螫(さ)す」は【音、釋。】蟲の毒を行なふなり。「※2」「蠚」並びに同じ。【訓、佐須。】蜂蠆(はち)の類、能く人を※2(さ)すなり。 「蛻(もぬ)く」は【退〔(タイ)〕・税〔(ゼイ)〕、兩音。】蟲の皮を解(ぬ)ぐなり。【訓、毛沼久。】 「蟄(すごも)る」は【須古毛留。】蟲の冬に至りて隱れて出でざるなり。

「※3(すだ)く」は【須太久。】蟲の聲なり。「詩」の「召南」に『※3※3〔(えうえう)〕たる草蟲』と云へり。 「啾喞〔(しうしつ)〕」は蟲の小さき聲なり。

         「古今」 秋の夜の明くるもしらず鳴く虫は我ごと物や悲しかるらん

凡そ蟲魚の牝牡(めすおす)は、牝、大きく、牡、小さし。鳥獸の雌雄は人と同じにして、雌、小さく、雄、大なり。

[やぶちゃん字注:「※1」=「扌」+{(「揺」-「扌」-(つくり)の下半分)+(その除去した下半分に「正」を置き、二画目の縦画を上に突き出す)}。「※2」は「蛬」から中央右に払う一画を除去した字体。「※3」=「口」+「要」。]

 

[やぶちゃん注:この「用」は各部の特徴・機能とか生物個体の生態といったような意味合いのパートと考えればよいと私は思っている。

・「蚑行(は)ふ」「蚑行」の二字で「は」。這(は)ふ(這う)、匍匐(ほふく)するの意。

・「蠢(むくめ)く」は「むぐめく」とも読める(東洋文庫は「むぐめく」とするが、原典には濁音はない)。カ行四段活用動詞で、蠢(うごめ)く・むくむくと動くの意。

・「動※1(うご)く」(「※1」=「扌」+{(「揺」-「扌」-(つくり)の下半分)+(その除去した下半分に「正」を置き、二画目の縦画を上に突き出す)})は「動※1」の二字に「うご」がルビされている。

・「毒を行なふ」毒を注入する。

・「※2」(「※2」=「蛬」から中央右に払う一画を除去した字体)も「蠚」も「さす」の意であるから、ここは面倒なので「さす」と訓じておく(「※2」の音は不詳。「蠚」の音は「カク・チャク・セキ・シャク」)。

・「蜂蠆(はち)」「蜂蠆」二字に「はち」とルビする。本来は、これで「ホウタイ」と音読みして、蜂と蠍(さそり)のことで転じて、小さくても恐ろしいものの喩えとして使われる熟語である。

・「蛻(もぬ)く」はカ行下二段活用動詞で、現代語ではカ行下一段に転じて「もぬける(蛻ける)」で、「抜けて外に出る・脱する・抜ける」で、所謂、蟬や蛇などが「脱皮する」の謂い。

・「蟄(すごも)る」は冬眠のために「巣籠(すごも)る」の意。

・「※3(すだ)く」(「※3」=「口」+「要」)は漢字では「集(すだ)く」と書く。虫が多く集まって鳴くの意。「※3」は本当は「喓」が正しい。

・『「詩」の「召南」』は「詩経」の「国風」の「召南」(国名)の詩篇「草蟲」の冒頭の句。この歌は、遠い地に仕事で行った夫を待ちわびる妻の心情を草摘み唄にした、実は恋歌(悲傷歌)である。

・「※3※3〔(えうえう)〕たる草蟲」「喓喓(えうえう)」は虫の声の擬声語(オノマトペイア)。

・「啾喞〔(しうしつ)〕」「しうしよく(しゅうしょく)」と読んでもよい。①小さな声を出す(この場合の「喞」はひそひそとした声を指す)。②沢山の声が交り合って騒がしいさま(この場合の「喞」は、頻りに耳にいらつく小五月蠅い声の意)。ここは①。

・「古今」「古今和歌集」。以下の一首は「卷第四 秋歌上」に載る三十六歌仙の一人、藤原敏行(?~延喜七(九〇七)年又或いは延喜元(九〇一)年とも)の歌(第一九七番歌)。

・「秋の夜の明くるもしらず鳴く虫は我ごと物や悲しかるらん」詞書があり、『是貞親王家(これさだのみこのいへの)歌合(うたあはせ)の歌』とある。これは岩波の新日本古典文学大系「古今和歌集」(小島・新井校注)注によれば、寛平五(八九三)年九月以前の歌合せであることが判っている。以下、通釈しておく。

――秋の長いはずの夜(よ)がほの白く明けてゆくのも知らずに……ただただ淋しく鳴き続けている虫よ……お前も私と同じごと……何かしらん、もの哀しい「ある」思いでも、これ、持っているのかい?――]

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、「卵生類」の前後に縦罫。目録は底本では三段で(一行ずつ上から下、次行へ、の順であるが、一段で示した。一部を濁音化して示した。各虫の同定は各項で行う。原典の目次内容の漢字は実際には総て、「卵生類」と同ポイントの大きさである。]

 

    卵生類

 

蜂(はち)

蜜(みつ)

蜜蠟(みつろう)

[やぶちゃん字注:「らう」はママ。]

土蜂(ゆするばち)

木蜂(みかばち)

大黃蜂(やまばち)【胡蜂】

露蜂房(はちのす)

赤翅那智(あかばち)

蠮螉(こしぼそ)【じがばち】

竹蜂(たけばち)

五倍子(ふし)【百藥煎】

阿仙藥(あせんやく)

螳蜋(かまきり)

桑螵蛸(おほじがふぐり)

雀甕(すゞめのたご)

(いらむし)

嘿(けむし)

蠶【白殭蚕(びやつきやうさん) 原蚕(なつご) 繭(まゆ)】

雪蠶(せつさん)【水蚕 石蚕 海蚕】

枸杞蟲(くこのむし)

青蚨(せいふう)

蝶(てふ)

燈蛾(ひとりむし)

鳳蝶(あげはてふ)

蜻蛉(とんぼう)【やんま 遊絲(かげろう)】

[やぶちゃん字注:「かげろう」はママ。]

水蠆(たいこむし)

樗雞(うちすゞめ)

棗貓(なつめむし)

斑貓(はんめう)

莞青(げんせい)

葛上亭長(くずのはむし)

地膽(にはつゝ)

蜘蛛(くも)

絡新婦(ぢよろうぐも)

草蜘蛛(くさぐも)

蠨蛸(あしたかぐも)

蟷(つちぐも)

壁錢(ひらたぐも)

蠅虎(はへとりぐも)【さそり】

[やぶちゃん字注:「【さそり】」はママ。次の項の衍字であろう。]

全蠍(ぜんかつ)【さそり】

蛭(ひる)

蟻(あり)

(いひあり)

螱(はあり)

青腰蟲(あをむし)

蛆(うじ)

蠅(はへ)

狗蠅(いぬばへ)

壁蝨(だに)

蝨(しらみ)

陰蝨(つびじらみ)

牛蝨(うしのしらみ)【龍蝨(たつのしらみ)】

2016/03/29

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 (序)

寺島良安「和漢三才図会」の「虫部」(私の最も生理的に苦手とする昆虫類である)の電子化注を始動する。

私は既に、こちら

卷第四十  寓類 恠類

及び

卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類

卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類

卷第四十七 介貝部

卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚

卷第四十九 魚類 江海有鱗魚

卷第五十  魚類 河湖無鱗魚

卷第五十一 魚類 江海無鱗魚

及び

卷第九十七 水草部 藻類 苔類

を電子化注している。総て、底本及び凡例は以上に準ずる(「卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」を参照されたい)HTML版での、原文の熟語記号の漢字間のダッシュや頁の柱、注のあることを示す下線は五月蠅いだけなので、これを省略することとし、また、漢字は異体字との判別に迷う場合は原則、正字で示すこととする。また、私が恣意的に送った送り仮名の一部は特に記号で示さない(これも五月蠅くなるからである。但し、原典にない補塡字は従来通り、〔 〕で示し、難読字で読みを補った場合も〔( )〕で示した(読みは注を極力減らすために本文で意味が消化出来るように恣意的に和訓による当て読みをした箇所がある。その中には東洋文庫版現代語訳等を参考にさせて戴いた箇所もある)。原典の清音を濁音化した場合も特に断らない)。ポイントの違いは一部を除いて同ポイントとした。この「蟲部」は三巻分(第五十二から第五十四)で恐らく、異様に長い時間がかかる(言っておくが、本文は原文を見ながら総て私がタイプしている。活字を読み込んだものではない。私は平凡社東洋文庫版の現代語訳しか所持していないからである)。ゆっくらと、お付き合い戴ければ幸いである。【2016年3月29日始動 藪野直史】

 

 

和漢三才圖會卷第五十二

  蟲部

 

蟲【音仲】乃生物之微者其類甚繁有足曰蟲無足曰豸裸毛

 羽鱗介之總名也與虫字不同

虫【音毀】乃古虺字蛇之屬1文字象形然俗讀仲音以蛇虫

[やぶちゃん字注:「1」は以下の絵文字。画像は平凡社東洋文庫版(現代語訳)からトリミングした。]

Musi

 之虫爲蟲豸之蟲今順非通用【和名無之】

有外骨内骨却行仄行連行紆行之異

有羽毛鱗介裸之形胎卵風濕化之異

以脰鳴咮鳴旁鳴翼鳴腹鳴胸鳴者謂小蟲之屬

 蠢動有靈各具性氣也蟲部分爲三類卵生化生濕生

 本草綱目所載凡一百六種今刋遠而繁補近而洩者

 記之耳

蝦蟆於端午日知人取之必四遠逃遁 麝知人欲得香

 輙自抉其臍 蛤蚧爲人所捕輒自斷其尾 2蛇膽

[やぶちゃん字注:「2」=「虫」(へん)+「冉」(つくり)。以下、特に言わない場合はこの順列。]

 曾經割取者見人則坦腹呈創物類之有知惜命如此

 不獨雞之憚爲犧也

張子和云蟲之變皆以濕熱爲主得木氣乃生得雨氣乃

 化豈非風木主熱雨澤主濕即故五行之中皆有蟲

 諸木有蠹諸果有螬諸菽有3五穀有螟螣蝥4 麥

[やぶちゃん字注:「3」=「虫」+「方」。「4」(上)「財」+(下)「虫」。]

 朽蛾飛栗破蟲出草腐螢化皆木之蟲也 烈火有鼠

 爛灰生蠅皆火之蟲也 穴蟻墻蝎田螻石蜴皆土之

 蟲也 蝌蚪馬蛭魚鼈蛟龍皆水之蟲也 昔有冶工

 破一釜見其斷處白中有一蟲如米蟲色正赤此則金

 中亦有蟲也


 

和漢三才圖會卷第五十二

  蟲部

 

蟲は【音、仲。】、乃ち、生物の微なる者、其の類、甚だ繁く、足、有るを「蟲」と曰ふ。足、無きを「豸〔(ち)〕」と曰ふ。裸・毛・羽・鱗・介の總名なり。虫の字とは同じからず。

虫は【音、毀〔(き)〕。】、乃ち、古へ、「虺」の字。蛇の屬。「1」〔の〕文字、形に象〔(かた)〕どる。然るに、俗、「仲(ちゆう)」の音に讀んで、「蛇虫(じやき)」の虫を以て「蟲豸(ちゆうち)」の蟲と爲〔(な)〕す。今、非に順ひて通用す。【和名、無之〔(むし)〕。】

[やぶちゃん字注:「1」は以下の絵文字。画像は平凡社東洋文庫版(現代語訳)からトリミングした。]

Musi_2

外骨・内骨・却行・仄行〔(そくかう)〕・連行・紆行〔(うかう)〕の異、有り。

羽毛・鱗介・裸の形(かたち)、胎・卵・風・濕・化の異、有り。

脰(くびすぢ)にて鳴き、咮(くちばし)にて鳴き、旁〔(わき)〕にて鳴き、翼(つばさ)にて鳴き、腹にて鳴き、胸にて鳴く者を以て、小蟲の屬と謂ふ。

[やぶちゃん注:以下、原典本文で示した通り、本来は全体が一字下げ。以下、原文を示してあるので、この注は略す。]

蠢動〔(しゆんどう)〕、有靈〔(いうれい)〕、各々性氣を具(そな)ふ。蟲の部、分けて、三類と爲〔(し)〕、卵生・化生・濕生〔たり〕。

「本草綱目」に載する所、凡そ一百六種、今、遠くして繁〔なる〕を刋(けづ)り、近くして洩(もる)ゝ者を補ひて、之に記すのみ。

蝦蟆〔(がま)〕は端午の日に於て、人、之を取るを知りて、必ず四(よも)に遠く逃げ遁(のが)る。 麝(じやかうじか)は、人、香を得んと欲するを知りて、輙〔(すなは)〕ち、自〔(みづか)〕ら其の臍〔(へそ)〕を抉〔(えぐ)〕る。 蛤蚧〔(とかげ)〕は人の爲めに捕らはるれば、輒〔(すなは)〕ち、自ら其の尾を斷つ。 2蛇〔(にしきへび)〕の膽〔(きも)〕を曾て割(さ)き取(と)らへらる者は、人を見れば、則ち、腹を坦(たいら)かにして創(きず)を呈(しめ)す。物類の知有りて命を惜しむこと、此くのごとし。獨り雞〔(にはとり)〕の犧(いけにへ)と爲〔(な)〕ることを憚るにあらず。

[やぶちゃん字注:「2」=「虫」+「冉」。]

張子和が云はく、「蟲の變、皆、濕熱(しつ〔ねつ〕)を以て主と爲(す)。木氣を得て、乃ち、生〔(しやう)〕じ、雨氣を得て、乃ち、化す。豈に風木、熱を主〔つかさど〕り、雨澤、濕を主るに非ずや。即ち、故に、五行の中に、皆、蟲、有り。諸々〔(もろもろ)〕の木に蠹〔(きくひむし)〕有り、諸々の果(このみ)に螬〔(こくそむし)〕有り、諸々の菽〔(まめ)〕に3〔(ほう)〕有り、五穀に螟〔(ずゐむし)〕・螣〔(はくひむし)〕・蝥〔(ねきりむし)〕・4〔(ざい)〕有り。 麥は朽ちて、蛾、飛び、栗、破れて、蟲、出づ。草、腐(く)ちて、螢〔と〕化するは、皆、木の蟲なり。 烈火に、鼠、有り。爛灰〔(らんくわい)〕に蠅を生ずるは、皆、火の蟲なり。 穴の蟻(あり)・墻(かき)の蝎(かみきりむし)・田の螻(けら)・石の蜴(とかげ)、皆、土の蟲なり。 蝌蚪(かいるのこ)・馬蛭(うまびる)・魚鼈(すつぽん)・蛟龍(みづち)、皆、水の蟲なり。昔し、冶工(いものし)有り、破一つ釜を破り、其の斷てる處を見るに、白中に、一蟲、有り。米蟲(よねむし)のごとく、色、正赤なり。此れ、則ち、金の中にも亦、蟲、有る。」とあり。

[やぶちゃん字注:「3」=「虫」+「方」。「4」(上)「財」+(下)「虫」。]

 

[やぶちゃん注:虫の総論部。

・「豸」音は他に「ヂ・ダイ」。大修館書店「廣井漢和辭典」には、ながむし(長虫)・はいむし(這虫)、『足のない虫類の総称』とし、良安の言うように、蛇っぽいニュアンスである。

・「虺」は「廣井漢和辭典」によれば、音は「キ」まむし(爬虫綱有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属 Gloydius のマムシ類)、蜥蜴(とかげ)、ひばかり(ヘビ亜目ナミヘビ科ヒバカリ属ヒバカリ Amphiesma vibakari。本種や近縁種は皆、無毒蛇であるが、ウィキの「ヒバカリ」によれば、『性質は温和。しかし、追いつめられると噛みつくような激しい威嚇行為を行うので、かつては毒蛇と考えられ』ていた。『和名の「ヒバカリ」は、「噛まれたら命がその日ばかり」と考えられていたことに由来する』(太字は引用元)とある)、小さな蛇などとある。

・「1」の字形は、「廣井漢和辭典」の解字によれば、『獣が体をふせ、背を高くして、えものをねらっている形』とする。

・「蟲豸(ちうち)」足のない虫の意。

・「今、非に順ひて通用す」現在、その誤りをそのままに(直さずに)通用させている、以ての外、という、これは実は良安らしい謂い方なのである。

・「外骨」現行の昆虫類の外骨格に極めて近い。

・「内骨」現行の内骨格は大型哺乳類のそれであるが、この場合は、体表が柔らかく、内部に骨のような節構造を持つ(或いはそのように感じられる)虫類(この場合は昆虫に限定されない本草学上の「蟲類」である点に注意)を指していよう。

・「却行」後ろに後退するように、退くように動くこと。昆虫綱内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属する一部の種の幼生であるアリジゴク(ウスバカゲロウ類の総てがアリジゴク幼生を経る訳ではない)などはそうである(但し、アリジゴクも初齢幼虫の時には前進して餌を捕える)。

・「仄行」傾いて斜めや横に動くこと。

・「連行」個体群が連なって動くこと。

・「紆行」巡りくねって動くこと。

・「胎・卵・風・濕・化」通常の仏教上の生物学では「四生(ししょう)」と称して、胎生・卵生・湿生(湿気から生ずること。蚊や蛙がこれに相当すると考えられた)・化生(けしょう:自分の超自然的な力によって忽然と生ずること。天人や物怪の誕生、死者が地獄に生まれ変わることなどを指す)の四種を挙げるが、ここはさらに恐らくは中国の本草学上から、風生(風の気から生ずること)が加えられているようである。

・「旁〔(わき)〕にて鳴き」蟬などの鳴き方を指すものか。他のものもあまりよく判らない。中国の本草学は実証を伴わずに、やたらにまず分類ありきの傾向がある(と私は思っている)。

・「蠢動」蠕動して蠢(うごめ)くこと。

・「有靈〔(いうれい)〕」霊魂を持っていること。

・「性氣」区別し得る個別の性質・気質。

・「本草綱目」明の李時珍の薬物書。五十二巻。一五九六年頃の刊行。巻頭の巻一及び二は序例(総論)、巻三及び四は百病主治として各病症に合わせた薬を示し、巻五以降が薬物各論で、それぞれの起源に基づいた分類がなされている。収録薬種は千八百九十二種、図版千百九枚、処方に至っては、一万千九十六種にのぼる。

・「遠くして繁〔なる〕を刋(けづ)り、近くして洩(もる)ゝ者を補ひて」日本人とって疎遠な種や細分化するとやたらに煩雑な種は削って、卑近な種で、しかも「本草綱目」から漏れているもの(本邦固有種など)を補って。

・「蝦蟆〔(がま)〕端午の日に於て、人、之を取る」中国では現在でも旧暦の五月には五毒(サソリ・ヘビ・ムカデ・トカゲ・ガマガエル)が出没する季節だとされる。この場合は、まさにその五毒を目出度い節句に合わせて捕獲して殺すことで、招福を願うという謂いであろうと私は読む。ガマの油採りではあるまい(但し、本草上の薬物採取の謂いもないとはいえないが、実際上はヒキガエルの毒は強く、漢方薬方としては一般的ではない)。因みに日本で言う場合の「蝦蟇(がま)」は両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus を指し、彼らが皮膚から強い毒を分泌することは御存じであろうが、実は有毒蛇である爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ヤマカガシ属ヤマカガシ Rhabdophis tigrinus が頸部から分泌する毒は、本種の毒に耐性を持つヤマカガシが本種を摂餌した際、その毒を蓄積して再利用しているということはあまり知られているとは思われない(というよりも、未だに日本本土の毒蛇はマムシだけだと思っているお目出度い連中が多いと私は感じている。ヤマカガシに深く咬まれて(奥歯に毒腺は接続している)死亡した例が実際にあることも知らずに、である)

・「四(よも)」四方。

・「麝(じやかうじか)」哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ(麝香鹿)属 Moschus の仲間。成獣のを誘うための性フェロモンを分泌する麝香腺を持つ。麝香腺は陰部と臍の間にある。無論、その嚢を抜き取って乾燥させたものが媚薬として人間が珍重する「麝香」である。

・「蛤蚧〔(とかげ)〕」音なら「ガフカイ(ごうかい)」。前の五毒の一つと捉えてもよいが、この場合、トカゲ類は広汎であり、漢方としても媚薬としてもポピュラーであるから、こっちは薬物としての採取の可能性が寧ろ、髙いようにも思われる。

・「2蛇〔(にしきへび)〕」「2」は「蚦」の俗字で、音なら「ゼンジヤ(ゼンジャ)・センジヤ(センジャ)」で「蚦」はまさにヘビ亜目ムカシヘビ上科ニシキヘビ科 Pythonidae に属する巨大蛇類を指す。

・「膽〔(きも)〕」これはもう漢方薬剤であろう。しかし、ここで「もう私の胆は取られましたよ」と腹を見せるニシキヘビというのは、何だか、妙に不憫である。

・「獨り雞〔(にはとり)〕の犧(いけにへ)と爲〔(な)〕る」アジアの農耕民の儀礼では、しばしばキジ目キジ科ヤケイ(野鶏)属セキショクヤケイ(赤色野鶏)亜種ニワトリ(鶏) Gallus gallus domesticus が生贄として神に捧げられる。

・「張子和」張志和(七三〇年?~八一〇年?)は中唐の詩人。字は子同。粛宗の時に待詔翰林に進んだが、事件に連座して左遷され、後に太湖の附近に隠棲、「煙波釣徒」と称した道家の徒であった。書画・音楽にも優れ、現在、その詩は殆んど残っていないものの、「漁歌子」など詞五首が知られる。著作には「玄真子」(十二巻)・「大易」十五巻があるので、ここはそれらの記載にあるものであろう。

・「濕熱」湿度と気温。

・「主と爲(す)」強い影響によって変化する。

・「木氣」五行の元素(エレメント)である、木・火・土・金・水に於ける、「木」に分類される「気」のこと。ここに限っては植物の「木」はイメージしない方が理解し易い。

・「雨氣」これは具体な「雨」(水分・湿気)を匂わせた五行の「水」に属する気である。

・「豈に風木、熱を主〔つかさど〕り、雨澤、濕を主るに非ずや」東洋文庫版では、『どうして風木(五行で風は木に属する)だけが熱を主(つかさど)り、雨沢だけが湿を主るということがあろうか』(雨沢は著しい水気のことか)とある。反語であって、「そうではない」、と言っているのであるが、要するに変化を起こさせるのは五行の「木」と「水」ではあるが、他の「火」「土」「金」のエレメントが掌っている(そこから生ずる)虫も当然、いる、というのである。

・「蠹〔(きくひむし)〕」現行の昆虫学では狭義には昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae に属する「木喰虫」を指すが、実際には恐らく、木質部や紙を食害する多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科 Anobiidae に属する「死番虫」や、書物を食害するとされた昆虫綱シミ目 Thysanura の「紙魚」(実際には顕在的な食害は認められないのが事実である)の仲間をも含んでいるようである。

・「螬〔(こくそむし)〕」以下の「ねきりむし」までの読みは東洋文庫版を参考にさせて戴いた。地虫(じむし)。多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ属コガネムシ Mimela splendens などの甲虫類の幼虫に多い、地中で丸まった状態でいる不活発な虫を指す。

・「菽〔(まめ)〕」豆。マメ科植物の中でも人が食用にする大豆・小豆・隠元などを指し、狭義には特に大豆のこと。

・「3〔(ほう)〕」(「3」=「虫」+「方」)「廣漢和」にも載らない。東洋文庫版では『苗を食べる虫』という訳者の割注がある。

・「螟〔(ずゐむし)〕」昆虫綱 Panorpida上目チョウ目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目メイガ上科メイガ科 Pyralidae に属するニカメイガ(二化螟蛾)Chilo suppressalis の幼虫など、水稲などの茎や芯葉に食入して食害する害虫を指す(食害されると枯死したり、不稔になったり、米が小さくなったりする)。和名は年二回発生(二化)することに由来する。

・「螣〔(はくひむし)〕」「廣漢和」にも載らない。中文サイトの字書に『專食苗葉的小青蟲』とある。いろいろとネット上の記載を見てみると、本邦ではどうも「芋虫」と同義的らしいという感じがする。そこでウィキの「イモムシ」を引いておく。『イモムシは、芋虫の意で、元来はサトイモの葉につくセスジスズメ』(鱗翅(チョウ)目スズメガ上科スズメガ科ホウジャク亜科コスズメ属セスジスズメ Theretra oldenlandiae)『やキイロスズメ』(スズメガ科コスズメ属キイロスズメ Theretra nessus)、『サツマイモの葉につくエビガラスズメ』(スズメガ科スズメガ亜科 Agrius Agrius convolvuli)『などの芋類の葉を食べるスズメガ科』(Sphingidae)『の幼虫を指す言葉である。決してイモのような風貌なのでイモムシなのではない。伝統的な日本人の食生活においてサトイモやサツマイモは穀物に次ぐ重要な主食作物であった。そのため、これらの葉を食害する巨大なスズメガ科の幼虫は、農村で農耕に携わる日本人にとって非常に印象深い昆虫であった。そのため、イモムシが毛の目立たないチョウやガの幼虫の代名詞として定着するに至ったと考えられる。よく名前の知られたイモムシには、ヨトウガ類』(鱗翅目ヤガ科ヨトウガ亜科 Hadeninae 或いはヨトウガ属 Mamestra の仲間)『の幼虫であるヨトウムシ』(夜盗虫:夜行性に由来)、『イチモンジセセリ』(鱗翅目セセリチョウ上科セセリチョウ科イチモンジセセリ属イチモンジセセリ(一文字挵:「せせる」は物をあちこち突っつきまわす意、「一文字」は後翅の裏の銀紋が一文字状に並んでいことに由来)Parnara guttata)はチョウ目(鱗翅目)セセリチョウ科に属するチョウの一種。特徴として後翅裏の銀紋が一文字状に並んでいるためこの名前がある。Parnara guttata)『等の幼虫でイネの害虫であるツトムシ、モンシロチョウ』(鱗翅目アゲハチョウ上科シロチョウ科シロチョウ亜科シロチョウ族モンシロチョウ属モンシロチョウPieris rapae)『の幼虫でキャベツ等を食害するアオムシ、シャクガ科』(鱗翅目シャクガ(尺蛾)科 Geometridae:幼虫の尺取虫に由来)『に属するガの幼虫のシャクトリムシ等がある』。

・「蝥〔(ねきりむし)〕」「根切り虫」は鱗翅目ヤガ科モンヤガ亜科 Agrotis 属カブラヤガ Agrotis segetum・同属タマナヤガ Agrotis ipsilon など、茎を食害するヤガ(夜蛾:ヤガ科 Noctuidae)の幼虫の総称で、一見すると、根を切られたように見えることからかく呼ばれているらしい。

・「4〔(ざい)〕」(「4」(上)「財」+(下)「虫」。)不詳。東洋文庫はルビさえ振っていない。識者の御教授を乞う。

・「麥は朽ちて、蛾、飛び」以下は化生の類いに含まれる生成と言える。

・「烈火に、鼠、有り」中国の想像上の生物である火鼠(ひねずみ)。「竹取物語」にも出る。ウィキの「火鼠」によれば、『火光獣(かこうじゅう)とも呼ばれ』、『南方の果ての火山の炎の中にある、不尽木(ふじんぼく)という燃え尽きない木の中に棲んでいるとされる。一説に、崑崙に棲むとも言われる』。『日本の江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では中国の『本草綱目』から引用し、中国西域および何息の火州(ひのしま)の山に、春夏に燃えて秋冬に消える野火があり、その中に生息すると述べられている』(そのうち、電子化する)。体重が約二百五十キログラムもある大鼠であって、毛の長さは五十センチメートルもあって、絹糸よりも細いとする。『火の中では身体が赤く、外に出ると白くなる。火の外に出ているときに水をかけると死んでしまうという』とある。

・「爛灰〔(らんばひ)〕」腐った灰。

・「墻(かき)」垣根。

・「蝎(かみきりむし)」カブトムシ亜目ハムシ上科カミキリムシ科 Cerambycidae のカミキリムシ(髪切虫)の類。

・「螻(けら)」直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ(螻蛄)類。

・「蝌蚪(かいるのこ)」の読みはママ。

・「馬蛭(うまびる)」教義のそれは、環形動物門環帯(ヒル)綱ヒル亜綱吻無蛭目ヒルド科 Whitmania 属ウマビルWhitmania pigra。オリーブ色の地に五本の黒い縦線をもつ派手なヒルで、体長一〇~一五センチメートル、中央部の体幅 二センチメートル内外と大きく、体は長い紡錘形で扁平。腹面には黒い斑点が縦に並び、側縁は淡黄色とおどろおどろしいが、実は貝類を摂餌し、非吸血性である。ここで言っているのはしかし、恐らくは見た目が良く似ている吸血性のチスイビル Hirudo nipponica のことではなかろうかと思われる。

・「魚鼈(すつぽん)」音は「ギヨベツ(ギョベツ)」で、カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属 Pelodiscus に属するスッポン(鼈)類。

・「蛟龍(みづち)」音は「カウリヨウ(コウリョウ)」(「リュウ」は慣用音)中国の龍の一種。或いは、姿が変態する龍の類の子(成長過程の幼齢期又は未成個体)ともされる。

・「冶工(いものし)」鋳物師。

・「米蟲(よねむし)」甲虫(コウチュウ)目多食亜目ゾウムシ上科オサゾウムシ科オサゾウムシ亜科コクゾウムシ族コクゾウムシ属コクゾウムシ Sitophilus zeamais としておく。和名は突出した口刎が象の鼻のように見えることに由来する。ウィキの「コクゾウムシによれば、『口吻で穀物に穴をあけて産卵し、孵化した幼虫は穀物を食い荒らす。気温が』摂氏十八度以下『であると活動が休止』、二十三度以上『になると活発に活動する』。一匹の『メスが一生に産む卵は』200個以上『とされる』。『米びつに紛れ込んだ場合、成虫は黒色なので気がつきやすいが、幼虫は白色なので気づきにくい』。但し、『どちらも水に浮くので慎重に米研ぎをすれば気づくことがある。もし万が一気づかずに炊いてしまったり、食べてしまっても害はない』。『赤褐色のコクゾウムシは、農家の間では越冬コクゾウムシ(冬を越している)、暗褐色はその年に孵化したものと言われている。(確証は低いが大体の農家はそのように判別していることが多い) また、光に反応するため、米に虫が湧いたという状態になった場合は、ムシロに米を広げてコクゾウムシを排除する方法をとっている』とあるが、私は一度、そうして排除し、十分に乾燥させた米を炊いて食ってみたことがあるが、言語を絶する不味さで、総て捨てた(恐らく彼らの排泄物によって汚染されていたものであろう)。最後に。

 

穀象の群を天より見るごとく

 

穀象を九天高く手の上に

 

數百と數ふ穀象くらがりへ

 

穀象に大小ありてああ急ぐ

 

穀象の逃ぐる板の間むずがゆし

 

穀象の一匹だにもふりむかず

 

穀象と生れしものを見つつ愛す

 

総て、偏愛する西東三鬼のである(リンク先は「やぶちゃん正字化版西東三鬼句集」)。]

和漢三才図会 虫類 始動

なんとなく……気持ちが萎えている……こういう時は――何かとんでもない電子化をするに若くはない……「和漢三才図会」の最も苦手なもの――虫類――をやろう……

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(5) 御靈の後裔

       御靈の後裔

 

 何人も今まで深く注意したかつたことは、御靈景政説が錬倉の本元に於て、却つて必ずしも強く主張せられないことである。從つて諸國の御靈社の、現に鎌倉から勸請したと稱するものも、尚意外なる色々の由緒を存し、更に又其外にも之と獨立して、珍しい信仰と傳説とがある。之を悉く曾て鎌倉に始まつて遠く流布したものと見ることは困難なやうである。そこで實地の比較を試みると、地方によつて無論若干の異同はあるが、大體次の如き諸點は、今日の社記や口碑の特徴として算へられる。さうして其大部分は鎌倉の本社の與り知らなかつたことであるらしい。

 第一には主として奧羽地方でいふ片目淸水、勿ち權五部が戰場からの歸途に靈泉に浴して箭の疵を治したといふ傳説である。例へば羽前東村山郡高櫤(たかたま)の八幡神社にも、景政の來り浴したといふ淸池があり、其折鎌倉より奉じ末つた八幡の鑄像を、岸の樛木(ヌルデ?)に掛けて置いたら、靈異があつたので此社を建立したと稱し、今も境内社の一つに御靈社がある(一) 羽後の飽海郡平田村の矢流川も、景政射られたる片目を此水に洗ふと稱して八幡の社がある。川に住む黃顙魚(かじか)は之に由つて皆片目なりと謂つて居る(二) 同じ山形縣の名所の山寺にも景政堂があつた。土地の蟲追祭に此堂から鉦太鼓を鳴らして追へば、蟲忽ち去ると謂つたのは正しく惡靈退治の信仰だが、玆にも景政の目洗ひ池片目の魚の話があり、此山即ち烏海の柵址とさへ言ふ者があつた(三) それから嶺を越えて福島の平野に下ると、城下の近くの信夫郡矢野目村は、景政眼の創を洗つて平癒した故に村の名が出來たといひ南矢野目には亦片目淸水がある。後世池中の小魚悉く左の目眇であるのは、疵の血が流れて此淸水にまじつたからといふさうである(四) 宮城縣では亘理郡田澤村柳澤といふ處に、景政を祭るといふ五郎宮一名五郎權現があつた。柳澤本來は矢抽澤(やぬきさは)であり、祭神が鏃を拔き棄てた故に此名があると説明せられた(五) 斯ういふ實例は多くなる程證據としては弱くなるが、それでもまだ奧州路ならば、爰だけは本物とも強辯することが出來る。よくよく説明の六つかしいのは、信州伊那の雲彩寺などの、やはり權五郎來つて眼の疵を洗つたと傳ふる故迹である。池の名を恨の池と呼んで居るのは、恐らくは別に同名の異人があつて、其記憶を誤つたことを意味するかと思ふが、玆でも其水に居る榮螈(いもり)は、今に至るまで左の眼が潰れて居ると謂つて居る(六) 要するに傅説の景政は單に超人的勇猛を以て世を驚かすのみで滿足せず、一應は必ず靈泉の滸に來て、神德を魚蟲の生活に裏書することになつて居たのである(七) 之に基づく信仰が一轉して眼病の祈願となり、例へば武州橘樹郡芝生村の洪福寺に、景政の守り本尊、聖德太子の御作といふ藥師坐像を、目洗ひ藥師と名けて崇敬したなどといふのは、至つて自然なる推移であつた。

[やぶちゃん注:「羽前東村山郡高櫤(たかたま)の八幡神社」ちくま文庫版や多くの記載では「たかだま」と濁る(しかし旧同村内にある山形県天童市大字長岡。現在の奥羽本線の「高擶駅」は「たかたまえき」と清音である)。しかし、ウィキの「高擶駅」によれば、『駅名は開業当初、当駅が所属していた高擶村(たかだまむら)からとられているが、読みが異なる。駅東に残る高擶の地名も「たかだま」と読んでいる。周辺の道路標識には「Takadama」とローマ字で綴られているが、JR東日本では「Takatama」としている。しかし駅の利用者や車掌の大部分は「たかだま」と呼んでいる』。『「擶」は非常に珍しい漢字であるが、音は「セン」、訓は「ただす」で』、『「擶」は、俗称「タモ」と呼ばれる「楡(ニレ)」の木に由来している』とあるから、村名としては濁音の「たかだま」が正しいようである。この神社は現在の山形県天童市清池(しょうげ)にある清池八幡神社である。この神社は寛治六(一〇六二)年に『源義家の家臣鎌倉権五郎景政が創建。本殿の背後には、目を射られた景政が矢を抜き取り、目を洗ったと伝える御手洗池がある。この伝承が清池の地名の由来である』旨と、天童市教育委員会の設置した案内板にあると、。個人サイト「全国巨樹探訪記」の「清池八幡神社のケヤキ」にある。

「樛木」この「樛」は狭義には「つが」で、裸子植物門マツ綱マツ目マツ科ツガ属ツガ Tsuga sieboldii であるが、本種はウィキの「ツガ」によれば、『日本の本州中部から屋久島にかけてと韓国の鬱陵島に分布する。暖温帯(照葉樹林)から冷温帯(落葉広葉樹林)の中間地帯(中間温帯林)に主に分布する』とあって山形はやや無理があるか? 他に一般名詞(「キュウボク」と音読み)すると、「枝が曲がり下がった木」の意を持ち、鋳造した八幡像を掛けるというのであれば、これは相応しいとも言えるか?

「ヌルデ」被子植物綱ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis であるが柳田自身「?」を附しており、「樛」がヌルデを指すという事実も見当たらないので、これは考証するだけ無駄である気もする。

「羽後の飽海郡平田村の矢流川も、景政射られたる片目を此水に洗ふと稱して八幡の社がある」現在の山形県酒田市内。地図を検索した結果、山形県酒田市生石矢流川という行政地名が現存し、ここは西で東平田地区と接しており、矢流川の北端には八幡神社があるので、ここと推定される。

「黃顙魚(かじか)」条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux 及びその同属種。ゴリ・ドンコとも呼ばれる。

「山形縣の名所の山寺にも景政堂があつた」山形県山形市の天台宗宝珠山立石寺(りっしゃくじ)であるが、私は三度行ったが、記憶の中に「景政堂」はない。公式サイトの地図にも見当たらない。本文が「あつた」と過去形になっているのが気になる。識者の御教授を乞う。

「蟲追祭」虫送り。稲の虫害を防ぐための民間祭事。多くは五~八月頃に行われ、藁人形を中心に松明を連ね、鉦・太鼓で囃し立てながら田の畦をねり歩き、最後に人形は海や村境の川に流すか焼き捨てる。

「信夫郡矢野目村は、景政眼の創を洗つて平癒した故に村の名が出來たといひ南矢野目には亦片目淸水がある」現在の福島県福島市にある矢野目地区(行政地名では北矢野目と南矢野目がある)で、現在、この清水は「片目清水公園」(片目清水・めっこ清水)となって、湧水が保全されている。個人サイトと思われる「福島の歴史あっちこっち」のこちらを参照されたい。

「亘理郡田澤村柳澤といふ處に、景政を祭るといふ五郎宮一名五郎權現があつた」現在の宮城県亘理(わたり)郡亘理町逢隈田沢(おおくまたざわ)附近かと思われるが、権現は確認出来ない。ウェブサイト「いざ鎌倉」の「武士列伝鎌倉景政」に『矢抜沢(亘理町逢隈田沢字柳沢)という地名があり、矢抜沢のほとりに「権五郎矢抜石」という石があ』ると記す。この石については、現在は、『耕地整理のために』『逢隈田沢地区の民家入り口にあ』るとして、こちらの Nachtigall Blaue の写真で現認出来る。

「信州伊那の雲彩寺」現在の長野県飯田市上郷飯沼にある曹洞宗白雉山雲彩寺。この寺は境内にある前方後円墳で知られるが、その北東の端に宝篋印塔と五輪塔(二基)が造立されており、これを権五郎景政の墓と伝承する。

「池の名を恨の池と呼んで居る」個人サイト「戦国時代の城」の「景政と神社」に、この雲彩寺について、雲彩寺境内にある「うらみ池」を挙げ、ここの『清水のいもりは左の眼が潰れているという。うらみのわけはわからない。 権五郎景政はしばらくこの寺にいたという』と記す。

「武州橘樹郡芝生村の洪福寺に、景政の守り本尊、聖德太子の御作といふ藥師坐像を、目洗ひ藥師と名けて崇敬」現在の神奈川県横浜市西区浅間町にある臨済宗海東山洪福寺。いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」のこちらに詳しい。それによれば、「新編武蔵風土記稿」に、『今の客殿七間に五間ここに安せし薬師は、鎌倉権五郎景政が守り本尊にて、目洗薬師と云坐像丈三寸五分聖徳太子の作なり』とある由の記載がある。]

 第二の特微として注意すべきは、景政が神を祭り佛堂を建立し神木を栽ゑ又塚を築いたといふ口碑が、北は奧羽から南は九州にも及んで居ることである。即ち此人の神に祀られるに至つた主たる理由は、自身が先づ非常に信心深く、より大なる神に事へて最も敬虔であつた故に、其餘德を以て配祀を受けたといふものの多いことである。是にも澤山の例を擧げ得るが、先を急ぐから省略する。奧羽の方面の例は前に述べたが、九州に於てもやはり主神を八幡とし、男山石淸水を勸請したといふ場合が多く、大抵今は相殿の一座を占めさうで無ければ境内の主要なる一社であることが、若宮と八幡との關係によく似て居る(八) 十六歳の時に眼を射られて全治したと言ふ以外に、是といふ逸話もなかつた權五郎としては、實際主人の八幡太郎と緣の深かつた八幡神の關係を除いては、斯樣に弘く祭られる理由は考へやうが無いわけである。

[やぶちゃん注:「男山石淸水」京の石清水八幡宮は旧称「男山八幡宮」と称した。

「若宮と八幡との關係」この二語はしばしば同義としても用いられるが、ここで柳田國男は明らかに異なったものとして述べている。「若宮」は神道の祭祀に於いては、「主祭神である親神に対して御子(みこ)神とその社」を指す他、「本宮を他所に移して勧請して祀った社」の謂いであり、特に後者には特に、「祟りをなす御霊として怖れられた霊を祀る社及びその神」を含んだ。一方八幡神は最も早い神仏習合神で、参照した「大辞林」によれば、『本来は豊前国(大分県)宇佐地方で信仰されていた農業神とされ』、宝亀一二・天応元(七八一)年に『仏教保護・護国の神として大菩薩の号を贈られ』、以後、『寺院の鎮守に勧請されることが多くなった。また』、『八幡神を応神天皇とその母神功皇后とする信仰や』、平安末期以降は、『源氏の氏神とする信仰が生まれ』、『武神・軍神としての性格を強めた』とある。柳田の謂わんとするところは、強いパワー(言っておくが祟りだけではない)を持つ御霊神と武芸神である神仏習合の八幡菩薩神との宗教学的民俗学的関係という謂いで採る。]

 第三の特徴は、此神が常に託宣に依つて、神德を發揮したらしきことである。品川の東海寺に在る鎭守の御靈社は、長一尺四寸幅三寸餘の板を神體とするが、是は曾て當寺門前の海岸に漂著したものであつた。これを祀つた小丘を景政塚といひ、景政の塚は是だと謂つて居たが(九) 突然にそんな事の知れたのは神の告でおつたらう。告を信じたのは祟があつたからかと思ふ。もつと明白なのは福島郡仁井田の滑川(なめかは)神社の御靈である。景政征奧の途次此地に於て水難に遭ひ、村の人に助けられて謝禮の歌を短册に書いて殘したといふものが、四百十餘年後の文明三年に、始めて神體として此地に祭られたのである。それから又九十年後にも、領主の滑川修理が新館を築く際に託宣があつて、舊恩を謝する爲に此地に鎭護せんと告げた。さうして今日まで八幡天神と合祀せられて居るのである(一〇)斯ういふ隱れたる事由が無かつたなら、多くの御靈杜の口碑は實は虛妄になるのであつた。記錄の證跡は無くとも由來談は自由に成長して、聽く人の之を疑ひ得なかつたといふのは信仰である。最初至つて不明であつた權五郎の事蹟が、世を逐うて次第に精しくなつたのは此結果と見るの他は無い。從つて古くは吾妻鏡に記す所の、鎌倉の女房の夢に見えた景政なども、或は間接に今日の御靈社社傳に參與して居るのかも知らぬ。たゞ問題は如何にして其樣な夢が、語られることになつたかに歸著するのである。

[やぶちゃん注:「品川の東海寺に在る鎭守の御靈社」「これを祀つた小丘を景政塚」既出既注

「長一尺四寸幅三寸」全長四十二・四二センチメートル、幅九・〇九センチメートル・

「福島郡仁井田の滑川(なめかは)神社」現在の福島県須賀川市宮の杜にある滑川神社。

「文明三年」室町末期の一四七一年。

「それから又九十年後」戦国時代の永禄四(一五六一)年。]

 最後に一番重要なる特徴は、諸國に景政の後裔の段々に顯れて來たことである。その中で目ぼしきものは上州白井の長尾氏、是は系圖にも景政の後と書いて、熱信に御靈を祀つて居た[やぶちゃん字注:「熱信」はママ。](一一)信州南安曇の温(ゆたか)村にも其一派が居住し、後に越後に移つて謙信を出したのである(一二)奧州二本松領の多田野村に於て、御靈を祀つたのも長尾氏であつた。只野油井などの苗字に分れて、今も彼地方に榮えて居る。子孫五流ありといふ説なども彼等から出たのである(一三)長州藩の名家香川氏も亦景政の後といひ、其郷里安藝の沼田郡八木村には景政社があつた。近世改修して眇目の木像が神體として安置せられてあつた(一四)野州芳賀郡七井村大澤の御靈神杜なども、神主の大澤氏はもと別當山伏であつて、寺を景政寺と稱し梶原景時の裔と言つて居た。景時此地を領する時に建立したと傳へるが、社は八幡三所を主神として之に權五郎を配し、更に今では日本武尊の御事蹟を語る所から、其從臣の大伴武日尊をさへ合祀して居るのである(一五)其他能登では鳳至郡谷内(やち)村、打越の與兵衞といふ百姓が、鎌倉權五郎の子孫であり(一六)東國にもたしか同じ言ひ傳へを持つ農民があつた。

[やぶちゃん注:「上州白井の長尾氏」南北朝時代の山内上杉憲顕の有力家臣であった長尾景忠が始祖とされる上野(こうずけ)長尾氏。憲顕が越後国及び上野国の守護に補任され、その下で守護代を務めてそこに地盤を固めた。

「信州南安曇の温(ゆたか)村」現在の安曇野市三郷温(みさとゆたか)。

「謙信」彼の旧名は長尾景虎。

「奧州二本松領の多田野村」現在の福島県郡山市逢瀬町多田野附近。後注に出るように旧安積(あさか)郡。

「只野」ウィキの「鎌倉氏」を見ると、『景正の嫡子の鎌倉景継が後を継ぎ、さらにその息子の義景が三浦郡長江村にて長江氏を称し、義景の弟である重時は板倉重家の跡を継いで板倉氏を称した。景正の息子景門は安積氏を称し、その末裔は只野氏(多田野氏)を称した』とある。

「子孫五流あり」ウィキの「鎌倉氏」を見ると、支流・分家として、板倉氏・安積氏・只野氏・香川氏・古屋氏・梶原氏・酒匂氏・大庭氏・長尾氏・長江氏が挙げられてある。

「長州藩の名家香川氏」ウィキの「香川氏」によれば、『相模国を本貫地とする一族で、鎌倉景政より四代の孫にあたる鎌倉景高が相模国高座郡香河(現在の神奈川県茅ヶ崎市周辺)を支配して以降、香川氏を称したのに始まる』とある。

「安藝の沼田郡八木村には景政社があつた」現在の広島県広島市安佐南区八木。ウィキの「八木(広島市」に「権五郎神社」として、『八木城主香川氏の祖先「鎌倉権五郎景正」を祀る。香川家七代目の景光が八木城築城と共に景正の霊を勧請し、子孫が代々祭ってきた』とあるから、現存する。

「野州芳賀郡七井村大澤の御靈神杜なども、神主の大澤氏はもと別當山伏であつて、寺を景政寺と稱し梶原景時の裔と言つて居た」現在の栃木県芳賀郡益子町大沢にある御霊(みたま)神社のことと思われる。

「大伴武日尊」「おほとものたけひのみこと」と読む。「日本書紀」等に出る人物。大伴連(大伴氏)の遠祖とされ、ここに出るように、日本武尊東征の際の従者の一人。

「鳳至郡谷内(やち)村」「鳳至」は「ふげし」と読む。現在の石川県輪島市或いは鳳珠(ほうす)郡穴水町或いは鳳珠郡能登町内のどこかでは、ある(「谷内」という地名は字まで含めると複数あり、特定出来なかった)。]

 自分は今に及んで彼等が系譜の眞僞を鑑定せんとするやうな、念の入り過ぎた史學には左袒する氣は無い。眞にせよ僞にせよ、はた巫覡の夢語りにせよ、何故に當初斯樣な事を信ずべき必要があり、それが又地を隔てゝ此通り一致したか、別の言葉で言へば、景政を先祖に有つといふことの意義如何。所領相傳の證據にもならず、乃至は血筋の尊貴を誇るべき動機でも無しに、尚此類の由緒を大切にした所以のものは、別に何か目の一つしか無い人の子孫であることが、特に神寵を專らにすべき隱れたる法則があつたのでは無いか。陸前小野郷の永江氏の如きは、鬱然たる一郡の巨姓であつて、必すしも御靈の信仰に衣食した者で無いにも拘らず、寺を興し社を崇敬して、頗るかの地方の景政遺迹を、史實化した形がある。白井の長尾氏、藝州の香川氏なども其通りで、是は寧ろ家の祖先の言ひ傳への中に、偶然に眼を傷けたる物語が保存せられて居た爲に、進んで解釋を著名の勇士に近づけた結果かも知れぬ。さうすれば又源に遡つて、鎌倉の御靈に奉仕した梶原其他の近郷の名族が、却つて今ある保元物語の奇談の種を、世上に供給するに至つた事情もわかるのである(一七)但し如何なる場合にも、傳説の原因は單純で無いのが常である。殊に其發生が古ければ、一層之を分析することが面倒である。長たらしくなるが此序で無いと、こんな問題を取扱ふことは出來ぬ故に、今少しく辛抱して神と片目との關係を考へて行かうと思ふ。

[やぶちゃん注:「左袒」「さたん」と読む。「袒」は衣を脱いで肩を露わにする意で、前漢の功臣周勃(しゅうぼつ)が呂氏(りょし)の乱を鎮定しようとした際、呂氏に味方する者は右袒せよ、劉氏(りゅうし:漢の皇室一族)に味方する者は左袒せよ、と軍中に申し渡したところ、全軍が左袒したという「史記」呂后本紀の故事に拠る。味方すること。

「巫覡」「ふげき」既出既注

「陸前小野郷現在の宮城県東松島市内か。

「永江氏」柳田は「鬱然たる」(勢いよく盛んなる)「巨姓」(一大豪族の氏の姓(せい))と述べているが、私には不詳。識者の御教授を乞うものである。]

(一)明治神社誌料に依る。

(二)莊内可成談。和漢三才圖會卷六五に、烏海山の麓の某川とあるのも同じ處のことらしい。

[やぶちゃん注:「莊内可成談」は「しやうないなるべしだん(しょうないなるべしだん)」と読む(ちくま文庫版全集に拠る)。井上円了の「妖怪学講義」にも引かれる著作ながら、詳細は不明。所持する二〇〇一年柏書房刊「井上円了妖怪学全集」(東洋大学井上円了記念学術センター編)第六巻にある、編者による「妖怪学参考図書解題」にも未詳とするが、円了の引用内容から、『荘内地方記の奇聞・怪異などの話を集めた図書と思われ』、「図書総目録」にある「庄内可成談抄」『(随筆・写本・東大〔大泉叢誌一八〕の記述があり、同一本と思われる』とある。

「和漢三才圖會卷六五に、烏海山の麓の某川とある」「和漢三才圖會」は江戸中期の大坂の医師寺島(てらじま)良安によって、明の王圻(おうき)の撰になる「三才圖會」に倣って編せられた百科事典。全百五巻八十一冊、約三十年の歳月をかけて正徳二(一七一二)年頃(自序のクレジットから推測)完成、大坂杏林堂から出版されたもの。その地誌相当部の「出羽」の「鳥海山權現」の条の条に以下のようにある(やや長いが、非常に興味深いので引く。電子化は原文を私が視認し、私がオリジナルに書き下したものである。「祭神」以下は原本では全体が一字下げである)。

   *

原文(【 】は二行割注)

鳥海山權現 在鳥海山

祭神 未詳

慈覺大師始登山【云云】最髙山常有雪潔齋六七月可登而山頂無寺社唯見奇磐窟也麓有社俗傳曰鳥海彌三郎靈祠也有川鎌倉權五郎景政與鳥海彌三郎戰被射右眼放答矢射殺敵後後拔鏃到此川洗眼【云云】此川有黃顙魚一眼眇也

陸奥話記云安東太郎賴時自稱安倍將軍押領奥羽二州有四男一女嫡子盲目二男安東太郎良宗三男厨川次郎貞任四男鳥海彌三郎宗任也【天喜五年九月】源賴義奉勅攻賴時於是賴時中矢死貞任力戰而賴義同義家敗軍【康平五年】復征伐遂討貞任虜宗任【二男良宗降免罪去女子爲義家之妾】自此鳥海彌三郎爲義家之臣而後【寛治五年】義家征伐武衡家衡時鎌倉權五郎景政【生年十六】合戰所射右眼【自康平五年三十年以後】以之考則其射者非鳥海彌三郎明矣但其戰塲乃此鳥海邊乎舊彌三郎所領也故以鳥海爲稱號然不知祭其靈所以爲神也

やぶちゃんの書き下し文(原文の訓点はカタカナ。〔 〕は私の補填。一部の略字や歴史的仮名遣の誤りを訂し、一部の清音を濁音化した)

鳥海山權現 鳥海山に在り。

祭神 未だ詳らかならず。

慈覺大師、始めて登山すと【云々】。最も髙山にして、常に、雪、有り。潔齋して、六・七月、登るべし。而〔れども〕山頂に、寺、無く、社、唯だ、奇(あや)しき磐窟(いはや)見るのみ。麓に社有り、俗に傳へて曰く、鳥の海の彌三郎の靈祠なりと。川有り、鎌倉權五郎景政、鳥の海彌三郎と戰ひて、右の眼を射〔らるるも〕、答(たふ)の矢を放(はな)ち、敵を射殺して後に、鏃(やじり)を拔き、此の川に到り、眼を洗ふと【云々】。此の川に黃顙魚(かじか)有り、一眼は眇(すがめ)なり。

「陸奥話記」に云ふ。安東太郎賴時と云ふもの、自(おのづか)ら「安倍將軍」と稱(なの)り、奥羽二州を押領す。四男一女有り、嫡子(ちやくし)は盲目なり。二男は安東太郎良宗、三男は厨川(くりやかは)の次郎貞任(さだとふ)、四男鳥海彌三郎宗任なり。【天喜五年九月、】源賴義、勅を奉じて、賴時を攻む。是に於いて、賴時、矢に中りて、死す。貞任、力戰して賴義と同じく義家、敗軍す。【康平五年、】復た征伐して遂に貞任を討ち、宗任を虜(いけど)る。【二男良宗、降りて罪を免かれ、去る。女子は義家の妾と爲る。】此れより、鳥海彌三郎義家の臣と爲る。而して後、【寛治五年、】義家、武衡・家衡を征伐の時、鎌倉の權五郎景政【生年十六。】、合戰し、右(めて)の眼を射らる【康平五年より三十年以後。】。之れを以つて考へれば、則ち、其の射たる者は鳥海彌三郎に非ざること、明なり。但し、其の戰塲は乃ち此の鳥海の邊ならんか。舊(もと)彌三郎が所領なり。故に鳥海を以つて稱號と爲す。然れども、其の靈を祭りて神と爲る所以を知らざるなり。

   *

以上の引用に就いて禁欲的に注する。「鳥の海の彌三郎」が安倍「宗任」(長元五(一〇三二)年~嘉承三(一一〇八)年)の別名で、同一人物であるというのは既に既注であるが、例えばウィキの「安倍宗任によれば、『奥州奥六郡(岩手県内陸部)を基盤とし、父・頼時、兄・貞任とともに源頼義と戦う(前九年の役)。一族は奮戦し、貞任らは最北の砦厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害されるが、宗任らは降服し一命をとりとめ、源義家に都へ連行された。その際、奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろうと侮蔑した貴族が、梅の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と歌で答えて都人を驚かせたという』(『平家物語』剣巻)。その後、彼は『四国の伊予国に流され、現在の今治市の富田地区に』三年住んだが、その後、『少しずつ勢力をつけたため』、治暦三(一〇六七)年に『九州の筑前国宗像郡の筑前大島に再配流された。その後、宗像の大名である宗像氏によって、日朝・日宋貿易の際に重要な役割を果たしたと考えられる。また、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するために安昌院を建て』、嘉承三年二月四日に七十七歳で亡くなったとあるのを見ても、この景政武勇伝がデッチアゲ(少なくとも景政を射たのは鳥海弥三郎安倍宗任なんかではない)ということがお分かり戴けよう。但し、実在した鎌倉景政(景正)(延久元(一〇六九)年~?)と同時代人ではある(但し、宗任の方が三十七も年上で、実在の景政十六の砌りとしたら、宗任は実に五十三歳である。絵にならない)。

・「鳥海山權現」「麓に社有り」現在の山形県飽海(あくみ)郡遊佐町(ゆさまち)にある鳥海山大物忌(ちょうかいさんおおものいみ)神社を指し、これは鳥海山頂(標高二二三六メートル)の本社、麓にある吹浦(ふくら)と蕨岡(わらびおか)の二か所の口之宮(里宮)の総称。鳥海山そのものを神体山とする。寺島は「祭神 未だ詳らかならず」と言っているが、現在でもその祭神とする大物忌神(おおものいみのかみ)はここ鳥海山に宿るとされる神とばかりで、よく判っていない。恐らくは活火山としてたびたび噴火したことから、火山の噴火を神の怒りとした、非常に古い(恐らくは大和朝廷以前)山岳信仰に基づくものと思われ、また、ウィキの「鳥海山」には、『秋田県の郷土史家田牧久穂は、大物忌神は大和朝廷による蝦夷征服の歴史を反映し、蝦夷の怨霊を鎮める意味の神名だと述べている』ともあって、大和朝廷嫌いの私にとっては非常に興味深い。本話から考えると、川が近くなくてはならないので、ここで寺島が言うのは蕨岡の方かと推測される。

・「慈覺大師」遣唐僧で第三代天台座主として関東以北に驚くべき数の寺を建立したとされる伝説の名僧円仁(延暦一三(七九四)年~貞観六(八六四)年)。

・「陸奥話記」「前九年の役」を主題とした軍記物。一巻。「将門記」とともに軍記物のはしりで、十一世紀後半の成立とされる。作者は未詳ながら、後冷泉天皇朝にあって文章博士や大学頭を歴任した、「本朝文粋(もんずい)」の作者として知られる儒学者で文人の藤原明衡(あきひら 永祚元(九八九)年?~治暦二(一〇六六)年)はとする説が有力。

・「安東太郎賴時」(?~天喜五(一〇五六)年)は陸奥国奥六郡を治めた俘囚の長(おさ)(俘囚は陸奥・出羽の蝦夷の中で朝廷の支配に属するようになったもの)。ウィキの「安倍頼時によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『孫に奥州藤原氏の初代藤原清衡がいる』。『安倍氏は奥六郡に族長制の半独立勢力を形成しており、十一世紀の半ばには安倍氏が朝廷への貢租を怠る状態となった。永承六年(一〇五一年)には、陸奥守・藤原登任が数千の兵を出して安倍氏の懲罰を試みたため、頼良(のちの頼時)は俘囚らを動員して衣川を越えて国衙領へ侵攻し、鬼切部の戦いにおいて国府側を撃破した(前九年の役)。朝廷では源氏の源頼義を新たに陸奥守に任命して派遣するが、頼義が陸奥に赴任した翌永承七年(一〇五二年)春、朝廷において上東門院藤原彰子の病気快癒祈願のために安倍氏に大赦が出され、頼良も朝廷に逆らった罪を赦されることとなった。頼良は頼義と名の読みが同じことを遠慮して「頼時」と改名した』。『天喜四年(一〇五六年)、頼義が任期満了で陸奥守を辞める直前、多賀城へ帰還中の頼義軍の部下の営所を何者かが夜襲したとされ、その嫌疑人として頼義が頼時の嫡子・貞任の身柄を要求した(阿久利川事件)。頼時は頼義の要求を拒絶して挙兵し、頼義に頼時追討の宣旨が下った』。『天喜五年(一〇五七年)七月、反旗を翻した一族と見られる豪族・安倍富忠を説得するために頼時は北上したが、仁土呂志辺においてに富忠勢に奇襲を受け、流れ矢を受けて深手を負った。重傷の身で鳥海柵まで退却したが、本拠地の衣川を目前に鳥海柵で没し、貞任が頼時の跡を継いだ』とある。これに従うなら、彼に矢を射たのは裏切った同族の者であって、寺島が記すような「源賴義」が「賴時を攻」めて、その戦さの最中に「矢に中りて、死」んだのでさえない、ということになる。

「安東太郎良宗」不詳。安東姓は安倍の別称。

「厨川の次郎貞任」安倍氏の棟梁となった安倍貞任(寛仁三(一〇一九)年?~康平五(一〇六二)年)。ウィキの「安倍貞任によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『永承六年(一〇五一年)に、安倍氏と京都の朝廷から派遣されていた陸奥守・藤原登任との争いに端を発して、以降十二年間にわたって続いた前九年の役において、東北各地に善戦する。登任の後任として源頼義が翌永承七年(一〇五二年)に赴任すると、後冷泉天皇祖母・上東門院(藤原彰子)の病気快癒祈願のために大赦が行われ、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることとなったが、天喜四年(一〇五六年)に、阿久利川において藤原光貞の営舎が襲撃される阿久利川事件が起こると、頼義は事件の張本人と断定された貞任の身柄を要求し、父の頼時がこれを拒絶して再び開戦となる。天喜五年(一〇五七年)、安倍頼時が戦死したため貞任が跡を継ぎ、弟の宗任とともに一族を率いて戦いを続けた』。『同年十一月には河崎柵に拠って黄海(きのみ、岩手県一関市藤沢町)の戦いで陸奥守・源頼義勢に大勝している。以後、衣川以南にも進出して、勢威を振るったが、康平五年(一〇六二年)七月、国府側に清原氏が頼義側に加勢したので形勢逆転で劣勢となり、安倍氏の拠点であった小松柵、・衣川柵・島海柵が次々と落とされ、九月十七日には厨川柵の戦いで貞任は敗れて討たれた。深手を負って捕らえられた貞任は、巨体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取ったという。享年四十四、もしくは三十四』ともされる。『その首は丸太に釘で打ち付けられ、朝廷に送られた(この故事に倣い、後年源頼朝によって藤原泰衡』『の首も同様の措置がされた。平泉の中尊寺に現存する泰衡の首には、釘の跡が残っている)。なお、弟の宗任は投降し、同七年三月に伊予国に配流され、さらに治暦三(一〇六七)年太宰府に移された』。『背丈は六尺を越え、腰回りは七尺四寸という容貌魁偉な色白の肥満体であった(『陸奥話記』による記述)。衣川柵の戦いにおいては、源義家と和歌の問答歌をしたとされる逸話も知られる』とする。なお、「今昔物語集」には、『安倍頼時(貞任の父)は陸奥国の奥に住む「夷」と同心したため』、『源頼義に攻められ、貞任・宗任兄弟らは一族とともに「海の北」(北海道)に船で渡り』、『河の上流を三十日余り遡った当たりで「湖国の人」の軍勢に遭遇した、と伝えられている』とし、また後の『津軽地方の豪族・安東氏(のち秋田氏)は貞任の子、高星の後裔を称した』ともある。……そうして同ウィキには……かのおぞましき、戦争大好き天皇(すめらみこと)軽視の、アメリカの犬である現内閣総理大臣『安倍晋三も末裔であると』『語ったとされ、また第二十三回参議院議員通常選挙に向けて北上市で遊説を行った際、「貞任の末裔が私となっている。ルーツは岩手県。その岩手県に帰ってきた」と聴衆に語りかけた』という貞任が聴いたら絶対に怒るに違いないことが書かれてあった……

「天喜五年」一〇五七年。

「康平五年」一〇六二年。

「此れより、鳥海彌三郎義家の臣と爲る」先の記述を参照。配流されており、義家の家臣なんぞにはなっていない。

「寛治五年」これは寛治元年(一〇八七年)の誤り。

「其の戰塲は乃ち此の鳥海の邊ならんか」前に引用した「奥州後三年記」(現在は平安後期の院政期初期の成立と推定)のかの景正の武勇伝は(引用前の箇所から)「金澤柵」(かねさわのさく)とされる。現在、同柵は場所が同定されていないが、秋田県横手市金沢が比定地としてして有力であり、「奥州後三年記」が正しいとすれば、この戦場比定の寺島の謂いについてはハズレとなる。

「舊(もと)彌三郎が所領なり。故に鳥海を以つて稱號と爲す。然れども、其の靈を祭りて神と爲る所以を知らざるなり」秋田県由利本荘(ゆりほんじょう)市矢島町(やしままち)総合支所振興課の公式サイト内の「鳥海の山名由来」に以下のようにある(例外的に全文を引用するが、これ自体が「矢島の歴史」なる書籍らしきものからの引用である)。

   《引用開始》

 鳥海の山名がどういう関係でつけられたかは、この山の変遷をたどる上で、見のがすことができない。鳥海という山名が記録の上に現れたのは、和論語の中に鳥海山大明神とあることに始まるとされている。

 鳥海山の号は国史に見る所なし。和論語に鳥海山大明神と出づ。三代実録には飽海の山とありて山名を記さず。(大日本地名辞書)

 和論語が作られたのは、丁度頼朝の時代で、鳥海の山名はこの時までには、すでに一般から呼ばれていたと思われる。

 この山について変遷を考えると、古くは大物忌の神山、北山、飽海の山とか呼ばれていたようで、鳥海と呼んだのはその後のことであった。飽海の山というのは、由利郡にはまだ設置されず、飽海郡内の山であったからそのように呼ばれたのであるが、後世長く呼ばれた鳥海の山名は、どうしてできたのであろうか。結論からすると、安倍氏の全盛時代安倍宗任(むねとう)の所領がこの方面にあったことによるものとするのである。なぜかといえば安倍宗任を鳥海弥三郎宗任と称したことである。そのわけを調べると、宮城県亘理郡に鳥海の浦という所があって、ここが宗任の誕生地であるところから、その生地にちなんで鳥海弥三郎と称したと推定される。

 その後安倍氏の発展に伴い、岩手県方面に中心を移したのであるが、その地域に鳥海の地名が今に残っている。磐井郡の鳥海、胆沢郡の鳥海の柵等は、いずれも鳥海弥三郎に関係ある旧跡とされている。

 わが出羽方面にも宗任の所領があったかどうか明記されたものはないが、矢島方面には鳥海山の外に、相庭館附近に鳥の海の地名のあることや、子吉川を古くは安倍川と呼んだという古伝、さらに九日町村の修験永泉宗隆世氏の覚書の中に、天喜3年鳥海弥三郎宗任殿より御寄附三石有之由とか、笹子村流東寺の記録にも天喜年中、鳥海弥三郎より云々の文字があることからみて、由利郡全部が宗任の勢力下にあったと考えられるのである。

 今一つは、酒田方面と宗任との関係である。かの有名な藤原秀衡の母は宗任の息女で徳尼公と呼ばれた人である。その人は藤原氏滅亡の際、十六人衆と呼ばれる家来と共に酒田に逃れてきたと伝えている。現に酒田市の泉竜寺に徳尼公廟があり、また十六人衆の中の何軒かは今に残っているとのことである。

 以上のことから推定すると、由利郡を含めた飽海郡一帯にわたって、宗任の領地があったことを語るものでなかろうか。かかる関係から、鳥海氏領内の山として、鳥海の山名を生じたと考えるのである。

 その後安倍氏、清原氏、藤原氏とあいついで滅びたが、南北朝時代になると、由利鳥海両氏の対立が見られるのは、鳥海宗任の子孫が残存して一勢力をなしたものであろう。このように鎌倉時代以前、由利郡が鳥海弥三郎宗任と関係があり、鳥海の山名を生じたとするのである。

   《引用終了》

と、まさに寺島の説を立証するような内容で書かれてはある(なお、文中に出る「和論語」(「わろんご」と読む)は天皇・公卿・僧侶・武将などの金言や善行を集録し、それを「論語」に擬した書で、鎌倉時代の儒者清原良業(よしなり)が後鳥羽院の命で編述と伝えられるが、後人の偽作ともされる。寛文九(一六六九)年刊、全十巻)。しかしこれは、「鳥海」という語自体に古い(或いはアイヌの言葉かも知れぬ)地名意義があるのではないかと私は秘かに思ってはいるのである。]

(三)行脚隨筆上卷。

[やぶちゃん注:恐らく、江戸中期の曹洞宗の僧である泰亮愚海(たいりょうぐかい 生没年未詳:越後高田の林泉寺・長命寺、上野(こうずけ)沼田の岳林寺などの住持を勤めた)の著になる(文化年間(一八〇四年~一八一八年)刊か)随筆と思われる。]

(四)信達二郡村誌卷一〇下。及び信達一統誌卷六。

[やぶちゃん注:「信達二郡村誌」これは下に記された、先に注した農民であった志田正徳著になる地誌「信達一統誌」を補完する、明治三六(一九〇三)年に出版された中川英右編・佐沢広胖訂になる地誌と推定される(書誌は国立国会図書館のデータに拠る)。]

(五)封内名蹟誌卷五。封内風土記卷八。

[やぶちゃん注:「封内名蹟誌」「封内」は「ほうない」と読む(次も同じ。これは一般名詞で、「領土の内」の意この場合は仙台藩内を指す)。仙台藩士佐藤信要(のぶあき)が寛保元(一七四一)年に完成させた藩内の名蹟を纏めた地誌。全二十一巻。

「封内風土記」仙台藩第七代藩主伊達重村の命により、同藩の儒学者田辺希文(まれふみ)が明和九(一七七二)年に完成させた藩内の地誌。全二十二巻。以上の前注とこの注は、「仙台市都市整備局都市開発部富沢駅周辺開発事務所」発行の「富沢駅周辺地区 まちづくりニュース」第百三十号(ワード文書でダウン・ロード可能)のコラム記事に載るデータを参照させて戴いた。]

(六)岩崎淸美君編「傳説の下伊那」。

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年刊。国立国会図書館デジタルコレクションの画像に発見(当該箇所へリンクさせた)。]

(七)獨り魚やいもりだけで無く、安積郡の多田野村などでは、村に御靈社がある爲に、此地に生れた者は一方の目が少しく眇すとさへ言はれて居る。

(八)「民族」二卷一號「人を神に祀る風習」を參照せられたし。

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年十一月発行のそれに載った柳田國男の論文。ちくま文庫版全集では後に「序」を附したものが第十三巻に載る。]

(九)新編武藏風土記稿卷四六。

[やぶちゃん注:文化・文政期(一八〇四年~一八二九年)に昌平坂学問所地理局によって幕府の公事業として編纂された武蔵国地誌。]

(一〇)北野誌首卷附錄二八三頁。

[やぶちゃん注:「北野誌」は北野神社社務所編で、明四三(一九一〇)年刊。現在の京都府京都市上京区御前通今出川上る馬喰町にある北野天満宮の社史。「北野神社」は同神社の旧称(同社は明治四(一八七一)年に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名、「宮」を名乗れなかったのは、当時のその条件が、祭神が基本的に皇族であること(同社の祭神は菅原道真)、尚且つ、勅許が必要であったことによる。古くより親しまれた旧称「北野天満宮」の呼称が復活したのは、実は戦後の神道国家管理を脱した後のことであった。この部分はウィキの「北野天満宮」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちら当該箇所リンク)の画像で視認出来る。]

(一一)上毛傳説雑記卷九に御靈宮緣起を傳へ、此神九歳の時力成人に超え、十歳よる戰場に出たなどと述べて居る。即ち亦神自らの言葉を書き留めたものであらう。

[やぶちゃん注:「上毛傳説雑記」は先に「行脚随筆」の作者として推定した泰亮愚海が古老の伝説を聴き取り、古記録を集め、安永三(一七七四)年に刊行した伝承採録記である。

「此神九歳の時力成人に超え」読み難い。「此の神、九歳の時、力(ちから)、成人に超え」である。]

(一二)南安曇郡誌に依る。

[やぶちゃん注:「南安曇郡誌」(みなみあづみぐんし)は長野県の旧南安曇郡(現在の安曇野市の大部分と松本市の一部)の地誌。長野県南安曇郡編纂で発行所は南安曇郡教育会。発行は大正一二(一九二三)年。]

(一三)相生集卷二、卷一〇など。

[やぶちゃん注:陸奥国南部の安達郡(岩代国)にあった二本松藩(現在の福島県二本松市郭内(かくない))の地誌。著者は藩士大鐘義鳴(おおがねよしなり)。全二十巻で天保一二(一八四一)年完成。]

(一四)藝藩通志卷七、陰德太平記の著者香川宣阿。歌人香川景樹の家なども此一門の末で、御靈は鎌倉のを拜むべき人々であつた。

[やぶちゃん注:「芸藝藩通志」広島藩地誌。先行する「芸備国郡志」を改訂増補して文政八(一八二五)年に完成。主著者である広島藩士頼杏坪(らいきょうへい)は頼山陽の叔父。

「陰德太平記の著者香川宣阿」「宣阿」は武士で歌人香川景継(正保四(一六四七)年~享保二〇(一七三五)年)で、彼の著作として最も知られる軍記物が「陰德太平記」。但し、正確には彼の父岩国藩家老香川正矩によって編纂されたものを二男であった景継が補足したもので、享保二(一七一七)年刊。全八十一巻及び「陰徳記序及び目録」一冊から成り、戦国時代の山陰・山陽を中心に、室町幕府第十二代将軍足利義稙の時代から、慶長の役まで(永正八(一五〇七)年頃から慶長三(一五九八)年頃までの約九十年間を対象とする(主にウィキの「陰徳太平記」に拠った)。香川氏が鎌倉氏の支流を名乗っていることは既出既注。]

(一五)下野神社沿革誌卷六。

[やぶちゃん注:風山広雄編。明三五(一九〇二)年~明治三六(一九〇三)年。出版地は栃木県芳賀郡逆川(さかがわ)村(現在の芳賀郡茂木町の南部)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める(リンク先は当該箇所)。]

(一六)能登國名跡志上卷。

[やぶちゃん注:「太田頼資著、安永六(一七七七)年記。「大日本地誌大系」の北陸の部に収録されている。同書は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来るが、当該箇所がなかなか見つからない。どなたかお探しあれ(ちょっと探すのに疲れました)。その画像のURLをメールで下さると、恩幸これに過ぎたるはない。そうすると、本文注で特定出来なかった場所をはっきりと限定出来るものと思われるからである。]

(一七)權五郎景政が信心の士であつたことは、吾妻鏡卷一五、建久六年十一月十九日の條に見えて居る。後世彼の一門を御靈社と結び付ける力にはなつて居たかと思ふ。言はゞ彼は我々の立場から見ても、尚其片目を傷けらるゝに足る人であつた。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の同箇所の原文は既に「神片目」の注で示した。]

2016/03/28

見ろ

もう――其處に居るのは――僕獨りだつたではないか――

僕は

現世は祝祭でなく――しかも――地獄でさえ――ない――それは確かに――他者にとって哀れむべきことではあろう。しかし乍ら――僕はそれも「ヒト」の宿命と思うのである。

詩  原民喜

   詩  原 民喜

 

風見は廻る靑空に

謹ばしげに輕やかに

屋根の上なる靑空に

廻る風見に音もなし

 

眩しきものの照るなべに

夜の相ぞおそろしき

靑ざめはてし魂は

曙にして死ぬるべし

 

罪咎なれば耐え得べし

こんこんこんこんあさぼらけ

米をとぐ音聞こえ來る

いかでか我は睡むらざる

 

うつつけものが鳥ならば

すういすういと泳ぐべし

けふやきのうやまたあすや

春惜しむ人や榎に隱れけり

 

[やぶちゃん注:昭和三(一九二八)年九月発行の『四五人会雑誌』十三号に掲載された文語定形詩。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅱ」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した。底本の「拾遺集」の中では文語定形詩は特異点である。

 第一連二行目の「謹ばしげに」は、思うに「よろこばしげに」と訓じているように思われる。「つつばしげに」とは言わないし、音数律も不整合で、そもそもが風見鶏の動きと「輕やかに」の表現と、謹(慎)ましいさまというは、寧ろ、齟齬する(と考える)からである。恐らく民喜は、「慶賀」「祝賀」などの語から、「謹賀」の「謹」にそのような意味があると誤認して用いたのではなかろうか。但し、「謹」にそのような「よろこぶ」(慶ぶ・喜ぶ)の謂いは、ない。

 第二連一行目の「なべに」は、恐らくは上代の接続助詞「なへに」が中古に誤って濁音化したもので、「~につれて・~とともに・~と同時に」の謂いであろう。彼(風見)にとって「眩し」く「照る」のは具体には夜の冷たく青い月光、或いは霊の妖しい鬼火ででもあろう(と私は読む)。

 第三連二行目の「こんこんこんこん」は韻律の響きとしては面白いが(但し、一字字余りであって最終行を除く七五調破格の特異点)、意味は難解である。まずは時系列から「夜の相」と「あさぼらけ」の経過と採って、「昏昏」(意識のないさま/よく眠っているさま/暗くてはっきりとしないさま/暗愚なさま)が想起さるが、しかしこれは同時に次行の「米をとぐ」から、晩春の小川流れのオノマトペイアとも連動する。孰れにせよ、なかなか上手い手法と私は思う。

 第四連一行目・二行目も興味深い。――「うつつけもの」――「現(うつつ)」(現実の自分の状態/普通の「けもの」が目覚めるべき朝――但し、彼は「睡ら」ないのである。前段末尾は反語である。彼は永遠に睡ることのない「風見」鶏だから――になって見れば)では「けもの」(獣)たる「鳥」の形をした自分である。さればこそ、「夜の相」から解き放たれたなら、どうだ! 一つ! 「風見」鶏の「鳥」ではあっても、「うつつ」(醒めた状態)となったなら、小川の流れの響きのよさに(前連を受ける)、いっそ、そこを「すういすうい」と泳ぐがよかろう!――と私は読む。

 最終連最終行は難しい。カメラ・ワークが全く異なり、有意なパースペクティヴがある。韻律も確信犯で発句(五七五)形式でここだけせめて二字下げにしたいぐらいである(その方が恐らく読み易く、朗読し易い)。惜春の情はあらゆる人類文芸の濫觴の一つ乍ら、この「榎」の蔭に「隱れ」ている「人」は、ゆかしい。永遠に眠らぬ地獄の「風見」は詩人自身であり、この榎に木隠れするのは、詩人の永遠の恋人、「遂ひ逢はざりし人の面影」(伊東静雄「水中花」より)ででもあったか――

 この詩篇の内、第二連と第三連は後に「かげろふ断章」として一部詩篇が纏められた際、「不眠歌」としてほぼ相同形で載せられてある。

 また、最終連も同じ「かげろふ断章」(「不眠歌」の次の次)に「晩春」という題でほぼ相同で独立して載せられてある。の「原民喜詩集を参照されたい。]

2016/03/27

北條九代記 卷第九 御息所御輿入 付 殺生禁遏

 

鎌倉 北條九代記   卷第九

 

      ○御息所御輿入  殺生禁遏

龜山院文應元年二月五日、故(こ)岡屋(をかやの)禪定殿下(ぜんじやうてんが)兼經公の御娘(おんむすめ)を、最明寺時賴入道の猶子(いうし)として、御年二十(はたち)に成(なら)せ給ふを、關東に申し下し、山〔の〕内に入れ參らせ、軈(やが)て將軍家の御息所に備へ奉らる。忍びて御輿入(おんこしいれ)ありけれども、穩敏(をんびん)なるべき御事にもあらざりける間、同じき三月に、御家人等、祝義(しうぎ)の進物、取り取(ど)りに捧け奉り、鎌倉の有樣、賑々敷(にぎにぎしく)ぞ覺えける。この比(ごろ)、世の人、殺生を縡(こと)とし、大名、高家(かうけ)より下々までも、獵漁(かりすなどり)を好み、鷹を臂(ひぢ)にし、犬を挽(ひ)き、山には蹄(わな)を懸け、水には網を布(し)きて、飛走鱗甲(ひさうりんかふ)、更に其所を得ず。夫(それ)、元々の雜類(ざふるゐ)は、汲々(きふきふ)として生を貪り、蠢々(しゆんしゆん)の群彙(ぐんい)は、孜々(しゝ)として死を畏る。暫く形は異なれども、含識(がんしき)、悉く命根(めいこん)を惜(をし)む事は、是(これ)、同じ。或(あるひ)は生擒(せいきん)の山獸(さんじう)は檻穽(かんせい)に囚(とらは)れて友を慕ひ、或は殺翎(さつれい)の野禽(やきん)は架桁(かかう)に繫がれて雲を戀ひ、身命を他の飼(やしなひ)に投じて、死生(ししやう)を自運(じうん)に任(まか)す。是は未だ殺さざるの者にして、愁ふる思(おもひ)に沈む計(ばかり)なり。彼(か)の漁獵(ぎよれふ)を好む輩(ともがら)、巣を傾(かたぶ)け、胎(はらごもり)を割(さ)き、鼓を擊揚(うちあ)げ、煙矢(けぶりや)を飛(とば)し、網を布(し)きて逃(にぐ)るを追ひ、漏るゝを捕へて、※(とが)なくして俎上(そじやう)に昇(のぼ)せ、過(あやまち)なくして鼎中(ていちう)に煮る。是に依て、綵羽翠毛(さいうすゐもう)は、飮啄(いんたく)するに怖れを致し、金鱗頳尾(きんりんていび)は游泳するに危(あやぶみ)を懷き、昊天(かうてん)高く、大地廣けれども、遁れ藏(かく)るに處なし。旦暮(たんぼ)に寒心(かんしん)し、晝夜に消魂(せいこん)す。是(これ)、十惡の中には殺生、最(もつとも)、大(おほい)なり。十善の中には、命(めい)を救ふを專(せん)とす。人天有頂(うちやう)、是(これ)を受生(じゆしやう)の緣とし、佛法修道(しゆだう)、是を入理(にふり)の門とする事なれば、大聖(しやう)はこの悲愁を憐み、君子はその庖厨(はうちう)を遠ざくと云ふ。現生(げんしやう)後世(ごせ)に渉りて、不殺放生(ふせつはうしやう)に過ぎたる功德(くどく)なし。大平長壽の基(もと)、道德仁政(じんせい)の首(はじめ)なりとて、時賴入道を初(はじめ)て評定一決し給ひ、在俗白衣(びやくえ)の輩(ともがら)、常には左(さ)もこそはあらめ、齋日(さいにち)の時節には忌憚(いみはゞか)りても然るべしとて、文書(もんじよ)を出して施行(しぎやう)せらる。

[やぶちゃん字注:「※(とが)」の「※」は(にんべん)+{上部(「替」-[日」)+下部(心)}

 以下の殺生制限の文書は底本では全体が二字下げ。元が漢文体なので、ここでは返り点のみの文を示し、後に【 】で訓読文を示すこととする。訓読では例外的に(ここまで本文は常に本文のままで、本文にない読みや送り仮名は送ってきていない)送られていない字を一部補填して読み易くし、句読点の一部も変更した。]

 

     六齋日 竝 二季彼岸殺生事

右魚鼈之類。禽獸之彙。重ㇾ命逾山嶽。護ㇾ身同人倫。因茲罪業之甚。無ㇾ過殺生。是以佛教之禁戒惟重。聖代格式炳焉也。然則件日々早禁魚網於江梅。宜レ停狩獵於山野也。自今以後固守此制、一切可ㇾ隨停止。若猶背禁遏。有違犯輩者。至御家人者。令ㇾ注進交名、 於凡下輩、可ㇾ加二罪科之由、可ㇾ被ㇾ仰諸國之守護竝地頭等。但至有ㇾ限神社之祭者非制禁之限矣。

【    六齋日 竝びに 二季(にき)彼岸(ひがん)に殺生をする事

右、魚鼈(ぎよべつ)の類(たぐ)ひ、禽獸の彙(たぐ)ひ、命を重んずること、山嶽に逾え、身を護ること、人倫に同じ。茲に因つて、罪業の甚だしき、殺生に過ぎたる無し。是(こゝ)を以つて佛教の禁戒、惟(こ)れ、重し。聖代の格式、炳焉(へいえん)なり。然れば則ち、件(くだん)の日々、早く、魚網を江海に禁じ、宜しく狩獵を山野に停(とゞ)むべきなり。自今以後、固く此の制を守り、一切、停止(ちやうじ)に隨ふべし。若し、猶ほ禁遏に背き、違犯の輩(ともがら)有らば、御家人に至つては、交名(けうみやう)を注進せしめ、凡下の輩に於いては、罪科を加ふべきの由、諸國の守護竝びに地頭等に仰せらるべし。但し、限り有る神社の祭に至りては、制禁の限りに非ず。】

 

是に依て、關東の諸國、暫く、修法齋日の間、非道の殺生を停止(ちやうじ)すといへども、死生不知(ししやうふち)の輩(ともがら)は、この施行(しぎゃう)を甘心(かんしん)せず。「枝葉(しえふ)の禁制かな。田畠(でんぱた)を荒す者は猪鹿(ちよろく)に過ぎたるはなく、堤(つゝみ)に穴ほり、陵(をか)を崩すものは狐兎(こと)に超(こえ)たるはなし。熊、狼の人を傷(そこな)ひ、雁(がん)、鴨(かも)の稻を食(くら)ふ、世の爲に害あり。いはんや、魚鳥の味は、人の口腹(こうふく)を養ふ。是を停止(ちやうじ)して、慈悲とせらるゝは、梁の武帝の修道(しゆだう)を學び、唐の僖宗(きそう)の政道を慕ひ給ふらん、無智の尼法師(あまはふし)の世を諂(へつら)ふて、申す事を信じ給ふも、嗚呼(をこ)がまし」と傾(かたぶ)き嘲けるも多かりけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻四十九の文応元(一二六〇)年二月五日、三月二十一日、及び正元二(一二六〇)年正月二十三日などに基づく。

「禁遏」「きんあつ」と読み、禁じて止めさせることの意。
 
「故岡屋禪定殿下兼經公の御娘」既注の近衛兼経(この娘の輿入れの前年に死去)の娘近衛宰子(さいし 仁治二(一二四一)年~?)。第六代将軍宗尊親王正室で第七代将軍惟康親王の母。まずは元執権北条時頼の猶子として鎌倉に入って同文応元年の三月二十一日に十九歳の将軍宗尊の正室となって御息所と呼ばれた。参照した
ウィキの「近衛宰子によれば、『時頼の猶子にすることで、北条氏の女性が将軍に嫁すという形を取っている』。先走って紹介してしまうと、文永元(一二六四)年四月に惟康王を出産するが、文永三(一二六六)年に宰子と、この惟康『出産の際に験者を務めた護持僧良基との密通事件が露見』、六月二十日、良基は逐電、『連署である北条時宗邸で幕府首脳による寄合が行われ、宗尊親王の京都送還が決定されたと見られる。宰子とその子惟康らはそれぞれ時宗邸などに移された』。『鎌倉は大きな騒ぎとなり、近国の武士たちが蜂のごとく馳せ集った』。七月四日、『宗尊親王は将軍職を追われ、女房の輿に乗せられて鎌倉を出』て帰洛、京には『「将軍御謀反」と伝えられ、幕府は』未だ三歳であった『惟康王を新たな将軍として擁立した』。『その後、宰子は娘の倫子女王を連れて都に戻った。都では良基は高野山で断食して果てた、または御息所と夫婦になって仲良く暮らしているなどと噂された』とある。

「高家」中世では武士団の中でも、相対的に見て、由緒ある武士の家柄や名門の武将を指して用いられた。

「蹄(わな)」兎を捕えるための罠(わな)。

「飛走鱗甲」鳥類・獣類・魚類・貝類。

「雜類(ざふるゐ)」これは「衆生の雑類(ぞうるい)」で古くより、貴賤を問わず、仏法を信じていない人間総体を広く指す語である。ここは単に生物、獣の一雑類たる「人間」の謂いで採ってよい。

「蠢々の群彙」ただただ蠢(うごめ)いているばかりの、生物として人間よりも下等な動物・虫魚の群れの類(たぐ)い。

「孜々(しゝ)として」ただひたすらに。

「含識(がんしき)」仏教用語で「衆生」の別訳。「心識」を有する者、感情や意識を持つと考えられる生物のことで、一般には「人間」と同義で用いられるが、ここはもっと広義に、生物の謂いで問題ない。

「命根(めいこん)」息の根。生命。

「生擒(せいきん)」生け捕り。

「檻穽(かんせい)」檻や監禁用の穴。

「殺翎(さつれい)の野禽(やきん」羽を傷つけられて飛べないようにされた鳥。

「架桁(かかう)」飼育用の止まり木。

「身命を他の飼(やしなひ)に投じ」自ら生きることを、ただ、人に飼育されることによってのみに委(ゆだ)ね。

「死生(ししやう)を自運(じうん)に任(まか)す」自分の精子の命運をそれ(飼育する人)に任せる。

「愁ふる思(おもひ)に沈む計(ばかり)なり」主語は人に飼育目的で捕縛された動物。

「胎(はらごもり)を割(さ)き」食に当てるためにむごたらしくも腹を裂いて内臓を抜き捨て去り。

「鼓を擊揚(うちあ)げ、煙矢(けぶりや)を飛(とば)し」鳥獣を捕獲するために、まず嚇(おど)しのための喧しい太鼓をばんばんと打ち鳴らしたり、煙を張ったり、火を放ったりするための「煙矢(けぶりや)」を射ったり。

「※(とが)」(「※」=にんべん)+{上部(「替」-[日」)+下部(心)})は咎・科(とが)で、「罪」と同じい。

「鼎」大きな金属の鍋。

「綵羽翠毛」美しい可憐な鳥たち。

「飮啄(いんたく)」水を飲み、餌を啄(ついば)む。

「金鱗頳尾(きんりんていび)」新鮮で鮮やかな赤い尾を持った美しい色の魚たち。

「昊天(かうてん)」大空。

「旦暮(たんぼ)」朝夕。毎日。日々。

「寒心(かんしん)」胆を冷やすこと。余りの恐ろしさに竦むこと。

「十惡」仏教で身・口・意の三業(さんごう)が生み出すとする、十種の罪悪。殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口(あっく)・両舌・貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・邪見を指す。

「十善」上記の「十悪」を成さないこと。

「人天有頂(うちやう)、是(これ)を受生(じゆしやう)の緣とし」人間界に生まれるか、天上界に生まれるか、或いは世界の最も清浄なる有頂天に生まれるかは、これ、総ては自らが最初から受けた縁(えん)によるものであって。

「入理(にふり)の門」仏道修行に入る最初のとば口。

「大聖(しやう)」優れた聖(ひじり)。大聖人。但し、ここは「君子」と下に繋がるので、仏教の有り難い上人さまではなく、儒教道徳上の「仁」を持った「聖人君子」の謂いが原義。

「庖厨(はうちう)」生きとし生けるものを殺生するところの台所。

「現生(げんしやう)後世(ごせ)」現世(げんせ)と後世(ごせ)

「評定一決」評定衆の全員一致の採決。

「在俗」「白衣(びやくえ)」は同義。宗教者や武士でない一般大衆を指す。

「常」普段の日常。

「左(さ)もこそはあらめ」生きるために食わねばならぬから、今までの最低限の習慣上の殺生に対しては、流石に取り立てて問題にはしないけれども。

「齋日(さいにち)」ここは仏教で言うそれ(「さいじつ」とも読む)と採り、在家(ざいけ)の仏教徒が「八戒」(はっかい:在家の者が一日だけ出家生活にならって守る八つの戒め。不殺生(ふせつしよう)・不偸盗(ふちゆうとう)・不邪淫(ふじやいん)・不妄語(ふもうご)・不飲酒(ふおんじゆ)の五戒の中の不邪淫戒をより厳しい不淫戒とし、さらに装身・化粧をやめ、歌舞を視聴しない、高く立派な寝台に寝ない、非時の食(原則は午前中のみしか食事は出来ないとされる)を保って精進する日。毎月の八・十四・十五・二十三・二十九・三十日を「六斎日」と称した(本文に後掲される、それ)。

「二季彼岸」春秋二季にある彼岸の期間。春分・秋分を中日としてその前後各三日を合わせた各七日間であるから、一年で計十四日間となる。

「逾え」「こえ」(越え)。

「炳焉(へいえん)」はっきりとしているさま。明らかなさま。「炳」は「明らかな様子」で、「焉」は事物の様態 を形容する辞。

「件(くだん)の日々」六斎日と春秋の彼岸の期間。

「早く」速やかに。

「交名(けうみやう)を注進」氏姓通称名前を記名の上、報告し。

「凡下の輩」一般庶民の者ども。

「仰せらるべし」自敬表現であろう。屹度、周知しておかねばならぬ。

「限り有る神社の祭」限定的な期間で特別に催行されるところの神社の祭儀。

「死生不知(ししやうふち)の輩(ともがら)」生きとし生ける衆生の生命の至高の貴(とうと)さが分らぬ連中。

「施行(しぎゃう)」この禁制の厳格なる施行(しこう)。

「甘心(かんしん)せず」納得しない、同意しない、或いは、快く思わない。

「枝葉の禁制」枝葉末節の百害あって一利もない下らぬ禁制。

「人の口腹(こうふく)を養ふ」人の味覚を楽しませ、腹をくちくさせて呉れる。

「梁の武帝の修道(しゆだう)を學び」梁の武帝が、多分に仏教に帰依し、王としての人倫の道を修めようとしたことを指す。「梁の武帝」は、中国の南北朝期に江南にあった梁(五〇二年~五五七年)王朝の初代皇帝蕭衍(しょうえん 五〇二年~五四九年)のこと。創業当初は、疲弊した民政の回復を図って積極的な政治改革を行なって国家を安定させ、南朝の全盛期を生み出した。後、仏教への関心を強めたが、自らが建立した寺に「捨身」の名目で莫大な財物を施与、その結果、梁朝の財政は逼迫して民衆には苛斂誅求が齎された。武帝の仏教信仰は本格的で、数々の仏典に対する注釈書を著わし、その生活は仏教の戒律に従ったもので、特に菜食を堅持したことから、「皇帝菩薩」とも称された(主にウィキの「蕭衍及びそのリンク先の記載を参照した)。

「唐の僖宗(きそう)の政道を慕ひ給ふ」僖宗(八七三年~八八八年)は唐の第二十一代皇帝であるが、どの記載も「政道を慕ひ給ふ」姿は見られないので、これは筆者は誰か他の皇帝と勘違いしているのではあるまいか? 例えば、平凡社の「世界大百科事典」には、十二歳で即位したため、実権はほぼ宦官勢力に握られて、生涯、遊蕩の生活に明け暮れた。特に宦官田令孜(でんれいし)は禁軍(近衛兵団)の力を盾に僖宗を操り、宰相ら清流派(科挙試を経て成った役人で儒教的政治理念を持ち、蓄財や賄賂を拒絶して清貧を貫くことを体現した官僚グループの自称)と対立し、互いに藩鎮(強い軍事力を持つ地方行政組織の有力集団)の武力を借りようとしたため、混乱は地方にまで及び、王仙芝・黄巣に代表される諸反乱(黄巣の乱)を誘発、僖宗は都を逃れて陝西の各地を転々とする生活を強いられた、とある。少しもよいは書かれていない。識者の御教授を乞うものである。

「世を諂(へつら)ふ」この場合の「世」は増淵勝一氏が訳されておられるように、『お上(かみ)』と限定するのがよい。]

句会 (七句)   原民喜

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年十一月発行の生原稿を綴った回覧雑誌『四五人会雑誌』二号に掲載された樂只庵記とある「十月二十五日 杞憂亭宅句會」(記載から同日午後七時開会で十時散会とある)から原民喜の句のみをピックアップした。記者である樂只庵(「らくしあん」と読もう)は山本健吉の俳号の一つ。同句会は彼ら二人と無字庵(熊平武二)三人によっている。は「葉鷄頭」。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅱ」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した。これらの内には、頭に当日の三人の得点が表示されてある。それは句の下方に〔 〕で示した。因みに最初の句の八点は最高得点である。

 二句目に「父行きて」とあるが、原民喜の父原恒吉はこの十一年も前の大正六年二月(民喜満十一の春)に胃癌のために死去しており、事実に即すとしても、季も全く合わないことを注しておく。この場の他の二人のどちらかの心境を句で代弁したものかも知れない。

 なお、これらの句は民喜の「杞憂句集」には載らない。]

 

雨傘(かさ)一つ乾かしてあり葉鷄頭〔八點〕

 

父行きて葉鷄頭の秋となりにけり  〔七點〕

 

白雲の下に明き葉鷄頭       〔六點〕

 

葉鷄頭に月明き夜や厨裏      〔五點〕

 

 

 

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年十一月発行の生原稿を綴った回覧雑誌『四五人会雑誌』二号に掲載された樂只庵(山本健吉)記とある「四五人會俳句例會」から原民喜の句のみをピックアップした。同句会は原民喜と先に示した句会の二人(山本と熊平武二)に加え、長光太の四人によっている。十月二十九日(前の句会の四日後)の午後二時に熊平のところで開会、は「冬木立」「火鉢」。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅲ」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した。「電燈」の「燈」は底本の用字。これらの内には、頭に当日の四人の得点が表示されてある。それは句の下方に〔 〕で示した。因みに最初の句の十点は最高得点である。

 なお、これらの句は民喜の「杞憂句集」には載らない。]

 

    冬木立

 

雲と空を映せる水や冬木立     〔十點〕

 

杉垣の道をまがれば冬木立     〔八點〕

 

   火鉢

 

電燈(でんき)つきて夜の火鉢となりにけり

                 〔六點〕

近咏 五句  原民喜

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年十一月発行の生原稿を綴った回覧雑誌『四五人会雑誌』二号に掲載。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した。

 なお、これらの句は民喜の「杞憂句集」には載らない。最後の句は同句集の昭和一〇(一九三五)年の一句「霧の中にぽつかりと浮き街はあり」の類型句には見える。]

 

 

  近咏   杞憂亭

 

 

うち晴れてコスモスの花の賑へり

 

飛行機のよく飛ぶ日なり菊畑

 

道すがら柿赤々と熟れてけり

 

小鳥來て食はむや窓邊のうめもどき

 

[やぶちゃん注:「うめもどき」バラ亜綱モチノキ目モチノキ科モチノキ属ウメモドキ(梅擬)Ilex serrata 或いは近縁種又は同属の仲間。ウィキの「ウメモドキによれば、『モチノキ属には多数の種があり』、『日本には以下の近縁種などが分布している』として、イヌウメモドキ Ilex serrata f. argutidens(葉に毛がないもの)・フウリンウメモドキ Ilex geniculata・オクノフウリンウメモドキ Ilex geniculata var. glabra・ミヤマウメモドキ Ilex nipponica の四種を挙げてある。]

 

霧明り眩しき街に出にけり

原民喜 「春眠」十五句 (山本健吉撰)

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年十月発行の生原稿を綴った回覧雑誌『四五人会雑誌』一号(萬歳号)に掲載。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅱ」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した。「杞憂亭民喜」と「俳 句 集」は実際には底本ではポイント落二行で、以下の「『春眠』十五句撰」の上にある。「撰」の用字は底本のママ。

「雨の舍主人」とは石橋貞吉(後の山本健吉の本名)の当時の俳号。底本の本篇の前には、原民喜による「雨の舍貞吉句稿より十五ほど選んで後」という、雨の舍貞吉の句の十五句民喜選と、その前にかなり力の入った民喜の句評文が載る。

「十三年」「十四年」「十五年」は総て大正。民喜慶応大学文学部予科時代の十九から二十一歳の折りの句群である。]

 

 

  杞憂亭民喜

       『春眠』十五句撰

  俳 句 集

     (雨の舍主人撰之)

 

 

靑空に隔たる雪の光かな 

 

[やぶちゃん注:この句は、民喜の「杞憂句集」に、「拾遺十四句」の一句として載る句で、民喜遺愛の若き日の句であったことが判る。]

 

        (以上十三年)

 

こらへ居るし夜のあけがたや雪の峰

 

稻妻に松四五本明りけり

 

松の葉に暑き光の靜まれる

 

霧明り白堊の館灯しけり

 

ま四角の頰赤き童た走りぬ

 

        (以上十四年)

 

朝日子の雪解の路にあふれけり

 

[やぶちゃん注:「朝日子」は「あさひこ」であるが、「こ」は親しみの意を表す接尾語であって、「朝日」の意で、民喜の「杞憂句集」の、十四年後の昭和一五(一九四〇)年の句に「朝日子のゆらぎてゐるや春の海」があり、彼の好きな響きの語であったことが判る。]

 

山茶花に暮色の迫る廣間哉

 

ある家に時計打ちをり葱畑

 

[やぶちゃん注:この句、実は民喜の「杞憂句集」の最終パートである「原子爆弾」の終りから二つ目に、完全な相同句がさりげなく配されている。私は被爆後の句とばかり思っていた。或いは、被爆直後に移った広島郊外の八幡村(恐らくは広島県の旧山県郡八幡村。現在の北広島町内)で同じ景色を再体験して完全なフラッシュ・バックが起ったものかも知れないが、実際には実に十九年前の句であったのである。しかしこれは恐らく、民喜の恣意的な仕掛けではない、と私は思う。杞憂が現実となって太陽が地に落下したあの日――彼の意識はまさに遙かにあの原爆の閃光のように――意識のフラッシュ・バックが起こっていたのではなかったか?――自分個人は永遠に取り戻すことの出来なくなった、青春の日の至福の、田園風景のスカルプティング・イン・タイムに向かって――]

 

霙るゝや松の根本の塵芥

 

[やぶちゃん注:「霙るゝや」老婆心乍ら、「みぞるゝや」と読む。]

 

たんぽゝの葉に香の注ぐ光哉

 

鳥の居る晩夏の空の夕かな

 

朝涼やかなかなかなと松に鳴く

 

[やぶちゃん注:「朝涼」「あさすず」は夏の朝のうちの涼しいこと、或いは、その時分を指す。]

 

梨落ちて五六歩さきにありにけり

 

        (以上十五年)

北條九代記 卷之八 相摸の守時賴入道政務 付 靑砥左衞門廉直 / 卷第八~了


      〇相摸の守時賴入道政務  靑砥左衞門廉直

相州時賴入道は、國政、邪(よこしま)なく、人望、誠(まこと)にめでたく、内外に付けて私なしと雖も、奉行、頭人、評定衆の中に、動(やゝ)もすれば私欲に陷(おちい)りて、廉直を謬(あやま)る事あり。如何にもして正道に歸らしめ、世を太平の靜治(せいぢ)に置いて、萬民を撫育(ぶいく)せばやとぞ思はれける。此所(こゝ)に靑砥(あをとの)左衞門尉藤綱とて、廉恥正直(れんちしやうぢき)の人あり。その先租を尋ぬれば、本(もと)は伊豆の住人大場(おほばの)十郎近郷(ちかさと)は、承久の兵亂に宇治の手に向ひて、目を驚(おどろか)す高名しければ、その勸賞(けんじやう)に、上總國靑砥莊を賜りけり。是より相傳して、靑砥左衞門尉藤滿(ふじみつ)に至り、この藤綱は妾(おもひもの)の腹に生れて、殊更、末子なりければ、父藤滿もさのみに思はず、然るべき所領もなし。出家に成れとて、十一歳にて眞言師に付けて、弟子となす。幼(いとけな)き時より、利根才智ありて、學文(がくもん)を勤めけるが、如何なる所存にや、二十一歳の時、還俗(げんぞく)して、靑砥孫三郎藤綱とぞ名乘ける。近き傍(あたり)に行印法師とて儒學に名を得たる沙門あり。數年隨逐(ずゐちく)して、形(かた)の如くに勤めたり。相州時賴の三島詣ありけるに、藤綱生年二十八歳、忍びて供奉致し、下向道に赴き給ふ所に、人々の雜具共(ざふぐども)を牛に取付(とりつけ)て、鎌倉に歸るとて、片瀨川(かたせがは)の川中にて、この牛、尿(いばり)しけるを、藤綱、申しけるは、「哀れ、己(おのれ)は守殿(かうのとの)の御佛事の風情しける牛かな。」と打笑ひて通りける。侍共、聞付けて、咎問(とがめとひ)しかば、藤綱、申すやう、「さればこそ比比(このごろ)、數日、雨降(ふら)ず、田畠(たはた)、葉を枯し、諸氏、飢(え)を悲(かなし)む所に、この牛、尿(いばり)をせば、田畠の近き所にてもあらで、川中にて捨(すて)流しつる事よ。夫(それ)、鎌倉中に名德智行(めいとくちかう)の高僧達、貧にして飢(うえ)に臨む輩(ともがら)いくらもあり、無智破戒の愚僧の、金銀に飽き滿ちたるも多くあり。然るに、去ぬる春の御佛事には、破戒無智の富僧(ふそう)計(ばかり)を召して御供養ありて、實に佛法を修學(しゆがく)し、持戒高德の名僧をば供養なし。この御佛事は慈悲の作善(さざん)にはあらで、只、名聞の有樣なり」とぞ語りける。二階堂信濃〔の〕入道、是を聞傳へ、實(げに)もと思ひければ、事の次(つひで)に、この由を時賴にぞ語られける。時賴入道、聞き給ひて、「實に(げに)も彼(か)の者が申す所、道理至極せり、凡そ作善佛事と云ふも、慈悲を專(もつぱら)として、萬民を悦ばしめ、貧(まづし)きを救ひ、乏(ともし)きを助けてこそ、衆生を利する道とはなるべけれ。去ぬる春の佛事供養は、當家、頭人(とうにん)、評定衆の末子(はつし)などの僧に成りたる者共なれば、財寶に不足あるべからず、侈(おごり)を極め、學に怠り、道德もなき者共ぞかし、學德道行(だうぎやう)ある貧僧(ひんそう)は、賤(いやし)むとはなしに召さざりき。この事を豫(かね)て分別せざりけるは、我が大なる誤(あやまり)なり。かく申したるは、誰人にてやあるらん、その者の心中、奥床し」とて尋ねらるゝに、靑砥〔の〕前〔の〕左衞門尉が末にて三郎藤綱と云ふ者なりと申さるゝに、軈(やが)て召出して、「今より後は當家に奉公せよ」とて、召抱(めしかゝ)へられしより、政道の器量ありと見知り給ひ、後には評定衆の頭(かしら)になされ、天下の事、大小となく、口入(こうじふ)して、富(とん)で侈(おご)らず、威(ゐ)ありて猛(たけ)からず。遊樂を好まず。身の爲には財寶、妄(みだ)りに散(ちら)さず。數十ヶ所の所領を知行せしかば、財寶は豐(ゆたか)なりけれども、衣裳には細布(さみ)の直垂(ひたたれ)、布(ぬの)の大口(おほくち)、朝夕の饌部(ぜんぶ)には乾したる魚、燒鹽(やきしほ)より外はなし。出仕の時は、木鞘卷(きざやまき)の刀を差し、叙爵の後は、木太刀に弦袋(つるぶくろ)をぞ付けたりける。我が身には少(すこし)の過差(かさ)もせずして、公儀の事には千萬の金銀をも惜まず。飢えたる乞食(こつじき)、凍(こゞ)えたる貧者には、分に隨ひて物を與へ、慈悲深き事、佛菩薩の悲願にも等しき程の志なり。親しきに依て非を隱さず、私を忘れて、正直を本とす。邪欲奸曲(じやよくかんきよく)の輩、自(おのづから)恥恐(はぢおそ)れて、行跡を直(なほ)し、志を改め、上に婆沙羅(ばさら)の費(ついえ)を省(はぶ)き、下に恨むる庶民なし。かゝる人を見しりて召し出し、天下の奉行とせられたりける時賴入道の才智こそ、猶、末代には有難き人ならずや。夜光垂棘(やくわうすうゐきよく)の珠(たま)ありとも、見知る者なき時は、珠は石に同じかるべし。藤綱が廉直仁慈の德を治めしも、時賴、知り給はずは、匹夫(ひつぷ)の中に世を終(をは)るべし。文王は呂望(りよぼう)を知りて、高祖は張良を師とせらる。時賴入道は靑砥〔の〕左衞門〔の〕尉藤綱を得て、太平の政道を助けられ給ふこそ有難けれ。同十月十二日、將軍家の仰として、嘉祿元年より仁治三年に至る迄、御成敗(ごせいばい)の式法(しきはふ)は、「三代將軍竝に二位禪尼の定め置かれし所を改め行ふべからず。慥(たしか)に旨を守るべし。無禮不忠は人外(にんぐわい)の所行なり。邪欲奸詐(かんさ)は非法の行跡(かうせき)なれば、奉行、頭人、殊に愼み申さるべし。摠じて大酒遊宴に長じ、分(ぶん)に過ぎたる婆沙羅(ばさら)を好み、傾城(けいせい)、白拍子(しらびやうし)に親しみ、強緣(がうえん)、内奏(ないそう)、專ら誡(いまし)むべし、雙六(すごろく)、四一半の勝負は、博奕(ばくえき)の根元として、奉公を怠るの初(はじめ)、盜賊を企つるの起(おこり)なれば、諸侍、堅く停止(ちやうじ)すべし。萬一、背く輩は法に依て行ふべし」とぞ觸れられける。是より、上を恐れ、威に服して、暫く、非道の訴へなく、淳朴(じゆんぼく)の風に歸しけるは、政德の正しき所なり。

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、『青砥藤綱の廉直ぶりについては、『将軍記』『太平記評判秘伝理尽鈔』に拠る。『北条九代記』ではそれら藤綱の話に、『吾妻鏡』』(巻四十八の正嘉二(一二五八)年十月十二日の条)『『将軍記』の、先代の成敗式法を遵守すとの記事を併せ、時賴が藤綱を得て政徳正しい政治を行ったと述べる』とある。実は私はこの章に関しては、以前に、「新編鎌倉志卷之六」の「固瀨村〔附固瀨川〕」の私の注の中で全電子化注(現代語訳附)を済ませている(六年前のあの頃、「北條九代記」の電子化注がここに到達するとは実は私は思っていなかった)。今回はそれを再校正し、電子化注「卷第八」完遂の記念に、現代語訳も添えて示すこととした(現代語訳を添えた関係上、語釈は今までよりも相対的に禁欲的になっている。疑問な語句は現代語訳で極力、明らかになるように訳しているつもりである)。但し、最初に述べておくが、この鎌倉の青砥橋で著名な青砥藤綱という人物、ここではまことしやかな系譜も示されているのだが、実は一種の理想的幕府御家人の思念的産物であり、複数の部分的モデルは存在したとしても、実在はしなかったと考えられている。時頼をことさらに際立たせるために創作された、いぶし銀的なバイ・プレイヤーとも言えるように私は感じている

「相州時賴の三島詣ありけるに」北條時賴は建長三(一二五一)年に三島社を勧請、三島本社に参詣しているが、三島市の公式HPの「三島アメニティ大百科」の「三嶋大社周辺」にある「三嶋大社を崇敬した武将」の項に、翌年の建長四(一二五二)年の旱魃の夏にも自ら大社に参詣して雨乞いをしたとする記事があり、このシークエンスにぴったりくるのはこの建長四年である。

「藤綱生年二十八歳」この年齢の時賴による登用エピソードについては、もっとあり得そうもないものとして、北条時賴が鶴岡八幡宮に参拝したその夜に夢告があって、即座に藤綱を召し、左衛門尉を受授、引付衆(評定衆とも)に任じたが、その折り、藤綱自身がこの異例の抜擢を怪しんで理由を問うたところ、夢告なることを知って、「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである。」と任命を辞し、時賴はその賢明な返答に感じたともある(以上はウィキの「青砥藤綱」を参照した)。

「守殿(かうのとの)」は「長官君」などとも書き、「かみのきみ」の音変化したもの。国守・左右衛門督などを敬っていう語。時賴は寛元四(一二四六)年の幕府執権就任後に相模守となっている。

「二階堂信濃入道」政所執事二階堂行実(嘉禎二(一二三六)年~文永六(一二六九)年)のこと。引付衆となったが、短期間で卒去した。

「評定衆の頭になされ」現在知られる評定衆一覧記録には青砥の名は見当たらない。

「夜光垂棘の珠」春秋時代の晋(しん)の国で産したという宝玉。夜光を発する垂れ下がった棘(とげ)のようなものというから、六角柱状の水晶か、鍾乳石の類いか。「韓非子十過」に基づく成句「小利を以て大利を殘(損)そこなふ」の話に現れる。晋の献公は虢(かく)を伐(う)とうとしたが、そのためには虢の同盟国である虞(ぐ)を通らねばならなかった。そこで賢臣荀息の一計により、晋代々の宝である垂棘の璧(へき)と、名馬の産地であった屈の馬を虞公に贈って安全を確保しようとした。虞の家臣宮之奇は虞と虢は車の両輪であり、虢が滅べば、遠からず我が国も滅亡の憂き目に逢うとして諌めるが、宝玉と駿馬に目が眩んだ虞公は領内の通過を許可してしまう。荀息は、ほどなく虢を滅ぼし、その三年後には同じ荀息によって虞は滅ぼされ、璧と馬はかつてのままの状態で献公の手に戻ったという故事。「眼前の利益に目を奪われ、真の利益を失う」の意で用いる。

「同十月十二日、將軍家の仰として」は正嘉二(一二五八)年十月十二日の宗尊将軍の発布した御成敗式目追加法の禁令を指す(「同」は前項「伊具の入道射殺さる」以下の正嘉二年の記事を受ける)。「吾妻鏡」正嘉二年十月十二日に、

十二日丁亥。晴。今日評議。被仰出曰。自嘉祿元年至仁治三年御成敗事。准三代將軍幷二位家御成敗。不可及改沙汰云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十二日丁亥。晴。今日の評議に仰せ出されて曰く、「嘉祿元年より仁治三年に至る御成敗の事、三代將軍幷びに二位家の御成敗に准じ、改め、沙汰に及ぶべからずと云々。

とある。実は本話に用いられた「吾妻鏡」素材は、ここだけと言ってよい。

「四一半」とは双六から鎌倉時代に発生した賭博の一種で、時代劇などで知られる二つの骰子を振って偶数・奇数を当てる丁半賭博。駒を用いた双六に比して遙かに勝負が早い。 

 

□やぶちゃんの現代語訳

     〇相模の守時頼入道の政務の様態 付 青砥左衛門藤綱の私欲なく正直なこと

 相州時頼入道様は、天下の執権としての政務には一切の瑕疵(かし)なく、その人望たるや、国に遍(あまね)く行き渡り、如何なる場面に於いても私心をお持ちにはなられなかったが、奉行や引付衆長官たる頭人及び評定衆の中には、ややもすれば、私利私欲に陥り、正道を外れて誤った行いに走る者があった。故に、時頼入道様は、『何とかして道義の正しき道に帰せしめ、天下を太平の静かな治の中に安んじて万民を真心を以て慈しみ育みたいものだ。』と常々、お感じになっておられた。

 さて、ここに青砥左衛門尉(さえもんのじょう)藤綱と言って、清廉潔白で恥の何たるかを弁(わきま)えた極めて正直な人物があった。その先租を尋ねれば、その始祖は伊豆の住人大場十郎近郷(おおばのじゅうろうちかさと)という者で、承久の兵乱の際、幕府軍の宇治の攻め手に加わって、目を驚かす高名を成したがため、その恩賞として上総の国青砥荘(しょう)を賜ったという。それより代々相伝して、青砥左衞門尉藤滿(ふじみつ)に至って、この藤綱が生まれたのであった、彼は側室の子で、尚且つ、末子であったがため、父藤満もさして大事にしようとは思わず、然るべき所領も与えられなかった。「出家になれ」と命じて、十一歳で真言宗の師に付けて、その弟子と成さしめた。幼い時から才気煥発、真言の法理もしっかりと修めたのであったが、いったい如何なる所存であったものか、二十一歳の時、突如、還俗して、青砥孫三郎藤綱と名乗った。それでも、彼の住まいの近くに行印法師という儒学僧として名を成した者があり、数年の間は、この僧につき従って、とりあえずは儒家の教えなんどを学んではいた。

 ある時、相州時頼入道様の三島詣(もうで)が御座ったが、藤綱は当年二十八歳、その非公式の供奉人として潜り込んでいた。参拝を終えられての途次、供奉の人々が旅中の用具などを牛に背負わせ、まさに鎌倉へと帰らんとする、かの片瀬川渡渉の砌(みぎ)り、その川中にて、この牛が勢いよく、

――ジャアアアッーーー!

と、尿(いばり)をした。それを見て、藤綱が言うことには、

「――ああっ! 己(おのれ)は! 守殿(こうのとの)が催された御仏事とまるで変わらぬ仕儀を致す牛じゃのぅ!」

と笑いながら牛の横を渉って通る。

 これを傍らにいた他の供奉の侍どもが聞き咎め、

「如何なる謂いか?」

と詰問したところが、藤綱が言うことには、

「――さればとよ。この数日は雨も降らず、田畑はすっかり葉を枯らしてしまい、諸民、悉く飢え悲しむ折りから、この牛が尿(いばり)をするに、それが肥やしとなろう田畑の近き所にてひるにはあらで、あろうことか、川の中にて無駄に捨て流した、ということを、我ら、言うておるのよ。――さても、鎌倉中には正しき名徳にして智行高邁の秀でた僧たちで、まさに今、貧しく飢えて御座る輩(やから)がいくらも、おる。――また逆に、無智蒙昧にして平然と破戒しおる愚劣なるなる似非僧で、金銀に飽き満ちておる者どもも多く、おる。――然るに、去ぬる春の御佛事にては、そうした破戒無智の金満僧ばかりを召されての御供養をなさって御座った。真(まこと)の仏法を修学し、持戒堅固徳高き名僧を、その供養に列せらるることは、これ、なかった。――さればこそ、この御仏事は真の仏法の慈悲の作善にはあらず――ただ、外見ばかりを取り繕うた――空疎愚昧なる仕儀であったということじゃて!」

と語ったのであった。

 二階堂信濃入道が、その折りの侍の一人から、このことを伝え聞いて『尤もなる謂いじゃ』と思ったによって、ことの序でに、この一部始終を、かの時頼入道様に上奏致いた。

 時頼入道様はその話をお聞きになられると、

「……まっこと、彼(か)の者の申すところ、至極、尤もなる道理で、ある。凡そ、作善仏事というものは、ひたすら慈悲を主眼と致いて、万民に喜悦を与え、貧しき者を救い、とかく物の乏しき者に物品を与え助けてこそ、これ、衆生を利する道とは言うのである。……しかるに、去ぬる春の仏事供養にては、当家の頭人や評定衆の末子などで僧に成ったる者どもをのみ、これ、招聘致いたれば、彼らは、財宝に不足ある者にては、これ、全くなく、それどころか、奢侈(しゃし)を極め、学問を怠っておる、道徳の「ど」の字もなき者どもであったぞ。……学徳優れ、道心堅固なる貧しい苦行僧らをば……賤しんだわけでは御座らぬが……確かに一人として招かなんだ。……このことを前もって自覚することが出来なかったことは、我が大いなる誤りである。――かく申したるは、それ、誰人(たれぴと)にてあるか!? その者の心中、まことにおくゆかしいことじゃ!」

と御下問あらせられたので、二階堂信濃人道が、

「青砥の前の左衛門尉が末子にて三郎藤綱と申す者にて御座いまする。」

と申し上げたところが、即座に彼をお召し出しになられて、

「――今より後は北条が当家に奉公せよ。」

と、藤綱は家士として召し抱えられたので御座った。

  さて、それ以来、時頼入道様はこの藤綱に政道を司る器量ありとお見抜きになられて、後には評定衆の頭(かしら)となされ、藤綱は、天下の事、その大小に拘わらず、その見解と意見を述べる立場となった。

 藤綱はあっという間に豊かになったが、それでも一切、これ、驕り昂ぶることなく、評定衆頭人(とうにん)という権威を持ちながら、決してそれを振り回さない。遊興はこれを好まず、自分のためには財産を妄りに浪費することもなかった。後には数十ヶ所の所領を支配していたから、実質的な財産は相当に豊かにはなったけれども、衣裳は常に細い糸で織った麻布の直垂(ひたたれ)に、麻布製の裾の開いた大口(おおぐち)の袴(はかま)で、朝夕の食膳には乾した魚と焼き塩以外には載せない。出仕の時は、素朴な木鞘巻(きざやまき)の刀を差し、左衛門尉の官位を受けてから後でも、豪華な太刀を嫌い、木太刀に申訳程度の飾りとして弦袋(つるぶくろ)のような籐(とう)で出来た袋を被せたものを佩いていた。己がためには些かの贅沢をすることもない代わりに、公儀の御事に対しては、これ、己が千万の金銀を使うことをも、かつて一度として惜むことがなかった。飢えた乞食や凍えた貧者を見れば、その飢えと貧に応じて物を与え、その慈悲深いことと言ったら、仏菩薩の衆生済度の悲願にも等しい程の志しであった。しばしば地位を得た者に見られるような、親しい者だからといってその者の非を隱すといった庇(かば)い立てをすることなどは金輪際なく、ひたすら『私(わたくし)』を忘れて『正直』なることを人生の根本とした。さればこそ、彼の周囲に御座った、邪(よこしま)なる我欲から悪巧(わるだく)みをせんとする輩(やから)は、これ、一人残らず、自(おのづか)ら恥じ恐れて、己が行跡(ぎょうせき)を直(なお)し、志しを改め、上の者たちには奢侈(しゃし)の浪費を抑えさせたがために、下にも恨む庶民がいなくなった。

 さても何より、このように藤綱の人物を見抜いて召し出し、天下の奉行となされた時頼入道様という、才智ある御仁こそ、なお後代には稀有(けう)の御人(おひと)ではあるまいか? 夜光垂棘(やこうすいきょく)の珠(たま)がこの世に存在しても、それが名玉夜光垂棘であるということを認識出来る者がいない時は、貴い宝珠も、ごろた石と同じであろう。藤綱が清廉潔白で仁徳と慈悲心を美事修めていても、時頼入道様がその存在を発見なさらなかったならば、つまらぬ侍どもの中で凡庸なる人生を終えていたであろう。周の文王は太公望呂尚(ろしょう)を見出され、漢の高祖沛公(はいこう)は功臣張良を軍師となさった。時頼入道様は青砥左衛門尉藤綱を得、太平の政道を彼によって輔弼(ほひつ)させなさったことは誠に稀有の幸甚(こうじん)であったのである。

 同正嘉二年十月十二日、宗尊将軍の仰せとして、

「嘉禄元年より仁治三年に至るまで、幕府御裁決の方式は、源頼朝様・頼家様・実朝様三代将軍并に二位の禪尼政子様の定め置かれたところのものを、一切、変更してはならない。確実にこの旨を守らねばならない。無礼・不忠は人間に非ざるものの所行(しょぎょう)ある。邪(よこしま)なる我欲とそれに発する種々の悪巧(わるだく)みは、一切が不法行為であるからして、奉行・頭人(とうにん)らは、殊に謹んで伺候(しこう)するようにせねばならない。総じて、大酒を呑んで遊宴にうつつを抜かし、分に過ぎた奢侈(しゃし)を好み、傾城(けいせい)や白拍子(しらびょうし)に親しみ、要人との縁故(えんこ)を恃(たの)んで利を求めたり、己を利するためにする卑劣なる内密の奏上(そうじょう)などは、これ、厳(げん)に慎まねばならない。双六(すごろく)、四一半(しいちはん)の勝負は、賭博の元凶であり、奉公や伺候の怠慢の始まりとなり、ひいては盗賊へと身を持ち崩し、悪事を企てる元ともなるによって、総ての侍(さむらい)は、堅くこれを禁止とする。万一、これに背く輩(やから)は、法に従って厳然と処罰される。」

と御成敗式目追加法たる御禁令をお出しになられた。これ以来、諸人は悉くお上(かみ)を恐れ、正しき権威に誠心(せいしん)から服従し、暫くの間は、話にならない馬鹿げた訴えも、これ、一つとしてなく、純朴にして正しき気風が、ここ鎌倉中に満ち満ちたのは、時頼入道様がなされ、藤綱が支えた幕政の正しかったことを如実に現わしているのである。]

北條九代記 卷之八 伊具入道射殺さる 付 諏訪刑部入道斬罪

      ○伊具入道射殺さる  諏訪刑部入道斬罪

正嘉元年二月二十六日、相州時賴入道の嫡子正壽丸、七歳にして、將軍家の御所に於て元服あり。武蔵守長時以下、一門御家人、参集(まゐりつど)ふ。親王將軍家、即ち、宗の字を下されて、時宗と號せらる。同八月十六日、將軍家鶴ヶ岡八幡宮に御社參あり。馬場の流鏑馬(やぶさめ)以下、例の如く行はれ、既に還御ありければ、日暮れて黃昏(くわうこん)に及び、燈(ともしび)を取る比になりて、伊具(いぐの)四郎入道、今日、供奉の役を勤めて、山〔の〕内の家に歸る所に、建長寺の門前にして、射殺(いころ)されたり。誰とは知らず、蓑笠を著(き)て、馬に乘たる人、下部(しもべ)一人、召倶(めしぐ)して、伊具〔の〕入道が左の方より行違(ゆきちが)ひて通りしが、田舍より鎌倉に參る人と覺えし。かくて伊具は馬より落て、一言(ごん)をも云はず、その儘、死にけるを、郎從、驚きて引越(ひきおこ)さんとするに、大の矢に當りけりとは知られけり。鏃(やじり)に毒を塗りて射込みたりと見えて、五躰の支節(つぐぶし)、離々(はなればなれ)になりて、石瓦(いしかはら)を袋に入(いれ)たる如くなり。相州時賴入道に訴へければ、諏訪(すはの)刑部左衞門入道を召捕(めしと)りて、對馬前司氏信(うぢのぶ)に預けらる。平判官康賴入道が孫、平内左衞門尉俊職(としもと)、牧(まきの)左衞門入道等が一味同意の所爲(しよゐ)なりと風聞す。諏訪入道、陳(ちん)じ申しけるは、「昨日(きのふ)、平内左衞門、牧左衞門入道兩人、某(それがし)の家に會合(くわいがふ)して、終日(しうじつ)、酒宴し、物語致して、門より外へは出で申さず。爭(いかで)この事を存すべき」と兩人を證據(しようこ)に立てたり。平内俊職、牧入道を召して問(とは)るゝに、確(たしか)に證人に立ちたりければ、是非の理(ことわり)、明難(あきらめがた)し。然るに、日比、御評定の義あるに依(よつ)て、諏訪〔の〕刑部入道が古(いにしへ)の所領の地を召上(めしあげ)て、伊具に付けられしかば、諏訪と伊具と不會(ふくわい)して、互(たがひ)に物をも云はざりけり。この上、又、「射殺(いころ)したる矢束(やづか)の延びたると、射(い)やうの品と頗る世の常の所爲(しよゐ)にあらず、手垂(てだれ)の射手の業(わざ)と覺ゆ。諏訪が所爲、疑(うたがひ)なし」と評定あり。諏訪が下部(しもべ)を捕へて、水火の責(せめ)に及び、強く拷問して、「汝が主の刑部入道、既に白狀しけり。この上は何か隱すべき、落ちよ落ちよ」と責(せめ)しかば.、下部なれども忠義ありて申すやう、「諏訪殿は斯樣の拷問に恥をかくよりは、科(とが)を負うて死せんと思ひて白狀せられ候ひぬらん。我等は下﨟(げらう)なれば、拷問の恥をも痛まず。知ぬ事をば爭(いかで)か申すべき。諏訪殿、既に白狀し給ひなば、重(かさね)て我等を拷問せられても詮(せん)なき事か」と申ける程に、慥(たしか)には知難(しりがた)し。相州時賴入道、竊(ひそか)に、諏訪〔の〕刑部入道一人を御前に召され、直に仰ありけるは、「伊具入道が殺されし事、御邊(ごへん)の所爲(しよゐ)なる申、下部の高太郎、白狀せし上は、疑(うたがひ)なき事なり。去りなから、その子細を有(あり)の儘に申さるべし。品(しな)に依りて、御命の事は申宥(まうしなだ)めて助け參(まゐら)せん」とありければ、その時、諏訪人道、涙を流して申しけるは、「是、日比、宿意(しゆくい)あるに依(よつ)て、今は堪忍(かんにん)も成難(なりがた)く、隙(ひま)を狙ひて、かく仕りて候」とぞ申しける。時賴、聞給ひ、「神妙(しんべう)に候。如何にも御前を申調へて見候はん」とて、奥に入り給ひ、不敏ながらも天下の法令なれば力なし、同九月二日、諏訪〔の〕刑部入道は首を切られ、平内左衞門尉は、薩摩方(がた)、硫黃(いわう)島へ流され、牧(まきの)入道は、伊豆國にぞ流し遣されける。 祖父(おほぢ)康賴は、俊寛等と同じく硫黃ヶ島に流され、孫の平内俊職、此所(こゝ)に流されたりしは、定(さだめ)て因緣(いんえん)あるらめと思合(おもひあは)せて覺束(おぼつか)なし。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻四十七の康元二(一二五七)年二月二十六日、及び、巻四十八の正嘉二(一二五八)年八月十六日・十七日・十八日と、九月二日等に基づく。私の好きな「吾妻鏡」中の犯罪事件記録の一つである。

「相州時賴入道の嫡子正壽丸」「しやうじゆまる(しょうじゅまる)」は、後の第八代執権となる北条時宗(建長三(一二五一)年弘安七(一二八四)年)の幼名。

「同八月十六日」誤り。翌正嘉二(一二五八)年八月十六日。

「山〔の〕内の家に歸る所に、建長寺の門前にして」若い頃、「吾妻鏡」でこの部分を読んだ時には、この暗殺事件の現場を、勝手な自身の印象から、ロケーションを亀ヶ谷坂切通で想定していた。何故なら、建長寺門前に降りる当時の旧巨福呂坂切通(現行の切通の西の高い峰を越えるルート)は、雪の下方向からの登りがかなりきつく道幅も狭いからである(亀ヶ谷坂も亀がひっくり返るぐらいだからきついことはきついが)。しかし乍ら、今回、現場を再考してみると、伊具の屋敷がどこにあったか不明ながら、山ノ内の亀ヶ谷坂を越えて、また建長寺方向に戻ったところにあるというのは頗る不自然である。亀ヶ坂から普通に言う山ノ内地区へは左折するか、そのまま北へ向かうとしか考えにくいのである。即ち、亀ヶ谷坂を登って「山ノ内」に帰るには「建長寺門前」は通らないのである。ここは旧巨福呂坂切通を想定するしかない。同切通しも殺人現場となった建長寺門前では相応にかなり広かったとも推定出来る。

「伊具(いぐの)四郎入道」名不詳。伊具流北条氏の一門とは思われる。ウィキの「北条氏 (伊具流)によれば、第二代執権北条義時四男の北条有時を祖とし、有時が得宗領として『陸奥国の伊具郡』(陸奥国(後に磐城国)で現在も宮城県の郡名として残る)『を領有したことから伊具流を創設した』。『有時は義時の側室の所生であり、また病のために政治活動を引退したことから、伊具家は要職就任者を出す家の中での家格は低く、多くの子孫の中で幕府要職に就いたのは有時の子・通時の子である斎時のみであった。その他には』「建治三年記」十二月十九日の『条で、六波羅探題評定衆に「駿河次郎」という人物があり、駿河守であった有時の一門、伊具家の人物であると見られている』とあるのみ。

「蓑笠を著て、馬に乘たる人、下部一人、召倶して、伊具入道が左の方より行違ひて通りしが、田舍より鎌倉に參る人と覺えし」これについては、「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同の注で、『伊具の所従が』、向こうからやって来る主従二人を、『田舎から来た人と思ったのは「右側通行」しているからであろう。武器の主体が刀ではなく弓なので、平和時には』弓手(ゆんで:左手)ではなく、馬手(めて:右手)に『相手を置く「左側通行」が一般的であったのだろう』という非常に鋭い注が附されてある(下線やぶちゃん)。

「支節(つぐぶし)」読みは原本もママ。節々。関節の接ぐ節々(ふしぶし)の謂いである。「石瓦(いしかはら)を袋に入たる如くなり」というのは、全身の筋肉部が硬直を示し乍らも、しかも全身の関節部は逆にぐだぐだになっているという症状を示すようである。ともかくも即効性の非常に強力な神経毒(シナプス遮断か)が用いられたことを指しているように私には思われるが、毒物の特定は私には出来ない。識者の御教授を乞う。

「諏訪(すはの)刑部左衞門入道」名不詳。得宗被官で御内人の泰時の側近、法名の「蓮仏」の名で「吾妻鏡」に多出する諏訪盛重の遠い血縁者か?

「對馬前司氏信」佐々木氏信(承久二(一二二〇)年~永仁三(一二九五)年)のこと。既出既注であるが、再掲する。ウィキの「佐々木氏信」によれば、『佐々木氏支流京極氏の始祖であり、京極 氏信(きょうごく うじのぶ)とも。父は佐々木信綱、母は北条義時の娘とされる』。承久二(一二二〇)年、『後に近江の守護へと任ぜられる佐々木信綱と、その正室である執権北条義時の娘との間に』四男として『生まれたとされる。母は武蔵国河崎庄の荘官の娘とする説もある』。仁治三(一二四二)年に『父が死去し、江北に在る高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡と京都の京極高辻の館を継ぐ。これにより子孫は後に京極氏と呼ばれるようにな』った。この後の文永二(一二六五)年には『引付衆、翌年には評定衆に加わり』、弘安六(一二八三)年には『近江守へと任ぜられ』た。『鎌倉の桐ヶ谷(きりがや)にも住んでおり、桐谷(きりたに)氏とも呼ばれた』とある。

「平判官康賴入道」平康頼(久安二(一一四六)年~承久二(一二二〇)年)は信濃権守中原頼季の子。官位は六位・左衛門大尉。最後は後白河法皇の近習として北面に仕えた。ウィキの「平康頼」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『明法道(法律)の家柄である中原氏に生まれる。十代で平保盛(平清盛の甥)の家人となる。保盛は長寛元年(一一六三年)正月二十四日付で、越前国の国司に任ぜられており、十八歳の康頼も越前国に派遣されて、この頃に主君から平姓の賜与を受けたと思われる。保盛は仁安元(一一六七)年』、『尾張国の国司に転任し、康頼を目代に昇格させて派遣した』。『尾張国知多郡野間の荘には平治の乱で敗走の途中に相伝の家人により湯殿で非業の死を遂げた源義朝(源頼朝の父)の墓があったが、誰も顧みる者も無く荒れるに任せていた。康頼はこの敵将の墓を修理して堂を立て、六口の僧を置き不断念仏を唱えさせ、その保護のために水田三十町歩を寄進した。もちろん、国司・保盛の許可を得てしたことであろうが、当時、この噂は京にも聞こえ後白河上皇の耳にも達して、平康頼なる人物は目代ながら、武士道の礼節をわきまえた頼もしい若者との深い印象を与え、近習に取立てた。また清盛はじめ平家一門の人々からも、敵将の墓を修理して保護した康頼を、武士の鑑、一門の名を高めたとして好評判であった。任官と同時に、上皇の近習にとり立てられ半月もたたない仁安四年(一一六九年)一月十四日、後白河上皇十二回目の熊野参詣には、早くも近習として供を命ぜられている』。また、嘉応元(一一七〇)年四月二十日、『後白河上皇は、平清盛と同伴で東大寺に参詣したが、康頼ら七人の衛府役人が随行している。また後白河上皇は今様を非常に愛好しており、多くの公家や官人にも教えていたが、康頼も門弟の一人で、しかも美声で声量もあり、抜きん出た歌い手であった。その点でも、上皇から特に目をかけられていたようである。検非違使・左衛門大尉に任ぜられ、平判官と称した』。『安元三年(一一七七年)六月には、鹿ケ谷の山荘で藤原成親・西光・俊寛らの平家打倒の密議に参加。しかし、多田行綱の密告により策謀が漏れて康頼も捕縛され、俊寛・藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流された』。(鹿ケ谷の陰謀)平家物語によると、『信仰心の厚かった康頼は配流にあたり出家入道し性照と号した。配流先で京を懐かしむ日々の中、成経と康頼は千本の卒塔婆に望郷の歌を記し海に流すことを思い立つ。一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着き、これに心を打たれた平清盛は赦免を行う。治承二年(一一七八年)に赦免船が来島し、成経と康頼は赦免され京へ戻るが、俊寛は許されなかった』。『平家滅亡後、文治二年(一一八六年)には源頼朝によって、阿波国麻殖保』(おえのほう)の保司(ほうし:国衙領の一種である「保(ほう)」を管理する在庁官人)『に任命され』、 康頼は『京より三人の家人を』伴って、森藤(現在の徳島県吉野川市鴨島町森藤(もりとう)と思われる)の『地に下向した。康頼はすでに四十一歳になっていた』。『康頼は承久二年(一二二〇年)頃、自らの生涯七十五年間におきた出来事を記録し、一通を京都の雙林寺へ送り、一通は玉林寺に残し、その年に大往生した』。方一丁(かたいっちょう)の土地、通称、一町地(いっちょうじ)で(以上の読みは私の推定)『火葬される。遺言で家人の鶴田氏が康頼神社を建て』(徳島県吉野川市鴨島町森藤に「康頼神社」として現存する)、『主君を神として祀り』、『代々祭司を務めた。康頼神社の脇に墓がある。遺骨は分骨されて、京都東山の雙林寺にも埋葬された。康頼神社の脇に三基の五輪塔があるが、康頼の母、康頼、俊寛の三人のものという。清盛の怒りが解けず、鬼界が島に一人残された俊寛は、数年後に都から、はるばる訪ねて来た弟子の有王の世話をうけながら、自ら絶食して生命を絶った。有王は主人を火葬して骨を持ち帰り、高野山に埋葬したが、康頼はその分骨をゆずり受けて、壇の下に葬ったとも言われている』とある。

「平内左衞門尉俊職」ウィキの「平康頼」には(アラビア数字を漢数字に代えた)、前注のかれの祖父である康頼の嫡男『平清基は承元年中に保司職を継承した。鎌倉三代将軍・源実朝が死去する頃には、幕府は執権の北条氏が頼朝以来の有力な御家人・門葉を排除し、実権を掌握していた。後鳥羽上皇は諸国の広大な荘園を再び取り返そうと、全国の武士に北条義時追討の院宣を下した。上皇側の予想に反し思うように兵は集まらず、圧倒的な鎌倉の大軍を支えることが出来ず、それぞれの国元へ逃げ帰った。この戦いで阿波の佐々木経高と高重の父子は討死して果て、六百余の兵のほとんどは阿波へ帰らなかった。阿波国に対しては佐々木氏に代わって、小笠原長清を阿波守に任じた。長清は阿波へ入り居城を攻め、ほとんど兵のいない鳥坂城は炎上し、経高の二男高兼は城を捨て山中に逃げたが、小笠原氏は高兼の生存を許さなかったため、一族と家臣達が百姓となって、この地に住む事を条件に、自ら弓を折り腹を切って自害した。神山町鬼篭野地区にある弓折の地名は、高兼が弓を折って自害した所で、同地に多い佐々木姓は、かっての阿波守護職、近江源氏佐々木経高の後裔達であるといわれる。一方、麻植保では清基が保を没収され、保司職を解任された。そして清基に代わって小笠原長清の嫡男・小笠原長経が阿波の守護代及び、麻植保の地頭に補任された。理由は清基が麻植保の兵をつれて、佐々木氏に従って上皇軍に加わっていたというのである。事実清基は、承久の乱に上京していたが、上皇軍には加わらなかったと申し立て、保司を解任されたのを不服として、長経と論争をおこし、無実を鎌倉へ訴えて、長経と対決裁判をした。長経の申し状によれば、清基は承久三』(一二二一)『年夏、上皇方へ加わるために上京し、和田朝盛と共に戦場へおもむいたと申し立て、証拠の書状などを提出した。これに対して清基は、叔父の中原仲康が、和田朝盛と朋友であったから対面したが、かの兵乱には自分はもとより、麻植保の衆も参加していないと主張した。しかし長経の提出した証拠の仲に、清基から経高に出した手紙があり、軍に加わる内容が書かれていたため、裁判の結果は清基が破れた』。その清基の子で康頼の孫に当たる、この平俊職は、官職を失い、『浪々の身となり京に出たが、承久の乱の敗者には仕官先もなく、賊徒の輩と徒党を組み、伊具四郎を毒矢で射殺し捕らえられた。首謀者の諏訪刑部左門は斬首となり、俊職と牧左衛門は、昔、祖父の康頼が流されていた鬼界ヶ島に流されて消息を絶ち、森藤の平家は絶家した』とある(下線やぶちゃん)。しかし気になるのは「吾妻鏡」に、彼がアリバイ工作に加担して処罰される理由として彼が『公人(くにん)』でありながら、そうしたおぞましい犯罪に加担したことを挙げていることである。中世に於ける「公人」とは、①朝廷に仕えて雑事をした下級役人/②幕府の政所・問注所・侍所 などに属して雑事をした下級職員/③大社寺に属して雑事をした者を指すが、ここで唐突にただ『公人』とぽつんと言った場合、これはもう、②の幕府の下級官吏としか読めない。とすると、俊職は犯行当時、上記引用のような無官の浪人だったのではなく、下級職ではあっても、れっきとした幕府の役人であったと考えるのが正しい。とすれば、それなりの家格の所属であったと考えるのが至当で、であるからこそ、とんでもなく遠い硫黄島配流という重罰が下されるのだと考えねばならぬ。ともかくも何とも、謂い難く、哀れでは、確かに、ある。

「牧(まきの)左衞門入道」不詳ながら、牧氏は第一代執権北条時政の後妻牧の方の実家の家筋である。即ち、実はの事件の被害者も複数の加害者(主犯一人及び下僕を含む共犯三人)も実は総てが個人(或いはその直の家系)が、これ、皆、北条氏被官であった可能性が頗る高いのである。さればこそ、「吾妻鏡」にも事件の経緯と経過及び処断までが細かく書かれているのではないか? だからこそ、この私怨による事件の初動捜査が即座に行われ(被疑者逮捕は事件発生の翌日で重要参考人聴取も同日)、被疑者とその共同正犯とも疑われる下僕の拷問を含む本格的尋問が二日目、解決が異様にスピーディに行われているのではないか? と私は思うのである。

「不會」仲違(なかたが)いして、会おうともしないこと。不和。

「矢束(やづか)延びたること」射殺に用いた矢の長さが半弓(後の「吾妻鏡」で注するが、流鏑馬を演ずる弓の名手たる伊具が油断して警戒しなかったのは、馬上の蓑をつけた男(実は狙撃者)が弓を持っているようには見えなかったことによる)から放たれたとは通常では考えられないほど、異様に長いものであること。

「射(い)やうの品と頗る世の常の所爲(しよゐ)にあらず」物理上の異様な矢の長さだけでなく、そうした定式外の普通でない矢を射た状況も、下僕の証言から見て、普通の人間の弓の射方では到底、考えられないこと。

「手垂(てだれ)の射手」よほどの弓の名手。されば被疑者である諏訪は当時、世評にあってもとんでもない弓の名人として知られていた人物なのであろう。

「諏訪殿は斯様の拷問に恥をかくよりは、科(とが)を負うて死せんと思ひて白狀せられ候ひぬらん。我等は下﨟(げらう)なれば、拷問の恥をも痛まず。知ぬ事をば爭(いかで)か申すべき。諏訪殿、既に白狀し給ひなば、重(かさね)て我等を拷問せられても詮(せん)なき事か」――主人諏訪殿は『このような非道にして屈辱的な拷問を受けて恥をかくよりは、無実であってもその冤罪を負うて死んだ方がましだ』とお思いになって、偽りの、冤罪の「白状」をなさったに違い御座いません。我らは、このような下郎なれば、如何なる拷問をも恥と思うことも、痛くも苦しいとも思うことなど御座いませんし、それで嘘偽りを吐こうとも思いませぬ。知らぬことを、どうして知っているなどと申すことが出来ましょうや! さらに申すなら、主人諏訪殿が、まっことこれ、既にして白状しなさったとするのならば、重ねてこのように、下賤の我らを拷問にかけたとて、これ、何の意味も御座らぬではありませぬか?!――

「下部の高太郎」「吾妻鏡」にこの名で出る。

「品(しな)に依りて」その申し分を聴き、場合によっては。

「御命の事は申宥(まうしなだ)めて助け參(まゐら)せん」増淵勝一氏の訳では、『死罪の件は考慮するように(評定衆に)申して助け申そう』とある。

「宿意」恨み。

「薩摩方(がた)、硫黃島」現在の薩南諸島北部に位置する島で、鹿児島県鹿児島郡三島村の大字硫黄島。一説に前に出した俊寛。康頼らが流された薩摩国鬼界ヶ島に同定されてもいる。

「覺束(おぼつか)なし」その悪業の因縁を考えると何とも厭な感じがして不快で、淋しい。

 

 以下、「吾妻鏡」正嘉二(一二五八)年の本件に関わる条を順に引く。

 

○原文

八月大十六日壬辰。雨降。將軍家御參鶴岳宮寺。馬場流鏑馬以下儀如例。事終還御。相州禪室自御棧敷令還給之後。及秉燭之期。伊具四郎入道歸山内宅之處。於建長寺前被射殺訖。著蓑笠令騎馬之人。相具下部一人。馳過伊具左方。自田舍參鎌倉之人歟之由。伊具所從等存之。落馬之後知中于矢之旨云々。塗毒於其鏃云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十六日壬辰。雨、降る。將軍家、鶴岳宮寺に御參。馬場の流鏑馬以下、儀例のごとし。事終りて還御す。相州禪室、御棧敷(さじき)より還りらしめ給ふの後、秉燭(へいしよく)の期(ご)に及んで、伊具四郎入道、山ノ内の宅へ歸るの處、建長寺の前に於いて射殺され訖んぬ。蓑笠を著し、騎馬せしむるの人、下部(しもべ)一人を相ひ具し、伊具が左方を馳せ過ぐ。『田舍(ゐなか)より鎌倉へ參るの人か』の由、伊具が所從等、之れを存ず。落馬の後、矢に中(あた)るの旨を知ると云々。毒於其の鏃に塗ると云々。

・「相州禪室」北条時頼。

・「秉燭(へいしよく)の期」「燭」を「秉 () る」(取る)の意で、火の点し頃。夕刻。同日はグレゴリオ暦に換算すると九月二十一日である。例えば今年二〇一六年九月二十一日の横浜の日没は五時四〇分である。事件発生はその前後と読める。

 

○原文

十七日癸巳。天晴。依伊具殺害之嫌疑。虜諏方刑部左衞門入道。所被召預對馬前司氏信也。亦平内左衞門尉俊職〔平判官康賴入道孫。〕。牧左衞門入道等。同意令露顯云々。是昨日。件兩人々數會合于諏方。終日傾數坏凝閑談。而諏方伺知伊具歸宅之期。白地起當座。馳出路次射殺之後。又如元及酒宴云々。今日。被相尋之處。差昨日會衆。爲證人依論申子細。又被問兩人。各一旦承伏云々。此殺害事。人推察不可覃之處。以諏方舊領被付伊具之間。確執未止歟。其上云箭束云射樣。已揚焉。頗越普通所爲。依之嫌疑御沙汰出來云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十七日癸巳。天、晴る。伊具殺害の嫌疑(けんぎ)に依つて、諏方(すはの)刑部左衞門入道を虜(とら)へ、對馬(つしまの)前司氏信に召し預けらるる所なり。亦、平内(へいないの)左衞門尉俊職(としもと)〔平(たいらの)判官(はんがん)康賴入道が孫。〕・牧(まきの)左衞門入道等(ら)が同意露顯せしむと云々。

是れ、昨日、件(くだん)の兩人の人數(にんず)、諏方に會合(くわがふ)し、終日、數坏(すはい)を傾け、閑談を凝(こ)らす。而して諏方、伊具の歸宅の期(ご)を伺ひ知りて、白地(あからさま)に當座(たうざ)を起ち、路次(ろし)へ馳せ出でて射殺すの後、又、元のごとく、酒宴に及ぶと云々。

今日、相ひ尋ねらるるの處、昨日の會衆(くわいしゆ)を差して、證人と爲(な)し、子細を論じ申すに依つて、又、兩人に問はる。各々、一旦、承伏すと云々。

此の殺害の事、人の推察、覃(およ)ぶべからざるの處、諏方が舊領を以つて伊具に付らるるの間、確執(かくしふ)、未だ止まざるか。其の上、箭束(やつか)と云ひ、射樣(いやう)と云ひ、已に揚焉(けちえん)なり。頗る普通の所爲(しよゐ)に越ゆ。之れに依つて、嫌疑の御沙汰、出來(しゆつたい)すと云々。

・「白地(あからさま)に」突然に。

・「路次」道筋。諏訪(諏方)の屋敷は建長寺から程遠からぬ位置にあったのであろう。

・「子細を論じ申す」非常に細かく弁解しては無実を訴える。

・「一旦、承伏す」参考人招致して尋問したところ、直ちに諏訪の証言通りに一緒に酒盛りをしており、中座などはしなかった旨の証言をした。

・「掲焉(けちえん)」著しいさま・目立つさまで、ここはよほどの弓術の手練れの仕業であることは明白であることを断言した表現。なお、「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同の注及び須川益雄氏のサイト「日本の武器兵器」のその他の記載を参考にすると、当時の大弓は二メートル十三センチほどもあり、これではすれ違った際に、伊具に弓を持って狙っていることが美濃から上下孰れかが突き出てしまって伊具に判ってしまうことから(伊具も流鏑馬を演じる弓の名手であることを忘れてはいけない)、使用した矢は異様に長いものの、弓自体は『半弓と思われる』(「歴散加藤塾」注)とある。なお、「半弓」と言っても、実際に半分の長さなのではなく、長さは一メートル六〇センチと本弓の四分三程度の長さがあり、矢長は約七十二センチメートル(大弓(本弓)の矢は凡そ一メートル)である。或いは、諏訪はこの半弓で、しかも一メートル前後の異様に長い大弓用の矢を敢えて狙撃用として使用したものかも知れない。でなければ捜査官が「異様に長い矢」とは言わないと思うのである。]

 

○原文

十八日甲午。天晴。諏方刑部左衞門入道被召置之。雖被加推問。敢不承伏。所本執。仍召取所從男〔號高太郎。〕被推問之。任法之處。屈氣不能言。結句相誘之。主人已令獻白狀畢。爭可論申哉之由。奉行人雖盡問答。件男云。主人者兼而顧糺問之恥辱。仍申歟。於下﨟之身者。更不痛其恥。任實正所論申也。但主人白狀之上。不及重御問歟云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十八日甲午。天、晴る。諏方刑部左衞門入道、之れを召し置き、推問を加へらると雖も、敢へて承伏せず。本より執(しふ)する所なり。仍つて、所從の男(をのこ)〔高太郎と號す。〕を召し取り、之れを推問せらる。法に任するの處、氣を屈して、言ふに能はず。結句、之れを相ひ誘(こしら)へ、

「主人、已に白狀を獻(けん)ぜしめ畢んぬ。爭(いかで)か論じ申すべけんや。」

の由、奉行人、問答を盡くすと雖も、件(くだん)の男、云はく、

「主人は兼ねて糺問の恥辱を顧(かへりみ)る。仍つて申すか。下﨟の身に於ては、更に其の恥を痛(いた)まず。實正(じつしやう)に任せ論じ申す所なり。但し、主人白狀の上は、重ねて御問に及ばざらんか。」

と云々。

・「執する」意固地になって冤罪を主張する。

・「法に任する」当時の合法的とされた拷問を加えたことを示す。

・「氣を屈して」拷問によっても、一切吐かず、逆にすっかり体力・気力を失ってしまい。

・「相ひ誘(こしら)へ」「相ひ」は対象のあることを示す接頭語で、「こしらへ」は「宥(なだ)めすかす」「懐柔する」であるが、ここは既にお分かりの通り、主人が自白したという嘘を述べて、彼から共犯者である自白、或いは、犯人の近くにいたことの秘密の暴露に相当する証言を引き出そうとする違法(これは当時でも拷問とセットになってしまっては違法の謗りは免れまい)な取り調べを行ったのである。

・「實正(じつしやう)」(私が知っている、見たままの)確かなこと。偽りや間違いのない事実、真実の状況。

 

この後には「吾妻鏡」では以下八月の無関係な記事が三日分載る。次の九月二日の条は、この八月が大の月(三十日)だから、前の八月十八日からは凡そ半月、十四日後となる。

 

○原文

二日戊申。終日終夜雨降。暴風殊甚。今日。諏方刑部左衞門入道所被梟罪也。此主從共以遂不進分明白狀。爰相州禪室被廻賢慮。以無人之時。潛召入諏方一人於御所。直被仰含曰。被殺害事被思食之上。所從高太郎承伏勿論之間。難遁斬刑之旨。評議畢。然而忽以不可終其身命之條。殊以不便也。任實正可申之。就其詞加斟酌。欲相扶之云々。于時諏方且喜抑涙。果宿意之由申之。禪室御仁惠雖相同于夏禹泣罪之志。所犯既究之間。不被行之者。依難禁天下之非違。令糺断給云々。又平内左衞門尉。牧左衞門入道等流刑。就中俊職爲公人與此巨惡之條。殊背物義之間。被配流硫黄島云々。治承比者。祖父康賴流此島。正嘉今。又孫子俊職配同所。寔是可謂一業所感歟。

○やぶちゃんの書き下し文

二日戊申。終日終夜、雨、降る。暴風、殊に甚し。今日、諏方刑部左衛門入道、梟罪(けうざい)せらるる所なり。此の主從、共に、以つて遂に分明の白狀を進ぜず。爰(ここ)に相州禪室、賢慮を廻らされ、人無(ひとな)きの時を以つて、潛かに諏方一人を御所へ召し入れ、直(ぢき)に仰せ含められて曰はく、

「殺害(せつがい)せらるる事、思し食(め)さるるの上、所從、高太郎、承伏、勿論の間、斬刑(ざんけい)を遁れ難きの旨、評議し畢んぬ。然れども、忽(たちま)ちに以て、其の身命(しんみゃう)を終(お)ふべきの條(ぜう)、殊に以つて不便(ふびん)なり。實正(じちしやう)に任せ、之れを申すべし。其の詞(ことば)に就き、斟酌(しんしやく)を加へ、之れを相ひ扶(たす)けんと欲す。」

と云々。

時に諏方、且つは喜びて涙を抑(おさ)へ、宿意を果すの由、之れを申す。禪室の御仁惠、夏禹(かう)、罪に泣くの志しに相ひ同じと雖も、犯す所、既に究(きは)まるの間、之を行はれずんば、天下の非違(ひゐ)を禁(いまし)め難きに依つて、糺断せしめ給ふと云々。

又、平内左衞門尉・牧左衞門入道等、流刑す。

就中(なかんづく)に、俊職は公人、爲(ため)に此の巨惡に與(くみ)するの條、殊に物義(ぶつぎ)に背くの間、硫黄島(いわうじま)へ配流被ると云々。

治承の比(ころ)は、祖父康賴、此の嶋に流され、正嘉の今、又、孫子(まご)俊職、同所へ配せらる。寔(まこと)に是れ、一業所感(いちがふしよかん)と謂ひつべきか。

・「夏禹(かう)、罪に泣く」は、伝説の夏の聖王禹が、犯罪者を罰するに際しても、憐れんで涙を流した、という故事に基づく謂い。「説苑」(ぜいえん:前漢の劉向の撰(編)に成る故事説話集)の「君道」などに載る。……しかし……時頼は「禹」ほどにゃあ、共感出来ねえな! おらぁ、やっぱ、時頼は大(でえ)嫌(きれ)えだ!!!]

2016/03/26

北條九代記 卷之八 陸奥守重時相摸守時賴出家 付 時賴省悟

      ○陸奥守重時相摸守時賴出家 付 時賴省悟

同じく八年三月十一日、陸奥守重時、政務を辭して出家せらる。法名觀覺とぞ號しける。同四月十四日、陸奥守政村、執権の事を承り、政所始あり。この人は、重時入道の舍弟とて、共に泰時の連枝(れんし)なり。廉直(れんちよく)の政道、諸人の心に叶ひけるにや、又將軍の武威、耀くの故にや、久しく關東、靜にして、最(いと)寛(ゆるやか)にぞ覺えける。康元元年十一月二十三日、相摸守時賴、最明寺にして飾(かざり)を落(おと)し、法名覺了房道崇(だうそう)とぞ號しける。生年三十歳。日比の素懷(そくわい)と聞えたり。時賴の嫡子は、未だ幼稚(えうち)におはしければ、執權をば重時入道の次男、武藏守長時に預け讓られけり。しかるに、時賴は往初、寶治の初(はじめ)、蜀の隆蘭溪(りうらんけい)、日本に來りて佛心を弘通(ぐつう)せらる。寛元四年、鎌倉の壽福寺に下向あり。相州時賴、政事の暇(いとま)、相看(しやうかん)して、佛法の大道(たいだう)を問ひ給ふ。去ぬる建長二年に、建長寺を建立し、同五年十一月二十五日に、落慶供養を遂げられ、道隆(だうりう)禪師を以て開山とせらる。後に蜀の僧、普寧兀菴(ふねいごつあん)の本朝に來りしを、鎌倉に招請し、巨福山(こふくさん)建長寺に留(とゞ)めて、參禮(さんらい)し、見性(けんしやう)せん事を望まれしに、政務を止めて工夫を凝(こら)し、懇(ねんごろ)に指示せられしかば、森羅萬像(しんらばんざう)、山河大地、自己と無二無別の理を明めらる。普寧、即ち、「靑々たる翠竹、盡(ことごと)く是(これ)、眞如(しんによ)、欝々(うつうつ)たる黄花、般若(はんにや)にあらずと云ふ事なし」と示されしに、時賴入道、言下に契悟(けいご)し、「二十年來、旦暮(たんぼ)の望(のぞみ)、滿足す」とて、九拜歓喜せられけり。猶、この後も、國家静謐(せいひつ)の政事(せいじ)を聞きて、人民安穩の仁德を專(もつぱら)に心に籠められ、世間、出世、諸共(もろとも)に、身の上にぞ治行(をさめおこな)はれける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻四十三の建長五(一二五二)年十一月二十五日、及び、建長八(一二五六)年三月十一日、四月十四日、及び、康元元(一二五六:建長八年十月五日改元)年十一月二十三日の他、湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、「将軍記」「日本王代一覧」及び「元亨釈書」を基にしているとある。

「省悟」「せいご」と読む。一般名詞としては「反省して過ちを悟ること」であるが、ここは本文の「契悟」に同じい。悟達。

「同じく八年」建長八(一二五六)年だが、十月五日に康元に改元している。

「陸奥守重時、政務を辭して出家せらる」この五年後の弘長元(一二六一)年六月一日に重時は病に倒れる。「吾妻鏡」によると、「於厠被見怪異之後。心神惘然」(厠(かはや)に於いて怪異(けい)を見らるるの後、心神網然(ばうぜん)」となったとあり、以後は「瘧病(ぎやくへい)」(「吾妻鏡」六月十六日の条。マラリア様症状を指す)のような症状となったとする。その後、一度恢復したように見えたが、それから五ヶ月後の十一月三日に極楽寺の別邸で病死している。満六十三歳で、死因は不明であるが、六月の病いの再発とも考えられる。「吾妻鏡」によれば、「自發病之始。抛万事。一心念佛。住正念取終」(発病の始めより、万事を擲(なげう)ち、一心に念佛し、正念(しやうねん)に住して終(つひ)を取る」)記され、熱心な念仏信者であった重時らしい最後であった(「吾妻鏡」とウィキの「北条重時を参考にした)。

「康元元年十一月二十三日、相摸守時賴、最明寺にして飾(かざり)を落(おと)し、法名覺了房道崇(だうそう)とぞ號しける」ウィキの「北条時頼」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、この年、『連署の北条重時が辞任して出家』すると、三月三十日附で『重時の異母弟・北条政村を新しい連署に任命』七月には『内々のうちに出家の準備を始め』ている。八月十一日に庶長子時輔が元服、九月十五日になると、『当時流行していた麻疹に』時頼自身が罹患、『九月二十五日に時頼は回復したが、娘も同じ病気にかかって十月十三日に早世し』ている。さらに十一月三日には時頼は赤痢に感染、十一月二十二日には小康状態となったが、ここで『時頼は執権職を初め、武蔵国務・侍所別当・鎌倉小町の邸宅を義兄の北条長時に譲った。この時、嫡子の時宗はまだ六歳という幼児であったため、「眼代」(代理人)として長時に譲ったとされている。十一月二十三日』に北鎌倉の最明寺(廃寺。現在の明月院はその塔頭の後身)『で出家し、覚了房道崇と号した(最明寺入道ともいわれる)』。但し、『引退・出家したとはいえ、幕府の実権は依然として時頼の手にあった。このため、出家引退の目的は嫡子・時宗への権力移譲と後継者指名を明確にするためで、朝廷と同じ院政という状況を作り上げる事だったとされている。時頼の出家と同時に結城朝広・結城時光・結城朝村・三浦光盛・三浦盛時・三浦時連・二階堂行泰・二階堂行綱・二階堂行忠らが後を追って出家したが、これは幕府の許可しないうちに行なわれたため、出仕停止の処分を受けた。十一月三十日、時頼は逆修の法要を行なって死後の冥福を祈り、出家としての立場を明確にした』。『康元二年(一二五七年)一月一日、幕府恒例の儀式は全て時頼が取り仕切り、将軍の宗尊親王も御行始として時頼屋敷に出かけた。これは時頼が依然として最高権力者の地位にあった事を示している。二月二十六日には時宗の元服が行なわれた。この二年後には時宗の同母弟・宗政も元服し、さらにその二年後には時宗・宗政・時輔・宗頼の順に子息の序列を定めた。これは正室と側室の子供の位置づけを明確にし、後継者争いを未然に防ぐ目的があった』。『このように引退したにも関わらず、時頼が政治の実権を握ったことは、その後の北条氏における得宗専制政治の先駆けとなった。時頼と重時は引退したとはいえ、それは名目上の事でしかなく、幕府の序列は相変わらず』一位・二位であって、『時頼の時代に私的な得宗への権力集中が行なわれて執権・連署は形骸化した』と言える。彼はこの出家から七年後の弘長三(一二六三)年十一月二十二日に最明寺北亭にて、享年三十七の若さで死去した。出家隠居ながら、実権を行使し続けた彼には、とてものこと、諸国回国なんぞしている暇は、これ、なかったのである。

「寶治の初、蜀の隆蘭溪、日本に來りて佛心を弘通せらる」「寶治」(一二四七年から一二四九年)「の初」とあるが、南宋からの渡来僧蘭溪道隆(らんけいどうりゅう 一二一三年~弘安元(一二七八)年:臨済宗。在日滞留のまま、建長寺で没した)の来日は宝治に改元される「寛元」四(一二四七)年その年であった。「弘通」仏教を広く普及させること。

「建長二年に、建長寺を建立し、同五年十一月二十五日に、落慶供養を遂げられ」奇行の「建長二年」は建長三(一二五〇)年の誤り。竣工落慶は正しい。

「普寧兀菴(ふねいごつあん)」南宋からの渡来僧兀庵普寧(ごったんふねい 一一九七年~一二七六年:臨済宗)。ウィキの「兀庵普寧」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『無準師範に師事。文応元年(一二六〇年)』、知友であった蘭渓道隆の『招きにより来日し、博多の聖福寺に入った。鎌倉幕府執権北条時頼の要請により鎌倉建長寺二世となる。建長寺の本尊は地蔵菩薩であるが、兀庵は地蔵菩薩は自分より下位であるとして礼拝しなかったという。時頼は兀庵に師事して参禅・問法を重ね』、『印可を受けた。弘長三年(一二六三年)、時頼が亡くなると支持者を失い、文永二年(一二六五年)に帰国してしまった。晩年は温州(浙江省)の江心山龍翔寺に住んだ』。『当時としては先鋭的な思想を持ち、難解な講釈を行ったことから、日本語の慣用句の「ごたごた」(元の単語は「ごったんごったん」)の語源になった』とも言われる。ただ、彼は殆んど日本語を解さなかったとも言われ、時頼の受けた印可というもの、これ、如何ほどのものか、と時頼嫌いの私は実は大いに怪しんでいるのである。

「見性(けんしやう)」禅に於いて、修行により人間の持つところの見かけ上の心の在り方を克服して、人の中に本来もともと備わっているところの「仏の真理」を見極めることを指す。私も判って注している訳ではない。悪しからず。

「森羅萬像(しんらばんざう)」文字も読みもママ。森羅万象。

「無二無別の理」「理」は「ことわり」悟達とは唯一無二、たった一つの道筋しかないという絶対の真理。

「「靑々たる翠竹、盡(ことごと)く是(これ)、眞如(しんによ)、欝々(うつうつ)たる黄花、般若(はんにや)にあらずと云ふ事なし」「眞如」は、あるがままの姿。仏の真理としての実体。「欝々たる」は美しくこんもりと茂ったさま。「般若」は、サンスクリット語の「智慧」の漢訳語で、人が真の生命に目覚めた際にのみ生み出される根源的な叡智。世界窮極の真理を知る力及びその力そのものを指す。さてもこれはネット検索を掛けると、後の明の禅宗の伝灯相承を中心とした仏教通史の書である那羅延窟学人瞿汝稷(くじょしょく)編になる「指月録」(一六〇二年刊)に「禪話」として出る、『靑靑翠竹、盡是法身。鬱鬱黃花、無非般若』と同文である。古くからあった禅語と思われ、兀庵普寧の創始した公案とは私には思われない。

「契悟」仏法に契(かな)うこと。仏法の真理と一体になること。悟ること。

「旦暮(たんぼ)」毎日。

「世間」俗世間、現世の在りよう。その認識。

「出世」仏の世界の在りよう。その認識。

「治行」修行。]

北條九代記 卷之八 宗尊親王關東御下向 付 相撲

 

      ○宗尊親王關東御下向  相撲

宗尊親王は、後嵯峨院第一の皇子、御母は准后平朝臣棟子(むねこ)と申す。蔵人勘解由(かげゆの)次官棟基(むねもと)の娘なり。仁治三年に、京都にして御誕生あり。建長四年正月八日、仙洞に於いて御元服あり。御加冠の後に、三品に叙せらる。加冠は左大臣藤原兼平公なり。攝政殿下兼經公、即ち、親王の御袍(おんうはぎ)、御笏(おんしやく)を奉り給ふ。御年十一歳なり。鎌倉の執權相摸守時賴、陸奥守重時、申受(まうしう)くるに依て、關東御下向の事、催(もよほし)、沙汰あり。同三月十九日、仙洞を出でて、六波羅に入り給ふ。八葉の御車なり。これより御輿を奉り、東路(あづまぢ)に赴き給ふ。月卿雲客(うんかく)竝に武士の輩、供奉し奉る。上皇、潛に粟田口に御幸有りて、御覧ぜらる。四月一日、鎌倉に著きて、時賴の館に入りたまふ。同五日に征東大將軍に任ぜらる。同十四日はじめて鶴岡八幡宮に社參あり、供奉の行粧(かうさう)、又、近代の壯觀なり。御下向の後、政所始(はじめ)あり。兩國司、著座、相摸守時賴、陸奥守重持、參らる。三獻(こん)の儀式、吉書(きつしよ)御覧じて、後に御弓始(はじめ)あり。閏五月一日、將軍家の御前にして、酒宴あり、近習の人を召出(めしいだ)され、醉(えひ)に和(くわ)し興(きよう)に乘(じよう)ず、相摸守時賴、申されけるは、「近年關東の有樣、武藝、廢(すた)れ、自門(じもん)、他家ともに、其職にもあらず、才藝を好み、武家の禮法を取忘(とりわす)るゝ事、頗る比興(ひきよう)といふべし。然れば弓馬の藝に於いては、漸々以(もつ)て試みらるべし。先(まづ)常座に付いて、相撲の勝負を召奇(めしよ)せらるべきかし、とありしかば、將軍家、御入興有りて、然るべき輩を召奇(めしよ)せて、相撲六番をぞ御覽じける。勝(かち)には御劍を下され、御衣を賜る、負(まけ)には大盃にて酒をたまふ。この比(ごろ)の御遊興なりと、上下、喜び奉る。奉公の諸人、面々に弓馬の藝を嗜(たしな)むべき由、仰出され、御所中に觸(ふ)れられたり。鎌倉の風儀(ふうぎ)、改(あらたま)りたる心地して、何となく賑(にぎは)ひ、貴賤共(とも)に人柄(ひとがら)、治(をさま)りてぞ覺えける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻四十二の建長四(一二五二)年三月十九日、四月一日・五日・十四日及び建長六年閏五月一日の条などに基づく。

「相撲」「すまふ」とルビする。

「准后平朝臣棟子(むねこ)」平棟子(?~徳治三(一三〇八)年)。当初四条天皇の内侍として出仕したが、天皇が亡くなったため、新たに後嵯峨天皇に仕えて宗尊親王を産む。大変な美貌の持ち主で天皇の寵愛厚く、仁治三(一二四二)年四月には掌侍(ないしのじょう)に任じられ、寛元三(一二四五)年には典侍(ないしのすけ)に進む。建長二(一二五〇)年十月には従二位を授けられ、後年従一位准三后に上った。晩年は京極殿に居住し、京極准后と呼ばれた(ウィキの「平棟子」に拠る)。

「蔵人勘解由(かげゆの)次官棟基」平棟基(生没年不詳)は鎌倉前期の廷臣。桓武平氏高棟王流の右大弁平棟範の子。官位は正五位下・木工頭(もつくのとう:主に宮中の造営及び材木採集を掌り、各職工を支配した木工寮の長官)。代々、有能な弁官を輩出している家柄で、「今鏡」に於いて『日記の家』と称された有力地下人(実務官僚)の家系であった。五位蔵人・勘解由次官・木工頭を歴任した。但し、参照したウィキの「平棟基」によれば、『棟基は早世したため』、幕府将軍外祖父としての『恩恵を受けることはなかった』とある。

「建長四年」一二五二年。

「左大臣藤原兼平」鷹司兼平(安貞二(一二二八)年~永仁二(一二九四)年)のこと。関白近衛家実四男。有職故実に通じ、能書家としても知られた。

「攝政殿下兼經」近衛兼経(承元四(一二一〇)年~正元元(一二五九)年)のこと。やはり近衛家実の子。彼は嘉禎三(一二三七)年に九条道家の娘仁子を娶って、長年、不仲だった近衛家と九条家の和解に努め、同年には道家から四条天皇の摂政の地位を譲られている。暦仁元(一二三八)年には左大臣を辞したが、引き続き摂政を務め、翌年には従一位に叙せられている。仁治三(一二四二)年に四条天皇が崩御すると、後嵯峨天皇の関白に転じたが、西園寺公経の圧力によって、二条良実にその地位を譲った。後に義父とともに関東申次に就任したものの、道家が失脚すると、兼経も巻き添えを食らって、関東申次を解任されてしまう。しかし、ともに失脚した一条実経(良実の弟)の後釜を埋める形で、宝治元(一二四七)年に後深草天皇の摂政に再任されている。この建長四(一二五二)年の十月に、前に出た異母弟鷹司兼平に摂政を譲り、正嘉元(一二五七)年に出家、法名を「真理(しんり)」と号し、余生を宇治岡屋荘で過ごした(主にウィキの「近衛兼経に拠る)。

「袍(うはぎ)」衣冠束帯の際に着用する盤領(まるえり)の上衣。

「御笏(おんしやく)」束帯を着る際に右手に持つ、威儀を整えるための細長い板。当初は式次第などを紙に書いて裏に貼っておき、合法的カンニング・ペーパー、備忘用として用いられたが、後は全くの儀礼具となった。材質は木或いは象牙製。なお、「笏」の「シャク」という読みは、本来の字音「コツ」が「骨」に通うのを忌んで、その長さが「一尺」ほどあるところから「尺」の音を借りたともされる。

「同三月十九日」建長四(一二五二)年三月十九日。

「仙洞」上皇の御所。

「八葉の御車」「はちえふのみくるま」。「網代車(あじろぐるま)」の一種で、車の箱の外装に、青地に黄色で、「八弁の蓮の花」即ち「八葉」の紋様を散らした牛車(ぎっしゃ)を指し、摂関・大臣から地下(じげ:六位以下の役人)に至るまで、広く用いられた。

「月卿雲客」厳密には公卿及び殿上人を指すが、ここは高位高官ととっておいてよいと思う。

「政所始」「御弓始」以下、正月や新築等の際に行われたそれではなく、新将軍就任に行われたそれらである。

「兩國司」以下の「相摸守時賴、陸奥守重持」のこと。

「三獻(こん)の儀式」酒肴を出して、式礼で三杯飲ませた上で膳一切を下げ、それを三度繰り返す儀式。

「吉書(きつしよ)」初めて出す儀礼的な政務命令書を閲覧する儀式。事前に政所などから選ばれた奉行(主に執事或いは執事代などの上級右筆相当職員)が吉書を作成しておき、これをただ、将軍が総覧し、花押を記すのが定式。

「自門」北条家。

「其職」武家職である本来の武士が当然身につけているものとしての武芸本来の面目。

「比興(ひきよう)」この熟語は、本来は「詩経」のいう「漢詩六体」の内の「比」と「興」を指し、他のものに「喩えて」「面白く」表現することから、元は「おもしろいこと・おかしいこと」を指したが、ここでの用法はその軽さが悪く転じた、「いぶかしいこと・不都合なこと」「つまらないこと・下らないこと」の謂いとなったものである。

「召奇(めしよ)せ」後にもある通り、ママ。「召し寄せ」。

「この比(ごろ)の御遊興なり」「近年拝ませて戴いた中では、たぐい稀れなる、まさしく武家の棟梁の御祝いの席に相応しい美事なる御遊興の様にて御座った」というの諸人の感嘆である。暗に前に出た、あり得ない頼嗣の退位理由を、見え見えで揶揄して、無理矢理正当化している場面ではある。そもそもが鎌倉到着時の彼は、未だ満九歳である。小学四年生が「相撲(すまい)は面白うおじゃるの!」と、笑いながら、剣や酒盃を力士に賜うさまを想像してみよう。可愛くはあっても、その場に漂う、ある政治の腐った臭いには、これ、嗅覚を失った私でさえ、鼻が曲がりそうだ。

「人柄」宝治合戦や将軍譲位で、荒れ荒んでいたところの鎌倉の民草の心地(ここち)。]

北條九代記 卷之八 光明峯寺道家公薨す 付 五攝家相分る

 

      ○光明峯寺道家公薨す  五攝家相分る

建長四年二月に、相摸守時賴、陸奥守重時、京都に使者を遣し、後嵯峨上皇へ申し入れらるる趣は、「將軍賴嗣、文武の才に昧(くら)く、遊興のこと鄙俗(ひぞく)に同じ。國家の政務、一向、愚(おろか)に渡らせ給ふ、是に依て、武威、甚(はなはだ)輕くして、諸人、重(おもん)じ奉らず。是、亂世の基(もとゐ)たり。然れば、第二の宮、宗尊(そうそん)親王を迎へ奉りて、鎌倉の主君に仰ぎ奉らば、宜(よろし)く太平の時を得奉るべし」とぞ申されける。この事、露計(ばかり)も存知たる人、是、なし。仙洞、潛(ひそか)に御沙汰有りて、第一の宮御下向あるべき旨、勅許ましましけり。同三月廿一日、三位中將賴嗣、鎌倉の御所を出でて、越後〔の〕守時盛(ときもり)入道が家に入り給ひ、同四月三日、若君以下を引倶して、京都に上洛し給ひけり。去ぬる二月に、光明峯寺前(さきの)攝政道家公、薨じたまふ。年六十一歳なり。是は賴經の父なるをもつて、北條義時、泰時の代には、武家の輩も重じて、威勢も帝王のごとくなりしが、賴經上洛し給ひて後は、北條家を怨み給ふ心有りて、三浦光村にも仰合せらるゝ事ありけり。然れども、將軍賴經の祖(おほぢ)なる故、關東より其儘、差置(さしおか)れける所に、了行法師が白狀の折節、薨じ給ひける事、疑心なきにあらず。武家より計(はから)ひ奉りけるにやと心ある人は怪(あやし)みけり。道家公の公達(きんだち)竝(ならび)に御孫忠家卿は、配流、解官せられ給ふ。その中に、二條良實公計(ばかり)、替る事なくおはします。これは道家公と御中、不和なり、良實公、常は、道家公の北條家を恨み給ひて、世を亂らんと企て給ふを歎き入りて、時々諫言せらるゝに依て、道家公、大に怒(いかつ)て、父子の間、御快(おんこゝろよか)らず。時賴、是を知る故に、何の御沙汰にも及ばざりき。道家公の御息長男教實(のりざね)公は、九條殿を相續(さうぞく)し、次男良實公は二條殿と號し奉り、三男實經公は一條殿と稱し、近衛、鷹司(たかつかさ)、相分れ、五攝家と稱する事、執柄(しつぺい)の勢を分たんが爲に、武家より計ひ定めける。王道、愈々衰敗に及ぶ。末世の有樣こそ心憂けれ。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻四十一の建長四(一二五二)年二月二十日・二十七日、三月五日・二十一日、四月三日の他、参照した湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、「日本王代一覧」や「将軍記」の記載に基づくとある。湯浅氏の論文によれば、本篇では、『時頼が頼嗣の愚昧を理由に譲位を奏して』おり、また、道家の薨去については「吾妻鏡」では、『「かの薨御の事と云々。説等あり。武家籌策あるべきの期なりと云々」(二月二十七日)と述べているが』、「北条九代記」に於いては、『「頼経上洛し給ひて後は、北条家を怨み給ふ心有て、三浦光村にも仰せ合せらるゝ事ありけり。然れども、将軍頼嗣の祖父なるゆへ、関東より其まゝ差置れける所に、了行法師が白状のおりふし薨じ給ひけること、疑心なきにあらず。武家より計らひ奉りけるにやと、心ある人は恠みけり」』『と、頼経と三浦一族の乱との関わりや、道家の死の真相について、より具体的な言及がある。これは』「日本王代一覧」に拠った言説であるとされ、『また、時頼が道家と良実の不和を計らって五摂家を設立したとし、武家の介入により王道がいよいよ衰退したという説も』「日本王代一覧」に拠ったものと指摘しておられる。

「光明峯寺道家」号は「くわうみやうぶじ(こうみょうぶじ)」と読む。既にさんざん注した九条道家の号であり、「光明峯寺関白」と通称された。この号は現在の京都市東山区今熊野南谷町付近にその頃に存在した、九条道家により嘉禎三(一二三七)年に建立された光明峯寺に因む。後の応仁の乱で焼き払われて消滅、廃寺となった。

「五攝家」本来の「摂家」は摂政関白の家柄で、藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った五家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。ウィキの「摂家」によれば、この「五摂家」は本文記載以後に正式に成立したもので(後に引用するように、厳密には多少の変遷がある)、『藤原北家の良房が人臣初の摂政に任官して以後、その子孫の諸流の間で摂政・関白の地位が継承されたが、のちに道長の嫡流子孫である御堂流(みどうりゅう)がその地位を独占するようになった。平安時代末期、藤原忠通の嫡男である基実が急死すると、その子基通がまだ幼少であったことから、弟の基房が摂関の地位を継いだために、摂関家は近衛流と松殿流に分立』、『さらに、平安末期の戦乱によって基房・基通ともに失脚し、基房の弟である兼実が関白となったことで、九条流摂関家が成立した。この』三流の内、『松殿流の松殿家は松殿師家が摂政になって以降、結果的には摂政・関白を出すことなく何度も断絶を繰り返して没落し、摂家には数えられなかった』。『その結果、摂関家として近衛・九条の両流が残り、近衛流は殿下渡領以外の摂関家領のほとんどを掌握した。九条流は天皇の外戚としての血縁関係と、自家からも将軍を輩出するほどの鎌倉幕府との良好な関係によってもたらされた摂関就任の実績によってようやく摂関家としての地位を安定化させ』、『反対に藤原師長(頼長流)や松殿忠房(師家の弟)も摂関就任の可能性があったにも関わらず就任することが出来ず摂関家としての地位を確立できなかったことなど、流動的な状況が長く続いた』。『のち、近衛流摂関家からは嫡流の近衛家並びに、兼平により鷹司家が成立。さらに九条流摂関家からは、道家の子実経および教実・良実により、それぞれ一条家および九条家・二条家が成立』、建長四(一二五二)年に『鷹司兼平が関白に就任』、文永一〇(一二七三)年には『政変によって一度は失脚した九条忠家(教実の遺児)も関白に就任してその摂家の地位が確認されたことで、「五摂家」体制が確立されることになる』とある。

「將軍賴嗣、文武の才に昧(くら)く、遊興のこと鄙俗(ひぞく)に同じ……」言っておくが、この藤原頼嗣の将軍譲位と宗尊(むねたか)親王下向要求(同文書を持った使の京への進発は建長四(一二五二) 年二月二十日である)当時、頼嗣の生誕は延応元(一二三九)年十一月二十一日、実に未だ満十二歳である。この誹謗中傷レベルの譲位理由が如何に理不尽なものであるか、お判り戴けよう。

「第二の宮、宗尊(そうそん)親王」(仁治三(一二四二)年~文永一一(一二七四)年)は先の天皇である後嵯峨天皇の第一皇子(但し、母方の身分が低かったため、皇位継承の望みはなかった)。これで直後に鎌倉幕府第六代征夷大将軍となるのであるが、彼は実は皇族で初めての征夷大将軍着任者であった。なお、本書では以下、一貫して彼の名を「そうそん」と音読みし、現行の我々のように「むねたか」とは訓じていないので注意。言わずもがなであるが、音読みは本邦ではその人物への強い敬意を示すのでおかしくも何ともないのである。

「越後守時盛」北条(佐介)時盛。北条時房長男。

「了行法師が白狀の折節、薨じ給ひける事、疑心なきにあらず。武家より計ひ奉りけるにやと心ある人は怪みけり」前章の「了行法師」の私の注を参照のこと。「武家より計ひ奉りける」とは、幕府方がおぞましくも、秘密裏に暗殺し申し上げて病死と見せかけたのではあるまいか、という猜疑である。ウィキの「九条道家」にも、『死因は病死と言われているが、頼嗣失脚の報を聞いてそのまま卒倒して死去したとする説や、隠然たる影響力を持つ道家の存在を苦々しく思った幕府によって暗殺されたとする説もある』と載るが、確かに以前の彼に北条得宗を殲滅する謀略は確かにあったと考え得るものの、すでに失脚した彼をここで謀殺する価値は私は殆んど認められないと思う(殺(や)るのなら頼経を殺っておいた方が遙かに後顧の憂いが、ない)。

「祖(おほぢ)」祖父。

「公達」ここは摂関家・清華家などの子弟・子女を指す。但し、「配流、解官せられ給ふ」とあるが、これは恐らくは翌年に摂政を罷免される、良実(後注)の弟一条実経(貞応二(一二二三)年~弘安七(一二八四)年)の寛元五(一二四七)年)のことであろう。但し、彼は入配流されていないし、後の文永二(一二六五)年には関白に再任されてもいるから、この謂いはおかしい。彼は父道家と不仲だった兄良実とは対照的に父に溺愛された。

「御孫忠家」九条忠家(寛喜元(一二二九)年~建治元(一二七五)年)。道家の長男であった摂政関白左大臣の故九条教実(文暦二(一二三五)年に享年二十五の若さで死亡)の長男。ウィキの「九条忠家によれば、父『教実が急逝したため、祖父・九条道家によって育てられる。道家は忠家を自己の後継者として位置づけ』、嘉禎三(一二三七)年には『自己の猶子とするとともに当代一の学者である菅原為長に諱を選ばせ』ている。翌嘉禎四年の『元服も九条家の祖である藤原忠通・兼実の先例に従って実施され、同日に正五位下に叙せられ』以後、権中納言・権大納言・左近衛大将・内大臣を歴任、寛元四(一二四六)年十二月には右大臣となった。仁治三(一二四二)年に『崩御した四条天皇とは、ちようど同年配であり、騒々しいほどの遊びばかりで朝夕を過ごしていた』という。『道家の忠家の将来に対する期待は大きく』、仁治三(一二四二)年の置文(当時、一族や子孫に対して現在及び将来に亙って遵守すべきことを書き記した文書。近世以後の遺言の原型とされるもの)には『寵愛していた三男の一条実経に摂関の地位を継がせることと記す一方で、その後の摂関には忠家を就けることを指示している。また』、寛元四(一二四六)年五月に『忠家が病に倒れた時には春日大社に対して「就中小僧子孫雖多、可継家之者是也、為嫡孫故也」と記した願文』『を納めて、自らの後継者であることを明記している』。建長二(一二五〇)年には道家は処分状を作成、『まず家長者を一条実経とするものの、次は九条忠家が継いで、互いの子孫が摂関の地位を失わない限りはそのうちでもっとも官職の高い人物(一門上首)が継ぐこと、子孫の断絶あるいは摂関の地位に就けずに子孫が摂家の資格を失った場合には、家長者はその所領を没収できるものとした。ただし、これらの規定は実経が年長でかつ摂関経験者であることを背景にしたもので、既に右大臣の地位に就いていた忠家も当然摂関の地位に就くことを前提にして作成されたと考えられている』とある。ところが、まさにこの了行による未然の謀反の暴露に『際して九条家が関与を疑われ、従兄弟にあたる鎌倉幕府将軍九条頼嗣は解任され、忠家自身も』、同建長四年七月二十日に『後嵯峨上皇の勅勘を受けて右大臣を解任となる。この騒動の最中の』二月には『祖父・道家も急死して九条家は再起不能の打撃を受けたのである』。ただ、その後の文永一〇(一二七三)年五月五日、関白宣下・藤氏長者となって復帰を果たし、同年十二月には従一位に叙位された。しかし、この間に既に二十一年もの月日が経過していたため、『公家社会では既に摂関の資格を失った人とみなされていた忠家の就任には強い反発が起こった』。『また、後嵯峨法皇没後に実質上の治天の君となった亀山天皇も後宇多天皇に譲位するまで忠家に一座宣旨を与えなかった。この就任の背景には忠家を勅勘した後嵯峨法皇が崩御したことを機に息子・忠教の義兄である関東申次西園寺実兼が当時の鎌倉幕府執権北条時宗に忠家復権への支持を働きかけが行われた可能性が高く、朝廷内部の事情による人事ではなかったことがあったとみられている』。翌文永十一年の正月には、摂政に就任するも、同六月には同職を辞職、その扱いも『異常なものであったとされている』但し、『短い在任期間とはいえ、薨去の』二年前に『九条流継承の条件である「摂関就任を果たした」ことによって、九条家の摂家としての地位を確立させたことにより、その後の一族の運命を大きく変えることと』はなった、とある(下線やぶちゃん)。しかし、ここにも「配流」の処罰はない。不審である。

「二條良實」二条良実(建保四(一二一六)年~文永七(一二七一)年)。極位極官は従一位関白左大臣。ウィキの「二条良実」より引く。『摂政関白左大臣九条道家の次男、母は太政大臣西園寺公経』(きんつね)『の女。兄に摂政関白左大臣九条教実、弟に四代鎌倉将軍藤原頼経、摂政関白左大臣一条実経』がいる。『父と母方の祖父が朝廷の実力者であったことから、数え』十五の『若さで従三位となり』、二十の時には既にして内大臣となった。『ところが父道家は良実をあまり愛さず、むしろその弟にあたる一条実経を偏愛するようになる。それでもこの頃の朝廷では祖父で関東申次の西園寺公経が道家を上回る実力を持っていたこともあって、後嵯峨天皇が践祚した』仁治三(一二四二)年には『公経の推薦で関白に任じられるまでに至った。ところが公経が死去すると朝廷は道家によって掌握され、このため』、寛元四(一二四六)年一月、父の命によって、『やむなく関白を実経に譲ることを余儀なくされた』。この年、鎌倉では『北条一門の名越光時が前将軍の頼経を擁して執権北条時頼に謀反を起こす計画が事前に発覚して関係者が処分されるという事件が起こった(宮騒動)。頼経は京都に送還されることとなり、この一件で父の道家も朝廷から去ることが避けられなくなり、またこれにともなって実経までもが関白辞任を余儀なくされるにいたった。良実は父と疎遠な関係にあったことからこの時の処分には含まれなかったが、これを道家は良実が時頼と内通して自分たちを貶めたと猜疑し、良実を義絶してしまった』。『しかし道家が死ぬと再び勢力を盛り返し』、弘長元(一二六一)年には『再び関白となる』。文永二(一二六五)年に『関白職を弟の実経に譲ったが、なおも内覧として朝廷の実権を掌握した』と記す。

「道家公の御息長男教實公は、九條殿」ウィキの「藤原によれば、彼は『将軍源実朝が暗殺され』、『源頼朝の血統が絶えると、父母が頼朝の縁戚にあたる九条家の子弟が摂家将軍として迎えられることになった』が、『その際に教実もその候補に擬せられたが、結局次弟の頼経が将軍に迎えられることとなり、自身は九条家を相続することになった。九条家はこの教実の代に分裂し、三弟の良実が二条家の、と四弟の実経が一条家の祖となったため、以後の教実の系統を特に後九条家と呼ぶこともある』とある。

「次男良實公は二條殿」ウィキの「二条良実」よれば、『良実は居所を二条京極第に置いたことから、良実を祖とする五摂家の系統は二条家と号した』とするが、当時の記録によって確認出来る『良実の邸は二条富小路』にあったともある。

「三男實經公は一條殿」既に注した通り、彼は父道家に溺愛され、仁治三(一二四二)年には一条室町にあった道家の第を譲られている。

「近衛」平安末期の関白藤原忠通の子基実に始まり、その子基通以来、近衛氏を称した。基通は鎌倉時代初期に親幕府派九条兼実 (基実の弟)と対抗した。また、学者を多く出した家柄でもある。家号は基実の殿第の名に由来するが、また、近衛大路に面する宮門号に因んで「陽明家」とも称した。

「鷹司」。近衛家実の子兼平を祖とし、その邸が鷹司室町にあったので鷹司を家名とした。

「執柄(しつぺい)の勢を分たんが爲」執柄はここでは狭義の摂政・関白の異称で、その政治上の権力を分散させるために、の意。]

北條九代記 卷之八 西園寺家繁榮 付 時賴相摸守に任ず

 

      ○西園寺家繁榮  時賴相摸守に任ず

泰村、叛逆して、三浦の家門滅亡の事、時賴、飛脚を以(もつ)て京都に注進せらる。六波羅より、西園寺太政大臣實氏公を以て奏聞(そうもん)あり。一條道家公は、前將軍賴經上洛の事に依(よつ)て、密(ひそか)に三浦光村に仰せ合さるゝ趣(おもむき)ありけるに付て、關東と昵(むつま)じからず。實氏公は愈(いよいよ)北條家と交(まじはり)を通ぜらるゝ故に、西園寺の威勢、既に淸華(せいくわ)の中に秀でて、攝家を輕(かろん)じけり。同七月に、北條相摸守重時は、六波羅を出でて、鎌倉に歸り參らる。時賴の招き給ふを以てなり。諸事の政務を相談し、連署(れんじよ)等(とう)、萬端の沙汰、諸共(もろとも)に勤められ、兩執權にぞなりにける。重時は、相摸守を改(あらため)て、陸奥守になり、時賴を相摸守にぞなされける。重時の一男長時を武蔵守に任じて、六波羅に居らしめ、畿内西國の沙汰を執行(とりおこな)はしむ。この時、國家の諸事、禁中の政(まつりごと)、叙位除目(ぢもく)の事までも、皆、武家よりして沙汰せしかば、主上は幼(いとけな)くおはしまし、上皇は只、所々の御幸、御慰(なぐさみ)に月日を送らせ給ひけり。建長三年七月に、將軍家從三位に叙せられ、左近衞〔の〕中將に任じ、相摸守時賴を正五位〔の〕下に叙せらる。同十二月二十六日、近江大夫判官氏信、武藤左衞門尉景賴兩人、潛(ひそか)に聞出して、謀叛人了行法師、矢作(やはぎの)左衞門尉、長(ちやうの)次郎左衞門尉久連(ひさつら)等を生捕りて、時賴に參らする。推問(すゐもん)せられしに、此者共、白狀しけるは、「前將軍賴經、京都に上り給ひて後、潛に諸方の武士を語らひ、世を亂さんと企て給ふ。我等、その仰(おほせ)に同意し、三浦一族の輩に、内々契約の事ありけれども、事、更に合期(がふご)し難く、世の變(へん)を相待つ所に、運命此所に極(きはま)り、生捕られ參らせたり」と申しければ、囚人(めしうど)は、信濃四郎左衞門尉行忠に預けらる。是(これ)に依て、鎌倉中、物騷しく、近國の御家人雲霞の如く馳せ集りしを、時賴、出合ひて對面し、禮義を致され、皆國々に返されけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の巻三十八の宝治合戦以降の記載を参考にしながら、「吾妻鏡」本文としては少し飛んで、巻四十一の建長三(一二五一)年七月四日、十二月二十六日・二十七日の他、参照した湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、「日本王代一覧」や「将軍記」の記載に基づくとある。湯浅氏の論文によれば、『道家が賴経の一件で光村に加担し関東と不和になったこと、西園寺実氏が、北条家と和すことによって勢いを増したこと、北条家が禁中を取り仕切るようになったことは』、「日本王代一覧」に依拠し、『十二月二十六日の氏信・景賴の謀叛は、賴経と三浦家に加担したものであるとするが、これは』「将軍記」にも『「前将軍賴経、京都にをひて世をみださんと思給ふと云々」』とあって、「保暦間記」『にも「将軍賴経、京都にして世を乱んとある由」』『を了行法師が白状したとある』。また「北条九代記」のここでは「日本王代一覧」に拠って、『西園寺家の繁栄の背景について、三浦光村に通じていた道家が零落し、北条家と親交あった西園寺家が次第に威勢を増したと述べ、それに従い、時賴・重時両執権が禁中の政治にまで介入するようになったと述べ』ている、と記しておられる。

「西園寺太政大臣實氏」既出既注

「一條道家」既出既注

「淸華(せいくわ)」現行では「せいぐわ(せいが)」と濁るのが一般的。「清華家(せいがけ)」で公卿の家格の一つを指す。最上位である摂関家(摂家)に次ぐもので、大臣家の上に位する。大臣・大将を兼ね、太政大臣に昇ることが出来る格である。一般に辞書類では三条(転法輪(てぼりん)三条)・今出川・大炊御門(おおいのみかど)・花山院・徳大寺・西園寺・久我(こが)の七家とされるが、この時期には必ずしも固定されていたものではないようである(また、後には醍醐・広幡を加えて「九清華」とも称した)。例えば、ウィキの「清華家」には、『清華家に相当する家格はすでに院政期には成立している。大臣・大将・皇后などの地位は、摂関政治期には当然摂関とその近親が独占するものであった。しかし後三条天皇の治世以降、摂関家が外戚の地位を失い、代わって外戚となった家系が、のちに清華家と呼ばれることになる家格の原形をつくった。したがって、清華家の家格は大臣・大将に昇進できるということのほかに「娘が皇后になる資格がある」ということも見逃してはならない。平清盛・源頼朝はいずれも清華家の家格を獲得していたのであり、そのゆえにこそその子弟は大臣・大将(平重盛、源実朝など)となり』、『皇后(平徳子)となることができた。足利義満以後の歴代室町殿が大臣・大将を歴任したこともこの文脈で理解しなければならない。なおいわゆる「七清華」は、清華家の家格を有する多数の家系(たとえば藤原北家閑院流の山階家・洞院家、村上源氏顕房流の土御門家・堀川家)が中世を通じて断絶したり』、『清華の家格を失ったりした結果、最終的に』七家しか『残らなかったことを意味しており、はじめから家系が固定していたわけではない』という記載があるからである。なお、「華族」(かぞく/かそく/かしょく)は本来、古くは、この清華家の別名であった。

「同七月」宝治元(一二四七)年七月三日に出京、十七日、鎌倉着(「吾妻鏡」)。

「北條相摸守重時は、六波羅を出でて、鎌倉に歸り參らる。時賴の招き給ふを以てなり。諸事の政務を相談し、連署(れんじよ)等(とう)、萬端の沙汰、諸共(もろとも)に勤められ、兩執權にぞなりにける」ウィキの「北条重時」によれば、『宝治合戦において、重時の動向は不明であるが、接点のない時頼と重時』(彼は時頼の祖父泰時の弟に当たるが、二十九歳も年上であり、しかも六波羅探題勤めが十七年と長かった)『の間には母方が同じ比企氏であり、高野山にいた安達景盛の介在があったと思われる。三浦氏滅亡後』、五十歳の『重時は時頼の要請により鎌倉へ戻り、叔父時房死後に空席となっていた連署に就任し、時頼を補佐した。六波羅探題北方は次男の長時が就任した。重時の長女葛西殿は時頼の正室となり、後の』第八代『執権北条時宗を生ん』でいる。

「長時」重時次男で、後の第六代執権(時頼から時宗への中継ぎ的就任に過ぎず、得宗ではないので本「北條九代」には含まれない)となった北条(赤橋)長時(寛喜二(一二三〇)年~文永元(一二六四)年)。

「主上」後深草天皇。宝治元(一二四七)年当時は、未だ満四歳。

「上皇」後嵯峨上皇。宝治元(一二四七)年当時は二十七歳。ウィキの「後嵯峨天皇」によれば、『即位した天皇は宮廷の実力者である西園寺家と婚姻関係を結ぶことで自らの立場の安定化を図り』、寛元四(一二四六)年に在位たった四年で『皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、院政を開始。この年、政治的に対立関係にあった実力者・九条道家が失脚したこともあって、上皇の主導によって朝廷内の政務が行われることになった。以後、姉小路顕朝・中御門経任ら実務担当の中級貴族を側近に登用して院政が展開されていくことになる』。正元元(一二五九)年にはまだ十二歳の『後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である恒仁親王(亀山天皇)への譲位を促し』ている(翌年に実際に譲位)。『後嵯峨上皇の時代は、鎌倉幕府による朝廷掌握が進んだ時期であり、後嵯峨上皇による院政は、ほぼ幕府の統制下にあった』。但し、『宝治合戦直後には北条時頼以下幕府要人が「公家御事、殊可被奉尊敬由」』(「吾妻鏡」宝治元年六月二十六日条)『とする合意を行って、後嵯峨院政への全面的な協力を決定している。また、摂家将軍の代わりに宗尊親王を将軍とすることで合意する(宮将軍)など、後嵯峨院政と鎌倉幕府を掌握して執権政治を確立した北条氏との間での連携によって政治の安定が図られた時期でもあった』とある。筆者の言うような、「只、所々の御幸、御慰に月日を送らせ給」うていた訳では、実は、ない。

「建長三年」一二五一年。

「七月に、將軍家從三位に叙せられ」「吾妻鏡」の七月四日の記事に拠るが、それを読むと、任命は以下も含めて、前月六月二十七日附である(後深草天皇の新居落成転居(遷幸)の褒美)。

「近江大夫判官氏信」佐々木氏信。

「了行法師」「りやうぎやうほふし(りょうぎょうほうし)」。鈴木小太郎氏のブログ「学問空間」の「了行」に、この捕縛事件の三年後の、建長六(一二五四)年六月二十五日に『了行法師は自身が造立した京都の持仏堂・宿所などを如意寺の造営に寄進しているが』、『この了行法師という人物は勧請に長けた人物であったものの』、まさにこの時、『幕府の顛覆を図り、勧進に託して同志を募っていたという嫌疑により逮捕されている(『鎌倉年代記』裏書)。この事件により処刑されたものがいなかったことから冤罪であったとみられるが、了行法師が自身が得意とするところの勧請をもって如意寺再興事業に関与し、それによって』、先に『如意寺の復興を行なった』『隆弁や北条時頼の覚えを良くする意図があったのかもしれない』と記されておられる(下線やぶちゃん)。ただ、「吾妻鏡」の記載はここが「法師」で、建長六年六月二十五日の条は「法印」となっていること(「了行」法号はそれほど特異とは言えないし、歴史資料で法号が同名の僧というのはゴマンといる。例えばかの公暁などは師としている師匠に「定暁(じょうぎょう)」という僧が同名別人で二人いるのである)、また、何よりも「吾妻鏡」の謀反人逮捕の翌日(建長三年十二月二十七日)の条で、『被誅逆叛之衆。又有配流之者』(逆叛の衆を誅さる。又、配流の者有り)とあるのが、かなり気になっている。これを見る限りでは、謀反人の死刑は、確かに行われているからである(但し、この三名に執行されたかどうかは分からない。私は「鎌倉年代記」を所持しないので、そこの記載確認は出来ない)。なお、私の所持する平成二二(一九九〇)年かまくら春秋社刊「読んで分かる中世鎌倉年表」にこの一件が載り、『了行・矢作常氏(やはぎつねうじ)・長久連(ちょうひさつら)らが謀反を計画したとして捕えられる。了行らは、宝治合戦で没落した三浦氏や千葉氏の残党であり、京都の藤原(九条)道家・頼経父子が計画に関与していたとされる』とあって、彼が道家の強いバックを持っていたとしたら、死罪は免れたと読めないことはない。しかし寧ろ、彼の捕縛後の道家の死はやはり不審(次章で筆者も述べている。寧ろ、大きな道家の謀略の背景を知っているという点(更にはそれに先手を打つことを考えていた幕府側の機略の塩梅からも)に於いても、彼は自白後に処刑された可能性の方が私は遙かに大きいと思う。さらに同記載には「了行」の脚注があって、それによれば、『(生没年未詳)下総國の千葉氏の庶流出身の僧。京都の九条大御堂を拠点に活動し、藤原(九条)道家と関係があったとされる』とある。またウィキの「九条道家の死の直前の項には、この建長三年末の事件を指して、孫である第五代将軍頼嗣『と足利氏を中心とした幕府転覆計画が発覚し、それに道家が関係しているという嫌疑がかかる。道家はその中で』翌年の二月二十一日に死去してしまう(次章参照)。『策謀が頓挫したばかりか鎌倉幕府側に謀議が露見し、時頼からの追及を受けて晩年は憔悴しきっていた』とある。

「矢作左衞門尉」「吾妻鏡」には『千葉介が近親』の割注がある。矢作六郎左衛門尉常氏か矢作左衛門尉胤氏が考えられ(二人とも先に滅ぼされた千葉秀胤の縁者であるが、秀胤の祖父の弟の子である常氏の方がより近親である)、前の引用から常氏で採る。

「長次郎左衞門尉久連」不詳。私は足利家絡み(後の南北朝時代の足利尊氏・直義兄弟の分裂では長氏の一部が内部対立しており、この時の長氏の連中の名は悉く「連」を最後に持つからである)ではないかと推理している。

「事、更に合期(がふご)し難く、世の變(へん)を相待つ所に」「合期」は物事が思った通りに上手く行くことの意で、「前の将軍頼経公再擁立(は同時に少なくとも北条得宗家の殲滅を意味すると考えてよい)の企て、これ一向に上手く行かず、(頼みの綱、謀議の主たる三浦一族も滅ぼされてしまい)、それでも世の形勢に大きな変化の起こるのを、ひたすら待っていたけれども」という謂いであろう。しかし、最大の対得宗抵抗勢力であった三浦一族滅亡から、既に四年経っている。こいつら(幾ら調べても、相応な武力勢力とも思われない)の謂いは何だか私は間抜けているとしか思われない。四郎左衞門尉行忠」二階堂行忠。「吾妻鏡」には彼の名もこの預かり記載もない。]

2016/03/25

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郞考(4) 神片目

 

       神片目 

 

 眼の左右に大小ある人は固より多いが、それの特に顯著であり又一般的である場合には所謂アヤカリを以て說明せられる。例へば福島縣石城郡大森の庭渡(にはたり)神社などは、以前の本地佛庭渡地藏尊の像、美容にして片目を小さく造つてあつた。それ故に大森の人は皆片目が小さいと謂ひ、しかも美人の生れぬのも鎭守樣が器量よしだからと謂つて居た(一) 自分の生れ在所では村の氏神と隣村の氏神と、谷川を隔てゝ石合戰をなされ、彼方は眼に當つて傷つかれた故に、今でも隣村の人は片目が小さいと謂つたが、しかも此方の社の門客神、所謂矢大臣が亦片目を閉ぢた木像である。幼少の頃から之を不思議に思つて、今も引續いて理由を知りたいと願つて居る。片方の目は一文字に塞いで、他の一方は尋常に見開いて居るのが、二體ある像の向つて右手の年とつた方だけであつたやうに記憶する。今でもまだあらうから確めることは出來る(二) 勿論此彫刻は定まつた樣式に從つた迄で、特に此社のみに限られたことでは無からうが、他の實例はあの地方ではまだ心付かぬ。

[やぶちゃん注:「アヤカリ」平面的には「不思議で怪しいこと」の謂いであろうが、元は動詞の「あやかる」、何らかの(特にこの場合は超自然的霊的ものに)感化されて同様な状態になる、似たような外見になる、という現象を民俗学的に述べている術語であろう。因みに私は、個人的には、柳田や折口が始めた、生物和名みたような民俗学用語のカタカナ表記に対しては、極めて激しい生理的不快感を持っている人間である。

「福島縣石城郡大森の庭渡(にはたり)神社」現在の福島県いわき市四倉町(よつくらまち)大森舘に現存する。

「以前の本地佛庭渡地藏尊」神仏分離によって、現在のいわき市四倉町大森女房作にある浄土宗月田寺に移っている。但し、片目の有意に小さな地蔵尊像が現在もそこに現存するかどうかはネット上では確認出来ない。

「自分の生れ在所」柳田國男の生地は飾磨県(現在の兵庫県)神東(じんとう)郡田原(たわら)村辻川(現在の兵庫県神崎(かんざき)郡福崎町(ふくさきちょう)辻川)である。後の柳田の注によって柳田の村の方は現在の「鈴の森神社」であることが判る。しかし、その神像の記載はない。そればかりか、もう一つの片目の神像が川を隔てて存在し、しかも柳田がかくも特に書いているにも拘わらず、ネット上にはそちらも現存するような記載が、これ、見当たらない。これは私には頗る不審と言わざるを得ない。識者の御教授を乞うものではあるが、地域社会は柳田國男で町興しをするのもいいが、それよりもまずは柳田が研究しようとした伝承や文化財をこそ、まずその地域集団が守らねば全く意味がない、と私は強く思うものである。]

 

 ところが數百里を隔てた東部日本の田舍に、却つて夙く知られて居た片目の木像がある。例へば福島の市から西の山、信夫の土湯村の太子堂には、太子御自作と稱する本尊がそれであつた。此像もと鳥渡(とりわた)村の松塚といふ地に安置せられたのが、後に自ら飛行して土湯村の澤の間に隱れて居た。一人の獵夫曾て此地を過ぐるとき、我を山上に負ひ行き守護し奉れといふ聲が草の中から聞えたので、驚き覓めて此像を發見した。乃ち恐懼して之を負ひ高原の平地に移したといふのである。それに附け加へた大不可思議は、此際獵人が小角豆(さゝげ)の蔓に蹴躓づき倒れ、胡麻の桿で尊像の眼を突き傷けたといふ古傳であつて、現に近世までも御目から血の流れた痕があり、又當村の人は何れも片目が細かつた。其上に太子の御印判と名けて、村民悉く身體に痣があるとさへ言つたのである(三)是は太子が自ら不具の像を作りたまふといふことが言へない爲に、斯ういふ風に語り傳へることになつたのであらうが、像が傷ついたかはた傷ついた像であつたかは、一見して區別し得た筈である。御目より血流るといヘば、恐らくは眼の部分が破損して居たのでは無く、最初から片目を閉ぢて作られてあつたのを、生人と同じく後に相貌を變じたものゝ如く信じて居たらしいのである。

[やぶちゃん注:「信夫の土湯村」旧福島県信夫(しのぶ)郡土湯(つちゆ)村は、現在は福島市土湯温泉町。

「太子堂」同町内に現存する。現在の堂は享保一一(一七二六)年に再建されたもの。但し、幾つかのネット記載を確認したが、この本尊である聖徳太子自刻像が現在のそれも片目であるという記載は、これまた不思議なことに、ない。

「覓めて」「もとめて」(求めて)。底本では「見」の上は「不」の字体である。

「小角豆」マメ目マメ科ササゲ属ササゲ亜属ササゲ Vigna unguiculata

「桿」「から」と訓じておく。尖った殻(から)。]

 

 卽ち片目の神像は、別に何か其樣に彫刻せらるべき理由があつたのである。上州伊勢崎に近い宮下の五郞宮、一名御靈宮又五料宮とも稱する社の神體は、狩衣風折烏帽子の壯士の像であつて、亦左の一眼を閉ぢて作られてあつた。其理由は甚だ不明で、氏子たちはさう古くからのものとも考へて居なかつたらしいが、一方に賀茂の丹塗矢(にぬりのや)と少し似通うた社傳がある爲に、私に取つて相應に重要な資料である。昔利根川がこの近くを流れて居た頃一木の箭が流れて來て村の人が之を拾ひ上げた。後に屢々靈異を現じたので、それを祭つて鎭守の神とした。其箭に盜まれて今の木像を安置することになつたといふのだが(四) 二つの出來事の間には今少し深い關係があつたかと思はれる。若しこの御姿が古傳に據つて作られたものならぱ、此箭は亦恐らくは多度の一目龍の熊手に當るものである。

[やぶちゃん注:「上州伊勢崎に近い宮下の五郞宮、一名御靈宮又五料宮とも稱する社」これは現在の群馬県伊勢崎市太田町にある五郎神社であろう。梁瀬氏のブログ「神社ぐだぐだ参拝録」の「五郎神社(太田町)」に、解説版を起こした説明があり、そこに『広瀬川が昔利根川の本流だった頃、上流から一本の朱塗りの矢が流れてきた。村人が拾って家に持ち帰ったところ、その夜夢枕に、風おれ烏帽子に狩衣の、片目の武士が立って、自分は鎌倉権五郎である。お前の拾った矢は自分の仮の姿である。その矢を大切に祭るようにと言うと片目の武士は姿を消した』とある。]

 

 けだし偶像を以て神體とする慣行が、單なる佛法の模倣とも言はれないのは、それが數多く舊社に保存せられて、何か別途の目的に利用せられて居たのでは無いかと、思ふやうな形狀を具へて居るからである。さうして社殿に人形を置くべき必要は色々あり、其人形は同時に靈物であつたから、之を別の處に安置すれば、優に一座の小神として、拜祀するに足りたわけである。御靈が古今を通じて一方には獨立して崇める神、他の一方には大社の主神に臣屬して、統制を受ける神であつたことを考へると、特に木像神體の習はしが、此方面に始まつたことは想像してもよい。單に想像に止まらず、其例證も少しばかりは有るのである。

 諸國に分布する所の澤山の御靈神社が、鎌倉權五郞景政を祀るといふ說は、もと片目の木像の存在によつて其信用を强めたのであるが、既に上州伊勢崎のやうな五郞宮もある以上は、今一度其像の果して彼が傳記に基づいたものか否かを、突止めて置く必要がある。景政年僅かに十六歲にして出陣し、片方の眼を冑の鉢附の板まで射貫かれて、其まゝで答(たふ)の箭に敵を射殺したといふ怖ろしい話を、最初に述べ立てたのは保元物語の大庭兄弟であるが、實際かの兄弟が我先祖の事蹟として、さう信じて居たかどうか。此物語の成立が古くでも鎌倉時代を上らず、今ある各異本の親本が、どれだけの口承變化を經て文字に寫し取られたかも確かで無い以上は、疑ふ餘地は十分にある(五) しかも一方には南北朝期に出來たといふ後三年合戰記が、大よそ同じ形を以て同じ事を書き記しながら、をかしいことは彼には左の眼、是には右の眼を射られたことになつて居るのである(六)

[やぶちゃん注:「冑の鉢附の板」「かぶとのはちつけのいた」で、兜(かぶと)の鉢に取り付ける錏(しころ)の一枚目の板。頸部の後ろをカバーする部分まで射抜かれたということになろうか。とすれば、物理的には眼窩は勿論のこと、頭蓋骨も貫通したということになろう。]

 

 京では上下の八所御靈が、主として冤厲祟(たゝり)ど爲す人々を祭つたと認められたに拘らず、鎌倉の御靈だけは別に目出たく長命した勇士を祭ると言つたのも隨分古くからの事であるらしい。尊卑分脈に鎌倉權守景成の子同じく權五郞景正、御靈大明神是也とあるのは(七) 事によると後の插入と見た方がよいかも知れぬが、既に鎌倉幕府の初期に於て、景政といふ名前が御靈の社と關聯して、世に知られて居たことは注意に値する。吾妻鏡を見ると、文治二年の夏秋にかけて、頻りに此社の怪異が申告せられ、人心は頗る動搖して居つた。ところが其年も暮に近くなつて、下野の局といふ女房が夢の中に景政と號する老翁來つて將軍に申す。讚岐院天下に祟を成さしめたまふを、我制止し申すと雖も叶はず、若宮の別當に申さるべしと言つた。夢覺めて之を言上するや、武家は若宮別當法眼房に命を下して、國土無爲の祈を行はしめたとあるのである。鎌倉の若宮も諸國の同名の社と同じく、御靈の祟を鎭める爲に、本宮に先だつて鶴ケ岡に祭られた神であつた。さうしてこの老翁の景政は自ら其助手の如き地位に居らうとして居る。それが果して大庭梶原等の先祖であり、又後三年役の武勳者のことであつたか否かは、夢の記事だけに確めやうも無いが、兎に角に其後鎌倉の御靈社を目して、鎌倉權五郞を祀るとした說の、基づく所は久しいのであつた。爰で問題となるは其神の片目は、其傳說の原因であるかはた又結果であるかである。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡を見ると、文治二年の夏秋にかけて、頻りに此社の怪異が申告せられ、人心は頗る動搖して居つた。ところが其年も暮に近くなつて、下野の局といふ女房が夢の中に景政と號する老翁來つて將軍に申す。讚岐院天下に祟を成さしめたまふを、我制止し申すと雖も叶はず、若宮の別當に申さるべしと言つた。夢覺めて之を言上するや、武家は若宮別當法眼房に命を下して、國土無爲の祈を行はしめたとあるのである」柳田國男の誤りで「文治元年」である。これは現行のちくま文庫版でも訂されていない(この誤りが今も続いているのはかなりイタいことである)。前に引いた通り、まずは「吾妻鏡」の文治元年八月二十七日の条に、

   *

○原文

廿七日丁丑。午剋。御靈社鳴動。頗如地震。此事先々爲怪之由。景能驚申之。仍二品參給之處。寳殿左右扉破訖。爲解謝之。被奉納御願書一通之上。巫女等面々有賜物〔各藍摺二段歟〕。被行御神樂之後還御云々。

○やぶちゃんの書き下し文

午の剋、御靈社(ごりやうしや)鳴動す。頗る地震のごとし。此の事、先々怪たるの由、景能之れを申す。仍つて二品(にほん)、參り給ふ所、寶殿の左右の扉、破れたり。是を解謝(げしや)せんが爲め、御願書壹通を奉納せらるるの上、巫女(みこ)等面々に賜物〔各々藍摺(あゐずり)二段(にたん)か。〕有り。神樂(みかぐら)を行はるるの後。還御すと云々。

   *

のを指し、「其年も暮に近くなつて、下野の局といふ女房が……」の箇所も文治元年十二月二十八日の一部で、

   *

○原文

又御臺所御方祗候女房下野局夢。號景政之老翁來申二品云。讚岐院於天下令成祟給。吾雖制止申不叶。可被申若宮別當者。夢覺畢。翌朝申事由。于時雖無被仰之旨。彼是誠可謂天魔之所變。仍專可被致國土無爲御祈之由。被申若宮別當法眼坊。加之以小袖長絹等。給供僧職掌。邦通奉行之。

○やぶちゃんの書き下し文

又、御臺所の御方に祗候(しこう)の女房、下野(しもつけ)の局(つぼね)が夢に、景政と號するの老翁、來たりて、二品に申して云はく、

「讚岐院、天下に於いて祟(たたり)を成さしめ給ふ。吾れ、制止申すと雖も叶はず。若宮別當に申さるるべし。」

てへれば、夢から覺め畢んぬ。翌朝、事の由を申す。時に仰せらるるの旨無しと雖も、彼れ是れ、誠に天魔の所變(しよぺん)を謂ひつべし。仍つて專ら、國土無爲の御祈を致さるるべきの由、若宮別當法眼坊に申さる。加之(しかのみならず)、小袖・長絹等を以つて、供僧・職掌に給ふ。邦通、之れを奉行す。

   *

を指す。「若宮」とあるのは現在の鶴岡八幡宮をこの新造当時は(海岸近くの由比の若宮から遷座)「鶴岡八幡新宮若宮」と呼称していたことに由る。] 

 

(一) 高木誠一君報。「民族」二卷二號、又「土の鈴」一〇號。

(二) 土地を精確に記せば、兵庫驅神崎郡田原村大宇西田原字辻川の鈴の森神社である。

(三) 信達一統誌に信達古語といふ書を引用して、尙此外に鹿落澤・尋澤・鹽野川・荒井川等の地名傅說を記述して居る。太子信仰の聖德太子以前からのものらしいことは、他日片足神の研究の序に之を細說する必要がある。

[やぶちゃん注:「信達一統誌」農民であった志田正徳著になる地誌。福島県立図書館の書誌データによれば、農作業に従事するかたわら、村々を調査、信夫郡のパートを天保一二(一八四一)年に、伊達郡を嘉永六(一八五三)年に纏めている。信夫郡は全村が記述されているが、伊達郡は暮子坊荘と小手荘のみが残されている、とある。

「信達古語」「信達古語名所記」のことか。著者不詳で成立は文化一五(一八一八)年とする。]

(四) 上野誌料集成第一編に載錄した伊勢崎風土記下卷。寬政十年の自序はあるが、其以後の追記も多い。神の箭を盜まれたのは六十餘年前とあるのみで、確かな時は知れない。

[やぶちゃん注:「寛政十年」一七九八年。]

(五) 前太平記の類の演義文學が、保元物語の文辭を踏襲しつゝ、末に「今は神と斎はれたる鎌倉權五郞」の一句を附加して居るのは、物語成長の一實例であらう。保元物語は二條院の御時、多武峯の公喩僧正、因緣舞の兒の爲に作るといふ一說は、固より現存の詞草に筆を下したことを意味しなかつたと思ふ。

[やぶちゃん注:「斎はれたる」「いわはれたる」(祝はれたる)。

「因緣舞」不詳。識者の御教授を乞う。]

(六) 康富記文安元年閏六月二十三日の條を見ると、少なくともあの時の奧州後三年記は内容が現行の後三年記と同一である。池田家には貞和三年の玄慧法師端書ある異本を藏するといふ。それも右の眼を射貫かれたとあるか否かを尋ねて見たい。それより以前にも後三年合戰繪のあつたことは、台記承安四年の條にある。いつ頃から景政眼を射らるゝ話が入つたかが、興味ある將來の問題である。尙源平盛衰記石橋山の條にも此話があつて、是は右の眼の方に屬して居る。國々の景政木像の片目が右か左か、之を統計して見るのも面白からう。

[やぶちゃん注:「康富記」「やすとみき」と読む。ウィキの「康富記より引く。『室町時代の外記局官人を務めた中原康富の日記』で、記述は応永一五(一四〇八)年(年)から康正元(一四五五)年に『及ぶが、散逸が顕著であり、特に永享年間の記述はほぼ全てが欠落している』。また応永八(一四〇一)年の『日記は康富の経歴、年齢に鑑みると、父・中原英隆が書いたものと考えられる。幕府を始め、武家の動向や、隼人司、主水司、大炊寮の各々の所領の経営について細かく記述され、和歌、連歌、猿楽など文化、芸能に関する記述も豊富』。十五世紀前半の『社会、有職故実を研究する上で有益な情報を提供する貴重な史料である。朝議、除目、叙位については関係文書を貼り継いで補填した箇所も多い』とする。因みに、文安六(一四四九)年五月条には、世間を騒がせた「白比丘尼」という二百余歳の白髪の比丘尼(十三世紀生まれという)が『若狭から上洛した記事があり、この「白比丘尼」は『臥雲日件録』では八百老尼と同じと解されている。この白比丘尼自体は見世物として料金がとられており、八百比丘尼伝説を利用した芸能者であったと考えられている(当時、比丘尼伝説は尼の布教活動に利用されていた)』とある。

「文安元年」一四四四年。

「奧州後三年記」底本は「奧州後三年繪」であるが、おかしい。ちくま文庫版全集によって「記」と訂した。

「台記」「たいき」と読む。保元の乱の首謀者であった宇治左大臣藤原頼長の日記。保延二(一一三六)年から久寿二(一一五五年)までの十九年間に亙る。

「承安四年」一一七四年。]

(七) 績群書類從の系圖部などを見ても、景政の父親の名は家每に區々である。それから大抵は其子孫の名が見えて居らぬ。注意すべきことである。

北條九代記 卷之八 筑後左衞門次郎知定勸賞に漏るゝ訴

      ○筑後左衞門次郎知定勸賞に漏るゝ訴

今度謀叛の與黨等(ら)、落失せたる輩、所々に隱(かくれ)ゐたるを、皆、生捕りて參(まゐら)せ、各首をぞ切られける。宗徒(むねと)の人々の妻子共、殘りなく探出(さがしいだ)し、子供は刺殺し、後家は尼にぞなされたる。御味方の軍士は、程に隨ひて勸賞あり。中にも筑後左衞門次郎知定(ともさだ)は、去りぬる五日、筋替橋にして、前司泰村が郎從岩崎兵衞尉友宗とて、大力の剛者(がうのもの)を打取りて、その賞を望む所に、何者か云ひ出しけん、「知定は、泰村が家人ながら緣者なり。五日の未明(びめい)には、館(たち)の囘(めぐり)を經(へ)て、合戰敗北の期(ご)に及びて、自害したる岩崎が首を拾うて、御味方に參りし者なり。却つて罪科に處せらるべし。何ぞ勸賞あるべき」とぞ沙汰しける。平左衞門尉入道盛阿、奉行として、知定を決せらる。知定、申すやう、「岩崎と戰ふ時、大曾禰(おほそね)左衞門尉長泰、武藤左衞門尉景賴等、能く見たる事にて候、彼兩人に尋ねらるべし」とは申しけれども、御疑(うたがひ)、決せられず。知定一人、勸賞に漏れて、讒者(ざんしや)を憤り、運命を恨みて月日を送り、同九月十一日、一紙(し)の狀を整へて、時賴に奉る。先考累家勲功(せんかうるいけくんこう)のこと、知定自身忠勤の旨、細細(こまごま)と書きて、讒(さかしら)する人を恨みたる詞の奧に、「昔、朱雀〔の〕院の御宇、承平二年に、平將軍將門、東國に叛逆す、同三年正月十八日、參議右衞門〔の〕督藤原忠文(ふじはらのたゞぶん)は、征夷大將軍の宣(せん)を蒙(かうぶ)り、關東に下向せしが、未だ下著(げちやく)せざる以前に、二月二十四日、藤原秀郷(ひでさと)、已に將門を討ちしかば、忠文は路次より歸浴す。三月九日、秀卿(ひでさと)、貞盛等に賞を行はるゝ所に、小野(おのゝ)宮殿、仰に、賞の疑(うたがは)しきは行ふべからずとあり。九條殿は忠文下著以前に、逆徒滅亡すと云ふとも、勅定の功に隨ひて、何ぞ棄置(すてお)かれん。罪の疑しきは刑せず、功の疑しきは賞せよと候とあり。然れども、小野宮殿の御義に依て、忠文が賞の沙汰なし。忠文は九條殿の恩言を深く感じて、富家(ふけ)の願契狀(けいじやう)を九條殿に進じ、小野宮殿を怨み奉りて卒去せしかば、其靈の致す所、九條殿は家榮え、小野宮殿は跡絶え給ひき」とこの趣(おもむき)を書進(かきしん)じけるを、時賴、御覽じて、勳功の奉行に子細を聞召(きこしめ)し、同十一月十一日に、筑後〔の〕左衞門〔の〕次郎知定を召出し、武藤左衞門尉景賴、證人として、恩賞行はれ、一處懸命の地を賜り、喜悦の眉(まゆ)をぞ開きける。

[やぶちゃん注:「三月九日、秀卿(ひでさと)」はママ。原典を見てもママ。「郷」の原作者の誤字である。「吾妻鏡」巻三十八の宝治元(一二四七)年六月十二日・十四日・十七日、九月十一日、十一月十一日の条に拠る。個人的には何だか、あんまり好きでない場面である。

「筑後左衞門次郎知定」八田(茂木)知定。かの幕府創成期の有力御家人八田知家の三男知基に始まる茂木氏で、その知基の子が知定。彼は妻が三浦泰村の娘であった。

「知定は、泰村が家人ながら緣者なり」これはおかしい。「家人」とは家臣としか読めず、「ながら」は接続助詞で同時併存の方の、「~であると同時に」の意である。前注した通り、彼は泰村の娘を妻としているから「緣者」ではあるが、茂木家は家臣ではない。実際、「吾妻鏡」でも緣者としか言っていない。筆者、筆が滑ったか。

「一紙(し)の狀」「吾妻鏡」には「和字」(総て平仮名書き)であるとする。

「先考累家勲功」八田知定に始まる幕府創成まで遡る先祖累代の手柄。

「承平二年」九三二年。この年号はどこから出たものか、よく判らない。「吾妻鏡」もこの年としているから、筆者はそのまま無批判にかくしたものらしいが、これはどうかんがえてもおかしい(この年では将門の平氏内部での私闘さえ未だ始まっていないからである)。これは恐らく、将門が新皇を名乗る、天慶二(九三九)年(年末十二月のこと)の「吾妻鏡」の誤りである。

「藤原忠文」(貞観一五(八七三)年~天暦元(九四七)年)。「ただぶみ」とも読む。ウィキの「藤原忠文」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『延喜四年(九〇四年)従五位下に叙せられる。のち、左馬頭・左衛門権佐・右少将等武官を務める一方で、紀伊権介・播磨介・讃岐介と地方官を兼ねた。延長四年(九二六年)従四位下・摂津守に叙任されて以降、丹波守・大和守と畿内の国司及び修理大夫を経て、天慶二年(九三九年)に参議として公卿に列』した。『天慶三年(九四〇年)関東で反乱を起した平将門を追討するため、右衛門督・征東大将軍に任じられ、六十八歳の高齢ながら将門追討の責任者となる。しかし、忠文が関東に到着する前に将門は平貞盛・藤原秀郷らに討たれていた。翌天慶四年(九四一年)今度は瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友を追討するため征西大将軍に任ぜられている『忠文は老齢を押して平将門の乱鎮圧のために東国へ向かったものの、東国到着の前に将門が討伐されてしまったために、大納言・藤原実頼』(昌泰三(九〇〇)年~天禄元(九七〇)年)本文に出る「小野宮殿」。後に関白、藤原長者ともなった)が嘉賞(かしょう:よしとして褒め讃えること)に『反対し、忠文は恩賞を得られなかった。忠文はこれに不満を持ち、辞任を申し出るが許されなかった。その後、天暦元年(九四七年)六月に忠文が没すると、同年十月に実頼の娘・述子(村上天皇の女御)が、十一月には実頼の長男・敦敏が相次いで死去したために、忠文の怨霊が実頼の子孫に祟ったと噂されたという。このことから忠文は悪霊民部卿とも呼ばれ、その霊を慰めるため宇治に末多武利』(またふり)『神社が創建された』とある。

「九條殿」藤原師輔(延喜八(九〇九)年~天徳四(九六〇)年)ウィキの「藤原師輔によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『摂政・関白・太政大臣として長く朝政を執った藤原忠平の次男として生まれる。延長八年(九三〇年)頃醍醐天皇の第四皇女で四歳年上の勤子内親王に密通、のち正式に婚姻が勅許され、臣下として史上初めて内親王を降嫁された。承平・天慶年間(九三一年~九四七年)に累進して参議を経て、権中納言となる』。『平将門が乱を起こした時、藤原忠文が征東大将軍に任じられたが、交戦する前に乱は平定されてしまった。朝廷では功が論じられ、兄の実頼は忠文には功がないのだから賞すべきではないと主張した。これに対して、師輔は「罪の疑わしきは軽きに従い、賞の疑わしさは重きをみるべきだ。忠文は命を受けて京を出立したのだから、賞すべきである」と論じた。実頼は持説に固執した。世論は師輔こそが長者の発言であるとした』。『その後、大納言に転じ、右近衛大将を兼ね、従二位に進んだ』。『天暦元年(九四七年)朱雀天皇が譲位し村上天皇が即位する。兄の実頼が左大臣となるに従い右大臣に任じられ、正二位に叙された。出世のほうは嫡男である実頼が常に先を行くが、「一苦しき二」(上席である兄実頼が心苦しくなるほど優れた次席の者)とまで言われ、朝廷の実権は実頼よりも師輔にあった。師輔は村上天皇が東宮の時代から長女の安子を妃に入れており、その即位とともに女御に立てられ、よく天皇を助けた。安子は東宮の憲平親王を生んで中宮となり、他に為平親王・守平親王を生んでいる。皇太子の外戚となった師輔は朝政を指導し、村上天皇の元で師輔らが行った政治を天暦の治という』とある。

「勅定の功」征夷大将軍に任ぜられた誉れ。

「罪の疑しきは刑せず、功の疑しきは賞せよ」「書経」の「大禹謨(だいうぼ)」に出る文句。「罪疑惟輕、功疑惟重。與其殺不辜、寧失不經。」(罪の疑はしきは惟(こ)れ、輕くし、功の疑はしきは惟れ、重くす。其の不辜(ふこ)を殺さんよりは、寧ろ、不經(ふきやう)を失はんとす)に基づく。「不辜」は「無辜」で罪のない人、「不經」はそれだけなら、「法律に適合しないこと」であるが、ここは「不經を失はんとす」で法律を曲げた方がよい、の謂い。犯した罪のはっきりしない場合は軽い刑にする方がよく、功績が疑わしい場合にはまず重く賞した方がよい、の意。

「富家(ふけ)の願契狀」「ぐわんけいじやう(がんけいじょう)」で、九条家が富み栄えることを言祝ぎ、それを神に誓約した御札。]

北條九代記 卷之八 上總權介秀胤自害

      ○上總權介秀胤自害

上総〔の〕權〔の〕介秀胤(ひでたね)は、泰村が妹婿(いもとむこ)にて、總州一の宮大柳の館(たち)にあり。三浦に同意して家人郎從二百韓騎を率して、鎌倉に向ひける所に、三浦は早没落したりと聞えしかば、道より取て返し、我が館に要害を構へ、在々(ざいざい)を掠(かす)め、兵粮を奪ひ、合戰の用意して、向ふ敵を待ち居たり。時賴、聞き給ひ、大須賀(おほすかの)左衞門尉胤氏(たねうぢ)、東(とうの)中務入道素暹(そせん)を兩大將として、二千餘騎を相副へて遣さる。秀胤は豫て期(ご)したることなれば、館の四面に炭(すみ)、薪(たきぎ)を積渡(つみわた)して火を懸けしに、焰(ほのほ)、熾(さかり)に炎々(えんえん)として、人馬を寄すべき路もなし。寄手の軍兵等、轡(くつばみ)を並べ、鬨の聲を作りて、矢を射るより外の事はなし。館の内より郎等三十餘人、馬場の邊より木戸を開きて打て出る。寄手の先陣築木(つゞき)兵庫が郎從五十餘人馳向ひ、火を散して戰ひしが、十七人は討たれて、二十三人、手を負ひければ、捲立(まくりた)てられて、本陣に傾掛(なだれかゝ)る。寄手の軍兵、是を見て、二百餘騎どつと驅寄(かけよ)せ、秀胤が郎從を中に押包(おしつゝ)み、一人も餘さず討取らんとする所に、東小才次(とうのこさいじ)、御厨(みくりの)五郎、葛西(かさいの)中次以下、究竟(くつきやう)の剛者(がうのもの)、四角に割付(わりつ)け、八面に蒐通(かけとほ)り、或は馬の諸膝(もろひざ)薙(な)いで刎落(はねおと)させ、落(おち)るを押へて首を取る。或は引組(ひつくん)で勝負を遂げ、力を限(かぎり)に切立(きりた)てしかば、二百餘人の寄手、立(たつ)足もなくうち立てられ、手負死人を引除(ひきの)くる隙(ひま)もなく、はらはらと引退きたり。城兵も流石に力疲れ、薄手痛手負ひければ、木戸を指して引入たり。小野寺小次郎左衞門尉通業(みちなり)が家子(いへのこ)に、金鞠(かなまりの)藤次行景とて、大力の剛者(がうのもの)、黑革威(くろかはおどし)の鎧に、同じ毛(け)の甲(かぶと)の緒(を)をしめ、八尺計(ばかり)の樫(かし)の棒に、筋鐵(すじかね)入れて、只一騎引入る者共に追縋(おひすが)うて、木戸の内に刎入(はねい)らんとす。胤秀が郎等臼井(うすゐの)平六義成(よしなり)と云ふ者、大長刀を水車に廻して走來(はしりきた)り、行景が木戸を越えんとする所を、石突(いしづき)にて丁(ちやう)と衝(つき)ければ、行員、仰樣(のけざま)に倒れたり。平六、木戸を越えて長刀の鋭(きつさき)を内甲に入れて乘掛る。行景、倒れながら、樫の棒にて打拂ふに、平六、中天に打上られ、岩角に落掛て首を突いて死ににけり。行景も痛手負うて立も上(あが)らず。兩人ながら死にければ、敵も味方も力を落して、惜まぬ者はなかりけり。權〔の〕介秀胤は、「賴み切つたる郎等を討(うた)せて、何時(いつ)迄か此館(たち)にながらへん。四方の火は消方(きえがた)になり、寄手は鬨を作りて押入りたり。郎從家子、或は討たれ或は落殘る者共、痛手薄手負はぬはなし。敵の手に掛り、生捕(いけどり)にせられて恥見るな」とて、嫡子式部大夫時秀、次男修理亮政秀、三男左衞門尉泰秀、四男六郎景秀、心靜に念佛し、數十ヶ所作竝(つくりなら)べし館に火を懸け、烟(けぶり)の中に自害して臥しければ、内外(うちと)の猛火、同時に燃えて、半天に立昇る。寄手も近付得ざりければ、皆悉く焼失せて、一人も首は殘らざりし、志こそ猛(たけ)かりけれ。寄手、勝時、取行ひ、鎌倉にぞ返りける。

[やぶちゃん注「吾妻鏡」巻三十八の宝治元(一二四七)年六月七日の条の他、〉湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、寛永頃(一六二四年~一六四五年)に刊行された「見聞軍抄」(八巻八冊)の巻七「三浦泰村、合戦の事」『には、大須賀左衛門尉胤氏と東の中務入道素暹らが秀胤の館を襲撃する話がある』とあり、それも参照されているとのことである。

「上總權介秀胤」上総千葉氏第二代当主千葉秀胤(?~宝治元年六月七日(一二四七年七月十日))は、本文にある通り、三浦義村の娘を正室としていた。ウィキの「千葉秀胤によれば、仁治元(一二四〇)年に『従五位下上総権介に任ぜられ、将軍・九条頼経の二所参詣に供奉している』。この四年前の寛元元(一二四三)年には『従五位上に叙せられ、翌年には評定衆に加えられるが、千葉氏では唯一の例である』。『幼少の千葉氏宗家当主・千葉亀若丸』(後の千葉氏第八代当主千葉頼胤。時宗の代まで生存し、元軍と戦ったが、そこで手負いを受けて三十七歳で亡くなっている)『を補佐する一方で、対外的には一族の代表者として行動し、北条光時・藤原定員・後藤基綱・三浦光村・藤原為佐・三善康持らとともに九条頼経を押し立てて執権北条経時と対抗した』。寛元四(一二四六)年に『執権経時が死去し、弟の時頼が執権を継承したのを機に勃発した政変(宮騒動)によって名越光時・藤原定員が失脚すると』、六月七日には『千葉秀胤・後藤基綱・藤原為佐・三善康持の』四名の『評定衆が更迭、更に』六日後の十三日には『秀胤は下総埴生西・印西・平塚の所領を奪われ(金沢実時所領となる)、上総国に放逐された(『吾妻鏡』)。ただし上総は秀胤の本国であり、寛大な処分とも言える』。『これは執権になったばかりの時頼が決定的な対立を避けて事態を早く収束させようとしたと見られている』。しかし、この『宝治合戦によって、三浦泰村・光村兄弟が攻め滅ぼされると』、早くも翌日六月六日に『三浦氏の娘婿である秀胤に対しても追討命令が発せられ』、翌七日には『千葉氏一族の大須賀胤氏・東胤行』(本文に出る「素暹」。彼は実は秀胤の三男泰秀の義父でもあった)『らが秀胤の本拠である上総国玉崎荘大柳館(現在の千葉県睦沢町)を攻撃した。追い詰められた秀胤は屋敷の四方に薪炭を積み上げて火を放ち』、四人の『息子をはじめとする一族郎党』百六十三名『とともに自害した。また、秀胤一族以外にも討死したり、所領を失った千葉氏一族が多数いたと言われている』。なお、「吾妻鏡」の同日の条によれば、『その際に以前に兄である秀胤によって不当に所領を奪われて不仲であった弟の』下総次郎時常も『駆けつけて自害しており、「勇士の美談」と称されたという。東胤行が戦功と引き換えに自分の外孫(泰秀の息子)の助命を求めたために、その子を含めた秀胤の子孫の幼児は助命された』『が、これによって上総千葉氏は滅亡した』とある。

「總州一の宮大柳」現在の千葉県長生(ようせい)郡睦沢町(むつみざわまち)北山田字富喜来台(ふきらだい)。余湖氏の城郭サイト内の「千葉県睦沢町」のページにある「富喜楽(ふきら)城・大柳館(睦沢町北山田字富喜来台)」がよい。鳥瞰図や写真で往時の山砦風の館での戦闘の雰囲気を偲ぶことが出来る(但し、注意書きがあって、『実際の所、ここが大柳館の跡であるということが確実に証明されているわけではない。なにしろ鎌倉時代の館の跡なので、遺構の痕跡すら残っていない可能性もあるのである。ここはあくまでも、大柳館跡の候補地の』一つと捉えた方がよい、ともある)。

「四角に割付(わりつ)け、八面に蒐通(かけとほ)り」教育社の増淵勝一氏の訳では、『あちらに突き込み、こちらに駆け通っては』となっている。

「小野寺小次郎左衞門尉通業(みちなり)が家子(いへのこ)に、金鞠(かなまりの)藤次行景」彼らは幕府追討軍方である。

「同じ毛」同じ黒色の縅毛(おどしげ:「縅(おどし)」は、小札(こざね)式の甲冑製造様式の名称であって、小札板(さねいた)を革や糸などの「緒(お)」で上下に結び合わせる方式を指す。この「縅」に使う「緒」のことを「縅毛」と呼ぶ)。

「八尺」二メートル四十二センチ。

「胤秀が郎等」「胤秀」は原典の「秀胤」の錯字。

「石突」この場合は、薙刀の柄の手前(刃でな方)の、地面に突き立てる(接する)部分。一般には補強するために金属で覆ってあり、地面に突き刺さり易く、尖らしてあった。

「長刀の鋭(きつさき)を内甲に入れて乘掛る」平六は格闘するために邪魔になる、抜き身の薙刀の歯の尖端部分を甲の内側に入れたのであったが、それがあだとなり、直後に行景に樫の棒で強打されて、空中に打ち上げられて落下した際、その内甲の刃が禍いして、「首を突いて死」ぬこととなったと読むべきであろう。]

原民喜 俳句 五句

  近咏  杞憂亭 民喜

 

折々は人往き過ぎる芙蓉哉

 

川上の堤(どて)に澤山曼珠沙華

 

小春日やきりぎりす鳴く花畑

 

ありありと灯に見えてゆく狹霧哉

 

朝寒や時無草の日向など

 

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年十月発行の生原稿を綴った回覧雑誌『四五人会雑誌』一号(底本本文にはこの一号を別に『(萬歳号)』とも表記してある。用字は底本のママ)に掲載(この雑誌は昭和三(一九二八)年九月までに全十三冊を発行している。同人は熊平武二(以前に注した通り、民喜が俳句を始めたのは彼の影響)・長新太・山本健吉・銭村五郎(以下の底本の年譜による))。「杞憂亭」は民喜の俳号。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅱ」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した。

「時無草」「ときなしぐさ」と一応は訓じておく。「国立国会図書館レファレンス協同データベース」の埼玉県立久喜図書館管理番号埼久-2004-018事例室生犀星の詩「時無草」の〈時無草〉とは、どのような花か知りたいがあり、その『回答プロセス』には、

   《引用開始》

『室生犀星全集 1』で確認すると、「時無草」は『抒情小曲集 第2部』所収と判明するが、草の種類については言及なし。

このほか『抒情小曲集』が収録されている文学全集・作品集や、室生犀星の作家研究・作品研究等にあたるが判明せず。

また、植物関係の事辞典類等にあたると、〈時無菜〉(ふだんそう)はあるが、〈時無草〉なし。

『日本国語大辞典』〈時無〉の項に、「いつと定まった時がないこと」とあり、〈時無小蕪〉〈時無大根〉〈時無菜〉があげられている。

以上から、固有の植物名ではない可能性もあり、室生犀星記念館に問い合わせる。

   《引用終了》

とあり、その『回答』として(下線やぶちゃん)、

   《引用開始》

室生犀星記念館に問い合わせ、「植物の固有名ではなく犀星のイメージによるもの」との回答を得る。根拠は、『日本近代文学大系 39』「時無草」注の「『時無草』は時節はずれに芽吹いた草」との記述と、補注の「『詩集』(『抒情小曲集』)目次には『たとえば三寸ほどの緑なり』とある」との記述による。

   《引用終了》

 なお、これらの句は民喜杞憂句集」には載らない。]

殘雪 / 冬晴 /春の晝   原民喜

  殘雪   原 民喜

 

雪の光の見えるところ

あの遙かな山のいただき

靑空のつらなりわたる山のてつぺん

その光は廣々とした川原に

晴れ渡つた朝の空氣に

しみじみとただ迫つて來る

 

 

 

  冬晴

 

冬晴の晝の

靑空の大きさ

 

電車通を

疲れて歩く

 

 

 

  春の晝

 

日向ぼこにあきて

家に歸らうとすると

庭石の冷たさがほろりとふれた

ひつそりとして障子が見える

 

[やぶちゃん注:以上は、原民喜が大正一五(一九二六)年一月から五月まで発刊した詩の同人雑誌『春鶯囀』四号(事実上の終刊号)に載る(書誌に四号で廃刊とあるから、これは四号であるが、同年五月の刊行であるので注意されたい)。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅱ」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した(但し、「遙」は底本の用字)。これは前号までの詩篇構成とは異なり、三篇、一応、それぞれ独立した配置が成されているようである。]

偶作   原民喜

 偶 作   原 民喜

 

旅に來て

日輪の赤らむのを見た

朝は田家の霜に明けそめて

磯松原が澄んで居る

一色につづく海が寒さうだ

 

 冬 日

 

ここのこの橡(とち)の樹は

身の丈ほどの高さである

太い樹の机の

節々の圓い芽がついて居る

私のせには冬の日が

かんかんと照りつける

 

 春 雨

 

雨は宵に入つてから

一層靜かであつた

床についてからは

降るさまがよく描かれた

 

[やぶちゃん注:以上は、原民喜が大正一五(一九二六)年一月から五月まで発刊した詩の同人雑誌『春鶯囀』三号に載る(四号で廃刊するが、二号と三号の発刊月のクレジットは不詳である)。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅱ」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した。活字のポイント差はママ。やはり前号などと同じく、総標題が「偶作」で、それが無題の序詞と小題「冬日」及び「春雨」の三連構成になっている一篇である。]

机   原民喜

    原 民喜

 

何もしない

日は過ぎて居る

あの山は

いつも遠い

 

 

 

 

 

こはれた景色に

夕ぐれはよい

色のない場末を

そよそよと歩けば

 

[やぶちゃん注:以上は、原民喜が大正一五(一九二六)年一月から五月まで発刊した詩の同人雑誌『春鶯囀』二号に載る(四号で廃刊するが、二号と三号の発刊月のクレジットは不詳である)。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅱ」を用いた。活字のポイント差はママ。創刊号に載った「春望」と類似した構成詩で、総標題が「机」、無題の序詞と小題「冬」の二連構成になっている一篇である。]

春望   原民喜

 春 望 原 民喜

 

つれづれに流れる雲は

美しさをまして行く

春陽の野山に

今日は来て遊んだ

 

 

 

 

 

影こそ薄く

思ひは重し

霞のなかの山なれば

山に隱るる山なれば

 

 

 

 

 

ふし見し梢の

優しかる

綠煙りぬ

さゝやかに

 

[やぶちゃん注:以上は、原民喜が大正一五(一九二六)年一月に発刊した詩の同人雑誌『春鶯囀』創刊号に載る。発行所は東京都東中野の熊平清一(民喜の中学時代からの盟友である武二の兄)で、同人には彼ら兄弟の他、長新太や石橋貞吉(山本健吉の本名)らが参加しているが、同年五月発刊の四号で廃刊となった。民喜、満二十歳の春である。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅱ」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した。活字のポイント差はママ。総標題が「春望」で、それが無題の序詞と小題「山」及び「梢」の三連構成になっている一篇である。

 なお、「春鶯囀」は固有名詞としては雅楽(唐楽)の曲名にあり(唐の太宗の作或いは唐の高宗が鶯(うぐいす)の声を聞いて白明達なる楽人に命じてその声を真似て作らせたとも伝えられる)、その場合は「しゅんのうでん」と読むが、本雑誌は諸資料では一切、ルビが振られていないので、「しゆんあうてん(しゅんおうてん)」と読んでおく。]

2016/03/24

北條九代記 卷之八 三浦泰村家門滅亡

      〇三浦泰村家門滅亡

さる程に、時賴の御方に馳集りし諸軍勢等(ら)、和平の由、承り、人數を引きて在所々々に立歸らんとする所に、高野(かうやの)入道覺地(かうぢ)、この由を聞きて、子息秋田〔の〕城〔の〕介義景、孫の九郎泰盛を招きて、申しけるは、「和平の御書を泰村に遣(つかは)さるゝ上は、向後、三浦の氏族(しぞく)等(ら)、愈(いよいよ)勢に誇りて、當家は終に掌握に落ちて、殃(わざはひ)の來らんこと、目前に有りて遠からず。只、運命を天道にまかせ、今朝、三浦が館に押掛け、雌雄を一時に決すべし。この時に乘るにあらずは、後日を期すとも叶ふべからず。早(はや)、打立(うちた)て」とぞ諫めける。城義景泰盛、父子「畏り候」とて打立ちければ、大曾禰(おほぞねの)長泰、武藤左衞門尉景賴、橘薩摩十郎公義(きんよし)以下、一族同意の輩、三百餘騎、甘繩の館(たち)の門前より、小路を東に、若宮大路中下馬の橋に至り、鶴岡の赤橋より、神護寺の門外にして、鬨の聲を作り、五石疊(いついしだたみ)の紋の旗、差擧(さしあ)げ、筋替橋(すぢかへばし)の北に陣取(じんど)りて矢をはなつ。その近邊に陣取りたる諸方の軍士等、「すはや軍の切るぞ」とて、我も我もと馳せ加はる。泰村、大に仰天して、「こはそも只今、和平の事成りて、心を緩(ゆる)す所に、出拔(だしぬ)かれける口惜さよ」とて、物具(ものゝぐ)ひしひしと差堅(さしかた)め、家子郎從等を進めて、防ぎ戰ふ。橘薩摩〔の〕余一(よいち)公員(きんかず)は、俄(にはか)のことにて、物具すべき遑(いとま)なく、狩装束にて一陣に進み、門の庇(ひさし)の本(もと)まで攻寄(せめよせ)ける所に、三浦が郎等小河〔の〕次郎が、櫓(やぐら)の上より落射(おとしい)ける大矢に、頸の骨を射られて、馬より眞倒(まつさかさま)に落ちたりけり。中村〔の〕馬五郎、是を引取らんと馳寄(はせよ)する所に、片切(かたぎり)助五郎が放つ矢に眞甲(まつかふ)を射られてたち痓(すく)む。防ぐ兵、手強くして、人數、多く、討たれければ、叶難(かなひがた)く見えし所に、時賴、この由、聞き給ひ、「和平歸服の上に、又合戰を起す條、宥(なだ)むべきにあらず」とて、北條陸奥(むつの)掃部(かもんの)助實時を以て、將軍の御所を守護せしめ、北條〔の〕六郎時定を大手の大將軍として、五百餘騎にて遣(つかは)さる。塔辻(たふのつじ)より馳隨(はせしたが)ふ輩、雲霞の如く、家々の旗、差し舉げ、我、劣らじ、と進みけり。さる程に、泰村が郎等、精兵の剛者、隈々(つまりづまり)に待設(まちまう)け、矢を射ること雨の如く、これに中(あたつ)て討(うた)るゝ者、數知らず、されども大軍新手を入替へ、散々(さんざん)に攻戰(せめたたか)ふ。諏訪兵衞入道、信濃四郎左衞門尉行忠、軍兵を進めて、北の方を攻破る、佐原十郎左衞門尉泰連(やすつら)、同十郎賴連(よりつら)、能登左衞門尉仲氏以下、郎従五十餘人、下合(おりあ)ひて防ぎけるが、諏訪入道、信濃行忠、直前(まつさき)に蒐出(かけい)でて、追靡(おひなび)け、切倒(きりたふ)し、一人も殘らず討取りたり。甲斐〔の〕前司泰秀、御所に參りて、「毛利藏人大夫入道西阿こそ、只今泰村が方へ、參りて候。きはめて大剛(たいがう)の者にて、奇計を廻(めぐら)し候はば難義たるべし」と申しければ、時賴、聞たまひ、「何條、天道に背きし者は、假令(たとひ)、鐡城(てつじやう)に籠るとも、運命、更に賴難(たのみがた)し。今見給へ、亡びなんものを」とて、騷(さわぎ)たる色はおはしまさず。軍は頻(しきり)に劇(はげ)しくなり、敵味方の鬨の聲、天に響き、地に盈(み)ちて、打合ひ攻戰ふ有樣は修羅の巷(ちまた)に異ならず。大手の大將六郎時定、軍兵共に仰せけるは、「斯(かく)ては人多く損じて利(り)少(すくな)し。只、火を差して燒打(やきうち)せよ」とぞ下知せられける。伊豆〔の〕住人、輕又八義成と云ふ者、泰村が南の小屋に攻上(せめのぼ)り、向ふ敵三人を薙伏(なぎふ)せ、小屋に火差しければ、折節、風荒く吹廻(ふきめぐ)り、焰(ほのほ)、四方に飛散りたり。作竝(つくりなら)べし屋形(やかた)どもに燃渡(もえわた)りて、一同に燒上(やけあが)る黑煙(くろけぶり)、火焰を卷きて雲路を指して燃昇(もえのぼ)る。火子(ひのこ)は雨の足よりも滋(しげ)し。三浦の者ども烟(けぶり)に覆はれ、防ぐべき力なし。平判官義有(よしあり)、申しけるは、「迚(とて)も遁(のが)れぬ事ながら、爰にて燒死(やけしな)んより、いざや、法華堂に引退(ひきしりぞ)き、故右大將賴朝の御影(みえい)の前にて自害致し、前代の御恩を報じ奉らん」とて泰村以下、北の方を打破り、法華堂にぞ引籠りける。泰村が舍弟能登守光村は、永福寺の總門の内に在て、郎從八十餘騎、陣を張(はつ)て戰ひしが、向ふ敵を打靡(うちなび)け、泰村と一つになり、法華堂に集りしかば、數萬の軍兵、跡に付きて押かゝる。毛利〔の〕入道西阿、泰村兄弟、その外大隅前司重隆、美作〔の〕前司時綱、甲斐前司實章(さねあきら)、關〔の〕左衞門尉政泰以下の一族、各(かく)、賴朝卿の御影の前に竝居(なみゐ)て、迭(たがひ)に最後の暇乞(いとまごひ)して、念佛、高(たからか)に唱へける。その間に寄手、早く寺門に攻入(せめい)りけるを、三浦が郎從白川〔の〕七郎兄弟、岡本〔の〕次郎、埴生(はにふの)小太郎、佐野〔の〕三郎以下、出向うて防ぎければ、寄手、多く討たれつゝ、三浦方も手負ひ疵(きず)を蒙(かうぶ)り、矢種(やたね)盡きて力撓(たわ)み、或は討たれ或は落失せたり。今は是までなりとて、泰村以下の一族二百七十六人、郎從家子二百二十餘人、同時に腹をぞ切りにける。その日の申刻に軍(いくさ)既に散(さん)じたり。寶治元年六月五日、今日(けふ)、如何なりける時節にや、さしも累代舊功の三浦の家、忽に運命傾(かたぶ)き、滅亡しけるこそ悲しけれ。翌日、實檢(じつけん)を遂げて、首共(ども)殘らず、由比の渚(なぎさ)に懸けられ、その後、事書を出され、三浦の一族、或は缺落(かけおち)、或は逐電せし者共、子細に及はず、召捕(めしと)りて、參らすべしとぞ觸(ふ)れられける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十八の宝治元(一二四七)年六月五日・六日に基づく。それにしても、安達の起兵に全責任を与え、是非に及ばず、致し方ない、と時頼が三浦追討を認めるなど、どう考えても、ありえない起因である。だから、私は時頼が大嫌いなんである!!!

「殃(わざはひ)」「禍(わざわい)」に同じい。

「小路を東に、若宮大路中下馬の橋に至り」現在の由比が浜通りを東に向かい、江ノ電を越え、横須賀線ガード手前の若宮大路の「下馬四つ角」近くにあった下馬橋(恐らくは現在の「四つ角」よりもやや海岸寄りに出たものと推定され、そこに橋はあった)へ出、若宮大路を鶴岡八幡宮寺へ向けて堂々と進軍したことになる。しかし戦略的には相手に悟られぬよう、由比ヶ浜通りから、現在の鎌倉駅西口西を北へ向かって横大路から鶴岡に向かうルートと、下馬を通り越して若宮大路の東側の小町小路(現在の小町通りの若宮大路を隔てた反対側なので注意されたい)を北に向かうルート(これが三浦邸へは最も難のない近道と思う)に、少人数の歩兵を左右に分けて秘かに若宮大路を行く三(最後の左右を別とすれば四)ルートに私なら分ける。若宮大路は大軍で行軍するには最も道幅があり、使い勝手はよいが、鎌倉中に敵とも味方とも分らぬ諸国の軍兵がごろごろいる中で、この大袈裟な行軍は私にはどうも解せないのである。だからこそ、この最初の起兵自体が、私には眉唾物なのである。これが事実とすれば、三浦は安達起兵の報知を知ったなら、すぐ南西にいる時頼や将軍頼嗣を人質に取ることも可能なのである。和平交渉(事実は時頼の偽りであることは見え見えである)が行われ、それが成立していても、それとは別に状況探索はするのが常識であり、かの三浦がそれを怠っていたとは到底思われぬ。しかも最も仲が険悪であった安達一族に対しての密偵は常に張り付いていたに違いないからである。

「神護寺」「吾妻鏡」にかくある。これは進軍のルートから見ると、神仏習合の鶴岡八幡宮寺内の東に存在した寺院部分(すべておぞましい廃仏毀釈で破壊されてしまったが、江戸期の絵図を見ても八幡宮の東へ抜ける手前には宝塔や薬師堂などの巨大寺院建築物が複数あった)を指しているように思われる。

「鬨の聲」老婆心乍ら、「ときのこえ」と読む。

「五石疊(いついしだたみ)の紋」所謂、正方形を縦横二本の直線で割った三目並べのような小九正方の内、各四方の角と中央を黒塗りするか、或いはその反対のものであろう(後者は「四方石」紋と呼ばれ、安達氏の後裔とされる城氏の紋がそれである)。

「筋替橋(すぢかへばし)の北」源氏池の東方、鶴岡八幡宮前の金沢街道の宝戒寺から直角に東北折れ、それが又、右へ折れる部分にあった橋。現在は暗渠。その「北」は現在の横浜国大附属の正門附近に当たる。

「すはや軍の切るぞ」「軍」は「いくさ」で、戦闘・合戦の火ぶたが切って落とされるぞ! の謂い。

「橘薩摩〔の〕余一(よいち)公員(きんかず)」彼は安達方であるので注意。記載が少ないが、彼の母はかの頼朝の奸臣で、頼朝の死後に粛清された梶原景時の、二男景高の娘らしい。

「叶難く見えし」三浦方の強靭な防衛線には、とてものことに安達軍はかないそうになく見えた。

「北條陸奥掃部助實時」(元仁元(一二二四)年~建治二(一二七六)年)は金沢流北条氏の実質上の初代で金沢実時(かねさわさねとき)とも称した。父は北条義時の末の方のである北条実泰(実泰は従兄弟に当たる第三代将軍源実朝の前で元服を行っており、「実」は烏帽子親である実朝の偏諱である)。実時は第三代執権北条泰時の邸において元服、「時」は烏帽子親を務めた泰時の偏諱である。、時頼政権に於いては、この後、側近として引付衆・評定衆を務め、。文永元(一二六四)年には得宗家外戚のここに出る安達泰盛とともに越訴奉行頭人(とうにん)となって第八代執権北条時宗を補佐した。この宝治合戦後は寄合衆(よりあいしゅう:北条氏得宗を中心とした鎌倉幕府の最高議決機関)にも加わっている。文人としても知られ河内本「源氏物語」の注釈書を編纂したりした。文永の役の翌年(建治元(一二七五)年)に政務を引退すると、六浦荘金沢(現在の横浜市金沢区金沢文庫)に隠居し、現在の「金沢文庫」の元の創設もしている。

「北條六郎時定」(?~正応三(一二九〇)年)は北条時氏三男。母は松下禅尼であるから、経時・時頼の同母弟である。将軍の側近として仕えたが、元寇襲来に当たって鎮西に下向、阿蘇家の祖となった。後に為時(ためとき)と改名した。

「塔辻(たふのつじ)」現在の由比ヶ浜通りのほぼ中間点にある辻。鰻の名店「つるや」の西直近。

「隈々(つまりづまり)に」あちらこちらに。

「大軍新手を入替へ」(幕府方(ここでは時頼の裁断によって既に正規幕府軍となっている)は)大量の軍兵を後衛の新しい兵と入れ替えをし。

「諏訪兵衞入道」諏訪盛重。得宗被官で御内人。泰時の側近。法名の蓮仏の名で「吾妻鏡」に多出。

「佐原十郎左衞門尉泰連、同十郎賴連、能登左衞門尉仲氏以下、郎従五十餘人」これは三浦方。「佐原」氏は三浦義明の子十郎義連を祖とするが、実は宝治合戦では本家三浦氏が滅んだ際には、義連直系の盛連一族はすべて幕府方についている(「吾妻鏡」六月二日の条)。ここに出る二人は傍系の佐原氏の一族と思われ、「吾妻鏡」の六月二十二日の条にある、宝治合戦での『自殺討死等』の名簿に能登仲氏とともに名が載っている。なお、佐原盛連一族を除いた佐原氏は、この宝治合戦で総て滅んだ。

「下合(おりあ)ひて」合流して(教育社版増淵勝一氏訳に拠る)。

「追靡(おひなび)け」追撃し(同前)。

「甲斐前司泰秀」 長井泰秀(建暦二(一二一二)年~(建長五(一二五四)年)。大江泰秀とも呼ばれることで判る通り、祖父は大江広元、父は大江広元次男長井時広であった。ウィキの「長井泰によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『長井時広の嫡子として生まれる。のち元服に際して、北条氏得宗家当主(鎌倉幕府第三代執権)の北条泰時より偏諱を受け、泰秀と名乗る』。『一二二一年(承久三年)承久の乱により、大江氏の嫡流であった大江親広が失脚し、父時広が大江氏の惣領となる。「関東評定衆伝」によると、一二二九年(寛喜元年)』、『十八歳で既に蔵人から左衛門少尉となっており、同年』に『更に従五位下に叙爵され』、『一二三四年(文暦元年)二十三歳で従五位上、一二三七年(嘉禎三年)二十六歳で正五位下左衛門大尉、一二三八年(暦仁元年)二十七歳で甲斐守という官職の昇進の早さは大江氏惣領家の嫡男として高い家格を認められていたということになる』とする。『一二四一年(仁治二年)五月』に父の時広が死去すると、翌六月には『三十歳にして北条経時(泰時の孫)らとともに評定衆に列せられ』ている。『その後、一二四七年(宝治元年)の宝治合戦などの争乱に際しては第五代執権の北条時頼(経時の弟)を一貫して支持し、幕府における長井氏の地位を確立した』とある。なお、彼の孫である長井宗秀は、実は「吾妻鏡」の編纂者の一人ではないかと推測されている、ともある。突如、泰秀が時頼に申し上げる肉声をここに挟み、前で西阿の悲劇もしっかり語っている辺り、この彼らの親族であった宗秀がここら辺りを書いたとして、充分に納得出来る話ではあるまいか。

「毛利藏人大夫入道西阿」毛利季光(建仁二(一二〇二)年~宝治(一二四七)年)のこと。彼は実は北条方に就こうとしたが、三浦義村の娘であった妻から兄泰時を見捨てるのは武士にもとるという批難を受け、悩んだ末に三浦方に組して自刃するという、いわくつきの悲劇的人物である。彼はかの大江広元の四男で出自も鎌倉幕府内にあっては実はエリート中のエリートで、天福元(一二三三)年に時の第三代執権泰時から関東評定衆に任命され、寛元四(一二四六)年には藤原頼経・頼嗣父子を自邸に迎えて、当時、将軍職を継承したばかりの七歳の頼嗣の甲冑着初式を行うという栄誉をさえ得ていた(因みに、彼の官位にある「藏人大夫」であるが、この「大夫」というのは五位の別称であるから「蔵人の五位」と同義である。但し、「蔵人の五位」というのは「五位の蔵人」とは意味が違って――元蔵人であったが今は職には就いていない五位の人――即ち――六位の蔵人を勤めていて五位に上がったものの、五位の蔵人に空席がなかったため、蔵人の職を辞めることになった人――を指す特殊な謂い方であるので注意されたい)。以上のエピソードは最後に示す「吾妻鏡」の五日の条に出る。もうお分かりの通り、実はここでかく「西阿は手ごわい奴です」と語っている長井泰秀は彼の兄の子、甥なのである。

「奇計を廻(めぐら)し候はば」西阿が思いもかけない、奇計をめぐらしたりしたならば。増淵氏は『巧妙な策略をお考えにならないと』と訳しておられるが、だとすると「候はずば」でないとおかしいし、時頼への敬語も本文にはないので、採らない。増淵氏は恐らく、「吾妻鏡」本文で、西阿の三浦参戦報告(そこでは萬年入道が報告者)の直後に、時頼が将軍にまみえて、「奇謀を廻(めぐ)らさる」とあるのを踏まえられたのではあろう。

「何條」「なんじよう(なんじょう)或いは「なんでふ」で、「何といふ」の転。「何条」は当て字。連体詞・副詞もあるが、ここは感動詞で、相手の言葉を否定する語。「何を言うか!」「とんでもない!」の謂い。

「鐡城」鉄で出来た城。

「南の小屋」「吾妻鏡」(後掲)では、「放火於泰村南隣人屋」(火を泰村が南隣りの人屋(じんをく)に放つ)とある。

「平判官義有」「群書系図部集」を見るに、三浦義澄末子九男三浦胤義(承久の乱で上皇方につき、三浦義村に裏切られ、遂には自害した)の子と思われる。増淵氏は『泰村の兄』と割注するが採らない。

「法華堂」源頼朝の廟。現在の「頼朝の墓」(島津が作った偽物)に登る手前の左手(今は児童公園)附近にあったとされる。合計五百人以上の人間(「吾妻鏡」)がここで自害しているとあるから、相応の大きさの寺院建築であったことが判る。三浦邸からは二百メートルと離れていない。

「永福寺」「やうふくじ(ようふくじ)」と読む。大塔宮の南を廻り込んだ左側にあった、源頼朝が中尊寺の二階大堂・大長寿院を模して建立した寺院。二階建てであったことから「二階堂」とも称され、それが、現在の地名由来でもある。応永一二(一四〇五)年の回禄以後には記事がないので、そこら辺りで廃寺となったものと考えられる。三浦邸とは実測で凡そ一キロメートルほど離れている。

「申刻」午後四時頃。

「散じたり」終わった。

「事書」増淵氏の訳では『ことがき』とルビされ、『箇条書き』と割注されている。

「缺落」増淵氏は『逃亡』と訳しておられる。

「逐電」増淵氏は『失踪』と訳しておられる。

 

 以下、長いが「吾妻鏡」の寳治元(一二四七)年六月五日の条を示す。

 

○原文

五日丙戌。天晴。辰刻小雨灑。今曉鷄鳴以後。鎌倉中彌物忩。未明左親衞先遣萬年馬入道於泰村之許。被仰可相鎭郎從等騷動之由。次付平左衞門入道盛阿。被遣御書於同人。是則世上物忩。若天魔之入人性歟。於上計者。非可被誅伐貴殿之構歟。此上如日來不可有異心之趣也。剩被載加御誓言云々。泰村披御書之時。盛阿以詞述和平子細。泰村殊喜悦。亦具所申御返事也。盛阿起座之後。泰村猶在出居。妻室自持來湯漬於其前勸之。賀安堵之仰。泰村一口用之。即反吐云々。爰高野入道覺地傳聞被遣御使之旨。招子息秋田城介義景。孫子九郎泰盛〔各兼著甲冑〕盡諷詞云。被遣和平御書於若州之上者。向後彼氏族獨窮驕。益蔑如當家之時。憖顯對揚所存者。還可逢殃之條。置而無疑。只任運於天。今朝須決雌雄。曾莫期後日者。依之城九郎泰盛。大曽祢左衞門尉長泰。武藤左衞門尉景賴。橘薩摩十郎公義以下。一味之族引卒軍士。馳出甘繩之館。同門前小路東行。到若宮大路中下馬橋北。打渡鶴岡宮寺赤橋。相構盛阿歸參以前。於神護寺門外作時聲。公義差揚五石疊文之旗。進于筋替橋北邊。飛鳴鏑。此間所張陣於宮中之勇士悉相加之。而泰村今更乍仰天。令家子郎從等防戰之處。橘薩摩余一公員〔不著甲冑。爲狩裝束〕者。自兼日懸意於先登。潛入車排之内。宿于泰村近邊荒屋。付時聲進寄小河次郎〔被射殺〕中村馬五郎同相並之。皆爲泰村郎等被暴疾焉。先之。盛阿馳駕令歸參。雖申事次第。三浦一類有用意事之條者。雖勿論。旁依有御沙汰。被廻和平之儀之處。泰盛既及攻戰之上。無所于被宥仰。先以陸奥掃部助實時。令警衞幕府。次差北條六郎時定。爲大手大將軍。時定令撤車排。揚旗自塔辻馳逢。相從之輩如雲霞。諏方兵衞入道蓮佛抽無雙之勳功。信濃四郎左衞門尉行忠決殊勝負。獲分取。凡泰村郎從精兵等。儲所々辻衢。發矢石。御家人又忘身命。責戰矣。巳尅。毛利藏人大夫入道西阿著甲冑。卒從軍。爲參御所。打出之處。彼妻〔泰村妹〕取西阿鎧袖云。捐若州參左親衞御方之事者。武士所致歟。甚違年來一諾訖。盍耻後聞兮哉者。西阿聞此詞。發退心加泰村之陣。于時甲斐前司泰秀亭者。西阿近隣也。泰秀者馳參御所之間。雖行逢西阿。不能諍留。是非存親昵之好。且不却與同于泰村之本意兮。於一所爲加追討也。尤叶武道有情云々。萬年馬入道馳參左親衞南庭。乍令騎馬。申云。毛利入道殿被加敵陣訖。於今者世大事必然歟。左親衞聞此事。午刻參御所。被候將軍御前。重被廻奇謀。折節北風變南之間。放火於泰村南隣人屋。風頻扇。煙覆彼館。泰村幷伴黨咽烟遁出館。參籠于故右大將軍法華堂。舍弟能登守光村者在永福寺惣門内。從兵八十餘騎張陣。遣使者於兄泰村之許云。當寺爲殊勝城郭。於此一所。相共可被待討手云々。泰村答云。縱雖有鐵壁城郭。定今不得遁歟。同者於故將軍御影御前欲取終。早可來會此處云々。專使互雖爲一兩度。縡火急之間。光村出寺門向法花堂。於其途中一時合戰。甲斐前司泰秀家人。幷出羽前司行義。和泉前司行方等。依相支之也。兩方從軍多被疵云々。光村終參件堂。然後西阿。泰村。光村。資村幷大隅前司重隆。美作前司時綱。甲斐前司實景。關左衞門尉政泰以下。列候于繪像御影御前。或談往時。或及最後述懷云々。西阿者專修念佛者也。勸請諸衆。爲欣一佛浄土之因。行法事讚廻向之。光村爲調聲云々。左親衞軍兵攻入寺門。競登石橋。三浦壯士等防戰。竭弓劔之藝。武藏々人太郎朝房責戰有大功。是爲父朝臣義絶身。一有情之無相從。僅駕疲馬許也。不著甲冑之間。輙欲討取之處。被扶于金持次郎左衞門尉〔泰村方〕全其命云々。兩方挑戰者殆經三刻也。敵陣箭窮力盡。而泰村以下爲宗之輩二百七十六人。都合五百余人令自殺。此中被聽幕府番帳之類二百六十人云々。次壹岐前司泰綱。近江四郎左衞門尉氏信等承仰。爲追討平内左衞門尉景茂。行向彼長尾家。作時聲之處。家主父子者。於法華堂自殺訖。敢無人于防戰。仍各空廻轡。但行逢子息四郎景忠。生虜之持參云々。甲冑勇士等十餘騎塞壹岐前司之行路。諍先登之間。泰綱雖問其名字。敢不能返答。而景茂等依不所在。無合戰之儀。剩彼勇士乍名謁逐電云々。申刻。被實檢死骸之後。被進飛脚於京都。遣御消息二通於六波羅相州〔北條重時〕。一通奏聞。一通爲令下知近國守護地頭等也。又事書一紙同所被相副也。左親衞於御所休幕被申沙汰之。其狀云。

 若狹前司泰村。能登前司光村以下舍弟一家之輩。今日巳尅。已射出箭之間。及合戰。終其身以下一家之輩及餘黨等被誅罰候畢。以此趣。可令申入冷泉太政大臣殿〔久我通光〕給候。恐々謹言。

     六月五日   左近將監

   謹上  相摸守殿

 追啓〔禮紙申狀云〕

  毛利入道西阿不慮令同心之間。被誅罰畢。

 若狹前司泰村。能登前司光村。幷一家之輩餘黨等。兼日令用心之由。有其聞之間。被用意候處。今日〔五日巳剋〕令射出箭之間。及合戰。其身以下一家之輩餘黨等被誅罰訖。各存此旨。不可馳參。且又可相觸近隣之由。普可令下知西國地頭御家人給之状。依仰執達如件。

     六月五日   左近將監

   謹上  相摸守殿

事書云。

一 謀叛輩事

 爲宗親類兄弟等者。不及子細可被召取。其外京都雜掌。國々代官所從等事者。雖不及御沙汰。委尋明。隨注申。追而可有御計者。

 

○やぶちゃんの書き下し文

五日丙戌。天晴る。辰の刻、小雨灑(そそ)ぐ。今曉、鷄鳴以後、鎌倉中彌(いよいよ)物忩(ぶつそう)。未明に左親衞、先づ萬年馬入道を泰村が許へ遣はし、郎從等の騷動を相ひ鎭めるべしの由を仰せらる。次(つ)いで、平左衞門入道盛阿に付けて、御書を同人に遣はさる。是れ、則ち、

「世上の物忩、若しや天魔の人性(じんしやう)に入るか。上計(しやうけい)に於ては、貴殿を誅伐せらるべきの構へに非ざるか。此の上は、日來(ひごろ)のごとく、異心有るべからず。」

の趣きなり。剩(ああつさ)へ、御誓言を載せ加へらると云々。

泰村、御書を披(ひら)くの時、盛阿、詞を以つて和平の子細を述ぶ。泰村、殊に喜悦して、亦、具(つぶさ)に御返事を申す所なり。盛阿、座を起つの後、泰村、猶ほ出居(でゐ)に在り。妻室、自(みづか)ら湯漬(ゆづけ)を其の前に持ち來たりて之れを勸め、安堵(あんど)の仰せを賀す。泰村、一口、之れを用ゐ、即ち、反吐(へど)すと云々。

爰に高野入道覺地、御使を遣はさるの旨を傳へ聞き、子息秋田城介義景・孫子(まご)九郎泰盛〔各々兼ねて甲冑をす。〕を招き、諷詞(ふうし)を盡して云はく、

「和平の御書を若州に遣はさるるの上は、向後、彼の氏族獨り、驕(おご)りを窮(きは)め、益々(ますます)當家を蔑如(べつじよ)するの時、憖(なまじ)ひに對揚(たいよう)の所存を顯はさば、還へつて殃(わざわひ)に逢ふべきの條、置きて疑ひ無し。只だ、運を天に任せ、今朝、須(すべか)らく雌雄を決すべし。曾(かつ)て後日を期する莫かれ。」

てへれば、之れに依つて、城九郎泰盛・大曾禰左衞門尉長泰、武藤左衞門尉景賴、橘薩摩十郎公義以下、一味の族(うから)、軍士を引卒し、甘繩の館(たち)を馳せ出で、同門前の小路を東に行き、若宮大路中下馬橋の北へ到りて、鶴岡宮寺の赤橋を打ち渡り、相ひ構へて、盛阿歸參以前に、神護寺門外に於いて時の聲を作る。公義、五石疊文(いつついしだたみもん)の旗を差し揚げ、筋替橋(すじかへばし)北邊に進み、鳴鏑(なりかぶら)を飛ばす。此の間、陣を宮中に張る所の勇士、悉く之れに相ひ加はる。而るに泰村、今更乍らに仰天し、家子(いへのこ)郎從等をして防戰せしむるの處、橘薩摩余一公員〔甲冑を著せず、狩裝束たり。〕といふ者、兼日より意を先登(せんと)に懸け、潛かに車排(くるまならべ)の内に入り、泰村近邊の荒屋(あばらや)に宿る。時の聲に付き、進み寄る。小河次郎〔射殺さる。〕・中村馬五郎、同じく之れに相ひ並ぶ。皆、泰村郎等の爲に暴疾(ぼうしつ)せらる。之れに先んじ、盛阿、駕を馳せ歸參せしめ、事の次第を申すと雖も、三浦一類用意の事有るの條は、勿論と雖も、旁々(かたがた)の御沙汰有るに依つて、和平の儀を廻(めぐ)らさるるの處、泰盛、既に攻戰に及ぶの上は、宥(なだ)め仰せるるに所(ところ)無し。先づ陸奥掃部助實時を以つて、幕府を警衞せしめ、次いで、北條六郎時定を差して、大手の大將軍と爲(な)す。時定、車排(くるまならべ)を撤(てつ)せしめ、旗を揚げて塔の辻より馳せ逢ふ。相ひ從ふの輩(やから)、雲霞のごとし。諏方兵衞入道蓮佛、無雙(ぶさう)の勳功を抽(ぬき)んづ。信濃四郎左衞門尉行忠、殊に勝負を決し、分取(ぶんどり)を獲(え)たり。凡そ泰村、郎從精兵等を、所々の辻衢(つじちまた)に儲(まう)け、矢石(しせき)を發(はな)つ。御家人も又、身命(しんみやう)を忘れて、責め戰ふ。巳の尅、毛利藏人大夫入道西阿、甲冑を著し、從軍を卒して、御所へ參らんが爲に、打ち出づるの處、彼(か)の妻〔泰村が妹。〕、西阿の鎧の袖を取りて云はく、

「若州を捐(す)て左親衞の御方へ參ずるの事は、武士の致す所か。甚だ年來(としごろ)の一諾(いちだく)に違へ訖んぬ。盍(なん)ぞ後聞を耻ぢざらんや。」

てへれば、西阿、此の詞(ことば)を聞きて、退心を發(おこ)し、泰村が陣に加はる。

 時に甲斐前司泰秀が亭は、西阿が近隣なり。泰秀は御所へ馳せ參ずるの間、西阿に行き逢ふと雖も、諍(いさか)ひ留(とど)むるに能はず。是れ、親昵(しんじつ)の好(よし)みを存(ぞん)ずるに非ず。且つは泰村に與同(よどう)の本意を却(しりぞ)けずして、一所に於いて追討を加へんが爲なり。尤も武道に叶(かな)ひ、情、有りと云々。

萬年馬入道、左親衞の南庭に馳せ參じ、騎馬せしめ乍ら、申して云はく、

「毛利入道殿、敵陣に加られ訖んぬ。今に於いては世の大事、必然か。」

と。左親衞、此の事を聞き、午の刻、御所に參ず。將軍の御前に候ぜられ、重ねて奇謀を廻らさる。折節、北風が南に變るの間、泰村の南隣りの人屋(じんをく)に於いて火を放つ。風、頻りに扇(あふ)ぎ、煙、彼の館を覆ふ。泰村幷びに伴黨(ばんたう)、烟(けぶり)に咽(むせ)び、館(たち)を遁(のが)れ出でて、故右大將軍の法華堂に參籠す。舍弟能登守光村者は永福寺惣門内に在りて、從兵八十餘騎で陣を張る。使者を兄泰村が許(もと)に遣はして云はく、

「當寺は殊に勝る城郭たり。此の一所に於いて、相ひ共(とも)に討手を待たるべし。」

と云々。

泰村、答へて云はく、

「縱(たと)ひ鐵壁の城郭有ると雖も、定めて今、遁れ得ざらんか。同じくば、故將軍の御影(みえい)の御前に於いて終(つい)を取らんと欲す。早く、此の處へ來會すべし。」

と云々。

專使、互ひに一兩度たりと雖も、縡(こと)、火急の間、光村、寺門を出でて法花堂へ向ひ、其の途中に於いて一時、合戰す。甲斐前司泰秀が家人幷びに出羽前司行義、和泉前司行方等(ら)、之れを相ひ支(ささ)ふるに依つてなり。兩方の從軍、多く疵を被(かうむ)ると云々。

光村終(つい)に件(くだん)の堂に參ず。然る後、西阿・泰村・光村・資村幷びに大隅前司重隆・美作前司時綱・甲斐前司實景・關左衞門尉政泰以下、繪像(ゑざう)の御影(みえい)の御前に列候(れつこう)し、或いは往時を談じ、或ひは最後の述懷に及ぶと云々。

西阿は專修(せんじゆ)念佛者なり。諸衆を勸請(くわんじやう)し、一佛浄土の因を欣(ねが)はんが爲、法事讚(ほふじさん)を行ひ、之れを廻向(ゑかう)す。光村、調聲(てうしやう)たりと云々。

左親衞が軍兵、寺門に攻め入り、石橋を競ひ登る。三浦の壯士等、防ぎ戰ひ、弓劔(きゆうけん)の藝を竭(つく)す。武藏藏人(くらうど)太郎朝房(ともふさ)、責め戰ひて大功有り。是れ、父朝臣義絶の身たり。一(いつ)も有情(うじやう)の相ひ從ふ無し。僅かに疲馬に駕する許りなり。甲冑を著せざる間、 輙(たやす)く討ち取らんと欲するの處、金持(かねもちの)次郎左衞門尉〔泰村が方。〕に扶(たす)けられ、其の命を全うすと云々。

兩方、挑み戰ふ者、殆んど三刻を經るなり。敵陣、箭(や)、窮まり、力、盡く。而して泰村以下、宗(むねと)たるの輩、二百七十六人、都合、五百余人自殺せしむ。此の中(うち)、幕府の番帳を聽(ゆる)さるるの類、二百六十人と云々。

次いで壹岐前司泰綱・近江四郎左衞門尉氏信等、仰せを承り、平内左衞門尉景茂を追討せんが爲、彼(か)の長尾の家へ行向い、時の聲を作るの處、家主父子は、法華堂に於いて自殺し訖りて、敢へて防戰に人無し。仍つて各々空しく轡(くつばみ)を廻らす。但し、子息四郎景忠に行き逢ひ、之れを生虜(いけど)り、持參すと云々。

甲冑の勇士等(ら)十餘騎、壹岐前司の行路を塞ぎ、先登を諍ふの間、泰綱、其の名字を問ふと雖も、敢へて返答に能はず。而るに景茂等所在せ不に依つて、合戰の儀無し。剩へ彼の勇士、名謁(なのり)乍ら、逐電すと云々。

申の刻、死骸を實檢せらるるの後、飛脚を京都に進ぜられ、御消息二通を六波羅の相州〔北條重時。〕に遣はす。一通は奏聞(そうもん)、一通は近國守護地頭等(ら)へ下知せしめんが爲なり。又、事書(ことがき)一紙、同じく相ひ副へらるる所なり。左親衞、御所の休幕(きうばく)に於いて之れを申し、沙汰せらる。其の狀に云はく、

『若狹前司泰村・能登前司光村以下舍弟一家の輩、今日、巳の尅、已に箭(や)を射出すの間、合戰に及びて、終(つひ)に其の身以下一家の輩及びに餘黨等、誅罰せられ候ひ畢んぬ。此の趣きを以つて、冷泉太政大臣殿〔久我通光。〕に申し入れ令め給ふべく候。恐々謹言。

   六月五日   左近將監

  謹上  相摸守殿』

『追啓〔禮紙(らいし)申狀(まうしじやう)に云ふ。〕。

 毛利入道西阿、不慮に同心せしむるの間、誅罰せられ畢んぬ。

若狹前司泰村、能登前司光村幷びに一家の輩餘黨等、兼日に用心せしむるの由、其の聞へ有るの間、用意せられ候ふ處、今日〔五日巳の剋。〕、箭を射出しせしむる間、合戰に及ぶ。其の身以下、一家之輩餘黨等、誅罰せられ訖んぬ。各々此の旨を存じ、馳せ參ずべからず。且つは又、近隣に相ひ觸るべきの由、普(あまね)く西國の地頭・御家人に下知せしめ給ふべきの狀、仰せに依つて、執達(しつたつ)、件(くだん)のごとし。

   六月五日   左近將監

  謹上  相摸守殿』

「事書」に云はく、

『一 謀叛の輩の事。

 宗(むねと)たる親類兄弟等は、子細に及ばず、召し取らるべし。其の外、京都の雜掌、國々の代官所從等の事は、御沙汰に及ばずと雖も、委(くは)しく尋ね明らめ、注し申すに隨ひて、追つて御計(はから)ひ有るべし。』

てへり。

 

禁欲的に注する。

・「辰の刻」午前八時頃。

・「上計」お上(将軍頼嗣)のお考え。

・「貴殿を誅伐せらるべきの構へに非ざるか。」この「か」は係助詞の文末用法(或いは終助詞)で自問を含んだ詠嘆である。「貴殿を誅伐なさろうなどというような心積もりでは毛頭あられませぬのですなぁ。」

・「日來(ひごろ)のごとく、異心有るべからず。」「普段通り。疑心など毛頭あろうはずは、ない。」

・「御誓言」神文(しんもん)に添えて誓った誓約のこと。

・「猶ほ出居(でゐ)に在り」応対した客間から動かなかったのである。激しい精神的ストレスを経て、突然、安堵した結果、全身脱力し、腰も立たなかったものであろう。

・「驕りを窮め、益々當家を蔑如するの時」になってから「憖(なまじ)ひに對揚の所存を顯は」()したのでは、もう遅過ぎであって、「還へつて殃(わざわひ)に逢ふ」、こっちが赤子の手をひねるように簡単に滅ぼされてしまうぞ!

・「宮中」鶴岡八幡宮寺境内の内(うち)。「みやうち」と仮に訓じておく。

・「盛阿歸參以前」この「歸參」は後に出るように、幕府の執権時頼に報告するために向かうことを指す。

・「車排(くるまならべ)」ここは牛車や輿などの車置き場であろう。

・「暴疾」即座にむごたらしく殺されることの意であろう。

・「車排(くるまならべ)を撤(てつ)せしめ」先の車置き場から牛車や輿を片付けて、実戦本部に仕立てたものか。

・「分取(ぶんどり)を獲(え)たり」敵の首級を幾つも捕った。

・「巳の尅」午前十時頃。

・「若州」若狭守で三浦泰村のこと。既に注した通り、西阿の妻の兄である。

・「年來の一諾」普段からいつも約束していたこと。

・「盍ぞ後聞を耻ぢざらんや」ゆくゆく起こるであろうところの親族を裏切ったという蔭口をあなたは恥じるところがないのですか?

・「諍(いさか)ひ留むるに能はず。是れ、親昵(しんじつ)の好(よし)みを存(ぞん)ずるに非ず。且つは泰村に與同(よどう)の本意を却(しりぞ)けずして、一所に於いて追討を加へんが爲なり。尤も武道に叶(かな)ひ、情、有り」難解な部分である。甥であった長井泰秀は『議論を尽くして、叔父西阿が三浦につくというのをやめさせることはどうしても出来なかった。親族であるという好(よし)みであるから当然、そうするのが普通と考えるかもしれない。しかし、そうではない。寧ろ――彼が三浦について三浦と同心し、結局、それを私が追討する――それを、せねばならぬ、それが定めだ――という思いが深く起ったためである。それこそが――最も武士(もののふ)の道に適っており、私だけではなく、西阿にとっても、人としての「情け」というものに合致するものだ――という意識が沸き起こったからだ』という風に私は読む。……しかし、である。

……西阿は本当に、妻の一言で発心するように、鮮やかに三浦への同心を定めたのだろうか?

彼はそれまでの事蹟から見ても、鎌倉幕府内での状況を十全に把握していたと私は思うのである。

さればこそ、ここに至る遙か以前に、三浦を滅ぼす謀略が時頼―安達ラインの中で、粛々と計画され、順調に謀議されていたことも知尽していたもと考えるのが自然である。

さすれば、西阿は、あらゆる状況から考えて、

この日、三浦が滅ぼされるであろうことも予見していた

と推理していたと考えるのが自然である。

さればこそ、

彼は何の躊躇もなく、幕府方へつくために家を出ようとしたのである。そこでの妻の恨み言なんぞはとうに既に想定していたと考えるのは「当たり前だのクラッカー」でこそあれ、百八十度、決心を変える契機などにはなりはしなかったはずだ、と私は思う

のである。

しかしである。

事実、彼は突如、翻意するのである。

それは何故か?

……私はまさにこの甥の泰秀と邂逅した瞬間こそ、その決意が固まった瞬間だったのではなかったか? と考えたい

のである。

……この時まで西阿は迷っていた。……そうして甥が自分と同じく、何の迷いもなく、当然の如く、時頼方に馳せ向かうのに行き逢ったその時……

……その時……

西阿には――亡き長兄のことが――フラッシュ・バックしたのではなかったろうか?

と私は考えるのである。

彼の兄である大江広元の長男大江親広(?~仁治二(一二四二)年)は源頼家や実朝の側近として重用され、建保七(一二一九)年の実朝暗殺後に出家、同年に京都守護となるも、その直後に起った承久の乱では後鳥羽上皇に從って、北条泰時軍と戦い、敗れて後、出羽寒河江(さがえの)荘(現在の山形県西村山郡西川町内)に遁れ、そこで不遇のうちに亡くなったとされる。彼の法名は蓮阿であり、西阿と同じく、浄土宗の信者であったことは最早、疑いない(父広元が嘉禄元(一二二五)年に逝去した際には息子の佐房に使いとして送り、阿弥陀如来尊像を彫刻させて、胎内に広元の遺骨を納めて寒河江荘の阿弥陀堂に安置したともウィキの「大江親広にはある。阿弥陀である。彼は間違いなく、念仏宗なのである)。

……とすれば……

……彼、西阿は――「……次は私の番だ……」――と考えたのではなかったか?

……兄が大江の血筋を意識しながらも(但し、親広は強力な親幕派公卿であった源通親の猶子となって源親広と称してはいた)、後鳥羽上皇方についたのは、王家(天皇)に弓引くことなく従ったという点に於いて、それこそ「武士(もののふ)」のあるべき姿であったし、しかも同じ念仏の信仰者でもあったのだった。

……ここで、大江の血を繋げる甥泰秀が幕府へ当然に馳せ参じるの見た時――西阿は、

「……彼がいる……彼が大江の血として華やかに、残るのだ。……私は……私は兄のように……そうして、妻の言う……「武士(もののふ)」の正しき行いとして……負けることの分かっている三浦に――つこう。……そうして……亡びゆく彼らを……兄が父にしたように……「念仏」を以って浄土に引導する役目を……果たそう。……」

と決したのではなかろうか? さらに言えば、この「吾妻鏡」の記載者が前に述べた通り、泰秀の孫長井宗秀であれば、そうした大江一族の思いをここの描写で秘かに代弁しようとしたとしても、少しもおかしくない、と私は思うのである。

・「毛利入道殿」毛利季光、西阿のこと。

・「午の刻」正午頃。

・「伴黨(ばんたう)」それに従う一党。

・「相ひ支ふる」進行を遮った。

・「法事讚(ほふじさん)」浄土教の開祖である唐の僧善導の著。「浄土法事讃」とも称する。「阿弥陀経」と讃文とを交互に掲げ、懺悔供養などの法式を明らかにしたもの。ここはその中の幾たりかの経と讃とを唱和したものであろう。

・「調聲(てうしやう)」読経の際の音頭を執ること。

・「石橋」「しやくけう(しゃっきょう)」と読みたい。

・「武藏藏人太郎朝房」北条時房の子朝直(ともなお 建永元(一二〇六)年~文永元(一二六四)年)の長男(らしい)北条朝房(?~(一二九五)年)。この時は事実、義絶されていたようだが、この宝治合戦でのこの功績によって許され、後には九州方面で守護を勤めているようである。

・「父朝臣義絶の身たり」「朝臣」は「朝直」の誤字であろう。北条朝直はウィキの「北条朝直によれば、『時房の四男であったが長兄時盛は佐介流北条氏を創設し、次兄時村と三兄資時は突然出家したため、時房の嫡男に位置づけられて次々と出世』したものの、正室が伊賀光宗の娘で、貞応三(一二二四)年六月に起った伊賀氏の変(第二代執権北条義時の死去に伴って伊賀光宗とその妹で義時の後妻(継室)であった伊賀の方が伊賀の方の実子北条政村の執権就任と娘婿の一条実雅の将軍職就任を画策して未遂に終わった政変)で『光宗が流罪となり』、嘉禄二(一二二六)年二月には、『執権北条泰時の娘を新たに室に迎えるよう父母から度々勧められる』も、二十一歳で『無位無官の朝直は愛妻との離別を拒み、泰時の娘との結婚を固辞し続け』、『翌月になっても、朝直はなおも執権泰時、連署である父時房の意向に逆らい続け、本妻との離別を哀しむあまり出家の支度まで始めるという騒動になっている。その後も抵抗を続けたと見られるが』、五年後の寛喜三(一二三一)年四月、『直の正室である泰時の娘が男子を出産した事が『吾妻鏡』に記されている事から、最終的に朝直は泰時と時房の圧力に屈したと見られる』。『北条泰時から北条政村までの歴代執権に長老格として補佐し続けたが寄合衆にはついに任じられなかった』とある。そのトンデモ父から勘当(「義絶」)されているというのだから(理由は不明)、ちょっと凄い。

・「一(いつ)も有情(うじやう)の相ひ從ふ無し」(前注の通りの我儘から総スカンを喰らっていた朝直の、その息子なれば)意気に感じて彼に助力してやろうと従う者は誰一人としていない。

・「輙(たやす)く討ち取らんと欲するの處、金持(かねもちの)次郎左衞門尉〔泰村が方。〕に扶(たす)けられ、其の命を全うす」何とも情けないのは、敵方の三浦から見ても鎧もつけずに、馬も瘦せ馬で、ドン臭い奴だから、容易に討ち取れると思われていたところが、何とまあ、その当の敵方であるところの「金持次郎左衞門尉」が、あんまりだ、とお情けで、命をとらずに、見逃してやった結果、命拾いした、というのである。「平家物語」以来の軍記物風書き物の特徴であるところの、哄笑を忘れぬ配置と言える。朝房はよっぽど嫌われていたものと見えるが、ここまで笑いものとするのは、ちと理不尽な気はする。

・「三刻」約一時間半。

・「宗(むねと)」三浦方についた主だった家長に属する代表者とその直系一族。

・「幕府の番帳を聽(ゆる)さるるの類」幕府に出仕する高級・中堅職員として、出仕記名名簿への記帳を許可されている(義務づけられている)御家人であろう。

・「平内左衞門尉景茂」長尾景茂(?~宝治元(一二四七)年)。ウィキの「長尾景茂」によれば、『公暁を討った長尾新六定景の嫡男として生まれる。長尾家は当時三浦氏の郎党であった。三浦氏は北条氏の外戚として勢威を振るっていたが』、この宝治合戦で『景茂らも自刃した。長尾一族はほとんど絶え、生き残りは景茂の子である景忠(四郎)など、わずかであったという』とあるが、一応、没年には表記通り「?」が附されている。実は一族自刃後の遺体は損傷が激しく(識別不能とするための意図的なものと考えられる)、遺体の同定は困難を極めたらしい。さればこそ、「吾妻鏡」も最後に「缺落(かけおち)、或は逐電」と記して厳重に探索しているのである。

・「子息四郎景忠に行き逢ひ、之れを生虜(いけど)り、持參す」とあり、殺したとは書いていない。恐らくは末子で少年だったのであろう。彼ぐらいは生き残らせたい気がする。

・「甲冑の勇士等十餘騎、壹岐前司の行路を塞ぎ、先登を諍ふの間、泰綱、其の名字を問ふと雖も、敢へて返答に能はず。而るに景茂等所在せざるに依つて、合戰の儀無し。剩へ彼の勇士、名謁(なのり)乍ら、逐電す」この連中、実に怪しい。三浦の残党の生き残りが、それこそ駆落・逐電するため、或いは誰かを逃がすために演じた、一芝居だった可能性も拭えない気がする。「吾妻鏡」筆者、これ、最後の最後に、実に美事な謎、サスペンスを仕掛けてある気がする。

・「申の刻」午後四時頃。

・「北條重時」(建久九(一一九八)年~弘長元(一二六一)年)は第二代執権北条義時三男で第三代執権泰時は異母兄。六波羅探題北方や鎌倉幕府連署などの幕府要職を歴任した。

・「奏聞」朝廷への上奏文。

・「休幕」幕を廻らした休憩に設けられた場所らしい。

・「巳の尅」午前十時頃。

・「久我通光」(こがみちてる 文治三(一一八七)年~宝治二(一二四八)年)は公卿。従一位太政大臣。ウィキの「久我通光によれば、『内大臣源通親の三男であるが、後鳥羽天皇の乳母・藤原範子所生のため嫡男の扱いを受けることになった。範子の連れ子で異父姉の承明門院が土御門天皇を生んでいる。一般的には久我家の祖と考えられて』おり、歌人としても知られ、『新三十六歌仙の一人』である。正治三(一二〇一)年に『公卿となり、異母兄堀川通具を越して昇進し、兄が任ぜられなかった右近衛大将を経て』建保七(一二一九)年には『内大臣に任じられる。承久の乱の折に後鳥羽上皇の皇子・雅成親王の義父だった事から、鎌倉幕府から恐懼に処せられ籠居を命じられる。だが、その後も密かに隠岐国の後鳥羽上皇と連絡を取り合っていたと言われている。後に後嵯峨天皇の大叔父として、弟の土御門定通とともに権勢を振るい』、寛元四(一二四六)年、『西園寺実氏の後に従一位太政大臣に昇った』。『公卿に任ぜられた年と同年、歌合(「千五百番歌合」)への参加を許されて』、「新古今和歌集」などの『勅撰和歌集に収められるなど当代を代表する歌人の一人でもあり、また琵琶に優れていたなど才気に溢れた人物として知られた』とある。

・「左近將監」北条時頼。

・「相摸守」北条重時。

・「追つて啓す」追伸の敬意表現。

・「禮紙」「点紙」「裏付」とも称し、書状の本文に添えて、同質の紙を重ねて出したもので、通常は白紙であったが、このように追伸をに及んだものも稀にあり、これはその特異例のようである。

・「兼日」「兼ねての日」の音読みで、あらかじめ、日頃、以前から、の意。

・「馳せ參ずべからず」(既に事態は収束したのであるから)今から鎌倉に馳せ参ずるようなことは全く以って必要ないし、してはならぬ。

・「仰せ」頼嗣将軍の命令。

・「雜掌」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条の現代語訳に、『三浦家京都出張所在留の雑務人』とある。同ページには宝治合戦関連の地図も載り、必見である!

・「國々の代官所從等の事」同じく「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条の注によれば、『三浦家が守護地頭をしていた国々』にいる、その代官や家来らの処遇を指す。

・「御沙汰に及ばずと雖も、委しく尋ね明らめ、注し申すに隨ひて、追つて御計ひ有るべし」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条の現代語訳に、『命令は出て居なくても、詳しく調べて明らかにし、書き出された文書によって、後で処理を指図』する、とある。]

原民喜「かげろふ断章」より「昨日の雨」

[やぶちゃん注:「かげろふ断章」(内部中標題「昨日の雨」「断章」「散文詩」から構成)は原民喜の死後に刊行された、昭和三一(一九五六)年刊青木文庫版「原民喜詩集」を初出とする。底本の青土社版「原民喜全集 Ⅲ」には、原民喜自身による以下の「後記」が途中(詩篇「回想」の後。編者解説によれば、同全集Ⅲの詩篇の配列は原民喜自身が構成したノートの配列に拠っているとある)に入る(以下、読む通り、この「後記」が書かれたのは昭和一六(一九四一)年である。従って恣意的に正字化して示すこととした)。

   *

後記 ここに集めた詩は大正十二年から昭和三年頃のものであるが、その頃のありかは既に陽炎の如くおぼつかない。今これらの詩を讀返してみるに一つ一つの斷章にゆらめくものがまた陽炎ではないかと念へる。附錄の散文詩は昭和十一年の作である。

昭和十六年九月二日、空襲避難の貴重品を纏めんとして、とり急ぎ淸書す。

   *

「讀返」(底本は「読返」)はママ。「大正十二年から昭和三年頃」は民喜は十八歳から二十三歳。なお、これは空襲避難のための事前準備であるので注意されたい。調べたところ、東京に初めて空襲警報発令されたのは翌昭和十七年三月五日で、本格的な日本本土空襲であるドゥリットル(指揮官であった中佐の名)空襲(米陸軍機B-25十六機による東京・名古屋・神戸などでの初空襲)は同年四月十八日のことである。

 この民喜の記載から、詩篇も総て戦前のものであり、清書も戦中であることが明白である。されば、標題を除き(この標題の決定と記載は必ずしも戦中以前とは確定し難いからである)、総ての詩篇を恣意的に正字化することとした。]

 

昨日の雨

 

 散歩

 

誰も居てはいけない

そして樹がなけらねば

さうでなけられば

どうして私がこの寂しい心を

愛でられようか

 

[やぶちゃん注:「なけらねば」はママ。]

 

 

 

 蟻

 

遠くの路を人が時時通る

影は蟻のやうに小さい

私は蟻だと思つて眺める

幼い兒が泣いた眼で見るやうに

それをぼんやり考へてゐる

 

 

 

 机

 

何もしない

日は過ぎてゐる

あの山は

いつも遠いい

 

[やぶちゃん注:「遠いい」はママ。]

 

 

 

 四月

 

起きもしない

外はまばゆい

何だか靜かに

失はれてゆく

 

 

 

 眺望

 

それは眺めるために

山にかかつてゐたが

はるか向うに家があるなど

考へてゐると

もう消えてしまつたまつ白のうす雲だ

 

 

 

 遅春

 

まどろんでいると

屋根に葉が搖れてゐた

その音は微けく

もう考へるすべもなかつた

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「微けく」は「かそけく」と読む。]

 

 

 

 夏

 

みなぎれる空に

小鳥飛ぶ

さえざえと晝は明るく

鳥のみ動きて影はなし

 

 

 

 川

 

愛でようとして

ためいきの交はる

ここの川邊は

茫としてゐる

 

 

 

 川

 

川の水は流れてゐる

なんといふこともない

來てみれば

やがて

ひそかに歸りたくなる

 

 

 

 小春日

 

樹はみどりだつた

坂の上は橙色だ

ほかに何があつたか

もう思ひ出さぬ

ただ いい氣持で歩いてゐた

 

 

 

 秋空

 

一すぢの坂は遙けく

その果てに見る空の靑さ

坂の上に空が

秋空が遠いい

 

[やぶちゃん注:「遙」の用字は底本のもの。「遠いい」はママ。]

 

 

 

 遠景

 

幼いのか

山はひらたい

ぼつちりと

陽が紅らんだ

 

 

 

 冬

 

こはれた景色に

夕ぐれはよい

色のない場末を

そよそよと歩けば

 

 

 

 波紋

 

すべてはぼんやりとした

ぼんやりとして空も靑い

水の上の波紋はかすか

すなほなる想ひに耽ける

 

 

 

 愛憐

 

ひつそりと 枝にはじけつ

はじけつ

空に映れる

靑める雪は

 

 

 

 月夜

 

雲や霧が白い

ほの白い

路やそして家も

ところどころにある

 

 

 

 淡景

 

淡い色の

たのしみか

そのままに

樹樹は並んだ

 

 

 

 疲れ

 

雪のなかを歩いて來た

まつ白な路を見て

すやすやしながら

大そう うつかりしてゐた

 

 

 

 京にて  ――悼詩

 

眺めさせや

甍の霜

夢のごとおもひつつ

この霜のかくも美(は)しき

 

 

 

 春望

 

つれづれに流れる雲は

美しさをまして行く

春陽の野山に

今日は來て遊んだ

 

 

 

 旅懷

 

山水の後には

空がある

空は春のいたるところに

殘殘と殘されてゐる

 

 

 

 山

 

影こそ薄く

思ひは重し

霞のなかの山なれば

山に隱るる山なれば

 

 

 

 梢

 

ふと見し梢の

優しかる

みどり煙りぬ

ささやかに

 

 

 

 雲

 

私の一つ身がいとしい

雲もいとしい

時は過ぎず

うつうつと空にある

 

 

 

 川の斷章

 

  1

 

川に似て

音もない

川のほとり

川のほとりの

 

  2

 

空の色

寂び異なるか

水を映して

水にも映り

 

  3

 

思ひは凍けて

川ひとすぢとなる

 

  4

 

遠かれば

川は潛むか

流るるか

悠久として

 

  5

 

現世(うつしよ)の川に

つながるものの

現世の川に

ながれゆくもの

 

 

 

 海

 

ねむれるにあらずや

仄かにしたはしき海

たまきはる命をさなく

我はまことになべてを知り得ず

 

 

 

 五月

 

遠いい朝が來た

ああ 綠はそよいでゐる

晴れ渡つた空を渡る風

なにしに今日はやつて來たのだ

 

 

 

 白帆

 

あれはゆるい船だが

春風が麦をゆらがし

子供の目にはみんな眩しい

まつ白な帆が浮んでゐる

 

 

 

 偶作

 

旅に來て

日輪の赤らむのを見た

朝は田家の霜に明けそめて

磯松原が澄んでゐる

一色につづく海が寒さうだ

 

 

 

 春雨

 

雨は宵に入つてから

一層 靜かであつた

床についてからは

降るさまがよく描かれた

 

 

 

 冬晴

 

冬晴の晝の

靑空の大きさ

電車通りを

疲れて歩く

 

 

 

 春の晝

 

日向ぼこにあきて

家に歸らうとすると

庭石の冷たさがほろりとふれた

ひつそりとして障子が見える

 

 

 

 四月

 

晝は殘いねむりのなかに

身を微かなものと思ひつつ

しばらくは鳥の音も聽かぬ

そよ風の吹く心地して

 

 

 

 花見

 

櫻の花のすきまに

靑空を見る

すると ひんやりしてゐるのだ

花がこの世のものと思はれない

 

 

 

 靑葉

 

朝露はいま

滴り落ちてくる

いたづらに樹を眺めたとて

空の靑葉は深深としてゐる

 

 

 

 ねそびれて――熊平武二に

 

障子がぼうと明るんでゐる

廊下に出て見給へ

あんな優しい光だが

どこか鋭い

 

[やぶちゃん注:「熊平武二」(くまひらたけじ 明治三九(一九〇六)年~昭和三五(一九六〇)年)は詩人。広島市生まれ。民喜の級友で、学歴も広島高等師範学校附属小学校・中学校から慶応義塾大学と全く同じである。 一六、七才の頃からら詩作を始め、北原白秋に認められ、昭和一五(一九四〇)年に詩集「古調月明集」を出版している。大正一二(一九二三)年、民喜(十八歳)が参加した同人誌『少年詩人』の同人でもあり、翌年に始まる民喜の句作は熊平の影響による。]

 

 

 

 昨夜の雨

 

靑くさはらはかぎりもない

空にきく雲雀の聲は

やがて淋しい

 

うらうらと燃えいでる

昨日の雨よりもえいでる

陽炎が濃ゆく燃えいでる

 

[やぶちゃん注:ここに彼が転生する「雲雀」が既にして登場することに注目されたい。]

 

 

 

 卓上

 

牡丹の花

まさにその花

力なき眼に

うつりて居る

 

 

 

 旅の雨

 

雨にぬれて霞んでゐる山の

山には山がつづいてゐる

眞晝ではあるし

雨は一日降るだらう

 

 

 

 靑空

 

うつろにふかき

ながまなこ

ただきはみなくひろがりて

かなしきものをかなしくす

 

 

 

 小曲

 

人に送る想ひにあらず

蓮の花浮べし池は

なみなみと水をたたへつ

小波と風のまにまに

 

 

 

 冬の山なみ

 

けふ汽車に乘つて

山を見る

中國の山脈のさびしさ

都を離れて山を見る

山が山にかさなり

冬空はやさしきものなり

2016/03/23

北條九代記 卷之八 將軍家御臺逝去 付 左近大夫時賴泰村が館を退き歸る 竝 時賴泰村和平

      ○將軍家御臺逝去

         左近大夫時賴泰村が館を退き歸る

         時賴泰村和平

さる程に、左近大夫時賴は、如何にもして、泰村が野心を宥(なだ)め、世を靜めばやと思はれければ、先づ泰村が次男、駒石丸(こまいしまる)を時賴の養子たるべき旨、約諾あり。されども、泰村愈(いよいよ)兄弟獨歩(どくぼ)の威(ゐ)を施し、將軍家の嚴命を用ひず、無禮にして、奢(おごり)に長じ、兄弟一族等(ら)が振舞、諸人、彈指(つまはじき)をぞ致しける。かゝる所に、去ぬる五月十三日、將軍賴嗣の御臺所、卒(そつ)したまふ。日比、御惱(なやみ)重かりければ、大法祕法、醫針灸治(いしんきうぢ)、樣々術(じゆつ)を盡すといへども、更にその驗(しるし)なく、終に、はかなくなり給ふ。今年まだ十八歳、花の僅(わづか)に綻(ほころ)びて、盛(さかり)を待つだに遙(はるか)なるを一朝の嵐(あらし)に散落ちて、憂き世の歎(なげき)を殘し給ふ。故武藏守経時の墓の傍(かたはら)に埋み奉りけるこそ悲しけれ。御一族の愁傷は申すも中々愚(おろか)なり。時賴、御輕服(ごけいふく)にて、若狹前司泰村が亭に寄宿し給ふ。同二十七日に至(いたつ)て、三浦の一族殘(のこり)なく、泰村が家に群集(つどひあつ)る。時賴の御前に、伺候(しこう)するにもあらず、拜禮を遂(とぐ)るにもあらで、奥深く居寄(ゐよ)せて、額(ひたひ)を合せて、私評(さゝやき)けるこそ覺束(おぼつか)なけれ。夜に入りて、鎧(よろひ)、腹卷(はらまき)の音、耳もとに聞えけり。日比、逆心の企(くはだて)有る由、告知(つげしら)する人多しといへども、差(さし)て信用なきの所に、今、既に符合せりと思合(おもひあは)せ、侍一人に太刀を持(もた)せ、潛(ひそか)に本所に歸り給ふ。泰村、大に驚き、寢食を忘れて案居(あんじゐ)たり。翌日、夜に入りて、時賴の方より、近江〔の〕四郎左衞門尉を使として三浦が許に遣(つかは)され、氏信、行向(ゆきむか)うて伺見(うかゞひみ)るに、若狹前司親類一族、面々に兵具を用意し、弓矢、旗棹(はたざを)、鎧櫃(よろひびつ)、數を盡して竝べたり。氏信、かくと案内しければ、泰村、出合ひて、仰(おほせ)の旨を承り、さて御返事と思しくて、申しけるは、「この間、世上物騷(ぶつさう)の事、泰村が身の上と覺え候。泰村が兄弟、皆、他門の宿老に越(こえ)て、正五位〔の〕下に叙せられ、その外の一族共(ども)、大概は官位を帶(たい)し、守護職數ヶ國、莊園數千町、三浦一家の榮運、こゝに極り、上天の加護、測難(はかりがた)し。讒訴(ざんそ)の愼(つゝしみ)なきに非ず。口惜くこそ候へ」といひければ、氏信、聞きて、「如何に、左樣には思召し候やらん。御料(おんとが)なき趣(おもむき)は、靜に申させ給ふべし。御一族の御中に、何か隔(へだて)の候べき」とて座を立ちて出でければ、泰村、送りて出られ、「宜しきやうに申させ給へ」とて内に入りけり。氏信、歸りて、用意の次第、悉く申入れたり。時賴は舊老の輩(ともがら)に密談して、愈(いよいよ)用心嚴(きびし)くぞせられける。翌日未明(びめい)より、近國の御家人等(ら)、馳參(はせさん)じて、時賴の館(たち)の四方、雲霞の如く打圍(かこ)み、非常を誡(いまし)め、門々を堅めて、守護しけり。若狹前司泰村、この由を聞きて、時賴の方へ使を立てて申しけるは、閭巷(りよかう)の謳歌、他人の讒濫(ざんらん)に付けて、泰村が一家親屬(しんぞく)、無實の科(とが)を蒙る事、恐(おそれ)なきにあらず。毛頭(まうとう)の野心を存せずといへども、催(もよほ)し給ふ所、頗(すこぶ)る物騷(ぶつさう)なり。只深く本(もと)を正(たゞ)され候べし。御不審、晴れられ候はば、國々の御家人等を、追返し給ふべきなり。若(もし)、又、他の上を誡(いまし)めらるべき事あらば、御大事、如何にも貴命(きめい)に隨ひ奉るべき旨をぞ、申し送りける。泰村、内々相催す事あるに依て、三浦の一族、諸国の領所より、追々に馳參る。時賴の御方には、當時、伺候の輩は云ふに及ばす。諸方の御家人等、日を追ひて參重(まゐりかさな)りて、鎌倉中に充滿す。同五日、時賴は、萬年馬(まんねんうまの)入道、平左衞門入道盛阿(じやうあ)を以て、御書を泰村に遣さる。「世上の物騷、只事にあらず。偏(ひとへ)に天魔の所爲(しよさ)なるべし。貴殿を誅伐(ちうばつ)せしむべき構(かまへ)あるの由、更に非據(ひきょ)の雜説(ざふせつ)なり。この上は、日來(ひごろ)、別心あるべからず。今、何ぞ、怨を起すべきや」とて誓言(せいごん)を加へて送られけり。盛阿入道、和平の子細を述(のべ)しかば、泰村は御書を讀みて喜悦の餘(あまり)、三度頂戴して、返事の趣、具(つぶさ)に申渡(まうしわた)しければ、和平、既に調ひ、盛阿、座を立ちて歸參しけり。三浦の郎従等は安堵の思(おもひ)を致して、喜ぶ事、限(かぎり)なし。然れども、泰村が舍弟光村、家村、彌(いよいよ)心奢(おご)りて野心を捨(すつ)る事なし。運命の招く所、力及ばぬ次第なりと眉を顰(ひそ)むる計(ばかり)なり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十八の宝治元(一二四七)年五月六日・十三日・二十一日・二十七日・二十八日、六月一日・二日・三日・四日・五日などに基づく。

「駒石丸」結局、宝治合戦で自刃しているようである。

「將軍賴嗣の御臺所」第五代将軍藤原頼嗣の正室であった檜皮姫(ひわだひめ 寛喜二(一二三〇)年~宝治元(一二四七)年)。北条泰時長男であった北条時氏の娘で母は松下禅尼。北条経時・時頼の妹であった。この二年前の寛元三(一二四五)年七月二十六日、十五歳で六歳の新将軍頼嗣の正室として嫁がさせられている。ウィキの「檜皮姫」によれば、『この婚姻成立によって、頼経の正室・竹御所の死後に失われた北条氏の将軍家外戚の地位を復活させた』とあるが、『時頼が執権職を継いで将軍派との対立が激化する中、檜皮姫は病床に伏し、加持祈祷の甲斐なく』死去したとある。当時の頼嗣は未だ満七歳の少年である。

「故武藏守経時の墓の傍(かたはら)に埋み奉りける」将軍家正室とはいえ、実際には未だ少女で処女であったろうから、別格である泰時以外に強い血縁者の墳墓がなく、兄の墓に側墓されたものであろう(何となくでも確かに「悲しけれ」という感じがする)。その墓所も今や失せているから(恐らくは現在の鎌倉文学館のある谷戸と推定される)……

「輕服(けいふく)」正しくは「っきやうぶく(きょうぶく)」と読む。通常は遠縁の者などの死去によって生ずる軽い服喪、及び、その期間中に着用する略式の喪服を指す。既に述べた通り、檜皮姫は時頼の妹であって近親であるが、そこは将軍家の正室という格の相違が働き、厳重に服喪するのは却って分不相応であったものかも知れない。

「若狹前司泰村が亭に寄宿し給ふ」時頼の、この見え透いた行動こそが、私が時頼を生理的に嫌いな理由の核心にある。ここでは数日間、時頼が三浦邸にいたように読めるが、「吾妻鏡」によれば、寄宿しに入ったのは五月二十七日で、その日の夜のうちに、逃げ出しているのである。

「腹卷」勘違いしてはいけない。これは鎧の一種で、最も簡便にして軽量な造りでありながら腹部が細くなって身体に密着し、腰から下を防御する草摺も細かく分かれて、足の自由が大鎧等に比べて、各段によく、白兵戦に適合した動き易い実用第一の鎧である。暗殺される拝賀の式の早朝、かの大江広元が、不審にも涙まで流して、実朝に対し、装着して行かれるのがよろしいと突如言ったのもこの「腹巻」であった。お暇な方は、藪野史(ふびと)いクソ小説「雪炎」を御笑覧あれ。

「侍一人に太刀を持せ、潛に本所に歸り給ふ」何で! 物騒で警護厳重なはずの三浦邸からコッソリ(!)脱出、出来るんダイ! 嘘コケ! 因みに、三浦屋敷は八幡宮の東北の現在の横浜国大附属が建っている附近、御所の「西御門」(現在地名がこれ)に相当する場所にあった。従って近いちゃあ、ごく近いんである。デモネ……どうもこの話、如何にも嘘つっぽい謀略の感じが、ひどく嫌いなんだよなぁ……

「翌日」誤り。事実は三日後の六月一日(「吾妻鏡」に記載有り)。寄宿は五月二十七日であるが、同寛元五年の五月は小の月で二十九日で終るからである。

「近江四郎左衞門尉」は「氏信」と同一人物。佐々木氏信(承久二(一二二〇)年~永仁三(一二九五)年)のこと。ウィキの「佐々木氏信」によれば、『佐々木氏支流京極氏の始祖であり、京極 氏信(きょうごく うじのぶ)とも。父は佐々木信綱、母は北条義時の娘とされる』。承久二(一二二〇)年、『後に近江の守護へと任ぜられる佐々木信綱と、その正室である執権北条義時の娘との間に』四男として『生まれたとされる。母は武蔵国河崎庄の荘官の娘とする説もある』。仁治三(一二四二)年に『父が死去し、江北に在る高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡と京都の京極高辻の館を継ぐ。これにより子孫は後に京極氏と呼ばれるようにな』った。この後の文永二(一二六五)年には『引付衆、翌年には評定衆に加わり』、弘安六(一二八三)年には『近江守へと任ぜられ』た。『鎌倉の桐ヶ谷(きりがや)にも住んでおり、桐谷(きりたに)氏とも呼ばれた』とある。

「莊園數千町」誤り。「吾妻鏡」には「數萬町」とある。面積単位の一町は〇・九九ヘクタールでほぼ一ヘクタールに近いので、数万ヘクタールと言い変えてよい。東京ドームは四・七ヘクタールだそうだから、仮に六万ヘクタールとすると、ドーム一万二千八百三十三個分弱になる。

「靜に申させ給ふべし」兵や武具を集めるのではなく、穏やかに言葉で潔白を御弁明なされれば宜しゅう御座いましょう。

「御一族の御中」北条得宗家と御一族の御仲であられますのですから。

「何か隔の候べき」時頼様がどうして貴殿を遠ざけ、隔てること、これ、御座いましょうや? 御座いませぬ。

「舊老」古くからの家臣連。

「翌日」六月二日。

「閭巷(りよかう)の謳歌」鎌倉の巷(ちまた)に於ける喧(かまびす)しい落首のような節をつけてがなる諷刺歌。具体的には三浦への罵詈雑言、悪口(あっこう)である。

「他人の讒濫」他人が三浦一族を陥れるためにする洪水のように流れ溢れる讒言の数々。

「只深く本(もと)を正(たゞ)され候べし」どうか、ただただお願い致しまするは、ただ一つ、このような一触即発の異常極まりない事態となっている大本(おおもと)、その原因を、糺され、お確かめになって下さいまするように。

「他の上を誡(いまし)めらるべき事あらば、御大事、如何にも貴命(きめい)に隨ひ奉るべき」私ではない、誰か他の幕府に弓成す豪族を誅伐なさらねばならない――そのために異様な数の御家人が我が屋敷はおろか、鎌倉中に参集しているというのであるならば――我ら三浦一族挙げて、その不届き者誅殺の御大事のために、御命令に喜んで従い申し上げて、兵を挙げまするので、御命令下されい。

「同五日」六月五日。

「萬年馬(まんねんうまの)入道」得宗被官の一人であるらしい以外は不詳。

「平左衞門入道盛阿(じやうあ)」平盛綱。既出既注であるが、再掲する。平盛綱(生没年不詳)は得宗家家司で後の内管領長崎氏の祖。ウィキの「平盛綱」によれば、『執権が別当を兼ねる侍所の所司を務める。承久の乱や伊賀氏の変の処理において実務能力を発揮して北条泰時・経時・時頼ら鎌倉幕府執権の北条氏に家司として仕え』て、三代の執権を助けた。『承久の乱の後に幕府の「安芸国巡検使」として安芸国に赴き、同国国人の承久の乱当時における動静を調べて泰時に報告したことなどは、その事跡の一つである』。元仁元(一二二四)年には『泰時の命令を受けて北条氏の家法を作成したとされる。御成敗式目制定の奉行も務め、初の武家成文法の制定に関与し』ている。文暦元(一二三四)年には『家令の地位に就いて、後世その子孫が幕府内管領の長崎氏として発展する礎を築いた』。仁治三(一二四二)年に出家隠退、「吾妻鏡」によれば建長二(一二五〇)年の三月には既に逝去していることが知られているものの、詳細は不明。後、第九代執権北条貞時によって正応六(一二九三)年四月に滅ぼされた平頼綱(平禅門の乱)は彼の孫である(頼綱の滅亡後は同一族の長崎光綱が惣領となり、得宗家執事となった。鎌倉幕末期に権勢を誇った長崎円喜はその光綱の子に当たる)。

「更に非據(ひきょ)の雜説(ざふせつ)なり」(三浦が北条得宗家を攻めようとしているといった)流言飛語は全く以って根拠のない、妄説デマゴークである。

「別心あるべからず」貴殿(三浦泰村)に背くような気は毛頭あろうはずが、ない。

「今、何ぞ、怨を起すべきや」今ここで、何の理由があって、何の目的で、貴殿に恨みを抱くはずがあろうか?! いや、ない!

「泰村は御書を讀みて喜悦の餘、三度頂戴して、返事の趣、具(つぶさ)に申渡(まうしわた)しければ、和平、既に調ひ、盛阿、座を立ちて歸參しけり」「三度頂戴」三度も押し戴いて。かなり有名な話だが、このまやかしの和平交渉が確かに成立したかのように見えたその日(実は三浦一族滅亡の日であった)、泰村は食べかけていた朝飯の湯漬けを、緊張のあまり、グェーと吐いた、とされる(次の章で「吾妻鏡」の原文を示すが、五日の条にそれが出る)。]

北條九代記 卷之八 三浦泰村權威 付 景盛入道覺地諷諫

      〇三浦泰村權威  景盛入道覺地諷諫

三浦若狹前司泰村は、駿河守義村が嫡子にて、累世(るゐせい)の大名なり。北條泰時には婿(むこ)なり。一家の門葉なるに依(よつ)て、國家の政務を相談せらる。秋田城介(あいだのじやうのすけ)義景は、藤九郎盛長には孫なり。城介景盛入道覺地(かくぢ)が嫡子なりければ、家門に於いて人に恥ず。當時の執權時賴に親(したし)ければ、たがひに威(ゐ)を爭ひ、泰村、義景、兩人が中、快(こゝろよか)らず。このころ、北條相摸守重時は、久しく在京し、六波羅の成敗、西國の仕置(しおき)を勤め、政事に鍛錬(たんれん)ある故に、鎌倉に喚下(よびくだ)し、政務の事を談ずべき由、時賴、申されけれども、泰村、一向に許容せず。しかるに泰村は、時賴に親むやうに見えながら、舎弟光村、家村、以下の一族は、前將軍賴經を慕ひ參(まゐら)せ、時賴に野心を挾(さしはさ)むこと、色に顯(あらは)れて見えにけり。秋田城介景盛入道覺地は、年比、紀州高野山に居住し、この間、鎌倉に歸りて甘繩(あまなは)の家にあり。左近將監時賴の第(てい)に參りて、内々仰合(おほせあは)さるゝ旨あり。子息義景、孫の九郎泰盛を、覺地入道、呼寄(よびよ)せて、種々諷詞(ふうし)を加へける中に、「三浦の一族は、當時の威勢、肩を竝ぶる人なし。頗る傍若無人なり。某(それがし)が家に於ては、對揚(たいやう)にも及ぶまじ。内々思慮あるべき所に、子も孫も、同じ心に武道に怠りて遊興に陷り、うかうかとして月日を送る事、言語道斷の振舞なり。今、若、大事出來すとも、何の用に立つべしとも覺えず。世の笑種(わらひぐさ)となるより外の事、あるまじ。返(かへ)す返(がへ)すも奇怪なり」と申されしは、心ありける諷詞なり。義景も泰盛も、頭(かうべ)を※れ(うなだ)れて敬屈(けいくつ)す。潜(ひそか)に武具を用意せさせ、内々祕計(ひけい)を廻らしける。[やぶちゃん字注:「※」=(にんべん)+{(「つくり」の上部)「弓」+(「つくり」の最下部)「一」}。]

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十八の宝治元(一二四七)年四月十一日の条の他、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、「日本王代一覧」巻五、「将軍記」巻四、「保暦間記」も参照しており、湯浅氏は『三浦泰村と秋田城介義景と不仲のこと等は『日本王代一覧』に拠る。『保暦間記』にも、「其比、関東にも分に随て憍る類もあり。三浦の駿河守か子に、若狭守泰村と申は、時賴縁有けるに依て、憍を成す事夢双也。又、秋田城介義景も、さる子細有て権を執けり。二人中悪して、煩多かりけり」』とある、と記しておられる。

「北條泰時には婿なり」「婿」は不審。妹の婿ではある(あった)。今風に言うなら、姻族で義理の弟に相当する(但し、実年齢では一歳、泰時の方が上である)。泰時は三浦義村の嫡男であった泰村の妹である、矢部の禅尼(文治三(一一八七)年~康元(一二五六)年)が泰時の前の正室であって(離縁理由は不明)、彼女が生んだ時氏は泰時の長男で嫡子であり(但し、早世したために執権にはなっていない)、時氏が賢母として知られた正妻松下禅尼(これがまた安達景盛の娘であった)との間に産んだ長男が第四代執権経時で、次男が第五代執権北条時頼なのである。

「秋田義景」既注であるが、再掲しておく。安達義景(承元四(一二一〇)年~建長五(一二五三)年)は安達景盛嫡男で、子に安達泰盛(後注参照)、覚山尼(北条時宗室)がいる。参照したウィキの「安達義景」によれば、『義景の「義」の一字は義景が』一五歳の元仁元(一二二四)年に『没した北条氏得宗家当主鎌倉幕府第二代執権『北条義時からの拝領と思われ、義時晩年の頃に元服したと考えられている』。『義時亡き後は、北条泰時(義時の子)から経時と時頼三代の執権を支え、評定衆の一人として重用された。幕府内では北条氏、三浦氏に次ぐ地位にあり』、第四代将軍『藤原頼経にも親しく仕え、将軍御所の和歌会などに加わっている。この頃の将軍家・北条・三浦・安達の関係は微妙であり、三浦氏は親将軍派、反得宗の立場であるのに対し、義景は北条氏縁戚として執権政治を支える立場にあった』。『父・景盛が出家してから』十七年後、『将軍頼経が上洛した年に、義景は』二十九歳で「秋田城介」を継承した(本文の読みの「あいだ」は、「秋田」は古く「あきだ」「あくだ」等とも呼称したので、それが音変化したものか)。仁治三(一二四二)年、『執権・泰時の命を受けて後嵯峨天皇の擁立工作を行ない、新帝推挙の使節となった』。この「寛元の政変」で『執権北条時頼と図って反得宗派の北条光時らの追放に関与した。将軍家を擁する三浦氏と執権北条時頼の対立は、執権北条氏外戚の地位をめぐる三浦泰村と義景の覇権争いでもあ』ったため、宝治元(一二四七)年には『三浦氏との対立に業を煮やして鎌倉に戻った父景盛から厳しく叱咤されている。宝治合戦では嫡子・泰盛と共に先陣を切って戦い、三浦氏を滅亡に追い込んだ』。『時頼の得宗専制体制に尽力した義景は格別の地位を保ち、時頼の嫡子・時宗は義景の姉妹である松下禅尼の邸で誕生している。義景の正室は北条時房の娘で、その妻との間に産まれた娘(覚山尼)は時宗の正室となる。また、長井氏、二階堂氏、武藤氏など有力御家人との間にも幅広い縁戚関係を築いた』とある。当時三十七歳。

「藤九郎盛長」安達盛長は知る人ぞ知る頼朝配流以来の腹心中の腹心。

「城介景盛入道覺地」安達景盛(?~宝治二(一二四八)年)。法号は「覚智」とも。これも既注ながら再掲する。頼朝の直参安達盛長(保延元(一一三五)年~正治二(一二〇〇)年)の嫡男。以下、ウィキの「安達景盛」によれば、この事件を詳細に「吾妻鏡」が記録した背景には『頼家の横暴を浮き立たせると共に、頼朝・政子以来の北条氏と安達氏の結びつき、景盛の母の実家比企氏を後ろ盾とした頼家の勢力からの安達氏の離反を合理化する意図があるものと考えられる』とある(以下の引用ではアラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『建仁三年(一二〇三年)九月、比企能員の変で比企氏が滅ぼされると、頼家は将軍職を追われ、伊豆国の修禅寺に幽閉されたのち、翌年七月に北条氏の刺客によって暗殺された。景盛と同じ丹後内侍を母とする異父兄弟の島津忠久は、比企氏の縁戚として連座を受け、所領を没収されているが、景盛は連座せず、頼家に代わって擁立された千幡(源実朝)の元服式に名を連ねている。比企氏の縁戚でありながらそれを裏切った景盛に対する頼家の恨みは深く、幽閉直後の十一月に母政子へ送った書状には、景盛の身柄を引き渡して処罰させるよう訴えている』。『三代将軍・源実朝の代には実朝・政子の信頼厚い側近として仕え、元久二年(一二〇五年)の畠山重忠の乱では旧友であった重忠討伐の先陣を切って戦った。牧氏事件の後に新たに執権となった北条義時の邸で行われた平賀朝雅(景盛の母方従兄弟)誅殺、宇都宮朝綱謀反の疑いを評議する席に加わっている。建暦三年(一二一三年)の和田合戦など、幕府創設以来の有力者が次々と滅ぼされる中で景盛は幕府政治を動かす主要な御家人の一員となる。建保六年(一二一八年)三月に実朝が右近衞少将に任じられると、実朝はまず景盛を御前に召して秋田城介への任官を伝えている。景盛の秋田城介任官の背景には、景盛の姉妹が源範頼に嫁いでおり、範頼の養父が藤原範季でその娘が順徳天皇の母となっている事や、実朝夫人の兄弟である坊門忠信との繋がりがあったと考えられる。所領に関しては和田合戦で和田義盛の所領であった武蔵国長井荘を拝領し、平安末期から武蔵方面に縁族を有していた安達氏は、秋田城介任官の頃から武蔵・上野・出羽方面に強固な基盤を築いた』。『翌建保七年(一二一九年)正月、実朝が暗殺されると、景盛はその死を悼んで出家し、大蓮房覚智と号して高野山に入り、実朝の菩提を弔うために金剛三昧院を建立して高野入道と称された。出家後も高野山に居ながら幕政に参与し、承久三年(一二二一年)の承久の乱に際しては幕府首脳部一員として最高方針の決定に加わり、尼将軍・政子が御家人たちに頼朝以来の恩顧を訴え、京方を討伐するよう命じた演説文を景盛が代読した。北条泰時を大将とする東海道軍に参加し、乱後には摂津国の守護となる。嘉禄元年(一二二五年)の政子の死後は高野山に籠もった。承久の乱後に三代執権となった北条泰時とは緊密な関係にあり、泰時の嫡子・時氏に娘(松下禅尼)を嫁がせ、生まれた外孫の経時、時頼が続けて執権となった事から、景盛は外祖父として幕府での権勢を強めた』。ここに出る通り、『宝治元年(一二四七年)、五代執権・北条時頼と有力御家人三浦氏の対立が激化すると、業を煮やした景盛は老齢の身をおして高野山を出て鎌倉に下った。景盛は三浦打倒の強硬派であり、三浦氏の風下に甘んじる子の義景や孫の泰盛の不甲斐なさを厳しく叱責し、三浦氏との妥協に傾きがちだった時頼を説得して一族と共に三浦氏への挑発行動を取るなどあらゆる手段を尽くして宝治合戦に持ち込み、三浦一族五百余名を滅亡に追い込んだ。安達氏は頼朝以来源氏将軍の側近ではあったが、あくまで個人的な従者であって家格は低く、頼朝以前から源氏に仕えていた大豪族の三浦氏などから見れば格下として軽んじられていたという。また三浦泰村は北条泰時の女婿であり、執権北条氏の外戚の地位を巡って対立する関係にあった。景盛はこの期を逃せば安達氏が立場を失う事への焦りがあり、それは以前から緊張関係にあった三浦氏を排除したい北条氏の思惑と一致するものであった』。『この宝治合戦によって北条氏は幕府創設以来の最大勢力三浦氏を排除して他の豪族に対する優位を確立し、同時に同盟者としての安達氏の地位も定まった。幕府内における安達氏の地位を確かなものとした景盛は、宝治合戦の翌年宝治二年(一二四八年)五月十八日、高野山で没した』。彼については『醍醐寺所蔵の建保二年(一二一三年)前後の書状に景盛について「藤九郎左衞門尉は、当時のごとくんば、無沙汰たりといえども広博の人に候なり」とある。「広博」とは幅広い人脈を持ち、全体を承知しているという意味と見られ、政子の意志を代弁する人物として認識されていた。宝治合戦では首謀者とも目されており、高野山にあっても鎌倉の情報は掌握していたと見られる』。『剛腕政治家である一方、熱心な仏教徒であり、承久の乱後に泰時と共に高山寺の明恵と接触して深く帰依し、和歌の贈答などを行っている。醍醐寺の実賢について灌頂を授けられたという』。一方、当時から彼には頼朝落胤説『があり、これが後に孫の安達泰盛の代になり、霜月騒動で一族誅伐に至る遠因とな』ったと記す。……既出の頼長頼朝誤殺説といい、まあ、とんでもない親子ではある……。

「當時の執權時賴に親ければ」以上の姻族関係から時頼の母方の祖父が安達家の御大たる景盛「覺地」(覚智)であり、伯父(或いは叔父。松下禅尼の年齢が不詳なため)がこの安達泰景、その子、則ち、時頼の従兄弟が泰盛ということになる。しかも泰景の長女、泰盛の妹が潮音院殿(覚山尼(かくさんに))で、彼女は後に時頼嫡男である従兄弟の第八代執権時宗の正室となるのである。そうして面倒なことに、当時の三浦主家当主である三浦泰村は、時頼