〇三浦泰村家門滅亡
さる程に、時賴の御方に馳集りし諸軍勢等(ら)、和平の由、承り、人數を引きて在所々々に立歸らんとする所に、高野(かうやの)入道覺地(かうぢ)、この由を聞きて、子息秋田〔の〕城〔の〕介義景、孫の九郎泰盛を招きて、申しけるは、「和平の御書を泰村に遣(つかは)さるゝ上は、向後、三浦の氏族(しぞく)等(ら)、愈(いよいよ)勢に誇りて、當家は終に掌握に落ちて、殃(わざはひ)の來らんこと、目前に有りて遠からず。只、運命を天道にまかせ、今朝、三浦が館に押掛け、雌雄を一時に決すべし。この時に乘るにあらずは、後日を期すとも叶ふべからず。早(はや)、打立(うちた)て」とぞ諫めける。城義景泰盛、父子「畏り候」とて打立ちければ、大曾禰(おほぞねの)長泰、武藤左衞門尉景賴、橘薩摩十郎公義(きんよし)以下、一族同意の輩、三百餘騎、甘繩の館(たち)の門前より、小路を東に、若宮大路中下馬の橋に至り、鶴ゲ岡の赤橋より、神護寺の門外にして、鬨の聲を作り、五石疊(いついしだたみ)の紋の旗、差擧(さしあ)げ、筋替橋(すぢかへばし)の北に陣取(じんど)りて矢をはなつ。その近邊に陣取りたる諸方の軍士等、「すはや軍の切るぞ」とて、我も我もと馳せ加はる。泰村、大に仰天して、「こはそも只今、和平の事成りて、心を緩(ゆる)す所に、出拔(だしぬ)かれける口惜さよ」とて、物具(ものゝぐ)ひしひしと差堅(さしかた)め、家子郎從等を進めて、防ぎ戰ふ。橘薩摩〔の〕余一(よいち)公員(きんかず)は、俄(にはか)のことにて、物具すべき遑(いとま)なく、狩装束にて一陣に進み、門の庇(ひさし)の本(もと)まで攻寄(せめよせ)ける所に、三浦が郎等小河〔の〕次郎が、櫓(やぐら)の上より落射(おとしい)ける大矢に、頸の骨を射られて、馬より眞倒(まつさかさま)に落ちたりけり。中村〔の〕馬五郎、是を引取らんと馳寄(はせよ)する所に、片切(かたぎり)助五郎が放つ矢に眞甲(まつかふ)を射られてたち痓(すく)む。防ぐ兵、手強くして、人數、多く、討たれければ、叶難(かなひがた)く見えし所に、時賴、この由、聞き給ひ、「和平歸服の上に、又合戰を起す條、宥(なだ)むべきにあらず」とて、北條陸奥(むつの)掃部(かもんの)助實時を以て、將軍の御所を守護せしめ、北條〔の〕六郎時定を大手の大將軍として、五百餘騎にて遣(つかは)さる。塔辻(たふのつじ)より馳隨(はせしたが)ふ輩、雲霞の如く、家々の旗、差し舉げ、我、劣らじ、と進みけり。さる程に、泰村が郎等、精兵の剛者、隈々(つまりづまり)に待設(まちまう)け、矢を射ること雨の如く、これに中(あたつ)て討(うた)るゝ者、數知らず、されども大軍新手を入替へ、散々(さんざん)に攻戰(せめたたか)ふ。諏訪兵衞入道、信濃四郎左衞門尉行忠、軍兵を進めて、北の方を攻破る、佐原十郎左衞門尉泰連(やすつら)、同十郎賴連(よりつら)、能登左衞門尉仲氏以下、郎従五十餘人、下合(おりあ)ひて防ぎけるが、諏訪入道、信濃行忠、直前(まつさき)に蒐出(かけい)でて、追靡(おひなび)け、切倒(きりたふ)し、一人も殘らず討取りたり。甲斐〔の〕前司泰秀、御所に參りて、「毛利藏人大夫入道西阿こそ、只今泰村が方へ、參りて候。きはめて大剛(たいがう)の者にて、奇計を廻(めぐら)し候はば難義たるべし」と申しければ、時賴、聞たまひ、「何條、天道に背きし者は、假令(たとひ)、鐡城(てつじやう)に籠るとも、運命、更に賴難(たのみがた)し。今見給へ、亡びなんものを」とて、騷(さわぎ)たる色はおはしまさず。軍は頻(しきり)に劇(はげ)しくなり、敵味方の鬨の聲、天に響き、地に盈(み)ちて、打合ひ攻戰ふ有樣は修羅の巷(ちまた)に異ならず。大手の大將六郎時定、軍兵共に仰せけるは、「斯(かく)ては人多く損じて利(り)少(すくな)し。只、火を差して燒打(やきうち)せよ」とぞ下知せられける。伊豆〔の〕住人、輕又八義成と云ふ者、泰村が南の小屋に攻上(せめのぼ)り、向ふ敵三人を薙伏(なぎふ)せ、小屋に火差しければ、折節、風荒く吹廻(ふきめぐ)り、焰(ほのほ)、四方に飛散りたり。作竝(つくりなら)べし屋形(やかた)どもに燃渡(もえわた)りて、一同に燒上(やけあが)る黑煙(くろけぶり)、火焰を卷きて雲路を指して燃昇(もえのぼ)る。火子(ひのこ)は雨の足よりも滋(しげ)し。三浦の者ども烟(けぶり)に覆はれ、防ぐべき力なし。平判官義有(よしあり)、申しけるは、「迚(とて)も遁(のが)れぬ事ながら、爰にて燒死(やけしな)んより、いざや、法華堂に引退(ひきしりぞ)き、故右大將賴朝の御影(みえい)の前にて自害致し、前代の御恩を報じ奉らん」とて泰村以下、北の方を打破り、法華堂にぞ引籠りける。泰村が舍弟能登守光村は、永福寺の總門の内に在て、郎從八十餘騎、陣を張(はつ)て戰ひしが、向ふ敵を打靡(うちなび)け、泰村と一つになり、法華堂に集りしかば、數萬の軍兵、跡に付きて押かゝる。毛利〔の〕入道西阿、泰村兄弟、その外大隅前司重隆、美作〔の〕前司時綱、甲斐前司實章(さねあきら)、關〔の〕左衞門尉政泰以下の一族、各(かく)、賴朝卿の御影の前に竝居(なみゐ)て、迭(たがひ)に最後の暇乞(いとまごひ)して、念佛、高(たからか)に唱へける。その間に寄手、早く寺門に攻入(せめい)りけるを、三浦が郎從白川〔の〕七郎兄弟、岡本〔の〕次郎、埴生(はにふの)小太郎、佐野〔の〕三郎以下、出向うて防ぎければ、寄手、多く討たれつゝ、三浦方も手負ひ疵(きず)を蒙(かうぶ)り、矢種(やたね)盡きて力撓(たわ)み、或は討たれ或は落失せたり。今は是までなりとて、泰村以下の一族二百七十六人、郎從家子二百二十餘人、同時に腹をぞ切りにける。その日の申刻に軍(いくさ)既に散(さん)じたり。寶治元年六月五日、今日(けふ)、如何なりける時節にや、さしも累代舊功の三浦の家、忽に運命傾(かたぶ)き、滅亡しけるこそ悲しけれ。翌日、實檢(じつけん)を遂げて、首共(ども)殘らず、由比の渚(なぎさ)に懸けられ、その後、事書を出され、三浦の一族、或は缺落(かけおち)、或は逐電せし者共、子細に及はず、召捕(めしと)りて、參らすべしとぞ觸(ふ)れられける。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十八の宝治元(一二四七)年六月五日・六日に基づく。それにしても、安達の起兵に全責任を与え、是非に及ばず、致し方ない、と時頼が三浦追討を認めるなど、どう考えても、ありえない起因である。だから、私は時頼が大嫌いなんである!!!
「殃(わざはひ)」「禍(わざわい)」に同じい。
「小路を東に、若宮大路中下馬の橋に至り」現在の由比が浜通りを東に向かい、江ノ電を越え、横須賀線ガード手前の若宮大路の「下馬四つ角」近くにあった下馬橋(恐らくは現在の「四つ角」よりもやや海岸寄りに出たものと推定され、そこに橋はあった)へ出、若宮大路を鶴岡八幡宮寺へ向けて堂々と進軍したことになる。しかし戦略的には相手に悟られぬよう、由比ヶ浜通りから、現在の鎌倉駅西口西を北へ向かって横大路から鶴岡に向かうルートと、下馬を通り越して若宮大路の東側の小町小路(現在の小町通りの若宮大路を隔てた反対側なので注意されたい)を北に向かうルート(これが三浦邸へは最も難のない近道と思う)に、少人数の歩兵を左右に分けて秘かに若宮大路を行く三(最後の左右を別とすれば四)ルートに私なら分ける。若宮大路は大軍で行軍するには最も道幅があり、使い勝手はよいが、鎌倉中に敵とも味方とも分らぬ諸国の軍兵がごろごろいる中で、この大袈裟な行軍は私にはどうも解せないのである。だからこそ、この最初の起兵自体が、私には眉唾物なのである。これが事実とすれば、三浦は安達起兵の報知を知ったなら、すぐ南西にいる時頼や将軍頼嗣を人質に取ることも可能なのである。和平交渉(事実は時頼の偽りであることは見え見えである)が行われ、それが成立していても、それとは別に状況探索はするのが常識であり、かの三浦がそれを怠っていたとは到底思われぬ。しかも最も仲が険悪であった安達一族に対しての密偵は常に張り付いていたに違いないからである。
「神護寺」「吾妻鏡」にかくある。これは進軍のルートから見ると、神仏習合の鶴岡八幡宮寺内の東に存在した寺院部分(すべておぞましい廃仏毀釈で破壊されてしまったが、江戸期の絵図を見ても八幡宮の東へ抜ける手前には宝塔や薬師堂などの巨大寺院建築物が複数あった)を指しているように思われる。
「鬨の聲」老婆心乍ら、「ときのこえ」と読む。
「五石疊(いついしだたみ)の紋」所謂、正方形を縦横二本の直線で割った三目並べのような小九正方の内、各四方の角と中央を黒塗りするか、或いはその反対のものであろう(後者は「四方石」紋と呼ばれ、安達氏の後裔とされる城氏の紋がそれである)。
「筋替橋(すぢかへばし)の北」源氏池の東方、鶴岡八幡宮前の金沢街道の宝戒寺から直角に東北折れ、それが又、右へ折れる部分にあった橋。現在は暗渠。その「北」は現在の横浜国大附属の正門附近に当たる。
「すはや軍の切るぞ」「軍」は「いくさ」で、戦闘・合戦の火ぶたが切って落とされるぞ! の謂い。
「橘薩摩〔の〕余一(よいち)公員(きんかず)」彼は安達方であるので注意。記載が少ないが、彼の母はかの頼朝の奸臣で、頼朝の死後に粛清された梶原景時の、二男景高の娘らしい。
「叶難く見えし」三浦方の強靭な防衛線には、とてものことに安達軍はかないそうになく見えた。
「北條陸奥掃部助實時」(元仁元(一二二四)年~建治二(一二七六)年)は金沢流北条氏の実質上の初代で金沢実時(かねさわさねとき)とも称した。父は北条義時の末の方のである北条実泰(実泰は従兄弟に当たる第三代将軍源実朝の前で元服を行っており、「実」は烏帽子親である実朝の偏諱である)。実時は第三代執権北条泰時の邸において元服、「時」は烏帽子親を務めた泰時の偏諱である。、時頼政権に於いては、この後、側近として引付衆・評定衆を務め、。文永元(一二六四)年には得宗家外戚のここに出る安達泰盛とともに越訴奉行頭人(とうにん)となって第八代執権北条時宗を補佐した。この宝治合戦後は寄合衆(よりあいしゅう:北条氏得宗を中心とした鎌倉幕府の最高議決機関)にも加わっている。文人としても知られ河内本「源氏物語」の注釈書を編纂したりした。文永の役の翌年(建治元(一二七五)年)に政務を引退すると、六浦荘金沢(現在の横浜市金沢区金沢文庫)に隠居し、現在の「金沢文庫」の元の創設もしている。
「北條六郎時定」(?~正応三(一二九〇)年)は北条時氏三男。母は松下禅尼であるから、経時・時頼の同母弟である。将軍の側近として仕えたが、元寇襲来に当たって鎮西に下向、阿蘇家の祖となった。後に為時(ためとき)と改名した。
「塔辻(たふのつじ)」現在の由比ヶ浜通りのほぼ中間点にある辻。鰻の名店「つるや」の西直近。
「隈々(つまりづまり)に」あちらこちらに。
「大軍新手を入替へ」(幕府方(ここでは時頼の裁断によって既に正規幕府軍となっている)は)大量の軍兵を後衛の新しい兵と入れ替えをし。
「諏訪兵衞入道」諏訪盛重。得宗被官で御内人。泰時の側近。法名の蓮仏の名で「吾妻鏡」に多出。
「佐原十郎左衞門尉泰連、同十郎賴連、能登左衞門尉仲氏以下、郎従五十餘人」これは三浦方。「佐原」氏は三浦義明の子十郎義連を祖とするが、実は宝治合戦では本家三浦氏が滅んだ際には、義連直系の盛連一族はすべて幕府方についている(「吾妻鏡」六月二日の条)。ここに出る二人は傍系の佐原氏の一族と思われ、「吾妻鏡」の六月二十二日の条にある、宝治合戦での『自殺討死等』の名簿に能登仲氏とともに名が載っている。なお、佐原盛連一族を除いた佐原氏は、この宝治合戦で総て滅んだ。
「下合(おりあ)ひて」合流して(教育社版増淵勝一氏訳に拠る)。
「追靡(おひなび)け」追撃し(同前)。
「甲斐前司泰秀」 長井泰秀(建暦二(一二一二)年~(建長五(一二五四)年)。大江泰秀とも呼ばれることで判る通り、祖父は大江広元、父は大江広元次男長井時広であった。ウィキの「長井泰秀」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『長井時広の嫡子として生まれる。のち元服に際して、北条氏得宗家当主(鎌倉幕府第三代執権)の北条泰時より偏諱を受け、泰秀と名乗る』。『一二二一年(承久三年)承久の乱により、大江氏の嫡流であった大江親広が失脚し、父時広が大江氏の惣領となる。「関東評定衆伝」によると、一二二九年(寛喜元年)』、『十八歳で既に蔵人から左衛門少尉となっており、同年』に『更に従五位下に叙爵され』、『一二三四年(文暦元年)二十三歳で従五位上、一二三七年(嘉禎三年)二十六歳で正五位下左衛門大尉、一二三八年(暦仁元年)二十七歳で甲斐守という官職の昇進の早さは大江氏惣領家の嫡男として高い家格を認められていたということになる』とする。『一二四一年(仁治二年)五月』に父の時広が死去すると、翌六月には『三十歳にして北条経時(泰時の孫)らとともに評定衆に列せられ』ている。『その後、一二四七年(宝治元年)の宝治合戦などの争乱に際しては第五代執権の北条時頼(経時の弟)を一貫して支持し、幕府における長井氏の地位を確立した』とある。なお、彼の孫である長井宗秀は、実は「吾妻鏡」の編纂者の一人ではないかと推測されている、ともある。突如、泰秀が時頼に申し上げる肉声をここに挟み、前で西阿の悲劇もしっかり語っている辺り、この彼らの親族であった宗秀がここら辺りを書いたとして、充分に納得出来る話ではあるまいか。
「毛利藏人大夫入道西阿」毛利季光(建仁二(一二〇二)年~宝治(一二四七)年)のこと。彼は実は北条方に就こうとしたが、三浦義村の娘であった妻から兄泰時を見捨てるのは武士にもとるという批難を受け、悩んだ末に三浦方に組して自刃するという、いわくつきの悲劇的人物である。彼はかの大江広元の四男で出自も鎌倉幕府内にあっては実はエリート中のエリートで、天福元(一二三三)年に時の第三代執権泰時から関東評定衆に任命され、寛元四(一二四六)年には藤原頼経・頼嗣父子を自邸に迎えて、当時、将軍職を継承したばかりの七歳の頼嗣の甲冑着初式を行うという栄誉をさえ得ていた(因みに、彼の官位にある「藏人大夫」であるが、この「大夫」というのは五位の別称であるから「蔵人の五位」と同義である。但し、「蔵人の五位」というのは「五位の蔵人」とは意味が違って――元蔵人であったが今は職には就いていない五位の人――即ち――六位の蔵人を勤めていて五位に上がったものの、五位の蔵人に空席がなかったため、蔵人の職を辞めることになった人――を指す特殊な謂い方であるので注意されたい)。以上のエピソードは最後に示す「吾妻鏡」の五日の条に出る。もうお分かりの通り、実はここでかく「西阿は手ごわい奴です」と語っている長井泰秀は彼の兄の子、甥なのである。
「奇計を廻(めぐら)し候はば」西阿が思いもかけない、奇計をめぐらしたりしたならば。増淵氏は『巧妙な策略をお考えにならないと』と訳しておられるが、だとすると「候はずば」でないとおかしいし、時頼への敬語も本文にはないので、採らない。増淵氏は恐らく、「吾妻鏡」本文で、西阿の三浦参戦報告(そこでは萬年入道が報告者)の直後に、時頼が将軍にまみえて、「奇謀を廻(めぐ)らさる」とあるのを踏まえられたのではあろう。
「何條」「なんじよう(なんじょう)或いは「なんでふ」で、「何といふ」の転。「何条」は当て字。連体詞・副詞もあるが、ここは感動詞で、相手の言葉を否定する語。「何を言うか!」「とんでもない!」の謂い。
「鐡城」鉄で出来た城。
「南の小屋」「吾妻鏡」(後掲)では、「放火於泰村南隣人屋」(火を泰村が南隣りの人屋(じんをく)に放つ)とある。
「平判官義有」「群書系図部集」を見るに、三浦義澄末子九男三浦胤義(承久の乱で上皇方につき、三浦義村に裏切られ、遂には自害した)の子と思われる。増淵氏は『泰村の兄』と割注するが採らない。
「法華堂」源頼朝の廟。現在の「頼朝の墓」(島津が作った偽物)に登る手前の左手(今は児童公園)附近にあったとされる。合計五百人以上の人間(「吾妻鏡」)がここで自害しているとあるから、相応の大きさの寺院建築であったことが判る。三浦邸からは二百メートルと離れていない。
「永福寺」「やうふくじ(ようふくじ)」と読む。大塔宮の南を廻り込んだ左側にあった、源頼朝が中尊寺の二階大堂・大長寿院を模して建立した寺院。二階建てであったことから「二階堂」とも称され、それが、現在の地名由来でもある。応永一二(一四〇五)年の回禄以後には記事がないので、そこら辺りで廃寺となったものと考えられる。三浦邸とは実測で凡そ一キロメートルほど離れている。
「申刻」午後四時頃。
「散じたり」終わった。
「事書」増淵氏の訳では『ことがき』とルビされ、『箇条書き』と割注されている。
「缺落」増淵氏は『逃亡』と訳しておられる。
「逐電」増淵氏は『失踪』と訳しておられる。
以下、長いが「吾妻鏡」の寳治元(一二四七)年六月五日の条を示す。
○原文
五日丙戌。天晴。辰刻小雨灑。今曉鷄鳴以後。鎌倉中彌物忩。未明左親衞先遣萬年馬入道於泰村之許。被仰可相鎭郎從等騷動之由。次付平左衞門入道盛阿。被遣御書於同人。是則世上物忩。若天魔之入人性歟。於上計者。非可被誅伐貴殿之構歟。此上如日來不可有異心之趣也。剩被載加御誓言云々。泰村披御書之時。盛阿以詞述和平子細。泰村殊喜悦。亦具所申御返事也。盛阿起座之後。泰村猶在出居。妻室自持來湯漬於其前勸之。賀安堵之仰。泰村一口用之。即反吐云々。爰高野入道覺地傳聞被遣御使之旨。招子息秋田城介義景。孫子九郎泰盛〔各兼著甲冑〕盡諷詞云。被遣和平御書於若州之上者。向後彼氏族獨窮驕。益蔑如當家之時。憖顯對揚所存者。還可逢殃之條。置而無疑。只任運於天。今朝須決雌雄。曾莫期後日者。依之城九郎泰盛。大曽祢左衞門尉長泰。武藤左衞門尉景賴。橘薩摩十郎公義以下。一味之族引卒軍士。馳出甘繩之館。同門前小路東行。到若宮大路中下馬橋北。打渡鶴岡宮寺赤橋。相構盛阿歸參以前。於神護寺門外作時聲。公義差揚五石疊文之旗。進于筋替橋北邊。飛鳴鏑。此間所張陣於宮中之勇士悉相加之。而泰村今更乍仰天。令家子郎從等防戰之處。橘薩摩余一公員〔不著甲冑。爲狩裝束〕者。自兼日懸意於先登。潛入車排之内。宿于泰村近邊荒屋。付時聲進寄小河次郎〔被射殺〕中村馬五郎同相並之。皆爲泰村郎等被暴疾焉。先之。盛阿馳駕令歸參。雖申事次第。三浦一類有用意事之條者。雖勿論。旁依有御沙汰。被廻和平之儀之處。泰盛既及攻戰之上。無所于被宥仰。先以陸奥掃部助實時。令警衞幕府。次差北條六郎時定。爲大手大將軍。時定令撤車排。揚旗自塔辻馳逢。相從之輩如雲霞。諏方兵衞入道蓮佛抽無雙之勳功。信濃四郎左衞門尉行忠決殊勝負。獲分取。凡泰村郎從精兵等。儲所々辻衢。發矢石。御家人又忘身命。責戰矣。巳尅。毛利藏人大夫入道西阿著甲冑。卒從軍。爲參御所。打出之處。彼妻〔泰村妹〕取西阿鎧袖云。捐若州參左親衞御方之事者。武士所致歟。甚違年來一諾訖。盍耻後聞兮哉者。西阿聞此詞。發退心加泰村之陣。于時甲斐前司泰秀亭者。西阿近隣也。泰秀者馳參御所之間。雖行逢西阿。不能諍留。是非存親昵之好。且不却與同于泰村之本意兮。於一所爲加追討也。尤叶武道有情云々。萬年馬入道馳參左親衞南庭。乍令騎馬。申云。毛利入道殿被加敵陣訖。於今者世大事必然歟。左親衞聞此事。午刻參御所。被候將軍御前。重被廻奇謀。折節北風變南之間。放火於泰村南隣人屋。風頻扇。煙覆彼館。泰村幷伴黨咽烟遁出館。參籠于故右大將軍法華堂。舍弟能登守光村者在永福寺惣門内。從兵八十餘騎張陣。遣使者於兄泰村之許云。當寺爲殊勝城郭。於此一所。相共可被待討手云々。泰村答云。縱雖有鐵壁城郭。定今不得遁歟。同者於故將軍御影御前欲取終。早可來會此處云々。專使互雖爲一兩度。縡火急之間。光村出寺門向法花堂。於其途中一時合戰。甲斐前司泰秀家人。幷出羽前司行義。和泉前司行方等。依相支之也。兩方從軍多被疵云々。光村終參件堂。然後西阿。泰村。光村。資村幷大隅前司重隆。美作前司時綱。甲斐前司實景。關左衞門尉政泰以下。列候于繪像御影御前。或談往時。或及最後述懷云々。西阿者專修念佛者也。勸請諸衆。爲欣一佛浄土之因。行法事讚廻向之。光村爲調聲云々。左親衞軍兵攻入寺門。競登石橋。三浦壯士等防戰。竭弓劔之藝。武藏々人太郎朝房責戰有大功。是爲父朝臣義絶身。一有情之無相從。僅駕疲馬許也。不著甲冑之間。輙欲討取之處。被扶于金持次郎左衞門尉〔泰村方〕全其命云々。兩方挑戰者殆經三刻也。敵陣箭窮力盡。而泰村以下爲宗之輩二百七十六人。都合五百余人令自殺。此中被聽幕府番帳之類二百六十人云々。次壹岐前司泰綱。近江四郎左衞門尉氏信等承仰。爲追討平内左衞門尉景茂。行向彼長尾家。作時聲之處。家主父子者。於法華堂自殺訖。敢無人于防戰。仍各空廻轡。但行逢子息四郎景忠。生虜之持參云々。甲冑勇士等十餘騎塞壹岐前司之行路。諍先登之間。泰綱雖問其名字。敢不能返答。而景茂等依不所在。無合戰之儀。剩彼勇士乍名謁逐電云々。申刻。被實檢死骸之後。被進飛脚於京都。遣御消息二通於六波羅相州〔北條重時〕。一通奏聞。一通爲令下知近國守護地頭等也。又事書一紙同所被相副也。左親衞於御所休幕被申沙汰之。其狀云。
若狹前司泰村。能登前司光村以下舍弟一家之輩。今日巳尅。已射出箭之間。及合戰。終其身以下一家之輩及餘黨等被誅罰候畢。以此趣。可令申入冷泉太政大臣殿〔久我通光〕給候。恐々謹言。
六月五日 左近將監
謹上 相摸守殿
追啓〔禮紙申狀云〕
毛利入道西阿不慮令同心之間。被誅罰畢。
若狹前司泰村。能登前司光村。幷一家之輩餘黨等。兼日令用心之由。有其聞之間。被用意候處。今日〔五日巳剋〕令射出箭之間。及合戰。其身以下一家之輩餘黨等被誅罰訖。各存此旨。不可馳參。且又可相觸近隣之由。普可令下知西國地頭御家人給之状。依仰執達如件。
六月五日 左近將監
謹上 相摸守殿
事書云。
一 謀叛輩事
爲宗親類兄弟等者。不及子細可被召取。其外京都雜掌。國々代官所從等事者。雖不及御沙汰。委尋明。隨注申。追而可有御計者。
○やぶちゃんの書き下し文
五日丙戌。天晴る。辰の刻、小雨灑(そそ)ぐ。今曉、鷄鳴以後、鎌倉中彌(いよいよ)物忩(ぶつそう)。未明に左親衞、先づ萬年馬入道を泰村が許へ遣はし、郎從等の騷動を相ひ鎭めるべしの由を仰せらる。次(つ)いで、平左衞門入道盛阿に付けて、御書を同人に遣はさる。是れ、則ち、
「世上の物忩、若しや天魔の人性(じんしやう)に入るか。上計(しやうけい)に於ては、貴殿を誅伐せらるべきの構へに非ざるか。此の上は、日來(ひごろ)のごとく、異心有るべからず。」
の趣きなり。剩(ああつさ)へ、御誓言を載せ加へらると云々。
泰村、御書を披(ひら)くの時、盛阿、詞を以つて和平の子細を述ぶ。泰村、殊に喜悦して、亦、具(つぶさ)に御返事を申す所なり。盛阿、座を起つの後、泰村、猶ほ出居(でゐ)に在り。妻室、自(みづか)ら湯漬(ゆづけ)を其の前に持ち來たりて之れを勸め、安堵(あんど)の仰せを賀す。泰村、一口、之れを用ゐ、即ち、反吐(へど)すと云々。
爰に高野入道覺地、御使を遣はさるの旨を傳へ聞き、子息秋田城介義景・孫子(まご)九郎泰盛〔各々兼ねて甲冑をす。〕を招き、諷詞(ふうし)を盡して云はく、
「和平の御書を若州に遣はさるるの上は、向後、彼の氏族獨り、驕(おご)りを窮(きは)め、益々(ますます)當家を蔑如(べつじよ)するの時、憖(なまじ)ひに對揚(たいよう)の所存を顯はさば、還へつて殃(わざわひ)に逢ふべきの條、置きて疑ひ無し。只だ、運を天に任せ、今朝、須(すべか)らく雌雄を決すべし。曾(かつ)て後日を期する莫かれ。」
てへれば、之れに依つて、城九郎泰盛・大曾禰左衞門尉長泰、武藤左衞門尉景賴、橘薩摩十郎公義以下、一味の族(うから)、軍士を引卒し、甘繩の館(たち)を馳せ出で、同門前の小路を東に行き、若宮大路中下馬橋の北へ到りて、鶴岡宮寺の赤橋を打ち渡り、相ひ構へて、盛阿歸參以前に、神護寺門外に於いて時の聲を作る。公義、五石疊文(いつついしだたみもん)の旗を差し揚げ、筋替橋(すじかへばし)北邊に進み、鳴鏑(なりかぶら)を飛ばす。此の間、陣を宮中に張る所の勇士、悉く之れに相ひ加はる。而るに泰村、今更乍らに仰天し、家子(いへのこ)郎從等をして防戰せしむるの處、橘薩摩余一公員〔甲冑を著せず、狩裝束たり。〕といふ者、兼日より意を先登(せんと)に懸け、潛かに車排(くるまならべ)の内に入り、泰村近邊の荒屋(あばらや)に宿る。時の聲に付き、進み寄る。小河次郎〔射殺さる。〕・中村馬五郎、同じく之れに相ひ並ぶ。皆、泰村郎等の爲に暴疾(ぼうしつ)せらる。之れに先んじ、盛阿、駕を馳せ歸參せしめ、事の次第を申すと雖も、三浦一類用意の事有るの條は、勿論と雖も、旁々(かたがた)の御沙汰有るに依つて、和平の儀を廻(めぐ)らさるるの處、泰盛、既に攻戰に及ぶの上は、宥(なだ)め仰せるるに所(ところ)無し。先づ陸奥掃部助實時を以つて、幕府を警衞せしめ、次いで、北條六郎時定を差して、大手の大將軍と爲(な)す。時定、車排(くるまならべ)を撤(てつ)せしめ、旗を揚げて塔の辻より馳せ逢ふ。相ひ從ふの輩(やから)、雲霞のごとし。諏方兵衞入道蓮佛、無雙(ぶさう)の勳功を抽(ぬき)んづ。信濃四郎左衞門尉行忠、殊に勝負を決し、分取(ぶんどり)を獲(え)たり。凡そ泰村、郎從精兵等を、所々の辻衢(つじちまた)に儲(まう)け、矢石(しせき)を發(はな)つ。御家人も又、身命(しんみやう)を忘れて、責め戰ふ。巳の尅、毛利藏人大夫入道西阿、甲冑を著し、從軍を卒して、御所へ參らんが爲に、打ち出づるの處、彼(か)の妻〔泰村が妹。〕、西阿の鎧の袖を取りて云はく、
「若州を捐(す)て左親衞の御方へ參ずるの事は、武士の致す所か。甚だ年來(としごろ)の一諾(いちだく)に違へ訖んぬ。盍(なん)ぞ後聞を耻ぢざらんや。」
てへれば、西阿、此の詞(ことば)を聞きて、退心を發(おこ)し、泰村が陣に加はる。
時に甲斐前司泰秀が亭は、西阿が近隣なり。泰秀は御所へ馳せ參ずるの間、西阿に行き逢ふと雖も、諍(いさか)ひ留(とど)むるに能はず。是れ、親昵(しんじつ)の好(よし)みを存(ぞん)ずるに非ず。且つは泰村に與同(よどう)の本意を却(しりぞ)けずして、一所に於いて追討を加へんが爲なり。尤も武道に叶(かな)ひ、情、有りと云々。
萬年馬入道、左親衞の南庭に馳せ參じ、騎馬せしめ乍ら、申して云はく、
「毛利入道殿、敵陣に加られ訖んぬ。今に於いては世の大事、必然か。」
と。左親衞、此の事を聞き、午の刻、御所に參ず。將軍の御前に候ぜられ、重ねて奇謀を廻らさる。折節、北風が南に變るの間、泰村の南隣りの人屋(じんをく)に於いて火を放つ。風、頻りに扇(あふ)ぎ、煙、彼の館を覆ふ。泰村幷びに伴黨(ばんたう)、烟(けぶり)に咽(むせ)び、館(たち)を遁(のが)れ出でて、故右大將軍の法華堂に參籠す。舍弟能登守光村者は永福寺惣門内に在りて、從兵八十餘騎で陣を張る。使者を兄泰村が許(もと)に遣はして云はく、
「當寺は殊に勝る城郭たり。此の一所に於いて、相ひ共(とも)に討手を待たるべし。」
と云々。
泰村、答へて云はく、
「縱(たと)ひ鐵壁の城郭有ると雖も、定めて今、遁れ得ざらんか。同じくば、故將軍の御影(みえい)の御前に於いて終(つい)を取らんと欲す。早く、此の處へ來會すべし。」
と云々。
專使、互ひに一兩度たりと雖も、縡(こと)、火急の間、光村、寺門を出でて法花堂へ向ひ、其の途中に於いて一時、合戰す。甲斐前司泰秀が家人幷びに出羽前司行義、和泉前司行方等(ら)、之れを相ひ支(ささ)ふるに依つてなり。兩方の從軍、多く疵を被(かうむ)ると云々。
光村終(つい)に件(くだん)の堂に參ず。然る後、西阿・泰村・光村・資村幷びに大隅前司重隆・美作前司時綱・甲斐前司實景・關左衞門尉政泰以下、繪像(ゑざう)の御影(みえい)の御前に列候(れつこう)し、或いは往時を談じ、或ひは最後の述懷に及ぶと云々。
西阿は專修(せんじゆ)念佛者なり。諸衆を勸請(くわんじやう)し、一佛浄土の因を欣(ねが)はんが爲、法事讚(ほふじさん)を行ひ、之れを廻向(ゑかう)す。光村、調聲(てうしやう)たりと云々。
左親衞が軍兵、寺門に攻め入り、石橋を競ひ登る。三浦の壯士等、防ぎ戰ひ、弓劔(きゆうけん)の藝を竭(つく)す。武藏藏人(くらうど)太郎朝房(ともふさ)、責め戰ひて大功有り。是れ、父朝臣義絶の身たり。一(いつ)も有情(うじやう)の相ひ從ふ無し。僅かに疲馬に駕する許りなり。甲冑を著せざる間、
輙(たやす)く討ち取らんと欲するの處、金持(かねもちの)次郎左衞門尉〔泰村が方。〕に扶(たす)けられ、其の命を全うすと云々。
兩方、挑み戰ふ者、殆んど三刻を經るなり。敵陣、箭(や)、窮まり、力、盡く。而して泰村以下、宗(むねと)たるの輩、二百七十六人、都合、五百余人自殺せしむ。此の中(うち)、幕府の番帳を聽(ゆる)さるるの類、二百六十人と云々。
次いで壹岐前司泰綱・近江四郎左衞門尉氏信等、仰せを承り、平内左衞門尉景茂を追討せんが爲、彼(か)の長尾の家へ行向い、時の聲を作るの處、家主父子は、法華堂に於いて自殺し訖りて、敢へて防戰に人無し。仍つて各々空しく轡(くつばみ)を廻らす。但し、子息四郎景忠に行き逢ひ、之れを生虜(いけど)り、持參すと云々。
甲冑の勇士等(ら)十餘騎、壹岐前司の行路を塞ぎ、先登を諍ふの間、泰綱、其の名字を問ふと雖も、敢へて返答に能はず。而るに景茂等所在せ不に依つて、合戰の儀無し。剩へ彼の勇士、名謁(なのり)乍ら、逐電すと云々。
申の刻、死骸を實檢せらるるの後、飛脚を京都に進ぜられ、御消息二通を六波羅の相州〔北條重時。〕に遣はす。一通は奏聞(そうもん)、一通は近國守護地頭等(ら)へ下知せしめんが爲なり。又、事書(ことがき)一紙、同じく相ひ副へらるる所なり。左親衞、御所の休幕(きうばく)に於いて之れを申し、沙汰せらる。其の狀に云はく、
『若狹前司泰村・能登前司光村以下舍弟一家の輩、今日、巳の尅、已に箭(や)を射出すの間、合戰に及びて、終(つひ)に其の身以下一家の輩及びに餘黨等、誅罰せられ候ひ畢んぬ。此の趣きを以つて、冷泉太政大臣殿〔久我通光。〕に申し入れ令め給ふべく候。恐々謹言。
六月五日 左近將監
謹上 相摸守殿』
『追啓〔禮紙(らいし)申狀(まうしじやう)に云ふ。〕。
毛利入道西阿、不慮に同心せしむるの間、誅罰せられ畢んぬ。
若狹前司泰村、能登前司光村幷びに一家の輩餘黨等、兼日に用心せしむるの由、其の聞へ有るの間、用意せられ候ふ處、今日〔五日巳の剋。〕、箭を射出しせしむる間、合戰に及ぶ。其の身以下、一家之輩餘黨等、誅罰せられ訖んぬ。各々此の旨を存じ、馳せ參ずべからず。且つは又、近隣に相ひ觸るべきの由、普(あまね)く西國の地頭・御家人に下知せしめ給ふべきの狀、仰せに依つて、執達(しつたつ)、件(くだん)のごとし。
六月五日 左近將監
謹上 相摸守殿』
「事書」に云はく、
『一 謀叛の輩の事。
宗(むねと)たる親類兄弟等は、子細に及ばず、召し取らるべし。其の外、京都の雜掌、國々の代官所從等の事は、御沙汰に及ばずと雖も、委(くは)しく尋ね明らめ、注し申すに隨ひて、追つて御計(はから)ひ有るべし。』
てへり。
禁欲的に注する。
・「辰の刻」午前八時頃。
・「上計」お上(将軍頼嗣)のお考え。
・「貴殿を誅伐せらるべきの構へに非ざるか。」この「か」は係助詞の文末用法(或いは終助詞)で自問を含んだ詠嘆である。「貴殿を誅伐なさろうなどというような心積もりでは毛頭あられませぬのですなぁ。」
・「日來(ひごろ)のごとく、異心有るべからず。」「普段通り。疑心など毛頭あろうはずは、ない。」
・「御誓言」神文(しんもん)に添えて誓った誓約のこと。
・「猶ほ出居(でゐ)に在り」応対した客間から動かなかったのである。激しい精神的ストレスを経て、突然、安堵した結果、全身脱力し、腰も立たなかったものであろう。
・「驕りを窮め、益々當家を蔑如するの時」になってから「憖(なまじ)ひに對揚の所存を顯は」()したのでは、もう遅過ぎであって、「還へつて殃(わざわひ)に逢ふ」、こっちが赤子の手をひねるように簡単に滅ぼされてしまうぞ!
・「宮中」鶴岡八幡宮寺境内の内(うち)。「みやうち」と仮に訓じておく。
・「盛阿歸參以前」この「歸參」は後に出るように、幕府の執権時頼に報告するために向かうことを指す。
・「車排(くるまならべ)」ここは牛車や輿などの車置き場であろう。
・「暴疾」即座にむごたらしく殺されることの意であろう。
・「車排(くるまならべ)を撤(てつ)せしめ」先の車置き場から牛車や輿を片付けて、実戦本部に仕立てたものか。
・「分取(ぶんどり)を獲(え)たり」敵の首級を幾つも捕った。
・「巳の尅」午前十時頃。
・「若州」若狭守で三浦泰村のこと。既に注した通り、西阿の妻の兄である。
・「年來の一諾」普段からいつも約束していたこと。
・「盍ぞ後聞を耻ぢざらんや」ゆくゆく起こるであろうところの親族を裏切ったという蔭口をあなたは恥じるところがないのですか?
・「諍(いさか)ひ留むるに能はず。是れ、親昵(しんじつ)の好(よし)みを存(ぞん)ずるに非ず。且つは泰村に與同(よどう)の本意を却(しりぞ)けずして、一所に於いて追討を加へんが爲なり。尤も武道に叶(かな)ひ、情、有り」難解な部分である。甥であった長井泰秀は『議論を尽くして、叔父西阿が三浦につくというのをやめさせることはどうしても出来なかった。親族であるという好(よし)みであるから当然、そうするのが普通と考えるかもしれない。しかし、そうではない。寧ろ――彼が三浦について三浦と同心し、結局、それを私が追討する――それを、せねばならぬ、それが定めだ――という思いが深く起ったためである。それこそが――最も武士(もののふ)の道に適っており、私だけではなく、西阿にとっても、人としての「情け」というものに合致するものだ――という意識が沸き起こったからだ』という風に私は読む。……しかし、である。
……西阿は本当に、妻の一言で発心するように、鮮やかに三浦への同心を定めたのだろうか?
彼はそれまでの事蹟から見ても、鎌倉幕府内での状況を十全に把握していたと私は思うのである。
さればこそ、ここに至る遙か以前に、三浦を滅ぼす謀略が時頼―安達ラインの中で、粛々と計画され、順調に謀議されていたことも知尽していたもと考えるのが自然である。
さすれば、西阿は、あらゆる状況から考えて、
この日、三浦が滅ぼされるであろうことも予見していた
と推理していたと考えるのが自然である。
さればこそ、
彼は何の躊躇もなく、幕府方へつくために家を出ようとしたのである。そこでの妻の恨み言なんぞはとうに既に想定していたと考えるのは「当たり前だのクラッカー」でこそあれ、百八十度、決心を変える契機などにはなりはしなかったはずだ、と私は思う
のである。
しかしである。
事実、彼は突如、翻意するのである。
それは何故か?
……私はまさにこの甥の泰秀と邂逅した瞬間こそ、その決意が固まった瞬間だったのではなかったか? と考えたい
のである。
……この時まで西阿は迷っていた。……そうして甥が自分と同じく、何の迷いもなく、当然の如く、時頼方に馳せ向かうのに行き逢ったその時……
……その時……
西阿には――亡き長兄のことが――フラッシュ・バックしたのではなかったろうか?
と私は考えるのである。
彼の兄である大江広元の長男大江親広(?~仁治二(一二四二)年)は源頼家や実朝の側近として重用され、建保七(一二一九)年の実朝暗殺後に出家、同年に京都守護となるも、その直後に起った承久の乱では後鳥羽上皇に從って、北条泰時軍と戦い、敗れて後、出羽寒河江(さがえの)荘(現在の山形県西村山郡西川町内)に遁れ、そこで不遇のうちに亡くなったとされる。彼の法名は蓮阿であり、西阿と同じく、浄土宗の信者であったことは最早、疑いない(父広元が嘉禄元(一二二五)年に逝去した際には息子の佐房に使いとして送り、阿弥陀如来尊像を彫刻させて、胎内に広元の遺骨を納めて寒河江荘の阿弥陀堂に安置したともウィキの「大江親広」にはある。阿弥陀である。彼は間違いなく、念仏宗なのである)。
……とすれば……
……彼、西阿は――「……次は私の番だ……」――と考えたのではなかったか?
……兄が大江の血筋を意識しながらも(但し、親広は強力な親幕派公卿であった源通親の猶子となって源親広と称してはいた)、後鳥羽上皇方についたのは、王家(天皇)に弓引くことなく従ったという点に於いて、それこそ「武士(もののふ)」のあるべき姿であったし、しかも同じ念仏の信仰者でもあったのだった。
……ここで、大江の血を繋げる甥泰秀が幕府へ当然に馳せ参じるの見た時――西阿は、
「……彼がいる……彼が大江の血として華やかに、残るのだ。……私は……私は兄のように……そうして、妻の言う……「武士(もののふ)」の正しき行いとして……負けることの分かっている三浦に――つこう。……そうして……亡びゆく彼らを……兄が父にしたように……「念仏」を以って浄土に引導する役目を……果たそう。……」
と決したのではなかろうか? さらに言えば、この「吾妻鏡」の記載者が前に述べた通り、泰秀の孫長井宗秀であれば、そうした大江一族の思いをここの描写で秘かに代弁しようとしたとしても、少しもおかしくない、と私は思うのである。
・「毛利入道殿」毛利季光、西阿のこと。
・「午の刻」正午頃。
・「伴黨(ばんたう)」それに従う一党。
・「相ひ支ふる」進行を遮った。
・「法事讚(ほふじさん)」浄土教の開祖である唐の僧善導の著。「浄土法事讃」とも称する。「阿弥陀経」と讃文とを交互に掲げ、懺悔供養などの法式を明らかにしたもの。ここはその中の幾たりかの経と讃とを唱和したものであろう。
・「調聲(てうしやう)」読経の際の音頭を執ること。
・「石橋」「しやくけう(しゃっきょう)」と読みたい。
・「武藏藏人太郎朝房」北条時房の子朝直(ともなお 建永元(一二〇六)年~文永元(一二六四)年)の長男(らしい)北条朝房(?~(一二九五)年)。この時は事実、義絶されていたようだが、この宝治合戦でのこの功績によって許され、後には九州方面で守護を勤めているようである。
・「父朝臣義絶の身たり」「朝臣」は「朝直」の誤字であろう。北条朝直はウィキの「北条朝直」によれば、『時房の四男であったが長兄時盛は佐介流北条氏を創設し、次兄時村と三兄資時は突然出家したため、時房の嫡男に位置づけられて次々と出世』したものの、正室が伊賀光宗の娘で、貞応三(一二二四)年六月に起った伊賀氏の変(第二代執権北条義時の死去に伴って伊賀光宗とその妹で義時の後妻(継室)であった伊賀の方が伊賀の方の実子北条政村の執権就任と娘婿の一条実雅の将軍職就任を画策して未遂に終わった政変)で『光宗が流罪となり』、嘉禄二(一二二六)年二月には、『執権北条泰時の娘を新たに室に迎えるよう父母から度々勧められる』も、二十一歳で『無位無官の朝直は愛妻との離別を拒み、泰時の娘との結婚を固辞し続け』、『翌月になっても、朝直はなおも執権泰時、連署である父時房の意向に逆らい続け、本妻との離別を哀しむあまり出家の支度まで始めるという騒動になっている。その後も抵抗を続けたと見られるが』、五年後の寛喜三(一二三一)年四月、『直の正室である泰時の娘が男子を出産した事が『吾妻鏡』に記されている事から、最終的に朝直は泰時と時房の圧力に屈したと見られる』。『北条泰時から北条政村までの歴代執権に長老格として補佐し続けたが寄合衆にはついに任じられなかった』とある。そのトンデモ父から勘当(「義絶」)されているというのだから(理由は不明)、ちょっと凄い。
・「一(いつ)も有情(うじやう)の相ひ從ふ無し」(前注の通りの我儘から総スカンを喰らっていた朝直の、その息子なれば)意気に感じて彼に助力してやろうと従う者は誰一人としていない。
・「輙(たやす)く討ち取らんと欲するの處、金持(かねもちの)次郎左衞門尉〔泰村が方。〕に扶(たす)けられ、其の命を全うす」何とも情けないのは、敵方の三浦から見ても鎧もつけずに、馬も瘦せ馬で、ドン臭い奴だから、容易に討ち取れると思われていたところが、何とまあ、その当の敵方であるところの「金持次郎左衞門尉」が、あんまりだ、とお情けで、命をとらずに、見逃してやった結果、命拾いした、というのである。「平家物語」以来の軍記物風書き物の特徴であるところの、哄笑を忘れぬ配置と言える。朝房はよっぽど嫌われていたものと見えるが、ここまで笑いものとするのは、ちと理不尽な気はする。
・「三刻」約一時間半。
・「宗(むねと)」三浦方についた主だった家長に属する代表者とその直系一族。
・「幕府の番帳を聽(ゆる)さるるの類」幕府に出仕する高級・中堅職員として、出仕記名名簿への記帳を許可されている(義務づけられている)御家人であろう。
・「平内左衞門尉景茂」長尾景茂(?~宝治元(一二四七)年)。ウィキの「長尾景茂」によれば、『公暁を討った長尾新六定景の嫡男として生まれる。長尾家は当時三浦氏の郎党であった。三浦氏は北条氏の外戚として勢威を振るっていたが』、この宝治合戦で『景茂らも自刃した。長尾一族はほとんど絶え、生き残りは景茂の子である景忠(四郎)など、わずかであったという』とあるが、一応、没年には表記通り「?」が附されている。実は一族自刃後の遺体は損傷が激しく(識別不能とするための意図的なものと考えられる)、遺体の同定は困難を極めたらしい。さればこそ、「吾妻鏡」も最後に「缺落(かけおち)、或は逐電」と記して厳重に探索しているのである。
・「子息四郎景忠に行き逢ひ、之れを生虜(いけど)り、持參す」とあり、殺したとは書いていない。恐らくは末子で少年だったのであろう。彼ぐらいは生き残らせたい気がする。
・「甲冑の勇士等十餘騎、壹岐前司の行路を塞ぎ、先登を諍ふの間、泰綱、其の名字を問ふと雖も、敢へて返答に能はず。而るに景茂等所在せざるに依つて、合戰の儀無し。剩へ彼の勇士、名謁(なのり)乍ら、逐電す」この連中、実に怪しい。三浦の残党の生き残りが、それこそ駆落・逐電するため、或いは誰かを逃がすために演じた、一芝居だった可能性も拭えない気がする。「吾妻鏡」筆者、これ、最後の最後に、実に美事な謎、サスペンスを仕掛けてある気がする。
・「申の刻」午後四時頃。
・「北條重時」(建久九(一一九八)年~弘長元(一二六一)年)は第二代執権北条義時三男で第三代執権泰時は異母兄。六波羅探題北方や鎌倉幕府連署などの幕府要職を歴任した。
・「奏聞」朝廷への上奏文。
・「休幕」幕を廻らした休憩に設けられた場所らしい。
・「巳の尅」午前十時頃。
・「久我通光」(こがみちてる 文治三(一一八七)年~宝治二(一二四八)年)は公卿。従一位太政大臣。ウィキの「久我通光」によれば、『内大臣源通親の三男であるが、後鳥羽天皇の乳母・藤原範子所生のため嫡男の扱いを受けることになった。範子の連れ子で異父姉の承明門院が土御門天皇を生んでいる。一般的には久我家の祖と考えられて』おり、歌人としても知られ、『新三十六歌仙の一人』である。正治三(一二〇一)年に『公卿となり、異母兄堀川通具を越して昇進し、兄が任ぜられなかった右近衛大将を経て』建保七(一二一九)年には『内大臣に任じられる。承久の乱の折に後鳥羽上皇の皇子・雅成親王の義父だった事から、鎌倉幕府から恐懼に処せられ籠居を命じられる。だが、その後も密かに隠岐国の後鳥羽上皇と連絡を取り合っていたと言われている。後に後嵯峨天皇の大叔父として、弟の土御門定通とともに権勢を振るい』、寛元四(一二四六)年、『西園寺実氏の後に従一位太政大臣に昇った』。『公卿に任ぜられた年と同年、歌合(「千五百番歌合」)への参加を許されて』、「新古今和歌集」などの『勅撰和歌集に収められるなど当代を代表する歌人の一人でもあり、また琵琶に優れていたなど才気に溢れた人物として知られた』とある。
・「左近將監」北条時頼。
・「相摸守」北条重時。
・「追つて啓す」追伸の敬意表現。
・「禮紙」「点紙」「裏付」とも称し、書状の本文に添えて、同質の紙を重ねて出したもので、通常は白紙であったが、このように追伸をに及んだものも稀にあり、これはその特異例のようである。
・「兼日」「兼ねての日」の音読みで、あらかじめ、日頃、以前から、の意。
・「馳せ參ずべからず」(既に事態は収束したのであるから)今から鎌倉に馳せ参ずるようなことは全く以って必要ないし、してはならぬ。
・「仰せ」頼嗣将軍の命令。
・「雜掌」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条の現代語訳に、『三浦家京都出張所在留の雑務人』とある。同ページには宝治合戦関連の地図も載り、必見である!
・「國々の代官所從等の事」同じく「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条の注によれば、『三浦家が守護地頭をしていた国々』にいる、その代官や家来らの処遇を指す。
・「御沙汰に及ばずと雖も、委しく尋ね明らめ、注し申すに隨ひて、追つて御計ひ有るべし」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条の現代語訳に、『命令は出て居なくても、詳しく調べて明らかにし、書き出された文書によって、後で処理を指図』する、とある。]