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2016/03/31

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 赤翅蜂

Akabati

あかはち

赤翅蜂

チッ ツウ フヲン

 

本綱赤翅蜂狀如土蜂翅赤頭黒大如螃蟹穿土爲窠食

蜘蛛蜘蛛遙知蜂來皆狼狽藏隱蜂以預知其處食之無

獨蜂 作窠於木其窠大如鵞卵皮厚蒼黃色只有一箇

 蜂人馬被螫立亡也

蜂 在褰鼻蛇穴内其毒倍常中人手胸即圮裂非方

藥可療惟禁術可制

[やぶちゃん字注:「」=「虫」+「各」。]

獨脚蜂 在嶺南似小蜂黒色一足連樹根不得去不能

 動揺

又有獨脚蟻是亦如此蓋嶺南有樹小兒樹蛺蝶及此蜂

蟻皆生於樹是亦氣化乃無情而生有情也

 

 

あかばち

赤翅蜂

チッ ツウ フヲン

 

「本綱」、赤翅蜂、狀、土蜂のごとく、翅、赤くして、頭、黒く、大いさ、螃蟹〔(かに)〕のごとく、土を穿ちて窠と爲し、蜘蛛を食ふ。蜘蛛、遙かに蜂の來ることを知りて、皆、狼狽(うろた)へて藏(かく)れ隱(かく)る。蜂、以預(あらかじ)め、其の處を知り、之〔(れを)〕食ひて、遺(のこ)すこと無し。

獨蜂 窠を木に作る。其の窠の大いさ、鵞卵のごとし。皮、厚く、蒼黃色にして、只だ、一箇の蜂、有り。人馬、螫されて立処に亡〔(し)〕す。

蜂〔(らくほう)〕 褰鼻蛇〔(けんびだ)〕の穴の内に在り。其の毒、常に倍す。人の手・胸に中〔(あた)〕れば、即ち、圮(やぶ)れ裂く。方藥の療すべきに非ず。惟だ禁術(まじな)ひて制すべし。

[やぶちゃん字注:「」=「虫」+「各」。]

獨脚(かたあし)蜂 嶺南に在り。小蜂に似て、黒色、一足。樹の根に連なりて、去ることを得ず、動揺すること、能はず。

又、獨脚(ひとつあし)の蟻、有り。是れも亦、此くのごとし。蓋し、嶺南に〔は〕樹小兒〔(じゆしやうに)〕・樹蛺蝶〔(じゆけふてふ)〕、有り、及び、此の蜂・蟻〔も〕皆、樹より生(しやう)ず。是れも亦、氣化なり。乃〔(すなは)〕ち、無情より有情を生ずるなり。

 

[やぶちゃん注:いろいろ探ってみると、この「赤翅蜂」とは、クモを襲うという限定的習性に着目するなら、

膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ギングチバチ科ギングチバチ亜科ジガバチモドキ属 Trypoxylon のジガバチモドキ類

と判定する。「モドキ」とあるぐらいで、実は細腰(ハチ)亜目アナバチ科ジガバチ亜科ジガバチ族 Ammophilini とは形状が酷似しながら、科のタクサで異なる全くの別種であるので注意されたい。調べた限りではジガバチモドキ類は総てがクモを狩るようである。但し、彼らの多くは、土中ではなく、竹や木の孔の中に営巣産卵(例の麻酔されたクモに産卵してそれを封入するタイプの寄生蜂である)するようである。翅ではないが、スリムな腹部上部が鮮やかな赤い色をしている但し、ウィキの「ジガバチによれば、アナバチ『科で似た生態だがジガバチ亜科でない』キゴシジガバチ亜科の『Sceliphron 属はクモを捕る』とはあるので、これも同定候補とはなる(但し、封入は土中と思われる)。

「螃蟹〔(かに)〕」は現代中国語でも広く甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目 Brachyura に属するカニ類を指す。

「褰鼻蛇〔(けんびだ)〕」東洋文庫版では『白花蛇。中国南方山中にいる』と割注するが、これは有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ上科クサリヘビ科マムシ亜科ヒャッポダ属ヒャッポダ Deinagkistrodon acutus のことである。「百歩蛇」でこれは、咬まれると百歩歩くうちに死ぬとされる伝説的な実在する毒蛇である(但し、後で引用するが、毒性そのものは強くはない)。ウィキの「ヒャッポダ」によれば、特に台湾で「百歩蛇」と呼ばれ、『日本名、英名もこれに準ずる。中国では』「白花蛇」「百花蛇」「五歩蛇」「七歩蛇」とも、また、その独特の頭部の形状から「尖吻蝮」(音なら「センフンフク」)とも呼ぶ。分布は『中国(南東部、海南島)、台湾、ベトナム』で全長は八〇~一二〇センチメートル、『ニホンマムシと同じく、全長に比して胴が太く体形は太短い。体色は濃褐色で、暗褐色の三角形に縁取られた明色の斑紋が入る。この斑紋は落ち葉の中では保護色になる。鱗には隆起(キール)が入る』。『頭部は三角形で吻端は尖り、上方に反り返っている。目は金色で細い縦長の瞳を持つ』。『毒自体の強さは高くないが、毒の量が多く』、咬まれた場合は危険である。『山地の森林に住み、特に水辺を好む。動きは緩怠』。『食性は動物食で、ネズミ、鳥類、カエル等を食べ』、『繁殖形態は卵生で』、一回で二十~三十個を産卵する。『数が少なく、蛇取りもなかなかお目に掛かることがないため、幻の蛇と呼ばれている』。

「獨蜂」前の章の「露蜂房」に既出。不詳。

蜂〔(らくほう)〕」不詳。強烈な毒性(或いはアナフラキシー・ショック。人の手や胸にちょっと刺さっただけでそこが爛れ破れて裂け、本草記載であり乍ら、処方箋もないと匙を投げ、あろうことか、呪(まじな)いしか手はない、とは何ちゅうこっちゃ! と義憤に駆られるのだが、これは実はまさに劇症型のアナフラキシー・ショックを連想させるようでもあるのである)からやはりオオスズメバチの類いであるか。

「其の毒、常に倍す」他の蜂に比すと、という意。強毒ヒャッポダの強毒共生することによる毒の強化という連想、所謂、「類感呪術」的な似非本草家が思いつきそうな――何だかな――ではある。しかし、よく想像してみると、ヒャッポダがとぐろを巻いている色とその形は、スズメバチ類が地面や木の洞(うろ)の中に作る円盤状の何層もの大きな巣を、どこか連想させる。これこそまさに「類感」なのではなかろうか? などと妄想してしまった。

「獨脚(かたあし)蜂」この名前は、現行では前にも出した膜翅(ハチ)目広腰(ハバチ)亜目キバチ上科キバチ科キバチ亜科 Siricinae のキバチ(木蜂)類を指す。キバチ類は腹端に角状の有意に長い突起を持つが、それを一本足と見立てたものだろうか?

「嶺南」現在の広東省・広西チワン族自治区の全域と湖南省及び江西省の一部に相当する地域の古称。

「黒色、一足。樹の根に連なりて、去ることを得ず、動揺すること、能はず」……真黒で一本足で木の根っこに連なっている……ように見えるというのは……これ、地面の中に根を張っているように見え……そこから直立して生えているように見えるということだろ?……しかもそれは蜂なんだよ……確かに蜂なんだよ!……だのに、羽根を広げてそこから飛び立つことも出来ず……微動だにしないんだよ!……どうも、これ……おかしいぞ?!……これは……特定の蜂に寄生する「冬虫夏草」じゃあ、あるまいか? おった!おった!ズバリ! 菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門フンタマカビ綱ボタンタケ亜綱ボタンタケ目オフィオコルディケプス科オフィオコルディケプス属ハチタケ Ophiocordyceps sphecocephala つぅがおるやないかい!(画像も発見したが、エグいのでパス)

「獨脚(ひとつあし)の蟻」特定のアリの「冬虫夏草」じゃねえか? 凄いのがいるぞ! アリに寄生してアリを操作して適切な場所に移動させて(!)発芽するちゅう Ophiocordyceps属のとんでもない奴が!(やはり画像も発見したが、エグいのでパス)

「樹小兒〔(じゆしやうに)〕」これもい小さな人の形に見える「冬虫夏草」か、或いは、最近、日本でも問題になった、触れただけで毒にやられる(!)ちゅう、子嚢菌門カノコカビ綱ニクザキン目ニクザキン科ニクザキン属カエンタケ Hypocrea cornu-damae なんてどうよ! 俺にはありゃ、赤い腹掛けした子どものようにも見えるで!(これも画像はワンサカあるが、色も形も結構、強烈なのでパス)

「樹蛺蝶〔(じゆけふてふ)〕」…………人の小躍りに水を注すものを見つけてしまった……この「蛺蝶」に東洋文庫版現代語訳は『あげはちょう』とルビするんだわ(悔しいから言わしてもらうとや! 「樹」は何やねん!)……鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科 Papilionidae のことだね……しかも……さらに調べてみるとだな……「蛺蝶」はこれで普通に「たてはちょう」、鱗翅目アゲハチョウ上科タテハチョウ科 Nymphalidae と読むことも知っちまったんだわ……でもなぁ、やっぱさ……「樹」が頭についとるやで! 動かんのやで! ぴくりともせえへんのやで! 「冬虫夏草」なら、総て丸く収まるんだけどなぁ……(ト、筆者、未だ納得出来ぬ風にて、下手へすごすごと退場)

「氣化」五行説や漢方医学で、ある物質を別の物質に変化させる気の働きを言う語。以下にように「無情より有情を生ずる」という驚くべき「化生(けしょう)」(仏教の謂い)のことらしい。]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 露蜂房

Hatinosu

はちのす  蜂腸 蜂

露蜂房   【與窠同】 百穿

       紫金沙

ロウ フヲン ハン

[やぶちゃん字注:「」=「果」*「力」。]

 

本綱露蜂房味甘鹹有毒有四件

黃蜂窠 乃山中大黃蜂窠也其房有重重如樓臺者其

 大者圍一二丈在樹上内窠小隔六百二十六箇大者

 至千二百四十個其褁粘木蒂是七姑木汁其蓋是牛

 糞沫其隔是葉蕊也

石蜂窠 在人家屋上大小如拳色蒼黒内有青色蜂二

 十一箇或只十四箇其蓋是石垢其粘處是七姑木汁

 其隔是竹蛀也【或云其隔葉蕋也】

獨蜂窠 大小如鵞卵大皮厚蒼黃色是小蜂幷蜂翅盛

 裏只有一箇蜂大如小石燕子許人馬被螫着立亡也

 俗名七里蜂者是矣

草蜂窠 尋常所見蜂也入藥以草蜂窠爲勝

主治蟲牙痛喉痺及舌上出血吐血衂血或二便不通者

 

 

はちのす  蜂腸〔(ほうちやう)〕 蜂〔(ほうくわ)〕

露蜂房   【は窠〔(くわ)〕と同じ。】 百穿〔(ひやくせん)〕

       紫金沙

ロウ フヲン ハン

[やぶちゃん字注:「」=「果」*「力」。]

 

「本綱」露蜂房、味、甘く鹹。毒、有り。四件、有り。

黃蜂窠 乃ち、山中の大黃蜂の窠なり。其の房、重重として樓臺のごとくなる者、有り。其の大なる者、圍〔(めぐり)〕一、二丈。樹の上に在り。内の窠、小にして、六百二十六箇を隔(へだ)つ。大なる者は千二百四十個に至る。其の褁〔(ふくろ)〕、木に粘〔(ねん)〕ず。蒂(へた)は是れ、七姑木〔(しちこぼく)〕の汁、其の蓋(ふた)は是れ、牛糞の沫〔(あわ)〕、其の隔ては是れ、葉の蕊〔(ずゐ)〕なり。

石蜂窠 人家屋上に在り。大小、拳(こぶし)のごとく、色、蒼黒なり。内に青色〔の〕蜂、二十一箇有り。或いは只だ、十四箇。其の蓋(ふた)は是れ、石垢、其の粘ずる處は是れ、七姑木の汁、其の隔ては是れ、竹の蛀(むしくだ)なり。【或いは云ふ、其の隔ては葉蕋なり〔と〕。】

獨蜂窠 大小〔(あり)〕。鵞卵〔(ぐわらん)〕の大いさのごとく、皮、厚く、蒼黃色なり。是れ、小蜂幷びに蜂〔の〕翅〔(はね)を〕裏〔(うら)〕に盛る。只だ、一箇蜂、有り。大いさ、小〔さき〕石燕子〔(せきえんし)〕の許〔(ばか)〕りのごとく〔して〕、人馬、螫着(さゝ)れて、立ちどころに亡〔(し)〕すなり。俗に七里蜂と名づくる者は是れなり。

草蜂窠 尋常に見る所の蜂〔の窠〕なり。藥に入るるには、草蜂窠を以て勝れりと爲す。

主に、蟲牙(むしば)痛み・喉痺〔(こうひ)〕、及び、舌の上より血を出し〔て〕吐血・衂血(はなぢ)〔(せるもの)〕、或いは二便〔の〕通〔ぜざる〕者を治すると云ふ。

 

[やぶちゃん注:蜂の巣である。私は小学校五年生の時、母が受付をやっていた、清泉女学院(向かいの玉繩城址に建つ)高等部の生物の先生が蜜蜂の飼育箱を開けて見せて呉れ、「巣を取って食べてごらん」と言われ、手ずから採って巣ごと食べた。あの時の至福の甘さを忘れることが出来ない。なお、蜜を蓄える蜂類は膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属 Apis だけではない。 ハナバチ AnthophilaBee)類(以下。ここはウィキの「ハナバチ」に拠ったが、その後の部分はネット上の複数の記載を参照した)は蜜を貯留する。

 ヒメハナバチ科 Andrenidae

 ミツバチ科 Apidae

 ムカシハナバチ科 Colletidae

 Dasypodaidae

 コハナバチ科 Halictidae

 ハキリバチ科 Megachilidae

 Meganomiidae

 ケアシハナバチ科 Melittidae

 Stenotritidae

但し、養蜂に用いられるミツバチ科ミツバチ族ミツバチ属 Apisや(狭義のミツバチ属の種群はウィキの「ミツバチに詳しいのでそちらを参照されたい。その記載によれば、現生種は世界で九種、その中で最も養蜂用に用いられている知られたセイヨウミツバチ Apis mellifera は二十四亜種あるとある)、南米で養蜂用に用いられているミツバチ科ハリナシバチ亜科ハリナシミツバチ亜科ハリナシミツバチ族Meliponini 以外では、人が恒常的に食用に供し得るほどに採取することは出来ないらしい。例えば、よく蜜を採るのを見かけるミツバチ科クマバチ亜科クマバチ族クマバチ属 Xylocopa は確かに「ハナバチ」の類で集蜜するが、彼らは単独生活をしており、蜂蜜としてして集めるのは不可能に近いのである。

・「圍〔(めぐり)〕一、二丈」周囲約三~六メートル十センチ弱。

・「六百二十六箇」ネット上の「本草綱目」の電子データの中には「六百二十六」とするものと、「六百二十」とする二種が存在するが、後者の二倍が丁度が「千二百四十個」であることを考えると、「六」は衍字か誤字のように私には思われる。

・「蒂(へた)は是れ、七姑木〔(しちこぼく)〕の汁、其の蓋(ふた)は是れ、牛糞の沫、其の隔ては是れ、葉の蕊〔(ずゐ)〕なり」これとか以下の同様の箇所は、巣の各部分の素材が本来は何であるかを示したものである。それらを巣を作る蜂(働き蜂)が自身の唾液と各素材を混ぜ合わせて構築するというのである(これが真実だとするなら、観察者はファーブル並みの根気強さを持っていたことになるが……)。「七姑木〔(しちこぼく)〕」は不詳。読みも単に単漢字の音を私が当てただけである。ネット検索をかけても、この「本草綱目」の記載に基づくものしか見当たらないようである。東洋文庫版現代語訳も『(不明)』と割注するばかりである。

・「鵞卵」鵞鳥の卵。現代医学で腫瘍(良性・悪性とも)の大きさを示すのに最大のそれの場合を「鵞卵大(がらんだい)」と称し、約十二センチメートルである。

・「石垢」川床の石などに付着した珪藻植物門珪藻綱のケイソウ類。細胞膜に特殊な構造のケイ酸質の殻を生じ,褐色の色素を有する単細胞の微小な藻類。淡水・鹹水(かんすい)・土壌中に広く分布し、種ははなはだ多い。殻の形が筆箱状のもの、円盤乃至は円筒形のもの二種類に大別される。単独又は群体で浮遊するプランクトン性のものと、集合着生するものとがあり、前者は魚の餌などとしても用いられる。

・「竹の蛀(むしくだ)」「蛀」は現代中国語で「木食い虫」と出るので、竹を食害するキクイムシ類を指すようである(一般に鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae のキクイムシ類は成虫・幼虫ともに食害する)。本邦ではナガシンクイムシ科ヒラタキクイムシ属ヒラタキクイムシ Lyctus brunneus などが代表種のようである。

・「小蜂幷びに蜂〔の〕翅〔(はね)を〕裏〔(うら)〕に盛る」これは事実とすると、乏しい私の知識の中でも、ややおかしい感じがする。小さな蜂や蜂の翅(はね)を以って蜜の貯留巣の裏張り(或いはこの「裏」は内の謂いかも知れない。その場合は内壁ということになる)をするとなると、その蜂は肉食性(雑食性を含む)である可能性が強いことになるからである。しかし、肉食性の蜂は蜜を摂餌はするものの、蜜を貯留することはしない。こんな蜂蜜巣を形成する単独生活をする蜂を御存じの方は、是非、御教授下されたい。

・「石燕子」東洋文庫版現代語訳では『つちつばめ』とルビするのであるが、種が分からん。「土」と「石」なら「岩」が連想される。スズメ目スズメ亜目ツバメ科ツバメ亜科 Delichon属イワツバメ(ニシイワツバメ:独立種説)elichon urbica のことだろうか? イワツバメの成鳥は全長十三~十五センチメートルでそれより小さいということで、六~七センチメートルととってよいか? とするとこれはもう(羽も含めりゃ、これくらいの大きさには感じる)、まさにオオスズメバチの類だわな。

・「七里蜂」不詳。

・「蜂〔の窠〕なり」意味が通らないので、無理矢理、補填した。

・「喉痺〔(こうひ)〕」口腔及び咽頭の炎症を起こして閉塞する病気。急性扁桃腺炎など。

・「舌の上より血を出し〔て〕吐血・衂血(はなぢ)〔(せるもの)〕」「衂血(はなぢ)」の「衂」(音「ニク」「ヂク(ジク)」)は単漢字で「鼻血」を意味する。但し、この部分、良安は「本草綱目」の「露蜂房」にある多量の「附方」の一部分を、よく意味もよく考えずに滅茶苦茶に継ぎ接ぎしたとしか思えない箇所であって、これは明らかに「舌上出血竅如針孔」(舌の上に出血があり、舌に針の孔ほどの小さな穴が開いている症状の謂いか)と、その次に出る「吐血・衄血」の症状名を繫いで無理矢理に訓じてしまったものである。今回、試みに「本草綱目」と対照して見て、そのひどさにただただ呆れかえっている次第である。]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 大黃蜂 附 胡蜂

Yamabati

やまはち

大黃蜂         【也末波知】

タアヽ ハアン フヲン

 

[やぶちゃん注:ここ以降は、今まで絵の下の項目名の上下を分割して並べて表記していたものを、原則そのまま表記することとする。]

 

本綱大黃蜂其狀比蜜蜂更大其色黃在人家屋上及太

木間作房大者如巨鐘其房數百層土人采時着草衣蔽

身以捍其毒螫復以烟火熏去蜂母乃敢攀緣崖木斷其

蒂一房蜂兒五六斗至一石捕狀如蠶蛹瑩白者然房中

蜂兒三分之一翅足已成則不堪用

 くろはち

 胡蜂

[やぶちゃん注:以下は原典では「二種也」までが「胡蜂」の下、二字下げの位置に記されてある。この注は書き下し文では略す。]

壺蜂2蜂玄瓠蜂大黃蜂之黑色者也

凡物黒者謂胡故也乃是大黃蜂一類二種

[やぶちゃん字注:「1」=「侯」+「瓜」。「2」=「婁」+「瓜」。]

按黒蜂遍身正黒唯背一處自頸至腰正黃身肥圓四

翅六脚其脚末曲如鐡把而尻出刺能螫人

 

 

やまばち

大黃蜂         【也末波知。】

タアヽ ハアン フヲン

 

「本綱」、大黃蜂は其の狀〔(かたち)〕、蜜蜂に比すれば、更に大なり。其の色、黃なり。人家屋の上、及び太木〔(たいぼく)〕の間に在り、房を作る。大なる者は、巨鐘のごとく、其の房、數百層。土人、采る時、草の衣を着て、身を蔽(おほ)ひ、以て其の毒螫〔(どくばり)〕を捍(ふせ)ぐ。復た、烟火を以て熏〔(ふす)〕び、蜂の母を去り、乃ち敢へて崖・木に攀緣(よぢのぼ)りて、其の蒂(へた)を斷(き)る。一房に蜂兒(こ)、五、六斗より一石〔(こく)〕に至る。狀、蠶(かいこ)の蛹(こ)のごとく瑩白〔(えいはく)〕なる者を捕る。然れども、房中の蜂の兒、三分の一、翅・足、已に成れば則ち用ふるに堪へず。

 くろばち

 胡蜂

壺蜂〔(つぼばち)〕・2蜂〔(こうらうほう)〕・玄瓠蜂〔(げんこほう)〕大黃蜂の黑色なる者なり。凡そ、物の黒〔なる〕者を「胡」と謂ふ故なり。乃ち、是れ、大黃蜂と一類二種なり。

[やぶちゃん字注:「1」=「侯」+「瓜」。「2」=「婁」+「瓜」。]

按ずるに、黒蜂、遍身、正黒。唯だ、背一處、頸より腰に至りて、正黃。身、肥〔へ〕、圓〔(まろ)〕く、四の翅、六の脚。其の脚の末、曲りて鐡把のごとくにして、尻、刺〔(はり)〕出でて、能く人を螫す。

 

[やぶちゃん注:さてもこの二種も同定はすこぶる迂遠である。

 今までの記載の流れから言えば、この「大黃蜂」は大型種で黄色の紋を持ち、人家の屋上や大木の間に恐ろしく大きな多重層構造の巣を営巣し、人が食用にするためにその「蜂の子」(蜜でない点に注意)を採取する際には刺されないように厳重な防護服を身につけるとあることから、これ、すんなりと、

細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科スズメバチ属オオスズメバチ Vespa mandarinia 或いはヒメスズメバチ Vespa ducalis などの中大型のオオスズメバチ属 Vespa のスズメバチの仲間

と同定して何ら問題ないようにも思われかも知れない。

 しかし、である。この挿絵をよく見て戴きたい

 このずんぐりとしたそれは、これ、どう見ても、オオスズメバチ或いはスズメバチ亜科 Vespinae のそれのようには私には見えないのである。この絵のそれは形状(腹部の縞部分に眼をつぶると)は私には、

細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科クマバチ亜科クマバチ族クマバチ属 Xylocopa

の類に見えるのである。因みに、本邦のクマバチ類は一種ではない。ウィキの「クマバチ」によれば、一般に我々が「クマバチ」(熊蜂)と認識している、

クマバチ(キムネクマバチ) Xylocopa appendiculata circumvolans(北海道南部から屋久島に分布)

以外に、

アマミクマバチ Xylocopa amamensis(口永良部島から徳之島に分布)

オキナワクマバチ Xylocopa flavifrons(沖永良部島から沖縄本島に分布)

アカアシセジロクマバチ Xylocopa albinotum(多良間島から与那国島に分布)

オガサワラクマバチ Xylocopa ogasawarensis(小笠原諸島の父島列島・母島列島に分布)

する他、外来侵入種として、

タイワンタケクマバチ Xylocopa tranquebarorum

が二〇〇七年に東海地方で確認されているとある。

 そう考えたところで、「大黃蜂」の同異種として示してあるところの、この「胡蜂(くろばち)」の本文記載を読むと、

全身が真っ黒であるが、ただ、背の一ヶ所だけ、具体には頸部から腰部にかけて真っ黄色であり、その身はよく肥えて丸く、四枚の翅で六脚とし、その脚の尖端は曲って鉄の取っ手のような形状を成す

という。これを読むや、これはもう(以下、引用はウィキの「クマバチから)、

『体長は』二センチメートルを『超え、ずんぐりした体形で、胸部には細く細かい毛が多い。全身が黒く、翅も黒い中、胸部の毛は黄色いのでよく目立つ。体の大きさの割には小さめな翅を持つ。翅はかすかに黒い』。は『顔全体が黒く、複眼は切れ長。額は広く、顎も大きいため、全体に頭が大きい印象。それに対し』て、は『複眼が丸く大き目で、やや狭い額に黄白色の毛が密生し、全体に小顔な印象』

とある、

クマバチ属 Xylocopa と完全に一致するように私には見える

のである。なお、本文では、尻に針が突出しており、よく人を刺す、とあるのであるが、クマバチはのみが棘針を持ち、『巣があることを知らずに巣に近づいたり、個体を脅かしたりすると刺すことがあるが、たとえ刺されても重症に至ることは少ない(アナフィラキシーショックは別)』とある。

 さてそうして、同ウィキはさらに「スズメバチとの誤解」という特別項を設け、

クマバチ『は大型であるために、しばしば危険なハチだと』誤『解されることがあり、スズメバチとの混同がさらなる誤解を招いている。スズメバチのことを一名として「クマンバチ(熊蜂)」と呼ぶことがあり』、『これが誤解の原因のひとつと考えられる』。しかし、『花粉を集めるクマバチが全身を軟らかい毛で覆われているのに対して、虫を狩るスズメバチ類はほとんど無毛か粗い毛が生えるのみであり、体色も大型スズメバチの黄色と黒の縞とは全く異なるため、外見上で取り違えることはまずない』のが冷静な観察上の事実なのである。この誤解については、『ハチ類の特徴的な「ブーン」という羽音は、我々にとって「刺すハチ」を想像する危険音として記憶しやすく、特にスズメバチの羽音とクマバチの羽音は良く似た低音であるため、同様に危険なハチとして扱われやすい。クマバチは危険音を他のハチ類と共有することで、哺乳類や鳥類に捕食されたり巣を狙われたりするリスクを減らしている、という説もある』(但し、ここの説には要出典要請がかかっている)。また、文学やメディア上の影響として、『かつて、児童文学作品の』「みつばちマーヤの冒険」(ドイツの作家ワルデマル・ボンゼルス(Waldemar Bonsels 一八八一年~一九五二年)の一九一二年作のDie Biene Maja und ihre AbenteuerThe Adventures of Maya the Bee))『において、蜜蜂の国を攻撃するクマンバチの絵がクマバチになっていたものがあったり』、メルヘン・テレビ・アニメーション「昆虫物語 みなしごハッチ」(原作・制作は吉田竜夫。初回放映は昭和四五(一九七〇)年四月七日から翌年十二月二十八日までフジテレビ系で放送。全九十一回)の第三十二話「ひとりぼっちの熊王」の中で、『略奪を尽くす集団・熊王らがクマバチであった。少なくとも日本において、ミツバチのような社会性の蜂の巣を集団で襲撃するのは肉食性のスズメバチ(特にオオスズメバチ)であり、花粉や蜜のみ食べるクマバチにはそのような習性はない。この様に、本種が凶暴で攻撃的な種であるとの誤解が多分に広まってしまっており、修正はなかなか困難な様子である』

とあるのである(最後の部分は昆虫の苦手な私でも知っている、昆虫愛好家の間では、かなり有名な批判対象ネタである)。なお、クマバチの呼称についても以下のようにある。

『「クマ」とは哺乳類の熊のほか、大きいもの強いものを修飾する語として用いられる。このため、日本各地の方言において「クマンバチ」という地域が多数あるが、クマンバチという語の指す対象は必ずしもクマバチだけではない場合』(他に地域によってスズメバチ・マルハナバチ・ウシアブなど多様な別種を指す)『があり、多様な含みを持つ語である。クマバチとクマンバチでは別のハチを指す場合もある』

さても、これも私は「クマバチ」の兇悪誤認に強く影響していると考えている(下線部は総てやぶちゃん。なお、同ウィキには『「ン」は熊と蜂の橋渡しをする音便化用法であり、方言としても一般的な形である』ともある)。

 以上から、私は、取り敢えず、

「大黃蜂」は攻撃性の強いオオスズメバチ Vespa mandarinia 或いはヒメスズメバチ Vespa ducalis などの中大型のオオスズメバチ属 Vespa のスズメバチの仲間を主記載としながらも、性質の至って温和なクマバチ属 Xylocopa を幾分か混同して誤認したもの

とし、

「胡蜂」は全くその逆に、温和なクマバチ属 Xylocopa を同じ大中型の攻撃的なオオスズメバチ属 Vespa の類とやや混同して誤認したもの

と採るものである。大方の御叱正を俟つものである。考えてみると、クマバチ(キムネクマバチ) Xylocopa appendiculata circumvolansに刺されたという人は私の五十九年の人生では知らない。ただ、小学校六年の夏、亡き母が干していた靴下の中にクマバチ(キムネクマバチ) Xylocopa appendiculata circumvolans が潜り込んでいたことがあった。母が摑んだ途端、物凄い羽音がして、床の上で靴下が生き物のように跳ね躍った。母は刺されはしなかった。しかし、母があんなに真っ青になったのを初めて見たことを、何故か今、思い出した……

・「攀緣(よぢのぼ)りて」「攀緣」の二字を「よぢのぼ」と訓じている。

・「蒂(へた)」巣が対象物に附着している接合部。蜂類の場合、営巣の状態によっては、柄(え)のような形状を成し、果実の出っ張っている萼(がく)の部分に似ていないとは言えない。

・「五、六斗より一石」現行の尺貫法では、一斗は十升で約十八リットルであるから、「五、六斗」は九十~百八リットル、一石は十斗で百八十・三九リットルに相当するが、「本草綱目」の明の頃は、一斗は十・七四リットル、一石は単純にはその十倍であるから、「五、六斗」は五十三・七四~六十四・四四リットル、一石は百七・四リットルにしかならないので注意が必要。

・「瑩白〔(えいはく)〕」汚点のない、磨き上げたような輝く鮮やな白さを指す。

・「2蜂〔(こうらうほう)〕・玄瓠蜂〔(げんこほう)〕」(「1」=「侯」+「瓜」。「2」=「婁」+「瓜」。)読みは東洋文庫版現代語訳のルビを参考に歴史的仮名遣を推定して振った。

・『物の黒〔なる〕者を「胡」と謂ふ故なり』間違ってもらっては困るが、「胡」という漢字には色としての「黒」の意はない。これは察するに、「胡」は狭義には中国北方の異民族である匈奴(きょうど)を指すものの、異民族を十把一絡げにした意味で、西方の異民族、もっと広く異邦人を「胡人」とも称した。当然、その中で目立つのは、見た目日焼けた遊牧民の肌の黒い人、実際に肌に黒い色素を持つネグロイド(Negroid)系の人々もいたから、それから「胡人」「異人」「黒」い肌「黒」い色という認識が生じたものであろう。]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 木蜂

Mikabati

みかはち

木蜂

 

木蜂

【和名美加波知】

 

本綱木蜂似土蜂而小在樹上作房人亦食其子【蜜蜂土蜂木蜂黃蜂子俱可食】

 

 

みかばち

木蜂

 

木蜂

【和名、美加波知。】

 

「本綱」、木蜂は土蜂に似て、小さく、樹の上に在りて、房を作る。人、亦、其の子を食ふ。【蜜蜂・土蜂・木蜂・黃蜂の子、俱に食ふべし。】

 

[やぶちゃん注:ここで遂に、蜂の子の話が出、実は前掲の「蜜蜂」も「土蜂」もこの「木蜂」も、それから次の「黃蜂」の子も、「どれも皆、食べられる」とくる。中華ならではであるが、本邦でも蜂の子は昆虫食のチャンピオンとして好んで食われる。しかもそこで「蜂の子」として人の食用対象となるのは主に、細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科 Vespinae のスズメバチ類の子である。ウィキの「スズメバチによれば、『他の利用法は主に食用である。長野県の伊那谷地方を中心に、クロスズメバチ』(クロスズメバチ属クロスズメバチ Vespula flaviceps)『類(地方名スガレ)の幼虫、さなぎを食用にすることが他地方でもよく知られるが、実際には同地方ではさらに大型のキイロスズメバチ』スズメバチ属キイロスズメバチ Vespa simillima xanthoptera)『などの幼虫、さなぎの巣の捕獲、食用も盛んに行われている。また岐阜県の恵那市・中津川市などの東濃地方では、クロスズメバチの幼虫を「へぼ」と呼び、炊き込み御飯』「へぼめし」『にして食べる習慣がある。甘露煮にした瓶詰も作られて販売されている』。『こうした食習慣は日本国内ではその他に九州の熊本県、大分県、鹿児島県、宮崎県にまたがる九州脊梁山地でも盛んであり、この地方では特に大型の幼虫が得られるオオスズメバチ』(スズメバチ属オオスズメバチ Vespa mandarinia japonica)『を好んで採集する習慣も根強い』。『収獲方法としては、殺したアカトンボ類、小さく切った鶏肉やカエルの足の肉を置いて働き蜂に肉団子を作らせ、肉団子の処理過程に巧みに介入してこより状にした真綿を肉団子やハチの胴に絡ませて目立つようにし、その働き蜂を追跡して営巣場所を突き止める蜂追いが行われる。エサを肉団子にしている間は他の物に興味を示さない習性を利用したものである。一方最近では、天然で大きく育った巣を採集するのではなく、営巣初期のまだ若い小さな巣を採集し、人家の庭先で巣箱に収容して川魚の肉などを与えることで、より多くの幼虫やさなぎを収めた大きな巣を得ることも盛んになっている。また、軒下に形成された巨大なキイロスズメバチの巣に対しては、防護服を着用した上で、業務用の強力な掃除機で攻撃してくる成虫を全て吸い込み、巣を採集する人もいる』。『巣の採集の際は、線香花火などの比較的穏やかに燃焼する黒色火薬の煙を吹き付けて働き蜂の攻撃を封じ、巣を崩して幼虫やさなぎを採取している。この地方ではこうした巣の採集が盛んなため、専用に硫黄分を多くした黒色火薬製品である煙硝が市販されている』。『また、最近では地方特有の食文化というだけはなく、多種のアミノ酸が含まれていることなどが着目され、成虫を蜂蜜や焼酎に漬けたものや、成分を抽出したサプリメントなどにも注目が集まっている』。『日本国外では大型のスズメバチ類の種多様性が最も高い中国の雲南省でもスズメバチ類の幼虫、さなぎに対する食習慣が非常に盛んであり』、『最近の経済開放政策に伴う盛んな商品化のための乱獲が懸念されるほどである。雲南では、成虫も素揚げにして塩をまぶし、おかずとして食べる。また、スズメバチ類の個体群密度や巣の規模が大きな熱帯アジア各地にも(例えばミャンマー』)、『同様の食習慣を有する地方は多い』とあり、さらにウィキの「はちのこ」の方には、『はちのこ(蜂の子)は、クロスズメバチなどの蜂の幼虫(蛹、成虫も一緒に入れることもある)で、日本では長野県・岐阜県・愛知県・静岡県・山梨県・栃木県・岡山県・宮崎県など』『の山間部を中心に日本各地で食用とされている。古い時代では蛋白源が少なく常食され』、『クロスズメバチの他、ミツバチ、スズメバチ、アシナガバチなども食べられている。近年は高級珍味として、缶詰や瓶詰でも販売されている』。『猟期は秋、長野では「蜂追い」(すがれ追い)と呼んでかつては子供の遊び、現在では半ば大人のレジャー化している。クロスズメバチの場合、地中に巣を作るため、まず巣を発見しなければならない』。『ハチの巣を見つけ出すには、ハチの移動経路や営巣場所となりやすい場所を注意深く観察し、飛翔するハチを手掛かりに巣の場所を予測して見つけ出す方法と、エサを巣に運ぶハチを追跡する方法とがある』。『後者の場合、綿を付けた生肉(カエルの肉が良いとされる)や魚、昆虫等をエサにハチをおびき寄せ、巣に運ぼうとするところをひたすらに追跡する。綿は飛翔するハチの視認性を良くし、空気抵抗によってハチの飛翔速度を落として追跡しやすくする役割がある。綿が小さすぎるとハチを見失う可能性が高くなり、大き過ぎるとハチがエサの運搬をあきらめてしまうことがあるため、綿の大きさの調節には経験が必要』。『ハチは畑や川、人家、道路などの上を直線的に飛翔し、また上方を飛ぶハチを見ながら走って追跡することになるため、追跡には交通事故、転倒、転落などの危険が伴う。加えて、追跡時に田畑の農作物を踏み荒らす原因になることから、「蜂追い(ハチ取り)」を禁じている地域もある。こうした事情から、現在では都市部はもとより、郊外においてもこの方法を取ることは難しい』。『巣が発見できたら煙幕花火などを使って巣を燻し、ハチが一時的に』(一~二分程度)『仮死状態となっている間に地中から巣を掘り出す』。『幼虫は、膜を張った巣の中にいるので、ピンセットを使い、膜を剥がし取り出す。味は淡白で炒ったものは鶏卵の卵焼きを想起させる味である』とある(下線は総てやぶちゃん)。実は海産生物なら何でも来いの悪食(あくじき)食いの私は、実は小学校二年の時にアシナガバチに刺されたトラウマがあって未だ「蜂の子」は食べたことがない(イナゴやザザムシは大好物である)。嗅覚もなくなったから近いうちに挑戦してみようと思う。

 以上、長々と引いた理由は、主に下線部の記載に注目して戴きたいからである。「はちのこ」の記載の方には確かに、『ミツバチ』・『アシナガバチなども食べられている』とはある。あるが、実際に実見したことがある人は一目瞭然であろうが、スズメバチ類の蜂の子の方がこれらよりも圧倒的に大きい(オオスズメハチなどでは、異様なほど遙かに、である)。さればこそ、食用対象としてはスズメバチ類を一般的と考えるのが自然である(そもそもがここまでの食用の「蜂の子」の種対象はクロスズメバチであることが御理解戴けるはずである。とすれば、やはり営巣から考えるなら、前の、

「土蜂」はクロスズメバチ属クロスズメバチ Vespula flaviceps かその仲間

と考えるのが妥当であろう。しかし問題はこの「木蜂」で、この記載では『土蜂に似て、小さ』いとする、樹上営巣の蜂ということになるのだが、実はクロスズメバチはスズメバチ類の中でも最小種(十~十八ミリメートル)に属し、少なくとも本邦ではこれより小さい樹上営巣をするスズメバチがいないのである。しかし、ここだけは「本草綱目」の記載ということで何時ものように目をつぶらせてもらうなら、

「木蜂」はスズメバチ属 Vespa の中では最小(働きバチで十七~二十四ミリメートル)の大きさのであるケブカスズメバチ Vespa simillima simillima 或いはその亜種であるキイロスズメバチ Vespa simillima xanthoptera かその仲間、或いはスズメバチ属ではない、体長十四~二十二ミリメートルのホオナガスズメバチ属キオビホオナガスズメバチ(黄帯頬長雀蜂)Dolichovespula media か、その同属の仲間

を同定候補と出来るようには思う(以上は主にウィキの「スズメバチを参考にしている)。なお、「みかばち」は「和名類聚抄」に出る古式ゆかしい古名で、漢字では「樹蜂」を当てるのだが、辞書類を調べると、これを現在は、膜翅(ハチ)目広腰(ハバチ)亜目キバチ上科キバチ科キバチ亜科 Siricinae のキバチ(木蜂)類に同定していることが判った。この蜂は円筒状に細長く、は尾端に太い一本の棘状の強固な長い産卵管を持ち、これを木の中に深く刺し込んで産卵する(この際、木材腐朽菌の胞子を卵とともに材中に植えつけるために大きな林業被害を与えるともされ、庭園樹木や鉛管へ穿孔して通信ケーブルに被害を与えることもあるという)種であって、これから樹木に営巣などしないと考えてよく、除外出来る

・「黃蜂」ここで始めて出る。しかし「本草綱目」では、この箇所を含む、三箇所の本文中にしか出ず、その一つは明らかに「大黃蜂」のことを指していることが判る。しかも、項目(見出し)としては「黃蜂」は存在しない。従って、時珍が言う「黃蜂」は「大黃蜂」と断定してよい。されば、次の「大黃蜂」の項で考証することとする。]

2016/03/30

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 土蜂

Yamabati

ゆすらはち

土蜂

 

蜚零 蟺蜂

馬蜂

【和名由須

 留波知】

 

本綱土蜂山谷穴居作房赤黒色最大螫人至死亦能釀

蜜其子亦大白

 

 

ゆすらばち

土蜂

 

蜚零 蟺蜂

馬蜂

【和名、由須留波知。】

 

「本綱」、土蜂、山谷〔に〕穴居して、房を作る。赤黒色にして、最も大〔きく〕、人を螫〔せば〕死に至る。亦、能く蜜を釀す。其の子、亦、大にして白し。

 

[やぶちゃん注:「蜂」の項に出た際には、ミツバチの一種として見たが、「能く蜜を釀す」という部分に目をつぶると(元が「本草綱目」だからこれに拘る必要はないと考えてよい)、体色といい、成虫個体も幼虫も有意に大きいことといい、人を刺せば、人が死に至るという記載は、もう、細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科 Vespinae のスズメバチ類、特に本邦でなら、クロスズメバチ属クロスズメバチ Vespula flaviceps などを想起せざるを得ない。但し、同種は、ウィキの「スズメバチ」の「クロスズメバチ」によれば、体長は十~十八ミリメートルと『小型で、全身が黒く、白または淡黄色の横縞模様が特徴である。北海道、本州、四国、九州、奄美大島に分布。多くは平地の森林や畑、河川の土手等の土中に多層構造の巣を作り』、六月頃から『羽化をする。小型の昆虫、蜘蛛等を餌とし、ハエなどを空中で捕獲することも巧みである。その一方で頻繁に新鮮な動物の死体からも筋肉を切り取って肉団子を作る。食卓上の焼き魚の肉からも肉団子を作ることがある。攻撃性はそれほど高くなく、毒性もそれほど強くはないが、巣の近くを通りかかったり、また缶ジュース等を飲んでいる際に唇を刺される等の報告例がある。同属で外観が酷似するシダクロスズメバチ』(Vespula shidai)は、海抜約三百メートル以上の『山林や高地に好んで生息し、クロスズメバチよりもやや大きく、巣は褐色で形成するコロニーもやや大型になることが多い』とある。同属か、その近縁種の中国産の大型種か。なお、現在の日本で「土蜂」に近い「地蜂」という呼称は狭義には本クロスズメバチを指すことが多い。因みに、現行で「中華馬蜂」(上記の別名に出る。馬蜂というのは大きい形容というより、寧ろ、細腰のすらりとした形状に由来するようにも思われてくる。そういえば、図の形状もこれって、脚長蜂だべ!)という種がおり、中文サイトを見ると、これは本邦でも普通に見られるスズメバチ科アシナガバチ亜科Polistes属フタモンアシナガバチ Polistes chinensis を指す。調べると、刺されると相当に痛く(電撃的とある)、傷にも水泡が生じたりして侮れないようである。同様に「蜚零」で検索すると、中文サイトでは明らかにアシナガバチ然とした個体の写真が添えられてあったりもする。現行の和名ではズバリ、ツチバチ(土蜂)科 Scoliidae がおり、これは比較的大型の種が多く、黒地に黄・橙・赤などの斑紋を持ち、黒又は金色の剛毛で覆われるものの、この仲間は例のが地中のコガネムシ類の幼虫に産卵し、幼虫がこれを食べて発育する寄生蜂として知られるグループで、凡そこの記載条件からは遙かに遠いので除外される(しかし、ネット上の記載を見ると、これらを広義に「地蜂」と呼称している傾向が学術的な記載の中にさえ見られることも言い添えておく)。なお、なんともゆかしい「ゆすらばち」は現在では死語のようである。少し、哀しい気がした。]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜜蠟

Miturou

みつろふ

蜜蠟

 

本綱取蜜後煉過濾入水中候凝取之有黃蠟有白蠟與

今時所用蟲造蠟不同

按華之蜜蠟形方如雙六局而黃色不鮮明一箇約五

 十斤許倭之蜜蠟形圓如鍋而正黃色用倭爲佳

 

 

みつろふ

蜜蠟

 

「本綱」、蜜を取〔(つて)〕後、煉〔り〕、過濾〔(かろ)〕〔し〕、水中に入れ、凝〔るを〕候〔(うかが)〕い、之を取る。黃蠟、有り。白蠟、有り。今時、用ふる所の蟲造〔(ちゆうざう)〕の蠟と〔は〕同じからず。

按ずるに、華の蜜蠟は、形、方にして雙六(すご〔ろく〕ばん)のごとくにして、黃色、鮮明ならず。一箇約五十斤許り。倭の蜜蠟は、形、圓く、鍋のごとくして正黃色なり。倭を用ひて佳と爲〔(す)〕。

 

[やぶちゃん注:図に「漢」「倭」のキャプションが入るのは極めて珍しい。ウィキの「蜜蝋」によれば、『ミツロウ(蜜蝋、BeeswaxCera alba)はミツバチ(働きバチ)の巣を構成する蝋を精製したものをいう』。『蝋は働きバチの蝋分泌腺から分泌され、当初は透明であるが、巣を構成し、巣が使用されるにつれ花粉、プロポリス、幼虫の繭、さらには排泄物などが付着していく』。『養蜂においてミツロウ以外のものを基礎として巣を構築させた場合、それらがミツロウに混入する可能性もある』。『精製の方法には太陽熱を利用する陽熱法と、加熱圧搾法とがあり、効率の点では加熱圧搾法のほうが優れている』とあり、『色は、ミツバチが持ち運んだ花粉の色素の影響を受け、鮮黄色ないし黄土色をして』おり、『最大の用途はクリームや口紅などの原料』であるとある。私の家にも停電用、いざとなれば非常食にもなるということで置いてある。

「過濾」濾過。

「五十斤」三十キログラム。かなり巨大で重い。しかし、ちょっとデカ過ぎないか?]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜜

Mitu

みつ

 

蜂糖 蜜【俗字

 和名美知】

 

本綱蜂蜜【生涼熟温】不冷不燥得中和之氣故十二臟腑之病

罔不宜之但多食蜂采無毒之花釀以小便而成蜜

其功五清熱補中解毒潤燥止痛

石蜜 生巖石色白如膏最爲良

木蜜 懸樹枝作之者色青白

土蜜 在土中作之者亦色青白味醶

人家及樹空作者亦白而濃厚味美

北方地燥多在土中南方地濕多在木中凡新蜜稀而黃

陳蜜白而沙也煉蜜以噐盛置重湯中煮掠去浮沫候滴

水不散取用一斤只得十二兩【△加水四十錢煉之去沫得百二十五錢】

以水牛乳沙糖作蜜僞之凡試蜜以燒紅火筯插入提出

起氣是眞起煙是僞。

△按蜂蜜出於紀州熊野者最佳藝州之産次之今多用

 沙糖蜜僞之沙糖與膠飴相和作之眞蜜黃白僞蜜色

 黒易乾

用蜜煉藥者其藥末與蜜宜等分

用蜜丸藥者蜜内滅二分半加水二分半共爲等分不然

 則難乾【假令藥末百目蜜七十五錢水二十五錢爲準】

 

 

みつ

 

蜂糖 蜜【俗字。和名、美知〔(みち)〕】

 

「本綱」、蜂蜜【生は涼、熟は温】、冷ならず、燥〔(そう)〕ならず、中和の氣を得、故に十二臟腑の病ひ、之に宜(よろ)しからざると云ふこと罔〔(な)〕し。但し、多く食ふべからず。蜂、無毒の花を采りて、釀〔(かも)〕するに小便を以つて蜜を成す。其の功、五つ、熱を清〔(せい)〕し、中〔(ちゆう)〕を補ひ、毒を解〔(け)〕し、燥を潤〔(うる)〕ほし、痛みを止〔(と)〕む。

石蜜は 巖石に生ず。色、白くして膏のごとし。最も良と爲す。

木蜜は 樹の枝に懸けて之を作るは、色、青白。

土蜜は 土の中に在りて之を作るは亦、色、青白。味、醶(えぐ)し。

人家及び樹の空(うとろ)に作るは亦、白くして濃厚、味、美なり。

北方は、地、燥(かは)く。多くは土の中に在り。南方は、地、濕(しめ)る。多くは木の中に在り。凡そ新蜜は稀にして、黃なり。陳蜜は白くして沙〔(しや)〕なり。蜜を煉〔(ね)〕るに、噐を以て盛つて、重湯の中に置きて煮〔(に)〕、浮きたる沫〔(あは)〕を掠去〔(かすめさ)〕つて、水、滴〔るも〕、散らざるを候〔(うかが)〕い、一斤を取り用ゐて、只だ、十二兩を得〔るのみ〕。【△水四十錢を加へて之を煉り、沫を去つて百二十五錢を得。】

水牛の乳・沙糖を以つて蜜に作り、之に僞(にせ)る。凡そ、蜜を試みるに、燒紅〔(しやうこう)〕(せる)火筯〔(ひばし)〕を以て插入〔(さしいれ)〕、提げ出〔ださば〕、氣を起す、是れ、眞なり。煙を起すは、是れ、僞なり。

△按ずるに、蜂蜜、紀州・熊野より出ずる者、最佳なり。藝州の産、之に次ぐ。今、多く、沙糖蜜を用ひて、之を僞る。沙糖と膠飴(ちやうせん〔あめ〕)と、相ひ和して之を作る。眞蜜、黃白たり。僞蜜は色、黒くして乾き易し。

蜜を用ひて藥を煉るは、其の藥末と蜜と、宜しく等分にすべし。

蜜を用ひて藥を丸(まろ)めるは、蜜の内、二分半を滅して、水、二分半を加へて、共に等分に爲す。然らざれば、則ち、乾き難し。【假令(たとへば)、藥末百目、蜜七十五錢、水二十五錢、準と爲〔(す)〕。】

 

[やぶちゃん注:例えばここで「生は涼、熟は温」とあるように、本文中に頻繁に現われる漢方の四気五味(四性ともいう対象物の薬性を示す四つの性質「寒・熱・温・涼、及び平」と、味やその効能に基づく五つの性質「酸味・苦味・甘味・辛味・鹹味(かんみ=しおからい味)、及び淡味」)の意味については、例えば以下の鍼灸院のサイトの解説等を参照されたい。これについては向後、一切注を加えない。なお、「熟」は「生」に対する「煮熟〔(しやじゆく)〕す」ること、煮て熱を加え、しっかり煮詰める謂いである。

・「和名、美知〔(みち)〕」とするが、古語辞典を見る限りでは「みち」は「みつ」の転訛である。

・「冷ならず」「冷」と「温」の中庸、中和状態。

・「燥ならず」「燥」と「湿」の中庸、中和状態。

・「十二臟腑」漢方で言うところの「心」「肺」「肝」「膻中(だんちゅう)」「脾」「胃」「大腸」・「小腸」「腎」「三焦」「膀胱」。

・「多く食ふべからず」ウィキの「蜂蜜によれば、現代の医学的知見では、ボツリヌス菌及び有毒の蜜源植物による危険性が指摘されてあるので、以下に引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『蜂蜜の中には芽胞を形成し活動を休止したボツリヌス菌が含まれている場合がある。通常は摂取してもそのまま体外に排出されるが、乳児が摂取すると(芽胞の発芽を妨げる腸内細菌叢が備わっていないため)体内で発芽して毒素を出し、中毒症状(乳児ボツリヌス症)を引き起こし、場合により死亡することがあるため、注意を要する。芽胞は高温高圧による滅菌処理(摂氏百二十度で四分以上)の加熱で不活性化されるが、蜂蜜においては酵素が変質するのでこの処理は不向きである。日本では一九八七年(昭和六二年)に厚生省が「一歳未満の乳児には与えてはならない」旨の通達を出している。同省の調査によると、およそ五%の蜂蜜からボツリヌス菌の芽胞が発見された』。『なお、ボツリヌスによる健康被害を防止するため、日本国内の商品には「一歳未満の乳児には与えないようにしてください」との注意書きがラベリングされている』。『専門の蜂蜜採集業者によるハチミツでの中毒報告例は極めて希であるが、自然蜂蜜(天然ハチミツ)では蜜源植物として意図しない有毒植物からの蜜が混入している事があり食中毒事例が報告されている。例えばトリカブト、レンゲツツジ、ホツツジの花粉や蜜は有毒である。ツツジ科植物の有毒性は古くから知られ、紀元前四世紀のギリシャの軍人・著述家のクセノフォンは兵士たちがツツジ属植物やハナヒリノキの蜜に由来する蜂蜜を食べ』、『中毒症状を起こした様子を記録している。古代ローマ時代にもグナエウス・ポンペイウス率いる軍勢が敵の策略にはまり、ツツジに由来する蜂蜜を食べて中毒症状を起こしたところを襲われ』、『兵士が殺害されたという話がある』。

・「中」東洋文庫版では『(脾胃)』とある。上記の臓腑ではしばしば「脾」と「胃」が一緒になっており、それで漢方に於ける消化吸収に関わる人体機能の全般を総称する。

・「空(うとろ)」「うとろ」はママ。姫路市林田町上伊勢にある室町時代の山砦「空木城」跡の「空木」は「うとろぎ」と読む。木の空(うつ)ろ、空洞、洞(ほら)になった部分。

・「陳蜜」「陳」は古くなっている状態、古くて劣化・悪化した状態を指す。古くなった蜜。

・「沙〔(しや)〕なり」粘体ではなく、結晶が不揃いに出来て、砂粒のようにざらざらしていること。舌触りが、であろう。

・「候〔(うかが)〕い」「い」はママ。違った読みの可能性もあるか。

・「一斤」六百グラム。一斤は十六両。

・「十二兩」四百五十グラム。

・「四十錢」一銭は本書執筆当時は約三・七五グラム(弱か)と思われるから、約百五十グラム。

・「百二十五錢」約四百六十八グラム。

・「燒紅〔(せる)〕火筯〔(ひばし)〕」真っ赤に焼けた鉄製の火箸。

・「氣」白い蒸気。

・「煙」焦げ臭い煙。牛乳が主成分の一つなら動物性脂肪と蛋白質だから納得は出来る。

「蜂蜜、紀州・熊野より出ずる者、最佳なり」「安全な食べものネットワーク オルター」の「小谷蜂蜜 幻の日本ミツバチの蜂蜜」に『日本ミツバチの蜂蜜(和蜜)は、古来より民間薬として珍重されてきました』。『この蜂蜜が珍重されてきた理由のもう一つは、洋蜜と比べて格段においしいということです。日本ミツバチは日本の在来の野性種で、北海道以外の全国で生息が確認されています。その伝統的養蜂は、大木をくり抜き、天井をふさいだ円筒形の巣箱(ゴウラ)で飼うもので、西日本では和歌山県の熊野、奈良県の十津川、四国、長崎県対馬などの山間部で農林業の片手間に行われてきたものです。江戸時代には和歌山、熊野の蜂蜜は「大閣蜜」のブランドで熊野詣の人々に親しまれていました』とある(下線やぶちゃん。現在の困難な状況などを含め、リンク先の引用部の続きは、必ず読まれたい)。

・「藝州の産、之に次ぐ」前にも引いた「日本養蜂協会」公式サイト内の「日本の養蜂の歴史」に、『動植物の分類に大きく貢献した小野蘭山が著した「本草綱目啓蒙」は』、文化二(一八〇五)年に出版され(本書刊行の九十三年後)、『ハチミツの産地として芸州広島の山代、石州、筑前、土州、薩州、豊後、丹波、丹後、但州、雲州、勢州、尾州を上げています。しかし、販売されるときには、すべて“熊野蜜”として売られており、当時、熊野がハチミツの最大の産地としてブランド化されていたことがうかがえます』とある。

・「膠飴(ちやうせん〔あめ〕)」当て読み。音は「コウイ」で、これは米(特に糯米(もちごめ)が適するとされる)・小麦・粟などの粉に麦芽を混ぜて糖化させ、それを煮詰めた水飴状のもので、ちゃんとした漢方の生薬で、滋養強壮・健胃・鎮痛・鎮咳作用がある。

・「百目」三百六十五グラム。

・「七十五錢」約二百八十一グラム。

・「二十五錢」約九十三グラム。]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜂

和漢三才圖會卷第五十二

  蟲部

      攝陽 城醫法橋寺島良安【尚順】編

  卵生類

Hati

はち

【音峯】

唐音

 フヲン

[やぶちゃん字注:底本では絵(画像はここのみ掲げ、書き下し文では省略する。画像は東洋文庫版(現代語訳)のそれをトリミングして配した)が最上部で前四行が絵の下に、以下がその下にある。左右に縦罫。以下、この注は略す。]

 

1【音范

   和名波知】

[やぶちゃん字注:「1」=(上)「范」+(下)「虫」。]

 

本艸綱目云蜂尾垂鋒故字从夆蜂有君臣之禮範故一

名曰1有三種

野蜂 在林木或土穴中作房

家蜂 人家以噐収養【以上二種】並小而微黃蜜皆濃美

山蜂 在山巖高峻處作房卽石蜜也其蜂黑色似牛

三者皆群居有王王大於衆蜂而色青蒼皆一日兩衞應

潮上下凡蜂之雄者尾鋭雌者尾岐相交則黃退嗅花則

以鬚代鼻采花則以股抱之窠之始營必造一臺大如桃

李王居臺上生子於中王之子盡復爲王歳分其族而去

其分也或鋪如扇或圓如罌擁其王而去王之所在蜂不

敢螫若失其王則衆潰而死其釀蜜如脾謂之蜜脾凡取

其蜜不可多多則蜂飢而不蕃又不可少少則蜂惰而不

作其王無毒嗚呼王之無毒似君德也營窠如臺似處國

也子復爲王似分定也擁王而行似衞主也王所不螫似

遵法也王失則潰守節義也取惟得中似什一而税也凡

群蜂旦出午時銜花蘂等來入衙竅有二大蜂兩衙之竅

口相對如改群蜂所銜來花若有不銜花而來者逐還不

入有争拒者則群蜂螫殺之【衙音牙天子居曰衙行曰駕今官府亦曰衙也】

蜂子【氣味】甘平微寒

按蜂人不觸則不螫如行於巣下則追來螫【蜂羽傳油則不敢動】

[やぶちゃん注:「2」=(上){「匃」から一画目及び二画目を除去した内側}+(下)「虫」。]

 

 

はち

【音、「峯〔(ハウ)〕」。】

唐音

 フヲン

 

1【音、「范〔(ハン)〕」。和名、「波知」。】

[やぶちゃん字注:「1」=(上)「范」+(下)「虫」。]

 

「本艸綱目」に云はく、蜂の尾、鋒を垂る。故に、字、「夆」に从〔(したが)〕ふ。蜂に君臣の禮範有り、故に一名、「1〔(ハン)〕」と曰ふ。三種有り。

野蜂(のばち)  林木、或いは土穴の中に在りて、房〔(ばう)〕を作る。

家蜂(いへばち) 人家に噐〔(うつは)〕以て収養す。【以上、二種】並びに小にして微黃なり。蜜、皆、濃美〔(のうび)〕と云ふ。

山蜂(やまばち) 山巖・高峻の處に在りて、房を作る。卽ち、石蜜なり。其の蜂、黑色にして牛2(あぶ)に似れり。三つの者、皆、群居して、王、有り。王は衆蜂より大にして、色、青蒼。皆、一日に兩〔(ふた)〕たび、衞〔(ゑい)〕す。潮〔(しほ)〕に應じて上下す。凡そ、蜂の雄なる者は、尾、鋭(するど)なり。雌なる者は、尾に岐(また)あり。相ひ交(まぢ)はるの時は、則ち、黃、退〔(しりぞ)〕く。花を嗅(か)ぐ時は、則ち、鬚を以て鼻に代ふ。花を采〔(と)〕る時は、則ち、股を以て之を抱く。窠〔(す)〕の始めて營めること、必ず、一臺を造る。大いさ、桃李のごとく、王、臺上に居て、子を中に生ず。王の子、盡(ことごと)く復た、王と爲り、歳〔(とし)〕ごとに其の族を分〔(わかち)〕て、其の分を去るなり。或いは鋪〔(し)〕きて、扇のごとく、或いは圓〔(まどか)〕にして罌(もたい)のごとし。其の王を擁して去る。王の所在〔(あるところ)〕、蜂、敢へて螫さず。若し、其の王を失すれば、則ち、衆(みな)潰(つぶ)れて死す。其の蜜を釀(かも)すること、脾のごとし。之を蜜脾と謂ふ。凡そ其の蜜を取ること、多くすべからず。多き時は、則ち、蜂、飢えて蕃からず。又、少なくすべからず。少なき時は、則ち、蜂、惰(おこた)りて作らず。其の王は、毒、無し。嗚呼(あゝ)、王の毒無きことは、君の德似たり。窠を營(つく)ること、臺のごときは、國を處〔(たつ)〕るに似たり。子、復た、王と爲るは、分定するに似たり。王を擁して行くは、主を衞〔(まも)〕るに似たり。王の〔ある〕所、螫さざるは、法に遵(したが)ふに似たり。王、失する時は、則ち、潰るるは、節義を守るなり。取るに、惟だ中を得るは、什一〔(じふいつ)〕して税するに似たり。凡そ群蜂、旦(あし)たに出でて、午〔(ひる)〕の時、花蘂〔(くわずゐ)〕等を銜(ふく)みて來つて衙竅〔(がけう)〕に入る。二つの大なる蜂、兩衙の竅〔(あな)〕の口に有りて、相ひ對して、群蜂、銜へ來たる所の花を改むるがごとし。若〔(も)〕し、花を銜へずして來たる者有れば、逐還〔(おひかへ)〕して入れず。争ひを拒(はゞ)む者有らば、則ち、群蜂、之を螫殺〔(さしころ)〕す。【「衙」は音、「牙」。天子の居(いどころ)を「衙」と曰ふ。「行く」を「駕〔(が)〕」と曰ふ。今、官府も亦、「衙」と曰ふ。】

[やぶちゃん注:「2」=(上){「匃」から一画目及び二画目を除去した内側}+(下)「虫」。]

蜂の子【氣味】甘、平、微寒。

按ずるに、蜂、人、觸(さは)らざれば、則ち、螫さず。如〔(も)〕し、巣の下に行けば、則ち追ひ來りて螫す。【蜂の羽に油を傳〔(つ)〕くれば、則、ち、敢へて動かず。】

 

[やぶちゃん注:蜂総論。であるが、概ね、蜜蜂を対象としている。

・『「本艸綱目」に云はく』とはあるが、以下は「本艸綱目」の抜粋抄録(主に「卵生類」の「蟲之一」の「蜜蜂」の記載)であるので(良安の見解も含まれている)、『 』で括ることをしない。向後も同じい。

・「故に一名、「1〔(ハン)〕」と曰ふ」東洋文庫版では、この「1」の下に『(規範)』と訳者の割注がある。以下に示された高高度に社会性昆虫として特化した、厳格な規範規律遵守の生物への褒賞的命名ということであろう。

・「野蜂」現行中国語では、膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属 Apis の野生種を指す。ウィキの「ミツバチ」によれば、ミツバチ属 Apis は現生種ではコミツバチ亜属 Micrapis、オオミツバチ亜属 Megapis、及びミツバチ亜属 Apis の三亜属の、計九種に分類される、とある。次の注も必ず参照のこと。

・「家蜂」養蜂種。本邦の場合はミツバチ属ニホンミツバチ Apis cerana japonica とセイヨウミツバチ Apis mellifera の二種が飼育されている。後者の人工移入は明治一〇(一八七七)年十二月二十八日に明治新政府内の勧農局がアメリカからイタリア国種のミツバチを購求、これを新宿試験場で飼養して試験したのが、恐らく、本邦初のセイヨウミツバチと考えられいる(「日本養蜂協会」公式サイト内の「日本の養蜂の歴史」に拠る)から、良安の時代には前者ニホンミツバチ Apis cerana japonica一種のみが日本の蜜蜂であった。

・「山蜂」恐らく、時珍の言うそれは、中国産の本邦には棲息しないミツバチ属 Apis の一種である可能性が強いように思われるが(色が有意に異なるように記載されてある)、本邦に限って言うと、前に注した通りで、その「日本の養蜂の歴史」の中にも、宝永五(一七〇八)年(本「和漢三才図会」完成の四年前)に『出版された、貝原益軒が日本で最初に体系的に編纂した生物誌である「大和本草」には、採蜜場所が異なっても、生産する野蜂、家蜂、山蜂はどれも同じミツバチであると述べられて』ある、とある。

・「石蜜」「せきみつ」と読んでおく。「ウチダ和漢薬」公式サイトである「生薬の玉手箱」の蜂蜜の記載の中に(コンマを読点に変更した)、『中国医学では、薬用として『神農本草経』の上品に「石蜜」が収載され、「心腹の邪気、諸驚癇痙を主治し、また五臓を安んじ、諸々の不足を主治する。気を益し、中を補い、痛みを止め、毒を解し、衆病を除き、百薬を和す。久しく服用すると志を強くし、身を軽くし、飢えることなく、老いることもない」とあります。石蜜とは高山巌石の間に営巣されたものから得た蜜のことであり、蜂が営巣する場所によって、木蜜や土蜜などと区別されていました』(前注通りである)。『『名医別録では「色白くて膏の如きものが良い」と記していますが、陶弘景はさらに蜂蜜の色や味について、石蜜は青赤で少し酸味があり、木蜜と呼んで食するもののうち』、『蜂が樹の枝にぶら下げて作るものは青白く、樹の空洞や人家で養蜂して作るものは白く味が濃厚で、さらに土蜜は土中に作るもので、青白くて酸味がある、と概要を述べています。アカシアやレンゲ由来の蜜は淡黄白色であり、ソバ由来の蜜が最も濃い褐色を呈するなど、蜂蜜の色は、蜜源となる植物種によって淡黄白色~褐色と異なり、また香りや味も異なります。陶弘景が云う青白い蜜とは、アカシアやレンゲ、あるいは百花蜜とよばれる雑蜜のように比較的淡い色を示すものであったと思われます。味については一般に果樹系の蜜は酸味が強いといわれることから、陶弘景が記した酸味のある蜜は果樹由来であったのでしょうか』とある。

・「牛2(あぶ)」(「2」=(上){「匃」から一画目及び二画目を除去した内側}+(下)「虫」。)「牛2」の二字に「アブ」とルビする。現行で「ウシアブ」と称した場合、狭義には双翅目短角(ハエ)亜目アブ下目アブ上科アブ科アブ亜科アブ属ウシアブTabanus trigonus 或いはその近縁種を指す。この類は平均して体長二センチ七ミリ内外で、灰色の地に暗色の斑紋を有し、雄の腹部両側は茶色を帯びる。日本各地に多く、は人畜を吸血し、は花や樹液に集まる。但し、この場合は吸血性の中大型のアブを広く指していると考えてよかろう。

・「一日に兩〔(ふた)〕たび、衞〔(ゑい)〕す」一日に二度、女王蜂(「女」とは言っていないが、出産をすると書いてあるのでかく記載して問題あるまい)のところに行って、警護を行う。無論、このような習性は、ない。採蜜行動の規則的なところから、帰還して女王蜂に蜜を献上するために参内するという擬人表現を用いたものであろう。

・「潮〔(しほ)〕に應じて上下す」蜂の終日行動や採蜜行動の記憶システムには太陽の位置を認識記憶し、それを仲間にダンスによって伝達するシステムが存在していることは広く知られているものの、潮汐現象(月の引力)というのは、私は聴いたことがない。石川誠男氏の「生き物の謎と神秘」の「ミツバチ社会と環境」にある、ハタラキバチの行動様式の記載(前段にダンスの非常に判り易い詳細記載もあるので必読!)よれば、伝達をするハタラキバチの『ダンスの最初の直線部分によって太陽の方向に対する餌のある方向を知り、円ダンスの動きの速さで餌までの距離を知る』という。『さて、ダンスの直線の方向と重力の方向との間の角度で太陽の方角に対する餌の方向を示すことが分かったが、太陽が雲に隠れて見えない時はどうだろうか。どこかに青空の一角でも見えている場合にはその青空からの偏光をミツバチの眼は感ずることができ、青空からの光線に含まれる偏光のパーセンテージと振動方向についての分析の能力によって実際には見えない太陽の位置を判定できるらしいのである。これに加えて、ミツバチは人が見ることのできない紫外線を見ることができ、薄曇りならば、雲が覆っていても太陽のある位置から他の場所よりも少し多く透過してくる紫外線を感じて太陽の位置を判定できるという。また、ここでは詳しく述べる余裕はないが、ミツバチは体内時計を持っており、時間の変化とともに変化する太陽の位置の変化を予測することが可能だという』と説明された後、『次に、重力の方向はどうして感知できるのだろうか。人の三半規管のような平衡器官を蜂は持っていない。しかし、蜂の頭部と胸部との境に頸部器官と呼ばれる簡単な器官があり、これによって重力に対する自分の体の位置を知ることができるという。ミツバチのおどり手も、またそれに追従する仲間も、垂直面上で自分の体軸と重力の方向とのずれを精密に測定することのできる器官を生まれながらに持っているのである。この収穫ダンスは光に対する行動から重力に対する行動への転換が行われたことになるが、この行動の転換は昆虫一般によく見られるものだという。ダンスをしている時に人為的に巣枠を青空の下に出して水平にすると、直線部の動きは太陽に対する実際の餌場の方向を指すという』とある。重力を感じる能力があるとすれば、蜂に月の引力を感ずる能力などあるはずがないと断ずることは出来ないであろう。

・「蜂の雄なる者は、尾、鋭(するど)なり。雌なる者は、尾に岐(また)あり」勿論、生物学的に誤りであるが、針を持つのがと捉得る気持ちは分らぬではなく、時珍はその殆んどがであり(一般にミツバチの一つの巣のの比率は全体の五~一〇%しかいないとされる。言わずもがな乍ら、ミツバチのは未授精であって単為生殖(染色体数はの半分))、に至っては女王蜂と交尾するためだけに生まれて来て、交尾直後に生殖器が女王蜂の体内に残って引き抜かれてしまい、必ず死んでしまうことなどを知れば、これ、卒倒しかねないこと請け合いである。

・「相ひ交(まぢ)はるの時は、則ち、黃、退〔(しりぞ)〕く」交尾する際には体の黄色い色が褪せる、というのである。私はミツバチの交尾を見たことはないが、こんな話は聴いたことがない。なお、信頼出来る記載によれば、ミツバチの♂♀の識別は、複眼の大きさで区別することが可能であるが、自然状態での判別は非常に難しいとある。

・「王の子、盡(ことごと)く復た、王と爲り」言わずもがな乍ら、これも誤認。

・「其の分を去るなり」新たな女王となることが決定したら、分家をし、その巣を去る。

・「鋪〔(し)〕きて、扇のごとく、或いは圓〔(まどか)〕にして罌(もたい)のごとし」(「もたい」のルビはママ。正しくは「もたひ」(「甕」の意)である)時に平たく敷いたようになって、見た目は扇のように連なったり、或いは丸(まあ)るい形で、一見、水や酒を入れる大きな甕(かめ)のようにも見える形状になって。ここは老婆心乍ら、新王が旧主の巣を離れる際の、恐るべき量の蜂の群れの空を飛ぶ形状を形容しているのである。

・「脾のごとし」脾(臓)のようである、の謂いであるが、これは現在の内臓器官の「脾臓」ではなく、所謂、漢方で言うところの「五臓六腑」、肝・心・脾・肺・腎の一つであるところの「脾」で、漢方医学では主に食物の消化吸収(ここでは蜂が採取して来たものを消化吸収して変容させて蜜を創り出す現象を相似的として喩えたのである)になどを掌ると考えられているもので、現代医学に照らし合わせると、膵臓に相似性を求めることが出来る。

・「蕃からず」読み不詳。「ばんからず」では如何にもである。「蕃」は繁殖して増えるの謂いであるから意味は判る。

・「分定」読み不詳。「わけさだめる」と訓じておくか。子の王に王としての権利を分与し、新たな国家・社会としての巣を作るように勅定するということか。

・「取るに、惟だ中を得るは、什一〔(じふいつ)〕して税するに似たり」前の蜜の採取を載道史観によって説明する場面である。人が蜂蜜を採取する際に多くもなく少なくもない、中庸の量を採るのが正しいというのは、君子が民草から十分の一の税をのみ徴収して、民の生活をも十全に保障してやるという仁の理(ことわり)に似、それが彼らの仁の世界と照応して適った行為であるからである、というのである。これはフレーザーの言うところの類感呪術的発想と言える。

・「旦(あし)た」原典画像では明らかに「且」であるが、誤字と採って例外的に訂した。

・「花蘂〔(くわずゐ)〕等」かく書く良安は、蜂蜜の主体は、花の蜜ではなく、これら花の蘂や(恐らくは脚に多量に附着しているところの花粉)を原料として想定していたのではないか、と私には読めるのである。

・「争ひ」漢字はママ。

・「群蜂、之を螫殺〔(さしころ)〕す」これは恐らく、別集団の蜂や、破壊目的で侵入してくるスズメバチ類などに対する防御・攻撃行動を観察した誤認である。]

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蟲の用 / 卵生類 目録

    蟲之用

蚑行【和名波布】蟲之行也 蠢【無久女久】蟲之動※1也 螫【音釋】蟲之

 行毒也※2蠚並同【訓佐須】蜂蠆之類能※2人也 蛻【退税兩音】

 蟲之解皮也【訓毛沼久】 蟄【須古毛留】蟲之至冬隱不出也

※3【須太久】蟲之聲也詩召南※3※3草蟲 啾喞蟲之小聲也

         古今 秋の夜の明くるもしらす鳴く虫は我こと物や悲しかるらん

凡蟲魚之牝牡者牝大牡小也鳥獸之雌雄與人同而雌

 小雄大也

[やぶちゃん字注:「※1」=「扌」+{(「揺」-「扌」-(つくり)の下半分)+(その除去した下半分に「正」を置き、二画目の縦画を上に突き出す)}。「※2」は「蛬」から中央右に払う一画を除去した字体。「※3」=「口」+「要」。]

 

    蟲の用

「蚑行(は)ふ」は【和名、波布。】蟲の行(あり)くなり。 「蠢(むくめ)く」は【無久女久。】蟲の動※1(うご)くなり。 「螫(さ)す」は【音、釋。】蟲の毒を行なふなり。「※2」「蠚」並びに同じ。【訓、佐須。】蜂蠆(はち)の類、能く人を※2(さ)すなり。 「蛻(もぬ)く」は【退〔(タイ)〕・税〔(ゼイ)〕、兩音。】蟲の皮を解(ぬ)ぐなり。【訓、毛沼久。】 「蟄(すごも)る」は【須古毛留。】蟲の冬に至りて隱れて出でざるなり。

「※3(すだ)く」は【須太久。】蟲の聲なり。「詩」の「召南」に『※3※3〔(えうえう)〕たる草蟲』と云へり。 「啾喞〔(しうしつ)〕」は蟲の小さき聲なり。

         「古今」 秋の夜の明くるもしらず鳴く虫は我ごと物や悲しかるらん

凡そ蟲魚の牝牡(めすおす)は、牝、大きく、牡、小さし。鳥獸の雌雄は人と同じにして、雌、小さく、雄、大なり。

[やぶちゃん字注:「※1」=「扌」+{(「揺」-「扌」-(つくり)の下半分)+(その除去した下半分に「正」を置き、二画目の縦画を上に突き出す)}。「※2」は「蛬」から中央右に払う一画を除去した字体。「※3」=「口」+「要」。]

 

[やぶちゃん注:この「用」は各部の特徴・機能とか生物個体の生態といったような意味合いのパートと考えればよいと私は思っている。

・「蚑行(は)ふ」「蚑行」の二字で「は」。這(は)ふ(這う)、匍匐(ほふく)するの意。

・「蠢(むくめ)く」は「むぐめく」とも読める(東洋文庫は「むぐめく」とするが、原典には濁音はない)。カ行四段活用動詞で、蠢(うごめ)く・むくむくと動くの意。

・「動※1(うご)く」(「※1」=「扌」+{(「揺」-「扌」-(つくり)の下半分)+(その除去した下半分に「正」を置き、二画目の縦画を上に突き出す)})は「動※1」の二字に「うご」がルビされている。

・「毒を行なふ」毒を注入する。

・「※2」(「※2」=「蛬」から中央右に払う一画を除去した字体)も「蠚」も「さす」の意であるから、ここは面倒なので「さす」と訓じておく(「※2」の音は不詳。「蠚」の音は「カク・チャク・セキ・シャク」)。

・「蜂蠆(はち)」「蜂蠆」二字に「はち」とルビする。本来は、これで「ホウタイ」と音読みして、蜂と蠍(さそり)のことで転じて、小さくても恐ろしいものの喩えとして使われる熟語である。

・「蛻(もぬ)く」はカ行下二段活用動詞で、現代語ではカ行下一段に転じて「もぬける(蛻ける)」で、「抜けて外に出る・脱する・抜ける」で、所謂、蟬や蛇などが「脱皮する」の謂い。

・「蟄(すごも)る」は冬眠のために「巣籠(すごも)る」の意。

・「※3(すだ)く」(「※3」=「口」+「要」)は漢字では「集(すだ)く」と書く。虫が多く集まって鳴くの意。「※3」は本当は「喓」が正しい。

・『「詩」の「召南」』は「詩経」の「国風」の「召南」(国名)の詩篇「草蟲」の冒頭の句。この歌は、遠い地に仕事で行った夫を待ちわびる妻の心情を草摘み唄にした、実は恋歌(悲傷歌)である。

・「※3※3〔(えうえう)〕たる草蟲」「喓喓(えうえう)」は虫の声の擬声語(オノマトペイア)。

・「啾喞〔(しうしつ)〕」「しうしよく(しゅうしょく)」と読んでもよい。①小さな声を出す(この場合の「喞」はひそひそとした声を指す)。②沢山の声が交り合って騒がしいさま(この場合の「喞」は、頻りに耳にいらつく小五月蠅い声の意)。ここは①。

・「古今」「古今和歌集」。以下の一首は「卷第四 秋歌上」に載る三十六歌仙の一人、藤原敏行(?~延喜七(九〇七)年又或いは延喜元(九〇一)年とも)の歌(第一九七番歌)。

・「秋の夜の明くるもしらず鳴く虫は我ごと物や悲しかるらん」詞書があり、『是貞親王家(これさだのみこのいへの)歌合(うたあはせ)の歌』とある。これは岩波の新日本古典文学大系「古今和歌集」(小島・新井校注)注によれば、寛平五(八九三)年九月以前の歌合せであることが判っている。以下、通釈しておく。

――秋の長いはずの夜(よ)がほの白く明けてゆくのも知らずに……ただただ淋しく鳴き続けている虫よ……お前も私と同じごと……何かしらん、もの哀しい「ある」思いでも、これ、持っているのかい?――]

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、「卵生類」の前後に縦罫。目録は底本では三段で(一行ずつ上から下、次行へ、の順であるが、一段で示した。一部を濁音化して示した。各虫の同定は各項で行う。原典の目次内容の漢字は実際には総て、「卵生類」と同ポイントの大きさである。]

 

    卵生類

 

蜂(はち)

蜜(みつ)

蜜蠟(みつろう)

[やぶちゃん字注:「らう」はママ。]

土蜂(ゆするばち)

木蜂(みかばち)

大黃蜂(やまばち)【胡蜂】

露蜂房(はちのす)

赤翅那智(あかばち)

蠮螉(こしぼそ)【じがばち】

竹蜂(たけばち)

五倍子(ふし)【百藥煎】

阿仙藥(あせんやく)

螳蜋(かまきり)

桑螵蛸(おほじがふぐり)

雀甕(すゞめのたご)

(いらむし)

嘿(けむし)

蠶【白殭蚕(びやつきやうさん) 原蚕(なつご) 繭(まゆ)】

雪蠶(せつさん)【水蚕 石蚕 海蚕】

枸杞蟲(くこのむし)

青蚨(せいふう)

蝶(てふ)

燈蛾(ひとりむし)

鳳蝶(あげはてふ)

蜻蛉(とんぼう)【やんま 遊絲(かげろう)】

[やぶちゃん字注:「かげろう」はママ。]

水蠆(たいこむし)

樗雞(うちすゞめ)

棗貓(なつめむし)

斑貓(はんめう)

莞青(げんせい)

葛上亭長(くずのはむし)

地膽(にはつゝ)

蜘蛛(くも)

絡新婦(ぢよろうぐも)

草蜘蛛(くさぐも)

蠨蛸(あしたかぐも)

蟷(つちぐも)

壁錢(ひらたぐも)

蠅虎(はへとりぐも)【さそり】

[やぶちゃん字注:「【さそり】」はママ。次の項の衍字であろう。]

全蠍(ぜんかつ)【さそり】

蛭(ひる)

蟻(あり)

(いひあり)

螱(はあり)

青腰蟲(あをむし)

蛆(うじ)

蠅(はへ)

狗蠅(いぬばへ)

壁蝨(だに)

蝨(しらみ)

陰蝨(つびじらみ)

牛蝨(うしのしらみ)【龍蝨(たつのしらみ)】

2016/03/29

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 (序)

寺島良安「和漢三才図会」の「虫部」(私の最も生理的に苦手とする昆虫類である)の電子化注を始動する。

私は既に、こちら

卷第四十  寓類 恠類

及び

卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類

卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類

卷第四十七 介貝部

卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚

卷第四十九 魚類 江海有鱗魚

卷第五十  魚類 河湖無鱗魚

卷第五十一 魚類 江海無鱗魚

及び

卷第九十七 水草部 藻類 苔類

を電子化注している。総て、底本及び凡例は以上に準ずる(「卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」を参照されたい)HTML版での、原文の熟語記号の漢字間のダッシュや頁の柱、注のあることを示す下線は五月蠅いだけなので、これを省略することとし、また、漢字は異体字との判別に迷う場合は原則、正字で示すこととする。また、私が恣意的に送った送り仮名の一部は特に記号で示さない(これも五月蠅くなるからである。但し、原典にない補塡字は従来通り、〔 〕で示し、難読字で読みを補った場合も〔( )〕で示した(読みは注を極力減らすために本文で意味が消化出来るように恣意的に和訓による当て読みをした箇所がある。その中には東洋文庫版現代語訳等を参考にさせて戴いた箇所もある)。原典の清音を濁音化した場合も特に断らない)。ポイントの違いは一部を除いて同ポイントとした。この「蟲部」は三巻分(第五十二から第五十四)で恐らく、異様に長い時間がかかる(言っておくが、本文は原文を見ながら総て私がタイプしている。活字を読み込んだものではない。私は平凡社東洋文庫版の現代語訳しか所持していないからである)。ゆっくらと、お付き合い戴ければ幸いである。【2016年3月29日始動 藪野直史】

 

 

和漢三才圖會卷第五十二

  蟲部

 

蟲【音仲】乃生物之微者其類甚繁有足曰蟲無足曰豸裸毛

 羽鱗介之總名也與虫字不同

虫【音毀】乃古虺字蛇之屬1文字象形然俗讀仲音以蛇虫

[やぶちゃん字注:「1」は以下の絵文字。画像は平凡社東洋文庫版(現代語訳)からトリミングした。]

Musi

 之虫爲蟲豸之蟲今順非通用【和名無之】

有外骨内骨却行仄行連行紆行之異

有羽毛鱗介裸之形胎卵風濕化之異

以脰鳴咮鳴旁鳴翼鳴腹鳴胸鳴者謂小蟲之屬

 蠢動有靈各具性氣也蟲部分爲三類卵生化生濕生

 本草綱目所載凡一百六種今刋遠而繁補近而洩者

 記之耳

蝦蟆於端午日知人取之必四遠逃遁 麝知人欲得香

 輙自抉其臍 蛤蚧爲人所捕輒自斷其尾 2蛇膽

[やぶちゃん字注:「2」=「虫」(へん)+「冉」(つくり)。以下、特に言わない場合はこの順列。]

 曾經割取者見人則坦腹呈創物類之有知惜命如此

 不獨雞之憚爲犧也

張子和云蟲之變皆以濕熱爲主得木氣乃生得雨氣乃

 化豈非風木主熱雨澤主濕即故五行之中皆有蟲

 諸木有蠹諸果有螬諸菽有3五穀有螟螣蝥4 麥

[やぶちゃん字注:「3」=「虫」+「方」。「4」(上)「財」+(下)「虫」。]

 朽蛾飛栗破蟲出草腐螢化皆木之蟲也 烈火有鼠

 爛灰生蠅皆火之蟲也 穴蟻墻蝎田螻石蜴皆土之

 蟲也 蝌蚪馬蛭魚鼈蛟龍皆水之蟲也 昔有冶工

 破一釜見其斷處白中有一蟲如米蟲色正赤此則金

 中亦有蟲也


 

和漢三才圖會卷第五十二

  蟲部

 

蟲は【音、仲。】、乃ち、生物の微なる者、其の類、甚だ繁く、足、有るを「蟲」と曰ふ。足、無きを「豸〔(ち)〕」と曰ふ。裸・毛・羽・鱗・介の總名なり。虫の字とは同じからず。

虫は【音、毀〔(き)〕。】、乃ち、古へ、「虺」の字。蛇の屬。「1」〔の〕文字、形に象〔(かた)〕どる。然るに、俗、「仲(ちゆう)」の音に讀んで、「蛇虫(じやき)」の虫を以て「蟲豸(ちゆうち)」の蟲と爲〔(な)〕す。今、非に順ひて通用す。【和名、無之〔(むし)〕。】

[やぶちゃん字注:「1」は以下の絵文字。画像は平凡社東洋文庫版(現代語訳)からトリミングした。]

Musi_2

外骨・内骨・却行・仄行〔(そくかう)〕・連行・紆行〔(うかう)〕の異、有り。

羽毛・鱗介・裸の形(かたち)、胎・卵・風・濕・化の異、有り。

脰(くびすぢ)にて鳴き、咮(くちばし)にて鳴き、旁〔(わき)〕にて鳴き、翼(つばさ)にて鳴き、腹にて鳴き、胸にて鳴く者を以て、小蟲の屬と謂ふ。

[やぶちゃん注:以下、原典本文で示した通り、本来は全体が一字下げ。以下、原文を示してあるので、この注は略す。]

蠢動〔(しゆんどう)〕、有靈〔(いうれい)〕、各々性氣を具(そな)ふ。蟲の部、分けて、三類と爲〔(し)〕、卵生・化生・濕生〔たり〕。

「本草綱目」に載する所、凡そ一百六種、今、遠くして繁〔なる〕を刋(けづ)り、近くして洩(もる)ゝ者を補ひて、之に記すのみ。

蝦蟆〔(がま)〕は端午の日に於て、人、之を取るを知りて、必ず四(よも)に遠く逃げ遁(のが)る。 麝(じやかうじか)は、人、香を得んと欲するを知りて、輙〔(すなは)〕ち、自〔(みづか)〕ら其の臍〔(へそ)〕を抉〔(えぐ)〕る。 蛤蚧〔(とかげ)〕は人の爲めに捕らはるれば、輒〔(すなは)〕ち、自ら其の尾を斷つ。 2蛇〔(にしきへび)〕の膽〔(きも)〕を曾て割(さ)き取(と)らへらる者は、人を見れば、則ち、腹を坦(たいら)かにして創(きず)を呈(しめ)す。物類の知有りて命を惜しむこと、此くのごとし。獨り雞〔(にはとり)〕の犧(いけにへ)と爲〔(な)〕ることを憚るにあらず。

[やぶちゃん字注:「2」=「虫」+「冉」。]

張子和が云はく、「蟲の變、皆、濕熱(しつ〔ねつ〕)を以て主と爲(す)。木氣を得て、乃ち、生〔(しやう)〕じ、雨氣を得て、乃ち、化す。豈に風木、熱を主〔つかさど〕り、雨澤、濕を主るに非ずや。即ち、故に、五行の中に、皆、蟲、有り。諸々〔(もろもろ)〕の木に蠹〔(きくひむし)〕有り、諸々の果(このみ)に螬〔(こくそむし)〕有り、諸々の菽〔(まめ)〕に3〔(ほう)〕有り、五穀に螟〔(ずゐむし)〕・螣〔(はくひむし)〕・蝥〔(ねきりむし)〕・4〔(ざい)〕有り。 麥は朽ちて、蛾、飛び、栗、破れて、蟲、出づ。草、腐(く)ちて、螢〔と〕化するは、皆、木の蟲なり。 烈火に、鼠、有り。爛灰〔(らんくわい)〕に蠅を生ずるは、皆、火の蟲なり。 穴の蟻(あり)・墻(かき)の蝎(かみきりむし)・田の螻(けら)・石の蜴(とかげ)、皆、土の蟲なり。 蝌蚪(かいるのこ)・馬蛭(うまびる)・魚鼈(すつぽん)・蛟龍(みづち)、皆、水の蟲なり。昔し、冶工(いものし)有り、破一つ釜を破り、其の斷てる處を見るに、白中に、一蟲、有り。米蟲(よねむし)のごとく、色、正赤なり。此れ、則ち、金の中にも亦、蟲、有る。」とあり。

[やぶちゃん字注:「3」=「虫」+「方」。「4」(上)「財」+(下)「虫」。]

 

[やぶちゃん注:虫の総論部。

・「豸」音は他に「ヂ・ダイ」。大修館書店「廣井漢和辭典」には、ながむし(長虫)・はいむし(這虫)、『足のない虫類の総称』とし、良安の言うように、蛇っぽいニュアンスである。

・「虺」は「廣井漢和辭典」によれば、音は「キ」まむし(爬虫綱有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属 Gloydius のマムシ類)、蜥蜴(とかげ)、ひばかり(ヘビ亜目ナミヘビ科ヒバカリ属ヒバカリ Amphiesma vibakari。本種や近縁種は皆、無毒蛇であるが、ウィキの「ヒバカリ」によれば、『性質は温和。しかし、追いつめられると噛みつくような激しい威嚇行為を行うので、かつては毒蛇と考えられ』ていた。『和名の「ヒバカリ」は、「噛まれたら命がその日ばかり」と考えられていたことに由来する』(太字は引用元)とある)、小さな蛇などとある。

・「1」の字形は、「廣井漢和辭典」の解字によれば、『獣が体をふせ、背を高くして、えものをねらっている形』とする。

・「蟲豸(ちうち)」足のない虫の意。

・「今、非に順ひて通用す」現在、その誤りをそのままに(直さずに)通用させている、以ての外、という、これは実は良安らしい謂い方なのである。

・「外骨」現行の昆虫類の外骨格に極めて近い。

・「内骨」現行の内骨格は大型哺乳類のそれであるが、この場合は、体表が柔らかく、内部に骨のような節構造を持つ(或いはそのように感じられる)虫類(この場合は昆虫に限定されない本草学上の「蟲類」である点に注意)を指していよう。

・「却行」後ろに後退するように、退くように動くこと。昆虫綱内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属する一部の種の幼生であるアリジゴク(ウスバカゲロウ類の総てがアリジゴク幼生を経る訳ではない)などはそうである(但し、アリジゴクも初齢幼虫の時には前進して餌を捕える)。

・「仄行」傾いて斜めや横に動くこと。

・「連行」個体群が連なって動くこと。

・「紆行」巡りくねって動くこと。

・「胎・卵・風・濕・化」通常の仏教上の生物学では「四生(ししょう)」と称して、胎生・卵生・湿生(湿気から生ずること。蚊や蛙がこれに相当すると考えられた)・化生(けしょう:自分の超自然的な力によって忽然と生ずること。天人や物怪の誕生、死者が地獄に生まれ変わることなどを指す)の四種を挙げるが、ここはさらに恐らくは中国の本草学上から、風生(風の気から生ずること)が加えられているようである。

・「旁〔(わき)〕にて鳴き」蟬などの鳴き方を指すものか。他のものもあまりよく判らない。中国の本草学は実証を伴わずに、やたらにまず分類ありきの傾向がある(と私は思っている)。

・「蠢動」蠕動して蠢(うごめ)くこと。

・「有靈〔(いうれい)〕」霊魂を持っていること。

・「性氣」区別し得る個別の性質・気質。

・「本草綱目」明の李時珍の薬物書。五十二巻。一五九六年頃の刊行。巻頭の巻一及び二は序例(総論)、巻三及び四は百病主治として各病症に合わせた薬を示し、巻五以降が薬物各論で、それぞれの起源に基づいた分類がなされている。収録薬種は千八百九十二種、図版千百九枚、処方に至っては、一万千九十六種にのぼる。

・「遠くして繁〔なる〕を刋(けづ)り、近くして洩(もる)ゝ者を補ひて」日本人とって疎遠な種や細分化するとやたらに煩雑な種は削って、卑近な種で、しかも「本草綱目」から漏れているもの(本邦固有種など)を補って。

・「蝦蟆〔(がま)〕端午の日に於て、人、之を取る」中国では現在でも旧暦の五月には五毒(サソリ・ヘビ・ムカデ・トカゲ・ガマガエル)が出没する季節だとされる。この場合は、まさにその五毒を目出度い節句に合わせて捕獲して殺すことで、招福を願うという謂いであろうと私は読む。ガマの油採りではあるまい(但し、本草上の薬物採取の謂いもないとはいえないが、実際上はヒキガエルの毒は強く、漢方薬方としては一般的ではない)。因みに日本で言う場合の「蝦蟇(がま)」は両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus を指し、彼らが皮膚から強い毒を分泌することは御存じであろうが、実は有毒蛇である爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ヤマカガシ属ヤマカガシ Rhabdophis tigrinus が頸部から分泌する毒は、本種の毒に耐性を持つヤマカガシが本種を摂餌した際、その毒を蓄積して再利用しているということはあまり知られているとは思われない(というよりも、未だに日本本土の毒蛇はマムシだけだと思っているお目出度い連中が多いと私は感じている。ヤマカガシに深く咬まれて(奥歯に毒腺は接続している)死亡した例が実際にあることも知らずに、である)

・「四(よも)」四方。

・「麝(じやかうじか)」哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ(麝香鹿)属 Moschus の仲間。成獣のを誘うための性フェロモンを分泌する麝香腺を持つ。麝香腺は陰部と臍の間にある。無論、その嚢を抜き取って乾燥させたものが媚薬として人間が珍重する「麝香」である。

・「蛤蚧〔(とかげ)〕」音なら「ガフカイ(ごうかい)」。前の五毒の一つと捉えてもよいが、この場合、トカゲ類は広汎であり、漢方としても媚薬としてもポピュラーであるから、こっちは薬物としての採取の可能性が寧ろ、髙いようにも思われる。

・「2蛇〔(にしきへび)〕」「2」は「蚦」の俗字で、音なら「ゼンジヤ(ゼンジャ)・センジヤ(センジャ)」で「蚦」はまさにヘビ亜目ムカシヘビ上科ニシキヘビ科 Pythonidae に属する巨大蛇類を指す。

・「膽〔(きも)〕」これはもう漢方薬剤であろう。しかし、ここで「もう私の胆は取られましたよ」と腹を見せるニシキヘビというのは、何だか、妙に不憫である。

・「獨り雞〔(にはとり)〕の犧(いけにへ)と爲〔(な)〕る」アジアの農耕民の儀礼では、しばしばキジ目キジ科ヤケイ(野鶏)属セキショクヤケイ(赤色野鶏)亜種ニワトリ(鶏) Gallus gallus domesticus が生贄として神に捧げられる。

・「張子和」張志和(七三〇年?~八一〇年?)は中唐の詩人。字は子同。粛宗の時に待詔翰林に進んだが、事件に連座して左遷され、後に太湖の附近に隠棲、「煙波釣徒」と称した道家の徒であった。書画・音楽にも優れ、現在、その詩は殆んど残っていないものの、「漁歌子」など詞五首が知られる。著作には「玄真子」(十二巻)・「大易」十五巻があるので、ここはそれらの記載にあるものであろう。

・「濕熱」湿度と気温。

・「主と爲(す)」強い影響によって変化する。

・「木氣」五行の元素(エレメント)である、木・火・土・金・水に於ける、「木」に分類される「気」のこと。ここに限っては植物の「木」はイメージしない方が理解し易い。

・「雨氣」これは具体な「雨」(水分・湿気)を匂わせた五行の「水」に属する気である。

・「豈に風木、熱を主〔つかさど〕り、雨澤、濕を主るに非ずや」東洋文庫版では、『どうして風木(五行で風は木に属する)だけが熱を主(つかさど)り、雨沢だけが湿を主るということがあろうか』(雨沢は著しい水気のことか)とある。反語であって、「そうではない」、と言っているのであるが、要するに変化を起こさせるのは五行の「木」と「水」ではあるが、他の「火」「土」「金」のエレメントが掌っている(そこから生ずる)虫も当然、いる、というのである。

・「蠹〔(きくひむし)〕」現行の昆虫学では狭義には昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae に属する「木喰虫」を指すが、実際には恐らく、木質部や紙を食害する多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科 Anobiidae に属する「死番虫」や、書物を食害するとされた昆虫綱シミ目 Thysanura の「紙魚」(実際には顕在的な食害は認められないのが事実である)の仲間をも含んでいるようである。

・「螬〔(こくそむし)〕」以下の「ねきりむし」までの読みは東洋文庫版を参考にさせて戴いた。地虫(じむし)。多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ属コガネムシ Mimela splendens などの甲虫類の幼虫に多い、地中で丸まった状態でいる不活発な虫を指す。

・「菽〔(まめ)〕」豆。マメ科植物の中でも人が食用にする大豆・小豆・隠元などを指し、狭義には特に大豆のこと。

・「3〔(ほう)〕」(「3」=「虫」+「方」)「廣漢和」にも載らない。東洋文庫版では『苗を食べる虫』という訳者の割注がある。

・「螟〔(ずゐむし)〕」昆虫綱 Panorpida上目チョウ目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目メイガ上科メイガ科 Pyralidae に属するニカメイガ(二化螟蛾)Chilo suppressalis の幼虫など、水稲などの茎や芯葉に食入して食害する害虫を指す(食害されると枯死したり、不稔になったり、米が小さくなったりする)。和名は年二回発生(二化)することに由来する。

・「螣〔(はくひむし)〕」「廣漢和」にも載らない。中文サイトの字書に『專食苗葉的小青蟲』とある。いろいろとネット上の記載を見てみると、本邦ではどうも「芋虫」と同義的らしいという感じがする。そこでウィキの「イモムシ」を引いておく。『イモムシは、芋虫の意で、元来はサトイモの葉につくセスジスズメ』(鱗翅(チョウ)目スズメガ上科スズメガ科ホウジャク亜科コスズメ属セスジスズメ Theretra oldenlandiae)『やキイロスズメ』(スズメガ科コスズメ属キイロスズメ Theretra nessus)、『サツマイモの葉につくエビガラスズメ』(スズメガ科スズメガ亜科 Agrius Agrius convolvuli)『などの芋類の葉を食べるスズメガ科』(Sphingidae)『の幼虫を指す言葉である。決してイモのような風貌なのでイモムシなのではない。伝統的な日本人の食生活においてサトイモやサツマイモは穀物に次ぐ重要な主食作物であった。そのため、これらの葉を食害する巨大なスズメガ科の幼虫は、農村で農耕に携わる日本人にとって非常に印象深い昆虫であった。そのため、イモムシが毛の目立たないチョウやガの幼虫の代名詞として定着するに至ったと考えられる。よく名前の知られたイモムシには、ヨトウガ類』(鱗翅目ヤガ科ヨトウガ亜科 Hadeninae 或いはヨトウガ属 Mamestra の仲間)『の幼虫であるヨトウムシ』(夜盗虫:夜行性に由来)、『イチモンジセセリ』(鱗翅目セセリチョウ上科セセリチョウ科イチモンジセセリ属イチモンジセセリ(一文字挵:「せせる」は物をあちこち突っつきまわす意、「一文字」は後翅の裏の銀紋が一文字状に並んでいことに由来)Parnara guttata)はチョウ目(鱗翅目)セセリチョウ科に属するチョウの一種。特徴として後翅裏の銀紋が一文字状に並んでいるためこの名前がある。Parnara guttata)『等の幼虫でイネの害虫であるツトムシ、モンシロチョウ』(鱗翅目アゲハチョウ上科シロチョウ科シロチョウ亜科シロチョウ族モンシロチョウ属モンシロチョウPieris rapae)『の幼虫でキャベツ等を食害するアオムシ、シャクガ科』(鱗翅目シャクガ(尺蛾)科 Geometridae:幼虫の尺取虫に由来)『に属するガの幼虫のシャクトリムシ等がある』。

・「蝥〔(ねきりむし)〕」「根切り虫」は鱗翅目ヤガ科モンヤガ亜科 Agrotis 属カブラヤガ Agrotis segetum・同属タマナヤガ Agrotis ipsilon など、茎を食害するヤガ(夜蛾:ヤガ科 Noctuidae)の幼虫の総称で、一見すると、根を切られたように見えることからかく呼ばれているらしい。

・「4〔(ざい)〕」(「4」(上)「財」+(下)「虫」。)不詳。東洋文庫はルビさえ振っていない。識者の御教授を乞う。

・「麥は朽ちて、蛾、飛び」以下は化生の類いに含まれる生成と言える。

・「烈火に、鼠、有り」中国の想像上の生物である火鼠(ひねずみ)。「竹取物語」にも出る。ウィキの「火鼠」によれば、『火光獣(かこうじゅう)とも呼ばれ』、『南方の果ての火山の炎の中にある、不尽木(ふじんぼく)という燃え尽きない木の中に棲んでいるとされる。一説に、崑崙に棲むとも言われる』。『日本の江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では中国の『本草綱目』から引用し、中国西域および何息の火州(ひのしま)の山に、春夏に燃えて秋冬に消える野火があり、その中に生息すると述べられている』(そのうち、電子化する)。体重が約二百五十キログラムもある大鼠であって、毛の長さは五十センチメートルもあって、絹糸よりも細いとする。『火の中では身体が赤く、外に出ると白くなる。火の外に出ているときに水をかけると死んでしまうという』とある。

・「爛灰〔(らんばひ)〕」腐った灰。

・「墻(かき)」垣根。

・「蝎(かみきりむし)」カブトムシ亜目ハムシ上科カミキリムシ科 Cerambycidae のカミキリムシ(髪切虫)の類。

・「螻(けら)」直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ(螻蛄)類。

・「蝌蚪(かいるのこ)」の読みはママ。

・「馬蛭(うまびる)」教義のそれは、環形動物門環帯(ヒル)綱ヒル亜綱吻無蛭目ヒルド科 Whitmania 属ウマビルWhitmania pigra。オリーブ色の地に五本の黒い縦線をもつ派手なヒルで、体長一〇~一五センチメートル、中央部の体幅 二センチメートル内外と大きく、体は長い紡錘形で扁平。腹面には黒い斑点が縦に並び、側縁は淡黄色とおどろおどろしいが、実は貝類を摂餌し、非吸血性である。ここで言っているのはしかし、恐らくは見た目が良く似ている吸血性のチスイビル Hirudo nipponica のことではなかろうかと思われる。

・「魚鼈(すつぽん)」音は「ギヨベツ(ギョベツ)」で、カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属 Pelodiscus に属するスッポン(鼈)類。

・「蛟龍(みづち)」音は「カウリヨウ(コウリョウ)」(「リュウ」は慣用音)中国の龍の一種。或いは、姿が変態する龍の類の子(成長過程の幼齢期又は未成個体)ともされる。

・「冶工(いものし)」鋳物師。

・「米蟲(よねむし)」甲虫(コウチュウ)目多食亜目ゾウムシ上科オサゾウムシ科オサゾウムシ亜科コクゾウムシ族コクゾウムシ属コクゾウムシ Sitophilus zeamais としておく。和名は突出した口刎が象の鼻のように見えることに由来する。ウィキの「コクゾウムシによれば、『口吻で穀物に穴をあけて産卵し、孵化した幼虫は穀物を食い荒らす。気温が』摂氏十八度以下『であると活動が休止』、二十三度以上『になると活発に活動する』。一匹の『メスが一生に産む卵は』200個以上『とされる』。『米びつに紛れ込んだ場合、成虫は黒色なので気がつきやすいが、幼虫は白色なので気づきにくい』。但し、『どちらも水に浮くので慎重に米研ぎをすれば気づくことがある。もし万が一気づかずに炊いてしまったり、食べてしまっても害はない』。『赤褐色のコクゾウムシは、農家の間では越冬コクゾウムシ(冬を越している)、暗褐色はその年に孵化したものと言われている。(確証は低いが大体の農家はそのように判別していることが多い) また、光に反応するため、米に虫が湧いたという状態になった場合は、ムシロに米を広げてコクゾウムシを排除する方法をとっている』とあるが、私は一度、そうして排除し、十分に乾燥させた米を炊いて食ってみたことがあるが、言語を絶する不味さで、総て捨てた(恐らく彼らの排泄物によって汚染されていたものであろう)。最後に。

 

穀象の群を天より見るごとく

 

穀象を九天高く手の上に

 

數百と數ふ穀象くらがりへ

 

穀象に大小ありてああ急ぐ

 

穀象の逃ぐる板の間むずがゆし

 

穀象の一匹だにもふりむかず

 

穀象と生れしものを見つつ愛す

 

総て、偏愛する西東三鬼のである(リンク先は「やぶちゃん正字化版西東三鬼句集」)。]

和漢三才図会 虫類 始動

なんとなく……気持ちが萎えている……こういう時は――何かとんでもない電子化をするに若くはない……「和漢三才図会」の最も苦手なもの――虫類――をやろう……

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(5) 御靈の後裔

       御靈の後裔

 

 何人も今まで深く注意したかつたことは、御靈景政説が錬倉の本元に於て、却つて必ずしも強く主張せられないことである。從つて諸國の御靈社の、現に鎌倉から勸請したと稱するものも、尚意外なる色々の由緒を存し、更に又其外にも之と獨立して、珍しい信仰と傳説とがある。之を悉く曾て鎌倉に始まつて遠く流布したものと見ることは困難なやうである。そこで實地の比較を試みると、地方によつて無論若干の異同はあるが、大體次の如き諸點は、今日の社記や口碑の特徴として算へられる。さうして其大部分は鎌倉の本社の與り知らなかつたことであるらしい。

 第一には主として奧羽地方でいふ片目淸水、勿ち權五部が戰場からの歸途に靈泉に浴して箭の疵を治したといふ傳説である。例へば羽前東村山郡高櫤(たかたま)の八幡神社にも、景政の來り浴したといふ淸池があり、其折鎌倉より奉じ末つた八幡の鑄像を、岸の樛木(ヌルデ?)に掛けて置いたら、靈異があつたので此社を建立したと稱し、今も境内社の一つに御靈社がある(一) 羽後の飽海郡平田村の矢流川も、景政射られたる片目を此水に洗ふと稱して八幡の社がある。川に住む黃顙魚(かじか)は之に由つて皆片目なりと謂つて居る(二) 同じ山形縣の名所の山寺にも景政堂があつた。土地の蟲追祭に此堂から鉦太鼓を鳴らして追へば、蟲忽ち去ると謂つたのは正しく惡靈退治の信仰だが、玆にも景政の目洗ひ池片目の魚の話があり、此山即ち烏海の柵址とさへ言ふ者があつた(三) それから嶺を越えて福島の平野に下ると、城下の近くの信夫郡矢野目村は、景政眼の創を洗つて平癒した故に村の名が出來たといひ南矢野目には亦片目淸水がある。後世池中の小魚悉く左の目眇であるのは、疵の血が流れて此淸水にまじつたからといふさうである(四) 宮城縣では亘理郡田澤村柳澤といふ處に、景政を祭るといふ五郎宮一名五郎權現があつた。柳澤本來は矢抽澤(やぬきさは)であり、祭神が鏃を拔き棄てた故に此名があると説明せられた(五) 斯ういふ實例は多くなる程證據としては弱くなるが、それでもまだ奧州路ならば、爰だけは本物とも強辯することが出來る。よくよく説明の六つかしいのは、信州伊那の雲彩寺などの、やはり權五郎來つて眼の疵を洗つたと傳ふる故迹である。池の名を恨の池と呼んで居るのは、恐らくは別に同名の異人があつて、其記憶を誤つたことを意味するかと思ふが、玆でも其水に居る榮螈(いもり)は、今に至るまで左の眼が潰れて居ると謂つて居る(六) 要するに傅説の景政は單に超人的勇猛を以て世を驚かすのみで滿足せず、一應は必ず靈泉の滸に來て、神德を魚蟲の生活に裏書することになつて居たのである(七) 之に基づく信仰が一轉して眼病の祈願となり、例へば武州橘樹郡芝生村の洪福寺に、景政の守り本尊、聖德太子の御作といふ藥師坐像を、目洗ひ藥師と名けて崇敬したなどといふのは、至つて自然なる推移であつた。

[やぶちゃん注:「羽前東村山郡高櫤(たかたま)の八幡神社」ちくま文庫版や多くの記載では「たかだま」と濁る(しかし旧同村内にある山形県天童市大字長岡。現在の奥羽本線の「高擶駅」は「たかたまえき」と清音である)。しかし、ウィキの「高擶駅」によれば、『駅名は開業当初、当駅が所属していた高擶村(たかだまむら)からとられているが、読みが異なる。駅東に残る高擶の地名も「たかだま」と読んでいる。周辺の道路標識には「Takadama」とローマ字で綴られているが、JR東日本では「Takatama」としている。しかし駅の利用者や車掌の大部分は「たかだま」と呼んでいる』。『「擶」は非常に珍しい漢字であるが、音は「セン」、訓は「ただす」で』、『「擶」は、俗称「タモ」と呼ばれる「楡(ニレ)」の木に由来している』とあるから、村名としては濁音の「たかだま」が正しいようである。この神社は現在の山形県天童市清池(しょうげ)にある清池八幡神社である。この神社は寛治六(一〇六二)年に『源義家の家臣鎌倉権五郎景政が創建。本殿の背後には、目を射られた景政が矢を抜き取り、目を洗ったと伝える御手洗池がある。この伝承が清池の地名の由来である』旨と、天童市教育委員会の設置した案内板にあると、。個人サイト「全国巨樹探訪記」の「清池八幡神社のケヤキ」にある。

「樛木」この「樛」は狭義には「つが」で、裸子植物門マツ綱マツ目マツ科ツガ属ツガ Tsuga sieboldii であるが、本種はウィキの「ツガ」によれば、『日本の本州中部から屋久島にかけてと韓国の鬱陵島に分布する。暖温帯(照葉樹林)から冷温帯(落葉広葉樹林)の中間地帯(中間温帯林)に主に分布する』とあって山形はやや無理があるか? 他に一般名詞(「キュウボク」と音読み)すると、「枝が曲がり下がった木」の意を持ち、鋳造した八幡像を掛けるというのであれば、これは相応しいとも言えるか?

「ヌルデ」被子植物綱ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis であるが柳田自身「?」を附しており、「樛」がヌルデを指すという事実も見当たらないので、これは考証するだけ無駄である気もする。

「羽後の飽海郡平田村の矢流川も、景政射られたる片目を此水に洗ふと稱して八幡の社がある」現在の山形県酒田市内。地図を検索した結果、山形県酒田市生石矢流川という行政地名が現存し、ここは西で東平田地区と接しており、矢流川の北端には八幡神社があるので、ここと推定される。

「黃顙魚(かじか)」条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux 及びその同属種。ゴリ・ドンコとも呼ばれる。

「山形縣の名所の山寺にも景政堂があつた」山形県山形市の天台宗宝珠山立石寺(りっしゃくじ)であるが、私は三度行ったが、記憶の中に「景政堂」はない。公式サイトの地図にも見当たらない。本文が「あつた」と過去形になっているのが気になる。識者の御教授を乞う。

「蟲追祭」虫送り。稲の虫害を防ぐための民間祭事。多くは五~八月頃に行われ、藁人形を中心に松明を連ね、鉦・太鼓で囃し立てながら田の畦をねり歩き、最後に人形は海や村境の川に流すか焼き捨てる。

「信夫郡矢野目村は、景政眼の創を洗つて平癒した故に村の名が出來たといひ南矢野目には亦片目淸水がある」現在の福島県福島市にある矢野目地区(行政地名では北矢野目と南矢野目がある)で、現在、この清水は「片目清水公園」(片目清水・めっこ清水)となって、湧水が保全されている。個人サイトと思われる「福島の歴史あっちこっち」のこちらを参照されたい。

「亘理郡田澤村柳澤といふ處に、景政を祭るといふ五郎宮一名五郎權現があつた」現在の宮城県亘理(わたり)郡亘理町逢隈田沢(おおくまたざわ)附近かと思われるが、権現は確認出来ない。ウェブサイト「いざ鎌倉」の「武士列伝鎌倉景政」に『矢抜沢(亘理町逢隈田沢字柳沢)という地名があり、矢抜沢のほとりに「権五郎矢抜石」という石があ』ると記す。この石については、現在は、『耕地整理のために』『逢隈田沢地区の民家入り口にあ』るとして、こちらの Nachtigall Blaue の写真で現認出来る。

「信州伊那の雲彩寺」現在の長野県飯田市上郷飯沼にある曹洞宗白雉山雲彩寺。この寺は境内にある前方後円墳で知られるが、その北東の端に宝篋印塔と五輪塔(二基)が造立されており、これを権五郎景政の墓と伝承する。

「池の名を恨の池と呼んで居る」個人サイト「戦国時代の城」の「景政と神社」に、この雲彩寺について、雲彩寺境内にある「うらみ池」を挙げ、ここの『清水のいもりは左の眼が潰れているという。うらみのわけはわからない。 権五郎景政はしばらくこの寺にいたという』と記す。

「武州橘樹郡芝生村の洪福寺に、景政の守り本尊、聖德太子の御作といふ藥師坐像を、目洗ひ藥師と名けて崇敬」現在の神奈川県横浜市西区浅間町にある臨済宗海東山洪福寺。いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」のこちらに詳しい。それによれば、「新編武蔵風土記稿」に、『今の客殿七間に五間ここに安せし薬師は、鎌倉権五郎景政が守り本尊にて、目洗薬師と云坐像丈三寸五分聖徳太子の作なり』とある由の記載がある。]

 第二の特微として注意すべきは、景政が神を祭り佛堂を建立し神木を栽ゑ又塚を築いたといふ口碑が、北は奧羽から南は九州にも及んで居ることである。即ち此人の神に祀られるに至つた主たる理由は、自身が先づ非常に信心深く、より大なる神に事へて最も敬虔であつた故に、其餘德を以て配祀を受けたといふものの多いことである。是にも澤山の例を擧げ得るが、先を急ぐから省略する。奧羽の方面の例は前に述べたが、九州に於てもやはり主神を八幡とし、男山石淸水を勸請したといふ場合が多く、大抵今は相殿の一座を占めさうで無ければ境内の主要なる一社であることが、若宮と八幡との關係によく似て居る(八) 十六歳の時に眼を射られて全治したと言ふ以外に、是といふ逸話もなかつた權五郎としては、實際主人の八幡太郎と緣の深かつた八幡神の關係を除いては、斯樣に弘く祭られる理由は考へやうが無いわけである。

[やぶちゃん注:「男山石淸水」京の石清水八幡宮は旧称「男山八幡宮」と称した。

「若宮と八幡との關係」この二語はしばしば同義としても用いられるが、ここで柳田國男は明らかに異なったものとして述べている。「若宮」は神道の祭祀に於いては、「主祭神である親神に対して御子(みこ)神とその社」を指す他、「本宮を他所に移して勧請して祀った社」の謂いであり、特に後者には特に、「祟りをなす御霊として怖れられた霊を祀る社及びその神」を含んだ。一方八幡神は最も早い神仏習合神で、参照した「大辞林」によれば、『本来は豊前国(大分県)宇佐地方で信仰されていた農業神とされ』、宝亀一二・天応元(七八一)年に『仏教保護・護国の神として大菩薩の号を贈られ』、以後、『寺院の鎮守に勧請されることが多くなった。また』、『八幡神を応神天皇とその母神功皇后とする信仰や』、平安末期以降は、『源氏の氏神とする信仰が生まれ』、『武神・軍神としての性格を強めた』とある。柳田の謂わんとするところは、強いパワー(言っておくが祟りだけではない)を持つ御霊神と武芸神である神仏習合の八幡菩薩神との宗教学的民俗学的関係という謂いで採る。]

 第三の特徴は、此神が常に託宣に依つて、神德を發揮したらしきことである。品川の東海寺に在る鎭守の御靈社は、長一尺四寸幅三寸餘の板を神體とするが、是は曾て當寺門前の海岸に漂著したものであつた。これを祀つた小丘を景政塚といひ、景政の塚は是だと謂つて居たが(九) 突然にそんな事の知れたのは神の告でおつたらう。告を信じたのは祟があつたからかと思ふ。もつと明白なのは福島郡仁井田の滑川(なめかは)神社の御靈である。景政征奧の途次此地に於て水難に遭ひ、村の人に助けられて謝禮の歌を短册に書いて殘したといふものが、四百十餘年後の文明三年に、始めて神體として此地に祭られたのである。それから又九十年後にも、領主の滑川修理が新館を築く際に託宣があつて、舊恩を謝する爲に此地に鎭護せんと告げた。さうして今日まで八幡天神と合祀せられて居るのである(一〇)斯ういふ隱れたる事由が無かつたなら、多くの御靈杜の口碑は實は虛妄になるのであつた。記錄の證跡は無くとも由來談は自由に成長して、聽く人の之を疑ひ得なかつたといふのは信仰である。最初至つて不明であつた權五郎の事蹟が、世を逐うて次第に精しくなつたのは此結果と見るの他は無い。從つて古くは吾妻鏡に記す所の、鎌倉の女房の夢に見えた景政なども、或は間接に今日の御靈社社傳に參與して居るのかも知らぬ。たゞ問題は如何にして其樣な夢が、語られることになつたかに歸著するのである。

[やぶちゃん注:「品川の東海寺に在る鎭守の御靈社」「これを祀つた小丘を景政塚」既出既注

「長一尺四寸幅三寸」全長四十二・四二センチメートル、幅九・〇九センチメートル・

「福島郡仁井田の滑川(なめかは)神社」現在の福島県須賀川市宮の杜にある滑川神社。

「文明三年」室町末期の一四七一年。

「それから又九十年後」戦国時代の永禄四(一五六一)年。]

 最後に一番重要なる特徴は、諸國に景政の後裔の段々に顯れて來たことである。その中で目ぼしきものは上州白井の長尾氏、是は系圖にも景政の後と書いて、熱信に御靈を祀つて居た[やぶちゃん字注:「熱信」はママ。](一一)信州南安曇の温(ゆたか)村にも其一派が居住し、後に越後に移つて謙信を出したのである(一二)奧州二本松領の多田野村に於て、御靈を祀つたのも長尾氏であつた。只野油井などの苗字に分れて、今も彼地方に榮えて居る。子孫五流ありといふ説なども彼等から出たのである(一三)長州藩の名家香川氏も亦景政の後といひ、其郷里安藝の沼田郡八木村には景政社があつた。近世改修して眇目の木像が神體として安置せられてあつた(一四)野州芳賀郡七井村大澤の御靈神杜なども、神主の大澤氏はもと別當山伏であつて、寺を景政寺と稱し梶原景時の裔と言つて居た。景時此地を領する時に建立したと傳へるが、社は八幡三所を主神として之に權五郎を配し、更に今では日本武尊の御事蹟を語る所から、其從臣の大伴武日尊をさへ合祀して居るのである(一五)其他能登では鳳至郡谷内(やち)村、打越の與兵衞といふ百姓が、鎌倉權五郎の子孫であり(一六)東國にもたしか同じ言ひ傳へを持つ農民があつた。

[やぶちゃん注:「上州白井の長尾氏」南北朝時代の山内上杉憲顕の有力家臣であった長尾景忠が始祖とされる上野(こうずけ)長尾氏。憲顕が越後国及び上野国の守護に補任され、その下で守護代を務めてそこに地盤を固めた。

「信州南安曇の温(ゆたか)村」現在の安曇野市三郷温(みさとゆたか)。

「謙信」彼の旧名は長尾景虎。

「奧州二本松領の多田野村」現在の福島県郡山市逢瀬町多田野附近。後注に出るように旧安積(あさか)郡。

「只野」ウィキの「鎌倉氏」を見ると、『景正の嫡子の鎌倉景継が後を継ぎ、さらにその息子の義景が三浦郡長江村にて長江氏を称し、義景の弟である重時は板倉重家の跡を継いで板倉氏を称した。景正の息子景門は安積氏を称し、その末裔は只野氏(多田野氏)を称した』とある。

「子孫五流あり」ウィキの「鎌倉氏」を見ると、支流・分家として、板倉氏・安積氏・只野氏・香川氏・古屋氏・梶原氏・酒匂氏・大庭氏・長尾氏・長江氏が挙げられてある。

「長州藩の名家香川氏」ウィキの「香川氏」によれば、『相模国を本貫地とする一族で、鎌倉景政より四代の孫にあたる鎌倉景高が相模国高座郡香河(現在の神奈川県茅ヶ崎市周辺)を支配して以降、香川氏を称したのに始まる』とある。

「安藝の沼田郡八木村には景政社があつた」現在の広島県広島市安佐南区八木。ウィキの「八木(広島市」に「権五郎神社」として、『八木城主香川氏の祖先「鎌倉権五郎景正」を祀る。香川家七代目の景光が八木城築城と共に景正の霊を勧請し、子孫が代々祭ってきた』とあるから、現存する。

「野州芳賀郡七井村大澤の御靈神杜なども、神主の大澤氏はもと別當山伏であつて、寺を景政寺と稱し梶原景時の裔と言つて居た」現在の栃木県芳賀郡益子町大沢にある御霊(みたま)神社のことと思われる。

「大伴武日尊」「おほとものたけひのみこと」と読む。「日本書紀」等に出る人物。大伴連(大伴氏)の遠祖とされ、ここに出るように、日本武尊東征の際の従者の一人。

「鳳至郡谷内(やち)村」「鳳至」は「ふげし」と読む。現在の石川県輪島市或いは鳳珠(ほうす)郡穴水町或いは鳳珠郡能登町内のどこかでは、ある(「谷内」という地名は字まで含めると複数あり、特定出来なかった)。]

 自分は今に及んで彼等が系譜の眞僞を鑑定せんとするやうな、念の入り過ぎた史學には左袒する氣は無い。眞にせよ僞にせよ、はた巫覡の夢語りにせよ、何故に當初斯樣な事を信ずべき必要があり、それが又地を隔てゝ此通り一致したか、別の言葉で言へば、景政を先祖に有つといふことの意義如何。所領相傳の證據にもならず、乃至は血筋の尊貴を誇るべき動機でも無しに、尚此類の由緒を大切にした所以のものは、別に何か目の一つしか無い人の子孫であることが、特に神寵を專らにすべき隱れたる法則があつたのでは無いか。陸前小野郷の永江氏の如きは、鬱然たる一郡の巨姓であつて、必すしも御靈の信仰に衣食した者で無いにも拘らず、寺を興し社を崇敬して、頗るかの地方の景政遺迹を、史實化した形がある。白井の長尾氏、藝州の香川氏なども其通りで、是は寧ろ家の祖先の言ひ傳への中に、偶然に眼を傷けたる物語が保存せられて居た爲に、進んで解釋を著名の勇士に近づけた結果かも知れぬ。さうすれば又源に遡つて、鎌倉の御靈に奉仕した梶原其他の近郷の名族が、却つて今ある保元物語の奇談の種を、世上に供給するに至つた事情もわかるのである(一七)但し如何なる場合にも、傳説の原因は單純で無いのが常である。殊に其發生が古ければ、一層之を分析することが面倒である。長たらしくなるが此序で無いと、こんな問題を取扱ふことは出來ぬ故に、今少しく辛抱して神と片目との關係を考へて行かうと思ふ。

[やぶちゃん注:「左袒」「さたん」と読む。「袒」は衣を脱いで肩を露わにする意で、前漢の功臣周勃(しゅうぼつ)が呂氏(りょし)の乱を鎮定しようとした際、呂氏に味方する者は右袒せよ、劉氏(りゅうし:漢の皇室一族)に味方する者は左袒せよ、と軍中に申し渡したところ、全軍が左袒したという「史記」呂后本紀の故事に拠る。味方すること。

「巫覡」「ふげき」既出既注

「陸前小野郷現在の宮城県東松島市内か。

「永江氏」柳田は「鬱然たる」(勢いよく盛んなる)「巨姓」(一大豪族の氏の姓(せい))と述べているが、私には不詳。識者の御教授を乞うものである。]

(一)明治神社誌料に依る。

(二)莊内可成談。和漢三才圖會卷六五に、烏海山の麓の某川とあるのも同じ處のことらしい。

[やぶちゃん注:「莊内可成談」は「しやうないなるべしだん(しょうないなるべしだん)」と読む(ちくま文庫版全集に拠る)。井上円了の「妖怪学講義」にも引かれる著作ながら、詳細は不明。所持する二〇〇一年柏書房刊「井上円了妖怪学全集」(東洋大学井上円了記念学術センター編)第六巻にある、編者による「妖怪学参考図書解題」にも未詳とするが、円了の引用内容から、『荘内地方記の奇聞・怪異などの話を集めた図書と思われ』、「図書総目録」にある「庄内可成談抄」『(随筆・写本・東大〔大泉叢誌一八〕の記述があり、同一本と思われる』とある。

「和漢三才圖會卷六五に、烏海山の麓の某川とある」「和漢三才圖會」は江戸中期の大坂の医師寺島(てらじま)良安によって、明の王圻(おうき)の撰になる「三才圖會」に倣って編せられた百科事典。全百五巻八十一冊、約三十年の歳月をかけて正徳二(一七一二)年頃(自序のクレジットから推測)完成、大坂杏林堂から出版されたもの。その地誌相当部の「出羽」の「鳥海山權現」の条の条に以下のようにある(やや長いが、非常に興味深いので引く。電子化は原文を私が視認し、私がオリジナルに書き下したものである。「祭神」以下は原本では全体が一字下げである)。

   *

原文(【 】は二行割注)

鳥海山權現 在鳥海山

祭神 未詳

慈覺大師始登山【云云】最髙山常有雪潔齋六七月可登而山頂無寺社唯見奇磐窟也麓有社俗傳曰鳥海彌三郎靈祠也有川鎌倉權五郎景政與鳥海彌三郎戰被射右眼放答矢射殺敵後後拔鏃到此川洗眼【云云】此川有黃顙魚一眼眇也

陸奥話記云安東太郎賴時自稱安倍將軍押領奥羽二州有四男一女嫡子盲目二男安東太郎良宗三男厨川次郎貞任四男鳥海彌三郎宗任也【天喜五年九月】源賴義奉勅攻賴時於是賴時中矢死貞任力戰而賴義同義家敗軍【康平五年】復征伐遂討貞任虜宗任【二男良宗降免罪去女子爲義家之妾】自此鳥海彌三郎爲義家之臣而後【寛治五年】義家征伐武衡家衡時鎌倉權五郎景政【生年十六】合戰所射右眼【自康平五年三十年以後】以之考則其射者非鳥海彌三郎明矣但其戰塲乃此鳥海邊乎舊彌三郎所領也故以鳥海爲稱號然不知祭其靈所以爲神也

やぶちゃんの書き下し文(原文の訓点はカタカナ。〔 〕は私の補填。一部の略字や歴史的仮名遣の誤りを訂し、一部の清音を濁音化した)

鳥海山權現 鳥海山に在り。

祭神 未だ詳らかならず。

慈覺大師、始めて登山すと【云々】。最も髙山にして、常に、雪、有り。潔齋して、六・七月、登るべし。而〔れども〕山頂に、寺、無く、社、唯だ、奇(あや)しき磐窟(いはや)見るのみ。麓に社有り、俗に傳へて曰く、鳥の海の彌三郎の靈祠なりと。川有り、鎌倉權五郎景政、鳥の海彌三郎と戰ひて、右の眼を射〔らるるも〕、答(たふ)の矢を放(はな)ち、敵を射殺して後に、鏃(やじり)を拔き、此の川に到り、眼を洗ふと【云々】。此の川に黃顙魚(かじか)有り、一眼は眇(すがめ)なり。

「陸奥話記」に云ふ。安東太郎賴時と云ふもの、自(おのづか)ら「安倍將軍」と稱(なの)り、奥羽二州を押領す。四男一女有り、嫡子(ちやくし)は盲目なり。二男は安東太郎良宗、三男は厨川(くりやかは)の次郎貞任(さだとふ)、四男鳥海彌三郎宗任なり。【天喜五年九月、】源賴義、勅を奉じて、賴時を攻む。是に於いて、賴時、矢に中りて、死す。貞任、力戰して賴義と同じく義家、敗軍す。【康平五年、】復た征伐して遂に貞任を討ち、宗任を虜(いけど)る。【二男良宗、降りて罪を免かれ、去る。女子は義家の妾と爲る。】此れより、鳥海彌三郎義家の臣と爲る。而して後、【寛治五年、】義家、武衡・家衡を征伐の時、鎌倉の權五郎景政【生年十六。】、合戰し、右(めて)の眼を射らる【康平五年より三十年以後。】。之れを以つて考へれば、則ち、其の射たる者は鳥海彌三郎に非ざること、明なり。但し、其の戰塲は乃ち此の鳥海の邊ならんか。舊(もと)彌三郎が所領なり。故に鳥海を以つて稱號と爲す。然れども、其の靈を祭りて神と爲る所以を知らざるなり。

   *

以上の引用に就いて禁欲的に注する。「鳥の海の彌三郎」が安倍「宗任」(長元五(一〇三二)年~嘉承三(一一〇八)年)の別名で、同一人物であるというのは既に既注であるが、例えばウィキの「安倍宗任によれば、『奥州奥六郡(岩手県内陸部)を基盤とし、父・頼時、兄・貞任とともに源頼義と戦う(前九年の役)。一族は奮戦し、貞任らは最北の砦厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害されるが、宗任らは降服し一命をとりとめ、源義家に都へ連行された。その際、奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろうと侮蔑した貴族が、梅の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と歌で答えて都人を驚かせたという』(『平家物語』剣巻)。その後、彼は『四国の伊予国に流され、現在の今治市の富田地区に』三年住んだが、その後、『少しずつ勢力をつけたため』、治暦三(一〇六七)年に『九州の筑前国宗像郡の筑前大島に再配流された。その後、宗像の大名である宗像氏によって、日朝・日宋貿易の際に重要な役割を果たしたと考えられる。また、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するために安昌院を建て』、嘉承三年二月四日に七十七歳で亡くなったとあるのを見ても、この景政武勇伝がデッチアゲ(少なくとも景政を射たのは鳥海弥三郎安倍宗任なんかではない)ということがお分かり戴けよう。但し、実在した鎌倉景政(景正)(延久元(一〇六九)年~?)と同時代人ではある(但し、宗任の方が三十七も年上で、実在の景政十六の砌りとしたら、宗任は実に五十三歳である。絵にならない)。

・「鳥海山權現」「麓に社有り」現在の山形県飽海(あくみ)郡遊佐町(ゆさまち)にある鳥海山大物忌(ちょうかいさんおおものいみ)神社を指し、これは鳥海山頂(標高二二三六メートル)の本社、麓にある吹浦(ふくら)と蕨岡(わらびおか)の二か所の口之宮(里宮)の総称。鳥海山そのものを神体山とする。寺島は「祭神 未だ詳らかならず」と言っているが、現在でもその祭神とする大物忌神(おおものいみのかみ)はここ鳥海山に宿るとされる神とばかりで、よく判っていない。恐らくは活火山としてたびたび噴火したことから、火山の噴火を神の怒りとした、非常に古い(恐らくは大和朝廷以前)山岳信仰に基づくものと思われ、また、ウィキの「鳥海山」には、『秋田県の郷土史家田牧久穂は、大物忌神は大和朝廷による蝦夷征服の歴史を反映し、蝦夷の怨霊を鎮める意味の神名だと述べている』ともあって、大和朝廷嫌いの私にとっては非常に興味深い。本話から考えると、川が近くなくてはならないので、ここで寺島が言うのは蕨岡の方かと推測される。

・「慈覺大師」遣唐僧で第三代天台座主として関東以北に驚くべき数の寺を建立したとされる伝説の名僧円仁(延暦一三(七九四)年~貞観六(八六四)年)。

・「陸奥話記」「前九年の役」を主題とした軍記物。一巻。「将門記」とともに軍記物のはしりで、十一世紀後半の成立とされる。作者は未詳ながら、後冷泉天皇朝にあって文章博士や大学頭を歴任した、「本朝文粋(もんずい)」の作者として知られる儒学者で文人の藤原明衡(あきひら 永祚元(九八九)年?~治暦二(一〇六六)年)はとする説が有力。

・「安東太郎賴時」(?~天喜五(一〇五六)年)は陸奥国奥六郡を治めた俘囚の長(おさ)(俘囚は陸奥・出羽の蝦夷の中で朝廷の支配に属するようになったもの)。ウィキの「安倍頼時によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『孫に奥州藤原氏の初代藤原清衡がいる』。『安倍氏は奥六郡に族長制の半独立勢力を形成しており、十一世紀の半ばには安倍氏が朝廷への貢租を怠る状態となった。永承六年(一〇五一年)には、陸奥守・藤原登任が数千の兵を出して安倍氏の懲罰を試みたため、頼良(のちの頼時)は俘囚らを動員して衣川を越えて国衙領へ侵攻し、鬼切部の戦いにおいて国府側を撃破した(前九年の役)。朝廷では源氏の源頼義を新たに陸奥守に任命して派遣するが、頼義が陸奥に赴任した翌永承七年(一〇五二年)春、朝廷において上東門院藤原彰子の病気快癒祈願のために安倍氏に大赦が出され、頼良も朝廷に逆らった罪を赦されることとなった。頼良は頼義と名の読みが同じことを遠慮して「頼時」と改名した』。『天喜四年(一〇五六年)、頼義が任期満了で陸奥守を辞める直前、多賀城へ帰還中の頼義軍の部下の営所を何者かが夜襲したとされ、その嫌疑人として頼義が頼時の嫡子・貞任の身柄を要求した(阿久利川事件)。頼時は頼義の要求を拒絶して挙兵し、頼義に頼時追討の宣旨が下った』。『天喜五年(一〇五七年)七月、反旗を翻した一族と見られる豪族・安倍富忠を説得するために頼時は北上したが、仁土呂志辺においてに富忠勢に奇襲を受け、流れ矢を受けて深手を負った。重傷の身で鳥海柵まで退却したが、本拠地の衣川を目前に鳥海柵で没し、貞任が頼時の跡を継いだ』とある。これに従うなら、彼に矢を射たのは裏切った同族の者であって、寺島が記すような「源賴義」が「賴時を攻」めて、その戦さの最中に「矢に中りて、死」んだのでさえない、ということになる。

「安東太郎良宗」不詳。安東姓は安倍の別称。

「厨川の次郎貞任」安倍氏の棟梁となった安倍貞任(寛仁三(一〇一九)年?~康平五(一〇六二)年)。ウィキの「安倍貞任によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『永承六年(一〇五一年)に、安倍氏と京都の朝廷から派遣されていた陸奥守・藤原登任との争いに端を発して、以降十二年間にわたって続いた前九年の役において、東北各地に善戦する。登任の後任として源頼義が翌永承七年(一〇五二年)に赴任すると、後冷泉天皇祖母・上東門院(藤原彰子)の病気快癒祈願のために大赦が行われ、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることとなったが、天喜四年(一〇五六年)に、阿久利川において藤原光貞の営舎が襲撃される阿久利川事件が起こると、頼義は事件の張本人と断定された貞任の身柄を要求し、父の頼時がこれを拒絶して再び開戦となる。天喜五年(一〇五七年)、安倍頼時が戦死したため貞任が跡を継ぎ、弟の宗任とともに一族を率いて戦いを続けた』。『同年十一月には河崎柵に拠って黄海(きのみ、岩手県一関市藤沢町)の戦いで陸奥守・源頼義勢に大勝している。以後、衣川以南にも進出して、勢威を振るったが、康平五年(一〇六二年)七月、国府側に清原氏が頼義側に加勢したので形勢逆転で劣勢となり、安倍氏の拠点であった小松柵、・衣川柵・島海柵が次々と落とされ、九月十七日には厨川柵の戦いで貞任は敗れて討たれた。深手を負って捕らえられた貞任は、巨体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取ったという。享年四十四、もしくは三十四』ともされる。『その首は丸太に釘で打ち付けられ、朝廷に送られた(この故事に倣い、後年源頼朝によって藤原泰衡』『の首も同様の措置がされた。平泉の中尊寺に現存する泰衡の首には、釘の跡が残っている)。なお、弟の宗任は投降し、同七年三月に伊予国に配流され、さらに治暦三(一〇六七)年太宰府に移された』。『背丈は六尺を越え、腰回りは七尺四寸という容貌魁偉な色白の肥満体であった(『陸奥話記』による記述)。衣川柵の戦いにおいては、源義家と和歌の問答歌をしたとされる逸話も知られる』とする。なお、「今昔物語集」には、『安倍頼時(貞任の父)は陸奥国の奥に住む「夷」と同心したため』、『源頼義に攻められ、貞任・宗任兄弟らは一族とともに「海の北」(北海道)に船で渡り』、『河の上流を三十日余り遡った当たりで「湖国の人」の軍勢に遭遇した、と伝えられている』とし、また後の『津軽地方の豪族・安東氏(のち秋田氏)は貞任の子、高星の後裔を称した』ともある。……そうして同ウィキには……かのおぞましき、戦争大好き天皇(すめらみこと)軽視の、アメリカの犬である現内閣総理大臣『安倍晋三も末裔であると』『語ったとされ、また第二十三回参議院議員通常選挙に向けて北上市で遊説を行った際、「貞任の末裔が私となっている。ルーツは岩手県。その岩手県に帰ってきた」と聴衆に語りかけた』という貞任が聴いたら絶対に怒るに違いないことが書かれてあった……

「天喜五年」一〇五七年。

「康平五年」一〇六二年。

「此れより、鳥海彌三郎義家の臣と爲る」先の記述を参照。配流されており、義家の家臣なんぞにはなっていない。

「寛治五年」これは寛治元年(一〇八七年)の誤り。

「其の戰塲は乃ち此の鳥海の邊ならんか」前に引用した「奥州後三年記」(現在は平安後期の院政期初期の成立と推定)のかの景正の武勇伝は(引用前の箇所から)「金澤柵」(かねさわのさく)とされる。現在、同柵は場所が同定されていないが、秋田県横手市金沢が比定地としてして有力であり、「奥州後三年記」が正しいとすれば、この戦場比定の寺島の謂いについてはハズレとなる。

「舊(もと)彌三郎が所領なり。故に鳥海を以つて稱號と爲す。然れども、其の靈を祭りて神と爲る所以を知らざるなり」秋田県由利本荘(ゆりほんじょう)市矢島町(やしままち)総合支所振興課の公式サイト内の「鳥海の山名由来」に以下のようにある(例外的に全文を引用するが、これ自体が「矢島の歴史」なる書籍らしきものからの引用である)。

   《引用開始》

 鳥海の山名がどういう関係でつけられたかは、この山の変遷をたどる上で、見のがすことができない。鳥海という山名が記録の上に現れたのは、和論語の中に鳥海山大明神とあることに始まるとされている。

 鳥海山の号は国史に見る所なし。和論語に鳥海山大明神と出づ。三代実録には飽海の山とありて山名を記さず。(大日本地名辞書)

 和論語が作られたのは、丁度頼朝の時代で、鳥海の山名はこの時までには、すでに一般から呼ばれていたと思われる。

 この山について変遷を考えると、古くは大物忌の神山、北山、飽海の山とか呼ばれていたようで、鳥海と呼んだのはその後のことであった。飽海の山というのは、由利郡にはまだ設置されず、飽海郡内の山であったからそのように呼ばれたのであるが、後世長く呼ばれた鳥海の山名は、どうしてできたのであろうか。結論からすると、安倍氏の全盛時代安倍宗任(むねとう)の所領がこの方面にあったことによるものとするのである。なぜかといえば安倍宗任を鳥海弥三郎宗任と称したことである。そのわけを調べると、宮城県亘理郡に鳥海の浦という所があって、ここが宗任の誕生地であるところから、その生地にちなんで鳥海弥三郎と称したと推定される。

 その後安倍氏の発展に伴い、岩手県方面に中心を移したのであるが、その地域に鳥海の地名が今に残っている。磐井郡の鳥海、胆沢郡の鳥海の柵等は、いずれも鳥海弥三郎に関係ある旧跡とされている。

 わが出羽方面にも宗任の所領があったかどうか明記されたものはないが、矢島方面には鳥海山の外に、相庭館附近に鳥の海の地名のあることや、子吉川を古くは安倍川と呼んだという古伝、さらに九日町村の修験永泉宗隆世氏の覚書の中に、天喜3年鳥海弥三郎宗任殿より御寄附三石有之由とか、笹子村流東寺の記録にも天喜年中、鳥海弥三郎より云々の文字があることからみて、由利郡全部が宗任の勢力下にあったと考えられるのである。

 今一つは、酒田方面と宗任との関係である。かの有名な藤原秀衡の母は宗任の息女で徳尼公と呼ばれた人である。その人は藤原氏滅亡の際、十六人衆と呼ばれる家来と共に酒田に逃れてきたと伝えている。現に酒田市の泉竜寺に徳尼公廟があり、また十六人衆の中の何軒かは今に残っているとのことである。

 以上のことから推定すると、由利郡を含めた飽海郡一帯にわたって、宗任の領地があったことを語るものでなかろうか。かかる関係から、鳥海氏領内の山として、鳥海の山名を生じたと考えるのである。

 その後安倍氏、清原氏、藤原氏とあいついで滅びたが、南北朝時代になると、由利鳥海両氏の対立が見られるのは、鳥海宗任の子孫が残存して一勢力をなしたものであろう。このように鎌倉時代以前、由利郡が鳥海弥三郎宗任と関係があり、鳥海の山名を生じたとするのである。

   《引用終了》

と、まさに寺島の説を立証するような内容で書かれてはある(なお、文中に出る「和論語」(「わろんご」と読む)は天皇・公卿・僧侶・武将などの金言や善行を集録し、それを「論語」に擬した書で、鎌倉時代の儒者清原良業(よしなり)が後鳥羽院の命で編述と伝えられるが、後人の偽作ともされる。寛文九(一六六九)年刊、全十巻)。しかしこれは、「鳥海」という語自体に古い(或いはアイヌの言葉かも知れぬ)地名意義があるのではないかと私は秘かに思ってはいるのである。]

(三)行脚隨筆上卷。

[やぶちゃん注:恐らく、江戸中期の曹洞宗の僧である泰亮愚海(たいりょうぐかい 生没年未詳:越後高田の林泉寺・長命寺、上野(こうずけ)沼田の岳林寺などの住持を勤めた)の著になる(文化年間(一八〇四年~一八一八年)刊か)随筆と思われる。]

(四)信達二郡村誌卷一〇下。及び信達一統誌卷六。

[やぶちゃん注:「信達二郡村誌」これは下に記された、先に注した農民であった志田正徳著になる地誌「信達一統誌」を補完する、明治三六(一九〇三)年に出版された中川英右編・佐沢広胖訂になる地誌と推定される(書誌は国立国会図書館のデータに拠る)。]

(五)封内名蹟誌卷五。封内風土記卷八。

[やぶちゃん注:「封内名蹟誌」「封内」は「ほうない」と読む(次も同じ。これは一般名詞で、「領土の内」の意この場合は仙台藩内を指す)。仙台藩士佐藤信要(のぶあき)が寛保元(一七四一)年に完成させた藩内の名蹟を纏めた地誌。全二十一巻。

「封内風土記」仙台藩第七代藩主伊達重村の命により、同藩の儒学者田辺希文(まれふみ)が明和九(一七七二)年に完成させた藩内の地誌。全二十二巻。以上の前注とこの注は、「仙台市都市整備局都市開発部富沢駅周辺開発事務所」発行の「富沢駅周辺地区 まちづくりニュース」第百三十号(ワード文書でダウン・ロード可能)のコラム記事に載るデータを参照させて戴いた。]

(六)岩崎淸美君編「傳説の下伊那」。

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年刊。国立国会図書館デジタルコレクションの画像に発見(当該箇所へリンクさせた)。]

(七)獨り魚やいもりだけで無く、安積郡の多田野村などでは、村に御靈社がある爲に、此地に生れた者は一方の目が少しく眇すとさへ言はれて居る。

(八)「民族」二卷一號「人を神に祀る風習」を參照せられたし。

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年十一月発行のそれに載った柳田國男の論文。ちくま文庫版全集では後に「序」を附したものが第十三巻に載る。]

(九)新編武藏風土記稿卷四六。

[やぶちゃん注:文化・文政期(一八〇四年~一八二九年)に昌平坂学問所地理局によって幕府の公事業として編纂された武蔵国地誌。]

(一〇)北野誌首卷附錄二八三頁。

[やぶちゃん注:「北野誌」は北野神社社務所編で、明四三(一九一〇)年刊。現在の京都府京都市上京区御前通今出川上る馬喰町にある北野天満宮の社史。「北野神社」は同神社の旧称(同社は明治四(一八七一)年に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名、「宮」を名乗れなかったのは、当時のその条件が、祭神が基本的に皇族であること(同社の祭神は菅原道真)、尚且つ、勅許が必要であったことによる。古くより親しまれた旧称「北野天満宮」の呼称が復活したのは、実は戦後の神道国家管理を脱した後のことであった。この部分はウィキの「北野天満宮」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちら当該箇所リンク)の画像で視認出来る。]

(一一)上毛傳説雑記卷九に御靈宮緣起を傳へ、此神九歳の時力成人に超え、十歳よる戰場に出たなどと述べて居る。即ち亦神自らの言葉を書き留めたものであらう。

[やぶちゃん注:「上毛傳説雑記」は先に「行脚随筆」の作者として推定した泰亮愚海が古老の伝説を聴き取り、古記録を集め、安永三(一七七四)年に刊行した伝承採録記である。

「此神九歳の時力成人に超え」読み難い。「此の神、九歳の時、力(ちから)、成人に超え」である。]

(一二)南安曇郡誌に依る。

[やぶちゃん注:「南安曇郡誌」(みなみあづみぐんし)は長野県の旧南安曇郡(現在の安曇野市の大部分と松本市の一部)の地誌。長野県南安曇郡編纂で発行所は南安曇郡教育会。発行は大正一二(一九二三)年。]

(一三)相生集卷二、卷一〇など。

[やぶちゃん注:陸奥国南部の安達郡(岩代国)にあった二本松藩(現在の福島県二本松市郭内(かくない))の地誌。著者は藩士大鐘義鳴(おおがねよしなり)。全二十巻で天保一二(一八四一)年完成。]

(一四)藝藩通志卷七、陰德太平記の著者香川宣阿。歌人香川景樹の家なども此一門の末で、御靈は鎌倉のを拜むべき人々であつた。

[やぶちゃん注:「芸藝藩通志」広島藩地誌。先行する「芸備国郡志」を改訂増補して文政八(一八二五)年に完成。主著者である広島藩士頼杏坪(らいきょうへい)は頼山陽の叔父。

「陰德太平記の著者香川宣阿」「宣阿」は武士で歌人香川景継(正保四(一六四七)年~享保二〇(一七三五)年)で、彼の著作として最も知られる軍記物が「陰德太平記」。但し、正確には彼の父岩国藩家老香川正矩によって編纂されたものを二男であった景継が補足したもので、享保二(一七一七)年刊。全八十一巻及び「陰徳記序及び目録」一冊から成り、戦国時代の山陰・山陽を中心に、室町幕府第十二代将軍足利義稙の時代から、慶長の役まで(永正八(一五〇七)年頃から慶長三(一五九八)年頃までの約九十年間を対象とする(主にウィキの「陰徳太平記」に拠った)。香川氏が鎌倉氏の支流を名乗っていることは既出既注。]

(一五)下野神社沿革誌卷六。

[やぶちゃん注:風山広雄編。明三五(一九〇二)年~明治三六(一九〇三)年。出版地は栃木県芳賀郡逆川(さかがわ)村(現在の芳賀郡茂木町の南部)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める(リンク先は当該箇所)。]

(一六)能登國名跡志上卷。

[やぶちゃん注:「太田頼資著、安永六(一七七七)年記。「大日本地誌大系」の北陸の部に収録されている。同書は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来るが、当該箇所がなかなか見つからない。どなたかお探しあれ(ちょっと探すのに疲れました)。その画像のURLをメールで下さると、恩幸これに過ぎたるはない。そうすると、本文注で特定出来なかった場所をはっきりと限定出来るものと思われるからである。]

(一七)權五郎景政が信心の士であつたことは、吾妻鏡卷一五、建久六年十一月十九日の條に見えて居る。後世彼の一門を御靈社と結び付ける力にはなつて居たかと思ふ。言はゞ彼は我々の立場から見ても、尚其片目を傷けらるゝに足る人であつた。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の同箇所の原文は既に「神片目」の注で示した。]

2016/03/28

見ろ

もう――其處に居るのは――僕獨りだつたではないか――

僕は

現世は祝祭でなく――しかも――地獄でさえ――ない――それは確かに――他者にとって哀れむべきことではあろう。しかし乍ら――僕はそれも「ヒト」の宿命と思うのである。

詩  原民喜

   詩  原 民喜

 

風見は廻る靑空に

謹ばしげに輕やかに

屋根の上なる靑空に

廻る風見に音もなし

 

眩しきものの照るなべに

夜の相ぞおそろしき

靑ざめはてし魂は

曙にして死ぬるべし

 

罪咎なれば耐え得べし

こんこんこんこんあさぼらけ

米をとぐ音聞こえ來る

いかでか我は睡むらざる

 

うつつけものが鳥ならば

すういすういと泳ぐべし

けふやきのうやまたあすや

春惜しむ人や榎に隱れけり

 

[やぶちゃん注:昭和三(一九二八)年九月発行の『四五人会雑誌』十三号に掲載された文語定形詩。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅱ」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した。底本の「拾遺集」の中では文語定形詩は特異点である。

 第一連二行目の「謹ばしげに」は、思うに「よろこばしげに」と訓じているように思われる。「つつばしげに」とは言わないし、音数律も不整合で、そもそもが風見鶏の動きと「輕やかに」の表現と、謹(慎)ましいさまというは、寧ろ、齟齬する(と考える)からである。恐らく民喜は、「慶賀」「祝賀」などの語から、「謹賀」の「謹」にそのような意味があると誤認して用いたのではなかろうか。但し、「謹」にそのような「よろこぶ」(慶ぶ・喜ぶ)の謂いは、ない。

 第二連一行目の「なべに」は、恐らくは上代の接続助詞「なへに」が中古に誤って濁音化したもので、「~につれて・~とともに・~と同時に」の謂いであろう。彼(風見)にとって「眩し」く「照る」のは具体には夜の冷たく青い月光、或いは霊の妖しい鬼火ででもあろう(と私は読む)。

 第三連二行目の「こんこんこんこん」は韻律の響きとしては面白いが(但し、一字字余りであって最終行を除く七五調破格の特異点)、意味は難解である。まずは時系列から「夜の相」と「あさぼらけ」の経過と採って、「昏昏」(意識のないさま/よく眠っているさま/暗くてはっきりとしないさま/暗愚なさま)が想起さるが、しかしこれは同時に次行の「米をとぐ」から、晩春の小川流れのオノマトペイアとも連動する。孰れにせよ、なかなか上手い手法と私は思う。

 第四連一行目・二行目も興味深い。――「うつつけもの」――「現(うつつ)」(現実の自分の状態/普通の「けもの」が目覚めるべき朝――但し、彼は「睡ら」ないのである。前段末尾は反語である。彼は永遠に睡ることのない「風見」鶏だから――になって見れば)では「けもの」(獣)たる「鳥」の形をした自分である。さればこそ、「夜の相」から解き放たれたなら、どうだ! 一つ! 「風見」鶏の「鳥」ではあっても、「うつつ」(醒めた状態)となったなら、小川の流れの響きのよさに(前連を受ける)、いっそ、そこを「すういすうい」と泳ぐがよかろう!――と私は読む。

 最終連最終行は難しい。カメラ・ワークが全く異なり、有意なパースペクティヴがある。韻律も確信犯で発句(五七五)形式でここだけせめて二字下げにしたいぐらいである(その方が恐らく読み易く、朗読し易い)。惜春の情はあらゆる人類文芸の濫觴の一つ乍ら、この「榎」の蔭に「隱れ」ている「人」は、ゆかしい。永遠に眠らぬ地獄の「風見」は詩人自身であり、この榎に木隠れするのは、詩人の永遠の恋人、「遂ひ逢はざりし人の面影」(伊東静雄「水中花」より)ででもあったか――

 この詩篇の内、第二連と第三連は後に「かげろふ断章」として一部詩篇が纏められた際、「不眠歌」としてほぼ相同形で載せられてある。

 また、最終連も同じ「かげろふ断章」(「不眠歌」の次の次)に「晩春」という題でほぼ相同で独立して載せられてある。の「原民喜詩集を参照されたい。]

2016/03/27

北條九代記 卷第九 御息所御輿入 付 殺生禁遏

 

鎌倉 北條九代記   卷第九

 

      ○御息所御輿入  殺生禁遏

龜山院文應元年二月五日、故(こ)岡屋(をかやの)禪定殿下(ぜんじやうてんが)兼經公の御娘(おんむすめ)を、最明寺時賴入道の猶子(いうし)として、御年二十(はたち)に成(なら)せ給ふを、關東に申し下し、山〔の〕内に入れ參らせ、軈(やが)て將軍家の御息所に備へ奉らる。忍びて御輿入(おんこしいれ)ありけれども、穩敏(をんびん)なるべき御事にもあらざりける間、同じき三月に、御家人等、祝義(しうぎ)の進物、取り取(ど)りに捧け奉り、鎌倉の有樣、賑々敷(にぎにぎしく)ぞ覺えける。この比(ごろ)、世の人、殺生を縡(こと)とし、大名、高家(かうけ)より下々までも、獵漁(かりすなどり)を好み、鷹を臂(ひぢ)にし、犬を挽(ひ)き、山には蹄(わな)を懸け、水には網を布(し)きて、飛走鱗甲(ひさうりんかふ)、更に其所を得ず。夫(それ)、元々の雜類(ざふるゐ)は、汲々(きふきふ)として生を貪り、蠢々(しゆんしゆん)の群彙(ぐんい)は、孜々(しゝ)として死を畏る。暫く形は異なれども、含識(がんしき)、悉く命根(めいこん)を惜(をし)む事は、是(これ)、同じ。或(あるひ)は生擒(せいきん)の山獸(さんじう)は檻穽(かんせい)に囚(とらは)れて友を慕ひ、或は殺翎(さつれい)の野禽(やきん)は架桁(かかう)に繫がれて雲を戀ひ、身命を他の飼(やしなひ)に投じて、死生(ししやう)を自運(じうん)に任(まか)す。是は未だ殺さざるの者にして、愁ふる思(おもひ)に沈む計(ばかり)なり。彼(か)の漁獵(ぎよれふ)を好む輩(ともがら)、巣を傾(かたぶ)け、胎(はらごもり)を割(さ)き、鼓を擊揚(うちあ)げ、煙矢(けぶりや)を飛(とば)し、網を布(し)きて逃(にぐ)るを追ひ、漏るゝを捕へて、※(とが)なくして俎上(そじやう)に昇(のぼ)せ、過(あやまち)なくして鼎中(ていちう)に煮る。是に依て、綵羽翠毛(さいうすゐもう)は、飮啄(いんたく)するに怖れを致し、金鱗頳尾(きんりんていび)は游泳するに危(あやぶみ)を懷き、昊天(かうてん)高く、大地廣けれども、遁れ藏(かく)るに處なし。旦暮(たんぼ)に寒心(かんしん)し、晝夜に消魂(せいこん)す。是(これ)、十惡の中には殺生、最(もつとも)、大(おほい)なり。十善の中には、命(めい)を救ふを專(せん)とす。人天有頂(うちやう)、是(これ)を受生(じゆしやう)の緣とし、佛法修道(しゆだう)、是を入理(にふり)の門とする事なれば、大聖(しやう)はこの悲愁を憐み、君子はその庖厨(はうちう)を遠ざくと云ふ。現生(げんしやう)後世(ごせ)に渉りて、不殺放生(ふせつはうしやう)に過ぎたる功德(くどく)なし。大平長壽の基(もと)、道德仁政(じんせい)の首(はじめ)なりとて、時賴入道を初(はじめ)て評定一決し給ひ、在俗白衣(びやくえ)の輩(ともがら)、常には左(さ)もこそはあらめ、齋日(さいにち)の時節には忌憚(いみはゞか)りても然るべしとて、文書(もんじよ)を出して施行(しぎやう)せらる。

[やぶちゃん字注:「※(とが)」の「※」は(にんべん)+{上部(「替」-[日」)+下部(心)}

 以下の殺生制限の文書は底本では全体が二字下げ。元が漢文体なので、ここでは返り点のみの文を示し、後に【 】で訓読文を示すこととする。訓読では例外的に(ここまで本文は常に本文のままで、本文にない読みや送り仮名は送ってきていない)送られていない字を一部補填して読み易くし、句読点の一部も変更した。]

 

     六齋日 竝 二季彼岸殺生事

右魚鼈之類。禽獸之彙。重ㇾ命逾山嶽。護ㇾ身同人倫。因茲罪業之甚。無ㇾ過殺生。是以佛教之禁戒惟重。聖代格式炳焉也。然則件日々早禁魚網於江梅。宜レ停狩獵於山野也。自今以後固守此制、一切可ㇾ隨停止。若猶背禁遏。有違犯輩者。至御家人者。令ㇾ注進交名、 於凡下輩、可ㇾ加二罪科之由、可ㇾ被ㇾ仰諸國之守護竝地頭等。但至有ㇾ限神社之祭者非制禁之限矣。

【    六齋日 竝びに 二季(にき)彼岸(ひがん)に殺生をする事

右、魚鼈(ぎよべつ)の類(たぐ)ひ、禽獸の彙(たぐ)ひ、命を重んずること、山嶽に逾え、身を護ること、人倫に同じ。茲に因つて、罪業の甚だしき、殺生に過ぎたる無し。是(こゝ)を以つて佛教の禁戒、惟(こ)れ、重し。聖代の格式、炳焉(へいえん)なり。然れば則ち、件(くだん)の日々、早く、魚網を江海に禁じ、宜しく狩獵を山野に停(とゞ)むべきなり。自今以後、固く此の制を守り、一切、停止(ちやうじ)に隨ふべし。若し、猶ほ禁遏に背き、違犯の輩(ともがら)有らば、御家人に至つては、交名(けうみやう)を注進せしめ、凡下の輩に於いては、罪科を加ふべきの由、諸國の守護竝びに地頭等に仰せらるべし。但し、限り有る神社の祭に至りては、制禁の限りに非ず。】

 

是に依て、關東の諸國、暫く、修法齋日の間、非道の殺生を停止(ちやうじ)すといへども、死生不知(ししやうふち)の輩(ともがら)は、この施行(しぎゃう)を甘心(かんしん)せず。「枝葉(しえふ)の禁制かな。田畠(でんぱた)を荒す者は猪鹿(ちよろく)に過ぎたるはなく、堤(つゝみ)に穴ほり、陵(をか)を崩すものは狐兎(こと)に超(こえ)たるはなし。熊、狼の人を傷(そこな)ひ、雁(がん)、鴨(かも)の稻を食(くら)ふ、世の爲に害あり。いはんや、魚鳥の味は、人の口腹(こうふく)を養ふ。是を停止(ちやうじ)して、慈悲とせらるゝは、梁の武帝の修道(しゆだう)を學び、唐の僖宗(きそう)の政道を慕ひ給ふらん、無智の尼法師(あまはふし)の世を諂(へつら)ふて、申す事を信じ給ふも、嗚呼(をこ)がまし」と傾(かたぶ)き嘲けるも多かりけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻四十九の文応元(一二六〇)年二月五日、三月二十一日、及び正元二(一二六〇)年正月二十三日などに基づく。

「禁遏」「きんあつ」と読み、禁じて止めさせることの意。
 
「故岡屋禪定殿下兼經公の御娘」既注の近衛兼経(この娘の輿入れの前年に死去)の娘近衛宰子(さいし 仁治二(一二四一)年~?)。第六代将軍宗尊親王正室で第七代将軍惟康親王の母。まずは元執権北条時頼の猶子として鎌倉に入って同文応元年の三月二十一日に十九歳の将軍宗尊の正室となって御息所と呼ばれた。参照した
ウィキの「近衛宰子によれば、『時頼の猶子にすることで、北条氏の女性が将軍に嫁すという形を取っている』。先走って紹介してしまうと、文永元(一二六四)年四月に惟康王を出産するが、文永三(一二六六)年に宰子と、この惟康『出産の際に験者を務めた護持僧良基との密通事件が露見』、六月二十日、良基は逐電、『連署である北条時宗邸で幕府首脳による寄合が行われ、宗尊親王の京都送還が決定されたと見られる。宰子とその子惟康らはそれぞれ時宗邸などに移された』。『鎌倉は大きな騒ぎとなり、近国の武士たちが蜂のごとく馳せ集った』。七月四日、『宗尊親王は将軍職を追われ、女房の輿に乗せられて鎌倉を出』て帰洛、京には『「将軍御謀反」と伝えられ、幕府は』未だ三歳であった『惟康王を新たな将軍として擁立した』。『その後、宰子は娘の倫子女王を連れて都に戻った。都では良基は高野山で断食して果てた、または御息所と夫婦になって仲良く暮らしているなどと噂された』とある。

「高家」中世では武士団の中でも、相対的に見て、由緒ある武士の家柄や名門の武将を指して用いられた。

「蹄(わな)」兎を捕えるための罠(わな)。

「飛走鱗甲」鳥類・獣類・魚類・貝類。

「雜類(ざふるゐ)」これは「衆生の雑類(ぞうるい)」で古くより、貴賤を問わず、仏法を信じていない人間総体を広く指す語である。ここは単に生物、獣の一雑類たる「人間」の謂いで採ってよい。

「蠢々の群彙」ただただ蠢(うごめ)いているばかりの、生物として人間よりも下等な動物・虫魚の群れの類(たぐ)い。

「孜々(しゝ)として」ただひたすらに。

「含識(がんしき)」仏教用語で「衆生」の別訳。「心識」を有する者、感情や意識を持つと考えられる生物のことで、一般には「人間」と同義で用いられるが、ここはもっと広義に、生物の謂いで問題ない。

「命根(めいこん)」息の根。生命。

「生擒(せいきん)」生け捕り。

「檻穽(かんせい)」檻や監禁用の穴。

「殺翎(さつれい)の野禽(やきん」羽を傷つけられて飛べないようにされた鳥。

「架桁(かかう)」飼育用の止まり木。

「身命を他の飼(やしなひ)に投じ」自ら生きることを、ただ、人に飼育されることによってのみに委(ゆだ)ね。

「死生(ししやう)を自運(じうん)に任(まか)す」自分の精子の命運をそれ(飼育する人)に任せる。

「愁ふる思(おもひ)に沈む計(ばかり)なり」主語は人に飼育目的で捕縛された動物。

「胎(はらごもり)を割(さ)き」食に当てるためにむごたらしくも腹を裂いて内臓を抜き捨て去り。

「鼓を擊揚(うちあ)げ、煙矢(けぶりや)を飛(とば)し」鳥獣を捕獲するために、まず嚇(おど)しのための喧しい太鼓をばんばんと打ち鳴らしたり、煙を張ったり、火を放ったりするための「煙矢(けぶりや)」を射ったり。

「※(とが)」(「※」=にんべん)+{上部(「替」-[日」)+下部(心)})は咎・科(とが)で、「罪」と同じい。

「鼎」大きな金属の鍋。

「綵羽翠毛」美しい可憐な鳥たち。

「飮啄(いんたく)」水を飲み、餌を啄(ついば)む。

「金鱗頳尾(きんりんていび)」新鮮で鮮やかな赤い尾を持った美しい色の魚たち。

「昊天(かうてん)」大空。

「旦暮(たんぼ)」朝夕。毎日。日々。

「寒心(かんしん)」胆を冷やすこと。余りの恐ろしさに竦むこと。

「十惡」仏教で身・口・意の三業(さんごう)が生み出すとする、十種の罪悪。殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口(あっく)・両舌・貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・邪見を指す。

「十善」上記の「十悪」を成さないこと。

「人天有頂(うちやう)、是(これ)を受生(じゆしやう)の緣とし」人間界に生まれるか、天上界に生まれるか、或いは世界の最も清浄なる有頂天に生まれるかは、これ、総ては自らが最初から受けた縁(えん)によるものであって。

「入理(にふり)の門」仏道修行に入る最初のとば口。

「大聖(しやう)」優れた聖(ひじり)。大聖人。但し、ここは「君子」と下に繋がるので、仏教の有り難い上人さまではなく、儒教道徳上の「仁」を持った「聖人君子」の謂いが原義。

「庖厨(はうちう)」生きとし生けるものを殺生するところの台所。

「現生(げんしやう)後世(ごせ)」現世(げんせ)と後世(ごせ)

「評定一決」評定衆の全員一致の採決。

「在俗」「白衣(びやくえ)」は同義。宗教者や武士でない一般大衆を指す。

「常」普段の日常。

「左(さ)もこそはあらめ」生きるために食わねばならぬから、今までの最低限の習慣上の殺生に対しては、流石に取り立てて問題にはしないけれども。

「齋日(さいにち)」ここは仏教で言うそれ(「さいじつ」とも読む)と採り、在家(ざいけ)の仏教徒が「八戒」(はっかい:在家の者が一日だけ出家生活にならって守る八つの戒め。不殺生(ふせつしよう)・不偸盗(ふちゆうとう)・不邪淫(ふじやいん)・不妄語(ふもうご)・不飲酒(ふおんじゆ)の五戒の中の不邪淫戒をより厳しい不淫戒とし、さらに装身・化粧をやめ、歌舞を視聴しない、高く立派な寝台に寝ない、非時の食(原則は午前中のみしか食事は出来ないとされる)を保って精進する日。毎月の八・十四・十五・二十三・二十九・三十日を「六斎日」と称した(本文に後掲される、それ)。

「二季彼岸」春秋二季にある彼岸の期間。春分・秋分を中日としてその前後各三日を合わせた各七日間であるから、一年で計十四日間となる。

「逾え」「こえ」(越え)。

「炳焉(へいえん)」はっきりとしているさま。明らかなさま。「炳」は「明らかな様子」で、「焉」は事物の様態 を形容する辞。

「件(くだん)の日々」六斎日と春秋の彼岸の期間。

「早く」速やかに。

「交名(けうみやう)を注進」氏姓通称名前を記名の上、報告し。

「凡下の輩」一般庶民の者ども。

「仰せらるべし」自敬表現であろう。屹度、周知しておかねばならぬ。

「限り有る神社の祭」限定的な期間で特別に催行されるところの神社の祭儀。

「死生不知(ししやうふち)の輩(ともがら)」生きとし生ける衆生の生命の至高の貴(とうと)さが分らぬ連中。

「施行(しぎゃう)」この禁制の厳格なる施行(しこう)。

「甘心(かんしん)せず」納得しない、同意しない、或いは、快く思わない。

「枝葉の禁制」枝葉末節の百害あって一利もない下らぬ禁制。

「人の口腹(こうふく)を養ふ」人の味覚を楽しませ、腹をくちくさせて呉れる。

「梁の武帝の修道(しゆだう)を學び」梁の武帝が、多分に仏教に帰依し、王としての人倫の道を修めようとしたことを指す。「梁の武帝」は、中国の南北朝期に江南にあった梁(五〇二年~五五七年)王朝の初代皇帝蕭衍(しょうえん 五〇二年~五四九年)のこと。創業当初は、疲弊した民政の回復を図って積極的な政治改革を行なって国家を安定させ、南朝の全盛期を生み出した。後、仏教への関心を強めたが、自らが建立した寺に「捨身」の名目で莫大な財物を施与、その結果、梁朝の財政は逼迫して民衆には苛斂誅求が齎された。武帝の仏教信仰は本格的で、数々の仏典に対する注釈書を著わし、その生活は仏教の戒律に従ったもので、特に菜食を堅持したことから、「皇帝菩薩」とも称された(主にウィキの「蕭衍及びそのリンク先の記載を参照した)。

「唐の僖宗(きそう)の政道を慕ひ給ふ」僖宗(八七三年~八八八年)は唐の第二十一代皇帝であるが、どの記載も「政道を慕ひ給ふ」姿は見られないので、これは筆者は誰か他の皇帝と勘違いしているのではあるまいか? 例えば、平凡社の「世界大百科事典」には、十二歳で即位したため、実権はほぼ宦官勢力に握られて、生涯、遊蕩の生活に明け暮れた。特に宦官田令孜(でんれいし)は禁軍(近衛兵団)の力を盾に僖宗を操り、宰相ら清流派(科挙試を経て成った役人で儒教的政治理念を持ち、蓄財や賄賂を拒絶して清貧を貫くことを体現した官僚グループの自称)と対立し、互いに藩鎮(強い軍事力を持つ地方行政組織の有力集団)の武力を借りようとしたため、混乱は地方にまで及び、王仙芝・黄巣に代表される諸反乱(黄巣の乱)を誘発、僖宗は都を逃れて陝西の各地を転々とする生活を強いられた、とある。少しもよいは書かれていない。識者の御教授を乞うものである。

「世を諂(へつら)ふ」この場合の「世」は増淵勝一氏が訳されておられるように、『お上(かみ)』と限定するのがよい。]

句会 (七句)   原民喜

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年十一月発行の生原稿を綴った回覧雑誌『四五人会雑誌』二号に掲載された樂只庵記とある「十月二十五日 杞憂亭宅句會」(記載から同日午後七時開会で十時散会とある)から原民喜の句のみをピックアップした。記者である樂只庵(「らくしあん」と読もう)は山本健吉の俳号の一つ。同句会は彼ら二人と無字庵(熊平武二)三人によっている。は「葉鷄頭」。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅱ」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した。これらの内には、頭に当日の三人の得点が表示されてある。それは句の下方に〔 〕で示した。因みに最初の句の八点は最高得点である。

 二句目に「父行きて」とあるが、原民喜の父原恒吉はこの十一年も前の大正六年二月(民喜満十一の春)に胃癌のために死去しており、事実に即すとしても、季も全く合わないことを注しておく。この場の他の二人のどちらかの心境を句で代弁したものかも知れない。

 なお、これらの句は民喜の「杞憂句集」には載らない。]

 

雨傘(かさ)一つ乾かしてあり葉鷄頭〔八點〕

 

父行きて葉鷄頭の秋となりにけり  〔七點〕

 

白雲の下に明き葉鷄頭       〔六點〕

 

葉鷄頭に月明き夜や厨裏      〔五點〕

 

 

 

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年十一月発行の生原稿を綴った回覧雑誌『四五人会雑誌』二号に掲載された樂只庵(山本健吉)記とある「四五人會俳句例會」から原民喜の句のみをピックアップした。同句会は原民喜と先に示した句会の二人(山本と熊平武二)に加え、長光太の四人によっている。十月二十九日(前の句会の四日後)の午後二時に熊平のところで開会、は「冬木立」「火鉢」。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅲ」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した。「電燈」の「燈」は底本の用字。これらの内には、頭に当日の四人の得点が表示されてある。それは句の下方に〔 〕で示した。因みに最初の句の十点は最高得点である。

 なお、これらの句は民喜の「杞憂句集」には載らない。]

 

    冬木立

 

雲と空を映せる水や冬木立     〔十點〕

 

杉垣の道をまがれば冬木立     〔八點〕

 

   火鉢

 

電燈(でんき)つきて夜の火鉢となりにけり

                 〔六點〕

近咏 五句  原民喜

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年十一月発行の生原稿を綴った回覧雑誌『四五人会雑誌』二号に掲載。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した。

 なお、これらの句は民喜の「杞憂句集」には載らない。最後の句は同句集の昭和一〇(一九三五)年の一句「霧の中にぽつかりと浮き街はあり」の類型句には見える。]

 

 

  近咏   杞憂亭

 

 

うち晴れてコスモスの花の賑へり

 

飛行機のよく飛ぶ日なり菊畑

 

道すがら柿赤々と熟れてけり

 

小鳥來て食はむや窓邊のうめもどき

 

[やぶちゃん注:「うめもどき」バラ亜綱モチノキ目モチノキ科モチノキ属ウメモドキ(梅擬)Ilex serrata 或いは近縁種又は同属の仲間。ウィキの「ウメモドキによれば、『モチノキ属には多数の種があり』、『日本には以下の近縁種などが分布している』として、イヌウメモドキ Ilex serrata f. argutidens(葉に毛がないもの)・フウリンウメモドキ Ilex geniculata・オクノフウリンウメモドキ Ilex geniculata var. glabra・ミヤマウメモドキ Ilex nipponica の四種を挙げてある。]

 

霧明り眩しき街に出にけり

原民喜 「春眠」十五句 (山本健吉撰)

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年十月発行の生原稿を綴った回覧雑誌『四五人会雑誌』一号(萬歳号)に掲載。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅱ」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した。「杞憂亭民喜」と「俳 句 集」は実際には底本ではポイント落二行で、以下の「『春眠』十五句撰」の上にある。「撰」の用字は底本のママ。

「雨の舍主人」とは石橋貞吉(後の山本健吉の本名)の当時の俳号。底本の本篇の前には、原民喜による「雨の舍貞吉句稿より十五ほど選んで後」という、雨の舍貞吉の句の十五句民喜選と、その前にかなり力の入った民喜の句評文が載る。

「十三年」「十四年」「十五年」は総て大正。民喜慶応大学文学部予科時代の十九から二十一歳の折りの句群である。]

 

 

  杞憂亭民喜

       『春眠』十五句撰

  俳 句 集

     (雨の舍主人撰之)

 

 

靑空に隔たる雪の光かな 

 

[やぶちゃん注:この句は、民喜の「杞憂句集」に、「拾遺十四句」の一句として載る句で、民喜遺愛の若き日の句であったことが判る。]

 

        (以上十三年)

 

こらへ居るし夜のあけがたや雪の峰

 

稻妻に松四五本明りけり

 

松の葉に暑き光の靜まれる

 

霧明り白堊の館灯しけり

 

ま四角の頰赤き童た走りぬ

 

        (以上十四年)

 

朝日子の雪解の路にあふれけり

 

[やぶちゃん注:「朝日子」は「あさひこ」であるが、「こ」は親しみの意を表す接尾語であって、「朝日」の意で、民喜の「杞憂句集」の、十四年後の昭和一五(一九四〇)年の句に「朝日子のゆらぎてゐるや春の海」があり、彼の好きな響きの語であったことが判る。]

 

山茶花に暮色の迫る廣間哉

 

ある家に時計打ちをり葱畑

 

[やぶちゃん注:この句、実は民喜の「杞憂句集」の最終パートである「原子爆弾」の終りから二つ目に、完全な相同句がさりげなく配されている。私は被爆後の句とばかり思っていた。或いは、被爆直後に移った広島郊外の八幡村(恐らくは広島県の旧山県郡八幡村。現在の北広島町内)で同じ景色を再体験して完全なフラッシュ・バックが起ったものかも知れないが、実際には実に十九年前の句であったのである。しかしこれは恐らく、民喜の恣意的な仕掛けではない、と私は思う。杞憂が現実となって太陽が地に落下したあの日――彼の意識はまさに遙かにあの原爆の閃光のように――意識のフラッシュ・バックが起こっていたのではなかったか?――自分個人は永遠に取り戻すことの出来なくなった、青春の日の至福の、田園風景のスカルプティング・イン・タイムに向かって――]

 

霙るゝや松の根本の塵芥

 

[やぶちゃん注:「霙るゝや」老婆心乍ら、「みぞるゝや」と読む。]

 

たんぽゝの葉に香の注ぐ光哉

 

鳥の居る晩夏の空の夕かな

 

朝涼やかなかなかなと松に鳴く

 

[やぶちゃん注:「朝涼」「あさすず」は夏の朝のうちの涼しいこと、或いは、その時分を指す。]

 

梨落ちて五六歩さきにありにけり

 

        (以上十五年)

北條九代記 卷之八 相摸の守時賴入道政務 付 靑砥左衞門廉直 / 卷第八~了


      〇相摸の守時賴入道政務  靑砥左衞門廉直

相州時賴入道は、國政、邪(よこしま)なく、人望、誠(まこと)にめでたく、内外に付けて私なしと雖も、奉行、頭人、評定衆の中に、動(やゝ)もすれば私欲に陷(おちい)りて、廉直を謬(あやま)る事あり。如何にもして正道に歸らしめ、世を太平の靜治(せいぢ)に置いて、萬民を撫育(ぶいく)せばやとぞ思はれける。此所(こゝ)に靑砥(あをとの)左衞門尉藤綱とて、廉恥正直(れんちしやうぢき)の人あり。その先租を尋ぬれば、本(もと)は伊豆の住人大場(おほばの)十郎近郷(ちかさと)は、承久の兵亂に宇治の手に向ひて、目を驚(おどろか)す高名しければ、その勸賞(けんじやう)に、上總國靑砥莊を賜りけり。是より相傳して、靑砥左衞門尉藤滿(ふじみつ)に至り、この藤綱は妾(おもひもの)の腹に生れて、殊更、末子なりければ、父藤滿もさのみに思はず、然るべき所領もなし。出家に成れとて、十一歳にて眞言師に付けて、弟子となす。幼(いとけな)き時より、利根才智ありて、學文(がくもん)を勤めけるが、如何なる所存にや、二十一歳の時、還俗(げんぞく)して、靑砥孫三郎藤綱とぞ名乘ける。近き傍(あたり)に行印法師とて儒學に名を得たる沙門あり。數年隨逐(ずゐちく)して、形(かた)の如くに勤めたり。相州時賴の三島詣ありけるに、藤綱生年二十八歳、忍びて供奉致し、下向道に赴き給ふ所に、人々の雜具共(ざふぐども)を牛に取付(とりつけ)て、鎌倉に歸るとて、片瀨川(かたせがは)の川中にて、この牛、尿(いばり)しけるを、藤綱、申しけるは、「哀れ、己(おのれ)は守殿(かうのとの)の御佛事の風情しける牛かな。」と打笑ひて通りける。侍共、聞付けて、咎問(とがめとひ)しかば、藤綱、申すやう、「さればこそ比比(このごろ)、數日、雨降(ふら)ず、田畠(たはた)、葉を枯し、諸氏、飢(え)を悲(かなし)む所に、この牛、尿(いばり)をせば、田畠の近き所にてもあらで、川中にて捨(すて)流しつる事よ。夫(それ)、鎌倉中に名德智行(めいとくちかう)の高僧達、貧にして飢(うえ)に臨む輩(ともがら)いくらもあり、無智破戒の愚僧の、金銀に飽き滿ちたるも多くあり。然るに、去ぬる春の御佛事には、破戒無智の富僧(ふそう)計(ばかり)を召して御供養ありて、實に佛法を修學(しゆがく)し、持戒高德の名僧をば供養なし。この御佛事は慈悲の作善(さざん)にはあらで、只、名聞の有樣なり」とぞ語りける。二階堂信濃〔の〕入道、是を聞傳へ、實(げに)もと思ひければ、事の次(つひで)に、この由を時賴にぞ語られける。時賴入道、聞き給ひて、「實に(げに)も彼(か)の者が申す所、道理至極せり、凡そ作善佛事と云ふも、慈悲を專(もつぱら)として、萬民を悦ばしめ、貧(まづし)きを救ひ、乏(ともし)きを助けてこそ、衆生を利する道とはなるべけれ。去ぬる春の佛事供養は、當家、頭人(とうにん)、評定衆の末子(はつし)などの僧に成りたる者共なれば、財寶に不足あるべからず、侈(おごり)を極め、學に怠り、道德もなき者共ぞかし、學德道行(だうぎやう)ある貧僧(ひんそう)は、賤(いやし)むとはなしに召さざりき。この事を豫(かね)て分別せざりけるは、我が大なる誤(あやまり)なり。かく申したるは、誰人にてやあるらん、その者の心中、奥床し」とて尋ねらるゝに、靑砥〔の〕前〔の〕左衞門尉が末にて三郎藤綱と云ふ者なりと申さるゝに、軈(やが)て召出して、「今より後は當家に奉公せよ」とて、召抱(めしかゝ)へられしより、政道の器量ありと見知り給ひ、後には評定衆の頭(かしら)になされ、天下の事、大小となく、口入(こうじふ)して、富(とん)で侈(おご)らず、威(ゐ)ありて猛(たけ)からず。遊樂を好まず。身の爲には財寶、妄(みだ)りに散(ちら)さず。數十ヶ所の所領を知行せしかば、財寶は豐(ゆたか)なりけれども、衣裳には細布(さみ)の直垂(ひたたれ)、布(ぬの)の大口(おほくち)、朝夕の饌部(ぜんぶ)には乾したる魚、燒鹽(やきしほ)より外はなし。出仕の時は、木鞘卷(きざやまき)の刀を差し、叙爵の後は、木太刀に弦袋(つるぶくろ)をぞ付けたりける。我が身には少(すこし)の過差(かさ)もせずして、公儀の事には千萬の金銀をも惜まず。飢えたる乞食(こつじき)、凍(こゞ)えたる貧者には、分に隨ひて物を與へ、慈悲深き事、佛菩薩の悲願にも等しき程の志なり。親しきに依て非を隱さず、私を忘れて、正直を本とす。邪欲奸曲(じやよくかんきよく)の輩、自(おのづから)恥恐(はぢおそ)れて、行跡を直(なほ)し、志を改め、上に婆沙羅(ばさら)の費(ついえ)を省(はぶ)き、下に恨むる庶民なし。かゝる人を見しりて召し出し、天下の奉行とせられたりける時賴入道の才智こそ、猶、末代には有難き人ならずや。夜光垂棘(やくわうすうゐきよく)の珠(たま)ありとも、見知る者なき時は、珠は石に同じかるべし。藤綱が廉直仁慈の德を治めしも、時賴、知り給はずは、匹夫(ひつぷ)の中に世を終(をは)るべし。文王は呂望(りよぼう)を知りて、高祖は張良を師とせらる。時賴入道は靑砥〔の〕左衞門〔の〕尉藤綱を得て、太平の政道を助けられ給ふこそ有難けれ。同十月十二日、將軍家の仰として、嘉祿元年より仁治三年に至る迄、御成敗(ごせいばい)の式法(しきはふ)は、「三代將軍竝に二位禪尼の定め置かれし所を改め行ふべからず。慥(たしか)に旨を守るべし。無禮不忠は人外(にんぐわい)の所行なり。邪欲奸詐(かんさ)は非法の行跡(かうせき)なれば、奉行、頭人、殊に愼み申さるべし。摠じて大酒遊宴に長じ、分(ぶん)に過ぎたる婆沙羅(ばさら)を好み、傾城(けいせい)、白拍子(しらびやうし)に親しみ、強緣(がうえん)、内奏(ないそう)、專ら誡(いまし)むべし、雙六(すごろく)、四一半の勝負は、博奕(ばくえき)の根元として、奉公を怠るの初(はじめ)、盜賊を企つるの起(おこり)なれば、諸侍、堅く停止(ちやうじ)すべし。萬一、背く輩は法に依て行ふべし」とぞ觸れられける。是より、上を恐れ、威に服して、暫く、非道の訴へなく、淳朴(じゆんぼく)の風に歸しけるは、政德の正しき所なり。

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、『青砥藤綱の廉直ぶりについては、『将軍記』『太平記評判秘伝理尽鈔』に拠る。『北条九代記』ではそれら藤綱の話に、『吾妻鏡』』(巻四十八の正嘉二(一二五八)年十月十二日の条)『『将軍記』の、先代の成敗式法を遵守すとの記事を併せ、時賴が藤綱を得て政徳正しい政治を行ったと述べる』とある。実は私はこの章に関しては、以前に、「新編鎌倉志卷之六」の「固瀨村〔附固瀨川〕」の私の注の中で全電子化注(現代語訳附)を済ませている(六年前のあの頃、「北條九代記」の電子化注がここに到達するとは実は私は思っていなかった)。今回はそれを再校正し、電子化注「卷第八」完遂の記念に、現代語訳も添えて示すこととした(現代語訳を添えた関係上、語釈は今までよりも相対的に禁欲的になっている。疑問な語句は現代語訳で極力、明らかになるように訳しているつもりである)。但し、最初に述べておくが、この鎌倉の青砥橋で著名な青砥藤綱という人物、ここではまことしやかな系譜も示されているのだが、実は一種の理想的幕府御家人の思念的産物であり、複数の部分的モデルは存在したとしても、実在はしなかったと考えられている。時頼をことさらに際立たせるために創作された、いぶし銀的なバイ・プレイヤーとも言えるように私は感じている

「相州時賴の三島詣ありけるに」北條時賴は建長三(一二五一)年に三島社を勧請、三島本社に参詣しているが、三島市の公式HPの「三島アメニティ大百科」の「三嶋大社周辺」にある「三嶋大社を崇敬した武将」の項に、翌年の建長四(一二五二)年の旱魃の夏にも自ら大社に参詣して雨乞いをしたとする記事があり、このシークエンスにぴったりくるのはこの建長四年である。

「藤綱生年二十八歳」この年齢の時賴による登用エピソードについては、もっとあり得そうもないものとして、北条時賴が鶴岡八幡宮に参拝したその夜に夢告があって、即座に藤綱を召し、左衛門尉を受授、引付衆(評定衆とも)に任じたが、その折り、藤綱自身がこの異例の抜擢を怪しんで理由を問うたところ、夢告なることを知って、「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである。」と任命を辞し、時賴はその賢明な返答に感じたともある(以上はウィキの「青砥藤綱」を参照した)。

「守殿(かうのとの)」は「長官君」などとも書き、「かみのきみ」の音変化したもの。国守・左右衛門督などを敬っていう語。時賴は寛元四(一二四六)年の幕府執権就任後に相模守となっている。

「二階堂信濃入道」政所執事二階堂行実(嘉禎二(一二三六)年~文永六(一二六九)年)のこと。引付衆となったが、短期間で卒去した。

「評定衆の頭になされ」現在知られる評定衆一覧記録には青砥の名は見当たらない。

「夜光垂棘の珠」春秋時代の晋(しん)の国で産したという宝玉。夜光を発する垂れ下がった棘(とげ)のようなものというから、六角柱状の水晶か、鍾乳石の類いか。「韓非子十過」に基づく成句「小利を以て大利を殘(損)そこなふ」の話に現れる。晋の献公は虢(かく)を伐(う)とうとしたが、そのためには虢の同盟国である虞(ぐ)を通らねばならなかった。そこで賢臣荀息の一計により、晋代々の宝である垂棘の璧(へき)と、名馬の産地であった屈の馬を虞公に贈って安全を確保しようとした。虞の家臣宮之奇は虞と虢は車の両輪であり、虢が滅べば、遠からず我が国も滅亡の憂き目に逢うとして諌めるが、宝玉と駿馬に目が眩んだ虞公は領内の通過を許可してしまう。荀息は、ほどなく虢を滅ぼし、その三年後には同じ荀息によって虞は滅ぼされ、璧と馬はかつてのままの状態で献公の手に戻ったという故事。「眼前の利益に目を奪われ、真の利益を失う」の意で用いる。

「同十月十二日、將軍家の仰として」は正嘉二(一二五八)年十月十二日の宗尊将軍の発布した御成敗式目追加法の禁令を指す(「同」は前項「伊具の入道射殺さる」以下の正嘉二年の記事を受ける)。「吾妻鏡」正嘉二年十月十二日に、

十二日丁亥。晴。今日評議。被仰出曰。自嘉祿元年至仁治三年御成敗事。准三代將軍幷二位家御成敗。不可及改沙汰云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十二日丁亥。晴。今日の評議に仰せ出されて曰く、「嘉祿元年より仁治三年に至る御成敗の事、三代將軍幷びに二位家の御成敗に准じ、改め、沙汰に及ぶべからずと云々。

とある。実は本話に用いられた「吾妻鏡」素材は、ここだけと言ってよい。

「四一半」とは双六から鎌倉時代に発生した賭博の一種で、時代劇などで知られる二つの骰子を振って偶数・奇数を当てる丁半賭博。駒を用いた双六に比して遙かに勝負が早い。 

 

□やぶちゃんの現代語訳

     〇相模の守時頼入道の政務の様態 付 青砥左衛門藤綱の私欲なく正直なこと

 相州時頼入道様は、天下の執権としての政務には一切の瑕疵(かし)なく、その人望たるや、国に遍(あまね)く行き渡り、如何なる場面に於いても私心をお持ちにはなられなかったが、奉行や引付衆長官たる頭人及び評定衆の中には、ややもすれば、私利私欲に陥り、正道を外れて誤った行いに走る者があった。故に、時頼入道様は、『何とかして道義の正しき道に帰せしめ、天下を太平の静かな治の中に安んじて万民を真心を以て慈しみ育みたいものだ。』と常々、お感じになっておられた。

 さて、ここに青砥左衛門尉(さえもんのじょう)藤綱と言って、清廉潔白で恥の何たるかを弁(わきま)えた極めて正直な人物があった。その先租を尋ねれば、その始祖は伊豆の住人大場十郎近郷(おおばのじゅうろうちかさと)という者で、承久の兵乱の際、幕府軍の宇治の攻め手に加わって、目を驚かす高名を成したがため、その恩賞として上総の国青砥荘(しょう)を賜ったという。それより代々相伝して、青砥左衞門尉藤滿(ふじみつ)に至って、この藤綱が生まれたのであった、彼は側室の子で、尚且つ、末子であったがため、父藤満もさして大事にしようとは思わず、然るべき所領も与えられなかった。「出家になれ」と命じて、十一歳で真言宗の師に付けて、その弟子と成さしめた。幼い時から才気煥発、真言の法理もしっかりと修めたのであったが、いったい如何なる所存であったものか、二十一歳の時、突如、還俗して、青砥孫三郎藤綱と名乗った。それでも、彼の住まいの近くに行印法師という儒学僧として名を成した者があり、数年の間は、この僧につき従って、とりあえずは儒家の教えなんどを学んではいた。

 ある時、相州時頼入道様の三島詣(もうで)が御座ったが、藤綱は当年二十八歳、その非公式の供奉人として潜り込んでいた。参拝を終えられての途次、供奉の人々が旅中の用具などを牛に背負わせ、まさに鎌倉へと帰らんとする、かの片瀬川渡渉の砌(みぎ)り、その川中にて、この牛が勢いよく、

――ジャアアアッーーー!

と、尿(いばり)をした。それを見て、藤綱が言うことには、

「――ああっ! 己(おのれ)は! 守殿(こうのとの)が催された御仏事とまるで変わらぬ仕儀を致す牛じゃのぅ!」

と笑いながら牛の横を渉って通る。

 これを傍らにいた他の供奉の侍どもが聞き咎め、

「如何なる謂いか?」

と詰問したところが、藤綱が言うことには、

「――さればとよ。この数日は雨も降らず、田畑はすっかり葉を枯らしてしまい、諸民、悉く飢え悲しむ折りから、この牛が尿(いばり)をするに、それが肥やしとなろう田畑の近き所にてひるにはあらで、あろうことか、川の中にて無駄に捨て流した、ということを、我ら、言うておるのよ。――さても、鎌倉中には正しき名徳にして智行高邁の秀でた僧たちで、まさに今、貧しく飢えて御座る輩(やから)がいくらも、おる。――また逆に、無智蒙昧にして平然と破戒しおる愚劣なるなる似非僧で、金銀に飽き満ちておる者どもも多く、おる。――然るに、去ぬる春の御佛事にては、そうした破戒無智の金満僧ばかりを召されての御供養をなさって御座った。真(まこと)の仏法を修学し、持戒堅固徳高き名僧を、その供養に列せらるることは、これ、なかった。――さればこそ、この御仏事は真の仏法の慈悲の作善にはあらず――ただ、外見ばかりを取り繕うた――空疎愚昧なる仕儀であったということじゃて!」

と語ったのであった。

 二階堂信濃入道が、その折りの侍の一人から、このことを伝え聞いて『尤もなる謂いじゃ』と思ったによって、ことの序でに、この一部始終を、かの時頼入道様に上奏致いた。

 時頼入道様はその話をお聞きになられると、

「……まっこと、彼(か)の者の申すところ、至極、尤もなる道理で、ある。凡そ、作善仏事というものは、ひたすら慈悲を主眼と致いて、万民に喜悦を与え、貧しき者を救い、とかく物の乏しき者に物品を与え助けてこそ、これ、衆生を利する道とは言うのである。……しかるに、去ぬる春の仏事供養にては、当家の頭人や評定衆の末子などで僧に成ったる者どもをのみ、これ、招聘致いたれば、彼らは、財宝に不足ある者にては、これ、全くなく、それどころか、奢侈(しゃし)を極め、学問を怠っておる、道徳の「ど」の字もなき者どもであったぞ。……学徳優れ、道心堅固なる貧しい苦行僧らをば……賤しんだわけでは御座らぬが……確かに一人として招かなんだ。……このことを前もって自覚することが出来なかったことは、我が大いなる誤りである。――かく申したるは、それ、誰人(たれぴと)にてあるか!? その者の心中、まことにおくゆかしいことじゃ!」

と御下問あらせられたので、二階堂信濃人道が、

「青砥の前の左衛門尉が末子にて三郎藤綱と申す者にて御座いまする。」

と申し上げたところが、即座に彼をお召し出しになられて、

「――今より後は北条が当家に奉公せよ。」

と、藤綱は家士として召し抱えられたので御座った。

  さて、それ以来、時頼入道様はこの藤綱に政道を司る器量ありとお見抜きになられて、後には評定衆の頭(かしら)となされ、藤綱は、天下の事、その大小に拘わらず、その見解と意見を述べる立場となった。

 藤綱はあっという間に豊かになったが、それでも一切、これ、驕り昂ぶることなく、評定衆頭人(とうにん)という権威を持ちながら、決してそれを振り回さない。遊興はこれを好まず、自分のためには財産を妄りに浪費することもなかった。後には数十ヶ所の所領を支配していたから、実質的な財産は相当に豊かにはなったけれども、衣裳は常に細い糸で織った麻布の直垂(ひたたれ)に、麻布製の裾の開いた大口(おおぐち)の袴(はかま)で、朝夕の食膳には乾した魚と焼き塩以外には載せない。出仕の時は、素朴な木鞘巻(きざやまき)の刀を差し、左衛門尉の官位を受けてから後でも、豪華な太刀を嫌い、木太刀に申訳程度の飾りとして弦袋(つるぶくろ)のような籐(とう)で出来た袋を被せたものを佩いていた。己がためには些かの贅沢をすることもない代わりに、公儀の御事に対しては、これ、己が千万の金銀を使うことをも、かつて一度として惜むことがなかった。飢えた乞食や凍えた貧者を見れば、その飢えと貧に応じて物を与え、その慈悲深いことと言ったら、仏菩薩の衆生済度の悲願にも等しい程の志しであった。しばしば地位を得た者に見られるような、親しい者だからといってその者の非を隱すといった庇(かば)い立てをすることなどは金輪際なく、ひたすら『私(わたくし)』を忘れて『正直』なることを人生の根本とした。さればこそ、彼の周囲に御座った、邪(よこしま)なる我欲から悪巧(わるだく)みをせんとする輩(やから)は、これ、一人残らず、自(おのづか)ら恥じ恐れて、己が行跡(ぎょうせき)を直(なお)し、志しを改め、上の者たちには奢侈(しゃし)の浪費を抑えさせたがために、下にも恨む庶民がいなくなった。

 さても何より、このように藤綱の人物を見抜いて召し出し、天下の奉行となされた時頼入道様という、才智ある御仁こそ、なお後代には稀有(けう)の御人(おひと)ではあるまいか? 夜光垂棘(やこうすいきょく)の珠(たま)がこの世に存在しても、それが名玉夜光垂棘であるということを認識出来る者がいない時は、貴い宝珠も、ごろた石と同じであろう。藤綱が清廉潔白で仁徳と慈悲心を美事修めていても、時頼入道様がその存在を発見なさらなかったならば、つまらぬ侍どもの中で凡庸なる人生を終えていたであろう。周の文王は太公望呂尚(ろしょう)を見出され、漢の高祖沛公(はいこう)は功臣張良を軍師となさった。時頼入道様は青砥左衛門尉藤綱を得、太平の政道を彼によって輔弼(ほひつ)させなさったことは誠に稀有の幸甚(こうじん)であったのである。

 同正嘉二年十月十二日、宗尊将軍の仰せとして、

「嘉禄元年より仁治三年に至るまで、幕府御裁決の方式は、源頼朝様・頼家様・実朝様三代将軍并に二位の禪尼政子様の定め置かれたところのものを、一切、変更してはならない。確実にこの旨を守らねばならない。無礼・不忠は人間に非ざるものの所行(しょぎょう)ある。邪(よこしま)なる我欲とそれに発する種々の悪巧(わるだく)みは、一切が不法行為であるからして、奉行・頭人(とうにん)らは、殊に謹んで伺候(しこう)するようにせねばならない。総じて、大酒を呑んで遊宴にうつつを抜かし、分に過ぎた奢侈(しゃし)を好み、傾城(けいせい)や白拍子(しらびょうし)に親しみ、要人との縁故(えんこ)を恃(たの)んで利を求めたり、己を利するためにする卑劣なる内密の奏上(そうじょう)などは、これ、厳(げん)に慎まねばならない。双六(すごろく)、四一半(しいちはん)の勝負は、賭博の元凶であり、奉公や伺候の怠慢の始まりとなり、ひいては盗賊へと身を持ち崩し、悪事を企てる元ともなるによって、総ての侍(さむらい)は、堅くこれを禁止とする。万一、これに背く輩(やから)は、法に従って厳然と処罰される。」

と御成敗式目追加法たる御禁令をお出しになられた。これ以来、諸人は悉くお上(かみ)を恐れ、正しき権威に誠心(せいしん)から服従し、暫くの間は、話にならない馬鹿げた訴えも、これ、一つとしてなく、純朴にして正しき気風が、ここ鎌倉中に満ち満ちたのは、時頼入道様がなされ、藤綱が支えた幕政の正しかったことを如実に現わしているのである。]

北條九代記 卷之八 伊具入道射殺さる 付 諏訪刑部入道斬罪

      ○伊具入道射殺さる  諏訪刑部入道斬罪

正嘉元年二月二十六日、相州時賴入道の嫡子正壽丸、七歳にして、將軍家の御所に於て元服あり。武蔵守長時以下、一門御家人、参集(まゐりつど)ふ。親王將軍家、即ち、宗の字を下されて、時宗と號せらる。同八月十六日、將軍家鶴ヶ岡八幡宮に御社參あり。馬場の流鏑馬(やぶさめ)以下、例の如く行はれ、既に還御ありければ、日暮れて黃昏(くわうこん)に及び、燈(ともしび)を取る比になりて、伊具(いぐの)四郎入道、今日、供奉の役を勤めて、山〔の〕内の家に歸る所に、建長寺の門前にして、射殺(いころ)されたり。誰とは知らず、蓑笠を著(き)て、馬に乘たる人、下部(しもべ)一人、召倶(めしぐ)して、伊具〔の〕入道が左の方より行違(ゆきちが)ひて通りしが、田舍より鎌倉に參る人と覺えし。かくて伊具は馬より落て、一言(ごん)をも云はず、その儘、死にけるを、郎從、驚きて引越(ひきおこ)さんとするに、大の矢に當りけりとは知られけり。鏃(やじり)に毒を塗りて射込みたりと見えて、五躰の支節(つぐぶし)、離々(はなればなれ)になりて、石瓦(いしかはら)を袋に入(いれ)たる如くなり。相州時賴入道に訴へければ、諏訪(すはの)刑部左衞門入道を召捕(めしと)りて、對馬前司氏信(うぢのぶ)に預けらる。平判官康賴入道が孫、平内左衞門尉俊職(としもと)、牧(まきの)左衞門入道等が一味同意の所爲(しよゐ)なりと風聞す。諏訪入道、陳(ちん)じ申しけるは、「昨日(きのふ)、平内左衞門、牧左衞門入道兩人、某(それがし)の家に會合(くわいがふ)して、終日(しうじつ)、酒宴し、物語致して、門より外へは出で申さず。爭(いかで)この事を存すべき」と兩人を證據(しようこ)に立てたり。平内俊職、牧入道を召して問(とは)るゝに、確(たしか)に證人に立ちたりければ、是非の理(ことわり)、明難(あきらめがた)し。然るに、日比、御評定の義あるに依(よつ)て、諏訪〔の〕刑部入道が古(いにしへ)の所領の地を召上(めしあげ)て、伊具に付けられしかば、諏訪と伊具と不會(ふくわい)して、互(たがひ)に物をも云はざりけり。この上、又、「射殺(いころ)したる矢束(やづか)の延びたると、射(い)やうの品と頗る世の常の所爲(しよゐ)にあらず、手垂(てだれ)の射手の業(わざ)と覺ゆ。諏訪が所爲、疑(うたがひ)なし」と評定あり。諏訪が下部(しもべ)を捕へて、水火の責(せめ)に及び、強く拷問して、「汝が主の刑部入道、既に白狀しけり。この上は何か隱すべき、落ちよ落ちよ」と責(せめ)しかば.、下部なれども忠義ありて申すやう、「諏訪殿は斯樣の拷問に恥をかくよりは、科(とが)を負うて死せんと思ひて白狀せられ候ひぬらん。我等は下﨟(げらう)なれば、拷問の恥をも痛まず。知ぬ事をば爭(いかで)か申すべき。諏訪殿、既に白狀し給ひなば、重(かさね)て我等を拷問せられても詮(せん)なき事か」と申ける程に、慥(たしか)には知難(しりがた)し。相州時賴入道、竊(ひそか)に、諏訪〔の〕刑部入道一人を御前に召され、直に仰ありけるは、「伊具入道が殺されし事、御邊(ごへん)の所爲(しよゐ)なる申、下部の高太郎、白狀せし上は、疑(うたがひ)なき事なり。去りなから、その子細を有(あり)の儘に申さるべし。品(しな)に依りて、御命の事は申宥(まうしなだ)めて助け參(まゐら)せん」とありければ、その時、諏訪人道、涙を流して申しけるは、「是、日比、宿意(しゆくい)あるに依(よつ)て、今は堪忍(かんにん)も成難(なりがた)く、隙(ひま)を狙ひて、かく仕りて候」とぞ申しける。時賴、聞給ひ、「神妙(しんべう)に候。如何にも御前を申調へて見候はん」とて、奥に入り給ひ、不敏ながらも天下の法令なれば力なし、同九月二日、諏訪〔の〕刑部入道は首を切られ、平内左衞門尉は、薩摩方(がた)、硫黃(いわう)島へ流され、牧(まきの)入道は、伊豆國にぞ流し遣されける。 祖父(おほぢ)康賴は、俊寛等と同じく硫黃ヶ島に流され、孫の平内俊職、此所(こゝ)に流されたりしは、定(さだめ)て因緣(いんえん)あるらめと思合(おもひあは)せて覺束(おぼつか)なし。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻四十七の康元二(一二五七)年二月二十六日、及び、巻四十八の正嘉二(一二五八)年八月十六日・十七日・十八日と、九月二日等に基づく。私の好きな「吾妻鏡」中の犯罪事件記録の一つである。

「相州時賴入道の嫡子正壽丸」「しやうじゆまる(しょうじゅまる)」は、後の第八代執権となる北条時宗(建長三(一二五一)年弘安七(一二八四)年)の幼名。

「同八月十六日」誤り。翌正嘉二(一二五八)年八月十六日。

「山〔の〕内の家に歸る所に、建長寺の門前にして」若い頃、「吾妻鏡」でこの部分を読んだ時には、この暗殺事件の現場を、勝手な自身の印象から、ロケーションを亀ヶ谷坂切通で想定していた。何故なら、建長寺門前に降りる当時の旧巨福呂坂切通(現行の切通の西の高い峰を越えるルート)は、雪の下方向からの登りがかなりきつく道幅も狭いからである(亀ヶ谷坂も亀がひっくり返るぐらいだからきついことはきついが)。しかし乍ら、今回、現場を再考してみると、伊具の屋敷がどこにあったか不明ながら、山ノ内の亀ヶ谷坂を越えて、また建長寺方向に戻ったところにあるというのは頗る不自然である。亀ヶ坂から普通に言う山ノ内地区へは左折するか、そのまま北へ向かうとしか考えにくいのである。即ち、亀ヶ谷坂を登って「山ノ内」に帰るには「建長寺門前」は通らないのである。ここは旧巨福呂坂切通を想定するしかない。同切通しも殺人現場となった建長寺門前では相応にかなり広かったとも推定出来る。

「伊具(いぐの)四郎入道」名不詳。伊具流北条氏の一門とは思われる。ウィキの「北条氏 (伊具流)によれば、第二代執権北条義時四男の北条有時を祖とし、有時が得宗領として『陸奥国の伊具郡』(陸奥国(後に磐城国)で現在も宮城県の郡名として残る)『を領有したことから伊具流を創設した』。『有時は義時の側室の所生であり、また病のために政治活動を引退したことから、伊具家は要職就任者を出す家の中での家格は低く、多くの子孫の中で幕府要職に就いたのは有時の子・通時の子である斎時のみであった。その他には』「建治三年記」十二月十九日の『条で、六波羅探題評定衆に「駿河次郎」という人物があり、駿河守であった有時の一門、伊具家の人物であると見られている』とあるのみ。

「蓑笠を著て、馬に乘たる人、下部一人、召倶して、伊具入道が左の方より行違ひて通りしが、田舍より鎌倉に參る人と覺えし」これについては、「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同の注で、『伊具の所従が』、向こうからやって来る主従二人を、『田舎から来た人と思ったのは「右側通行」しているからであろう。武器の主体が刀ではなく弓なので、平和時には』弓手(ゆんで:左手)ではなく、馬手(めて:右手)に『相手を置く「左側通行」が一般的であったのだろう』という非常に鋭い注が附されてある(下線やぶちゃん)。

「支節(つぐぶし)」読みは原本もママ。節々。関節の接ぐ節々(ふしぶし)の謂いである。「石瓦(いしかはら)を袋に入たる如くなり」というのは、全身の筋肉部が硬直を示し乍らも、しかも全身の関節部は逆にぐだぐだになっているという症状を示すようである。ともかくも即効性の非常に強力な神経毒(シナプス遮断か)が用いられたことを指しているように私には思われるが、毒物の特定は私には出来ない。識者の御教授を乞う。

「諏訪(すはの)刑部左衞門入道」名不詳。得宗被官で御内人の泰時の側近、法名の「蓮仏」の名で「吾妻鏡」に多出する諏訪盛重の遠い血縁者か?

「對馬前司氏信」佐々木氏信(承久二(一二二〇)年~永仁三(一二九五)年)のこと。既出既注であるが、再掲する。ウィキの「佐々木氏信」によれば、『佐々木氏支流京極氏の始祖であり、京極 氏信(きょうごく うじのぶ)とも。父は佐々木信綱、母は北条義時の娘とされる』。承久二(一二二〇)年、『後に近江の守護へと任ぜられる佐々木信綱と、その正室である執権北条義時の娘との間に』四男として『生まれたとされる。母は武蔵国河崎庄の荘官の娘とする説もある』。仁治三(一二四二)年に『父が死去し、江北に在る高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡と京都の京極高辻の館を継ぐ。これにより子孫は後に京極氏と呼ばれるようにな』った。この後の文永二(一二六五)年には『引付衆、翌年には評定衆に加わり』、弘安六(一二八三)年には『近江守へと任ぜられ』た。『鎌倉の桐ヶ谷(きりがや)にも住んでおり、桐谷(きりたに)氏とも呼ばれた』とある。

「平判官康賴入道」平康頼(久安二(一一四六)年~承久二(一二二〇)年)は信濃権守中原頼季の子。官位は六位・左衛門大尉。最後は後白河法皇の近習として北面に仕えた。ウィキの「平康頼」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『明法道(法律)の家柄である中原氏に生まれる。十代で平保盛(平清盛の甥)の家人となる。保盛は長寛元年(一一六三年)正月二十四日付で、越前国の国司に任ぜられており、十八歳の康頼も越前国に派遣されて、この頃に主君から平姓の賜与を受けたと思われる。保盛は仁安元(一一六七)年』、『尾張国の国司に転任し、康頼を目代に昇格させて派遣した』。『尾張国知多郡野間の荘には平治の乱で敗走の途中に相伝の家人により湯殿で非業の死を遂げた源義朝(源頼朝の父)の墓があったが、誰も顧みる者も無く荒れるに任せていた。康頼はこの敵将の墓を修理して堂を立て、六口の僧を置き不断念仏を唱えさせ、その保護のために水田三十町歩を寄進した。もちろん、国司・保盛の許可を得てしたことであろうが、当時、この噂は京にも聞こえ後白河上皇の耳にも達して、平康頼なる人物は目代ながら、武士道の礼節をわきまえた頼もしい若者との深い印象を与え、近習に取立てた。また清盛はじめ平家一門の人々からも、敵将の墓を修理して保護した康頼を、武士の鑑、一門の名を高めたとして好評判であった。任官と同時に、上皇の近習にとり立てられ半月もたたない仁安四年(一一六九年)一月十四日、後白河上皇十二回目の熊野参詣には、早くも近習として供を命ぜられている』。また、嘉応元(一一七〇)年四月二十日、『後白河上皇は、平清盛と同伴で東大寺に参詣したが、康頼ら七人の衛府役人が随行している。また後白河上皇は今様を非常に愛好しており、多くの公家や官人にも教えていたが、康頼も門弟の一人で、しかも美声で声量もあり、抜きん出た歌い手であった。その点でも、上皇から特に目をかけられていたようである。検非違使・左衛門大尉に任ぜられ、平判官と称した』。『安元三年(一一七七年)六月には、鹿ケ谷の山荘で藤原成親・西光・俊寛らの平家打倒の密議に参加。しかし、多田行綱の密告により策謀が漏れて康頼も捕縛され、俊寛・藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流された』。(鹿ケ谷の陰謀)平家物語によると、『信仰心の厚かった康頼は配流にあたり出家入道し性照と号した。配流先で京を懐かしむ日々の中、成経と康頼は千本の卒塔婆に望郷の歌を記し海に流すことを思い立つ。一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着き、これに心を打たれた平清盛は赦免を行う。治承二年(一一七八年)に赦免船が来島し、成経と康頼は赦免され京へ戻るが、俊寛は許されなかった』。『平家滅亡後、文治二年(一一八六年)には源頼朝によって、阿波国麻殖保』(おえのほう)の保司(ほうし:国衙領の一種である「保(ほう)」を管理する在庁官人)『に任命され』、 康頼は『京より三人の家人を』伴って、森藤(現在の徳島県吉野川市鴨島町森藤(もりとう)と思われる)の『地に下向した。康頼はすでに四十一歳になっていた』。『康頼は承久二年(一二二〇年)頃、自らの生涯七十五年間におきた出来事を記録し、一通を京都の雙林寺へ送り、一通は玉林寺に残し、その年に大往生した』。方一丁(かたいっちょう)の土地、通称、一町地(いっちょうじ)で(以上の読みは私の推定)『火葬される。遺言で家人の鶴田氏が康頼神社を建て』(徳島県吉野川市鴨島町森藤に「康頼神社」として現存する)、『主君を神として祀り』、『代々祭司を務めた。康頼神社の脇に墓がある。遺骨は分骨されて、京都東山の雙林寺にも埋葬された。康頼神社の脇に三基の五輪塔があるが、康頼の母、康頼、俊寛の三人のものという。清盛の怒りが解けず、鬼界が島に一人残された俊寛は、数年後に都から、はるばる訪ねて来た弟子の有王の世話をうけながら、自ら絶食して生命を絶った。有王は主人を火葬して骨を持ち帰り、高野山に埋葬したが、康頼はその分骨をゆずり受けて、壇の下に葬ったとも言われている』とある。

「平内左衞門尉俊職」ウィキの「平康頼」には(アラビア数字を漢数字に代えた)、前注のかれの祖父である康頼の嫡男『平清基は承元年中に保司職を継承した。鎌倉三代将軍・源実朝が死去する頃には、幕府は執権の北条氏が頼朝以来の有力な御家人・門葉を排除し、実権を掌握していた。後鳥羽上皇は諸国の広大な荘園を再び取り返そうと、全国の武士に北条義時追討の院宣を下した。上皇側の予想に反し思うように兵は集まらず、圧倒的な鎌倉の大軍を支えることが出来ず、それぞれの国元へ逃げ帰った。この戦いで阿波の佐々木経高と高重の父子は討死して果て、六百余の兵のほとんどは阿波へ帰らなかった。阿波国に対しては佐々木氏に代わって、小笠原長清を阿波守に任じた。長清は阿波へ入り居城を攻め、ほとんど兵のいない鳥坂城は炎上し、経高の二男高兼は城を捨て山中に逃げたが、小笠原氏は高兼の生存を許さなかったため、一族と家臣達が百姓となって、この地に住む事を条件に、自ら弓を折り腹を切って自害した。神山町鬼篭野地区にある弓折の地名は、高兼が弓を折って自害した所で、同地に多い佐々木姓は、かっての阿波守護職、近江源氏佐々木経高の後裔達であるといわれる。一方、麻植保では清基が保を没収され、保司職を解任された。そして清基に代わって小笠原長清の嫡男・小笠原長経が阿波の守護代及び、麻植保の地頭に補任された。理由は清基が麻植保の兵をつれて、佐々木氏に従って上皇軍に加わっていたというのである。事実清基は、承久の乱に上京していたが、上皇軍には加わらなかったと申し立て、保司を解任されたのを不服として、長経と論争をおこし、無実を鎌倉へ訴えて、長経と対決裁判をした。長経の申し状によれば、清基は承久三』(一二二一)『年夏、上皇方へ加わるために上京し、和田朝盛と共に戦場へおもむいたと申し立て、証拠の書状などを提出した。これに対して清基は、叔父の中原仲康が、和田朝盛と朋友であったから対面したが、かの兵乱には自分はもとより、麻植保の衆も参加していないと主張した。しかし長経の提出した証拠の仲に、清基から経高に出した手紙があり、軍に加わる内容が書かれていたため、裁判の結果は清基が破れた』。その清基の子で康頼の孫に当たる、この平俊職は、官職を失い、『浪々の身となり京に出たが、承久の乱の敗者には仕官先もなく、賊徒の輩と徒党を組み、伊具四郎を毒矢で射殺し捕らえられた。首謀者の諏訪刑部左門は斬首となり、俊職と牧左衛門は、昔、祖父の康頼が流されていた鬼界ヶ島に流されて消息を絶ち、森藤の平家は絶家した』とある(下線やぶちゃん)。しかし気になるのは「吾妻鏡」に、彼がアリバイ工作に加担して処罰される理由として彼が『公人(くにん)』でありながら、そうしたおぞましい犯罪に加担したことを挙げていることである。中世に於ける「公人」とは、①朝廷に仕えて雑事をした下級役人/②幕府の政所・問注所・侍所 などに属して雑事をした下級職員/③大社寺に属して雑事をした者を指すが、ここで唐突にただ『公人』とぽつんと言った場合、これはもう、②の幕府の下級官吏としか読めない。とすると、俊職は犯行当時、上記引用のような無官の浪人だったのではなく、下級職ではあっても、れっきとした幕府の役人であったと考えるのが正しい。とすれば、それなりの家格の所属であったと考えるのが至当で、であるからこそ、とんでもなく遠い硫黄島配流という重罰が下されるのだと考えねばならぬ。ともかくも何とも、謂い難く、哀れでは、確かに、ある。

「牧(まきの)左衞門入道」不詳ながら、牧氏は第一代執権北条時政の後妻牧の方の実家の家筋である。即ち、実はの事件の被害者も複数の加害者(主犯一人及び下僕を含む共犯三人)も実は総てが個人(或いはその直の家系)が、これ、皆、北条氏被官であった可能性が頗る高いのである。さればこそ、「吾妻鏡」にも事件の経緯と経過及び処断までが細かく書かれているのではないか? だからこそ、この私怨による事件の初動捜査が即座に行われ(被疑者逮捕は事件発生の翌日で重要参考人聴取も同日)、被疑者とその共同正犯とも疑われる下僕の拷問を含む本格的尋問が二日目、解決が異様にスピーディに行われているのではないか? と私は思うのである。

「不會」仲違(なかたが)いして、会おうともしないこと。不和。

「矢束(やづか)延びたること」射殺に用いた矢の長さが半弓(後の「吾妻鏡」で注するが、流鏑馬を演ずる弓の名手たる伊具が油断して警戒しなかったのは、馬上の蓑をつけた男(実は狙撃者)が弓を持っているようには見えなかったことによる)から放たれたとは通常では考えられないほど、異様に長いものであること。

「射(い)やうの品と頗る世の常の所爲(しよゐ)にあらず」物理上の異様な矢の長さだけでなく、そうした定式外の普通でない矢を射た状況も、下僕の証言から見て、普通の人間の弓の射方では到底、考えられないこと。

「手垂(てだれ)の射手」よほどの弓の名手。されば被疑者である諏訪は当時、世評にあってもとんでもない弓の名人として知られていた人物なのであろう。

「諏訪殿は斯様の拷問に恥をかくよりは、科(とが)を負うて死せんと思ひて白狀せられ候ひぬらん。我等は下﨟(げらう)なれば、拷問の恥をも痛まず。知ぬ事をば爭(いかで)か申すべき。諏訪殿、既に白狀し給ひなば、重(かさね)て我等を拷問せられても詮(せん)なき事か」――主人諏訪殿は『このような非道にして屈辱的な拷問を受けて恥をかくよりは、無実であってもその冤罪を負うて死んだ方がましだ』とお思いになって、偽りの、冤罪の「白状」をなさったに違い御座いません。我らは、このような下郎なれば、如何なる拷問をも恥と思うことも、痛くも苦しいとも思うことなど御座いませんし、それで嘘偽りを吐こうとも思いませぬ。知らぬことを、どうして知っているなどと申すことが出来ましょうや! さらに申すなら、主人諏訪殿が、まっことこれ、既にして白状しなさったとするのならば、重ねてこのように、下賤の我らを拷問にかけたとて、これ、何の意味も御座らぬではありませぬか?!――

「下部の高太郎」「吾妻鏡」にこの名で出る。

「品(しな)に依りて」その申し分を聴き、場合によっては。

「御命の事は申宥(まうしなだ)めて助け參(まゐら)せん」増淵勝一氏の訳では、『死罪の件は考慮するように(評定衆に)申して助け申そう』とある。

「宿意」恨み。

「薩摩方(がた)、硫黃島」現在の薩南諸島北部に位置する島で、鹿児島県鹿児島郡三島村の大字硫黄島。一説に前に出した俊寛。康頼らが流された薩摩国鬼界ヶ島に同定されてもいる。

「覺束(おぼつか)なし」その悪業の因縁を考えると何とも厭な感じがして不快で、淋しい。

 

 以下、「吾妻鏡」正嘉二(一二五八)年の本件に関わる条を順に引く。

 

○原文

八月大十六日壬辰。雨降。將軍家御參鶴岳宮寺。馬場流鏑馬以下儀如例。事終還御。相州禪室自御棧敷令還給之後。及秉燭之期。伊具四郎入道歸山内宅之處。於建長寺前被射殺訖。著蓑笠令騎馬之人。相具下部一人。馳過伊具左方。自田舍參鎌倉之人歟之由。伊具所從等存之。落馬之後知中于矢之旨云々。塗毒於其鏃云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十六日壬辰。雨、降る。將軍家、鶴岳宮寺に御參。馬場の流鏑馬以下、儀例のごとし。事終りて還御す。相州禪室、御棧敷(さじき)より還りらしめ給ふの後、秉燭(へいしよく)の期(ご)に及んで、伊具四郎入道、山ノ内の宅へ歸るの處、建長寺の前に於いて射殺され訖んぬ。蓑笠を著し、騎馬せしむるの人、下部(しもべ)一人を相ひ具し、伊具が左方を馳せ過ぐ。『田舍(ゐなか)より鎌倉へ參るの人か』の由、伊具が所從等、之れを存ず。落馬の後、矢に中(あた)るの旨を知ると云々。毒於其の鏃に塗ると云々。

・「相州禪室」北条時頼。

・「秉燭(へいしよく)の期」「燭」を「秉 () る」(取る)の意で、火の点し頃。夕刻。同日はグレゴリオ暦に換算すると九月二十一日である。例えば今年二〇一六年九月二十一日の横浜の日没は五時四〇分である。事件発生はその前後と読める。

 

○原文

十七日癸巳。天晴。依伊具殺害之嫌疑。虜諏方刑部左衞門入道。所被召預對馬前司氏信也。亦平内左衞門尉俊職〔平判官康賴入道孫。〕。牧左衞門入道等。同意令露顯云々。是昨日。件兩人々數會合于諏方。終日傾數坏凝閑談。而諏方伺知伊具歸宅之期。白地起當座。馳出路次射殺之後。又如元及酒宴云々。今日。被相尋之處。差昨日會衆。爲證人依論申子細。又被問兩人。各一旦承伏云々。此殺害事。人推察不可覃之處。以諏方舊領被付伊具之間。確執未止歟。其上云箭束云射樣。已揚焉。頗越普通所爲。依之嫌疑御沙汰出來云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十七日癸巳。天、晴る。伊具殺害の嫌疑(けんぎ)に依つて、諏方(すはの)刑部左衞門入道を虜(とら)へ、對馬(つしまの)前司氏信に召し預けらるる所なり。亦、平内(へいないの)左衞門尉俊職(としもと)〔平(たいらの)判官(はんがん)康賴入道が孫。〕・牧(まきの)左衞門入道等(ら)が同意露顯せしむと云々。

是れ、昨日、件(くだん)の兩人の人數(にんず)、諏方に會合(くわがふ)し、終日、數坏(すはい)を傾け、閑談を凝(こ)らす。而して諏方、伊具の歸宅の期(ご)を伺ひ知りて、白地(あからさま)に當座(たうざ)を起ち、路次(ろし)へ馳せ出でて射殺すの後、又、元のごとく、酒宴に及ぶと云々。

今日、相ひ尋ねらるるの處、昨日の會衆(くわいしゆ)を差して、證人と爲(な)し、子細を論じ申すに依つて、又、兩人に問はる。各々、一旦、承伏すと云々。

此の殺害の事、人の推察、覃(およ)ぶべからざるの處、諏方が舊領を以つて伊具に付らるるの間、確執(かくしふ)、未だ止まざるか。其の上、箭束(やつか)と云ひ、射樣(いやう)と云ひ、已に揚焉(けちえん)なり。頗る普通の所爲(しよゐ)に越ゆ。之れに依つて、嫌疑の御沙汰、出來(しゆつたい)すと云々。

・「白地(あからさま)に」突然に。

・「路次」道筋。諏訪(諏方)の屋敷は建長寺から程遠からぬ位置にあったのであろう。

・「子細を論じ申す」非常に細かく弁解しては無実を訴える。

・「一旦、承伏す」参考人招致して尋問したところ、直ちに諏訪の証言通りに一緒に酒盛りをしており、中座などはしなかった旨の証言をした。

・「掲焉(けちえん)」著しいさま・目立つさまで、ここはよほどの弓術の手練れの仕業であることは明白であることを断言した表現。なお、「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同の注及び須川益雄氏のサイト「日本の武器兵器」のその他の記載を参考にすると、当時の大弓は二メートル十三センチほどもあり、これではすれ違った際に、伊具に弓を持って狙っていることが美濃から上下孰れかが突き出てしまって伊具に判ってしまうことから(伊具も流鏑馬を演じる弓の名手であることを忘れてはいけない)、使用した矢は異様に長いものの、弓自体は『半弓と思われる』(「歴散加藤塾」注)とある。なお、「半弓」と言っても、実際に半分の長さなのではなく、長さは一メートル六〇センチと本弓の四分三程度の長さがあり、矢長は約七十二センチメートル(大弓(本弓)の矢は凡そ一メートル)である。或いは、諏訪はこの半弓で、しかも一メートル前後の異様に長い大弓用の矢を敢えて狙撃用として使用したものかも知れない。でなければ捜査官が「異様に長い矢」とは言わないと思うのである。]

 

○原文

十八日甲午。天晴。諏方刑部左衞門入道被召置之。雖被加推問。敢不承伏。所本執。仍召取所從男〔號高太郎。〕被推問之。任法之處。屈氣不能言。結句相誘之。主人已令獻白狀畢。爭可論申哉之由。奉行人雖盡問答。件男云。主人者兼而顧糺問之恥辱。仍申歟。於下﨟之身者。更不痛其恥。任實正所論申也。但主人白狀之上。不及重御問歟云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十八日甲午。天、晴る。諏方刑部左衞門入道、之れを召し置き、推問を加へらると雖も、敢へて承伏せず。本より執(しふ)する所なり。仍つて、所從の男(をのこ)〔高太郎と號す。〕を召し取り、之れを推問せらる。法に任するの處、氣を屈して、言ふに能はず。結句、之れを相ひ誘(こしら)へ、

「主人、已に白狀を獻(けん)ぜしめ畢んぬ。爭(いかで)か論じ申すべけんや。」

の由、奉行人、問答を盡くすと雖も、件(くだん)の男、云はく、

「主人は兼ねて糺問の恥辱を顧(かへりみ)る。仍つて申すか。下﨟の身に於ては、更に其の恥を痛(いた)まず。實正(じつしやう)に任せ論じ申す所なり。但し、主人白狀の上は、重ねて御問に及ばざらんか。」

と云々。

・「執する」意固地になって冤罪を主張する。

・「法に任する」当時の合法的とされた拷問を加えたことを示す。

・「氣を屈して」拷問によっても、一切吐かず、逆にすっかり体力・気力を失ってしまい。

・「相ひ誘(こしら)へ」「相ひ」は対象のあることを示す接頭語で、「こしらへ」は「宥(なだ)めすかす」「懐柔する」であるが、ここは既にお分かりの通り、主人が自白したという嘘を述べて、彼から共犯者である自白、或いは、犯人の近くにいたことの秘密の暴露に相当する証言を引き出そうとする違法(これは当時でも拷問とセットになってしまっては違法の謗りは免れまい)な取り調べを行ったのである。

・「實正(じつしやう)」(私が知っている、見たままの)確かなこと。偽りや間違いのない事実、真実の状況。

 

この後には「吾妻鏡」では以下八月の無関係な記事が三日分載る。次の九月二日の条は、この八月が大の月(三十日)だから、前の八月十八日からは凡そ半月、十四日後となる。

 

○原文

二日戊申。終日終夜雨降。暴風殊甚。今日。諏方刑部左衞門入道所被梟罪也。此主從共以遂不進分明白狀。爰相州禪室被廻賢慮。以無人之時。潛召入諏方一人於御所。直被仰含曰。被殺害事被思食之上。所從高太郎承伏勿論之間。難遁斬刑之旨。評議畢。然而忽以不可終其身命之條。殊以不便也。任實正可申之。就其詞加斟酌。欲相扶之云々。于時諏方且喜抑涙。果宿意之由申之。禪室御仁惠雖相同于夏禹泣罪之志。所犯既究之間。不被行之者。依難禁天下之非違。令糺断給云々。又平内左衞門尉。牧左衞門入道等流刑。就中俊職爲公人與此巨惡之條。殊背物義之間。被配流硫黄島云々。治承比者。祖父康賴流此島。正嘉今。又孫子俊職配同所。寔是可謂一業所感歟。

○やぶちゃんの書き下し文

二日戊申。終日終夜、雨、降る。暴風、殊に甚し。今日、諏方刑部左衛門入道、梟罪(けうざい)せらるる所なり。此の主從、共に、以つて遂に分明の白狀を進ぜず。爰(ここ)に相州禪室、賢慮を廻らされ、人無(ひとな)きの時を以つて、潛かに諏方一人を御所へ召し入れ、直(ぢき)に仰せ含められて曰はく、

「殺害(せつがい)せらるる事、思し食(め)さるるの上、所從、高太郎、承伏、勿論の間、斬刑(ざんけい)を遁れ難きの旨、評議し畢んぬ。然れども、忽(たちま)ちに以て、其の身命(しんみゃう)を終(お)ふべきの條(ぜう)、殊に以つて不便(ふびん)なり。實正(じちしやう)に任せ、之れを申すべし。其の詞(ことば)に就き、斟酌(しんしやく)を加へ、之れを相ひ扶(たす)けんと欲す。」

と云々。

時に諏方、且つは喜びて涙を抑(おさ)へ、宿意を果すの由、之れを申す。禪室の御仁惠、夏禹(かう)、罪に泣くの志しに相ひ同じと雖も、犯す所、既に究(きは)まるの間、之を行はれずんば、天下の非違(ひゐ)を禁(いまし)め難きに依つて、糺断せしめ給ふと云々。

又、平内左衞門尉・牧左衞門入道等、流刑す。

就中(なかんづく)に、俊職は公人、爲(ため)に此の巨惡に與(くみ)するの條、殊に物義(ぶつぎ)に背くの間、硫黄島(いわうじま)へ配流被ると云々。

治承の比(ころ)は、祖父康賴、此の嶋に流され、正嘉の今、又、孫子(まご)俊職、同所へ配せらる。寔(まこと)に是れ、一業所感(いちがふしよかん)と謂ひつべきか。

・「夏禹(かう)、罪に泣く」は、伝説の夏の聖王禹が、犯罪者を罰するに際しても、憐れんで涙を流した、という故事に基づく謂い。「説苑」(ぜいえん:前漢の劉向の撰(編)に成る故事説話集)の「君道」などに載る。……しかし……時頼は「禹」ほどにゃあ、共感出来ねえな! おらぁ、やっぱ、時頼は大(でえ)嫌(きれ)えだ!!!]

2016/03/26

北條九代記 卷之八 陸奥守重時相摸守時賴出家 付 時賴省悟

      ○陸奥守重時相摸守時賴出家 付 時賴省悟

同じく八年三月十一日、陸奥守重時、政務を辭して出家せらる。法名觀覺とぞ號しける。同四月十四日、陸奥守政村、執権の事を承り、政所始あり。この人は、重時入道の舍弟とて、共に泰時の連枝(れんし)なり。廉直(れんちよく)の政道、諸人の心に叶ひけるにや、又將軍の武威、耀くの故にや、久しく關東、靜にして、最(いと)寛(ゆるやか)にぞ覺えける。康元元年十一月二十三日、相摸守時賴、最明寺にして飾(かざり)を落(おと)し、法名覺了房道崇(だうそう)とぞ號しける。生年三十歳。日比の素懷(そくわい)と聞えたり。時賴の嫡子は、未だ幼稚(えうち)におはしければ、執權をば重時入道の次男、武藏守長時に預け讓られけり。しかるに、時賴は往初、寶治の初(はじめ)、蜀の隆蘭溪(りうらんけい)、日本に來りて佛心を弘通(ぐつう)せらる。寛元四年、鎌倉の壽福寺に下向あり。相州時賴、政事の暇(いとま)、相看(しやうかん)して、佛法の大道(たいだう)を問ひ給ふ。去ぬる建長二年に、建長寺を建立し、同五年十一月二十五日に、落慶供養を遂げられ、道隆(だうりう)禪師を以て開山とせらる。後に蜀の僧、普寧兀菴(ふねいごつあん)の本朝に來りしを、鎌倉に招請し、巨福山(こふくさん)建長寺に留(とゞ)めて、參禮(さんらい)し、見性(けんしやう)せん事を望まれしに、政務を止めて工夫を凝(こら)し、懇(ねんごろ)に指示せられしかば、森羅萬像(しんらばんざう)、山河大地、自己と無二無別の理を明めらる。普寧、即ち、「靑々たる翠竹、盡(ことごと)く是(これ)、眞如(しんによ)、欝々(うつうつ)たる黄花、般若(はんにや)にあらずと云ふ事なし」と示されしに、時賴入道、言下に契悟(けいご)し、「二十年來、旦暮(たんぼ)の望(のぞみ)、滿足す」とて、九拜歓喜せられけり。猶、この後も、國家静謐(せいひつ)の政事(せいじ)を聞きて、人民安穩の仁德を專(もつぱら)に心に籠められ、世間、出世、諸共(もろとも)に、身の上にぞ治行(をさめおこな)はれける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻四十三の建長五(一二五二)年十一月二十五日、及び、建長八(一二五六)年三月十一日、四月十四日、及び、康元元(一二五六:建長八年十月五日改元)年十一月二十三日の他、湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、「将軍記」「日本王代一覧」及び「元亨釈書」を基にしているとある。

「省悟」「せいご」と読む。一般名詞としては「反省して過ちを悟ること」であるが、ここは本文の「契悟」に同じい。悟達。

「同じく八年」建長八(一二五六)年だが、十月五日に康元に改元している。

「陸奥守重時、政務を辭して出家せらる」この五年後の弘長元(一二六一)年六月一日に重時は病に倒れる。「吾妻鏡」によると、「於厠被見怪異之後。心神惘然」(厠(かはや)に於いて怪異(けい)を見らるるの後、心神網然(ばうぜん)」となったとあり、以後は「瘧病(ぎやくへい)」(「吾妻鏡」六月十六日の条。マラリア様症状を指す)のような症状となったとする。その後、一度恢復したように見えたが、それから五ヶ月後の十一月三日に極楽寺の別邸で病死している。満六十三歳で、死因は不明であるが、六月の病いの再発とも考えられる。「吾妻鏡」によれば、「自發病之始。抛万事。一心念佛。住正念取終」(発病の始めより、万事を擲(なげう)ち、一心に念佛し、正念(しやうねん)に住して終(つひ)を取る」)記され、熱心な念仏信者であった重時らしい最後であった(「吾妻鏡」とウィキの「北条重時を参考にした)。

「康元元年十一月二十三日、相摸守時賴、最明寺にして飾(かざり)を落(おと)し、法名覺了房道崇(だうそう)とぞ號しける」ウィキの「北条時頼」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、この年、『連署の北条重時が辞任して出家』すると、三月三十日附で『重時の異母弟・北条政村を新しい連署に任命』七月には『内々のうちに出家の準備を始め』ている。八月十一日に庶長子時輔が元服、九月十五日になると、『当時流行していた麻疹に』時頼自身が罹患、『九月二十五日に時頼は回復したが、娘も同じ病気にかかって十月十三日に早世し』ている。さらに十一月三日には時頼は赤痢に感染、十一月二十二日には小康状態となったが、ここで『時頼は執権職を初め、武蔵国務・侍所別当・鎌倉小町の邸宅を義兄の北条長時に譲った。この時、嫡子の時宗はまだ六歳という幼児であったため、「眼代」(代理人)として長時に譲ったとされている。十一月二十三日』に北鎌倉の最明寺(廃寺。現在の明月院はその塔頭の後身)『で出家し、覚了房道崇と号した(最明寺入道ともいわれる)』。但し、『引退・出家したとはいえ、幕府の実権は依然として時頼の手にあった。このため、出家引退の目的は嫡子・時宗への権力移譲と後継者指名を明確にするためで、朝廷と同じ院政という状況を作り上げる事だったとされている。時頼の出家と同時に結城朝広・結城時光・結城朝村・三浦光盛・三浦盛時・三浦時連・二階堂行泰・二階堂行綱・二階堂行忠らが後を追って出家したが、これは幕府の許可しないうちに行なわれたため、出仕停止の処分を受けた。十一月三十日、時頼は逆修の法要を行なって死後の冥福を祈り、出家としての立場を明確にした』。『康元二年(一二五七年)一月一日、幕府恒例の儀式は全て時頼が取り仕切り、将軍の宗尊親王も御行始として時頼屋敷に出かけた。これは時頼が依然として最高権力者の地位にあった事を示している。二月二十六日には時宗の元服が行なわれた。この二年後には時宗の同母弟・宗政も元服し、さらにその二年後には時宗・宗政・時輔・宗頼の順に子息の序列を定めた。これは正室と側室の子供の位置づけを明確にし、後継者争いを未然に防ぐ目的があった』。『このように引退したにも関わらず、時頼が政治の実権を握ったことは、その後の北条氏における得宗専制政治の先駆けとなった。時頼と重時は引退したとはいえ、それは名目上の事でしかなく、幕府の序列は相変わらず』一位・二位であって、『時頼の時代に私的な得宗への権力集中が行なわれて執権・連署は形骸化した』と言える。彼はこの出家から七年後の弘長三(一二六三)年十一月二十二日に最明寺北亭にて、享年三十七の若さで死去した。出家隠居ながら、実権を行使し続けた彼には、とてものこと、諸国回国なんぞしている暇は、これ、なかったのである。

「寶治の初、蜀の隆蘭溪、日本に來りて佛心を弘通せらる」「寶治」(一二四七年から一二四九年)「の初」とあるが、南宋からの渡来僧蘭溪道隆(らんけいどうりゅう 一二一三年~弘安元(一二七八)年:臨済宗。在日滞留のまま、建長寺で没した)の来日は宝治に改元される「寛元」四(一二四七)年その年であった。「弘通」仏教を広く普及させること。

「建長二年に、建長寺を建立し、同五年十一月二十五日に、落慶供養を遂げられ」奇行の「建長二年」は建長三(一二五〇)年の誤り。竣工落慶は正しい。

「普寧兀菴(ふねいごつあん)」南宋からの渡来僧兀庵普寧(ごったんふねい 一一九七年~一二七六年:臨済宗)。ウィキの「兀庵普寧」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『無準師範に師事。文応元年(一二六〇年)』、知友であった蘭渓道隆の『招きにより来日し、博多の聖福寺に入った。鎌倉幕府執権北条時頼の要請により鎌倉建長寺二世となる。建長寺の本尊は地蔵菩薩であるが、兀庵は地蔵菩薩は自分より下位であるとして礼拝しなかったという。時頼は兀庵に師事して参禅・問法を重ね』、『印可を受けた。弘長三年(一二六三年)、時頼が亡くなると支持者を失い、文永二年(一二六五年)に帰国してしまった。晩年は温州(浙江省)の江心山龍翔寺に住んだ』。『当時としては先鋭的な思想を持ち、難解な講釈を行ったことから、日本語の慣用句の「ごたごた」(元の単語は「ごったんごったん」)の語源になった』とも言われる。ただ、彼は殆んど日本語を解さなかったとも言われ、時頼の受けた印可というもの、これ、如何ほどのものか、と時頼嫌いの私は実は大いに怪しんでいるのである。

「見性(けんしやう)」禅に於いて、修行により人間の持つところの見かけ上の心の在り方を克服して、人の中に本来もともと備わっているところの「仏の真理」を見極めることを指す。私も判って注している訳ではない。悪しからず。

「森羅萬像(しんらばんざう)」文字も読みもママ。森羅万象。

「無二無別の理」「理」は「ことわり」悟達とは唯一無二、たった一つの道筋しかないという絶対の真理。

「「靑々たる翠竹、盡(ことごと)く是(これ)、眞如(しんによ)、欝々(うつうつ)たる黄花、般若(はんにや)にあらずと云ふ事なし」「眞如」は、あるがままの姿。仏の真理としての実体。「欝々たる」は美しくこんもりと茂ったさま。「般若」は、サンスクリット語の「智慧」の漢訳語で、人が真の生命に目覚めた際にのみ生み出される根源的な叡智。世界窮極の真理を知る力及びその力そのものを指す。さてもこれはネット検索を掛けると、後の明の禅宗の伝灯相承を中心とした仏教通史の書である那羅延窟学人瞿汝稷(くじょしょく)編になる「指月録」(一六〇二年刊)に「禪話」として出る、『靑靑翠竹、盡是法身。鬱鬱黃花、無非般若』と同文である。古くからあった禅語と思われ、兀庵普寧の創始した公案とは私には思われない。

「契悟」仏法に契(かな)うこと。仏法の真理と一体になること。悟ること。

「旦暮(たんぼ)」毎日。

「世間」俗世間、現世の在りよう。その認識。

「出世」仏の世界の在りよう。その認識。

「治行」修行。]

北條九代記 卷之八 宗尊親王關東御下向 付 相撲

 

      ○宗尊親王關東御下向  相撲

宗尊親王は、後嵯峨院第一の皇子、御母は准后平朝臣棟子(むねこ)と申す。蔵人勘解由(かげゆの)次官棟基(むねもと)の娘なり。仁治三年に、京都にして御誕生あり。建長四年正月八日、仙洞に於いて御元服あり。御加冠の後に、三品に叙せらる。加冠は左大臣藤原兼平公なり。攝政殿下兼經公、即ち、親王の御袍(おんうはぎ)、御笏(おんしやく)を奉り給ふ。御年十一歳なり。鎌倉の執權相摸守時賴、陸奥守重時、申受(まうしう)くるに依て、關東御下向の事、催(もよほし)、沙汰あり。同三月十九日、仙洞を出でて、六波羅に入り給ふ。八葉の御車なり。これより御輿を奉り、東路(あづまぢ)に赴き給ふ。月卿雲客(うんかく)竝に武士の輩、供奉し奉る。上皇、潛に粟田口に御幸有りて、御覧ぜらる。四月一日、鎌倉に著きて、時賴の館に入りたまふ。同五日に征東大將軍に任ぜらる。同十四日はじめて鶴岡八幡宮に社參あり、供奉の行粧(かうさう)、又、近代の壯觀なり。御下向の後、政所始(はじめ)あり。兩國司、著座、相摸守時賴、陸奥守重持、參らる。三獻(こん)の儀式、吉書(きつしよ)御覧じて、後に御弓始(はじめ)あり。閏五月一日、將軍家の御前にして、酒宴あり、近習の人を召出(めしいだ)され、醉(えひ)に和(くわ)し興(きよう)に乘(じよう)ず、相摸守時賴、申されけるは、「近年關東の有樣、武藝、廢(すた)れ、自門(じもん)、他家ともに、其職にもあらず、才藝を好み、武家の禮法を取忘(とりわす)るゝ事、頗る比興(ひきよう)といふべし。然れば弓馬の藝に於いては、漸々以(もつ)て試みらるべし。先(まづ)常座に付いて、相撲の勝負を召奇(めしよ)せらるべきかし、とありしかば、將軍家、御入興有りて、然るべき輩を召奇(めしよ)せて、相撲六番をぞ御覽じける。勝(かち)には御劍を下され、御衣を賜る、負(まけ)には大盃にて酒をたまふ。この比(ごろ)の御遊興なりと、上下、喜び奉る。奉公の諸人、面々に弓馬の藝を嗜(たしな)むべき由、仰出され、御所中に觸(ふ)れられたり。鎌倉の風儀(ふうぎ)、改(あらたま)りたる心地して、何となく賑(にぎは)ひ、貴賤共(とも)に人柄(ひとがら)、治(をさま)りてぞ覺えける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻四十二の建長四(一二五二)年三月十九日、四月一日・五日・十四日及び建長六年閏五月一日の条などに基づく。

「相撲」「すまふ」とルビする。

「准后平朝臣棟子(むねこ)」平棟子(?~徳治三(一三〇八)年)。当初四条天皇の内侍として出仕したが、天皇が亡くなったため、新たに後嵯峨天皇に仕えて宗尊親王を産む。大変な美貌の持ち主で天皇の寵愛厚く、仁治三(一二四二)年四月には掌侍(ないしのじょう)に任じられ、寛元三(一二四五)年には典侍(ないしのすけ)に進む。建長二(一二五〇)年十月には従二位を授けられ、後年従一位准三后に上った。晩年は京極殿に居住し、京極准后と呼ばれた(ウィキの「平棟子」に拠る)。

「蔵人勘解由(かげゆの)次官棟基」平棟基(生没年不詳)は鎌倉前期の廷臣。桓武平氏高棟王流の右大弁平棟範の子。官位は正五位下・木工頭(もつくのとう:主に宮中の造営及び材木採集を掌り、各職工を支配した木工寮の長官)。代々、有能な弁官を輩出している家柄で、「今鏡」に於いて『日記の家』と称された有力地下人(実務官僚)の家系であった。五位蔵人・勘解由次官・木工頭を歴任した。但し、参照したウィキの「平棟基」によれば、『棟基は早世したため』、幕府将軍外祖父としての『恩恵を受けることはなかった』とある。

「建長四年」一二五二年。

「左大臣藤原兼平」鷹司兼平(安貞二(一二二八)年~永仁二(一二九四)年)のこと。関白近衛家実四男。有職故実に通じ、能書家としても知られた。

「攝政殿下兼經」近衛兼経(承元四(一二一〇)年~正元元(一二五九)年)のこと。やはり近衛家実の子。彼は嘉禎三(一二三七)年に九条道家の娘仁子を娶って、長年、不仲だった近衛家と九条家の和解に努め、同年には道家から四条天皇の摂政の地位を譲られている。暦仁元(一二三八)年には左大臣を辞したが、引き続き摂政を務め、翌年には従一位に叙せられている。仁治三(一二四二)年に四条天皇が崩御すると、後嵯峨天皇の関白に転じたが、西園寺公経の圧力によって、二条良実にその地位を譲った。後に義父とともに関東申次に就任したものの、道家が失脚すると、兼経も巻き添えを食らって、関東申次を解任されてしまう。しかし、ともに失脚した一条実経(良実の弟)の後釜を埋める形で、宝治元(一二四七)年に後深草天皇の摂政に再任されている。この建長四(一二五二)年の十月に、前に出た異母弟鷹司兼平に摂政を譲り、正嘉元(一二五七)年に出家、法名を「真理(しんり)」と号し、余生を宇治岡屋荘で過ごした(主にウィキの「近衛兼経に拠る)。

「袍(うはぎ)」衣冠束帯の際に着用する盤領(まるえり)の上衣。

「御笏(おんしやく)」束帯を着る際に右手に持つ、威儀を整えるための細長い板。当初は式次第などを紙に書いて裏に貼っておき、合法的カンニング・ペーパー、備忘用として用いられたが、後は全くの儀礼具となった。材質は木或いは象牙製。なお、「笏」の「シャク」という読みは、本来の字音「コツ」が「骨」に通うのを忌んで、その長さが「一尺」ほどあるところから「尺」の音を借りたともされる。

「同三月十九日」建長四(一二五二)年三月十九日。

「仙洞」上皇の御所。

「八葉の御車」「はちえふのみくるま」。「網代車(あじろぐるま)」の一種で、車の箱の外装に、青地に黄色で、「八弁の蓮の花」即ち「八葉」の紋様を散らした牛車(ぎっしゃ)を指し、摂関・大臣から地下(じげ:六位以下の役人)に至るまで、広く用いられた。

「月卿雲客」厳密には公卿及び殿上人を指すが、ここは高位高官ととっておいてよいと思う。

「政所始」「御弓始」以下、正月や新築等の際に行われたそれではなく、新将軍就任に行われたそれらである。

「兩國司」以下の「相摸守時賴、陸奥守重持」のこと。

「三獻(こん)の儀式」酒肴を出して、式礼で三杯飲ませた上で膳一切を下げ、それを三度繰り返す儀式。

「吉書(きつしよ)」初めて出す儀礼的な政務命令書を閲覧する儀式。事前に政所などから選ばれた奉行(主に執事或いは執事代などの上級右筆相当職員)が吉書を作成しておき、これをただ、将軍が総覧し、花押を記すのが定式。

「自門」北条家。

「其職」武家職である本来の武士が当然身につけているものとしての武芸本来の面目。

「比興(ひきよう)」この熟語は、本来は「詩経」のいう「漢詩六体」の内の「比」と「興」を指し、他のものに「喩えて」「面白く」表現することから、元は「おもしろいこと・おかしいこと」を指したが、ここでの用法はその軽さが悪く転じた、「いぶかしいこと・不都合なこと」「つまらないこと・下らないこと」の謂いとなったものである。

「召奇(めしよ)せ」後にもある通り、ママ。「召し寄せ」。

「この比(ごろ)の御遊興なり」「近年拝ませて戴いた中では、たぐい稀れなる、まさしく武家の棟梁の御祝いの席に相応しい美事なる御遊興の様にて御座った」というの諸人の感嘆である。暗に前に出た、あり得ない頼嗣の退位理由を、見え見えで揶揄して、無理矢理正当化している場面ではある。そもそもが鎌倉到着時の彼は、未だ満九歳である。小学四年生が「相撲(すまい)は面白うおじゃるの!」と、笑いながら、剣や酒盃を力士に賜うさまを想像してみよう。可愛くはあっても、その場に漂う、ある政治の腐った臭いには、これ、嗅覚を失った私でさえ、鼻が曲がりそうだ。

「人柄」宝治合戦や将軍譲位で、荒れ荒んでいたところの鎌倉の民草の心地(ここち)。]

北條九代記 卷之八 光明峯寺道家公薨す 付 五攝家相分る

 

      ○光明峯寺道家公薨す  五攝家相分る

建長四年二月に、相摸守時賴、陸奥守重時、京都に使者を遣し、後嵯峨上皇へ申し入れらるる趣は、「將軍賴嗣、文武の才に昧(くら)く、遊興のこと鄙俗(ひぞく)に同じ。國家の政務、一向、愚(おろか)に渡らせ給ふ、是に依て、武威、甚(はなはだ)輕くして、諸人、重(おもん)じ奉らず。是、亂世の基(もとゐ)たり。然れば、第二の宮、宗尊(そうそん)親王を迎へ奉りて、鎌倉の主君に仰ぎ奉らば、宜(よろし)く太平の時を得奉るべし」とぞ申されける。この事、露計(ばかり)も存知たる人、是、なし。仙洞、潛(ひそか)に御沙汰有りて、第一の宮御下向あるべき旨、勅許ましましけり。同三月廿一日、三位中將賴嗣、鎌倉の御所を出でて、越後〔の〕守時盛(ときもり)入道が家に入り給ひ、同四月三日、若君以下を引倶して、京都に上洛し給ひけり。去ぬる二月に、光明峯寺前(さきの)攝政道家公、薨じたまふ。年六十一歳なり。是は賴經の父なるをもつて、北條義時、泰時の代には、武家の輩も重じて、威勢も帝王のごとくなりしが、賴經上洛し給ひて後は、北條家を怨み給ふ心有りて、三浦光村にも仰合せらるゝ事ありけり。然れども、將軍賴經の祖(おほぢ)なる故、關東より其儘、差置(さしおか)れける所に、了行法師が白狀の折節、薨じ給ひける事、疑心なきにあらず。武家より計(はから)ひ奉りけるにやと心ある人は怪(あやし)みけり。道家公の公達(きんだち)竝(ならび)に御孫忠家卿は、配流、解官せられ給ふ。その中に、二條良實公計(ばかり)、替る事なくおはします。これは道家公と御中、不和なり、良實公、常は、道家公の北條家を恨み給ひて、世を亂らんと企て給ふを歎き入りて、時々諫言せらるゝに依て、道家公、大に怒(いかつ)て、父子の間、御快(おんこゝろよか)らず。時賴、是を知る故に、何の御沙汰にも及ばざりき。道家公の御息長男教實(のりざね)公は、九條殿を相續(さうぞく)し、次男良實公は二條殿と號し奉り、三男實經公は一條殿と稱し、近衛、鷹司(たかつかさ)、相分れ、五攝家と稱する事、執柄(しつぺい)の勢を分たんが爲に、武家より計ひ定めける。王道、愈々衰敗に及ぶ。末世の有樣こそ心憂けれ。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻四十一の建長四(一二五二)年二月二十日・二十七日、三月五日・二十一日、四月三日の他、参照した湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、「日本王代一覧」や「将軍記」の記載に基づくとある。湯浅氏の論文によれば、本篇では、『時頼が頼嗣の愚昧を理由に譲位を奏して』おり、また、道家の薨去については「吾妻鏡」では、『「かの薨御の事と云々。説等あり。武家籌策あるべきの期なりと云々」(二月二十七日)と述べているが』、「北条九代記」に於いては、『「頼経上洛し給ひて後は、北条家を怨み給ふ心有て、三浦光村にも仰せ合せらるゝ事ありけり。然れども、将軍頼嗣の祖父なるゆへ、関東より其まゝ差置れける所に、了行法師が白状のおりふし薨じ給ひけること、疑心なきにあらず。武家より計らひ奉りけるにやと、心ある人は恠みけり」』『と、頼経と三浦一族の乱との関わりや、道家の死の真相について、より具体的な言及がある。これは』「日本王代一覧」に拠った言説であるとされ、『また、時頼が道家と良実の不和を計らって五摂家を設立したとし、武家の介入により王道がいよいよ衰退したという説も』「日本王代一覧」に拠ったものと指摘しておられる。

「光明峯寺道家」号は「くわうみやうぶじ(こうみょうぶじ)」と読む。既にさんざん注した九条道家の号であり、「光明峯寺関白」と通称された。この号は現在の京都市東山区今熊野南谷町付近にその頃に存在した、九条道家により嘉禎三(一二三七)年に建立された光明峯寺に因む。後の応仁の乱で焼き払われて消滅、廃寺となった。

「五攝家」本来の「摂家」は摂政関白の家柄で、藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った五家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。ウィキの「摂家」によれば、この「五摂家」は本文記載以後に正式に成立したもので(後に引用するように、厳密には多少の変遷がある)、『藤原北家の良房が人臣初の摂政に任官して以後、その子孫の諸流の間で摂政・関白の地位が継承されたが、のちに道長の嫡流子孫である御堂流(みどうりゅう)がその地位を独占するようになった。平安時代末期、藤原忠通の嫡男である基実が急死すると、その子基通がまだ幼少であったことから、弟の基房が摂関の地位を継いだために、摂関家は近衛流と松殿流に分立』、『さらに、平安末期の戦乱によって基房・基通ともに失脚し、基房の弟である兼実が関白となったことで、九条流摂関家が成立した。この』三流の内、『松殿流の松殿家は松殿師家が摂政になって以降、結果的には摂政・関白を出すことなく何度も断絶を繰り返して没落し、摂家には数えられなかった』。『その結果、摂関家として近衛・九条の両流が残り、近衛流は殿下渡領以外の摂関家領のほとんどを掌握した。九条流は天皇の外戚としての血縁関係と、自家からも将軍を輩出するほどの鎌倉幕府との良好な関係によってもたらされた摂関就任の実績によってようやく摂関家としての地位を安定化させ』、『反対に藤原師長(頼長流)や松殿忠房(師家の弟)も摂関就任の可能性があったにも関わらず就任することが出来ず摂関家としての地位を確立できなかったことなど、流動的な状況が長く続いた』。『のち、近衛流摂関家からは嫡流の近衛家並びに、兼平により鷹司家が成立。さらに九条流摂関家からは、道家の子実経および教実・良実により、それぞれ一条家および九条家・二条家が成立』、建長四(一二五二)年に『鷹司兼平が関白に就任』、文永一〇(一二七三)年には『政変によって一度は失脚した九条忠家(教実の遺児)も関白に就任してその摂家の地位が確認されたことで、「五摂家」体制が確立されることになる』とある。

「將軍賴嗣、文武の才に昧(くら)く、遊興のこと鄙俗(ひぞく)に同じ……」言っておくが、この藤原頼嗣の将軍譲位と宗尊(むねたか)親王下向要求(同文書を持った使の京への進発は建長四(一二五二) 年二月二十日である)当時、頼嗣の生誕は延応元(一二三九)年十一月二十一日、実に未だ満十二歳である。この誹謗中傷レベルの譲位理由が如何に理不尽なものであるか、お判り戴けよう。

「第二の宮、宗尊(そうそん)親王」(仁治三(一二四二)年~文永一一(一二七四)年)は先の天皇である後嵯峨天皇の第一皇子(但し、母方の身分が低かったため、皇位継承の望みはなかった)。これで直後に鎌倉幕府第六代征夷大将軍となるのであるが、彼は実は皇族で初めての征夷大将軍着任者であった。なお、本書では以下、一貫して彼の名を「そうそん」と音読みし、現行の我々のように「むねたか」とは訓じていないので注意。言わずもがなであるが、音読みは本邦ではその人物への強い敬意を示すのでおかしくも何ともないのである。

「越後守時盛」北条(佐介)時盛。北条時房長男。

「了行法師が白狀の折節、薨じ給ひける事、疑心なきにあらず。武家より計ひ奉りけるにやと心ある人は怪みけり」前章の「了行法師」の私の注を参照のこと。「武家より計ひ奉りける」とは、幕府方がおぞましくも、秘密裏に暗殺し申し上げて病死と見せかけたのではあるまいか、という猜疑である。ウィキの「九条道家」にも、『死因は病死と言われているが、頼嗣失脚の報を聞いてそのまま卒倒して死去したとする説や、隠然たる影響力を持つ道家の存在を苦々しく思った幕府によって暗殺されたとする説もある』と載るが、確かに以前の彼に北条得宗を殲滅する謀略は確かにあったと考え得るものの、すでに失脚した彼をここで謀殺する価値は私は殆んど認められないと思う(殺(や)るのなら頼経を殺っておいた方が遙かに後顧の憂いが、ない)。

「祖(おほぢ)」祖父。

「公達」ここは摂関家・清華家などの子弟・子女を指す。但し、「配流、解官せられ給ふ」とあるが、これは恐らくは翌年に摂政を罷免される、良実(後注)の弟一条実経(貞応二(一二二三)年~弘安七(一二八四)年)の寛元五(一二四七)年)のことであろう。但し、彼は入配流されていないし、後の文永二(一二六五)年には関白に再任されてもいるから、この謂いはおかしい。彼は父道家と不仲だった兄良実とは対照的に父に溺愛された。

「御孫忠家」九条忠家(寛喜元(一二二九)年~建治元(一二七五)年)。道家の長男であった摂政関白左大臣の故九条教実(文暦二(一二三五)年に享年二十五の若さで死亡)の長男。ウィキの「九条忠家によれば、父『教実が急逝したため、祖父・九条道家によって育てられる。道家は忠家を自己の後継者として位置づけ』、嘉禎三(一二三七)年には『自己の猶子とするとともに当代一の学者である菅原為長に諱を選ばせ』ている。翌嘉禎四年の『元服も九条家の祖である藤原忠通・兼実の先例に従って実施され、同日に正五位下に叙せられ』以後、権中納言・権大納言・左近衛大将・内大臣を歴任、寛元四(一二四六)年十二月には右大臣となった。仁治三(一二四二)年に『崩御した四条天皇とは、ちようど同年配であり、騒々しいほどの遊びばかりで朝夕を過ごしていた』という。『道家の忠家の将来に対する期待は大きく』、仁治三(一二四二)年の置文(当時、一族や子孫に対して現在及び将来に亙って遵守すべきことを書き記した文書。近世以後の遺言の原型とされるもの)には『寵愛していた三男の一条実経に摂関の地位を継がせることと記す一方で、その後の摂関には忠家を就けることを指示している。また』、寛元四(一二四六)年五月に『忠家が病に倒れた時には春日大社に対して「就中小僧子孫雖多、可継家之者是也、為嫡孫故也」と記した願文』『を納めて、自らの後継者であることを明記している』。建長二(一二五〇)年には道家は処分状を作成、『まず家長者を一条実経とするものの、次は九条忠家が継いで、互いの子孫が摂関の地位を失わない限りはそのうちでもっとも官職の高い人物(一門上首)が継ぐこと、子孫の断絶あるいは摂関の地位に就けずに子孫が摂家の資格を失った場合には、家長者はその所領を没収できるものとした。ただし、これらの規定は実経が年長でかつ摂関経験者であることを背景にしたもので、既に右大臣の地位に就いていた忠家も当然摂関の地位に就くことを前提にして作成されたと考えられている』とある。ところが、まさにこの了行による未然の謀反の暴露に『際して九条家が関与を疑われ、従兄弟にあたる鎌倉幕府将軍九条頼嗣は解任され、忠家自身も』、同建長四年七月二十日に『後嵯峨上皇の勅勘を受けて右大臣を解任となる。この騒動の最中の』二月には『祖父・道家も急死して九条家は再起不能の打撃を受けたのである』。ただ、その後の文永一〇(一二七三)年五月五日、関白宣下・藤氏長者となって復帰を果たし、同年十二月には従一位に叙位された。しかし、この間に既に二十一年もの月日が経過していたため、『公家社会では既に摂関の資格を失った人とみなされていた忠家の就任には強い反発が起こった』。『また、後嵯峨法皇没後に実質上の治天の君となった亀山天皇も後宇多天皇に譲位するまで忠家に一座宣旨を与えなかった。この就任の背景には忠家を勅勘した後嵯峨法皇が崩御したことを機に息子・忠教の義兄である関東申次西園寺実兼が当時の鎌倉幕府執権北条時宗に忠家復権への支持を働きかけが行われた可能性が高く、朝廷内部の事情による人事ではなかったことがあったとみられている』。翌文永十一年の正月には、摂政に就任するも、同六月には同職を辞職、その扱いも『異常なものであったとされている』但し、『短い在任期間とはいえ、薨去の』二年前に『九条流継承の条件である「摂関就任を果たした」ことによって、九条家の摂家としての地位を確立させたことにより、その後の一族の運命を大きく変えることと』はなった、とある(下線やぶちゃん)。しかし、ここにも「配流」の処罰はない。不審である。

「二條良實」二条良実(建保四(一二一六)年~文永七(一二七一)年)。極位極官は従一位関白左大臣。ウィキの「二条良実」より引く。『摂政関白左大臣九条道家の次男、母は太政大臣西園寺公経』(きんつね)『の女。兄に摂政関白左大臣九条教実、弟に四代鎌倉将軍藤原頼経、摂政関白左大臣一条実経』がいる。『父と母方の祖父が朝廷の実力者であったことから、数え』十五の『若さで従三位となり』、二十の時には既にして内大臣となった。『ところが父道家は良実をあまり愛さず、むしろその弟にあたる一条実経を偏愛するようになる。それでもこの頃の朝廷では祖父で関東申次の西園寺公経が道家を上回る実力を持っていたこともあって、後嵯峨天皇が践祚した』仁治三(一二四二)年には『公経の推薦で関白に任じられるまでに至った。ところが公経が死去すると朝廷は道家によって掌握され、このため』、寛元四(一二四六)年一月、父の命によって、『やむなく関白を実経に譲ることを余儀なくされた』。この年、鎌倉では『北条一門の名越光時が前将軍の頼経を擁して執権北条時頼に謀反を起こす計画が事前に発覚して関係者が処分されるという事件が起こった(宮騒動)。頼経は京都に送還されることとなり、この一件で父の道家も朝廷から去ることが避けられなくなり、またこれにともなって実経までもが関白辞任を余儀なくされるにいたった。良実は父と疎遠な関係にあったことからこの時の処分には含まれなかったが、これを道家は良実が時頼と内通して自分たちを貶めたと猜疑し、良実を義絶してしまった』。『しかし道家が死ぬと再び勢力を盛り返し』、弘長元(一二六一)年には『再び関白となる』。文永二(一二六五)年に『関白職を弟の実経に譲ったが、なおも内覧として朝廷の実権を掌握した』と記す。

「道家公の御息長男教實公は、九條殿」ウィキの「藤原によれば、彼は『将軍源実朝が暗殺され』、『源頼朝の血統が絶えると、父母が頼朝の縁戚にあたる九条家の子弟が摂家将軍として迎えられることになった』が、『その際に教実もその候補に擬せられたが、結局次弟の頼経が将軍に迎えられることとなり、自身は九条家を相続することになった。九条家はこの教実の代に分裂し、三弟の良実が二条家の、と四弟の実経が一条家の祖となったため、以後の教実の系統を特に後九条家と呼ぶこともある』とある。

「次男良實公は二條殿」ウィキの「二条良実」よれば、『良実は居所を二条京極第に置いたことから、良実を祖とする五摂家の系統は二条家と号した』とするが、当時の記録によって確認出来る『良実の邸は二条富小路』にあったともある。

「三男實經公は一條殿」既に注した通り、彼は父道家に溺愛され、仁治三(一二四二)年には一条室町にあった道家の第を譲られている。

「近衛」平安末期の関白藤原忠通の子基実に始まり、その子基通以来、近衛氏を称した。基通は鎌倉時代初期に親幕府派九条兼実 (基実の弟)と対抗した。また、学者を多く出した家柄でもある。家号は基実の殿第の名に由来するが、また、近衛大路に面する宮門号に因んで「陽明家」とも称した。

「鷹司」。近衛家実の子兼平を祖とし、その邸が鷹司室町にあったので鷹司を家名とした。

「執柄(しつぺい)の勢を分たんが爲」執柄はここでは狭義の摂政・関白の異称で、その政治上の権力を分散させるために、の意。]

北條九代記 卷之八 西園寺家繁榮 付 時賴相摸守に任ず

 

      ○西園寺家繁榮  時賴相摸守に任ず

泰村、叛逆して、三浦の家門滅亡の事、時賴、飛脚を以(もつ)て京都に注進せらる。六波羅より、西園寺太政大臣實氏公を以て奏聞(そうもん)あり。一條道家公は、前將軍賴經上洛の事に依(よつ)て、密(ひそか)に三浦光村に仰せ合さるゝ趣(おもむき)ありけるに付て、關東と昵(むつま)じからず。實氏公は愈(いよいよ)北條家と交(まじはり)を通ぜらるゝ故に、西園寺の威勢、既に淸華(せいくわ)の中に秀でて、攝家を輕(かろん)じけり。同七月に、北條相摸守重時は、六波羅を出でて、鎌倉に歸り參らる。時賴の招き給ふを以てなり。諸事の政務を相談し、連署(れんじよ)等(とう)、萬端の沙汰、諸共(もろとも)に勤められ、兩執權にぞなりにける。重時は、相摸守を改(あらため)て、陸奥守になり、時賴を相摸守にぞなされける。重時の一男長時を武蔵守に任じて、六波羅に居らしめ、畿内西國の沙汰を執行(とりおこな)はしむ。この時、國家の諸事、禁中の政(まつりごと)、叙位除目(ぢもく)の事までも、皆、武家よりして沙汰せしかば、主上は幼(いとけな)くおはしまし、上皇は只、所々の御幸、御慰(なぐさみ)に月日を送らせ給ひけり。建長三年七月に、將軍家從三位に叙せられ、左近衞〔の〕中將に任じ、相摸守時賴を正五位〔の〕下に叙せらる。同十二月二十六日、近江大夫判官氏信、武藤左衞門尉景賴兩人、潛(ひそか)に聞出して、謀叛人了行法師、矢作(やはぎの)左衞門尉、長(ちやうの)次郎左衞門尉久連(ひさつら)等を生捕りて、時賴に參らする。推問(すゐもん)せられしに、此者共、白狀しけるは、「前將軍賴經、京都に上り給ひて後、潛に諸方の武士を語らひ、世を亂さんと企て給ふ。我等、その仰(おほせ)に同意し、三浦一族の輩に、内々契約の事ありけれども、事、更に合期(がふご)し難く、世の變(へん)を相待つ所に、運命此所に極(きはま)り、生捕られ參らせたり」と申しければ、囚人(めしうど)は、信濃四郎左衞門尉行忠に預けらる。是(これ)に依て、鎌倉中、物騷しく、近國の御家人雲霞の如く馳せ集りしを、時賴、出合ひて對面し、禮義を致され、皆國々に返されけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の巻三十八の宝治合戦以降の記載を参考にしながら、「吾妻鏡」本文としては少し飛んで、巻四十一の建長三(一二五一)年七月四日、十二月二十六日・二十七日の他、参照した湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、「日本王代一覧」や「将軍記」の記載に基づくとある。湯浅氏の論文によれば、『道家が賴経の一件で光村に加担し関東と不和になったこと、西園寺実氏が、北条家と和すことによって勢いを増したこと、北条家が禁中を取り仕切るようになったことは』、「日本王代一覧」に依拠し、『十二月二十六日の氏信・景賴の謀叛は、賴経と三浦家に加担したものであるとするが、これは』「将軍記」にも『「前将軍賴経、京都にをひて世をみださんと思給ふと云々」』とあって、「保暦間記」『にも「将軍賴経、京都にして世を乱んとある由」』『を了行法師が白状したとある』。また「北条九代記」のここでは「日本王代一覧」に拠って、『西園寺家の繁栄の背景について、三浦光村に通じていた道家が零落し、北条家と親交あった西園寺家が次第に威勢を増したと述べ、それに従い、時賴・重時両執権が禁中の政治にまで介入するようになったと述べ』ている、と記しておられる。

「西園寺太政大臣實氏」既出既注

「一條道家」既出既注

「淸華(せいくわ)」現行では「せいぐわ(せいが)」と濁るのが一般的。「清華家(せいがけ)」で公卿の家格の一つを指す。最上位である摂関家(摂家)に次ぐもので、大臣家の上に位する。大臣・大将を兼ね、太政大臣に昇ることが出来る格である。一般に辞書類では三条(転法輪(てぼりん)三条)・今出川・大炊御門(おおいのみかど)・花山院・徳大寺・西園寺・久我(こが)の七家とされるが、この時期には必ずしも固定されていたものではないようである(また、後には醍醐・広幡を加えて「九清華」とも称した)。例えば、ウィキの「清華家」には、『清華家に相当する家格はすでに院政期には成立している。大臣・大将・皇后などの地位は、摂関政治期には当然摂関とその近親が独占するものであった。しかし後三条天皇の治世以降、摂関家が外戚の地位を失い、代わって外戚となった家系が、のちに清華家と呼ばれることになる家格の原形をつくった。したがって、清華家の家格は大臣・大将に昇進できるということのほかに「娘が皇后になる資格がある」ということも見逃してはならない。平清盛・源頼朝はいずれも清華家の家格を獲得していたのであり、そのゆえにこそその子弟は大臣・大将(平重盛、源実朝など)となり』、『皇后(平徳子)となることができた。足利義満以後の歴代室町殿が大臣・大将を歴任したこともこの文脈で理解しなければならない。なおいわゆる「七清華」は、清華家の家格を有する多数の家系(たとえば藤原北家閑院流の山階家・洞院家、村上源氏顕房流の土御門家・堀川家)が中世を通じて断絶したり』、『清華の家格を失ったりした結果、最終的に』七家しか『残らなかったことを意味しており、はじめから家系が固定していたわけではない』という記載があるからである。なお、「華族」(かぞく/かそく/かしょく)は本来、古くは、この清華家の別名であった。

「同七月」宝治元(一二四七)年七月三日に出京、十七日、鎌倉着(「吾妻鏡」)。

「北條相摸守重時は、六波羅を出でて、鎌倉に歸り參らる。時賴の招き給ふを以てなり。諸事の政務を相談し、連署(れんじよ)等(とう)、萬端の沙汰、諸共(もろとも)に勤められ、兩執權にぞなりにける」ウィキの「北条重時」によれば、『宝治合戦において、重時の動向は不明であるが、接点のない時頼と重時』(彼は時頼の祖父泰時の弟に当たるが、二十九歳も年上であり、しかも六波羅探題勤めが十七年と長かった)『の間には母方が同じ比企氏であり、高野山にいた安達景盛の介在があったと思われる。三浦氏滅亡後』、五十歳の『重時は時頼の要請により鎌倉へ戻り、叔父時房死後に空席となっていた連署に就任し、時頼を補佐した。六波羅探題北方は次男の長時が就任した。重時の長女葛西殿は時頼の正室となり、後の』第八代『執権北条時宗を生ん』でいる。

「長時」重時次男で、後の第六代執権(時頼から時宗への中継ぎ的就任に過ぎず、得宗ではないので本「北條九代」には含まれない)となった北条(赤橋)長時(寛喜二(一二三〇)年~文永元(一二六四)年)。

「主上」後深草天皇。宝治元(一二四七)年当時は、未だ満四歳。

「上皇」後嵯峨上皇。宝治元(一二四七)年当時は二十七歳。ウィキの「後嵯峨天皇」によれば、『即位した天皇は宮廷の実力者である西園寺家と婚姻関係を結ぶことで自らの立場の安定化を図り』、寛元四(一二四六)年に在位たった四年で『皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、院政を開始。この年、政治的に対立関係にあった実力者・九条道家が失脚したこともあって、上皇の主導によって朝廷内の政務が行われることになった。以後、姉小路顕朝・中御門経任ら実務担当の中級貴族を側近に登用して院政が展開されていくことになる』。正元元(一二五九)年にはまだ十二歳の『後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である恒仁親王(亀山天皇)への譲位を促し』ている(翌年に実際に譲位)。『後嵯峨上皇の時代は、鎌倉幕府による朝廷掌握が進んだ時期であり、後嵯峨上皇による院政は、ほぼ幕府の統制下にあった』。但し、『宝治合戦直後には北条時頼以下幕府要人が「公家御事、殊可被奉尊敬由」』(「吾妻鏡」宝治元年六月二十六日条)『とする合意を行って、後嵯峨院政への全面的な協力を決定している。また、摂家将軍の代わりに宗尊親王を将軍とすることで合意する(宮将軍)など、後嵯峨院政と鎌倉幕府を掌握して執権政治を確立した北条氏との間での連携によって政治の安定が図られた時期でもあった』とある。筆者の言うような、「只、所々の御幸、御慰に月日を送らせ給」うていた訳では、実は、ない。

「建長三年」一二五一年。

「七月に、將軍家從三位に叙せられ」「吾妻鏡」の七月四日の記事に拠るが、それを読むと、任命は以下も含めて、前月六月二十七日附である(後深草天皇の新居落成転居(遷幸)の褒美)。

「近江大夫判官氏信」佐々木氏信。

「了行法師」「りやうぎやうほふし(りょうぎょうほうし)」。鈴木小太郎氏のブログ「学問空間」の「了行」に、この捕縛事件の三年後の、建長六(一二五四)年六月二十五日に『了行法師は自身が造立した京都の持仏堂・宿所などを如意寺の造営に寄進しているが』、『この了行法師という人物は勧請に長けた人物であったものの』、まさにこの時、『幕府の顛覆を図り、勧進に託して同志を募っていたという嫌疑により逮捕されている(『鎌倉年代記』裏書)。この事件により処刑されたものがいなかったことから冤罪であったとみられるが、了行法師が自身が得意とするところの勧請をもって如意寺再興事業に関与し、それによって』、先に『如意寺の復興を行なった』『隆弁や北条時頼の覚えを良くする意図があったのかもしれない』と記されておられる(下線やぶちゃん)。ただ、「吾妻鏡」の記載はここが「法師」で、建長六年六月二十五日の条は「法印」となっていること(「了行」法号はそれほど特異とは言えないし、歴史資料で法号が同名の僧というのはゴマンといる。例えばかの公暁などは師としている師匠に「定暁(じょうぎょう)」という僧が同名別人で二人いるのである)、また、何よりも「吾妻鏡」の謀反人逮捕の翌日(建長三年十二月二十七日)の条で、『被誅逆叛之衆。又有配流之者』(逆叛の衆を誅さる。又、配流の者有り)とあるのが、かなり気になっている。これを見る限りでは、謀反人の死刑は、確かに行われているからである(但し、この三名に執行されたかどうかは分からない。私は「鎌倉年代記」を所持しないので、そこの記載確認は出来ない)。なお、私の所持する平成二二(一九九〇)年かまくら春秋社刊「読んで分かる中世鎌倉年表」にこの一件が載り、『了行・矢作常氏(やはぎつねうじ)・長久連(ちょうひさつら)らが謀反を計画したとして捕えられる。了行らは、宝治合戦で没落した三浦氏や千葉氏の残党であり、京都の藤原(九条)道家・頼経父子が計画に関与していたとされる』とあって、彼が道家の強いバックを持っていたとしたら、死罪は免れたと読めないことはない。しかし寧ろ、彼の捕縛後の道家の死はやはり不審(次章で筆者も述べている。寧ろ、大きな道家の謀略の背景を知っているという点(更にはそれに先手を打つことを考えていた幕府側の機略の塩梅からも)に於いても、彼は自白後に処刑された可能性の方が私は遙かに大きいと思う。さらに同記載には「了行」の脚注があって、それによれば、『(生没年未詳)下総國の千葉氏の庶流出身の僧。京都の九条大御堂を拠点に活動し、藤原(九条)道家と関係があったとされる』とある。またウィキの「九条道家の死の直前の項には、この建長三年末の事件を指して、孫である第五代将軍頼嗣『と足利氏を中心とした幕府転覆計画が発覚し、それに道家が関係しているという嫌疑がかかる。道家はその中で』翌年の二月二十一日に死去してしまう(次章参照)。『策謀が頓挫したばかりか鎌倉幕府側に謀議が露見し、時頼からの追及を受けて晩年は憔悴しきっていた』とある。

「矢作左衞門尉」「吾妻鏡」には『千葉介が近親』の割注がある。矢作六郎左衛門尉常氏か矢作左衛門尉胤氏が考えられ(二人とも先に滅ぼされた千葉秀胤の縁者であるが、秀胤の祖父の弟の子である常氏の方がより近親である)、前の引用から常氏で採る。

「長次郎左衞門尉久連」不詳。私は足利家絡み(後の南北朝時代の足利尊氏・直義兄弟の分裂では長氏の一部が内部対立しており、この時の長氏の連中の名は悉く「連」を最後に持つからである)ではないかと推理している。

「事、更に合期(がふご)し難く、世の變(へん)を相待つ所に」「合期」は物事が思った通りに上手く行くことの意で、「前の将軍頼経公再擁立(は同時に少なくとも北条得宗家の殲滅を意味すると考えてよい)の企て、これ一向に上手く行かず、(頼みの綱、謀議の主たる三浦一族も滅ぼされてしまい)、それでも世の形勢に大きな変化の起こるのを、ひたすら待っていたけれども」という謂いであろう。しかし、最大の対得宗抵抗勢力であった三浦一族滅亡から、既に四年経っている。こいつら(幾ら調べても、相応な武力勢力とも思われない)の謂いは何だか私は間抜けているとしか思われない。四郎左衞門尉行忠」二階堂行忠。「吾妻鏡」には彼の名もこの預かり記載もない。]

2016/03/25

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郞考(4) 神片目

 

       神片目 

 

 眼の左右に大小ある人は固より多いが、それの特に顯著であり又一般的である場合には所謂アヤカリを以て說明せられる。例へば福島縣石城郡大森の庭渡(にはたり)神社などは、以前の本地佛庭渡地藏尊の像、美容にして片目を小さく造つてあつた。それ故に大森の人は皆片目が小さいと謂ひ、しかも美人の生れぬのも鎭守樣が器量よしだからと謂つて居た(一) 自分の生れ在所では村の氏神と隣村の氏神と、谷川を隔てゝ石合戰をなされ、彼方は眼に當つて傷つかれた故に、今でも隣村の人は片目が小さいと謂つたが、しかも此方の社の門客神、所謂矢大臣が亦片目を閉ぢた木像である。幼少の頃から之を不思議に思つて、今も引續いて理由を知りたいと願つて居る。片方の目は一文字に塞いで、他の一方は尋常に見開いて居るのが、二體ある像の向つて右手の年とつた方だけであつたやうに記憶する。今でもまだあらうから確めることは出來る(二) 勿論此彫刻は定まつた樣式に從つた迄で、特に此社のみに限られたことでは無からうが、他の實例はあの地方ではまだ心付かぬ。

[やぶちゃん注:「アヤカリ」平面的には「不思議で怪しいこと」の謂いであろうが、元は動詞の「あやかる」、何らかの(特にこの場合は超自然的霊的ものに)感化されて同様な状態になる、似たような外見になる、という現象を民俗学的に述べている術語であろう。因みに私は、個人的には、柳田や折口が始めた、生物和名みたような民俗学用語のカタカナ表記に対しては、極めて激しい生理的不快感を持っている人間である。

「福島縣石城郡大森の庭渡(にはたり)神社」現在の福島県いわき市四倉町(よつくらまち)大森舘に現存する。

「以前の本地佛庭渡地藏尊」神仏分離によって、現在のいわき市四倉町大森女房作にある浄土宗月田寺に移っている。但し、片目の有意に小さな地蔵尊像が現在もそこに現存するかどうかはネット上では確認出来ない。

「自分の生れ在所」柳田國男の生地は飾磨県(現在の兵庫県)神東(じんとう)郡田原(たわら)村辻川(現在の兵庫県神崎(かんざき)郡福崎町(ふくさきちょう)辻川)である。後の柳田の注によって柳田の村の方は現在の「鈴の森神社」であることが判る。しかし、その神像の記載はない。そればかりか、もう一つの片目の神像が川を隔てて存在し、しかも柳田がかくも特に書いているにも拘わらず、ネット上にはそちらも現存するような記載が、これ、見当たらない。これは私には頗る不審と言わざるを得ない。識者の御教授を乞うものではあるが、地域社会は柳田國男で町興しをするのもいいが、それよりもまずは柳田が研究しようとした伝承や文化財をこそ、まずその地域集団が守らねば全く意味がない、と私は強く思うものである。]

 

 ところが數百里を隔てた東部日本の田舍に、却つて夙く知られて居た片目の木像がある。例へば福島の市から西の山、信夫の土湯村の太子堂には、太子御自作と稱する本尊がそれであつた。此像もと鳥渡(とりわた)村の松塚といふ地に安置せられたのが、後に自ら飛行して土湯村の澤の間に隱れて居た。一人の獵夫曾て此地を過ぐるとき、我を山上に負ひ行き守護し奉れといふ聲が草の中から聞えたので、驚き覓めて此像を發見した。乃ち恐懼して之を負ひ高原の平地に移したといふのである。それに附け加へた大不可思議は、此際獵人が小角豆(さゝげ)の蔓に蹴躓づき倒れ、胡麻の桿で尊像の眼を突き傷けたといふ古傳であつて、現に近世までも御目から血の流れた痕があり、又當村の人は何れも片目が細かつた。其上に太子の御印判と名けて、村民悉く身體に痣があるとさへ言つたのである(三)是は太子が自ら不具の像を作りたまふといふことが言へない爲に、斯ういふ風に語り傳へることになつたのであらうが、像が傷ついたかはた傷ついた像であつたかは、一見して區別し得た筈である。御目より血流るといヘば、恐らくは眼の部分が破損して居たのでは無く、最初から片目を閉ぢて作られてあつたのを、生人と同じく後に相貌を變じたものゝ如く信じて居たらしいのである。

[やぶちゃん注:「信夫の土湯村」旧福島県信夫(しのぶ)郡土湯(つちゆ)村は、現在は福島市土湯温泉町。

「太子堂」同町内に現存する。現在の堂は享保一一(一七二六)年に再建されたもの。但し、幾つかのネット記載を確認したが、この本尊である聖徳太子自刻像が現在のそれも片目であるという記載は、これまた不思議なことに、ない。

「覓めて」「もとめて」(求めて)。底本では「見」の上は「不」の字体である。

「小角豆」マメ目マメ科ササゲ属ササゲ亜属ササゲ Vigna unguiculata

「桿」「から」と訓じておく。尖った殻(から)。]

 

 卽ち片目の神像は、別に何か其樣に彫刻せらるべき理由があつたのである。上州伊勢崎に近い宮下の五郞宮、一名御靈宮又五料宮とも稱する社の神體は、狩衣風折烏帽子の壯士の像であつて、亦左の一眼を閉ぢて作られてあつた。其理由は甚だ不明で、氏子たちはさう古くからのものとも考へて居なかつたらしいが、一方に賀茂の丹塗矢(にぬりのや)と少し似通うた社傳がある爲に、私に取つて相應に重要な資料である。昔利根川がこの近くを流れて居た頃一木の箭が流れて來て村の人が之を拾ひ上げた。後に屢々靈異を現じたので、それを祭つて鎭守の神とした。其箭に盜まれて今の木像を安置することになつたといふのだが(四) 二つの出來事の間には今少し深い關係があつたかと思はれる。若しこの御姿が古傳に據つて作られたものならぱ、此箭は亦恐らくは多度の一目龍の熊手に當るものである。

[やぶちゃん注:「上州伊勢崎に近い宮下の五郞宮、一名御靈宮又五料宮とも稱する社」これは現在の群馬県伊勢崎市太田町にある五郎神社であろう。梁瀬氏のブログ「神社ぐだぐだ参拝録」の「五郎神社(太田町)」に、解説版を起こした説明があり、そこに『広瀬川が昔利根川の本流だった頃、上流から一本の朱塗りの矢が流れてきた。村人が拾って家に持ち帰ったところ、その夜夢枕に、風おれ烏帽子に狩衣の、片目の武士が立って、自分は鎌倉権五郎である。お前の拾った矢は自分の仮の姿である。その矢を大切に祭るようにと言うと片目の武士は姿を消した』とある。]

 

 けだし偶像を以て神體とする慣行が、單なる佛法の模倣とも言はれないのは、それが數多く舊社に保存せられて、何か別途の目的に利用せられて居たのでは無いかと、思ふやうな形狀を具へて居るからである。さうして社殿に人形を置くべき必要は色々あり、其人形は同時に靈物であつたから、之を別の處に安置すれば、優に一座の小神として、拜祀するに足りたわけである。御靈が古今を通じて一方には獨立して崇める神、他の一方には大社の主神に臣屬して、統制を受ける神であつたことを考へると、特に木像神體の習はしが、此方面に始まつたことは想像してもよい。單に想像に止まらず、其例證も少しばかりは有るのである。

 諸國に分布する所の澤山の御靈神社が、鎌倉權五郞景政を祀るといふ說は、もと片目の木像の存在によつて其信用を强めたのであるが、既に上州伊勢崎のやうな五郞宮もある以上は、今一度其像の果して彼が傳記に基づいたものか否かを、突止めて置く必要がある。景政年僅かに十六歲にして出陣し、片方の眼を冑の鉢附の板まで射貫かれて、其まゝで答(たふ)の箭に敵を射殺したといふ怖ろしい話を、最初に述べ立てたのは保元物語の大庭兄弟であるが、實際かの兄弟が我先祖の事蹟として、さう信じて居たかどうか。此物語の成立が古くでも鎌倉時代を上らず、今ある各異本の親本が、どれだけの口承變化を經て文字に寫し取られたかも確かで無い以上は、疑ふ餘地は十分にある(五) しかも一方には南北朝期に出來たといふ後三年合戰記が、大よそ同じ形を以て同じ事を書き記しながら、をかしいことは彼には左の眼、是には右の眼を射られたことになつて居るのである(六)

[やぶちゃん注:「冑の鉢附の板」「かぶとのはちつけのいた」で、兜(かぶと)の鉢に取り付ける錏(しころ)の一枚目の板。頸部の後ろをカバーする部分まで射抜かれたということになろうか。とすれば、物理的には眼窩は勿論のこと、頭蓋骨も貫通したということになろう。]

 

 京では上下の八所御靈が、主として冤厲祟(たゝり)ど爲す人々を祭つたと認められたに拘らず、鎌倉の御靈だけは別に目出たく長命した勇士を祭ると言つたのも隨分古くからの事であるらしい。尊卑分脈に鎌倉權守景成の子同じく權五郞景正、御靈大明神是也とあるのは(七) 事によると後の插入と見た方がよいかも知れぬが、既に鎌倉幕府の初期に於て、景政といふ名前が御靈の社と關聯して、世に知られて居たことは注意に値する。吾妻鏡を見ると、文治二年の夏秋にかけて、頻りに此社の怪異が申告せられ、人心は頗る動搖して居つた。ところが其年も暮に近くなつて、下野の局といふ女房が夢の中に景政と號する老翁來つて將軍に申す。讚岐院天下に祟を成さしめたまふを、我制止し申すと雖も叶はず、若宮の別當に申さるべしと言つた。夢覺めて之を言上するや、武家は若宮別當法眼房に命を下して、國土無爲の祈を行はしめたとあるのである。鎌倉の若宮も諸國の同名の社と同じく、御靈の祟を鎭める爲に、本宮に先だつて鶴ケ岡に祭られた神であつた。さうしてこの老翁の景政は自ら其助手の如き地位に居らうとして居る。それが果して大庭梶原等の先祖であり、又後三年役の武勳者のことであつたか否かは、夢の記事だけに確めやうも無いが、兎に角に其後鎌倉の御靈社を目して、鎌倉權五郞を祀るとした說の、基づく所は久しいのであつた。爰で問題となるは其神の片目は、其傳說の原因であるかはた又結果であるかである。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡を見ると、文治二年の夏秋にかけて、頻りに此社の怪異が申告せられ、人心は頗る動搖して居つた。ところが其年も暮に近くなつて、下野の局といふ女房が夢の中に景政と號する老翁來つて將軍に申す。讚岐院天下に祟を成さしめたまふを、我制止し申すと雖も叶はず、若宮の別當に申さるべしと言つた。夢覺めて之を言上するや、武家は若宮別當法眼房に命を下して、國土無爲の祈を行はしめたとあるのである」柳田國男の誤りで「文治元年」である。これは現行のちくま文庫版でも訂されていない(この誤りが今も続いているのはかなりイタいことである)。前に引いた通り、まずは「吾妻鏡」の文治元年八月二十七日の条に、

   *

○原文

廿七日丁丑。午剋。御靈社鳴動。頗如地震。此事先々爲怪之由。景能驚申之。仍二品參給之處。寳殿左右扉破訖。爲解謝之。被奉納御願書一通之上。巫女等面々有賜物〔各藍摺二段歟〕。被行御神樂之後還御云々。

○やぶちゃんの書き下し文

午の剋、御靈社(ごりやうしや)鳴動す。頗る地震のごとし。此の事、先々怪たるの由、景能之れを申す。仍つて二品(にほん)、參り給ふ所、寶殿の左右の扉、破れたり。是を解謝(げしや)せんが爲め、御願書壹通を奉納せらるるの上、巫女(みこ)等面々に賜物〔各々藍摺(あゐずり)二段(にたん)か。〕有り。神樂(みかぐら)を行はるるの後。還御すと云々。

   *

のを指し、「其年も暮に近くなつて、下野の局といふ女房が……」の箇所も文治元年十二月二十八日の一部で、

   *

○原文

又御臺所御方祗候女房下野局夢。號景政之老翁來申二品云。讚岐院於天下令成祟給。吾雖制止申不叶。可被申若宮別當者。夢覺畢。翌朝申事由。于時雖無被仰之旨。彼是誠可謂天魔之所變。仍專可被致國土無爲御祈之由。被申若宮別當法眼坊。加之以小袖長絹等。給供僧職掌。邦通奉行之。

○やぶちゃんの書き下し文

又、御臺所の御方に祗候(しこう)の女房、下野(しもつけ)の局(つぼね)が夢に、景政と號するの老翁、來たりて、二品に申して云はく、

「讚岐院、天下に於いて祟(たたり)を成さしめ給ふ。吾れ、制止申すと雖も叶はず。若宮別當に申さるるべし。」

てへれば、夢から覺め畢んぬ。翌朝、事の由を申す。時に仰せらるるの旨無しと雖も、彼れ是れ、誠に天魔の所變(しよぺん)を謂ひつべし。仍つて專ら、國土無爲の御祈を致さるるべきの由、若宮別當法眼坊に申さる。加之(しかのみならず)、小袖・長絹等を以つて、供僧・職掌に給ふ。邦通、之れを奉行す。

   *

を指す。「若宮」とあるのは現在の鶴岡八幡宮をこの新造当時は(海岸近くの由比の若宮から遷座)「鶴岡八幡新宮若宮」と呼称していたことに由る。] 

 

(一) 高木誠一君報。「民族」二卷二號、又「土の鈴」一〇號。

(二) 土地を精確に記せば、兵庫驅神崎郡田原村大宇西田原字辻川の鈴の森神社である。

(三) 信達一統誌に信達古語といふ書を引用して、尙此外に鹿落澤・尋澤・鹽野川・荒井川等の地名傅說を記述して居る。太子信仰の聖德太子以前からのものらしいことは、他日片足神の研究の序に之を細說する必要がある。

[やぶちゃん注:「信達一統誌」農民であった志田正徳著になる地誌。福島県立図書館の書誌データによれば、農作業に従事するかたわら、村々を調査、信夫郡のパートを天保一二(一八四一)年に、伊達郡を嘉永六(一八五三)年に纏めている。信夫郡は全村が記述されているが、伊達郡は暮子坊荘と小手荘のみが残されている、とある。

「信達古語」「信達古語名所記」のことか。著者不詳で成立は文化一五(一八一八)年とする。]

(四) 上野誌料集成第一編に載錄した伊勢崎風土記下卷。寬政十年の自序はあるが、其以後の追記も多い。神の箭を盜まれたのは六十餘年前とあるのみで、確かな時は知れない。

[やぶちゃん注:「寛政十年」一七九八年。]

(五) 前太平記の類の演義文學が、保元物語の文辭を踏襲しつゝ、末に「今は神と斎はれたる鎌倉權五郞」の一句を附加して居るのは、物語成長の一實例であらう。保元物語は二條院の御時、多武峯の公喩僧正、因緣舞の兒の爲に作るといふ一說は、固より現存の詞草に筆を下したことを意味しなかつたと思ふ。

[やぶちゃん注:「斎はれたる」「いわはれたる」(祝はれたる)。

「因緣舞」不詳。識者の御教授を乞う。]

(六) 康富記文安元年閏六月二十三日の條を見ると、少なくともあの時の奧州後三年記は内容が現行の後三年記と同一である。池田家には貞和三年の玄慧法師端書ある異本を藏するといふ。それも右の眼を射貫かれたとあるか否かを尋ねて見たい。それより以前にも後三年合戰繪のあつたことは、台記承安四年の條にある。いつ頃から景政眼を射らるゝ話が入つたかが、興味ある將來の問題である。尙源平盛衰記石橋山の條にも此話があつて、是は右の眼の方に屬して居る。國々の景政木像の片目が右か左か、之を統計して見るのも面白からう。

[やぶちゃん注:「康富記」「やすとみき」と読む。ウィキの「康富記より引く。『室町時代の外記局官人を務めた中原康富の日記』で、記述は応永一五(一四〇八)年(年)から康正元(一四五五)年に『及ぶが、散逸が顕著であり、特に永享年間の記述はほぼ全てが欠落している』。また応永八(一四〇一)年の『日記は康富の経歴、年齢に鑑みると、父・中原英隆が書いたものと考えられる。幕府を始め、武家の動向や、隼人司、主水司、大炊寮の各々の所領の経営について細かく記述され、和歌、連歌、猿楽など文化、芸能に関する記述も豊富』。十五世紀前半の『社会、有職故実を研究する上で有益な情報を提供する貴重な史料である。朝議、除目、叙位については関係文書を貼り継いで補填した箇所も多い』とする。因みに、文安六(一四四九)年五月条には、世間を騒がせた「白比丘尼」という二百余歳の白髪の比丘尼(十三世紀生まれという)が『若狭から上洛した記事があり、この「白比丘尼」は『臥雲日件録』では八百老尼と同じと解されている。この白比丘尼自体は見世物として料金がとられており、八百比丘尼伝説を利用した芸能者であったと考えられている(当時、比丘尼伝説は尼の布教活動に利用されていた)』とある。

「文安元年」一四四四年。

「奧州後三年記」底本は「奧州後三年繪」であるが、おかしい。ちくま文庫版全集によって「記」と訂した。

「台記」「たいき」と読む。保元の乱の首謀者であった宇治左大臣藤原頼長の日記。保延二(一一三六)年から久寿二(一一五五年)までの十九年間に亙る。

「承安四年」一一七四年。]

(七) 績群書類從の系圖部などを見ても、景政の父親の名は家每に區々である。それから大抵は其子孫の名が見えて居らぬ。注意すべきことである。

北條九代記 卷之八 筑後左衞門次郎知定勸賞に漏るゝ訴

      ○筑後左衞門次郎知定勸賞に漏るゝ訴

今度謀叛の與黨等(ら)、落失せたる輩、所々に隱(かくれ)ゐたるを、皆、生捕りて參(まゐら)せ、各首をぞ切られける。宗徒(むねと)の人々の妻子共、殘りなく探出(さがしいだ)し、子供は刺殺し、後家は尼にぞなされたる。御味方の軍士は、程に隨ひて勸賞あり。中にも筑後左衞門次郎知定(ともさだ)は、去りぬる五日、筋替橋にして、前司泰村が郎從岩崎兵衞尉友宗とて、大力の剛者(がうのもの)を打取りて、その賞を望む所に、何者か云ひ出しけん、「知定は、泰村が家人ながら緣者なり。五日の未明(びめい)には、館(たち)の囘(めぐり)を經(へ)て、合戰敗北の期(ご)に及びて、自害したる岩崎が首を拾うて、御味方に參りし者なり。却つて罪科に處せらるべし。何ぞ勸賞あるべき」とぞ沙汰しける。平左衞門尉入道盛阿、奉行として、知定を決せらる。知定、申すやう、「岩崎と戰ふ時、大曾禰(おほそね)左衞門尉長泰、武藤左衞門尉景賴等、能く見たる事にて候、彼兩人に尋ねらるべし」とは申しけれども、御疑(うたがひ)、決せられず。知定一人、勸賞に漏れて、讒者(ざんしや)を憤り、運命を恨みて月日を送り、同九月十一日、一紙(し)の狀を整へて、時賴に奉る。先考累家勲功(せんかうるいけくんこう)のこと、知定自身忠勤の旨、細細(こまごま)と書きて、讒(さかしら)する人を恨みたる詞の奧に、「昔、朱雀〔の〕院の御宇、承平二年に、平將軍將門、東國に叛逆す、同三年正月十八日、參議右衞門〔の〕督藤原忠文(ふじはらのたゞぶん)は、征夷大將軍の宣(せん)を蒙(かうぶ)り、關東に下向せしが、未だ下著(げちやく)せざる以前に、二月二十四日、藤原秀郷(ひでさと)、已に將門を討ちしかば、忠文は路次より歸浴す。三月九日、秀卿(ひでさと)、貞盛等に賞を行はるゝ所に、小野(おのゝ)宮殿、仰に、賞の疑(うたがは)しきは行ふべからずとあり。九條殿は忠文下著以前に、逆徒滅亡すと云ふとも、勅定の功に隨ひて、何ぞ棄置(すてお)かれん。罪の疑しきは刑せず、功の疑しきは賞せよと候とあり。然れども、小野宮殿の御義に依て、忠文が賞の沙汰なし。忠文は九條殿の恩言を深く感じて、富家(ふけ)の願契狀(けいじやう)を九條殿に進じ、小野宮殿を怨み奉りて卒去せしかば、其靈の致す所、九條殿は家榮え、小野宮殿は跡絶え給ひき」とこの趣(おもむき)を書進(かきしん)じけるを、時賴、御覽じて、勳功の奉行に子細を聞召(きこしめ)し、同十一月十一日に、筑後〔の〕左衞門〔の〕次郎知定を召出し、武藤左衞門尉景賴、證人として、恩賞行はれ、一處懸命の地を賜り、喜悦の眉(まゆ)をぞ開きける。

[やぶちゃん注:「三月九日、秀卿(ひでさと)」はママ。原典を見てもママ。「郷」の原作者の誤字である。「吾妻鏡」巻三十八の宝治元(一二四七)年六月十二日・十四日・十七日、九月十一日、十一月十一日の条に拠る。個人的には何だか、あんまり好きでない場面である。

「筑後左衞門次郎知定」八田(茂木)知定。かの幕府創成期の有力御家人八田知家の三男知基に始まる茂木氏で、その知基の子が知定。彼は妻が三浦泰村の娘であった。

「知定は、泰村が家人ながら緣者なり」これはおかしい。「家人」とは家臣としか読めず、「ながら」は接続助詞で同時併存の方の、「~であると同時に」の意である。前注した通り、彼は泰村の娘を妻としているから「緣者」ではあるが、茂木家は家臣ではない。実際、「吾妻鏡」でも緣者としか言っていない。筆者、筆が滑ったか。

「一紙(し)の狀」「吾妻鏡」には「和字」(総て平仮名書き)であるとする。

「先考累家勲功」八田知定に始まる幕府創成まで遡る先祖累代の手柄。

「承平二年」九三二年。この年号はどこから出たものか、よく判らない。「吾妻鏡」もこの年としているから、筆者はそのまま無批判にかくしたものらしいが、これはどうかんがえてもおかしい(この年では将門の平氏内部での私闘さえ未だ始まっていないからである)。これは恐らく、将門が新皇を名乗る、天慶二(九三九)年(年末十二月のこと)の「吾妻鏡」の誤りである。

「藤原忠文」(貞観一五(八七三)年~天暦元(九四七)年)。「ただぶみ」とも読む。ウィキの「藤原忠文」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『延喜四年(九〇四年)従五位下に叙せられる。のち、左馬頭・左衛門権佐・右少将等武官を務める一方で、紀伊権介・播磨介・讃岐介と地方官を兼ねた。延長四年(九二六年)従四位下・摂津守に叙任されて以降、丹波守・大和守と畿内の国司及び修理大夫を経て、天慶二年(九三九年)に参議として公卿に列』した。『天慶三年(九四〇年)関東で反乱を起した平将門を追討するため、右衛門督・征東大将軍に任じられ、六十八歳の高齢ながら将門追討の責任者となる。しかし、忠文が関東に到着する前に将門は平貞盛・藤原秀郷らに討たれていた。翌天慶四年(九四一年)今度は瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友を追討するため征西大将軍に任ぜられている『忠文は老齢を押して平将門の乱鎮圧のために東国へ向かったものの、東国到着の前に将門が討伐されてしまったために、大納言・藤原実頼』(昌泰三(九〇〇)年~天禄元(九七〇)年)本文に出る「小野宮殿」。後に関白、藤原長者ともなった)が嘉賞(かしょう:よしとして褒め讃えること)に『反対し、忠文は恩賞を得られなかった。忠文はこれに不満を持ち、辞任を申し出るが許されなかった。その後、天暦元年(九四七年)六月に忠文が没すると、同年十月に実頼の娘・述子(村上天皇の女御)が、十一月には実頼の長男・敦敏が相次いで死去したために、忠文の怨霊が実頼の子孫に祟ったと噂されたという。このことから忠文は悪霊民部卿とも呼ばれ、その霊を慰めるため宇治に末多武利』(またふり)『神社が創建された』とある。

「九條殿」藤原師輔(延喜八(九〇九)年~天徳四(九六〇)年)ウィキの「藤原師輔によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『摂政・関白・太政大臣として長く朝政を執った藤原忠平の次男として生まれる。延長八年(九三〇年)頃醍醐天皇の第四皇女で四歳年上の勤子内親王に密通、のち正式に婚姻が勅許され、臣下として史上初めて内親王を降嫁された。承平・天慶年間(九三一年~九四七年)に累進して参議を経て、権中納言となる』。『平将門が乱を起こした時、藤原忠文が征東大将軍に任じられたが、交戦する前に乱は平定されてしまった。朝廷では功が論じられ、兄の実頼は忠文には功がないのだから賞すべきではないと主張した。これに対して、師輔は「罪の疑わしきは軽きに従い、賞の疑わしさは重きをみるべきだ。忠文は命を受けて京を出立したのだから、賞すべきである」と論じた。実頼は持説に固執した。世論は師輔こそが長者の発言であるとした』。『その後、大納言に転じ、右近衛大将を兼ね、従二位に進んだ』。『天暦元年(九四七年)朱雀天皇が譲位し村上天皇が即位する。兄の実頼が左大臣となるに従い右大臣に任じられ、正二位に叙された。出世のほうは嫡男である実頼が常に先を行くが、「一苦しき二」(上席である兄実頼が心苦しくなるほど優れた次席の者)とまで言われ、朝廷の実権は実頼よりも師輔にあった。師輔は村上天皇が東宮の時代から長女の安子を妃に入れており、その即位とともに女御に立てられ、よく天皇を助けた。安子は東宮の憲平親王を生んで中宮となり、他に為平親王・守平親王を生んでいる。皇太子の外戚となった師輔は朝政を指導し、村上天皇の元で師輔らが行った政治を天暦の治という』とある。

「勅定の功」征夷大将軍に任ぜられた誉れ。

「罪の疑しきは刑せず、功の疑しきは賞せよ」「書経」の「大禹謨(だいうぼ)」に出る文句。「罪疑惟輕、功疑惟重。與其殺不辜、寧失不經。」(罪の疑はしきは惟(こ)れ、輕くし、功の疑はしきは惟れ、重くす。其の不辜(ふこ)を殺さんよりは、寧ろ、不經(ふきやう)を失はんとす)に基づく。「不辜」は「無辜」で罪のない人、「不經」はそれだけなら、「法律に適合しないこと」であるが、ここは「不經を失はんとす」で法律を曲げた方がよい、の謂い。犯した罪のはっきりしない場合は軽い刑にする方がよく、功績が疑わしい場合にはまず重く賞した方がよい、の意。

「富家(ふけ)の願契狀」「ぐわんけいじやう(がんけいじょう)」で、九条家が富み栄えることを言祝ぎ、それを神に誓約した御札。]

北條九代記 卷之八 上總權介秀胤自害

      ○上總權介秀胤自害

上総〔の〕權〔の〕介秀胤(ひでたね)は、泰村が妹婿(いもとむこ)にて、總州一の宮大柳の館(たち)にあり。三浦に同意して家人郎從二百韓騎を率して、鎌倉に向ひける所に、三浦は早没落したりと聞えしかば、道より取て返し、我が館に要害を構へ、在々(ざいざい)を掠(かす)め、兵粮を奪ひ、合戰の用意して、向ふ敵を待ち居たり。時賴、聞き給ひ、大須賀(おほすかの)左衞門尉胤氏(たねうぢ)、東(とうの)中務入道素暹(そせん)を兩大將として、二千餘騎を相副へて遣さる。秀胤は豫て期(ご)したることなれば、館の四面に炭(すみ)、薪(たきぎ)を積渡(つみわた)して火を懸けしに、焰(ほのほ)、熾(さかり)に炎々(えんえん)として、人馬を寄すべき路もなし。寄手の軍兵等、轡(くつばみ)を並べ、鬨の聲を作りて、矢を射るより外の事はなし。館の内より郎等三十餘人、馬場の邊より木戸を開きて打て出る。寄手の先陣築木(つゞき)兵庫が郎從五十餘人馳向ひ、火を散して戰ひしが、十七人は討たれて、二十三人、手を負ひければ、捲立(まくりた)てられて、本陣に傾掛(なだれかゝ)る。寄手の軍兵、是を見て、二百餘騎どつと驅寄(かけよ)せ、秀胤が郎從を中に押包(おしつゝ)み、一人も餘さず討取らんとする所に、東小才次(とうのこさいじ)、御厨(みくりの)五郎、葛西(かさいの)中次以下、究竟(くつきやう)の剛者(がうのもの)、四角に割付(わりつ)け、八面に蒐通(かけとほ)り、或は馬の諸膝(もろひざ)薙(な)いで刎落(はねおと)させ、落(おち)るを押へて首を取る。或は引組(ひつくん)で勝負を遂げ、力を限(かぎり)に切立(きりた)てしかば、二百餘人の寄手、立(たつ)足もなくうち立てられ、手負死人を引除(ひきの)くる隙(ひま)もなく、はらはらと引退きたり。城兵も流石に力疲れ、薄手痛手負ひければ、木戸を指して引入たり。小野寺小次郎左衞門尉通業(みちなり)が家子(いへのこ)に、金鞠(かなまりの)藤次行景とて、大力の剛者(がうのもの)、黑革威(くろかはおどし)の鎧に、同じ毛(け)の甲(かぶと)の緒(を)をしめ、八尺計(ばかり)の樫(かし)の棒に、筋鐵(すじかね)入れて、只一騎引入る者共に追縋(おひすが)うて、木戸の内に刎入(はねい)らんとす。胤秀が郎等臼井(うすゐの)平六義成(よしなり)と云ふ者、大長刀を水車に廻して走來(はしりきた)り、行景が木戸を越えんとする所を、石突(いしづき)にて丁(ちやう)と衝(つき)ければ、行員、仰樣(のけざま)に倒れたり。平六、木戸を越えて長刀の鋭(きつさき)を内甲に入れて乘掛る。行景、倒れながら、樫の棒にて打拂ふに、平六、中天に打上られ、岩角に落掛て首を突いて死ににけり。行景も痛手負うて立も上(あが)らず。兩人ながら死にければ、敵も味方も力を落して、惜まぬ者はなかりけり。權〔の〕介秀胤は、「賴み切つたる郎等を討(うた)せて、何時(いつ)迄か此館(たち)にながらへん。四方の火は消方(きえがた)になり、寄手は鬨を作りて押入りたり。郎從家子、或は討たれ或は落殘る者共、痛手薄手負はぬはなし。敵の手に掛り、生捕(いけどり)にせられて恥見るな」とて、嫡子式部大夫時秀、次男修理亮政秀、三男左衞門尉泰秀、四男六郎景秀、心靜に念佛し、數十ヶ所作竝(つくりなら)べし館に火を懸け、烟(けぶり)の中に自害して臥しければ、内外(うちと)の猛火、同時に燃えて、半天に立昇る。寄手も近付得ざりければ、皆悉く焼失せて、一人も首は殘らざりし、志こそ猛(たけ)かりけれ。寄手、勝時、取行ひ、鎌倉にぞ返りける。

[やぶちゃん注「吾妻鏡」巻三十八の宝治元(一二四七)年六月七日の条の他、〉湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、寛永頃(一六二四年~一六四五年)に刊行された「見聞軍抄」(八巻八冊)の巻七「三浦泰村、合戦の事」『には、大須賀左衛門尉胤氏と東の中務入道素暹らが秀胤の館を襲撃する話がある』とあり、それも参照されているとのことである。

「上總權介秀胤」上総千葉氏第二代当主千葉秀胤(?~宝治元年六月七日(一二四七年七月十日))は、本文にある通り、三浦義村の娘を正室としていた。ウィキの「千葉秀胤によれば、仁治元(一二四〇)年に『従五位下上総権介に任ぜられ、将軍・九条頼経の二所参詣に供奉している』。この四年前の寛元元(一二四三)年には『従五位上に叙せられ、翌年には評定衆に加えられるが、千葉氏では唯一の例である』。『幼少の千葉氏宗家当主・千葉亀若丸』(後の千葉氏第八代当主千葉頼胤。時宗の代まで生存し、元軍と戦ったが、そこで手負いを受けて三十七歳で亡くなっている)『を補佐する一方で、対外的には一族の代表者として行動し、北条光時・藤原定員・後藤基綱・三浦光村・藤原為佐・三善康持らとともに九条頼経を押し立てて執権北条経時と対抗した』。寛元四(一二四六)年に『執権経時が死去し、弟の時頼が執権を継承したのを機に勃発した政変(宮騒動)によって名越光時・藤原定員が失脚すると』、六月七日には『千葉秀胤・後藤基綱・藤原為佐・三善康持の』四名の『評定衆が更迭、更に』六日後の十三日には『秀胤は下総埴生西・印西・平塚の所領を奪われ(金沢実時所領となる)、上総国に放逐された(『吾妻鏡』)。ただし上総は秀胤の本国であり、寛大な処分とも言える』。『これは執権になったばかりの時頼が決定的な対立を避けて事態を早く収束させようとしたと見られている』。しかし、この『宝治合戦によって、三浦泰村・光村兄弟が攻め滅ぼされると』、早くも翌日六月六日に『三浦氏の娘婿である秀胤に対しても追討命令が発せられ』、翌七日には『千葉氏一族の大須賀胤氏・東胤行』(本文に出る「素暹」。彼は実は秀胤の三男泰秀の義父でもあった)『らが秀胤の本拠である上総国玉崎荘大柳館(現在の千葉県睦沢町)を攻撃した。追い詰められた秀胤は屋敷の四方に薪炭を積み上げて火を放ち』、四人の『息子をはじめとする一族郎党』百六十三名『とともに自害した。また、秀胤一族以外にも討死したり、所領を失った千葉氏一族が多数いたと言われている』。なお、「吾妻鏡」の同日の条によれば、『その際に以前に兄である秀胤によって不当に所領を奪われて不仲であった弟の』下総次郎時常も『駆けつけて自害しており、「勇士の美談」と称されたという。東胤行が戦功と引き換えに自分の外孫(泰秀の息子)の助命を求めたために、その子を含めた秀胤の子孫の幼児は助命された』『が、これによって上総千葉氏は滅亡した』とある。

「總州一の宮大柳」現在の千葉県長生(ようせい)郡睦沢町(むつみざわまち)北山田字富喜来台(ふきらだい)。余湖氏の城郭サイト内の「千葉県睦沢町」のページにある「富喜楽(ふきら)城・大柳館(睦沢町北山田字富喜来台)」がよい。鳥瞰図や写真で往時の山砦風の館での戦闘の雰囲気を偲ぶことが出来る(但し、注意書きがあって、『実際の所、ここが大柳館の跡であるということが確実に証明されているわけではない。なにしろ鎌倉時代の館の跡なので、遺構の痕跡すら残っていない可能性もあるのである。ここはあくまでも、大柳館跡の候補地の』一つと捉えた方がよい、ともある)。

「四角に割付(わりつ)け、八面に蒐通(かけとほ)り」教育社の増淵勝一氏の訳では、『あちらに突き込み、こちらに駆け通っては』となっている。

「小野寺小次郎左衞門尉通業(みちなり)が家子(いへのこ)に、金鞠(かなまりの)藤次行景」彼らは幕府追討軍方である。

「同じ毛」同じ黒色の縅毛(おどしげ:「縅(おどし)」は、小札(こざね)式の甲冑製造様式の名称であって、小札板(さねいた)を革や糸などの「緒(お)」で上下に結び合わせる方式を指す。この「縅」に使う「緒」のことを「縅毛」と呼ぶ)。

「八尺」二メートル四十二センチ。

「胤秀が郎等」「胤秀」は原典の「秀胤」の錯字。

「石突」この場合は、薙刀の柄の手前(刃でな方)の、地面に突き立てる(接する)部分。一般には補強するために金属で覆ってあり、地面に突き刺さり易く、尖らしてあった。

「長刀の鋭(きつさき)を内甲に入れて乘掛る」平六は格闘するために邪魔になる、抜き身の薙刀の歯の尖端部分を甲の内側に入れたのであったが、それがあだとなり、直後に行景に樫の棒で強打されて、空中に打ち上げられて落下した際、その内甲の刃が禍いして、「首を突いて死」ぬこととなったと読むべきであろう。]

原民喜 俳句 五句

  近咏  杞憂亭 民喜

 

折々は人往き過ぎる芙蓉哉

 

川上の堤(どて)に澤山曼珠沙華

 

小春日やきりぎりす鳴く花畑

 

ありありと灯に見えてゆく狹霧哉

 

朝寒や時無草の日向など

 

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年十月発行の生原稿を綴った回覧雑誌『四五人会雑誌』一号(底本本文にはこの一号を別に『(萬歳号)』とも表記してある。用字は底本のママ)に掲載(この雑誌は昭和三(一九二八)年九月までに全十三冊を発行している。同人は熊平武二(以前に注した通り、民喜が俳句を始めたのは彼の影響)・長新太・山本健吉・銭村五郎(以下の底本の年譜による))。「杞憂亭」は民喜の俳号。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅱ」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した。

「時無草」「ときなしぐさ」と一応は訓じておく。「国立国会図書館レファレンス協同データベース」の埼玉県立久喜図書館管理番号埼久-2004-018事例室生犀星の詩「時無草」の〈時無草〉とは、どのような花か知りたいがあり、その『回答プロセス』には、

   《引用開始》

『室生犀星全集 1』で確認すると、「時無草」は『抒情小曲集 第2部』所収と判明するが、草の種類については言及なし。

このほか『抒情小曲集』が収録されている文学全集・作品集や、室生犀星の作家研究・作品研究等にあたるが判明せず。

また、植物関係の事辞典類等にあたると、〈時無菜〉(ふだんそう)はあるが、〈時無草〉なし。

『日本国語大辞典』〈時無〉の項に、「いつと定まった時がないこと」とあり、〈時無小蕪〉〈時無大根〉〈時無菜〉があげられている。

以上から、固有の植物名ではない可能性もあり、室生犀星記念館に問い合わせる。

   《引用終了》

とあり、その『回答』として(下線やぶちゃん)、

   《引用開始》

室生犀星記念館に問い合わせ、「植物の固有名ではなく犀星のイメージによるもの」との回答を得る。根拠は、『日本近代文学大系 39』「時無草」注の「『時無草』は時節はずれに芽吹いた草」との記述と、補注の「『詩集』(『抒情小曲集』)目次には『たとえば三寸ほどの緑なり』とある」との記述による。

   《引用終了》

 なお、これらの句は民喜杞憂句集」には載らない。]

殘雪 / 冬晴 /春の晝   原民喜

  殘雪   原 民喜

 

雪の光の見えるところ

あの遙かな山のいただき

靑空のつらなりわたる山のてつぺん

その光は廣々とした川原に

晴れ渡つた朝の空氣に

しみじみとただ迫つて來る

 

 

 

  冬晴

 

冬晴の晝の

靑空の大きさ

 

電車通を

疲れて歩く

 

 

 

  春の晝

 

日向ぼこにあきて

家に歸らうとすると

庭石の冷たさがほろりとふれた

ひつそりとして障子が見える

 

[やぶちゃん注:以上は、原民喜が大正一五(一九二六)年一月から五月まで発刊した詩の同人雑誌『春鶯囀』四号(事実上の終刊号)に載る(書誌に四号で廃刊とあるから、これは四号であるが、同年五月の刊行であるので注意されたい)。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅱ」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した(但し、「遙」は底本の用字)。これは前号までの詩篇構成とは異なり、三篇、一応、それぞれ独立した配置が成されているようである。]

偶作   原民喜

 偶 作   原 民喜

 

旅に來て

日輪の赤らむのを見た

朝は田家の霜に明けそめて

磯松原が澄んで居る

一色につづく海が寒さうだ

 

 冬 日

 

ここのこの橡(とち)の樹は

身の丈ほどの高さである

太い樹の机の

節々の圓い芽がついて居る

私のせには冬の日が

かんかんと照りつける

 

 春 雨

 

雨は宵に入つてから

一層靜かであつた

床についてからは

降るさまがよく描かれた

 

[やぶちゃん注:以上は、原民喜が大正一五(一九二六)年一月から五月まで発刊した詩の同人雑誌『春鶯囀』三号に載る(四号で廃刊するが、二号と三号の発刊月のクレジットは不詳である)。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅱ」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した。活字のポイント差はママ。やはり前号などと同じく、総標題が「偶作」で、それが無題の序詞と小題「冬日」及び「春雨」の三連構成になっている一篇である。]

机   原民喜

    原 民喜

 

何もしない

日は過ぎて居る

あの山は

いつも遠い

 

 

 

 

 

こはれた景色に

夕ぐれはよい

色のない場末を

そよそよと歩けば

 

[やぶちゃん注:以上は、原民喜が大正一五(一九二六)年一月から五月まで発刊した詩の同人雑誌『春鶯囀』二号に載る(四号で廃刊するが、二号と三号の発刊月のクレジットは不詳である)。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅱ」を用いた。活字のポイント差はママ。創刊号に載った「春望」と類似した構成詩で、総標題が「机」、無題の序詞と小題「冬」の二連構成になっている一篇である。]

春望   原民喜

 春 望 原 民喜

 

つれづれに流れる雲は

美しさをまして行く

春陽の野山に

今日は来て遊んだ

 

 

 

 

 

影こそ薄く

思ひは重し

霞のなかの山なれば

山に隱るる山なれば

 

 

 

 

 

ふし見し梢の

優しかる

綠煙りぬ

さゝやかに

 

[やぶちゃん注:以上は、原民喜が大正一五(一九二六)年一月に発刊した詩の同人雑誌『春鶯囀』創刊号に載る。発行所は東京都東中野の熊平清一(民喜の中学時代からの盟友である武二の兄)で、同人には彼ら兄弟の他、長新太や石橋貞吉(山本健吉の本名)らが参加しているが、同年五月発刊の四号で廃刊となった。民喜、満二十歳の春である。

 底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅱ」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した。活字のポイント差はママ。総標題が「春望」で、それが無題の序詞と小題「山」及び「梢」の三連構成になっている一篇である。

 なお、「春鶯囀」は固有名詞としては雅楽(唐楽)の曲名にあり(唐の太宗の作或いは唐の高宗が鶯(うぐいす)の声を聞いて白明達なる楽人に命じてその声を真似て作らせたとも伝えられる)、その場合は「しゅんのうでん」と読むが、本雑誌は諸資料では一切、ルビが振られていないので、「しゆんあうてん(しゅんおうてん)」と読んでおく。]

2016/03/24

北條九代記 卷之八 三浦泰村家門滅亡

      〇三浦泰村家門滅亡

さる程に、時賴の御方に馳集りし諸軍勢等(ら)、和平の由、承り、人數を引きて在所々々に立歸らんとする所に、高野(かうやの)入道覺地(かうぢ)、この由を聞きて、子息秋田〔の〕城〔の〕介義景、孫の九郎泰盛を招きて、申しけるは、「和平の御書を泰村に遣(つかは)さるゝ上は、向後、三浦の氏族(しぞく)等(ら)、愈(いよいよ)勢に誇りて、當家は終に掌握に落ちて、殃(わざはひ)の來らんこと、目前に有りて遠からず。只、運命を天道にまかせ、今朝、三浦が館に押掛け、雌雄を一時に決すべし。この時に乘るにあらずは、後日を期すとも叶ふべからず。早(はや)、打立(うちた)て」とぞ諫めける。城義景泰盛、父子「畏り候」とて打立ちければ、大曾禰(おほぞねの)長泰、武藤左衞門尉景賴、橘薩摩十郎公義(きんよし)以下、一族同意の輩、三百餘騎、甘繩の館(たち)の門前より、小路を東に、若宮大路中下馬の橋に至り、鶴岡の赤橋より、神護寺の門外にして、鬨の聲を作り、五石疊(いついしだたみ)の紋の旗、差擧(さしあ)げ、筋替橋(すぢかへばし)の北に陣取(じんど)りて矢をはなつ。その近邊に陣取りたる諸方の軍士等、「すはや軍の切るぞ」とて、我も我もと馳せ加はる。泰村、大に仰天して、「こはそも只今、和平の事成りて、心を緩(ゆる)す所に、出拔(だしぬ)かれける口惜さよ」とて、物具(ものゝぐ)ひしひしと差堅(さしかた)め、家子郎從等を進めて、防ぎ戰ふ。橘薩摩〔の〕余一(よいち)公員(きんかず)は、俄(にはか)のことにて、物具すべき遑(いとま)なく、狩装束にて一陣に進み、門の庇(ひさし)の本(もと)まで攻寄(せめよせ)ける所に、三浦が郎等小河〔の〕次郎が、櫓(やぐら)の上より落射(おとしい)ける大矢に、頸の骨を射られて、馬より眞倒(まつさかさま)に落ちたりけり。中村〔の〕馬五郎、是を引取らんと馳寄(はせよ)する所に、片切(かたぎり)助五郎が放つ矢に眞甲(まつかふ)を射られてたち痓(すく)む。防ぐ兵、手強くして、人數、多く、討たれければ、叶難(かなひがた)く見えし所に、時賴、この由、聞き給ひ、「和平歸服の上に、又合戰を起す條、宥(なだ)むべきにあらず」とて、北條陸奥(むつの)掃部(かもんの)助實時を以て、將軍の御所を守護せしめ、北條〔の〕六郎時定を大手の大將軍として、五百餘騎にて遣(つかは)さる。塔辻(たふのつじ)より馳隨(はせしたが)ふ輩、雲霞の如く、家々の旗、差し舉げ、我、劣らじ、と進みけり。さる程に、泰村が郎等、精兵の剛者、隈々(つまりづまり)に待設(まちまう)け、矢を射ること雨の如く、これに中(あたつ)て討(うた)るゝ者、數知らず、されども大軍新手を入替へ、散々(さんざん)に攻戰(せめたたか)ふ。諏訪兵衞入道、信濃四郎左衞門尉行忠、軍兵を進めて、北の方を攻破る、佐原十郎左衞門尉泰連(やすつら)、同十郎賴連(よりつら)、能登左衞門尉仲氏以下、郎従五十餘人、下合(おりあ)ひて防ぎけるが、諏訪入道、信濃行忠、直前(まつさき)に蒐出(かけい)でて、追靡(おひなび)け、切倒(きりたふ)し、一人も殘らず討取りたり。甲斐〔の〕前司泰秀、御所に參りて、「毛利藏人大夫入道西阿こそ、只今泰村が方へ、參りて候。きはめて大剛(たいがう)の者にて、奇計を廻(めぐら)し候はば難義たるべし」と申しければ、時賴、聞たまひ、「何條、天道に背きし者は、假令(たとひ)、鐡城(てつじやう)に籠るとも、運命、更に賴難(たのみがた)し。今見給へ、亡びなんものを」とて、騷(さわぎ)たる色はおはしまさず。軍は頻(しきり)に劇(はげ)しくなり、敵味方の鬨の聲、天に響き、地に盈(み)ちて、打合ひ攻戰ふ有樣は修羅の巷(ちまた)に異ならず。大手の大將六郎時定、軍兵共に仰せけるは、「斯(かく)ては人多く損じて利(り)少(すくな)し。只、火を差して燒打(やきうち)せよ」とぞ下知せられける。伊豆〔の〕住人、輕又八義成と云ふ者、泰村が南の小屋に攻上(せめのぼ)り、向ふ敵三人を薙伏(なぎふ)せ、小屋に火差しければ、折節、風荒く吹廻(ふきめぐ)り、焰(ほのほ)、四方に飛散りたり。作竝(つくりなら)べし屋形(やかた)どもに燃渡(もえわた)りて、一同に燒上(やけあが)る黑煙(くろけぶり)、火焰を卷きて雲路を指して燃昇(もえのぼ)る。火子(ひのこ)は雨の足よりも滋(しげ)し。三浦の者ども烟(けぶり)に覆はれ、防ぐべき力なし。平判官義有(よしあり)、申しけるは、「迚(とて)も遁(のが)れぬ事ながら、爰にて燒死(やけしな)んより、いざや、法華堂に引退(ひきしりぞ)き、故右大將賴朝の御影(みえい)の前にて自害致し、前代の御恩を報じ奉らん」とて泰村以下、北の方を打破り、法華堂にぞ引籠りける。泰村が舍弟能登守光村は、永福寺の總門の内に在て、郎從八十餘騎、陣を張(はつ)て戰ひしが、向ふ敵を打靡(うちなび)け、泰村と一つになり、法華堂に集りしかば、數萬の軍兵、跡に付きて押かゝる。毛利〔の〕入道西阿、泰村兄弟、その外大隅前司重隆、美作〔の〕前司時綱、甲斐前司實章(さねあきら)、關〔の〕左衞門尉政泰以下の一族、各(かく)、賴朝卿の御影の前に竝居(なみゐ)て、迭(たがひ)に最後の暇乞(いとまごひ)して、念佛、高(たからか)に唱へける。その間に寄手、早く寺門に攻入(せめい)りけるを、三浦が郎從白川〔の〕七郎兄弟、岡本〔の〕次郎、埴生(はにふの)小太郎、佐野〔の〕三郎以下、出向うて防ぎければ、寄手、多く討たれつゝ、三浦方も手負ひ疵(きず)を蒙(かうぶ)り、矢種(やたね)盡きて力撓(たわ)み、或は討たれ或は落失せたり。今は是までなりとて、泰村以下の一族二百七十六人、郎從家子二百二十餘人、同時に腹をぞ切りにける。その日の申刻に軍(いくさ)既に散(さん)じたり。寶治元年六月五日、今日(けふ)、如何なりける時節にや、さしも累代舊功の三浦の家、忽に運命傾(かたぶ)き、滅亡しけるこそ悲しけれ。翌日、實檢(じつけん)を遂げて、首共(ども)殘らず、由比の渚(なぎさ)に懸けられ、その後、事書を出され、三浦の一族、或は缺落(かけおち)、或は逐電せし者共、子細に及はず、召捕(めしと)りて、參らすべしとぞ觸(ふ)れられける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十八の宝治元(一二四七)年六月五日・六日に基づく。それにしても、安達の起兵に全責任を与え、是非に及ばず、致し方ない、と時頼が三浦追討を認めるなど、どう考えても、ありえない起因である。だから、私は時頼が大嫌いなんである!!!

「殃(わざはひ)」「禍(わざわい)」に同じい。

「小路を東に、若宮大路中下馬の橋に至り」現在の由比が浜通りを東に向かい、江ノ電を越え、横須賀線ガード手前の若宮大路の「下馬四つ角」近くにあった下馬橋(恐らくは現在の「四つ角」よりもやや海岸寄りに出たものと推定され、そこに橋はあった)へ出、若宮大路を鶴岡八幡宮寺へ向けて堂々と進軍したことになる。しかし戦略的には相手に悟られぬよう、由比ヶ浜通りから、現在の鎌倉駅西口西を北へ向かって横大路から鶴岡に向かうルートと、下馬を通り越して若宮大路の東側の小町小路(現在の小町通りの若宮大路を隔てた反対側なので注意されたい)を北に向かうルート(これが三浦邸へは最も難のない近道と思う)に、少人数の歩兵を左右に分けて秘かに若宮大路を行く三(最後の左右を別とすれば四)ルートに私なら分ける。若宮大路は大軍で行軍するには最も道幅があり、使い勝手はよいが、鎌倉中に敵とも味方とも分らぬ諸国の軍兵がごろごろいる中で、この大袈裟な行軍は私にはどうも解せないのである。だからこそ、この最初の起兵自体が、私には眉唾物なのである。これが事実とすれば、三浦は安達起兵の報知を知ったなら、すぐ南西にいる時頼や将軍頼嗣を人質に取ることも可能なのである。和平交渉(事実は時頼の偽りであることは見え見えである)が行われ、それが成立していても、それとは別に状況探索はするのが常識であり、かの三浦がそれを怠っていたとは到底思われぬ。しかも最も仲が険悪であった安達一族に対しての密偵は常に張り付いていたに違いないからである。

「神護寺」「吾妻鏡」にかくある。これは進軍のルートから見ると、神仏習合の鶴岡八幡宮寺内の東に存在した寺院部分(すべておぞましい廃仏毀釈で破壊されてしまったが、江戸期の絵図を見ても八幡宮の東へ抜ける手前には宝塔や薬師堂などの巨大寺院建築物が複数あった)を指しているように思われる。

「鬨の聲」老婆心乍ら、「ときのこえ」と読む。

「五石疊(いついしだたみ)の紋」所謂、正方形を縦横二本の直線で割った三目並べのような小九正方の内、各四方の角と中央を黒塗りするか、或いはその反対のものであろう(後者は「四方石」紋と呼ばれ、安達氏の後裔とされる城氏の紋がそれである)。

「筋替橋(すぢかへばし)の北」源氏池の東方、鶴岡八幡宮前の金沢街道の宝戒寺から直角に東北折れ、それが又、右へ折れる部分にあった橋。現在は暗渠。その「北」は現在の横浜国大附属の正門附近に当たる。

「すはや軍の切るぞ」「軍」は「いくさ」で、戦闘・合戦の火ぶたが切って落とされるぞ! の謂い。

「橘薩摩〔の〕余一(よいち)公員(きんかず)」彼は安達方であるので注意。記載が少ないが、彼の母はかの頼朝の奸臣で、頼朝の死後に粛清された梶原景時の、二男景高の娘らしい。

「叶難く見えし」三浦方の強靭な防衛線には、とてものことに安達軍はかないそうになく見えた。

「北條陸奥掃部助實時」(元仁元(一二二四)年~建治二(一二七六)年)は金沢流北条氏の実質上の初代で金沢実時(かねさわさねとき)とも称した。父は北条義時の末の方のである北条実泰(実泰は従兄弟に当たる第三代将軍源実朝の前で元服を行っており、「実」は烏帽子親である実朝の偏諱である)。実時は第三代執権北条泰時の邸において元服、「時」は烏帽子親を務めた泰時の偏諱である。、時頼政権に於いては、この後、側近として引付衆・評定衆を務め、。文永元(一二六四)年には得宗家外戚のここに出る安達泰盛とともに越訴奉行頭人(とうにん)となって第八代執権北条時宗を補佐した。この宝治合戦後は寄合衆(よりあいしゅう:北条氏得宗を中心とした鎌倉幕府の最高議決機関)にも加わっている。文人としても知られ河内本「源氏物語」の注釈書を編纂したりした。文永の役の翌年(建治元(一二七五)年)に政務を引退すると、六浦荘金沢(現在の横浜市金沢区金沢文庫)に隠居し、現在の「金沢文庫」の元の創設もしている。

「北條六郎時定」(?~正応三(一二九〇)年)は北条時氏三男。母は松下禅尼であるから、経時・時頼の同母弟である。将軍の側近として仕えたが、元寇襲来に当たって鎮西に下向、阿蘇家の祖となった。後に為時(ためとき)と改名した。

「塔辻(たふのつじ)」現在の由比ヶ浜通りのほぼ中間点にある辻。鰻の名店「つるや」の西直近。

「隈々(つまりづまり)に」あちらこちらに。

「大軍新手を入替へ」(幕府方(ここでは時頼の裁断によって既に正規幕府軍となっている)は)大量の軍兵を後衛の新しい兵と入れ替えをし。

「諏訪兵衞入道」諏訪盛重。得宗被官で御内人。泰時の側近。法名の蓮仏の名で「吾妻鏡」に多出。

「佐原十郎左衞門尉泰連、同十郎賴連、能登左衞門尉仲氏以下、郎従五十餘人」これは三浦方。「佐原」氏は三浦義明の子十郎義連を祖とするが、実は宝治合戦では本家三浦氏が滅んだ際には、義連直系の盛連一族はすべて幕府方についている(「吾妻鏡」六月二日の条)。ここに出る二人は傍系の佐原氏の一族と思われ、「吾妻鏡」の六月二十二日の条にある、宝治合戦での『自殺討死等』の名簿に能登仲氏とともに名が載っている。なお、佐原盛連一族を除いた佐原氏は、この宝治合戦で総て滅んだ。

「下合(おりあ)ひて」合流して(教育社版増淵勝一氏訳に拠る)。

「追靡(おひなび)け」追撃し(同前)。

「甲斐前司泰秀」 長井泰秀(建暦二(一二一二)年~(建長五(一二五四)年)。大江泰秀とも呼ばれることで判る通り、祖父は大江広元、父は大江広元次男長井時広であった。ウィキの「長井泰によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『長井時広の嫡子として生まれる。のち元服に際して、北条氏得宗家当主(鎌倉幕府第三代執権)の北条泰時より偏諱を受け、泰秀と名乗る』。『一二二一年(承久三年)承久の乱により、大江氏の嫡流であった大江親広が失脚し、父時広が大江氏の惣領となる。「関東評定衆伝」によると、一二二九年(寛喜元年)』、『十八歳で既に蔵人から左衛門少尉となっており、同年』に『更に従五位下に叙爵され』、『一二三四年(文暦元年)二十三歳で従五位上、一二三七年(嘉禎三年)二十六歳で正五位下左衛門大尉、一二三八年(暦仁元年)二十七歳で甲斐守という官職の昇進の早さは大江氏惣領家の嫡男として高い家格を認められていたということになる』とする。『一二四一年(仁治二年)五月』に父の時広が死去すると、翌六月には『三十歳にして北条経時(泰時の孫)らとともに評定衆に列せられ』ている。『その後、一二四七年(宝治元年)の宝治合戦などの争乱に際しては第五代執権の北条時頼(経時の弟)を一貫して支持し、幕府における長井氏の地位を確立した』とある。なお、彼の孫である長井宗秀は、実は「吾妻鏡」の編纂者の一人ではないかと推測されている、ともある。突如、泰秀が時頼に申し上げる肉声をここに挟み、前で西阿の悲劇もしっかり語っている辺り、この彼らの親族であった宗秀がここら辺りを書いたとして、充分に納得出来る話ではあるまいか。

「毛利藏人大夫入道西阿」毛利季光(建仁二(一二〇二)年~宝治(一二四七)年)のこと。彼は実は北条方に就こうとしたが、三浦義村の娘であった妻から兄泰時を見捨てるのは武士にもとるという批難を受け、悩んだ末に三浦方に組して自刃するという、いわくつきの悲劇的人物である。彼はかの大江広元の四男で出自も鎌倉幕府内にあっては実はエリート中のエリートで、天福元(一二三三)年に時の第三代執権泰時から関東評定衆に任命され、寛元四(一二四六)年には藤原頼経・頼嗣父子を自邸に迎えて、当時、将軍職を継承したばかりの七歳の頼嗣の甲冑着初式を行うという栄誉をさえ得ていた(因みに、彼の官位にある「藏人大夫」であるが、この「大夫」というのは五位の別称であるから「蔵人の五位」と同義である。但し、「蔵人の五位」というのは「五位の蔵人」とは意味が違って――元蔵人であったが今は職には就いていない五位の人――即ち――六位の蔵人を勤めていて五位に上がったものの、五位の蔵人に空席がなかったため、蔵人の職を辞めることになった人――を指す特殊な謂い方であるので注意されたい)。以上のエピソードは最後に示す「吾妻鏡」の五日の条に出る。もうお分かりの通り、実はここでかく「西阿は手ごわい奴です」と語っている長井泰秀は彼の兄の子、甥なのである。

「奇計を廻(めぐら)し候はば」西阿が思いもかけない、奇計をめぐらしたりしたならば。増淵氏は『巧妙な策略をお考えにならないと』と訳しておられるが、だとすると「候はずば」でないとおかしいし、時頼への敬語も本文にはないので、採らない。増淵氏は恐らく、「吾妻鏡」本文で、西阿の三浦参戦報告(そこでは萬年入道が報告者)の直後に、時頼が将軍にまみえて、「奇謀を廻(めぐ)らさる」とあるのを踏まえられたのではあろう。

「何條」「なんじよう(なんじょう)或いは「なんでふ」で、「何といふ」の転。「何条」は当て字。連体詞・副詞もあるが、ここは感動詞で、相手の言葉を否定する語。「何を言うか!」「とんでもない!」の謂い。

「鐡城」鉄で出来た城。

「南の小屋」「吾妻鏡」(後掲)では、「放火於泰村南隣人屋」(火を泰村が南隣りの人屋(じんをく)に放つ)とある。

「平判官義有」「群書系図部集」を見るに、三浦義澄末子九男三浦胤義(承久の乱で上皇方につき、三浦義村に裏切られ、遂には自害した)の子と思われる。増淵氏は『泰村の兄』と割注するが採らない。

「法華堂」源頼朝の廟。現在の「頼朝の墓」(島津が作った偽物)に登る手前の左手(今は児童公園)附近にあったとされる。合計五百人以上の人間(「吾妻鏡」)がここで自害しているとあるから、相応の大きさの寺院建築であったことが判る。三浦邸からは二百メートルと離れていない。

「永福寺」「やうふくじ(ようふくじ)」と読む。大塔宮の南を廻り込んだ左側にあった、源頼朝が中尊寺の二階大堂・大長寿院を模して建立した寺院。二階建てであったことから「二階堂」とも称され、それが、現在の地名由来でもある。応永一二(一四〇五)年の回禄以後には記事がないので、そこら辺りで廃寺となったものと考えられる。三浦邸とは実測で凡そ一キロメートルほど離れている。

「申刻」午後四時頃。

「散じたり」終わった。

「事書」増淵氏の訳では『ことがき』とルビされ、『箇条書き』と割注されている。

「缺落」増淵氏は『逃亡』と訳しておられる。

「逐電」増淵氏は『失踪』と訳しておられる。

 

 以下、長いが「吾妻鏡」の寳治元(一二四七)年六月五日の条を示す。

 

○原文

五日丙戌。天晴。辰刻小雨灑。今曉鷄鳴以後。鎌倉中彌物忩。未明左親衞先遣萬年馬入道於泰村之許。被仰可相鎭郎從等騷動之由。次付平左衞門入道盛阿。被遣御書於同人。是則世上物忩。若天魔之入人性歟。於上計者。非可被誅伐貴殿之構歟。此上如日來不可有異心之趣也。剩被載加御誓言云々。泰村披御書之時。盛阿以詞述和平子細。泰村殊喜悦。亦具所申御返事也。盛阿起座之後。泰村猶在出居。妻室自持來湯漬於其前勸之。賀安堵之仰。泰村一口用之。即反吐云々。爰高野入道覺地傳聞被遣御使之旨。招子息秋田城介義景。孫子九郎泰盛〔各兼著甲冑〕盡諷詞云。被遣和平御書於若州之上者。向後彼氏族獨窮驕。益蔑如當家之時。憖顯對揚所存者。還可逢殃之條。置而無疑。只任運於天。今朝須決雌雄。曾莫期後日者。依之城九郎泰盛。大曽祢左衞門尉長泰。武藤左衞門尉景賴。橘薩摩十郎公義以下。一味之族引卒軍士。馳出甘繩之館。同門前小路東行。到若宮大路中下馬橋北。打渡鶴岡宮寺赤橋。相構盛阿歸參以前。於神護寺門外作時聲。公義差揚五石疊文之旗。進于筋替橋北邊。飛鳴鏑。此間所張陣於宮中之勇士悉相加之。而泰村今更乍仰天。令家子郎從等防戰之處。橘薩摩余一公員〔不著甲冑。爲狩裝束〕者。自兼日懸意於先登。潛入車排之内。宿于泰村近邊荒屋。付時聲進寄小河次郎〔被射殺〕中村馬五郎同相並之。皆爲泰村郎等被暴疾焉。先之。盛阿馳駕令歸參。雖申事次第。三浦一類有用意事之條者。雖勿論。旁依有御沙汰。被廻和平之儀之處。泰盛既及攻戰之上。無所于被宥仰。先以陸奥掃部助實時。令警衞幕府。次差北條六郎時定。爲大手大將軍。時定令撤車排。揚旗自塔辻馳逢。相從之輩如雲霞。諏方兵衞入道蓮佛抽無雙之勳功。信濃四郎左衞門尉行忠決殊勝負。獲分取。凡泰村郎從精兵等。儲所々辻衢。發矢石。御家人又忘身命。責戰矣。巳尅。毛利藏人大夫入道西阿著甲冑。卒從軍。爲參御所。打出之處。彼妻〔泰村妹〕取西阿鎧袖云。捐若州參左親衞御方之事者。武士所致歟。甚違年來一諾訖。盍耻後聞兮哉者。西阿聞此詞。發退心加泰村之陣。于時甲斐前司泰秀亭者。西阿近隣也。泰秀者馳參御所之間。雖行逢西阿。不能諍留。是非存親昵之好。且不却與同于泰村之本意兮。於一所爲加追討也。尤叶武道有情云々。萬年馬入道馳參左親衞南庭。乍令騎馬。申云。毛利入道殿被加敵陣訖。於今者世大事必然歟。左親衞聞此事。午刻參御所。被候將軍御前。重被廻奇謀。折節北風變南之間。放火於泰村南隣人屋。風頻扇。煙覆彼館。泰村幷伴黨咽烟遁出館。參籠于故右大將軍法華堂。舍弟能登守光村者在永福寺惣門内。從兵八十餘騎張陣。遣使者於兄泰村之許云。當寺爲殊勝城郭。於此一所。相共可被待討手云々。泰村答云。縱雖有鐵壁城郭。定今不得遁歟。同者於故將軍御影御前欲取終。早可來會此處云々。專使互雖爲一兩度。縡火急之間。光村出寺門向法花堂。於其途中一時合戰。甲斐前司泰秀家人。幷出羽前司行義。和泉前司行方等。依相支之也。兩方從軍多被疵云々。光村終參件堂。然後西阿。泰村。光村。資村幷大隅前司重隆。美作前司時綱。甲斐前司實景。關左衞門尉政泰以下。列候于繪像御影御前。或談往時。或及最後述懷云々。西阿者專修念佛者也。勸請諸衆。爲欣一佛浄土之因。行法事讚廻向之。光村爲調聲云々。左親衞軍兵攻入寺門。競登石橋。三浦壯士等防戰。竭弓劔之藝。武藏々人太郎朝房責戰有大功。是爲父朝臣義絶身。一有情之無相從。僅駕疲馬許也。不著甲冑之間。輙欲討取之處。被扶于金持次郎左衞門尉〔泰村方〕全其命云々。兩方挑戰者殆經三刻也。敵陣箭窮力盡。而泰村以下爲宗之輩二百七十六人。都合五百余人令自殺。此中被聽幕府番帳之類二百六十人云々。次壹岐前司泰綱。近江四郎左衞門尉氏信等承仰。爲追討平内左衞門尉景茂。行向彼長尾家。作時聲之處。家主父子者。於法華堂自殺訖。敢無人于防戰。仍各空廻轡。但行逢子息四郎景忠。生虜之持參云々。甲冑勇士等十餘騎塞壹岐前司之行路。諍先登之間。泰綱雖問其名字。敢不能返答。而景茂等依不所在。無合戰之儀。剩彼勇士乍名謁逐電云々。申刻。被實檢死骸之後。被進飛脚於京都。遣御消息二通於六波羅相州〔北條重時〕。一通奏聞。一通爲令下知近國守護地頭等也。又事書一紙同所被相副也。左親衞於御所休幕被申沙汰之。其狀云。

 若狹前司泰村。能登前司光村以下舍弟一家之輩。今日巳尅。已射出箭之間。及合戰。終其身以下一家之輩及餘黨等被誅罰候畢。以此趣。可令申入冷泉太政大臣殿〔久我通光〕給候。恐々謹言。

     六月五日   左近將監

   謹上  相摸守殿

 追啓〔禮紙申狀云〕

  毛利入道西阿不慮令同心之間。被誅罰畢。

 若狹前司泰村。能登前司光村。幷一家之輩餘黨等。兼日令用心之由。有其聞之間。被用意候處。今日〔五日巳剋〕令射出箭之間。及合戰。其身以下一家之輩餘黨等被誅罰訖。各存此旨。不可馳參。且又可相觸近隣之由。普可令下知西國地頭御家人給之状。依仰執達如件。

     六月五日   左近將監

   謹上  相摸守殿

事書云。

一 謀叛輩事

 爲宗親類兄弟等者。不及子細可被召取。其外京都雜掌。國々代官所從等事者。雖不及御沙汰。委尋明。隨注申。追而可有御計者。

 

○やぶちゃんの書き下し文

五日丙戌。天晴る。辰の刻、小雨灑(そそ)ぐ。今曉、鷄鳴以後、鎌倉中彌(いよいよ)物忩(ぶつそう)。未明に左親衞、先づ萬年馬入道を泰村が許へ遣はし、郎從等の騷動を相ひ鎭めるべしの由を仰せらる。次(つ)いで、平左衞門入道盛阿に付けて、御書を同人に遣はさる。是れ、則ち、

「世上の物忩、若しや天魔の人性(じんしやう)に入るか。上計(しやうけい)に於ては、貴殿を誅伐せらるべきの構へに非ざるか。此の上は、日來(ひごろ)のごとく、異心有るべからず。」

の趣きなり。剩(ああつさ)へ、御誓言を載せ加へらると云々。

泰村、御書を披(ひら)くの時、盛阿、詞を以つて和平の子細を述ぶ。泰村、殊に喜悦して、亦、具(つぶさ)に御返事を申す所なり。盛阿、座を起つの後、泰村、猶ほ出居(でゐ)に在り。妻室、自(みづか)ら湯漬(ゆづけ)を其の前に持ち來たりて之れを勸め、安堵(あんど)の仰せを賀す。泰村、一口、之れを用ゐ、即ち、反吐(へど)すと云々。

爰に高野入道覺地、御使を遣はさるの旨を傳へ聞き、子息秋田城介義景・孫子(まご)九郎泰盛〔各々兼ねて甲冑をす。〕を招き、諷詞(ふうし)を盡して云はく、

「和平の御書を若州に遣はさるるの上は、向後、彼の氏族獨り、驕(おご)りを窮(きは)め、益々(ますます)當家を蔑如(べつじよ)するの時、憖(なまじ)ひに對揚(たいよう)の所存を顯はさば、還へつて殃(わざわひ)に逢ふべきの條、置きて疑ひ無し。只だ、運を天に任せ、今朝、須(すべか)らく雌雄を決すべし。曾(かつ)て後日を期する莫かれ。」

てへれば、之れに依つて、城九郎泰盛・大曾禰左衞門尉長泰、武藤左衞門尉景賴、橘薩摩十郎公義以下、一味の族(うから)、軍士を引卒し、甘繩の館(たち)を馳せ出で、同門前の小路を東に行き、若宮大路中下馬橋の北へ到りて、鶴岡宮寺の赤橋を打ち渡り、相ひ構へて、盛阿歸參以前に、神護寺門外に於いて時の聲を作る。公義、五石疊文(いつついしだたみもん)の旗を差し揚げ、筋替橋(すじかへばし)北邊に進み、鳴鏑(なりかぶら)を飛ばす。此の間、陣を宮中に張る所の勇士、悉く之れに相ひ加はる。而るに泰村、今更乍らに仰天し、家子(いへのこ)郎從等をして防戰せしむるの處、橘薩摩余一公員〔甲冑を著せず、狩裝束たり。〕といふ者、兼日より意を先登(せんと)に懸け、潛かに車排(くるまならべ)の内に入り、泰村近邊の荒屋(あばらや)に宿る。時の聲に付き、進み寄る。小河次郎〔射殺さる。〕・中村馬五郎、同じく之れに相ひ並ぶ。皆、泰村郎等の爲に暴疾(ぼうしつ)せらる。之れに先んじ、盛阿、駕を馳せ歸參せしめ、事の次第を申すと雖も、三浦一類用意の事有るの條は、勿論と雖も、旁々(かたがた)の御沙汰有るに依つて、和平の儀を廻(めぐ)らさるるの處、泰盛、既に攻戰に及ぶの上は、宥(なだ)め仰せるるに所(ところ)無し。先づ陸奥掃部助實時を以つて、幕府を警衞せしめ、次いで、北條六郎時定を差して、大手の大將軍と爲(な)す。時定、車排(くるまならべ)を撤(てつ)せしめ、旗を揚げて塔の辻より馳せ逢ふ。相ひ從ふの輩(やから)、雲霞のごとし。諏方兵衞入道蓮佛、無雙(ぶさう)の勳功を抽(ぬき)んづ。信濃四郎左衞門尉行忠、殊に勝負を決し、分取(ぶんどり)を獲(え)たり。凡そ泰村、郎從精兵等を、所々の辻衢(つじちまた)に儲(まう)け、矢石(しせき)を發(はな)つ。御家人も又、身命(しんみやう)を忘れて、責め戰ふ。巳の尅、毛利藏人大夫入道西阿、甲冑を著し、從軍を卒して、御所へ參らんが爲に、打ち出づるの處、彼(か)の妻〔泰村が妹。〕、西阿の鎧の袖を取りて云はく、

「若州を捐(す)て左親衞の御方へ參ずるの事は、武士の致す所か。甚だ年來(としごろ)の一諾(いちだく)に違へ訖んぬ。盍(なん)ぞ後聞を耻ぢざらんや。」

てへれば、西阿、此の詞(ことば)を聞きて、退心を發(おこ)し、泰村が陣に加はる。

 時に甲斐前司泰秀が亭は、西阿が近隣なり。泰秀は御所へ馳せ參ずるの間、西阿に行き逢ふと雖も、諍(いさか)ひ留(とど)むるに能はず。是れ、親昵(しんじつ)の好(よし)みを存(ぞん)ずるに非ず。且つは泰村に與同(よどう)の本意を却(しりぞ)けずして、一所に於いて追討を加へんが爲なり。尤も武道に叶(かな)ひ、情、有りと云々。

萬年馬入道、左親衞の南庭に馳せ參じ、騎馬せしめ乍ら、申して云はく、

「毛利入道殿、敵陣に加られ訖んぬ。今に於いては世の大事、必然か。」

と。左親衞、此の事を聞き、午の刻、御所に參ず。將軍の御前に候ぜられ、重ねて奇謀を廻らさる。折節、北風が南に變るの間、泰村の南隣りの人屋(じんをく)に於いて火を放つ。風、頻りに扇(あふ)ぎ、煙、彼の館を覆ふ。泰村幷びに伴黨(ばんたう)、烟(けぶり)に咽(むせ)び、館(たち)を遁(のが)れ出でて、故右大將軍の法華堂に參籠す。舍弟能登守光村者は永福寺惣門内に在りて、從兵八十餘騎で陣を張る。使者を兄泰村が許(もと)に遣はして云はく、

「當寺は殊に勝る城郭たり。此の一所に於いて、相ひ共(とも)に討手を待たるべし。」

と云々。

泰村、答へて云はく、

「縱(たと)ひ鐵壁の城郭有ると雖も、定めて今、遁れ得ざらんか。同じくば、故將軍の御影(みえい)の御前に於いて終(つい)を取らんと欲す。早く、此の處へ來會すべし。」

と云々。

專使、互ひに一兩度たりと雖も、縡(こと)、火急の間、光村、寺門を出でて法花堂へ向ひ、其の途中に於いて一時、合戰す。甲斐前司泰秀が家人幷びに出羽前司行義、和泉前司行方等(ら)、之れを相ひ支(ささ)ふるに依つてなり。兩方の從軍、多く疵を被(かうむ)ると云々。

光村終(つい)に件(くだん)の堂に參ず。然る後、西阿・泰村・光村・資村幷びに大隅前司重隆・美作前司時綱・甲斐前司實景・關左衞門尉政泰以下、繪像(ゑざう)の御影(みえい)の御前に列候(れつこう)し、或いは往時を談じ、或ひは最後の述懷に及ぶと云々。

西阿は專修(せんじゆ)念佛者なり。諸衆を勸請(くわんじやう)し、一佛浄土の因を欣(ねが)はんが爲、法事讚(ほふじさん)を行ひ、之れを廻向(ゑかう)す。光村、調聲(てうしやう)たりと云々。

左親衞が軍兵、寺門に攻め入り、石橋を競ひ登る。三浦の壯士等、防ぎ戰ひ、弓劔(きゆうけん)の藝を竭(つく)す。武藏藏人(くらうど)太郎朝房(ともふさ)、責め戰ひて大功有り。是れ、父朝臣義絶の身たり。一(いつ)も有情(うじやう)の相ひ從ふ無し。僅かに疲馬に駕する許りなり。甲冑を著せざる間、 輙(たやす)く討ち取らんと欲するの處、金持(かねもちの)次郎左衞門尉〔泰村が方。〕に扶(たす)けられ、其の命を全うすと云々。

兩方、挑み戰ふ者、殆んど三刻を經るなり。敵陣、箭(や)、窮まり、力、盡く。而して泰村以下、宗(むねと)たるの輩、二百七十六人、都合、五百余人自殺せしむ。此の中(うち)、幕府の番帳を聽(ゆる)さるるの類、二百六十人と云々。

次いで壹岐前司泰綱・近江四郎左衞門尉氏信等、仰せを承り、平内左衞門尉景茂を追討せんが爲、彼(か)の長尾の家へ行向い、時の聲を作るの處、家主父子は、法華堂に於いて自殺し訖りて、敢へて防戰に人無し。仍つて各々空しく轡(くつばみ)を廻らす。但し、子息四郎景忠に行き逢ひ、之れを生虜(いけど)り、持參すと云々。

甲冑の勇士等(ら)十餘騎、壹岐前司の行路を塞ぎ、先登を諍ふの間、泰綱、其の名字を問ふと雖も、敢へて返答に能はず。而るに景茂等所在せ不に依つて、合戰の儀無し。剩へ彼の勇士、名謁(なのり)乍ら、逐電すと云々。

申の刻、死骸を實檢せらるるの後、飛脚を京都に進ぜられ、御消息二通を六波羅の相州〔北條重時。〕に遣はす。一通は奏聞(そうもん)、一通は近國守護地頭等(ら)へ下知せしめんが爲なり。又、事書(ことがき)一紙、同じく相ひ副へらるる所なり。左親衞、御所の休幕(きうばく)に於いて之れを申し、沙汰せらる。其の狀に云はく、

『若狹前司泰村・能登前司光村以下舍弟一家の輩、今日、巳の尅、已に箭(や)を射出すの間、合戰に及びて、終(つひ)に其の身以下一家の輩及びに餘黨等、誅罰せられ候ひ畢んぬ。此の趣きを以つて、冷泉太政大臣殿〔久我通光。〕に申し入れ令め給ふべく候。恐々謹言。

   六月五日   左近將監

  謹上  相摸守殿』

『追啓〔禮紙(らいし)申狀(まうしじやう)に云ふ。〕。

 毛利入道西阿、不慮に同心せしむるの間、誅罰せられ畢んぬ。

若狹前司泰村、能登前司光村幷びに一家の輩餘黨等、兼日に用心せしむるの由、其の聞へ有るの間、用意せられ候ふ處、今日〔五日巳の剋。〕、箭を射出しせしむる間、合戰に及ぶ。其の身以下、一家之輩餘黨等、誅罰せられ訖んぬ。各々此の旨を存じ、馳せ參ずべからず。且つは又、近隣に相ひ觸るべきの由、普(あまね)く西國の地頭・御家人に下知せしめ給ふべきの狀、仰せに依つて、執達(しつたつ)、件(くだん)のごとし。

   六月五日   左近將監

  謹上  相摸守殿』

「事書」に云はく、

『一 謀叛の輩の事。

 宗(むねと)たる親類兄弟等は、子細に及ばず、召し取らるべし。其の外、京都の雜掌、國々の代官所從等の事は、御沙汰に及ばずと雖も、委(くは)しく尋ね明らめ、注し申すに隨ひて、追つて御計(はから)ひ有るべし。』

てへり。

 

禁欲的に注する。

・「辰の刻」午前八時頃。

・「上計」お上(将軍頼嗣)のお考え。

・「貴殿を誅伐せらるべきの構へに非ざるか。」この「か」は係助詞の文末用法(或いは終助詞)で自問を含んだ詠嘆である。「貴殿を誅伐なさろうなどというような心積もりでは毛頭あられませぬのですなぁ。」

・「日來(ひごろ)のごとく、異心有るべからず。」「普段通り。疑心など毛頭あろうはずは、ない。」

・「御誓言」神文(しんもん)に添えて誓った誓約のこと。

・「猶ほ出居(でゐ)に在り」応対した客間から動かなかったのである。激しい精神的ストレスを経て、突然、安堵した結果、全身脱力し、腰も立たなかったものであろう。

・「驕りを窮め、益々當家を蔑如するの時」になってから「憖(なまじ)ひに對揚の所存を顯は」()したのでは、もう遅過ぎであって、「還へつて殃(わざわひ)に逢ふ」、こっちが赤子の手をひねるように簡単に滅ぼされてしまうぞ!

・「宮中」鶴岡八幡宮寺境内の内(うち)。「みやうち」と仮に訓じておく。

・「盛阿歸參以前」この「歸參」は後に出るように、幕府の執権時頼に報告するために向かうことを指す。

・「車排(くるまならべ)」ここは牛車や輿などの車置き場であろう。

・「暴疾」即座にむごたらしく殺されることの意であろう。

・「車排(くるまならべ)を撤(てつ)せしめ」先の車置き場から牛車や輿を片付けて、実戦本部に仕立てたものか。

・「分取(ぶんどり)を獲(え)たり」敵の首級を幾つも捕った。

・「巳の尅」午前十時頃。

・「若州」若狭守で三浦泰村のこと。既に注した通り、西阿の妻の兄である。

・「年來の一諾」普段からいつも約束していたこと。

・「盍ぞ後聞を耻ぢざらんや」ゆくゆく起こるであろうところの親族を裏切ったという蔭口をあなたは恥じるところがないのですか?

・「諍(いさか)ひ留むるに能はず。是れ、親昵(しんじつ)の好(よし)みを存(ぞん)ずるに非ず。且つは泰村に與同(よどう)の本意を却(しりぞ)けずして、一所に於いて追討を加へんが爲なり。尤も武道に叶(かな)ひ、情、有り」難解な部分である。甥であった長井泰秀は『議論を尽くして、叔父西阿が三浦につくというのをやめさせることはどうしても出来なかった。親族であるという好(よし)みであるから当然、そうするのが普通と考えるかもしれない。しかし、そうではない。寧ろ――彼が三浦について三浦と同心し、結局、それを私が追討する――それを、せねばならぬ、それが定めだ――という思いが深く起ったためである。それこそが――最も武士(もののふ)の道に適っており、私だけではなく、西阿にとっても、人としての「情け」というものに合致するものだ――という意識が沸き起こったからだ』という風に私は読む。……しかし、である。

……西阿は本当に、妻の一言で発心するように、鮮やかに三浦への同心を定めたのだろうか?

彼はそれまでの事蹟から見ても、鎌倉幕府内での状況を十全に把握していたと私は思うのである。

さればこそ、ここに至る遙か以前に、三浦を滅ぼす謀略が時頼―安達ラインの中で、粛々と計画され、順調に謀議されていたことも知尽していたもと考えるのが自然である。

さすれば、西阿は、あらゆる状況から考えて、

この日、三浦が滅ぼされるであろうことも予見していた

と推理していたと考えるのが自然である。

さればこそ、

彼は何の躊躇もなく、幕府方へつくために家を出ようとしたのである。そこでの妻の恨み言なんぞはとうに既に想定していたと考えるのは「当たり前だのクラッカー」でこそあれ、百八十度、決心を変える契機などにはなりはしなかったはずだ、と私は思う

のである。

しかしである。

事実、彼は突如、翻意するのである。

それは何故か?

……私はまさにこの甥の泰秀と邂逅した瞬間こそ、その決意が固まった瞬間だったのではなかったか? と考えたい

のである。

……この時まで西阿は迷っていた。……そうして甥が自分と同じく、何の迷いもなく、当然の如く、時頼方に馳せ向かうのに行き逢ったその時……

……その時……

西阿には――亡き長兄のことが――フラッシュ・バックしたのではなかったろうか?

と私は考えるのである。

彼の兄である大江広元の長男大江親広(?~仁治二(一二四二)年)は源頼家や実朝の側近として重用され、建保七(一二一九)年の実朝暗殺後に出家、同年に京都守護となるも、その直後に起った承久の乱では後鳥羽上皇に從って、北条泰時軍と戦い、敗れて後、出羽寒河江(さがえの)荘(現在の山形県西村山郡西川町内)に遁れ、そこで不遇のうちに亡くなったとされる。彼の法名は蓮阿であり、西阿と同じく、浄土宗の信者であったことは最早、疑いない(父広元が嘉禄元(一二二五)年に逝去した際には息子の佐房に使いとして送り、阿弥陀如来尊像を彫刻させて、胎内に広元の遺骨を納めて寒河江荘の阿弥陀堂に安置したともウィキの「大江親広にはある。阿弥陀である。彼は間違いなく、念仏宗なのである)。

……とすれば……

……彼、西阿は――「……次は私の番だ……」――と考えたのではなかったか?

……兄が大江の血筋を意識しながらも(但し、親広は強力な親幕派公卿であった源通親の猶子となって源親広と称してはいた)、後鳥羽上皇方についたのは、王家(天皇)に弓引くことなく従ったという点に於いて、それこそ「武士(もののふ)」のあるべき姿であったし、しかも同じ念仏の信仰者でもあったのだった。

……ここで、大江の血を繋げる甥泰秀が幕府へ当然に馳せ参じるの見た時――西阿は、

「……彼がいる……彼が大江の血として華やかに、残るのだ。……私は……私は兄のように……そうして、妻の言う……「武士(もののふ)」の正しき行いとして……負けることの分かっている三浦に――つこう。……そうして……亡びゆく彼らを……兄が父にしたように……「念仏」を以って浄土に引導する役目を……果たそう。……」

と決したのではなかろうか? さらに言えば、この「吾妻鏡」の記載者が前に述べた通り、泰秀の孫長井宗秀であれば、そうした大江一族の思いをここの描写で秘かに代弁しようとしたとしても、少しもおかしくない、と私は思うのである。

・「毛利入道殿」毛利季光、西阿のこと。

・「午の刻」正午頃。

・「伴黨(ばんたう)」それに従う一党。

・「相ひ支ふる」進行を遮った。

・「法事讚(ほふじさん)」浄土教の開祖である唐の僧善導の著。「浄土法事讃」とも称する。「阿弥陀経」と讃文とを交互に掲げ、懺悔供養などの法式を明らかにしたもの。ここはその中の幾たりかの経と讃とを唱和したものであろう。

・「調聲(てうしやう)」読経の際の音頭を執ること。

・「石橋」「しやくけう(しゃっきょう)」と読みたい。

・「武藏藏人太郎朝房」北条時房の子朝直(ともなお 建永元(一二〇六)年~文永元(一二六四)年)の長男(らしい)北条朝房(?~(一二九五)年)。この時は事実、義絶されていたようだが、この宝治合戦でのこの功績によって許され、後には九州方面で守護を勤めているようである。

・「父朝臣義絶の身たり」「朝臣」は「朝直」の誤字であろう。北条朝直はウィキの「北条朝直によれば、『時房の四男であったが長兄時盛は佐介流北条氏を創設し、次兄時村と三兄資時は突然出家したため、時房の嫡男に位置づけられて次々と出世』したものの、正室が伊賀光宗の娘で、貞応三(一二二四)年六月に起った伊賀氏の変(第二代執権北条義時の死去に伴って伊賀光宗とその妹で義時の後妻(継室)であった伊賀の方が伊賀の方の実子北条政村の執権就任と娘婿の一条実雅の将軍職就任を画策して未遂に終わった政変)で『光宗が流罪となり』、嘉禄二(一二二六)年二月には、『執権北条泰時の娘を新たに室に迎えるよう父母から度々勧められる』も、二十一歳で『無位無官の朝直は愛妻との離別を拒み、泰時の娘との結婚を固辞し続け』、『翌月になっても、朝直はなおも執権泰時、連署である父時房の意向に逆らい続け、本妻との離別を哀しむあまり出家の支度まで始めるという騒動になっている。その後も抵抗を続けたと見られるが』、五年後の寛喜三(一二三一)年四月、『直の正室である泰時の娘が男子を出産した事が『吾妻鏡』に記されている事から、最終的に朝直は泰時と時房の圧力に屈したと見られる』。『北条泰時から北条政村までの歴代執権に長老格として補佐し続けたが寄合衆にはついに任じられなかった』とある。そのトンデモ父から勘当(「義絶」)されているというのだから(理由は不明)、ちょっと凄い。

・「一(いつ)も有情(うじやう)の相ひ從ふ無し」(前注の通りの我儘から総スカンを喰らっていた朝直の、その息子なれば)意気に感じて彼に助力してやろうと従う者は誰一人としていない。

・「輙(たやす)く討ち取らんと欲するの處、金持(かねもちの)次郎左衞門尉〔泰村が方。〕に扶(たす)けられ、其の命を全うす」何とも情けないのは、敵方の三浦から見ても鎧もつけずに、馬も瘦せ馬で、ドン臭い奴だから、容易に討ち取れると思われていたところが、何とまあ、その当の敵方であるところの「金持次郎左衞門尉」が、あんまりだ、とお情けで、命をとらずに、見逃してやった結果、命拾いした、というのである。「平家物語」以来の軍記物風書き物の特徴であるところの、哄笑を忘れぬ配置と言える。朝房はよっぽど嫌われていたものと見えるが、ここまで笑いものとするのは、ちと理不尽な気はする。

・「三刻」約一時間半。

・「宗(むねと)」三浦方についた主だった家長に属する代表者とその直系一族。

・「幕府の番帳を聽(ゆる)さるるの類」幕府に出仕する高級・中堅職員として、出仕記名名簿への記帳を許可されている(義務づけられている)御家人であろう。

・「平内左衞門尉景茂」長尾景茂(?~宝治元(一二四七)年)。ウィキの「長尾景茂」によれば、『公暁を討った長尾新六定景の嫡男として生まれる。長尾家は当時三浦氏の郎党であった。三浦氏は北条氏の外戚として勢威を振るっていたが』、この宝治合戦で『景茂らも自刃した。長尾一族はほとんど絶え、生き残りは景茂の子である景忠(四郎)など、わずかであったという』とあるが、一応、没年には表記通り「?」が附されている。実は一族自刃後の遺体は損傷が激しく(識別不能とするための意図的なものと考えられる)、遺体の同定は困難を極めたらしい。さればこそ、「吾妻鏡」も最後に「缺落(かけおち)、或は逐電」と記して厳重に探索しているのである。

・「子息四郎景忠に行き逢ひ、之れを生虜(いけど)り、持參す」とあり、殺したとは書いていない。恐らくは末子で少年だったのであろう。彼ぐらいは生き残らせたい気がする。

・「甲冑の勇士等十餘騎、壹岐前司の行路を塞ぎ、先登を諍ふの間、泰綱、其の名字を問ふと雖も、敢へて返答に能はず。而るに景茂等所在せざるに依つて、合戰の儀無し。剩へ彼の勇士、名謁(なのり)乍ら、逐電す」この連中、実に怪しい。三浦の残党の生き残りが、それこそ駆落・逐電するため、或いは誰かを逃がすために演じた、一芝居だった可能性も拭えない気がする。「吾妻鏡」筆者、これ、最後の最後に、実に美事な謎、サスペンスを仕掛けてある気がする。

・「申の刻」午後四時頃。

・「北條重時」(建久九(一一九八)年~弘長元(一二六一)年)は第二代執権北条義時三男で第三代執権泰時は異母兄。六波羅探題北方や鎌倉幕府連署などの幕府要職を歴任した。

・「奏聞」朝廷への上奏文。

・「休幕」幕を廻らした休憩に設けられた場所らしい。

・「巳の尅」午前十時頃。

・「久我通光」(こがみちてる 文治三(一一八七)年~宝治二(一二四八)年)は公卿。従一位太政大臣。ウィキの「久我通光によれば、『内大臣源通親の三男であるが、後鳥羽天皇の乳母・藤原範子所生のため嫡男の扱いを受けることになった。範子の連れ子で異父姉の承明門院が土御門天皇を生んでいる。一般的には久我家の祖と考えられて』おり、歌人としても知られ、『新三十六歌仙の一人』である。正治三(一二〇一)年に『公卿となり、異母兄堀川通具を越して昇進し、兄が任ぜられなかった右近衛大将を経て』建保七(一二一九)年には『内大臣に任じられる。承久の乱の折に後鳥羽上皇の皇子・雅成親王の義父だった事から、鎌倉幕府から恐懼に処せられ籠居を命じられる。だが、その後も密かに隠岐国の後鳥羽上皇と連絡を取り合っていたと言われている。後に後嵯峨天皇の大叔父として、弟の土御門定通とともに権勢を振るい』、寛元四(一二四六)年、『西園寺実氏の後に従一位太政大臣に昇った』。『公卿に任ぜられた年と同年、歌合(「千五百番歌合」)への参加を許されて』、「新古今和歌集」などの『勅撰和歌集に収められるなど当代を代表する歌人の一人でもあり、また琵琶に優れていたなど才気に溢れた人物として知られた』とある。

・「左近將監」北条時頼。

・「相摸守」北条重時。

・「追つて啓す」追伸の敬意表現。

・「禮紙」「点紙」「裏付」とも称し、書状の本文に添えて、同質の紙を重ねて出したもので、通常は白紙であったが、このように追伸をに及んだものも稀にあり、これはその特異例のようである。

・「兼日」「兼ねての日」の音読みで、あらかじめ、日頃、以前から、の意。

・「馳せ參ずべからず」(既に事態は収束したのであるから)今から鎌倉に馳せ参ずるようなことは全く以って必要ないし、してはならぬ。

・「仰せ」頼嗣将軍の命令。

・「雜掌」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条の現代語訳に、『三浦家京都出張所在留の雑務人』とある。同ページには宝治合戦関連の地図も載り、必見である!

・「國々の代官所從等の事」同じく「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条の注によれば、『三浦家が守護地頭をしていた国々』にいる、その代官や家来らの処遇を指す。

・「御沙汰に及ばずと雖も、委しく尋ね明らめ、注し申すに隨ひて、追つて御計ひ有るべし」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条の現代語訳に、『命令は出て居なくても、詳しく調べて明らかにし、書き出された文書によって、後で処理を指図』する、とある。]

原民喜「かげろふ断章」より「昨日の雨」

[やぶちゃん注:「かげろふ断章」(内部中標題「昨日の雨」「断章」「散文詩」から構成)は原民喜の死後に刊行された、昭和三一(一九五六)年刊青木文庫版「原民喜詩集」を初出とする。底本の青土社版「原民喜全集 Ⅲ」には、原民喜自身による以下の「後記」が途中(詩篇「回想」の後。編者解説によれば、同全集Ⅲの詩篇の配列は原民喜自身が構成したノートの配列に拠っているとある)に入る(以下、読む通り、この「後記」が書かれたのは昭和一六(一九四一)年である。従って恣意的に正字化して示すこととした)。

   *

後記 ここに集めた詩は大正十二年から昭和三年頃のものであるが、その頃のありかは既に陽炎の如くおぼつかない。今これらの詩を讀返してみるに一つ一つの斷章にゆらめくものがまた陽炎ではないかと念へる。附錄の散文詩は昭和十一年の作である。

昭和十六年九月二日、空襲避難の貴重品を纏めんとして、とり急ぎ淸書す。

   *

「讀返」(底本は「読返」)はママ。「大正十二年から昭和三年頃」は民喜は十八歳から二十三歳。なお、これは空襲避難のための事前準備であるので注意されたい。調べたところ、東京に初めて空襲警報発令されたのは翌昭和十七年三月五日で、本格的な日本本土空襲であるドゥリットル(指揮官であった中佐の名)空襲(米陸軍機B-25十六機による東京・名古屋・神戸などでの初空襲)は同年四月十八日のことである。

 この民喜の記載から、詩篇も総て戦前のものであり、清書も戦中であることが明白である。されば、標題を除き(この標題の決定と記載は必ずしも戦中以前とは確定し難いからである)、総ての詩篇を恣意的に正字化することとした。]

 

昨日の雨

 

 散歩

 

誰も居てはいけない

そして樹がなけらねば

さうでなけられば

どうして私がこの寂しい心を

愛でられようか

 

[やぶちゃん注:「なけらねば」はママ。]

 

 

 

 蟻

 

遠くの路を人が時時通る

影は蟻のやうに小さい

私は蟻だと思つて眺める

幼い兒が泣いた眼で見るやうに

それをぼんやり考へてゐる

 

 

 

 机

 

何もしない

日は過ぎてゐる

あの山は

いつも遠いい

 

[やぶちゃん注:「遠いい」はママ。]

 

 

 

 四月

 

起きもしない

外はまばゆい

何だか靜かに

失はれてゆく

 

 

 

 眺望

 

それは眺めるために

山にかかつてゐたが

はるか向うに家があるなど

考へてゐると

もう消えてしまつたまつ白のうす雲だ

 

 

 

 遅春

 

まどろんでいると

屋根に葉が搖れてゐた

その音は微けく

もう考へるすべもなかつた

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「微けく」は「かそけく」と読む。]

 

 

 

 夏

 

みなぎれる空に

小鳥飛ぶ

さえざえと晝は明るく

鳥のみ動きて影はなし

 

 

 

 川

 

愛でようとして

ためいきの交はる

ここの川邊は

茫としてゐる

 

 

 

 川

 

川の水は流れてゐる

なんといふこともない

來てみれば

やがて

ひそかに歸りたくなる

 

 

 

 小春日

 

樹はみどりだつた

坂の上は橙色だ

ほかに何があつたか

もう思ひ出さぬ

ただ いい氣持で歩いてゐた

 

 

 

 秋空

 

一すぢの坂は遙けく

その果てに見る空の靑さ

坂の上に空が

秋空が遠いい

 

[やぶちゃん注:「遙」の用字は底本のもの。「遠いい」はママ。]

 

 

 

 遠景

 

幼いのか

山はひらたい

ぼつちりと

陽が紅らんだ

 

 

 

 冬

 

こはれた景色に

夕ぐれはよい

色のない場末を

そよそよと歩けば

 

 

 

 波紋

 

すべてはぼんやりとした

ぼんやりとして空も靑い

水の上の波紋はかすか

すなほなる想ひに耽ける

 

 

 

 愛憐

 

ひつそりと 枝にはじけつ

はじけつ

空に映れる

靑める雪は

 

 

 

 月夜

 

雲や霧が白い

ほの白い

路やそして家も

ところどころにある

 

 

 

 淡景

 

淡い色の

たのしみか

そのままに

樹樹は並んだ

 

 

 

 疲れ

 

雪のなかを歩いて來た

まつ白な路を見て

すやすやしながら

大そう うつかりしてゐた

 

 

 

 京にて  ――悼詩

 

眺めさせや

甍の霜

夢のごとおもひつつ

この霜のかくも美(は)しき

 

 

 

 春望

 

つれづれに流れる雲は

美しさをまして行く

春陽の野山に

今日は來て遊んだ

 

 

 

 旅懷

 

山水の後には

空がある

空は春のいたるところに

殘殘と殘されてゐる

 

 

 

 山

 

影こそ薄く

思ひは重し

霞のなかの山なれば

山に隱るる山なれば

 

 

 

 梢

 

ふと見し梢の

優しかる

みどり煙りぬ

ささやかに

 

 

 

 雲

 

私の一つ身がいとしい

雲もいとしい

時は過ぎず

うつうつと空にある

 

 

 

 川の斷章

 

  1

 

川に似て

音もない

川のほとり

川のほとりの

 

  2

 

空の色

寂び異なるか

水を映して

水にも映り

 

  3

 

思ひは凍けて

川ひとすぢとなる

 

  4

 

遠かれば

川は潛むか

流るるか

悠久として

 

  5

 

現世(うつしよ)の川に

つながるものの

現世の川に

ながれゆくもの

 

 

 

 海

 

ねむれるにあらずや

仄かにしたはしき海

たまきはる命をさなく

我はまことになべてを知り得ず

 

 

 

 五月

 

遠いい朝が來た

ああ 綠はそよいでゐる

晴れ渡つた空を渡る風

なにしに今日はやつて來たのだ

 

 

 

 白帆

 

あれはゆるい船だが

春風が麦をゆらがし

子供の目にはみんな眩しい

まつ白な帆が浮んでゐる

 

 

 

 偶作

 

旅に來て

日輪の赤らむのを見た

朝は田家の霜に明けそめて

磯松原が澄んでゐる

一色につづく海が寒さうだ

 

 

 

 春雨

 

雨は宵に入つてから

一層 靜かであつた

床についてからは

降るさまがよく描かれた

 

 

 

 冬晴

 

冬晴の晝の

靑空の大きさ

電車通りを

疲れて歩く

 

 

 

 春の晝

 

日向ぼこにあきて

家に歸らうとすると

庭石の冷たさがほろりとふれた

ひつそりとして障子が見える

 

 

 

 四月

 

晝は殘いねむりのなかに

身を微かなものと思ひつつ

しばらくは鳥の音も聽かぬ

そよ風の吹く心地して

 

 

 

 花見

 

櫻の花のすきまに

靑空を見る

すると ひんやりしてゐるのだ

花がこの世のものと思はれない

 

 

 

 靑葉

 

朝露はいま

滴り落ちてくる

いたづらに樹を眺めたとて

空の靑葉は深深としてゐる

 

 

 

 ねそびれて――熊平武二に

 

障子がぼうと明るんでゐる

廊下に出て見給へ

あんな優しい光だが

どこか鋭い

 

[やぶちゃん注:「熊平武二」(くまひらたけじ 明治三九(一九〇六)年~昭和三五(一九六〇)年)は詩人。広島市生まれ。民喜の級友で、学歴も広島高等師範学校附属小学校・中学校から慶応義塾大学と全く同じである。 一六、七才の頃からら詩作を始め、北原白秋に認められ、昭和一五(一九四〇)年に詩集「古調月明集」を出版している。大正一二(一九二三)年、民喜(十八歳)が参加した同人誌『少年詩人』の同人でもあり、翌年に始まる民喜の句作は熊平の影響による。]

 

 

 

 昨夜の雨

 

靑くさはらはかぎりもない

空にきく雲雀の聲は

やがて淋しい

 

うらうらと燃えいでる

昨日の雨よりもえいでる

陽炎が濃ゆく燃えいでる

 

[やぶちゃん注:ここに彼が転生する「雲雀」が既にして登場することに注目されたい。]

 

 

 

 卓上

 

牡丹の花

まさにその花

力なき眼に

うつりて居る

 

 

 

 旅の雨

 

雨にぬれて霞んでゐる山の

山には山がつづいてゐる

眞晝ではあるし

雨は一日降るだらう

 

 

 

 靑空

 

うつろにふかき

ながまなこ

ただきはみなくひろがりて

かなしきものをかなしくす

 

 

 

 小曲

 

人に送る想ひにあらず

蓮の花浮べし池は

なみなみと水をたたへつ

小波と風のまにまに

 

 

 

 冬の山なみ

 

けふ汽車に乘つて

山を見る

中國の山脈のさびしさ

都を離れて山を見る

山が山にかさなり

冬空はやさしきものなり

2016/03/23

北條九代記 卷之八 將軍家御臺逝去 付 左近大夫時賴泰村が館を退き歸る 竝 時賴泰村和平

      ○將軍家御臺逝去

         左近大夫時賴泰村が館を退き歸る

         時賴泰村和平

さる程に、左近大夫時賴は、如何にもして、泰村が野心を宥(なだ)め、世を靜めばやと思はれければ、先づ泰村が次男、駒石丸(こまいしまる)を時賴の養子たるべき旨、約諾あり。されども、泰村愈(いよいよ)兄弟獨歩(どくぼ)の威(ゐ)を施し、將軍家の嚴命を用ひず、無禮にして、奢(おごり)に長じ、兄弟一族等(ら)が振舞、諸人、彈指(つまはじき)をぞ致しける。かゝる所に、去ぬる五月十三日、將軍賴嗣の御臺所、卒(そつ)したまふ。日比、御惱(なやみ)重かりければ、大法祕法、醫針灸治(いしんきうぢ)、樣々術(じゆつ)を盡すといへども、更にその驗(しるし)なく、終に、はかなくなり給ふ。今年まだ十八歳、花の僅(わづか)に綻(ほころ)びて、盛(さかり)を待つだに遙(はるか)なるを一朝の嵐(あらし)に散落ちて、憂き世の歎(なげき)を殘し給ふ。故武藏守経時の墓の傍(かたはら)に埋み奉りけるこそ悲しけれ。御一族の愁傷は申すも中々愚(おろか)なり。時賴、御輕服(ごけいふく)にて、若狹前司泰村が亭に寄宿し給ふ。同二十七日に至(いたつ)て、三浦の一族殘(のこり)なく、泰村が家に群集(つどひあつ)る。時賴の御前に、伺候(しこう)するにもあらず、拜禮を遂(とぐ)るにもあらで、奥深く居寄(ゐよ)せて、額(ひたひ)を合せて、私評(さゝやき)けるこそ覺束(おぼつか)なけれ。夜に入りて、鎧(よろひ)、腹卷(はらまき)の音、耳もとに聞えけり。日比、逆心の企(くはだて)有る由、告知(つげしら)する人多しといへども、差(さし)て信用なきの所に、今、既に符合せりと思合(おもひあは)せ、侍一人に太刀を持(もた)せ、潛(ひそか)に本所に歸り給ふ。泰村、大に驚き、寢食を忘れて案居(あんじゐ)たり。翌日、夜に入りて、時賴の方より、近江〔の〕四郎左衞門尉を使として三浦が許に遣(つかは)され、氏信、行向(ゆきむか)うて伺見(うかゞひみ)るに、若狹前司親類一族、面々に兵具を用意し、弓矢、旗棹(はたざを)、鎧櫃(よろひびつ)、數を盡して竝べたり。氏信、かくと案内しければ、泰村、出合ひて、仰(おほせ)の旨を承り、さて御返事と思しくて、申しけるは、「この間、世上物騷(ぶつさう)の事、泰村が身の上と覺え候。泰村が兄弟、皆、他門の宿老に越(こえ)て、正五位〔の〕下に叙せられ、その外の一族共(ども)、大概は官位を帶(たい)し、守護職數ヶ國、莊園數千町、三浦一家の榮運、こゝに極り、上天の加護、測難(はかりがた)し。讒訴(ざんそ)の愼(つゝしみ)なきに非ず。口惜くこそ候へ」といひければ、氏信、聞きて、「如何に、左樣には思召し候やらん。御料(おんとが)なき趣(おもむき)は、靜に申させ給ふべし。御一族の御中に、何か隔(へだて)の候べき」とて座を立ちて出でければ、泰村、送りて出られ、「宜しきやうに申させ給へ」とて内に入りけり。氏信、歸りて、用意の次第、悉く申入れたり。時賴は舊老の輩(ともがら)に密談して、愈(いよいよ)用心嚴(きびし)くぞせられける。翌日未明(びめい)より、近國の御家人等(ら)、馳參(はせさん)じて、時賴の館(たち)の四方、雲霞の如く打圍(かこ)み、非常を誡(いまし)め、門々を堅めて、守護しけり。若狹前司泰村、この由を聞きて、時賴の方へ使を立てて申しけるは、閭巷(りよかう)の謳歌、他人の讒濫(ざんらん)に付けて、泰村が一家親屬(しんぞく)、無實の科(とが)を蒙る事、恐(おそれ)なきにあらず。毛頭(まうとう)の野心を存せずといへども、催(もよほ)し給ふ所、頗(すこぶ)る物騷(ぶつさう)なり。只深く本(もと)を正(たゞ)され候べし。御不審、晴れられ候はば、國々の御家人等を、追返し給ふべきなり。若(もし)、又、他の上を誡(いまし)めらるべき事あらば、御大事、如何にも貴命(きめい)に隨ひ奉るべき旨をぞ、申し送りける。泰村、内々相催す事あるに依て、三浦の一族、諸国の領所より、追々に馳參る。時賴の御方には、當時、伺候の輩は云ふに及ばす。諸方の御家人等、日を追ひて參重(まゐりかさな)りて、鎌倉中に充滿す。同五日、時賴は、萬年馬(まんねんうまの)入道、平左衞門入道盛阿(じやうあ)を以て、御書を泰村に遣さる。「世上の物騷、只事にあらず。偏(ひとへ)に天魔の所爲(しよさ)なるべし。貴殿を誅伐(ちうばつ)せしむべき構(かまへ)あるの由、更に非據(ひきょ)の雜説(ざふせつ)なり。この上は、日來(ひごろ)、別心あるべからず。今、何ぞ、怨を起すべきや」とて誓言(せいごん)を加へて送られけり。盛阿入道、和平の子細を述(のべ)しかば、泰村は御書を讀みて喜悦の餘(あまり)、三度頂戴して、返事の趣、具(つぶさ)に申渡(まうしわた)しければ、和平、既に調ひ、盛阿、座を立ちて歸參しけり。三浦の郎従等は安堵の思(おもひ)を致して、喜ぶ事、限(かぎり)なし。然れども、泰村が舍弟光村、家村、彌(いよいよ)心奢(おご)りて野心を捨(すつ)る事なし。運命の招く所、力及ばぬ次第なりと眉を顰(ひそ)むる計(ばかり)なり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十八の宝治元(一二四七)年五月六日・十三日・二十一日・二十七日・二十八日、六月一日・二日・三日・四日・五日などに基づく。

「駒石丸」結局、宝治合戦で自刃しているようである。

「將軍賴嗣の御臺所」第五代将軍藤原頼嗣の正室であった檜皮姫(ひわだひめ 寛喜二(一二三〇)年~宝治元(一二四七)年)。北条泰時長男であった北条時氏の娘で母は松下禅尼。北条経時・時頼の妹であった。この二年前の寛元三(一二四五)年七月二十六日、十五歳で六歳の新将軍頼嗣の正室として嫁がさせられている。ウィキの「檜皮姫」によれば、『この婚姻成立によって、頼経の正室・竹御所の死後に失われた北条氏の将軍家外戚の地位を復活させた』とあるが、『時頼が執権職を継いで将軍派との対立が激化する中、檜皮姫は病床に伏し、加持祈祷の甲斐なく』死去したとある。当時の頼嗣は未だ満七歳の少年である。

「故武藏守経時の墓の傍(かたはら)に埋み奉りける」将軍家正室とはいえ、実際には未だ少女で処女であったろうから、別格である泰時以外に強い血縁者の墳墓がなく、兄の墓に側墓されたものであろう(何となくでも確かに「悲しけれ」という感じがする)。その墓所も今や失せているから(恐らくは現在の鎌倉文学館のある谷戸と推定される)……

「輕服(けいふく)」正しくは「っきやうぶく(きょうぶく)」と読む。通常は遠縁の者などの死去によって生ずる軽い服喪、及び、その期間中に着用する略式の喪服を指す。既に述べた通り、檜皮姫は時頼の妹であって近親であるが、そこは将軍家の正室という格の相違が働き、厳重に服喪するのは却って分不相応であったものかも知れない。

「若狹前司泰村が亭に寄宿し給ふ」時頼の、この見え透いた行動こそが、私が時頼を生理的に嫌いな理由の核心にある。ここでは数日間、時頼が三浦邸にいたように読めるが、「吾妻鏡」によれば、寄宿しに入ったのは五月二十七日で、その日の夜のうちに、逃げ出しているのである。

「腹卷」勘違いしてはいけない。これは鎧の一種で、最も簡便にして軽量な造りでありながら腹部が細くなって身体に密着し、腰から下を防御する草摺も細かく分かれて、足の自由が大鎧等に比べて、各段によく、白兵戦に適合した動き易い実用第一の鎧である。暗殺される拝賀の式の早朝、かの大江広元が、不審にも涙まで流して、実朝に対し、装着して行かれるのがよろしいと突如言ったのもこの「腹巻」であった。お暇な方は、藪野史(ふびと)いクソ小説「雪炎」を御笑覧あれ。

「侍一人に太刀を持せ、潛に本所に歸り給ふ」何で! 物騒で警護厳重なはずの三浦邸からコッソリ(!)脱出、出来るんダイ! 嘘コケ! 因みに、三浦屋敷は八幡宮の東北の現在の横浜国大附属が建っている附近、御所の「西御門」(現在地名がこれ)に相当する場所にあった。従って近いちゃあ、ごく近いんである。デモネ……どうもこの話、如何にも嘘つっぽい謀略の感じが、ひどく嫌いなんだよなぁ……

「翌日」誤り。事実は三日後の六月一日(「吾妻鏡」に記載有り)。寄宿は五月二十七日であるが、同寛元五年の五月は小の月で二十九日で終るからである。

「近江四郎左衞門尉」は「氏信」と同一人物。佐々木氏信(承久二(一二二〇)年~永仁三(一二九五)年)のこと。ウィキの「佐々木氏信」によれば、『佐々木氏支流京極氏の始祖であり、京極 氏信(きょうごく うじのぶ)とも。父は佐々木信綱、母は北条義時の娘とされる』。承久二(一二二〇)年、『後に近江の守護へと任ぜられる佐々木信綱と、その正室である執権北条義時の娘との間に』四男として『生まれたとされる。母は武蔵国河崎庄の荘官の娘とする説もある』。仁治三(一二四二)年に『父が死去し、江北に在る高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡と京都の京極高辻の館を継ぐ。これにより子孫は後に京極氏と呼ばれるようにな』った。この後の文永二(一二六五)年には『引付衆、翌年には評定衆に加わり』、弘安六(一二八三)年には『近江守へと任ぜられ』た。『鎌倉の桐ヶ谷(きりがや)にも住んでおり、桐谷(きりたに)氏とも呼ばれた』とある。

「莊園數千町」誤り。「吾妻鏡」には「數萬町」とある。面積単位の一町は〇・九九ヘクタールでほぼ一ヘクタールに近いので、数万ヘクタールと言い変えてよい。東京ドームは四・七ヘクタールだそうだから、仮に六万ヘクタールとすると、ドーム一万二千八百三十三個分弱になる。

「靜に申させ給ふべし」兵や武具を集めるのではなく、穏やかに言葉で潔白を御弁明なされれば宜しゅう御座いましょう。

「御一族の御中」北条得宗家と御一族の御仲であられますのですから。

「何か隔の候べき」時頼様がどうして貴殿を遠ざけ、隔てること、これ、御座いましょうや? 御座いませぬ。

「舊老」古くからの家臣連。

「翌日」六月二日。

「閭巷(りよかう)の謳歌」鎌倉の巷(ちまた)に於ける喧(かまびす)しい落首のような節をつけてがなる諷刺歌。具体的には三浦への罵詈雑言、悪口(あっこう)である。

「他人の讒濫」他人が三浦一族を陥れるためにする洪水のように流れ溢れる讒言の数々。

「只深く本(もと)を正(たゞ)され候べし」どうか、ただただお願い致しまするは、ただ一つ、このような一触即発の異常極まりない事態となっている大本(おおもと)、その原因を、糺され、お確かめになって下さいまするように。

「他の上を誡(いまし)めらるべき事あらば、御大事、如何にも貴命(きめい)に隨ひ奉るべき」私ではない、誰か他の幕府に弓成す豪族を誅伐なさらねばならない――そのために異様な数の御家人が我が屋敷はおろか、鎌倉中に参集しているというのであるならば――我ら三浦一族挙げて、その不届き者誅殺の御大事のために、御命令に喜んで従い申し上げて、兵を挙げまするので、御命令下されい。

「同五日」六月五日。

「萬年馬(まんねんうまの)入道」得宗被官の一人であるらしい以外は不詳。

「平左衞門入道盛阿(じやうあ)」平盛綱。既出既注であるが、再掲する。平盛綱(生没年不詳)は得宗家家司で後の内管領長崎氏の祖。ウィキの「平盛綱」によれば、『執権が別当を兼ねる侍所の所司を務める。承久の乱や伊賀氏の変の処理において実務能力を発揮して北条泰時・経時・時頼ら鎌倉幕府執権の北条氏に家司として仕え』て、三代の執権を助けた。『承久の乱の後に幕府の「安芸国巡検使」として安芸国に赴き、同国国人の承久の乱当時における動静を調べて泰時に報告したことなどは、その事跡の一つである』。元仁元(一二二四)年には『泰時の命令を受けて北条氏の家法を作成したとされる。御成敗式目制定の奉行も務め、初の武家成文法の制定に関与し』ている。文暦元(一二三四)年には『家令の地位に就いて、後世その子孫が幕府内管領の長崎氏として発展する礎を築いた』。仁治三(一二四二)年に出家隠退、「吾妻鏡」によれば建長二(一二五〇)年の三月には既に逝去していることが知られているものの、詳細は不明。後、第九代執権北条貞時によって正応六(一二九三)年四月に滅ぼされた平頼綱(平禅門の乱)は彼の孫である(頼綱の滅亡後は同一族の長崎光綱が惣領となり、得宗家執事となった。鎌倉幕末期に権勢を誇った長崎円喜はその光綱の子に当たる)。

「更に非據(ひきょ)の雜説(ざふせつ)なり」(三浦が北条得宗家を攻めようとしているといった)流言飛語は全く以って根拠のない、妄説デマゴークである。

「別心あるべからず」貴殿(三浦泰村)に背くような気は毛頭あろうはずが、ない。

「今、何ぞ、怨を起すべきや」今ここで、何の理由があって、何の目的で、貴殿に恨みを抱くはずがあろうか?! いや、ない!

「泰村は御書を讀みて喜悦の餘、三度頂戴して、返事の趣、具(つぶさ)に申渡(まうしわた)しければ、和平、既に調ひ、盛阿、座を立ちて歸參しけり」「三度頂戴」三度も押し戴いて。かなり有名な話だが、このまやかしの和平交渉が確かに成立したかのように見えたその日(実は三浦一族滅亡の日であった)、泰村は食べかけていた朝飯の湯漬けを、緊張のあまり、グェーと吐いた、とされる(次の章で「吾妻鏡」の原文を示すが、五日の条にそれが出る)。]

北條九代記 卷之八 三浦泰村權威 付 景盛入道覺地諷諫

      〇三浦泰村權威  景盛入道覺地諷諫

三浦若狹前司泰村は、駿河守義村が嫡子にて、累世(るゐせい)の大名なり。北條泰時には婿(むこ)なり。一家の門葉なるに依(よつ)て、國家の政務を相談せらる。秋田城介(あいだのじやうのすけ)義景は、藤九郎盛長には孫なり。城介景盛入道覺地(かくぢ)が嫡子なりければ、家門に於いて人に恥ず。當時の執權時賴に親(したし)ければ、たがひに威(ゐ)を爭ひ、泰村、義景、兩人が中、快(こゝろよか)らず。このころ、北條相摸守重時は、久しく在京し、六波羅の成敗、西國の仕置(しおき)を勤め、政事に鍛錬(たんれん)ある故に、鎌倉に喚下(よびくだ)し、政務の事を談ずべき由、時賴、申されけれども、泰村、一向に許容せず。しかるに泰村は、時賴に親むやうに見えながら、舎弟光村、家村、以下の一族は、前將軍賴經を慕ひ參(まゐら)せ、時賴に野心を挾(さしはさ)むこと、色に顯(あらは)れて見えにけり。秋田城介景盛入道覺地は、年比、紀州高野山に居住し、この間、鎌倉に歸りて甘繩(あまなは)の家にあり。左近將監時賴の第(てい)に參りて、内々仰合(おほせあは)さるゝ旨あり。子息義景、孫の九郎泰盛を、覺地入道、呼寄(よびよ)せて、種々諷詞(ふうし)を加へける中に、「三浦の一族は、當時の威勢、肩を竝ぶる人なし。頗る傍若無人なり。某(それがし)が家に於ては、對揚(たいやう)にも及ぶまじ。内々思慮あるべき所に、子も孫も、同じ心に武道に怠りて遊興に陷り、うかうかとして月日を送る事、言語道斷の振舞なり。今、若、大事出來すとも、何の用に立つべしとも覺えず。世の笑種(わらひぐさ)となるより外の事、あるまじ。返(かへ)す返(がへ)すも奇怪なり」と申されしは、心ありける諷詞なり。義景も泰盛も、頭(かうべ)を※れ(うなだ)れて敬屈(けいくつ)す。潜(ひそか)に武具を用意せさせ、内々祕計(ひけい)を廻らしける。[やぶちゃん字注:「※」=(にんべん)+{(「つくり」の上部)「弓」+(「つくり」の最下部)「一」}。]

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十八の宝治元(一二四七)年四月十一日の条の他、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、「日本王代一覧」巻五、「将軍記」巻四、「保暦間記」も参照しており、湯浅氏は『三浦泰村と秋田城介義景と不仲のこと等は『日本王代一覧』に拠る。『保暦間記』にも、「其比、関東にも分に随て憍る類もあり。三浦の駿河守か子に、若狭守泰村と申は、時賴縁有けるに依て、憍を成す事夢双也。又、秋田城介義景も、さる子細有て権を執けり。二人中悪して、煩多かりけり」』とある、と記しておられる。

「北條泰時には婿なり」「婿」は不審。妹の婿ではある(あった)。今風に言うなら、姻族で義理の弟に相当する(但し、実年齢では一歳、泰時の方が上である)。泰時は三浦義村の嫡男であった泰村の妹である、矢部の禅尼(文治三(一一八七)年~康元(一二五六)年)が泰時の前の正室であって(離縁理由は不明)、彼女が生んだ時氏は泰時の長男で嫡子であり(但し、早世したために執権にはなっていない)、時氏が賢母として知られた正妻松下禅尼(これがまた安達景盛の娘であった)との間に産んだ長男が第四代執権経時で、次男が第五代執権北条時頼なのである。

「秋田義景」既注であるが、再掲しておく。安達義景(承元四(一二一〇)年~建長五(一二五三)年)は安達景盛嫡男で、子に安達泰盛(後注参照)、覚山尼(北条時宗室)がいる。参照したウィキの「安達義景」によれば、『義景の「義」の一字は義景が』一五歳の元仁元(一二二四)年に『没した北条氏得宗家当主鎌倉幕府第二代執権『北条義時からの拝領と思われ、義時晩年の頃に元服したと考えられている』。『義時亡き後は、北条泰時(義時の子)から経時と時頼三代の執権を支え、評定衆の一人として重用された。幕府内では北条氏、三浦氏に次ぐ地位にあり』、第四代将軍『藤原頼経にも親しく仕え、将軍御所の和歌会などに加わっている。この頃の将軍家・北条・三浦・安達の関係は微妙であり、三浦氏は親将軍派、反得宗の立場であるのに対し、義景は北条氏縁戚として執権政治を支える立場にあった』。『父・景盛が出家してから』十七年後、『将軍頼経が上洛した年に、義景は』二十九歳で「秋田城介」を継承した(本文の読みの「あいだ」は、「秋田」は古く「あきだ」「あくだ」等とも呼称したので、それが音変化したものか)。仁治三(一二四二)年、『執権・泰時の命を受けて後嵯峨天皇の擁立工作を行ない、新帝推挙の使節となった』。この「寛元の政変」で『執権北条時頼と図って反得宗派の北条光時らの追放に関与した。将軍家を擁する三浦氏と執権北条時頼の対立は、執権北条氏外戚の地位をめぐる三浦泰村と義景の覇権争いでもあ』ったため、宝治元(一二四七)年には『三浦氏との対立に業を煮やして鎌倉に戻った父景盛から厳しく叱咤されている。宝治合戦では嫡子・泰盛と共に先陣を切って戦い、三浦氏を滅亡に追い込んだ』。『時頼の得宗専制体制に尽力した義景は格別の地位を保ち、時頼の嫡子・時宗は義景の姉妹である松下禅尼の邸で誕生している。義景の正室は北条時房の娘で、その妻との間に産まれた娘(覚山尼)は時宗の正室となる。また、長井氏、二階堂氏、武藤氏など有力御家人との間にも幅広い縁戚関係を築いた』とある。当時三十七歳。

「藤九郎盛長」安達盛長は知る人ぞ知る頼朝配流以来の腹心中の腹心。

「城介景盛入道覺地」安達景盛(?~宝治二(一二四八)年)。法号は「覚智」とも。これも既注ながら再掲する。頼朝の直参安達盛長(保延元(一一三五)年~正治二(一二〇〇)年)の嫡男。以下、ウィキの「安達景盛」によれば、この事件を詳細に「吾妻鏡」が記録した背景には『頼家の横暴を浮き立たせると共に、頼朝・政子以来の北条氏と安達氏の結びつき、景盛の母の実家比企氏を後ろ盾とした頼家の勢力からの安達氏の離反を合理化する意図があるものと考えられる』とある(以下の引用ではアラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『建仁三年(一二〇三年)九月、比企能員の変で比企氏が滅ぼされると、頼家は将軍職を追われ、伊豆国の修禅寺に幽閉されたのち、翌年七月に北条氏の刺客によって暗殺された。景盛と同じ丹後内侍を母とする異父兄弟の島津忠久は、比企氏の縁戚として連座を受け、所領を没収されているが、景盛は連座せず、頼家に代わって擁立された千幡(源実朝)の元服式に名を連ねている。比企氏の縁戚でありながらそれを裏切った景盛に対する頼家の恨みは深く、幽閉直後の十一月に母政子へ送った書状には、景盛の身柄を引き渡して処罰させるよう訴えている』。『三代将軍・源実朝の代には実朝・政子の信頼厚い側近として仕え、元久二年(一二〇五年)の畠山重忠の乱では旧友であった重忠討伐の先陣を切って戦った。牧氏事件の後に新たに執権となった北条義時の邸で行われた平賀朝雅(景盛の母方従兄弟)誅殺、宇都宮朝綱謀反の疑いを評議する席に加わっている。建暦三年(一二一三年)の和田合戦など、幕府創設以来の有力者が次々と滅ぼされる中で景盛は幕府政治を動かす主要な御家人の一員となる。建保六年(一二一八年)三月に実朝が右近衞少将に任じられると、実朝はまず景盛を御前に召して秋田城介への任官を伝えている。景盛の秋田城介任官の背景には、景盛の姉妹が源範頼に嫁いでおり、範頼の養父が藤原範季でその娘が順徳天皇の母となっている事や、実朝夫人の兄弟である坊門忠信との繋がりがあったと考えられる。所領に関しては和田合戦で和田義盛の所領であった武蔵国長井荘を拝領し、平安末期から武蔵方面に縁族を有していた安達氏は、秋田城介任官の頃から武蔵・上野・出羽方面に強固な基盤を築いた』。『翌建保七年(一二一九年)正月、実朝が暗殺されると、景盛はその死を悼んで出家し、大蓮房覚智と号して高野山に入り、実朝の菩提を弔うために金剛三昧院を建立して高野入道と称された。出家後も高野山に居ながら幕政に参与し、承久三年(一二二一年)の承久の乱に際しては幕府首脳部一員として最高方針の決定に加わり、尼将軍・政子が御家人たちに頼朝以来の恩顧を訴え、京方を討伐するよう命じた演説文を景盛が代読した。北条泰時を大将とする東海道軍に参加し、乱後には摂津国の守護となる。嘉禄元年(一二二五年)の政子の死後は高野山に籠もった。承久の乱後に三代執権となった北条泰時とは緊密な関係にあり、泰時の嫡子・時氏に娘(松下禅尼)を嫁がせ、生まれた外孫の経時、時頼が続けて執権となった事から、景盛は外祖父として幕府での権勢を強めた』。ここに出る通り、『宝治元年(一二四七年)、五代執権・北条時頼と有力御家人三浦氏の対立が激化すると、業を煮やした景盛は老齢の身をおして高野山を出て鎌倉に下った。景盛は三浦打倒の強硬派であり、三浦氏の風下に甘んじる子の義景や孫の泰盛の不甲斐なさを厳しく叱責し、三浦氏との妥協に傾きがちだった時頼を説得して一族と共に三浦氏への挑発行動を取るなどあらゆる手段を尽くして宝治合戦に持ち込み、三浦一族五百余名を滅亡に追い込んだ。安達氏は頼朝以来源氏将軍の側近ではあったが、あくまで個人的な従者であって家格は低く、頼朝以前から源氏に仕えていた大豪族の三浦氏などから見れば格下として軽んじられていたという。また三浦泰村は北条泰時の女婿であり、執権北条氏の外戚の地位を巡って対立する関係にあった。景盛はこの期を逃せば安達氏が立場を失う事への焦りがあり、それは以前から緊張関係にあった三浦氏を排除したい北条氏の思惑と一致するものであった』。『この宝治合戦によって北条氏は幕府創設以来の最大勢力三浦氏を排除して他の豪族に対する優位を確立し、同時に同盟者としての安達氏の地位も定まった。幕府内における安達氏の地位を確かなものとした景盛は、宝治合戦の翌年宝治二年(一二四八年)五月十八日、高野山で没した』。彼については『醍醐寺所蔵の建保二年(一二一三年)前後の書状に景盛について「藤九郎左衞門尉は、当時のごとくんば、無沙汰たりといえども広博の人に候なり」とある。「広博」とは幅広い人脈を持ち、全体を承知しているという意味と見られ、政子の意志を代弁する人物として認識されていた。宝治合戦では首謀者とも目されており、高野山にあっても鎌倉の情報は掌握していたと見られる』。『剛腕政治家である一方、熱心な仏教徒であり、承久の乱後に泰時と共に高山寺の明恵と接触して深く帰依し、和歌の贈答などを行っている。醍醐寺の実賢について灌頂を授けられたという』。一方、当時から彼には頼朝落胤説『があり、これが後に孫の安達泰盛の代になり、霜月騒動で一族誅伐に至る遠因とな』ったと記す。……既出の頼長頼朝誤殺説といい、まあ、とんでもない親子ではある……。

「當時の執權時賴に親ければ」以上の姻族関係から時頼の母方の祖父が安達家の御大たる景盛「覺地」(覚智)であり、伯父(或いは叔父。松下禅尼の年齢が不詳なため)がこの安達泰景、その子、則ち、時頼の従兄弟が泰盛ということになる。しかも泰景の長女、泰盛の妹が潮音院殿(覚山尼(かくさんに))で、彼女は後に時頼嫡男である従兄弟の第八代執権時宗の正室となるのである。そうして面倒なことに、当時の三浦主家当主である三浦泰村は、時頼の父方の祖母の兄なのである。

「北條相摸守重時」(建久九(一一九八)年~弘長元(一二六一)年)は第二代執権北条義時三男で第三代執権泰時は異母兄。六波羅探題北方や鎌倉幕府連署などの幕府要職を歴任した。当時、満四十九歳。

「六波羅の成敗」六波羅探題は、承久の乱の戦後処理に始まり、西国御家人及び京の警備・朝廷監視・裁判処罰権を行使出来た機関である。但し、「成敗」には政務を執るというフラットな意味もある。

「西國の仕置」西国での諸事務・諸事件の処理・処置。

「鍛錬六波羅探題で西日本の政務一般を一手に引き受け、総てに亙って実務経験を積み、熟練していたことを指す。

「舎弟光村、家村」孰れも既出既注。

「前將軍賴經を慕ひ參せ、時賴に野心を挾むこと、色に顯れて見えにけり」これらのシークエンスは先行する章で既出。

「甘繩」現在の神奈川県鎌倉市長谷にある甘繩神明宮 (あまなわしんめいみや)近くに安達邸はあった。

「内々仰合(おほせあは)さるゝ旨」内々に密談・密約を交わしたことを指す。無論、三浦主家一族を根絶やしにせねばならぬことの説得と具体な謀議である。「吾妻鏡」にかく載るのであるが、密約したことが載り、三浦に対する軍事上の防衛行動に移れ! と、その子や孫を叱り飛ばした安達家の内輪のことまでが「吾妻鏡」に書かれていると言うこと自体、実に奇妙なこと、「吾妻鏡」の極度に高い創作性が窺われる部分である。

「九郎泰盛」安達泰盛(寛喜三(一二三一)年~弘安八(一二八五)年)は義景の子(三男であるが嫡子となった。当初から「九郎」と呼ばれているが、これは盛長以降の安達家嫡子の呼称である)。この後に秋田城介(あいだのじょうのすけ)を継ぎ、評定衆・越訴(おっそ)奉行(幕府職名で、越訴(敗訴人が裁判に誤りがあるとの理由を以って上訴・再審請求をすることをいう)の受理・再審に当たった臨時職。審理が始まると引付奉行人の中から一~二名が選ばれて頭人の指揮に従った)などを勤めて祖父景盛以来続く、幕政の実権を握った。弘安七(一二八四)年、北条時宗の死去に追従して出家し、仏典刊行や高野山参道の町石建立に尽くしたが、その後、内管領(うちかんれい)であった平頼綱と対立、翌年十一月十七日に発生した霜月騒動で、頼綱方の先制攻撃を受け、自害、開幕以来の有力御家人として、最後まで幕府内に権勢を揮ってきた安達家も遂にこれを以って絶滅した。この当時は未だ満十六歳であった。

「對揚」匹敵。対抗。

 

「敬屈」「きやうくつ(きょうくつ)」とも読み、「磬屈」とも書く(「磬折(けいせつ)」とも)。腰を深く曲げて、最高度の敬礼することを指す。

 

 以下、「吾妻鏡」を引く。寳治元(一二四七)年四月十一日の条を引く。

 

○原文

十一日甲午。日來高野入道覺地連々參左親衞御第。今日殊長居。内々有被仰合事等云々。又對于子息秋田城介義景殊加諷詞。令突鼻孫子九郎泰盛云々。是三浦一黨當時秀于武門。傍若無人也。漸及澆季者。吾等子孫定不足對揚之儀歟。尤可廻思慮之處。云義景。云泰盛。緩怠禀性。無武備之條。奇怪云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十一日甲午。日來(ひごろ)、高野入道覺地、連々(れんれん)、左親衞の御第(おんだい)に參る。今日、殊に長居し、内々仰せ合はさるる事等有りと云々。

又、子息 秋田城介義景に對し、殊に諷詞(ふうし)を加へ、孫子(まご)九郎泰盛を突鼻(とつぴ)せしむと云々。

「是れ、三浦の一黨は當時武門に秀(ひい)で、傍若無人なり。漸(やうや)く澆季(げうき)に及ばば、吾等が子孫、定めて對揚(たいやう)の儀に足らざらんか。尤も思慮を廻らすべきの處、義景と云ひ、泰盛と云ひ、緩怠(くわんたい)の稟性(ひんせい)、武備無きの條、奇怪。」

と云々。

・「突鼻せしむ」お叱り付けになられた。

・「澆季」現代仮名遣いでは「ぎょうき」と発音する。「澆」は「軽薄」、「季」は「末(すえ)」の意で、道徳が衰えて乱れた世・世の終わり・末世であるが、ここは「世も末じゃ!」のガツンとくる捨て台詞である。]

北條九代記 卷之八 由比濱血に變ず 付 大魚死す 竝 黃蝶の怪異

 由比濱血に變ず  大魚死す  黃蝶の怪異

寛元五年二月二十八日に改元ありて、寶治元年とぞ號しける。同三月十一日、由比濱(ゆひのはま)表(おもて)、血に變じて、潮(うしほ)の色、朱(あけ)を湛(たゝ)へたり。夕日に映じて赤きこと、喩へて云はん方なし。諸人集りて是を見る。後に聞えしは、三浦〔の〕五郎左衞門尉、奥州より鎌倉に參りて時賴に語りけるは、「去ぬる三月十一日、陸奥國津輕の浦に、大魚、流寄(ながれよ)る。その形(かたち)、死人の如く、手足ありて、鱗、重(かさな)り、頭(かしら)は魚に相替らず。海水皆血になりて、紅(くれなゐ)の波、岸を洗へば千入(ちしほ)に染むる苔(こけ)の色、藻屑(もくず)に交りて赤き事、錦(にしき)を晒すが如くなり。前代にも例(ためし)なしと、諸人、驚き怪み候」とぞ申されける。古老の衆に尋ねらるゝ所に、「先蹤(せんしよう)、快(こゝろよ)からず。文治五年の夏、此魚あり。泰衡(やすひら)滅亡の事、起れり。建仁三年の夏、秋田の浦に怪魚死して、波に搖られて磯に上(あが)る。源賴家御事まします。建保元年四月に大魚現じて波上に死す。和田義盛滅亡に及ぶ。このたびの魚の怪異も、世の御大事たるべし。その魚の名を知る人なし。御愼あるべし」とぞ申しける。同三月十二日戌刻計(ばかり)に、大流星ありて、艮(うしとら)のかたより、坤(ひつじさる)に向ひて行く。その音、雷(いかづち)のごとく、長(たけ)五丈餘(あまり)なり。空中に耀(かゝや)きて、白晝(はくちう)に異ならず。夥(おびたゞ)しともいふばかりなし。同十七日には、黃蝶(くわうてふ)いくらともなく飛集(とびあつま)り、空の間に翻(ひるがへ)る。廣さ一丈計(ばかり)長(たけ)三段餘にして、黃絹(くわいけん)を引はへたる如くなり。其後はらはらと散別(ちりわか)れ、鎌倉中に飛渡(とびわた)る。昔、朱雀院の御宇、承平の初に、常陸下野兩國に黄蝶飛集り、山野の開に盈塞(みちふさが)り、後には人家に亂入(みだれいり)て、蚋蚊(あぶか)の如くに侍りしが、相馬將門(さうまのまさかど)叛逆(しほんぎやく)て、東國、暫く亂れたり。後冷泉院の御時、天喜三年の春の比、奥羽常野(じやうや)の四ヶ國の間に、黃蝶の怪異あり。阿倍貞任(あべのさだたふ)、逆心(ぎやくしん)して、關東、大に騷動す。今、又、この怪異あり。東國兵亂の兆(きざし)なるべしと、とりどりに沙汰をぞ致しける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十八の宝治元年三月十一日・十二日・十七日、五月二十九日の条に基づく。後に総て引く。

「寛元五年」一二四七年。

「三浦五郎左衞門尉」三浦盛時(生没年未詳)。三浦氏佐原流の出身で佐原義連の孫。ウィキの「三浦盛時」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した。下線はやぶちゃん)。『嘉禄三年(一二二七年)七月、浄土宗多念義派(長楽寺義)の祖隆寛律師(法然の弟子)が奥州に流罪することが決定した際(嘉禄の法難・『円光大師行状絵図翼賛』)、奥州に所領を持つ佐原盛時の預かりとなっている事実から、盛時が宝治の乱以前、すでに会津郡耶麻郡加納庄を領していたことになる。これが史料上の初見となる。仁治二年(一二四一年)、頼経が明王院北斗堂の供養の為に行列を組んだ時は御家人役の一人に名が見える。宝治元年(一二四七年)、宝治合戦後の京都大番役の再編の際には三浦介として御家人役を分担し、建長四年(一二五二年)に宗尊親王が鶴岡八幡宮に参詣した際には後陣の随兵として名が見える』。『母の矢部禅尼は最初北条泰時に嫁いでいたが、離縁して佐原盛連に再縁したという経緯を持つ。両者との間に北条時氏・盛時ら兄弟を儲けており、盛時は時氏と異父兄弟の関係にあった。それゆえ得宗との血縁的な結びつきが強かった』。『そのためか、宝治合戦では嫡流の泰村らとは袂を分かち、佐原流三浦一族を率いて甥の北条時頼に与した合戦に先んじて、時頼は盛時を陸奥国糠部五戸郡の地頭代に任命しており、既に盛時は時頼に懐柔されて得宗被官になっていたという』。『宝治合戦の直前、津軽の海辺に「人間の死骸のような」魚が漂着するという事件があった。盛時はこの顛末を時頼に報告し、更に、奥州合戦の直前にも酷似した現象があったことから、合戦の予兆であるとも指摘した。この話は『吾妻鏡』に収録されており、盛時が宗家の泰村の「征伐」を時頼に教唆したことを示すものではないかとも解釈されている』(!)。『合戦当日、盛時の兄弟を含む佐原一族は時頼の与党と共に時頼の館に結集したが、盛時自身は何らかの事情があって参戦に遅刻したらしい。遅れた盛時は屋敷の塀を乗り越えて時頼の館に到着し、この行動に感嘆した時頼から盛時は鎧を賜っ』ている(!)。『宝治合戦で三浦一族が滅びると、三浦介に任命され、三浦宗家の家督を継承した。盛時は三浦介、三浦家棟梁としての扱いを受ける一方で、将軍の鶴岡八幡宮参詣や放生会などでは随兵の役目しか回されず、宝治合戦で滅びる前、三浦氏がまだ隆盛していた頃の厚遇を受けることはなかった』。『待遇そのものはあくまで佐原氏時代のものが踏襲されたという』ことである。『弘長三年(一二六三年)に時頼が没すると、兄弟の蘆名光盛・会津時連と揃って出家し、浄蓮と号した』。

「大魚、流寄る。その形、死人の如く、手足ありて、鱗、重り、頭は魚に相替らず」前記のウィキペディアにあるように、これが全くの作り話なら考証する必要もないのであるが、そこはそれ、私のこと、まずは事実と仮定してみて(それは充分あり得、それをそれ、絶好の枕として盛時が語ったと考えたって全然おかしくないからである)、「鱗」があり、「頭」部が「魚」そのものであるという点が悩ましいが、よほど「大」きな海棲動物(である可能性が高い)こと、明瞭な「手足」があること、漂着したのが「津輕の浦」であること、「海水皆血になりて、紅の波、岸を洗」うほどの多量の出血となると、超弩級大きいこと、鯨なら見知っているはずであってしかも「手足」があるとは言わぬこと、オットセイやトドも漁師の中には知っている者もあったであろうことなどを考えると、私は何なら「前代にも例なしと、諸人驚き怪」むか? と考えた。考えた結果(鱗や魚は目をつぶって、である)、私はこれは、ベーリング海に棲息していたジュゴン科に属する寒冷地適応型の一種で、体長七~九メートル、最大体重九トンにも及ぶ哺乳綱海牛(ジュゴン)目ダイカイギュウ科ステラーカイギュウ亜科ステラーカイギュウ属ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas の死亡個体の南下漂着したものではないかと推理する。生物種としては、ロシアのベーリング率いる探検隊の遭難によって一七四二年に発見されているが、彼らは、その温和な性質や傷ついた仲間を守るため寄ってくるという習性から、瞬く間に食用として乱獲され、一七六八年を最後に発見報告が絶えてしまった。近代文明人となった「壊れた種」とも言うべき「ヒト」に知られてから何と、僅か二十七年後の絶滅であった「地球にやさしい」僕らは、欲望の赴くまま、容易に普段の「やさしさ」を放擲して、不敵な笑いを浮かべながら、第二のステラーダイカイギュウの悲劇を他の生物にも向けるであろう点に於いて、何等の進歩もしていない。この頭骨の語りかけてくるものに僕らは今こそ真剣に耳を傾けねばならないのではないか? 自分たちが滅びてしまう前に、である――

「千入」「「しお」は接尾語で、これは、「幾度も染料に浸して染める」作業を指す古語である。しかも「血汐」を直ちに想起させ、それが文字通り、事実、血で染まった「潮」(海水)であり、しかもそれが「一入(ひとしお)」に真っ赤であるという効果も持つように私には思われ、絶妙の用字と思う。

「苔」岩礁に生えたテングサのような紅藻類。死後の膨満によって弱った皮膚が岩に当たって裂け、そこから体外へ凝固しかけた生物体の腐敗しかけた血液が流出、それら紅藻にべっとりと粘着したものであろう。元が赤い上に血液が赤、しかも他の水中の紅藻類の「藻屑」にも絡んで、海水も赤く染まって、粘度が高いために容易に周囲には拡散してゆかないから、まさに大きな「赤き」「錦を晒す」ように海浜に有意に真っ赤な塊り、帯としてあったのである。これは相当に大きな個体でなくてはこうしたシークエンスにはならない。だからこその、ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas の死亡漂着個体、なのである。

「先蹤(せんしよう)」前例。

「快からず」不吉である。その前兆である、というのである。

「文治五年の夏」一一八九年夏。但し、同年夏頃の「吾妻鏡」には記載はない。但し、それに酷似する奥州絡みの予兆なら文治二(一一八六)年五月一日に以下のようにある。

   *

原文

一日戊寅。自去比黄蝶飛行。殊遍滿鶴岳宮。是恠異也。仍今日以奉御供之次。爲邦通奉行。有臨時神樂。此間。大菩薩詑巫女給曰。有反逆者。自西廻南。自南又歸西。自西猶至南。自南又欲到東。日々夜々奉窺二品之運。能崇神與君。申行善政者。兩三年中。彼輩如水沫可消滅云々。依之。被奉進神馬。重有解謝云々。

やぶちゃんの書き下し文

一日戊寅。去ぬる比(ころ)より、黄蝶、飛行す。殊に鶴岳宮に遍滿(へんまん)す。是れ、恠異なり。仍つて今日、御供(ごくう)を奉るの次(つい)でを以つて、邦通を奉行として、臨時の神樂(かぐら)有り。此の間、大菩薩、巫女(みこ)に詑(つ)き給ひて曰はく、

「反逆者有り、西より南に廻り、南より又、西へ歸り、西より猶ほ南へ至り、南より又、東へ到らんと欲す。日々夜々、二品(にほん)の運を窺ひ奉る。能く神と君とを崇め、善政を申し行はば、兩三年中に、彼の輩(やから)、水沫(みなわ)のごとく消え滅ぶべし。」

と云々。

之に依つて、神馬を進め奉らる。重ねて解謝(げしや)有りと云々。

   *

文中の「二品」(律令制位階の「二位」のこと)は頼朝のこと。「解謝」は拝み感謝すること(神を下したのを元通り解き放って謝すの謂いか)。しばしばお世話になっている「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条では、このいかにも奇妙な蝶の動きについて、『これは、意として源九郎義經が京都から熊野水軍と打ち合わせに行き、後白河法皇の元へ挨拶に再び京都へ舞い戻り、もう一度熊野水軍を使って奥州へ行くつもりであろうとの予言。結果、文治五年に源九郎義經も奥州藤原氏も滅んだ。一見、予言どおりのようだが、書かれたのは百年後である』とある。目から黄蝶の解読である。

「泰衡滅亡の事、起れり」同年夏の奥州合戦(文治五年七月~九月)。頼朝自らが率いる鎌倉軍による奥州藤原氏殲滅戦。

「建仁三年の夏」一二〇三年夏。同年夏頃の「吾妻鏡」にはその記載はない。

「源賴家御事」直後の同年秋の比企能員の変(九月二日:頼家の外戚比企能員が北条時政によって謀殺され、比企一族が滅ぼされた)と、その直後の将軍職の実朝への譲位(実質上の剥奪)と出家(これも強制と考えられる)及び修善寺への隠居(これも事実上は配流に等しい)、さらには一年後の頼家の死去(元久元(一二〇四)年七月一八日:実は謀殺)という一連のまさに怪事件を指すのであろう。

「建保元年四月」正しくは改元前であるから建暦三年四月が正しい。一二一三年五月相当(本邦の旧暦五月一日のみが四月三十日)。但し、同年四月の「吾妻鏡」には記載はない。和田合戦後の同年八月二十二日の条に鶴岡八幡宮上宮神殿で大小の黄蝶が飛んだという記事はあるものの、その直後には大きな戦乱は起こっていない。

「和田義盛滅亡」和田合戦は翌月の同年建暦三(一二一三)年五月二日に勃発、三日に和田一族の滅亡を以って収束した。

「戌刻」午後八時頃。

「艮(うしとら)」北東。

「坤(ひつじさる)」南西。

「五丈」約十五メートル。目視の見かけだから、これは恐ろしく長大な尾を引いていたことになる。但し、調べて見たが、日本以外での、この巨大流星の当時の記載はないようである。

「朱雀院の御宇」朱雀天皇の在位は延長八年十一月から承平を経て天慶九(九四六)年まで。「院」ではあるが「御宇」だから問題ない。なお、ウィキの「朱雀天皇によれば、『同母弟成明親王(後の村上天皇)を東宮(皇太弟)とし』、二年後に二十四歳の『若さで譲位した。しかしその後、後悔して復位の祈祷をしたともいう』とある。天暦六(九五二)年に出家して仁和寺に入るも、その年に三十歳の若さで崩御している。

「承平の初」承平は九三一年~九三八年であるが、「初」めというのだから、九三一年から九三三年頃までである。しかし、「相馬將門叛逆」が新皇を名乗って関東全域を手中に収めるのは天慶二(九三九)年十二月以降のことであるから(それ以前の承平五(九三五)年頃に始まる将門の抗争はあくまで平氏一族内での私闘であるので「叛逆」の範疇に入らぬ)、予兆と称するには、これは少々前過ぎるように私は思う。

新皇を称するまでに至った。将門の勢いに恐れをなした諸国の受領を筆頭とする国司らは皆逃げ出し、武蔵国、相模国などの国々も従えた。

「後冷泉院の御時」寛徳二(一〇四五)年)四月に即位し、治暦四(一〇六八)年)四月十九日に在位のまま、宝算(天皇の場合の「享年」の尊称)四十四で崩御している。

「天喜三年の春」一〇五五年春。

「奥羽常野(じやうや)の四ヶ國」陸奥国・出羽国・常陸国・下野国のこと。

「阿倍貞任(あべのさだたふ)、逆心(ぎやくしん)して、關東、大に騷動す」前九年の役(永承六(一〇五一)年~康平五(一〇六二)年)の後半戦を指すのであろう。具体的にはこの不吉な出来事の翌年に当たる天喜四(一〇五六)年十二月に発生した、朝廷軍源頼義の部下であった藤原光貞の営舎が夜襲される阿久利(あくと/あくり)川事件による再開戦を指すと私は考える。

 

 以下、当該「吾妻鏡」記事を示す。寳治元(一二四七)年三月から(十六日の条があるが、省略して詰めて電子化した。但し、この十六日の条も怪事であって、午後八時半過ぎ頃から原因不明の騒擾が鎌倉中で起ったが、実際には何事も起らなかったため、翌日の明け方には静まったという記事である。実に怪しい)。

 

原文

十一日甲子。由比濱潮變色。赤而如血。諸人群集見之云々。

十二日乙丑。戌刻。大流星自艮方行坤。有音。長五丈。大如圓座。無比類云々。

十七日庚午。黄蝶群飛〔幅假令一許丈。列三段許〕。凡充滿鎌倉中。是兵革兆也。承平則常陸下野。天喜亦陸奥出羽四箇國之間有其怪。將門貞任等及鬪戰訖。而今此事出來。猶若可有東國兵亂歟之由。古老之所疑也。

やぶちゃんの書き下し文

十一日甲子。由比の濱の潮、色を變じ、赤くして血のごとし。諸人群集して之れを見ると云々。

十二日乙丑。戌刻。大流星、艮(うしとら)の方より坤(ひつじさる)に行く。音有り。長(たけ)五丈。大いさ、圓座のごとし。

十七日庚午。黄蝶、群れ飛び〔幅は假令(およそ)一丈許り。列、三段許り〕、凡そ鎌倉中に充滿す。是れ、兵革の兆(きざ)しなり。承平には則ち常陸・下野、天喜には亦た、陸奥・出羽、四箇國の間に其の怪(け)有り。將門・貞任等(ら)、鬪戰に及び訖んぬ。而るに今、此の事、出來(しつたい)す。猶ほ若(も)し東國に兵亂有るべきかの由、古老の疑ふ所なり。

 

 五月二十九日の条。

 

原文

廿九日辛巳。三浦五郎左衞門尉參左親衞御方。申云。去十一日。陸奥國津輕海邊。大魚流寄。其形偏如死人。先日由比海水赤色事。若此魚死故歟。随而同比。奥州海浦波濤。赤而如紅云々。此事則被尋古老之處。先規不快之由申之。所謂文治五年夏有此魚。同秋泰衡誅戮。建仁三年夏又流來。同秋左金吾有御事。建保元年四月出現。同五月義盛大軍。殆爲世御大事云々。

やぶちゃんの書き下し文

廿九日辛巳。三浦五郎左衞門尉、左親衞(さしんゑい)の御方に參り、申して云はく、

「去ぬる十一日、陸奥國津輕の海邊に、大魚、流れ寄る。其の形、偏(ひと)へに死人(しびと)のごとし。先日、由比の海水、赤色の事、若(も)しは、此の魚の死の故か。随つて、同じ比(ころ)、奥州海浦の波濤も、赤くして紅のごとし。」と云々。

此の事、則ち、古老に尋ねらるるの處、

「先規(せんき)不快の由、之れを申す。所謂、文治五年夏、此の魚、有り、同じき秋、泰衡、誅戮せらる。建仁三年夏、又、流れ來たり、同じき秋、左金吾御事有り。建保元年四月、出現し、同じき五月、義盛が大軍(おほいくさ)たり。殆んど、世の御大事をたり。」

と云々。

・「左親衞」北条時頼のこと。]

北條九代記 卷之八 御所追込の狼藉

      ○ 御所追込の狼藉

同十二月二十八日の暮方に、男一人、御所の臺所に走逃(はしりに)げて、徨(うろた)へたる有樣なり。跡より追續(おひつゞ)いて、太刀拔持(ぬきもゆ)て蒐入(かけい)りければ、有合せける下部共、「是(これ)はそも何者ぞ。御所の内に人を追込みて、狼藉を致す曲者かな」とて、上下騷動しける所に、晝番(ひるばん)伺候の侍の中に、松田彌〔の〕三郎常基をりあひて、「惡(にく)き奴原(やつばら)が振舞かな。喧嘩にもあれ科人(とがにん)にもあれ、御所の御内へ蒐入るこそ狼藉なれ。理非は後にたゞさるべし」とて蒐入ながら打伏せて、搦取(からめと)りて引出す。左近〔の〕將監時賴、この由を聞き給ひ、平左衞門尉、諏訪兵衞入道二人を差進(さししん)じて、事の子細を尋問(たづんと)はしめらる。追込みたりし者、申しけるは.「是は紀伊七郎左衞門尉重經が所從(しよじう)等(ら)にて候。某(それがし)が名をば藤太と申す者にて候。重經が丹後國宮津の所領より、運送の役(やく)を勤むる人夫(にんぷ)彦五郎と申す者、去ぬるころ、荷物財産を負ひながら、道より缺落(かけおち)仕り候。その行方を尋ね候所に、只今米町(こめまち)の邊にて、見合せければ、この者、逸足(いちあし)を出して、逃延(にげの)び候を、遁(のが)さじと思ふ所存計(ばかり)にて、時に臨んで度を失ひ、跡に付けて推參(すゐさん)仕りて候」とぞ申ける。彦五郎は陳(ちん)ずるに道なし。兩使、子細を聞届(きゝとど)け立歸りて、かくと申す。時賴、仰せけるは、「主人重經が自身の所爲(しよゐ)にはあらずといへども、郎等に心を入れて遣はす上は、狼藉の科(とが)は重經にあり」とて、丹後の所領を沒收(もつしゆ)せられ、郎等は追放(はな)ち、彦五郎は斬られけり。さても松田彌三郎、神妙(しんべう)の振舞なりと感ぜられ、太刀一振をぞ下されける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十七の寛元四(一二四六)年十二月二十八日の条に基づく。

「平左衞門尉」既出既注の内管領長崎氏の祖である平盛綱。

「諏訪兵衞入道」北条氏得宗被官の御内人諏訪盛重。法号を蓮仏と称した。

「丹後國宮津」現在の京都府宮津市一帯。

「缺落」運搬していた年貢(「吾妻鏡」に「所領德分物運送疋夫」(所領德分の物、運送の疋夫)とある。名は出ない)を奪取して逐電したことを指す。

「米町」「新編鎌倉志卷之七」の「大町〔附米町〕」の項に、

大町(をほまち)は、夷堂橋(えびすだうばし)と逆川橋(さかがはばし)の間(あいだ)の町なり。大町の四つ辻より西へ行く横町(よこまち)を、米町(こめまち)と云。大町・米町の事、【東鑑】に往々見へたり。

とある。この逆川橋は大町四ツ角(本文の「四つ辻」)から横須賀線を渡って材木座へと向かうと、朱色の魚町橋を渡った左側に路地があり、入ってすぐの所に架橋されている(「逆川」という名は、この滑川の支川が地形の関係からこの部分で大きく湾曲して、海と反対、本流滑川に逆らうように北方向に流れているために付けられたもの)。鎌倉幕府は商業活動への社会的認識の未成熟と要塞都市としての軍事的保安理由から、建長三(一二五一)年に御府内に於いては指定認可した小町屋だけが営業が出来るという商業地域限定制を採り、大町・小町・米町・亀ヶ谷の辻・和賀江(現在の材木座辺りか)・大倉の辻、気和飛坂(現・仮粧坂)山上以外での商業活動が禁止された。その後、文永二(一二六五)年にも再指定が行われて、認可地は大町・小町・魚町(いおまち)・穀町(米町)・武蔵大路下(仮粧坂若しくは亀ヶ谷坂の下周辺か)・須地賀江橋(現在の筋違橋)・大倉の辻とされている。

「逸足(いちあし)を出して」突然に駆け出して。

「陳ずるに道なし」一切、反論のしようがなかった。

「心を入れて遣はす」明確に追手を命じて追跡させた。

「科」御所への不法侵入罪と騒擾罪。

「松田彌三郎、神妙の振舞」下賤の者の御所侵入であるから、二人ともに有無を言わさず、斬り捨ててもよかったものを、殺さずに捕縛したことを指す。その結果として背後関係が明らかになり、郎等とは言え、主人の命に忠実に従った藤太の命は救われ、ただの追放で済んだからである。但し、「吾妻鏡」には藤太の名も処分内容も記されてはいない。名君とされ、能「鉢木」で知られる、隠居後に隠密に廻国したとさえするプレ時頼伝説ともいうべきとってつけたような、多分に創作的作為的な挿話のように私には見える。但し、実は隠居後の時頼は、「吾妻鏡」の記載を見る限り、鎌倉御府内を一歩も出た形跡はなく、鎌倉版水戸黄門の大嘘なんである!(序でに言っておくと、かの徳川光圀も生涯で旅したのは実はまさにこの鎌倉へのたった一回だけであったことを御存じか?! その成果がかの新編鎌倉志」なのである。リンク先の私の冒頭注を参照されたい)。そもそもが、時頼執権就任前後の「吾妻鏡」は時頼の正統性を保証するために書かれた創作とする考え方が現代では強く、私も強くそれを支持するものである。……まあしかし、「吾妻鏡」が創作とすれば、時頼の廻国があったとしても別段、いいわけで、論理矛盾を引き起こすことにはなるか?……だが逆に、立ち位置を変えて見れば、時頼遊行伝承(古くは「増鏡」「太平記」などに所収。但し、「鉢木」の話は載らず、恐らく完全なでっち上げ。そもそもが如何にもな話で嘘臭さがプンプンする)は寧ろ、時頼をよいしょするにはとってもイイ話であって、それを「吾妻鏡」に書かないのは却って竜頭蛇尾ということにもなる。だから、時頼のかの廻国伝承自体が南北朝以後に後付けで偽作創作されたものであることが判るとも言えよう。]

2016/03/22

北條九代記 卷之八 三浦式部大夫流鏑馬を射る

      〇三浦式部大夫流鏑馬を射る

同八月十五日、鶴ヶ岡の放生會は、例年の舊式として、缺減(けつげん)なく行はる。總じて神の御事は、祭禮の儀式、定まりて、凶年にも耗(へら)さじ、豐年にもまさらずといへり。將軍家は、御車にて、供奉の輩(ともがら)、花を飾り、先陣後陣の隨兵等(ら)、行列を調へ、馬場の棧敷(さんじき)に入御まします。流鏑馬十六騎、揚馬(あげうま)終りて、十人の射手の中に、工藤〔の〕六郎、俄(にはか)に心地を痛(いたは)りけり。 神事(じんじ)違例に及ぶ條、御桟敷に於いて御沙汰あり。雅樂(うたの)左衞門尉時景を御使として、駿河式部〔の〕大夫家村に、この射手を勤むべき由、仰せらる。家村、辭退申しけるやうは、「亡父義村存生の時、一兩度この役を勤仕(きんじ)せしめ候へども、既に廢亡(はいばう)多年に隔(へだた)り、假令(たとひ)、禮式を習ふことありしも、年闌(とした)け候へば、叶ふべしとも覺へず候。况(まし)て當日の所作に於いては指當(さしあたつ)て身に堪へず」とぞ申しける。將軍賴嗣は、家村が兄、若狹(わかさの)前司泰村を召して、「如何にも家村に、今日の役、確(たしか)に勤めさまうさるべし」ととの上意なり。泰村、座を立ちて、家村が座の前に行向ひ、「只兎に角仰せに隨ひ奉れ」と再三、諷詞(ふうし)を加へたり。家村、申しけるは「豫(かね)て誘(こしら)ふることだにも、時に取りては過(あやまち)あるものにて候。思ひ掛けざる今日の事、いかで御請(おんうけ)申すべき。その上、射馬(しやば)も候はず。然るべき人に仰付けらるべし」といふ。泰村、聞きて、「射馬に於いては用意あり」とて、深山路(みやまぢ)といふ名馬に、鞍置て、流鏑馬舍(やぶさめや)に引立てたり。家村は辭するに道なくして、自(みづから)、敷皮(しきがは)取りて、下手(しもて)の埒(らち)に副(そ)へ、流鏑馬舍に向ひければ、貴賤上下、この儀式を見て、故實ありと稱歎す。家村、既に布衣(ほい)を脱ぎて、射手の裝束(しやうぞく)引繕(ひくつくろ)ひ、件の馬に取乘(とりのつ)て、第四番に打出でたり。その躰(てい)、誠に古き堪能(かんのう)にも恥しからず、由々敷(ゆゝしく)ぞ見えにける。既に射訖(をは)りて、布衣を著替(きか)へて本座にかへる。人人の美談、時の壯觀、將軍を初め奉り、御感の御使を下されければ、當家他門、是を賀せずと云ふことなし。將軍家、御歸座(きざ)あり。夜に入りて家村を御所に召され、御引出物を下されけり。弓矢の冥加、是に過(すぎ)ず。「あはれ、今日仕(つかまつり)、損(そん)ずるには、腹を切りても飽くまじきに、頗る奇特(きどく)の振舞なり」と、舎兄泰村も悦(よろこび)の眉をぞ開かれける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十七の寛元四(一二四六)年八月十五日及び十六日の条に基づく。三浦一族滅亡の期は近い(五章後)。これは最後の三浦一族栄光の清々しいワン・シーンなのである。

「三浦式部大夫」「駿河式部大夫家村」三浦家村(?~宝治元(一二四七)年)。三浦義村四男。泰村・光村の弟。宝治合戦後は遺体が確認されずに行方不明ともされる。若き日より弓の名手として知られ、和歌も上手く、定家の覚え目出度かったとされる。

「缺減なく」例年と同じく、完全な形で欠けたり、省略されたりすることなく。続く以下の如何にもな解説も実は本シークエンスへの伏線である。さればこそ、次のシーンの射手の不具合というのが神事を滞らす凶事と捉えられるのである。

「將軍家」頼嗣は当時、未だ満六歳である。

「揚馬」これから行う流鏑馬で最後に走る馬の披露。

「工藤六郎」「吾妻鏡」では個人名を挙げていないし、「工藤六郎」なる人物の名も「吾妻鏡」の行列の名簿には挙がらない。リアリズムを出すための筆者の演出のようである。その代り、「吾妻鏡」には病名を「霍亂(かくらん)」とする。日射病・熱中症の類いである。リアリティを望むなら何故、筆者はこの病名を出さなかったのか、今度は逆に不審である。

「神事違例」定めの十名の射手が一人欠けてしまって神事の礼式に反するのである。

「雅樂左衞門尉時景」藤原姓と思われるが、事蹟不詳。

「諷詞」それとなく戒める内容の言葉。

「深山路」この馬の固有名詞も「吾妻鏡」にはない。名前からは頗る脚力のある馬であろう。

「流鏑馬舍」流鏑馬のコースの起点に建てられた小屋。古絵図を見ると、鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の西方(現在の源氏池側)の北側に設置されていたのを確認は出来る。

「埒」馬場の両側に設けられた柵。こにシーンで――自身が伺候するために坐っていた「床子(しょうじ)」(背もたれのない腰掛け)から立ち上がり、そこに敷いていた敷皮(しきがわ)を取って手に持ち、馬場の下手(南側)に設けられた柵に沿ってスタート・ラインまで自分で静かに歩み、そしておもむろに控えの流鏑馬舎へと入って行く――というのが、流鏑馬射手の古式の礼法であったのである。恐らくは、他の九人はそれをさえちゃんとしていなかった(知らなかった)射手が殆んどであったことを物語っているのである。でなくてどうして、このシークエンスに「貴賤上下、この儀式を見て、故實ありと稱歎す」るはずがろう。騎射のシーンではなく、この静かなプレ・シーンこそがこの場の面目なのである。

「布衣(ほい)」本来は狩衣のことであったが、平安中期以降、五位以上が絹の紋織物の狩衣を、六位以下が無文のそれを用いる制法が生まれ、後者を前者の狩衣と区別するために布衣と称するようになり、ひいてはそれが六位以下の身分を示す語としても用いられた。なお、江戸時代の文献では「布衣を許す」という語をしばしば見かけるが、この鎌倉幕府においては、将軍出行の際には随行の大名が布衣を着用、警衞の武士は直垂(ひたたれ)であったのが、その後に両者の格が逆転し、江戸幕府では正装として将軍以下諸大名の四位以上が直垂、狩衣を従四位以下の諸太夫、布衣を無位無官で御目見以上、という区分が引かれたことによる(以上は主に小学館「日本大百科全書」を参照した)。

「第四番に打出でたり。その躰(てい)、誠に古き堪能(かんのう)にも恥しからず、由々敷(ゆゝしく)ぞ見えにける」「吾妻鏡」(十六日の条)は、

   *

○原文

見物之輩悉以屬目於馬場下之方。相待家村所爲。家村改布衣行粧。著射手裝束。鏑者泰村之鏑也。矢与鏃己之宇津保矢幷加利俣也。然後駕于件深山路。打出于第四番打出之所。至三的之際。其躰不耻古堪能云々。人々美談。時之壯觀也。

○やぶちゃんの書き下し文

見物の輩(うから)、悉く以つて目を馬場下の方(かた)へ屬(つ)け、家村の所爲を相ひ待つ。家村、布衣(ほうい)の行粧(ぎやうさう)を改め、射手の裝束を著す。鏑(かぶら)は泰村の鏑なり。矢と鏃(やじり)は己(おの)が宇津保矢(うつほや)幷びに加利俣(かりまた)なり。然る後、件(くだん)の深山路に駕し、第四番の打出の所に打ち出でて、三的(みまと)際(きは)に至る。其の躰(てい)、古き堪能(かんのう)に耻(は)ぢずと云々。

人々、美談す。時の壯觀なり。

   *

とする。騎射を読者に想像させた確信犯の筆致は、却って筆者のオリジナリティと自負を感じさせると言えよう。]

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第四章 人爲淘汰(1) 序/一 淘汰の方法/二 遺傳性のこと

 

    第四章 人爲淘汰

 

 さて人間が飼養し來つた動植物は、如何なる理由により如何なる方法に隨つて、各種毎に斯く數多の異なつた變種を生ずるに至つたかといふに、その理由・原因は決して一通りに限つた譯でなく、種々の事情が與つて力あるやうに思はれる。同一の植物に生じた種子でも之を甲乙丙丁等の相隔つた國々に持つて行つて蒔けば、之より生ずる植物の間に多少の相違の起ることは決して珍しくない。尚三代四代と時の歷るに隨つてその相違も著しくなり、全く異つた植物かと思はれるまでに變化するものも往々ある。これらは皆地味、土質の相違、風雨・乾濕の多少、温度の關係等より起る自然の變化で、別に人間の力が加はつて居る譯ではない。かの秋田の大蕗(ふき)の種も、東京へ持つて來て蒔いては到底葉がかやうに大きくはならず、櫻島の大根の種も、京都・大阪に移しては決して半分の太さにも達せぬは、この類であらう。併し、西洋諸國で見る如き著しい變種は決して單に風土の異なるに隨つて出來たものばかりではない。例へばパウター・ファンテイルの如き鳩、グレイハウンド、ブルドッグの如き犬は、到底單に氣候や食物の關係から生じた變種とは思へぬ。これらは天然自然に起る變化の外に特別な原因があつて終に今日の如き著しい姿を呈するに至つたのである。

[やぶちゃん注:「秋田の大蕗」フキの変種である、キク亜綱キク目キク科キク亜科フキ属フキ亜種アキタブキ Petasites japonicus subsp. giganteusウィキの「アキタブキによれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『エゾブキ、オオブキとも呼ばれる』。『日本原産で、主に本州北部、北海道、千島、樺太に分布している 。葉柄が一メートルから二メートル、葉の直径は一・五メートルとなり、食用とする。秋田県を中心に加工用として』『栽培されている。特に寒冷地では牧草地で大繁殖する』。『江戸時代、秋田藩主の佐竹義和(義峯公とも)は江戸でこの傘の代わりにもなるフキの自慢をしたところ、他の藩主から信じてもらえなかった。そこで、藩主の名誉のために、領民は山野を捜索して二本の巨大フキを江戸に運び、藩主の名誉を回復したという。これにより、傘代わりにもなるこのフキの存在が国中に知られることとなった』とある。]

 

     一 淘汰の方法

 

 かやうな著しい變種は如何にして生じたかといふに、之は全く人間の世話によつて出來たものであるが、その方法は現に今日も飼養者が常に行つて居る所で、別に不思議な法ではない。たゞ多くある個體の中から飼養者の理想に最も近い性質を帶びたものを選み出し、之を繁殖の目的に用ゐ、その生んだ子の中からまた飼養者の理想に最も近い性質を帶びたものを選み出して之を繁殖せしめ、代々同じことを繰り返すに過ぎぬ。例へば極めて耳の長い兎を造つて一儲しようと思ふ人は、澤山ある兎の中から最も耳の長さうなものを選み出し、物指しを以て丁寧に耳の長さを測り、一番耳の長い牝に一番耳の長い牡を掛けて子を生ませ、その生れた子の中からまた一番耳の長いものを選み出して之に子を生ませる。斯く代々一番耳の長いものを選み出して之を繁殖の目的に用ゐるやうにすると、一代毎に少しづゝ耳の長い子が出來て、一代毎に少しづゝ飼養者の理想に近づいて來る。今日見る如き種々の動植物の著しい變種は皆かやうに代々飼養者が繁殖の用に供すべきものを選擇した結果であるが、之は人間の料簡で行ふ淘汰であるから人爲淘汰と名づける。我々の飼養する動植物の次第次第に改良せられて行くのは主として人爲淘汰の結果である。

 人爲淘汰を行うに當つて、飼養者がたゞ一人よりなく、その一人がただ一種だけの理想を標準として淘汰すれば、飼養せられる動物或は植物はたゞ一方へ向つて變化するばかりであるが、若し初から數人の飼養者が數種の理想を有し、あちらでは甲の標準により、こちらでは乙の標準によつて淘汰するといふやうに、別々に淘汰して行けば、その動植物は各々異なつた方向へ向つて變化し、次第次第に相遠ざかり、初同一種のものも終には全く相異なつた數多の變種に分れてしまふ。人の飼養する動植物に一種毎に今日の如く多くの變種の生じたのは、主としてかやうな具合に人爲淘汰を行ひ來つた結果である。

 前にはたゞ人爲淘汰の方法を示すために便宜上兎を例に取つたが、之は我が國でも兎の流行する時には實際物指しで耳の長さを測り、先に述べた通りのことを行ふから、單に最も手近な例として之を選んだに過ぎぬ。若し人爲淘汰の結果を示すためならば、兎は決して適當な例ではない。之には寧ろ西洋諸國にあるやうな著しい動植物の變種を擧げるが適當である。元來我が國の兎はたゞ一種の玩弄物で實際には何の役にも立たず、且流行するときは一疋五十圓も百圓もするものが、一且流行せなくなれば五十錢でも買人がなくなる位で、之を飼ふものも一時の投機事業と心得て、流行する間は極めて嚴重に淘汰を行ふが、流行が止めば全く棄てて顧みない。それ故、長い間、人に飼はれたにも拘らず、人爲淘汰の結果が目立つ程には積らず、今日の飼兎も百年前の飼兎も略々違はぬ。之に反して西洋諸國の農業の發達した處では、何に對しても絶えず人爲淘汰を十分に行ひ、改良の上にも改良を加へるやうに盡力したので、その結果として、前章に掲げた如き、殆ど注文に應じて特別に造つたかと思はれるやうな著しい變種を生ぜしめるに至つた。かやうな變種を列べてある共進會などに行き、目の前に之を見ると、實に淘汰の力は斯くまでに大きなものかと驚かずには居られぬ。

[やぶちゃん注:「共進會」産業の振興を図るために産物や製品を集めて展覧し、その優劣を品評する会。明治初年代より各地で開催された。「競進会」とも書く。]

 斯くの如く、人爲淘汰によりて動植物を人間の隨意に變化せしめることの出來るのは何故であるかと考へるに、之には三つの條件が備はつてあるからである。三つの條件とは、(第一)親の性質は子に傳はること、(第二)同一對の親より生れた子の間にも必ず多少の相違あること、(第三)生れる子の數は比較的多くて、その中より或るものを選み出すべき餘裕あることであるが、之だけの條件が殘らず備はつてあるから、淘汰も出來、淘汰の結果も現れるのである。

 

     二 遺傳性のこと

Tansisyou

[エッキス光線にて寫したる普通の手の指と短指との比較]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 親の性質が子に遺傳することは、我々の日々見聞する所で、改めて證明するに及ばぬ事實である。人間の子はたゞ人間であるといふのみならず、必ずその親なる特別の個人に似る如く、他の動物でも皆その通りで、兎の子は兎全體に通ずる性質を帶びて居る外、その親兎の特殊な性質をも持つて生れる。動植物ともにこの遺傳といふ性質があるから、人爲淘汰によつて之を種々に變化せしめることが出來るので、若し遺傳といふ現象が無く、親の特殊の性質が子に傳はらぬと定つて居たならば、人爲淘汰も無論何の役にも立たぬ。かの兎を飼ふ人が骨を折つて耳の最も長い兎を選み出して之を繁殖用に使ふのは、たゞ耳の長い親兎からはやはり耳の長い子兎が生れることを、經驗上信じて居るからである。

 斯く親の性質が子に遺傳することは、當然のこととして常には誰も殆ど之を念頭に置かぬ程であるが、親に何か特別な變つた點のあるときには、遺傳の現象が著しく人の目に觸れる。その中で最も明なのは手足に指が六本ある如き、畸形の場合であらう。一二の例を擧げて見るに、今より百六十年程前にエスパニヤの或る處に突然左右の手足ともに六本ずつ指のある男の子が生れ、この男が始(はじまり)となつて、それより三代の間に一家一門の中に殆ど四十人許も六本指の人が出來たことがある。若し六本指の男が必ず六本指の女と結婚して代々續けば、或は六本指の性質が固定して六本指の人種が出來るかも知れぬが、男でも女でも皆五本の指を持つて居る普通の男女と結婚するから、一代毎にこの性質は著しく薄くなり、三四代の後には全く消えてしまふ。またイタリヤの或る町で、同じく六本指の男が普通の女と結婚し、その間に出來た數人の子どもが皆六本指で、たゞ最後の一人だけ五本指であつたので、父なる男はこの子を自分の子と承認するを欲せなかつたといふ話もある。普通の人の手の指には拇指の外は皆三節あるが、往々短指といふて指の節の二つよりない指の短い畸形がある。之なども確に子孫に遺傳する。その他病氣の遺傳することも人の常に認める所で、特に精神病などになると、醫者が極めて嚴重にその系圖を穿鑿する。

[やぶちゃん注:「手足に指が六本ある如き、畸形」手足の先天性形状異常の一つである多指(多趾)症(polydactyly:ポリダクトリィ)。「ブリタニカ国際大百科事典」の「多指症」の項には、まさにこのスペインの例が引かれており、十八世紀半ば頃にスペインで四肢とも六本指の男子が生れ、その家系から三代の間に、同種の奇形が 四十人ほど出現したという記録がある、と記してある。ウィキの「多指症」によれば、『過剰な指(趾)が痕跡的に突き出るもの、細い茎でぶらぶらする指(趾)がつながっているもの(浮遊型)、完全な指(趾)の形を示すものまで見られさまざまである』。『人種的には黒人に多く見られるが、どの人種にも見られ、日本人では手指の場合は拇指(親指)に、足趾の場合は第V趾に多く見られる』。ブラジルでは十四人の『家族全員が先天的に指の数が多い多指症である例がある』。『現代、特に先進国では幼いうちに一本を切断し』、五本指と『することが多い。その際は指(趾)の大きさ、骨や関節、筋腱における異常を検討して切断指(趾)を決める。手術治療を行う場合は指の機能が確立される』一歳時までに『行うのが主流である。国や時代によっては尊ばれる身体的特徴となる場合もあり、「隋書」の西域伝によると、疏勒』(しょろく/そろく:かつて東トルキスタンに存在したオアシス都市国家。現在のタリム盆地の西端に位置する中華人民共和国新疆ウイグル自治区カシュガル地区カシュガル(喀什)市。漢代から唐代にかけてシルクロード交易の要所として栄えた)『では「人手足皆六指子非六指者不育(皆、手足の指が六指であり、産まれた子が六指に非ぬ場合は育てず)」という風習があったとの記述がある』と記す。

「指の節の二つよりない指の短い畸形」先天性畸形の一つである短指症。但し、五本総てではなく、一部の指の関節が有意に短い場合は「まむし指」などと称し、ネット検索をかける限りでは決して珍しくないようである(但し、そういう場合は「日本小児遺伝学会」公式サイト内の「国際基準に基づく小奇形アトラス」の解説を読むと、「短指症」とは呼ばないとある。画像があるのでリンクは張らない)。]

 併し、親の性質が殘らず子に遺傳するものでないことも、我々の善く知つて居る事實である。人間の例を取つても、鼻の高い人に鼻の低い子の出來ることもあり、肥えた人に瘦せた子の出來ることもある。けれども鼻は親に似ないが眼付きが親の通りであるとか、親よりは瘦せて居るが歩き具合がそのまゝであるとか、必ず何か親の性質の傳はらぬことはない。また生れた子の性質の中で、或る點は父より傳はり、或る點は母より傳はるが、何の性質は必ず父より傳はるとか、また必ず母より傳はるとかいふ定(きまり)は、少しもないやうで、例へば眼付きは父に似、口元は母に似た子もあれば、之と正反對で母の眼付と父の口元とを備へた子もある。斯くの如く遺傳といふ現象のあることは、目前の事實で、誰も疑ふことは出來ぬが、さて親の性質の中で、如何なる點だけが子に遺傳し、如何なる點は遺傳せぬか、または如何なる性質は父から傳はり、如何なる性質は母から傳はるかといふやうに、その詳細なる法則を考へると、之に關する我々の現在の知識は殆ど皆無といつても宜しい。

[やぶちゃん注:狭義に考えれば、現行では性染色体異常による優性の遺伝病が明らかにされており、それは「父」か「母」の孰れかから限定的特異的に遺伝する確率可能性は十分に持つとは言える。丘先生の言う「性質」とはそうしたものも含まれる。されば次の段落のような記述も生まれてくる。但し、性染色体が性決定に関与し、それが形質の遺伝や遺伝病と密接に関わることが研究され出すのは、やっと一九〇〇年代初めであって、本書初版の明治三七(一九〇四)年や底本第十三版の大正一四(一九二五)年頃に、本格化したばかりであったと考えられる。]

 その他或る性質は親から男の子ばかりに傳はつて、女の子には丸で傳はらぬことがある。またその反對の場合もある。千七百十七年に英國ロンドンに生れたランベルドといふ男は奇態な皮膚病で、身體の全面から短い棘が生えて居たので、「山荒し男」といふ綽名(あだな)を附けられて、有名なものであつたが、この性質は男の子や、男の孫には傳はつたが、娘や孫娘には全く現れなかつた。色盲といふて色の區別の分らぬ不具や、血友病と云うて些細な傷口からも血液が流れ出して止まぬ病氣なども、之と同じく子孫の中の男ばかりに現れる。また親の性質が子の代には現れずに孫の代に至つて現れる場合も幾らもある。牡牛は無論乳を生ぜぬものであるが、乳の善く出る牝牛の生んだ牡牛から出來た牝牛が祖母に似て澤山に乳を出すことは、牧畜家の常に知る通りであるが、それと同樣に牝羊には素より角の生えることはないが、特別の形した角を持つた牡羊から出來た牝羊の生んだ牡羊に祖父の通りの角が生えた例もある。かやうな場合に乳を多く出す性質或は特別の形した角を生ずる性質は、如何にして牡牛或は牝羊の身體の内に一生涯隱れて存し、その子の代に至つて初めて現れるかといふやうに、廣く遺傳に關する事實を集めその理由・法則等を考へて見ると、殆ど解らぬことばかりである。遺傳に關する實驗的の研究は、最近十數年間に非常に盛になつて、多くの新事實が發見せられたが、それだけまた新しい問題も生じてなかなか容易には決着しさうにもない。これらに就いては更に後の章に述べるが、我々は今日の所遺傳の現象の僅に一小部分のみを理解し得たに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:文中、現在は差別用語とされる「不具」という語が現われるので批判的にお読み戴きたい。

「身體の全面から短い棘が生えて居た」この「千七百十七年に英國ロンドンに生れたランベルドといふ男」性の症例に行き遭わなかったが、遺伝しているところからは、先天性魚鱗癬様紅皮症の中でも最も重度とされる、鎧状の非常に硬い皮膚をもつ道化師様魚鱗癬か。]

 この困難な遺傳の現象を説明せんがために、ダーウィン以後に多數の學者が種々の假説を考へ出した。その重なものだけでも七つ八つもあるが、執れも十分な土臺のない架空の論で、到底一般の學者を滿足せしめ得るほどのものではない。元來遺傳の現象は生物進化の一要素であるから、その理法の明になるまでは、生物進化の説明も完全には出來ぬ譯であるが、ダーウィンの自然淘汰の説では、ただ遺傳の事實なることを認めさへすれば、生物進化の大體は説明が出來るから、こゝには以上述べただけに止めて置く。

 

子供には子供の世界のあるゆゑにほほづき赤しほほづき赤し   片山敏彦

子供には子供の世界のあるゆゑに
 
  ほほづき赤しほほづき赤し   片山敏彦

飯田蛇笏 山響集 昭和十五(一九四〇)年 新鮮なる蔬菜 後記 奥附 / 山響集~完

  新鮮なる蔬菜

 

田攏(たぐろ)芋花さく丈けに霧しづく
 
 
[やぶちゃん注:「
田攏(たぐろ)」は「田畔」とも書き、田のくろ、畦のこと。この芋は特に特殊な芋を指すとは採らなかった。

 

蔬菜籠みるみる露の日翳せり

 

[やぶちゃん注:「みるみる」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

熟れすぎし胡瓜美(くは)しもあまた垂る

 

[やぶちゃん注:「美(くは)しく」の「くはし」は古語。「詳し」と同語源で、対象の組成が細やかで、洗練されている様子を指す。微妙に美しい、繊細で美しい、の意。]

 

人ごゑにおちつぐ茄子のかぐら蟲

 

[やぶちゃん注:「かぐら蟲」神楽虫で「テントウムシ」の方言と思われる。「日本国語大辞典」には茨城・静岡・愛知の採集地が示されてある。ネット検索したところ、ある記載に、『黄色の体に黒のヒゲがぐるりと取り巻いたような』『蛾の幼虫』とあるのであるが、句のイメージとしては生理的にちょっと私は採りたくない。]

 

白晝のむら雲四方に蕃茄熟る

 

見(み)のしゞに越瓜(しろうり)を匐ふちちろむし

 

[やぶちゃん注:「見のしゞ」の「しじ」は「四時」で、ここは広義に見るといつも、の意で採っておく。「ちちろむし」蟋蟀(こおろぎ)の別名。]

 

葉を擡(もた)げ茄子日々に生(な)り雲鎖す

 

茄子と採る蔓豆籠をたれにけり

 

[やぶちゃん注:「蔓豆」マメ目マメ科マメ亜科インゲン連フジマメ属フジマメ Lablab purpureus か。ウィキの「フジマメ」によれば、『アフリカ、アジアを原産地と』日本には九世紀以降に『度々導入された。関西ではフジマメをインゲンマメと呼び、インゲンマメはサンドマメと呼ばれている』。『岐阜県では飛騨・美濃伝統野菜に「千石豆」として、石川県では加賀野菜の一つとして「加賀つるまめ」の名でブランド化されている』。『若い莢を天ぷらや和え物、汁の実にして食べる。種子は熟したもの、若いもの、双方食べられる。熟した種子は堅い外皮で覆われているため、料理の際は長時間の加熱を必要とする。加熱の際には何度か水を換える。大量に摂取すると毒性が強く危険。乾燥させた種子は豆粕に加工したり圧縮、発酵させて納豆のようにして食べる。加熱してそのまま食べても良い』とある。]

 

草の香に南蠻熟るゝ厄日明け

 

[やぶちゃん注:「南蠻」はトウモロコシとトウガラシの別名だが、総標題は「新鮮なる蔬菜」だから前者でもよいが、ここは印象的に後者の赤を私は配したい。]

 

新榧子(しんかや)を干しひろげたる地べたかな

 

[やぶちゃん注:「榧子」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera の実であろう。ウィキの「カヤ」によれば、『種子は食用となる。そのままではヤニ臭くアクが強いので数日間アク抜きしたのち煎るか、土に埋め、皮を腐らせてから蒸して食べる。あるいは、灰を入れた湯でゆでるなどしてアク抜き後乾燥させ、殻つきのまま煎るかローストしたのち殻と薄皮を取り除いて食すか、アク抜きして殻を取り除いた実を電子レンジで数分間加熱し、薄皮をこそいで実を食す方法もある』とある。]

 

刈草の樝子(しどみ)つぶらに露しめり

 

[やぶちゃん注:「樝子」既出既注。]

 

蔬菜籠娘が暮れ暮(ぐ)れに滿てしはや

 

[やぶちゃん注:「暮れ暮れ」の後半は底本では踊り字「〲」であるので、例外的に読みを補った。]

 

 

 

 

    後   記

 

 わたくしの句集は、第一に雲母社發行の「山廬集」、第二に改造社發行の「靈芝」があるのでこれは第三句集となるわけである。この書名を山響集(こだましふ)としたのは、わたくしが自分の中に生活して山響を愛するが故である。ひとり山中に佇つて、われとわが聲をよつて聽くとき、いかにも自分の作品のそれに接する場合を思はせられるのである。で、こんどこの集は、河出書房主の慫慂により江湖にまみえることにたつたのであるが、全作品、わたくしの主宰する雜誌「雲母」はもとより、現在世に行はれてゐるあまたの雜誌及び新間へ約五箇年にわたつて掲載した多數のなかから自選したものである。左樣に多數のものへ掲載したのであるから、選出したとはいふものの、なほ見失つてゐるものも若干あらうかと思はれる。掲載の雜誌や新聞の名を一々附記し、且つその折々の題名など書き入れることも、自分自身のみにとつては多少の興味あることのやうにも思はれたことではあるが、再選した結果、或は一二句にとゞまるのもあれば、全部抹殺するやうな場合にも出逢つたりしたために、さうしたことを一排し、そのう數篇だけをそつくりこの集にとゞめるだけにした。さうして、今年晩春から一箇月あまり私は朝鮮から滿洲及び北支那へかけて旅行したのであるが、これを一區畫としその旅行吟發表までを此の集にとゞめることにした次第である。この一集を記念し、私は更に新たなる足踏みを句道難行につゞけたいと考へるものである。

  昭和十五年九月十一日     蛇 笏

 

[やぶちゃん注:以下、奥附。底本では二重の黒枠(外側が太い)内に配されてある。字配やポイントは再現していない。判読出来ない「〇」は丸の中に「停」の記号で、これは当時の商工・農林省の「暴利取締令」改正(昭和一五(一九四〇)年六月二十四日附)により価格表示規程が書籍雑誌にも適用されたもので、一般商品に対しては「九・一八価格停止令」以前の製品であることを示すものらしい(しかし十月発行なのは不審。改正猶予期間があったものか?)。なお、発行日の「三十一」は明らかに後から貼りつけた跡がある。]

 

昭和十五年十月二十七日印刷

昭和十五年十月三十一日發行

 

山響集

  〇金貳圓五拾錢

 

著作者          飯田蛇笏

 

   東京市日本橋區通三丁目一番地

發業者          河出孝雄

 

   東京市牛込區山吹町三ノ一九八

印刷者          萩原芳雄

 

   東京市日本橋區通三丁目一番地

發行所          河出書房

       振替東京一〇八〇二番

       電話日本橋二七七七番

飯田蛇笏 山響集 昭和十五(一九四〇)年 冬

〈昭和十五年・冬〉

 

氣おごりて日輪をみる冬景色

 

積雪に月さしわたる年の夜

 

月の輪の侘びねに光る大晦日

 

湯ざめして聖(きよ)らの處女書に溺る

[やぶちゃん注:秘やかな艶句とおぼゆ。]

 

蟲たえて冬高貴なる陽の弱り

 

   小山養雞組合

 

雞舍(とや)灯り嶽の月さす障子かな

 

[やぶちゃん注:「小山養雞組合」不詳。]

 

さるほどに獵衣耐ふべくぬくもりぬ

 

[やぶちゃん注:「獵衣」「れふい(りょうい)」と音読みしていよう。]
 
 

ウクレレをめで流眄(ながしめ)す冬果の紅

 

冬晴れし夢のうすいろ遠嶺空

 

[やぶちゃん注:「遠嶺空」「とほねぞら(とおねぞら)」。]

 

茶の花に空のギヤマン日翳せり

 

淸流は霜にさゝやき寒の入り

 

老いるより寒土戀ほしく住ひけり

 

風邪窶れして美しき尼の君

 

風邪の子の餅のごとくに頰豊か

 

冬の星屍室の夜空更けにけり

 

埠頭冬咽ふがごとく星更けぬ

 

大膽に銀(ぎん)一片を社會鍋

 

うす闇にもともきらひな社會鍋

 

[やぶちゃん注:以降の句などから見て、「もとも」は「最も」で、「きらひな」は「嫌ひな」か。私も社会鍋は何か、かつての傷痍軍人の物貰いのイメージと妙にダブり、しかも軍人見たようなおぞましい服装で金管楽器をぶいぶいいわせて「嫌ひ」である。トンデモ解釈かも知れぬ。]

 

かるがるとにげあしのびて社會鍋

 

[やぶちゃん注:「かるがる」の後半は底本では踊り字「〲」。]

 

社會鍋守る娘にたれも惚れざりき

 

伊達の娘がみてとほりたる社會鍋

 

   幽棲逍遙

 

年逝くや山月いでて顏照らす

 

鶴病みて水べに冴ゆる冬花かな

 

鶴は病み日あたる巖凍みにけり

 

昃(ひかげ)れば雪蟲まひて鶴病みぬ

 

鶴妙(たへ)に凍ててともしき命(いのち)かな

 

鶴病みて片雲風にさだまらず

 

病む鶴に人影(ひとかげ)凍てて佇ちにけり

飯田蛇笏 山響集 昭和十五(一九四〇)年 夏/秋

〈昭和十五年・夏〉

 

チェロを擁(だ)き夏夕月の黃をめづる

 

夏風邪の娘のはなやかに愁ひけり

 

旅愁あり浴房(バス)にたゞよふ夏日翳

 

風鈴に雨やむ闇の更たけぬ 

 

窓近く立葵咲く登山宿

 

   樹海を出て河口湖に向ふ

 

五湖のみちゆくゆく餘花の曇りけり

 

[やぶちゃん注:「ゆくゆく」の後半は踊り字「〱」。「余花」は「よくわ(よか)」で、夏になっても若葉の中に咲き残っている桜の花を指す。歳時記によれば初夏の季語で、立夏前のそれは「残花」、立夏後に「余花」になるとある。というより、これは古語の雅語であり、季語嫌いの私としてはそれなら腑に落ちるのである。]

 

   哈爾賓滯在  三句

 

白露の娘瞳の水色に夏きたる

 

楡靑葉して白露の娘虹を見る

 

露人墓地靑葉隱りに虹消ゆる

 

[やぶちゃん注:「哈爾賓」旧満州国ハルビン(現在の中国人民共和国黒竜江省省都)。ウィキの「飯田蛇笏によれば、昭和一五(一九四〇)年の春に、『雲母』の『小川鴻翔とともに朝鮮半島から中国北部にかけてを縦断旅行し』、四月七日に開催された『京城俳句大会など大陸各地で俳句会や講演を開いた』とある。関係性は不明であるが、飯田蛇笏の三男飯田麗三は、この四年後の昭和一九(一九四四)年にハルピンで応召されている(戦後抑留され、昭和二十一年五月に外蒙古アモグロン収容所にて労働使役中の事故により死亡している。病死とも)。]

 

群ら嶺立つ雲海を出て夏つばめ

 

雲うすく夏翳にじむお花畑

 

夏嶽の月に霧とぶさるをがせ

 

[やぶちゃん注:「さるをがせ」樹皮に付着して懸垂する糸状の地衣類で、山地や高山帯に植生する菌界子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目ウメノキゴケ科サルオガセ(猿尾枷・猿麻桛)属 Usnea の総称。「霧藻」「蘿衣」とも称する。ブナ林など落葉広葉樹林の霧のかかるような森林の樹上に着生し、木の枝状に枝分かれして下垂する。本邦ではヨコワサルオガセUsnea diffracta(「横輪」。糸状の枝状体に環状の割れ目を持つ)やアカサルオガセ(アカヒゲゴケモドキ)Usnea rubrotincta(皮層が赤色を呈する)以下、凡そ四十種が確認されている(ウィキの「サルオガセ他、複数の記載を参照した)。]

 

合歡咲いて嶽どんよりと川奏づ

 

山茱萸の風にゆれあふ實を擇りぬ

 

[やぶちゃん注:「山茱萸」「やまぐみ」と読んでおく(後述)。私はこれは季節的に見て、我々が「茱萸」と認識しているバラ亜綱バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus のナツグミ Elaeagnus multiflora の偽果(通常の果実のような子房ではなくて隣接組織に由来する果実状器官)であるように思われる。ウィキの「ナツグミによれば、『本州の関東〜中部、四国の山地に自生する落葉小高木であるが、庭木にされることもある』。四〜五月頃に『淡黄色の花(正確には萼筒)を咲かせ』、『果実(正確には偽果)は』六月頃に『赤く熟して食べることができる』とある。実は正真正銘の和名ではミズキ目ミズキ科ミズキ属サンシュユ(山茱萸) Cornus officinalis があり、同じく黄色い花で赤い偽果をつけるのであるが、ウィキの「サンシュによれば、「ハルコガネバナ(春黄金花)」・「アキサンゴ(秋珊瑚)」・「ヤマグミ(山茱萸)」とも呼ばれ、『季語は春』。『晩秋に付ける紅色楕円形の実は渋くて生食には向かない』。但し、『内部にある種子を取り除き乾燥させた果肉(正確には偽果)は生薬に利用され、「サンシュユ」の名で日本薬局方に収録されており、強精薬、止血、解熱作用がある』。『温めた牛乳にサンシュユの枝を入れ、保温して一晩置くとヨーグルトができる。ブルガリアにはヨーグルトの木と呼ばれる木があり、サンシュユはヨーグルトの木の親戚にあたるため、実際に同じようにヨーグルトを作れる』。『山茱萸の音読みが、和名の由来で』、『早春、葉がつく前に木一面に黄色の花をつけることから、「ハルコガネバナ」とも呼ばれ』、『秋のグミのような赤い実を珊瑚に例えて、「アキサンゴ」とも呼ばれる』(下線やぶちゃん)とあることから、後者ではあり得ない。従ってこれはあくまで、「やま」の「ぐみ」(山の赤茱萸。ナツグミ Elaeagnus multiflora の「実」)であって、「さんしゆゆ(さんしゅゆ」の「実」ではないと私は判断したのである。大方の御叱正を俟つ。]

 

蒟蒻の花ゑみわるゝ驟雨霽れ

 

[やぶちゃん注:「蒟蒻の花」単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科コンニャク属コンニャク Amorphophallus konjac の花は、ある程度の大きさまで成長しないと『花はつかない。栽培下では』開花するまでは五~六年かかる。『開花するときには葉は出ず、また開花後に株は枯れる。花は全体の高さが』二メートルほど『にもなる。いわゆる肉穂花序の付属体は円錐形で高くまっすぐに伸び上がり、仏縁苞は上向きにラッパ状に開き、舷部(伸び出した部分)は背面に反り返る。花全体は黒っぽい紫。独特の臭いを放つ』(ウィキの「コンニャクより引用。下線やぶちゃん)。私も見たことがあるが、形状は同じサトイモ科のテンナンショウ属マムシグサ Arisaema serratum に似ていると思うが、とてつもなくでかく、色が毒々しくて臭いともに頗る禍々しいと私は感じた。因みに世界最大の花として知られるコンニャク属ショクダイオオコンニャク Amorphophallus titanium はその激しい腐臭でも有名である。そういう意味では本句はある種、「鬼趣」を持つ佳句(生理的には厳しいが、私は昨年に前頭葉を挫滅し嗅覚を失ているから今は平っちゃらである)と思うのである。]

 

 

 

〈昭和十五年・秋〉

 

草は冷め巖なほ温く曼珠沙華

 

屠所の花卉冷気にみだれ渡り鳥

2016/03/21

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(13) 日本の家族(Ⅷ) / 日本の家族~了

 

 勿論古い家族組織にも、或る種の利益はあつて、それが大いに個人の服從狀態の償ひになるのであつた。則ちこの家族は相互扶助の一社會であつて、從順を强ふると同樣に、助力をも與へるのである。必要の場合には家族の各員は、他の一員を助ける爲めに、何等かの仕事を爲し得たのである。各員は全體のものから保護を受ける權利をもつて居た。この事は、今日と雖も、なほ日本の家族の狀態である。各人の行爲が禮讓、親切といふ古い形に從つて動かされて居るやうな規律正しき家に於ては――荒々しい言葉を發する事もなく――年少者は愛情深き畏敬の念をもつて年長者を見――年取つて最早活動的の仕事の出來なくなつた人々は、自ら子供の世話をし、敎育、訓練に無上に貴い務めをする――と云つたやうな家に於ては、理想の狀態が實現されて居るのである、かくの如き家庭の日常生活は――その家に於ける各人の努力は、すべてのものの爲めに、生存を出來うる限り愉快にするにあり――その結合の覊は愛情であり、感謝であるといふ――さういふ家の日常生活は、尤も純なる意味に於ての宗敎を代表するものであり、その場所は神聖である。

[やぶちゃん注:「羈」「たづな」(手綱)と訓ずる。] 

 

 なほ一言すべきは、古い家族に於ける寄食者の事である。事實上まだ十分な定說とするわけには行かないが、恐らく日本の初めの寄食者は、奴隷若しくは農奴であつたらしい、そして爾後の僕婢の狀態は――特に統治階級の家族に於けるそれ等の狀態は――特に古いギリシヤ、ローマの家族に於ける奴隷のそれによく似て居る。當然それ等は劣等者として取扱はれては居るが、なほ一家の人員として考へられて居り、親しいものとして信賴され、家族の快樂に分與し、其親しい會合には、大抵席を頒かたれて居た。法律上から言へば奴僕は酷しく取扱はれ得たのであるが、通例は親切に取扱はれたといふに疑ひはないと考へられる――絕對の忠實といふ事が、彼等から期待されて居たので。過去に於ける奴僕の事情に就いての最も善い證跡は、今日なほ殘存して居る風習の內に見られる。僕婢の上に及ぼす家族の權力は、最早法律の上にも事實の上にも存在しては居ないが、昔日のその關係の樂しい特徴は、なほ續いて居り、それ等は少からず興味のあるものである。則ち家族はその使用人の繁榮に就いて、眞心をもつて考慮して居る――殆ど貧しい親族の場合に對して示されるが如き考慮をとる。以前にあつては、或る位の高い家に僕婢を差し出す家は、その主家に對し、家臣の大名に對するが如き關係をもち兩家の間には忠順と懇篤との眞の契約が存立したのである。かくて僕婢の務めは父子相傳的となり、その子供達は小さい時分から、その仕事にならされて居た。僕婢が相當の年配に達すると、結婚の許しが與へられ、奉仕の關係はなくなる、併し忠順の關係はなくなるのではない。結婚した僕婢の子供達は、年が行くと主人の家で働くやうにその家に送られ、これも亦その婚期の來るに至つて暇を貰ふ。この種の關係は貴族の家と、その家家たる家との間には、なほ行はれて居り、幾百年の間も變はらずに父子相傳的に代々務めをするといふ、美しい傳統と習俗とを保存して居る。

 勿論封建時代にあつての主人と使用人との關係は、極めて嚴格なものであつた、必要な場合には、使用人は主人若しくは主人の家の爲めに自分の生命その他一切を捧げるやうに期待されて居た。これは又ギリシヤ、ロオマの使用人にも求められて居た忠順であつた――それは勞役者を牛馬の狀態に陷れた、不人情な服役の事が、まだ行はれなかつた以前の事であつて、その關係は半ば宗敎的てあつた。唯クウランジュ氏が記述して居るやうな、ギリシヤ若しくはロオマで僕婢を一家の祭祀に列ならしたといふ、その風俗と同じ風俗が、また古代の日本にあつたとは考へられない。併し日本の使用人を差し出す家臣なる家族は、家臣として、當然その主君の氏族の祭祀に屬して居たのであるから、家族に對する僕婢の關係は、或る程度まで宗敎的の關係であつたのである。

 讀者はこの章に記した事實から、どれ程まで個人が宗敎的團體としての家族の犧牲になつたものであるかを了解し得たであらう。僕婢から主人まで――一家の敎長政治のあらゆる階段を經て、上は主人にまで及び――義務の法則は何人にも同樣に當てはめられ、風習と傳統とには絕對の柔順が要求された。祖先の祭祀は、決して個人の自由を認めなかつた、男女を問はず何人も自分の意ふままに生活する事は出來なかつた。各人みな規律に從つて生活しなければならなかつた。個人は法律上にも存在をもつて居なかつた――家族が社會の單位であつたのである。その家長すらも、法律に於ては、只だ代表者としてのみ存在したのである、――生者と共に死者に對して責任をもつて。併し家長の公共の責任に至つては、單に民法に依つてのみ定められたものではなかつた。それはなほ一つの宗敎上の約束――氏族若しくは部族の祖先の祭祀といふ約束に依つて定められたのである、而してこの祖先崇拜の公式は、家庭の宗敎よりも以上に嚴重なものであつた。
 
[やぶちゃん注:以下、何時もの通り、本章全部の原文を附す。]
 

 

The Japanese
Family

 

THE great general idea, the fundamental idea, underlying every persistent ancestor-worship, is that the welfare of the living depends upon the welfare of the dead. Under the influence of this idea, and of the cult based upon it, were developed the early organization of the family, the laws regarding property and succession, the whole structure, in short, of ancient society,—whether in the Western or the Eastern world.

   But before considering how the social structure in old Japan was shaped by the ancestral cult, let me again remind the reader that there were at first no other gods than the dead. Even when Japanese ancestor-worship evolved a mythology, its gods were only transfigured ghosts,—and this is the history of all mythology. The ideas of heaven and hell did not exist among the primitive Japanese, nor any notion of metempsychosis. The Buddhist doctrine of rebirth—a late borrowing—was totally inconsistent with the archaic Japanese beliefs, and required an elaborate metaphysical system to support it. But we may suppose the early ideas of the Japanese about the dead to have been much like those of the Greeks of the pre-Homeric era. There was an underground world to which spirits descended; but they were supposed to haunt by preference their own graves, or their "ghost-houses." Only by slow degrees did the notion of their power of ubiquity become evolved. But even then they were thought to be particularly attached to their tombs, shrines, and homesteads. Hirata wrote, in the early part of the nineteenth century: "The spirits of the dead continue to exist in the unseen world which is everywhere about us; and they all become gods of varying character and degrees 
of influence. Some reside in temples built in their honour; others hover near their tombs; and they continue to render service to their prince, parents, wives, and children, as when in the body." Evidently "the unseen world" was thought to be in some sort a duplicate of the visible world, and dependent upon the help of the living for its prosperity. The dead and the living were mutually dependent. The all-important necessity for the ghost was sacrificial worship; the all-important necessity for the man was to provide for the future cult of his own spirit; and to die without assurance of a cult was the supreme calamity …. Remembering these facts we can understand better the organization of the patriarchal family,—shaped to maintain and to provide for the cult of its dead, any neglect of which cult was believed to involve misfortune.

   The reader is doubtless aware that in the old Aryan family the bond of union was not the bond of affection, but a bond of religion, to which natural affection was altogether subordinate. This condition characterizes the patriarchal family wherever ancestor-worship exists. Now the Japanese family, like the ancient Greek or Roman family, was a religious society in the strictest sense of the term; and a religious society it yet remains. Its organization was primarily shaped in accordance with the requirements of ancestor-worship; its later imported doctrines of filial piety had been already developed in China to meet the needs of an older and similar religion. We might expect to find in the structure, the laws, and the customs of the Japanese family many points of likeness to the structure and the traditional laws of the old Aryan household,—because the law of sociological evolution admits of only minor exceptions. And many such points of likeness are obvious. The materials for a serious comparative study have not yet been collected: very much remains to be learned regarding the past history of the Japanese family. But, along certain general lines, the resemblances between domestic institutions in ancient Europe and domestic institutions in the Far East can be clearly established.

   Alike in the early European and in the old Japanese civilization it was believed that the prosperity of the family depended upon the exact fulfilment of the duties of the ancestral cult; and, to a considerable degree, this belief rules the life of the Japanese family to-day. It is still thought that the good fortune of the household depends on the observance of its cult, and that the greatest possible calamity is to die without leaving a male heir to perform the rites and to make the offerings. The paramount duty of filial piety among the early Greeks and Romans was to provide for the perpetuation of the family cult; and celibacy was therefore generally forbidden,—the obligation to marry being enforced by opinion where not enforced by legislation. Among the free classes of Old Japan, marriage was also, as a general rule, obligatory in the case of a male heir: otherwise, where celibacy was not condemned by law, it was condemned by custom. To die without offspring was, in the case of a younger son, chiefly a personal misfortune; to die without leaving a male heir, in the case of an elder son and successor, was a crime against the ancestors,—the cult being thereby threatened with extinction. No excuse existed for remaining childless: the family law in Japan, precisely as in ancient Europe, having amply provided against such a contingency. In case that a wife proved barren, she might be divorced. In case that there were reasons for not divorcing her, a concubine might be taken for the purpose of obtaining an heir. Furthermore, every family representative was privileged to adopt an heir. An unworthy son, again, might be disinherited, and another young man adopted in his place. Finally, in case that a man had daughters but no son, the succession and the continuance of the cult could be assured by adopting a husband for the eldest daughter.

   But, as in the antique European family, daughters could not inherit: descent being in the male line, it was necessary to have a male heir. In old Japanese belief, as in old Greek and Roman belief, the father, not the mother, was the life-giver; the creative principle was masculine; the duty of maintaining the cult rested with the man, not with the woman.*

 

[*Wherever, among ancestor-worshipping races, descent is in the male line, the cult follows the male line. But the reader is doubtless aware that a still more primitive form of society than the patriarchal—the matriarchal—is supposed to have had its ancestor-worship. Mr. Spencer observes: "What has happened when descent in the female line obtains, is not clear. I have met with no statement showing that, in societies characterized by this usage, the duty of administering to 
the double of the dead man devolved on one of his children rather than on others,"—Principles of Sociology, Vol. III,
§601.] 

 

   The woman shared the cult; but she could not maintain it. Besides, the daughters of the family, being destined, as a general rule, to marry into other households, could bear only a temporary relation to the home-cult. It was necessary that the religion of the wife should be the religion of the husband; and the Japanese, like the Greek woman, on marrying into another household, necessarily became attached to the cult of her husband's family. For this reason especially the females in the patriarchal family are not equal to the males; the sister cannot rank with the brother. It is true that the Japanese daughter, like the Greek daughter, could remain attached to her own family even after marriage, providing that a husband were adopted for her,—that is to say, taken into the family as a son. But even in this case, she could only share in the cult, which it then became the duty of the adopted husband to maintain.

   The constitution of the patriarchal family everywhere derives from its ancestral cult; and before considering the subjects of marriage and adoption in Japan, it will be necessary to say something about the ancient family-organization. The ancient family was called uji,—a word said to have originally signified the same thing as the modern term uchi,—"interior," or "household," but certainly used from very early times in the sense of "name"—clan-name especially. There were two kinds of uji: the ō-uji, or great families, and the ko-uji, or lesser families,—either term signifying a large body of persons united by kinship, and by the cult of a common ancestor. The ō-uji corresponded in some degree to the Greek γένος or the Roman gens: the ko-uji were its branches, and subordinate to it. The unit of society was the uji. Each ō-uji, with its dependent ko-uji, represented something like a phratry or curia; and all the larger groups making up the primitive Japanese society were but multiplications of the uji,—whether we call them clans, tribes, or hordes. With the advent of a settled civilization, the greater groups 
necessarily divided and subdivided; but the smallest subdivision still retained its primal organization. Even the modern Japanese family partly retains that organization. It does not mean only a household: it means rather what the Greek or Roman family became after the dissolution of the gens. With ourselves the family has been disintegrated: when we talk of a man's family, we mean his wife and children. But the Japanese family is still a large group. As marriages take place early, it may consist, even as a household, of great-grandparents, grandparents, parents, and children—sons and daughters of several generations; 
but it commonly extends much beyond the limits of one household. In early times it might constitute the entire population of a village or town; and there are 
still in Japan large communities of persons all bearing the same family name. In some districts it was formerly the custom to keep all the children, as far 
as possible, within the original family group—husbands being adopted for all the daughters. The group might thus consist of sixty or more persons, dwelling 
under the same roof; and the houses were of course constructed, by successive extension, so as to meet the requirement. (I am mentioning these curious facts 
only by way of illustration.) But the greater uji, after the race had settled down, rapidly multiplied; and although there are said to be house-communities still in some remote districts of the country, the primal patriarchal groups must have been broken up almost everywhere at some very early period. Thereafter the main cult of the uji did not cease to be the cult also of its sub-divisions: all members of the original gens continued to worship the common ancestor, or uji-no-kami, "the god of the uji." By degrees the ghost-house of the uji-no-kami became transformed into the modern Shinto parish-temple; and the ancestral spirit became the local tutelar god, whose modern appellation, ujigami, is but a shortened form of his ancient title, uji-no-kami. Meanwhile, after the general establishment of the domestic cult, each separate household maintained the special cult of its own dead, in addition to the communal cult. This religious condition still continues. The family may include several households; but each household maintains the cult of its dead. And the family-group, whether large or small, preserves its ancient constitution and character; it is still a religious society, exacting obedience, on the part of all its members, to traditional custom.

   So much having been explained, the customs regarding marriage and adoption, in their relation [63] to the family hierarchy, can be clearly understood. But a word first regarding this hierarchy, as it exists to-day. Theoretically the power of the head of the family is still supreme in the household. All must obey the head. Furthermore the females must obey the males—the wives, the husbands; and the younger members of the family are subject to the elder members. The children must not only obey the parents and grandparents, but must observe among themselves the domestic law of seniority: thus the younger brother should obey the elder brother, and the younger sister the elder sister. The rule of precedence is enforced gently, and is cheerfully obeyed even in small matters: for example, 
at meal-time, the elder boy is served first, the second son next, and so on,—an exception being made in the case of a very young child, who is not obliged to 
wait. This custom accounts for an amusing popular term often applied in jest to a second son, "Master Cold-Rice" (Hiameshi-San); as the second son, having to wait until both infants and elders have been served, is not likely to find his portion desirably hot when it reaches him …. Legally, the family can have but one responsible head. It may be the grandfather, the father, or the eldest son; and it is generally the eldest son, because according to a custom of Chinese origin, the old folks usually resign their active authority as soon as the eldest son is able to take charge of affairs. The subordination of young to old, and of females to males,—in fact the whole existing constitution of the family,—suggests a great deal in regard to the probably stricter organization of the patriarchal family, whose chief was at once ruler and priest, with almost unlimited powers. The organization was primarily, and still remains, religious: the marital bond did not 
constitute the family; and the relation of the parent to the household depended upon his or her relation to the family as a religious body. To-day also, the girl adopted into a household as wife ranks only as an adopted child: marriage signifies adoption. She is called "flower-daughter" (hana-yome). In like manner, and for the same reasons, the young man received into a household as a husband of one of the daughters, ranks merely as an adopted son. The adopted bride or bridegroom is necessarily subject to the elders, and may be dismissed by their decision. As for the adopted husband, his position is both delicate and difficult,—as an old Japanese proverb bears witness: Konuka san-go areba, mukoyoshi to naruna ("While you have even three * of rice-bran left, do not become a son-in-law"). Jacob does not have to wait for Rachel: he is given to Rachel on demand; and his service then begins. And after twice seven years of service, Jacob may be sent away. In that event his children do not any more belong to him. but to the family. His adoption may have had nothing to do with affection; and his dismissal may have nothing to do with misconduct. Such matters, however they may be settled in law, are really decided by family interests—interests relating to the maintenance of the house and of its cult.**
 

 

[*A  is something more than a pint.]

[**Recent legislation has been in favour of the mukoyoshi; but, as a rule, the law is seldom resorted to except by men dismissed from the family for misconduct, and anxious to make profit by the dismissal.] 

 

   It should not be forgotten that, although a daughter-in-law or a son-in-law could in former times be dismissed almost at will, the question of marriage in the old Japanese family was a matter of religious importance,—marriage being one of the chief duties of filial piety. This was also the case in the early Greek and Roman family; and the marriage ceremony was performed, as it is now performed in Japan, not at a temple, but in the home. It was a rite of the family religion,—the rite by which the bride was adopted into the cult in the supposed presence of the ancestral spirits. Among the primitive Japanese there was probably no corresponding ceremony; but after the establishment of the domestic cult, the marriage ceremony became a religious rite, and this it still remains. Ordinary marriages are not, however, performed before the household shrine or in front of the ancestral tablets, except under certain circumstances. The rule, as regards such ordinary marriages, seems to be that if the parents of the bridegroom are yet alive, this is not done; but if they are dead, then the bridegroom leads his bride before their 
mortuary tablets, where she makes obeisance. Among the nobility, in former times at least, the marriage ceremony appears to have been more distinctly religious,—judging from the following curious relation in the book Shōrei-Hikki, or "Record of Ceremonies"*: "At the weddings of the great, the bridal-chamber is 
composed of three rooms thrown into one [by removal of the sliding-screens ordinarily separating them], and newly decorated …. The shrine for the image of the family-god is placed upon a shelf adjoining the sleeping-place." It is noteworthy also that Imperial marriages are always officially announced to the ancestors; and that the marriage of the heir-apparent, or other male offspring of the Imperial house, is performed before the Kashiko-dokoro, or imperial temple of the ancestors, which stands within the palace-grounds.** As a general rule it would appear that the evolution of the marriage-ceremony in Japan chiefly followed Chinese precedent; and in the Chinese patriarchal family the ceremony is in its own way quite as much of a religious rite as the early Greek or Roman marriage. And though the relation of the Japanese rite to the family cult is less marked, it becomes sufficiently clear upon investigation. The alternate drinking of rice-wine, by bridegroom and bride, from the same vessels, corresponds in a sort to the Roman confarreatio. By the wedding-rite the bride is adopted into the family religion. She is adopted not only by the living but by the dead; she must thereafter revere the ancestors of her husband as her own ancestors; and should there be no elders in the household, it will become her duty to make the offerings, as representative of her husband. With the cult of her own family she has nothing more to do; and the funeral ceremonies performed upon her departure from the parental roof,—the solemn sweeping-out of the house-rooms, the lighting of the death-fire before the gate,—are significant of this religious separation.
 

 

[*The translation is Mr. Mitford's. There are no "images" of the family-god, and I suppose that the family's Shinto-shrine is meant, with its ancestral tablets.]

 

[**This was the case at the marriage of the present Crown-Prince.] 

 

   Speaking of the Greek and Roman marriage, M. de Coulanges observes:—"Une telle religion ne pouvait pas admettre la polygamie." As relating to the highly developed domestic cult of those communities considered by the author of La Cite Antique, his statement will scarcely be called in question. But as regards ancestor-worship in general, it would be incorrect; since polygamy or polygyny, and polyandry may coexist with ruder forms of ancestor-worship. The Western-Aryan societies, in the epoch studied by M. de Coulanges, were practically monogamic. The ancient Japanese society was polygynous; and polygyny persisted, after the establishment of the domestic cult. In early times, the marital relation itself would seem to have been indefinite. No distinction was made between the wife and the concubines: "they were classed together as 'women.'"* Probably under Chinese influence the distinction was afterwards sharply drawn; and with the progress of civilization, the general tendency was towards monogamy, although the ruling classes remained polygynous. In the 54th article of Iyeyasu's legacy, this phase of the social condition is clearly expressed,—a condition which prevailed down to the present era:—

   "The position a wife holds towards a concubine is the same as that of a lord to his vassal. The Emperor has twelve imperial concubines. The princes may have eight concubines. Officers of the highest class may have five mistresses. A Samurai may have two handmaids. All below this are ordinary married men."

   This would suggest that concubinage had long been (with some possible exceptions) an exclusive privilege; and that it should have persisted down to the period of the abolition of the daimiates and of the military class, is sufficiently explained by the militant character of the ancient society.* Though it is untrue that domestic ancestor-worship cannot coexist with polygamy or polygyny (Mr. Spencer's term is the most inclusive), it is at least true that such worship is favoured by the monogamic relation, and tends therefore to establish it,—since monogamy insures to the family succession a stability that no other relation can offer. We may say that, although the old Japanese society was not monogamic, the natural tendency was towards monogamy, as the condition best according with the religion of the family, and with the moral feeling of the masses. 

 

[*Satow: The Revival of Pure Shintau.]

[*See especially Herbert Spencer's chapter, "The Family," in Vol. I, Principles of Sociology, § 315.] 

 

   Once that the domestic ancestor-cult had become universally established, the question of marriage, as a duty of filial pity, could not be judiciously left to the will of the young people themselves. It was a matter to be decided by the family, not by the children; for mutual inclination could not be suffered to interfere with the requirements of the household religion. It was not a question of affection, but of religious duty; and to think otherwise was impious. Affection might and ought to spring up from the relation. But any affection powerful enough to endanger the cohesion of the family would be condemned. A wife might therefore be divorced because her husband had become too much attached to her; an adopted husband might be divorced because of his power to exercise, through affection, too great an influence upon the daughter of the house. Other causes would probably he found for the divorce in either case—but they would not be difficult to find.

   For the same reason that connubial affection could be tolerated only within limits, the natural rights of parenthood (as we understand them) were necessarily restricted in the old Japanese household. Marriage being for the purpose of obtaining heirs to perpetuate the cult, the children were regarded as belonging to the family rather than to the father and mother. Hence, in case of divorcing the son's wife, or the adopted son-in-law,—or of disinheriting the married son,—the children would be retained by the family. For the natural right of the young parents was considered subordinate to the religious rights of the house. In opposition to those rights, no other rights could be tolerated. Practically, of course, according to more or less fortunate circumstances, the individual might enjoy freedom 
under the paternal roof; but theoretically and legally there was no freedom in the old Japanese family for any member of it,—not excepting even its 
acknowledged chief, whose responsibilities were great. Every person, from the youngest child up to the grandfather, was subject to somebody else; and every 
act of domestic life was regulated by traditional custom.

   Like the Greek or Roman father, the patriarch of the Japanese family appears to have had in early times powers of life and death over all the members of the household. In the ruder ages the father might either kill or sell his children; and afterwards, among the ruling classes his powers remained almost unlimited until modern times. Allowing for certain local exceptions, explicable by tradition, or class-exceptions, explicable by conditions of servitude, it may be said that originally the Japanese paterfamilias was at once ruler, priest, and magistrate within the family. He could compel his children to marry or forbid them to marry; he could disinherit or repudiate them; he could ordain the profession or calling which they were to follow; and his power extended to all members of the family, and to the household dependents. At different epochs limits were placed to the exercise of this power, in the case of the ordinary people; but in the military class, the patria potestas was almost unrestricted. In its extreme form, the paternal power controlled everything,—the right to life and liberty,—the right to marry, or to keep the wife or husband already espoused,—the right to one's own children,—the right to hold property,—the right to hold office,—the right to choose or follow an occupation. The family was a despotism.

   It should not be forgotten, however, that the absolutism prevailing in the patriarchal family has its justification in a religious belief,—in the conviction that everything should be sacrificed for the sake of the cult, and every member of the family should be ready to give up even life, if necessary, to assure the perpetuity of the succession. Remembering this, it becomes easy to understand why, even in communities otherwise advanced in civilization, it should have seemed right that a father could kill or sell his children. The crime of a son might result in the extinction of a cult through the ruin of the family,—especially in a militant 
society like that of Japan, where the entire family was held responsible for the acts of each of its members, so that a capital offence would involve the penalty of death on the whole of the household, including the children. Again, the sale of a daughter, in time of extreme need, might save a house from ruin; and filial piety exacted submission to such sacrifice for the sake of the cult. 

   As in the Aryan family,* property descended by right of primogeniture from father to son; the eldest-born, even in cases where the other property was to be divided among the children, always inheriting the homestead. The homestead property was, however, family property; and it passed to the eldest son as representative, not as individual. Generally speaking, sons could not hold property, without the father's consent, during such time as he retained his headship. As a rule,—to which there were various exceptions,—a daughter could not inherit; and in the case of an only daughter, for whom a husband had been adopted, the homestead property would pass to the adopted husband, because (until within recent times) a woman could not become the head of a family. This was the case also in the Western Aryan household, in ancestor-worshipping times. 

 

[*The laws of succession in Old Japan differed considerably according to class, place, and era; the entire subject has not yet been fully treated; and only a few safe general statements can be ventured at the present time.] 

 

   To modern thinking, the position of woman in the old Japanese family appears to have been the reverse of happy. As a child she was subject, not only to the elders, but to all the male adults of the household. Adopted into another household as wife, she merely passed into a similar state of subjection, unalleviated by the affection which parental and fraternal ties assured her in the ancestral home. Her retention in the family of her husband did not depend upon his affection, but upon the will of the majority, and especially of the elders. Divorced, she could not claim her children: they belonged to the family of the husband. In any event her duties as wife were more trying than those of a hired servant. Only in old age could she hope to exercise some authority; but even in old age she was under 
tutelage—throughout her entire life she was in tutelage. "A woman can have no house of her own in the Three Universes," declared an old Japanese proverb. Neither could she have a cult of her own: there was no special cult for the women of a family—no ancestral rite distinct from that of the husband. And the higher the rank of the family into which she entered by marriage, the more difficult would be her position. For a woman of the aristocratic class no freedom existed: she could not even pass beyond her own gate except in a palanquin (kago) or under escort; and her existence as a wife was likely to be embittered by the presence of 
concubines in the house.

   Such was the patriarchal family in old times; yet it is probable that conditions were really better than the laws and the customs would suggest. The race is a joyous and kindly one; and it discovered, long centuries ago, many ways of smoothing the difficulties of life, and of modifying the harsher exactions of law and custom. The great powers of the family-head were probably but seldom exercised in cruel directions. He might have legal rights of the most formidable character; but these were required by reason of his responsibilities, and were not likely to be used against communal judgment. It must be remembered that the individual was not legally considered in former times: the family only was recognized; and the head of it legally existed only as representative. If he erred, the whole family was liable to suffer the penalty of his error. Furthermore, every extreme exercise of his authority involved proportionate responsibilities. He 
could divorce his wife, or compel his son to divorce the adopted daughter-in-law; but in either case he would have to account for this action to the family of the divorced; and the divorce-right, especially in the samurai class, was greatly restrained by the fear of family resentment; the unjust dismissal of a wife being counted as an insult to her kindred. He might disinherit an only son; but in that event he would be obliged to adopt a kinsman. He might kill or sell either son or daughter; but unless he belonged to some abject class, he would have to justify his action to the community.* He might be reckless in his management of the family property; but in that case an appeal to communal authority was possible, and the appeal might result in his deposition. So far as we are able to judge from the remains of old Japanese law which have been studied, it would seem to have been the general rule that the family-head could not sell or alienate the estate. Though the family-rule was despotic, it was the rule of a body rather than of a chief; the family-head really exercising authority in the name of the rest …. In this sense, the family still remains a despotism; but the powers of its legal head are now checked, from within as well as from without, by later custom. The acts of adoption, disinheritance, marriage, or divorce, are decided usually by general consent; and the decision of the household and kindred is required in the taking of any important step to the disadvantage of the individual.

 

[*Samurai fathers might kill a daughter convicted of unchastity, or kill a son guilty of any action calculated to disgrace the family name. But they would not sell a
child. The sale of daughters was practised only by the abject classes, or by families of other castes reduced to desperate extremities. A girl might, however, sell herself for the sake of her family.]
 

 

   Of course the old family-organization had certain advantages which compensated the individual for his state of subjection. It was a society of mutual help; and it was not less powerful to give aid, than to enforce obedience. Every member could do something to assist another member in case of need: each had a right to the protection of all. This remains true of the family to-day. In a well-conducted household, where every act is performed according to the old forms of courtesy and kindness,—where no harsh word is ever spoken, where the young look up to the aged with affectionate respect,—where those whom years have incapacitated for more active duty, take upon themselves the care of the children, and render priceless service in teaching and training,—an ideal condition has been realized. The daily life of such a home,—in which the endeavour of each is to make existence as pleasant as possible for all.,—in which the bond of union is really love and gratitude,—represents religion in the best and purest sense; and the place is holy ….

   It remains to speak of the dependants in the ancient family. Though the fact has not yet been fully established, it is probable that the first domestics were slaves or serfs; and the condition of servants in later times,—especially of those in families of the ruling classes,—was much like that of slaves in the early Greek and Roman families. Though necessarily treated as inferiors, they were regarded as members of the household: they were trusted familiars, permitted to share in the pleasures of the family, and to be present at most of its reunions. They could legally be dealt with harshly; but there is little doubt that, as a rule, they were treated kindly,—absolute loyalty being expected from them. The best indication of their status in past times is furnished by yet surviving customs. Though the power of the family over the servant no longer exists in law or in fact, the pleasant features of the old relation continue; and they are of no little interest. The family takes a sincere interest in the welfare of its domestics,—almost such interest as would be shown in the case of poorer kindred. Formerly the family furnishing servants to a household of higher rank, stood to the latter in the relation of vassal to liege-lord; and between the two there existed a real bond of loyalty and kindliness. The occupation of servant was then hereditary; children were trained for the duty from an early age. After the man-servant or maidservant had arrived at a certain age, permission to marry was accorded; and the relation of service then ceased, but not the bond of loyalty. The children of the married servants would be sent, when old enough, to work in the house of the master, and would leave it only when the time also came for them to marry. Relations of this kind still exist between certain aristocratic families and former vassal-families, and conserve some charming traditions and customs of hereditary service, unchanged for hundreds of years. 

   In feudal times, of course, the bond between master and servant was of the most serious kind; the latter being expected, in case of need, to sacrifice life and all else for the sake of the master or of the master's household. This also was the loyalty demanded of the Greek and Roman domestic,—before there had yet come into existence that inhuman form of servitude which reduced the toiler to the condition of a beast of burden; and the relation was partly a religious one. There does not seem to have been in ancient Japan any custom corresponding to that, described by M. de Coulanges, of adopting the Greek or Roman servant into the household cult. But as the Japanese vassal-families furnishing domestics were, as vassals, necessarily attached to the clan-cult of their lord, the relation of the servant to the family was to some extent a religious bond.

   The reader will be able to understand, from the facts of this chapter, to what extent the individual was sacrificed to the family, as a religious body. From servant to master—up through all degrees of the household hierarchy—the law of duty was the same: obedience absolute to custom and tradition. The ancestral cult permitted no individual freedom: nobody could live according to his or her pleasure; every one had to live according to rule. The individual did not even have a legal existence;—the family was the unit of society. Even its patriarch existed in law as representative only, responsible both to the living and the dead. His public responsibility, however, was not determined merely by civil law. It was determined by another religious bond,—that of the ancestral cult of the clan or 
tribe; and this public form of ancestor-worship was even more exacting than the religion of the home.

千葉海岸の詩 原民喜 (原稿電子化版)

[やぶちゃん注:以下の「千葉海岸の詩」は一九七八年青土社版「原民喜全集 」で初めて陽の目を見た詩篇で、同書誌によれば、現在は千葉県立図書館郷土資料室蔵とする。クレジットがないが、b」に登場する妻が実在の妻芳恵であると読めること、結婚の翌年昭和九(一九三四)年初夏に淀橋区(現在の新宿区)柏木町から千葉県登戸に転居していること、及び民喜の生活史から考えて、これはその昭和九年から芳恵の亡くなる昭和十九年九月よりも以前と考えられる。今回、「千葉県立図書館」公式サイト内の「菜の花ライブラリー」内の/千葉県デジタルアーカイブ明治・大正・昭和初期資料原民喜直筆原稿 「千葉海岸の詩」(CHB600250)原稿を視認することが出来、その『書誌事項』中に、『この作品の執筆年は不明であるが、文末に昭和11年9月に地名地番が変更になる前の住所が記されているので、移り住んでから2年くらいの間に書かれたと思われる』とあることから、昭和九(一九三四)年初夏(「ひなげしの花」の開花期は初夏)から昭和十一年夏までの閉区間を創作時期と指定することが出来ると思われる。今回の電子化はその当該原稿(『紀伊國屋製』20×20=400字詰原稿用紙三枚)のに基づいた(連記号のアルファベットは原稿では筆記体である。「満」「広」「帰」はママ。「黑」は「黒」のようにも見えるが、正字を選んだ)。「b」の「ここ」は「千葉」の二字のルビである。最後の旧住所は一部、判読が出来ない。前の□は「子」か或いは記号の「~」に見え、後の□は「七」かやはり記号の「~」のようにも見える。……「原さん、いい字してるね」……]

 

 

 千葉海岸の詩

          
原 民喜

    
a

  我れ生存に行き暮れて

  足どり鈍くたたずめど

  満ち足らひたる人のごと

  海を眺めて語るなり

    
 b

  あはれそのかみののぞき眼鏡に

  東京の海のあさき色を

  今千葉(ここ)に來て憶ひ出すかと

  幼き日の記憶熱をもて妻に語りぬ

    
 c

  ここに來て空氣のにほひを感じる

  うつとりと時間をかへりみるのだ

  ひなげしの花は咲き

  麥の穗に潮風が吹く

    
 d

  靑空に照りかがやく樹がある

  かがやく綠に心かがやく

  海の近いしるしには

  空がとろりと潤んでゐる

    
 e

  広い眺めは横につらなる

  新しい眺めは茫としてゐる

  遠淺の海は遠くて

  黑ずんだ砂地ばかりだ

    
 f

  暗い海には三日月が出てゐる

  暗い海にはほの明りがある

  茫として微かではあるが

  あのあたりが東京らしい

    
 g

  外に出てみると月がある

  そこで海へ行つてみた

  舟をやとつて乘出した

  やがて暫くして帰つた

    
 h

  夜の海の霧は

  海と空をかくし

  眼の前に闇がたれさがる

  闇が波音をたてて迫る

    
 i

  日は丘にあるが

  海はまだ明けやらぬ

  潮の退いた海にむかつて

  人影は一つ進んで行く

 

      (千葉市寒川字羽根一六六

 故郷のウタを 聞きねねね   原民喜

  故郷のウタを

                   ダダイ 糸川旅夫

  聞きねねね

 

(一)メルシイ、ムシュと五度の煙草吸ひにけり我が故郷のフランスの秋

(二)警官を二人して行く地獄にカウスリツプの花咲きにほふぞ

(三)セエヌ河渡る戀人戀文をポオセに入れてピツコロを吹くかね

(四)ヱルネエルの禿げ頭をば押しつけて曇りけらしな十二月の空ダ

(六)ヌーベル、アテネの酒に狂ひて踏子は血を吐きにけりイプセンの馬鹿なんて

(七)メイデイに大杉榮歩きけりその日の天氣氣壓三十耗ダツタネ

(八)栗燒は日本人の好物と笑はれにけり田舍者とてとてて

(十)てんがらがつちやんトジヤヅバンドの夜の世界赤黃と黑と交線とカミナリ

 

[やぶちゃん注:標題は「故郷のウタを聞きねねね」(「ねねね」はママ)が二行に亙り、その間の下にポイント落ちで「ダダイ 糸川旅夫」があることを示す。(五)と(九)がないのはママ。狂歌草稿で削除したということか、或いは検閲削除のパロディか。後者っぽい。(八)の末尾の「とてて」はママ。

「カウスリツプ」(Cowslip)は「西洋桜草」とも呼称する、ツツジ目サクラソウ科サクラソウ属キバナクリンザクラ(黄花九輪桜)Primula veris のこと。英名は他に「Key of heaven」とも。但し、「カウスリップ(Cowslip)」とは牛や羊の放牧地によく生えていたことから、アングロ・サクソン語の「牛糞(cu-sloppe)」に由来するらしい。

「ポオセ」フランス語の「ポケット」の意の“poche”(ポシュエ)であろう。

「ヱルネエル」象徴派の詩人で象徴的に金柑頭の禿が目立つポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine 一八四四年~ 一八九六年)であろう。敢えて音写すると「ヴェルレ」である。

「ヌーベル、アテネ」はパリのモンマルトルとオペラ座の中間にあるクリシー広場周辺のカフェを含む街の別称「ヌーベル・アテネ」のこと。音楽家・作家・画家といった芸術家らが集った場所として知られ、現在も劇場や映画館が立ち並び、役者や映画関係者が多く住む。フランス文化上の新シンボルとしての呼称だけでなく、実際にギリシャ・ローマ風の建物が次々と建った。

「踏子」「踊子」の誤字? それともこれも「踏まれる女」で確信犯のダダ?

「イプセンの馬鹿」「人形の家」の「ノラ」が家出して「踊子」になって転落して売春婦となり安酒に酔って倒れて「踏」まれて血まみれになって思わず叫んだものか?

「メイデイに大杉榮歩きけり」ウィキの「大杉栄」によれば、大杉は大正一一(一九二二)年十二月、『翌年にベルリンで開かれる予定の国際アナキスト大会に参加のため再び』(彼は二年前の大正九年十月にも密かに日本を脱出して上海で開かれた社会主義者の集まりに参加していた)『日本を脱出し、上海経由で中国人としてフランスに向か』った。これはウクライナのアナキスト革命家『ネストル・マフノと接触も図る目的もあった。またアジアでのアナキストの連合も意図し』上海やフランスで『中国のアナキストらと会談を重ね』ている(ないこの年には『ジャン・アンリ・ファーブルの『ファーブル昆虫記』を日本で初訳出版』もしている)。大正一二(一九二三)年、『大会がたびたび延期され』、『フランスから国境を越えるのも困難になる中、大杉はパリ近郊のサン・ドニのメーデーで演説を行い、警察に逮捕されラ・サンテ監獄に送られる。日本人、大杉栄と判明、そのまま日本へ客船にて強制送還』、七月十一日に神戸に戻った。なお、この間、滞仏中から彼の滞在記が発表され、後に「日本脱出記」として纏められた。その二ヶ月後のかの関東大震災の直後の同年九月十六日、新宿の柏木にあった『自宅近くから伊藤野枝』及び甥で六歳の橘宗一とともに憲兵に連行され、三人とも惨殺されて井戸に遺棄された。

「氣壓三十耗」三〇ミリバールは三〇ヘクトパスカルで異様に低い気圧である。少なくとも、大杉の「日本脱出記」のメーデーの日の記載には天候のことは書かれていない。当時の世界的な社会主義者の状況を超低気圧の荒天に譬えたものか。

「栗燒」焼き栗のことか。クリの砂糖漬けのフランス菓子「マロングラッセ」(Marron glacé)をかく勘違いする田舎者の日本人のフランスでのシチュエーションを仮想したものか。

「交線」不詳。スポット・ライトのことか。]

眞人間殺しと餅食ふ月夜哉   原民喜

  眞人間殺しと餅食ふ月夜哉

          ストダダイ 糸川旅夫

 

 イトカワ、タビヲ、急に急にかう書いて僕涙が出た。一滴二滴三滴、數へて見らら三滴の涙、あゝしかし、僕糸川旅夫はもうこの懷しい日本とも別れねばならぬ時が來た。來年の五月には巴里に行くのだ。數へて見ればもう二ケ年と日本には居られないと思ふと妾は悲し喃。それに近頃僕の人氣つたらない。東京に再來してからでも一人弟子が出來た。築地三郎君だ。その童謠を次に推薦するからほめてやれ。ダダイズムも日本全國の思想界に大きな影を落した。もう二年で僕の仕事もすむ。すると我故郷のフランスに歸るのだ。思へば今夜は無量の感慨がある。どうか笛をふいておくんなはれ。ありきしよヨ。

 

[やぶちゃん注:「ストダダイ」はママ。大正一四(一九二五)年二月十五日発行『藝備日々新聞』に発表。当時、満十九歳、慶応大学文学部予科二年で芝区三田四国町(しこくまち)(現在の港区芝)に下宿しており、言わずもがな乍ら、およそ渡仏など出来よう金も状況もなかった。

「喃」「のう」と訓じていよう。

「築地三郎」不詳。識者の御教授を乞う。

「ありきしよヨ」前にも出たが、やはり無意味な語ではないようだ。引き続いて方言などで御存じの方、よろしく御教授あれかし。]

死について   原民喜

[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年五月号『日本評論』に初出するが、冒頭の詩の原型は既に示した死についてで、分かち書きにしていること以外、殆ど全く同じであり(但し、こちらの「アンデルゼン」はママ、最後の句点なしもママ。あちらは「アンデルセン」で最終行には句点があり、さらに言うと、あちらは「マッチ」「パッ」が拗音表記となっている)、そちらはこれに先立つ二年前の昭和二四(一九四九)年五月号『高原』に発表したものである。

 底本は青土社版「原民喜全集Ⅱ」に拠った。]

 

 

 死について

 

 お前が凍てついた手で

 最後のマツチを擦つたとき

 焰はパツと透明な球体をつくり

 清らかな優しい死の床が浮び上つた

 

 誰かが死にかかつてゐる

 誰かが死にかかつてゐる と、

 お前の頰の薔薇は呟いた。

 小さなかなしい アンデルゼンの娘よ。

 

 僕が死の淵にかがやく星にみいつてゐるとき、

 いつも浮んでくるのはその幻だ

 

 広島の惨劇は最後の審判の絵か何かのやうにおもはれたが、そこから避れ出た私は死神の眼光から見のがされたのではなかつた。死は衰弱した私のまはりに紙一重のところにあつた。私は飢ゑと寒さに戦きながら農家の二階でアンデルゼンの童話を読んだ。人の世に見捨てられて死んでゆく少女のイメージの美しさが狂ほしいほど眼に沁みた。蟋蟀のやうに瘠せ衰へてゐる私は、これからさきどうして生きのびてゆけるのかと訝りながら、真暗な長い田舎路をよく一人とぼとぼ歩いた。私も既に殆ど地上から見離されてゐたのかもしれないが、その暗い地球にかぶさる夜空には、ピタゴラスを恍惚とさせた星の宇宙が鳴り響いてゐた。

 その後、私は東京に出て暮すやうになつたが、死の脅威は更にゆるめられなかつた。滔々として押寄せてくる悪い条件が、私から乏しい衣類を剝ぎ、書籍を奪ひ、最後には居住する場所まで拒んだ。

 だが、死の嵐はひとり私の身の上に吹き募つてゐるのでもなささうだ。この嵐は戦前から戦後へかけて、まつしぐらに人間の存在を薙ぎ倒してゆく。嘗て私は暗黒と絶望の戦時下に、幼年時代の青空の美しさだけでも精魂こめて描きたいと願つたが、今日ではどうかすると自分の生涯とそれを育てたものが、全て瓦礫に等しいのではないかといふ虚無感に突落されることもある。悲惨と愚劣なものがあまりに強烈に執拗にのしかかつてくるからだ。もともと私のやうに貧しい才能と力で、作家生活を営まうとすることが無謀であつたのかもしれない。もし冷酷が私から生を拒み息の根を塞ぐなら塞ぐで、仕方のないことである。だが、私は生あるかぎりやはりこの一すぢにつながりたい。

 それから「死」も陰惨きはまりない地獄絵としてではなく、できれば静かに調和のとれたものとして迎へたい。現在の悲惨に溺れ盲ひてしまふことなく、やはり眼ざしは水平線の彼方にふりむけたい。死の季節を生き抜いて来た若い世代の真面目な作品がこの頃読めることも私にとつては大きな慰藉である。人間の不安と混乱と動揺はいつまで続いて行くかわからないが、それに抵抗するためには、内側にしつかりとした世界を築いてゆくより外はないのであらう。

 まことに今日は不思議で稀れなる季節である。殆どその生存を壁際まで押しやられて、飢ゑながら焼跡を歩いてゐるとき、突然、眼も眩むばかりの美しい幻想や静澄な雰囲気が微笑みかけてくるのは、私だけのことであらうか。

菓子が食べたいです   原民喜

  菓子が食べたいです 糸川旅夫

 

腹が減つた

ニキビにはビンプルローシヨン

オツトーワイニングルはシユークリームが好きダ

しかし僕はもつと腹が減つた

何故であるか

今日レオパルヂイを讀んだ

それで腹が減つた

アダムスミスは殺人系統の男だ

今度リリアンギツシュと結婚す

月下氷人はマルサスとラスキンとマルクスだ。

こんな事を考へても腹はふくれぬ

石川啄木は腹がふくれたが

あれは腹腹だ

諸君見舞狀をやれ

東海の小島の磯の白砂の上の

蟹がくひたい蟹がくひたい

アメリカ大統領ハージシグは

蟹をくつて死んだから

糸川旅夫はそれを用心する

廣島ホテル食堂のエビのフライは三十五錢で安い

が一皿くふと二皿欲しくなる

そばにしやうか

初月のそばは二十五錢だ

それだが

有田音松は麥飯とたくわんを

食べと云ふ

どうしようかしらん

高橋新吉よい 鯛燒きををごれ

だが新吉は多忙の身の上だ

あゝ絶體絶命だ

さんたまりあ樣

きりえ、えれいぞん

どうぞお菓子を産んで下さい

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年一月二十三日発行「藝備日々新聞」に発表。

「ビンプルローシヨン」不詳。識者の御教授を乞う。

「オツトーワイニングル」オーストリアのユダヤ系哲学者Otto Weininger(オットー・ヴァイニンガー 一八八〇年~一九〇三年)。カントやショーペンハウエルの影響下、一個の人間の中に共存する男性性と女性性に着目した『性の形而上学』を唱え、一九〇三年にその集大成というべき名著「性と性格」を完成した後、最も敬愛したベートヴェン終焉の館でピストル自殺した。二十三歳であった。

「レオパルヂイ」イタリアの詩人で、随筆家・哲学者・文献学者でもあったジャコモ・レオパルディ(Giacomo Leopardi 一七九八年~一八三七年)か。

「アダムスミスは殺人系統の男だ」イギリスの自由主義経済思想の経済学者・哲学者アダム・スミス(Adam Smith 一七二三年~一七九〇年)をかくいうのは、多分にマルクス主義的ではある。但し、彼は一七五九年に刊行した「道徳情操論」(The Theory of Moral Sentiments)は当時の欧米資本主義が戦争による破壊と殺人を繰り返して発展していることを強く批難してもいる。

「リリアンギツシュ」リリアン・ギッシュ(Lillian Gish 一八九三年~一九九三年)はアメリカのサイレント時代の悲劇映画に欠かせない名女優。

「月下氷人はマルサスとラスキンとマルクスだ」「月下氷人」は仲人。中国で同類話である「月下老人」と「氷人」と混同して合成した語。「月下老人」の方は「続幽怪録」に載る、唐の韋固(いご)が月明かりの下で読書をしている一人の老人と出会い、韋固が老人の傍らにあった袋の中身を問うと、中には将来、結婚する相手同士の足首を結ぶ赤い繩が入っていると答え、さらにその縁結びの神たる老人から結婚相手を予言されて、後に実際にその相手と結婚したという故事に基づき、「氷人」の方は「晋書」に載る、晋の令孤策(れいこさく)が、夢の中で、自分が月の光る氷の上に立っていたところ、その氷の下に人がおり、その人と話をした。目覚めて後、策耽(さくたん)という占い師に夢占をして貰ったところ、「氷下」は「陰」で「女」、「氷上」は「陽」で「男」を意味し、陰と陽が話し合ったのだから、あなたは結婚の仲立ちをするであろう予言され、実際にその翌日、土地の有力者から「息子の結婚の仲人をしてほしい」という依頼を受け、その結婚が上手く行ったという故事に由来する。「マルサス」は知られたイギリスの経済学者トマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus 一七六六年~一八三四年)。その「人口論」では人口抑制のために産児制限や婚期延長を平然と唱え、飢餓に苦しむ貧困層の救済を否定した。「ラスキン」はイギリスの評論家・美術評論家ジョン・ラスキン(John Ruskin 一八一九年~一九〇〇年)。「自然をありのままに再現すべき」とする主張や社会主義実践運動家としても知られる。結婚と出産と社会主義という生活上の経済学の流れで繋がりはするものの、しかしこれ、実際にはダダ的な「マルサス」の「サス」が「ラスキン」の「ラス」の音上の類似性で導かれ、「マルサス」が、かの「資本論」の「マルクス」(カール・ハインリヒ・マルクス Karl Heinrich Marx 一八一八年~一八八三年)と一字違いの酷似音であることを面白がったというのが本音のように私には読める。

「アメリカ大統領ハージシグ」第二十九代アメリカ合衆国大統領ウォレン・ガマリエル・ハーディング(Warren Gamaliel Harding 一八六五年~一九二三年)。ウィキの「ウォレン・ハーディング」によれば、『アラスカ南部からの帰途、カナダのブリティッシュコロンビア州を通過している間に、彼は重い食中毒となり』、『シアトルで心機能不全で倒れた。サンフランシスコのパレス・ホテルに着くと彼は肺炎を』併発、『痙攣を発し、死去した。医師団は心隔壁破裂あるいは脳梗塞と診断している』とある。とあるネット上記載には確かに、遊説中に食べた蟹が食中毒の主因ともある(但し、夫人による毒殺説(!)もあるそうである)。

「廣島ホテル」不詳。識者の御教授を乞う。

「初月」不詳。識者の御教授を乞う。

「有田音松」本邦最古(明治四一(一九〇八)年に神戸で創業)のドラッグ・ストア・チェーンとして知られている有田ドラッグ商会を創立した有田音松(ありだおとまつ 慶応四(一八六七)年~昭和一九(一九四四)年)か。ネット情報によれば、ニセ性病薬で巨万の富を築いたとされる。

「高橋新吉」(明治三四(一九〇一)年~昭和六二(一九八七)年:民喜より四歳年上)は言わずと知れたダダイスト詩人。民喜はこの二年前に出た大正一二(一九二三)年刊の彼の詩集「ダダイスト新吉の詩」に強い影響を受けて、こうしたダダイズム詩を創作している。

「きりえ、えれいぞん」ラテン語「キリエ・エレイソン」(Kyrie eleison)はキリスト教の礼拝に於ける重要な祈りの一つ。「主よ、憐れみ給え」の意。「ゾン」ではなく、清音が正しいが、民喜は仏文出であるから、かく読んでも不思議ではない。]

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第三章 人の飼養する動植物の變異(6) 五 何故變種を合して一種と認めるか

     五 何故變種を合して一種と認めるか

 

 以上述べた通り、我々の飼養するものは動物でも植物でも一種として變種のないものはない。而してその變種間の相違は遙に野生の二種の動物或は植物間に於けるよりも著しいものがある。前に例に擧げたパウターといふ胸を脹らす鳩とファンテイルといふ尾を擴げる鳩との相違、或は小豆色牡丹咲の朝顏と黄色の朝顏との相違は、確に「きじ」と「やまどり」との相違、或は茶と山茶花との相違よりは甚だしい。若しこれらの動物・植物がどこかの山中に自生して居たならば、我々は決して之を以て各々同一種中に含まれる二變種と見倣すことなく、必ず皆別々の種類と認めるに違ひない。試に大根といふものを全く見たことのない人がアフリカの眞中で細根と宮重とを發見したと假に定めて見るに、彼は決して鼠の尾の如き細根大根も角力取の腕のやうな宮重大根も同一種に屬するものであるとの考を起す氣遣はない。直に之を以て二種の全く相異なつた種類と見倣すであらう。然らば我々は何故今日若し野生であつたならば必ず二種とするに相違ない程に明に形狀の異なつたものを常に同一種に屬する二變種と認めて居るのであるか。我々が細根大根も宮重大根も植物學上、「大根」と名づける一種の中に入れてたゞその變種と見倣すのは、全く昔は細根とか宮重とかいふ區別はなく、たゞ單に大根といふ一種一通りだけより無かつたのが、人が長く培養して居る中に、細根も出來、宮重も出來たことを我々が知つて居るからである。またパウターもファンテイルも動物學上「かわらばと」と名づける一種の中に入れて、たゞその變種と見倣すのは、全く研究の結果パウターもファンテイルも同一の先祖即ち今日野生して居る「かわらばと」の先祖より生じた子孫で、初めはパウター、ファンテイル等の區別もなかつたのが、長く人間に飼はれて居る中に漸々斯く形狀の異なつたものが出來たのであることを我々が信じて居るからである。これと同樣で朝顏ならば如何やうな形狀を持つたものでも皆野生の「朝顏」といふ一種の蔓草から變化して出來たもので、鷄ならば如何樣な變種でも皆今日尚印度地方に生存する野生の「鷄」といふ一種の鳥から變化して出來たものである。羊でも豚でも、小麥でも人參でも、皆昔はたゞ野生の一種であつたのを人間が長い間飼養し培養したので、今日見る如き種々の形のものが出來たのである。斯くの如く我々は飼養動植物の素性を知り、今こそ種々に形狀・性質が違つては居るが、その先祖は各々一種であったことを覺えて居るから、之を一種と見倣し、その中で形狀の異なつたものを區別するために、各々に特別の名稱を附けて、之を變種として置くに過ぎぬ。畢竟、我々の飼養し培養する動植物は一種毎に多くの異なつた形狀のものを含むが、これらは皆同一の先祖より降つた[やぶちゃん注:「くだつた(くだった)」。以降、しばしば丘先生は「進化した・変異した」の出で用いるので注意されたい。]子孫で、たゞ人に養はれた爲に今日見る如き種々の形のものが出來たのであるといふことが、動植物學上明に解つて居る故、之を集めて一種と見倣すのである。一代一代の間の變化、即ち親と子との間、子と孫との間の相違は、殆ど目に見えぬ程であつても「塵も積れば山」といふ諺の通り、多くの代を重ねる間には動物・植物とも著しく變化し得るものであることは、これらの飼養動植物の例を見れば、實に明白な毫も疑ふことの出來ぬ事實である。

[やぶちゃん注:一つだけ言っておくと、前の注で見たように、現行の一般に知られる「蜜柑」である「ウンシュウミカン」とそれ以前の「キシュウミカン」は学名が異なることで判る通り、種が異なるものと認識されており(変種でさえない)、丘先生の十把一絡げの謂いから外れる。現在はアイソザイム分析やDNA解析によって、人為改良によるとされて同一種扱いであったものも、或いは別種となる可能性も完全には否定は出来ないように私は思う。]

 この事だけは流石に昔の生物種屬不變の説を唱へた人々にも知れて居たから、彼等は飼養動植物は神が態(わざ)々人間のために造つたものであるから、之は特別である。この類だけは人間の白由に變化せしめ得るものであると論じて、之を例外とした。併し之は素より少しも根據の無い説である。なぜといふに今日人の飼養して居る動植物は孰れも昔は一度野生であつたもので、中には比較的近い頃初めて人に養はれたものも少くない。歷史の出來た以後に人の飼養し始めた動植物を數へると、隨分澤山あるが、皆相當に多くの變種が既に出來て居る。野生動物といひ、飼養動物といふのも、畢竟人間が之を飼ひ始めるか飼はずに捨て置くかによつて定まる相違で、素より根本から之は野生動物、之は飼養動物と、判然した區別がある譯ではない。獅子や虎のやうな猛獸でさへ養へば馴れて藝をする位であるから、どのやうな動物でも飼つて飼へぬことはあるまい。して見ると人間の飼ふために神が特別に造つた動物だけは代々多少變化するが、その他の動物は決して變化しないものであるといふ論は、少しも據(よりどころ)のないものと認めねばならぬ。植物に就いても之と全く同樣である。

 以上の如き説は今日より見れば實に取るに足らぬ説で、改めて辯駁するに及ばぬものであるが、生物種屬不變の説を主張した人等でさへ飼養動植物だけは例外としたのを見ても、如何に飼養動植物の變化が顯著であるかが解る。飼養動植物には一種毎に大抵多くの變種のあることはこの章に述べた通りであるが、孰れの場合でも變種といふものは決して初めより變種として存在したものではなく、人間が飼養し始めてから後に漸々變化して生じたものである。この一事だけから考へても動植物の形質は決して萬世不變のものでないことが確である。

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第三章 人の飼養する動植物の變異(5) 四 植物の變種

     四 植物の變種

Kikuhensyu

[菊の變種]

Dariahensyu

[ダリヤの變種]

[やぶちゃん注:以上の二図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 次に植物は如何と考へるに、植物の方も全くその通りで、麥でも大根でも瓜でも林檎でも、凡そ我々の培養する草木には一種として多少違つた形を含まぬものはない。まだ農業の進歩しない半開國では、麥でも大根でも各々一種よりないが、農業のよく開けた文明國では同じ麥、同じ大根といふ中にも種類があること、恰も鳩や鷄と同樣である。今二三の例を擧げて見るに、大根にも細根といふて極めて細長いものがあり、宮重(みやしげ)・練馬(ねりま)などの如き太いものがあり、かの有名な櫻島の大根は太く圓くて、周圍が二尺以上にもなる。斯く大きなものがあると思ふと、また二十日大根といふ種類には、深紅色で金柑程な奇麗なものがある。通常西洋料理で生(なま)で附けるのは之である。西洋にはラヂヌワール即ち黑大根といつて、黑色を帶びたものまである。人參でも大阪邊のは金時人參といつて眞の紅色で先まで太いが、東京邊の人參は殆ど黃色で、長い圓錐形である。西洋では瓜の種類、林檎の種類、梨の種類、苺の種類などは、實に驚くべきほど澤山あるが、我が國ではまだその程度まで培養法が發達して居ないから、八百屋の店を見ても大抵林檎も一種梨も一種よりない。蜜柑などには雲州・紀州など多少著しく相違したものがあるが、併し最も變化の多い植物といへば、我が國では先づ植木屋の作る草花の類で、その中でも特に菊の類、朝顏の類等であらう。園藝の書物を開いて見ると、菊の變種は實に夥しいもので、五厘銅貨位の小菊から直徑七八寸の大輪まで色も白・黃・赤の間ならば、殆ど望み通りにあつて、瓣の細いもの、廣いもの、下ヘ反(そ)るもの、上へ卷くもの、兩面同色のもの、上下色を異にするものなど、到底枚擧することは出來ぬ程であるが、之に各々「龍田川」とか「蜀江の錦」とかいふ美しい名が附けて區別してある。また朝顏の方は花の色や形のみならず、葉の割れ方、縮み具合などまで、變化の多いこと誠に驚くべき程で、普通の白・赤・靑等の外に、小豆色もあり、黃色もあり、緣だけ白いのもあり、五瓣に分れたもの、五瓣が悉く細くて殆ど朝顏とは見えぬもの、また一方では八重咲の牡丹に似たものなど、之も到底その種類を數へ擧げることは出來ぬ。當時盛に流行して居るダーリヤの如きも、今では菊や朝顏に劣らぬ程に多くの變種がある。

[やぶちゃん注:「大根」アブラナ目アブラナ科ダイコン属ダイコン Raphanus sativus var. longipinnatus。一九八〇年の文献では日本全国で百十品種が記録されているとウィキの「ダイコンにある。詳しくはリンク先を参照されたい。

「宮重(みやしげ)」宮重大根は愛知県清須市特産の尾張大根の品種。ウィキの「宮重大根」によれば、『旧西春日井郡春日村宮重が発祥とされ』、『尾張大根を代表する品種であり、また全国的にも知られる主要品種であるという』。『青首大根の一種であり、京野菜の聖護院大根はここから発祥したものとされる』。『また、青首大根の多くは、この品種の系統に属するともされる』。『生産地である各集落名がつけられた系統として、五日市場・氏永・明治・蜂須賀・小日比野・西成・下津・九日市場などが存在し、それぞれ生食・切り干し・漬物と適する用途が異なるとされる』。『生産地ではおやつ代わりに、青首の部分を輪切りにし、皮をむき、生で塩をつけて食べる習慣があるくらい、首の部分の強い甘さが特徴である』。『第二次世界大戦後、病気による打撃や嗜好の変化による消費量の減少により、生産されなくなった』が、『平成時代に入り、「宮重大根純種子保存会」により復活している』とある。

「練馬(ねりま)」ウィキの「練馬大根」によれば、練馬大根は『東京の練馬地方で作り始めた大根をいい、練馬区の特産品にもなっている。この地域の土壌が関東ローム層であり、栽培に適していた』。『白首大根系の品種』。重さは通常で一~二キログラム前後、長さは約七〇~一メートルほどにもなる。『首と下部は細く、中央部が太』く、『辛味が強い』。『沢庵漬けに適している「尻細大根」と、その改良型で煮て食べたり、浅漬に用いられた「秋詰まり大根」の』二種類がある。但し、『現在、練馬区ではほとんど生産されて』おらず、十軒ほどの『契約農家によって小規模な生産は続けられている。現在の主な生産地は、神奈川県、群馬県、千葉県などの関東地方であるが、青首大根に押されている』。『現在生産量が少ない理由として、収穫時の重労働がある。練馬大根の特徴が、首と下部は細く、中央が太いということがあり、収穫で練馬大根を引き抜く際、非常に力が必要である。ある調査によれば、練馬大根を引き抜くには、青首大根の数倍の力が必要であるという。その為、高齢の農家への負担が大きいという』。『神奈川県特産の三浦大根は、三浦半島の地元の大根と練馬大根の交雑種である』とある。リンク先の「歴史」も参照されたい。

「櫻島の大根」ウィキの「桜島大根によれば、『鹿児島県の特産品でギネスブックに認定された世界一大きい大根である(世界最大種)。重さは通常で』約六キログラム前後、大きなものになると約三〇キログラムに達し、直径も約四〇~五〇センチメートルにもなる。『かつては桜島の特産品であったことからこの名が付けられた。地元では「しまでこん」とも呼ばれている』。『早生種と晩生種の』二種類が『あるが、栽培されているものはほとんどが晩生種である』。八月下旬から九月上旬に播種、十二月から二月にかけて『収穫される。大きな大根に育てるためには火山灰質の土壌を用いて多くの手間をかける必要がある』。『一般的な大根よりキメが細かく繊維が少なく甘味があり、大根おろしなどの生食や風呂吹きなどの煮物に利用される場合が多い。保存食として切り干し大根や漬物にも利用され、直径の大きな千枚漬けは鹿児島県の特産品として土産物店などで販売されている』。品種起源については』、『愛知県で栽培されていた方領大根』(ほうりょうだいこん:尻が細く間借りが強いのを特徴とする中部地方の伝統大根)『を起源とする説』、『もともと桜島にあった野生の大根を起源とする説』、『霧島市付近で栽培されていた国分大根(浜之市大根)』(こくぶだいこん/はまのいちだいこん:かつて霧島市隼人町浜之市付近で栽培されていた、薄い赤紫色をした大根)『を起源とする説』の三説があるが、文化元(一八〇四)年の『薩摩藩の文書に記載されており、少なくともそれ以前から栽培されていた。主産地は古くは桜島北西部であったが後に桜島北部へ移り、最盛期には』約千二百戸の農家で合計約二百ヘクタールもの『栽培面積があった。稲作に適さない桜島において貴重な商品作物の一つであり、鹿児島市市街地などに出荷されていた。また、毎年収穫期になると加治木町(後の姶良市)に「トイカエ市」と呼ばれる市場が立ち、稲藁などと交換する光景も見られた』。『しかし大正三(一九一四)年の『桜島大正大噴火によって大きな被害を受け、より商品価値の高いミカンへの転作が進むなどして』、昭和三〇(一九五五)年には栽培総面積が約三十ヘクタールまで減少、さらにその頃より二〇〇一年に『かけて頻発した桜島噴火による降灰被害などにより桜島島内の栽培面積は』約一・五ヘクタールまで減少してしまった。『現在の主産地は桜島島外の鹿児島市郊外および霧島市であるが、噴火頻度の減少とともに桜島島内の栽培面積も回復しつつある』とある。

「二尺」六〇・六センチメートル。やや誇大表現。

「二十日大根」ダイコン属ダイコン変種ハツカダイコン Raphanus sativus var. sativus。根の形状は概ね二センチメートルほどの球形から楕円形(長い品種でも十センチメートル程度)。皮の色は赤(アントシアニン)が多いが、赤以外にも白・黄・紫などの色がある(ウィキの「ハツカダイコンに拠る)。

「ラヂヌワール即ち黑大根」Raphanus sativus var. niger。根の表面が黒いが、内側は白い。根が長くなる品種と蕪の様に丸い品種がある。丸い品種は肉質が硬くデンプンが多いく、花の色は白や紫(ここはウィキの「ダイコンに拠る)。「ラヂヌワール」はラディ・ノワール(Radis noir:フランス語)で、英語ではブラック・ラディシュ(Black radish)。現今ではフランス料理の添え物としてお馴染み。

「人參」セリ目セリ科ニンジン属ニンジン(ノラニンジン)亜種ニンジンDaucus carota subsp. sativus

「金時人參」「きんときにんじん」はブランド京野菜に指定されているニンジンの品種名。ウィキの「金時によれば、根は長さ三〇センチメートルほどの『長円錐形で先が鋭くとがり、いぼが白い』。『リコピンを含み』、『内部まで鮮やかな紅色を呈す事から、「赤ら顔の坂田金時」が名称の由来となっている』。『過湿を嫌うため栽培には高い畝が必要であり、晩生でとうが立つのが早い』ことから、『収穫時期は短く、収量も少ない』。『また、西洋ニンジンより栽培に長い期間が必要であり、根が長いため割れやすく収穫に機械が使えないなど、栽培には難点が多い』。収穫時期は十一月から三月。『一方で、西洋ニンジンと比べて肉質が柔らかく甘味は強く、ニンジン特有の臭いが少ない』上、『煮くずれもしにくいため煮物に向いており』、『御節料理や粕汁などに用いられる』。十六世紀に『中国経由で日本に伝わった東洋系のニンジンとしては、唯一の現存種である』とある。

「西洋では瓜の種類、林檎の種類、梨の種類、苺の種類などは、實に驚くべきほど澤山あるが、我が國ではまだその程度まで培養法が發達して居ないから、八百屋の店を見ても大抵林檎も一種梨も一種よりない」本底本は大正一四(一九二五)年刊行。九十一年前と今では様変わりしました、丘先生。

「雲州」ムクロジ目ミカン科ミカン属ウンシュウミカン Citrus unshiuウィキの「ウンシュウミカンによれば、『中国の温州にちなんでウンシュウミカンと命名されたが、温州原産ではなく日本の不知火海沿岸が原産と推定される。農学博士の田中長三郎は文献調査および現地調査から鹿児島県長島(現鹿児島県出水郡長島町)がウンシュウミカンの原生地との説を唱えた。鹿児島県長島は小ミカンが伝来した八代にも近く、戦国期以前は八代と同じく肥後国であったこと』、昭和一一(一九三六)年に当地で推定樹齢三百年の『古木(太平洋戦争中に枯死)が発見されたことから、この説で疑いないとされるようになった。発見された木は接ぎ木されており、最初の原木は』四百~五百年前に『発生したと推察される。中国から伝わった柑橘の中から突然変異して生まれたとされ』る、とある。

「紀州」ミカン属キシュウミカン Citrus kinokuniウィキの「キシュウミカンによれば、『西日本では小ミカンと呼ばれる。鹿児島県のサクラジマミカンと品種的には同じもので』、『ミカンとしては最初に日本に広まった種類である。中国との交易港として古くから栄えていた肥後国八代(現熊本県八代市)に中国浙江省から小ミカンが伝り、高田(こうだ)みかんとして栽培され肥後国司より朝廷にも献上されていた、それが』十五世紀から十六世紀頃、『紀州有田(現和歌山県有田郡)に移植され』、『一大産業に発展したことから「紀州」の名が付けられた。また江戸時代の豪商である紀伊国屋文左衛門が、当時江戸で高騰していたミカンを紀州から運搬し富を得たとされる伝説でも有名である』。『熊本県八代市高田には樹齢』六百年の古木があったが、大正一三(一九二三)年の『大洪水で流されてしまった。現在は熊本県津奈木町久子(ひさご)にある樹齢』三百六十年と『推定される木が最も古』い。『サクラジマミカンは朝鮮の役の頃に熊本から鹿児島に伝わったとされる。静岡地方のみかんの起源は、江戸時代初期、徳川家康が駿府城に隠居したときに紀州から献上された木とされ、現在も駿府城(駿府城公園)に「家康公お手植えのみかんの木」として残っている』と附言されてある。

「朝顔」ナス目ヒルガオ科ヒルガオ亜科 Ipomoeeae 連サツマイモ属アサガオ Ipomoea nilウィキの「アサガオの「品種改良の歴史」によれば、江戸時代の二度の『朝顔ブームを機に品種改良が大きく進んで観賞用植物となり、木版の図譜類も多数出版された。この時代には八重咲きや花弁が細かく切れたり、反り返ったりして本来の花型から様々に変化したものが生まれ、世間の注目を浴びた。これを現在では「変化朝顔(へんげあさがお)」と呼び、江戸、上方を問わず非常な流行を見た。特に珍しく美しいものは、オモトや菊などと同様、非常な高値で取り引きされた。「大輪朝顔」も「正木」と呼ばれる結実する変化朝顔の一種である。江戸時代の変化朝顔ブームは』、文化・文政期(一八〇四年~一八三〇年)、嘉永・安政期(一八四八年~一八六〇年)にあり、幕末には実に約千二百もの系統が改良作成された。ブームの発端は文化三(一八〇六)年の『江戸の大火で下谷に広大な空き地ができ、そこに下谷・御徒町村付近の植木職人がいろいろな珍しい朝顔を咲かせたことによる』。『その後、趣味としてだけでなく、下級武士の御徒が内職のひとつとして組屋敷の庭を利用して朝顔栽培をするようにもなった』。『上記とは別に、熊本藩では武士たちによる園芸が盛んで、朝顔も花菖蒲や菊、芍薬、椿、山茶花などと共に愛好されており、盛んに育種されて独自の系統が生まれた。この花は変化朝顔とは違い、本来の朝顔の花型を保ち、大輪であり、「肥後朝顔」と呼ばれる。これが後世の大輪朝顔の祖先の一つになった。これら熊本の六種類の園芸植物は現在「肥後六花」と総称され、熊本に伝えられている』。『明治時代以降も変化朝顔は発展して、「東京朝顔研究会」などの愛好会が生まれ、もてはやされた。この頃にはあまりな多様性よりも花型の洗練が追求され、対象となる花型が絞られた。当時の名花は石版画や写真として残されている』。『やがて花型の変化ではなく、花径の大きさを追求する「大輪朝顔」が発展し始める。通常の朝顔の花は曜』(よう)『と呼ばれる花弁が互いに融合した漏斗状の形をしており曜の数は』五枚であるが、『「大輪朝顔」では曜の数が』六~九枚程度に増える「州浜性(すはませい)」という『肥後朝顔にもみられる変化の現れた品種が導入され、選別や他の系統との交配により次第に発展し、「青蝉葉系」と「黄蝉葉系」が生まれた。前者は成長が早いため「行灯(あんどん)作り」、後者は「盆養(切り込み)作り」「数咲き作り」という仕立て方で咲かせるのが本式である。行灯作りとは、支柱三個に輪が三つついている支柱、あるいは、らせん状にまいた針金を竹に取り付けたものに蔓を絡めていき仕立てをする方法である。切り込み作りは、茎を切り込んで脇芽を出し、背丈の低い引き締めた形、まるで盆栽のように作る方法である。名古屋式が有名であるがそれを、容易な栽培方法にした切り込み作りも良く見られる。数咲き作りは同じように切り込んでいくが、一辺に多くの花を咲かせる仕立て方で京都式が有名である』とある。

「五厘銅貨位」十八・七八センチメートル。

「七八寸」凡そ二十二~二十四センチメートル。

「龍田川」キク目キク科キク属サガギク(嵯峨菊)Chrysanthemum grandiflorum cv.Saga の改良型の一名称。花弁が非常に細いのを特徴とする。グーグル画像検索「Chrysanthemum grandiflorum cv.Sagaをリンクしておく。同名のハナショウブの品種もあるので注意。それは国立国会図書館デジタルコレクションの嘉永六 (一八五三)写本の松平定朝著「花菖培養録」のをご覧あれ。

「蜀江の錦」ネットでは現認出来ない。園芸家の御教授を乞う。

「ダーリヤ」キク目キク科キク亜科ハルシャギク連ダリア属 Dahlia。]

 これらの變種の中には僅か五十年か百年前位から始めて生じたものも少くない。小豆色の朝顏なども昔は決して無かつたそうである。短い時期の間に著しい變種の出來た例は動物よりは遙に植物の方に多くあるが、之は總べて草花や野菜の類は多くは一年生で、家畜などに比べると代の重なることが頗る速いから、一代毎に少しづゝの變化が起つても、忽ち之が積り重なつて著しい相違を生ずるからであらう。されば生物は如何に變化し得るものであるかを實物に就いて確に經驗したいと思ふ人は、二三年朝顏でも造つて見るが宜しい。種子次第世話次第で如何樣のものでも出來る具合を見て、その變化の著しいのに驚かざるを得ぬであらう。實は植物にかやうな變化の性質があるので、植木屋の商賣も出來るのである。

ワード文書「蟲 江戸川亂歩 正字正仮名版 附やぶちゃん亂歩風マニアック注」縦書版(全)公開

縦書にしたワード文書(PDF化するとリンクを総てやり直す必要があるので厭)「蟲 江戸川亂歩 正字正仮名版 附やぶちゃん亂歩風マニアック注」も公開した(202B)。私の注以外はお好きなように「腑分け」されるがよかろう――【二〇二三年二月十日・藪野直史。追記】本電子化はブログで二〇一三年に一括で公開し、直後にWord版をサイトで公開していたが、今回、ブログの正字不全を修正し、サイト版もPDF縦書版に作り変えた。

蟲   江戶川亂步 正字正仮名版 附やぶちゃん亂步風マニアック注(注・©藪野直史)

 

[やぶちゃん注:本作は昭和四(一九二九)年の『改造』九月号及び十月号に掲載されたという書誌が、私の持つ角川文庫江戸川乱歩「魔術師」(作品集・昭和五六(一九八一)年刊の第九版)の年譜(島崎博編)にはあるのであるが、どうもこれはネットで調べてみると同誌の六月号及び七月号が正しいようである(例えば、個人サイト「名張人外境」内にある「乱歩文献データブック」の同年のデータ等を参照されたい。さらに調べると、これはどうも江戸川乱歩自身の記憶違いも原因にあるようだ)。また、ウィキの「蟲(江戸川乱歩)」によれば(ここでも初出号を九月号及び十月号としている)、『元々は、『新青年』に「「蟲」という文字を二、三十個、三行に分けて書き連ねた」タイトルで予告されたものだったという』とある。実は、前に示した「乱歩文献データブック」の同年のデータの五月の条に、『「江戸川乱歩作/陰獣/十一版 !!」〔博文館〕』(『新青年』五月号)の『広告』にそれが示されてある。それをそのまま「虫」「乱」を正字化して、『/』を改行ととって、正字化して示して推定復元してみる(太字化はやぶちゃん)。

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蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲

蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲

蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲

蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲……江戶川亂步

   *

これは強烈である。

 さて、私は実に遅まきながら、上記角川文庫版で二十四の時に読んで、その獵奇滿々(これも正字がよい)たる内容に強烈に打ちのめされたのであるが、読後、同書の高木彬光氏の「解説」の中に、

   《引用開始》

 中篇『虫』は昭和四年の九、十月「改造」に掲載された作品である。私は当時雑誌は読んでいなかったが、後で中学生になってから何かの単行本に収録されていたこの作品を読み、最後に近いあたりの、

 「虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫……」

 というあたりで、背筋に悪寒が来て本をとじ、その後はもう読めなくなったことをおぼえている。正直なところ、その結末は人に読んでもらって話を聞いただけだった。

 あのときの記憶によれば、この「虫」はこういう略字ではなく「蟲」という本字が使われていたはずである。二十四字もこの文字が続いた日には、その効果は決して三倍ではとどまらない。

 活字による視覚に訴える恐怖の効果がこれほどすさまじくあらわれた例は、私は長じてからもほかに類例を知らないのだ。

 物語の筋そのものは、別に解説を要しないほど、単純明快なものである。しかしこれを純粋恐怖小説という角度から見たならば、これは他に比較を見出せないほどの絶品だといえる。少なくとも私の知っているかぎりではエドガー・ポーの数作品、日本では上田秋成の「雨月物語」の中の数作品しか比較の対象は見出せない。しかもそれらの作品にくらべてさえ、私はこの『虫』をはるかに高く評価する。そういう意味で、恐怖小説としては、

 「古今東西、空前絶後の最高傑作」

 と、めったなことでは使えない讃辞を呈してもよいのではないかとさえ思われるのである……。

   《引用終了》

という箇所を読んで、これはもう、いつか正字のもので読まずんばなるまい、と思って居乍ら、遂にそのままにし、またたく間に、三十五年が経ってしまった(なお、本底本では二十四字ではなく、当該箇所の「蟲」は三十三字、踊り字「ゝ」を数えずにで、踊り字を含めると、四十三字になるが、十字分配されたそれは生理的不快感のインパクトを逆に減衰させてしまうように思う)。

 今年一月一日で江戸川乱歩の著作権が満了したこともあって、近いうちに久々に古本屋を漁って、正字のものを手に入れて電子化をしようか、などと思っていた矢先、何気なしに、国立国会図書館のデジタルコレクションを検索してみたところが――あった!――

 さても、その「版画莊」以下、表記はに従った昭和一二(一九三七)年刊の「江戸川乱歩」の作品集「幻想と怪奇」(扉の作者名は上記の通りで、奥附は本名の「平井太郞」名義である。発行所の「画」もママ。「莊」はご覧の通り、正字である)を、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認して電子化した。一部、正字と新字の中間型のような活字が出現するが、その場合は迷わず正字とした。あの時の私は、三十五年後にこうしてネット上で自身がこれを電子化するなどとは夢にも思わなかった。

 なお、これには現行のものに附されてある章番号(全十二章)がなく、二行空行となっている。また、現行では続いている場面に空きが入ってもいる。一部に不自然な妖しい空白箇所を見出せるが、それも再現しておいた(作者或いは出版社側の自主的伏字箇所と思われる。何故なら後の方には明確に『(○○字削除)』という箇所が出現するからである)。しかも極めて残念なことに、この伏字でない――原「蟲」――は復元されていない模様である。また、現行通用の本篇はこの後にかなり大きく改稿されている(編集者が、漢字表記を読み易く、別字に変えたり、平仮名化したというは除外して、である)。例えば最初は、冒頭の一文の「一言して」が「説明して」になり、冒頭から三段落目の「その徴候は、既に業に、彼の幼年時代に」の箇所が「その徴候は、遠く彼の幼年時代に」に、その直後の「手の平を使つて」が「手の平で涙を隠したり」になっており、更には、期待される鮮烈血みどろのエンディングが、実は元々は実は頗るあっさりしていた、意外な事実などが今回の電子化作業で判明した。因みに、多くのその改変(読点の異同を含めると、相当な箇所に及ぶ)は、コーダの加筆その他数か所を除いて、概ね、改悪にしか見えないことも付け加えておく(一部、大きく変わっている箇所や、やや疑義を覚える改稿を含んだ表現改変部分については言及したが、私の意図は本篇の校合にはないので、総ては注していない。その内、厳密なそれ(原「蟲」の伏字部分の復元も含む)は誰かが成し遂げて呉れることを期待するものである)。特に強く感じたのは、角川文庫版の「眼」となっている箇所が、こちらでは殆んどが「目」となっている点である。単漢字ならそれほど大きな違いに感じないかも知れぬが、「眼前」と「目前」では音読した際の発音が異なり、感触印象も微妙に異なってくるからである。

 禁欲的に注を附したつもりだが、相手が乱歩なればこそ、結局、マニアックな注という体裁になってしまった。単純な表記字注は原則、当該段落の最後に附したが、パートが長い箇所では、前者でもやはり形式段落の後に附しておいた(必ずしも統一してされていないのは悪しからず)。本文だけを読もうという読者にはやや読み難くなったが、その方が、一部、難読語や見なれぬ語彙と感じられる向きの多い若い方には親切かと判断した(私の注は基本、私の元の職業柄、想定対象を高校生においている)。なお、明らかな句読点の欠落(ないと、明らかに甚だ読み難いと判断した箇所で、角川版には打たれてある箇所)などは黙って補っておき、読むに煩瑣なので特に注してはいない。

 面倒なので最初に注しておくと、主人公の名はルビはないが、角川文庫版に従って、「まさきあいぞう(歴史的仮名遣「まさきあいざう」)」、女主人公の芸名は「きのしたふよう」と読んでおく(本名は「木下文子」であるが、これは「ふみこ」か「あやこ」かは不明。ルビをしない以上は「ふみこ」か)。なお、「柾木」は「柾」「正木」と同義で、ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus のことである。

 最後に申し上げておくが、本作の後半部は高木彬光氏が、かくおっしゃられたように、相当に猟奇的でエグい。自己責任で読まれたい。生理的不快感を持たれても、それは私の責任ではない。かく忠告したにも拘わらず、読んでしまった「あなた」の責任である。……告白しよう……私は……柾木愛造……その人で……ある…………【二〇二三年二月十日・藪野直史。追記】本電子化はブログで二〇一三年に一括で公開し、直後にWord版をサイトで公開していたが、今回、ブログの正字不全を修正し、サイト版も★PDF縦書版★に作り変えた。

 

 

 この話は、柾木愛造と木下芙蓉との、あの運命的な再會から出發すべきであるが、それについては、先づ男主人公である柾木愛造の、いとも風變りな性格について、一言して置かねばならぬ。

 柾木愛造は、既に世を去つた兩親から、いくばくの財產を受け繼いだ一人息子で、當時二十七歲の、私立大學中途退學者で、獨身の無職者であつた。といふことは、あらゆる貧乏人、あらゆる家族所有者の、羨望の的である所の、此上もなく安易で自由な身の上を意味するのだが、柾木愛造は不幸にも、その境涯を樂しんで行くことが出來なかつた。彼は世に類ひもあらぬ厭人病者であつたからである。

 彼のこの病的な素質は、一體全體どこから來たものであるか、彼自身にも不明であつたが、その徴候は、既に業に、彼の幼年時代に發見することが出來た。彼は人間の顏さへ見れば、何の理由もなく、眼に一杯淚が湧き上つた。そして、その内氣さを隱す爲に、あらぬ天井を眺めたり、手の平を使つて、誠にぶざまな恥かしい恰好をしなければならなかつた。隱さうとすればする程、それを相手に見られてゐるかと思ふと、一層おびただしい淚がふくれ上がつて來て、遂には『ワツ』と叫んで、氣違ひになつてしまふより、どうにもかうにも仕方がなくなる、といふ感じであつた。彼は肉親の父親に對しても、うちの召使に對しても、時とすると母親に對してさへ、この不可思議な羞恥を感じた。隨つて彼は人間を避けた。人間が懷しい癖に、彼自身の恥づべき性癖を恐れるが故に、人間を避けた。そして、薄暗い部屋の隅にうづくまつて、身のまはりに、積木のおもちやなどで可憐な城壁を築いて、獨りで幼い卽興詩を呟いてゐる時、僅かに安易な氣持になれた。

[やぶちゃん字注:「既に業に」「すでにすでに」と読む。畳語。「業」には「すでに・前もって・最早」の意がある。]

 年長じて、小學校といふ不可避な社會生活に入つて行かねばならなかつた時、彼はどれ程か當惑し、恐怖を感じたことであらう。彼はまことに異樣な小學生であつた。母親に彼の厭人癖を悟られることが堪へ難く恥しかつたので、獨りで學校へ行くことは行つたけれど、そこでの人間との戰ひは實に無殘なものであつた。先生や同級生に物を云はれても、淚ぐむ外に何の術をも知らなかつたし、受持ちの先生が他級の先生と話をしてゐる内に、柾木愛造といふ名前が洩れ聞えただけで、彼はもう淚ぐんでしまふ程であつた。

 中學、大學と進むに從つて、この忌むべき病癖は、少しづつ薄らいでは行つたけれど、小學時代は、全期間の三分の一は病氣をして、病後の養生にかこつけて學校を休んだし、中學時代には、一年の内半分程は假病を使つて登校せず、書齋をしめ切つて、家人の入つて來ないやうにして、そこで小說本と、荒唐無稽な幻想の中に、うつらうつらと日を暮らしてゐたものだし、大學時代には、進級試驗を受ける時の外は、殆ど敎室に入つたことがなく、と云つて、他の學生のやうに樣々な遊びに耽るでもなく、自宅の書庫の、買ひ集めた異端の書物の塵に埋まつて、併し、それらの書物を讀むといふよりは、蟲の食つた靑表紙や、中世紀の羊皮紙の匂ひをかぎ、それらの釀し出だす幻怪な雰圍氣の中で、益々嵩じて來た空想に耽り、晝と夜との見境のない生活を續けてゐたものである。

 そのやうな彼であつたから、後に述べるたつた一人の友達を除いては、まるで友達といふものがなかつたし、友だちのない程の彼に、戀人のあらう筈もなかつた。人一倍優しい心を持ちながら、彼に友だちも戀人もなかつたことを、何と說明したらよいのであらう。彼とても、友情や戀をあこがれぬではなかつた。濃やかな友情や甘い戀の話を聞いたり讀んだりした時には、若し自分もそんな境涯であつたなら、どんなにか嬉しからうと、羨まぬではなかつた。だが、假令彼の方で友愛なり戀なりを感じても、それを相手に通じるまでに、どうすることも出來ない障害物が、まるで壁のやうに立ちはだかつてゐた。

[やぶちゃん字注:「假令」老婆心乍ら、「たとひ(たとい)」と読む。「たとえ」に同じい。]

 柾木愛造には、彼以外の人間といふ人間が、例外なく意地惡に見えた。彼の方で懷しがつて近寄つて行くと、相手は忠臣藏の師直のやうに、ついとそつぽを向くかと思はれた。中學生の時分、汽車や電車の中などで、二人連れの話し合つてゐる樣子を見て、屢々驚異を感じた。彼等の内一人が熱心に喋り出すと、聞手の方はさもさも冷淡な表情で、そつぽを向いて、窓の外の景色を眺めたりしてゐる。時たま思ひ出したやうに合點々々をするけれど、滅多に話し手の顏を見はしない。そして、一方が默ると、今度は冷淡な聞手だつた方が、打つて變つて熱心な口調で話し出す。すると、前の話手は、ついとそつぽを向いて、俄かに冷淡になつてしまふ。それが人間の會話の常態であることを悟るまでに、彼は長い年月を要した程である。これは些細な一例でしかないけれど、總てこの例によつて類推出來るやうな人間の社交上の態度が、内氣な彼を沈默させるに十分であつた。彼は又、社交會話に洒落(彼によればその大部分が、不愉快な駄洒落でしかなかつたが)、といふものの存在するのが、不思議で仕樣がなかつた。洒落と意地惡とは同じ種類のものであつた。彼は、彼が何かを喋つてゐる時、相手の目が少しでも彼の目をそれて、外の事を考へてゐると悟ると、もうあとを喋る氣がしない程、内氣者であつた。言葉を換へて云ふと、それ程彼は愛について貪婪であつた。そして、餘りに貪婪であるが故に、彼は他人を愛することが、社交生活を營むことが出來なかつたのであるかも知れない。

[やぶちゃん字注:「貪婪」「どんらん」と読む(「たんらん」「とんらん」とも読む)。貪欲。]

 だが、そればかりではなかつた。もう一つのものがあつた。卑近な實例を上げるならば、彼は幼少の頃、女中の手を煩はさないで、自分で床を上げたりすると、その時分まだ生きてゐた祖母が、『オオ、いい子だ、いい子だ』と云つて御褒美を吳れたりしたものであるが、さうして褒められることが、身内が熱くなる程、恥しくて、いやでいやで、褒めてくれる相手に、極度の憎惡を感じたものである。引いては、愛することも、愛されることも、「愛」といふ文字そのものすらが、一面ではあこがれながら、他の一面では、身體がキユーツとねぢれて來る程も、何とも形容し難い厭あな感じであつた。これは彼が、所謂自己嫌惡、肉親憎惡、人間憎惡等の一聯の特殊な感情を、多分に附與されてゐたことを語るものであるかも知れない。彼と彼以外の凡ての人間とは、まるで別種類の生物であるやうに思はれて仕方がなかつた。この世界の人間共の、意地惡の癖に、あつかましくて、忘れつぽい陽氣さが、彼には不思議でたまらなかつた。彼はこの世に於て、全く異國人であつた。彼は謂はば、どうかした拍子で、別の世界へ放り出された、たつた一匹の、孤獨な陰獸でしかなかつた。

 そのやうな彼が、どうしてあんなにも、死にもの狂ひな戀を爲し得たか、不思議と云へば不思議であるが、だが、考へ方によつては、そのやうな彼であつたからこそ、あれ程の、物狂はしい、人外境の戀が出來たのだとも、云へないことはない。彼の戀にあつては、愛と憎惡とは、最早や別々のものではなかつたのだから。併し、それは後に語るべき事柄である。

 いくばくの財產を殘して兩親が相ついで死んだあとは、家族に對する見得や遠慮の爲めに、苦痛をしのんで續けてゐた、ほんの僅かばかりの社會的な生活から、彼は完全に逃れることが出來た。それを簡單に云へば、彼は何の未練もなく私立大學を退校して、土地と家產を賣拂ひ、兼ねて目星をつけて置いたある郊外の、淋しいあばら家へと引き移つたのである。斯樣にして、彼は學校といふ社會から、又隣近所といふ社會から、全く姿をくらましてしまふことが出來た。人間である以上は、どこへ移つたところで、全然社會を無視して生存することは出來ないのだけれど、柾木愛造が最も厭つたのは、彼の名前なり爲人を知つてゐる見知り越しの社會であつたから、隣近所に一人も知合ひのない、淋しい郊外へ移住したことは、その當座、彼に「人間社會を逃れて來た」といふ、やや安易な氣持を與へたものである。

[やぶちゃん字注:「斯樣」「かやう(かよう)」と読む。

「爲人」「ひととなり」と読む。]

 その郊外の家といふのは、向島の吾妻橋から少し上流のKといふ町にあつた。そこは近くに安待合や貧民窟がかたまつて居たり、河一つ越せば淺草公園といふ盛り場をひかへてゐたにも拘らず、思ひもかけぬ所に、廣い草原があつたり、ひよつこり釣堀の毀れかかつた小屋が立つてゐたりする、妙に混雜と閑靜とを混ぜ合はせたやうな區域であつたが、そのとある一廓に、このお話は大地震よりは餘程以前のことだから、立ち腐れになつたやうな、化物屋敷同然の、だだつ廣い屋敷があつて、柾木愛造は、いつか通りすがりに見つけておいて、それを借り受けたのであつた。

 毀れた土塀や生垣で取まいた、雜草のしげるにまかせた廣い庭の眞中に、壁のはげ落ちた大きな土藏がひよつこり立つてゐて、その脇に、手廣くはあるけれど、殆ど住むに耐へない程荒れ古びた母屋があつた。だが、彼にとつては、母屋なんかはどうでもよかつたので、彼がこの化物屋敷に住む氣になつたのは、全くその古めかしい土藏の魅力によつてであつた。厚い壁でまぶしい日光をさへぎり、外界の音響を遮斷した、樟腦臭い土藏の中に、獨りぼつちで住んでみたいといふのは、彼の長年のあこがれであつた。丁度貴婦人が厚いヴエイルで彼女の顏を隱すやうに、彼は土藏の厚い壁で、彼自身の姿を、世間の視線から隱してしまひたかつたのである。

[やぶちゃん字注:「樟腦」「しやうなう(しょうのう)。クスノキから製した防虫剤。]

 彼はその土藏の二階に疊を敷きつめて、愛藏の異端の古書や、橫濱の古道具屋で手に入れた、等身大の木彫の佛像や、數個の靑ざめたお能の面などを持ち込んで、そこに彼の不思議な檻を造りなした。北と南の二方だけに開かれた、たつた二つの小さな鐵棒をはめた窓が、凡ての光源であつたが、それを更らに陰氣にする爲に、彼は南の窓の鐵の扉を、ぴつしやりと閉め切つてしまつた。それ故、その部屋には、年中一分の陽光さへも直射することはなかつた。これが彼の居間であり、書齋であり、寢室であつた。

[やぶちゃん字注:「一分」「いちぶ」。ごく僅かな喩え。]

 階下は板張りのままにして、彼のあらゆる所有品を、祖先傳來の丹塗りの長持や、紋章のやうな錠前のついた、いかめしい簞笥や、虫の食つた鎧櫃や、不用の書物をつめた本箱や、そのほか樣々のがらくた道具を、滅茶苦茶に置き竝べ、積み重ねた。

[やぶちゃん字注:「鎧櫃」「よろひびつ(よろいびつ)」。本来は鎧や兜を入れておく、蓋が上に開く長方形の大型の箱。

「虫」はママ。]

 母屋の方は十疊の廣間と、臺所脇の四疊半との疊替へをして、前者を滅多に來ない客の爲の應接間に備へ、後者は炊事に傭つた老婆の部屋に當てた。彼はさうして、傭ひ婆さんにも、土藏の入口にすら近寄らせない用意をした。土藏の出入口の、厚い土の扉には、内からも外からも錠を卸す仕掛けにして、彼がその二階にゐる時は、内側から、外出の際は外側から、戶締りが出來るやうになつてゐた。それは謂はば、怪談のあかずの部屋に類するものであつた。

[やぶちゃん字注:「卸す」「おろす」。]

 傭ひ婆さんは、家主の世話で、殆ど理想に近い人が得られた。身寄りのない六十五歲の年寄りであつたが、耳が遠い外には、これといふ病氣もなく、至極まめまめした小綺麗な老人であつた。何より有難いのは、そんな婆さんにも似合はず、樂天的な呑氣者で、主人が何者であるか、彼が土藏の中で何をしてゐるか、といふやうなことを、猜疑し穿鑿しなかつたことである。彼女は所定の給金をきちんきちんと貰つて、炊事の暇々には、草花をいぢつたり、念佛を唱へたりして、それですつかり滿足してゐるやうに見えた。

 云ふまでもなく、柾木愛造は、その土藏の二階の、晝だか夜だか分らないやうな、薄暗い部屋で、彼の多くの時間を費した。赤茶けた古書の頁をくつて一日をつぶすこともあつた。ひねもす部屋の眞中に仰臥して、佛像や壁にかけたお能の面を眺めながら、不可思議な幻想に耽ることもあつた。さうしてゐると、いつともなく日が暮れて、頭の上の小さな窓の外の、黑天鵞絨の空に、お伽噺のやうな星がまたたいてゐるのであつた。

[やぶちゃん字注:「黑天鵞絨」「くろびろうど(くろビロウド)」。黒色のビロード(ポルトガル語の「veludo」で、表面が滑らかな感触の絹織物。ベルベット)。]

 暗くなると、彼は机の上の燭臺に火をともして、夜更けまで讀書をしたり、奇妙な感想文を書き綴つたりすることもあつたが、多くの夜は、土藏の入口に錠を卸して、どこともなくさまよひ出るのが慣はしになつてゐた。極端な人厭ひの彼が、盛り場を步き廻ることを好んだといふのは、甚だ奇妙だけれど、彼は多くの夜、河一つ隔てた淺草公園に足を向けたものである。だが、人嫌ひであつたからこそ、話しかけたり、じろじろと顏を眺めたりしない、漠然たる群集を、彼は一層愛したのであつたかも知れぬ。そのやうな群集は、彼にとつて、局外から觀賞すべき、繪や人形にしか過ぎなかつたし、又、夜の人波にもまれてゐることは、土藏の中にゐるよりも、却つて人目を避ける所以でもあつたのだから。人は無關心な群集のただ中で、最も完全に彼自身を忘れることが出來た。群集こそ、彼にとつてこよなき隱れ蓑であつた。そして、柾木愛造のこの群集好きは、あの芝居のはね時を狙つて、木戶口をあふれ出る群集に混つて步くことによつて、僅かに夜更けの淋しさをまぎらしてゐた、ポオの Man of crowd の一種不可思議な心持とも、相通ずる所のものであつた。

 さて、冒頭に述べた、柾木愛造と木下芙蓉との、運命的な邂逅といふのは、この土藏の家に引き移つてから二年目、彼がこのやうな風變りな生活の中に、二十七歲の春を迎へて間もない頃、淀んだ生活の沼の中に、突然小石を投じたやうに、彼の平靜をかき亂した所の、一つの重大な出來事だつたのである。

[やぶちゃん注:「忠臣藏の師直」「師直」は通常は「もろなほ(もろなお)」であるが、ここは以下の演目では「もろのう」と読み慣わすので、それで訓じておく。二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」で吉良上野介に擬された悪役、足利尊氏の執事高師直(こうのもろなお)のこと。同作は禁制によって、赤穂事件を南北朝時代に設定変えしたものである。

「ポオの Man of crowd」「群集の人」(正しくはThe Man of the Crowd。エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe 一八〇九年~一八四九年)が一八四〇年末(天保十一年相当)に発表した、無名の語り手がロンドンの雑踏の中に見かけた不可思議な老人を追跡するさまを描いた短編小説。ウィキの「群集の人」に詳しい。それによれば、主人公は結局、この老人の正体を摑むことが出来ず、彼を『「深い罪の典型であり本質」であり「群集の人」なのだ、と結論して追跡を諦め、「自らを読み取られることを拒む書物が存在することは神の恵みの一つなのだ」と結ぶ』とある。]

 

 

 先にもちょつと觸れておいたが、かくも人厭ひな柾木愛造にも、例外として、たつた一人の友達があつた。それは、實業界にちよつと名を知られた父の威光で、ある商事會社の支配人を勤めてゐる、池内光太郞といふ、柾木と同年輩の靑年紳士であつたが、あらゆる點が柾木とは正反對で、明るい、社交上手な、物事を深く掘下げて考へない代りには、末端の神經はかなりに銳敏で、人好きのする、好男子であつた。彼は柾木と家も近く小學校も同じだつた關係で、幼少の頃から知合ひであつたが、お互が靑年期に達した時分、柾木の不可思議な思想なり言動なりを、それが彼には分らないだけに、すつかり買ひかぶつてしまつて、それ以來引續き、柾木のやうな哲學者めいた友達を持つことを、一種の見得にさへ感じて、柾木の方では寧ろ避けるやうにしてゐたにも拘らず、繁々と彼を訪ねては、少しばかり見當違ひな議論を吹きかけることを樂しんでゐたのである。また、華やかな社交に慣れた彼にとつては、柾木の陰氣な書齋や、柾木の人間そのものが、こよなき休息所であり、オアシスでもあつたのだ。

 その池内光太郞が、ある日、柾木の家の十疊の客間で(柾木はこの唯一の友達をさへ、土藏の中へは入れなかつた)柾木を相手に、彼の華やかな生活の一斷面を吹聽してゐる内に、ふと次のやうなことを云ひ出したのである。

『僕は最近、木下芙蓉つて云ふ女優と近づきになつたがね。ちよつと美しい女なんだよ』彼はそこで一種の微笑を浮べて、柾木の顏を見た。それはここに云ふ「近づき」とは、文字のままの「近づき」でないことを意味するものであつた。『まあ聞き給へ、この話は君にとつてもちよつと興味があり相なんだから。と云ふのは、その木下芙蓉の本名が木下文子なんだ。君、思ひ出さないかい。ホラ、小學校時代僕等がよくいたづらをした、あの美しい優等生の女の子さ。たしか、僕達より三年ばかり下の級だつたが』

[やぶちゃん字注:「相」「さう」。~のようだ、~の様子だ、の意。当て字ではなく、本字を語源ともする説がある。本篇では以下、多用される。]

 そこまで聞くと、柾木愛造は、ハツとして、俄かに顏がほてつて來るのを感じた。流石に彼とても、二十七歲の今日では、久しく忘れてゐた赤面であつたが、ああ赤面してゐるなと思ふと、丁度子供の時分、人前で、氣弱の淚を隱さうとすればする程、一層淚ぐんで來たのと同じに、それを意識する程、益々目の下が熱くなつて來るのをどうすることも出來なかつた。

『そんな子がゐたかなあ。だが、僕は君みたいに早熟でなかつたから』

 彼はてれ隱しに、そんなことを云つた。だが、幸ひなことに、部屋が薄暗かつたせゐか、相手は、彼の赤面には氣づかぬらしく、やや不服な調子で、

『いや、知らない筈はないよ。學校中で評判の美少女だつたからね。久しく君と芝居を見ないが、どうだい、近い内に一度木下芙蓉を見ようぢやないか。幼顏そのままだから、君だつて見れば思ひ出すに違ひないよ』

 と、如何にも木下芙蓉との親交が得意らしいのである。

 芙蓉の藝名では知らなかつたけれど、云ふまでもなく、柾木愛造は、木下文子の幼顏を記憶してゐた。彼女については、彼が赤面したのも決して無理ではない程の、實に恥しい思ひ出があつたのである。

 彼の少年時代は、先にも述べた通り、極度に内氣な、はにかみ產の子供であつたけれど、彼の云ふやうに早熟でなかつた譯でなく、同じ學校の女生徒に、幼いあこがれを抱くことも人一倍であつた。そして、彼が四年級の時分から、當時の高等小學の三年級までも、ひそかに思ひこがれた女生徒といふのが、外ならぬ木下文子だつたのである。と云つても、例へば池内光太郞のやうに、彼女の通學の途中を擁して、お下げのリボンを引きちぎり、彼女の美しい泣き顏を樂しむなどと云ふ、すばらしい藝當は思ひも及ばなかつたので、風を引いて學校を休んでゐる時など、發熱のためにドンヨリとうるんだ腦の中を、文子の笑顏ばかりにして、熱つぽい小さい腕に、彼自身の胸を抱きしめながら、ホツと溜息をつく位が、關の山であつた。

[やぶちゃん注:「風」はママ。角川文庫版は『風邪』。]

 ある時、彼の幼い戀にとつて、誠に奇妙な機會が惠まれたことがある。それは、當時の高等小學二年級の時分で、同級の餓鬼大將の、口髯の目立つやうな大柄な少年から、木下文子に(彼女は尋常科の三年生であつた)附文をするのだから、その代筆をしろと命じられたのである。彼は勿論級中第一の弱蟲であつたから、この腕白少年にはもうビクビクもので『ちよつとこい』と肩を摑まれた時には、例の目に淚を一杯浮べてしまつた程で、その命令には、一も二もなく應じる外はなかつた。彼はこの迷惑な代筆のことで胸を一杯にして學校から歸ると、お八つもたべないで一と間にとぢ籠り、机の上に卷紙をのべ、生れて初めての戀文の文案に、ひどく頭を惱ましたものである。だが、幼い文章を一行二行と書いて行くに從つて、彼に不思議な考へが湧き上がつてきた。『これを彼女に手渡す本人は、かの腕白少年であるけれど、書いてゐるのは正しく私だ。私はこの代筆によつて、私自身の本當の心持を書くことが出來る。あの娘は私の書いた戀文を讀んでくれるのだ。假令先方では氣づかなくても、私は今、あの娘の美しい幻を描きながら、この卷紙の上に、思ひのたけをうちあけることが出來るのだ』。この考が彼を夢中にしてしまつた。彼は長い時間を費して、卷紙の上に淚をさへこぼしながら、あらゆる思ひを書き記した。腕白少年は翌日その嵩ばつた戀文を、木下文子に渡したが、それは恐らく文子の母親の手で燒き捨てられでもしたのであらう、其後快活な文子のそぶりにさしたる變りも見えず、腕白少年の方でもいつかけろりと忘れてしまつた樣子であつた。ただ、代筆者の柾木少年だけが、いつまでも、クヨクヨと、甲斐なく打ち捨てられた戀文のことを思ひつづけてゐたのである。

[やぶちゃん字注:「嵩ばつた」「かさばつた(かさばった)」。]

 又、それから間もなく、こんなこともあつた。戀文の代筆が彼の思ひを一層つのらせたのであらう、餘りに堪へ難い日が續いたので、彼は誠に幼い一策を案じ、人目のない折を見定めて、ソツと文子の敎室に忍び込み、文子の机の上げ蓋を開いて、そこに入れてあつた筆入れから、一番ちびた、殆ど用にも立たぬやうな、短い鉛筆を一本盜み取り、大切に家へ持歸ると、彼の所有になつてゐた小簞笥の開きの中を、綺麗に淸め、今の鉛筆を半紙に包んで、まるで神樣ででもあるやうに、その奧の所へ祭つて置いて、淋しくなると、開き戶をあけて、彼の神樣を拜んでゐた。その當時、木下文子は、彼にとつて神樣以下のものではなかつたのである。

[やぶちゃん注:「淋しくなると」底本は「淋しくなるとは」。衍字と断じて、例外的に除去した。無論、角川文庫版も「は」はない。]

 その後、文子の方でもどこかへ引越して行つたし、彼の方でも學校が變つたので、いつか、忘れるともなく忘れてしまつてゐたのだが、今池内光太郞から、木下文子の現在を聞かされて、相手は少しも知らぬ事柄ではあつたけれど、そのやうな昔の恥しい思ひ出に、彼は思はず赤面してしまつたのであつた。

 雜沓中の孤獨といつた氣持の好きな、柾木のやうな種類の厭人病者は、淺草公園の群集と同じに、汽車や電車の中の群集、劇場の群集などを、寧ろ好むものであつたから、彼は芝居のことも世間竝には心得てゐたが、木下芙蓉と云へば、以前は影の薄い場末の女優でしかなかつたのが、最近ある人氣俳優の新劇の一座に加はつてから、顏と身體の壓倒的な美しさが、特殊の人氣を呼んで、一座の女優中でも、二番目ぐらゐには羽振りのよい名前になつてゐた。柾木は、かけ違つて、まだ彼女の舞臺を見てはいなかつたが、彼女についてこの程度の知識は持つてゐた。

 その人氣女優が、昔々の幼い戀の相手であつたと分ると、厭人病者の彼も、少しばかり浮々して、彼女が懷しいものに思はれて來るのであつた。それが今では、池内光太郞の戀人であらうとも、どうせ彼には得られない戀なのだから、一目彼女の舞臺姿を見て、ちよつと女々しい氣持になるのも、惡くないなと感じたのである。

 彼等がK劇場の舞臺で、木下芙蓉を見たのは、それから三四日の後であつたが、柾木愛造に取つてはまことに辛か不幸か、それは丁度第一の人氣女優が病氣缺勤をして、その持ち役のサロメを、木下芙蓉が代演してゐる際であつた。

 二匹の鯛が向き合つてゐるやうな形をした、非常に特徴のある大きな目や、鼻の下が人の半分も短くて、その下に、絕えず打震へてゐる、やや上方にまくれ上がつた、西洋人のやうに自在な曲線の脣や、殊にそれが、婉然と頰笑んだ時の、忘れ難き魅力に至るまで、その昔の俤をそのまま留めてはゐたけれど、十幾年の歲月は、可憐なお下げの小學生を、恐ろしい程豐麗な全き女性に變へてしまつたと同時に、その昔の無邪氣な天使を、柾木の神樣でさへあつた聖なる乙女を、いつしか妖艷類ひもあらぬ魔女と變じてゐたのである。

 柾木愛造は、輝くばかりの彼女の舞臺姿に、最初の程は、恐怖に近い壓迫を感じるばかりであつたが、それが驚異となり、憧憬となり、遂に限りなき眷戀と變じて行つた。大人の柾木が大人の文子を眺める目は、最早や昔のやうに聖なるものではなかつた。彼は心に恥ぢながらも、知らず識らず舞臺の文子を汚してゐた。彼女の幻を愛撫し、彼女の幻をかき抱き、彼女の幻を打擲した。それは、隣席の池内光太郞が彼の耳に口をつけて、囁き聲で、芙蓉の舞臺姿に、野卑な品評を加へ續けてゐたことが、彼に不思議な影響を與へたのでもあつたけれど。

 サロメが最終の幕だつたので、それが濟むと、彼等は劇場を出て、迎への自動車に入つたが、池内は獨り心得顏に、その近くのある料理屋の名を、運轉手に指圖した。柾木愛造は池内の下心を悟つたけれど、一度芙蓉の素顏が見たくもあつたし、サロメの幻に壓倒されて、夢うつつの氣持だつたので、强ひて反對を唱へもしなかつた。

[やぶちゃん注:この木下芙蓉は、時代的(大正前期設定)にも、また演じるのが「サロメ」であることからも、松井須磨子を意識して造形されているものと考えてよい。彼女は大正二(一九一三)年に島村抱月とともに「藝術座」を結成している。

「僕達より三年ばかり下の級だつた」柾木は「二十七歲の今日」と言っているから、これは数えと考えてよいから、この当時の木下芙蓉(文子)は数えで二十四、満二十三である。後で、彼が「高等小學二年級の時分」に文子「は尋常科の三年生であつた」とあることから、これは明治四〇(一九〇七)年小学校令一部改正の直前の学区制であることが判る。何故なら、改正後は尋常小学校が六年まで延長になり、尋常科三年と高等小学校二年の間は五年の差が生じてしまい、三年級下というのが合わなくなるからである。柾木は「四年級の時分から、當時の高等小學の三年級までも、ひそかに思ひこがれた」とあるが、これを改正前の小学校令当時の学制に合わせるならば、尋常小学校「四年級」は九歲(修了時十歲)で、高等「小學」校「三年級」は十二歲(修了時十三)歲となり、木下文子は六歲から十二歲までとなる。この幼少時の設定が明治三九(一九〇六)年以前ではやや古い感じを受けかも知れないが、そもそも前に「このお話は大地震よりは餘程以前のことだから」とあり、大正一二(一九二三)年より「餘程以前」となれば、八年(大正四(一九一五)年)や十年(大正二(一九一三)年)は遡ること考えれば、明治三十九年は七~九年前、その時点で満二十六(二十三)歲ならば、計算は合うことになる。

「彼女の通學の途中を擁して」の「擁して」は「ようして」で、遮る・塞ぐの意。

「かけ違つて」行き違って。物事が食い違つて。たまたま彼女の出演の舞台と彼の観劇時が折り合わずに、の謂いである。

「婉然と」女性がしとやかで美しいさま。しなやかなさま。

「眷戀」「けんれん」と読む。恋い焦がれること。]

 

 

 彼等が料理屋の廣い座敷で、上の空な劇評などを交はしてゐる内に、案の定、そこへ和服姿の木下芙蓉が案内されて來た。彼女は襖の外に立つて、池内の見上げた顏に、ニツコリと笑ひかけたが、ふと柾木の姿を見ると、作つたやうな不審顏になつて、目で池内の說明を求めるのであつた。

『木下さん。この方を覺えていませんか』

 池内は意地惡な微笑を浮べて云つた。

『エヽ』

 と答へて、彼女はまじまじした。

『柾木さん。僕の友達。いつか噂をしたことがあつたでせう。僕の小學校の同級生で、君を大變好きだつた人なんです』

『マア、私、思ひ出しましたわ。覺えてますわ。やつぱり幼顏つて、殘つてゐるものでございますわね。柾木さん、本當にお久しぶりでございました。わたくし、變りましたでせう』

 さう云つて、丁寧なおじぎをした時の、文子の巧みな嬌羞を、柾木はいつまでも忘れることが出來なかつた。

[やぶちゃん字注:「嬌羞」「けうしう(きょうしゅう)」と読む。女性の艶めかしい恥じらい。]

『學校中での秀才でゐらつしやいましたのを、私、覺えてをりますわ。池内さんは、よくいぢめられたり、泣かされたりしたので覺えてますし』

 彼女がそんなことを云ひ出した時分には、柾木はもう、すつかり壓倒された氣持であつた。池内すら彼女の敵ではないやうに見えた。

 小學校時代の思ひ出話が劇談に移つて行つた。池内は酒を飮んで、雄辯に彼の劇通を披歷した。彼の議論は誠に雄辯であり、氣が利いてもゐたが、しかし、それはやつぱり彼の哲學論と同じに、少しばかり上辷りであることを免れなかつた。木下芙蓉も、少し醉つて、要所々々で柾木の方に目まぜをしながら、池内の議論を反駁したりした。彼女にも、劇論では柾木の方が、通ではなかつたけれど、本物でもあり、深くもあることが分つた樣子で、池内には揶揄をむくひながら、彼には敎へを受ける態度を取つた。お人よしの柾木は、彼女の望外な好意が嬉しくて、いつになく多辯に喋つた。彼の物の云ひ方は、芙蓉には少し難し過ぎる部分が多かつたけれど、彼の議論に油がのつてきた時には、彼女はじつと話手の目を見つめて、讃嘆に近い表情をさへ示しながら、彼の話に聞き入るのであつた。

[やぶちゃん字注:「目まぜ」「目交ぜ」「瞬」などと書く。目で合図すること。目配(くば)せ。]

『これを御緣に、ごひいきをお願ひしますわ。そして、時々、敎へて頂き度いと思ひますわ』

 別れる時に、芙蓉は眞面目な調子で、そんなことを云つた。それが滿更お世辭でないやうに見えたのである。

 池内にあてられることであらうと、いささか迷惑に思つてゐたこの會合が、案外にも、却つて池内の方で嫉妬を感じなけれはならないやうな結果となつた。芙蓉が女優稼業にも似げなく、どこか古風な思索的な傾向を持つてゐたことも、寧ろ意外で、彼女が一層好もしいものに思はれた。柾木は歸りの電車の中で『學校中でも秀才でゐらつしやいましたのを、私、覺えて居りますわ』と云つた彼女の言葉を、子供らしく、心の内で繰返してゐた。

 

 

 それ以來、世間に知られてゐる所では、柾木愛造が木下芙蓉を殺害したまでの、半年ばかりの間に、この二人はたつた三度(しかも最初の一箇月の間に三度だけ)しか會つてゐない。つまり芙蓉殺害事件は、彼等が最後に會つた日から、五箇月もの間を置いて、彼等がお互の存在をすでに忘れてしまつたと思はれる時分に、まことに突然に起つたものである。これは何となく信じ難い、變てこな事實であつた。空漠たる五箇月間が、犯罪そのものとの連鎖をプツツリ斷ち切つてゐた。それなればこそ、柾未愛造は、兇行後、あんなにも長い間、警察の目を逃れてゐることが出來たのである。

 だが,これは顯れたる事實でしかなかつた。實際は、彼は、いとも奇怪なる方法によつてであつたが、その五箇月の間も、五日に一度位の割合で、繁々と芙蓉に會つてゐた。そして、彼の殺意は、彼にとつてはまことに自然な經路を踏んで、成長して行つたのである。

 木下芙蓉は彼の幼い初戀の女であつた。彼のフエテイシズムが、彼女の持物を神と祭つた程の相手であつた。しかも、十幾年ぶりの再會で、彼は彼女のくらめくばかり妖艷な舞臺姿を見せつけられたのである。その上、その昔の戀人が、當時は口を利いたことのなかつた彼女が、優しい目で彼を見、頰笑みかけ、彼の思想を畏敬し、崇拜するかにさへ見えたのである。あれ程の厭人的な臆病者の柾木愛造ではあつたが、流石にこの魅力に打ち勝つことは出來なかつた。外の女からのやうに、彼女から逃避する力はなかつた。彼が彼女に戀を打ちあけるまでには、たつた三度の對面で十分だつたことが、よくそれを語つてゐる。

 三度とも、場所は變つてゐたけれど、彼等は最初と同じ三人で、御飯をたべながら話をした。引張り出すのは無論池内で、柾木はいつもお相伴といつた形であつたが、併し、芙蓉がその都度快く招待に應じたのは、柾木に興味を感じてゐたからだと、彼はひそかに自惚れてゐた。池内が氣の毒にさへ思はれた。芙蓉は、池内に對しては、普通の人氣女優らしい態度で、意地惡でもあれば、たかぶつても見せた。相手を飜弄するやうな口も利いた。その樣子を見てゐると、彼女は柾木の一番苦手な、恐怖すべき女でしかなかつたが、それが柾木に對する時は、ガラリと態度が變つて、藝術の使徒としての一俳優といつた感じになり、眞面目に、彼の意見を傾聽するのであつた。そして會ふことが度重なる程、彼女のこの靜かなる親愛の情は、濃かになつて行くかと思はれた。

 だが、氣の毒な柾木は、實は大變な誤解をしてゐたのだ。芙蓉のやうな種類の女性は、二つ面の仁和賀と同じように、二つも三つもの全く違つた性格を貯へてゐて、時に應じ人に應じて、それを見事に使ひ別けるものだと云ふことを、彼はすつかり忘れてゐた。彼女の好意は、實は男友達の池内光太郞が彼に示した好意と同じもので、彼の、古風な小說にでもあり相な、陰鬱な、思索的な性格を面白がり、優れた藝術上の批判力をめで、ただ氣の置けない話相手として、親愛を示したに過ぎなかつたことを、彼は少しも氣づかなんだ。彼は自惚れの餘り、池内の立場を憐みさへしたけれど、反對に池内の方でこそ、彼をあざ笑つてゐたのである。

 池内の最初の考へでは、愛すべき木念仁の友達に、彼自身の新しい愛人を見せびらかして、ちよつとばかり罪の深い樂しみを味はつて見ようとしたまでで、その御用が濟んでしまへば、そんな第三者は、もう邪魔なばかりであつた。それに、彼は、柾木の小學時代の恥かしい所業については知る所がなかつたけれど、近頃の柾木の樣子が、妙に熱つぽく見えて來たのも、いささか氣掛りであつた。彼はこの邊が切上げ時だと思つた。

 三度目に會つた時、次の日曜日は丁度月末で、芙蓉の身體に𨻶があるから、三人で鎌倉へ出かけようと、約束をして別れたので、柾木はその日落合ふ場所の通知が、今來るか今來るかと待ち構へてゐても、どうした譯か、池内からハガキ一本來ないので、待兼ねて問合はせの手紙まで出したのだが、それにも何の返事もなく、約束の日曜日は、いつの間にか過ぎ去つてしまつた。池内と芙蓉との間柄が、單なる知合ひ以上のものであることは柾木も大方は推察してゐたので、若しかしたら、池内の奴、やきもちをやいてゐるのではないかと、やつぱり自惚れて考へて、才子で好男子の池内に、それ程嫉妬されてゐるかと思ふと、彼は寧ろ得意をさへ感じたのであつた。

 だが、池内といふ仲立ちにそむかれては、手も足も出ない彼であつたから、さうして、芙蓉と會はぬ日が長引くに從つて、耐へ難き焦躁を感じないではゐられなかつた。三日に一度は、三階席の群集に隱れて、ソツと彼女の舞臺姿を見に行つて行つてはゐたけれど、そんなことは、寧ろ焦慮を增しこそすれ、彼の烈しい思ひにとつて、何の慰めにもならなかつた。彼は多くの日、例の土藏の二階へとぢ籠つて、ひねもす、夜もすがら、木下芙蓉の幻を描き暮した。目をふさぐと、まぶたの裏の暗闇の中に、彼女の樣々な姿が、大寫しになつて、惱ましくも蠢くのだ。小學校時代の、天女のやうに淸純な笑顏にダブツて、半裸體のサロメの嬌笑が浮き出すかと思ふと、金色の乳覆ひで蓋をした、サロメの雄大な胸が、波のやうに息づたり、靨の入つたたくましい二の腕が、まぶた一杯に蛇の踊りを踊つたり、それらの、おさへつけるやうな狂暴な姿態に混つて、大柄な和服姿の彼女が、張り切つた縮緬の膝をすりよせて、ぢつと上目遣ひに見つめながら、彼の話を聞いてゐる、いとしい姿が、色々な角度で、身體中のあらゆる隅々が大寫しになつて、彼の心をかき亂すのであつた。考へることも、讀むことも、書くことも、全く不可能であつた。薄暗い部屋の隅に立つてゐる、木彫りの菩薩像さへが、ややともすれば、惱ましき聯想の種となつた。

[やぶちゃん注:「ぢつと」はママ。]

 ある晩、あまりに堪へ難かつたので、彼は思ひ切つて、兼ねて考へてゐたことを、實行して見る氣になつた。陰獸の癖に、彼は少しばかりお洒落だつたので、いつも外出する時はさうしてゐたのだが、その晩も、婆やに風呂を焚かせ、身だしなみをして、洋服に着かへると、吾妻橋の袂から自動車を傭つて、その時芙蓉の出勤してゐたS劇場へと向かつたのである。

 豫め計つてあつたので、車が劇場の樂屋口に着いたのは、丁度芝居のはねる時間であつたが、彼は運轉手に待つてゐるやうに命じて置いて、車を降りると、樂屋口の階段の傍に立つて、俳優達の化粧を落して出て來るのを、辛抱强く待ち構へた。彼は嘗つて、池内と一緖に、同じやうな方法で、芙蓉を誘ひ出したことがあつたので、大體樣子を呑み込んでゐたのである。

 その附近には、俳優の素顏を見ようとする、町の娘共に混つて、意氣な洋服姿の不良らしい靑年たちがブラブラしてゐたし、中には柾木よりも年長に見える紳士が、彼と同じやうに自動車を待たせて、そつと樂屋口を覗いてゐるのも、見受けられた。

 恥しさを我慢して、三十分も待つた頃、やつと芙蓉の洋服姿が階段を降りて來るのが見えた。彼は躓きながら、慌ててその傍へ寄つて行つた。そして、彼が口の中で木下さんと云ふか云はぬに、非常に間の惡いことには、丁度その時、違ふ方角から近寄つて來た一人の紳士が、物慣れた樣子で芙蓉に話しかけてしまつたのである。柾木はのろまな子供のやうに赤面して、引返す勇氣さへなく、ぼんやりと二人の立話を眺めてゐた。紳士は待たせてある自動車を指して、しきりと彼女を誘つてゐた。知合ひと見えて、芙蓉は快くその誘いに應じて、車の方へ步きかけたが、その時やつと、彼女のあの特徴のある大きな目が、柾木の姿を發見したのである。

『アラ、柾木さんぢやありませんの』

 彼女の方で聲をかけてくれたので、柾木は救はれた思ひがした。

『エヽ、通り合はせたので、お送りしようかと思つて』

『マア、さうでしたの。では、お願ひ致しますわ。私丁度御目にかかりたくつてゐたのよ』

 彼女は先口の紳士を無視して、さも慣れ慣れしい口を利いた、そして、その紳士にあつさり詫言を殘したまま、柾木に何かと話しかけながら、彼の車に乘つてしまつたのである。柾木はこのはれがましい彼女の好意に、嬉しいよりは、面喰つて、運轉手に、豫ねて聞知つた芙蓉の住所を告げるのも、しどろもどろであつた。

『池内さんたら、この前の日曜日のお約束をフイにしてしまつて、ひどうござんすわ。それともあなたにお差支がありましたの』

 車が動き出すと、その震動につれて、彼の身近くより添ひながら、彼女は話題を見つけ出した。彼女は其後も池内と三日にあげず會つてゐたのだから、これは無論お世辭に過ぎなかつた。柾木は、芙蓉の身體の暖い感觸にビクビクしながら、差支のあつたのは池内の方だらうと答へると、彼女は、では今月の末こそは、是非どこかへ參りませう、などと云つた。

 彼等がちよつと話題を失つて、ただ觸覺だけで感じ合つてゐた時、俄に車内が明るくなつた。車が、街燈やシヨーウヰンドウでまぶしい程明るい、ある大通りにさしかかつたのである。すると、芙蓉は小聲で『マアまぶしい』と呟きながら、大膽にも自分の側の窓のシエードを卸して、柾木にも、彼の側の窓のを卸してくれるやうに賴むのであつた。これは別の意味があつた譯ではなく、女優稼業の彼女は、人目がうるさくて、一人の時でもシエードを下しつけてゐた位だから、まして男と二人で乘つてゐる際、ただ用心に目かくしをしたまでであつた。同時にそれは、彼女が柾木といふ男性に多寡を括つてゐた印でもあつた。

 だが、柾木の方では、それをまるで違つた意味に曲解しないではゐられなかつた。彼はおろかにも、それを彼女が態と作つてくれた機會だと思ひ込んでしまつたのである。彼は震へながら、凡てのシエードをおろした、そして、彼はたつぷり一時間もたつたかと思はれた程長い間、正面を向ゐたまま身動きもしないでゐた。

『もうあけても、いいわ』

 車が暗い町に入つたので、芙蓉の方では氣兼ねの意味で、かう云つたのだが、その聲が柾木を勇氣づける結果となつた。彼はビクツと身震ひをして、默つたまま、彼女の膝の上の手に、彼自身の手を重ねた。そして、段々力をこめながらそれを押へつけて行つた。

 芙蓉はその意味を悟ると、何も云はないで、巧みに彼の手をすり拔けて、クツシヨンの片隅へ身を避けた。そして、柾木の木彫りのやうこわばつた表情を、まじまじと眺めてゐたが、ややあつて、意外にも、彼女は突然笑ひ出した。しかも、それは、プツと吹き出すやうな笑ひであつた。

 柾木は一生涯、あんな長い笑ひを經驗したことがなかつた。彼女はいつまでもいつまでも、さもをかし相に笑ひ續けてゐた。だが、彼女が笑つただけならば、まだ忍べた。最もいけないのは、彼女の笑ひにつれて、柾木自身が笑つたことである。ああ、それは如何に唾棄すべき笑ひであつたか。若し彼があの恥かしい仕草を常談にまぎらしてしまふ積りだつたとしても、その方が、猶一層恥かしい事ではないか。彼は彼自身のお人好しに身震ひしないではゐられなかつた。それが彼を擊つた烈しさは、後に彼があの恐ろしい殺人罪を犯すに至つた、最初の動機が、實にこの笑ひにあつたと云つても差支ない程であつた。

[やぶちゃん注:「二つ面の仁和賀」「仁和賀」は「にはか(にわか)」と読み、狭義には「俄狂言」で、江戶中期から明治にかけて流行した、素人が宴席や街頭で卽興に演じた滑稽な寸劇のことで、後には職業として寄席で道具を用い、鳴り物入りで行うようになったものを指すが、ここは一般向けの安っぽいレビューの役者を指し、さらにそうした俄狂言の役者が「二つ」の全く異なった表情の「面」(表情)を巧みに使い分けて演ずるさま(私は実際の「俄狂言」を見たことがないので推測であるが)、その気もないのに本気であるような表情を使う役者という存在の属性(というより、そうした素質を持った人間への蔑視表現)を畳みかけた謂いであろうと読む。所持する角川文庫版ではここは『二つ面の踊り』となっている。個人的には「二つ面の仁和賀」の方が圧倒的によいと思う。

「嬌笑」「けうせう(きょうしょう)」で、女性が艶めかしく、華やかに笑うこと。色っぽい笑ひ。

「靨」「えくぼ」と読む。ここは二の腕に出来る窪みのこと。

「吾妻橋」浅草直近雷門通りの隅田川に架かる橋。

「多寡を括つてゐた」はママ。一般的には「多寡」は誤りとされる。「高」である。

「態と」老婆心乍ら、「わざと」と読む。

「常談」「冗談」に同じい。]

 

 

 それ以來數日の間、柾木は何を考へる力もなく、茫然として藏の二階に坐つてゐた。彼と彼以外の人間の間に、打破り難い厚い壁のあることが、一層痛切に感じられた。人間憎惡の感情が、吐き氣のやうにこみ上げて來た。

 彼はあらゆる女性の代表者として、木下芙蓉を、此上憎みやうがない程憎んだ。だが、何といふ不思議な心の働きであつたか、彼は芙蓉を極度に憎惡しながらも、一方では、少年時代の幼い戀の思出を忘れることが出來なかつた。又、成熟した彼女の、目や脣や全身の釀し出す魅力を、思ひ出すまいとしても思ひ出した。明らかに、彼は猶ほ木下芙蓉を戀してゐた。しかもその戀は、あの破綻の日以來、一層その熱度を增したかとさへ思はれたのである。今や烈しき戀と、深き憎みとは、一つのものであつた。とは云へ、若し今後、彼が芙蓉と目を見交はすやうな場合が起つたならば、彼はゐたたまらぬ程の恥と憎惡とを感じるであらう。彼は決して再び彼女と會はうとは思はなかつた。そして、それにも拘らず、彼は彼女を熱烈に戀してゐたのである。あくまでも彼女が所有したかつたのである。

 それ程の憎惡を抱きながら、やがて、彼がこつそりと三等席に隱れて、芙蓉の芝居を見に行き出したと云ふのは、一見まことに變なことではあつたが、厭人病者の常として、他人に自分の姿を見られたり、言葉を聞かれたりすることを、極度に恐れる反面には、人の見てゐない所や、假令見てゐても、彼の存在が注意を惹かぬような場所(例へば公園の群集の中)では、彼は普通人の幾層倍も、大膽に放肆にふるまふものである。柾木が土藏の中にとぢ籠つて、他人を近寄せないといふのも、一つには彼はそこで、人の前では押へつけてゐた自儘な所業を、ほしいままに振舞ひたいが爲であつた。そして厭人病者の、この祕密好みの性質には、兇惡なる犯罪人のそれと、どこかしら似通よつたものを含んでゐるのだが、それは兎も角、柾木が芙蓉を憎みながら、彼女の芝居を見に行つた心持も、やつぱりこれで、彼の憎惡といふのは、その相手と顏を見合はせた時、彼自身の方で、恥かしさに吐き氣を催すやうな、一種異樣の心持を意味したのだから、芝居小屋の大入場から、相手に見られる心配なく相手を眺めてやるといふことは、決して彼の所謂憎惡と矛盾するものではなかつた。

[やぶちゃん字注:「惹かぬような」はママ。

「放肆」放恣に同じく、読みも「はうし(ほうし)」。気ままで締りのないこと。勝手でだらしのないさま。]

 だが、一方彼の烈しい戀慕の情は、芙蓉の舞臺姿を見た位で、いやされる譯はなく、さうして彼女を眺めれば眺める程、彼の滿たされぬ慾望は、いやましに、深く烈しくなつて行くのであつた。

 さて、さうした或る日のこと、柾木愛造をして、愈々恐ろしい犯罪を決心させるに至つた所の、重大なる機緣となるべき一つの出來事が起つた。それは、やつぱり劇場へ芙蓉の芝居を見に行つた歸りがけのことであるが、芝居がはねて木戶口を出た彼は、嘗つての夜の思出に刺戟されたのであつたか、ふと芙蓉の素顏が垣間見たくなつたので、闇と群集にまぎれて、ソツと樂屋口の方へ廻つて見た。

 建物の角を曲つて、樂屋口の階段の見通せる所へ、ヒヨイと出た時である。彼は意外なものを發見して、再び建物の蔭に身を隱さねばならなかつた。といふのは、そこの樂屋口の人だかりの内に、かの池内光太郞の見なれた姿が立ち混つてゐたからである。

 探偵の眞似をして、先方に見つけられぬやうに用心しながら、じつと見てゐると、ややあつて、樂屋口から芙蓉が降りて來たが、案の定、池内は彼女を迎へるやうにして、立話をしてゐる。云ふまでもなく、うしろに待たせた自動車にのせて、彼女をどこかへ連れて行く積りらしいのだ。

 柾木愛造は、先夜の芙蓉のそぶりを見て、池内と彼女の間柄が、相當深く進んでゐることを、想像はしてゐたけれど、まの當り彼等の親しい樣子を見せつけられては、今更のやうに、烈しい嫉妬を感じないではゐられなかつた。それを眺めてゐる内に、彼の祕密好きな性癖がさせた業であつたか、咄嗟の間に、彼は池内等のあとを尾行してやらうと決心した。彼は急いで、客待ちのタキシーを傭つて、池内の車をつけるやうに命じた。

 うしろから見てゐると、池内の自動車は、尾行されて居るとも知らず、さもお人よしに、彼の車の頭光の圈内を、グラグラとゆれてゐたが、暫く走る内に、こちらから見えてゐるうしろの窓のシエードが、スルスルとおろされた。いつかの晩と同じである。だがおろした人の心持は、恐らく彼の場合とは全く違つてゐるであらうと邪推すると、彼はたまらなくいらいらした。

 池内の車が止まつたのは、築地河岸のある旅館の門前であつたが、門内に廣い植込みなどのある、閑靜な上品な構へで、彼等の媾曳の場所としては、誠に恰好の家であつた。彼等が、さういふ場所として、世間に知られた家を、態と避けた心遣ひが、一層小憎らしく思はれた。

 彼は二人が旅館へ入つてしまふのを見屆けると、車を降りて、意味もなく、そこの門前を行つたり來たりした。戀しさ、ねたましさ、腹立たしさに、物狂はしきまで興奮して、どうしても、このまま二人を殘して歸る氣がしなかつた。

 一時間程も、その門前をうろつき廻つたあとで、彼は何を思つたのか、突然門内へ入つて行つた。そして「お馴染でなければ」と云ふのを、無理に賴んで、獨りでそこの家へ泊ることにした。

 手廣い旅館ではあつたが、夜も更けてゐたし、客も少いと見えて、陰氣にひつそりとしてゐた。彼は當てがはれた二階の部屋に通ると、すぐ床をとらせて、橫になつた。さうして、もつと夜の更けるのを待ち構へた。

 階下の大時計が二時を報じた時、彼はムツクリと起き上つて、寢間着のまま、そつと部屋を忍び出し、森閑とした廣い廊下を、壁傳ひに影の如くさまよつて、池内と芙蓉との部屋を尋ねるのであつた。それは非常に難儀な仕事であつたが、スリツパの脫いである、間每の襖を、臆病な泥棒よりももつと用心をして、ソツと細目に開いては調べて行く内に、遂に目的の部屋を見つけ出すことが出來た。電燈は消してあつたが、まだ眠つてゐなかつた二人の、囁き交はす聲音によって、それと悟ることが出來たのである。二人が起きてゐると分ると、一層用心しなければならなかった。彼は躍る胸を押へながら、少しも物音を立てないやうに、襖の所へピツタリと身體をつけて、身體中を耳にした。

[やぶちゃん注:「聲音」ここは「こわね」と訓じたい。]

 中の二人は、まさか、襖一重の外に、柾木愛造が立聞きしてゐやうなどとは思ひも及ばぬものだから、囁き聲ではあつたけれど、喋りたい程のことを、何の氣兼ねもなく喋つてゐた。話の内容はさして意味のある事柄でもなかつたけれど、柾木にとつては、木下芙蓉の、うちとけて、亂暴にさへ思はれる言葉遣ひや、その懷しい鼻聲を、じつと聞いてゐるのが、實に耐へ難い思ひであった。

 彼はさうして、室内のあらゆる物音を聞き洩らすまいと、首を曲げ、息を殺し、全身の筋肉を、木像のやうにこわばらせ、眞赤に充血した眼で、どことも知れぬ空間を凝視しながら、いつまでも、いつまでも立ちつくしてゐた。

[やぶちゃん注:「大入場」「おほいりば(おおいりば)」と読み、劇場観客席の最下等の低料金の大衆席の名称。古く江戶期には二階の最後方にあった。舞台の台詞がよく聴きとれないところから、「聾棧敷(つんぼさじき)」(現行は差別用語として用いられないが、関係者でありながら、情報や事情などを知らされない喩えとなった)とも、客を詰める込めるだけ押し込めることが出来たことから、「追込(おいこみ)」とも称した。前に「三階席」「三等席」と出るものである。

「頭光」ヘッドライト。但し、そう読むつもりならルビを振るであろうから、ここは「とうこう」と音読みしておく。

「媾曳」「あひびき(あいびき)」と訓じておく。「逢引」であるが、この場合、この猥雑極まりない「媾曳」がよい。「媾」には「好(よし)みを結ぶ」というソフトな意味の他に、「しっかり交合する・セックスする」の意があり、そこにごく能動的な動きである「曳(ひ)く」が組み合わさって実に相応しいからである。角川文庫版はおぞましくも陳腐に「逢引き」に書き換えられてある。

 なお、底本のこのページは全十四行で以上の段落で終わっており、次のページも全十四行、他も実は十四行で、この後には行空きはないことが判るのであるが、これは原稿では空いていたものを版組時に校正者が改頁で上手く切れて見えるからかく組んでしまった可能性が濃厚である。ここは流石に場面転換があり、行空きが必要である(角川文庫版では以下が「5」のパートになっている)から、例外的に底本に従わず、二行空きとした。]

 

 

 それ以來、彼が殺人罪を犯したまでの約五箇月の間、柾木愛造の生活は、尾行と立聞きと𨻶見との生活であつたと云つても、決して言ひ過ぎではなかつた。その間、彼はまるで、池内と芙蓉との情交につき纏ふ、無氣味な影の如きものであつた。

[やぶちゃん注:「𨻶見」「すきみ」で「透見(すきみ)」に同じい。隙間から覗いて見る、覗(のぞ)き見のこと。]

 凡そは想像してゐたのだけれど、實際二人の情交を見聞するに及んで、彼は今更らのやうに、身の置きどころもない恥しさと、胸のうつろになるやうな悲しさを味つた。それは寧ろ肉體的な痛みでさへあつた。池内の壓迫的な、けだもののやうな猫撫で聲には、彼は人のゐない襖の外で赤面した程、烈しい羞恥を感じたし、芙蓉の、晝間の彼女からはまるで想像も出來ない、亂暴な赤裸々な言葉遣ひや、それでゐて、その音波の一波每に、彼の全身が總毛立つ程も懷しい、彼女の甘い聲音には、彼はまぶたに溢れる熱い淚をどうすることも出來なかった。そして、ある絹ずれの音や、ある溜息の氣配を耳にした時には、彼は恐怖の爲に、膝から下が無感覺になつて、ガクガクと震へ出しさへした。

 彼はたつた一人で、薄暗い襖の外で、あらゆる羞恥と憤怒とを經驗した。それで充分であつた。若し彼が普通の人間であつたら、二度と同じ經驗を繰返すことはなかつたであらう。いや寧ろ最初から、そのやうな犯罪者めいた立聞きなどを目論見はしなかつたであらう。だが、柾木愛造は内氣や人厭ひで異常人であつたばかりでなく、恐らくはその外の點に於ても、例へば、祕密や罪惡に不可思議な魅力を感ずる所の、あのいまはしい病癖をも、彼は心の隅に、多分に持合はせてゐたに相違ないのである。そして、その潛在せる邪惡なる病癖が、彼のこの異常な經驗を機緣として、俄かに目覺めたものに違ひないのだ。

 世にもいまはしき立聞きと𨻶見とによつて覺える所の、むづ痒い羞恥、淚ぐましい憤怒、齒の根も合はぬ恐怖の感情は、不思議にも、同時に、一面に於ては、彼にとつて、限りなき歡喜であり、類ひもあらぬ陶醉であつた。彼ははからずも覗いた世界の、あの狂暴なる魅力を、どうしても忘れることが出來なかつた。

 世にも奇怪な生活が始まつた。柾木愛造の凡ての時間は、二人の戀人の媾曳の場所と時とを探偵すること、あらゆる機會をのがさないで、彼等を尾行し、彼等に氣づかれぬやうに立聞きし、𨻶見することに費された。偶然にも、その頃から池内と芙蓉との情交が、一段と濃かに、眞劍になつて行つたので、その逢ふ瀨も繁く、彼等も夢うつつの戀に醉ふことが烈しければ烈しい程、隨つて柾木が、あの齒ぎしりするやうな、苦痛と快樂の錯綜境にさまよふ事も、益々その度數と烈しさを增して行つた。

 多くの場合、二人が別れる時に言ひ交はす、次の逢ふ瀨の打合はせが、彼の尾行の手掛りとなつた。彼等の媾曳きの場所は、いつも築地河岸の例の家とは限らなんだし、落ち合ふ所も樂屋口ばかりではなかつたが 柾木はどんな場合も見逃さず、五日に一度、七日に一度、彼等の逢ふ瀨の度每に、邪惡なる影となつて、彼等につき纏ひ、彼等と同じ家に泊り込み、或は襖の外から、或いは壁一重の隣室から、時には、その壁に𨻶見の穴さへあけて、彼等の一擧一動を監視した。それを相手に悟られない爲に、彼はどれ程の艱難辛苦を甞めたことであらう。そして、ある時はあらはに、ある時はほのかに、戀人同士のあらゆる言葉を聞き、あらゆる仕草を見たのである。

『僕は柾木愛造ぢやないんだからね。そんな話はちとお門違ひだらうぜ』

 ある夜のひそひそ話の中では、池内がふとそんなことを云ひ出すのが聞えた。

『ハハハヽヽヽ、全くだわ。あんたは話せないけど可愛い可愛い人。柾木さんは、話せるけど、虫酸の走る人。それでいいんでしよ。あんなお人好しの、でくの坊に惚れる奴があると思つて? ハハハハハハヽヽヽ』

[やぶちゃん注:「虫酸」の「虫」はママ。]

 芙蓉の低いけれど、傍若無人な笑ひ聲が、錐のやうに、柾木の胸をつき拔いて行つた。その笑ひ聲は、いつかの晩の自動車の中でのそれと、全く同じものであつた。柾木にとつては、無慈悲な、意地惡な、厚さの知れぬ壁としか考へられない所のものであつた。

 彼の立聞きを少しも氣附かないで、ほしいままに彼を噂する二人の言葉から、柾木は、やつぱり彼がこの世の除けもので、全く獨りぼつちな異人種であることを、愈々痛感しないではゐられなかつた。俺は人種が違ふのだ。だから、かういふ卑劣な唾棄すべき行爲が、却つて俺にはふさはしいのだ。この世の罪惡も俺にとつては罪惡ではない。俺のやうな生物は、この外にやつて行きやうがないのだ。彼は段々そんな事を考へるやうになつた。

 一方、彼の芙蓉に對する戀慕の情は、立聞きや𨻶見が度重なれば重なる程、息も絕え絕えに燃え盛つて行つた。彼は𨻶見の度每に、一つづつ、彼女の肉體の新しい魅力を發見した。襖の𨻶から、薄暗い室内の、蚊帳の中で(もう其頃は夏が來てゐたから)海底の人魚のやうに、ほの白く蠢く、芙蓉の絽の長襦袢姿を眺めたことも、一度や二度ではなかつた。

[やぶちゃん字注:「絽」「ろ」と読む。絽織りのこと。「からみ織り」(縦糸を互いに絡ませたものに橫糸を織り込んで𨻶間を作った織物。他に羅(ら)・紗(しゃ)などがある)の一種。縦糸と橫糸を絡ませて織った透き目のある絹織物。夏の単(ひとえ)の他、羽織や袴地(はかまじ)などに用いる。]

 そのやうな折には、彼女の姿は、母親みたいに懷しく、なよなよと夢のやうで、寧ろ幽幻にさへ感じられた。

 だが、まるで違つた場面もあつた。そこでは、彼女は物狂はしき妖女となつた。振りさばいた髮の毛は、無數の蛇ともつれ合つて、全身がまぶしいばかり桃色に輝き、       空ざまにゆらめき震へた。柾木は、その狂暴なる光景に耐へかねて、ワナワナと震ひ出した程であった。

[やぶちゃん注:七字分の空白はママ。この一文は角川文庫版では(恣意的に正字化し、歴史的仮名遣に換えた)、『振りさばいた髮の毛は、無數の蛇ともつれ合つて、まぶしいはかりに桃色に輝き、着物をかなぐり捨てた全身が、まぶしいばかり桃色に輝き、つややかな四肢が、空ざまにゆらめいた。』となっているが、伏字された元はこれとは異なる文構造であることは明白である。]

 ある晩のこと、彼はこつそりと、二人の隣の部屋に泊り込んで、彼等が湯殿へ行つた間に、境の砂壁の腰貼りの隅に、火箸で小さな穴をあけた。これが病みつきとなつて、それ以來、彼は出來る限り、二人の隣室へ泊りこむことを目論んだ。そして、どの家の壁にも一つづつ、小さな穴をあけて行つた。彼はこの狐のやうに卑劣な行爲を續けながら、ふと『おれはここまで墮落したのか』と、慄然とすることがあつた。併し、それは烈しい驚きではあつても、決して悔恨ではなかつた。世の常ならぬ愛慾の鬼が、彼を淸玄のやうに、執拗な恥しらずにしてしまつた。

[やぶちゃん注:「腰貼り」腰張り。下部を和紙又は布で張った意匠の壁や襖のその部分。

「淸玄」歌舞伎の愛欲修羅或いは怨霊物の一つである清玄桜姫物(せいげんさくらひめもの)の主人公の男。『京都清水寺の僧清玄が高貴の姫君桜姫に恋慕して最後には殺されるが、その死霊がなおも桜姫の前に現れるという内容』とウィキの「清玄桜姫物」の概要にある。詳しくは同リンク先の梗概を参照されたい。]

 彼は不樣な恰好で、這ひつくばひ、壁に鼻の頭をすりつけて、辛抱强く、小さな穴を覗き込むのだが、その向ふ側には、凡そ奇怪で絢爛な覗き繪がくりひろげられ、毒々しい五色のもやが、目もあやに、もつれ合つた。ある時は、芙蓉のうなじが、眼界一杯に、艷やかな白壁のやうに擴がつて、ドキンドキンと脈をうつた。ある時は、彼女の柔かい足の裏が、眞正面に穴を塞いで、老人の顏のやうに見えるそこの皺が、異樣な笑ひを笑つたりした。だが、それらのあらゆる幻惑の中で、柾木愛造を最も引きつけたものは、不思議なことに、彼女のふくらはぎに、一寸ばかり、どす黑く血をにじませた、搔き傷の痕であつた。それはひよつとしたら、池内の爪がつけたものだつたかも知れぬけれど、彼の目の前に異樣に擴大されて蠢く、まぶしい程艷ややかな薄桃色のふくらはぎと、その表面を無殘にもかき裂いた、生々しい傷痕の醜くさとが、怪しくも美しい對照を爲して、彼の眼底に燒きついたのであつた。

[やぶちゃん注:「一寸」三・〇三センチメートル。]

 だが、彼のこの人でなしな所業は、恥と苦痛の半面に、奇怪な快感を伴なつてゐたとは云へ、それは日一日と、氣も狂はんばかりに、彼をいらだたせ、惱ましこそすれ、決して彼を滿足させることはなかつた。襖一重の聲を聞き、眼前一尺の姿を見ながら、彼と芙蓉との間には、無限の隔りがあつた。彼女の身體はそこにありながら、摑むことも、抱くことも、觸れることさへ、全く不可能であつた。しかも、彼にとつては永遠に不可能な事柄を、池内光太郞は、彼の眼前で、さも無造作に、自由自在に振舞つてゐるのだ。柾木愛造が、この世の常ならぬ無殘な呵責に耐へかねて、遂にあの恐ろしい考へを抱くに至つたのは、まことに是非もないことであつた。それは實に、途方もない、氣違ひめいた手段ではあつた。だが、それがたつた一つ殘された手段でもあつたのだ。それを外にしては、彼は永遠に、彼の戀を成就する術はなかつたのである。

[やぶちゃん注:「一尺」三〇・三センチメートル・]

 

 

 彼が尾行や立聞きを始めてから一月ばかりたつた時、惡魔が彼の耳元に、ある無氣味な思ひつきを囁き始めたのであつたが、彼はいつとなく、その甘いささやきに引き入れられて行つて、半月程の間に、たうとうそれを、思ひ歸す餘地のない實際的な計畫として、決心するまでになつてしまつた。

[やぶちゃん注:「一月」角川文庫版では『二た月』に変えてある。確かに以上のシークエンスを読者に粘着させるには一月では短い気はするし、次の段落の「一月半ぶり」と齟齬する感じも強い。そもそもが前に「芙蓉殺害事件は、彼等が最後に會つた日から、五箇月もの間を置いて、彼等がお互の存在をすでに忘れてしまつたと思はれる時分に、まことに突然に起つた」とあって、「一月」では、やや齟齬が生ずる。]

 ある晩、彼は久しぶりで、池内光太郞の自宅を訪問した。彼の方では、あの祕密な方法で、繁々池内に會つてゐたけれど、池内にしては、一月半ぶりの、やや氣拙い對面だつたので、何かと氣を使つて、例の巧みな辯口で、池内自身もその後、芙蓉とはまるで御無沙汰になつてゐる體に云ひつくらうのであつたが、柾木は相手が芙蓉のことを云ひ出すのを待ち兼ねて、それをきつかけに、さも何氣なく、

[やぶちゃん注:「云ひつくらう」はママ。]

『イヤ、木下芙蓉と云へば、僕は少しばかり君にすまない事をしてゐるのだよ。ナニ、ほんの出來心なんだけれど、實はね、もう一月以上も前のことだが、芙蓉がS劇場に出てゐた時分、丁度芝居がはねる時間に、あの邊を通り合はせたものだから、樂屋口で芙蓉の出て來るのを待つて、僕の車にのせて、家まで送つてやつたことがあるのだよ。でね、その車の中で、つい出來心で、僕はあの女に云ひ寄つた譯なのさ。だが君、怒ることはないよ。あの女は斷然はねつけたんだからね。とても僕なんかの手には合はないよ。君に内緖にして置くと、何だか僕が今でも、君とあの女の間柄をねたんでゐるやうに當つて、氣がすまないものだから、少し云ひにくかつたけれど、恥しい失敗談を打ちあけた譯だがね。全く出來心なんだ。もうあの女に會ひ度いとも思はぬよ。君も知つてゐる通り、僕は眞劍な戀なんて、出來ない男だからね』

[やぶちゃん注:「一月以上」ここは角川文庫版もそのままであるが、ここは逆に角川文庫版が不自然になる。本来なら、ここも『二月以上』と変えないとおかしい。]

 といふやうなことを喋つた。なぜ、さうしなければならないのか、彼自身にも、はつきり分らなかつたけれど、あの事を祕密にして置いては、何だか拙いやうに思はれた。それをあから樣に言つてしまつた方が、却つて安全だといふ氣がした。

 狂人といふものは、健全な普通人を、一人殘らず、彼等の方が却つて氣違ひだと、思ひ込んでゐるものであるが、すると、柾木愛造が人厭ひであつたのも、彼以外の人間を、異國人のやうに感じたのも、凡て、彼が最初から、幾分氣違ひじみてゐたことを、證據立ててゐるのかも知れない。事實、彼はもはや氣違ひといふ外はなかつた。あの執拗で、恥知らずな尾行や立聞きや𨻶見なども、云ふまでもなく狂氣の沙汰であつたが、今度は彼は、それに輪をかけた、實に途方もない事を始めたのである。と云ふのは、あの人厭ひな陰氣者の柾木愛造が、突然、新靑年のやうに、隅田川の上流の、とある自動車學校に入學して、每日缺かさずそこへ通つて、自動車の運轉を練習し始めたことで、しかも、彼は、それが彼の恐ろしい計畫にとつて、必然的な準備行爲であると、眞面目に信じてゐたのである。

『僕は最近、不思議なことを始めたよ。僕みたいな古風な陰氣な男が、自動車の運轉を習つてゐると云つたら、君は定めし驚くだらうね。僕の所の婆やなんかも、僕が柄にもなく朝起きをして、一日も休まず自動車學校へ通學するのを見て、たまげてゐるよ。每日々々練習用のフオードのぼろ車をいぢくつてゐる内に、妙なもので、少しは骨が分つて來た。この分なら、もう一月もしたら、乙種の免許位取れ相だよ。それがうまく行つたら、僕は一臺車を買込むつもりだ。そして、自分で運轉して、氣散じな自動車放浪をやるつもりだ。この氣持が、君は分るかね。僕にしては、實にすばらしい思ひつきなんだよ。たつた一人で箱の中に坐つてゐて、少しも人の注意を惹かないで、しかも非常な速度で自由自在に、東京中を放浪して步くことが出來るのだ。君も知つてゐるやうに、僕が外出嫌ひなのは、この自分の身體を人目にさらす感じが、たまらなくいやだからだ。車にのるにしても、運轉手に物を云つたり指圖をしたりしなければならぬし、僕がどこへ行くかといふことを、少なくとも運轉手だけには悟られてしまふからね。それが、自分で箱車を運轉すれば、誰にも知られず、丁度、僕の好きな土藏の中にとぢ籠つてゐるやうな氣持のままで、あらゆる場所をうろつき廻ることが出來る。どんな賑やかな大通りをも、雜沓をも、全く無關心な氣持で、隱れ蓑を着た仙人のやうに、通行することが出來る。僕みたいな男にとつては、何と理想的の散步法ではあるまいか。僕は今、子供のやうに、乙種運轉手免狀が下附される日を、持ちこがれてゐるのだよ』

[やぶちゃん注:「フオード」言っておくが、私は自動車免許を所持しない化石のような人間である。従って、フォードも車の名前ぐらいしか判らないし、興味もない。しかしたまたま見た、如何にもアンティークに見える、ウィキの「フォード・モデルT」の記事中に、ここに出る「乙種の免許」(後注参照)と関わる記載があるので引きたくなった。『モデルTの運転方法は、他の自動車とは相当に異なっていた。しかしその操作は初心者でも手順だけ覚えれば容易なもので、同時期の他車のように非常な熟練を要するということがなかった。ゆえに日本では大正時代、通常の自動車用免許「甲種運転免許」と別に”オートバイおよびT型フォード専用免許”とでもいうべき簡略な「乙種運転免許」が設けられていたほどで、現代日本におけるオートマチック車限定免許を思わせ』、『興味深いものがある』とあるのである。柾木の購入したデザインが、後で池内から呆れられるような古々しい中古であるとあるが、時代設定(大正前期)からも、どうもこの「フォード・モデルT」と考えてよいのではないかと私は思う。識者の御敎授を乞う。

「骨」「こつ」。要領。呼吸。当て字ではない。

「乙種の免許」個人サイト『栗田君の「自動車運転免許獲得記」』の「運転免許証の歴史」の中の、「自動車取締令(内務省令)」に、大正八(一九一九)年には『各道府県每の交通規制では不充分となってきたため』、『「自動車取締令(内務省令)」が全国法令として制定された。当時は、どの車種でも運転できる甲種と、特定自動車(けん引、道路工事用自動車)や特殊自動車(サイドカー、オート三輪自動車)などに限る乙種の』二種類があった。『試験は自動車を持ち込んで公道で行われたという。乙種免許は』『実際は、当時世界の自動車の半数を占めていたT型フォード(準オートマ)を運転するためのものであった。当時の免許の特徴は、交付者が「主たる就業地の地方長官」であるため、異なる県に移転したら、そこで改めて免許証を取り直さなければならなかった。また、免許証を取得するためには車体検査証が必要であったため、自動車を持っていないと免許も取得できないという時代であった。有効期間は』五年であった、とあり、その下に、昭和八(一九三三)年に「自動車取締令」の全面改正が行われて、『従来の乙種免許は普通免許となった』とあるが、本作品内時間は「このお話は大地震よりは餘程以前のことだから」とあったから、「餘程」に齟齬を感じはするものの、一応、納得は出来る。

「箱車」前の「箱」も含めて、当時のずんぐりとした「箱型」の自家用車のボディのこと。「はこぐるま」は如何にもゴロが悪い(但し、この読みは平安時代の牛車にも用いる古語)ので、今風に「はこしや(はこしゃ)」と読んでおく。角川版では前は「箱」のままであるが、ここはただの『車』に書き換えてある。]

 柾木はこんな意味の手紙を、池内光太郞に書いた。それは彼の犯罪準備行爲を、態と大膽に暴落して、相手を油斷させ、相手に疑ひを抱かせまいとする、捨身の計略であつた。この場合、大膽に暴露することが、徒らに隱蔽するよりも却つて安全であることを、彼はよく知つてゐたのだ。無論その時分にも、一方では例の七日に一度位の、尾行と立聞きを續けてゐたので、彼はその折々、手紙を受取つてからの池内の擧動に注意したが、彼は柾木の奇行を笑ふ外に、何の疑ふ所もなかつたことはいふまでもない。

 隨分金も使つたけれども、僅か二月程の練習で、彼は首尾よく乙種運轉手の免狀を手に入れることが出來た。同時に、彼は自動車學校の世話で、箱型フオードの中古品を買ひ入れた。やくざなフオードを選んだのは、費用を省く意味もあつたが、當時東京市中の賃自動車には、過半フオードが使用されてゐたので、その中に立ち混つて目立たぬといふ點が、主たる理由であつた。ある理由から、彼はそれを買入れる時、客席の窓に新しくシエードを取りつけさせることを忘れなかつた。前にも云つたやうに、彼のK町の家には廣い荒庭があつたので、車庫を建てるのも、少しも面倒がなかつた。

[やぶちゃん注:「賃自動車」「ちんじどうしや(ちんじどうしゃ)」と読んでおく。タクシーのこと。後の同義の「賃車」も「ちんしや(ちんしゃ)」と読んでおく。

「やくざなフオード」ここにも出る通り、当時(震災前大正期)は営業車両としてもT型フォードがゴマンと走り、本場アメリカでも、一般人が自家用車として買い換えるとなると、最新型でも旧型とさしたる変化のない本車種を、好んで乗り換えの対象とするユーザーは多くなかった、とウィキの「フォード・モデルT」にはある。]

 車庫が出來上がると、柾木はそこの扉をしめ切つて、婆やに氣付かれぬやうに注意しながら、二晩もかかつて、大工の眞似事をした。それは、彼の自動車の後部のクツシヨンを取りはづして、その内部の空ろな部分に、板を張つたり、クツシヨンそのものを改造したりして、そこに人一人橫になれる程の空ろを作ることであつた。つまり、外部からは少しも分らぬけれど、そのクツシヨンの下に、長方形の棺桶のやうな、空虛な箱が出來上がつた譯である。

 さて、この奇妙な仕事がすむと、彼は古着屋町で、賃車の運轉手が着そうな、黑の詰襟服とスコツチの古オーヴアと(その時分氣候は已に晩秋になつてゐたので)目まで隱れる大きな鳥打帽とを買つて來て(かやうな服裝を選んだのも、無論理由があつた)それを身につけて運轉手臺におさまり、時を選ばず、市中や近郊をドライヴし始めたのである。

[やぶちゃん注:「スコツチ」毛織物の一種であるスコッチ・ツイード(Scotch Tweed)。スコットランド產ツイード。]

 それはまことに奇妙な光景であつた。雜草の生い茂つた荒庭、壁のはげ落ちた土藏、倒れかかつたあばら家、くずれた土塀、その荒凉たる化物屋敷の門内から、假令フオードの中古にもしろ、見たところ立派やかな自動車が、それが夜の場合には、怪獸の目玉のやうな二つの頭光を、ギラギラと光らせて、每日々々、どことも知れず辷り出して行くのである。婆やを初め附近の住民達は、もうその頃は噂の擴まつてゐたこの奇人の、世にも突飛な行動に、目を見はらないではゐられなかつた。

[やぶちゃん注:「立派やかな」当初、私はこれを「はでやかな」と訓じていたが、これは可能性として、「けやか」(他と異なって際立っているさま。とりわけ立派なさまの意)と訓じているように思われてきた。角川文庫版にはルビはない。]

 一月ばかりの間、彼は、運轉を覺えたばかりの嬉しさに、用もないのに自動車を乘り廻してゐる、と云ふ體を裝つて、無闇と彼の所謂自動事放浪を試みた。市内は勿論、道路の惡くない限り、近郊のあらゆる方面に遠乘りをした。ある時は、自動車を、池内光太郞の勤先の會社の玄關へ橫づけにして、驚く池内を誘つて宮城前の廣場から、上野公園を一順して見せたこともあつた。池内は『君に似合はしからぬ藝當だね。だが、フオードの古物とは氣が利かないな』などと云ひながら、でも、少なからず驚いてゐる樣子だつた。若し彼が、現に彼の腰かけてゐたクツシヨンの下に、妙な空𨻶が拵へてあること、又遠からぬ將來、そこへ何者かの死體が隱されるであらうことを知つたなら、どんなに靑ざめ、震へ上がつたことであらうと思ふと、運轉しながら、柾木は背中を丸くし、顏を胸に埋めて、湧上がるニタニタ笑ひを隱さなければならなかつた。

 又ある晩は、たつた一度ではあつたけれど、彼は大膽にも、木下芙蓉の散步姿を、自動車で尾行したこともあつた。若しそれが相手に見つかつたならば、彼の計畫は殆ど駄目になつてしまふ程、實に危險な遊戲であつたが、併し、危險なだけに、柾木はゾクゾクする程愉快であつた。洋裝の美人が、さも氣取つた樣子で、步道をコツコツと步いて行く、その斜めうしろから、一臺のボロ自動車が、のろのろとついて行くのだ。美人が町角を曲るたびに、ボロ自動車も、そこを曲る。まるで紐でつないだ飼犬みたいな感じで、誠に滑稽な、同時に無氣味な光景であつた。『御令孃、ホラ、うしろから、あなたの棺桶がお供をしてゐますよ』柾木はそんな歌を、心の中で呟いて、薄氣味の惡い微笑を浮かべながら、ソロソロと車を運轉するのであつた。

 彼がこんな風に、自動車を手に入れてから、一月もの長い間、辛抱强く無駄な日を送つてゐたのは、云ふまでもなく、池内を初め婆やだとか近隣の人達に彼の眞意を悟られまい爲であつた。彼が自動車を買つたかと思ふと、すぐ樣芙蓉が殺されたのでは、少々危險だと考へたのである。だが、これは寧ろ彼の杞憂であつたかも知れない。なぜと云つて、表面に現はれた所では、柾木と芙蓉とは、ただ小學校で顏見知りであつた男女が、偶然十數年ぶりに再會して、三四度席を同じうしたまでに過ぎないし、それからでも、已に五箇月の月日が經過してゐるのだから、柾木が自動車を買入れた日と、芙蓉が殺害された日と、假令ピクツタリ一致したところで、この二つの事柄の間に、恐ろしい因果關係が存在しやうなどと、誰が想像し得たであらう。どんなに早まつたところで、彼には少しの危險さへなかつた筈である。

 それは兎も角、流石用心深い柾木も、一月の間の、さも呑氣そうな自動車放浪で、最早や十分だと思つた。愈々實行である。だが、その前に準備して置かねばならぬ、二三のこまこました仕事が、まだ殘つてゐた。と云ふのは、賃自動車の目印であるツーリングの赤いマークを印刷した紙切れを手に入れること、自動車番號を記したテイルの塗り板の替へ玉を用意すること、芙蓉の爲に安全な墓場を準備して置くことなどであつたが、前の二つは大した困難もなく揃へることが出來たし、墓場についても、實に申分のない方法があつた。彼は自邸の荒庭の眞中に、水のかれた深い古井戶のあることを知つてゐた。ある日彼は、庭をぶらついてゐて、態とそこへ足を辷らせ、向脛にちよつとした傷を拵へて見せた。そして、その事を婆やに告げて、危いから埋めることにしようと云ひ出したのである。丁度その頃、近くに道路工事があつて、不用の土を運ぶ馬力が、每日彼の家の前を通り、工事の現場には『土御入用の方は申出て下さい』と立札がしてあつた。柾木はその工事監督に賴んで、代金を拂つて、二車ばかりの土を、彼の邸内へ運んで貰ふことにしたのである。馬方は、彼の荒れ庭の中へ馬車を引き込んで、その片隅へ、亂暴に土の山を作つて行つた。あとは、いつでも好きな時に、人足を賴んで、その土を古井戶の中へほうり込んで貰へばよいのである。云ふまでもなく、彼は井戶を埋める前に、芙蓉の死骸をその底へ投込み、上から少々土をかけて、人足たちに氣附かれることなく、彼女を葬つてやる積りであつた。

[やぶちゃん注:「ツーリング」「touring」だが、旅行用の排気量の大きい大型ツーリング・カーのこととは思えない。寧ろ、ここは「賃自動車の目印である」「赤いマークを印刷した紙切れ」とあるから、フロントに置いてタクシーであること、営業許可を受けていることを示すための定形で統一され、赤いマークを印字した許可証(標)のことかと思われる。もし誤っているとまずいので、ここも識者の御敎授を乞うものである。

「自動車番號を記したテイルの塗り板」「テイル」は「tail」であるから、後尾ナンバー・プレート(自動車登録番号標)のことか。後の叙述から既にこの頃、一般車と営業車でナンバー・プレートが異なっていたことが判る。ネットを検索すると、昔は法律上、後ろの封印されている物を外さなければ良かったとあり、ということは、前についているものを外すことは出来たし、その取締りは甘かったのではないか、と考えてよいようである。]

 さて、準備は遺漏なくととのつた。もう決行の日を極めるばかりである。それについても、彼は確かな目算があつた。といふのは、屢々述べたやうに、彼は其時分までも、例の尾行や立聞きを續けてゐたので、彼等(池内と芙蓉と)が次に出會ふ場所も時間も知れてゐたし、當時芝居の切れ目だつたので、芙蓉は自宅から約束の場所へ出かけるのだが、そんな時に限つて、彼女は態と帳場の車を避け、極まつたやうに、近くの大通りの角まで步いて、そこで通りすがりのタキシーを拾ふことさへ、彼にはすつかり分つてゐた。實を云ふと、それが分つてゐたからこそ、彼はあの變てこな、自動車のトリツクを思ひついた程であつたのだから。

[やぶちゃん注:「帳場」町場・丁場とも書き、古くは、馬子(まご)・駕籠かき・人力車夫などの溜まり場を称したから、ここはタクシー会社や複数のタクシー車両の指定駐車場のことを指している。]

 

 

 十一月のある日、その日は朝から淸々しく晴れ渡つて、高臺の窓からは、富士山の頭がハツキリ眺められるやうな日和であつたが、夜に入つても、肌寒いそよ風が渡つて、空には梨地の星が異樣に鮮やかにきらめいてゐた。

 その夜の七時頃、柾木愛造の自動車は、二つの目玉を歡喜に輝かせ、爆音華やかに、彼の化物屋敷の門を辷り出し、人なき隅田堤を、吾妻橋の方角へと、一文字に快走した。運轉臺の柾木愛造も、輕やかにハンドルを振り、彼に似合はしからぬ口笛さへ吹き鳴らして、さもいそいそと嬉し相に見えた。

 何といふ晴々とした夜、何といふ快活な彼のそぶり、あの恐ろしい犯罪への首途としては、餘りにも似合はしからぬ陽氣さではなかつたか。だが、柾木の氣持では、陰慘な人殺しに行くのではなく、今彼は、十幾年も待ちこがれた、あこがれの花嫁御を、お迎ひに出かけるのだつた。今夜こそ、嘗つては彼の神樣であつた木下文子が、幾夜の夢に耐へ難きまで彼を惱まし苦しめた木下芙蓉の肉體が、完全に彼の所有に歸するのだ。何人も、あの池内光太郞でさへも、これを妨げる力はないのだ。ああ、この歡喜を何に例へることが出來やう。透き通つた闇夜も、闌干たる星も、自動車の風よけガラスの𨻶間から、彼の頰にざれかかるそよ風も、彼の世の常ならぬ結婚の首途を、祝福するものでなくて何であらう。

[やぶちゃん注:「首途」二ヶ所ともに「かどで」と読む。

「花嫁御」角川文庫版ではこの後も皆『花嫁御寮』となっている。これは角川版がよい。

「闌干」欄干とも書く。「らんかん」で、夜空の星や月の耀く光が鮮やかなさまを言う。]

 木下芙蓉の、その夜の逢引きの時間は八時といふことであつたから、柾木は七時半には、もうちやんと、いつも芙蓉が自動車を拾ふ大通りの四つ角に、車を止めて待構へてゐた。彼は運轉臺で、背を丸くし、鳥打帽をまぶかにして、うらぶれた辻待ちタキシーの運轉手を裝つてゐた。前面の風よけガラスには、ツーリングの赤いマークのはいつた紙を目立つやうに貼り出し、テイルの番號標は、いつの間にか、警察から下附されたものとは、まるで違ふ番號の、營業自動車用のにせ物に變つてゐた。それは誰が見ても、ありふれたフオードの客待ち自動車でしかなかつた。

『ひよつとしたら、今夜は何か差支が出來て、約束を變へたのではあるまいか』

 待遠しさに、柾木がふとそんなことを考へた時、丁度それが合圖ででもあつたやうに、向うの町角から、ひよつこりと、芙蓉の和服姿が現はれた。彼女は態と地味な拵へにして、茶つぽい袷に黑の羽織、黑いシヨールで顎を隱して、小走りに彼の方へ近づいて來るのだが、街燈の作りなした影であつたか、顏色もどことなく打沈んで見えた。

[やぶちゃん字注:「袷」「あはせ(あわせ)」。裏をつけて仕立てた和服。]

 丁度その時は、通り過ぎる空自動車もなかつたので、彼女は當然柾木の車に走り寄つた。

いふまでもなく、柾木の欺瞞が効を奏して、彼女はその車を、辻待ちタキシーと思ひ込んでゐたのである。

『築地まで、築地三丁目の停留場のそばよ』

 柾木が運轉臺から降りもせず、顏をそむけたまま、うしろ手にあけた扉から、彼女は大急ぎで辷り込んで、彼の背中へ行先を告げるのであつた。

 柾木は、心の内で凱歌を奏しながら、猫背になつて、命ぜられた方角へ車を走らせた。淋しい町を幾曲りして、車は順路として、ある明るい、夜店で賑つてゐる、繁華な大通りへさしかかつたが、この大通りこそ、柾木の計畫にとつて最も大切な場所であつた。彼は運轉しながら、鳥打のひさしの下から、上目使ひに、前のバツク・ミラーに映る、背後の客席の窓を見つめてゐた。今か今かと、ある事の起るのを待ち構へてゐた。

 すると間もなく、案の定、まぶしい燈光をさける爲に、半年前、柾木と同乘した時と同じやうに、芙蓉が客席の四方の窓のシエードを、一つ一つ卸して行くのが見えた(當時の箱型フオードは凡て、客席と運轉手臺との間に、ガラス戶の隔て出來てゐた。彼が自動車を買ひ入れた時、態々シエードを取りつけさせた理由は、これであつた)。愛造は、胸の中で小さな動物が、滅茶苦茶にあばれ廻つてゐる樣に感じた。一里も走りつづけた程喉が乾いて、舌が木のやうにこはばつてしまつた。だが、彼は斷末魔の苦しみで、それを堪へながら、なほも車を走らせるのであつた。

[やぶちゃん注:「(當時の箱型フオードは、客席と運轉手臺との間に、ガラス戶の隔て出來てゐた。彼が自動車を買ひ入れた時、態々シエードを取りつけさせた理由は、これであつた)」の箇所は角川文庫版では、『(註、当時の箱型フォードは、客席と運転手台との間に、ガラス戸の隔てがあり、窓にはブラインドのやうなものがついていた)』と書き換えられてある。]

 賑かな大通りの中程へ進んだ頃、前方から氣違ひめいた音樂が聞えて來た。それはその町のとある空地に、大テントを張つて興行してゐた娘曲馬團の客寄せ樂隊で、舊式な田舍音樂が、蠻聲を張り上げて、かつぽれの曲を、滅多無性に吹き鳴らしてゐるのであつた。曲馬團の前は、黑山の人だかりが人道を埋め、車道は雷のやうな音を立てて行交ふ電車や、自動車、自轉車で急流を爲し、耳を聾する音樂と、目をくらます雜沓が、その邊一帶の通行者から、あらゆる注意力を奪つてしまつてゐるかに見えた。愛造が豫期した通り、これこそ屈强の犯罪舞臺であつた。

[やぶちゃん注:この强殺シークエンスは実に映像的で、SE(サウンド・エフェクト)も凄い。

「かつぽれ」ウィキの「かっぽれ」から引く。『俗謡、俗曲にあわせておどる滑稽な踊り。漢字表記は「活惚れ」』。『江戶時代、住吉大社の住吉踊りから変じたものであるとされ(諸說ある)、長柄の二蓋笠(にがいがさ)を中央に立て、白木綿の衣に丸ぐけの帯、墨染めの腰衣という姿の複数人が、二蓋笠を取り巻いて踊り、その間に掛け合い噺めいたことを行った』。『のちに坊主頭姿で、染め浴衣に平ぐけ帯という姿になった。明治時代になって願人坊主の豊年斎梅坊主がその代表格となる。寄席に登場して人気が高まり、芸妓がお座敷で盛んに余興として歌い踊り、政治家や実業家など上流階級にも知られるようになった。「男芸者」幇間も演じた。歌舞伎では九世市川団十郞が踊った(「春霞空住吉」)。日本でのレコードの創成期には芸妓、幇間、梅坊主、軍楽隊により盛んに吹込みがされたが、寄席芸としては廃れ、落語家が時折余興として披露するのみにな』った。

「滅多無性」「めつたむしやう(めったむしょう)」で、「滅多矢鱈(めったやたら)」に同じい。

「屈强」角川文庫版では『窮竟』(極まりつめた)で、これは改稿の方がよい。]

 彼は車道の片側へ車を寄せて、突然停車すると、目にも見えぬ素早さで、運轉臺を飛び降り、客席に躍り込んで、ピツシヤリと中から扉をしめた。そこは丁度露店の燒鳥屋のうしろだつたし、假令見た人があつたところで、完全にシエードが下りてゐるのだから、客席内の樣子に氣づく筈はなかつた。

 躍り込むと同時に、彼は芙蓉の喉を目がけて飛びついて行つた。彼の兩手の間で、白い柔いものが、しなしなと動いた。

『許して下さい、許して下さい、僕はあなたが可愛いのだ。生かして置けない程可愛いのだ』

 彼はそんな世迷言を叫びながら、白い柔いものを、くびれて切れてしまふ程、ぐんぐんとしめつけて行つた。

[やぶちゃん字注:「世迷言」「よまひごと(よまいごと)」。訳のわからない繰り言。]

 芙蓉は、運轉手だと思ひ込んでゐた男が、氣違ひのやうに血相かへて飛び込んで出來た時、殺される者の素早い思考力で、咄嗟に柾木を認めた。だが、彼女は、惡夢の中でのやうに、全身がしびれ、舌が釣つて、逃げ出す力も、助けを呼ぶ力もなかつた。妙なことだけれど、彼女は大きく開いた目で、またたきもせず柾木の顏を見つめ、泣き笑ひの表情をして、さあここをと云はぬばかりに、彼女の首をグツと彼の方へつき出したかとさへ思はれた。

 柾木は必要以上に長い間、相手の首をしめつけてゐた。離さうにも、指が無感覺になつてしまつて、云ふことを聞かなかつたし、さうでなくても、手を離したら、ビチビチ躍り出すのではないかと、安心が出來なんだ。だが、いつまで押へつけてゐる譯にも行かぬので、恐る恐る手を離してみると、被害者はくらげのやうに、グニヤグニヤと、自動車の底へくずをれてしまつた。

 彼はクツシヨンを取りはづし、難儀をして、芙蓉の死骸をその下の空ろな箱の中へをさめ、元通りクツシヨンをはめて、その上にぐつたり腰をおろすと、氣をしづめる爲に、暫くの間じつとしてゐた。外には、相變らず、かつぽれの樂隊が、勇ましく鳴り響いてゐたが、それが實は、彼をだますために、態と何氣なく續けられてゐるので、安心をしてシエードをあげると、窓ガラスの外に、無數の顏が折り重なつて、千の目で、彼を覗き込んでゐるのではないかと、迂濶にシエードを上げられないやうな氣がした。

[やぶちゃん注:最後の一文は角川文庫版では、末尾が改変され、『外には、相變らず、かつぽれの樂隊が、勇ましく鳴り響いてゐたが、それが實は、彼をだますために、態と何氣なく續けられてゐるので、安心をして、シエードをあげると、窓ガラスの外に、無數の顏が折り重なつて、千の目で、彼を覗き込んでゐるのではないかと、身ぶるいした。』と切り詰めてある。これは寧ろ、角川版の改稿の方が効果的ではあるように思われる。なお、次の段落の頭も改稿されている。]

 だが、いつまでもさうしてゐる事は出來ないので、彼は非常な勇気をふるひ起して、一分位の幕の𨻶間からおづおづと外を覗いて見た。すると彼はシエードの𨻶間から、おづおづと外を覗いて見た。すると、安心したことには、そこには彼を見つめてゐる一つの顏もなかつた。電車も自轉車も步行者も、彼の自動車などには全く無關心に、いそがしく通り過ぎてゐた。

[やぶちゃん注:角川文庫版では、この段落は全体が以下の通り、頭がカットされ(正字化・正仮名で示すなら)、『彼はシエードの𨻶間から、おづおづと外を覗いて見た。だが、安心したことには、そこには彼を見つめてゐる一つの顏もなかつた。電車も、自轉車も、步行者も、彼の自動車などには、全然無關心に、いそがしく通り過ぎて行つた。』である。これも例以外的に改稿の方が說明的でなく、よい。]

 大丈夫だと思ふと、少し正氣づいて、亂れた服裝をととのへたり、隱し殘したものはないかと、車の中を改めたりした。すると床のゴムの敷物の隅に、小さなハンド・バツグが落ちてゐるのに氣づいた。無論芙蓉の持物である。開いて見ると、別段の品物も入つてゐなかつたが、中に銀の懷中鏡があつたので、序でにそれをとり出して自分の顏を寫してみた。丸い鏡の中の顏は、少し靑ざめてゐたけれど、別に惡魔の形相も現はれてゐなかつた。彼は長い間鏡を見つめて、顏色をととのへ、呼吸を靜める努力をした。やがて、やや平靜を取戾した彼は、いきなり運轉臺に飛び戾つて、大急ぎで電車道を橫切り、車を反對の方角に走らせた。そして、人通りのない淋い町へ淋しい町へと走つて、とある神社の前で車を止め、前後に人のゐないのを確めると、ヘツド・ライトを消して置いて、咄嗟の間に、シエードを上げ、ツーリングのマークをはがし、テイルの番號標を元の本物と取り換へ、再び頭光をつけると、今度はすつかり落ちついた氣持で、車を家路へと走らせるのであつた。交番の前を通る度に、態と徐行して『お巡りさん、私や人殺しなんですよ。このうしろのクツシヨンの下には、美しい女の死骸が隱してあるんですよ』などと獨りごちて、ひどく得意を感じさへした。

[やぶちゃん注:この亡き芙蓉のコンパクトに柾木が自身の顔を移すシーンも素晴らしい。そこにはパウダーの甘い匂いも漂う。因みに、柾木の芙蓉殺害は十一月某日の午後七時四十五分前後か。]

 

 

 邸について、車を車庫に納めると、もう一度身の廻りを點檢して、シヤンとして玄關へ上り、大聲に臺所の婆やを呼び出した。

『お前濟まないが、ちよつと使ひに行つて來ておくれ。淺草の雷門の所に、Gといふ洋酒屋があるだらう。あすこへ行つてね、何でもいいから、これで買へるだけの上等の葡萄酒を一本取つてくるのだ。さあ、ここにおあしがある』

[やぶちゃん注:「G」角川文庫版では『鶴屋』という固有名詞で出る。少なくとも、現在では同名の酒屋は雷門付近には見当たらない。]

 さういつて彼が十圓札を二枚つき出すと、婆やは、彼の下戶を知つてゐるので『マア、お酒でございますか』と妙な顏をした。柾木は機嫌よくニコニコして『ナニちよつとね、今晩は嬉しいことがあるんだよ』と辯解したが、これは、婆やが雷門まで往復する間に、芙蓉の死骸を、土藏の二階へ運ぶ爲でもあつたけれど、同時に又、この不可思議な結婚式の心祝ひに、少々お酒がほしかつたのでもあつた。

 婆やの留守の三十分ばかりの間に、彼は魂のない花嫁を、土藏の二階へ運んだ上、例の自動車のクツシヨンの下の仕掛けを、すつかり取りはずして、元々通りに直して置く暇さへあつた。かうして彼は、最後の證據を湮滅してしまつた譯である。この上は、あかずの土藏へ闖入して、芙蓉の死骸そのものを目擊しない以上、誰一人彼を疑ひ得る者はない筈であつた。

 間もなく半ば狂せる柾木と、木下芙蓉の死體とが、土藏の二階でさし向ひであつた。燭臺のたつた一本の蠟燭が、赤茶けた光で、そこに恥もなく橫はつた花嫁御の、冷たい裸身を照らし出し、それが、部屋の一方に飾つてある、等身大の木彫りの菩薩像や、靑ざめたお能の面と、一種異樣の、陰慘な、甘酸つぱい對照を爲してゐた。

[やぶちゃん注:「橫はつた」はママ。「橫(よこた)はつた」。以下でも乱步はかく送り仮名を振っている。]

 たつた一時間前まで、心持の上では、千里も遠くにゐて、寧ろ怖いものでさへあつた、世問竝に意地惡で、利口者の人氣女優が、今何の抵抗力もなく、赤裸々のむくろを、彼の眼前一尺に曝してゐるかと思ふと、柾木は不思議な感じがした。全く不可能な事柄が、突然夢のやうに實現した氣持であつた。今度は反對に、輕蔑したり、憐れんだりするのは、彼の方であつた。手を握るはおろか、頰をつついても、抱きしめても、抛り出しても、相手はいつかの晩のやうに、彼を笑ふことも、嘲ることも出來ないのだ。何たる驚異であらう。幼年時代には彼の神樣であり、この半年の間は、物狂はしきあこがれの的であつた木下芙蓉が、今や全く彼の占有に歸したのである。

 死體は、首に靑黑い絞殺のあとがついてゐるのと、皮膚の色がやや靑ざめてゐた外は、生前と何の變りもなかつた。大きく見開いた、瀨戶物のやうなうつろな目が、空間を見つめ、だらしなく開いた脣の間から、美しい齒竝と舌の先が覗いてゐた。脣に生色がなくて、何とやら花やしきの生人形みたいであつたが、それ故に、却つてこの世のものならぬなまめかしさが感じられた。皮膚は靑白くすべつこかつた。仔細に見れば、四肢に生毛も生えてゐたし、毛穴も見えたけれど、それにも拘らず、全體の感じは、すべつこくて透き通つてゐた。

[やぶちゃん注:角川文庫版では「が、それ故に、却つてこの世のものならぬなまめかしさが感じられた」の箇所がごっそりカットされてある。

「生人形」「いきにんぎやう(いきにんぎょう)」と読む。「たばこと塩の博物館」公式サイト内の「大見世物 〜江戶・明治の庶民娯楽〜」の「生人形」に、『幕末の安政期から明治二十年頃までの三十年ほどのあいだ、流行した見世物である。真に迫った等身大の人形を中心に物語や伝奇伝説の場面を仕組み、スペクタクルにして見せた。系譜的には、近世後期の見世物で第一等の地位を占めた細工見世物が、リアリズムの方向へと展開したものであり、その一部はジオラマ、パノラマ、人体模型、マネキンにも継承されていく』とある。

「花やしき」現在も浅草にある遊園地「浅草花やしき」のこと。嘉永六(一八五三)年開園(当初は植物園)で日本最古の遊園地とされる(但し、以下に見るように途中に断絶があり、経営も変わっている)。ウィキの「浅草花やしき」によれば、明治中後期でも『園内は和洋折衷の自然庭園の雰囲気を呈していた』が、『徐々に庶民にも親しまれるようトラ、クマなど動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示したりした。浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は强まり、動物、見世物(活人形、マリオネット、ヤマガラの芸など)の展示、遊戯機器の設置を行うようにな』り、『大正から昭和初期には全国有数の動物園としても知られ』たとある。この後の昭和一〇(一九三五)年には事実上、閉園し、昭和一七(一九四二)年には強制疎開によって取り壊されたが、敗戦後の昭和二二(一九四七)年に再開園している。]

 非現實な蠟燭の光が、身體全體に無數の柔い影を作つた。胸から腹の表面は、砂漠の砂丘の寫眞のやうに、蔭ひなたが雄大なるうねりを爲し、身體全體は、夕日を受けた、奇妙な白い山脈のやうに見えた。氣高く聳えた嶺續きの不可思議な曲線、滑かな深い谷間の神祕なる蔭影、柾木愛造は、そこに芙蓉の肉體のあらゆる細部に亘つて、思ひもよらぬ、微妙な美と祕密とを見た。

 生きてゐる時は、人間はどんなにじつとしてゐても、どこやら動きの感じを免かれないものだが、死者には全くそれがない。このほんの僅かの差違が、生體と死體とを、まるで感じの違つたものに見せることは、恐ろしかつた。芙蓉はあくまでも沈默してゐた。あくまでも靜止してゐた。だらしのない姿を曝しながら、叱りつけられた小娘のやうに、いぢらしい程おとなしかつた。

 柾木は彼女の手を取つて、膝の上で弄びながら、じつとその顏に見入つた。硬直の來ぬ前であつたから、手は水母のやうにくにやくにやしてゐて、その癖非常な重さだつた。皮膚はまだ日向水ぐらいの溫度を保つてゐた。

[やぶちゃん注:「日向水」老婆心乍ら、「ひなたみづ(みず)」と読む。]

『文子さん、あなたはたうとう僕のものになりましたね。あなたの魂が、いくらあの世で意地惡を云つたり、嘲笑つたりしても、僕は何ともありませんよ。なぜつて、僕は現にかうしてあなたの身體そのものを自由にしてゐるんですからね。そして、あなたの魂の方の聲や表情は、聞えもしなければ、見えもしないのですからね』

 柾木が話しかけても、死骸は生人形みたいに默り返つてゐた。空ろな目が、霞のかかつたやうに白つぼくて、白眼の隅の方に、目立たぬ程、灰色のポツポツが見えてゐた。それの恐ろしい意味を、柾木はまだ氣づかなかつたけれど、顎がひどく落ちて、口があくびをしたやうに見えるのが、少し氣の毒だつたので、彼は手で、それをグツと押し上げてやつた。押し上げても、押し上げても、元に戾るものだから、口を塞いでしまふのに、長い間かかつた。でも、塞いだ口は、一層生前に近くなつて、厚ぼつたい花瓣の重なり合つたやうな恰好が、いとしく、好ましかつた。可愛らしい小鼻がいきんだやうに開いて、その内が美しく透き通つて見えるのも、云ひ難き魅力であつた。

[やぶちゃん注:「空ろな目が霞のかかつたやうに白つぼくて、白眼の隅の方に、目立たぬ程、灰色のポツポツが見えてゐた」開眼しているために、乾燥によって既に角膜の混濁が進行し始めているようである。寧ろ、後者は眼球結膜の溢血点の描写(法医学書に出る、結膜に散在する蚤に刺されたような痕)と思われ、これは腐敗への暗示というよりも、絞死・扼死の殆ど全例に見られる現象である。

「いきんだ」「息んだ」で、「息む」は息をつめて腹に力を入れる、息張るの意。]

『僕たちはこの廣い世の中で、たつた二人ぼつちなんですよ、誰も相手にしてくれない、のけ者なんですよ。僕は人に顏を見られるのも恐ろしい、人殺しの大罪人だし、あなたは、さう、あなたは死びとですからね。私達はこの土藏の厚い壁の中に、人目をさけて、ひそひそと話をしたり、顏を眺め合つてゐるばかりですよ。淋しいですか。あなたはあんな華やかな生活をしてゐた人だから、これでは、あんまり淋し過ぎるかも知れませんね』

[やぶちゃん注:頭の「この廣い世の中」は底本では「この」が「のこ」となっている。誤植と断じて特異的に訂した。]

 彼はそんな風に、死骸と話し續けながら、ふと古い古い記憶を呼び起してゐた。田舍風の、古めかしく陰氣な八疊の茶の間の片隅に、内氣な弱々しい子供が、積木のおもちやで、彼のまはりに切れ目のない垣を作り、その中にチンと坐つて、女の子のやうに人形を抱いて、淚ぐんで、そのお人形と話をしたり、頰ずりをしたりしてゐる光景である。云ふまでもなく、それは 柾木愛造の六七歲の頃の姿であつたが、その折の内氣な靑白い少年が、大きくなつて、積木の垣の代りに、土藏の中にとぢ籠り、お人形の代りに芙蓉のむくろと話してゐるのだ。何といふ不思議な相似であらう。柾木はそれを思ふと、急に目の前の死骸がゾツと總毛立つ程戀しくなつて、それが遠い昔のお人形ででもあるやうに、芙蓉の上半身を抱き上げて、その冷たい頰に彼の頰を押つけるのであつたが、さうしてじつとしてゐると、まぶたが熱くなつて、目の前がふくれ上がつて、ポタポタと淚が流れ落ち、それが熱い頰と冷い頰の合せ目を、顎の方へツーツーと辷つて行くのが感じられた。

 

 

 その翌朝、北側の小さな窓の鐵格子の向うから、晩秋のうららかな靑空が覗き込んだ時、柾木愛造は、靑黑く汚れた顏に、黄色くしぼんだ目をして、部屋の片隅の菩薩の立像の足元にくづをれてゐたし、芙蓉の水々しいむくろは、       、悲しくも既に强直して疊の上に橫たはつてゐた。だが、それは、ある種の禁制の生人形のやうで、決して醜くなかつたばかりか、寧ろ異樣になまめかしくさへ感じられた。

[やぶちゃん注:七字分の空𨻶はママ。伏字と思われるが、角川文庫版ではそのままここが詰まって、読点が除去され、『芙蓉の水々しいむくろは、悲しくも既に強直して畳の上に橫たわっていた』とあるだけである。戦後まで生きた江戶川乱步(明治二七(一八九四)年~昭和四〇(一九六五)年)は何故、自作旧作の復元をせずに、やらぬ方が多い改稿をしたのか、私にはやや不審がある。この幻しの七字の方が魅力である。]

 柾木はその時、疲れ切つた腦髓を、むごたらしく使役して、奇妙な考へに耽つてゐた。最初の豫定では、たつた一度、芙蓉を完全に占有すれば、それで彼の殺人の目的は達するのだから、昨夜の内に、こつそりと、死骸を庭の古井戶の底へ隱してしまふ考へであつた。それで十分滿足する筈であつた。ところが、これは彼の非常な考へ違ひだつたことが分つて來た。

 彼は、魂のない戀人のむくろに、かうまで彼を惹きつける力が潛んでゐやうとは、想像もしてゐなかつた。死骸であるが故に、却つて、生前の彼女にはなかつたところの、一種異樣の人外境の魅力があつた。むせ返るやうな香氣の中を、底知れぬ泥沼へ、果てしも知らず沈んで行く氣持だつた。惡夢の戀であつた。地獄の戀であつた。それ故に、この世のそれの幾層倍、强烈で、甘美で、物狂はしき戀であつた。

 彼は最早や芙蓉のなきがらと別れるに忍びなかつた。彼女なしに生きて行くことは考へられなかつた。この土藏の厚い壁の中の、別世界で彼女のむくろと二人ぼつちで、いつまでもいつまでも、不可思議な戀にひたつてゐたかつた。さうする外には何の思案も浮ばなかつた。「永久に……」と彼は何心なく考へた。だが、「永久」といふ言葉に含まれた、ある身の毛もよだつ意味に思ひ當つた時、彼は餘りの怖さに、ピヨコンと立上つて、いきなり部屋の中を、忙し相に步き始めた。一刻も猶豫のならぬことだつた。だが、どんなに急いでも慌てても、彼には(恐らく神樣にだつて)どうすることも出來ないのだ。

『蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、ゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝ」

 彼の白い腦髓の襞を、無數の群蟲が、ウジヤウジヤと這ひ廻つた。あらゆるものを啖ひつくす、それらの微生物の、ムチムチといふ咀嚼の音が、耳鳴りのやうに響き渡つた。

 彼は長い躊躇のあとで、怖は怖は、朝の白い光線に曝された、戀人の上にかがみ込んで、彼女のからだを注視した。一見した所、死後强直がさき程よりも全身に行き渡つて、作り物の感じを增した外、さしたる變化もないやうであつたが、仔細に見ると、もう目がやられてゐた。白眼の表面は灰色の斑點で殆ど覆ひ盡され、黑目もそこひのやうに溷濁して、虹彩がモヤモヤとぼやけて見えた。そして目全體の感じが、ガラス玉みたいに、滑つこくて、固くて、しかもひからびたやうに潤ひがなくなつてゐた。そつと手を取つて眺めると、拇指の先が、片輪みたいに掌の方へ曲り込んだまま動かなかつた。

[やぶちゃん注:「死後硬直」一般には「下行型硬直」と言って、摂氏二〇度前後では、死後約二~三時間後から顎関節から始まって、大関節・末梢関節へと進み、その後、八~十二時間で完成し、二十四~三十時間までは持続する。緩解時期は夏は死後二日,冬は四日位とされている(以上は二〇一五年度版青木康博氏(名古屋市立大学大学院医学研究科法医学分野)のサイト「法病理学講義ノート」内の「死体現象(死後変化 Postmortem changes)」の「死体硬直 (rigor mortis,死後硬直 postmortem stiffening of the body)」に拠る)。

「もう目がやられてゐた」前注の「死体現象(死後変化 Postmortem changes)」の「乾燥と角膜の混濁(cloudiness of the cornea)」の項に、『死体の体表から水分が蒸発するため』、『特に角膜・陰嚢・口唇等で顕著に現れる。 死後一見爪や毛髪が伸びたように見えることがあるというが』、『これは皮膚の乾燥によるとされる。角膜の混濁も主として乾燥によるもので』、『特に開眼していると速く進む。夏季ならば』一日で『瞳孔の透見が不能になる』とある。芙蓉は開眼したままであった(但し、季節は晩秋であるから、やや早い感じはするが、これは寧ろ、前注した絞殺に関わる溢血点とその拡大などの関連もあるように思われる)。

「そこひ」「底翳」「内障」などと漢字表記する。角膜・前房(角膜と虹彩の最内層の内皮細胞との間の液体に満ちた部分)・虹彩に異常がないのに、視力障害(曇り)が生ずる眼病の俗称。黒内障・白内障・緑内障などを指し、悪化すると失明する。

「溷濁」「こんだく」。「混濁」に同じい。]

 彼は胸から背中の方へ目を移して行つた。無理な寢かたをしてゐたので、肩の肉が皺になつてそこの部分の毛穴が、異樣に大きく開いてゐたが、それを直してやる爲に、一寸身體を持ち上げた拍子に、背中の疊に接してゐた部分が、ヒヨイと彼の目に映つた。それを見ると、彼はギヨクンとして思はず手を離した。そこには、かの「死體の紋章」と云はれてゐる、靑みがかつた鉛色の小斑點が、已に現はれてゐたのだつた。

[やぶちゃん注:所謂、死斑である。同じく前注の「死体現象(死後変化 Postmortem changes)」の「死斑(livor mortis, livdity, postmortem hypostasis)」に(コンマを読点に代えた)、『基本的に部位を問わず死体がおかれた姿勢における下面(dependent areas)に生ずる。 ただし硬い面に接触している場合、あるいはきつい衣服を着用している場合などには、血管が圧迫され血液が入りこめないので、当該部位には死斑は発現しない』。『ヘモグロビンの色調を反映するので,死因の推定に有用な場合がある』とあり、暗紫赤色(reddish purple)を『もっとも一般的』とする(乱歩の描写の色は一般的とは言えない)。『一般的には死後』二時間で『観察できるようになり』、八~十二時間で『完成(fixed, maximum coloreation)する。 この後』、『溶血が生じ』、『ヘモグロビンは毛細血管の外へ逸脱しはじめる』。『ヘモグロビンが毛細血管内にとどまっているうちは、体位を変換すれば新たなdependent areaに移動しうる(死斑の移動)。ただし凝血が生じたり、乾燥等による血清成分の減少によっても移動は阻害されるため、実際にはおよそ』四~五時間以内で『あれば完全に移動するが, それ以後では』二つの『dependent areas に発現する(両側性死斑)』。『早期の死斑は一種の充血状態であるので、発現部位を指等で圧すると消退するが,時間の経過とともに血液の濃縮が起こったり、さらにヘモグロビンが血管外に漏出したりするため』、『消退しにくくなる』。死後二十四~三十六時間を『経過すると指圧によっては完全には褪色しなくなる』とある。]

 これらの現象は、すべて正體の曖昧な極微有機物の作用であつて、死後强直といふえたいの知れぬ現象すらも、腐敗の前兆をなす所の、一種の糜爛であつた。柾木は嘗つて、何かの書物で、この極微有機物には、空氣にて棲息するもの、空氣なくとも棲息するもの及び兩棲的なるものの三群があることを讀んだ。それが一體何物であるか、何處からやつて來るかは、非常に曖昧であつたけれど、兎に角、目に見えぬ黴菌の如きものが、恐ろしい速度で、秒一秒と死體を蝕みつつあることは確かだつた。ああこの解體をどう支へたらいいのだ。戀人の消えて行く肉體を、どうして取りとめたらいいのだ。

[やぶちゃん注:同じく前注の「死体現象(死後変化 Postmortem changes)」の「自家融解(autolysis)および腐敗(putrefaction)」によれば(コンマを読点に代えた)、「自家融解」とは柾木の謂いとは異なり、『バクテリア等の関与しない臓器の化学的融解、細胞の崩壊の過程であり』、『比較的早期から進行する。 臓器間に速度差があり,典型的には』膵臓で『進行が速い』。それに対して、柾木の言うのは「腐敗」であって、『バクテリアによる組織の破壊の過程をいう。進行の速度は気温等の外的条件と身体状況に左右され』、『腐敗の進行速度は大気中を』「一」した場合、水中では二分の一、 土中では八分の一に減少するという。経過・形状としては、一~二日後の早期に下腹部に発現する『腐敗性変色(discoloration)』の他、『hemoglobinの血管外への浸出により、血管に沿う形で網状の変色がみられる(死後数日)』とある『腐敗網(marbling)』、『腐敗ガスの発生による全身的、局所的膨満。巨人様観を呈し、赤鬼、青鬼現象などと呼ばれる』ところの『膨満(swelling)・腐敗疱(vesicle formation)』など、さらに記載はあるが、本作の場合はここまでよかろう。

「糜爛」「びらん」と読む。爛(ただ)れ崩れること。

「空氣にて棲息するもの、空氣なくとも棲息するもの及び兩棲的なるもの」好気性細菌類(類似する性質を持つ同様の生物を含む。以下同じ)・嫌気性細菌類と、通性嫌気性生物(酸素中で好気的呼吸でエネルギーを生成するが、酸素がない場合は発酵によりそれを得られるよう、代謝を切り替えることの出来る生物)及び嫌気性生物であっても生存自体には影響がない耐酸素性細菌類を指す。

「ああこの解體をどう支へたらいいのだ。戀人の消えて行く肉體を、どうして取りとめたらいいのだ。」この最後の二文は角川文庫版ではカットされ、代わりに、『相手が眼に見えぬえたいの知れぬ虫だけに、どんな猛獣よりも一層恐ろしかつた。』と書き換えられてある。しかしこれは直前の「目に見えぬ黴菌の如きものが、恐ろしい速度で、秒一秒と死體を蝕みつつあることは確かだつた」と類似した重複表現で改悪も甚だしいと私は思う。元の方が遙かによい。「解體」が利いている。]

 柾木は、焰の見えぬ燒け焦げが、みるみる圓周を擴げて行くのを、どうすることも出來ない時のやうな、恐怖と焦燥とを覺えた。立つても坐つてもゐられない氣持だつた。と云つて、どうすればよいのか、少しも考へが纏まらなかつた。

 彼は何の當てもなく、せかせかと梯子段を降りて母屋の方へ行つた。婆やが妙な顏をして、『ご飯にゐたしましせうか』と尋ねたが、彼は『いや』と云つただけで、又藏の前まで歸つて來た。そして外側から、錠前をおろすと、玄關へ走つて行つて、そこにあつた下駄を突つかけ、車庫を開いて、自動車を動かす支度を始めた。エンヂンが溫まると、彼はそのまま運轉臺に飛び乘つて、車を門の外へ出し、吾妻橋の方角へ走らせた。賑かな通りへ出ると、その邊に遊んでゐた子供達が、運轉手の彼を指さして笑つてゐるのに氣づいた。彼はギヨツとして靑くなつたが、次の瞬間、彼が和服の寢間着姿のままで車を運轉してゐたことが分つた。ナアンダと安心したけれど、そんな際にも、彼は顏を眞赤にして、まごつきながら、車の方向を變へ始めた。

 大急ぎで洋服に着更へて、再び門を出た時も、彼はどこへ行かうとしてゐるのだか、まるで見當がついてゐなかつた。その癖、彼の頭は腦味噌がグルグル廻る程忙しく働いてゐた。眞空、ガラス箱、氷、製氷會社、鹽づけ、防腐劑、クレオソート、石炭酸………死體防腐に關するあらゆる物品が、意識の表面に浮かび上つては沈んで行つた。彼は町から町へ、無意味に車を走らせた。そして、非常な速度を出してゐる癖に、同じ場所を幾度も幾度も通つたりした。ある町に氷と書いた旗の出てゐる家があつたので、彼はそこで車を降りて、ツカツカと家の中へ入つて行つた。店の間に靑ペンキを塗つた大きな氷室が出來てゐた。『もし、もし』と聲をかけると、奧から四十ばかりのお神さんが出て來て、彼の顏をジロジロと眺めた。『氷をくれませんか』と云ふと、お神さんは面倒臭さうな風で『いか程』と訊いた。無論彼女は病人用の氷の積りでゐるのだ。

[やぶちゃん注:「クレオソート」コールタールを蒸留して得られるクレオソート油(Creosote oil)のことであろう。液体で石炭クレオソート或いは工業用クレオソートとも称し、一般には木材の防腐剤として利用される。

「石炭酸」コールタールの分留或いはベンゼンを原料とする化学合成によって得られるフェノール(phenol)の別名。防腐剤・消毒殺菌剤とする。

「氷室」「ひむろ」と訓じておく。]

『アノ、頭を冷すんですから、澤山は要りません。少しばかり分けて下さい』

 内氣の蟲が、彼の言葉を、途中で橫取りして、まるで違つたものに飜譯してしまつた。

 繩でからげて貰つた小さな氷を持つて、車に乘ると、彼は又當てもなく運轉を續けた。運轉臺の床で氷がとけて、彼の靴の底をベトベトにぬらした時分、彼は一軒の大きな酒屋の前を通りかかつて、そこの店に三尺四方位の上げ蓋の箱に、鹽が一杯に盛り上がつてゐるのを發見すると、又車を降りて、店先に立つた。だが、不思議なことに、彼はそこで鹽を買ふ代りに、コツプに一杯酒をついで貰つて、車を止めたのはそれが目的ででもあつたかのやうに、グイグイとあほつた。

[やぶちゃん注:昭和八(一九三三)年の「自動車取締令」(内務省令第二十三号)までは、飲酒運転の罰則規定はなかったようである。酩酊しなければよかったらしい。

「三尺」九〇・九センチメートル。実はここの部分は底本では「三四尺方位」となっている。誤植と断じて特異的に訂した。角川文庫版でも『三尺四方位』となっているからでもある。]

 何の爲に車を走らせてゐるのか、分らなくなつてしまつた。ただ、何かにウオーウオーと追駈けられる氣持で、せかせかと町から町を走り廻つた。呑みつけぬ酒の爲に、顏がかつかとほてつて、肌寒い氣候なのに、額にはビツシヨリ汗の玉が發疹した。そんなでゐて、併し、頭の中の、彼の屋敷の方角に當たる片隅には、絕えず芙蓉の死體が鮮かに橫はつてゐた。そして、その幻影のクツキリと白い裸體が、燒け焦げが擴がるやうに、刻々蝕まれて行くのが、見えてゐた。『かうしてはゐられない。かうしてはゐられない』彼の耳元でブツブツブツブツそんな呟きが聞えた。

 無意味な運轉を二時間餘り續けた頃、ガソリンが切れて、車が動かなくなつた。しかもそれが丁度ガソリン販賣所のないやうな町だつたので、車を降りて、その店を探し廻り、バケツで油を運搬するのに、悲慘な程間の拔けた無駄骨折りをしなければならなかつた。そして、やつと車が動くやうになつた時、彼は始めて氣附いたやうに『ハテ、俺は何をしてゐたのだつけ』と暫く考へてゐたが『アアさうだ。俺は朝飯をたべてゐないのだ。婆やが待つてゐるだらう。早く歸らなければ』と氣がついた。彼は側に立止まつて彼の方を見てゐた小僧さんに道を訊いて、家の方角へと車を走らせた。三十分もかかつて、やつと吾妻橋へ出たが、その時又、彼自身のやつてゐることに不審を抱いた。御飯のことなどとつくに忘れてゐたので、車を徐行させて、ボンヤリ考へ込まなければならなかつた。だが、今度は意外にも、天啓のやうに、すばらしい考へがひらめいた。『チエツ、俺はさつきから、なぜそこへ氣がつかなかつたらう』彼は腹立たしげに呟いて、併し晴々した表情になつて、車の方向を變へた。行先は本鄕の大學病院わきの、ある醫療器械店であつた。

[やぶちゃん字注:「すばらしい考へがひらめいた。」底本は「すばらしい考へがひらめた」(句点なし)。誤植と断じて特異的に訂し、句点を補った。角川文庫版も私が訂した通りとなっている。]

 白く塗つた鐵製の棚だとか、チカチカ光る銀色の器械だとか、皮を剝いだ赤や靑の毒々し人體模型だとか、薄氣味惡い品物で埋まつてゐる廣い店の前で、彼は暫く躊躇してゐたが、やがて影法師みたいにフラフラとそこへ入つて行くと、一人の若い店員を捉へて、何の前置きもなく、いきなりこんなことを云つた。

『ポンプをください。ホラ、死體防腐用の、動脈へ防腐液を注射する、あの注射ポンプだよ。あれを一つ賣つて下さい』

 彼は相當ハツキリを口を利いたつもりなのに、店員は『ヘエ』と云つて、不思議相に彼の顔をジロジロ眺めた。彼は今度は、顏を眞赤にして、もう一度同じことを繰返した。

『存じませんね、そんなポンプ』

 店員はボロ運轉手みたいな彼の風體を見下しながら、ぶつきら棒に答へた。

『ない筈はないよ、ちやんと大學で使つてゐる道具なんだからね。誰か外の人に訊いて見て下さい』

 彼は店員の顏をグツと睨みつけた。果し合ひをしても構はないといつた氣持だつた。店員はしぶしぶ奧へ入つて行つたが、暫くすると少し年とつた男が出て來て、もう一度彼の注文を聞くと、變な顏をして、

『一體なんにお使ひなさいますんで』

 と尋ね返した。

『無論、死骸の動脈へフオルマリンを注射するんです。あるんでせう。隱したつて駄目ですよ』

[やぶちゃん注:「フオルマリン」ホルマリン(formalin)のこと。触媒を介してメタノールを空気酸化して得られるホルムアルデヒドの水溶液。生物の組織標本作製のための固定や防腐処理に現在も広く用いられる。强い殺菌力を持つが、有毒物質である。]

『御常談でせう』と番頭は泣き笑ひみたいな笑ひ方をして『そりやね、その注射器はあるにはありますがね。大學でも時たましか註文のないやうな品ですからね。あいにく手前共には持合せがないのですよ』と一句一句、丁寧に言葉を切つて、子供に物を云ふやうな調子で答へた。そして、氣の毒相に柾木の取亂した服裝を眺めるのだつた。

『ぢや、代用品を下さい。大型の注射器ならあるでせう。一ばん大きい奴を下さい』

 柾木は自分の言葉が自分の耳へ入らなかつた。ただ轟々と喉の所が鳴つてゐるやうな感じだつた。

『それならありますがね。でも、變だな、いいですか』

[やぶちゃん注:角川文庫版は最後が『いいんですか』。]

 番頭は頭を搔きながら、躊躇してゐた。

『いいんです。いいからそれを下さい。サア、いくらです』

 柾木は震える手で蟇口を開いた。番頭は仕方なく、その品物を若い店員に持つて來させて、『ぢやあまあお持ちなさい』と云つて柾木に渡した。

 柾木は金を拂つて、その店を飛び出すと、それから、今度は近くの藥屋へ車をつけて、防腐液をしこたま買い求め、惶しく家路についたのであつた。

[やぶちゃん注:因みに、葬儀社の記載を見ると、ポンプを使って遺体の血液を防腐液に入れ替えるエンバーミングがあり、事実、これを行うと半永久的に遺体を保存できるとある(但し、日本遺体衛生保全協会(IFSA)の規定によって五十日以上の遺体保存は禁止されているともある)。

「惶しく」「あわただしく」と読む。「慌ただしく」に同じい。]

 

 

 ギヤツと叫んで逃げ出す程、ひどくなつてゐるのではないかと、柾木は息も止まる氣持で、階段を上つたが、案外にも、芙蓉の姿は、却つて、朝見た時よりも美しくさへ感じられた。觸つてみれば强直狀態であることが分つたけれど、見た所では、少しむくんだ靑白い肉體が艷々しくて、海底に住んでゐるある血の冷い美しい動物みたいな感じがした。朝までは、眉が奇怪にしかめられ、顏全體が苦悶の表情を示してゐたのに、その表情は(二十一字削除)今彼女は、聖母のやうにきよらかな表情となつて、彼がふさいでやつた脣の隅が、少しほころび、白い齒でニツコリと笑つてゐた。目が空ろだつたし、顏色が蠟のやうに透き通つてゐたので、それは大理石に刻んだ微笑せるそこひ(盲目の奇しき魅力!)の聖母像であつた。

[やぶちゃん注:「(二十一字削除)」は角川文庫本でも復元されていない。原稿はないのだろうか? なお、同文庫版では「(盲目の奇しき魅力!)」もカットされている。]

 柾木はすつかり安心した。さつきまでの焦躁が馬鹿々々しく思はれて來た。若し芙蓉のこの刹那の姿を、永遠に保つことが出來たら、そして、                             してゐられたら、叶はぬことと知りながら、彼は果敢ない願ひを捨て兼ねた。

[やぶちゃん注:二十九字分の空𨻶はママ。角川文庫版でも全く復元されていない。それどころか、この段落全体を示すと(恣意的に正字化し、歴史的仮名遣に変えてある)、

   *

 柾木はすつかり安心した。さつきまでの焦躁が馬鹿々々しく思はれて來た。「若し芙蓉のこの刹那の姿を、永遠に保つことが出來たら」叶はぬことと知りながら、彼は果敢ない願ひを捨て兼ねた。

と小手先の操作をして、却ってリズムがおかしくなっている(ように私は感ずる)。]

 彼は醫學上の知識も技術も、まるで持合はせなかつたけれど、物の本で、動脈から防腐劑を注射して、全身の惡血を壓し出してしまふやり方が、最も新しい手輕な死體防腐法であることを讀んでゐた。防腐液のうすめ方も記憶してゐた。そこで、甚だ不安だつたけれど、兎も角、それをやつて見る事にして、階下から水を入れたバケツや洗面器などを運んで(婆やに氣附かれぬ爲に、どれ程みじめな心遣ひをしたことであらう)フオルマリンの溶液を作り、注射の用意をととのへた。

[やぶちゃん注:角川文庫版ではこの後に次の一段が挿入されてある(今まで通り、恣意的に正字化し、一部ひらがなを漢字表記に変え、歴史的仮名遣に変更してある。太字はやぶちゃん)。

   *

 それから、芙蓉の身體の下へ大きな油紙を敷いて、醫學書を見ながら、カミソリで彼女の股間を深く抉つて、大動脈を切斷した、血の海の中で、まつ赤なウナギのやうな動脈は、ヌルヌル辷つて、中々うまく摑めなかつた。

   *

この挿入はなかなか上手い。上手いが、如何にも乱步のえげつなさが剝き出しではある。]

 柾木は、まるで彼自身が手術でも受けてゐるやうに、まつ靑になつて、烈しい息づかひをしながら、實に長い時間を費して、書物の敎へる通り、屍體の動脈に處置をして、針をつけないガラスの注射器に、防腐液を含ませ、その先端のとがつた部分を動脈の切口にさし込み、繼目の所を息が洩れぬやうに指で壓へ、一方の手で、ポンプを押した。だが、こんな作業が彼のやうな素人に出來るものではなかつた。彼の指がしびれたやうになつて、云ふことを聞かなかつたせゐもあるけれど、いくら壓しても、ポンプの中の溶液は減つて行かぬのだ。いらいらして、力まかせにグイグイ壓すと、                      、       逆に彼の腕にはねかかる。何度やつても同じ事だ。そこで彼は、まるで器械いじりをする小學生のやうに、汗みどろの眞劍さで、或は血管との繼目を糸でしばつて見たり、或はもう一本の靜脈に同じことをやつてみたり、あらゆる手段を試みたが、丁度器械いぢりの小學生が、骨を折れば折るだけ、却つて器械を滅茶々々にしてしまふやうに、     大きくするばかりであつた。結局、彼が無駄な素人手術を思ひあきらめたのは、もう夜の十時頃であつたが(何と驚くべき努力であつたらう。彼は午後から、殆ど十時間の間、この一事に夢中になつてゐたのだ)、その頃には、用意の洗面器が、(以下二行削除)

              、    掃除したり、バケツの水で手を洗つたりしてゐる内に、失望の𨻶につけ込んで、睡魔が襲ひ始めた。昨夜一睡もしてゐないのだし、二日間ぶつ續けに、頭や身體を極度に酷使したので、如何に興奮してゐたとは云へ、もう氣力が盡きたのである。彼は、バケツや洗面器の赤黑く淀んだ汚水を仕末することも忘れて、クラクラとそこへぶつ倒れたまま、いきなり鼾をかき始めた。泥のやうな眠りだつた。

[やぶちゃん注:前の方の二十九字分(途中に打たれた読点を加えるなら三十字)及び、真ん中の五字分の空𨻶、及び後ろの「(以下二行削除)」とある不思議な削除(二行空けてはいない。途中にポツンと打たれた読点は「掃除」から遡った位置に打った。この読点を含めると、全部で五十五字分が削除されていることになる)の空𨻶はママ。角川文庫版ではここはかなり違う(今まで通り、恣意的に正字化し、一部ひらがなを漢字表記に変え、歴史的仮名遣に変更してある。太字と下線はやぶちゃん)。

   *

 柾木は、まるで彼自身が手術でも受けてゐるやうに、まつ靑になつて、烈しい息づかひをしながら、針をつけないガラスの注射器に、防腐液を含ませ、その先端のとがつた部分を動脈の切口にさし込み、繼ぎ目のところを息が洩れぬやうに指で壓へ、一方の手で、ポンプを押した。だが、こんな作業が彼のやうな素人に出來るものではなかつた。彼の指がしびれたやうになつて、云ふことを聞かなかつたせゐもあるけれど、いくら壓しても、ポンプの中の溶液は減つて行かぬのだ。いらいらして、力まかせにグイグイ壓すと、溶液が逆流して、まつ赤な液體がそこら一面に溢れるばかり、何度やつても同じ事だ。そこで彼は、まるで器械いじりをする小學生のやうに、汗みどろの眞劍さで、或は血管との繼ぎ目を糸でしばつて見たり、或はそこにある太い靜脈をも切斷して、同じことをやつて見たり、あらゆる手段を試みたが、丁度器械いぢりの小學生が、骨を折れば折るだけ、却つて器械を滅茶苦茶にしてしまふやうに、ただ傷口を大きくするばかりであつた。結局、彼が無駄な素人手術を思ひあきらめたのは、もう夜の十時頃であつた。何と驚くべき努力であつたらう。彼は午後から、殆ど十時間の間、この一事に夢中になつてゐたのである。

 血潮や道具のあと始末をしたり、バケツの水で手を洗つたりしてゐる内に、失望の𨻶につけ込んで、睡魔が襲ひ始めた。[やぶちゃん注:以下、同じ。]

    *

で下線部分底本との大きな相異箇所であるが、削除を完全に復元したものとは到底思われない(特に「二行削除」という部分)。なお、実際、医事従事者でも人体遺体へのホルマリン注入は難しい。それを私によく判らせてくれたのは、私の愛する故阿波根宏夫氏の小說「淚」(リンク先は同作エンディング)であった。そういえば……慶応大学医学部に献体している私も……そう……されるのである……]

 殆ど燃え盡きて、ジイジイと音を立ててゐる蠟燭の光が、死人のやうに靑ざめた顏の、鼻の頭にあぶら汗を浮かべ、大きな口をあいて泥睡してゐる柾木の氣の毒な姿と、その橫に、眞白に浮上がつて見える、芙蓉のむくろのなまめいた姿との、奇怪な對照を、赤々と照らし出してゐた。

[やぶちゃん注:ここの最後で殺害から二十六時間以上が経過している。

「奇怪な對照を」角川文庫版は『奇怪な對照の地獄繪を』。改悪の極みである。]

 

 

 翌日柾木が目を覺ましたのは、もうお晝過ぎであつた。睡りながらも、彼の心は『かうしてはゐられない。かうしてはゐられない』といふ氣持で、一晩中、鬪爭し苦悶し續けてゐたのだが、さて目が覺めると、却つてボンヤリしてしまつて、昨夜までのことが、凡て惡夢に過ぎなかつたやうにも思へ、現に彼の目の前に橫はつてゐる芙蓉の死骸を見ても、部屋中にみなぎつてゐる藥品の匂や、甘酸つぱい死臭にむせ返つても、それも夢の續きで、まだ本當に起きてゐるのでないやうな感じがしてゐた。

 だが、いつまで待つても、夢は醒めさうにもない。假令これが夢の中の出來事としても、彼はもうじつとしてゐる譯には行かなかつた。そこで、彼はその方へ這つて行つて、ややはつきりした目で、戀人の死體を調べたが、そこに起こつたある變化に氣附くと、ギヨツとして、俄かに、意識が鮮明になつた。

 芙蓉は寢返りでも打つたやうに、一晩の中に姿勢がガラリと變つてゐた。昨夜までは、死骸とは云へ、どこかに反撥力が殘つてゐて、無生物といふ氣持がしなかつたのに、今見ると彼女は全くグツタリと、身も心も投げ出した形で、やつと固形を保つた、重い液體の一塊りのやうに橫たはつてゐた。觸つてみると、肉が豆腐みたいに柔くて、既に死後强直が解けてゐることが分つた。だが、そんなことよりも、もつと彼を擊つたのは、芙蓉の全身に現はれた、おびただしい屍斑であつた。不規則な圓形を爲した、鉛色の紋々が、まるで奇怪な模樣みたいに、彼女の身體中を覆つてゐた。

[やぶちゃん注:これは殺害から三日目の「晝過ぎ」で、この時点で有に死後四十一時間は経過している。注で既に示した通り、死後硬直は二十四~三十時間までは持続し、緩解時期は夏は死後二日、冬は四日程とあったから、晩秋のこの時期、法医学的にもおかしくない。但し、この時間経過で死斑が見た目の横たわった(柾木は仰向けにした状態から大きく遺体を動かした描写はない)遺体の上部を含む「全身に現はれ」ているという描写は私はおかしいように思う。]

 幾億とも知れぬ極微なる蟲共は、いつ殖えるともなく、いつ動くともなく、まるで時計の針のやうに正確に、着々と彼等の領土を侵蝕して行つた。彼等の極微に比して、その侵蝕力は、實に驚くべき速さだつた。しかも、人は彼等の暴力を目前に眺めながら、どうする事も出來ぬのだ。手をつかねて傍觀する外はないのだ。一度戀人を葬むる機會を失したばかりに、生體に幾倍する死體の魅力を知り初め、痛ましくも地獄の戀に陷つた柾木愛造は、その代償として、彼の目の前で、いとしい戀人の五體が、戰慄すべき極微物の爲に、徐々に、しかも間違ひなく、蝕まれて行く姿を、拱手して見守らなければならなかつた。戀人のために死力を盡して戰ひたいのだ。だが、彼等の恐るべき作業はまざまざと目に見えてゐながら、しかも、戰ふべき相手がないのだ。嘗つてこの世に、これほどの大苦痛が存在したであらうか。

[やぶちゃん注:「手をつかねて」何もしないで、何も出来ないで、見ているだけの状態を指す。後の「拱手して」(きようしゆして(きょうしゅして))に同じい。手を拱(こまね)いて。

「知り初め」「しりそめ」と訓じたい。]

 彼は追ひ立てられるやうな氣持で、昨日失敗した防腐法を、もう一度繰返すことを考へて見たが、考へるまでもなく駄目なことは分り切つてゐた。防腐液の注射は無論彼の力に及ばぬし、氷や鹽を用ひる方法も、そのかさばつた材料を運び入れる困難があつた外に、何となく彼と戀人とを隔離する感じがいやであつた。そして、假令どんな方法をとつて見た所で、幾分分解作用をおくらすことは出來ても、結局、それを完全に防ぎ得るものでないことが、彼にもよく分つてゐた。彼の惶だしい頭の中に、巨大な眞空のガラス瓶だとか、死體の花氷だとかの、荒唐無稽な幻影が浮かんでは消えて行つた。製氷會社の薄暗い冷藏室の中で、技師に嘲笑されてゐる彼自身の姿さへ、空想された。

 だが、あきらめる氣にはなれなんだ。それが不可能と分れば分る程、彼の焦慮はいやまして行つた。

『アア、さうだ。死骸にお化粧をしてやらう。せめて、うはべだけでも塗りつぶして、恐ろしい蟲どもの擴がつて行くのを見えないやうにしよう』

 考へあぐんだ彼は、遂にそんなことを思ひ立つた。あきらめの惡い姑息な方法には相違違なかつたけれど、彼の不思議な戀を一分でも一秒でも長く樂しむ爲には、このやうな一時のがれをでも試みる外はなかつた。

 彼は大急ぎで町に出て、胡粉と刷毛とを買つて歸り(これらの異樣な擧動を、婆やはさして怪しまなんだ。彼の不規則な生活や、奇矯な行爲には、慣れつこになつてゐたからだ。彼女はただ土藏から出て來た柾木の身邊に、病院に行つたやうな、ひどい防腐劑の匂ひの漂つてゐたのを、いささか不安に思つた)別の洗面器にそれを溶いて、人形師が生人形の仕上げでもするやうに、芙蓉の全身を塗りつぶした。そして、無氣味な屍斑が見えなくなると、今度は、普通の繪の具で、役者の顏をするやうに、目の下をピンク色にぼかしてみたり、眉を引いて見たり、脣に紅を塗つて見たり、耳たぶを染めてみたり、その他五體のあらゆる部分に、思ふままの色彩をほどこすのであつた。この仕事に彼はたつぷり半日もかかつた。最初はただ屍斑や陰氣な皮膚の色を隱すのが目的であつたが、やつてゐる内に、死體の粉飾そのものに異常な興味を覺え始めた。彼は死體といふキヤンヷスに向つて、妖艷なる裸像を描く、世にも不思議な畫家となり、樣々な愛の言葉を囁きながら、興に乘じては冷たいキヤンヷスに口づけをさへしながら、夢中になつて繪筆を運ぶのであつた。

[やぶちゃん注:「胡粉」「ごふん」と読む。白色顔料。貝殻を焼き砕いて粉末にしたもので、成分は炭酸カルシウム。古くからの白粉(おしろい)であるが、現行では専ら、まさに人形の頭や手足の顔料として使用される。

「刷毛」老婆心乍ら、「はけ」と読む。

「(これらの異樣な擧動を、婆やはさして怪しまなんだ。彼の不規則な生活や、奇矯な行爲には、慣れつこになつてゐたからだ。彼女はただ土藏から出て來た柾木の身邊に、病院に行つたやうな、ひどい防腐劑の匂ひの漂つてゐたのを、いささか不安に思つた)」の「奇矯」は底本では「寄矯」であるが、意味が通らないので例外的に訂した。なお、この丸括弧部分は角川文庫版では丸ごとカットされている。なお、細かいことを言うなら、「病院に行つたやうな、ひどい防腐剤の匂ひ」の「防腐劑」とすべきであろう。]

 やがて出來上がつた彩色された死體は、妙なことに、彼が嘗つてS劇場でみた、サロメの舞臺姿に酷似してゐた。生地の芙蓉も美しかつたけれど、全身に毒々しく化粧した芙蓉は、一層生前のその人にふさはしくて、云ひ難き魅力を備へてゐた。蝕まれて、最早や取返す術もなく思はれた芙蓉のむくろに、この樣な生氣が殘つてゐたことは、しかもそれが生前の姿にもまして惱ましき魅力を持つてゐたことは、柾木にとつて寧ろ驚異でさへあつた。

 それから三日ばかりの間、死體に大きな變化もなかつたので、柾木は、日に三度食事に降りて來る外は、全く土藏にとぢ籠つて、せつぱつまつた最後の戀に、明日なき戀人のむくろとさし向ひで、氣違ひのやうに、泣きわめき、笑ひ狂つた。彼にはそれがこの世の終りとも感じられたのである。

[やぶちゃん注:「それから」という指示語に問題性があるが、これを前述の、死後三日後(実際には、殺害が夜の七時から八時であるから、二日と考えたがよい)、というのが、文字通りの、殺人の当日からの三日+三日の六日と考える。現実の死体変相上は、実はそれほど奇異ではない。私は実際に実体験があるので、かく断言しておく。]

 その間に、一つだけ、少し變つた出來事があつた。ある午後、粉飾せる死體のそばで、疲れ切つて泥のやうに眠つてゐた柾木は、婆やが土藏の入口の所で引いてゐる、呼鈴代りの鳴子の音に目を覺ました。それは來客のときに限つて使用することになつてゐたので、彼は若しや犯罪が發覺したのではないかと、ギヨツとして、飛び起ると、芙蓉の死體に頭から蒲團をかぶせて置いて、ソツト階段を降り、入口で暫く耳をすましてゐたが、思ひ切つて厚い扉をあけた。すると、そこにはやつぱり婆やが立つてゐて『旦那樣、池内樣がお出でなさいました』と告げた。彼は池内と聞いてホツとしたが、次の瞬間、『アヽ、奴めたうとう俺を疑ひ始め、樣子をさぐりに來たんだな』と考へた。『ゐると云つたのかい』と聞くと、婆やは惡かつたのかとオドオドして『ハイ、さう申しましたが』と答へた。彼は咄嗟に心をきめて『構はないから、探して見たけれどゐないから、多分知らぬ間に外出したのだらうと云つて、返して下さい。それからね、當分誰が來ても、僕はゐないやうに云つて置くのだよ』と命じて、そのまま扉を閉めた。

 だが、時がたつに從つて、池内に會はなかつたことが、悔

まれて來た。勇氣を出して會ひさへすれば、一か八か樣子が分つて、却つて氣持が落ちついたであらうに、なまじ逃げた爲に、池内の心をはかり兼ねて、いつまでも不安が殘つた。靜かな土藏の二階で、默りこくつた死骸を前にして、じつと考へてゐると、その不安がヂリヂリとお化けのやうに大きくなり、身動きも出來ない程の恐怖に襲はれて來て、彼はその恐怖を打消す爲めだけにも、居續けの遊蕩兒のやうな燒けくそな氣持で、ギラギラと毒々しい着色死體に惹かれて行つた。

[やぶちゃん注:「ギラギラと毒々しい着色死體に惹かれて行つた。」という末尾は角川文庫版では、『ギラギラと毒々しい着色死體を物狂はしく愛撫するのであつた。』と改稿している。]

 

 

 三日ばかり小康が續いたあとには、恐ろしい破綻が待ち受けてゐた。その間、死體に別段の變化が現はれなかつたばかりでなく、不思議なお化粧の爲とは云へ、彼女の肉體が前例なき程妖艷に見えたといふのは、例へば消える前の蠟燭が、一瞬異樣に明るく照り輝くやうなものであつた。いまはしき蟲共は、表面平穩を裝ひながら、その實死體の内部に於て、幾億の極微なる吻を揃へ、ムチムチと、五臟を蝕み盡してゐるのであつた。

[やぶちゃん注:更に「三日」となれば、死後九日目に当たる。但し、殺害は既に示した通り、夜の七時から八時の間であり、実質的な日数では八日と四時間ほどに相当する。次の段では冒頭に「ある日」とあり、事実上、死後十日以上を経ていると考えてよい。]

 ある日、長い眠りから目覺めた柾木は、芙蓉の死體に非常な變化が起つてゐるのを見て、餘りの恐ろしさに、危く叫び出す所であつた。

 そこには、最早や昨日までの美しい戀人の姿はなくて、女角力の樣な白い巨人が橫はつてゐた。身體がゴム鞠のやうにふくれた爲に、お化粧の胡粉が相馬燒みたいに、無數の網目になつて、その網目の間から褐色の肌が氣味惡く覗いてゐた。顏も巨大な赤ん坊の樣にあどけなくふくれ上つて、空ろな目から、半開の脣から、(十九字削除)柾木はかつてこの死體膨脹の現象について記載されたものを讀んだことがあつた。目に見えぬ極微な有機物は群をなして腸腺を貫き、之を破壞して血管と腹膜に侵入し、そこに瓦斯を發生して、組織を液體化する醱酵素を分泌するのだが、この發生瓦斯の膨脹力は驚くべきものであつて、死體の外貌を巨人と變へるばかりでなく、橫隔膜を第三肋骨の邊まで押上げる力を持つてゐる。同時に體内深くの血液を、皮膚の表面に押し出し、かの吸血鬼の傳說を生んだ所の、死後循環の奇現象を起こすことがある。

[やぶちゃん注:「(十九字削除)」角川文庫版は実に残念なことに、『顏も巨大な赤ん坊の樣にあどけなくふくれ上つてゐた。柾木はかつてこの死體膨脹の』……と残念なものしか残ってはいない。

「第三肋骨」肋骨は上部から数える。「鎖骨」の中央の窪みである「頸窩」の下に「胸骨柄」(胸骨の一番上の部分)があり、この「頸窩」から指を下へ滑らせていくと、高まりがあって、その下に「胸骨角」という「胸骨柄」と「胸骨体」(胸骨の本体)の連結部がある。この高さに「第二肋骨」があり、その胸骨角の高まりから橫に指を滑らせると、「第二肋骨」があって、その下に「第三肋骨」がある(以上は信頼出来ると私が考えるネット情報に基づく)。胸部の普通にした際の顎の位置の、とんでもない上方である。

「死後循環」死体の腐敗の様態を示す用語。腸内細菌・常在菌・感染菌が死後の血管内血液中に侵入して増殖、その菌自身の発生するガス圧によって移動し、全身に広がり、腐敗を進行させることを指す。腐敗ガスは主に硫化水素・アンモニア・メタン・メルカプタンである(正規の法医学書の記載に拠った)。なお、「かの吸血鬼の傳說を生んだ所」とあるが、江戶川乱步は明智物の一つである「吸血鬼」で「死後循環」説による吸血鬼の生態をたんたんと説明しているらしい(ネット上の記載。私の遠い昔に読んだ記憶はあるが、思い出せず、書庫からも当該書は消失していたので、これ以上、語りようがない、悪しからず)。]

 遂に最後が來たのだ。死體が極度まで膨張すれば次に來るものは分解である。皮膚も筋肉も液體となつて、ドロドロ流れ出すのだ。柾木はおどかされた幼兒のやうに、大きなうるんだ目でキヨロキヨロとあたりを見廻し、今にも泣き出し相に、キユツと顏をしかめた。そして、そのままの表情で、長い間じつとしてゐた。

 暫くすると、彼は突然何か思出した樣子で、ビヨコンと立上ると、せかせか本棚の前へ行つて、一册の古ぼけた書物を探し出した。背皮に「木乃伊」としるされてゐた。そんなものが今更らなんの役にも立たぬ事は分り切つてゐたにも拘らず、命をかけた戀人が、刻々に蝕まれて行くいらだたしさに、物狂はしくなつてゐた彼は、熱心にその書物の頁をくつて、たうとう次のやうな一節を發見した。

[やぶちゃん注:「木乃伊」言わずもがな乍ら、「ミイラ」と読む。]

『最も高價なる木乃伊の製法左の如し。先づ左側の肋骨の下を深く切斷し、其傷口より内臟を悉く引き出だし、唯心臟と腎臟とを殘す。又、曲れる鐵の道具を鼻口より插入して、腦髓を殘りなく取出し、かくして空虛なれる頭蓋と胴體を、棕梠酒にて洗淨し、頭蓋には鼻孔より沒藥等の藥劑を注入し、腹腔には乾葡萄其他の物を塡充し、傷口を縫合す。かくして、身體を七十日間曹達水に浸したる後、之を取出し、護謨にて接合せる麻布を以て綿密に包卷するなり』

[やぶちゃん注:ウィキの「ミイラ」によれば、『古代エジプトでは、紀元前』三千五百~三千二百年には『人工的な遺体の保存が始まっていた。ミイラ作りは来世・復活信仰と密接に結びついている。エジプト神話で豊穣をあらわす神であるオシリスはセトに殺害され、のちに妻のイシスや冥界の神アヌビスの助けによってミイラとして蘇り、冥界の王となったという伝說がある。このため葬儀やミイラ製作は、オシリスの神話にもとづいて行われた』。その処方は、『内臓を摘出したあとの死体を』七十昼夜に『わたって天然炭酸ナトリウム(ナトロン)』(natron:炭酸ナトリウムの水和物と炭酸水素ナトリウム(重曹)を主成分とする天然に産出する鉱物)『に浸し、それから取り出したあと、布で幾重にも巻いて完成させる方法でミイラが作成された。包帯を巻いたミイラのイメージは、この古代エジプトのミイラ作成に由来する。理性の場であると信じられていた心臓を除いた胸部と腹部の臓器や組織は下腹部の切開によってすべて取り出され、脳の組織は鼻孔から挿入した鉤状の器具によってかき出された。取り出された他の臓器は「カノプス壺」と呼ばれる』人(ひと)形をした臓器収蔵器である『壷に入れられて保管された』とある。

「棕梠酒」「シユロしゆ(シュロしゅ)」と読む。椰子(ヤシ)酒の一種である棕櫚(シュロ)酒。単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus の樹液を発酵させて造る醸造酒。

「沒藥」「もつやく」と読む。ムクロジ目カンラン科カンラン科 Burseraceaeのコンミフォラ(ミルラノキ)属 Commiphora の樹木から分泌される赤褐色の植物性ゴム樹脂を指す。ウィキの「没薬」によれば、『スーダン、ソマリア、南アフリカ、紅海沿岸の乾燥した高地に自生』し、『起源についてはアフリカであることは確実であるとされる』。『古くから香として焚いて使用されていた記録が残され』、『また殺菌作用を持つことが知られており、鎮静薬、鎮痛薬としても使用されていた。古代エジプトにおいて日没の際に焚かれていた香であるキフィの調合には没薬が使用されていたと考えられている。 またミイラ作りに遺体の防腐処理のために使用されていた。ミイラの語源はミルラから来ているという説がある』とある。

「塡充」充填(じゅうてん)に同じい。

「曹達水」「ソーダすい」。炭酸ナトリウムのこと。

「護謨」ゴム。]

 彼は幾度も同じ部分を讀み返してゐたが、やがて、ポイとその本を放り出したかと思ふと、頭のうしろをコツコツと叩きながら、空目をして、何事か胴忘れした人のやうに『なんだつけなあ、なんだつけなあ、なんだつけなあ』と呟いた。そして、何を思つたのか、突然階段をかけ降り、非常な急用でも出來た樣子で、そそくさと玄關を出るのであつた。

[やぶちゃん注:「空目」「そらめ」で、ここでは、瞳を上に向けることを指す。「上目」に同じい。

「胴忘れ」「どうわすれ」は「度忘れ」に同じい。]

 門を出ると、彼は隅田堤を、何といふこともなく、急ぎ足で步いて行つた。大川の濁水がウジヤウジヤと重なり合つた無數の虫の流れに見えた。行く手の大地が、匍匐する備生物で覆ひ隱され、足の踏みどころもないやうに感じられた。

[やぶちゃん注:「虫」はママ。]

『どうしよう、どうしようなあ』

 彼は步きながら、幾度も幾度も、心の苦悶を聲に出した。或る時は、『助けてくれエ』と大聲に叫び相になるのを、やつと喉の所で喰ひ止めねばならなかつた。

 どこをどれ程步いたのか、彼には少しも分らなんだけれど、三十分も步き續けた頃、餘りに心の内側ばかりを見つめてゐたので、つい爪先がお留守になり、小さな石につまづいて、彼はバツタリ倒れてしまつた。痛みなどは感じもしなかつたが、その時ふと彼の心に奇妙な變化が起つた。彼は立上がる代りに、一層身を低く土の上に這ひつくばつて、誰にともなく、非常に丁寧なおじぎをした。

 變な男が、往來の眞中で、いつまでもおじぎをしてゐるものだから、たちまち人だかりになり、通りがかりの警官の眼にも留つた。それは親切な警官であつたから、彼を助け起して、住所を聞き、氣違ひとでも思つたのか、態々吾妻橋の所まで送り屆けてくれたが、警官と連れ立つて步きながら、柾木は妙なことを口走つた。

『お巡りさん、近頃殘酷な人殺しがあつたのをご存じですか。何故殘酷だといひますとね。殺された女は、天使のやうに淸らかで、何の罪もなかつたのです。と云つて、殺した男もお人好しの善人だつたのです。變ですね。それはさうと、私はその女の死骸のある所をちやんと知つてゐるのですよ。敎へて上げませうか、敎えて上げませうか』

 だが、彼がいくらそのことを繰返しても、警官は笑ふばかりで、てんで取合はうともしなかつたのである。

 

 柾木がまる二日間食事にも降りて來ないので、婆やが心配をして家主に知らせ、家主から警察に屆出で、あかずの藏の扉は、警官達の手によつて破壞された。

 薄暗い土藏の二階には、むせ返る死臭の中に二つの死骸が轉つてゐた。その一人は直ぐ主人公の柾木愛造と判明したけれど、もう一人の方が、行衞不明を傳へられた、人氣女優木下芙蓉のなれの果てであることを確め得たのは、それから又數日ののちであつた。

 

 

 

[やぶちゃん注:このエンディングの二つのパートは角川文庫版では大幅に猟奇的に書き換えられている(一段落に一体化されてある)。これは改稿の――勝ち名乗り――である。さても――最後に例によって、私が恣意的に操作を加えた形でお眼にかけよう(太字はやぶちゃん)。――

    *

 

 それから數日後、柾木がまる二日間食事にも降りて來ないので、婆やが心配をして家主に知らせ、家主から警察に屆出で、あかずの藏の扉は、警官達の手によつて破壞された。 薄暗い土藏の二階には、むせ返る屍臭と、おびただしい蛆蟲の中に、二つの死骸がころがつてゐた。その一人は直ぐ主人公の柾木愛造と判明したけれど、もう一人の方が、行衞不明を傳へられた人氣女優木下芙蓉のなれの果てであることを確めるには、長い時間を要した。何故と云つて、彼女の死體は殆ど腐爛してゐた上に、腹部が無殘に傷つけられ、腐り爛れた内臟が醜く露出してゐた程であつたから。

 柾木愛造は露出した芙蓉の腹わたの中へ、うつぶしに顏を突込んで死んでゐたが、恐ろしいことには、彼の醜くゆがんだ、斷末魔の指先が、戀人の脇腹の腐肉に、執念深く喰ひ入つてゐたのである。

 

   *]

2016/03/20

飯田蛇笏 山響集 昭和十五(一九四〇)年 春

   昭和十五年

 

〈昭和十五年・春〉

 

禱る窓かもめ瀟洒に年立ちぬ

 

年新た嶺々山々に神おはす

 

老の愛水のごとくに年新た

 

松すぎし祝祭の灯にゆき會へり

 

獸園の日最中にして羽子の音

 

遣羽子にものいふ眼(まみ)を見とりけり

 

柴垣を罩めたる雲に機はじめ

 

[やぶちゃん注:「罩めたる」「こめたる」で、前後に掛けてあるようであるが、どうも気に入らぬ。]

 

雲こめて巖濡れにけり松の内

 

   雲水宋淵大菩薩下山

 

大嶺より雲水きたる松納

 

奥嶺路に春たち連るゝ山乙女

 

港路に復活祭の馬車を驅る

 

クロス垂る市場(いちば)の婆々も聖週間

 

舷梯に耶蘇祝祭の花を提ぐ

 

膚に耀る聖土曜日の頸飾り

 

頰あかきグリルのをとめ聖周期

 

護謨樹と寶石復活祭の飾り窓

 

復活祭ふところに銀(ぎん)一と袋

 

[やぶちゃん注:ユダの報酬を皮肉に思い出したものか。]

 

   泊船祝日

 

濤に浮き昇天祭の陽は舞へり

 

思想ありけさ春寒のめを瞠(みは)る

 

れいらくの壁爐古風に聖母祭

 

聖燭の夜をまな妻が白鵞ペン

 

陶に似て窓のアルプス聖母祭

 

マリヤ祀る樹林聖地の暮雪かな

 

壁爐冷え聖母祀祭の燭幽か

 

脣(くち)赤きニグロ機嫌に聖母祭

 

ともしつぐ灯にさめがたき寢釋迦かな

 

常樂會東國(あづま)の旅に出てあへり

 

[やぶちゃん注:「常樂會」は「じやうらくゑ(じょうらくえ)」で、狭義には釈迦入滅の日とされる陰暦二月十五日に興福寺・四天王寺・金剛峰寺などで行う涅槃会(ねはん)を特に指して言うが、ここは広義の普通に二月十五日に行われている涅槃会の謂いであろう。「涅槃會」としては初五の音に合わないからというだけのことか。]

 

お涅槃に女童(めろ)の白指觸れたりし

 

眞つ赤なる涅槃日和の墓椿

 

山霞みして奥瀑のひゞきけり

 

さるほどに樝子(しどみ)咲く地の蒼みけり

 

[やぶちゃん注:「樝子」バラ目バラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ属クサボケ(草木瓜)Chaenomeles japonica 。]

 

彌生盡山坂の靄あるごとし

 

堰おつるおとかはりては雪解水

 

師を追うて春行樂の女づれ

 

弟子ひとり花園あるき師を思ふ

 

春の夢さめざめと師の泣き給ふ

 

[やぶちゃん注:「さめざめ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

春寒く蘖ながく伸びにけり

 

   天目山懐古

 

嶺々嶮(こゞ)し春やむかしの月の金(きん)

 

[やぶちゃん注:「嶮(こゞ)し」「凝(こご)し」で、岩などがごつごつしていることを形容する上代からの古語。]

 

   K社春の神事

 

巫女(かむなぎ)に冴返りたる燭の華

 

[やぶちゃん注:「K社」何故、このような匿名にしているのかが、私には不審。]

 

植林すこゝろに春の世は豐か

 

植林の暾影靑雲にしみ透る

 

[やぶちゃん注:「暾影」既注。「ひかげ」で朝日の意。]

 

植林の娘が笠に相聞歌一つ

 

植林の春を小霰降りてやむ

 

春雲光り思ひ倦むとき植林歌

 

きゞす啼き娘らの植林歌春を趁ふ

 

[やぶちゃん注:「趁ふ」「おふ」(追ふ)。]

 

植林を終ふ娘らが手をみな垂れぬ

 

植林の唐鍬をうつ谺はや

 

植林のこだまあおそびて五百重山

 

[やぶちゃん注:「五百重山」「いほへやま(いおえやま)」幾重にも積み重なっている山並みのこと。]

 

春霜の草鞋になじむ晨(あした)かな

 

雞舍(とや)灯り春の行人なつかしむ

 

祝祭の嶺々はうす色梅の牕(まど)

 

岨の梅日は蕩々と禽啼かず

 

柴垣はぬれ白梅花うすがすむ

 

谷の梅栗鼠は瀟洒に尾をあげて

 

溪聲の聾するばかり白梅花

 

谷梅にまとふ月光うすみどり

 

小晝餐(ランチ)終へ出る霽色に薔薇さけり

 

[やぶちゃん注:「霽色」「せいしよく(せいしょく)」で雨が上がりのすっかり晴れ渡った景色の意。「晴色」に同じい。]

 

やはらかに月光のさす白薔薇

 

薔薇咲き詩に倦みがたきしづごころ

 

白薔薇さきそろふ暾のうるほへり

 

冷え冷えと綠金ひかる薔薇の蟲

 

[やぶちゃん注:「冷え冷え」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

靑草の凪ぎ蒸す薔薇の花たわゝ

 

日輪にひゞきてとべる薔薇の蟲

 

草濡れて薔薇培ふほとりかな

 

福々と鬱金薔薇の大蕾

 

ぬれいろに夜晝となく緋薔薇咲く

 

うす紅に霑ふ薔薇の末葉かな

 

[やぶちゃん注:「末葉」「うらば」と読む。草木の先端の葉。万葉以来の古語。]

 

鎌新た靑若茎の薔薇をきる

飯田蛇笏 山響集 昭和十四(一九三九)年 木食僧 /昭和十四年~了

  木食僧

 

僧こもる菩薩嶺の雪また新た

 

雲水に大鷲まへる雪日和

 

   宋淵法師白皚々たる大菩薩嶺を下り來る

 

雲水の跫音もなく土凍てぬ

 

[やぶちゃん注:「宋淵法師」臨済僧中川宋淵(なかがわそうえん 明治四〇(一九〇七)年~昭和五九(一九八四)年)。東大大学院在籍中の昭和六(一九三一)年に山梨県塩山にある向嶽寺の勝部敬学老師に就いて得度、昭和八年三月より木食生活に入る。この頃、蛇笏を訪ねてその門下となっている。後に三島の龍澤寺に入った。海外での禅普及にも努めた。五十鈴氏のサイト「小さなうつわのメッセージ」のに詳しい。

「白皚々」「はくがいがい」と読む。如何にも明るく白いさま。あくまで白いさま。]

 

暮雪ふむ僧長杖をさきだてぬ

 

嚴冬の僧餉をとりて齒をみせず

 

木食す僧嚴冬をたのしめり

 

雲水の寒風呂いたくたしなみぬ

 

僧の前籠に淸淨と冬蔬菜

 

   相携へて故紫明の忌へ參ぜんと

 

忌へ連れて雲水飄と寒日和

 

[やぶちゃん注:「紫明」不詳。この号を持つ俳人は複数いる。]

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第三章 人の飼養する動植物の變異(4) 三 他の動物の變種

     三 他の動物の變種

 

 尚その他どの家畜を見ても全く變種のないものは殆ど一つもない。馬なども西洋では種々の形のものがあり、競馬用のものは丈が高く足が細くして、如何にも身輕に見え、荷車を挽かせる馬は身體が極めて大きくて足も非常に太く、その蹄に附ける鐵靴は我が國普通の馬の二倍以上もある。初めてヨーロッパに行つた人は先づ市中を通行する荷馬の大なるを見て一驚を喫する位である。馬車を挽かせるための馬、人の乘るための馬なども各々その用途に應じて形が違ふが、中にも、シエットランドポニーといつて富家の子供などの乘る小馬は、高さ僅に三尺に足らず、殆ど犬より少し大きなだけである。

[やぶちゃん注:「鐡靴」蹄鉄。

「シェトランドポニー」(Shetland Pony)はイギリス北方にあるシェトランド諸島を原産とする小型種で、最小のウマの一つとされる。肩高は平均して九〇~一一〇センチメートル程であるが、一般には一四五或は一四二センチメートル以下でシェトランド諸島原産のものを指す。

「三尺」九〇・九センチメートル。]

 飼牛にも今ではなかなか種類が澤山あり、角の長いもの、角の短いもの、角の殆どないもの、または乳の澤山出るもの、肉の澤山あるもの、或は極めて速く生長するものなどがあり、その用途も各々多少違ふから、ゼルシーとか、ショートホーンとか、ホルスタインとか、一種毎に特別な名を附けて之を區別する。豚にも耳の短いもの、耳の長いもの、肉の多いもの、脂の多いもの、その他種々の點で相異なつた種類が幾つもあり、羊の如きは肉の善おもの、毛の多いもの、同じく毛の多いものの中にも毛の細いもの、毛の粗いもの、縮れたもの、延びて長いものなど、實に夥しく種類の數がある。かの有名なエスパニア産のメリノ羊などはたゞその中の一種に過ぎぬ。

[やぶちゃん注:「ゼルシー」乳牛のジャージー(Jersey)種のこと。イギリス領チャンネル諸島のジャージー島原産。

「ショートホーン」(Shorthorn)は肉牛品種の一つ。イングランド北部とスコットランド南部が接するダラム地方の低地原産。十八世紀初めに作られた。

「ホルスタイン」 (Holstein) は別に「ホルスタイン・フリーシアン・キャットル」(Holstein Friesian cattle)とも呼ばれる。名前はドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州に由来する。本邦では主に乳牛としてのイメージが強いが、欧州では肉用乳用両方を目的として肥育されている(ウィキの「ホルスタインに拠る)。

「エスパニア」スペイン。

「メリノ」羊の毛用品種の一種。毛質が繊細で最も優れているとされ、体質も強健な上に強い群居性を持つことから、放牧にも適する。起源は明らかでないが、最初に注目されたのは十八世紀末のスペイン産の本種であった。]

Kinigyohensyu

[金魚の變種

和金(左上)   らんちう(右上)

琉金(左下)   で  め(右下)]

[やぶちゃん注:本図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 我が國で從來飼養する金魚も中々變種の多い動物で、和金といふ類は胴が長くて尾が割合に短く、琉金といふ類は胴が比較的に短くて尾が頗る長く、甚だ見事なものである。また東京邊で丸子といふ類は腹が無暗(むやみ)に圓く頸が短くて殆ど畸形の如くに見え、先年支那から輸入せられて來た眼鏡金魚といふは著しく眼球が突出して居る。また鰭の形にも種々あつて、或るものは鮒尾と稱して尾の鰭が單に鮒・鯉等の如く縱に扁平な一枚の板に過ぎぬが、普通の金魚では尾鰭は二枚に裂けて左右に擴がつて居る。特に或る種類では尾鰭のみならず、臀鰭といつて腹の後部の下面にある鰭までが左右二枚に分れて居て、頗る賑に見える。

[やぶちゃん注:「丸子」「まるこ」と読む。蘭鋳(らんちゅう)型、所謂、「ランチュウ」の仲間である。ウィキの「金魚の品種の一覧によれば、『背びれが無いのが最大の特徴。体は丸みを帯びており、江戸時代には「卵虫」という表記も見られたという。当時は「マルコ(丸子)」と呼ばれ、頭部の肉瘤は発達していないものであった。その後、幕末以降になって頭部の肉瘤の発達したランチュウが一般的となった』。

「眼鏡金魚」「めがねきんぎよ(めがねきんぎょ)」と読んでいるか。出目金(デメキン)のこと。以外であるが、明治時代に中国から輸入されたのが最初とされる。時代劇で出目金が出てきたら、考証家はアウト!

「鮒尾」「ふなお」と読む。対して、尾の後方が左右に三叉になっている「三つ尾」や四叉になってる「四つ尾」は「開き尾」と呼ぶ。

「臀鰭」「しりびれ」。

「賑」「にぎやか」。]

 以上掲げた所の數例では變種がいつ頃から生じたかその起源が判然分らぬが、現今我々の飼養して居る動物の中には、比較的短い時の間に種々の變種を生じたものが幾らもある。これらの動物は變種の少しもなかつた頃から今日に至るまでの變化の歷史が、明瞭に解つて居るのであるから、動植物は代々多少變化し得るものであるといふ

ことの最も著しい目前の例といつて宜しい。

 

Kanariahensyu

[カナリヤの變種

イ 野生のカナリア

ロハニ 飼養に依つて生じた變種]

[やぶちゃん注:「野生のカナリヤ」スズメ目アトリ科カナリア属カナリア Serinus canaria

「ロ」頭頂部の羽が冠状に立っていることから、ノーウィッチ・カナリア(Norwich canary)か。

「ハ」スタイル・カナリア(style canary)或いは「細カナリア」と呼ばれるものと思われる。

「ニ」もっとも一般的な品種であるレモン・カナリア(Lemon canary)。]

 

 例へば今日多く人に飼はれて居るカナリヤ鳥の如きは、人が始めて之を飼養してからまだ三百年にはならぬ位であるが、既に隨分多くの變種が出來て、白いのもあれば斑のもあり、頸の長いのもあり、毛の逆立つたのもあつて、非常に著しい相違が生じた。こゝに掲げた圖の中で、(イ)は野生のカナリヤ、(ニ)は我が國などで普通に飼養する純黃色の變種、(ロ)は頭の上に帽子の如き毛冠あるもの、(ハ)は體が細くて頸も尾も長い特別の變

種であるが、これらは澤山にある變種の中から少數を選み出したに過ぎぬ。

 その他七面鳥・モルモットの如きも比較的近い頃より人の飼ひ始めたものであるが、既に種々の變種が出來て居る。モルモットはもと南アメリカブラジル國の産であるが、今日ヨーロッパ・日本などで人の飼養して居るものは、最早ブラジル産の原種とは餘程違つて、その間には間(あひ)の子も出來ぬ位である。またマデイラ島の東北に當るポルト、サントーといふ島の兎は、今より五百年許前に、ヨーロッパから輸入したものであるが、今ではヨーロッパ産の兎とは全く違つて、動物學者によつては之を特別の一種と見倣す人もある位である。前に例に擧げたタンブラーと名づける鳩の一變種なども、確に一變種と人が認めるに至つたのは僅に今より四百年許前のことである。

[やぶちゃん注:「モルモット」ウィキの「モルモットによれば、齧歯目ヤマアラシ亜目テンジクネズミ上科テンジクネズミ科テンジクネズミ属モルモット Cavia porcellus は、『原産地は南米(ペルー南部、ボリビア南部、アルゼンチン北部、チリ北部)。古代インディオによって野生種を家畜化したものと言われている』とあり、パンパステンジクネズミ Cavia aperea・アマゾンテンジクネズミ Cavia fulgida・ペルーテンジクネズミ Cavia tschudii などと『近縁の野生種から』紀元前五千年頃の『アンデス地方で食肉用に家畜化されたと考えられてきたが、ミトコンドリアDNAのシトクロムb領域の比較から、ペルーテンジクネズミが起源となっていることが確実視されるようになった』。十六世紀に『スペイン人が南米に到達したときには、すでにインカ帝国で『クイ』という名で食肉用として家畜化されていた。現在では愛玩用や実験動物用とされることが多い』とある。

「マデイラ島」マデイラ諸島(ポルトガル語:Arquipélago da Madeira)は北大西洋上のマカロネシアに位置するポルトガル領の諸島で、ポルトガルの首都リスボンから見て、南西に約一千 キロメートルに位置する。

「ポルト、サントー」ポルト・サント島(Porto Santo)はポルトガル領マデイラ諸島の東北端にある島で、マデイラ島からは北東へ五〇キロメートルの位置にある。ウィキの「ポルト・サント島には、『ポルト・サント島はマデイラ諸島の中で最も初期に入植された。入植者は森林を切り開き、耕作やヤギの放牧を営んだ』。十五世紀半ばに『島を統治したバルトロメウ・ペレストレーリョが放ったウサギが制御不能なほど繁殖し、食料の調達ができなくなった島民は島を一時放棄した。島の自生植物はウサギによって全て食い荒らされ、その生態系へのダメージは以後回復することはなかった』ともある。]

 カナリアの變種でもポルト、サントーの兎でも比較的短い期限内に變化したのではあるが、一代一代の間に目に觸れぬ程の少しづゝの變化をなし、之が積り重なつて終に明な變種となつたのであるから、いつの間に變化したやら解らぬが、かやうなものの外、或るとき突然親と形狀・性質の著しく異なつた子が生れ、それが基となつて一變種の出來ることも往々ある。この種類の例で世に知られて居るものは決して少くないが、最も有名なものの一つ二つだけを擧げて見るに、千七百九十一年に米國のセス、ライトといふ農夫の所有して居た多くの羊の中に一疋形の異なつた子を産んだものがあつた。この子羊は胴が長くて足が短く、一見他の子羊とは大に體形が違つたが、之から出來た子孫は皆この羊の性質を受け繼いで胴が長く足が短くて、明に他の羊群とは異なつた一變種を成した。また南米パラグワイ國の「角なし牛」といふ牛の一變種は千七百七十年に突然生れた角なし牡牛の子孫である。

[やぶちゃん注:ここに出る羊の変種はアメリカン・メリノ種のことか?

『パラグワイ國の「角なし牛」』検索する限りでは、無角の「ネローレ・モッショ」と呼ばれるネローレ種の一種と思われる。]

 斯くの如く我々の飼養する動物には、突然變種を生じたものもあれば、また知らぬ間に漸々變種の出來たものもあるが、兎に角幾らかの變種を含まぬものは今日の所殆ど一種もない有樣で、この後尚何程の變種が出來るか解らぬといふことは、以上掲げた數個の例だけによつても明に解る。

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(12) 日本の家族(Ⅶ)

 近代の考へ方から見ると、舊日本の家族に於ける婦人の地位は全く幸福なものとは思はれない。子供として、女はただに上長に服從したのみならず、また家のすべての成人の男子に服從して居た。他の家へ妻として迎へられても、ただ同樣な服從の狀態に移されたに過ぎず、而も自分の祖先の家に於て、父母や兄弟姉妹の關係に依つて與へられて居た愛情は得られなくなるのである。その夫の家に居るのは、夫の愛情に依るのではなく、むしろ多數の人の意志、特に年長者の意志如何に依るのである。離婚された場合にも、女は自分の子供を要求する事は出來なかつた、それは夫の家族に屬したものであつたからである。如何なる際にも、妻としての務めは雇人なる女中の務めよりも苦しいものであつた。只だ老後に於てのみ、婦人は多少の權威を振るひうる望みもあるが、その老年に於ても、なほ後見を附せられて居た――女は全生涯を通じて後見の下にあつたのである。『女は三界に家なし』A woman can have no house of her own in the Three Universes. とは古い日本の諺である。婦人はまた自分一個の祭祀を行ふ事も出來ない、一家の婦人達の爲めの特別な祭祀といふものはない――夫の祭祀と離れた婦人だけの別の祖先の祭祀はない。結婚に依つて歸人がより位の高い家族に入るや、その位置はいよいよ難しくなる。貴族階級の婦人には、自由といふものは全くない。貴族階級の婦人は駕籠に乘るか、若しくは警護に依つて伴なはれるのでなければ、家の門外へすら出られなかつたのである。そして妻としてのその生活は、その家に妾の居る事に依つて、恐らくは痛められたのである。

[やぶちゃん注:「女は三界に家なし」「三界」は「さんがい」と濁り、本来は仏教用語であって欲界(食欲・淫欲などの本能的な欲望が盛んな世界。六欲天から人間界、果ては八大地獄も含まれる)・色界(欲界の上で無色界の下にある世界とされる欲や煩悩はないものの、無色界ほど物質や肉体の束縛から完全には脱却していない世界で、四禅を修めた者の生まれる天界とされ、初禅天から第四禅天の四禅天より構成され、さらにそれが十七天に分けられる)・無色界(肉体・物質から完全に離脱し、心の働きである受・想・行・識の四蘊(しうん)だけからなる純粋世界を指す。その内はさらに四天に分けられ、その最上の「非想非非想天」が別称「有頂天」である)を指すが、この諺ではそこから単に「全世界」の意で用いている。則ち、女は幼少の砌りは親に、嫁に行ってからは夫に、老いて後は子供に従うものであり、広い世界のどこにも身を落ち着ける場所はない、という謂いとなる。] 

 

 かくの如きは則ち古代に於ける族長的家族の狀態てあつた、が併しその實際の事情は法律と慣習とが示すよりも遙かに良かつたと察しられる。由來日本の民族は陽氣て快活であるから、何世紀も以前に於て、人世の難境を平らかにし、法律と慣習との酷しい强要を和らげる道を幾多發見した。家族の頭の、偉大なる權力の、殘虐なる方に用ひられた事は恐らく滅多にない事であつた。一家の頭は、法律上尤も恐るべき種類の權利をもつて居たのではあるが、併しこれ等の權利は一家の頭が、責任をもつて居るといふ理由から、自然もつて居るもので、社會の批判に反いてまでも用ひられたといふ事は、先づない事であつた。古い時代にあつては、法律上個人といふものは、認められなかつたものである事を記憶して置かなければならぬ。承認されたのは只だ家族のみで、家族の頭は法律上その家の代表者として存在したのである。故に一家の頭が過をすれば、全家擧つてその過から來る罰を受けなければならないのであつた。なほまた一家の頭が、その權力を極度に働かした場合、その一々の働きはそれに相應した責任を伴なつたのであつた。彼はその妻を離婚し、若しくはその子のために迎へた嫁を逐ふ事も出來た、併しこの孰れの場合に於ても、その行爲に對し、離婚されたるものの一族に向つて責任を負はなければならないのである、而して離婚の權利は、特に侍の階級に於ては、安族の怒りを購ふ恐れのあつたので、制限されて居た、則ち妻を不當に離緣する事は、その親族に對する侮辱と考へられたのである。家長はその唯一の子息を廢嫡する事も出來る、併しそのものが下等な階級のものでない限り、家長は社會に對しその行爲を聲明しなくてはならない。家長が一家の財產の處置に就いて不取締であるといふ事もある、併しその場合には組合の當局(其筋)に訴へる事も出來、その結果その家長は隱居を命ぜられる事もある。吾々の硏究した古い日本の法律に關して今日なほ殘つて居るものから判斷しうる限り、家族の長も、その所有地を賣り、若しくは割讓する事は出來なかつたといふのが、一般の規則であつたらしい。家族の統治は專制的であつたが、その統治は一人の主人のではなくて、一個の團體の統治であつた、一家の長は實際家族の他の人々の名に於て權威を働かしたのである。……この意味に於て家族は今でも專制主義である、併しその法律上の頭たる權力は、後年の慣習に依る內外兩方面から防遏されて居る。養子、廢嫡、結婚若しくは離婚の行爲は、通常廣く家族一般の同意に依つて決定され、何事でも個人の不利となるやうな重要な事を決行するには、一家竝びに親族の決議が要されるのである。

註 侍たる父は不貞の行のあつた娘を殺し、若しくは家名を汚す行爲を敢てした子息を殺しても差支ないのであつた。併し侍たる身分のものはその子女を賣る事はしない、娘の身賣りはただ下層階級のもの、或は侍以外の他の階級の進退谷まつた場合に立ち至つた家族に依つてのみ行はれたものであつた、併し娘がその家族の爲めに進んで身を賣るといふ事はあつた。

[やぶちゃん注:「防遏」「ばうあつ(ぼうあつ)」と読み、外からの侵入や拡大などを防ぎ止めること。「防止」に同じい。

「谷まつた」老婆心乍ら、「きはまつた(きわまった)」と訓ずる。]

譚海 卷之一 富士山の事

富士山の事

○富士絶頂をオハチヤウと云。其外に藥師が嶽といふあり。六月十二日其堂の開帳也。此日登山すれば毎年極て天氣よしと云り。大抵富士山は登山七月中よろし、天氣晴朗也。六月中は天氣よき事すくなく山あるゝ也。七月も廿日より後登山はやうやく雪ふるゆへ寒しと。すばしり村の御師(おし)大申覺(だいしんがく)太夫(たいふ)物語なり。

[やぶちゃん注:「オハチヤウ」底本には右に『(八葉)』と傍注する。これは富士山頂にある八つの峰、八神峰(はっしんぽう)のこと。これを仏教の「八葉蓮華」(花弁が八枚ある蓮華で、真言密教などでは胎蔵界曼荼羅の中央にこれを描いて、中央に大日如来を、各八葉に四人の仏陀と四人の菩薩を配する)に掛けて「八葉」という名称で呼んだもの。ウィキの「八神峰によれば、最高峰の剣ヶ峰(三七七六メートル)以下、白山岳(釈迦ヶ岳)・久須志岳(薬師ヶ岳)日岳(朝日岳)・伊豆岳(観音岳/阿弥陀岳)・成就岳(勢至ヶ岳/経ヶ岳)・駒ケ岳(浅間ヶ岳)・三島岳(文殊ヶ岳)。

「其堂」同山頂の久須志神社のこと。薬師如来及び鹿島金山大権現を祀る。

「すばしり村」静岡県の北東、富士山の東斜面にあった駿東郡須走村。現在は小山町内。

「御師(おし)」神宮や神社に属して、信徒の依頼により、代祈祷を行った祈祷師。熊野・伊勢など一社の信徒を相手に祈祷や宿泊の世話をした。参詣に不便な山岳神などの代理祈禱なども行った。伊勢神宮のそれのみ「おんし」と読む慣わしがある。

「大申覺太夫」恐らくは筆者の「大申學太夫」の誤記と思われる。「大申學」は須走村で代々御師を勤めた家の屋号だからである(八木書店二〇〇〇年刊木村礎・林英夫編「地方史研究の新方法」に拠る)。現在旅館ようである。「太夫」は神社の御師の称。]

譚海 卷之一 武州八王寺幷高尾山の事

武州八王寺幷高尾山の事

○武州八王寺の近邊、玉川の兩岸山吹おびたゞしく有、暮春の月壯觀也。これほどの山吹外に見たる事なし。又紅葉もよしと云(いへ)り。つゝゐと云所なるよし。

[やぶちゃん注:現在の八王子の北を流れる多摩川の支流である浅川沿岸と思われるが「つゝゐ」(筒井?)という地名は現認出来ない。識者の御教授を乞う。標題はご覧の通り、次とペアになっているので一行空けで続けて示す。]

 

○又同所高尾山は、江戸に近くしてかほどの深山もまたおほからず。琵琶の瀧と云(いふ)有(あり)、四月の末あそびしに櫻など漸(やうやく)盛(さかり)にて、殘雪度々に消殘(きえのこり)たるけしき、殊に世外の心地せしと、長谷川安卿(やすあきら)主(しゆ)物語也。近來又金川宿より入(る)所に杉田と云所あり、梅ことに多し、山も岡も人家も皆梅なるよし。漸人(ひと)聞(きき)しりて、初春は一夜泊りに賞遊する人おほし。

[やぶちゃん注:「琵琶の瀧」高尾山薬王院(真言宗の関東三大本山の一つで正式には「高尾山薬王院有喜寺と称する)に現存する。現行では琵琶瀧(びわたき)と称し、蛇瀧(じゃたき)とともに水行道場として使用されている。

「長谷川安卿」(享保四(一七一九)年~安永八(一七七九)年)書物奉行(就任は明和二(一七六五)年)。

「金川宿」神奈川宿。

「杉田と云所あり、梅ことに多し」私の杉田の梅花 田山花袋の私の詳細注を参照されたい。]

遙かな旅 原民喜   附やぶちゃん注 (正規表現版)

 

[やぶちゃん注:初出は『女性改造』昭和二六(一九五一)年二月号。民喜は、この翌月の三月十三日に鉄道自殺した。死後の二年後の昭和二八(一九四三)年三月、角川書店刊「原民喜作品集」第二巻に、彼の残した目次通り、「美しき死の岸に」の一篇として再録された。詩篇挿入部はブログのブラウザ上の不具合を考え、行を短くしてある。禁欲的にパートの最後に注を附した。

 最後の「雲雀」……これは、知る人ぞ知る、彼の秘かな最後の思い人であった祖田祐子宛遺書の冒頭にある、『とうとう僕は雲雀になつて消えて行きます 僕は消えてしまひますが あなたはいつまでも お元気で生きて行つて下さい』を直ちに想起させ、死の前年の春の玉川での彼女らと遠藤周作とのボート遊びの思い出(『新潮』昭和三九(一九六四)年五月発行に載った遠藤周作「原民喜」に詳細が描かれる。私は盟友民喜を追懐した周作の一篇を民喜論の第一の名品と信じて止まない。教員時代、一度だけ、この全文を生徒に朗読したことがある。恐らく、こんなことをした国語教師は今も昔もそう多くはあるまい、と思う)の中の民喜の肉声『ぼくはね、ヒバリです』『ヒバリになっていつか空に行きます』という呟きに繋がるのである……【2023年2月24日改稿 藪野直史】今回、国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で正字正仮名版の昭和二八(一九五三)年角川書店刊の「原民喜作品集」第一巻第二巻の画像も入手出来たので、その第二巻の当該部を視認して正規表現版として校訂した。なお、私のそれぞれの原原稿は外附けハード・ディスク全損壊のため消失していることから、ブログ記事を、直接、校合した。それに伴い、以下、標題に「(正規表現版)」を添えた。 

 

 遙 か な 旅

 

 夕方の外食時間が近づくと、彼は部屋を出て、九段下の俎橋から溝川に添ひ雉子橋の方へ步いて行く。着古したスプリング・コートのポケットに兩手を突込んだまま、ゆつくり自分の靴音を數へながら、
  汝ノ路ヲ步ケ
 と心に呟きつづける。だが、どうかすると、彼はまだ自分が何處にゐるのか、今が何時なのか分らないぐらい茫然としてしまふことがある。神田の知人が所有してゐる建物の事務室につづく一室に、彼が身を置くやうになつてから、もう一年になるのだが、どうかすると、そこに身を置いて棲んでゐるといふことが、しつくりと彼の眼に這入らなかつた。どこか心の裏側で、ただ涯てしない旅をつづけてゐるやうな気持だつた。……夜の交叉点の安全地帯で電車を待つてゐると、冷たい風が頰に吹きつけてくる。街の灯は春らしく潤んでゐて、電車は藍色の空間と過去の時間を潜り抜けて、彼が昔住んでゐた昔の街角とか、妻と一緖に步いてゐた夜の街へ、譯もなく到着しさうな氣がする。

[やぶちゃん注:この冒頭パートは神田神保町の能楽書林(盟友丸岡明の自宅であり、当時の『三田文学』発行所)の一室に下宿していた、昭和二三(一九四八)年一月(同年、民喜四十三歳)から翌昭和二十四年(年末に『三田文学』編集を辞し、翌年一月に吉祥寺に転居した)の間の景である。

「外食時間」外食券食堂で食事をする時刻。外食券食堂は第二次世界大戦中の昭和一六(一九四一)年から戦後にかけて、主食の米の統制のため、政府が外食者用に食券を発行し(発券に際しては米穀通帳を提示させた)、その券(ここに出るように真鍮製。紙では容易に偽造出来てしまうからであろう)を持つ者に限り、食事を提供した食堂。というより、これ以外の飲食店には主食は原則、一切配給されなかった。私がかつて古本屋で入手した昭和二〇年(一九四五)年十月の戦後最初の『文芸春秋』復刊号の編集後記には、調理人の手洟や蛆が鍋の中で煮えている、という凄絶な外食券食堂の不潔さを具体に訴える内容が記されてあった。小学館の「日本大百科全書」梶龍雄氏担当の「外食券食堂」の項によれば、戦後、外食券は闇値で取引されることも多くなり、昭和二二(一九四七)年入浴料が二円の当時、一食一枚分の闇値が十円もしたという例もある。しかし昭和二五(一九五〇)年ごろより食糧事情が好転、外食券利用者は激減し、飲食店が事実上、主食類を販売するようになってからは形骸化し、昭和四四(一九六九)年には廃止された、とある。因みに、私は昭和三二(一九五七)年生まれであるが、「券」も「食堂」も記憶には全くない。

「俎橋」(まないたばし)は皇居東北直近の現在の東京都千代田区靖国通りの日本橋川上流に架かり、東側の神田神保町と西側の九段を繫ぐ。

「雉子橋」(きじばし)は俎橋の凡そ四百五十メートル下流に架橋された橋。九段南と一ツ橋の間を繫ぐ。彼が歩いて居るのは恐らく左岸(神田側)である。]

 彼は妻と死別れると、これからさきどうして生きて行けるのか、殆ど見當がつかなかつた。とにかく、出來るだけ生活は簡素に、氣持は純一に……と茫然としたなかで思ひ耽けるだけだつた。棲みなれた千葉の借家を疊むと、彼は廣島の兄の家に寄寓することにした。その時、運送屋に作らせた家財道具の荷は七十箇あまりあつた。鄕里の家に持つて戾ると、それらは殆ど繩も解かれず、土藏のなかに積重ねてあつた。その土藏には妻の長持や、嫁入の際持つて來たまま一度も使用しなかつた品物もあつた。それらが、八月六日の朝、原子爆彈で全燒したのだつた。田舍へ疎開させておいた品物は、荷造の數にして五箇だつた。
 妻と死別れてから彼は、妻あてに手記を書きつづけてゐた。彼にとつて妻は最後まで一番氣のおけない話相手だつたので、死別れてからも、話しつづける氣持は絕えず續いた。妻の葬ひのことや、千葉から廣島へ引あげる時のこまごました情況や、慌しく變つてゆく周圍のことを、丹念にノートに書きつづけてゐるうちに、あの慘劇の日とめぐりあつたのだつた。生き殘つた彼は八幡村といふところへ、次兄の家族と一緖に身を置いてゐた。恐しい記憶や慘めな重傷者の姿は、まだ日每目の前にあつた。そのうち妻の一周忌がやつて來た。豪雨のあがつた朝であつた。秋らしい陽ざしで洗ひ淸められるやうな朝だつた。彼は村はづれにあるお寺の古疊の上に、ただ一人で坐つてゐた。側の火鉢に煙草の吸殼が一杯あるのが、煙草に不自由してゐる彼の目にとまつた。がらんとした佛前に、お坊さんが出て來て、一人でお經をあげてくれた。
 妻が危篤に陷る數時間前のことだつた。彼は妻の枕頭で注射器をとりだして、アンプルを截らうとしたが、いつも使ふ鑢がふと見あたらなくなつた。彼がうろたへて、ぼんやりしてゐると、寝床からぢつとそれを眺めてゐた妻は、『そこにあるのに』と目ざとくそれを見つけてゐた。それから細い苦しげな聲で、『あなたがそんな風だから心配で耐らないの』と云つた。

[やぶちゃん注:「鑢」「やすり」。]

 殆ど死際まで、眼も意識も明析だつたのだ。『あなたがそんな風だから心配で耐らないの』といふ言葉は、その後いつまでも彼の肺腑に絡みついて離れなかつた。が、流轉のなかで彼は一年間は生きて來たのだつた。寺を出ると、道ばたの生垣の細かい葉なみに、彼の眼は熱つぽく注がれてゐた。

   たとへば私はこんな気持だ 束の間の
   睡りから目ざめて 睡る前となにか違
   つてゐることにおののく幼な子の瞳。
   かりそめの旅に出た母親の影をもとめ
   て 家のうちを搜しまはる弱弱しい少
   年。咽喉のところまで出かかつてゐる
   切ないものを いつまでも喰ひしばつ
   て。

 彼は自分の眼をいぶかるやうに、ひだるい山の上の空を眺めることがあつた。空がひだるいのではなかつた、どうにもならぬ飢餓の日日がつづいてゐたのだ。こほろぎのやうに瘦せ細つて行く彼は、自分の洗濯ものを抱へては小川の岸で洗つた。やがて冬になると、川水は指を捩ぐほど冷たくなつた。彼の掌は少年のやうに霜燒で赤くふくれ上つた。火の氣のない二階で一人ふるへながら、その掌を珍しげにしみじみ眺めた。暗い村道の上にかぶさる冬空に、星が冴えて一めんに輝いてゐるのも、彼の眼に沁みた。淺い川の細い流れに殘つてゐる雪も、彼の胸底に殘るやうだつた。が、いつまでもそんな風に、その村でぼんやりしてゐることは許されなかつた。兄や姉は彼に今後の身の處置をたづねた。『あなたも長い間、辛苦したのかもしれないけど、今日まで辛苦しても芽が出なかつたのですから、もう文學はあきらめなさい。これからはそれどころではない世の中になると思ひますよ。』さう云つてくれる姉の言葉に対して、彼はただ默つてゐるばかりだつた。

[やぶちゃん注:民喜は妻芳恵(明治四四(一九一一)年~昭和一九(一九四四)年:民喜より六つ年下)とは民喜二十八の昭和八(一九三三)年に見合結婚、当初は池袋と淀橋区(現在の新宿区)に、次いで翌年の初夏にここに出る千葉県登戸に転居した。昭和一四(一九三九)年に九月に芳恵が発病、被爆・敗戦の前年である昭和一九年(一九四四)年九月に肺結核と糖尿病のために逝去していた。被爆・敗戦当時、民喜は満三十九であった。

「鄕里の家」生家である広島県広島市幟町(のぼりちょう)(現在の中区幟町)。当時は三男信嗣が家を継いでいた(長男・次男は当時、既に故人)ここで民喜は被爆するも(ここは爆心地からたった一・二キロメートルしか離れていなかった)、九死に一生を得たのであった。

「八幡村」恐らくは広島県の旧山県郡八幡村。現在の北広島町内。

「次兄」とあるが、四男守夫。民喜の直ぐ上の兄で三つ年上。当時、広島在住。文学好きで、民喜十五の時から既に一緒に同人誌を発行するなど、仲の良い兄であった。

「捩ぐ」は「ねぢまぐ(ねじまぐ)」であろう。

「姉」当時、存命していた姉は三女千代(民喜より三つ年上)だけである。]

 翌年の春、彼は大森の知人をたよつて上京した。その家の二階の狹い板敷の一室に寢起するやうになつたが、ここでも飢餓の風景はつづいた。罹災以來、彼はもう食べものに好き嫌ひがなくなつてゐた。どんな嫌なものも、はじめは眼をつむつたつもりで口にしてゐると、餓ゑてゐる胃はすぐに受けつけた。子供の時から偏食癖のあつた彼は妻と一緖に暮すうち、少しつつ食べものの範圍は擴がつてゐた。だが、まだ彼の口にしないものはかなりあつた。それが、今では何一つ拒むことが許されなかつた。彼は自分の變りやうに驚くことがあつた。そんな驚きまで彼は妻あての手記に書込んでゐた。
 その板敷の上で目がさめると、枕頭の囘轉窓から隣家のラジオの音樂がもれてくる。今日も飢じい一日が始まるのかと思ひながら、耳に這入つてくる音樂はあまりに優しかつた。彼は音樂の調べにとり縋るやうに、うつとりと聽き入るのだつた。恐ろしい食糧事情のなかで、他人の家に身を置いてゐる辛さは、刻刻に彼を苛んだ。じりじりした氣分に追はれながら、彼は無器用な手つきで、靴下の修繕をつづけた。そんな手仕事をしてゐると、比較的氣持が鎭まつた。それから、机がはりの石油箱によつかかつてはペンを執つた。朝每に咳の發作が彼を苦しめた。
 妻の三囘忌がやつて來た。朝から小雨がしきりに降つてゐたが、氣持を一新しようと思つて、彼は二ケ月振りに床屋へ行つた。床屋を出て大森驛前の道路に出ると、時刻は恰度二年前の臨終の時だつた。坂の兩側の石崖を見上げると、白い空に薄が雨に濡れてゐた。白い濁つた空がふと彼に頰笑みかけてくれるのではないかと思はれた。彼は買つて戻つた梨と林檎(そんなものを買へるお金の餘裕もなかつたのだが)を石油箱の上において、いつまでも見とれてゐた。

   おまへはいつも私の仕事のなかにゐる。
   仕事と私とお互に励ましあつて 辛
   苦を凌がうよ。云ひたい人には云ひ
   たいことを云はせておいて この貧
   しい夫婦ぐらしのうちに ほんとの
   生を愉しまうよ。一つの作品が出來
   上つたとき それをよろこんでくれ
   るおまへの眼 そのパセチックな眼
   が私をみまもる。

 その二階の窓から隣家の庭の方を見下ろしながら、ひとり嘆息することがあつた。あそこには、とにかくあのやうな生活がある、それだのにどうして自分には、たつた一人の身が養へないのだらうか。彼は行李の底から衣類をとり出して古着屋へ運んだり、燒殘つたわづかばかりの書籍も少しつつ手離さねばならなかつた。日没前から電車に揉まれて、勤先の三田の學校まで出掛けて行く。燒跡の三田の夕暮は貧しい夜學敎師のとぼとぼ步くに應はしかつた。そして彼は冷え冷えする孤絕感の底で、いつもかすかに夢をみてゐた。

   燒跡に綺麗な花屋が出来た。玻璃越
   しに見える花花にわたしは見とれる。
   むかしどこかかういふ風な窓越し
   に お前の姿を感じたこともあつた
   が 花といふものが こんなに幻に
   似かよふものとは まだお前が生き
   てゐたときは氣づかなかつた。

 翌年の春、彼は大森の知人の家からは立退きを言渡されてゐた。が、行くあてはまるでなかつた。彼は中野の甥の下宿先に轉り込んで、部屋を探さうとした。氣持ばかりは急つたが貸間は得られなかつた。中野驛前の狹い雜沓のなかを步き𢌞つたり、雨に濡れて竝ぶ外食券食堂の行列に加はつてゐると、まだ戰火に追はれて逃げ惑つてゐるやうな氣がした。中野驛附近のひどく汚ないアパートの四疊半を彼が借りて移つたのは秋のはじめだつた。が、その部屋を讓渡した先住者は一時そこを立退いてはゐたが、荷物はまだそのままになつてゐた。先住者と彼との間にゴタゴタがつづいた。こんな汚ない、こんな小さな部屋でさへ、自分には與へられないのだらうか、と彼は每夜つづく停電の暗闇のなかに寢轉んで嘆いた。もうこの地上での生存を拒まれつくされた者のやうにおもへた。

   わたしのために祈つてくれた 朝で
   も晝でも夜でも 最後の最後まで 祈
   つてゐてくれた おそろしくおご
   そかなものがたちかへつてくる。荒
   野のはてに日は沈む……生き殘つて
   部屋はまつ暗。

 いつも暗黑な思考にとざされてゐたが、ふと彼はその頃アパートの階下の部屋で、子供をあやしてゐる若い母親らしい女の聲を聞き覺えた。心のなかに何の屈托もなささうな、素直で懷しい聲だつた。ふと彼はそれを死んだ妻に聞かせたくなるほど、心の彈みをおぼえた。その聲をきいてゐると、まだ幸福といふものがこの世に存在してゐることを信じたくなるのだつた。宿なしの彼が、中野から神田神保町へ移れたのは、その年の暮であつた。
 戦火を免れてゐるその界隈は都會らしい騷音に滿ちてゐた。事務室に續くその一室は道路に面してゐて、絕えず周圍は騷騷しかつたが、とにかく彼は久振りにまたペンを執ることが出來た。そこへ移つてから、ある雜誌の編集をしてゐた彼は、いつのまにか澤山の人人と知りあひになつてゐた。彼が大森の知人をたよつて上京した頃、東京に彼は三人と知人を持つてゐなかつた。一週間も半月も誰とも口をきかないで暮してゐたのだつた。それが今では殆ど每日いろんな人と應對してゐた。彼は人と會ふとやはり疲れることは疲れた。が、ぎこちないなりにも、あまり間誤つくことはなくなつてゐた。
 「あなたが人と話してゐるのは、いかにも苦しさうです。何か云ひ難さうで云へないのが傍で見てゐても辛いの」と、以前妻はよく彼のことをかう評したものだ。そして、人と逢ふ時には大槪、妻が傍から彼のかはりに喋つてゐた。が、今ではもう人に對して殆ど何の障壁も持てなかつた。賑やかな會合があれば、それはそのまま娯しげに彼の前にあつた。だが、何もかも眼の前を速かに流れてゆくやうだつた。
 どうして自分にはたつた一人の身が養へないのだらうか……とその嘆きは絕えず附纏つたが、ぼんやりと部屋に寢轉んで休憩をとることが多かつた。自分で自分の體に注意しなければ……と誰かがそれを云つてくれてゐるやうな氣もした。どうかすると、どうにもならぬ憂鬱に陷ることもあつた。が、さういふ時も彼には自分のなかに機嫌をとつてくれるもう一人の人がゐた。
 ある夜、代々木驛で省線の乘替を待つてゐると、こほろぎの聲があたり一めんに聞えた。もう、こほろぎが啼く頃になつたのかと、彼は珍しげに聞きとれた。が、それから暫くすると、神保町の道路に面したその部屋にも、窓から射してくる光線がすつかり秋らしくなつてゐた。彼は疊の上に漾ふ光線を眺めながら、時の流れに見とれてゐた。

  一夏の燃ゆる陽ざしが あるとき た
  めらひがちに芙蓉の葉うらに縺れてゐ
  た 燃えていつた夏 苦しく美しかつ
  た夏 窓の外にあつたもの
  死別れまたたちかへつてくるこの美し
  い陽ざしに
  今もわたしは自らを芙蓉のやうにおも
  ひなすばかり

 彼は鏡臺とか簞笥とか、いろんな小道具に滿ちた昔の部屋が、すぐ隣にありさうな氣もした。だが、事務室の雜音はいつも彼を現在にひきもどす。その現在の部屋はいつまでも彼に安住の許されてゐる場所ではなかつた。『死』の時間は彼のすぐ背後にあつた。
 その年も暮れかかつてゐた、ある夕方、彼のところへKがひよつこり訪ねて来た。Kは彼の部屋に這入るといきなり、
 「昔の君の下宿屋を思ひ出すな」と云つた。學生時代の友人だつたが、その後十年あまりもお互に逢ふことがなかつた。Kが近頃京都からこちらへ移轉して來て、ある出版屋に勤めてゐるといふことを彼も聞いてはゐた。
 「君は昔とさう變つてゐないよ」とKは珍しげに呟く。生きてゐればかうして逢ふ機會もやつて來たのかと、彼もしきりに思ひ耽けつた。
 Kはそれから後は時折訪ねてくれるやうになつた。

[やぶちゃん注:「翌年の春、彼は大森の知人をたよつて上京した」昭和二一(一九四六)年四月に上京、当時の東京都大森区馬込(現在の大田区馬込地区)の詩人で生涯の盟友であった長光太(ちょうこうた)宅に寄寓している。

「勤先の三田の學校」「夜學敎師」民喜は上京後、ほどなく、慶応義塾商業学校・工業学校夜間部の嘱託英語講師となった。

「翌年の春、彼は大森の知人の家からは立退きを言渡されてゐた。が、行くあてはまるでなかつた。彼は中野の甥の下宿先に轉り込んで、部屋を探さうとした」昭和二二(一九四七)年春、民喜は当時、中野区打越町に下宿していた甥の所に長光太宅から移っている。以後、本文にあるように盟友丸岡明の神田神保町の能楽書林の一室に腰を落ち着けるまで、同書店を含め、各所を転々とすることとなった。

「急つた」「あせつた(あせった)」。

「間誤つく」「まごつく」。

「ある雜誌の編集」上京した前年昭和二十一年の十月から民喜は『三田文学』の編集に携わるようになっていた(編集室は能楽書林)。

「K」第一候補としては文芸評論家山本健吉(明治四〇(一九〇七)年~昭和六三(一九八八)年:民喜より二歳下)がまず挙げられるか? 「広島市立中央図書館」作成の「広島文学資料室」の「原民喜の世界」の内の「民喜をめぐる人々」によれば、慶大文科予科時代に民喜と知り合い、『大学卒業後は改造社に入社。以後出版社、新聞社に勤めながら評論活動を行な』ったとある(本文にKは「ある出版屋に勤めてゐる」とあるのと一致すると思われる)。但し、彼は昭和九(一九三四)年五月に(民喜の新婚の新宿時代)、『向かいに住んでいた民喜夫妻らと同時に特高警察により逮捕され、この事件の際』、民喜夫妻から絶交を申し渡されたが(山本の過去の経歴からの連座による民喜夫妻の勘違いの検挙であったが、山本が民喜を救わんがために『彼の没常識ぶりを刑事に強調した』ことによると山本は述べている。ここは「青土社版全集年譜に載る山本の記載の孫引き)、戦後、『遠藤周作の計らいにより和解した』とある。本文に「その後十年あまりもお互に逢ふことがなかつた」というのは実は絶交していたからとすれば、納得出来る。しかし、彼ではないかも知れない(イニシャル「K」の友人は彼には他にもいるからである)。誤っている場合は、御教授を乞うものである。]

 翌年の春、彼の作品集がはじめて世の中に出た。が、彼はその本を手にした時も、喜んでいいのか悲しんでいいのか、はつきりしなかつた。……彼が結婚したばかりの頃のことだつた。妻は死のことを夢みるやうに語ることがあつた。若い妻の顏を眺めてゐると、ふと間もなく彼女に死なれてしまふのではないかといふ氣がした。もし妻と死別れたら、一年間だけ生き殘らう、悲しい美しい一册の詩集を書き殘すために……と突飛な烈しい念想がその時胸のなかに浮上つてたぎつたのだつた。
 夕方、いつものやうに彼は九段下から溝川に添つて步いてゐた。雉子橋の上まで來たとき、ふとだし拔けに誰かに叫びとめられた。忙しげに近づいて來るのはKだつた。
 「その邊でお茶飮まう」と、Kは彼の片腕を執るやうにしてせかせか步きだした。その調子に二十代の昔の面影があつた。
 「散步してゐたのだよ」と彼は笑ひながら白狀した。
 「わかつてるよ。こんな時刻にこんなところ散步なんかしてゐる人間は君位のものさ」と、Kは別に驚きもしなかつた。が、ふと、彼のオーバーに目をとめると珍しげにかう云つた。
 「そのオーバーは昔から着てゐたぢやないか。學生時代の奴だらう」
 「違ふよ。卒業後拵へたのだ」と、彼は首を振つた。着てゐるスプリングコートは彼が結婚した年に拵へたもので、今では生地も薄れ、裏の地はすつかり破れてゐた。肩のところは外食券食堂の柱の釘にひつかかつて裂けてゐたし、ポケットの内側もボロボロになつてゐた。そのスプリング・コートを拵へたばかりの頃だつた。彼は妻と一緖に江の島へ行つたことがある。汽車に乘つた頃から、ふと急に死の念想が彼につきまとつた。明るい海岸を晴着を着た妻と一緖に步きながらも、自分は間もなく死ぬのではないかと、……その予感に苛まれつづけた。ヒリヒリと神經のなかに破り裂けようとするものを抑へながら、彼は快活さうに振舞つてゐた。その春の一日は美しい疼きのやうに彼に灼きつけられてゐた。
 不安定な溫度と街のざわめきのなかに、何か彼を遠方に誘ひかけるものがあるやうでならなかつた。ふと、ある日、彼は風邪をひいてゐた。解熱劑を飮んで部屋に寢轉んでゐたが、面會人があれば起きて出た。外食の時刻には、ふらふらの足どりで雨の中を步いた。それから夜は早目に灯を消して寢た。かうした佗しい生活にも今はもう驚けなかつた。が、さうしてゐると昔、風邪で寢ついて妻にまめやかに看護された時のことが妙に懷しくなつた。すぐ近くにある町醫に診察してもらふのに、わざわざ妻に附添つて行つてもらつた。『赤ん坊のやうな人』と妻はおもしろげに笑つた。
 彼の眼には夕方の交叉點附近で街を振返ると、急に人人の服裝が春らしくなつてゐて、あたりの空氣が輕快になつてゐるのに驚くことがあつた。燒殘つた街はたのしげに生生と動いてゐるのだつた。だが、たえず雜音のなかに低い嘆きとも憧れともつかぬ、つぶやきがきこえた。ふとある日彼は雲雀の聲がききたくなつた。青く焦げるやうな空にむかつて舞上る小鳥の姿が頻りに描かれた。彼は雲雀になりたかつた。一册の詩集を殘して昇天できたら……。大空に溶け入つてしまひたい夢は少年の頃から抱いてゐたのだ。できれば輕ろやかにもう地上を飛去りたかつた。
 だが、何かはつきりしないが、彼に課せられてゐるものが、まだ彼を今も地上にひきとめてゐるやうだつた。
 ある日、彼は多摩川へ行つてみようと思ひたつと、すぐ都電に乘つた。電車の窓から見える花が風に搖れてゐた。澁谷まで來ると、驛の前は大變な砂ぼこりだつた。だが、彼は引返さなかつた。多摩川園で下車すると、川原に吹く風はまだ少し冷たく、人もあまり見かけなかつた。彼は川原に蹲つて、暫く水の流れを眺めてゐた。昔彼が學生だつた頃、このあたりには二三度來たことがある。堤の方へ𢌞ると、彼は橋の上を步いて行つた。はじめ、その長い橋をゆつくり步いて行くに隨つて、向岸にある綠色の塊りが彼の魂をすつかり吸ひとるやうな氣持がした。
 どこか遠くへ、どこまでも遠くへ……。しかし、橋の中ほどで立ちどまると、向岸の茫とした綠の塊りは、靜かに彼を彼の方へ押しもどしてくれるやうだつた。

[やぶちゃん注:思うに、この最後のシークエンスは冒頭の注で述べた、昭和二五(一九五〇)年の春の、祖田祐子さんとその従妹、そして盟友遠藤周作とのボート遊びの思い出から自分以外の人物を消し去って、詩人の孤独孤高な景を再構成した画面のように私には感じられて仕方がないのである。

「翌年の春、彼の作品集がはじめて世の中に出た」昭和二四(一九四九)年二月能楽書林刊の「夏の花」を指す。

「彼が結婚した年」既に述べたが、民喜の佐々木芳恵(因みに文芸評論家佐々木基一は彼女の弟である)との結婚は昭和八(一九三三)年三月であるから、十六年前である。因みに彼の慶応大学英文科(主任教授西脇順三郎(!)、同級に瀧口修造(!)がいた)卒業は昭和七年三月である。

「疼」「うづき(うずき)」或いは同義の「ひひらぎ(ひいらぎ)」で読んでいよう。前者か。「驚けなかつた」はママ。「驚かなかつた」の誤植が疑わられるが、校合対象がないのでママとする。

 最後に。

 このエンディングは原民喜の詩群「かげろふ断章」(全篇は私の「原民喜全詩集」 を参照されたい)の「昨日の雨」の中に出る、

 

  梢

ふと見し梢の

優しかる

みどり煙りぬ

ささやかに

 

という一篇を直ちに連想させる。]

2016/03/19

小さな庭 (正規表現版)  原民喜

 

[やぶちゃん注:底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集Ⅱ」を用いたが、同底本の書誌には、初出は昭和二一(一九四六)年六月号『三田文学』とするものの、「庭」を巻頭とする以下の十八篇から成る総標題「小さな庭」散文詩群の最後には、『一九四四――四五年』とあり、全詩篇の印象から、これは敗戦前(被爆以前)の作品であると読める。されば、恣意的に漢字を正字化して電子化した(歴史的仮名遣は底本のママ)。【2023年2月23日削除・改稿 藪野直史】今回、国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で正字正仮名版の昭和二八(一九五三)年角川書店刊の「原民喜作品集」第一巻第二巻の画像も入手出来たので、これに引き続き、それらによる過去の本ブログの電子化した恣意的正字化版も、正規表現版へ校訂を開始する。それで校合し(ここでは後者)、改めて正しく原本で本作品集の全作品を、順次、正規表現版に作り直した。必要と考えた箇所には、注も追加する。なお、私のそれぞれの原原稿は外附けハード・ディスク全損壊のため消失していることから、ブログ記事を、直接、校合した。それに伴い、以下、標題に「(正規表現版)」と変更した。最後のクレジットは最終行末にあるが、改行した。

 


 小 さ な 庭

 

      

 暗い雨のふきつのる、あれはてた庭であつた。わたしは妻が死んだのを知つて おどろき泣いてゐた。泣きさけぶ聲で目がさめると、妻はかたはらにねむつてゐた。
 ……その夢から十日あまりして、ほんとに妻は死んでしまつた。庭にふりつのるまつくらの雨がいまはもう夢ではないのだ。 

 

      そら

 おまへは雨戶を少しあけておいてくれというた。おまへは空が見たかつたのだ。うごけないからだゆゑ朝の訪れが待ちどほしかつたのだ。 

 

      

 もうこの部屋にはないはずのおまへの柩がふと仄暗い片隅にあるし、胸のときめきで目が覺めかけたが、あれは鼠のしわざ、たしか鼠のあばれた音だとうとうと思ふと、いつの間にやらおまへの柩もなくなつてゐて、ひんやりと閨の闇にかへつた。 

 

      

 あかりを消せば褥の襟にまつはりついてゐる菊の花のかほり。昨夜も今夜もおなじ闇のなかの菊の花々。嘆きをこえ、夢をとだえ、ひたぶるにくひさがる菊の花のにほひ。わたしの身は闇のなかに置きわすれられて。 

 

      眞 冬

 草が茫々として、路が見え、空がたれさがる、……枯れた草が濛々として、白い路に、たれさがる空……。あの邊の景色が怕いのだとおまへは夜更におののきながら訴へた。おまへの眼のまへにはピンと音たてて割れさうな空氣があつた。

[やぶちゃん注:「怕い」「こはい(こわい)」(怖い)。] 

 

      

 足のはうのシイツがたくれてゐるのが、蹠に厭な賴りない氣持をつたへ、沼のどろべたを跣足で步いているやうだとおまへはいふ。沼のあたたかい枯葉がしづかに煙つて、しづかに睡つてゆくすべはないのか。

[やぶちゃん注:「蹠」多くの読みがあるが、ここは「あうら」と読みたい。足の裏。] 

 

      

 うつくしい、うつくしい墓の夢。それはかつて旅をしたとき何處かでみた景色であつたが、こんなに心をなごますのは、この世の眺めではないらしい。たとへば白い霧も嘆きではなく、しづかにふりそそぐ月の光も、まばらな木々を浮彫にして、靑い石碑には薔薇の花。おまへの墓はどこにあるのか、立ち去りかねて眺めやれば、ここらあたりがすべて墓なのだ。 

 

      な が あ め

 ながあめのあけくれに、わたしはまだたしかあの家のなかで、おまへのことを考へてくらしているらしい。おまへもわたしもうつうつと仄昏い家のなかにとじこめられたまま。 

 

      岐 阜 提 灯

 秋の七草をあしらつた淡い模樣に、蠟燭の灯はふるへながら呼吸づいてゐた。ふるへながら、とぼしくなった焰は底の方に沈んで行つたが、今にも消えうせさうになりながら、また ぽつと明るくなり、それからジリジリと曇つて行くのだつた。……はじめ岐阜提灯のあかりを悅んでゐた妻はだんだん憂鬱になつて行つた。あかりが消えてしまふと、宵闇のなかにぼんやりと白いものが殘つた。

 

      朝 の 歌

 雨戶をあけると、待ちかねてゐた箱のカナリヤが動きまはつた。緣側に朝の日がさし、それが露に濡れた靑い菜つぱと小鳥の黃色い胸毛に透きとほり、箱の底に敷いてやる新聞紙も淸潔だつた。さうして妻は淸々しい朝の姿をうち眺めてゐた。
 いつからともなくカナリヤは死に絕えたし、妻は病んで細つて行つたが、それでも病室の雨戶をあけると、やはり朝の歌が緣側にきこえるやうであつた。それから、ある年、妻はこの世をみまかり、私は栖みなれた家を疊んで漂泊の身となつた。けれども朝の目ざめに、たまさかは心を苦しめ、心を彈ます一つのイメージがまだすぐそこに殘つてゐるやうに思へてならないのだつた。 

 

      酸 漿 圖

 なぜか私は酸漿の姿にひきつけられて暮らしてゐた。どこか幼い時の記憶にありさうな、夢の隙間がその狹い庭にありさうで……初夏の靑い陽(かげ)さす靑酸漿のやさしい蕾。暗澹たる雷雨の中に朱く熟れた酸漿の實。夏もすがれ秋はさりげなく蝕まれて殘る酸漿の莖。かぼそく白い網のやうな纎維の袋のなかに照り映えてゐる眞冬の眞珠玉。そして春陽四月、土くれのあちこちからあわただしく萌え出る魔法の芽。……いく年かわたしはその庭の酸漿の姿に魅せられて暮らしてゐたのだが、さて、その庭のまはりを今も靜かに睡つてただよつてゐるのは、妻の幻。

[やぶちゃん注:「酸漿」は青土社版全集では「鬼灯」となっているが、私は個人的には、この方がよいと思う。「すがれ」は「盡れる」「末枯れる」で、ここでは、「盛りが過ぎて衰え始める」の意。] 

 

      

 窓の下にすきとほつた靄が、葉のちりしだいた竝木はうすれ、固い靴の音がしていくたりも通りすぎてゆく乙女の姿が、しづかにねむり入つたおんみの窓の下に。

[やぶちゃん注:「ちりしだいた」散り乱れる、散り荒れた、の意。] 

 

      鏡のやうなもの

 鏡のやうなものを、なんでも浮かび出し、なんでも細かにうつる、底しれないものを、こちらからながめ、むかふにつきぬけてゆき。 

 

      

 わたしがおまへの病室の扉を締めて、廊下に出てゆくと、長いすべすべした廊下にもう夕ぐれの氣配がしのび込んでゐる。どこよりも早く夕ぐれの訪れて來るらしいそこの廊下や階段をいくまがりして、建物の外に出ると澄みわたつた空に茜雲が明るい。それから病院の坂路を下つてゆくにつれて、次第にひつそりしたものが附纏つて來る。坂下の橋のところまで來ると街はもうかなり薄暗い。灯をつけてゐる書店の軒をすぎ電車の驛のところまで來ると、とつぷり日が沈んでしまふ。混み合ふ電車に搖られ次の驛で降りると、もうあたりは眞暗。私は袋路の方へとぼとぼ步いて行き、家の玄關をまたぎ大急ぎで電燈を捻る。すると、私にははじめて夜が訪れて來るのだつた、おまへの居ない家のわびしい夜が。

[やぶちゃん注:「灯」「燈」は底本のママとした。悩んだが、「袋路」も「ふくろこうぢ(ふくろこうじ)」であるならば、そのままがいい、と判断した。] 

 

      

 澤山の姿の中からキリキリと浮び上つて來る、あの幼な姿の立派さ。私はもう選擇を誤らないであらう。嘗ておまへがそのやうに生きてゐたといふことだけで、私は既に報いられてゐるのだつた。

[やぶちゃん注:「頌」「しよう(しょう)」は、人の徳や物の美などを褒め讃えること。また、褒め讃えた言葉や詩文。キリスト教では神を讃える歌の意。民喜はキリスト教徒ではないが、彼の長姉ツルはクリスチャンでその教授を受けて若き日に強い影響下にあったことは明らかで、彼の作品にはキリスト教的な何らかのイメージ(反駁性を強く示し乍らも)が常にあることは事実だと私は思う。] 

 

      かけがへのないもの

 かけがへのないもの、そのさけび、木の枝にある空、空のあなたに消えたいのち。
 はてしないもの、そのなげき、木の枝にかへつてくるいのち、かすかにうづく星。 

 

      病 室

 おまへの聲はもう細つてゐたのに、咳ばかりは思ひきり大きかつた。どこにそんな力が潛んでゐるのか、咳は眞夜中を選んでは現れた。それはかたわらにゐて聽いてゐても堪へがたいのに、まるでおまへを揉みくちやにするやうな發作であつた。嵐がすぎて夜の靜寂が立もどつても、病室の嘆きはうつろはなかつた。嘆きはあつた、……そして、じつと祈つてゐるおまへのけはひも。

[やぶちゃん注:「立もどつても」はママ。「たちもどつても(たちもどっても)」。] 

 

      

 不安定な溫度のなかに茫として過ぎて行つた時間よ。あんな麗しいものが梢の靑空にかかり、――それを眺める瞳は、おまへであつたのか、わたしであつたのか――土のおもてに滿ちあふれた草花。(光よ、ふりそそげ)かつておまへの瞳をとほして眺められた土地へ。

一九四四――四五年   

 

 

甲子夜話卷之二 1 神祖葡萄の御硯箱の事

 
甲子夜話卷之二 
所載五十三條

 

2-1 神祖葡萄の御硯箱の事

世に葡萄を模樣につけたる物は武家にては忌ことなり。かの實(ミ)の生(ナリ)て降(サガ)れる狀(カタチ)を、音通にて武道成り下(サガ)ると云に當てゝ忌なり。これを古き事のやうに云人あれども、駿府に存在する神祖の御遺器の中に、御かけ硯箱の、御生前常に御坐右に置せられしあり。其御箱の模樣、葡萄の實のりたるなりと云。又或人の家に拜領の細野羽折あり。その模樣總體葡萄にて、その中に所々御紋あり。然れば世に云所は、後の世の物忌る人の言出したることにて、古き事に非ること分明なり。

■やぶちゃんの呟き

「忌」「いむ」。最後の一文の「忌る」は「いめる」。

「かけ硯箱」蒔絵掛硯箱のこと。

「細野羽折」「ほそ/のばおり」で、「野羽折」は「打裂羽織(ぶっさきばおり)」とも言い、武士が乗馬や旅行などに用いた羽織のこと。背縫いの下半分が割れ、帯刀に便利なように工夫されてある。「背裂(せさき)羽織」「背割(せわり)羽織」「割(さき)羽織」「引裂(ひっさき)羽織」も皆、同じ。ここは「細」とあるから、そのスマートなタイプのものであろうか。

「御紋」言わずもがな、葵の紋。

「非る」「あらざる」。

甲子夜話卷之一 52 當上樣、牡丹花に付御掃除の者へ上意の事

52 當上樣、牡丹花に付御掃除の者へ上意の事

當御代未だ御年少なりしとき、牡丹花を石臺植にして獻ぜしものあり。數十枝の花櫕り開て、いと見事なりしかば、殊に尊慮に協ひ、御坐側におかれ、日々御賞觀ありしに、一朝その御間を掃除するもの、誤て牡丹の一枝を折り、いかゞすべきと仲か間ども打より、案じ惱ふ内に、はや上の渡御し玉へば、その者どもあまりに恐懼周章して、折れし枝もそのまゝにして、あつと平伏し缺出すことも得せざりしに、上渡らせられながら、あゝ此枝が折れて大分木ぶりが能なりたりと御諚ありしとなん。後に其御掃除せしもの語り合ひ、生れて以來、あれほど身に徹して難有事は覺へずと云ける。

■やぶちゃんの呟き

……これを以って「甲子夜話卷之一」をやっと終わった……

「當上樣」第十一代将軍徳川家斉(安永二(一七七三)年~天保一二(一八四一)年)。「甲子夜話」の執筆開始は文政四(一八二一)年十一月十七日の甲子の夜とされ(満六十一歳)、家斉の将軍在位は天明七(一七八七)年から天保八(一八三七)年である(家斉は静山より十三歳年下)。

「石臺植」「せきだいうえ」と読む。植木鉢の一種で、長方形の浅い木箱の四隅に取っ手を附けて盆栽を植えたもの。

「櫕り開て」「むらがりひらきて」と訓じておく。「櫕」(音「サン」)には群がって集まる木立ちの意がある。底本には編者ルビがない。これ、普通の人は読めんと思うがなぁ?

「協ひ」「かなひ」(叶ひ)。

「御坐側」「おんざそば」。

「仲か間」はママ。

「缺出す」「かけいだす」(駆け出だす)。折った本人が厳罰を科せられるとすれば、連座してはたまらないから、それ以外の者は事前にその場から走り逃げるとしても、一向におかしくはない。

「能なりたり」「よく(良く)なりたり」。

「御諚」「ごぢやう(ごじょう)」。仰せ。

甲子夜話卷之一 51 松平御補佐〔越中守〕、伊豆巡見のとき白猿を見る事

51 松平御補佐〔越中守〕、伊豆巡見のとき白猿を見る事

松平樂翁、宴席にての物語には、某先年蒙ㇾ命て、伊豆國の海邊を巡見するとて山越せしとき、何とか云〔名忘〕所に抵り、暫し休ひ居せしとき、其處は前に谷ありて、向は遙に森山を見渡し、廣き芝原の所ありしに、何か白きものゝ人の如く見ゆるが、森中より出來りぬ。夫に又うす黑き小きものゝ、數多く從ひ出く。遙に隔りたるゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、折ふし携へる遠目鏡にて視しに、白きと見えしは其大さ人にひとしき猴にて、純白雪の如し。小き者は尋常の猴にて大小あり。其數四五十にも及なん。彼白猴を左右よりとりまきて居けり。白猴は石上に腰をかけて、某が通行を遠望する體なり。いかにも奇なることゝ思ひしが、風と彼白猴を鳥銃にて打取んと思ひ、持せつる鳥銃をと傍の者に申せしに、折ふし先の宿所へ遣て其所には無し。その内はや猴は林中に入ぬ。奇異のことゆへ、其邊の里長に尋させしに、里長の答には、白猴この山中に住候こと、いまだ聞及ばずと。これは山靈にや有りけんなど語られし。此日、谷文晁も陪坐せしが、晁云ふ、其行に從ひしが、共に親く見しと也。

■やぶちゃんの呟き

「松平御補佐〔越中守〕」「松平樂翁」松平定信。

「巡見」巡見使としての公務。ウィキの「巡見使によれば、『江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使のこと。大きく分けると、公儀御料(天領)及び旗本知行所を監察する御料巡見使と諸藩の大名を監察する諸国巡見使があった』とある。

「猴」「さる」。猿。

「白猴」音なら「びやくこう(びゃっこう)」であるが、どうもピンとこない。以下総て、「はくえん」(白猿)と私は当て読みしたい。底本には特に編者ルビはない。

「體」「てい」。

「風と」「ふと」。

「鳥銃」底本編者に従い、「てつぱう(てっぽう)」と当て読みしておく。

「持せつる」「もたせつる」。

「先の宿所へ遣て其所には無し」これはたまたま山越えで時間が掛かるために、重い銃を背負った従者は先駆けして、その日の宿所に先に参って着御の準備をしていたものと思われる。

「里長」「さとをさ」。

「山靈」「やまれい」と訓じておく。

「谷文晁」「たにぶんてう(たにぶんちょう)」(宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四一)年)は画家で奥絵師。恐らくはこの当時は定信付きの絵師であったのであろう。ウィキの「谷文晁によれば、二十六歳で『田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世した』。三十歳の時、『田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、その近習となり』、『定信が隠居する』文化九(一八一二)年まで『定信付として仕えた。寛政五(一七九三)年には定信の江戸湾巡航に随行し』、「公余探勝図」を『制作する。また定信の命を受け、古文化財を調査し図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に従事し古書画や古宝物の写生を行った』とある。しかし、先の巡見使が若年寄を責任者とし、若年寄の支配下にあった使番一名が正使となっていることからすると、この話は松平定信がかなり若い時、老中になる遙か以前でなくてはならない。ところが、定信が老中首座となるのは、文晁が御付き絵師となるのは、それより後の天明七(一七八七)年である。どうも、文晁がその時一緒だったという辺りは、私にはちょっと怪しい感じがするのだが? 如何?

「陪坐」「ばいざ」。陪席(身分の高い人と同席すること)に同じい。

一つの星に   原民喜

  一つの星に

 

 わたしが望みを見うしなつて暗がりの部屋に横たはつてゐるとき、どうしてお前は感じとつたのか。この窓のすき間に、あたかも小さな霊魂のごとく滑りおりて憩らつてゐた、稀れなる星よ。

 

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:私が私の「原民喜全詩集」 で底本とした一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅱ」の書誌によれば、昭和二三(一九四八)年七月号『高原』に初出。因みに、この合わせて十五篇から成る「画集」という詩群の内、著者自身は「落日」から「一つの星に」の九篇を「美しき死の岸に」の作品群に分類していたため、青土社版全集ではこれらが第「Ⅱ」巻に載り、「はつ夏」「気鬱」「祈り」「夜」「死について」「冬」の六篇が第「Ⅲ」巻に分けて載るという構成となっている。しかし、青土社版は「Ⅲ」を『全詩集』と名打っており、この配置には私は致命的な難があると思っている。孰れにせよ、この全十五篇は総体的に於いて妻貞恵を追慕した作品群であり、彼が、小説「遙かな旅」(『女性改造』昭和二六(一九五一)年二月号)の前半で(引用底本は青土社版全集「Ⅱ」。近日、全文を電子化する予定である)、

   *

 妻と死別れてから彼は、妻あてに手記を書きつづけてゐた。彼にとつて妻は最後まで一番気のおけない話相手だつたので、死別れてからも、話しつづける気持は絶えず続いた。妻の葬ひのことや、千葉から広島へ引あげる時のこまごました情況や、慌しく変つてゆく周囲のことを、丹念にノートに書きつづけてゐるうちに、あの惨劇の日とめぐりあつたのだつた。

   *

という一節、さらに後半、

   *

 翌年の春、彼の作品集がはじめて世の中に出た。が、彼はその本を手にした時も、喜んでいいのか悲しんでいいのか、はつきりしなかつた。……彼が結婚したばかりの頃のことだつた。妻は死のことを夢みるやうに語ることがあつた。若い妻の顔を眺めてゐると、ふと間もなく彼女に死なれてしまふのではないかといふ気がした。もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残らう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために……と突飛な烈しい念想がその時胸のなかに浮上つてたぎつたのだつた。

   *

と、恐ろしいまでに照応する詩篇であると私は思う。『翌年の春、彼の作品集がはじめて世の中に出た』とあるのは、昭和二四(一九四九)年二月能楽書林刊の「夏の花」を指し、民喜の線路に身を横たえての覚悟の自死は、この「遙かな旅」が発表された翌月、三月十三日のことであった。]

部屋   原民喜

  部屋

 

 小さな部屋から外へ出て行くと坂を下りたところに白い空がひろがつてゐる。あの空のむかふから私の肩をささへてゐるものがある。ぐつたりと私を疲れさせたり、不意に心をときめかすものが。

 私の小さな部屋にはマッチ箱ほどの机があり、その机にむかつてペンをもつてゐる。ペンをもつてゐる私をささへてゐるものは向に見える空だ。

 

[やぶちゃん注:私が私の「原民喜全詩集」 で底本とした一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅱ」の書誌によれば、昭和二三(一九四八)年七月号『高原』に初出。]

露   原民喜

  露

 

 キラキラと光りながれるものが涙をさそふなら、闇にうかぶ露が幻でないなら、おもひつめた、パセチツクな眼よ。

 

[やぶちゃん注:私が私の「原民喜全詩集」 で底本とした一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅱ」の書誌によれば、昭和二三(一九四八)年七月号『高原』に初出。]

真昼   原民喜

  真昼

 

 うつとりとお前の一日がすぎてゆくほとりで、何の不安もなく伸びてゐたものがある。それは小さな筍が竹になる日だつた。そよ風とやはらかい陽ざしのなかに、縺れてほほゑむ貌は病んでゐたが。

 

[やぶちゃん注:私が私の「原民喜全詩集」 で底本とした一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅱ」の書誌によれば、昭和二三(一九四八)年七月号『高原』に初出。底本では「だつた」の箇所だけが、拗音化して「だった」となっているが、総標題「画集」中の他の総てが歴史的仮名遣で拗音表記していない以上、これは底本自身の誤りと採って、特異的に拗音化を避けた。老婆心乍ら、「縺れて」は「もつれて」と読む。「貌」は「かほ(かお)」と訓じたい。]

黒すみれ   原民喜

  黒すみれ

 

 体のすみずみまで、もう過ぎ去つた、お前の病苦がじかに感じられて、睡れない一夜がすぎると、砂埃のたつ生温かい日がやつて来た。かういふ日である、何か考へながら、何も云はず、力ないまつげのかげに、熱い眼がみひらかれてゐたのは。

 

[やぶちゃん注:私が私の「原民喜全詩集」 で底本とした一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅱ」の書誌によれば、昭和二三(一九四八)年七月号『高原』に初出。]

植物園   原民喜

  植物園

 

 はげしく揺れる樹の下で、少年の瞳は、雲の裂け目にあつた。かき曇る天をながれてゆく龍よ……

 その頃、太陽はギドレニイの絵さながらに、植物園の上を走つてゐた。忍冬、柊、木犀、そんなひつそりとした樹木が白い径に並んでゐて、その径を歩いてゐるとき、野薔薇の花蔭から幻の少女はこちらを覗いてゐた。樹の根には、しづかな埋葬の図があつた。色どり華やかな饗宴や、虔しい野らの祈りも、殆どすべての幻があそこにはあつたやうだ。それは一冊の画集のやうに今も懐しく私のなかに埋れてゐる。

 

[やぶちゃん注:私が私の「原民喜全詩集」 で底本とした一九七八年青土社刊「原民喜全集 」の書誌によれば、昭和二三(一九四八)年七月号『高原』に初出。

「ギドレニイの絵」バロック期のボローニャ派に属したイタリアの画家グイド・レーニ(Guido Reni 一五七五年~一六四二年)の代表作である、ローマはクイリナーレの丘に建つパラヴィチーニ=ロスピリオージ宮殿の天井画L'Aurora(アウローラ:一六一二年~一六一四年)のこと。ウィキの「グイド・レーニ」によれば、『この作品は「アウローラ」(曙)と通称されているが、画面の中心的位置を占めるのは黄金の馬車に乗ったアポロンであり、主題は「アウローラ(曙)に導かれるアポロンの馬車」と解すべきであろう。アポロンの周囲をめぐって輪舞する女性たちはホラ(「時」の擬人像、英語の"hour"の語源)である』とある。ウィキ画像をリンクしておく。

「忍冬」「ニンドウ」とも読むが、ここは「すひかづら(すいかずら)」(吸い葛)と訓じたい。マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica。冬場を耐え忍ぶ強い耐寒性に由来する。

「柊」シソ目モクセイ科オリーブ連モクセイ属ヒイラギ変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus var. bibracteatus

「木犀」オリーブ連モクセイ属モクセイ Osmanthus fragrans

「野薔薇」バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属ノイバラ Rosa multiflora

「虔しい」は「つつましい」と訓ずる。]

記憶   原民喜

  記憶

 

 もしも一人の男がこの世から懸絶したところに、うら若い妻をつれて、そこで夢のやうな暮しをつづけたとしたら、男の魂のなかにたち還つてくるのは、恐らく幼ない日の記憶ばかりだらう。そして、その男の幼児のやうな暮しが、ひつそりとすぎ去つたとき、もう彼の妻はこの世にゐなかつたとしても、男の魂のなかに栖むのは妻の面影ばかりだらう。彼はまだ頑に呆然と待ち望んでゐる、満目蕭条たる己の晩年に、美しい記憶以上の記憶が甦つてくる奇蹟を。

 

[やぶちゃん注:私が私の「原民喜全詩集」 で底本とした一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅱ」の書誌によれば、昭和二三(一九四八)年七月号『高原』に初出。]

故園   原民喜

  故園

 

土蔵の跡の石に囲まれた菜園、ここは一段と高く、とぼしい緑を風に晒してゐる。わたしはさまざまなことをおもひだす。薄暗い土蔵の小さな窓から灰かに見えてゐた杏の花。母と死別れた秋、蔵の白い壁をくつきりと照らしてゐた月。ふるさとの庭は年老いて愁も深かつたが……。ふしぎな朝の夢のなかでは、ずしんと崩壊した刹那の家のありさまが見えてくるのだ。

 

[やぶちゃん注:私が私の「原民喜全詩集」 で底本とした一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅱ」の書誌によれば、昭和二三(一九四八)年七月号『高原』に初出。母ムメは昭和一一(一九三七)年に享年六十二で亡くなっている。民喜は爆心地からたった一・二キロメートルしか離れていない生家(広島県広島市幟町(のぼりちょう)(現在の中区幟町)で被爆するも、九死に一生を得た。しかし、その生家は被爆直後に発生した火災類焼によって焼失している。]

落日   原民喜

  落日

 

 湖のうへに、赤い秋の落日があつた。ほんとに、なごやかな一日であつたし、あんな、たつぷりした入日を見たことはないと、お前も云つた。いつまでも、あの日輪のすがたは残つた、紙の上に、心の上に、そして、お前が死んでからは、はつきりと夢の中に。

 

[やぶちゃん注:私が私の「原民喜全詩集」 で底本とした一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅱ」の書誌によれば、昭和二三(一九四八)年七月号『高原』に初出。「お前」とは言わずもがな乍ら、民喜の妻芳恵(明治四四(一九一一)年~昭和一九(一九四四)年:民喜より六つ年下)。被爆・敗戦の前年、昭和十九年(一九四四)年九月に肺結核と糖尿病のために逝去していた。]

米川正夫譯「生きた御遺骸」PDF縦書版

――母聖子テレジア五周忌の母の御霊に――

ツルゲーネフの「猟人日記」より、正字正仮名で米川正夫譯「生きた御遺骸」の PDF縦書版を「心朽窩新館」に公開した。

ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より) (全)

[やぶちゃん注:本作はイワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ Иван Сергеевич Тургенев の“Записки охотника”の“Живые мощи”の米川正夫氏の訳、「獵人日記」の「生きた御遺骸」の全文である。
 底本は昭和二七(一九五二)年新潮文庫刊「獵人日記 下巻」を用いた。
 実は私は既に同作品の中山省三郎氏による翻訳「生神樣」をPDF縦書版HTML横書版HTML縦書版の三種で公開しているが、私は本作には「猟人日記」に馴れ親しんだ小学生時代から、特に思い入れがある。しかも、母が二〇一一年三月十九日にALS(筋委縮性側索硬化症)で亡くなる前後から、私はこの作品のルケリヤと母が強く重なって意識されるようになった。今日は母が亡くなって五年目の祥月命日を迎える。それに当たって、パブリック・ドメインとなった私が馴れ親しんだ米川氏の訳文も電子化したいと感じた。ただ、現代仮名遣の新字版は持っていたはずなのであるが、どうも見出せない(考えてみると、昔、教え子に贈ってしまった可能性が強い感じがする)。されば、すぐ手元にある何種かの内で、新しい上記の版を用いることとした。若い諸君には悪いが、これもまた正字・歴史的仮名遣版である。お許しあれ。米川氏による割注は〔 〕で同ポイントで示した。今回は、少数の難読語の以外には注を附さないこととした。
 踊り字「〱」は正字化した。ポイントの差も敢えて底本には一致させていない。――母の御霊に捧ぐ――【二〇一六年三月十九日 藪野直史】]
 
 
 
     生きた御遺骸
 
        長き忍苦にみちたる郷土――       
        露西亞の民の國よ、いましは!
              フョードル・チユツチエフ
  
 佛蘭西の諺のいふところに依ると、「乾いた漁師と濡れた獵人(かりうど)のすがたほど世にも哀れなものはない」とのことである。私はまだ魚とりを道樂にしたことがないので、晴れたいゝ日和に漁師がどんな氣持ちを味はふものか、また天氣の惡い日に獵が澤山あつたら、その嬉しさがどのくらゐ濡れ鼠の不快さを紛らしてくれるものか、何とも見當がつきかねる。しかしとにかく、雨といふやつは獵人に取つて全く災難である。丁度この種類の災難に私は出くはした。それは或る時、エルモライを連れて、松雞(えぞやまどり)を擊ちにべーレフ郡へ行つた時のことである。まだ夜の引き明けから雨は小止みなしに降り續けた。この災難を除けるために、ありとあらゆる方法を盡くしてみた! ゴムびきの合羽を頭からすつぽり被りもしたし、なるべく雨の滴に打たれまいと、木の下蔭に佇んでもみたが‥‥雨合羽の方は、鐡砲を打つ邪魔になつたことは云ひ立てないにしても、臆面もなく平氣で水を浸(とほ)すし、木蔭は又、なるほど初めのうちは、雨の雫が落ちて來ないやうに思はれたけれど、やがてその中に、叢葉(むらは)に溜まつた水が急にどつとこぼれて、枝といふ枝が樋の栓を拔いたやうな瀧しぶきを頭の上から落とすので、冷たい水がネクタイの下を潜り、背筋を傳はつて流れるのであつた‥‥これはエルモライの言葉を借りると、『いよいよのどんづまり』であつた!
「いや、ピョートル・ペトローヸッチ」到頭彼はかう云ひ出した。「これぢや、仕樣がありませんや! 今日は、獵は駄目ですぜ。犬は、濡れて鼻が利かなくなるし、鐡砲は火がつかねえ‥‥ちよつ! お話になりやしねえ!」
「どうしたものかな?」と私は訊ねた。
「かうしませうよ。アレクセーエフカへ參りやせう。旦那は御存じないかも知りませんが――ちよつとした農場がありましてな、旦那の御母(おふくろ)さまの所有(もちもの)になつてをります。こゝから八露里ばかりのところで。今夜はそこで泊つて、明日になつたら‥‥」
「こゝへ引つ返すか?」
「いんえ、こゝへ歸るんぢやありません‥‥アレクセーエフカの先きにわつしの知つたところがありましてね‥‥松雞(えぞやまどり)をやるにや、こゝよりずつといゝ所なんで!」
 私はこの忠實な伴の男に、それくらゐなら何故いきなりそこへ案内しなかつたか、などと押して訊ねようとはしなかつた。そして、その日の中に母の所有になつてゐる農場へ辿りついた。正直な話、そんなものがあらうなどとは、今まで私は夢にも知らなかつたのである。この農場には小さな離家(はなれ)がついてゐて、かなり古びてはゐたけれど、誰も人が住んでゐなかつたので、從つてさつぱりしてゐた。私はそこで極めて穩かな一夜を過ごした。
 翌日は思切り早く眼を醒ました。太陽は今しがた昇つたばかりで、空には雲の翳さへなかつた。あたりには、烈しい光りが二重になつて照り輝いてゐた。若々しい朝の光りと、まだ乾きもやらぬ昨日の夕立の反射なのである。小馬車(タラタイカ)の用意をしてゐる間に、小さな庭をそゞろ歩きに出かけた。嘗ては果樹園であつたのが、今はたゞ荒れるに任してある。でも、薰りの高い水々しい叢葉が、四方から離れを取り圍んでゐた。あゝ、外氣の中の快さ、頭の上に靑空が擴がり、雲雀が鳴いて、鈴のやうな囀りが小さな銀の玉でも振り撒くやうに虛空から降つて來る! 彼らはきつと翼の上に露の滴を載せて行つたに違ひない。その歌聲は露をそゝいだやうに思はれる。私は帽子までぬいで悦びの胸を一杯に張つて息をした‥‥餘り深くない谷の斜面に、結ひめぐらした柴垣のすぐ傍に養蜂場が見える。高草(プリヤン)や蕁麻(いらくさ)が壁その儘に密生してゐる間を、一と筋の細徑が蛇のやうに蜿りながらそこへ通じてゐる。雜草の上には、どこから種子を運ばれたのか、暗綠色をした大麻の莖が高く聳えてゐる。[やぶちゃん特別字注:「蜿り」「うねり」と訓じていよう。「のたくり」とも読めるが採らない。]
 この徑づたひに歩いて行くと、養蜂場へ出た。その傍(かたはら)には柴を編ん造つた納屋があつた。冬、蜜蜂の巣を入れて置く、いはゆる「圍ひ」である。私は半ば開いた戸口を覗いて見た。中は暗くてひつそりして、乾き切つてゐる。薄荷や蜜蜂蕈(メリツサ)の匂ひがする。片隅には板の間が設けられて、その上に何やら蒲團にくるまつた小さな物の形が見える‥‥私は出て行かうとした‥‥[やぶちゃん特別字注:「蜜蜂蕈(メリツサ)」シソ目シソ科コウスイハッカ属コウスイハッカ(レモン・バーム) Melissa officinalis のこと。ギリシア語で「Melissa」は「蜜蜂」の意で、レモン・バームの花は蜜蜂を引き寄せるために用いられたことに由来する。但し、「蜜蜂草」(中山省三郎氏の翻訳「生神樣」でも「蜜蜂草」とある)なら判るが、「蕈」(きのこ)というのは解せない。「蕈」に「草」の意味はないからで、検索をかけても「蜜蜂蕈」とは言わない。原文は「мятой」(ミント:シソ目シソ科ハッカ属 Mentha)と「мелиссой」(メリッサ)であるから、これは「草」の誤植の可能性がある(しかし米川氏の更に前の版でも「蜜蜂蕈」となっている)。こんもりと丸く生えるメリッサを「茸」に譬えないとは言えないので暫くママとしておく。]
「旦那さま、もし、旦那さま! ピョートル・ペトローヸッチ!」沼の菅のそよぎのやうに弱々しい、ゆつたりした、嗄れ聲が聞こえた。
 私は足を停めた。
「ピョートル・ペトローヸッチ! どうぞ、こちらへいらしつて!」と、いふ聲がまた聞こえる。それは、私が目をつけた例の板の間から響いて來るのであつた。
 私はそばへ寄つて見て、驚きのあまり棒のやうに立ち疎んだ。私の前には生きた人間が臥てゐたのである。しかし、これは一體なにものだらう?
 頭はすつかり萎び切つて、たゞ一樣に靑銅色をして、――どう見ても紛れのない――昔風の描き方をした聖像のやうであつた。鼻は剃刀の刄のやうに尖つて、唇は殆んど見分けられない位で、たゞ齒と眼ばかりが白く目立ち、頭を縛つた布の下からは、乏しい黃色い髮が額にはみ出してゐる。顎の邊まで被さつてゐる蒲團の襞の下から、小枝のやうな指をゆるゆると爪繰りながら、同じく靑銅色をした小さな兩手が動いてゐる。私はなほも眼をすゑて見た。その顏は醜くないばかりでなく、却つて美しいくらゐであつたが――しかし物凄い、竝み外れたものであつた。その上この顏が、金屬のやうな感じのする頰のあたりに、微笑みを擴げようともがき‥‥もがいてゐるのを見て、一しほ恐ろしく思はれたのである。
「わたしがお分かりになりませんか、旦那樣?」とまた同じ聲が囁いた。その聲は動くか動かないか見分けられない程の唇から、湯氣のやうに吐き出されるかと思はれた。「それに又、お分かりにならう道理がありません! わたしはルケリヤでございます‥‥覺えていらつしやいますか、あのスパスコエのお母樣のところで輪踊(ホロヲード)の音頭取りをいたしました‥‥お覺えでいらつしやいますか、わたしはその上に合唱の方も音頭を勤めてをりましたが?」
「ルケリヤ!」と私は叫んだ。「お前だつたのかい! まさかどうも!」
「わたし、さうなのでございますよ、旦那さま――わたし、わたしがルケリヤでございます。」
 私は何と云つていゝか分からないで、薄色(うすいろ)の死んだやうな眼を私に注いでゐる、このどす黑いぢつと動かぬ顏を、呆然として瞶めてゐた。これが果たして有り得ることだらうか? この木乃伊がルケリヤだとは――あの背が高くて色の白い、頰のあかあかとした、笑ひ上戸の踊り好き、そして歌の名人で、邸中でも一番の美人であつたルケリヤ! 村の若い衆がみんなで後を追ひ廻した利巧者のルケリヤ、私自身まだ十六歳の少年の頃、ひそかに憧れの對象にしてゐた、あのルケリヤだとは!
「飛んでもないことを、ルケリヤ、」と私はやつとのことで口を切つた。「一體それはお前どうしたんだね?」
「とんでもない災難が降りかゝりましてね! どうかあなた、つまらない事ではございますが、旦那さま、お厭でも私の不仕合せな身の上話を聞いてやつて下さいまし――まあ、そこの桶へお掛けなすつて――もそつと近く、でないと、私の聲がお聞えになりませんから。でも、わたしずゐぶん聲が出るやうになりましたわ! それはさうと、あなた樣にお眼にかゝれて、こんな嬉しいことはございません! 一體どうして、このアレクセーエフカなどへいらつしやいましたのでせう?」
 ルケリヤは極く小さな弱々しい聲ではあつたが、澱みなしに話し續けた。
「獵師のエルモライが、こつちへ引つぱつて來たんだよ。が、それよりお前の話を聞かうぢやないか‥‥」
「わたしの災難のお話でございますか? 宜しうございます、旦那樣。もう大分前のことで、六年か七年ぐらゐにもなりませう。わたしはその時分ヷシーリイ・ポリャコフと許婚の約束が出來たばかりなのでございました――覺えていらつしやいますか、押出しのいゝ、髮の毛の房々と捲いた人で、お母樣に使はれて食堂番を勤めてをりましたが? でも、あの時分あなたは村にいらつしやいませんでしたね、モスクワへ學問をしに行つておしまひになつて。わたしとヷシーリイはお互にとても好き合つてゐましてね、わたしあの人のことが寢た間も頭を離れませんでした。丁度春のことでしたが、ある晩ふと、どうしたのか‥‥もう夜明けに間もないのに‥‥どうしても寢られないのでございます。庭では鶯が、それこそうつとりする程いゝ聲で啼いてゐるんですの!‥‥わたしは堪らなくなつて起き出しましてね、入口の上り段のとこまで聞きに出ました。鶯は一生懸命に高音を張つて啼き立ててゐます‥‥すると不意に、誰かヷシーリイらしい聲でわたしを呼んでるやうな氣がしました、小さな聲で『ルーシャ』とこんな風にね‥‥わたしは不圖その方へ眼をやりましたが、やはり半分夢見ごゝちだつたと見えて、足を踏みはづしたのでございます、高い上り段からまつ直ぐ下へ落ちてしまひまして、いきなり地べたへ身體を打つけたので! でもその時は大した怪我もなかつたやうな氣がしましたので、やがて起き上がつて、自分の部屋へ歸つて來たやうな譯ですが、でも、何かしらの中の方で――お腹の中で――千切れたやうな按配でございました‥‥ちよつと一つ息をつがして下さいまし‥‥暫くの間‥‥旦那さま。」
 ルケリヤは口を噤んだ。私は驚きの眼を瞠つて彼女を眺めた。私が驚いたのはほかでもない、彼女が殆んど樂しさうに、嘆聲や溜め息など洩らすことなく、しひて同情を求めようともせずに、物語をつゞけたことである。
「それからといふもの、」とルケリヤは言葉を續けた。「わたしは次第に瘦せ細つて參りまして、肌の色が黑みがかつて來ました。歩くことも骨が折れるやうになりますし、その中にやがては全然(まるで)兩足が利かなくなりましてね、立つことも坐ることも叶ひません。始終横になつてばかりゐたいのでございます。飮み食ひも氣が進みませず、だんだん惡くなる一方でした。奧さまは、あの御親切な方ですから、方々のお醫者さまにもかけて下さるし、病院にまでやつて下さいました。けれど、一向に驗が見えません。第一、わたしの病氣が何の病ひやら、それを見立てるお醫者さまが一人もないのでございます。でも、いゝといふことなら何でもして下さいました。鐡を燒いて背中に當てたり、川の氷を割つてその中へ浸けたり――でも、やつぱり効き目がありません。たうとう私は身體がこつこちになつてしまひました‥‥そこで、御主人さま方も、もうこのうへ療治をしても仕方がない、かと云つて、お邸へ片輪者を置いとくわけにもゆかない、といふことになりましてね‥‥まあ、こちらへ送られて來たのでございます――それに、こゝには身寄りの者もをりますので。かういふ次第で、御覽の通りの有樣でをります。」
 ルケリヤはもう一度口を噤んで、又もや微笑みを見せようとした。
「それは、しかし恐ろしいこつたね、お前の身の上は!」と私は叫んだが‥‥それ以上なんと云つていゝか分からないで、かう訊ねた。
「で、ヷシーリイ・ポリャコフはどうしたんだね?」
 この問ひはおそろしく馬鹿げてゐた。
 ルケリヤは心持ち眼をわきへ外らした。
「ポリャコフがどうしたかですつて? 暫くしほしほしてゐましたが、やがてほかの娘と、グリンノエ村から來た娘と夫婦(いつしよ)になりました。グリンノエを御存じでいらつしやいますか? わたしどものところからさう遠くはございません。娘はアグラフェーナと申しました。あの人はとてもわたしを可愛がつてくれたのですけれど、何分、若い男のことでございますから、いつまでも獨り身で居るわけには參りません。それかとて、わたしがどうしてあの人の配偶(つれあひ)になれませう? でもあの人はちやんとした、氣だてのいゝお内儀さんを見つけて、今では子供たちまでありますからね。すぐ近所の地主さまのところで、番頭を勤めてをります。あなたのお母樣が身元證明の書きものをつけて、暇をおやりになつたものですから、お庇で大そう具合がいゝさうでございますよ。」[特別やぶちゃん字注:「お庇で」は、恐らく当て字で「おかげで」と読む。ここは「それ以来、長く」の意。後に「お庇樣で」(おかげさま:応答の辞の「御蔭様(おかげさま)で」)などとも出るので特に注しておく。]
「それでお前はかうして、いつもいつも臥てばかりゐるのかい?」と私はまた訊ねた。
「さやう、旦那さま、かうして臥せつてをりますのも、足かけ七年目でございます。夏はこの小屋に寢て居りますが、寒くなると、風呂場の入口の間に移してくれますので、そこに臥てをります。」
「誰がお前の看病をしてゐるんだね? 誰か世話をしてくれる人があるの?」
「はい、こゝにも親切な人達が居りましてね、わたしのやうなものでも放つては置きません、それに看病と申しても知れたもので、食べる方は、もう食べるといふ程でもありませんし、水なら、ほれ、そこにございます、その湯呑みの中にいつも淨(きれ)いな清水が用意してありますので。湯呑みには自分で手が屆きます。片方の腕はまだ利きますから。それから、こゝに小さな女の子がをりますの。孤兒でしてね、これがひよいひよいと見舞ひに來てくれます、有難いことに。つい今し方もそこに居りましたつけが‥‥お會ひになりませんでしたか? それはそれは可愛い娘(こ)で、色白なんでございますよ。その手が花を持つて來てくれますの、わたしが大好きなもんですから、その、花がねえ。こゝには庭の花といつてはございません。もと有つたのですけれど、絶えてしまひましてね。でも、野の花だつていゝものでございますよ。匂ひなんか庭の花よりいゝ位ですもの。まあ、あの鈴蘭にしましても‥‥どれだけ氣持ちがいゝやら!」
「それで退屈でないかい、可哀さうに、ルケリヤ、不氣味でないかい?」
「どうも致し方がございません! 噓をつくのは厭ですから正直に申しますが、初めの間はとても情けなうございました。けれど、やがて馴れつこになつて、辛抱しぬいてみると――もう何ともありません。世の中にはもつと不運な人もあるんですからね。」
「それは又どういふ事だい?」
「中にはまるで身を寄せるところのない人もありますもの! また中には目が見えなかつたり、耳が聞えをかつたりして! ところが、わたしは、有難いことに眼もよく見えますし、何でもはつきり聞えます、それこそ何でも。土龍(もぐら)が地の中を掘つてゐる――それさへちやんと聞えますからね。又どんな匂ひでも、それこそ、どんなに微かな匂ひでも鼻が利きますので! 畑で蕎麥の花が咲くとか、お庭で菩提樹の花が開くとかすれば、わたしは教へて貰はなくても、すぐさま一番に知るのでございます。たゞそちらの方から風がそよそよと吹いて來さへすれば分りますものね。えゝえ、なんの神さまをお恨み申しませう? まだまだ運の惡い人は、たくさん居りますからね。それに、かういふ事だつてあります。達者な人といふものは、ともすれば罪なことをし勝ちなものですけれど、わたしなどは罪の方が自分で逃げて行つてくれました。この間もお坊さまが、アレクセイ神父さまがわたしに聖餐を授けようとなされて、『お前には懺悔をさせるがものはない。さういふ風になつては罪を犯すわけがないからな?』と仰つしやいました。けれどもわたしはその御返事に、『でも心の中の罪はどうなりますので?』とお訊ねしたら、『いや、それは大した罪ぢやないよ。』と云つて、笑つていらつしやるのでございます。」
「それに、わたしは屹度その心の中の罪も餘り犯してはゐないと思ひます。」とルケリヤは續けた。「だつて、わたしは物を考へたり、第一、そのことを思ひ出したりしないやうに、自分を躾けてしまつたからでございます。その方が、月日が早く經つてくれます。」
 私は正直な話、びつくりした。
「お前はいつもいつも全くの獨りぼつちぢやないか、ルケリヤ、それだのに、どうして考ヘごとが頭へ浮かんで來ないやうに出來るんだらう? それとも始終眠つてるのかい?」
「まあ、どういたしまして、旦那さま! いつも寢られるとは限りません。大した痛みはございませんけれど、この、お腹(なか)ん中がしくしく疼きましてね、骨の節々もさうなんで、どうも本當にぐつすり眠られません。どう致しまして‥‥ところで、かうしてぢつと横になつて、まじりまじりしながら、考ヘごとをしないのでございます。まあ自分は生きてゐて、息をしてゐるのだと感じる――それだけがやつとなんですからね。かうして、見たり聞いたり致します。蜜蜂が巣でぶんぶん唸つたり、鳩が屋根に止まつてくうくう啼いたり、巣についた牝雞が雛をつれてパンの粉を啄つきに入つて來たり、かと思ふと雀や蝶々が飛んで來たりします。そんなことがとてもいゝ氣持ちでしてね。一昨年(をととし)は燕がそこの隅に巣まで作りまして、子供を孵したのでございます。その面白かつたことと云ひましたら! 一羽が巣に歸つて來て、身體をぴつたりつけながら雛を養ふと、また飛んで行つてしまひます。また見てゐますと、もう入れ替りにほかのが飛んで來る。時には開け放した戸口を掠めて行くことがあります。すると子供たちは、ね、早速ちいちく鳴いて、嘴を開けて待つてゐるぢやありませんか‥‥わたしはその次の年も心待ちにしてゐましたが、何でも土地のさる獵師が鐡砲で擊つてしまつたさうでございます。あんなものを殺して何の足しになるのでせう? 燕なんて甲蟲ほどしかないものを‥‥あなたがた獵をなさる方は、なんて意地わるなんでせうね!」
「おれは燕なんか擊たないよ。」と私は急いで云ひわけした。
「かと思ふと、一度なんか、」とルケリヤはまた云ひ出した。「それは可笑しい事がございましたつけ! 兎が飛び込んだので、本當なんですの! 犬にでも追はれたものでせうか、とに角いきなり戸口から轉がるやうに入つて來ましてね!‥‥すぐ傍にちよこなんと坐つて――いつ迄もぢつとさうしてゐました、のべつ鼻をひくひくさせて、髭を動してゐるぢやありませんか。まるで軍人さんそつくりでしたわ! わたしの方も見てゐましたつけが、わたしが怖いものぢやないつてことを合點したと見えますの。たうとう起きあがつて、ぴよんぴよんと戸口のとこまで跳ねて行きましてね、閾の上で後をふり返つたと思ふと、そのまゝ見えなくなつてしまひました! その可笑しいことと云つたら!」
 ルケリヤはちらと私を眺めた‥‥これでも面白くないか? とでも云ひさうに。私は彼女を悦ばすために微笑んで見せた。彼女はかさかさに乾いた唇を嚙んだ。
「まあ、冬になりますと、そりや當り前のことですけれど、いけまんわ。だつて暗いんですものね。蠟燭をつけるのは勿體ないし、それに何の役にも立ちませんから。わたし、讀み書きは知つてをりまして、いつも本を讀むのは好きでしたけれど、一體まあ、何を讀むのでせう? ここには本なんてまるでないし、よしんば有つたにもせよ、どうして手に持つてゐることなど出來ませう、本なぞを? アレクセイ神父さまが、氣晴らしにといつて、曆を持つて來て下さいましたが、何の役にも立たないことが分かつたものですから、また持つて歸つておしまひになりました。尤も、暗いにや暗うござんすけれど、それでも何か彼か耳に入るものがあります。蟋蟀が鳴いたり、鼠がどこかでがりがり云はしたり――すると、いゝ氣持ちになつて來るんですの、考へないで濟みますから!」
「それから又、お祈も唱へます。」少し息を休めてから、ルケリヤは言葉を續けた。「たゞほんの少しか知りませんのでね、そのお祈を。第一また、わたしなんか何も神樣にうるさくして御迷惑をおかけする事などはありませんもの。わたしなんか何をお願ひすることがありませう! わたしにどんなものが入用なのか、それは神樣の方がよく御存じでいらつしやいます。神樣がわたしにこの十字架を授けて下すつたところを見ると、つまりわたしを愛してゐて下さる證據ですものね。かういふのが、神さまのお云ひつけでございます。『我らの父よ』とか、『聖母マリヤよ』とか『悲しめるものみなへの讃歌』などを誦してしまひますと――又その後は何も考へないで、ぢつと臥てをりますが、それで平氣なのでございますよ!」
 二分ばかり過ぎた。私は沈默を破らないで、腰かけ代りの窮屈な桶の上で身動きもせずにゐた。私の前に横たはつてゐる不幸な生き物の慘たらしい石のやうな靜けさが、私にもいつしか傳はつて自分までが痺れたやうになつて來た。
「ねえ、ルケリヤ、」私は遂に口を切つた。「どうだらう、一つお前に相談があるんだがね。もしなんなら、私がちやんと云ひつけて、お前を町の立派な病院へ連れて行かせるが? もしかしたらまだ癒るかも知れないぜ、そりや何とも云へない。いづれにしても、さうすればお前は獨りぼつちぢやなくなるからな‥‥」
 ルケリヤはほんの心持ち眉を動かした。
「おゝ、いけません、旦那樣、」と心配さうな聲で囁いた。「病院なぞへ送らないで下さいまし、わたしに觸らないで。あんな所へ行つたら、かへつて餘計に苦しい目をするばかりですから。どうしてわたしの病氣が癒せるものですか!‥‥現にいつかもこゝへお醫者さまが來てくれまして、わたしを診察してやると仰つしやるのです。わたしはどうぞ後生ですからそつとして下さいとお願ひしましたが、なんのなんの! わたしをあつちへ向けたり、こつちへ向けたりして、手足を揉み散らしたり、伸ばしたり曲げたりしましてね。『これは學間のためにするのだ。そこが學者の務めなんだ! だから、わしに逆らつたりするのは以ての外だ。なぜかと云つて、わしは色色の仕事をした功で勳章まで頂戴した人間でな、お前たち愚かな者どものために盡くしてやつてゐるのだ。』とこんなに仰つしやいます。さんざわたしをひねくり廻しひねくり廻した擧句、病名を云はれましたが――何だか變挺れんな名前でしてね――それきり歸つてしまひました。ところが、わたしはそれから丸一週間といふもの、身體中の骨がしくしく疼いて困りましたよ。あなた樣は、わたしが獨りぼつちだ、いつも獨りぼつちだ、と仰つしやいますけれど、いゝえ、いつもさうぢやありません。來てくれる人もあります。わたしはおとなしい人間で、迷惑なぞかけませんのでね。百姓の娘達も遊びに來て、お喋りをして行きますし、巡禮の女が通りかゝつて、エルサレムだのキエフだの、いろいろな有難い町々の話をしてくれます。それに、わたしは獨りだつて怖くはありません。結局いゝ位でございます。全くの話が!‥‥旦那さま、どうかわたしをそつとして置いて下さいまし、病院なぞへお通りにならないで‥‥御親切は有難うございますけれど、たゞわたしに構はないで、もし旦那さま。」
「まあ、好きなやうにするがいゝ、好きなやうに、ルケリヤ。私はたゞお前のためを思つて云つただけなんだから‥‥」
「分かつてをります、旦那さま、わたしのためを思つて下さるのですとも。でも、御親切な旦那樣、他人(ひと)を助けるなんて誰に出來るものですか? 誰が他人の心の中まで立ち入れますもんで。人間は自分で自分を助けるより仕方がございませんよ! 早い話が、旦那は本當になさりますまいけれど‥‥時折りかうして獨りで休んで居りますと‥‥まるでこの世に生きてゐるのは、わたしよりほか誰もゐないやうな氣が致します。たゞもうわたしひとりだけが生きた人間みたい! すると、何だか有難い後光でもさして來るやうな按配で‥‥ふつと考へ込んでしまひます――しかも奇妙なことを考へますので!」
「どんな事をそのとき考へるの、ルケリヤ?」
「それは、旦那さま、とてもお話し出來ません。御得心の行くやうに云へません。それに、あとになると忘れてしまふものですから。まるで雲のやうにふわつと來て、夕立ちみたいに降りかゝるんですの、すると何とも云へないほど爽々しい、いゝ氣持ちになるのですけれど、さてそれが何だつたか、一向に譯がわかりません! でも、こんな氣が致します。もしわたしの周圍に人が居りましたらこんな事はちつともなくつて、自分の不仕合せといふよりほか、なんにも考へないのぢやないかつて。」
 ルケリヤはやつとのことで溜め息をついた。胸も手足と同じやうに、彼女のいふことを聞かなかつたのである。
「お見受け申しますと、旦那さま、」と彼女はまた始めた。「あなたはわたしを大そう可哀そうに思つて下さるやうでございますが、どうぞあんまり氣の毒がらないで下さいまし、ほんとに! 打ち明けてお話いたしますけれど、早い話が、わたしは今でもどうかすると‥‥ねえ、お覺えでもございませうが、昔わたしもそれは陽氣な娘でしたね? 蓮つ葉な娘でしたもの!‥‥それで、まあどうでせう? わたしは今でも歌をうたひますの。」
「歌を?‥‥お前が?」
「えゝ、歌をね、古い歌を、輪舞のや、皿占ひ〔皿の下に物を置いて占ふ時の囃し歌〕のや、十二日節のや、いろんな歌を! わたしはそんなのを澤山知つてをりまして、今でも忘れませんから。でもねえ、普通の踊歌は唄ひません。今のやうな身の上になつて見ますと、そんなのは具合が惡うございましてね。」
「それをどんな風に歌ふの‥‥心の中で?」
「心の中でも、それから聲を立てても。大きな聲は駄目ですけれど、でも、ちやんと分かるやうにね。それ、さつきお話しましたでせう――女の子が一人わたしのところへ遊びに來るつて、孤兒ですが、でもね、物分りのいゝ子でして。それでわたし、その子に歌を教へてやりましたの。もう四つばかりちやんと覺えました。本當にはなさいませんか? ちよつと、待つて下さいまし、わたしが今‥‥」
 ルケリヤは身構へに息を深く吸ひ込んだ‥‥この半ば死んだやうな生き物が歌をうたはうとしてゐる、かう考へると私は思はずぞつとした。けれど、私が一言も云ひ出さない中に、長く尾を引いた、漸く聞き取れるか取れないかの、しかも澄み切つた正確な音が、私の耳に響いて來た‥‥つゞいて第二、第三の音。ルケリヤは『草野の中で』を歌つてゐるのであつた。化石したやうな顏の表情を變へず、眼さへきつと据ゑて歌つてゐる。この哀れな、精一杯の、細い煙のやうに打ち慄へる聲は、人の心を動かさねば止まぬ響きを帶びてゐた。彼女はその魂を殘らず注(そゝ)ぎ出したかつたである。私はもう恐れを感じなかつた。言葉に盡くせぬ憐愍の情が私の胸を緊めつける。[やぶちゃん特別字注:「草野の中で」原文は“"Во лузях"”。こちらの合唱をリンクさせて戴く。]
「あゝ、だめです!」と彼女は不意に云つた。「力が續きません‥‥旦那樣のおいで下すつたのがあまり嬉しくつて。」
 彼女は眼を閉ぢた。
 私はその小さな冷たい指の上に手を載せた‥‥彼女は私をちらと見上げた。――古代彫刻でも見るやうな、金色の睫毛に翳(かげ)られた暗い瞼は、ふたゝび閉ぢられてしまつた。間もなく、その眼は薄闇の中で輝きはじめた‥‥眼は涙に濡れてゐる。
 私は相變らず、身じろぎさへもしなかつた。
「まあ、わたしとしたことが!」とルケリヤは、思ひがけない力の籠つた調子で不意に口を切つた。そして眼を大きく見開きながら、瞬きで涙をふり拂はうとした。「よくまあ、恥づかしくない! なんといふことでせう? もう永らくこんな事はなかつたんですのに‥‥去年の春、ヷーシャ・ポリャコフが訪ねて來た、あの日以來のことで。あの人がそこに腰かけて、話をしてゐた間は、何のこともありませんでしたが、行つてしまつた後で、獨りきりになると、怺へ性なしに泣き出してしまひました! 一體どこからこんなものが出て來るのでせう!‥‥尤も、わたしたち女の涙なんて、たゞ同樣のもので、他愛なく出るものですけれどね。ねえ、旦那さま、」とルケリヤは云ひ足した。「多分ハンカチをお持ちでいらつしやいませうね‥‥お氣持ちが惡いでせうけれど、わたしの眼を拭いてやつて下さいませんか。」[特別やぶちゃん字注:「怺へ性」は「こらへしやう(こらえしょう)」と読む。堪(こら)え性に同じい。]
 私は急いでその望みを叶へてやつた。そしてハンカチを殘して置いてやつた。彼女は初め辭退して‥‥こんなものを頂いて何といたしませう? と云ふのであつた。ハンカチは極く質素なものながら、淨(きれ)いでまつ白だつた。やがて彼女は弱々しい指で摑むと、もうそれきり放さうとしなかつた。私は二人を包んでゐる暗がりに馴れて來たので、彼女の顏の輪郭をはつきりと見分けることが出來、靑銅色(ブロンズ)の皮膚に滲み出してゐる徴かな紅(くれなゐ)の色にさへ氣がついた。そして、少なくとも私にはさう思はれたのだが、その昔の美しかつた名殘りを、その顏に見つけ出すことができたのである。
「ねえ、旦那さま」とルケリヤはまた云ひ出した。「さつき眠れるかとお訊ねになりましたね? なる程、わたしは稀(たま)にしか眠りませんけど、でも、寢た時にはきつと夢を見ます――いゝ夢をね! 夢の中では、いつだつて病氣のことはございません。いつも達者で若くつて‥‥たゞ一つ悲しいことには、眼が醒めて、氣持ちよく伸びをしようと思ひますと――どつこい、まるで鎖で縛られたやうなんでございます。いつでしたか、それはそれは有難い夢を見ましたつけ! なんならお話やたしませうか? では聞いて下さいまし。――ふいと見ると、わたしは野原の中に立つてゐるのでございます。まはりには裸麥が一面に生えてをりましてね、よく熟れて背が高く黃金色(きんいろ)をしてをります!‥‥そばには赤い犬がついてをりましたが、それが意地の惡い、とても意地の惡いやつでして、のべつわたしに嚙みつかう、嚙みつかうと致します。さて、わたしは手に鎌を持つてゐるのでございます。しかもたゞの鎌ではなくて、紛れもないお月樣なのでございます。ほら、月がよく鎌みたいになりますね、あれですの。この月でもつて、わたしは裸麥をすつかり綺麗に刈つてしまはなければなりません。たゞ暑いので、身體がぐつたりして、それにお月さまが目眩しくつて堪りませんし、妙に億劫なのでございます。ところが、周りには矢車菊が生えてゐましてね、とても大きな輪(りん)なんですの! それが急にみんなわたしの方へ頭をふり向けました。わたしはこの矢車菊を摘んでやりませうと考へました。ヷーシャが來るつて約束しましたから、丁度さいはひ、まづ花環を拵へよう、刈るのはその後でも間に合ふから、と思ひましてね。矢車菊を摘みにかゝりました。ところが幾ら摘んでも摘んでも、花は指の間からどこかへ消えて行くのです。どうしても駄目! 花環は編めないぢやありませんか。さうかうしてゐる中に、誰やらわたしの方へ來る足音が聞こえます。すぐ傍まで來て、ルーシャ! ルーシャ! と呼ぶのでございます‥‥あゝ、困つた、間に合はなかつた! とわたしは考へました。でも、同じことだ、矢車菊の代りにお月樣を頭に被らう、と思ひまして、飾頭巾のやうにお月樣を被りますと、急にわたしの身體が光り出して、野原が一面に明るくなりました。ふと見ると――麥の穗先きを傳はつて矢のやうに早く走つて來るものがある――でも、それはヷーシャではなくて、當の基督樣なのでございます! どうしてそれが基督樣と分つたか、それは云へません。繪に描いてあるやうなお姿とも違ひますけれど、とにかくさうなのです! お鬚がなくて、背の高い、若い方で、まつ白な着物をきていらつしやいましたが、たゞ帶だけが金なのでございます――わたしの方へお手を差し伸べて仰しやるには、『怖がることはない、美しく着飾つたわしの花嫁、わしの後からついておいで。お前は天國で輪舞(ホロヲード)の音頭を取つて、極樂の歌を唄ふのだ。』わたしはいきなりそのお手に吻(くち)をつけました。犬は不意にわたしの足に嚙みつきました‥‥けれど、その時わたしたちは虛空へ舞ひ上がりました! 基督樣が先きに立つていらつしやる‥‥そのお翼が鷗のやうに長くて、空いつぱいに擴がつてゐます――わたしはその後からついて參りました。そこで犬もわたしの足から離れなければなりませんでした。その時はじめて、この犬はつまりわたしの病氣なのだ。でも天國に行けば、こんなものの居場所は、なくなるのだといふことが、やつと分かつたのでございます。」
 ルケリヤはちよつと口を噤んだ。
「それからこんな夢も見ました。」とまた語り出した。「でも、ひよつとしたら現(うつゝ)に見えたのかも知れませんけれど――それはもう何とも云へません。わたしはこの納屋の中に臥てゐるやうな氣がしました。すると亡くなつた兩親が、お父さんとお母さんが參ましてね、わたしに丁寧なお辭儀をするんですが、口はつちとも利きません。わたしが『お父さん、お母さん、何だつてわたしにお辭儀なさるんですの?』と訊きました。『ほかでもない、お前はこの世で自分の魂を樂にしたばかりでなく、私達の心からも大きな重荷をおろしてくれた。だから、私達はあの世で大層具合がよくなつたよ。お前はもう自分の罪は綺麗になくなつてしまつて、いま私達の罪滅ぼしをしてくれてゐるのだよ。』かう云つて、兩親はまたわたしにお辭儀をすると、姿が見えなくなつてしまつて、目に映るのは壁ばかりなのでした。その後で、これは一體どういふ事なんだらうと、不思議で不思議で堪りませんでした。懺悔のとき、お坊樣にもお話した位でございます。でも、お坊樣は、それは幻ではない、幻はたゞ坊さんにだけ見えるものだから、とこんなに仰しやいました。」
「それからね、こんな夢もございましたつけ。」とルケリヤは言葉を續けた。「なんでもわたしが街道の楊の下に坐つてゐる處なので。手に削つた杖を持つて、袋を背中に負ひましてね、頭は布(きれ)で包んで、そつくり巡禮なのでございます! どこか遠い遠い所へ、靈場巡りに行かなければならないのでした。巡禮がのべつわたしのそばを通り過ぎて行きます。みんな厭々さうにのろのろと歩いて、同じ方ばかり指してゐるのでございます。誰も彼もぐつたりしたやうな顏をして、みんなお互に似てゐるのです。ふと見ると、大勢の間に一人の女がうろうろして、ぐるぐる歩き廻つてをります。背が高くて、みんなの頭の上に首がちやんと見えてゐましてね、着てゐる着物も何だか特別なもので、わたし達のやうな露西亞風とは違つてをります。顏もやはり特別な顏で、脂けのない嚴しい顏でした。そして、誰もがその女を避けるやうにしてゐるのです。女は急にくるりと身を飜して、まつすぐにわたしの方へやつて來るぢやありませんか。わたしのそばに立ち止つて、ぢつと見つめる、その眼が鷹のやうに黃色くて大きくて、澄みに澄んでゐるのでございます。『どなた?』と訊ねますと、『わしは死神だよ。』と申します。わたしは吃驚りするどころか、却つて大喜びして十字を切りました! するとその女が、死神の云ふことには、『ルケリヤ、わしはお前が可哀さうだけれど、でも連れて行くわけにはゆかない、さやうなら!』ああ! わたしはそのとき辛くて辛くて堪りませんでした!‥‥『つれて行つて下さい、あなた、わたしの大好きなお方、どうぞつれて行つて下さいな!』と申しますと、死神はわたしの方へ振り向いて何か云ひ出しました‥‥わたしは最後の時を決めて下さるのだなと悟りましたけれど、よく分かりません、聞き取りにくいので‥‥ペトロフキ〔六月二十九日の聖ペテロ祭前の精進期。〕が濟んでからといつたやうな氣がしました‥‥そこでわたしは眼が醒めたのでございます‥‥よくこんな不思議な夢を見るんでしてね!」
 ルケリヤは眼を上へ向けて‥‥考へ込んだ‥‥
「たゞ一つ困つたことには、一週間以上もまるで眠られないことがございます。去年ある奧さまが通りかゝられまして、わたしをご覽になつて眠り藥を一と壜くださいました。一度に十滴(たらし)づつ飮めといふことで。これが大層よく利きまして、よく眠れたものですけれど、もうその藥も疾くに飮んでしまひました‥‥一體あれは何といふ藥かご存じございませんか、そして、どうしたら手に入るでございませう?」
 通りすがりの奧さんは、察するところ、阿片をやつたに相違ない。私はその藥を屆けてやると約束したが、又もや改めて、彼女の辛抱つよさに感嘆の叫びを洩らしたのであつた。
「なあ、旦那さま!」と彼女は打ち消した。「何を仰つしやいます! これが何の辛抱でございませう? まあ、聖シメオン樣などのご辛抱は、なるほど大したものでした。三十年もの間、柱の上に立ち通していらつしやいましたからね! 又もう一人の聖者の方は、自分の體を胸まで土の中に埋めさせて、顏を蟻に食はれておいでになりましたものね‥‥それから、これは村の先生が話して聞かせて下すつたのですけれど、ある國があつて、その國を回々教のやつらが攻め取りましてね、國中のものを苛い目に遭はしたり、殺したりしました。その國の人たちも色々に手を盡くしたのですけれど、敵を追ひ出すことが出来なかつたのでございます。ところが、その國にまだ處女(むすめ)ながら一人の聖女が現はれました。大きな劍を取つて十貫目もあるやうな冑をつけて、回々教のやつらを征伐に向かひ、すつかり海の向かうへ迫つ拂つてしまひました。けれども敵を追つ拂つてしまうと、その敵に向かつて、『さあ、これからわたしを火焙りにして下さい。わたしは國民のために火に燒かれて死ぬと誓つたのだから。』と申しました。で、回々教徒の奴らは處女(むすめ)を摑まへて、火焙りにしてしまひました。その時からこの國の人たちは、ずつと自由の身になつたさうでございます! これこそ本當にえらい苦行でございます! わたしなんかどう致しまして!」
 私は、どこからどうしてジャンヌ・ダルクの傳説がこんな田舍へ入つて來たのかと、心ひそかに驚いた。暫く默つてゐた後でルケリヤに、この處女の年は幾つであつたかと訊ねてみた。
「二十八か‥‥九‥‥三十にはなりますまい。でも、そんなもの、年なんぞ勘定したつて仕樣がありません! それより、もう一つお話しいたしませう‥‥」[特別やぶちゃん字注:モデルであるカトリック教会の聖人で「オルレアンの処女」(la Pucelle d'Orléans)と称されるジャンヌ・ダルク(Jehanne Darc 一四一二年?~一四三一年五月三十日)は異端審問で自ら満十九歳と答えている。ルケリヤの現年齢は前半の主人公「私」の過去の叙述から見て恐らく、この「二十八か‥‥九‥‥三十にはな」らぬ同年齢であると推定し得る。]
 ルケリヤは不意に妙な閊へたやうな咳をして、ほつと溜め息をついた‥‥。[特別やぶちゃん字注:「閊へた」「つかへた」と読む。咽喉や胸にものが塞がるの意の「痞(つか)える」である。]
「お前は話をし過ぎるよ。」私は注意した。「體に障るかも知れないよ。」
「全くでございます。」と、彼女はやつと聞こえるか聞こえないかに囁いた。「このお話もこれでお終ひと致しませう。仕樣がありませんもの! 今にあなたが行つておしまひになつたら、思ふ存分默りこくつてをりませう。とにかく、これで胸がすつとしましたから‥‥」
 私はルケリヤに別れ告げた。藥を送つてやるといふ約束を繰り返して、尚もう一度よく考へ直した上、何か欲しいものがあつたら云つてくれ、と申し出た。
「わたし何も欲しくはありません。何一つ不足はございません。お庇樣で。」ひどく骨の折れるらしい樣子であつたが、感動の籠つた聲で云つた。「どうか皆樣お達者でいらつしやいますやうに! あゝ、ときに、旦那樣、お母樣にお口添へ下さいませんでせうか。この土地の百姓は貧乏でございますから、ほんの少しでも年貢のお金を減らして頂きたいもので! 田地も不足でございますし、別口から上がるものもありませんし‥‥さうして下さいましたら、どんなにかあなた樣を御恩に思ふことでございませう‥‥わたしなんにも欲しいものはございません――何一つ不足ありません。」
 私はルケリヤの願ひを叶へてやると約束して、もう戸口のところまで行つたとき‥‥彼女は私をもう一度呼び戻した。
「覺えていらつしやいますか、旦那さま、」と彼女は云つた。すると、その眼や唇に何かしら不思議な影が閃いた。「わたしがどんな髮をしてゐましたか? お覺えでございますか――膝まで屆くほどありましたの! わたし永い間、思ひ切れませんでした‥‥あれだけの髮つてねえ!‥‥でも、あれを梳かすわけには參りませんもの、こんな境涯で! それで、たうとう一と思ひに切つてしまひました‥‥さうなんですの‥‥では、さやうなら、旦那樣! もう口が動きません‥‥」
 その日、獵に出かける前に、私は農場附きの小頭とルケリヤの話をした。この男の口から、ルケリヤが村で「生きた御遺骸〔奇蹟的に不朽のまゝで殘る聖者の遺骸、ロシヤ國民の信仰の一對象〕」と呼ばれてゐることを知つた。あんな風でゐながら、一向に迷惑になるやうなこともなく、嘗て不平や愚痴など聞いたことがないとのことであつた。『自分の方から何をしてくれ、かにをしてくれなどと云はないどころか、却つてどんな事をして貰つても有難がつてをります。蟲も殺さぬ人、全くのところ蟲も殺さぬ人と云はんけりやなりません。ありや神樣に打ちのめされた女でがすな。』と小頭は言葉を結んだ。『つまり、それだけの業(ごふ)があつたのでございませうて。しかし、私共はそんなことを詮議立て致しません。だから早い話があの女を惡く云ふなんて事はない、決して決して、あの女を惡くなぞ云ふものですか。あれはあれでいゝんで!』
 幾週間か經つて、私はルケリヤが死んだといふことを聞いた。やつぱり死神が迎へに來た‥‥しかも「ペトロフキが濟んでから」やつて來たのだ。人の話によると、亡くなる當日、彼女の耳には絶えず鐘の音が聞こえてゐたとのことである。そのくせアレクセーエフカから教會までは五露里の餘もあつて、おまけに、その日は日曜でも祭日でもなかつたのである。尤も、ルケリヤはその音が教會からではなく、「上の方から」響いて來ると云つゐたさうだ。多分、「天から」と云ふのを憚つたのであらう。

ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より)(最終章)

 幾週間か經つて、私はルケリヤが死んだといふことを聞いた。やつぱり死神が迎へに來た‥‥しかも「ペトロフキが濟んでから」やつて來たのだ。人の話によると、亡くなる當日、彼女の耳には絶えず鐘の音が聞こえてゐたとのことである。そのくせアレクセーエフカから教會までは五露里の餘もあつて、おまけに、その日は日曜でも祭日でもなかつたのである。尤も、ルケリヤはその音が教會からではなく、「上の方から」響いて來ると云つゐたさうだ。多分、「天から」と云ふのを憚つたのであらう。



僕の母聖子テレジアは2011年3月19日朝、この5時21分、筋萎縮性側索硬化症(ALS)による急性期呼吸不全により天に召された――

2016/03/18

ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より)(ⅩⅣ)

 その日、獵に出かける前に、私は農場附きの小頭とルケリヤの話をした。この男の口から、ルケリヤが村で「生きた御遺骸〔奇蹟的に不朽のまゝで殘る聖者の遺骸、ロシヤ國民の信仰の一對象〕」と呼ばれてゐることを知つた。あんな風でゐながら、一向に迷惑になるやうなこともなく、嘗て不平や愚痴など聞いたことがないとのことであつた。『自分の方から何をしてくれ、かにをしてくれなどと云はないどころか、却つてどんな事をして貰つても有難がつてをります。蟲も殺さぬ人、全くのところ蟲も殺さぬ人と云はんけりやなりません。ありや神樣に打ちのめされた女でがすな。』と小頭は言葉を結んだ。『つまり、それだけの業(ごふ)があつたのでございませうて。しかし、私共はそんなことを詮議立て致しません。だから早い話があの女を惡く云ふなんて事はない、決して決して、あの女を惡くなぞ云ふものですか。あれはあれでいゝんで!』

戲戀ⅩⅩ倶樂部 原民喜

  戲戀ⅩⅩ倶樂部 糸川旅夫

 

 ミツセ曰く『戀は戲れでない』と。しかし糸川絹子曰く(絹子は僕の妹だ)『戀は戲れですわよ』と。

 床の間に鶴の掛繪がある。二匹居る。鳥を數へるのに二匹とは云はないがそこがダダだ。鶴は夫婦である。哲學者は是を見て叫んだ『死よ死よ死よ死よ死よ』と。何の事でせうか。

 とにかく僕は少し齒が痛くてメランコリーである。ベランボーめ。らんばうをしやあがんな。えつとしんさない。ありきしよ。アルツウル、ランボーは詩人で御座る。アフリカ征伐をして將軍となつた。自分もランボーの樣に勳章が欲しい。ところで此處に戲戀ⅩⅩ倶樂部を組織しようとするんだぞよ。會則に曰く一つ人間は忠孝を基とすべし。一つ人間は禮儀を正しくすべし。しかししたくなけらねばしなくてもよし。會費はみなさんいくらにしまほか。會長は觀音樣です。觀音樣は尊(たつと)き女性におわします。そして淺草の觀音樣は地震のときで燒けなんだ。なまんだぶアーメン。會場は何と云つても巴里のコスモポリタン、ハウスの○○室です。地下室では、阿片も飮まします。中田信雄がコンダクターですかね。金のなる木は此の世にないが癪にさわればゲンゴツぞ。イブセンの人形の家は燒けた。ナジモバは婆になつた粉毒だ。彼の女も入會を申し込まんとしつゝある。ところで本會の主旨は度々申しあげる通りてえ今晩は、電燈を消して下さい。××××です。

 (以下抹消)

 諸君諸君 山本宣治學士は(タダシアメリカ製)新マルマル主義の技師である。本會の顧問也。先生曰く『若き男の性生活は××××巡査が怒るから言へない。聞きたくば僕の所に申し込むべし』近頃、僕の叔母さんのジヤンヌダルクのお君(この女はマルビルの大將タイピストです)僕の處に相談に來た。『だつて、松井スマ子さんだつて、首を釣つて死んだのでしよねえ、ⅩⅩ倶樂部の會歌は首釣りの歌がいいわよ』と。最後に本會の歌を示す。

 (作曲は死んだシヨパンがします)

 ガタガタガタガタピー

 イタイタイ

 首ガモゲル

 モルヒネモルヒネ

   コロリンシャン

 

[やぶちゃん注:「戲戀ⅩⅩ倶樂部」の「倶樂部」のポイント落ちはママ。「おわします」「ゲンゴツ」「通りてえ」はママ。

 初出は大正一四(一九二五)年一月二十二日発行の『藝備日々新聞』。

「ミツセ曰く『戀は戲れでない』」「ミツセ」はフランスのロマン主義の作家アルフレッド・ルイ・シャルル・ド・ミュッセ(Alfred Louis Charles de Musset 一八一〇年~一八五七年)。詩・小説・戯曲などを広く手がけた。恋多きファム・ファータルであった作家ジョルジュ・サンドとの恋愛でも知られる。「戀は戲れでない」というのは実は彼が一八三四年発表した、レーゼ・ドラマ「戯れに恋はすまじ」(On ne badine pas avec l'amour)の題名から引き出したもののように思われる。ウィキの「戯れに恋はすまじによれば、『ジョルジュ・サンドとの恋が終わった後に書かれた。箴言喜劇と呼ばれた。小粋な恋愛喜劇仕立てだが、かなり辛い風刺が効いている』とある。昔、読んだはずなのに、すっかり忘れている。再読する気も起らぬ。私は喜劇嫌いなので、仕方がない。

 
「糸川絹子曰く(絹子は僕の妹だ)」原民喜の妹には「千鶴子」と「恭子」はいるが、「絹子」という妹はいない。因みに、姉は長女が「操」、次女が「ツル」、三女「千代」である。次の段落で二羽の鶴の絵が出るのは無意識の連関か。

「えつとしんさない。ありきしよ。」意味不明。ダダ詩としても、ここにだけ無意味な文字列を示したとも思われない。広島弁か? 識者の御教授を乞う。

「中田信雄」前の詩にも出たが、不詳。

「ナジモバ」アラ・ナジモヴァ(Алла НазимоваAlla Nazimova 一八七九年~一九四五年)はロシア出身の女優・脚本家・プロデューサー。その美貌と独特の個性でサイレント期最大の女優(特に悲劇での)と言われている。参照したウィキの「アラ・ナジモヴァによれば、一九二二年に「人形の家」で主演を演じ、一九一八年には『自分のプロダクションを設立し映画製作に乗り出す。彼女はオスカー・ワイルドやイプセンの作品を翻案してゆくが、大衆には受け入れられずに巨額の資金を失ってしまう結果になった』とある。『彼女によるイプセンの翻案は当時受け入れられなかったが、現在では高い評価を得ている』ともあって、直前で「人形の家」が出ていることと連関することが判る。この当時四十六歳。

「粉毒」「ふんどく」と読んでおく。ナジモヴァは女優であるから、旧来の白粉に含まれていた鉛の中毒のことを指すのであろう。因みに関係があるかないかは分らないが、彼女は乳癌に罹患している(これは後に克服。彼女の死因は心臓発作とされる)。

「山本宣治」(明治二二(一八八九)年~昭和四(一九二九)年)は生物学者で政治家。京都生まれ。東京帝国大学理学部動物学科卒。さらに明治四〇(一九〇七)年からカナダのバンクーバーへ五年間、園芸学で留学、現地の小学校・高等学校に通って大学進学を目指した(父が病を患ったとの報が入ったので志半ばで帰国)。この間、「共産党宣言」「種の起源」「進化論」などを学び、人道主義者やキリスト教社会主義者と交流を深めた。大正一一(一九二二)年三月、訪日していたアメリカの女性産児調節運動家マーガレット・サンガーに通訳として面会、彼女の影響を受け、性教育啓蒙及び産児制限運動に従事することとなる。その後、社会主義運動に近づき、第一回普通選挙で労働農民党から出馬して当選、治安維持法の改悪に反対して活動中、右翼に暗殺された。著書に「性教育」「恋愛革命」などがある(以上は複数の記載を参考にした)。

「アメリカ製」彼の勉学地はカナダであってアメリカではないが、恐らくは直近の影響を受けたマーガレット・サンガーがアメリカ人であったことからかく言ったものであろう。

「マルマル主義」これは伏字制度を逆手に取った遊びで、音が似る「マルクス主義」をも匂わせている(山本宣治は社会主義のシンパであり、労農党から立候補した際には、非公式ながら、共産党(当時は非合法政党)推薦候補でもあった)。

「若き男の性生活は××××ウィキの「山本宣治によれば、彼は『性教育啓発家としての立場から当時「手淫」などと呼ばれ卑しむべき行為とされてきたオナニーの有害性を否定した。小倉清三郎とともにオナニーの訳語を「自慰」という言葉に置き換えることを提唱し普及させた』とある。但し、『当時産児制限運動の支持者の中には、優生学をその根拠に置き、人間の遺伝形質の改良を訴える者が少なくなかったなかで、「種馬、種牛の様に人を産児の器械と見做して居る」と優生学を正面から批判した数少ない科学者であった。また、大正時代に厨川白村が主張した恋愛至上主義に対し疑問を呈してもいる』とあり、さて、かの山宣(ヤマセン)が実際、果たして「戲戀ⅩⅩ倶樂部」の顧問になって呉れるかどうかは甚だ疑問ではある。

「松井スマ子」新劇女優松井須磨子(明治一九(一八八六)年~大正八(一九一九)年)。明治四四(一九一一)年、『人形の家』の主人公ノラを演じて認められ、大正二(一九一三)年には島村抱月とともに「藝術座」を旗揚げ、トルストイ原作で抱月訳の「復活」のカチューシャ役が大当たりして人気女優となった。しかし、大正七(一九一八)年十一月に抱月(彼は妻子持ちで須磨子とは不倫関係)がスペイン風邪によって病死、二ヶ月後の一月五日に東京市牛込区横寺町(現在の東京都新宿区横寺町)にあった「藝術倶樂部」の道具部屋にて縊死自殺した(以上はウィキの「松井須磨子に拠る)。]

絶體ゼツ命 DADADA ダダイ   原民喜

  絶體ゼツ命 DADADA ダダイ  糸川旅夫

 

 糸川が廣島へ歸つたのは去年の暮れであります。さてさて糸川が毎日貧乏貧乏貧乏貧乏と天を睨んだトコロで始まらないね。君。僕大糸川旋夫は絶對ゼツ命DAよ。丁度救世軍のじ善鍋でお金が燒いてあつたるは去年の暮でした。豐原秋子孃萬歳。みなさん拍手。ドロドンドロドン。僕も去年の昨夜某カフエーで若き異性同志のひそかごとを見ました。その時は俺は十錢でコーヒーを飮んでたンダ。それでその夜歸つてから眠られなかつた大苦勞した。なんの苦勞なんかするものか。糸川のバカ。糸川のタワケ。下駄をはいて行つて來い。はいお父さま。何の御用。トころで廣島は日本一の○○です。ワタシは○○○○○ト思ヒマシタ。アナアキー穴をあけえ。北風。まんとのえり。ぬげ、ぬがぬか。ピストルぞ。ドンドン、あれえ。ダダは狂氣と思ふか。中田信雄よ君はベルモツトを飮め、俺は千日前で地獄極楽を見物して感あり。鬼ほど痛快な生物はあるまい。お釋迦樣の變體性の想像力はジツに地極獄樂において初めて滿足しなさつた。さすが印度宮殿の榮華にあきた苦勞人だけある。なむあみなむあみ。ダダダダ、タイ燒、大入まんじゆ。一つお賣致しまホ。ドレ糸川旅夫をタワケと斷定する奴はその奴こそタワケであらうぞ。こんなダダイズムがタワケに見える奴は馬の屁(へ)にキスするタワケ者なることゆめ疑ひあるましぞヨ。今日はいゝ天氣だね。一つ俳句會

 

 絶體絶命に馬を食ふ素川さま

 旅夫は旅からカラスで歸つタ

 ダダ一尺ダダ二尺しまひは一丈

 なむあみと海老のフライ月夜哉

 豐原秋子女傑あり廣島の日和

 ピヨピヨノと秋から冬に暗く小鳥

 もんでもんでアンマのいねむり

 一文二文とためた三井銀行ケチ

 大田洋子小説書くその日の鯨哉

 日進館クラリネツト吹き泣く

 ドイツもコイツもあつけ顏やイ

 子供が猿を生んダ子供はケしからぬ生物

 ひひひひと舌を出した狂人らみな滿足して飯を食ふ

 一月元旦哉

 

 以上この俳句はダダイズムより出發したものなり。これにつきては後日詳述するところあらんよ。

 

[やぶちゃん注:念のため。「○」による伏字はママ(恐らくは原民喜自身の確信犯)。「お釋迦樣の變體性の想像力はジツに地極獄樂において初めて滿足しなさつた」の「地極獄樂」も確信犯の造語用字。「疑ひあるましぞヨ」「まし」もママ。

 初出は大正一四(一九二五)年一月三日発行『藝備日々新聞』。

「豐原秋子」不詳。識者の御教授を乞う。

「中田信雄」不詳。識者の御教授を乞う。

「素川」不詳。熊本の生まれのジャーナリスト鳥居素川(とりいそせん 慶応三(一八六七)年~昭和三(一九二八)年)がいるが、彼かどうかは不明。
 
「一尺」三〇・三センチメートル。

「一丈」三・〇三メートル。

「大田洋子」(明治三九(一九〇六)年~昭和三八(一九六三)年)は広島県出身の小説家。本名は大田初子。ウィキの「大田洋子によれば、八歳の時、『父母が離婚したので親戚の大田家の籍に入る』。大正一二(一九二三)年、『進徳実科高等女学校(現在の進徳女子高等学校)研究科卒業。小学校教師として江田島に赴任した』ものの、六ヶ月で退職、大正一五(一九二六)年に結婚したが、『一児を残して出奔。尾道や大阪などで女給として働きつつ小説を書く』。『のち上京し、『女人芸術』に作品を発表』、昭和一四(一九三九)年、『海女』で『中央公論』の懸賞小説に一等入選』、昭和一五(一九四〇)年には「桜の国」で『朝日新聞』の『一万円懸賞小説に一等入選』した。昭和二〇(一九四五)年八月四日、『疎開で広島市に帰郷中、被爆する。占領軍による報道規制の中』で「屍の街」「人間襤褸(らんる)」(私は本作を優れた原爆文学の一冊と思う)を書いて、『原爆作家としての評価を確立』した。しかし、『原爆の後遺症により体調を崩し、創作に行き詰まり』、昭和三十年代から作風を転換、「八十歳」「八十四歳」など老母を主人公に私小説的心境小説を発表した。死因は入浴中の心臓麻痺とされる。

「日進館」恐らくは広島市堀川町の繁華街新天地にあった漫才などが興行された演芸場(元は無声映画の映画館)のことと思われる。]

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第三章 人の飼養する動植物の變異(3) 二 鳩の變種

     二 鳩の變種

Dennsyobato

[傳書鳩]

[やぶちゃん注:本図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 鳩も從來我が國で飼つて居たのは僅に一種類だけで、幾つ見てもただ羽毛の色が白いとか黑いとか小豆色の斑があるとか硯石のやうな模樣があるとかいふ位の相違があるだけで、身體の形狀、諸部の割合などは、全く同じであるが、イギリス邊で人の飼つて居るものを見ると、實に千態萬狀で、その間の相違の甚しいことは、實物を見ぬ人には到底想像も出來ぬ程である。

 例へばパウターといふ種類では身體も翼も足も比較的に長く、體を常に稍々直立の位置に置いて、餌囊に空氣を嚥(の)み込み、胸を球の如くに脹らせる性質を持つて居る。一體鳩は普通のものでも鳩胸といふて胸の處を突き出して居るものであるが、この種類ではその上に餌囊が非常に大きく發達して居て、空氣を吸ひ込んで恰も玩具の風船球の如くに圓くするから、嘴も殆ど見えぬ位である。またファンテイルいふ種類は、尾の羽毛を立て、扇の如くに之を擴げて歩く。通常日本の飼鳩などでは、尾の羽毛の數は漸く十二本位であるが、この種類では尾の羽毛が三十五六本から四十本位もある。之を孔雀の尾の如く立てて開き、頸を後へ引込めて歩くから、頭の後部が尾の羽毛に觸れて居るのが常である。總べてかやうな種類はたゞ人が慰だけに飼ふもので、その特徴とする點が發達して居る程人に珍重せられ、前のパウターならば胸が大きく脹れて居るほど上等で、ファンテイルは尾が大きく擴がつて居る程價が高い。それ故鳩の共進會で一等賞でも取るやうなものは、我々から見ると殆ど畸形かと思はれるやうな形狀を呈して居る。またキャリヤーといふ種類は嘴が長くて眼の周圍には羽毛がなく、皮膚が蛇の目形に裸出して恰も大きな服鏡を掛けて居るやうに見え、タンブラーといふ種類では頭は圓く、嘴は短くて殆ど雀の嘴の如くである。その他ラント種の如きは體は短く尾は直立して、鳩らしい處は殆ど少しも無い。以上は鵠の形の種々ある中で最も異なつた例を四つだけ擧げたのに過ぎぬが、鳩には形狀ばかりでなく習性にも著しく相違したものがある。傳書鳩といふ種類は如何なる遠方の土地に連れて行つても、之を空中に放せば忽ち一直線に出發地に歸る性質を持つて居る。それ故この鳩は、無線電信の發明せられる前には、諸國の陸軍で戰爭の際寵城でもした時の通信の道具として飼ひ馴らして居たが、斯かる性質の鳩があると思ふと、また一方には籠から飛び出せば必ず直に角兵衞獅子のやうに背の方へ廻轉する性質を有するものがあるが、之は前に名を擧げたタンブラー即ち譯すれば「轉倒者」といふ種類で、飛び出せば是非とも廻轉せずには居られぬ具合は、恰も我が國の「こま鼠」と同樣で、一は縱に廻轉し一は水平に廻轉するの違はあるが、兩方とも殆ど病的といつて宜しい程である。この種類の鳩は飛翔中に廻轉する度數の多い程上等としてあるから、人に譽められるやうな鳩は飛び出すや否や直にくるくる廻つて、前へ進んで行くことは出來ない。廻轉の度數の多いものでは一分間に四十囘も四十五囘も廻るさうである。また鳴聲も鳩の種類によつて大に異なつて、中にも喇叭鳩・笑ひ鳩などといふ名前の附いて居る種類は、實際その名前の通り、一は恰も喇叭の如き聲、一は丸で人の笑ひ聲の如き鳴聲を發する。尚こゝに述べた外に、鳩の變種は極めて澤山あつて到底枚擧し靈すことは出來ぬ。ダーウィンは自身も二三の養鳩協會に加入して、實際鳩を飼養し、飼鳩の形狀の異なつたものを出來るだけ皆集めて之を調査し、百五十餘通りもあることを發見し、之を大別して十一組に分類したが、之を見てもヨーロッパの飼鳩の變種の極めて多いことが解る。

[やぶちゃん注:巻頭にあった挿絵は本パートに関するものである。煩を厭わず、再度、図とキャプション及び私の注を再掲(一部に追記してある)する(そうすると本文の注を大幅に削ることが出来るからである。

   *

Hatonohensyu

[鳩の變種

1 かはらばと  2 キャリヤー

3 つかひばと  4 パウター

5 ファンティル 

6 タンブラー  7 さかげ

8 モルタ    9 えりまき]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。

「かはらばと」動物界脊索動物門脊椎動物亜門鳥綱ハト目ハト科カワラバト属カワラバト Columba livia は我々が普段、普通に「ハト」と呼んでいる基本種。ドバト。以下の変種は概ね、本種を人間が飼育調教などをして品種改良したものであるが、本種自体も学術的には本邦の在来種ではない。

「キャリヤー」イングリッシュ・キャリア(English carrier:イギリス伝書鳩)などの類か。こちらのshow taimu氏のブログの「イングリッシュキャリア」に『特に羽色が黒だとカラスに近い体型』とあるのと絵が一致するように思われる(リンク先には写真有り)。

「つかひばと」伝書鳩。

「パウター」図から見て、これは「ポーター」(Pouter)のことである。ウィキの「ポーター」によれば、家畜化されたカワラバトで、『大きなサイズと長い足、空気で膨らんだ素嚢が特徴である』。『その特異な外見から、主に観賞用として育成される。育成の発祥は分かっていないが、ヨーロッパでは少なくとも』四百年以上は『育成されている』とある。

「ファンティル」「ファンテイル」=「fantail」で、幅広の扇(ファン)形をした尾を持つ孔雀鳩(くじゃくばと)のこと。

「タンブラー」(tumbler:トンボ返りする曲芸師の意)鳩飼育のサイトを見る限り、宙返りするように調教飼育して生まれた品種か。

「さかげ」逆毛。

「モルタ」不詳。ただ、体型から見て、これはどうも食用に「改良」された種なのではないかと私には見受けられる。識者の御教授を乞う。

「えりまき」襟巻。ジャコビン(jacobin)と呼ばれる品種か。ここまでくると実にヒトという種の変態性がよく判る。]

   *

 以下、本条の注。

「鳩も從來我が國で飼つて居たのは僅に一種類だけ」これも気になる叙述である。狭義のハト目ハト科 Columbidae に限って見ても、この本書の執筆当時ならば、普通に、

カワラバト属カワラバト Columba livia

キジバト属キジバト Streptopelia orientalis

の全く異なる二種を見かけたはずである(現在も同じ)。野鳥の飼育は原則禁じられている(許可申請をすれば可)としても、この丘先生の言い方はやや乱暴な気がする。さらに言うなら、ウィキの「によると、ハト科の『日本の在来種は、カラスバト属(カラスバト、アカガシラカラスバト、ヨナクニカラスバト、リュウキュウカラスバト、オガサワラカラスバト)、キジバト属(キジバト、リュウキュウキジバト、シラコバト)、ベニバト属(ベニバト)、キンバト属(リュウキュウキンバト)、アオバト属(アオバト、リュウキュウズアカアオバト、チュウダイズアカアオバト)の』五属十三種が挙げられるとし、『このうち、リュウキュウカラスバトとオガサワラカラスバトの』二種は、『絶滅したと考えられていたが、近年、DNA調査により亜種がいくつかの諸島部で生存していることが確認された』とあるから、失礼乍ら、ますますおかしいと言える。これらは物理的(法的ではない)には恐らく多くは飼育可能なはずだからである。

「餌囊」「えさぶくろ」「えぶくろ」か「じなう(じのう)」か。ともかくも、素嚢(嗉嚢:そのう)のことである。消化管の一部分で、膨らんだ形状をしており、また管壁が厚くなっており、消化に先立って食べたものを一時的に貯蔵しておくための器官。参照したウィキの「素嚢によれば、鳥類では、『消化管の食道あるいはのどの近くで、管壁が筋肉質になり、膨らんだ形状になっている部分(嚢)がある。そこに食べたものを一時的に蓄えておくことができる。鳥類のすべてが砂嚢を持つ一方で、素嚢についてはこれを持たない種もある』とし、『ハト目では、素嚢で素嚢乳が作られる。これは孵化したばかりの雛に与えられ』、また、『食べたエサをしばらく素嚢に保持することで、水分により食べたものを柔らかくし、それを吐き戻しによって雛に与える』。『ハゲワシなどの死肉を食べる種では、エサが大量にあるときでもできるだけ多く食べるため、その結果』、『素嚢が大きく膨らむ。その後睡眠する、あるいはじっと動かずにいることで、消化を妨げないようにする』。『猛禽類では、ハゲワシを含めてワシ、タカなどには素嚢を一つ持つが、フクロウは素嚢を持たない』。『家禽では、ニワトリにはあるが、ガチョウにはない』とある。

「ラント種」(Runt)は食用改良品種の一つ。中でも「ジャイアント・ラント種」と呼ばれるものはハトの中で最大の大きさを誇ると言われる。

「角兵衞獅子」「かくべゑじし(かくべえじし)」と読む。現在の新潟県新潟市南区(旧西蒲原(にしかんばら)郡月潟村)を発祥とする郷土芸能で、「越後獅子」「蒲原獅子」とも呼ばれる。児童を中心として大人の親方が演じさせた獅子舞の大道芸。舞い子は七歳以上十四~五歳以下の児童が縞模様のモンペと錏(しころ:兜(かぶと)の鉢の左右から後方に垂れて頸を覆うもの)の付いた小さい獅子頭を頭上に頂いた格好で演じ、獅子頭の毛には鶏の羽根が用いられ、錏には紅染の絹の中央に黒繻子があしらわれていた。笛・太鼓に合わせて、ここで比喩となっている宙返りや逆立ちといった曲芸だけでなく、相応の筋を持った数々の曲を演じさせたという。参照したウィキの「角兵衛獅子によれば、『越後獅子が江戸に来たのは』宝暦五(一七五五)年の『ことで、諸侯へ召し出されて獅子冠を演じた親方が角兵衛であったから角兵衛の獅子、角兵衛獅子となったともいう。信濃川中流部の中之口川沿岸の農民角兵衛が毎年の凶作や飢饉から村人を救うため、獅子舞を創案した』とも言われるが、江戸末期の風俗百科事典とも言うべき考証随筆である、喜多村信節(のぶよ)の「嬉遊笑覧」(天保元(一八三〇)年刊)には、『「越後獅子を江戸にては角兵衛獅子といふ。越後にては蒲原郡より出づるに依りカンバラ獅子といふとぞ、角兵衛獅子は、恐らくは蒲原獅子の誤りならむ」とある』。『大道芸としては明治時代に衰退してゆ』き、『更に義務教育の定着などの社会の意識の変化により、児童に対して親方と呼ばれる大人が鞭を用いた体罰で芸を仕込むことや学校にも通わせないことに対する嫌悪感が生まれ、次第に忌避の対象となっていった。明治中期の東京では、小石川柳町が角兵衛獅子の棲家で』、二~三人の親方が貧しい家の子を四~五歳のうちに四~五円で『買い取り、体を柔らかくするために酢を飲ませたり、棍棒や分銅を使って稽古をさせるなどしており、その扱いが残酷であるとして警視庁から新たな子供を加えてはいけないという禁止令が出され、次第に数が減』り、昭和八(一九三三)年の『「児童虐待防止法」によって、児童を使った金銭目的の大道芸そのものが禁止となり、『大道芸』という形態としては姿を消すこととなった』とある。

「こま鼠」中国産のハツカネズミ(齧歯目ネズミ上科ネズミ科ハツカネズミ属ハツカネズミ Mus musculus)の飼養変種である。体色は白く、内耳の三半規管に異常があるために平衡がとれず、自分の尾を追うように、くるくると回る習性がある。「舞鼠(まいねずみ)」とも言う。

「喇叭鳩」「らつぱばと(らっぱばと)」で、英語の「トランペッター」(trumpeter)と称する品種の訳語。

「笑ひ鳩」英語の「ラッファー」(laugher)。同前。

「ダーウィンは自身も二三の養鳩協會に加入して、實際鳩を飼養し、飼鳩の形狀の異なつたものを出來るだけ皆集めて之を調査し、百五十餘通りもあることを發見し、之を大別して十一組に分類した」北村雄一氏のサイト内の『「種の起源」を読む』の第1章:飼育栽培のもとでの変異に詳しい。それによれば(私の持つ訳本(岩波文庫版八杉龍一訳)を見ると箇条表記ではないことが判り、十一種別が読み取り難いので)、English carrier(特にに『発達した頭部の肉ダレ、巨大な外鼻孔』がある)・short-faced tumbler(『異常なフィンチのような』嘴を有する)・commom tumblerruntbarb(『バーブ:伝書鳩に似るが短くて幅が広い』嘴を持つ)・pouterturbit(『タービット:短く円錐形のくちばし、胸のさかだった羽毛』・jacobintrumpeterlaugherfantail で、丘先生は概ねこれらに基づいて例示しておられることが判る。]

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第三章 人の飼養する動植物の變異(2) 一 犬の變種

   一 犬の變種

Gamagutiinu

[蝦蟇口に入れた犬]

[やぶちゃん注:これと次の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。それにしても、この超小型犬は何だろう? 大きさからはチワワを想起するが、どうも挿絵の目はチワワではない。財布に入るところからはティーカッププードルであるが、耳が違う。同定不能。識者の御教授を乞う。]

 
Inunohensyu

[犬の變種

 グレーハウンド

 キングチャールススパ二エル

 羊飼犬

 セントバーナード犬

 ブルドッグ

 ニューファウンドランド犬

 ダックス]

[やぶちゃん注:「グレーハウンド」(Greyhound)は、『速く走るために作り出された犬種で』、『長い四肢とアーチがかった背中を最大限に伸び縮みさせることで、すばやく加速できる体型となってい』おり、『長い尾は方向を決定する舵の役割や、ブレーキの役割を』担う(引用はディスカバリー・ジャパン株式会社のサイト「アニマルプラネット」の「犬種大百科」の記載から。以下、特記部分以外は同じ。)

「キングチャールススパ二エル」正確には小型犬のキャバリア・キング・チャールズ・スパニエル(Cavalier King Charles Spaniel)。『体高より体長がやや長めで、骨ががっしりして』いる。『絹糸のような被毛はそれほど長くはなく、少々ウェーブがかかっている場合もあり、『足元に羽毛のような長い毛が生えているのもこの犬種の特徴で』ある。

「羊飼犬」シープ・ドッグには数種いるが、図から判断すると、シェットランド・シープドッグ(Shetland Sheepdog)であろう。『体長が体高よりやや長く、小型で機敏な動きを得意とする犬種で』、『牧畜犬に必要な、抜群の敏捷性とスピード、忍耐力を兼ね備えてい』る。『短く密集した下毛と、まっすぐで硬く長い上毛の二層構造の被毛で覆われ、胸と尻尾にはふさふさとした豊かな飾り毛が見られ』る。

「セントバーナード犬」(Saint Bernard)は大型犬で、『力が強く、筋肉質で、深い雪の中を何キロも進んでいくことができる能力を備えてい』る。『被毛の種類にはスムースタイプとロングタイプの』二種類があり、『スムースタイプは、短毛がぎっしりと硬く密集してい』るのに対し、『ロングタイプは、直毛だったりややウェーブがかかったほどほどの長さの毛で覆われてい』る。

「ブルドッグ」(Bulldog)は十八世紀頃のイギリスで雄牛(ブル)と犬を戦わせる牛いじめ(bullbaiting)という見世物が流行、牛に対抗出来る犬として開発された一品種(以上はウィキの「ブルドッグ」に拠る。以下の引用はやはり「アニマルプラネット」の「犬種大百科」の記載から)。『体の割に大きな頭部を持っていることでも知られ』、『頭部の周囲の長さを測ると、地面から肩までの高さと同じか、それよりも大きい犬が』殆どで、『このような大きな頭部は頑丈な顎周りの筋肉を発達させることに大いに役立』ち、『また、ガップリと獲物に食らいついたら、そのままの姿勢を保ったまま、鼻から呼吸することができるマズル(鼻口部)も特徴的』である。

「ニューファウンドランド犬」(Newfoundland)は『体が大きく、がっしりとした骨格をもつパワフルな犬種で』、本文で丘先生が述べるように、『荒れた海で溺れている人を引っ張って助けたり、優秀な警備犬となれるだけの力強さを持ってい』る。『体高より体長の方がやや長め』で、『被毛は二層になっており、柔らかく密集した下毛と、硬く長めのまっすぐな外毛からな』る。

「ダックス」は正しくはダックスフンド(Dachshund)元来はアナグマ・ネズミ・アナウサギ・テン類を猟る狩猟犬として農夫によって改良された品種で、『獲物を追って地中の穴の中に潜り込み、その中を思った通りに移動できるように、胴長短足の体型に作られ』た。『この体型に加えて、獲物を捕える顎の強さや、獲物をしとめるための優れた体力も兼ね備えて』おり、『被毛によって』三タイプに分けられ、『つやのある短毛のスムースタイプは、この被毛で雨風から体を守り』、『ロングタイプは滑らかな長毛で、少しウェーブがかかっていることもあり、スムースタイプよりもさらに体を保護する役目を果た』す。『ワイヤータイプは、ピンと張った太く硬い毛で覆われ、密集した下毛が体を十分に保護する役割を担』う(以上は「アニマルプラネット」の「犬種大百科」の記載)。ウィキの「ダックスフントによれば、語源は『ドイツ語のアナグマを表すダックス(Dachs)と、犬を表すフント(Hund)を合わせた「アナグマ犬」を意味する。巣穴の中にいるアナグマを狩る目的で手足が短く改良された。なお、ドイツ語フント(Hund)は 英語で猟犬を表すハウンド(hound)と同根』とある。]

 

 我が國では昔は犬といへばたゞむく犬のやうなものが一種あつただけで、毛色に赤とか白とか黑とか斑とかの相違はあるが、大きさも形狀も性質も殆ど同一で、どの犬を見ても一向違ひがないやうであつたが、近來大分(だいぶ)西洋種の犬が入つて來たので、多少種類が殖え、現今では往來を通つて見ても種々形狀の異なつた犬を見ることが出來る。併し到底西洋諸國にあるやうな著しい相違のある種々雜多の犬は見られぬ。今その二三の例を擧げれば、マスチッフは大きさ小牛の如くで力飽くまで強く、悠然と控へて容易に吠えず、ラップドッグは大きさ殆ど小猫位に過ぎず、無邪氣に戲れ跳ね廻りて婦人等に愛せられ、トーイテリーなどは全く玩弄物で、之をマスチッフの傍へ持ち行けば、恰も象の隣に人が立つて居る位の割合である。特に最近には婦人間に極めて小さいものが愛玩せられるため、蝦幕口に入る程の小形の犬が出來た。大きな方には尚アルプス山上の雪深き邊に道に迷うた旅人を救ふため、頸にブランデーと氣附け藥とを下げて歩くセントバーナード犬、巧に水中を游ぎて危く溺れんとする小兒を助けるニューファウンドランド犬等は、孰れも外國の讀本に出て居て、誰も知らぬものはなかろうが、その他グレーハウンドは全身極めて細く、鼻は狹く尖り、四足ともに細長くて走ることが頗る迅い。獨逸ではこの種の犬を風犬と名づける。ヂヤハウンドも略々之と同形である。ブルドッグは全身太く短く、四足も太く短く、下顎も短いが、上顎の方が更に遙に短い故、鼻は上を向き、牙は常に現れて、容貌が如何にも獰猛に見える。キングチャールススパニエルは耳が長く垂れ、全身の毛は長く縮れて恰も我が國の狆(ちん)の如き美しい犬である。またダックスは胴が長く、丈が低く、足が著しく曲り、モップスは身體小なれど、肥滿して容貌の何となく滑稽なるなど、到底枚擧するに遑はない。また獵犬の各種類には各々特殊の性質が備はつて、善く追ふもの、善く見附けるもの、善く嚙み附くもの等があつて、セッター、ポインター等の名は皆その種の狩獵上の特性から起つたものであることは、世人の既に知れる所なるが、之より更に不思議な性質を有して居るのは、西洋の羊飼の連れて歩く犬である。この犬は身體も餘り大きからず、耳は短く立ちて、姿は決して立派ではないが、巧に數百頭の羊を警護し、常に羊の群の周圍を走り廻つて、若し一疋でも群を離れる羊があつたならば直にその足を嚙んで之を退け、決して散亂せしめるやうなことはない。それ故この犬の附いて居る羊の群は何時も一團に集まつて進行する。斯くの如く形狀からいつても性質から論じても、西洋で人の飼つて居る犬の各種類の間の相違は實に甚しいものである。

[やぶちゃん注:丘先生の日本犬(和犬)の認識には違和感がある。現行でも秋田犬(大型犬種)・甲斐犬・紀州犬・四国犬・北海道犬(以上、中型犬種)・柴犬(小型)が天然記念物に指定されており、本作が書かれた時点では、ウィキの「日本犬」の「その他の日本犬種」によれば、それ以外にも、『特定の地域のみに以前から生息する』「地犬(じいぬ)」が多数いたことが判るからである。

「マスチッフ」(Mastiff)は、『がっしりとした骨格と強靭な筋肉を持っており、体長が体高よりやや長い体格を』なし、『力強さと耐久力を持ち合わせて』いる。『二層構造になっている被毛は、密集した下毛とやや短めで硬くまっすぐな上毛から成』る(引用は先に引かせて戴いた、「アニマルプラネット」の「犬種大百科」の記載から)。

「ラップドッグ」ここで丘先生の言う「Lap Dog」という単語は、現行の愛玩犬種全体を指す語で、犬の品種の名ではないので注意。詳しくはウィキの「ラップドッグ」を参照されたい。

「トーイテリー」これは恐らく小型犬イングリッシュ・トイ・テリア(English Toy Terrier:トイ・マンチェスター・テリア(Toy Manchester Terrier)とも呼ぶ)のことであろう。ペットサイト「ゴロン」の「イングリッシュ・トイ・テリア」によれば、『ネズミをしとめる犬として高く評価され』、『この犬種は家をネズミから守るだけでなく、限られた時間内でどれだけのネズミをしとめられるかを賭けて楽しむ「ネズミ早殺しレース」でも活躍。マンチェスター地方に住む多くの労働者階級の人々にとって、「ネズミ早殺しレース」や「ドッグレース」は大きな娯楽』となった。『小柄でひ弱に見せつつも狩猟能力は高く、祖先犬であるマンチェスター・テリアに負け劣らない記録を打ち立てたこの犬種はゲームの大穴用として作られ、人気を得』たが、『ブームとともに乱繁殖、極端な小型化・体重制限により健康害が出始め』、十九世紀後半には人気が落ち、『絶滅の危機に。その後愛好家によって体高・体重制限が緩和され、安定した犬質の確保と共に、再び人気を取り戻し』た、とある。

「ヂヤハウンド」イギリス原産のディアハウンド(Deerhound)のことであろう。「ジャパン ケネル クラブ」公式サイト内の「ディアハウンド」によれば、『サイト・ハウンド(視覚型獣猟犬)の一種で、スコットランドのハイランド地方に古くからいた大型獣向きのハウンドである。当然のことながら巨大な体躯をもっているが、その割には優雅な体形をしており、古来から王侯貴族に愛されてきた。アイリッシュ・ウルフハウンドと非常によく似ており、古代のウルフハウンドから分派して鹿猟に適したタイプに改良されたと考えられている。騎士道時代』(十~十四世紀)『は、伯爵以上でなければ』、『この犬を飼うことができず、庶民に縁の遠い犬だった。値段も高く、死刑を宣告された貴族が、執行猶予を買い求めるのと三頭一組のディアハウンドの値段がほぼ同じだったほどである』。十九世紀末に『なるとスコットランドの開発が進み、鹿の減少にともない急激に人気が離散し、一時は絶滅の危機に瀕したが』、近年は『人気は回復の方向にある』とある。

「狆(ちん)」本邦原産の愛玩犬の一品種。ウィキの「狆」より引く。『他の小型犬に比べ、長い日本の歴史の中で独特の飼育がされてきたため、体臭が少なく性格は穏和で物静かな愛玩犬である。狆の名称の由来は「ちいさいいぬ」が「ちいさいぬ」、「ちいぬ」、「ちぬ」とだんだんつまっていき「ちん」になったと云われている。また、『狆』という文字は和製漢字で中国にはなく、屋内で飼う(日本では犬は屋外で飼うものと認識されていた)犬と猫の中間の獣の意味から作られたようである。開国後に各種の洋犬が入ってくるまでは、姿・形に関係なくいわゆる小型犬のことを狆と呼んでいた。庶民には「ちんころ」などと呼ばれていた』。『祖先犬は、中国から朝鮮を経て日本に渡った、チベットの小型犬と見られる。詳しくはわからないが、おそらくチベタン・スパニエル系統の短吻犬種(鼻のつまった犬)であり、ペキニーズとも血統的なつながりがあると考えられる』。「続日本紀」には、『「天平四年、聖武天皇の御代、夏五月、新羅より蜀狗一頭を献上した」とある』。天平四年は奈良時代、西暦では七三二年だが、『このときに朝鮮』(新羅時代)『から日本の宮廷に、蜀狗、すなわち蜀(現在の中国四川省)の犬が贈られたという記録である。これが狆に関連する最古の記録である』。『現在では、すべての短吻種(たんふんしゅ)犬の祖先犬はチベットの原産である事が知られているがこの時はおそらく、この奇妙な小型犬の原産地は、西方奥地の山岳高原地帯というだけで、はっきりとは知られていなかったのだろう。

なお、『日本書紀』には、天武天皇の章に』、六七二年に『新羅から「駱駝、馬、狗」などの動物が贈られたという記載がある。この「狗」が短吻犬種であったとすれば、狆の歴史はさらに遡ることになる』。次いで「日本紀略」には、「天長元年(八二四年)『四月、越前の国へ渤海国から契丹の蜀狗二頭来貢」とある』。「類聚国史」では、この件を「天長元年四月丙申、契丹大狗二口、子二口在前進之」としており、『この「子」(小型犬)も狆の祖先犬であろうと言われる』。『天武ないし天平期からこのころまでの前後』百年余の『間に、「蜀狗」と呼ばれた短吻種犬が何度か渡来した。因みに「高麗犬(こまいぬ)」という意味は、本来は朝鮮から入ってきた犬の呼称であった。また、文献によっては、日本から中国』(唐時代)『並びに朝鮮』(渤海時代)『に派遣された使者が、直接日本に持ち帰ったとも記されているという』。『しかし実際には、これらの犬が現在の狆の先祖とは考えにくく、シーボルトの記述によると、戦国時代から江戸時代にかけて、北京狆(ペキニーズ)がポルトガル人によってマカオから導入され、現在の狆に改良されたという。いずれにしても室町時代以降に入ってきた短吻犬や南蛮貿易でもたらされた小型犬が基礎となったと思われ』、例えば、享保二〇(一七三五)年に『清国から輸入された記録がある』。『狆の祖先犬は、当初から日本で唯一の愛玩犬種として改良・繁殖された。つまり、狆は日本最古の改良犬でもある。とは言うものの、現在の容姿に改良・固定された個体を以て狆とされたのは明治期になってからである。シーボルトが持ち出した狆の剥製が残っているが日本テリアに近い容貌である。つまり小型犬であれば狆と呼ばれていたことを物語る』。『江戸時代、「犬公方(いぬくぼう)」と呼ばれた』第五代将軍徳川綱吉の治世下(延宝八(一六八〇)年~宝永元(一七〇九)年)では、『江戸城で座敷犬、抱き犬として飼育された。また、吉原の遊女も好んで狆を愛玩したという』。『香川大学神原文庫に所蔵されている『狆育様療治』によると、狆を多く得るために江戸時代には今で言うブリーダーが存在し、今日の動物愛護の見地から見れば非道とも言える程、盛んに繁殖が行われていた。本書は繁殖時期についても言及しており、頻繁に交尾させた結果雄の狆が疲労したさまや、そうした狆に対して与えるスタミナ料理や薬』『についての記述がある。近親交配の結果、奇形の子犬が産まれることがあったが、当時こうした事象の原因は「雄の狆が疲れていた為」と考えられていた』。嘉永六(一八五三)年には『ペリー提督によって数頭がアメリカに持ち帰られ』、そのうちの二頭は(一頭とも)、『同年、イギリスのビクトリア女王に献上されたという。ビクトリア女王は愛犬家として知られ、ペキニーズ、ポメラニアン、マルチーズなどを犬種として固定した』。『江戸時代以降も、主に花柳界などの間で飼われていたが、大正時代に数が激減、第二次世界大戦によって壊滅状態になった。しかし戦後、日本国外から逆輸入し、高度成長期の頃までは見かけたが、洋犬の人気に押され、今日では稀な存在となった』。『英語でのかつての名を「ジャパニーズ・スパニエル(Japanese Spaniel)」というが、スパニエル種の血統とは無縁であり、混同を避けるために現在では「ジャパニーズ・チン(Japanese Chin)」と改名されている』とある。

「セッター」猟犬。アイリッシュ・セッター(Irish Setter)/イングリッシュ・セッター(English Setter)/ゴードン・セッター(Gordon Setter)がいる。名前は「セット」即ち「獲物の前にしゃがみ込む」ことで獲物の位置を知らせることに由来する。

「ポインター」(Pointer)は猟犬で、ウィキの「ポインター」によれば、『「ポインティング(指し示す)」を行って獲物の位置を人間に知らせる鳥猟犬の総称。「ポインティング」とは、獲物の前方に立ち止まって、姿勢を低くして鼻先を突き出し、片足をあげるポーズのことである。 さらにポインターは、人間の命令を受けて草むらに飛びこみ、獲物を飛び立たせることで、主人の射撃を助ける。 性格は仕事を離れると、温厚、家族に甘えさえする。 種類は英系ポインター、米系ポインターに大きく分けられている』。『有名なイングリッシュ・ポインターとジャーマン・ポインターの他にデンマークやフランス原産の品種が知られるが、単にポインターと言えば、特にイングリッシュ・ポインターを指す』とある。]

ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より)(ⅩⅢ)

 私はルケリヤに別れ告げた。藥を送つてやるといふ約束を繰り返して、尚もう一度よく考へ直した上、何か欲しいものがあつたら云つてくれ、と申し出た。

「わたし何も欲しくはありません。何一つ不足はございません。お庇樣で。」ひどく骨の折れるらしい樣子であつたが、感動の籠つた聲で云つた。「どうか皆樣お達者でいらつしやいますやうに! あゝ、ときに、旦那樣、お母樣にお口添へ下さいませんでせうか。この土地の百姓は貧乏でございますから、ほんの少しでも年貢のお金を減らして頂きたいもので! 田地も不足でございますし、別口から上がるものもありませんし‥‥さうして下さいましたら、どんなにかあなた樣を御恩に思ふことでございませう‥‥わたしなんにも欲しいものはございません――何一つ不足ありません。」

 私はルケリヤの願ひを叶へてやると約束して、もう戸口のところまで行つたとき‥‥彼女は私をもう一度呼び戻した。

「覺えていらつしやいますか、旦那さま、」と彼女は云つた。すると、その眼や唇に何かしら不思議な影が閃いた。「わたしがどんな髮をしてゐましたか? お覺えでございますか――膝まで屆くほどありましたの! わたし永い間、思ひ切れませんでした‥‥あれだけの髮つてねえ!‥‥でも、あれを梳かすわけには參りませんもの、こんな境涯で! それで、たうとう一と思ひに切つてしまひました‥‥さうなんですの‥‥では、さやうなら、旦那樣! もう口が動きません‥‥」

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 裸にはまだきさらぎの嵐哉 芭蕉

本日  2016年 3月18日

     貞享5年 2月17日

はグレゴリオ暦で

    1688年 3月18日



   
二月十七日神路山(かみぢやま)を

   出(いで)るとて、西行の涙をした

   ひ、增賀(ざうが)の信(まこと)

   をかなしむ

 

裸にはまだきさらぎの嵐哉

 

句は「笈の小文」にも載るが、ここは「泊船」の前書を附した。「笈日記」の「伊勢部」には、前掲した「何の木の」の句とペアで伊勢神宮への奉納句としたことが以下のように記されてある。

 

 貞享の間なるべし。此國に抖櫢(とてつ)ありし時、

    奉納 二句   ばせを

   西行のなみだをしたひ、増賀の信をかなしむ

 

何の木の花ともしらずにほひかな

 

裸にはまだ二月のあらしかな

 

「抖櫢」は、衣食住に対する欲望を払い除けて身心を清浄にすることを指す。

 前書の「神路山」は現在の三重県伊勢市宇治の広域山域名で、伊勢神宮内宮から南へ流れる五十鈴川上流域の総称。「增賀」は天台僧増賀上人(延喜一七(九一七)年~長保五(一〇〇三)年)比叡山の良源に師事し、天台学に精通して密教修法に長じたが、ことさらに名利を忌避し、そのために数々の奇行を演じたことで知られる。大和国多武峰(とうのみね)に遁世した。

 以前に示した通り、「何の木の花とはしらず匂ひかな」が西行の和歌をインスパイアしたように、本句はまさに「撰集抄」の冒頭「卷一 第一增増賀上人の事」に載る、増賀が伊勢神宮を参拝した折り、名利(みょうり)を捨てよという示現(じげん)を得、着衣を総て脱いで素っ裸となって着物は皆、門前の乞食に与えたという増賀の奇行記事に基づく。以下に頭の当該部分のみを引く(本条はかなり長い)。底本は西尾光一校注一九七〇年岩波文庫版を用いた。

   *

 むかし、增賀聖人と云ふ人いまそかりける。いとけなかりけるより、道心ふかくて、天台山根本中堂に千夜こもりて、是をいのり給ひけれども、なほまことの心やつきかねて侍りけん。あるとき、只一人伊勢大神宮に詣でて。祈請し給ひけるに。夢に見給ふやう、道心をおこさむとおもはば、此身を身とな思ひそと、示現を蒙り給ひける。打驚きておぼすやう、名利をすてよとにこそ侍るなれ。さらばすてよとて、着給ひける小袖衣、みな乞食共にぬぎくれて、ひとへなる物をだにも身にかけたまはず、あかはだかにて下向し給ひける。見る人、不思議の思ひをなして、「物にくるふにこそ。見めさまなどのいみじきに、うたてや」など云ひつゝ、打ちかこみて見侍れども。つゆ心もはたゝき侍らざりけり。

   *

増賀上人のように、素っ裸になるには、これ、未だ二月(きさらぎ)の、しかも寒風の吹き荒ぶ中にあっては、風狂人にして僧体ではあれど、凡俗の我らには、とてものことに、いまだ無理なこと、言わずもが乍ら、「如月(きさらぎ)」、を脱ぐどころか、「更(さら)」に衣を「着(き)」る、重ね「着(ぎ)」をさえせねばならぬ、と洒落たのである。

 なお、以降、当年で詠の日時が推定及び確定された句は、旧暦三月八日(グレゴリオ暦四月八日)まで、ない。それまで暫く、ごきげんよう。

2016/03/17

予定

「予定」という束縛のない人生は、それほど面白くは――ない――

ダダはぽかんとして居ないです   原民喜

[やぶちゃん注:以下の詩篇は一九七八年青土社刊の「定本 原民喜全集 Ⅱ」の「拾遺集」に載る詩歌(と思しい)群である。これは同底本の編者によれば、『大正一三年から昭和三年、著者一九歳から二三歳に至る五年間に、参画した各種同人誌等に発表され、当巻にて初めて公開される作品である』とあり、現在のネット上でも電子化されてはいない模様である。書誌についても主に底本の編註に拠った。

 なお、総てが戦前の作品であることから、恣意的に漢字を正字化して示す。踊り字「〱」は正字化した。その箇所は特に示さない。【2016年3月17日始動 藪野直史】]

 

 

 

 ダダはぽかんとして居ないです

   糸川旅夫詩選

 

 

 

 

 

鶴 鶴

鶴は鳩ではない

貴樣鶴子に惚れてるな

鳩がぽつぽと飛んで行く

春 春

春は秋ではない

貴樣春枝にも惚れてるな

春がふらふら秋になる

 

 ピストル

 

ピストルが時計

ドン 一時

ドンドン 二時

宇宙は大囘轉

その大囘轉を表現するもの

ピストルの如き大爆音を要す

ドンドドンドン ドン ドン

 

 ムーン・ライト・ソナタ

 

ベエトウベンのデッドマスク

月光! 月光! 月光!

夢だ

(そいから何だつけ)

チウインガム

あゝ第六感大舞踏會

 

 月夜

 

醉つぱらひよ

ここの街は月世界ではない

 

 アルキメデス

 

アルキメデスよ

君は哲人だ

犬だ

吠えた

發見した

それがどうしたんだい

貴樣達くよくよしてゐる間に

櫻島火山がバクハツした

あれ おたすけ――

 

 貧乏

 

風呂場の湯水をガブガブ飮むは

大概齒の黑い低能兒の類ひなるも

あはれあはれ はれはれ

我は都の巷に行き惱み

さかんに食慾をぼえしかば

懷中ひそかにさぐりしも

手にふれしは冷たき五錢白銅一枚

これにて何をか食うべき

あまりに心めいりしか

夢中になりて風呂に行き

湯水をガブガブ飮んでけり

あさましさ限りなし

恥かしさ限りなし

されどもなほもガブガブと狂ふが如く飮みて行く

人間の汁 肉の切れ 腐つた血

そのほか數知れぬバクテリア類

そをきたなしと思へばこそ

いよゝ食慾たかぶりて

 

 佛さん

 

佛さん

佛さん

別品さん

あゝ月が出た

魚が死んだ

 

雪 雪 雪

兵隊と馬が接吻

えんま大王クシヤ かつ

一同敬禮

 

ストトンぶしの藝者連中

最大急行列車

犬 狼

そら來た 逃げ逃げ

佛さん がわらつてる

ねえ 佛さん バカ野野郎

 

[やぶちゃん字注:「ダダイズム」詩であるからママ表記も馬鹿馬鹿しいのであるが、詩篇「貧乏」の五行目「をぼえ」、八行目「食う」は孰れもママ。「舞踏會」の「踏」は底本の用字のままで示した。詩篇「佛さん」の第二連二行目「えんま大王クシヤ かつ」及び第三連終行の「バカ野野郎」の「野」のダブりもママ。

 初出は大正一四(一九二五)年一月三日発行『藝備日々新聞』。「糸川旅夫」は原民喜の最初期のペン・ネームである。本篇はダダイズム詩人として立った原民喜の最初期の貴重な一篇である。当時、民喜、満十九歳。
 
「アルキメデス」にある「櫻島火山がバクハツした」大正三(一九一四)年一月十二日に始まった桜島の噴火を意識するか。凡そ一ヶ月間に亙って、繰り返し、頻繁に爆発が起こり、多量の溶岩が流出した。この一連の噴火による死者五十八名に及んだ。流出した溶岩の体積は約一・五立方キロメートル、溶岩に覆われた面積は約九・二平方キロメートルに及び、『溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡』(最大距離四百メートル・最深部百メートル)『で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになった。また、火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地で観測され、軽石等を含む降下物の体積は』約〇・六立方キロメートル、『溶岩を含めた噴出物総量は』約二立方キロメートル(約三十二億トンで東京ドーム約千六百個分に相当)『に達した。噴火によって桜島の地盤が最大』約一・五メートル『沈降したことが噴火後の水準点測量によって確認され』ている、とある(以上は
ウィキの「桜島」に拠った。当時の噴火の経過と影響はさらにリンク先に詳細に述べられてある)。そこにはこの大正大噴火が終息した後約二十年間は比較的穏やかな状態となっていたともあるので、やはり、この噴火がイメージの源泉であろう。

「佛さん」の「ストトンぶし」は「すととん節」で、大正末期の流行歌。「すととん」という囃子言葉が各節に入った。

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(11) 日本の家族(Ⅵ)

 ギリシヤ、ロオマの結婚に就いて、クウランジュ氏は恁う言つて居る。『かくの如き宗敎は決して一夫多妻を容れない』と。『古代都市論』’La Cité Antique’ の著者(クウランジュ氏)が考へて居たやうな、さういふ社會の非常に發達した家族的祭祀に關しての、氏の記述は殆ど疑問を挿む餘地はない。併し一般の祖先崇拜に關しては、或は正鵠を得て居ない處もある、蓋し一夫多妻も、一妻多夫も、祖先崇拜のまだ全く進步して居ない形と共存しうるのである。クウランジュ氏に依つて硏究された時代の西方アリヤン民族の社會は、實際一夫一妻てあつた。古代の日本社會は一夫多妻てあつて、それは家族の祭祀が成立した後までもつづいて居た。極く古い時代にあつては、結婚の關係そのものが不正確なものであつたと考へられる。則ち妻と妾との間には何等の區別も出來て居なかつた『それ等は共に、「女共」【註】として一緖にされて居た』恐らく支那の感化の下にあつて、その區別は後にはつきりとなつて來たのであらう、そして文化の進步と共に統治階級は一夫多妻てあつたけれども、一般の傾向は一夫一妻の方にあつた。家康遺訓の第五十四條にこの社會狀態の姿が明瞭に言明されて居る――これは現代に至るまで行はれて來た狀態である――

[やぶちゃん注:以下、引用は底本では同ポイントの全体が二字下げである。〔 〕で示した箇所は底本では( )の二行割注である。]

 妻妾之差別は君臣之禮を以てすべし妾は天子十二妃諸侯八嬪大夫五嬙士に二妾其以下は匹夫也〔附記第五十四條とあれど『禁令考』には五十三條にこの事あり、後段、第四十五條引用の個處も四十四條にあたれり、その他一條づつの相違あり。〕

    註 サトウ著『純神道の復興』。“The Revival of pure Shintau”

[やぶちゃん注:「家康遺訓」「東照宮御遺訓」「御遺訓」「御遺戒」など別名があり、内容も異なる伝本が残る。これは「成憲百箇条」と呼ばれるタイプの中の一条か。但し、多くは現在では偽書とされているようだ(江戸時代の人々は勿論、本物と信じていた)。本書の最後の訳者戸川秋骨明三の後書きでも偽書であるらしいことが示されてある。

「大夫」教義には五位を授けられた者を指すが、ここは前の「諸侯」の下であるところの「大名の家老」クラスの地位を指す。

「嬪」は「ひん」で本来は古代に於いて天皇の寝所に侍した女官で、皇后・妃・夫人の下位に当たる女性を指した。四位・五位の者で、後世の女御・更衣に相当する。

「嬙」は「しやう(しょう)」は本来は「嬪」のさらに下位の女官を指した。

「匹夫」前の記載から考えると、これは「匹婦」で「一婦」の意、武士「以下」の一般庶民の身分の低い「匹夫」「匹婦」のみ、一夫に一婦とする、という謂いと読む。

「禁令考」明治初期に新政府の大木喬任(たかとう)が旧幕臣で司法省官吏であった菊池駿助らに命じて編纂した江戸幕府法令集「徳川禁令考」のことであろう。] 

 

 これに依つて見れば、蓄妾は永い間(多少の例外はあつたとして)特殊の權利てあつた事と考へられる、そしてそれが大名制度及び武家階級廢止の時代まて續いて來たといふ事は、古代社會の武力的性質を說明するに足りる。(特にハアバアト・スペンサアの『社會學原理』第一卷三百十五節なる『家族』の一章を見よ)家族的祖先崇拜は、一夫多妻とは兩立し得ないといふのは事實でないとしても、(スペンサア氏の言葉は極めて包括的である)少くともかくの如き禮拜が、一夫一妻的の關係に依つて便宜を得、從つてさういふ制度を建てる傾向をもつたといふのは事實である――それは一夫一妻が、他の關係に依つて得られるよりも、家族の繼續を鞏固になし得るからである。吾々はよし古い日本の社會が一夫一妻ではなかつたとしても、自然の傾向は、家族の宗敎竝びに多數人民の道德觀と一番よく一致する條件として、一夫一妻の方に向つて居たと言ひうるのである。

[やぶちゃん注:私はこの解析の論理的正当性を認める。しかし、それ以上に、小泉八雲にとって恒久的な理想的な「家庭の平和」とは彼自身の経験上のトラウマによっても裏打ちされていると考える。彼が母と生き別れとなり、父とも断絶し、遂には孤独者として世界の辺地を放浪することになったのも、元を糺せば、彼の父が彼の母以外の女に惹かれたからに他ならないからである。特に心底、日本人となった八雲は生涯、彼の愛する「孝道」に反して、実の父を許さなかった。それは父が母を不幸にし、それが結局、「家庭の平和」を破壊した――「孝道」以前に「人としての道」「家長としての正しき権威のシンボル」に反した、おぞましい呪われるべき存在として実父が認識されていたからに他ならない。彼の小説作品に父のイメージが頗る貧困であるのは、そこにあると私は考えている。 

 

 家族の祖先祭祀が一般に行はれるやうになるや、結婚の問題は孝道の義務として、これを若いもの自身の意志に委して置く事は、正常な事であり得なかつたのである。則ちそれは子供等に依るのでなく、家族に依つて決定さるべき事であつた、何となれば男女相互の愛情の如きは、家の宗敎の要求する處に對して何等の力をも有し得ないからである。結婚に愛情の問題ではなく、宗敎上の義務の問題てあつた、それに對して、別種の考へ方をするのは、神の敎に背く事であつた。愛情は後になつて夫妻の關係から起こり來るとなし得るし、又さうであるべきであつた。併し如何なる愛情でも一族の團結を危くするほどに、その力を有つ場合には、それは罪惡とされる。故に夫があまりに妻に愛着するやうになつたが爲めに、その妻の離婚される事もあり得るし、養子とした夫が、その愛情に依つて、家の娘の上にあまり大なる感化力を働かしうるといふので、離緣される事もある。いづれの場合に於ても、その離婚を決行するに、別の理由が附けられなければならぬ事てあらうが――併しその別の理由なるものは容易に得られる事てあらう。

 夫歸の愛情も一定の制限內に於てのみ許されうるといふその理窟から、兩親なるもののその自然の權利も(吾人[やぶちゃん注:「ごじん」一人称複数。我々。後で「吾々」とも使われるが、戸川は、何かそれを、区別化・差別化して使用しているようには思われない。]の了解する處に依れば)當然古い日本の家に於ては制限されて居た。抑も結婚は禮拜を續かせるための後嗣を得る目的であるが故に、子供等は父母のものといふよりも、家族のものと考へられて居た。ここに於て子息の妻を離婚した場合若しくは養子を離婚した場合、――或は結婚した子息を癈嫡した場合も――その子供等は家族に殘されて居るのである。それは若い兩親の自然の權利は、一家の宗敎上の權利に從屬するもの、と考へられて居たからである。この宗敎上の權利に反對するものは、如何なる權利と雖も認められなかつたのである。勿論、實際には多少幸運な事情に依つて、個人も世襲的の家にあつて、自由を享有する事もあらう、併し理論上竝びに法律上から言へば、古い日本の家族には、その內の一員に取つては、何等の自由もないのであつた――重大な責任をもつ、一家の認められたる首長さへも、この例には洩れないのである。各個は尤も若い子供から祖父に至るまで、他の何人かに服從して居り、一家の生活の各行爲は、傳統的慣習に依つて制限を加へられて居たのである。

 ギリシヤ或はロオマの父親の如く、日本の家族の家長は、古い時代にあつては、一家のすべての人々の上に、生殺與奪の權力をもつて居たと考へられる。遠き蒙昧な時代にあつては、父はその子供を殺し、若しくは賣つたものと考へられる、而して後代になつても、統治階級の間にあつては、父の權力は殆ど無制限であり、その狀態のままで近代にまで及んで居た。その傳統に依つて說明される地方的の例外、若しくはその服從の事情に依つて說明される階級の例外はあつたとしても、日本の家長は、由來その一族內に於ては統治者であり、祭司(僧侶)であり、又役人であつたと言つて然るべきである。家長はその子を强いて或る結婚を爲さしめ、或はそれをやめさせる事も出來、或は癈嫡するとか、勘當する事をなし得、またその子供等の取るべき職業を定める事も出來たし、なほその権力は一族の各員竝びにその家の寄食者に迄及んだ。普通の人民の場合に於ては、時代に依つて、或る制限がその權力の遂行に對して加へられた事もあるが、併し武家階級にあつては、この家長の權力 Patria potestas は殆ど無制限てあつた。その極端な形に於ては、父の權力は一切を左右した、――生命と自由とに對する權利――結婚させ、若しくはすでに配偶した妻或は夫をして其結婚狀態をつづけしめるとする權利――自分の子達に對する權利――財產を保有する權利――官職を保持する權利――仕事を選び若しくはそれを續ける權利、さういふものを凡て左右して居た。家族は則ち專制主義であつた。

 併しながら族長的家族に行はれて居るこの絕對主義も、宗敎上の信仰からは、正常なものとされて居るといふ事――一切の事は一家の祭祀のためには、犧牲に供せらるべきものであり、父一族の各員は、一家の繼續を完うするために、若し必要とあらば、その生命をも直に差し出すべきであるといふ確信からすれば、正當なものである、といふ事を忘れてはならない。この一事を記憶して置けば、何故に他の點に於ては進步した文化を有するこの社會に於て、父がその子供を殺し、若しくは賣る事を正當と考へたかといふ事が容易に了解される。子息の罪惡の結果は、一族の減亡を招き、祭祀を絕やす事になるかも知れない――特に日本の武家の如き、その家族の一員の行爲に對して、前家族が責任を有し、その大罪は全家族の死刑となり、それが子供等にまで及ぶといふやうな武家の社會に於ては、さうであつた。また極度な必要に迫られた場合、娘の身賣りが家の破滅を救ひうる事もあるが、孝道は家の祭祀のために、かくの如き犧牲にも服從を要求したのである。

[やぶちゃん注:「家長の權力 Patria potestas」パトリア・ポテスタース。古代ローマに於いて、家長が奴隷を除く(奴隷に対するそれは所有権である)家族に対して持っていた、生殺与奪をも含んだ絶対的家父長権のこと。] 

 

 アリアン民族の間に於けるが如く、財產は、長子相續の權利に依つて、父から子息に傳へられ、長男は、他の財產が、大勢の子供の間に分配される場合にも、常にその本家な繼承したのである。然るに本家に屬する財產は家族の財產であつて、それは長男なる個人に傳へられたのでなくて、一家の代表としてその長男に傳へられたのである。大體に就いて言へば、父がその家長たる間は、その承認なくして、子息が財產を所有するといふ事は有り得ないのである。規則として――それにはいろいろ例外もあるが――娘は家を繼承する事は出來ないので、それが獨り娘である場合、養子として夫を迎へるのであるが、家の財產は、その養子となつた夫に傳へられるのである、何となれば(最近に至るまでは)婦人は一族の頭となる事が出來なかつたからである。これは西洋のアリヤン民族の家族に於ても、その祖先崇拜の時代にあつては同樣であつた。

註 舊目本に於ける父子繼續の法は、階級と場所と、時代とに依つて著しく異つてゐる、この全問題はまだ十分に論じられて居なかつた、今は安全な一般的な記述を試みるに止めて置く。

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(10) 日本の家族(Ⅴ)

 養子養女は以前には殆ど勝手に逐はれ得たものでありはしたが、古い日本の家族に於ける結婚の問題は、宗敎上の意義あるものであつて――結婚は孝道の主なる義務てあつた事は忘れてはならない。これはまた古いギリシヤ、ロオマの家族にもあつた事で、その結婚式は、寺院でなくて、現時日本て行はれて居るやうに、家庭て行はれた。これは家族的宗敎の式――花嫁が祖先の靈の居ると假定されて居るその前で、その家の祭祀の內に迎へ入れられる式であつた。原始的日本人の問には、恐らくそれに等しい式はなかつた事であらう、併し一家の祭祀の制定された後、結婚式は宗敎上の式となり、今日なおさうなつてゐるのである。併し普通の結婚は、特別な事情のない限り、一家の神殿の前若しくは祖先の位牌の前て行はれるのではない、普通の結婚に關する規則は、若し花婿の兩親がまだ存生中ならば、位牌の前では行はないと云ふ事らしい、併し若し兩親が死んで居たら、花婿は位牌の前に花嫁をつれて行き、其處で花嫁は服從を誓ふのである。以前は少くとも貴族間の結婚はもつと明瞭に宗敎的であつたらしい――『諸禮筆記』“Record of Celemonies”【註一】といふ書物の中にある、次のやうな不思議な關係から判斷して見ると、さう考へられる、曰く、『高位の人の結婚に於ては、三つの部屋を打ちきて結婚の室とし、(通例部屋々々を分かつて居る襖を除けて)新たに飾りをなしてこれに充つ………。家の神の像を納めたる神殿は寢所に接する棚の上に置かる』と。皇室の結婚は、必らず公然祖先に報告されるのも注意すべき事であり、また帝室の推定相續者たる方、若しくはその他の王子の結婚は、賢所則ち宮殿【註二】の地內にある祖先を祭る帝室の御堂の前て行はれる事も注意すべき事である。大體の規則として日本に於ける結婚式の發展は、主として支那の先例に從つたものであるが、支那の族長的家族にあつては、結婚式は、古いギリシヤ、ロオマの結婚と同樣、全くそれ一流の宗敎的儀式である。そして日本の結婚式の、家族の祭祀に對する關係は、あまり顯著でないとしても、硏究の結果それは十分明瞭になつて居る。たとへば花嫁花婿が、同じ器から相互に酒を飮む事は、ロオマの Confarreatio(一種の麥て作つた菓子を結婚の際、人の共に食する式)に酷似して居る。結婚の式に依つて花嫁は家族の宗敎の內に入れられる。その場合花嫁は夫の祖先を、自分の祖先として、畏敬しなければならないし、またその家に年長者がなければ、夫の代りとして供御を捧げる義務を負はなければならないのである。自分の實家の祭祀に關しては、花嫁はもう何等の關係もないのである、それで兩親の家からその娘の去る時、一種の葬式が行はれるが――嚴かに家の部屋々々を掃除し、門前に死者のための篝火をたくのである――それは宗教的に分かたれた事を意味するものである。

註一 この飜譯はミツトフオド氏のである。家の神の『像』なんていふものはない、思ふにこれは祖先の位牌のある、一家の神道の神殿の意であらう。

註二 現皇太子の御結婚の時はさうであつた。

[やぶちゃん注:「諸禮筆記」「林氏立斎諸礼筆記」林立斎編。宝永三(一七〇六)年刊。

「賢所」通常は「かしこどころ」と訓読みする。ウィキの「より引く。『日本の天皇が居住する宮中において、三種の神器のひとつである八咫鏡を祀る場所』。『八咫鏡そのものを祀るというより、八咫鏡を天照大御神の神魂として祀るといった方が正しい。かつては内侍が管理したため内侍所(ないしどころ)とも称され、威所・尊所・恐所・畏所などともいった。現在は宮中三殿の中央が賢所とされる。なお、「かしこどころ」で神鏡そのものを、「けんしょ」で宮中三殿そのものを指すことがある』。『起源としては、伊勢神宮に奉安されている八咫鏡の模造の神鏡が天皇の居住する内裏の側に奉安され、賢所とされるようになった』。『平安京の内裏では温明殿』(うんめいでん:内裏の東宜陽門を入って直ぐの北側にある)に賢所が置かれていたが、『後に内裏が荒廃すると、賢所は春興殿に移された』とある。現行でも男子の皇族はここで挙式している。

「ミツトフオド氏」イギリスの貴族で外交官のアルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォードAlgernon Bertram Freeman-Mitford 一八三七年~一九一六年)。幕末から明治初期にかけて外交官として日本に滞在した。ウィキの「アルジャーノン・フリーマン=ミットフォード(初代リーズデイル男爵)」によれば、慶応三(一八六六)年十月に来日(当時二十九歳)し(着任時に英国大使館三等書記官に任命)、明治三(一八七〇)年一月一日に離日している。『当時英国公使館は江戸ではなく横浜にあったため』、『横浜外国人居留地の外れの小さな家にアーネスト・サトウ』『と隣り合って住むこととなった』。約一ヶ月後、『火事で外国人居留地が焼けたこともあり、英国公使館は江戸高輪の泉岳寺前に移った。ミットフォードは当初公使館敷地内に家を与えられたが、その後サトウと』二人で『公使館近くの門良院に部屋を借りた。サトウによると、ミットフォードは絶えず日本語の勉強に没頭して、著しい進歩を見せている。また住居の近くに泉岳寺があったが、これが後』に、彼の代表作の一つである「昔の日本の物語」で『赤穂浪士の物語を西洋に始めて紹介するきっかけとなっている』とある。また、彼は慶応四(一八六八)年二月四日に起った『備前藩兵が外国人を射撃する神戸事件に遭遇し』ており、『事件の背景や推移には様々な見解があるが、ミットフォードはこれを殺意のある襲撃だったとしている。なお、この事件の責任をとり、滝善三郎が切腹しているが、ミットフォードはこれに立会い、また自著『昔の日本の物語』にも付録として記述している』とある。

Confarreatio」(コーンファルレアーチオー)は「共祭式」などと訳されるようである。儀式の詳細は(邦語)がよい。

「現皇太子の御結婚」後の大正天皇である明宮嘉仁(はるのみやよしひと)の九条節子(さだこ)との成婚は、本書刊行の四年前の明治三三(一九〇〇)年五月十日であった。]

冬   原民喜

 冬

 

 いま朝が立ちかへつた。見捨てられた宇宙へ、叫びとなつて突立つてゆく 針よ 真青な裸身の。

 

[やぶちゃん注:私が私の「原民喜全詩集」 で底本とした一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅲ」の書誌によれば、昭和二四(一九四九)年五月号『高原』に初出。]

死について 原民喜

  死について

 

 お前が凍てついた手で 最後のマツチを擦つたとき、焰はパッと透明な球体をつくり 清らかな優しい死の床が浮かび上つた。

 誰かが死にかかつてゐる 誰かが死にかかつてゐると お前の頰の薔薇は呟いた。小さな かなしい アンデルセンの娘よ。

 僕が死の淵にかがやく星にみいつてゐるとき、いつも浮かんでくるのはその幻だ。

 

[やぶちゃん注:私が私の「原民喜全詩集」 で底本とした一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅲ」の書誌によれば、昭和二四(一九四九)年五月号『高原』に初出。]

ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より)(ⅩⅡ)

「たゞ一つ困つたことには、一週間以上もまるで眠られないことがございます。去年ある奧さまが通りかゝられまして、わたしをご覽になつて眠り藥を一と壜くださいました。一度に十滴(たらし)づつ飮めといふことで。これが大層よく利きまして、よく眠れたものですけれど、もうその藥も疾くに飮んでしまひました‥‥一體あれは何といふ藥かご存じございませんか、そして、どうしたら手に入るでございませう?」

 通りすがりの奧さんは、察するところ、阿片をやつたに相違ない。私はその藥を屆けてやると約束したが、又もや改めて、彼女の辛抱つよさに感嘆の叫びを洩らしたのであつた。

「なあ、旦那さま!」と彼女は打ち消した。「何を仰つしやいます! これが何の辛抱でございませう? まあ、聖シメオン樣などのご辛抱は、なるほど大したものでした。三十年もの間、柱の上に立ち通していらつしやいましたからね! 又もう一人の聖者の方は、自分の體を胸まで土の中に埋めさせて、顏を蟻に食はれておいでになりましたものね‥‥それから、これは村の先生が話して聞かせて下すつたのですけれど、ある國があつて、その國を回々教のやつらが攻め取りましてね、國中のものを苛い目に遭はしたり、殺したりしました。その國の人たちも色々に手を盡くしたのですけれど、敵を追ひ出すことが出来なかつたのでございます。ところが、その國にまだ處女(むすめ)ながら一人の聖女が現はれました。大きな劍を取つて十貫目もあるやうな冑をつけて、回々教のやつらを征伐に向かひ、すつかり海の向かうへ迫つ拂つてしまひました。けれども敵を追つ拂つてしまうと、その敵に向かつて、『さあ、これからわたしを火焙りにして下さい。わたしは國民のために火に燒かれて死ぬと誓つたのだから。』と申しました。で、回々教徒の奴らは處女(むすめ)を摑まへて、火焙りにしてしまひました。その時からこの國の人たちは、ずつと自由の身になつたさうでございます! これこそ本當にえらい苦行でございます! わたしなんかどう致しまして!」

 私は、どこからどうしてジャンヌ・ダルクの傳説がこんな田舍へ入つて來たのかと、心ひそかに驚いた。暫く默つてゐた後でルケリヤに、この處女の年は幾つであつたかと訊ねてみた。

「二十八か‥‥九‥‥三十にはなりますまい。でも、そんなもの、年なんぞ勘定したつて仕樣がありません! それより、もう一つお話しいたしませう‥‥」[特別やぶちゃん字注:モデルであるカトリック教会の聖人で「オルレアンの処女」la Pucelle d'Orléans)と称されるジャンヌ・ダルク(Jehanne Darc 一四一二年?~一四三一年五月三十日)は異端審問で自ら満十九歳と答えている。ルケリヤの現年齢は前半の主人公「私」の過去の叙述から見て恐らく、この「二十八か‥‥九‥‥三十にはな」らぬ同年齢であると推定し得る。]

 ルケリヤは不意に妙な閊へたやうな咳をして、ほつと溜め息をついた‥‥。[特別やぶちゃん字注:「閊へた」「つかへた」と読む。咽喉や胸にものが塞がるの意の「痞(つか)える」である。]

「お前は話をし過ぎるよ。」私は注意した。「體に障るかも知れないよ。」

「全くでございます。」と、彼女はやつと聞こえるか聞こえないかに囁いた。「このお話もこれでお終ひと致しませう。仕樣がありませんもの! 今にあなたが行つておしまひになつたら、思ふ存分默りこくつてをりませう。とにかく、これで胸がすつとしましたから‥‥」

ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より)(ⅩⅠ)

「それからね、こんな夢もございましたつけ。」とルケリヤは言葉を續けた。「なんでもわたしが街道の楊の下に坐つてゐる處なので。手に削つた杖を持つて、袋を背中に負ひましてね、頭は布(きれ)で包んで、そつくり巡禮なのでございます! どこか遠い遠い所へ、靈場巡りに行かなければならないのでした。巡禮がのべつわたしのそばを通り過ぎて行きます。みんな厭々さうにのろのろと歩いて、同じ方ばかり指してゐるのでございます。誰も彼もぐつたりしたやうな顏をして、みんなお互に似てゐるのです。ふと見ると、大勢の間に一人の女がうろうろして、ぐるぐる歩き廻つてをります。背が高くて、みんなの頭の上に首がちやんと見えてゐましてね、着てゐる着物も何だか特別なもので、わたし達のやうな露西亞風とは違つてをります。顏もやはり特別な顏で、脂けのない嚴しい顏でした。そして、誰もがその女を避けるやうにしてゐるのです。女は急にくるりと身を飜して、まつすぐにわたしの方へやつて來るぢやありませんか。わたしのそばに立ち止つて、ぢつと見つめる、その眼が鷹のやうに黃色くて大きくて、澄みに澄んでゐるのでございます。『どなた?』と訊ねますと、『わしは死神だよ。』と申します。わたしは吃驚りするどころか、却つて大喜びして十字を切りました! するとその女が、死神の云ふことには、『ルケリヤ、わしはお前が可哀さうだけれど、でも連れて行くわけにはゆかない、さやうなら!』ああ! わたしはそのとき辛くて辛くて堪りませんでした!‥‥『つれて行つて下さい、あなた、わたしの大好きなお方、どうぞつれて行つて下さいな!』と申しますと、死神はわたしの方へ振り向いて何か云ひ出しました‥‥わたしは最後の時を決めて下さるのだなと悟りましたけれど、よく分かりません、聞き取りにくいので‥‥ペトロフキ〔六月二十九日の聖ペテロ祭前の精進期。〕が濟んでからといつたやうな氣がしました‥‥そこでわたしは眼が醒めたのでございます‥‥よくこんな不思議な夢を見るんでしてね!」

 ルケリヤは眼を上へ向けて‥‥考へ込んだ‥‥

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 此山のかなしさ告げよ野老掘 芭蕉

本日  2016年 3月17日

     貞享5年 2月16日

はグレゴリオ暦で

    1688年 3月17日

 

   菩提山(ぼだいさん)

 

此(この)山のかなしさ告げよ野老掘(ところほり)

 

「笈の小文」より。私の好きな一句である。「笈日記」 や真蹟懐紙などには、

 

山寺のかなしさ告げよ薢(ところ)ほり

 

とするものがあるが、全くダメである。

「菩提山」は伊勢朝熊(あさま)山にあった菩提山(ぼだいせん)神宮寺。聖武天皇勅願寺にして行基の開基と伝えられていたが、既に芭蕉が訪れたこの時代にはとっくに廃寺となって荒廃し、山野に変じていた。現在でも僅かに土塁を見出せるのみである。

「野老」厳密には単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属オニドコロ(鬼野老)Dioscorea tokoro を指すが、芭蕉は広義のヤマノイモ属 Dioscorea の普通に「とろろ芋」として食用に供するヤマノイモ Dioscorea japonica などを指しているようにも見えるのであるが、だとするとこれ非常に問題で、実は前者のオニドコロ(鬼野老)Dioscorea tokoro は苦く、しかも有毒であるからである。但し、古い時代には救荒植物として茹でて晒した上、澱粉を抽出して食用とした。参照した『多摩の緑爺の「多摩丘陵の植物と里山の研究室」』の「オニドコロ(鬼野老)」を見ると、『根茎は肥厚しますが、ヤマノイモや、畑で栽培されるナガイモのようにイモ状の塊根にはなりません』とある。また、『「トコロ」の名の由来には諸説がありますが通説はないようです。古い時代には既に「ところずら」などと呼ばれていたようです。「鬼」は、根茎が苦くそのままでは有毒で、食用にはならないことからのようです』。『「野老」は、以下のようにヒゲ根の多い根茎の様子を、腰が曲り鬚を蓄えた老人に擬(たと)え「野老」と書き、海産の「海老(えび)」と対比させたもののようです』。『ヒゲ根の多い根茎の様子を、腰が曲り鬚を蓄えた老人に擬(たと)え「野老」と書き、海産の「海老(えび)」と対比させ、長寿の象徴として、ユズリハ、ウラジロなどとともに正月に飾ったりします』。『古事記に「野老蔓(ところづら)」として現れているとされています』。『万葉集に現れる「冬薯蕷葛(ところつら)」はオニドコロであるとされています』。『平安時代の「本草和名」や、江戸時代の貝原益軒による「大和本草」にその名が現れています』とあり、これらの歴史的文化的で博物学的な伝統を踏まえて芭蕉がこの「野老」を選んだとすれば(十分にあり得る。この呼びかけた「野老掘」の翁は恰も夢幻能の登場人物のようではないか?!)これは、凄い!

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 盃に泥な落としそむら燕 芭蕉

本日  2016年 3月17日

     貞享5年 2月16日

はグレゴリオ暦で

    1688年 3月17日

 

   楠部(くすべ)

 

盃に泥な落としそむら燕(つばめ)

 

 

「笈日記」。「笈の小文」には不載。菩提山神宮寺跡(次の「此山のかなしさ告よ野老掘」を参照)へ向かう途次の茶店などで詠まれた即興ではないかと推定されている。「楠部」は現在の伊勢市楠部町(ちょう)で伊勢神宮内宮の北凡そ二キロメートル、菩提山神宮寺跡方向へ向かう途中にある。

 真蹟に、

 

盃に泥な落としそ舞ふ燕

 

また、「砂燕」(寸虎編・元禄一四(一七〇一)年刊)には、

 

盃に泥な落としそ飛ぶ燕

 

と出る。私は圧倒的に「むら燕」がよい。

2016/03/16

ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より)(Ⅹ)

「それからこんな夢も見ました。」とまた語り出した。「でも、ひよつとしたら現(うつゝ)に見えたのかも知れませんけれど――それはもう何とも云へません。わたしはこの納屋の中に臥てゐるやうな氣がしました。すると亡くなつた兩親が、お父さんとお母さんが參ましてね、わたしに丁寧なお辭儀をするんですが、口はつちとも利きません。わたしが『お父さん、お母さん、何だつてわたしにお辭儀なさるんですの?』と訊きました。『ほかでもない、お前はこの世で自分の魂を樂にしたばかりでなく、私達の心からも大きな重荷をおろしてくれた。だから、私達はあの世で大層具合がよくなつたよ。お前はもう自分の罪は綺麗になくなつてしまつて、いま私達の罪滅ぼしをしてくれてゐるのだよ。』かう云つて、兩親はまたわたしにお辭儀をすると、姿が見えなくなつてしまつて、目に映るのは壁ばかりなのでした。その後で、これは一體どういふ事なんだらうと、不思議で不思議で堪りませんでした。懺悔のとき、お坊樣にもお話した位でございます。でも、お坊樣は、それは幻ではない、幻はたゞ坊さんにだけ見えるものだから、とこんなに仰しやいました。」

ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より)(Ⅸ)

「ねえ、旦那さま」とルケリヤはまた云ひ出した。「さつき眠れるかとお訊ねになりましたね? なる程、わたしは稀(たま)にしか眠りませんけど、でも、寢た時にはきつと夢を見ます――いゝ夢をね! 夢の中では、いつだつて病氣のことはございません。いつも達者で若くつて‥‥たゞ一つ悲しいことには、眼が醒めて、氣持ちよく伸びをしようと思ひますと――どつこい、まるで鎖で縛られたやうなんでございます。いつでしたか、それはそれは有難い夢を見ましたつけ! なんならお話やたしませうか? では聞いて下さいまし。――ふいと見ると、わたしは野原の中に立つてゐるのでございます。まはりには裸麥が一面に生えてをりましてね、よく熟れて背が高く黃金色(きんいろ)をしてをります!‥‥そばには赤い犬がついてをりましたが、それが意地の惡い、とても意地の惡いやつでして、のべつわたしに嚙みつかう、嚙みつかうと致します。さて、わたしは手に鎌を持つてゐるのでございます。しかもたゞの鎌ではなくて、紛れもないお月樣なのでございます。ほら、月がよく鎌みたいになりますね、あれですの。この月でもつて、わたしは裸麥をすつかり綺麗に刈つてしまはなければなりません。たゞ暑いので、身體がぐつたりして、それにお月さまが目眩しくつて堪りませんし、妙に億劫なのでございます。ところが、周りには矢車菊が生えてゐましてね、とても大きな輪(りん)なんですの! それが急にみんなわたしの方へ頭をふり向けました。わたしはこの矢車菊を摘んでやりませうと考へました。ヷーシャが來るつて約束しましたから、丁度さいはひ、まづ花環を拵へよう、刈るのはその後でも間に合ふから、と思ひましてね。矢車菊を摘みにかゝりました。ところが幾ら摘んでも摘んでも、花は指の間からどこかへ消えて行くのです。どうしても駄目! 花環は編めないぢやありませんか。さうかうしてゐる中に、誰やらわたしの方へ來る足音が聞こえます。すぐ傍まで來て、ルーシャ! ルーシャ! と呼ぶのでございます‥‥あゝ、困つた、間に合はなかつた! とわたしは考へました。でも、同じことだ、矢車菊の代りにお月樣を頭に被らう、と思ひまして、飾頭巾のやうにお月樣を被りますと、急にわたしの身體が光り出して、野原が一面に明るくなりました。ふと見ると――麥の穗先きを傳はつて矢のやうに早く走つて來るものがある――でも、それはヷーシャではなくて、當の基督樣なのでございます! どうしてそれが基督樣と分つたか、それは云へません。繪に描いてあるやうなお姿とも違ひますけれど、とにかくさうなのです! お鬚がなくて、背の高い、若い方で、まつ白な着物をきていらつしやいましたが、たゞ帶だけが金なのでございます――わたしの方へお手を差し伸べて仰しやるには、『怖がることはない、美しく着飾つたわしの花嫁、わしの後からついておいで。お前は天國で輪舞(ホロヲード)の音頭を取つて、極樂の歌を唄ふのだ。』わたしはいきなりそのお手に吻(くち)をつけました。犬は不意にわたしの足に嚙みつきました‥‥けれど、その時わたしたちは虛空へ舞ひ上がりました! 基督樣が先きに立つていらつしやる‥‥そのお翼が鷗のやうに長くて、空いつぱいに擴がつてゐます――わたしはその後からついて參りました。そこで犬もわたしの足から離れなければなりませんでした。その時はじめて、この犬はつまりわたしの病氣なのだ。でも天國に行けば、こんなものの居場所は、なくなるのだといふことが、やつと分かつたのでございます。」

 ルケリヤはちよつと口を噤んだ。

ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より)(Ⅷ)

「まあ、好きなやうにするがいゝ、好きなやうに、ルケリヤ。私はたゞお前のためを思つて云つただけなんだから‥‥」

「分かつてをります、旦那さま、わたしのためを思つて下さるのですとも。でも、御親切な旦那樣、他人(ひと)を助けるなんて誰に出來るものですか? 誰が他人の心の中まで立ち入れますもんで。人間は自分で自分を助けるより仕方がございませんよ! 早い話が、旦那は本當になさりますまいけれど‥‥時折りかうして獨りで休んで居りますと‥‥まるでこの世に生きてゐるのは、わたしよりほか誰もゐないやうな氣が致します。たゞもうわたしひとりだけが生きた人間みたい! すると、何だか有難い後光でもさして來るやうな按配で‥‥ふつと考へ込んでしまひます――しかも奇妙なことを考へますので!」

「どんな事をそのとき考へるの、ルケリヤ?」

「それは、旦那さま、とてもお話し出來ません。御得心の行くやうに云へません。それに、あとになると忘れてしまふものですから。まるで雲のやうにふわつと來て、夕立ちみたいに降りかゝるんですの、すると何とも云へないほど爽々しい、いゝ氣持ちになるのですけれど、さてそれが何だつたか、一向に譯がわかりません! でも、こんな氣が致します。もしわたしの周圍に人が居りましたらこんな事はちつともなくつて、自分の不仕合せといふよりほか、なんにも考へないのぢやないかつて。」

 ルケリヤはやつとのことで溜め息をついた。胸も手足と同じやうに、彼女のいふことを聞かなかつたのである。

「お見受け申しますと、旦那さま、」と彼女はまた始めた。「あなたはわたしを大そう可哀そうに思つて下さるやうでございますが、どうぞあんまり氣の毒がらないで下さいまし、ほんとに! 打ち明けてお話いたしますけれど、早い話が、わたしは今でもどうかすると‥‥ねえ、お覺えでもございませうが、昔わたしもそれは陽氣な娘でしたね? 蓮つ葉な娘でしたもの!‥‥それで、まあどうでせう? わたしは今でも歌をうたひますの。」

「歌を?‥‥お前が?」

「えゝ、歌をね、古い歌を、輪舞のや、皿占ひ〔皿の下に物を置いて占ふ時の囃し歌〕のや、いろんな歌を! わたしはそんなのを澤山知つてをりまして、今でも忘れませんから。でもねえ、普通の踊歌は唄ひません。今のやうな身の上になつて見ますと、そんなのは具合が惡うございましてね。」

「それをどんな風に歌ふの? 心の中で?」

「心の中でも、それから聲を立てても。大きな聲は駄目ですけれど、でも、ちやんと分かるやうにね。それ、さつきお話しましたでせう――女の子が一人わたしのところへ遊びに來るつて、孤兒ですが、でもね、物分りのいゝ子でして。それでわたし、その子に歌を教へてやりましたの。もう四つばかりちやんと覺えました。本當にはなさいませんか? ちよつと、待つて下さいまし、わたしが今‥‥」

 ルケリヤは身構へに息を深く吸ひ込んだ‥‥この半ば死んだやうな生き物が歌をうたはうとしてゐる、かう考へると私は思はずぞつとした。けれど、私が一言も云ひ出さない中に、長く尾を引いた、漸く聞き取れるか取れないかの、しかも澄み切つた正確な音が、私の耳に響いて來た‥‥つゞいて第二、第三の音。ルケリヤは『草野の中で』を歌つてゐるのであつた。化石したやうな顏の表情を變へず、眼さへきつと据ゑて歌つてゐる。この哀れな、精一杯の、細い煙のやうに打ち慄へる聲は、人の心を動かさねば止まぬ響きを帶びてゐた。彼女はその魂を殘らず注(そゝ)ぎ出したかつたである。私はもう恐れを感じなかつた。言葉に盡くせぬ憐愍の情が私の胸を緊めつける。[やぶちゃん特別字注:「草野の中で」原文は“"Во лузях"”合唱をリンクさせて戴く。]

「あゝ、だめです!」と彼女は不意に云つた。「力が續きません‥‥旦那樣のおいで下すつたのがあまり嬉しくつて。」

 彼女は眼を閉ぢた。

 私はその小さな冷たい指の上に手を載せた‥‥彼女は私をちらと見上げた。――古代彫刻でも見るやうな、金色の睫毛に翳(かげ)られた暗い瞼は、ふたゝび閉ぢられてしまつた。間もなく、その眼は薄闇の中で輝きはじめた‥‥眼は涙に濡れてゐる。

 私は相變らず、身じろぎさへもしなかつた。

「まあ、わたしとしたことが!」とルケリヤは、思ひがけない力の籠つた調子で不意に口を切つた。そして眼を大きく見開きながら、瞬きで涙をふり拂はうとした。「よくまあ、恥づかしくない! なんといふことでせう? もう永らくこんな事はなかつたんですのに‥‥去年の春、ヷーシャ・ポリャコフが訪ねて來た、あの日以來のことで。あの人がそこに腰かけて、話をしてゐた間は、何のこともありませんでしたが、行つてしまつた後で、獨りきりになると、怺へ性なしに泣き出してしまひました! 一體どこからこんなものが出て來るのでせう!‥‥尤も、わたしたち女の涙なんて、たゞ同樣のもので、他愛なく出るものですけれどね。ねえ、旦那さま、」とルケリヤは云ひ足した。「多分ハンカチをお持ちでいらつしやいませうね‥‥お氣持ちが惡いでせうけれど、わたしの眼を拭いてやつて下さいませんか。」[特別やぶちゃん字注:「怺へ性」は「こらへしやう(こらえしょう)」と読む。堪(こら)え性に同じい。]

 私は急いでその望みを叶へてやつた。そしてハンカチを殘して置いてやつた。彼女は初め辭退して‥‥こんなものを頂いて何といたしませう? と云ふのであつた。ハンカチは極く質素なものながら、淨(きれ)いでまつ白だつた。やがて彼女は弱々しい指で摑むと、もうそれきり放さうとしなかつた。私は二人を包んでゐる暗がりに馴れて來たので、彼女の顏の輪郭をはつきりと見分けることが出來、靑銅色(ブロンズ)の皮膚に滲み出してゐる徴かな紅(くれなゐ)の色にさへ氣がついた。そして、少なくとも私にはさう思はれたのだが、その昔の美しかつた名殘りを、その顏に見つけ出すことができたのである。

夜   原民喜

 夜

 

荒れ野を叫びながら逃げまどつてゐたときも、追ひつめられて息がと絶えさうになつたときも、緑色の星と凍てついてしまつたときも、お前は睡つてゐた 睡つてゐた おほらかな嘆きのやうに。

 

[やぶちゃん注:私が私の「原民喜全詩集」 で底本とした一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅲ」の書誌によれば、昭和二四(一九四九)年五月号『高原』に初出。]

ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より)(Ⅶ)

「ねえ、ルケリヤ、」私は遂に口を切つた。「どうだらう、一つお前に相談があるんだがね。もしなんなら、私がちやんと云ひつけて、お前を町の立派な病院へ連れて行かせるが? もしかしたらまだ癒るかも知れないぜ、そりや何とも云へない。いづれにしても、さうすればお前は獨りぼつちぢやなくなるからな‥‥」

 ルケリヤはほんの心持ち眉を動かした。

「おゝ、いけません、旦那樣、」と心配さうな聲で囁いた。「病院なぞへ送らないで下さいまし、わたしに觸らないで。あんな所へ行つたら、かへつて餘計に苦しい目をするばかりですから。どうしてわたしの病氣が癒せるものですか!‥‥現にいつかもこゝへお醫者さまが來てくれまして、わたしを診察してやると仰つしやるのです。わたしはどうぞ後生ですからそつとして下さいとお願ひしましたが、なんのなんの! わたしをあつちへ向けたり、こつちへ向けたりして、手足を揉み散らしたり、伸ばしたり曲げたりしましてね。『これは學間のためにするのだ。そこが學者の務めなんだ! だから、わしに逆らつたりするのは以ての外だ。なぜかと云つて、わしは色色の仕事をした功で勳章まで頂戴した人間でな、お前たち愚かな者どものために盡くしてやつてゐるのだ。』とこんなに仰つしやいます。さんざわたしをひねくり廻しひねくり廻した擧句、病名を云はれましたが――何だか變挺れんな名前でしてね――それきり歸つてしまひました。ところが、わたしはそれから丸一週間といふもの、身體中の骨がしくしく疼いて困りましたよ。あなた樣は、わたしが獨りぼつちだ、いつも獨りぼつちだ、と仰つしやいますけれど、いゝえ、いつもさうぢやありません。來てくれる人もあります。わたしはおとなしい人間で、迷惑なぞかけませんのでね。百姓の娘達も遊びに來て、お喋りをして行きますし、巡禮の女が通りかゝつて、エルサレムだのキエフだの、いろいろな有難い町々の話をしてくれます。それに、わたしは獨りだつて怖くはありません。結局いゝ位でございます。全くの話が!‥‥旦那さま、どうかわたしをそつとして置いて下さいまし、病院なぞへお通りにならないで‥‥御親切は有難うございますけれど、たゞわたしに構はないで、もし旦那さま。」

祈り   原民喜

 

 祈り


 

       私は夏の数日を、その家の留守をあづかつてゐた。

      広い家ではなかつたが、ひとり暮し
には閑寂で、

      宿なしの私には珍しく気分が落着いてきた。
      
      ある夜ふけ、窓から月が差し、

      
……すると、お前と暮してゐた昔どほりの家かとおもへた。

 

 もつと軽く もつと静かに、たとへば倦みつかれた心から新しいのぞみのひらかれてくるやうに 何気なく畳のうへに坐り、さしてくる月の光を。

 

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年五月号『晩夏』(季刊・足利書院)に初出。私が私の「原民喜全詩集」で底本とした一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅲ」の書誌では昭和二十五年五月とするが、書誌(PDF)を見る限り、前者が正しいものと思われる。]

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 物の名を先とふ荻の若葉かな 芭蕉

本日  2016年 3月16日

     貞享5年 2月15日

はグレゴリオ暦で

    1688年 3月16日

 

   龍尚舍(りゆうしようしや)

 

物の名を先(まづ)と荻(をぎ)の若葉かな

 

「笈の小文」。底本としている昭和三(一九二八)年日本古典全集刊行会刊正宗敦夫編纂・校訂「芭蕉全集 前篇」にはこの句形で載る。しかし、私の所持する諸本の「笈の小文」では皆、

 

物の名を先とふ芦(あし)の若葉哉

 

の句形で載り(諸本は「蘆」ではない)、「荻」は「笈日記」の句形とする。

 「龍尚舍」は伊勢神宮神官龍野(たつの)伝右衛門煕近(ひろちか)の号。『博学の倭学者』(山本健吉「芭蕉全句」)で、当時、『著名の神道学者。俳諧も嗜んだ』(新潮日本古典集成「芭蕉句集」の今栄蔵氏の注)。山本氏によれば、これは二条良基・救済(ぐさい)共撰の「菟玖波(つくば)集」に載る、

 

 草の名も所によりてかはるなり難波(なには)の蘆(あし)は伊勢の濱荻(はまをぎ)

 

を踏まえての、博覧強記の主人への挨拶としたもの。訪れる前に見た実景に基づくとするならば、季詞としては「荻の若葉」の方が当季でよいし、元歌からも私は「荻」が好いと思うのだが?

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 神垣やおもひもかけず涅槃像 芭蕉

本日  2016年 3月16日

     貞享5年 2月15日

はグレゴリオ暦で

    1688年 3月16日

 

   十五日、外宮(げくう)の館(たち)にて

 

神垣(かみがき)やおもひもかけず涅槃像(ねはんざう)

 

真蹟懐紙。この日、二月十五日は涅槃会(え)である。「笈の小文」には不載。

「館」は館町(たちまち)のことで、伊勢神宮外宮神苑北側に接する神官らの屋敷町(新潮日本古典集成「芭蕉句集」の今栄蔵氏の注に拠る。現行の行政地名にはない)。

 本句は「金葉和歌集」巻第九の「雑部上」に載る六条右大臣北方の一首(五四八番歌)、

 

 神垣のあたりと思ふ木綿襷(ゆふだすき)おもひもかけぬ鐘のこゑかな

 

のインスパイアである。

2016/03/15

静かに――カテゴリ「原民喜」始動――

遅きに失した――

ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より)(Ⅵ)

「まあ、冬になりますと、そりや當り前のことですけれど、いけまんわ。だつて暗いんですものね。蠟燭をつけるのは勿體ないし、それに何の役にも立ちませんから。わたし、讀み書きは知つてをりまして、いつも本を讀むのは好きでしたけれど、一體まあ、何を讀むのでせう? ここには本なんてまるでないし、よしんば有つたにもせよ、どうして手に持つてゐることなど出來ませう、本なぞを? アレクセイ神父さまが、氣晴らしにといつて、曆を持つて來て下さいましたが、何の役にも立たないことが分かつたものですから、また持つて歸つておしまひになりました。尤も、暗いにや暗うござんすけれど、それでも何か彼か耳に入るものがあります。蟋蟀が鳴いたり、鼠がどこかでがりがり云はしたり――すると、いゝ氣持ちになつて來るんですの、考へないで濟みますから!」

「それから又、お祈も唱へます。」少し息を休めてから、ルケリヤは言葉を續けた。「たゞほんの少しか知りませんのでね、そのお祈を。第一また、わたしなんか何も神樣にうるさくして御迷惑をおかけする事などはありませんもの。わたしなんか何をお願ひすることがありませう! わたしにどんなものが入用なのか、それは神樣の方がよく御存じでいらつしやいます。神樣がわたしにこの十字架を授けて下すつたところを見ると、つまりわたしを愛してゐて下さる證據ですものね。かういふのが、神さまのお云ひつけでございます。『我らの父よ』とか、『聖母マリヤよ』とか『悲しめるものみなへの讃歌』などを誦してしまひますと――又その後は何も考へないで、ぢつと臥てをりますが、それで平氣なのでございますよ!」

 二分ばかり過ぎた。私は沈默を破らないで、腰かけ代りの窮屈な桶の上で身動きもせずにゐた。私の前に横たはつてゐる不幸な生き物の慘たらしい石のやうな靜けさが、私にもいつしか傳はつて自分までが痺れたやうになつて來た。

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― いも植て門は葎の若葉かな 芭蕉

本日  2016年 3月15日

     貞享5年 2月14日

はグレゴリオ暦で

    1688年 3月15日

 

   草庵會(さうあんくわい)

 

いも植(うゑ)て門は葎(むぐら)の若葉かな

 

「笈の小文」より。「笈日記」には、

 

   二乘軒

 

藪椿門はむぐらの若葉哉

 

の句形で載り、真蹟詠草にもその句形のものが残る。「草庵會」「二乘軒」も不祥である。田舎の庵に招かれての小さな句会と思われるが、如何にも飾らぬ庵主の風流を芭蕉は気に入っていることが伝わってくる。

2016/03/14

予告Ⅱ

蟲   江戸川亂歩   附やぶちゃん亂歩風マニアック注

 

[やぶちゃん注:本作は昭和四(一九二九)年の『改造』九月号及び十月号に掲載されたという書誌が、私の持つ角川文庫江戸川乱歩「魔術師」(作品集・昭和五六(一九八一)年刊の第九版)の年譜(島崎博編)にはあるのであるが、どうもこれはネットで調べてみると同誌の六月号及び七月号が正しいようである(例えば、個人サイト「名張人外境」内にある「乱歩文献データブック」の同年のデータ等を参照されたい。さらに調べると、これはどうも江戸川乱歩自身の記憶違いも原因にあるようだ)。また、ウィキの「蟲(江戸川乱歩)」によれば(ここでも初出号を九月号及び十月号としている)、『元々は、『新青年』に「「蟲」という文字を二、三十個、三行に分けて書き連ねた」タイトルで予告されたものだったという』とある。実は、前に示した「乱歩文献データブック」の同年のデータの五月の条に、『「江戸川乱歩作/陰獣/十一版 !!」〔博文館〕』(『新青年』五月号)の『広告』にそれが示されてある。それをそのまま「虫」「乱」を正字化して、『/』を改行ととって、正字化して示して推定復元してみる。

   *

蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲

蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲

蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲

蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲……江戸川亂歩

   *

これは強烈である。

 さて、私は実に遅まきながら、上記角川文庫版で二十四の時に読んで、その獵奇滿々(これも正字がよい)たる内容に強烈に打ちのめされたのであるが、読後、同書の高木彬光氏の「解説」の中に、

   《引用開始》

 中篇『虫』は昭和四年の九、十月「改造」に掲載された作品である。私は当時雑誌は読んでいなかったが、後で中学生になってから何かの単行本に収録されていたこの作品を読み、最後に近いあたりの、

 「虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫……

 というあたりで、背筋に悪寒が来て本をとじ、その後はもう読めなくなったことをおぼえている。正直なところ、その結末は人に読んでもらって話を聞いただけだった。

 あのときの記憶によれば、この「虫」はこういう略字ではなく「蟲」という本字が使われていたはずである。二十四字もこの文字が続いた日には、その効果は決して三倍ではとどまらない。

 活字による視覚に訴える恐怖の効果がこれほどすさまじくあらわれた例は、私は長じてからもほかに類例を知らないのだ。

 物語の筋そのものは、別に解説を要しないほど、単純明快なものである。しかしこれを純粋恐怖小説という角度から見たならば、これは他に比較を見出せないほどの絶品だといえる。少なくとも私の知っているかぎりではエドガー・ポーの数作品、日本では上田秋成の「雨月物語」の中の数作品しか比較の対象は見出せない。しかもそれらの作品にくらべてさえ、私はこの『虫』をはるかに高く評価する。そういう意味で、恐怖小説としては、

 「古今東西、空前絶後の最高傑作」

 と、めったなことでは使えない讃辞を呈してもよいのではないかとさえ思われるのである……

   《引用終了》

という箇所を読んで、これはもう、いつか正字のもので読まずんばなるまい、と思って居乍ら、遂にそのままにし、またたく間に、三十五年が経ってしまった(なお、本底本では二十四字ではなく、当該箇所の「蟲」は三十三字、踊り字「ゝ」を数えずにで、踊り字を含めると、四十三字になるが、十字分配されたそれは生理的不快感のインパクトを逆に減衰させてしまうように思う)。

 今年一月一日で江戸川乱歩の著作権が満了したこともあって、近いうちに久々に古本屋を漁って、正字のものを手に入れて電子化をしようか、などと思っていた矢先、何気なしに、国立国会図書館のデジタルコレクションを検索してみたところが――あった!――

 さても、その「版画莊」昭和一二(一九三七)年刊の「江戸川乱歩」の作品集「幻想と怪奇」(扉の作者名は「乱」で奥附は本名の「平井太郎」名義である。発行所の「画」もママ「莊」はご覧の通り、正字である。何とも不思議)を、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認して電子化する。あの時の私は、三十五年後にこうしてネット上で自身がこれを電子化するなどとは夢にも思わなかった。

 なお、これには現行のものに附されてある章番号(全十二章)がなく、二行空行となっている。また、現行では続いている場面に空きが入ってもいる。一部に不自然な妖しい空白箇所を見出せるが、それも再現しておいた(作者或いは出版社側の自主的伏字箇所と思われる。何故なら後の方には明確に『(○○字削除)』という箇所が出現するからである)。しかも極めて残念なことに、この伏字でない――原「蟲」――は復元されていない模様である。また、現行通用の本篇はこの後にかなり大きく改稿されている(編集者が、漢字表記を読み易く、別字に変えたり、平仮名化したというは除外して、である)。例えば最初は、冒頭の一文の「一言して」が「説明して」になり、冒頭から三段落目の「その徴候は、既に業に、彼の幼年時代に」の箇所が「その徴候は、遠く彼の幼年時代に」に、その直後の「手の平を使つて」が「手の平で涙を隱したり」になっており、更には、期待される鮮烈血みどろのエンディングが、実は元々は実は頗るあっさりしていた、意外な事実などが今回の電子化作業で判明した。因みに、多くのその改変(読点の異同を含めると、相当な箇所に及ぶ)は、コーダの加筆その他数か所を除いて、概ね、改悪にしか見えないことも付け加えておく(一部、大きく変わっている箇所や、やや疑義を覚える改稿を含んだ表現改変部分については言及したが、私の意図は本篇の校合にはないので、総ては注していない。その内、厳密なそれ(原「蟲」の伏字部分の復元も含む)は誰かが成し遂げて呉れることを期待するものである)。

 禁欲的に注を附したつもりだが、相手が乱歩なればこそ、結局、マニアックな注という体裁になってしまった。単純な表記字注は原則、当該段落の最後に附したが、パートが長い箇所では、前者でもやはり形式段落の後に附しておいた(必ずしも統一してされていないのは悪しからず)。本文だけを読もうという読者にはやや読み難くなったが、その方が、一部、難読語や見なれぬ語彙と感じられる向きの多い若い方には親切かと判断した(私の注は基本、私の元の職業から想定対象を高校生に置いている)。なお、明らかな句読点の欠落(ないと、明らかに甚だ読み難いと判断した箇所で、角川版には打たれてある箇所)などは黙って補っておき、読むに煩瑣なので特に注してはいない。

 面倒なので最初に注しておくと、主人公の名はルビはないが、角川文庫版に従って、「まさきあいぞう(歴史的仮名遣「まさきあいざう」)」、女主人公の芸名は「きのしたふよう」と読んでおく(本名は「木下文子」であるが、これは「ふみこ」か「あやこ」かは不明。ルビをしない以上は「ふみこ」か)。なお、「柾木」は「柾」「正木」と同義で、ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus のことである。

 最後に申し上げておくが、本作の後半部は高木彬光氏が、かくおっしゃられたように、相当に猟奇的でエグい。自己責任で読まれたい。生理的不快感を持たれても、それは私の責任ではない。かく忠告したにも拘わらず、読んでしまった「あなた」の責任である……告白しよう……私は……柾木愛造……その人で……ある…………

ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より)(Ⅴ)

「かと思ふと、一度なんか、」とルケリヤはまた云ひ出した。「それは可笑しい事がございましたつけ! 兎が飛び込んだので、本當なんですの! 犬にでも追はれたものでせうか、とに角いきなり戸口から轉がるやうに入つて來ましてね!‥‥すぐ傍にちよこなんと坐つて――いつ迄もぢつとさうしてゐました、のべつ鼻をひくひくさせて、髭を動してゐるぢやありませんか。まるで軍人さんそつくりでしたわ! わたしの方も見てゐましたつけが、わたしが怖いものぢやないつてことを合點したと見えますの。たうとう起きあがつて、ぴよんぴよんと戸口のとこまで跳ねて行きましてね、閾の上で後をふり返つたと思ふと、そのまゝ見えなくなつてしまひました! その可笑しいことと云つたら!」

 ルケリヤはちらと私を眺めた‥‥これでも面白くないか? とでも云ひさうに。私は彼女を悦ばすために微笑んで見せた。彼女はかさかさに乾いた唇を嚙んだ。

ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より)(Ⅳ)

 私は正直な話、びつくりした。

「お前はいつもいつも全くの獨りぼつちぢやないか、ルケリヤ、それだのに、どうして考ヘごとが頭へ浮かんで來ないやうに出來るんだらう? それとも始終眠つてるのかい?」

「まあ、どういたしまして、旦那さま! いつも寢られるとは限りません。大した痛みはございませんけれど、この、お腹(なか)ん中がしくしく疼きましてね、骨の節々もさうなんで、どうも本當にぐつすり眠られません。どう致しまして‥‥ところで、かうしてぢつと横になつて、まじりまじりしながら、考ヘごとをしないのでございます。まあ自分は生きてゐて、息をしてゐるのだと感じる――それだけがやつとなんですからね。かうして、見たり聞いたり致します。蜜蜂が巣でぶんぶん唸つたり、鳩が屋根に止まつてくうくう啼いたり、巣についた牝雞が雛をつれてパンの粉を啄つきに入つて來たり、かと思ふと雀や蝶々が飛んで來たりします。そんなことがとてもいゝ氣持ちでしてね。一昨年(をととし)は燕がそこの隅に巣まで作りまして、子供を孵したのでございます。その面白かつたことと云ひましたら! 一羽が巣に歸つて來て、身體をぴつたりつけながら雛を養ふと、また飛んで行つてしまひます。また見てゐますと、もう入れ替りにほかのが飛んで來る。時には開け放した戸口を掠めて行くことがあります。すると子供たちは、ね、早速ちいちく鳴いて、嘴を開けて待つてゐるぢやありませんか‥‥わたしはその次の年も心待ちにしてゐましたが、何でも土地のさる獵師が鐡砲で擊つてしまつたさうでございます。あんなものを殺して何の足しになるのでせう? 燕なんて甲蟲ほどしかないものを‥‥あなたがた獵をなさる方は、なんて意地わるなんでせうね!」

「おれは燕なんか擊たないよ。」と私は急いで云ひわけした。

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(9) 日本の家族(Ⅳ)

 これだけの說明をして置けば、家族の敎長政治(ハイラキイ)との關係に於ける、結婚及び養子に關する慣習は明瞭に了解される事と思ふ。併しなほ一言、今になほ行はれてゐる此敎長政治について説かなければならない。理論上一族の頭首の權力は、なほその家に於て最高なものである。すべてのものがこの頭首に從はなければならぬ。なほ女性は男性に從はなければならぬ、妻は夫にといふ工合に、そして一族の若い人達は年長の人達に從屬するのである。子供達はただに父母、祖父母に從はなければならぬのみならず、自分達の間にあつても、上長に關する家法を守らなければならない、則ち弟は兄に、妹は姉に、從はなければならないのである。祖先の法則は、優しく行はれて居るのではあるが、勵行されて居て、細かな事に至るまで快よくそれは服從されて居る、たとへば食事時に長男が先きに、次男がそのつぎに、と云つた風に給仕を受ける――例外は極く小さい子供の場合のみで、小さい子供は待つ事なく一番に給仕を受ける。この習慣は次男を『冷飯喰ひ』Master- Cold-Rice と嘲つて呼ぶ俚言を説明するに足りる、則ち次男は、小さい子供や、年長の人達の給仕を受けるのを待つて居るのであるから、自分の番になる時には、飯は自分の欲するやうに温かでなくなるといふのである…………。法律上一族は只だ一人の責任ある頭首を持ちうるのである、それは祖父である事もあれば、父である事もあり、或は長男である事もあるが、大抵は長男である、何となれば支那傳來の風に從つて、老人は長男が事にあたりうるやうになれば、通例はその實權を讓つて引退するからである。

[やぶちゃん注:「家族の敎長政治(ハイラキイ)」原文は“the family hierarchy”。「ファミリー・ヒエラルキー」。家庭内階層制。平井呈一氏は『族長制度』と訳しておられる。そっちの方が腑に落ちる。]

 

 若者の年長者に、女性の男性に從屬する事――事實家族の現存の全制度――は族長的家族の恐らくは一層嚴密なる組織を語るものてあらう、抑もこの種の家族の頭首は、殆ど無限の力を持つた統治者てあり、同時にまた神官(僧侶)てあつたのである。この組織は本來宗敎的であり、今日でもなほさうである、家族を作成するものは、結婚上の結合ではなく、また一家に對する親たるものの關係も、宗敎的一體としての家族に對する父なり母なりの關係に依るのである。今日てでも妻として一家の内に迎へられたる一人の女子は、一人の養子として位置をもつて居るのである。則ち結婚は養子の意である。其女子は花嫁 Flower-daughter といはれて居る。同樣にまた同じ理由て、或る家の娘の一人に對する夫としてその家に迎へられた靑年も、只だ養子としてその位置をもつて居るのである。かく迎ヘられた花嫁でも花婿でも、當然年長者に服從すべきものであり、また長者の意向次第で逐はれる事もあるのである。養子として迎へられた夫の位置は、技倆を要し、難しいものである――それは日本の俚諺に『小穅三合あれば、婿養子になるな』While you have even three gō of rice-bran left, do not become a son-in-law. とあるのがよく說明している。ヤコブはラケルを待ち受けなくも良いので、所望されてラケルに與へられるのである、そしてそれからヤコブの奉仕が始まる。それから七年の二倍の奉仕をして後、ヤコブは逐ひ出されるかもしれないのである。(『舊約聖書』に依ればヤコブはラケルを得るために七年の奉仕をする、そして後さらに二度七年の奉仕をするのである)其場合ヤコブの子供達はもう自分のものではない、それは家族のものである。その養子とされた事は愛情などとは何の關係もない事で、又その放逐も何等不行跡があつたといふのでもない。さういふ事柄は法律で定められてあつたとしても、實際は家族の利害に依つて決定されるのである――家【註】とその祭祀とをつづける事に關しての利害に依るのである。 

註 最近の法律は婿養子の利益になるやうになつて居る、併し法に訴へるのは、不行跡のために養家を逐はれたので、その逐はれた事に依つて、何か利益を得ようと焦慮するやうな人のみのする事である。

[やぶちゃん注:「註」は底本では、全体が三字下げで。ポイント落ち。この注は以下では省略する。

「ヤコブ」と「ラケル」ヤコブは旧約聖書「創世記」に登場するヘブライ人の族長の名でラケルはその妻の名。別名を「イスラエル」と称し、イスラエルの民、即ち、ユダヤ人は皆、ヤコブの子孫を自称する。ウィキの「ヤコブによれば、『父はイサク(イツハク)、母はリベカ、祖父は太祖アブラハム』。『ヤコブは双子の兄エサウを出し抜いて長子の祝福を得たため、兄から命を狙われることになって逃亡する。逃亡の途上、天国に上る階段の夢(ヤコブの梯子)を見て、自分の子孫が偉大な民族になるという神の約束を受ける。ハランにすむ伯父ラバンのもとに身を寄せ、やがて財産を築いて独立する』。『兄エサウとの和解を志し、会いに行く途中、ヤボク川の渡し(後に彼がペヌエルと名付けた場所)で天使と格闘したことから神の勝者を意味する「イスラエル」(「イシャラー(勝つ者)」「エル(神)」の複合名詞)の名を与えられる。これが後のイスラエルの国名の由来となった』。彼には『レア、ラケル、ビルハ、ジルパという』四人の『妻との間に』娘と十二人の『息子をもうけた。その息子たちがイスラエル十二部族の祖となったとされている。晩年、寵愛した息子のヨセフが行方不明になって悲嘆にくれるが、数奇な人生を送ってエジプトでファラオの宰相となっていたヨセフとの再会を遂げ、やがて一族をあげてエジプトに移住した。エジプトで生涯を終えたヤコブは遺言によって故郷カナン地方のマクペラの畑の洞穴に葬られた』とあり、ウィキの「ラケルによれば、『父はラバン、姉はレア』。『兄エサウから逃れて伯父ラバンの元へきたヤコブはラケルを見初め、ラバンの「七年働けば結婚を許す」という言葉を信じて働く。ところが結婚式を終えて花嫁を見るとそれは姉のレアであった。ヤコブは怒るが、ラバンの求めでさらに七年働いてついにラケルと結婚することができた』。『レアには子供が生まれたのに、自分に子供ができないことをあせったラケルは、自分の女奴隷ビルハにヤコブの子を産ませて自分の子とした。それがダンとナフタリである。ラケル自身にも待望の子供がうまれ、その子をヨセフと名づけた』。『その後、エサウと和解したヤコブは、神の言葉によってベテルからエフラタ(現ベツレヘム)へ向かう。その途上、ラケルは産気づき男子を産むが、難産で命を落とした。その子をラケルはベン・オニ(私の苦しみの子)と名づけたが、ヤコブはベニヤミンと呼んだ。ラケルはエフラタに向かう道の傍らに葬られた』とある。]

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(8) 日本の家族(Ⅲ)

 族長的家族の制度は、何處でもその祖先の祭祀に起原をもつて居る、それで日本に於ける結婚及び養子の問題を考へる前に、古の家族の組織に就いて一言する必要がある。昔の家族はウヂ(氏)と呼ばれた、――此言葉はもと近代の文字ウチ(內)則ち內部、若しくは家と同じ意味をもつて居たものであるが、正しく極古い時代から『名』――特に氏族の名の意味に用ひられて居た。ウヂに二種ある、オホ―ウヂ則ち大族竝びにコ―ウヂ則ち小族で、――いづれの文字も血統竝びに同一な祖先の祭祀に依つて結ばれたる大きな團體を意味するのである。そのオホ―クヂは或る程度まで、ギリシヤの γένος(種族)ロオマの gens(部族)と同じで、コ―ウヂは其分派で、オホ―ウヂに隸屬する。社會の單位はウヂであつた。各オホ―ウヂは其所屬のコ―ウヂと共にPhratry(人民の或る階級)若しくは Curia(或る一族の集合)のやうなものを代表して居た、そして原始的日本の社會を作る大きな團體は、ただウヂを合はせたものであつた――それを氏族と云つても、部族、民群と呼ぶとしても。一定した文化の生じたと共に、大きな仲問は、當然分かれ、又さらに細かく分かれたが、其及少の分派も、なほ其當初の組織を保つて居た。近代の日本の家族すら一部分は其組織をもつて居る。それはただ一家といふ意味ではなくて、ギリシヤ、ロオマの家族の、部族(gens)の分解後に、其形をなした所のものと同じものである。吾々(ヨォロッパ人)に取つては家族なるものは分解してしまつて居る、吾々が或る一人の家族と云ふ時には、その人の妻子を言ふのである。然るに日本の家族は、もつと大きな仲間である。早婚であるが故に、その家族は一軒の家として、曾祖父母、祖父母、父母及び子供――幾代もの子息及び娘から成り立つて居ると見るべきであつて、通例は只だ一個の家族以上に及んで居るのである。古い時代にあつては、其家族は、一村若しくは一町內の全人員を包有して居たかも知れないのであつて、從つて今日なほ日本には、大きな社會でありなながら、その人々がみな同一な族名をもつて居るといふ事がある次第である 或る地方に於ては、以前は出來る限りすべての子供達を、もとの家族の一團體の內に、其ままにして置くといふ事を習慣として居た――すべての娘達にはその夫を養子として迎へて。斯うなるとその一つ屋根の下に住んで居る團體は、六十人或はそれ以上の人々から成るといふ事になる、其場合家は、勿論その要求に應ずる爲めに、だんだんに擴げて建て增しされるのである。(私は只だ說明の爲めにこんな不思議な事實を記して居るのである)併し民族の落ち着いた後には、大きなウヂは急速に增加した、そして遠い邊陬の地には、なほ一家を以つて、一社會を成するやうなのもあると言ふ事てはあるが、原始的な族長の團體は殆ど到る處で疾くに分壞したに相違ない。それから後もウヂの主なる祭祀はつづいて、またその小區分の祭拜として殘り、もとの部族の人々は、つづいて同一の祖先則ち氏の神(ウヂカミ)を祭つたのである。それから徐に氏の神の靈屋は近代の神道の社に變はり、祖先の靈は地方の守護の神となつた、その近代の稱呼、氏神なる言葉は、昔の名である氏の神を短くしたものに過ぎない。その内一般に一家の祭祀が成立して後、個々の家は、社會一般の祭祀に加へて、その家の死者の爲めに特別な祭祀を營むやうになつた。かくの如き宗敎上の狀態は今日なほりつづいて存立して居る。家族なるものは澤山の家を包有する事もある、併し各家はその家の死者に對する祭祀を營んで居る。そしてその大小に拘らず、一族の團體はその古い制度と特徴とを守つて居る、それは今日でもなほ宗敎的社會であつて、家族の各員に向つて、傳統的風習に從ふ事を求めて居るのである。

[やぶちゃん注:「氏」ウィキの「氏」によれば、『日本の古代における氏(うじ、ウジ)とは、事実上または系譜上、祖先を同じくする同族集団、すなわち氏族を指す。家々は氏を単位として結合し、土着の政治的集団となった。さらに、ヤマト王権(大和朝廷)が形成されると、朝廷を支え、朝廷に仕える父系血縁集団として、氏姓(うじかばね)制度により姓氏(せいし)へと統合再編され、支配階級の構成単位となった』。『氏では、主導的立場にある家の家長が「氏の上」(うじのかみ)となって、主要構成員である「氏人」(うじびと)を統率し、被支配階層である「部民」(べのたみ)や「奴婢」(ぬひ)を隷属させた。氏は、部民や田荘(たどころ)、賤(せん)などの共有財産を管理し、「氏神」(うじがみ)に共同で奉祀した。氏の名は朝廷内での職掌や根拠地・居住地の地名に由来し、多くは氏姓制度により地位に応じて与えられたカバネ(姓)を有し、政治的地位はカバネによって秩序づけられた』。『ウジの後には、(古代は)格助詞「」を入れて読む。この「」は、帰属を表す。例えば「蘇我馬子(そがうまこ)」ならば、蘇我氏「の(に属する)」馬子、源頼朝(みなもとよりとも)ならば、源氏「の」頼朝という意味となる』。『また、氏の呼称は自己の属する血縁集団に基づいて名乗るものであり、婚姻によって本来所属していた家族集団とは違う氏に属する家族集団に移ったとしても氏を変えることはなかった。平(北条)政子が源頼朝の正室になっても「源政子」と名乗らなかったのはこうした考え方による。ただし養子縁組の場合は』ケース・バイ・ケースであった。『源師房が藤原頼通の養子になっても「藤原師房」とは名乗らなかったが、源義家の四男惟頼が高階氏に養子に行ったときは、高階氏に改姓している。藤原清衡のように、もともと入り婿の形で清原姓を名乗っていたものが、藤原姓に戻したものもある『平安時代の貴族や武士では、血縁集団を区別するための氏(ウジ)とは別に、家族集団を区別するために家名ないし苗字を名乗るようになり、それが一般的に通用するようになる。例えば源氏の中のある家系は足利という苗字を称し、別の家系は新田の苗字を称した。つまり足利も新田も、血縁集団としては同じ源姓の源氏だが、家族集団としては足利家と新田家と別個に分かれた。時がたてば、足利も新田も家族的規模からより大きな氏族的規模となり、そこからさらにまた家族集団が新しい苗字で別れていった』。『江戸時代までは、朝廷の公式文書には氏(ウジ)と姓(カバネ)を記すのが習わしであった。姓(カバネ)が朝廷との関係を表す。例えば、源氏を自称した徳川家康の場合は「源朝臣家康」と記した。「源」が氏(ウヂ)で、「朝臣」が姓(カバネ)である。ただし、平安時代の頃から、氏(ウジ)と姓(セイ)とは同じものとされるようになり、例えば「源」は姓=氏とされた。姓(氏)と名字(苗字)との違いは、姓=氏が天皇(朝廷)から賜ったものであるのに対し、名字は自らが名乗ったものであるということである。例えば、足利尊氏の場合、姓(氏)の「源」を使った場合は「源尊氏」であるのに対し、名字(苗字)の「足利」を使った場合は「足利尊氏」である』。『明治時代においては、まず』明治三(一八七〇)年に、『それまで身分的特権性を有していた苗字を平民も自由に公称できるようになり、苗字の特権性が否定された(平民苗字許容令)。つまり明治以前までの、姓(氏)と、名字(苗字)の二重制度が廃止され、姓(氏)=名字(苗字)として一元化され、自由に名乗れることにされたのである』。明治五年に『壬申戸籍が編纂された際、戸主の届出によって、戸籍へ登録する氏が定められることとなる。それまで、朝廷で編纂される職員録には伝統的な氏(うじ)と諱が用いられてきたが』、『多くの戸主は籍への登録は苗字家名を以てした。広く知られている例では、越智宿禰博文が伊藤博文と、菅原朝臣重信が大隈重信と、源朝臣直正が鍋島直正と、藤原朝臣利通が大久保利通と、藤原朝臣永敏が大村益次郎と登録したものなどである。その後も伝統的に旧来の氏を用いる場面は皆無ではないが、この壬申戸籍以降、国家が公的な場面で旧来の「藤原朝臣○○」などの名称を用いることはなくなり、この壬申戸籍によって伝統的な氏(うじ)の用法は事実上ほぼ途絶したものといいうる』。『のち日本国民全てを戸籍により把握する必要が発生したことや事務上の要請もあったことなどから』、明治八(一八七五)年には、『全ての国民について苗字の公称が義務づけられることになる(平民苗字必称義務令)。その際、妻は生家の苗字を称すべきか、夫のそれを称すべきかが問題となったが』、翌年の『太政官指令では、武士の慣行であった夫婦別氏の慣行に従うべきこととした これに対しては、庶民の生活実態に合わないなどの理由(社会生活上、嫁ぎ先の苗字を使うことがあった)で、明治政府の夫婦別氏政策に対しては、地方から疑問や批判も出され、事実上同氏を用いた者もあったと主張する者もいるが、実態は明らかではない。いずれにしても、法律上は夫婦別氏(子は親の氏を称する)であった』。『その後、不平等条約の解消の一環として民法典の編纂がその頃始まったが、当時のヨーロッパ法(フランス法とドイツ法が参考にされたが、フランス法は夫婦別氏、ドイツ法が夫婦同氏であった)を参考にし、夫婦単位で妻が夫の氏を名乗る夫婦同氏制が草案の段階で採用され』、明治二三(一八九〇)年に『公布された旧民法において、妻が夫の家の氏を用いるとする夫婦同氏の制度が初めて登場することになった(この旧民法において、法令上は「氏」で呼称が統一される)』。『ところが、同氏とする旧民法案は、日本伝統の家父長制度を否定するものだとする反対論(いわゆる民法典論争)が多く施行されなかった。そこで、夫婦単位ではなく家単位とすることとして、改めて民法が制定・公布され』、明治三一(一八九八)年に『施行された。これは、家族同氏として人民管理を容易にしたい内務省と婚姻により氏は変わらない伝統を重視する勢力との妥協の産物だとみられている。ここでは、家族制度につき戸主及びその家族から構成される家という集団を想定し戸主に家の統率権限を与えるという、いわゆる家制度が採用された(家制度自体は、旧民法でも採用)。そして「戸主及ヒ家族ハ其家ノ氏ヲ称ス」』(明治民法七百四十六条)『と定められたことから、氏は、家の呼称としての性質を有することになる。また、家を同じくする者を一つの戸籍に編成する法制を採ったため、戸籍編成の単位としての意味をも持つことにもなった』とある(下線やぶちゃん)。この近代部分の下線部、私は不学にして知らなかった。なお、「うぢ(うじ)」の語源説としては八雲が述べる「内(うち)」の意であるとする説の他にも、「家系」や「家柄」「身分」「地位」を表すところの「筋(すぢ(すじ))」とする説の他、朝鮮語の「親族」の意の「ウル(ul)」や、蒙古語の「親戚」の意の「ウルク(urukurug)」に由来するとする説などがある。少なくとも「内」が定説な訳ではないので注意されたい。

「オホ―ウヂ」「コ―ウヂ」(「―」は長音符ではなく、分節記号であるので注意されたい)は大氏・小氏のこと。ウィキの「氏姓制度」(前注の引用元とは異なるので注意)によれば、『大化の改新により、氏姓制度による臣・連・伴造・国造を律令国家の官僚に再編し、部民を公民として、一律に国家のもとに帰属させた』が、その最初の天智天皇三(六六四)年に行われた「甲子の宣」に於いて、『大化以来の官位を改め、大氏(おおうじ)、小氏(こうじ)、伴造氏(とものみやつこうじ)を定め、それぞれの氏上(うじのかみ)と、それに属する氏人(うじびと)の範囲を明確にしようとするものであった。つまり、官位の改定によって、大錦位』(だいきんい:大氏)『・小錦位(小氏)、つまり律令の四、五位以上に位置づけられる氏上をもつ氏を定めたものであり、これによって朝廷内の官位制度と全国の氏姓制度とを連動させようとした。さらにこのような氏上に属する氏人を父系による直系親族に限ることとし、従来の父系あるいは母系の原理による漠然とした氏の範囲を限定することとした。これにより、物部弓削(もののべゆげ)、阿倍布勢(あべのふせ)、蘇我石川(そがのいしかわ)などの複姓は、これ以後原則として消滅することとなる』とある。

γένος」古代ギリシャ語で発音は「ゲノス」。現行のギリシャ語では「人種・種類・種族・出自」など。

gens既出既注

Phratry」古代ギリシア語の「φρατρία(フラトリア)」の英語化。古代ギリシアの諸都市に於いて「兄弟団」と呼ばれた社会制度を指す。

Curia」「クリア」で一般には「民団」などと訳す、古代ローマに於ける市民団区分の一つ。
 

――それを氏族と云つても、部族、民群と呼ぶとしても。」原文は“— whether we call them clans, tribes, or hordes.”。「氏族」の“clan”(クラン)はゲール語の「子孫」に由来する「スコットランド高地人の氏族/一族・一門/閥・族・一味/大家族」の意、「部族」の“tribe”(トゥライブ)はラテン語の「ローマの種族」に由来する「同一の血統を持ち、上に族長をいただいて群居する種族・部族/古代イスラエル人の支族/生物の族・類」の意、「民群」の“horde”(ホォード)はトルコ語の「野営地」に由来する「遊牧民・流民の群れ/大群」の意である。

「邊陬」「へんすう」と読む。辺境の意。]

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(7) 日本の家族(Ⅱ)

 讀者は古のアリヤン民族の家族の內にあつて、その結合してゐる覊絆が、愛情を主とした覊絆でなくして、宗敎の覊絆であり、それに對しては、自然の愛情なるものは、全然從屬の位置にあつたものである事に、必らず氣づいた事であらう。この事情は祖先崇拜のある處、必らず族長的家族の特徴となつて居る。それで日本の家族も、古ギリシヤ若しくはロオマの家族の如く、嚴格なる意味に於ての宗敎的社會であつたし、今でもなほそのまま宗敎的社會として殘つて居る。その組織は本來祖先崇拜の要件に從つて出來たものであつて、その後に入つて來た孝道の敎の如きも、一層古い而も同種の宗敎の必要に應ずるために、支那で既に發達して居たものであつた。吾々は日本の家族の組織、法律、慣習等の內に、古いアリヤン民族の組織及び傳統的法律との幾多の類似點を認めると考へる――社會學的發展の方則はただ僅の例外をゆるすのみで、大槪は同一なものであるが故に、事實かくの如き多くの類似點は明らかに認められるのである。深い比較硏究の材料はまだ集められては居なかつなので、日本の家族の過去の歷史に就いて學ぶべき事はまだ多く殘つて居る。併し大體の筋道について言へば、古ヨオロッパに於ける家族制度と、極東に於ける家族制度との間の類似は、明らかに認められる事である。

[やぶちゃん注:「覊絆」音なら「きはん」で「羈絆」とも書き、当て読みで訓ずるなら「きずな」(歴史的仮名遣は「きずな」であって「きづな」ではない。逆に現行の現代仮名遣で「きづな」と書けるに過ぎないので、あくまで表記の「きづな」は歴史的仮名遣では誤りであるので、注意されたい)であるが、「神國日本」の格調からは「きはん」である。「羈」も「絆」も元来は、牛馬を繫ぎ止めるものを指し、行動する者の妨げになるものや事柄。絆(ほだ)し(但し、「ほだし」は刑具として用いる手枷(かせ)・足枷を第一義とする)。] 

 

 當初のヨオロッパの文化に於ても、古い日本の文化に於ても、一家の繁榮は祖先の祭祀の務めを嚴格に完うするにあるといふ信仰があつた、そして此信仰が今日に於ける日本の家族の生活を支配して居る事は著しいものである。一家の幸運は祖先の禮拜を行ふに在り、最大の不幸は其式を行ひ、供物を爲すべき男子の後繼を殘さずして死ぬといふ事であると、今なほ考へられて居る。古のギリシヤ人竝びにロオマ人の間に於ける孝道の最高の務めは、家族の祭祀の永續を完うするにあつた、從つて獨身生活は一般に禁じられて居た――結婚の義務は法律に依つて勵行されなければ、輿論に依つて勵行されたのである。古い日本の自由を有する階級にあつても、結婚は一般の規則としては、男子の後繼者の場合義務的であつた、獨身生活は法律を以つて有罪とされない場合には、慣習に依つて非難された。次男以下の場合、子なくして死ぬといふのは、その人一個の不幸であつたが、長男で後繼者の場合、男子の跡繼ぎを殘さずして死ぬといふのは、祖先に對する罪惡てあつた、――それに依つて祖先の祭祀が絶えるといふ恐れがあるので。如何なる口實があつても、子なくして居るといふ事は許されない。日本に於ける家族の法律は、昔のヨオロッパに於けると正しく同樣で、かくの如き子のないといふ場合に對して、十分な用意が出來て居るのてあつた。則ち妻に子がなかつた場合には、その妻は離婚される事もあつた。また離婚すべき理由のなかつた場合には、世嗣を得るといふ目的の爲めに妾を置き得たのである。なほ進んで各家族の代表者は世嗣を養子する特權を有して居た。また惡い息子は廢嫡され、その代りに他の靑年を養子する事もあつた。さらに最後に女の子ばかりで、男の子のなかつた場合、祭祀の繼續はその長女のために夫を養子して得られたのである。

[やぶちゃん注:「獨身生活は一般に禁じられて居た」吉田忠雄論文「日本の労働力問題(PDF)の中に、『古代ギリシャや古代』『ローマの市民は、ほとんど子供を生まず、人口不足に悩まされたことがある。アテネもスパルタも、法律によって独身を禁じたし、ローマもまた、未婚者や子供の少ない市民の市民的権利に制約を加えた』とある。但し、続いて、『しかし、出生率はほとんど高まらず、人口は減少し』、『ギリシヤもローマも、国外から亡ぼされる以前に、内部から崩壊していった』とある。]

 

 併しながら古いヨオロッパの家族に於けると同樣、女の子達は家を繼承する事は出來なかつた、繼續の系統は男系にのみあるので、男子の嫡子を得る必要があつたのである。古い日本の信仰に依れば、古ギジシヤ、ロオマの信仰に於けると同樣、母親でなくて父親が生命を與へる人であつた、生々の本元は男性にあつて、禮拜【註】を保持する務めは【註】子でなく男子にあつたのである。

[やぶちゃん注:以下、注は底本では全体が四字下げでポイント落ち。この注は以降、略す。]

註 祖先を禮拜する人種の間にあつて繼承が男系にある場合、祭祀も男系にある。併しながら讀者は族長い政治よりも一層古い原始的社會の形――女子家長政治時代――に於ても祖先の禮拜は行はれて居たと想像されて居る事を知つて居るであらう。スペンサア氏は恁う言つて居る『繼屬の女系にあつた時代には、如何なる事があつたか、それは明瞭でない。かくの如き習慣のあつた社會に於て、死者の靈に仕へる義務がその人の子供の一人の上にあつて、他のものの上にそれが被される事はなかつたといふ事を示す記錄は未だ見なかつた處である』と。(『社會學原理』第三卷六〇一節)

[やぶちゃん注:「社會學原理」ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)の『総合哲学体系』(“ System of Synthetic Philosophy )全十巻の第三巻“ Principles of Sociology ”(一八七四年~一八九六年)。 

 

 婦人も祭祀に參與した、併しそれを保持する事は爲し得なかつた。その上一家の娘達は、一般の規則として結婚して他家へ行く運命をもつて居たので、家庭の祭祀には一時的の關係をもちうるのみであつた。妻の宗敎はその夫の宗敎たるべき事が必要であつた、それでギリシヤの歸人と同樣、日本の婦人も他家に嫁する事に依つて、當然その夫の一家の祭祀に加はるのであつた。この理由から特に族長的家族に於ける女性は、男性とは等しくないので、姉妹は兄弟とは同列たり得ないのである。日本の娘も、ギリシヤの娘と同樣、結婚後も自分の家にとどまり得たのは事實である。夫がその娘のために養子された場合には、――換言すれば、それは夫が子息としてその家に迎へられた場合である。併しこの場合に於てすら、娘は只だ祭祀に參與しうるのみで、その務めを保持するのは養子となつた夫の義務となつたのである。

ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より)(Ⅲ)

「それで退屈でないかい、可哀さうに、ルケリヤ、不氣味でないかい?」

「どうも致し方がございません! 噓をつくのは厭ですから正直に申しますが、初めの間はとても情けなうございました。けれど、やがて馴れつこになつて、辛抱しぬいてみると――もう何ともありません。世の中にはもつと不運な人もあるんですからね。」

「それは又どういふ事だい?」

「中にはまるで身を寄せるところのない人もありますもの! また中には目が見えなかつたり、耳が聞えをかつたりして! ところが、わたしは、有難いことに眼もよく見えますし、何でもはつきり聞えます、それこそ何でも。土龍(もぐら)が地の中を掘つてゐる――それさへちやんと聞えますからね。又どんな匂ひでも、それこそ、どんなに微かな匂ひでも鼻が利きますので! 畑で蕎麥の花が咲くとか、お庭で菩提樹の花が開くとかすれば、わたしは教へて貰はなくても、すぐさま一番に知るのでございます。たゞそちらの方から風がそよそよと吹いて來さへすれば分りますものね。えゝえ、なんの神さまをお恨み申しませう? まだまだ運の惡い人は、たくさん居りますからね。それに、かういふ事だつてあります。達者な人といふものは、ともすれば罪なことをし勝ちなものですけれど、わたしなどは罪の方が自分で逃げて行つてくれました。この間もお坊さまが、アレクセイ神父さまがわたしに聖餐を授けようとなされて、『お前には懺悔をさせるがものはない。さういふ風になつては罪を犯すわけがないからな?』と仰つしやいました。けれどもわたしはその御返事に、『でも心の中の罪はどうなりますので?』とお訊ねしたら、『いや、それは大した罪ぢやないよ。』と云つて、笑つていらつしやるのでございます。」

「それに、わたしは屹度その心の中の罪も餘り犯してはゐないと思ひます。」とルケリヤは續けた。「だつて、わたしは物を考へたり、第一、そのことを思ひ出したりしないやうに、自分を躾けてしまつたからでございます。その方が、月日が早く經つてくれます。」

翠嵐高校入学夢

今朝見た夢――その2
 
横浜翠嵐高校に、59歳の今、再入学する、その入学式当日。
 
合格後の課題であるらしい、自由研究を皆が持っている。
 
僕が持っているのは、二重になった透明なガラス球で、内部のそれは地球儀となっており、世界中の原発の位置が示されており、それがメルトダウンする様をアップ・トゥ・デイトにシンクロ表示する装置である。持っている今しも、どこかで複数の原発の爆発が起こり、球の中は「核の冬」によって白くなってゆくのが見えた――
 
担任が張り出されているのだが、その中には僕のフル・ネームもあるのである。僕は――「僕」が担任になるのかも知れない!?――と思うと恐懼したのを覚えている。
 
校長から入学許可を受けている。
 
その後、新クラスに入ると自己紹介をしなくてはならないことになっている。僕は校長の話も上の空で、「……十年前まではお恥ずかしながら、ここで国語教師をしており……君たちのお父さん以上の年齢のクラスメートですが……」などという、これまた、いかにもつまらぬ台詞を、頭の中でぐるぐると考えているのであった……
 

 
[やぶちゃん注:ここで眼が覚めてしまった。自己紹介のシーンまで見たかった。]

不孝糖売万吉夢

今朝見た夢――その1
 
僕は「ちかえもん」の不孝糖売万吉になっている。
 
鉦を打ちながら「ふこうとう~~!」と唄いながら、満面の笑みで山道を登って来る
 
僕演ずる万吉。
 
(キャメラ切り替え)
 
高速道路。向こうにデンとした巨大な富士山。
 
その中央を踊りながら去って行く僕演ずる万吉――

 
[やぶちゃん注:「ちかえもん」で万吉を演じた青木崇高は絶品であった。]

2016/03/13

ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より)(Ⅱ)

「飛んでもないことを、ルケリヤ、」と私はやつとのことで口を切つた。「一體それはお前どうしたんだね?」

「とんでもない災難が降りかゝりましてね! どうかあなた、つまらない事ではございますが、旦那さま、お厭でも私の不仕合せな身の上話を聞いてやつて下さいまし――まあ、そこの桶へお掛けなすつて――もそつと近く、でないと、私の聲がお聞えになりませんから。でも、わたしずゐぶん聲が出るやうになりましたわ! それはさうと、あなた樣にお眼にかゝれて、こんな嬉しいことはございません! 一體どうして、このアレクセーエフカなどへいらつしやいましたのでせう?」

 ルケリヤは極く小さな弱々しい聲ではあつたが、澱みなしに話し續けた。

「獵師のエルモライが、こつちへ引つぱつて來たんだよ。が、それよりお前の話を聞かうぢやないか‥‥」

「わたしの災難のお話でございますか? 宜しうございます、旦那樣。もう大分前のことで、六年か七年ぐらゐにもなりませう。わたしはその時分ヷシーリイ・ポリャコフと許婚の約束が出來たばかりなのでございました――覺えていらつしやいますか、押出しのいゝ、髮の毛の房々と捲いた人で、お母樣に使はれて食堂番を勤めてをりましたが? でも、あの時分あなたは村にいらつしやいませんでしたね、モスクワへ學問をしに行つておしまひになつて。わたしとヷシーリイはお互にとても好き合つてゐましてね、わたしあの人のことが寢た間も頭を離れませんでした。丁度春のことでしたが、ある晩ふと、どうしたのか‥‥もう夜明けに間もないのに‥‥どうしても寢られないのでございます。庭では鶯が、それこそうつとりする程いゝ聲で啼いてゐるんですの!‥‥わたしは堪らなくなつて起き出しましてね、入口の上り段のとこまで聞きに出ました。鶯は一生懸命に高音を張つて啼き立ててゐます‥‥すると不意に、誰かヷシーリイらしい聲でわたしを呼んでるやうな氣がしました、小さな聲で『ルーシャ』とこんな風にね‥‥わたしは不圖その方へ眼をやりましたが、やはり半分夢見ごゝちだつたと見えて、足を踏みはづしたのでございます、高い上り段からまつ直ぐ下へ落ちてしまひまして、いきなり地べたへ身體を打つけたので! でもその時は大した怪我もなかつたやうな氣がしましたので、やがて起き上がつて、自分の部屋へ歸つて來たやうな譯ですが、でも、何かしらの中の方で――お腹の中で――千切れたやうな按配でございました‥‥ちよつと一つ息をつがして下さいまし‥‥暫くの間‥‥旦那さま。」

 ルケリヤは口を噤んだ。私は驚きの眼を瞠つて彼女を眺めた。私が驚いたのはほかでもない、彼女が殆んど樂しさうに、嘆聲や溜め息など洩らすことなく、しひて同情を求めようともせずに、物語をつゞけたことである。

「それからといふもの、」とルケリヤは言葉を續けた。「わたしは次第に瘦せ細つて參りまして、肌の色が黑みがかつて來ました。歩くことも骨が折れるやうになりますし、その中にやがては全然(まるで)兩足が利かなくなりましてね、立つことも坐ることも叶ひません。始終横になつてばかりゐたいのでございます。飮み食ひも氣が進みませず、だんだん惡くなる一方でした。奧さまは、あの御親切な方ですから、方々のお醫者さまにもかけて下さるし、病院にまでやつて下さいました。けれど、一向に驗が見えません。第一、わたしの病氣が何の病ひやら、それを見立てるお醫者さまが一人もないのでございます。でも、いゝといふことなら何でもして下さいました。鐡を燒いて背中に當てたり、川の氷を割つてその中へ浸けたり――でも、やつぱり効き目がありません。たうとう私は身體がこつこちになつてしまひました‥‥そこで、御主人さま方も、もうこのうへ療治をしても仕方がない、かと云つて、お邸へ片輪者を置いとくわけにもゆかない、といふことになりましてね‥‥まあ、こちらへ送られて來たのでございます――それに、こゝには身寄りの者もをりますので。かういふ次第で、御覽の通りの有樣でをります。」

 ルケリヤはもう一度口を噤んで、又もや微笑みを見せようとした。

「それは、しかし恐ろしいこつたね、お前の身の上は!」と私は叫んだが‥‥それ以上なんと云つていゝか分からないで、かう訊ねた。

「で、ヷシーリイ・ポリャコフはどうしたんだね?」

 この問ひはおそろしく馬鹿げてゐた。

 ルケリヤは心持ち眼をわきへ外らした。

「ポリャコフがどうしたかですつて? 暫くしほしほしてゐましたが、やがてほかの娘と、グリンノエ村から來た娘と夫婦(いつしよ)になりました。グリンノエを御存じでいらつしやいますか? わたしどものところからさう遠くはございません。娘はアグラフェーナと申しました。あの人はとてもわたしを可愛がつてくれたのですけれど、何分、若い男のことでございますから、いつまでも獨り身で居るわけには參りません。それかとて、わたしがどうしてあの人の配偶(つれあひ)になれませう? でもあの人はちやんとした、氣だてのいゝお内儀さんを見つけて、今では子供たちまでありますからね。すぐ近所の地主さまのところで、番頭を勤めてをります。あなたのお母樣が身元證明の書きものをつけて、暇をおやりになつたものですから、お庇で大そう具合がいゝさうでございますよ。」[特別やぶちゃん字注:「お庇で」は、恐らく当て字で「おかげで」と読む。ここは「それ以来、長く」の意。後に「お庇樣で」(おかげさま:応答の辞の「御蔭様(おかげさま)で」)などとも出るので特に注しておく。]

「それでお前はかうして、いつもいつも臥てばかりゐるのかい?」と私はまた訊ねた。

「さやう、旦那さま、かうして臥せつてをりますのも、足かけ七年目でございます。夏はこの小屋に寢て居りますが、寒くなると、風呂場の入口の間に移してくれますので、そこに臥てをります。」

「誰がお前の看病をしてゐるんだね? 誰か世話をしてくれる人があるの?」

「はい、こゝにも親切な人達が居りましてね、わたしのやうなものでも放つては置きません、それに看病と申しても知れたもので、食べる方は、もう食べるといふ程でもありませんし、水なら、ほれ、そこにございます、その湯呑みの中にいつも淨(きれ)いな清水が用意してありますので。湯呑みには自分で手が屆きます。片方の腕はまだ利きますから。それから、こゝに小さな女の子がをりますの。孤兒でしてね、これがひよいひよいと見舞ひに來てくれます、有難いことに。つい今し方もそこに居りましたつけが‥‥お會ひになりませんでしたか? それはそれは可愛い娘(こ)で、色白なんでございますよ。その手が花を持つて來てくれますの、わたしが大好きなもんですから、その、花がねえ。こゝには庭の花といつてはございません。もと有つたのですけれど、絶えてしまひましてね。でも、野の花だつていゝものでございますよ。匂ひなんか庭の花よりいゝ位ですもの。まあ、あの鈴蘭にしましても‥‥どれだけ氣持ちがいゝやら!」

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(6) 日本の家族(Ⅰ)

 

  日本の家族 

 

 凡そ永續して來た祖先崇拜の基となつてゐる大きな廣い考へ、則ちその基礎を爲す思想は、生者の安寧は死者の安寧に依るといふ考へである。この思想竝びにそれから起つて來る祭祀の感化の下に、古の家族の組織、財產及び相續に關する法律、一言を以つてすれば、古代社會の全組織が發展して來たのである――西洋に於ても東洋に於ても。

 併し古い日本の社會組織が、祖先の祭祀からその形を得たものであるかを考へる前に、最初は死者以外には神といふもののなかつた事を、重ねて讀者に注意して置きたいのである。日本の祖先崇拜が神話を作り出した時にあつてすら、その神々はただ亡靈のその姿をかヘたものに過ぎなかつた――而してこれが又すべての神話の歷史なのである。天國及び地獄といふ思想は原始の日本には存在しなかつた、また輪𢌞の考も同樣ありはしなかつた。佛敎の再生の敎も――後年に他から藉り來つた教であるが――上古の日本の信仰とは全然兩立しないものであつて、その敎を立てるためには、念入りの哲學的敎理を要したのであつた。併し吾々は日本人の死者に就いての古い思想は、ホオマア以前の時代に於けるギリシヤ人の思想に酷似して居ると想像し得るのである。則ち靈が下つて行く下界といふものがあつた、併しその靈はまた好んで自分の葬られた墓場、若しくはその靈屋の邊に、とどまつて居ると考へられて居たのである。この靈の遍在する力をもつて居るといふ考は、僅に徐に發展し得た事であつた。その考の發展し來たつた時ですら、靈は特に墓場、神殿、住家につき纏つて居ると考へられて居た。平田(篤胤)は十九世紀の初めに當つて恁う書いて居た『死者の靈は吾々の周圍の何處にでもある目に見えざる世界の內につづいて存在して居り、いろいろな種類や程度の力をもつた神々となつた。或るものはそれを祭るために建てられた社の內に住み、また或るものはその墳墓の近くに止まつて居り、みな續いて生前と同樣にその主君や兩親、妻子等に奉仕して居る』と。言ふまでもなくこの『目に見えざる世界』は大體は目に見える現世のうつしで、同じものであると考へられ、その世界の幸運は生者の助けに依ると考へられてゐるのである。則ち生者と死者とは互に相ひ倚託してゐたのである。故に亡靈に取つて何よりも以上に重大であつた必要事は、供物を以つてする崇拜であつたし、また人に取つて何よりも以上に重大なる必要事は、自分の靈に對する將來の祭拜をして貰ふ用意であつた。而して禮拜を受ける保證を得ずして死ぬといふのは最大の不幸であつた……、この種の事實を知つて置けば、族長的の家族の組織を了解するに大いに都合が良い――その組織は死者の祭祀を保持し、その用意をするために作られたもので、この祭祀を怠れば不幸を招くと信じられたのであるから。

[やぶちゃん注:「死者の靈は……」は以下、段落の最後までは、平田篤胤の「玉襷」の「十之卷」に基づく。平井呈一氏の「日本 一つの試論」に「訳者注」として引かれるものを正字化して示す。

   *

すべて人間の靈魂と云ものは。例の眞柱にも申たる如く。千代常磐(トコトハ)につくる事なく。消(キユ)る事なく。墓所(ハカドコロ)にもあれ。祭屋(マツリヤ)にもあれ。其祭る處に。きつと居る事で。‥‥或は其家に就(ツキ)て。功績(イサオ)ありし家臣等に至(イタ)る迄も。凡(スベ)て其祭屋の內に祭りたる靈等は。漏(モ)れず落ず。‥‥

   *

「倚託」「いたく」と読み、依り頼む、頼りにすることの意。]

ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より)(Ⅰ)

[やぶちゃん注:本作はイワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ Иван Сергеевич Тургенев Записки охотникаЖивые мощиの米川正夫氏の訳、「獵人日記」の「生きた御遺骸」の全文である。

 底本は昭和二七(一九五二)年新潮文庫刊「獵人日記 下巻」を用いた。

 実は私は既に同作品の中山省三郎氏による翻訳「生神樣」をPDF縦書版HTML横書版HTML縦書版の三種で公開しているが、私は本作には「猟人日記」に馴れ親しんだ小学生時代から、特に思い入れがある。しかも、母が二〇一一年三月十九日にALS(筋委縮性側索硬化症)で亡くなる前後から、私はこの作品のルケリヤと母が強く重なって意識されるようになった。今年は母が亡くなって五年目の祥月命日を迎える。それに当たって、今年はその命日までに、パブリック・ドメインとなった私が馴れ親しんだ米川氏の訳文も電子化したいと感じた。ただ、現代仮名遣の新字版は持っていたはずなのであるが、どうも見出せない(考えてみると、昔、教え子に贈ってしまった可能性が強い感じがする)。されば、すぐ手元にある何種かの内で、新しい上記の版を用いることとした。若い諸君には悪いが、これもまた正字・歴史的仮名遣版である。お許しあれ。米川氏による割注は〔 〕で同ポイントで示した。

 踊り字「〱」は正字化した。注は附さず、静かに電子化したい。――母の御霊に捧ぐ――【2016年3月13日始動】]

 

     生きた御遺骸

 

        長き忍苦にみちたる郷土――

        露西亞の民の國よ、いましは!

              フョードル・チユツチエフ

 

 佛南西の諺のいふところに依ると、「乾いた漁師と濡れた獵人(かりうど)のすがたほど世にも哀れなものはない」とのことである。私はまだ魚とりを道樂にしたことがないので、晴れたいゝ日和に漁師がどんな氣持ちを味はふものか、また天氣の惡い日に獵が澤山あつたら、その嬉しさがどのくらゐ濡れ鼠の不快さを紛らしてくれるものか、何とも見當がつきかねる。しかしとにかく、雨といふやつは獵人に取つて全く災難である。丁度この種類の災難に私は出くはした。それは或る時、エルモライを連れて、松雞(えぞやまどり)を擊ちにべーレフ郡へ行つた時のことである。まだ夜の引き明けから雨は小止みなしに降り續けた。この災難を除けるために、ありとあらゆる方法を盡くしてみた! ゴムびきの合羽を頭からすつぽり被りもしたし、なるべく雨の滴に打たれまいと、木の下蔭に佇んでもみたが‥‥雨合羽の方は、鐡砲を打つ邪魔になつたことは云ひ立てないにしても、臆面もなく平氣で水を浸(とほ)すし、木蔭は又、なるほど初めのうちは、雨の雫が落ちて來ないやうに思はれたけれど、やがてその中に、叢葉(むらは)に溜まつた水が急にどつとこぼれて、枝といふ枝が樋の栓を拔いたやうな瀧しぶきを頭の上から落とすので、冷たい水がネクタイの下を潛り、背筋を傳はつて流れるのであつた‥‥これはエルモライの言葉を借りると、『いよいよのどんづまり』であつた!

「いや、ピョートル・ペトローヸッチ」到頭彼はかう云ひ出した。「これぢや、仕樣がありませんや! 今日は、獵は駄目ですぜ。犬は、濡れて鼻が利かなくなるし、鐡砲は火がつかねえ‥‥ちよつ! お話になりやしねえ!」

「どうしたものかな?」と私は訊ねた。

「かうしませうよ。アレクセーエフカへ參りやせう。旦那は御存じないかも知りませんが――ちよつとした農場がありましてな、旦那の御母(おふくろ)さまの所有(もちもの)になつてをります。こゝから八露里ばかりのところで。今夜はそこで泊つて、明日になつたら‥‥」

「こゝへ引つ返すか?」

「いんえ、こゝへ歸るんぢやありません‥‥アレクセーエフカの先きにわつしの知つたところがありましてね‥‥松雞(えぞやまどり)をやるにや、こゝよりずつといゝ所なんで!」

 私はこの忠實な件の男に、それくらゐなら何故いきなりそこへ案内しなかつたか、などと押して訊ねようとはしなかつた。そして、その日の中に母の所有になつてゐる農場へ辿りついた。正直な話、そんなものがあらうなどとは、今まで私は夢にも知らなかつたのである。この農場には小さな離家(はなれ)がついてゐて、かなり古びてはゐたけれど、誰も人が住んでゐなかつたので、從つてさつぱりしてゐた。私はそこで極めて穩かな一夜を過ごした。

 翌日は思切り早く眼を醒ました。太陽は今しがた昇つたばかりで、空には雲の翳さへなかつた。あたりには、烈しい光りが二重になつて照り輝いてゐた。若々しい朝の光りと、まだ乾きもやらぬ昨日の夕立の反射なのである。小馬車(タラタイカ)の用意をしてゐる間に、小さな庭をそゞろ歩きに出かけた。嘗ては果樹園であつたのが、今はただ荒れるに任してある。でも、薫りの高い水々しい叢葉が、四方から離れを取り圍んでゐた。あゝ、外氣の中の快さ、頭の上に靑空が擴がり、雲雀が鳴寫、鈴のやうな囀りが小さな銀の玉でも振り撒くやうに虛空から降つて來る! 彼らはきつと翼の上に露の滴を載せて行つたに違ひない。その歌聲は露をそゝいだやうに思はれる。私は帽子までぬいで悦びの胸を一杯に張つて息をした‥‥餘り深くないの谷の斜面に、結ひめぐらした柴垣のすぐ傍に養蜂場が見える。高草(プリヤン)や蕁草(いらくさ)が壁その儘に密生してゐる間を、一と筋の細徑が蛇のやうに蜿りながらそこへ通じてゐる。雜草の上には、どこから種子を運ばれたのか、暗綠色をした大麻の莖が高く聳えてゐる。

 この徑づたひに歩いて行くと、養蜂場へ出た。その傍(かたはら)には柴を編ん造つた納屋があつた。冬、蜜蜂の巣を入れて置く、いはゆる「圍ひ」である。私は半ば開いた戸口を覗いて見た。中は暗くてひつそりして、乾き切つてゐる。薄荷や蜜蜂蕈(メリツサ)の匂ひがする。片隅には板の間が設けられて、その上に何やら蒲團にくるまつた小さな物の形が見える‥‥私は出て行かうとした‥‥

「旦那さま、もし、旦那さま! ピョートル・ベトローヸッチ」沼の菅のそよぎのやうに弱々しい、ゆつたりした、嗄れ聲が聞こえた。

 私は足を停めた。

「ピョートル・ベトローヸッチ! どうぞ、こちらへいらしつて!」と、いふ聲がまた聞こえる。それは、私が目をつけた例の板の間から響いて來るのであつた。

 私はそばへ寄つて見て、驚きのあまり棒のやうに立ち疎んだ。私の前には生きた人間が臥てゐたのである。しかし、これは一體なにものだらう?

 頭はすつかり萎び切つて、たゞ一樣に靑銅色をして、――どう見ても紛れのない――昔風の描き方をした聖像のやうであつた。鼻は剃刀の刄のやうに尖つて、唇は殆んど見分けられない位で、たゞ齒と眼ばかりが白く目立ち、頭を縛つた布の下からは、乏しい黃色い髮が額にはみ出してゐる。顎の邊まで被さつてゐる蒲團の襞の下から、小枝のやうな指をゆるゆると爪繰りながら、同じく靑銅色をした小さな兩手が動いてゐる。私はなほも眼をすゑて見た。その顏は醜くないばかりでなく、却つて美しいくらゐであつたが――しかし物凄い、竝み外れたものであつた。その上この顏が、金屬のやうな感じのする頰のあたりに、微笑みを擴げようともがき‥‥もがいてゐるのを見て、一しほ恐ろしく思はれたのである。

「わたしがお分かりになりませんか、旦那樣?」とまた同じ聲が囁いた。その聲は動くか動かないか見分けられない程の唇から、湯氣のやうに吐き出されるかと思はれた。「それに又、お分かりにならう道理がありません! わたしはルケリヤでございます‥‥覺えていらつしやいますか、あのスパスコエのお母樣のところで輪踊(ホロヲード)の音頭取りをいたしました‥‥お覺えでいらつしやいますか、わたしはその上に合唱の方も音頭を勤めてをりましたが?」

「ルケリヤ!」と私は叫んだ。「お前だつたのかい! まさかどうも!」

「わたし、さうなのでございますよ、旦那さま――わたし、わたしがルケリヤでございます。」

 私は何と云つていゝか分からないで、薄色(うすいろ)の死んだやうな眼を私に注いでゐる、このどす黑いぢつと動かぬ顏を、呆然として瞶めてゐた。これが果たして有り得ることだらうか? この木乃伊がルケリヤだとは――あの背が高くて色の白い、頰のあかあかとした、笑ひ上戸の踊り好き、そして歌の名人で、邸中でも一番の美人であつたルケリヤ! 村の若い衆がみんなで後を追ひ廻した利巧者のルケリヤ、私自身まだ十六歳の少年の頃、ひそかに憧れの對象にしてゐた、あのルケリヤだとは!

原民喜没後六十五周年追悼「その表情――原民喜さんのこと――」梅崎春生

 

原民喜没後六十五周年追悼「その表情――原民喜さんのこと――」梅崎春生

 

[やぶちゃん注:本作は『近代文学』昭和二八(一九五三)年六月号に発表された。底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第七巻」を用いた。

 原民喜(明治三八(一九〇五)年~昭和二六(一九五一)年)は敗戦から六年も経った昭和二十六年の今日、三月十三日の午後十一時三十一分、国鉄中央線吉祥寺駅と西荻窪駅間で鉄道自殺を遂げた。私は、十八の時、単身出た東京で、旧番地から彼の最後の住家の位置を探し出し、そこから彼が投身自殺をした場所まで歩いたことがある。それほどには私の偏愛する作家であるということである。サイト創設の頃に手掛けた原民喜全詩集」「原民喜句集(杞憂句集)」 もある。

 本作は短い随筆乍ら、民喜の風貌とその核心を確かに捉(つら)まえて『髣髴』とさせて呉れている佳品と私は思う。

 傍点「ヽ」の「だめ」はブログ版では太字とした。

 原民喜が神田神保町の能楽書林に住んでいたのは、一九七八年青土社刊「原民喜全集」の年譜によれば、昭和二二(一九四七)年、四十二歳の頃に短期間、間借りしていたと出るが、翌昭和二十三年の項の冒頭一月に『神田神保町の丸岡明宅に移る』とあり、後掲するように、これは実は丸岡の実家でもあった「能楽書林」と同義と思われ、二年後の昭和二十五年一月に最後の住み家となった武蔵野市吉祥寺二四〇六、川崎方へ転居している。これなら「広島市立中央図書館」のサイト「広島文学資料室」の「原民喜の世界」の民喜人々」にある、昭和二三(一九四八)年から二年間、『民喜が下宿しており』とあるのと完全に一致し、春生が民喜に逢ったのも、この二年間(昭和二三(一九四八)年一月から昭和二四(一九四九)年末まで)の間と考えられる。この頃の春生は、まさに最初の油ののったピークと言え、『戦後派作家として積極的な活動が目立った』(沖積舎版全集年譜昭和二三年の項末尾より)時期であった。

 「丸岡明」(明治四〇(一九〇七)年~昭和四三(一九六八)年)は東京出身で慶応大学仏文科卒の小説家(民喜は英文科卒で彼の先輩に当たる)。昭和五(一九三〇)年に『三田文学』に「マダム・マルタンの涙」を発表、戦後、『三田文学』に復刊に尽力する一方(民喜も昭和二一(一九四六)年十月から昭和二十四年末まで同誌の編集人を勤めている)、実家の経営する「能楽書林」を継ぎ、能楽の普及と外国への紹介にも努めた。民喜の盟友で彼をよく支え、民喜をモデルとした「贋きりすと」(昭和二六(一九五一)年)などの著作もある。

 「弟」とあるが、梅崎春生には当時(三男忠生は終戦直前に戦地で自殺している)、四男の栄幸、五男信義、六男健がいるが、単なる推測(能楽書林は能楽関係を中心とする出版社であるから)ながら、これは観世流能楽師となる(或いはなっていた)五男の信義氏か。

 「親狎」親しみ狎(な)れること。近づき馴染むこと。

 梅崎春生の小説「山名の場合」は、『新潮』昭和二六(一九五一)年十一月号が初出であるから、原の自死後の作品である。

 「原民喜全集」とあるが、これは同年三月に刊行された角川書店の「原民喜作品集」(全二巻)を指しているものと思われる(芳賀書店版「原民喜全集」(全二巻)の刊行は昭和四〇(一九六五)年八月で、奇しくも同年七月に梅崎春生は逝去している)。【2016年3月13日公開 藪野直史】] 

 

   その表情

    ――原民喜さんのこと――

 原民喜さんと顔を合わせたのは、せいぜい四度か五度。会話はほとんどしたことがない。僕が話しかけても、あの人はろくに返事をしないからである。アアとかエエとか、その程度の返事だけ。

 最初会ったのは、能楽書林の応接間。丸岡明さんから紹介された。二言三言話し合ったと思う。二度目も能楽書林。その頃僕の弟が能楽書林に勤務していたので、それを訪ねて土間で立話をしていると、原さんが外出先から戻って来た。(原さんは能楽書林の二階の一室に住んでいた。)そこで僕は、靴を脱いで上ろうとする原さんに呼びかけて、あいさつをすると、原さんは、びくっとしたように僕の方を向いた。そして僕の顔をじっと見詰めた。その時の彼の表情が、僕を大変困らせた。

 すなわち原さんの顔には、この前一度顔を合わせたにも拘らず、僕に対する親近とか親狎(しんこう)の色は全然あらわれていないのである。といって、その反対のもの、警戒とか敵意の気配も全くない。全然空気を見ているようなまなざしで、僕を見詰めている。仮面のような無表情さではない。表情はある。表情はあるのだが、対人的な表情でなく、言わば絶対的な表情なので、その表情で眺められているところの僕ははなはだ困り、どういう表情をつくって対していいものやら、心の中でじたばたした。生憎こちらは俗人の表情しか出来ないものだから、頰を歪ませたり意味ないことを呟いたり、はたから見れば大層見苦しかったことだろう。原さんは三十秒ほどその僕を見詰め、そしてふいと顔を外らし、黙って奥の方に入って行った。だから僕は罌粟粒みたいに惨めになってしまった。

 あんな面白い見物(みもの)はなかったと、あとで弟が大笑いをした。

 このことあって以来、対人的にはあれはなかなか有効な方法であることを悟り、僕もそういう表情を練習したり工夫したりしているが、人工的にはなかなかうまく行かないようだ。素質がないとだめのようである。

 この表情のことは、小説にも二三用いた。『山名の場合』という小説で、五味司郎太という主人公がそんな顏付きをすることを書いてみた。しかし、どうも原さんのあの眼付きを髣髴(ほうふつ)させることは出来なかった。

 この度、原民喜全集を読み返すと、僕は何よりも彼の表現の的確さに驚く。どんな微細なもの隠微なものをも、彼は見逃さず、確実にとらえて、それを表現に定着する。これはその背後に、なみなみならぬ強い凝視力を必要とするものだ。原民喜は単に弱々しい詩人ではない。つまり原さんは、ああいう眼付きや表情で、いろんなものをちゃんと見抜いていたんだろうな。眼の曇った俗人よりも、ある意味でははるかに幸福な生き方を原さんはしたんだと思う。

2016/03/12

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(3) 一つ目と片目

 

       一つ目と片目

 

 雷を一つ目と想像した近世の例は、落穗餘談の五の卷に一つある。豐後國の或山村の庄屋、山に人つて獵をする時、山上の小さな水溜まりの端に、年の頃七八歲の小兒の、總身赤くして一眼なる者が五六人居つて、庄屋を見てリウノヒゲの中に隱れた。之を狙ひ擊つに中らず、家に還つて見ると女房に物が憑いて、怖しいことを口走つて狂ひ死んだ。我は雷神である。たまたま出て遊んで居たのに、何として我を擊つぞと謂つたといふことを、其庄屋から聽いた者がある云々。所謂別雷少童の信仰が既に改まつて後に、斯ういふ幻しが尙民間に殘つて居たのは珍らしいが、それが偶然で無かつたといふことを確かめるには、更に他の多くの類例を待たねばならぬのである。

[やぶちゃん注:「珍しいが」底本は「珍しが」。脱字と断じて「い」を補った。ちくま文庫全集版も「い」が入っている。本話は『「一目小僧」(三)』に既出既注。

「別雷少童」「わけいかづちせうどう(しょうどう)」と訓じておく。「別雷」は既注の賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)。「神蛇一目の由來」で既出既注。]

 

 山に住む神の目一つであつたことだけならば、擧げ切れぬ程の記錄があるのだが、其信仰は夙く壞れてしまつて、之を神話の神々と同一視することを許されなくたつた。しかし單なる妖怪變化とても由緖無しには斯く迄弘く、人心を支配することは出來なかつた筈である。或は外國の空想を借用したかの如く臆斷して居た人も、一たびその類例の多くが山に屬し、久しい變遷を重ねて終始常民の生活と交渉したことを知るたらば、後には態度を改めて彼と是と、曾て何等かの脈絡のあつたことを、考へて見ずには居られまいと思ふ。目一つの鬼の最も古い記事は、出雲風土記の阿用鄕の條にあつて、是は田作る人の鬼に食はるゝとて、アヨアヨと叫んだといふ地名說話になつて居る。其次に私の知つて居るのは近江の安義橋で旅人を追つかけたといふ今昔の物語、面は朱の色にて圓座の如く、廣くして目一つあり、長は九尺許にて手の指三つ、爪は五寸ばかりにて云々とあるもの。それから又宇治拾遺の方は、兒童もよく知る瘤取の話の他に、今一つは越前の人伊良緣(いらえ)の世恒、毘沙門を信じて福を得た話がある。神より授かつたる一通の下し文に、米二斗を渡すべしとあるを持つて、敎へのまゝに高き峯に登り、大聲にナリタと呼ばはれば、只見る額に角ありて目一つある物、赤き犢鼻褌をして忽然として彼が前に現れ、下し文の面に就いて米の袋を渡す。其袋は所謂取れども盡きぬ寶であつたとある(一) 此祭の化物は常に佛法に疎まれ、光無き谷の奧に押遺られて居たがら、何か人間に奇瑞の必要ある場合ばかり、斯うして傭はれて來て空想の隙間を充たしたので、その物語の如何にも附きが惡く、何か說明の屆かぬやうに見える部分があるのは、恐らくは古い記憶の斷片なるが故であらう。

[やぶちゃん注:「常民」実は、この語は本書ではここが初出である。「大辞泉」には、まず、『普通一般の民。庶民』とした後、二番目に項を起こして、『民俗を伝承し保持している基層文化の担い手としての階層。民俗学者柳田国男が、folkまたは、〈ドイツ〉Volkにあたる語として用いた語』とあり、これは柳田國男監修の「民俗学辞典」と同じであるが、ウィキの「常民」には、『民俗伝承を保持している人々を指す民俗学用語で、最初に使用したのは柳田國男である。「庶民」の意味に近いが定義は一定しない(柳田自身も明確な定義を示さないままであった)。』『現在一般的には使われないが、元来は「山人」に対する「里人」を意味する言葉であった。日本の民俗学の創始者の一人、柳田は、初期の研究においては村などに定住せず山々を巡り歩いた山人を研究していたが、彼ら山人に対して一般の町村に住む人々を指す意味で「常民」を使用した』。『しかし、柳田の研究の対象が里人に移るに至って、この言葉の用法は変わっていった』とある。牛の涎のように文献学的記載が続く退屈で少しも「常民」が見えてこない「アカデミック」な「民俗学辞典」の記載より、こちらの方がズバリ!

「出雲風土記の阿用鄕の條」「出雲国風土記」(天平五(七三三)年成立)に以下のように出る(一九三七年岩波文庫刊・武田祐吉編「風土記」に拠る)。

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阿用(あよ)の鄕(さと) 郡家の東南一十三里八十步なり。古老傳へて云へらく、昔、或る人、この處の山田(やまだ)を佃(つく)りて守りき。その時、目一(めひとつ)の鬼(おに)來て、佃(たづく)る人の男(をのこ)を食ひき。その時、男(をのこ)の父母、竹原(たけはら)の中に隱(かく)りて居りき。時に、竹の葉動(あよ)けり。その時、食はえし男(をのこ)、「動(あよあよ)」 と云ひき。故(かれ)、阿欲(あよ)といふ。〔神龜三年、字を阿用と改む。〕

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ウィキの「阿用郷の鬼によれば、『日本に現存する文献で確認できる最古の鬼の記述とされる』。『阿用郷は、島根県雲南市に阿用の地名が遺るように』、『阿用川流域から赤川南岸にかけて設けられていた』。『阿用郷は大原郡の郡衙』から東南に十三里八十歩(およそ六キロメートル)の『所に位置する。古老の言い伝えでは、昔、ある人がここで山田を耕作して守っていた。その時、目一鬼(まひとつおに)が来て、耕作していた人の男(むすこ)を食った。その男の父母は竹藪の中に隠れ籠り身をひそめていたが、竹の葉がかすかに揺れ動いたため、それを見た鬼に食われている男は父母が自分を見捨てている事を悟り、「動動(あよ、あよ)」と嘆いた。だから阿欲(あよ)の郷と名付けられ、後に』神亀三(七二六)年)に『郷名を「阿用」と改めた』。『阿用の鬼については異種族人の身体的特徴を表現したもので、鍛冶の祖神が天目一箇神とされる事との関連を指摘する説があるが』、『鍛冶に携わる者を異能の民として、その業を畏怖すべき業と認知する風習があり、鍛冶職の職業病として、鍛造する際の炎を見続けることによって、片目を失明してしまう者が多かった事から一つ目を彼等の表象とし、後に天目一箇神に投影させたという研究者もいる』『(古代出雲国が、金属加工が盛んな地域だったことにもよる)』。『一つ目小僧やからかさ小僧など、近世期に登場する多くの一つ目妖怪は、脅かすだけの人畜無害のものが多い中、一つ目人食いの怪物の伝承として、のうまという妖怪がおり、その伝承地は雲南市阿用と地理的には近く、古い伝承と見られる』。『揺れ動くことを古語で「あよぐ」と言ったが』、『ここでは竹の葉のあよぎとそれを見た男の嘆声(あよ)を掛け、それを地名の起源としている』。『古代鍛冶職を鬼と見たとする説から男の鬼と連想されがちではあるが、文法上からは性別は不明である(そもそも性別があるかも分からない)』。二月八日と十二月八日をかつて『「事八日(ことようか)」と言ったが、この日に一つ目の鬼が来るという伝承があり、目一鬼に備えて、竹竿の先に目籠とヒイラギの枝をつけて軒先に飾る習慣があったとされる。これは邪視を除けるためのまじないとも考えられている』とある。

「近江の安義橋で旅人を追つかけたといふ今昔の物語」「今昔物語集」の巻二十七の「近江國の安義の橋の鬼、人を噉(く)らへる語(こと)第十三」を指す。少し長いので、章末に配することとした。「近江の安義橋」は滋賀県中部(湖東地域)を流れる日野川(ひのがわ)に架かる橋。現在の近江八幡市倉橋部町(くらはしべちょう)と蒲生郡竜王町信濃を結ぶ、現在の安吉(あぎ)橋が架橋されている附近(正確には竜王町弓削(ゆげ))。

「長」「たけ」と訓ずる。

「九尺」二メートル七十二・七センチメートル。

「五寸」二十七・二七センチメートル。

「瘤取の話」「宇治拾遺物語」の「卷第一ノ三」「鬼に瘤取らるる事」。人口に膾炙しており、これは掲げるまでもあるまい。

「今一つは越前の人伊良緣(いらえ)の世恒、毘沙門を信じて福を得た話」「宇治拾遺物語」 の「卷第十五ノ七」の「伊良緣野世恒(いらえのよつね)毗沙門(びしやもん)の御下文(おんくだしぶみ)を給はる」。以下に示す(底本は一九五二年岩波文庫刊渡辺綱也校訂に拠ったが、一部の表記を私が正しい(読み易い)と思うものに訂し(その際には昭和六〇(一九八五)年刊新潮日本古典集成大島建彦校注「宇治拾遺物語」で校合した)、記号の一部も変更・追加した。読みは私が歴史的仮名遣で振った)。

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 伊良緣世恒、毗沙門の御下文を給はる事

いまはむかし、越前國に伊良緣の世恒といふ者ありけり。とりわきてつかふまつる毗沙門に、物もくはで、物のほしかりければ、「助(たすけ)給へ」と申(まうし)ける程に、かどにいとをかしげなる女の、「家(いへ)あるじに物いはんとの給(たまふ)」といひければ、「たれにかあらん」とて出(いで)あひたれば、土器(かはらけ)に物をひともり、「これくひ給へ。物ほしとありつるに」とてとらせたれば、よろこびてとりていれて、たゞすこし食(くひ)たれば、やがてあきみちたる心ちして、二三日は物もほしからねば、是(これ)をゝきて、物のほしきおりごとに、すこしづゝくひてありけるほどに、月比(つきごろ)すぎて、この物もうせにけり。「いかゞせんずる」とて、又念じたてまつりければ、またありしやうに人のつげゝれば、始(はじめ)にならひて、まどひ出て見れば、ありし女房の給(たまふ)やう、「これくだし文(ふみ)奉らん、これより北の谷・嶺(みね)、百町をこえて、中にたかき嶺あり。それに立て『なりた』とよばゞ、ものいできなん、それにこのふみを見せて、奉らん物をうけよ」といひていぬ。このくだし文をみれば、「米二斗(とう)わたすべし」とあり。やがてそのまゝ行(ゆき)てみければ、寔(まこと)に高き峯あり。それにて、「なりた」とよべば、おそろしげなるこゑにていらへて、いできたるものあり。みれば、額につのおひて、目一ある物、あかきたうさぎしたる物出來て、ひざまづきてゐたり。「これ御下文也。この米えさせよ」といへば、「さること候(さふらふ)」とて下文をみて、「これは二斗と候へども一斗をたてまつれとなん候(さふらひ)つる也」とて、一斗をぞとらせたりける。そのままにうけとりて、歸(かへり)て、その入(いり)たる袋の米をつかふに、一斗つきせざりけり。千萬石とれども、たゞおなじやうにて、一斗はうせざりけり。これを國守きゝて、此(この)世恒をめして、「その袋、我にえさせよ」といひければ、國のうちにある身なれば、えいなびずして、「米百石の分(ぶん)、奉る」といひて、とらせたり。一斗とれば、又いできいできしければ、『いみじき物まうけたり』と思(おもひ)て、もたりけるほどに、百石とりはてたれば、米、うせにけり。袋ばかりになりぬれば、本意(ほい)なくて、返しとらせたり。世恒がもとにて、また、米一斗、いできにけり。かくて、えもいはぬ長者にてぞありける。

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これと酷似した話は「今昔物語集」の「卷十七」の「生江世經(いくえのよつね)吉祥天女(きつしやうてんによ)に仕(つかまつ)りて富(とみ)を得る語(こと) 第四十七」及び「古本説話集」第六十一に出る。前者では、毘沙門天が吉祥天(最初に食い扶持を与えるのが女であるからこれが原型か)であるものの、構造は全く同じであり、出て来るモンストロムも『額に角一つ生(はへ)て、目一つ有る者の、赤き俗衣をしたる鬼也』とある。他にも古典集成の大島氏の注によれば、類話は「元亨釈書」(それも吉祥天)にも載るようである。この無尽蔵の米袋、与えるのが山中の奇怪である点など、例の「遠野物語」の「迷い家(が)」から受ける器物を私は直に連想する。「百町」は百九キロメートル。

「犢鼻褌」原文で判る通り、「たふさぎ(たふさぎ)」と読む(古くは「たふさき」か)。陰部を蔽う布のこと。下袴(したばかま)。褌(ふんどし)。]

 

 中古以來の百鬼夜行畫卷などは、又是よりも一層自由なる空想の所產であるが、尙且つ暗々裡に之を導いて、大よそ世人の信ぜんとする所に向はしめた何物かゞあつたらしい。中でも目一つは記述描寫が殊に區々であつて、名先づ存して形は後に案じたかと見えるにも拘らす、或種の約束の其行動を限定するものがあつたのである。例へば川童(かはわらは)常に眼が二つであるのに、山童(やまわらは)なると一つに描いて居り(二)阿波土佐其他の山中に於て、山人又は山父と稱し、よく人の意中を知るなどといふ靈物も、一眼にして又一足であると言つて居た(三) 何故に獨り山に住む異形のみが、其樣な特微を以て弘く知られて居たかは、必ずしも氣まぐれなる小さい問題で無い。氣力ある若い學者ならば、幸ひに日本にばかり豐富に殘留した資料を處理して、之に由つて希臘北歐の神話にも共通した、神祕の謎を解き得る望さへあるのである。此希望が有る故に、假に當分は明晰なる結論に達することは出來ずとも、自分だけは今少し辛抱强く考へて行きたいと思ふ。

[やぶちゃん注:「區々」ちくま文庫全集版では「まちまち」とルビする。

「川童」河童。その原型、というか、語源。かはわろ。

「山童」山中に出る一つ目の小童姿の妖怪。やまわろ。河童の強い分布域である九州を始めとする西日本に伝わる山怪で、実際に一部では河(川)童が山中に入って山童となったとする伝承もある。ウィキの「山童」に掲げられた、江戸中期の画家佐脇嵩之(さわきすうし)の「百怪図巻」の「山わらう」(山童(やまわら)ふ)の図や、かの鳥山石燕「画図百鬼夜行」の「山童」の図を参照されたい。一つ目である。

「山人」妖怪名としてならば、「やまひと」「やまびと」と読むのが一般的。

「山父」「やまちち」。山爺(やまじじい)とも。ウィキの「山爺」に掲げられた、「絵本集艸」の「山父」の図や、「土佐お化け草紙」の「山父」の図を見ても、実は「山童」と全く同一様の妖怪であることが納得されるであろう(特に前者は佐脇嵩之(さわきすうし)の「百怪図巻」のそれと完全に相同であると言ってよい)。]

 

 片眼と片足との關係に就ても、四國の山神は二者を兼ね、東國一帶に於ては主として一本脚のみが傳へられ、又地方には目だけの不具を說いて居る、この地方的變化は確かに比較の價値があると思ふが、それは長くなる故に別に一章に立てた方がよい。差當り自分の些しく硏究して見たいのは、目一つが單なる妖怪とまで零落して來た經路である。出雲の阿用鄕の鬼の話はあるが、現在でもまだ一般には此化物の害惡といふものが說かれては居らぬ。單に目が一つで怖ろしいからおびえた。何をするか知れぬと思つて遁げたといふ迄で、魔神の段階としては至つて初期に屬するのみならず、尙時としては好人に好意を送り、或は悃請を聽許したといふ例さへある。卽ち出現の目的は寧ろ信じ得ざる者を信ぜしめ、禮なき者を威嚇するに在つたと見ても差支無く、曾ては又當然の崇敬を受けて居た時代のあつたことも、略想像し得られるのである。江戶では近世に人つて一つ目小憎と稱し、狸などの變化(へんげ)して暫らく其相を示すやうにいふ人もあつたが、勿論證據を擧げ得べき事柄でも無い。小僧といふと如何にも輕々しいけれども、一つ前には又目一つ坊とも謂つた(四) 奧州ではヒトツマナグ(五) 日向ではメヒトツゴロといふのが同じものである(六) 此最後の名稱は、特に自分の注意して原由を考へんとする所であるが、其分布區域は思ひの外弘く、現に長崎方言集覽にも目一つの怪物む目一つ五郎、肥後でも球麻川水域では、それが山に住み谷の崖路たどに現はれる妖怪の名である(七) 五郎には或は深い意味は無いのかも知れぬ。鹿兒島縣の如きは殊に何にでも五郎を附け、一つ眼をメヒトツゴロ、川童をヘヂゴロと呼ぷ以外に、兎はウサンゴロ、眼玉が大なればメンゴロ、朝寢をすればアサニゴロ、無精者はフユシゴロ、はにかみ屋はイメゴロである(八) 大分縣でもむだ口をシナ、むだ口をきく者をシナゴロといふ土地がある。啞を中國邊でオシゴロ又はウシゴロ、それを單にゴロとのみいふのも、根原は一つらしい。即ち五郎は最も平凡なる男子の通稱であつた故に、斯うして綽名の臺に用ゐたことは、かの助兵衞土左衞門の同類とも考へられる。併しそれにしたところが、之を堂々たる目一つの妖魔に付與するに至つたのは、相應の理由が無くてはならぬ。其上に目一つの神を五郎と呼んだ例は別にまだ色々とあるのである。

[やぶちゃん注:「好人」「かうじん(こうじん)」で、人柄の素直な者。

「悃請」「こんせい」と読む。心を込めて願うことを指す。

「原由」「げんいう(げんゆう)」或いは「げんゆ」と読み、事の起こり・起源・原因の意。

「長崎方言集覽」古賀十二郎編で長崎市編「長崎市史 風俗編」に附録で載る。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める(非常に捜しにくいので、同方言集の冒頭頁をリンクしておいた)。

「朝寢をすればアサニゴロ」ちくま文庫全集版では『アサネゴロ』となっている。どうも全集版の方が正しいようである。

「助兵衞土左衞門」ウィキの「助兵衛」によれば、好色な人間を揶揄する「助兵衛」は『本来はあることに非常に強い興味を示すことを指していた。「兵衛」は、「飲み助」「呑兵衛」などに付いている「助」「兵衛」と同じく、動詞や名詞を擬人化する接尾語であり、「助」は元々「好き」であった。しかし、当時は助兵衛が人名としては極めてありふれたものであったため、このように訛ったわけである』とし、用いられ始めたのは江戸時代で、好色の意味に限定されるようになったのは明治末近くとあるものの、この江戸時代と明治の終わりの箇所には出典要請が掛けられており、出典がしめされていないので確かでない。「語源由来辞典」の土左衛門(どざえもん)の項には『語源は、享保年間の力士「成瀬川土左衛門」が、色白で相当太っていたため、体の膨れ上がった水死体をふざけて「土左衛門のようだ」と、喩えて言っていたものが定着していったとされる』が、『この説は、山東京伝の随筆『近世奇跡考(きんせいきせきこう)』によるもの』の、『こじつけとの見方もある』。『その他、肥大漢を「土仏(どぶつ)」と言ったことから、「どざえもん」に転じたとする説』や『水に落ちる「ドブン」という音が「どざえもん」に転じたとする説などあるが、正確な語源は未詳である』とある。Kousyoublog 「ドラえもんと土左衛門(どざえもん)って関係あるのかな」は標題とうって変わった高尚な考証で、「近世奇跡考」も引かれており、それによればこの話、伝聞である上に成瀬川土左衛門は寛延元(一七四八)年に死亡しており、山東京伝はその十三年後の宝暦一一(一七六一)年生まれ、考証随筆「近世奇跡考」は京伝四十三歳の享和四・文化元(一八〇四)年刊行だから、六十年以上前の推測話であって確かにどうも怪しげで信じ難い。]

 

 それを說くに先つて一言附加して置くことは、化物の目一つは釦の中程に怖しく大きいのが始から一つあり、一方に多度の龍神たどは傷ついて片目になつたのである。二者を混同するのはやはり亦名に囚はれたといふ非難を受けさうであるが、是は想像の成長として說明することが出來ると思つて居る。信州の須阪邊で欅の大木の株から、額に眼の穴一つある髑髏を發掘した話があり(九) 或は稀には畸形兒が生れたといふ話もあるから(一〇) 其樣な想像は强められたかと思ふが、元來姿を人間として眼だけ眞中に一つと考へることは、あまりにも現實から遠くなる。故に土佐の山爺に關しても、或は說明して實は一眼に非ず、たゞ一眼は甚だ大にして光あり、他の一眼は甚だ小さし。故にちよつと見れば一眼と見えるので、人誤つて之を一眼一足と謂ふ也などゝ說明をした者もあつたが(一一) 是も亦よほど六つかしい話であつた。ところが此樣な珍しい考へ方にも尙類型があり又傳統があつた。金田一氏の調べて居らるゝアイヌラツクルの物語の中に、强い神の形容として、一つの目は山椒粒の如く他の一つは皿の如くといふ句が屢々出て來るといふことである。野州足利の鑁阿寺の文書に、此寺の願主足利義兼、臨終に身より血を出して、次のやうな記文を手書したと傳へて居る。曰く予神と成つて此寺の鎭守となるべし、將に一眼を開き一眼を閉ぢんとす。一眼を開くは此寺の繁昌を見んが爲、一眼を閉づるは此寺の衰微を見ざらんが爲云々(一二) 是はよつぽど無茶な理由ではあるが、多分はさういふ面相をした木像などが、永く此寺に傳はつて居たからであらう。どうして又そんな姿を遺したかといふと、自分の假定では、左右兩眼の大さの著しい相異が、神と崇められ若くは大神に奉仕する者の、大大なる要件であつた時代が曾てあつたかと思つて居るのである。其事を出來るならば證明して見たいと思ふ。

[やぶちゃん注:最後から二つ目の一文内の「大さ」はママ。「大(おほき(おおき))さ)さ」である。脱字ではなく、柳田國男はよくこう表記する。ちくま文庫全集版では「き」を送ってある。

「信州の須阪」現在は「すざか」と濁り、表記も「須坂」である(ちくま文庫全集版では『須坂』)。現在の長野県北部の須坂市。

「欅」老婆心乍ら、「けやき」と読む。バラ目ニレ科ケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata 

「畸形兒」先天奇形の単眼症(cyclopia:サイクロピア)。手塚治虫の「ブラックジャック」に成長した童子のサイクロピアを、見た目、正常人に形成する手術を施すというエピソードがあったが、私は初読、ちょっと信じ難い気がした(成長した少年であることと、そこで施される形成術自体もである)。また実際のサイクロピアはその殆んどが死産或いは出生直後に死亡し、奇形自体が稀である以上に、成長したとするケース自体を殆ど聴かないからである。参照したウィキの「単眼症」によれば、『視覚は正常に発達せず、また重い知的障害を伴うと考えられるが、単眼症児は生誕しても』、その殆どが一年以内に『死亡するため、詳細はわかっていない』ともある(因みに、通常ならば張るリンクをここでは張らない。当該ウィキにはサイクロピアの子どもの液浸標本写真が掲げてあるからである)。柳田はここで奇形を挙げておきながら、「元來姿を人間として眼だけ眞中に一つと考へることは、あまりにも現實から遠くなる」と述べているが、これは不審である。柳田はサイクロピアの奇形を聴きはしたものの、おぞましく感じてよく調べなかったのではないか? サイクロピアは眼が顔面のまさに中央に一基しか形成されず、しかも多くの場合、その単眼がかなり大きく見える(ネット上で画像を視認すると、中には単眼の中に二つ並んだ虹彩を持つケースもある)。また、同ウィキにある通り(この事実はあまり知られていないと思われる)、通常の『胎児の発生初期には眼胚の上方に鼻胚があり、眼が左右に分離した後に鼻がその間を通って眼の下方に位置するようになるが、単眼症では鼻の移動ができず、単眼の上方(額の部分)に位置するか、あるいは全く形成されずに終わることもある。鼻が形成された場合でも、鼻孔は一つしかなく、親指大の管状になって額に位置し、象鼻と呼ばれる特異な形状を呈する。口や耳は正常に近い形で形成されることが多い』とある。サイクロピアの奇形胎児はかなり印象が強烈なものであって、私は一つ目小僧の濫觴の一つにコノサイクロピアの奇形児の出生や、そうした先天性奇形の子どもを山中に放置遺棄した隠れた習慣があったのではないかと考えている。

「金田一氏」言語学者・民俗学者でアイヌ語の研究で知られた金田一京助(明治一五(一八八二)年~昭和四六(一九七一)年)。

「アイヌラツクル」アイヌ神話に於ける地上及び人の祖神とされる神の一人。ウィキの「イヌラックルより引く。『アイヌ民話における神。地上で誕生した初めての神であり、地上と人間の平和を守る神とされる。オイナカムイ、オキクルミなどの別名でも伝えられている』。『母親は天上から最初に地上に降りた女神、ハルニレの木の精霊でもあるチキサニ姫。父親は天上界で一番の荒神である雷神カンナカムイ。妻は天上の高位の女神である白鳥姫レタッチリ』とあって、日本神話の一つ目関連神である先に出た別雷(わけいかずち)との連関性が認められる。彼の生涯はリンク先を参照されたい。

「强い神の形容として、一つの目は山椒粒の如く他の一つは皿の如くといふ句が屢々出て來る」すわさき氏のサイト内の「かんたん神話学」のこちらのページ内の「アイヌラックル~日の女神を救え」に、魔神が登場するが(アイヌラックルではないので注意)、そこに『この魔神は巌(いわお)の鎧を身につけた、小山に手足の生えたような大怪物でした。トドの皮の』繩『で櫂ほどの太刀を腰に佩き、片目は満月のように巨大で爛々と輝いていましたが、もう片目はゴマ粒のように小さいのです。名を、村滴々国滴々(コタネチクチク・モシリチクチク)と言いました』とあり、こちらのページの「サマイュンクル~カムイコタンの魔神(ニツネカムイ)」の箇所にも、『ところが、カムイコタンに住んでいたのはチョウザメ神と熊神だけではありませんでした。近くの岩山の上に砦を築き、魔神(ニツネカムイ)が住み着いていたのです。その姿はコケの生えた岩のようで、巌の鎧をまとい、櫂のような刀を腰に縛りつけ、ザンバラ髪で、片目は満月のように大きく輝き片目はゴマ粒のように小さいのです。魔神は、いつも人間たちをひどい目に合わせてやろうと考えていました』とある(下線は孰れもやぶちゃん)。

「野州足利の鑁阿寺」寺名は「ばんなじ」と読む。現在の栃木県足利市家富町(いえとみちょう)にある真言宗金剛山仁王院法華坊鑁阿寺。ウィキの「鑁阿寺」によれば、足利氏の氏寺で、元々が足利氏の館(やかた)であり、現在でも四方に門が設けられてあり、寺の境内の周りには土塁と堀が廻って、鎌倉時代前後の武士の館の面影が残されてある。十二世紀中葉に足利氏の祖であった源義康が同地に居館を構え、建久七(一一九六)年に第二代当主足利義兼(後注参照。「鑁阿」は彼の戒名)が理真を招聘して、『自宅である居館に大日如来を奉納した持仏堂、堀内御堂を建立』したとある(次の「足利義兼」の注も必ず参照のこと)。

「足利義兼」(久寿元(一一五四)年?~正治元(一一九九)年)は鎌倉幕府の御家人で足利氏初代義康の子。ウィキの「足利義兼」によれば、『幼い時に父を亡くした義兼は、伯父である源(新田)義重の軍事的庇護を受けていたとされる』。治承四(一一八〇)年に『血縁的に近い源頼朝が以仁王の令旨に応じて伊豆国で挙兵すると、河内源氏の一族であり、また以仁王を養育した暲子内親王(八条院)の蔵人でもあった関係からか、義兼は比較的早い時期から頼朝に従軍していた』。元暦元(一一八四)年五月、『木曽義仲の遺児義高の残党の討伐において戦功を挙げた。その後、源範頼(頼朝の弟)に属して平氏を追討した功績により、頼朝の知行国であった上総国の国司(上総介)に推挙された』。文治五(一一八九)年の『奥州合戦にも従軍』した。建久元(一一九〇)年に『出羽国において奥州藤原氏の残党が挙兵すると(大河兼任の乱)、追討使としてこれを平定している』。文治元(一一八五)年に任ぜられた上総介を四年後の『頼朝の知行国返上まで務めるなど、頼朝の門葉として幕府において高い席次を与えられていた。しかし』、『頼朝の地位が高まっていくと、御家人として幕下に組み込まれることとなった』。建久六(一一九五)年三月に『東大寺で出家し、義称(ぎしょう)と称した。頼朝近親の源氏一族が相次いで粛清されたための処世術であったと言われている。義兼の死後も岳父北条時政の他の娘婿らが畠山重忠の乱に関与した疑いなどで次々と滅ぼされたが、足利氏は幕府内の地位を低下させながらも生き残った。出家後は下野国足利荘の樺崎寺』(かばさきじ:足利市樺崎町にあった。廃仏毀釈により廃寺となった)に隠棲、正治元(一一九九)年三月八日に『同寺において死去した後、同地に葬られた。生入定であったとも伝えられている。現在の樺崎八幡宮本殿は、義兼の廟所である赤御堂である。鑁阿寺は、義兼が居館に建立した持仏堂を義氏の代に整備したものとされる』(下線やぶちゃん)。]

 

(一) 詳しくは宇治拾遺物語卷一五。この最後の一話の固有名詞には、何か暗示があるらしく思ふが、自分はまだ之を見破るの力が無い。又强ひてさうするにも及ばぬと思ふ。

[やぶちゃん注:「最後の一話の固有名詞」主人公伊良緣世恒のことを指すのであろう。「今昔物語集」では『生江(いくえ)の世經(よつね)』、「古本説話集」では『伊曾(いそ)へ野(の)よつね』、「元亨釈書」では「大江諸世」(おおえのもろよ?)と出る。参照した新潮日本古典集成「宇治拾遺物語」の大島建彦氏の注によると、「今昔物語集」の同話には、『加賀ノ掾(じやう)ニテゾ有ケル』とあるが、伝不詳とする。本文は後掲。]

 

(二) 日本風俗志上卷に轉載した妖怪古圖などは其一例である。是は但し二手二足で、兩手で樹枝を持つて居る。

[やぶちゃん注:「日本風俗志」既出既注。そこでもリンクを張ったが、同じ絵。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで同書当該頁の画像を視認されたい。]

 

(三) 是には澤山の實驗談らしきものが記錄せられて居る。日本では奇妙に手のことだけは注意せず、「目一つ足一つ」に手も一本であつたといふ話を聞かぬ。是が西洋のと異つた要點である。

[やぶちゃん注:これは大変面白い着眼点である。手を「四足」と捉えて見て「手がない」と考えて見たとしても、これ、なかなか妖怪になり難い。「手」はまさに物理的にも感覚的にも現実世界に怪異が侵犯して来るに際して、「手」が伸ばせないのは、最も致命的なのかも知れない。実は私は秘かに一つ目小僧の都会的変種が「唐傘小僧」、所謂「からかさおばけ」だと考えているのであるが、あれも実に目一つ足一本であるが、傘から両手が生えている図で描かれることが圧倒的に多い。これはこれで別に考える必要がありそうだ。]

 

(四) 例へぱ嬉遊笑覽卷三の引用した淨土雙陸の繪など。

[やぶちゃん注:「嬉遊笑覽」「きゆうせうらん(しょうらん)」は喜多村信節(のぶよ)著になる考証随筆。全十二巻・付録一巻。天保元(一八三〇)年刊。

「淨土雙陸」これは「浄土双六」で「じやうどすごろく(じょうどすごろく)」と読む。「嬉遊笑覽」の「卷之三」の「化物繪」の条で、妖怪に対しての命名について、『此奇怪なるものに名のあるは、浄土繪双六など、始めなるべし』と記してあるのを指す。ウィキの「」によれば、『最古のものとされる浄土双六には絵の代わりに仏教の用語や教訓が書かれており、室町時代後期』(十五世紀後半)『には浄土双六が遊ばれていたとされる。なお、その名称や内容から元は浄土宗系統の僧侶によって作られたとも言われ、江戸時代の井原西鶴の作品(『好色一代男』などには)浄土双六がしばしば登場する。文政年間の曲亭馬琴の『耽奇漫録』によれば、当時』の『浄土双六には大きく分けて四種類あったとし、ほぼ同時期に書かれた柳亭種彦の『還魂紙料』には元は天台宗で初学の僧侶の学習のために作成された「仏法双六」が原型であったとする説を伝えている』とある。この場合の浄土双六は教戒性を喪失した子ども向けの妖怪双六と思われる。]

 

(五) 遠野方言誌。

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年六月郷土研究社刊。著者は人類学者で民俗学者でもあった伊能嘉矩(いのう かのり 慶応三(一八六七)年~大正一四(一九二五)年)は、台湾原住民の研究や、この郷里岩手県遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、「遠野民俗学の先駆者」とも呼ばれる。ウィキの「伊能嘉矩」によれば、『横田村(現在の岩手県遠野市東舘町』(ひがしだてちょう)『)に生まれる。父母を早くに亡くしたが、両祖父から漢学・国学・国史などを学び、若くして学才を発揮する』。明治一八(一八八五)年、『上京して斯文黌』(漢学者で歴史学者の内藤耻叟の設立した私学)『に学ぶ。自由民権運動にも参加し、岩手県に戻』って『入学した岩手師範学校では寄宿舎騒動の首謀者とみなされ』て『放校処分を受ける。その後、再び上京、新聞社・出版社勤務を経た後』、明治二六(一八九三)年、『東京帝国大学で坪井正五郎から人類学を学んで、同門の鳥居龍蔵と出会った』。明治二七(一八九三)年十二月より、『鳥居と週一回行う人類学講習会を催した』。明治二八(一八九五)年、『日清戦争の結果、日本に割譲された台湾に』着目、『台湾総督府雇員となって台湾全土にわたる人類学調査に取り掛かった。その調査結果は、『台湾蕃人事情』として台湾総督府民政部文書課から刊行された(粟野伝之丞との共著)』。明治三九(一九〇六)年に帰国、その後は『郷里遠野を中心とした調査・研究を行うようになる。この間の著作に『上閉伊郡志』『岩手県史』『遠野夜話』などがある。研究を通じて柳田國男と交流を持つようになった。郷里の後輩である佐々木喜善とともに柳田の『遠野物語』成立に影響を与えた』が、『台湾滞在中に感染したマラリアが再発』、『思いがけない死を迎えた』。満五十八歳であった。『死後、柳田は伊能の残した台湾研究の遺稿の出版に力を注ぎ、それは』昭和三(一九二八)年に「台湾文化志」として刊行された、とある。]

 

(六) 民族二卷五九一頁。

(七) 小山勝淸君談。

[やぶちゃん注:小山勝清(おやまかつきよ 明治二九(一八九六)年~昭和四〇(一九六五)年)は熊本県球磨郡四浦村晴山(現在の熊本県球磨郡相良村)出身の作家。ウィキの「小山勝清」によれば、『「小山」の読みを、東京では「こやま」、熊本では「おやま」で通した』。『熊本県立鹿本中学校』(現在の熊本県立鹿本高等学校)を卒業、大正七(一九一八)年に『堺利彦の門下生となる。その後労働運動、農民運動を経て柳田國男に師事し、民俗学に関心を持つ。児童文学の創作で、「少年倶楽部」に『彦一頓知ばなし』でデビューした』。『巌流島の決闘で終わっている吉川英治の『宮本武蔵』に対して『それからの武蔵』を描きこれが広く知られる』とある。]

(八) 鹿兒島方言集に依る。

[やぶちゃん注:「蝸牛考」にも引用書として出るが、不詳。識者の御教授を乞う。]

(九) 信濃奇勝錄卷五。

[やぶちゃん注:「信濃奇勝錄」江戸末期の信濃国佐久郡臼田町(現在は長野県佐久市内)の神官であった井出道貞(いでみちさだ)が信濃国各地を十数年に亙って実地踏査を重ね、その見分した成果を記録した地誌。全五巻。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらで当該箇所が読める。この記事、最後にまさに柳田の示した「出雲風土記」の阿用郷の『目一鬼(メヒトツノヲニ)』の摘録記載がある。]

(一〇) 本朝世紀久安六年十一月九日の條に例一つ、宗祇諸國物語卷五にも一つ。

[やぶちゃん注:「本朝世紀」「ほんてう(ほんちょう)せいき」は歴史書。二十巻。藤原通憲(信西)著。平安末の成立。鳥羽法皇の命を受けて「六国史」のあとを継承、宇多天皇から近衛天皇までの事跡を編年体に記したもので、久安六(一一五〇)年から着手したが、完成しないうちに平治の乱で途絶してしまった。

「久安六年」ユリウス暦一一五〇年。

「宗祇諸國物語」西村市郎右衛門著の宗祇の仮託本で、しかも怪奇談仕立てというトンデモ本(だが、私は好き)。貞享二(一六八五)年。同巻五の「千變万化」の一節に、宗祇が越後国に滞在していた折り、野本外記(のもとげき)なる人物が彼に、『此國にもある百姓の娘に目のひとつある者ありといふ。祇、さも有なん東國にて手三つ有男を見し。二つは常のごとく、今一つは背(せな)に有て指のならびは右の手におなし。……』(以下、フリークスのオン・パレード!)の最初の箇所を指す。以上の引用は私の所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を参考に、漢字を正字化し、一部、句読点を恣意的に変更した。]

(一一) 南路誌續篇稿草の卷二三、怪談抄。

[やぶちゃん注:「南路誌續篇稿草」既出既注。]

(一二) 大日本史料四編卷六、正治元年三月八日足利義兼入滅の條。

[やぶちゃん補注:以下に「今昔物語集」「卷二十七」「近江國安義橋鬼噉人語第十三」を電子化しておく。□は欠字を示す。二〇〇一年岩波文庫刊池上洵一編「今昔物語集 本朝部 下」を参考にしたが、恣意的に漢字を正字化し、一部の漢字表記を変更、読点を増やし、ルビは歴史的仮名遣で私が附した。 

 

 近江の國の安義(あき)の橋の鬼、人を噉(くら)へる語(こと) 第十三 

 

 今昔、近江の守□□の□□と云(いひ)ける人、其の國に有(あり)ける間、館(たち)に若き男共勇(いさみ)たる、數(あまた)居て、昔(むか)し今の物語などして、碁・雙六を打ち、萬(よろづ)の遊をし(あそび)て、物食ひ酒飮(のみ)などしける次(つい)でに、「此の國に安義の橋と云ふ橋は、古へは人行けるを、何(いか)に云ひ傳(つたへ)たるにか、今は行く人過ぎずと云ひ出て、人行く事無し」など、一人が云ければ、おそばえたる者の口聞き鑭々(きらきら)しく、然(さ)る方に思(おぼ)え有けるが者の云(いは)く、彼(か)の安義の橋の事、實(まこと)とも不思(おぼえ)ずや有けむ、「己(おのれ)しも、其の橋は渡(わたり)なむかし。極(いみ)じき鬼也(なり)とも、此の御館(みたち)に有る、一(いち)の鹿毛(かげ)にだに乘(のり)たらば渡なむ」と。

 其の時に、殘(のこり)の者共、皆有限(かぎり)心を一(ひとつ)にして云く、「此れ絲(いと)吉(よ)き事也。直(なほ)く可行(ゆくべ)き道を、此(かか)る事を云ひ出てより橫道(よこみち)するに、實(まこと)・虛言(そらごと)も知らむ。亦、此の主の心(ここ)ろの程も見む」と、勵ましければ、此の男、彌(いよい)よ被早(はやされ)て、諍(あらそ)ひ立(たち)にけり。

 此く云ひ立にたる事なれば、互に强く諍ふを、守(かみ)、此の事を聞て、「絲□□く喤(ののしる)は、何事を云ぞ」と問ければ、「然々(しかしか)の事を申す也」と、集(あつまり)て答ければ、守、「絲益無(やくな)き事をも諍ける男かな。馬に於ては早く得よ」と云ければ、此の男、「物狂しき戲事(たはぶれごと)に候(さぶら)ふ。傍痛(かたはらいた)く候ふ」と云ければ、異者(こともの)共集て、「弊々(つたなしつたな)し。弱々(よはしよは)し」と勵ませば、男の云く、「橋を渡らむ事の難きには非ず。御馬を欲(ほし)がる樣なるが傍痛き也」と。異者共、「日高く成ぬ。遲々(おそしおそ)し」と云て、馬に移置(うつしおい)て、引出て取(とら)せたれば、男、胸□□るゝ樣には思ゆれども、云ひ立(たち)にたる事なれば、此の馬の尻の方に油を多く塗て、腹帶强く結(ゆひ)て、鞭(むち)、手に貫(ぬき)れて、裝束、輕びやかにして、馬に乘て行くに、既に橋爪に行懸(ゆきかか)る程、胸□れて心地違(たが)ふ樣に怖しけれども、可立返(たちかへるべ)き事に非ねば、行くに、日も山の葉(は)近く成て、物心細氣也。況や、此る所なれば、人氣(ひとけ)も無く、里も遠く被見遣(みやられ)て、家も遙に、煙(けぶり)幽(かすか)にて、破無(わりな)く思々(おもふおも)ふ行くに、橋の半許(なかばばかり)に、遠くては然(さ)も見えざりつるに、人、居たり。

 此(これ)や鬼ならむと思ふも、靜心無(しづこころな)くて見れば、薄色の衣の□よかなるに、濃き單(ひとへ)、紅(くれなゐ)の袴(はかま)長やかにて、口覆(くちおほひ)して、破無(わりな)く心苦氣なる眼見(まみ)にて、女、居たり。打長(うちなが)めたる氣色も哀氣(あはれげ)也。我れにも非ず、人の落し置たる氣色にて、橋の高欄に押懸りて居たるが、人を見て、恥かし氣なる物から、喜(うれし)と思へる樣也。

 男、此れを見るに、更に來(き)し方行末も不思(おぼ)えず、「搔乘(かきの)せて行(ゆき)なばや」と、落懸(おちかかり)ぬべく哀れに思へども、「此(ここ)に此(かか)る者の有るべき樣(やう)無ければ、此は鬼なむめり」とて、「過ぎなむ」と、偏(ひとへ)に思ひ成して、眼を塞(ふさぎ)て走り打(うち)て通るを、此の女、今や物云ひ懸(かくる)と待けるに、無音(ぶいん)に過(すぐ)れば、「耶(や)、彼(あ)の主、何(な)どか絲(いと)情無(なさけな)くては過ぎ給ふ。奇異(あさまし)く、不思懸(おもひかけ)ぬ所に、人の棄(すて)て行たる也。人鄕(ひとざと)まで將御(いておは)せ」と云ふをも不聞畢(ききはて)ず、頭(かしら)・身の毛太る樣に思えければ、馬を搔早めて、飛ぶが如くに行くを、此の女、「穴(あな)、情無(なさけな)」と云ふ音(こゑ)、地を響かす許(ばかり)也。立走(たちはしり)て來れば、「然(さ)ればよ」と思ふに、「觀音助け給へ」と念じて、奇異(あさまし)く駿(はや)き馬を鞭を打(うち)て馳(はす)れば、鬼、走り懸て、馬の尻に手を打懸々々(うちかくうちかく)引(ひか)ふるに、油を塗たれば、引□し引□して、否不捕(えとらへ)ず。

 男、馳て見返(みかへり)て見れば、面(おもて)は朱(しゆ)の色にて圓座(わらふだ)の如く廣くして、目一つ有り。長(たけ)は九尺許(ばかり)にて、手の指(および)三つ有り。爪は五寸許にて刀の樣也。色は綠靑(ろくしやう)の色にて、目は琥珀(こはく)の樣也。頭(かしら)の髮は蓬(よもぎ)の如く亂れて、見るに心・肝(きも)迷(まど)ひ怖しき事、限無し。只、觀音を念じ奉(たてまつり)て馳(は)する氣(け)にや、人鄕に馳入(はせいり)ぬ。其の時に、鬼、「吉(よし)や、然(さ)りとも、遂に不會(あは)ざらむやは」と云て、搔消(かきけ)つ樣に失(うせ)ぬ。

 男は、喘々(あへくあへ)く、我れにも非で、彼(あ)れは誰(た)そ時(どき)に館に着(つき)たれば、館の者共、立騷て、「何々(いかにいか)に」と問ふに、只、消(きえ)に消入(きえいり)て、物不云(いは)ず。然れば、集て抑へて、心靜めて、守(かみ)も心もと無(な)がりて問(とひ)ければ、有(あり)つる事を落さず語(かたり)ければ、守、「益無(やくな)き物諍(ものあらそ)ひして、徒(いたづら)に死にすらむに」と云て、馬をば取(とら)せてけり。男、したり顏にて家に返(かへり)にけり。妻子眷屬に向(むかひ)て、此の事を語て恐(おぢ)けり。

 其の後、家に物怪(もつけ)の有ければ、陰陽師に其の祟(たたり)を問ふに、「其の日、重く愼むべし」と卜(うらなひ)たりければ、其の日に成(なり)て、門(かど)を差籠(さしこめ)て、堅く物忌(ものいみ)を爲(す)るに、此の男の同腹(どうふく)の弟、只一人有けるが、陸奧(みちのく)の守(かみ)に付(つき)て行(ゆき)にけるが、其の母をも具して將(いて)下りたりけるに、此の物忌の日しも返來(かへりき)て、門を叩(たたき)けるを、「堅き物忌也。明日を過(すぐ)して對面せむ。其の程は人の家をも借らむ」と云出(いひいで)たれば、弟、「絲(いと)破無(わりな)き事也。日も暮(くれ)にたり。己(おのれ)一人こそ外(ほか)にも罷(まか)らめ、若干(そこばく)の物共をば何(いか)がせむ。日次(ひつい)での惡(あし)く侍れば、今日は態(わざ)と詣來(まうでき)つる也。彼の老人(おいびと)は早う失給(うせたま)ひにしかば、其の事も自(みづか)ら申さむ」と云入れたれば、年來(としごろ)、不審(いぶかし)く悲く思ふ祖(おや)の事を思ふに、胸□れて、「此れを可聞(きくべ)き物忌にこそ有けれ」と云て、「只、疾(と)く開(あけ)よ」とて、泣き悲(かなしみ)て入れつ。

 然れば、庇(ひさし)の方にて、先づ物食(ものくは)せなどして後に、出向(いでむかひ)て、泣々(なくな)く語(かたら)ふに、弟、服(ぶく)、黑くして、泣々く云ひ居たり。兄も泣く。妻(め)は簾(すだれ)の内に居て、此の事共を聞く程に、何(いか)なる事をか云けむ、此の兄と弟と俄(にはか)に取組(とりくみ)て、がらがらと上に成り下に成り爲(す)るを、妻、「此(こ)は何(いか)に々(こはいか)に」と云へば、兄、弟を下に成して、「其の枕なる大刀取て遣(おこ)せよ」と云ふに、妻、「穴(あな)、極(いみ)じ。物に狂ふか。此(かか)る事は爲(す)るぞ」と云て不取(とら)せぬを、「尚、遣(おこ)せよ。然(さ)は、我れ死ねとや」と云ふ程に、下なる弟、押返して、兄を下に押成して、頸(くび)をふつと咋切(くひきり)落して、踊下(をどりおり)て行くとて、妻の方に見返り向(むかひ)て、「喜(うれし)く」と云ふ顏を見れば、彼の「橋にて被追(おはれ)たりき」と語りし鬼の顏にて有り。搔消(かきけ)つ樣に失(うせ)ぬ。其の時に、妻より始めて家の内の物共、皆泣き騷ぎ迷(まど)へども甲斐無くて止(やみ)にけり。

 然れば、女の賢(さかし)きは弊(つたな)き事也けり。若干(そこば)く取置ける物共、馬などと見けるは、萬の物の骨・頭(かしら)などにてぞ有ける。「由無(よしな)き諍(あらそひ)をして遂に命を失ふ、愚(おろか)なる事」とぞ、聞く人、皆、此の男を謗(そしり)ける。

 其の後、樣々(さまざま)の事共をして、鬼も失(うせ)にければ、今は無しとなむ語り傳へたるとや。

   *

 簡単に語注を附しておく。

・「おそばえたる者」「そばふ」は馴れてじゃれる、甘えてふざけるの意で、ここは所謂、お調子者の謂い。

・「鑭々(きらきら)しく」ここは悪い意味で、自己肥大して、如何にも偉そうな感じでの・。「然(さ)る方に思(おぼ)え有けるが者」腕に覚えがある者。武術に自信のある者。

・「鹿毛(かげ)」馬の毛色の名。全体に鹿の毛色のように茶褐色で、鬣(たてがみ)と尾及び四肢の下部が黒色のもの。

・「橫道」廻り道。

・「諍(あらそ)ひ立(たち)にけり」周りから囃し立てられた結果、エキサイトして、やっとろうやないかい! てな感じで、さらに声高に騒ぎ出したのである。

・「云ひ立にたる事」(そのお調子者の男にしてみれば、)自分から最初に、渡ってやると言った関係上、(引くに引けず、やったる! やったろうやないか! と)なってしまった事から、「ほんまに渡るんか?」「なんやと?! ほんまや!」と「互に強く諍ふ」ことになり、さらにさらに声がでかくなって、言い争いとなり、それで主人(守)の耳にそれが聴こえてしまうのである。

・「絲□□く」「姦(かし)ましく」であろう。

・「益無(やくな)き」つまらぬこと。

・「馬に於ては早く得よ」馬の方は、望み通り、呉れてやる! 早く受け取れ!

・「傍痛(かたはらいたく)く候ふ」このような、我ら下々の者の下らぬ座興の言い争いに、ご主人さまが御馬を下賜され、それを受け取ると申すは、これ、たいそう気が引けまする。

・「弊々(つたなしつたな)し。弱々(よはしよは)し」池上氏の注には『見苦しいぞ。弱虫め。』とある。

・「胸□るゝ」「胸潰るる」であろう。後の箇所も同じい。

・「此の馬の尻の方に油を多く塗て」伏線。

・「鞭(むち)、手に貫(ぬき)れて」鞭の頭についている紐の輪を左手に手首に通して、危急の際でも鞭を落とさないようにしているのである。

・「山の葉」山の端(は)。

・「煙(けぶり)」民草の家の夕餉のための煙。

・「薄色」現代の薄紫色を指す。

・「衣の□よかなるに」「衣のなよよかなるに」であろう。

・「濃き單(ひとへ)」「薄色」の下に濃い紫色の単衣(ひとえ)を着ているのである。

・「口覆(くちおほひ)」袖で口元を隠す仕草のこと。

・「破無(わりな)く心苦氣なる」如何にも堪えきれぬほどに苦しそうな。

・「人の落し置たる氣色にて」自分でここまで来たのではなく、誰かに牛車か馬で強引に連れて来られて、そのままそこに遺棄されたような雰囲気で。

・「物から」接続助詞で、逆接の確定条件を示す。「~のものの」。

・「更に來(き)し方行末も不思(おぼ)えず」時空間識別も出来ない妖しい恍惚の心理状態に引き込まれ「馬上からかき抱いて馬に乗せ、連れてゆきたい!」などと思うのは、既にして、この女が人間でない証拠である。

・「無音(ぶいん)」声懸けしないこと。無言。

・『此の女、「穴(あな)、情無(なさけな)」と云ふ音(こゑ)、地を響かす許(ばかり)也』怪異のSE(サウンド・エフェクト)が美事。

・「引□し引□して」「引き外し引き外して」であろう。ここで「油」の伏線が鮮やかに生きるのである。

・「圓座(わらふだ)」藁・藺(い)・菅(すげ)などの植物の茎を渦巻状に円く平らく編んで作った板の間で坐る際に敷く敷物。

・「遂に不會(あは)ざらむやは」反語。

・「彼(あ)れは誰(た)そ時(どき)」これで一語。夕暮れ時。黄昏(たそがれ)時。「たそがれ時」はこれをひっくり返した「誰そ彼時」が原義。

・「抑へて」手当(世話)をしてやり。

・「心もと無(な)がりて」帰りが遅いので待ち遠しく思い、同時に気掛かりに思うの意のダブル。

・「徒(いたづら)に死にすらむに」池上氏の注には『あっけなく殺されるところだったぞ。』とある。

・「したり顏」得意顔。

・「物怪(もつけ)」予期しない事態。文脈からは凶事の予兆を感じさせるよくない妖しい出来事であろう。「物の怪」ではないので注意。

・「其の程は人の家をも借らむ」それまでは誰かの屋敷に一日だけ借りて滞在して居てくれ。

・「日次(ひつい)での惡(あし)く侍れば」占ったところが、帰宅は今日以外は良くなかったものですから。

・「彼の老人(おいびと)」二人の実母。

・「胸□れて」ここも「胸潰れて」。

・「此れを可聞(きくべ)き物忌にこそ有けれ」この度の物忌は、実はまさにこの、母の死を弟から聴くために、何もかも遠ざけて、天が采配してくれたところの物忌であったのだ。

・「庇(ひさし)の方」廂の間。寝殿造りなどで御母屋(おもや)の外側に附属された細長い下屋(げや)の部分。その外に簀(す)の子縁(こえん)を設ける。通常、客はここへ通す。

・「がらがらと」どたばたと。

・「ふつと咋切(くひきり)落して」首筋をブッツ! と咬んで、嚙み切り落したのである。強烈!

・『妻の方に見返り向(むかひ)て、「喜(うれし)く」』このアップが凄い!

・「鬼も失(うせ)にければ、今は無し」とは安義橋のこと。]

原民喜 碑銘

2011・3・11(チェレンコフ光の業火)へ……1951・3・13(原民喜鉄道自死)へ……2011・3・19(愛する母のALSにてみまかりし日)へ
 
 
 
   碑銘
 
       原 民喜
 
遠き日の石に刻み
 
   砂に影おち
 
崩れ墜つ 天地のまなか
 
一輪の花の幻

 
 
 
Hananomaborosi_2
 
 

(1975年8月20日撮影。碑面に映るのはカメラを構えた18の僕――)

2016/03/11

アレ(恙無く進行中也)

でもね……俺の愛する従兄妹(皇族の佳子に似ているが、遙かに美しい!)のためには「アレ」はやばいな……すこし「ガクジユツ」的に行こうか――♪ふふふ♪――

遺言

言っておく。
 
人を人とも思わぬ政治思想や国家体制に太鼓持ちの如く付和雷同した哲学道徳など――糞喰らえ!
 
そうして――科学的事実をも隠蔽して永遠の「子ら」を殺して恥じない政治家どもを私たちは「もう信じない」と皆、言わねばならぬ時が来たことを、諸君、何故、判らないのだ!!!

予告

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蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲……江戸川亂歩

2016/03/10

旧友に

旧友に[もう寝なさい」と言われたから寝る――お休み……

I Didn't Know What Time It Was   Bud Powell Trio

「さよなら」の向こう側に……これが……聴こえる……

今日は

祖母藪野茂三十三回忌 於 円覚寺白雲庵――されば今日のテクスト更新はお休みなり――

2016/03/09

北條九代記 卷第八 前將軍賴經入道御歸洛

 

  ○ 前將軍賴經入道御歸洛

同七月十一日、前將軍賴經入道、鎌倉を立ちて、歸洛の旅に赴き給ふ。御送(おんおくり)の大名十五人、路次(ろじ)の行粧(かうさう)、きらびやかなり。年月、往馴(すみな)れたまひける鎌倉山の雲霞(くもかすみ)、晴れぬ思(おもひ)を駿河(するが)なる、富士の高峯の白雪も、今日(けふ)御覽する御名殘(おんなごり)、又何時(いつ)かはと詠(なが)め遣り、由井の渡(わたり)や、島田の宿(しゆく)、月も寫(うつ)るか池田の宿、矢作(やはぎ)の河原もの凄く、萱津(かやづ)、墨俣(すのまた)、打過ぐれば、涙はいとゞ垂井(たるゐ)の宿、浮世の夢は醒井(さめがゐ)に、續く鏡(かゞみ)の曇(くもり)なき、世は末廣(すゑひろ)き野路(のぢ)の里、勢多の長橋、打渡り、打出(うちで)の濱より見渡せば、昔(むかし)、長等(ながら)の山の端(は)も、只こゝもとに寄すると云ふ、波は湖水にたゝみつゝ、夕日を洗ふも面白し。四〔の〕宮河原を今越えて、身は賴なき水の上(うへ)、粟田口(あはだぐち)に著(つ)き給ひ、是より直(すぐ)に夜を籠めて、同七月二十七日、祇園の大路(おほぢ)を經て、六波羅の御館(みたち)若松殿に入らせ給ふ。八月一日、供奉(ぐぶ)の人々、御暇(おんいとま)賜りて、關東に下向あり。その中に、三浦能登〔の〕前司、只一人、御簾(みす)の前に留(とゞま)りて、何事にかありけん、數刻を移して対談し、立出る時には、數行(すかう)の落涙、押難(おさへがた)く、この二十餘年の御眤(おんなじみ)に、御名殘を惜(をし)み奉るも理(ことわり)に覺えける所に、その後、光村は人々を語(かたら)ひ、「面々相構(あひかまへ)へて、今一度、賴經公を、鎌倉へ返(かへし)入れ奉るべき御計(はからひ)を致し給へ」と私語(さゝや)きけるも覺束(おぼつか)なし。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十七の寛元四(一二四六)年七月十一日・十六日・十八日・二十一日・二十二日・二十三日・二十四日・二十七日・二十八日及び八月十二日などに基づく。「寛元の政変」による無念の頼経帰京を、七五調で行路の地名を掛詞にしつつ、非常に美事に詠み込んだ道行文に仕立ててある。

「同七月十一日」寛元四(一二四六)年七月十一日。

「行粧」通常は「ぎやうさう(ぎょうそう」。行装とも書く。外出や旅の際の服装・装束。

「年月、往馴れたまひける」実朝暗殺後(建保七(一二一九)年一月二十七日)、承久元(一二一九)年(建保七年四月十二日改元)七月十九日、僅か満一歳未満で鎌倉に下著、同三年の承久の乱を経て、翌禄二(一二二六)年の将軍宣下で八歳で鎌倉幕府第四代将軍となり、第四代執権北条経時によって寛元二(一二四四)年に五歳の嫡男頼嗣に将軍職を譲位させられた。実にこの京都送還まで、二十七年をこの鎌倉で過ごした。

「由井の渡」由比宿。断崖絶壁で東海道の難所と言われた、現在の静岡県静岡市清水区由比。

「島田の宿」現在の静岡県島田市。「吾妻鏡」に七月十六日着とする(以下、同様)。

「池田の宿」現在の静岡県磐田市池田に比定される中世の宿駅。天竜川の渡船場。十八日。

「矢作の河原」旧矢作宿である現在の愛知県岡崎市。矢作川の水運で栄えた。二十一日。

「萱津」現在の愛知県あま市甚目寺 (じもくじ)にあった中世鎌倉街道の定宿駅。「かやつ」「かいつ」などとも呼称した。二十二日。

「墨俣」現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣。二十三日。

「垂井の宿」現在は岐阜県不破郡垂井町にあった宿駅。後に中山道の宿場となった。二十四日。

「醒井」現在の滋賀県米原市内にあった醒井宿。やはり後の中山道の宿駅。

「鏡」現在の滋賀県竜王町にあった東山道・中山道で栄えた宿駅「鏡の宿」。二十六日。

「野路の里」現在の滋賀県草津市野路町。京に近く、東山道・東海道が通る交通の要衝であった。二十七日。「吾妻鏡」によれば、入京するには日が悪かったことから、昼にここに宿っておいて、夜半に出立している。

「打出の濱」現在の滋賀県大津市松本町付近の琵琶湖岸の名称。歌枕。

「長等の山」現在の滋賀県大津市の三井寺の後背の山名。歌枕。

「四宮河原」現在の京都市山科区を南流する四宮川と東西に走る東海道が交差する附近に広がっていた河原。交通の要所で平安末期には市が立っていた。

「六波羅の御館若松殿」現在の京都市東山区若松町に六波羅探題北方に在任していた北条重時の私邸があったと考えられているが、後に陰謀を疑われて父同様に送還された頼嗣も入洛後にここ、若松殿に入っている。六波羅直近で監視がし易かったためでもあろう。彼らは実際には送還後、暫くはここに軟禁状態にあったとする情報もネット上にはある。「吾妻鏡」には二十八日の午前四時頃に粟田口を経て入洛、とある。

「八月一日」以下の盟約は「吾妻鏡」の八月十二日の条に記載されてある(後掲)。

「三浦能登前司」三浦光村(元久元(一二〇五)年~宝治元(一二四七)年)は三浦義村四男。ウィキの「三浦光村」によれば、『幼少時代は僧侶にすべく鶴岡八幡宮に預けられ、公暁の門弟となるが、後に実家である三浦氏に呼び戻されたようである』。「吾妻鏡」での光村の初見は建保六(一二一八)年九月であるが、『将軍御所での和歌会の最中に鶴岡八幡宮で乱闘騒ぎを起こして出仕を停止させられた』という不名誉な『記事である。この段階では幼名の「駒若丸」を名乗っており、この後に元服して光村と改名した。「光」の字は烏帽子親子関係を結んだ名越光時から偏諱を受けたものとされている』。貞応二(一二二三)年には『北条重時・結城朝広とともに新将軍・三寅(後の九条頼経)の近習に任じられる。以後』、二十年の長きに渡って『頼経の側近として仕え』、寛元二(一二四四)年に『頼経が息子頼嗣に将軍職を譲ると、光村はこれを補佐する意図を以って鎌倉幕府評定衆の一人に加えられた。光村は武芸に秀でると共に管弦に優れ、藤原孝時から伝授を受けた琵琶の名手であった』。既に見てきた通り、第三代『執権北条泰時が死去すると、幕府は執権北条氏派と将軍派に分裂して対立を続け』、寛元四(一二四六)年に『将軍九条頼経を擁する名越光時ら一部評定衆による』第五代『執権北条時頼排除計画が発覚する』(還元の政変)。『この計画には光時の烏帽子子である光村も加担していたが、時頼は北条氏と三浦氏の全面衝突を避けたいと言う思惑から、光村の問題は不問に付し』、『京に護送される頼経の警護を命じた』。ここでも「吾妻鏡」から引くように、『光村は鎌倉に戻る際に頼経の前で涙を流し、「相構へて今一度鎌倉中に入れ奉らんと欲す」と語り、頼経の鎌倉復帰を誓ったという』。『また、この時に頼経の父で朝廷の実力者である九条道家と通じたとする見方もある。光村は道家を後ろ盾とした反北条・将軍派の勢力をまとめる急先鋒として、北条氏に危険視されていた』。翌宝治元(一二四七)年五月二十八日、妖しくも『頼経が建立した鎌倉五大明王院』を殊更に尊崇厚遇したとあって、「吾妻鏡」の同日の条からは、『これが世を乱す源になったとされ』、同年六月、『ついに鎌倉で三浦一族と北条氏一派との武力衝突が起こると、光村は先頭に立って奮戦し、兄泰村に決起を促すが、泰村は最後まで戦う意志を示さず』、『時頼と共に和平の道を探り続けた。だが総領泰村の決起がないまま』、『安達氏を中心とする北条執権方の急襲を受けた三浦氏側は幕府軍に敗れ、残兵は源頼朝の墓所・法華堂に立て籠もった。光村は「九条頼経殿が将軍の時、その父九条道家殿が内々に北条を倒して兄泰村殿を執権にすると約束していたのに、泰村殿が猶予したために今の敗北となり、愛子と別れる事になったばかりか、当家が滅ぶに至り、後悔あまりある」と悔やんだとされている。光村は兄の不甲斐なさを悔やみ、三浦家の滅亡と妻子との別れを嘆きながら、最後まで意地を見せ、敵方に自分と判別させないように自らの顔中を刀で削り切り刻んだのち、一族と共に自害した(宝治合戦)』。

「覺束なし」(そのような不穏な盟約をし、しかもそれを内緒話とはいえ周囲に語ったなどとは、一体、どのようなつもりなのか)不審である。これから先どうなるのかひどく気がかりである、の謂いである。

 

 最後の頼経と光村の盟約のシークエンスだけを「吾妻鏡」から見よう。

○原文

十二日戊戌。相摸右近大夫將監自京都皈參。是入道大納言家御歸洛之間。所被供奉也。此外人々同還向。去月廿七日五更〔廿八日分也〕。經祗園大路。著御于六波羅若松殿。今月一日。供奉人等進發。而能登前司光村殘留于御簾之砌。數尅不退出。落涙千行。是思廿餘年昵近御餘波之故歟。其後。光村談人々。相搆今一度欲奉入鎌倉中云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十二日戊戌。相摸右近大夫將監、京都より歸參す。是れ、入道大納言家御歸洛の間、供奉せらる所なり。此の外の人々、同じく還向(げかう)す。去ぬる月、廿七日、五更〔廿八日分なり〕、祗園大路を經て、六波羅若松殿に著御。今月一日、供奉人等、進發す。而るに能登前司光村、御簾の砌(みぎり)に殘留し、數尅、退出せず。落涙千行す。是れ、廿餘年昵近(ぢつきん)の御餘波(おんなごり)を思ふの故か。其の後、光村、人々に談ずらく、

「相ひ搆へて、今一度、鎌倉中へ入れ奉らんと欲す。」

と云々。

・「相摸右左近大夫將監」「右近」は「左近」の誤り。北条時定(?~正応三(一二九〇)年)は北条泰時長男時氏の三男。第五代執権北条時頼の同母弟。

・「五更」午前四時頃。

……そもそもがこんなアブナい話がよりによって「吾妻鏡」に暴露されているのか? どうも、まさに直前に名前が出されている時定辺りが実は間者を廻してるんじゃないの? と勘繰りたくなるのは私だけだろうか?]

アレ

國立國會圖書館のデヂタルコレクシヨンに「アレ」を見つけちまつた――「アレ」だよ――ヤルぜ――電子化!

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第三章 人の飼養する動植物の變異(1) 序

    第三章 人の飼養する動植物の變異

 

 動植物は代を重ねる間には少しづゝ形狀・性質等が變化するものであるか如何といふ問題を調べるには、是非とも親・子・孫と系圖の明に知れて居る個體を幾代も比較して見るのが必要であるが、野生の動植物ではこの事は到底出來難い。何故といふに野生の動物はたゞ鐵砲で擊つたり網に掛けたりして、その場に居合せたものを捕獲するだけであるから、その動物の親は誰であるかそのまた親は誰であるか全く解らず、また之を長く養つて子孫の生れるのを待ち、之を親と比較することも決して容易でない。植物とてもそれと同じく、どの木の實がどこに落ちるか、どの草の種がどこに生(は)えるか、一向解らぬから、目前に何百本同種の草木があつても、どれが親かどれが子かなかなか知れぬ。之に反して我々の飼養して居る動植物は、多くはその系圖が明に知れて居て、牧畜の發達した國々には有名な牛や馬の系圖が立派な本に出來て居る位であるから、數代前の先祖と數代後の子孫とを比較することも隨分出來る。それ故今こゝに掲げた如き問題を實物によつて調査するには、先づ人の飼養する動植物に就いて調べるのが一番手近である。

Niwatorihensyu

[鷄の變種

一 コチン   二 レグホーン

三 野生の鷄  四 ポーリッシュ

五 チャボ]

[やぶちゃん注:本図は各鶏の細部形状の違いが底本画像でははっきりとは見えないので、昭和五一(一九七六)年講談社学術文庫刊の「進化論講話」の図を用いた。但し、編集権を侵害しないようにするため(というより講談社版では数字の打ち方が異なり、キャプションも変えてある)、講談社版の挿絵に振られた丸囲みアラビア数字番号は消去して、底本と同じ漢数字に代えて全く別に配してあるので対照される方は注意されたい。]

 

 我々が飼養する動植物を見るに、凡そ一種として各個體が悉く同じ形狀を具へて居るものはない。例へば馬でも牛でも犬でも鷄でも各々一種の動物でありながら、その中の一疋づゝを取つて比べて見ると隨分著しい相違がある。日本馬とアラビア馬とを比較し、百姓の使う牛と乳牛とを比較し、または「むく犬」と洋犬を比較し、チャボとブラマとを比較して見れば、何人でもその間の相違の甚だしいことを認めざるを得ぬが、この相違は單にその動物一代だけに限ることでなくそのまゝ子孫に傳はるもので、アラビア馬の生んだ子はやはりアラビア馬、日本馬の生んだ子はやはり日本馬である。かやうに同一種の動物でありながら種々違つた形狀を有し、且その形狀を子孫に傳へるものを、生物學では各々一變種と名づけるが、この語を使つていへば、凡そ我等の飼養する動植物には一種として多くの變種を有せざるものはないのである。我が國の鷄などは從來多少の變種のあつた所へ近來澤山の舶來變種が輸入せられたので、現今では單に鷄といつたばかりでは、如何な形狀・性質のものを指すのであるか解らぬから、一々特別に名を附けて區別せなければならぬやうになつて來た。即ち鷄にはクキンの如き大きなものもあり、またチャボの如き小いものもあり、羽色も種々雜多で、雪の如く純白なもの、炭の如く眞黑なもの、斑のもの、茶色のものなどがあり、性質の如きも皆それぞれ違つて、年中殆ど絶え回なく卵を産むことは産むが、産んだ後は少しも世話せぬものがあるかと思へば、また一方には幾つでも他の産んだ卵を引き受けて温めてばかり居るものもある。こゝに圖を掲げたのは僅にその二三に過ぎぬが、コチン・レグホーン・チャボ・ポーリッシュなどを互に比べて見ると、その間に著しい相違があり、また之を現今尚マレイ地方に産する野生の鷄に比べると更に大きな相違があることが明に解る。併し、斯く多くの變種を有するといふ點で最も著しいのは、恐らくヨーロッパで人の飼養して居る犬と鳩との類であらう。

[やぶちゃん注:「コチン」コーチン(Cochin)。ウィキの「コーチン」によれば、この『名前は元々は中国語の「九斤黄(拼音: Jiǔjīn huáng)」という名前から来ていて、これが誤ってベトナム南部に対する当時の呼称コーチシナ(交趾支那)やインド南部のコーチンと混同された。「斤」とは重さの単位であり、現地中国では大型のニワトリ全般や、あるいはそれを使った料理ですら「九斤黄」と呼ばれている』。一八四五年前後に『アメリカ東海岸に持ち込まれた中国産のニワトリがコーチンの最初の祖先になる。中国産ニワトリの高密度に生えそろった羽毛は当時の愛好家の間で評判を呼んだ。コーチンの特徴ともなる脚毛は、この時期にはまだ生えている個体とそうでないものが混在していたようである。しかし上海の愛好家たちがふわふわの羽毛、脚毛の多い個体を中心に交配を繰り返すと今日のコーチンの特徴として定着した。上海で完成されて後イギリス、アメリカへと輸出されると以降、ヘン・クレイズ(hen craze)などと呼ばれる』十九世紀の中葉から二十世紀初頭に『かけてのブームを巻き起こした。世界中の愛好家たちがニワトリの外見を愛でるためだけに飼育を行い、今日知られる家禽類愛好家(poultry fancy)の源流となった』。『特にアメリカで盛んに交配が行われ現在の状態まで発展した』。『実際に大きいだけでなく、高密度に生えそろったふわふわの羽毛がコーチンを実際以上に大きく見せる。脚、お尻を覆うふわふわの羽毛、短くて湾曲した背中、短い尾が特徴。頑丈で、開けた場所にも限られた空間にも適応する。羽毛の下の肌は黄色、卵は薄茶色。雌鳥は産卵能力に優れるが、産卵期間は長くはない』。『性格はニワトリの中でも特に人懐っこく、比較的静かでよいペットとなる。雌鳥は雛を孵す能力に優れていてハヤブサの孵卵に用いられることもある。しかし成長が遅いという好ましくない性質もある』。『バーチ(birchen, ブルー(blue, バフ(buff、黄褐色), バード(barred、縞)など』、十八種類の『色のバリエーションがあり、フリズルド(frizzled、ちぢれ毛)と呼ばれるバリエーションが含まれる』。『通常種の雄鶏は約』五キロ、雌鳥は四キロ。改良品種中の小型種では雄鶏が九百グラム、雌鳥で八百グラムとなる、とある。

「レグホーン」Leghorn。鶏の一品種。羽色は白色の他、褐色や黒色もあり、代表的な卵用種。イタリアのトスカーナ州リボルノ(Livorno:英語読みが「レグホーン」)原産。

「野生の鷄」鳥綱キジ目キジ科ヤケイ属セキショクヤケイ(赤色野鶏)Gallus gallusウィキの「セキショクヤケイ」によれば、『中国南部からフィリピン、マレーシア、タイなど東南アジア熱帯地域のジャングルに生息する野鶏である。羽は赤笹色で体重は成鳥で』一キログラム弱『程度である。なお、ニワトリはこれを家禽化したものと現在では考えられている』が、『近年では人間に飼われているニワトリとの交雑(遺伝子汚染)が進み、純粋な野生種は絶滅の危機があるともいわれている。なお、日本の地鶏などはこの赤色野鶏の特徴を残しているものが多い』。『セキショクヤケイはニワトリと同様、強い性的二形を示す鳥である。雄は体が大きく頭部には鶏冠と肉垂れがあり、首から尻尾まで赤笹色(明るい金からブロンズ)の羽に覆われている。また尾が長く、色は光の加減によって黒から青色の間に見える。メスにはニワトリ同様鶏冠が小さく、また、セキショクヤケイの集団においては卵やひなの世話はメスだけがするために羽毛もカモフラージュ色をしている。脚はともに鉛色である』。『鳴き声もニワトリに近い。繁殖期には、雄鶏は鳴くことにより、潜在的な繁殖相手をひきつけ、また近くにいる他の雄に対して、交尾争いの危険があることを気づかせるのに役立っている。また交尾争いのために、脚には長い蹴爪をもつ』。

「ポーリッシュ」頭に冠羽のある品種。体重はで約二・九、で約二・二キログラム。

「チャボ」「矮鶏」と漢字表記する。本邦の天然記念物。多くの品種があり、観賞用として古くから愛好されてきている。ウィキの「チャボ(鶏)」によれば、『東南アジアと貿易を行った朱印船や南蛮貿易、あるいはそれ以前において』、ベトナム中部沿海地方に十七世紀まで存在したチャンパ王国の『鶏品種を日本で改良し作出したと考えられている。名前の由来はチャンパ王国の主要住民であったチャム人か、そのままチャンパが訛ったとされる。当時は雑色のものであったらしい』。『漢字表記からも分かるとおり、他の品種に比べて小型であり』、オスで七百三十グラム(単位に注意)、メスで六百十グラム程度が『標準的な体重である。また足が非常に短く、尾羽が直立していることが外見上の特徴である』。『また海外でもジャパニーズ・バンタムと呼ばれ』、『愛好されている。こちらの由来は現在のインドネシアのバンテン州にあったバンテン王国』(十六世紀から十九世紀にかけてジャワ島西部バンテン地方に栄えたイスラム国家)『やその異称バンタムから。なお、チャボに限らずバンタム』『と呼ばれる品種のうち』、「『真のバンタム」(true bantam)と呼ばれる品種は小柄な品種が多く、格闘技の体重別階級における軽い選手の属する階級であるバンタム級の由来にもなった』とある。多様な品種は引用元に詳しい。

「日本馬」哺乳綱奇蹄(ウマ)目ウマ科ウマ属ウマ Equus caballus の中で、日本在来馬は現存で以下の八種(ウィキの「日本在来馬」に拠った)。

 北海道和種(俗称「道産子(どさんこ)」)

 木曽馬(長野県木曽郡開田村/岐阜県飛騨地方・長野県天然記念物)

 御崎馬(みさきうま:宮崎県串間市都井岬・国天然記念物)

 対州馬(たいしゅうば(うま):長崎県対馬(つしま)市対馬)

 野間馬(のまうま:愛媛県今治市野間・市天然記念物)

 トカラ馬(鹿児島県鹿児島郡十島村(としまむら)吐噶喇列(とから)列島・県天然記念物)

 宮古馬(沖繩県宮古島市宮古島・沖繩天然記念物)

 与那国馬(沖繩県八重山郡与那国町与那国島・町天然記念物)

純血種が絶滅してしまっている在来馬としては「南部馬」・「三春駒」・「三河馬」・「能登馬」・「土佐馬」・「日向馬」・「薩摩馬」・「甲斐駒」・「ウシウマ」(種子島産)などがいた。日本在来馬は通常、次注のアラブ種よりも体高が有意に低い(百十~百三十五センチメートル)。

「アラビア馬」アラブ種(ArabArabian)とは、ウマの品種の一つ。現存する馬の改良種の中で最初に確立した品種とされる。体高約百五十センチメートル、体重約四百キログラム。参照したウィキの「アラブ種」によれば、『サラブレッドよりは小柄で華奢な体躯で、速力もサラブレッドには劣る』『が、耐候性、耐久性に優れる』。『その成立ははっきりしないが、アラビア半島の遊牧民、ベドウィンにより、厳格な血統管理の元に改良が進められ、品種として確立した。伝承によるとケヒレット・エル・アジュズ(「老婦人の牝馬」の意)という牝馬がアラブ種の根幹牝馬である』。『サラブレッドはこのアラブを元にイギリスやその他の在来馬と掛け合わせて作られた品種であり、三大始祖は全てアラブ種かそれに類するターク、バルブ種である。特にダーレーアラビアンはジェネラルスタッドブックにおいて純粋なアラブとされている。また、サラブレッド成立後、主にフランスでこのアラブとサラブレッドを掛け合わせて作られたのがアングロアラブである。日本ではサラブレッドと共にこのアングロアラブも競走馬として多く用いられ、生産も盛んであった一方、アラブ自体はあまり普及しなかったため、日本でアラブといえば一般的にアングロアラブのことを指し、アラブは「純血」アラブと言わないと通じないことがある』。

「むく犬」毛が長くてむくむくとしている犬、毛のふさふさと垂れ下がった犬の意で、特定の犬種を指すものではない。

「ブラマ」インド原産とされる大型の肉用の鶏種。体重はで四・五~五・五キログラム、で三・二~四・一キログラム。羽の色は白色コロンビア斑(はん:尾羽と頸部が黒、ほかが白)が知られるが、暗色やバフ(淡黄色)もいる。とさかは三枚冠で、耳朶(みみたぶ)は赤色。肉質は優秀であるが、若齢時の成長速度が遅いので実用的には使われず、現在は観賞用に飼われる(「中央畜産会」公式サイト内の「肉用種」に拠った)。

「クキン」諸本総てこの表記であるが、不詳。但し、大型種であることから、肉用種であると考えてよく、音の酷似からは、これは前掲の「コチン」(コーチン(Cochin))の元の種を、本邦での改良品種である知られた「名古屋コーチン」などと区別し、中国語の「九斤黄」の頭の「九斤」を以って呼んだものではないかと推理する。単に「コチン」の誤植とも考えられはするが、それだと、改版に改版を重ねたはずの諸本が一貫して直されていないのは頗る不審となる。

「マレイ地方」現在のマレー半島(Malay Peninsula)。太古には周辺域に広がるスンダ列島とともに大スンダ大陸を形成しており、その頃からの生物では島嶼部からマレー半島にかけて原生棲息しているような種群が多く見られる。現在、北西部はミャンマーの一部、中央部と北東部はタイの一部、南部の大部分はマレーシアである(ウィキの「マレー半島」に拠った)]

進化論講話 丘淺次郞 藪野直史附注 第二章 進化論の歷史(5) 五 ダーウィン(種の起源) / 第二章~了

     五 ダーウィン(種の起源)

 

Darwin

[ダーウィン]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 千八百五十九年の十一月二十四日卽ち今より凡そ五十五年前にダーウィンがその著書「種の起源」の第一版を公にした時までの生物進化論の歷史の大要は略々右に述べた通りである。世間では進化論といへば一口にダーウィンの說であるやうに考へる人もあるが、以上述べた所で解る通り、生物進化の說はダーウィンより餘程以前にフランス國のラマルクサンチレールなどが既に唱へて居つたものである。倂し、進化の事實は如何にして起つたものであるかといふ說明は兩人とも甚だ不十分で、ラマルクはたゞ器官の用・不用に基づくものであると說き、サンチレールは外界の狀態に變化が起れば之が直に動物の形狀・性質に變化を起すものであると論じたのみであつた。然るにダーウィンはたゞ進化の事實を丁寧に集めて之を確實に證據立てたのみならず、之を說明するために自然淘汰の說といふものを考へ出したが、この自然淘汰の說は生物進化の事實の說明に適すること前の二說とは雲泥の相違で、生物學上そのときまで說明の出來なかつた餘程多くの事實も之がために容易にその理由を知ることが出來たから、忽ち學者間に非常な信用を得て、この說により說明の出來ぬ現象は生物界に一つもないといふて喜んだ人も澤山に出來た。

 ダーウィンの人物・經歷及びその著書「種の起源」を公にするに至つた顚末等の中には大に我等後進者の心得となる點があるやうに思はれるから、ダーウィンの唱へ始めた說を紹介する前に、少しその事を述べて置きたい。ダーウィンの生れたのは今より百十七年前卽ち千八百九年の二月十二日であるが、その年は不思議にも始めて動物の進化を說いた書物「動物哲學」が出版になつた年である。生長して後、エジンバラケンブリッジなどの大學で修業し、二十二歲の時「ビーグル」といふ世界探檢船に乘り組んで殆ど六年間地球上の各地を探檢して歸つたが、その頃から健康が餘り勝れなくなつたので、三十三歲の時ロンドンから汽車で行けば一時間もかからぬ程の處にあるダウンといふ村に家を買つてそこに引籠り、市中の雜沓を避け、一生涯靜に學問の硏究ばかりに力を盡して、終に去る明治十五年卽ち千八百八十二年の四月十九日に世を去つた。ダーウィンは「ビーグル」號航海の節、世界の各地に於て、動物・植物・地質等を實見する開に生物種屬の起源に就いて種々の疑が起つたから、之を十分に硏究して見ようと決心して、イギリスに歸つてからも頻にこの事を考へた結果、三十四五歲の頃、既に自然淘汰の理に氣が附き、一通り之を書き綴つて人に見せたこともあつたが、倂しかやうな新說は輕々しく世に出すべきものでないと思ひ、その後益々生物學上の事實を集め、この說の適否を試し、十五六年も研究を積んだ後、千八百五十九年卽ち自身の五十歲の時に至り漸く之を公にした。之を近頃の學者が漸く昨日思ひ附いたことを今日直に出版するのに比べると、實に雲泥の相違である。また千八百五十九年に之を公にしたのも全く或る偶然の出來事が起つたからであつて、若しその事がなかつたならば、「種の起源」の出版も、或は尙數年間後れたかも知れぬ。

 こゝに偶然の出來事といふのは、千八百五十八年に至り、ダーウィンの外に尙一人自然淘汰の理を發見した人が出て來たことである。この人はウォレースといふ大探檢家で、南アメリカに四年、東印度諸島に八年も留まつて、博物の硏究に從事したが、その中動物の生態及び分布の有樣などから考へて、殆どダーウィンの說と全く同樣な說を思ひ付き、之を一篇の論文に書き綴つてダーウィンの手許まで送り屆け、之を學術雜誌上に公にするやうに依賴して來た。ダーウィンは之を受取つて讀んで見ると、中に書いてあることは自分が、十四五年も前から考へて居たことと殆ど寸分も違はぬから、大に驚いて之をフッカーライエルなどいふ大家に見せ、どうしたら宜しかろうと相談した。所が、これらの人々は、かねてダーウィンがこの問題に就いて硏究して居たことを知つて居るから、ダーウィンに勸めて自然淘汰の理を短く書かせ、之を彼のウォレースから送つて來た論文と同一號の林那學士會雜誌に竝べて掲載し、同時に世に公にさせた。倂し生物進化の事實の證明、自然淘汰の理窟などは孰れもなかなかの大論であつて、到底右の雜誌上に掲げた論文位で盡すことの出來るものでないから、更にダーウィンは急いで從來硏究の結果の大要を書き綴り、一册の書として翌年の十一月に出版したが、之が卽ち有名な「種の起源」である。

 斯くの如く實際自然淘汰の說を唱へ出したのはダーウィンウォレース二人同時であつたが、ダーウィンの方は既に十四五年も前から考へて居たことでもあり、また、翌年に至り立派な一册の書物を出したりして、ウォレースに比べると、考が遙に周到であつたから、ウォレースは快く自然淘汰發見の功を全くダーウィン一人に讓つて少しも爭らしいことをせぬのみならず、後に自分の著した進化論の書物の表題まで「ダーウィニズム」と附けたのは、實に量の寬い君子の心掛で、かの僅の功を相爭ひ互に罵詈し誹謗する人々の根性とは到底日を同じうして論ずることは出來ぬ。

 それからまたこの「種の起源」といふ書物が實に感服に堪へぬ本である。四百何十頁位の中本ではあるが、著者が序文にも書いて置いた通り、之は眞の摘要であつて、十倍も大部な書物が書ける程に十分な材料が集まつて居る中から、最も必要な部分だけを選み出して、短く書いたものである。而してその中の議論の仕樣がまた非常に鄭重で、餘程控へ目にしてある具合は、僅の事實を基として空論の上に空論を積み上げる流儀とは全く正反對で、實に後世生物學を修める者等の好き模範といつて宜しい。たゞ多くの事實を餘り短く詰めて書いたから、全編餘り實質があり過ぎて、常に輕い書物を讀み慣れて居る人々には、之を咀嚼し消化するのに多少骨が折れるのは據(よんどころ)ないことである。

 以上、略述した通り、今日我々の有する生物進化の考は決して突然生じたものでなく、十八世紀の末頃より漸々發達して來たものであるが、その中生物進化の事實に關することは最初は單に假說に過ぎなかつたのが、ダーウィンの硏究によつて略々確となり、ダーウィン以後の多數の學者の硏究によつて愈々確乎として動かぬものとなつたのであるから、之はダーウィンが與つて大に力あるには相違ないが、結局生物學全體が著しく進步した結果といはねばならぬ。それ故、生物進化論を以てダーウィン說と見倣すことは決して穩當ではないが、之に反して生物進化の理由を說明するための自然淘汰の說は全くダーウィンが初めて考へ出したものである故、之は眞のダーウィン說と名づくべきものである。我我はこの說によつて初めて何故生物は進化し來つたかといふ原因の一部を察することが出來る。斯くの如く生物進化の事實と、之を說明するための自然淘汰說とは、全く別物で決して混同すべきものではない。自然淘汰說は今後の硏究によつて如何に改められるか知らぬが、たとひこの說が全く誤謬として打破られたと假定しても、生物進化の事實は依然として存し、少しも之によつて動かされることはない。

[やぶちゃん注:「ダーウィン」以下、ウィキの「チャールズ・ダーウィン」から主に前半生(「種の起源」の公刊とウォーレスとの絡みの部分まで)を詳しく引く。異例に長い引用になるが、本書の性質上、不可欠と考えた。時間を惜しまれる方は、下線部のみだけでも拾い読みされたい。万一、ウィキから引用の範囲を越えているという疑義があれば、リンクのみにして総てを削除する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した。下線は総てやぶちゃん)。まず、「概要」部。『エディンバラ大学で医学、ケンブリッジ大学でキリスト教神学を学んでいるときに自然史への興味を育んだ。五年にわたるビーグル号』(H.M.S. BeagleH.M.S. Her Majesty's Ship の略。「女王陛下の船」。英国海軍軍艦を表わす艦船接頭辞)『での航海によって、チャールズ・ライエルの斉一説を理論と観察によって支持し、著名な地理学者となった。またその航海記によって人気作家としての地位を固めた。ビーグル号航海で集めた野生動物と化石の地理的分布は彼を悩ませ、種の変化の調査へと導いた。そして一八三八年に自然選択説を思いついた。そのアイディアは親しい数人の博物学者と議論されたが、より広範な研究に時間をかける必要があると考えた』。『理論を書き上げようとしていた一八五八年にアルフレッド・ラッセル・ウォレス』(後注する)『から同じアイディアを述べた小論を受け取った。二人の小論は即座に共同発表された。一八五九年の著書』「種の起源」( On the Origin of Species )は『自然の多様性のもっとも有力な科学的説明として進化の理論を確立した』。「人間の由来と性に関連した選択」( The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex :1871)及び、続く「人及び動物の表情について」( The Expression of the Emotions in Man and Animals :1872)では『人類の進化と性選択について論じた。植物に関する研究は一連の書籍として出版され、最後の研究はミミズが土壌に与える影響について論じている』。『ダーウィンの卓越性はみとめられ、十九世紀において王族以外で国葬が執り行われた五人のうちの一人となった。ウェストミンスター寺院でジョン・ハーシェルとアイザック・ニュートンの隣に埋葬されている』。以下、詳細な前半生の事蹟。地質学者(存命中、一貫した自称でもあった)で生物学者でもあったチャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin 一八〇九年二月十二日(文化五年十二月二十七日相当)~一八八二年(明治十五年)四月十九日)は『イングランドのシュロップシャー州シュルーズベリー』(Shrewsbury)『にて、裕福な医師で投資家だった父ロバート・ダーウィンと母スザンナ・ダーウィン』『の間に、六人兄弟の五番目の子供(次男)として生まれた。父方の祖父は高名な医師・博物学者であるエラズマス・ダーウィンであり、母方の祖父は陶芸家・企業家であるジョサイア・ウェッジウッドである』(あのイギリス最大の陶器会社「ウェッジウッド」(Wedgwood)の創設者)。『子供のころから博物学的趣味を好み、八歳の時には植物・貝殻・鉱物の収集を行っていた。父ロバートは祖父とは異なり博物学に興味はなかったが、園芸が趣味だったため幼少のダーウィンは自分の小さな庭を与えられていた。また祖父と同名の兄エラズマスは化学実験に没頭しており』、『ダーウィンに手伝わせた。ダーウィンは兄をラズと呼んで慕った』。『一八一八年からシュルーズベリーの寄宿舎校で学んだ後、十六歳(一八二五年)の時に父の医業を助けるため』、親元を離れ、『エディンバラ大学で医学と地質学を学』んだが、『血を見る』『のが苦手で、麻酔がまだ導入されていない時代の外科手術になじめず、また昆虫採集などを通じて実体験に即した自然界の多様性に魅せられていたことから、アカデミックな内容の退屈な講義になじめず、学位を取らずに一八二七年に大学を去ることになる。この頃、南米の探検旅行に同行した経験がある黒人の解放奴隷ジョン・エドモンストーンから動物の剥製製作術を学んだ。ダーウィンは彼を「非常に感じが良くて知的な人」と慕った。これは後にビーグル号の航海に参加し生物標本を作る際に役立った。二学年目にはプリニー協会(急進的な唯物論に魅せられた博物学の学生たちのクラブ。古代ローマの博物学者大プリニウスにちなむ)に所属し、海生生物の観察などに従事した。ダーウィンはロバート・グラントの海洋無脊椎動物の生活環と解剖学の研究を手伝った。ある日、グラントはジャン=バティスト・ラマルクの進化思想を称賛した。ダーウィンは驚いたが、その頃祖父の著作を読み類似した概念を、そしてその考えが論争的であることを知っていた。大学の博物学の授業は地質学の火成説と水成説論争などを含んでいたが退屈だった。また植物の分類を学び、当時ヨーロッパで最大のコレクションを誇ったエディンバラ大学博物館で研究を手伝った』。『エディンバラ大学で良い結果を残せず、父はダーウィンを牧師とするために一八二七年にケンブリッジ大学クライスト・カレッジに入れ、神学や古典、数学を学ばせた。ダーウィンは牧師なら空いた時間の多くを博物学に費やすことが出来ると考え』、『父の提案を喜んで受け入れた。しかしケンブリッジ大学でも』、はとこであった『ウィリアム・ダーウィン・フォックスとともに必修ではなかった博物学や昆虫採集に傾倒した。フォックスの紹介で聖職者・博物学者ジョン・スティーブンス・ヘンズローと出会い親しい友人、弟子となった。ダーウィンは学内では、ヘンズローが開設した庭園を二人でよく散歩していたことで知られていた。後にヘンズローとの出会いについて、自分の研究にもっとも強い影響を与えたと振り返っている。また同じく聖職者で地層学者だったアダム・セジウィッグに学び、層序学に並々ならぬ才能を発揮した。同時に当時のダーウィンは神学の権威ウィリアム・ペイリーの』「自然神学」を読み、そのデザイン論『(全ての生物は神が天地創造の時点で完璧な形でデザインしたとする説)』を『信じた。自然哲学の目的は観察を基盤とした帰納的推論によって法則を理解することだと記述したジョン・ハーシェルの新しい本や、アレキサンダー・フンボルトの科学的探検旅行の本を読んだ。彼らの「燃える熱意」に刺激され、熱帯で博物学を学ぶために卒業のあと同輩たちとテネリフェへ旅行する計画を立て、その準備としてアダム・セジウィッグのウェールズでの地層調査に加わった。また、ビーグル号で博物学者としての任務を果たす準備ともなった』。『この時代には音楽や狩猟(ただし、後者は後に「残酷だから」とやめることになる)を趣味としていた。また一年目の一八二七年夏にはジョサイア二世やその娘で将来の妻になるエマ・ウェッジウッドとヨーロッパ大陸に旅行し、パリに数週間滞在している。これは最初で最後のヨーロッパ大陸滞在だった』。『一八三一年に中の上の成績でケンブリッジ大学を卒業した。 多くの科学史家はこの両大学時代をダーウィンの人生の中でも特に重要な時期だったと見ているが、本人はのちの回想録で「学問的にはケンブリッジ大学も(エディンバラ大学も)得る物は何もなかった」と述べている』。『一八三一年にケンブリッジ大学を卒業すると、恩師ヘンズローの紹介で、同年末にイギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船することになった。父ロバートは海軍での生活が聖職者としての経歴に不利にならないか、またビーグル号のような小型のブリッグ船は事故や遭難が多かったことで心配し、この航海に反対したが、叔父ジョサイア二世の取りなしで参加を認めた。専任の博物学者は他におり、ロバート・フィッツロイ艦長の会話相手のための客人としての参加だったため、海軍の規則にそれほど縛られることはなかった。しかし幾度か艦長と意見の対立があり、のちに「軍艦の中では、艦長に対して 通常の範囲で意見表明するのも反乱と見なされかねなかった」と述べている』。『ビーグル号は一八三一年十二月二十七日にプリマスを出航した。南米に向かう途中にカーボヴェルデに寄港した。ダーウィンはここで火山などを観察し、航海記録の執筆を始めている。そのあと南米東岸を南下し』、『バイーアを経てリオデジャネイロに立ち寄ると、正式な「艦の博物学者」だった艦医マコーミックが下船したため、非公式ながら』、『ダーウィンがその後任を務めることになった。ビーグル号が海岸の測量を行っている間に、内陸へ長期の調査旅行をたびたび行っている。モンテビデオを経て出航からおよそ一年後の一八三二年十二月一日にはティエラ・デル・フエゴ島についた。ビーグル号はこの島から若い男女を連れ帰り、宣教師として教育し連れ帰ってきていたが、ダーウィンはフエゴ島民と宣教師となった元島民の違いにショックを受けた。フエゴ島民は地面に穴を掘ったようなところに住み、まるで獣のようだ、と書き記している。東岸の調査を続けながら一八三四年三月にフォークランド諸島に立ち寄ったとき、ヘンズローから激励と標本の受け取りを知らせる手紙を受け取った』。『一八三四年六月にマゼラン海峡を通過し、七月に南米西岸のバルパライソに寄港した。ここでダーウィンは病に倒れ、一月ほど療養した。ガラパゴス諸島のチャタム島(サン・クリストバル島)に到着したのは一八三五年九月十五日であり、十月二十日まで滞在した。当時のガラパゴス諸島は囚人流刑地だった。ダーウィンは諸島が地質学的にそう古いものとは思えなかったため(現在ではおよそ五百万年と考えられている)、最初』、ゾウガメ(カメ目潜頸亜目リクガメ上科リクガメ科リクガメ属ガラパゴスゾウガメ Geochelone nigra  及び同亜種類。但し、Chelonoides 属とする説もある)は『海賊たちが食料代わりに連れてきたものだと考えていたが、ガラパゴス総督からゾウガメは諸島のあちこちに様々な変種がおり、詳しい者なら違いがすぐに分かるほどだと教えられ、初めてガラパゴス諸島の変種の分布に気づいた。なお、この時、ダーウィンがガラパゴス諸島から持ち帰ったとされるガラパゴスゾウガメ、ハリエットは百七十五歳まで生き、二〇〇六年六月二十二日に心臓発作のため他界している』。『一般にはガラパゴス諸島でダーウィンフィンチ』(鳥綱スズメ目フウキンチョウ科 Thraupidae の仲間。フィンチ類(Finches)に似ていることからかく呼称するが、フィンチはスズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科 Fringillidae で別な種群である)『の多様性から進化論のヒントを得たと言われているが、ダーウィンの足跡を研究したフランク・サロウェイによれば、ダーウィンはガラパゴス諸島滞在時にはゾウガメやイグアナ(ガラパゴスリクイグアナおよびウミイグアナ)』(前者は爬虫綱有鱗目トカゲ亜目イグアナ下目イグアナ科イグアナ亜科オカイグアナ属ガラパゴスリクイグアナ Conolophus subcristatus 、後者はイグアナ亜科ウミイグアナ属ウミイグアナ Amblyrhynchus cristatus )、『マネシツグミ』(狭義には鳥綱スズメ目スズメ亜目スズメ小目ヒタキ上科マネシツグミ科マネシツグミ Mimidae Bonaparte )に、『より強い興味を示した。しかしまだ種の進化や分化に気がついていなかったので、それは生物の多様性をそのまま記載する博物学的な興味だった。鳥類の標本は不十分にしか収集しておらず、それらが近縁な種であるとも考えておらず(ムシクイ』類(現行ではスズメ亜目スズメ小目 Passerida に分類される旧世界ムシクイ類(Old World Warblers)の多様な科群に含まれる鳥類の総称)『など別の鳥の亜種だと考えていた)、どこで採取したかの記録も残していなかった。ガラパゴス総督から諸島の生物の多様性について示唆を受けたときには既に諸島の調査予定が終わりつつあり、ダーウィンはひどく後悔している。鳥類標本については後に研究に際して同船仲間のコレクションを参考にせざるを得なかった。また標本中のフィンチ類やマネシツグミ類がそれぞれ近縁な種であると初めて発見したのは、帰国後に標本の整理を請け負った鳥類学者のジョン・グールドだった』(引用で後述される)。『一八三五年十二月三十日にニュージーランドへ寄港し、一八三六年一月にはオーストラリアのシドニーへ到着した。その後、インド洋を横断し、モーリシャス島に寄港した後』、『六月にケープタウンへ到着した。ここでは当時ケープタウンに住んでいた天文学者のジョン・ハーシェルを訪ねている。またヘンズローからの手紙によって、イギリスでダーウィンの博学的名声が高まっていることを知らされた。セントヘレナ島ではナポレオンの墓所を散策している。八月に南米バイーアに再び立ち寄ったが天候の不良のため内陸部への再調査はかなわなかった。カーボヴェルデ、アゾレス諸島を経て一八三六年十月二日にファルマス港に帰着した。航海は当初三年の予定だったが、ほぼ五年が経過していた』。『後にダーウィンは自伝で、この航海で印象に残ったことを三つ書き残している。一つは南米沿岸を移動すると、生物が少しずつ近縁と思われる種に置き換えられていく様子に気づいたこと、二つめは南米で今は生き残っていない大型の哺乳類化石を発見したこと、三つ目はガラパゴス諸島の生物の多くが南米由来と考えざるを得ないほど南米のものに似ていることだった。つまりダーウィンはこの航海を通して、南半球各地の動物相や植物相の違いから、種が独立して創られ、それ以来不変の存在だとは考えられないと感じるようになった。またダーウィンは』、航海中にライエルの「地質学原理」を読み、『地層がわずかな作用を長い時間累積させて変化するように、動植物にもわずかな変化があり、長い時間によって蓄積されうるのではないか、また大陸の変化によって、新しい生息地ができて、生物がその変化に適応しうるのではないかという思想を抱くに至った』。『ダーウィンはこの航海のはじめには自分を博物学の素人と考えており、何かの役に立てるとは思っていなかった。しかし航海の途中で受け取ったヘンズローの手紙から、ロンドンの博物学者は自分の標本採集に期待していると知り自信を持った。サロウェイは、ダーウィンがこの航海で得た物は「進化の証拠」ではなく、「科学的探求の方法」だったと述べている』。『ダーウィンが帰国したとき、ヘンズローが手紙をパンフレットとして博物学者たちに見せていたので科学界ですでに有名人だった。ダーウィンはシュールズベリーの家に帰り家族と再会すると急いでケンブリッジへ行きヘンズローと会った。ヘンズローは博物学者がコレクションを利用できるよう』、『カタログ作りをアドバイスし、植物の分類を引き受けた。息子が科学者になれると知った父は息子のために投資の準備を始めた。ダーウィンは興奮し』、『コレクションを調査できる専門家を探してロンドン中を駆け回った。特に保管されたままの標本を放置することはできなかった』。『十二月中旬にコレクションを整理し』て、『航海記を書き直すためにケンブリッジに移った。最初の論文は南アメリカ大陸がゆっくりと隆起したと述べており、ライエルの強い支持のもと』、一八三七年一月に『ロンドン地質学会で読み上げた。同日、哺乳類と鳥類の標本をロンドン動物学会に寄贈した。鳥類学者ジョン・グールドはすぐに、ダーウィンがクロツグミ、アトリ、フィンチの混ぜあわせだと考えていたガラパゴスの鳥たちを十二種のフィンチ類だと発表した。二月にはロンドン地理学会の会員に選ばれた。ライエルは会長演説でダーウィンの化石に関するリチャード・オーウェンの発見を発表し、斉一説を支持する種の地理的連続性を強調した』。『一八三七年三月、仕事をしやすいロンドンに移住し、科学者やチャールズ・バベッジのような学者の輪に加わった。バベッジのような学者はその都度の奇跡で生命が創造されたのではなく、むしろ生命を作る自然法則を神が用意したと考えていた。ロンドンでダーウィンは自由思想家となっていた兄エラズマスと共に暮らした。エラズマスはホイッグ党員』(Whig:英国の政党。一六八〇年頃、都市部の商工業者や中産階級を基盤に形成され、議会の権利や民権の尊重を主張、トーリー党と対立しつつ、英国議会政治を発展させた。一八三〇年代に自由党と改称)で、『作家ハリエット・マティノーと親しい友人だった。マティノーは貧しい人々が食糧供給を越えて増えることができないように行われた、ホイッグ党の救貧法改正の基礎となったトマス・マルサスのアイディアを推進した。またダーウィンの友人たちが不正確で社会秩序にとって危険だと言って退けたグラントの意見にも耳を傾けた』。『ダーウィンの調査結果を議論するために行われた最初の会合で、グールドは異なる島から集められたガラパゴスマネシツグミが亜種ではなく別の種』(スズメ目マネシツグミ科マネシツグミ属ガラパゴスマネシツグミ Mimus parvulus )だったこと、ダーウィンフィンチの『グループにミソサザイ』(スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes )『が含まれていたことを告げた。ダーウィンはどの標本をどの島から採集したか記録を付けていなかったが、フィッツロイを含む他の乗組員のメモから区別する事ができた。動物学者トーマス・ベルはガラパゴスゾウガメが島の原産であると述べた。三月中旬までにダーウィンは絶滅種と現生種の地理的分布の説明のために、「種が他の種に変わる」可能性を考え始めた。七月中旬に始まる「B」ノートでは変化について新しい考えを記している。彼はラマルクの「一つの系統がより高次な形態へと前進する」という考えを捨てた。そして生命を一つの進化樹から分岐する系統だと見なし始めた。「一つの動物が他の動物よりも高等だと言うのは不合理である」と考え』、『種の変化に関する研究を発展させると同時に、研究の泥沼に入り込んでいった。まだ航海記を書き直しており、コレクションに関する専門家のレポートの編集も行っていた。ヘンズローの協力でビーグル号航海の動物記録の大著を完成させるための一千ポンドの資金援助を政府から引き出した。ダーウィンは南アメリカの地質に関する本を通してライエルの斉一説を支持する、気の遠くなるような長い時間が存在したことを認めた。ヴィクトリア女王が即位したちょうどその日、一八三七年六月二十日に航海記を書き終えたが』、『修正のためにまだ出版できなかった。その頃』、『ダーウィンは体の不調に苦しんでいた。九月二十日に「心臓に不快な動悸」を覚えた。医者は全ての仕事を切り上げて二、三週間は田舎で療養するよう勧めた。ウェッジウッド家の親戚を訪ねるためにシュールズベリーを尋ねたが、ウェッジウッド家の人々は航海の土産話を聞きたがり』、『休む暇を与えなかった。九ヶ月年上のいとこエマ・ウェッジウッドは病床の叔母を看護していた。ジョスおじ(ジョサイア・ウェッジウッド二世)は地面に沈み込んだ燃えがらを指して、ミミズの働きであることを示唆した。十一月にロンドン地質学会でこの話を発表したが、これは土壌の生成にミミズが果たす役割を実証的に指摘した最初のケースだった』。『ウィリアム・ヒューウェルは地質学会の事務局長にダーウィンを推薦した。一度は辞退したが、一八三八年三月に引き受けた。ビーグル号の報告書の執筆と編集に苦しんでいたにもかかわらず、種の変化に関して注目に値する前進をした。プロの博物学者からはもちろん、習慣にとらわれずに』、『農民やハトの育種家などからも実際の経験談を聞く機会を逃さなかった。親戚や使用人、隣人、入植者、元船員仲間などからも情報を引き出した。最初から人類を推論の中に含めており、一八三八年三月に動物園でオランウータンが初めて公開されたとき、その子どもに似た振る舞いに注目した。六月まで何日も胃炎、頭痛、心臓の不調で苦しんだ。残りの人生の間、胃痛、嘔吐、激しい吹き出物、動悸、震えなどの症状でしばしば何もすることができなくなった。この病気の原因は当時何も知られておらず、治癒の試みは成功しなかった。現在、シャーガス病』Chagas' disease:原虫トリパノソーマ・クルージ Trypanosoma cruzi  の感染を原因とする人獣共通感染症。中南米において発生する。哺乳類吸血性である半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目トコジラミ下目サシガメ上科サシガメ科 Reduviidae のサシガメ類をベクター(媒介)とする。私はダーウィンはビーグル号の航海中に南米で捕獲したサシガメを飼育し、餌として自分の血を吸わせており、それが感染源であるとする話を読んだことがある)、『あるいはいくつかの心の病が示唆されているが、明らかになっていない。六月末にはスコットランドに地質調査のために出かけた。平行な「道」が山の中腹に三本走っていることで有名なグレン・ロイを観察した。後に、これは海岸線の痕だ、と発表したが、氷河期にせき止められてできた湖の痕だと指摘され自説を撤回することになった。この出来事は性急に結論に走ることへの戒めとなった。体調が完全に回復すると』、『七月にシュールズベリーに戻った』。『姉キャロラインとエマの兄ジョサイア三世が一八三八年に結婚すると、ダーウィンも結婚を意識し始めた。一八三八年七月に、動物の繁殖を書き留めたノートに将来の見通しについて二つの走り書きをした。結婚結婚しない。利点には次のように書いた。「永遠の伴侶、年をとってからの友人……いずれにせよ犬よりまし」。欠点については次のように書いた。「本のためのお金が減る、おそろしいほどの時間の無駄」』。『結局ダーウィンは十一月にプロポーズし、一八三九年一月に結婚した。父から戒められていたにもかかわらず』、『ダーウィンは自分の非宗教的な考えを話した。エマは受け入れたが、愛情を伝えあう手紙のやりとりで、二人の差異を共有しあう率直さをほめると同時に、自分のユニテリアン』(Unitarian:キリスト教で、三位一体説を否定し、神の唯一性を強調するグループ。従って、イエス・キリストを宗教指導者としては認めるものの、神としての超越性は否定している)『の強い信仰と夫の率直な疑念によって二人が来世で離ればなれにするかも知れないと懸念を打ち明けた。エマは信仰心が篤く』、『「いくら追求しても答えが得られないこと、人が知る必要のないことにまで必要以上に科学的探求をもちこまないでほしい」とも書いている。ダーウィンがロンドンで家を探している間にも病気は続いた。エマは「もうこれ以上悪くならないで、愛しのチャーリー、私がいっしょにいてあなたを看病できるようになるまで」と手紙を書き、休暇を取るよう訴えた。結局』、『ガウアー通りに家を見つけ、クリスマスにはその「博物館」へ引っ越した。一八三九年一月二十四日にダーウィンはロンドン王立協会の会員に選出され、五日後の一月二十九日にメアの英国国教会でユニテリアン式にアレンジされた結婚式が行われた。式が終わると二人はすぐに鉄道でロンドンへ向かった。十二月には長男ウィリアムが誕生した』。『一八三九年にはビーグル号航海の記録がフィッツロイ艦長の著作と合わせた三巻本の一冊として出版され』、『好評を博した。これは一八四三年までに全五巻の』「ビーグル号航海の動物学」( Zoology of the Voyage of H.M.S. Beagle )として『独立して出版され、その後も改題と改訂を繰り返した。続いて一八四二年から「ビーグル号航海の地質学」全三巻が出版された。『ロンドンで研究を続けているときに、トマス・マルサスの『人口論』第六版を読んで次のように述べ』ている。

   *

『一八三八年十一月、つまり私が体系的に研究を始めた十五ヶ月後に、私はたまたま人口に関するマルサスを気晴らしに読んでいた。動植物の長く継続的な観察から至る所で続く生存のための努力を理解できた。そしてその状況下では好ましい変異は保存され、好ましからぬものは破壊される傾向があることがすぐに私の心に浮かんだ。この結果、新しい種が形成されるだろう。ここで、そして私は機能する理論をついに得た』(「自伝」)

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『マルサスは人間の人口は抑制されなければ等比数列的に増加し、すぐに食糧供給を越え破局が起きると主張した。ダーウィンはすぐにこれをド・カンドルの植物の「種の交戦」や野生生物の間の生存のための努力に応用して見直し、種の数がどのようにして大まかには安定するかを説明する準備ができていた。生物が繁殖のために利用できる資源には限りがあるので、好ましい変異を持った個体はより生き延び彼らの子孫にその変異を伝える。同時に好ましくない変異は失われるだろう。この結果、新種は誕生するだろう。一八三八年九月二十八日にこの洞察を書き付け』、「くさびのようなもの」と『記述した』。「『弱い構造は押し出され、適応的な構造は自然の経済の隙間に押し込められる』」の謂いである。『翌月一杯をつかって、農民がもっともすぐれた個体を繁殖へ用いるのと比較し、マルサス的自然が「可能性」によって変異を取り上げ、その結果「新たに獲得した構造のあらゆる部分は完全に熟練しており完璧だ」と述べた。そしてこのアナロジーを自分の理論でもっとも美しい部分と考えた』。『ダーウィンは今や自然選択の理論のフレームワークを持っていた。彼の研究は畜産学から植物の広範な研究まで含んだ。種が固定されていないという証拠の発見、アイディアの細部を洗練するための調査を行った。十年以上、この研究はビーグル号航海の科学的なレポートを出版するという主要な仕事の陰で行われていた』。『一八四二年のはじめにライエルに宛てて自分の考えを伝え、ライエルは盟友が「各々の種の始まりを見る事を拒否する」と記した。五月には三年の研究を経て』、『珊瑚礁に関する研究を発表した。それから「ペンシルスケッチ」と題して理論を書き始めた。九月にはロンドンの不衛生と喧噪を避けてロンドン近郊のダウン村に引っ越した。一八四四年一月十一日にジョセフ・ダルトン・フッカーに自分の理論を「殺人を告白するようなものですが」と添えて打ち明けた。フッカーは次のように答えた。「私の考えでは、一連の異なる点の生成と、漸進的な種の変化があったのかも知れない。私はどのように変化が起こったのかあなたの考えを聞けて嬉しい。こんなに早くこの問題で安心できるとは思わなかった。」『七月までには早く死んだときに備えて「スケッチ」を二百三十ページの「エッセイ」に拡張し、もしもの時には代わりに出版するよう妻に頼んだ。十一月には匿名で出版された進化に関する著書』「創造の自然史の痕跡」( Vestiges of the Natural History of Creation )『が幅広い論争を引き起こした。この本は一般人の種の変化に対する関心を引き起こし、ベストセラーとなった。ダーウィンはその素人のような地質学と動物学の議論を一蹴したが、同時に自身の議論を慎重に見直した。一八四六年には地質学に関する三番目の本を完成させた。それから海棲無脊椎動物の研究を始めた。学生時代にロバート・グラントとともに行ったように、ビーグル号航海で収集したフジツボを解剖し分類した。美しい構造の観察を楽しみ、近縁種と構造を比較して思索した』。『一八四七年にフッカーはエッセイを読み、ダーウィンが望んだ重要な感想を書き送ったが、継続的な創造行為へのダーウィンの反対に疑問を呈し、まだ賛同しなかった。一八五一年にはもっともかわいがっていた娘のアニーが十歳で死去した。八年にわたるフジツボの研究は理論の発展を助けた。彼は相同性から、わずかに異なった体の器官が新しい環境で必要を満たすように十分機能することを発見した。またいくつかの属でオスが雌雄同体個体に寄生していることを発見し、二性の進化の中間的な段階を示していることに気付いた』。『一八四八年には父ロバートが没した。医者として成功した父をダーウィンは生涯敬愛していた。この頃のダーウィン家は父や叔父の残した財産の運用で生計を立てていた。百ポンドで中流の暮らしができた当時に、夫妻は父と叔父から九百ポンドの支援を受けていて、晩年には年八千ポンドの運用益があったと言われる。ダーウィンと同じように医者を目指し挫折した兄エラズマスものちにダウンに移住し、父の遺産で優雅な隠遁生活を送っていた。一八五〇年には世界航海から帰国したトマス・ハクスリーと知り合っている』。『一八五三年に王立協会からロイヤル・メダルを受賞し、生物学者としての名声を高めた。一八五四年に再び種の理論の研究を始め、十一月には子孫の特徴の差異が「多様化された自然の経済の位置」に適応していることで上手く説明できると気付いた』。ダーウィンは、『生物の進化は、すべての生物は変異を持ち、変異のうちの一部は親から子へ伝えられ、その変異の中には生存と繁殖に有利さをもたらす物があると考えた。そして限られた資源を生物個体同士が争い、存在し続けるための努力を繰り返すことによって起こる自然選択によって引き起こされると考えた』。また、『遺伝については』パンゲネシスシス(pangenesis)という『説を唱えて説明した。これは「ジェミュール」』(Gemmules)『という微小な粒子が体内を巡り、各器官で獲得した情報を蓄え、生殖細胞に集まり、特徴・形質が子に受け継がれ、子の体において各器官に分散することで親の特徴を伝える、という説である。ダーウィンは、ラマルクと同じように獲得形質の遺伝を支持していたのである』。『メンデルの遺伝の法則は当時まだ知られていなかった。当時は遺伝物質の融合説(遺伝を伝える物質があったとしても、それは子ができる過程で完全に融合する)が広く知られていたが、ダーウィンはメンデルが行った実験と同じように、スイートピーの交雑実験で形質が必ずしも融合するわけではないとつき止めていた。しかしフリーミング・ジェンキンが行った変異は融合するから集団中に維持されないという批判に上手く応えることができ』なかったため、生涯、『ダーウィンを悩ませた。また変異がどのように誕生するのかを説明することもできなかった。ダーウィンは当時の多くの科学者と同じく進化と発生を区別しておらず、食物や発生中の刺激によって新たな変異が生まれると考えた。この問題は後に突然変異が発見されるまで解決されなかった』。『自然選択を万能な物と見なしたウォレスはクジャクの羽やゴクラクチョウの長い尾羽など、一見生存の役に立ちそうもない性質にも適応的な意味があるのだろうと考えた。ダーウィンはその可能性を否定もしなかったが、多くの生物で雌がパートナー選びの主導権を握っていることに気づいており、生存に有利でない性質も雌の審美眼のようなもので発達することがあるのではないかと考えた。そして自然選択説とは別に性選択説を唱えた。さらに性比(多くの生物で雄と雌の比率が一対一になるが、一部の生物では偏りがあること)や性的二型の問題を初めて科学的に考察する価値があると考えた。特に性比に関しては生物進化の視点から説明できると考え、後に頻度依存選択(頻度依存淘汰、生存と繁殖可能性が自然環境に左右されるのではなく、グループ中のその性質の多寡に依存する、つまりある性質が「少数派である」ことだけで生存と繁殖に有利に働くこと)と呼ばれることになる概念を先取りしていた。しかし、これらの問題は複雑なので後世に残した方が安全だろうとのべ、明確な答えを残さなかった』。『新たな種が形成されるメカニズムを種分化と呼んだが、どのようなメカニズムでそれが起きるのかは深く追求しなかった。そのため彼の死後、自然選択だけで種分化が起きるかどうかで議論が起こった』。『一八五六年のはじめに卵と精子が種を海を越えて拡散するために海水の中で生き残れるかどうかを調べていた。フッカー』(後注する)『はますます種が固定されているという伝統的な見方を疑うようになった。しかし彼らの若い友人トマス・ハクスリーははっきりと進化に反対していた。ライエルは彼らの問題意識とは別にダーウィンの研究に興味を引かれていた。ライエルが種の始まりに関するアルフレッド・ウォレスの論文を読んだとき、ダーウィンの理論との類似に気付き、先取権を確保するためにすぐに発表するよう促した。ダーウィンは脅威と感じなかったが、促されて短い論文の執筆を開始した。困難な疑問への回答をみつけるたびに論文は拡張され、計画は『自然選択』と名付けられた「巨大な本」へと拡大した。ダーウィンはボルネオにいたウォレスを始め』、『世界中の博物学者から情報と標本を手に入れていた。アメリカの植物学者エイサ・グレイは類似した関心を抱き、ダーウィンはグレイに一八五七年九月に『自然選択』の要約を含むアイディアの詳細を書き送った。十二月にダーウィンは本が人間の起源について触れているかどうか尋ねるウォレスからの手紙を受け取った。ダーウィンは「偏見に囲まれています」とウォレスが理論を育てることを励まし、「私はあなたよりも遥かに先に進んでいます」と付け加えた』。『一八五八年六月十八日に「変異がもとの型から無限に離れていく傾向について」と題して自然選択を解説するウォレスからの小論を受け取ったとき、まだ『自然選択』は半分しか進んでいなかった。「出鼻をくじかれた」と衝撃を受けたダーウィンは、求められたとおり』、『小論をライエルに送り、ライエルには』、「『出版するよう頼まれてはいないが』、『ウォレスが望むどんな雑誌にでも発表すると答えるつもりです』」『と言い添えた。その時』、『ダーウィンの家族は猩紅熱で倒れており』、『問題に対処する余裕はなかった。結局』、『幼い子どもチャールズ・ウォーリングは死に、ダーウィンは取り乱していた。この問題はライエルとフッカーの手に委ねられた。二人はダーウィンの記述を第一部(千八百四十四年の「エッセー」からの抜粋)と第二部(一八五七年九月の植物学者グレイへの手紙)とし、ウォレスの論文を第三部とした三部構成の共同論文として一八五八年七月一日のロンドン・リンネ学会で代読した』。『ダーウィンは息子が死亡したため』、『欠席せざるをえず、ウォレスは協会員ではなく』、『かつマレー諸島への採集旅行中だった。この共同発表は、ウォレスの了解を得たものではなかったが、ウォレスを共著者として重んじると同時に、ウォレスの論文より古いダーウィンの記述を発表することによって、ダーウィンの先取権を確保することとなった』。[やぶちゃん注:以下、「『種の起源』への反響」の前半部は略す。]『ウォレスが一八五八年に送った最初の手紙では(初めてウォレスがダーウィンに手紙を送ったのは一八五六年頃と言われる)、種は変種と同じ原理で生まれるのではないか、そして地理や気候の要因が大きいのではないか、という物だった(当時の創造論では種は神が作った不変なものだが、亜種や変種は品種改良などで誕生しうるという説が強かった)。しかし同年に再び送られてきた次の手紙ではマルサスの『人口論』が反映されており』、『ダーウィンの自然選択説に近いものになっていた。しかしこの頃』、『ダーウィンは生態的地位や適応放散にまで考察が及んでいた。翌年出版された『種の起源』を読んだウォレスは「完璧な仕事で自分は遠く及ばない」と述べている』。『ダーウィンの親しい友人グレイ、フッカー、ハクスリー、ライエルでさえ様々な留保を表明したが、それでも若い次世代の博物学者たちと供に常にダーウィンを支持し続けた。ハクスリーが宗教と科学の分離を主張する一方で、グレイとライエルは和解を望んだ。ハクスリーは教育における聖職者の権威に対して好戦的に論陣を張り、科学を支配する聖職者と貴族的なアマチュアの優位を転覆しようと試み』[やぶちゃん注:以下、一部を省略した。]、『二年にわたる』それは、遂に『「保守派」を追放することに劇的に成功した』。『ダーウィンは自然選択の発見をウォレスに断りなく共同発表としたことを、手柄の横取りと受け止められることを畏れた。しかしウォレスはむしろその行為に満足し、ダーウィンを安心させた。自然選択以外は多くの点で意見を異にしていたにもかかわらず、ウォレスとダーウィンの友好的な関係は生涯続いた。しかし当事者以外でこの行為を誤解した者もおり、手柄を横取りしたという批判を避けることはできず、この形の批判は現在でも残存している。ダーウィンは後年、生活に困窮していたウォレスを助けるため、グラッドストン首相に年金下付を働きかけるなど支援を行っている』[やぶちゃん注:以下、続きは引用したウィキの「チャールズ・ダーウィン」で読まれたい。]。

「ウォレース」ウィキの「アルフレッド・ラッセル・ウォレスの冒頭概要のみを引く。アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)は、『イギリスの博物学者、生物学者、探検家、人類学者、地理学者。アマゾン川とマレー諸島を広範囲に実地探査して、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、ウォレス線を特定した。そのため時に生物地理学の父と呼ばれることもある。チャールズ・ダーウィンとは別に自身の自然選択を発見した結果、ダーウィンは理論の公表を行った。また自然選択説の共同発見者であると同時に、進化理論の発展のためにいくつか貢献をした』十九世紀の『主要な進化理論家の一人である。その中には自然選択が種分化をどのように促すかというウォレス効果と、警告色の概念が含まれる』。『心霊主義の唱道と人間の精神の非物質的な起源への関心は当時の科学界、特に他の進化論の支持者との関係を緊迫させたが、ピルトダウン人ねつ造事件の際は、それを捏造を見抜く根拠ともなった』。『イギリスの社会経済の不平等に目を向け、人間活動の環境に対する影響を考えた初期の学者の一人でもあり、講演や著作を通じて幅広く活動した。インドネシアとマレーシアにおける探検と発見の記録は』「マレー諸島」( The Malay Archipelago 1869)として出版され、十九世紀の『科学探検書としてもっとも影響力と人気がある一冊だった』。彼に就いては、『ナショナルジオグラフィック』(二〇〇八年十二月号)の特集:ダーウィンになれなかった男が詳細にして核心を突いており、お薦めである。

「フッカー」イギリスの植物学者ジョセフ・ダルトン・フッカー(Joseph Dalton Hooker 一八一七年~一九一一年)。南極・インド・シッキム地方などを調査し、多くの植物標本を収集、一八七三年から一八七八年はロンドン王立協会の会長も務めた。参照したウィキの「ジョセフ・ダルトン・フッカーの「進化論との関わり」の項には(アラビア数字を漢数字に代えた。一部、ダーウィンの引用記載と重なるが、そのまま引いた。一部、記載に不備がある箇所を操作した。下線は総てやぶちゃん)、『フッカーは南極探検航海から帰ると、自分で採集した植物標本の分類の合間にダーウィンのビーグル号航海の植物標本の整理も請け負うことになった。フッカーは出航前に一度ダーウィンと会っていたが、一八四三年末から文通で意見を交わすようになった。そしてわずか二ヶ月後の一八四四年はじめには、ダーウィンはフッカーに「殺人を告白するようなものですが、種は変化すると確信しました」と書き送っている。フッカーはおそらく科学者としてはダーウィンの理論を初めて明かされた人物である。その頃から二人は家族ぐるみで親交を深めるようになっていった。一八四七年には自然選択説の概要を受け取り、意見を求められている。フッカーは大量の生物学や地質学の資料、そしてロンドンの科学界の情報をダウン村に隠棲していたダーウィンに送っている。彼らの文通はダーウィンが理論を発展させる過程を通して続いた。後にダーウィンはフッカーを「私が共感を得つづけることができた、たった一人の人物(iving soul)」だと表現したリチャード・フリーマンは二人の関係について次のように書いた。「フッカーはチャールズ・ダーウィンのもっとも偉大な友人であり心を許せる人であった」』。『初めて自然選択説の概要を見たときには全く賛成しておらず、その後十年にわたって自然選択説の第一の批判者であった。一八五三年の著書では種は不変であると述べている』。しかし、「種の起源」と『同時期に出版された』『エッセイで』『彼は』『自然選択説への支持を表明し、科学界から認められた人物の中でダーウィンを公的に支持した最初の人物となった。科学史家の松永俊男はフッカーの転換を一八五九年の初頭と指摘している』。『一八五八年にダーウィンがアルフレッド・ラッセル・ウォレスから自然選択説を述べた論文を受け取ると、ダーウィンの長年の研究を知っていたフッカーはチャールズ・ライエルと共に、自然選択説を共同発表することを勧め、同年のロンドン・リンネ協会で欠席したダーウィンの代わりに二人の論文を代読した』。『一八六〇年六月にオックスフォード博物館で進化について歴史的な討論会が行われた。サミュエル・ウィルバーフォース主教、ベンジャミン・ブローディ、ロバート・フィッツロイはダーウィンの理論に対して反対し、トマス・ハクスリーとフッカーは擁護した。当時の多くの解説によれば、ウィルバーフォースの主張にもっとも効果的に応えたのはハクスリーではなくフッカーであった』。『フッカーは一八六八年にイギリス学術協会の会長を務めた。ノリッジで行われた会議での会長演説でフッカーはダーウィンの理論を支持した。彼はトマス・ハクスリーとも親友であ』った。『一九〇九年の『種の起源』五十周年記念講演には』、『すでに九十歳を超えているにもかかわらず』、出席、『講演を行っ』ている、とある。]

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 梅の木に猶やどり木や梅の花 芭蕉

本日  2016年 3月 9日

     貞享5年 2月 8日

はグレゴリオ暦で

    1688年 3月 9日

 

   網代民部雪堂に會ふ

梅の木に猶やどり木や梅の花

 

「笈の小文」より。同紀行では先に示した「枯芝ややや陽炎の一二寸」の後に俳文を挟んで後に掲げる「丈六に陽炎高し石の上」以下六句を挟むが、恣意的な時系列操作が成されてある。

 時日同定はいつもの、サイト「俳諧」の「笈の小文」に拠った。それによれば、本句は芭蕉と雪堂の二吟付合で、「蕉翁句集草稿」(土芳自筆・宝永五(一七〇八年)か六年頃の稿)に、

 

梅の木の猶やどり木や梅の花   芭蕉

   見るにけ高き雨の靑柳   雪堂

 

と載る由の記載がある。真蹟懐紙では前書が、

 

   網代民部息(そく)雪堂會(せつだうのくわい)

    父が風雅を添ふ

 

とある(新潮日本古典集成「芭蕉句集」に拠る)。

 網代民部雪堂は正しくは「足代」で、伊勢俳壇の重鎮足代弘員(ひろかず)。伊勢神宮外宮の三方家の御師(おんし:特定の寺社に所属し、その社寺への参詣者の案内・参拝・宿泊等の世話をする職。通常は「おし」と読むが、伊勢神宮のそれは別して「おんし」と呼んだ)。伊東洋氏の「芭蕉DB」の解説では、『彼の父弘氏(ひろうじ)は神風館と号し、談林派の俳人として当地に名を馳せた。梅の木は梅の老木で父神風館』(じんぷうかん:弘氏の俳号)『を指し、咲いた梅の花は息子雪堂を指して挨拶吟とした』ものと注されておられる。弘氏はこの五年前の天和三(一六八三)年に没している。

 この「やどり木」は所謂、ビャクダン目ビャクダン科ヤドリギ属ヤドリギ Viscum album なんどではなく(山本健吉氏は「芭蕉全句」ではそのように捉えているとしか読めないが、私は採らない)、老梅の幹から如何にも初々しい梅の小枝の伸び出でて美しく芳しい花の咲くさまを喩えて父子二代の風流への賛辞としたものと読むべきであると私は思う。

2016/03/08

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 暖簾の奥ものゆかし北の梅 芭蕉

本日  2016年 3月 8日

     貞享5年 2月 7日

はグレゴリオ暦で

    1688年 3月 8日

 

   園女(そのめ)亭

 

暖簾(のうれん)の奥ものゆかし北の梅

 

「笈日記」より。「笈の小文」には不載。真蹟懐紙では前書を「一有が妻」とする。斯波一有(しばいちゆう)は伊勢の医師で俳人、俳号は渭川で園女の夫であった。斯波園女(寛文四(一六六四)年~享保一一(一七二六)年)は伊勢山田の神官の娘。同地の医師一有に嫁し、この二年後(貞享五年は九月三十日に元禄に改元する)の元禄三(一六九〇)年になって初めて蕉門入っている(従ってこの時点では芭蕉の門弟ではないので注意)。その二年後に夫と大坂に移住した。元禄七(一六九四)年九月二十七日、園女は折から大坂を訪れていた芭蕉を自宅に招き、そこでも芭蕉は「白菊の目に立てゝ見る塵もなし」という花に譬えた園女へのオマージュを捧げている(但し、芭蕉の死因説の一つに、この時の園女邸の句会で供された茸の中毒というのがあり、当時は園女自身や門弟たちもそう信じていたとされる。私の旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉 ――本日期日限定の膽(キモ)のブログ記事――319年前の明日未明に詠まれたあの句――などを参照されたい)。

 初案は、

 

暖簾(のうれん)の奥物ふかし北の梅

 

であったとする(山本健吉氏。園女編・宝永三(一七〇六)年頃(?)の「菊のちり」に依るもの)。

「奥もの」は奥向きで「北」の方、貴人の奥方の居室の方の意である。芭蕉が通された客間から夫人の私室が暖簾越しに「垣間見」えたのである。何とも言えぬ秘そやかな恋句を感じさせる佳句ではないか。サイト「俳諧」の「笈の小文」によれば、園女は本句に、

 

   松ちりなして二月の頃  園女

 

と付けているとする。

2016/03/07

ブログ790000アクセス突破記念 梅崎春生 チョウチンアンコウについて 附マニアックやぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:『近代文学』昭和二四(一九四九)年十月号に初出、後の作品集「馬のあくび」(昭和三二(一九五七)年一月現代社刊)に所収された短い随筆である。

 底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第七巻」を用いた。

 底本の傍点「ヽ」(二ヶ所の「いぼ」にのみ附される)はブログでは太字とした。後に私のかなり迂遠でマニアックな注を附した。

 本電子化は、その私の注のマニアックさの恐るべきだらだら(本文の凡そ七倍)を以ってして、別に2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、私のブログの790000アクセス突破記念ともすることとした。【2016年3月7日 藪野直史】] 

 

   チョウチンアンコウについて 

 

 チョウチンアンコウという魚がいる。アンコウの一種である。深い海の底の真暗なところに住んでいる。真暗なところを泳いでゆく関係上、この魚は提灯(ちょうちん)を持っている。すなわち頭のさきから長い鞭(むち)のようなものが生えていて、それが光をはなつのである。暗夜に提灯を突き出しているような具合に。

 この魚の雄と雌との関係について、寺尾新博士が書いた文章をよみ、私は大層面白かった。その文章の要旨をここに書いておこうと思う。

 この提灯を持っているのは、この魚の雌なのである。提灯はもちろん自分の泳ぐ道を照らすためもあるだろうが、同時に餌となる小動物をおびきよせる手段にもなっている。雄は提灯を持たない。大きさも雌の十分の一である。なんの変ったところもない、極く平凡な、あたり前の魚である。あの提灯をぶらさげた壮大な雌魚の、亭主にあたる魚とはとても思えない。

 この雌に対して、この小さな平凡な雄が、どういう具合で亭主たる位置につくかというと、彼はただじっとその機会を待っているだけなのである。そして偶然に雌が自分に近づいてくると、彼は雌の背中であろうが、頭であろうが、腹であろうが、ところかまわずにいきなり唇で吸いつくのである。吸いついたら、それきりである。どんなことがあっても離れない。雌が泳ぐままに、ぶら下って動く。そしてここに変ったことがおこる。

 吸いつかれた雌の体の皮が、だんだん延びてきて、彼の唇と切っても切れないようにつながってしまう。こうなれば彼は独立した一匹の魚ではなくなって、雌の体の一部となってしまう。それから彼の体のなかに、さまざまの変化が起り始めるのである。

 先ず、唇をふさがれて食物をとるすべを失った彼の体の中で、役に立たなくなった消化器官が、だんだんと消えてなくなる。

 次に、独立生活のとき必要であったが、今こんな状態では必要でなくなった諸器官が追々に姿を消してゆく。

 雌にくっついて移動してゆくからには、眼などは不必要である。で、眼はすっかりなくなってしまう。

 眼がなければ、もはや脳も不必要だということになる。すなわち、脳も退化して、姿を消してしまう。

 すっかり雌の体の一部となった彼は、その血管が雌の血管とつながり、それを通じて全部雌から養われ、揚句の果て、彼は雌の体に不規則に突起したいぼのような形にまで成り下ってしまう。

 いぼにまで成り下っては、彼は自身の存在の意義を失ったようにも見えるが、ただひとつだけ器官を体の中に残しているのである。それは精巣である。精子をつくるために残留しているのだ。雌がその卵を海中に産み放すとき、ほとんど精巣だけとなった彼は、全機能を発揮して、二階から目薬をさすように、その精子を海中に放出する。深海であるから流れの動きがほとんどないので、その精子は洗い流されることもなく、雌の卵にうまくくっつくのである。 

 

 この瞬間のことを考えると、私はなにか感動を禁じ得ない。どういう感動かということは、うまく言えないけれども。

 

■やぶちゃん注

●「チョウチンアンコウ」(漢字表記「提灯鮟鱇」)は狭義には、

動物界脊索動物門脊椎動物亜門条鰭綱新鰭亜綱側棘鰭上目アンコウ目アカグツ亜目チョウチンアンコウ上科チョウチンアンコウ科チョウチンアンコウ属Himantolophus

に属する種、及び代表種(初回発見種)である、

チョウチンアンコウ Himantolophus groenlandicus Reinhardt, 1837

を指す――のであるが――実は、結論から先に言うと、

梅崎春生が単に「チョウチンアンコウ」と記すのは厳密には正しくない

のである。梅崎春生を指弾するのではないので、好意的に言い変えると、

梅崎春生の指す「チョウチンアンコウ」は広義の「提灯鮟鱇」の類の一種ではあるが、狭義の種である標準和名「チョウチンアンコウ」と同一種ではない別種である

ということである。やや面倒であるが、順を追って説明しよう。

 まず、ウィキの「チョウチンアンコウ科」を見よう。

チョウチンアンコウ科Himantolophidae はチョウチンアンコウ属(Himantolophus)の一科一属十八種で構成

されており、現在のところ、十八種が確定記載されているが、棲息域がやや深く、習性から見てもそれよりもさらに深層に新たな種が棲息する可能性が感じられ、私には恐らくはもっと増えるように思われる。『チョウチンアンコウ科の魚類はすべて深海魚で、太平洋・インド洋・大西洋など世界中の海の深海に分布する』。『背鰭の棘条が長く伸びて変化した誘引突起』(イリシウム:ラテン語の「illicio」(イリキオ:魅力によって引きつける・誘い込む)を語源とする。但し頭が大文字「Illisium」となると、トウシキミ Illicium verum ・シキミ Illicium anisatum など仏事に用いる有毒植物である被子植物門アウストロバイレヤ目マツブサ科シキミ属 Illisium を指すので注意が必要)『を持ち、先端には擬餌状体』(ぎじじょうたい/エスカ esca :本科に属する種群やアンコウ目カエルアンコウ亜目カエルアンコウ科 Antennariidae (十二属四十二種。カエルアンコウ属 Antennarius・カエルアンコウモドキ属 Antennatus・ハナオコゼ属 Histrio 等)のカエルアンコウ(旧「イザリウオ」)類などが一般に頭部に持つ誘引突起の先端部の呼称。ラテン語で「(獲物を誘(おび)き寄せるための)餌」という意)『と呼ばれる膨らみがある。擬餌状体には発光バクテリアによる共生発光器を備え、餌となる小動物をおびき寄せて捕食する。目は小さく、軟らかな薄い骨格、ゼリーのような柔らかい肉でおおわれ、表皮は薄い』。『吻(口先)が短く滑らかであることが、他のチョウチンアンコウ上科』Ceratioidea『の仲間と異なる点の一つである』。『雌雄ともに、生涯を通じて頭頂骨を欠く』。各鰭の鰭条はそれぞれ、胸鰭が十四から十八本、背鰭五から六本、臀鰭四本・尾鰭九本で、椎骨は十九個ある。『チョウチンアンコウ科の魚類は他のチョウチンアンコウ上科に属する種類と比べて大型で、』は体長が五十センチメートルほどにまで成長する一方、は非常に小さく、最大でも四センチメートルほどにしかならない。これはチョウチンアンコウ上科に共通する特徴で』、こうした同種中でがすこぶる小さなものを「矮雄(わいゆう)」と呼ぶが、『他科の矮雄では』に『付着して一体化する場合もあるが、チョウチンアンコウ科の』は『このような寄生を行わず、自由生活を送る』(下線やぶちゃん。以下、総て同じ)とあるのである。

 即ち、狭義の真正の和名「チョウチンアンコウ」の(矮雄)はに寄生しない

のである。

 因みに、ウィキの「チョウチンアンコウ」も見てみよう。『丸みを帯びた体型と、餌を誘うために用いられる頭部の誘引突起(イリシウム)を特徴とし、深海魚として比較的よく知られた存在である』。『チョウチンアンコウは、おもに大西洋の深海に分布し、カリブ海などの熱帯域からグリーンランド・アイスランドのような極圏付近までの広範囲に生息する』。『太平洋・インド洋からの記録もあるものの、その数は非常に少ない』。『生息水深ははっきりしていないが、熱帯・亜熱帯域の中層』(特に水深二百メートルから八百メートル)『から捕獲されることが多い。一方で、大型の個体はより北方の海域から底引き網によって、または漂着個体として得られる傾向がある』。凡そ百六十種が『含まれるチョウチンアンコウ類の中で、最初』(一八三七年)に『記載された種が本種で』、その基準標本は一八三三年に『グリーンランドの海岸に打ち上げられた漂着個体であるが、海鳥による食害を受けたため保存状態は非常に悪く、現存しているのは誘引突起の一部のみである』。以降、二〇〇九年までに百四十三個体『(変態後の雌)が標本として記録されているが、これは科全体について得られた全標本のうちの三分の一を超える数であり、チョウチンアンコウ科の中で最もよく研究された種となっている』。昭和四二(一九六七)年二月二十二日夕刻に鎌倉の坂下海岸に生きたまま(ここは荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」(平凡社一九八九年刊)の「深海魚」の「チョウチンアンコウの飼育記録」で補填した)『打ち上げられたチョウチンアンコウが』「江の島水族館」(旧称。名称が旧は平仮名の「の」である。改築後のそれは後掲されるように「新」が冠されてしかも「江ノ島」とカタカナの「ノ」に変わっているので注意)で八日間、『飼育観察された際に、誘引突起から発光液を噴出する様子が世界で初めて観察された。一回に噴出された発光液は、海水中において、魚体とほぼ同等の範囲に広がる程度の量であったという。また、その発光は、海水中に噴出された後には徐々に弱まり、ついには消光したと報じられている』。『発光液の放出には、獲物を捕食する際に相手の目を眩ますなどの効果があるのではないかと推定されている』。上記の鎌倉で捕獲された個体のその『死後、その主発光器内部から得た組織を分離源として行われた培養試験において、発光バクテリアが分離・培養されていないところから、本種の発光は、自身で生産した発光物質によるものであり、発光バクテリアの共生によるものではないとみられている』。『なお、上記の個体は死後に液浸標本とされ、現在では』「新江ノ島水族館」『で展示されている』。『チョウチンアンコウは丸みを帯びた体型をしており、体表は小さないぼ状突起によって覆われる』。体色は灰色乃至黒褐色で、これまでに得られたの体長は三・二センチメートルから四十六・五センチメートルの有意に異なる範囲内にある(幼生個体と成個体或いは長生個体の差と考えておくが、寿命自体が不明であるので確言は出来ない)。鰭条数はそれぞれ背鰭が五本、臀鰭が四本で、胸鰭は十四本から十八本で、誘引突起はその背鰭の『第一棘が変形したもので』、本チョウチンアンコウ科の場合、『その長さは体長の半分程度であることが多い』。『誘引突起の先端には膨隆した擬餌状体(エスカ)と、そこから分岐した』十本の皮弁を持つ。『擬餌状体の形態と、体長と比較した皮弁の長さの割合が、チョウチンアンコウ科の他の仲間から本種を識別するための重要な形質となっている。太平洋を主な生息域とする』Himantolophus sagamiusPacific  footballfish:一部の記載ではこれに「チョウチンアンコウ」の和名を附すものがあるが、これは頗るよろしくない)とは『特に形態が類似しているため、小型の個体では区別が難しい』(以下に注意!)。

よりも『極端に小さい矮雄(わいゆう)であるが、体長は』四センチメートルほどあり、への『寄生をしない自由生活性の矮雄としては最も大きく成長する』。

但し、『チョウチンアンコウ科に属する種の』固体は『形態学的な特徴に乏しく、これまでに本種の』として『確実に同定された個体は記録されていない』。これらの個体群は『いくつかのグループとして分類されており、本種は』「Himantolophus
brevirostris
Group」に含まれるとみられている、とあるので和名の共有記載はそれを勝手に敷衍してしまったものであろう(私は、本種の生活史内での性決定に未だ我々の認知しないシステムがあるか、或いは何らかの性転換現象があるようにも疑っている。以下のチョウチンアンコウ上科についての引用も参照のこと)。

 以上によって、梅崎春生の言っている「チョウチンアンコウ」は狭義の「チョウチナンコウ」ではないという私の謂いが判って戴けたものと存ずる。

では、その正体は何か?

 その疑問は、以下に示すウィキの「アンコウ目」の「チョウチンアンコウ上科 Ceratioidea 」の解説で氷解する。この、

チョウチンアンコウ上科(チョウチンアンコウ科ではないことに注意!)は十一科三十五属百五十八種で構成

され、殆どの『科は地中海を除く全世界の深海に分布する。フサアンコウ上科・アカグツ上科を起源とし、深海中層の生態系において重要な位置を占める一群である。ほとんどの種類は体長』八センチメートルに『満たない小型の魚類で、外洋の深海』(特に水深一千メートルから三千メートルの漸深層)を『漂泳し、誘引突起を利用して餌を捕食する。誘引突起を持つのは基本的に』だけで、『発光バクテリアによる共生発光を行うなど機能の発達が著しい。本上科に共通の形態学的特徴として、腹鰭・鱗を持たないこと、前頭骨が癒合しないことなどがある』(さても以下が重要な箇所!)。

『体格上の性的二形が顕著で』、の三分の一から十三分の一程度の『大きさしかない。このように』と比較して極端に小さいを『矮雄(わいゆう)と呼ぶ。ミツクリエナガチョウチンアンコウ科など少なくとも』四科のは、に『寄生して生活することが知られている。これらの寄生性の』は『種に特異的なフェロモンを介して』を発見して、『腹部に噛み付いて一体化する』。の体にはの『血管が伸びて栄養供給を完全に依存するようになり、生殖以外の機能は退化する』。

『変態を行う前の幼魚(浅海で生活することが多い)はしばしば親魚とまったく異なる形態をとり、同一種でありながら』・幼魚が『別の種類として認識されていた例もある』。『捕獲されることが稀な種類が多く』、雄・雌・稚魚の『いずれかしか見つかっていないもの、ごく少数の標本に基づ』いてしか記載されていない種類もある、とある。そこで同ウィキの以下の科タクサの記載を調べてみると、以下の記述を見出せる(番号は私が打った)。

   *

ヒレナガチョウチンアンコウ科 Caulophrynidae (二属五種)

に『寄生するが、性成熟は寄生の有無と関係なく達成される』。)

キバアンコウ科 Neoceratiidaeキバアンコウ Neoceratias spinifer (一属一種)

は寄生性で、『それぞれが性成熟に到達するためには』、へ『付着することが必須条件であると考えられている。同様の性質はミツクリエナガチョウチンアンコウ科・オニアンコウ科にも認められる』。)

ラクダアンコウ科 Oneirodidae (十六属六十二種)

(『チョウチンアンコウ上科の中で最大のグループとなっている。一部の属は寄生性の』を持つ。)

ミツクリエナガチョウチンアンコウ科 Ceratiidae (二属四種)

『チョウチンアンコウ上科の中では最も大きくなるグループで、ビワアンコウ(Ceratias holboelli)は最大』一・二メートルにまで『成長する』。は『寄生性で、性成熟には』への『寄生が必須である』。

オニアンコウ科 Linophrynidae (五属二十三種)

に『寄生し、寄生後に両性の性成熟が起こる』。)

   *

 この内、のラクダアンコウ科は『一部の属』とあるので、先の記載者の言うところのに『寄生して生活することが知られている』四科とは①②④⑤の科であることが判明する。

 そこで更に考えてみよう。

 この中で梅崎春生が最もポイントとするのは、が完全寄生性であって性成熟にはへの寄生が必須であることと、性的二形の個体の大きさが烈しく異なる(が異様に小さい)点である。

即ち、

より有意に遙かに大きくなくてはならず、必ずに寄生する種でないといけない

のだ。とすれば、

ここで梅崎春生が言うところの「チョウチンアンコウ」とは、実はが『寄生性で、性成熟には』への『寄生が必須である』ところの、しかも『チョウチンアンコウ上科の中では最も大きくなるグループで』ある(性的二形の個体サイズが激しく異なる)ところの、ミツクリエナガチョウチンアンコウ科 Ceratiidae (二属四種)の一種と考えるのが最も自然である

と私は思う、いや、断言したいのである。因みに、ウィキの「ヒレナガチョウチンアンコウ科」を見ると、『性成熟後の雌雄の体格は著しい性的二形を示し』、よりも『極端に小さい矮雄で』、の体に食いついて一体化し、寄生生活を送るようになる』とあるものの、『雄に寄生されていない雌の標本の多くが、よく成熟した卵巣を持つことから、少なくとも雌の性成熟に雌雄の結合は必要ないと考えられている』とある。また、リンク先の図を見て戴くと分かるが、和名の通り、背鰭と臀鰭の鰭条が我々のイメージする一般的な「提灯鮟鱇」なるものに比して有意に長く、私などは最初に「これ、ちゃうで!」と感覚的には言いたくなってしまうフォルムである。また、キバアンコウ科 Neoceratiidae(ネオケラティス科)は、へ『付着することが必須条件であると考えられている』と記載が不確かであることと、画像を検索して見ると、これがまた名前通りの、ホラー映画のジェイソンみたように異様に上下の歯が長くまばらに出て如何にも「ヘン!」、しかも体型が妙にスマートでこれも「アンコウや、ない!」と叫びたくなるお姿なんである。

 したがってヒレナガチョウチンアンコウ科とキバアンコウ科は私は「ゼッタイ! パス!」なんである。

 但し、最後のオニアンコウ類は、ウィキの「オニアンコウ科」を見ると、如何にも「提灯鮟鱇」らしい形であること、また、『雌雄の体格は著しい性的二形を示し』、よりも極端に小さい。『Acentrophryne 属を除く』四属は『比較的豊富な雌雄の標本が存在し』、は『寄生性であることがわかっている』。『一方、Acentrophryne 属の』個体は『いまだに得られておらず、寄生性かどうかも確かめられていない』。変態後のは『餌を一切取らず、よく発達した眼球と嗅覚器を利用して』を探し、発見するや、『体に食いつき、以降は』と『一体化した寄生生活を送るようになる。オニアンコウ属の』は一匹の雌に対して一匹のみしか『付着しない一方、他の属では複数の雄が同一の雌に寄生する例がしばしば見られる』(以下に引用するミツクリエナガチョウチンアンコウのケースと比較されたい)。『付着部位は Borophryne 属・オニアンコウ属ではほぼ腹部に限られ』、殆どのは『前方を向き、逆さまの状態となっている』。『これとは対照的に、Haplophryne 属・Photocorynus 属では寄生する場所や』の『体勢は定まっておらず、眼の真上や背部、あるいは擬餌状体に付着していた例も知られている』。『自由生活期の』の『精巣は例外なく未発達で、成熟した卵巣をもつ』には常に寄生したの付着が見られる『ことから、雌雄の結合は互いの性成熟を達成するための必要条件とみなされている』。『Photocorynus 属の』一種Photocorynus spiniceps)の或る個体に付着した寄生の体長は僅かに六・二ミリメートルで、『性成熟に達した脊椎動物として最小の例の一つと考えられている』とあって、彼らは「梅崎さんが言ってるのは僕たちです!」と手や鰭ならぬイリシウムを振りそうなので、

オニアンコウ科オニアンコウ属 LinophryneBorophryne 属・Haplophryne 属・Photocorynus 属も梅崎春生の言う「チョウチンアンコウ」の候補

として残しおくこととはする。

 さても。而して大本命の「ミツクリエナガチョウチンアンコウ」である。ウィキの「ミツクリエナガチョウチンアンコウ科」から引く。因みに、本和名は「箕作柄長鮟鱇」で東京帝国大学理科大学で日本人として最初の動物学教授となった生物学者箕作佳吉への献名として命名された(本種ミツクリエナガチョウチンアンコウ Cryptopsaras couesiiのシノニムにも Ceratias mitsukurii がある)は、本種のシノニムである(いい加減、面倒なので以下はアラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『いわゆるチョウチンアンコウ類として知られる深海魚の一群で、ビワアンコウ・ミツクリエナガチョウチンアンコウなど二属四種が記載される』。『ミツクリエナガチョウチンアンコウ科の魚類は太平洋・インド洋・大西洋など、世界中の海の深海に幅広く分布する』。『海底から離れた中層を漂って生活する、漂泳性深海魚のグループである。ビワアンコウ属の一種(Ceratias tentaculatus)は主に南極海とその周辺海域における水深六五〇~一五〇〇メートルの範囲に分布し、残る三種は三大洋すべての深海に生息する汎存種となっている。ビワアンコウ Ceratias holboelli は水深四〇〇~二〇〇〇メートル、エナシビワアンコウ Ceratias uranoscopus は五〇〇~一〇〇〇メートル、ミツクリエナガチョウチンアンコウ Cryptopsaras couesii は五〇〇~一二五〇メートルからの採集例が多い』。『本科魚類はチョウチンアンコウ類としては最も大きく成長し、最大種のビワアンコウは全長七七~一二〇センチメートルに達する。雌雄の体格は著しい性的二形を示し、よりも極端に小さい矮雄で』、『変態後のは餌を一切とらなくなり、大きな球状の眼を利用してを探す。を発見した雄は鉤状の歯を使って体に食いつき、一体化して寄生生活を送る。の結合は、互いの性成熟を達成するための必要条件となっている』。『一匹のに寄生するは』概ね、『一匹だが複数の場合もあり、最大で八匹』もの『雄が付着した個体が知られている。付着部位はほぼ常に腹部で、寄生雄の多くが前方を向いていることから、雌の後方から接近しているとみられている』。『ミツクリエナガチョウチンアンコウ科の仲間は左右に平たく、側扁した細長い体型をもつ。一般にチョウチンアンコウ上科には体長十センチメートル未満の小型魚が多いが、本科魚類はほとんどが全長数十センチメートル程度にまで成長し、ビワアンコウは一・二メートルに達する。口は斜め上向きでほとんど垂直につくこと、前上顎骨によく発達した突起をもつことが他科との容易な鑑別点となっている』。同じチョウチンアンコウ上科でも、一属一種のケントロプリュネー科 Centrophrynidae と『多くの形態学的共通点を有し、両者は近い関係にあると考えられている。全身を皮膚が変形した突起によって覆われること、誘引突起は前頭骨から起始し吻の前に突き出ること、蝶形骨・方形骨・角関節骨および前鰓蓋骨のトゲを欠くことは二科に共通する特徴である』。『本科魚類の重要な特徴として、背鰭の二~三鰭条が変形し、肉質の突起(caruncle)として存在することが挙げられる。背鰭第一棘条は卵形の擬餌状体を備えた誘引突起として成長し、誘引突起を支える担鰭骨は非常に細長く、頭蓋骨背部のほぼ全長に及ぶ。背鰭第二棘条は仔魚および稚魚の時点では発光器官を有しているが、成長とともに退縮し、成魚では皮膚に埋もれてしまう』。『背鰭および臀鰭の軟条は四~五本で、多くの場合四本である。胸鰭は十五~十九』本の『軟条で構成される。尾鰭の鰭条は八~九本で』、そのうち、『四本は分枝し、下位の第九鰭条は痕跡的となる。頭頂骨は大きい』。『チョウチンアンコウ類の矮雄は一般に眼が小さく、その代わりによく発達した嗅覚器官をもつ場合が多いが、ミツクリエナガチョウチンアンコウ科のは大きなボール状の眼球をもつ一方、嗅覚器は微小である。吻の先端には担鰭骨と接続する一対の大きな歯を備え、に付着する際に用いられる。前上顎骨は退縮し、顎の歯を欠く。自由生活期のの皮膚は滑らかで色素をもたないが、寄生生活に入ると多数の突起が現れ、一様に黒色』に変ずる。『自由生活期のは科全体で少なくとも百七十五点の標本が存在し、いずれも全長は二センチメートルに達しない。に付着した寄生雄は八十一例が知られ、そのサイズは〇・八~十四センチメートルの範囲である『』(以下、「仔魚」の項があるが、省略する。)『ミツクリエナガチョウチンアンコウ科にはNelson2006)の体系において二属四種が記載される。含まれる二属(ビワアンコウ属・ミツクリエナガチョウチンアンコウ属)はいずれもチョウチンアンコウ類を代表するグループの一つとなっており、変態後の雌の標本はそれぞれ少なくとも四百四十点・九百八十点に及ぶ数が知られている』。以下、代表種は、

 ビワアンコウ属 Ceratias

(『誘引突起は長く、擬餌状体は比較的小さい。背部の肉質突起は二つで、大型の個体では退縮傾向にある。下鰓蓋骨のトゲを欠く。尾鰭の九本目の鰭条は痕跡的。属名の由来は、ギリシア語の「keraskeratos(角)」』に由来する。)

   エナシビワアンコウ Ceratias uranoscopus
   ビワアンコウ Ceratias holboelli
                 Ceratias tentaculatus

ミツクリエナガチョウチンアンコウ属 Cryptopsaras

(『誘引突起は極端に短く、「釣竿」のほとんどが擬餌状体の構造で覆われる。肉質の突起は三つあり、大型個体でも明瞭。下鰓蓋骨に前向きのトゲをもつ。尾鰭の第九鰭条を欠く。属名の由来は、ギリシア語の「kryptos(秘密の/隠された)」と「psaras(漁師)」』に由来する。)

ミツクリエナガチョウチンアンコウ Cryptopsaras couesii 
 
である。

 さて、ウィキ嫌いの似非アカデミスト連のために、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」(平凡社一九八九年刊)の「深海魚」の「チョウチンアンコウ」の項をも引いておこう(しかし、ウィキ嫌いの非博物学的輩は同時にほぼ荒俣氏も嫌いだろうなぁ)。なお、ピリオド・コンマを句読点に、アラビア数字を漢数字に、記号の一部をカタカナに変えさせて戴いた。

   《引用開始》

【チョウチンアンコウ】一八三七年、J.C.ラインハルトがグリーンランドにおいてチョウチンアンコウ Himantolophus
groenlandicus
 
[やぶちゃん注:真正狭義の「チョウチンアンコウ」のこと。]を観察してから、この魚は世界の注目を集め、チャレンジャー号探検航海、ダーナ号探検航海(一九二〇-二一)などの深海調査の結果、多くの種が発見されるにいたった。たとえばW.ビービは一九三四年に、二本のアンテナをもち、レモン色の光を放つチョウチンアンコウを観察したと報告している。

 いっぼう、一九二二年B.セムンドソンはチョウチンアンコウ[やぶちゃん注:これはチョウチンアンコウ上科 Ceratioidea の先に示した四科の孰れかで、以下最後まで狭義の「チョウチンアンコウ」ではないことに注意。荒俣氏は以下で『ある種の』広義の『チョウチンアンコウの』上科に含まれる『なかま』と述べられており、間違いではない。]の大きな雌の体に幼魚が付着している標本を採集したと報告した。一九二六年になって、この幼魚と思われていたものはじつは雄であることが、C.T.レーガンによって発表された。

 実際、ある種のチョウチンアンコウのなかまはきわめて特異な繁殖戦略をもつ。雄が雌に寄生し、ほとんど自家受精に近い生殖を行なうのだ。すなわち、チョウテンアンコウ類は深海で産卵受精すると、その後卵は海上まで浮かび上がる.約二ミリメートルの大きさの仔魚が孵化し、二か月間一〇〇~二〇〇メートルの層で生活する(成長にしたがって深みに移動)。その後急速に変態し、二次性徴がはっきりとする。ビワアンコウ[やぶちゃん注:ミツクリエナガチョウチンアンコウ科ビワアンコウ Ceratias holboelli。]の場合、変態は水深一〇〇〇メートルの層で行なわれる。変態後は雌のみが採食し、雄はペンチ状の顎をもつものの、小さな食物でさえ食べることはできない。雄は、仔魚期に貯えた栄養がゼラチン状になって体のまわりを包んでいるが、これがなくならないうちに雌に出会えないと死ぬしかない。雌に出会うと雄は雌の皮膚のどこにでも咬みつき、両者の体は癒合(ゆごう)する。このとき雄の精巣はまだ未発達。その後、雄は器官系のほとんどを失い、精巣を包んだ袋だけの存在となる。その精巣は雌の指令がないかぎり発達しない。雄は、胎盤のような組織を通じて雌の血液に含まれる栄養を吸収しながら生きるのである。こうして雌は雄を体表に付着させることによって、〈自家受精〉する雌雄合体へと発達するのである。クロアンコウ[やぶちゃん注:クロアンコウ科クロアンコウ属 Melanocetus。一属五種。]などはこのような寄生の形態をとらないが、生殖のときはやはりペンチ状の顎で雌の体に喫みつき、受精効率を高める。

 ところで、チョウテンアンコウの雄はどのようにして雌を発見するのだろうか。深海魚はハダカイワシ[やぶちゃん注:条鰭綱ハダカイワシ目ハダカイワシ科 Myctophidae。因みに、本魚群は一般に鱗が剝がれ易く、網などで深海から捕獲された際には、鱗が剥がれ落ちて、ない状態になっているために「裸鰯」と呼称されるのであって、始めっから裸なのではない。]やメルルーサ[やぶちゃん注:条鰭綱タラ目メルルーサ科 Merlucciidae の深海魚、或いは同科の Merluccius capensis を指す。和名は本種などを指すスペイン語の「Merluza」からで、英語では「ヘイク」(Hake)と呼ぶ。]などの一部の種を除いて、群れをなすことがない。というより、深海のようにエネルギー源が乏しい世界では、群れをなすほど個体を増やせないのである。したがって雌雄がめぐりあうこともたやすいことではない。ブラウアーの採集したチョウチンアンコウは、嗅覚器官が発達していた。これより雌は雄が感応するようフェロモンのような分泌物を出していると考えられる[やぶちゃん注:例外が実はこのが寄生するミツクリエナガチョウチンアンコウで、先に引用した通り、確かに『チョウチンアンコウ類の矮雄は一般に眼が小さく、その代わりによく発達した嗅覚器官をもつ場合が多いが、ミツクリエナガチョウチンアンコウ科のは大きなボール状の眼球をもつ一方、嗅覚器は微小である』とある。]。また、雄は発達した目をもつものも多いことから、雌の擬似餌状の突起が雄に対して灯台の役割を果たすこともあると考えられる。

 こうしたチョウチンアンコウの生態は、深海という劣悪な環境のなかで種として生き残るための自然の知恵といえる。生物が種を保存するためには、ひと組のペアをつくるのに原則的には雌雄が一体ずつあらわれる。しかし、深海においてはエネルギーのむだづかいが個体、ひいては種全体の命とりとなる。そこで徹底的に効率性が求められた結果、一体で種の保存をしてしまおうという傾向があらわれた。つまり、産卵という多大なエネルギーを費す雌だけが大きくなり、雄は精巣だけを発達させる雌の寄生物となったのだ。雌雄両方を平等に大きくしなくてすむぶん、種全体のエネルギーが効率よく使われるのである。小松左京のSFにアダムの商という、未来の人間社会で男性はペニスだけの存在になる話があるが、チョウチンアンコウの世界ではそれがいち早く実現しているのである。

   《引用終了》

 なお、以上のウィキペディアの生物学的記載でも「ミツクリエナガチョウチンアンコウ」を普通に広義に「チョウチンアンコウ」類の一種と呼称し、荒俣氏も同様に記述していることから見ても、作家梅崎春生が「チョウチンアンコウ」と記述しても、これ、何らの瑕疵には当たらぬことは自明である。

 ウィキ嫌いアラマタ嫌いの雁字搦めの象牙の塔好きのために最後に、「独立行政法人 水産総合研究センター 開発調査センター」公式サイト内の「南半球の魚図鑑」の、リンクを張っといてやろう。

ミツクリエナガチョウチンアンコウ(Triplewart seadevil,“mitsukuri-enaga-chouchin-ankou”Cryptopsaras couesii Gill, 1883

 何だっていいじゃねえか、なんどとほざく連中の中には恐らく――どうせ、食ってる「鮟鱇」と同んなじじゃあねえか――なんどと勘違いしてる救い難い阿呆もあろう。以上のチョウチナンコウの捕獲標本数の少なさをよく、見ぃな! 本邦で食っている奴はな、アンコウ目 Lophiiformes でも科のレベルで違う、

アンコウ科 Lophiidae のアンコウ属アンコウ(クツアンコウ)Lophiomus setigerus

や、

キアンコウ属キアンコウ(ホンアンコウ)Lophius litulon

だぜ! そういう、いい加減な手合いに限ってだな、深海魚のワックス(高級脂肪酸)たっぷり、ビタミンAたっぷりの魚肉や肝臓を、知らずに「うまうま」などと恍惚に食って、これまた、死ぬほど腹を下したり、全身の皮膚がズル剥けになったりするんだってえんだ! 覚えときなぃ!

●「寺尾新」(てらお あらた 明治二〇(一八八七)年~昭和四四(一九六九)年)は動物学者。東京生まれ。明治四五(一九一二)年に東京帝国大学理科大学動物学科を卒業、昭和四(一九二九)年に理学博士。農林省水産講習所教授・民族科学研究所研究員・宮崎大学教授・同大学図書館長・宮崎県南部海区漁業調整委員などを歴任し、この間にジョンズ・ホプキンス大学に留学、生物測定学を学んだ。水産動物の増殖と加工などの研究で知られ、著書も「優生学と生物測定学」「科学魂」「海・魚・人」「海の科学随記」「生物と人世」「生物学」「動物はささやく」など多数(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。私は不学にして寺尾氏の書籍は一冊も読んだことがないので、本記載元が何であるかは確認出来ない。識者の御教授を乞うものである。

【2018年3月31日追記:私の偏愛するサイト「カラパイア」で
メスとオスの大きさのクセがすごい!世界初、チョウチンアンコウの交尾の瞬間をとらえた映像」がアップされた。必見!!!】]

北條九代記 卷第八 武藏守經時卒去 付 越後守光叛逆流刑

       ○武藏守經時卒去 付 越後守光叛逆流刑

同四年三月二十三日、武藏守經時、病氣、既に危急に及ぶ。去年の冬より、黃疽と云ふ病に罹りて、惱みまうされしかば、諸寺諸社の祈禱・醫療の治術(ぢじゆつ)、樣々なりといヘども、更に效(しるし)を奏する事なし。今は遍身、さながら黄(き)になりて、氣息喘急(きそくぜんきふ)、いとゞ苦しげに見え給ひ、傍(そば)に候ずる人迄も、面の色、黃になりて、中々御命は保つべしとも覺えられず。是(これ)に依(よつ)て、鎌倉の執權をば、今日、舍弟左近〔の〕大夫將監時賴朝臣に讓り申されけり。同四月十九日、經時出家して、法名をば、安樂とぞ號しける。戒師は大藏卿法印良信とぞ聞えし。閏四月一日、入道正五位〔の〕下行(ぎやう)武藏守平朝臣北條經時、卒去あり。年三十三歳なり。翌日、佐々目(さゝめ)山の麓に葬送す。去ぬる仁治三年より、僅(わづか)に五年のうち、鎌倉の執權たり。今、幾程もなく逝去あり。高(たかき)も卑(いやしき)も、歎く色を含みて、打潛(うちひそま)りて物淋し。この由、京都に聞えしかば、六波羅伺候(しこう)の輩(ともがら)、使者の往來、數を知らず。同五月二十四日、鎌倉中俄に物騷しく、町小路の家々、資財雑具(ざふぐ)を持運(もちはこ)び、東西に走り、南北に吟(さまよ)ひ、上を下にもて返す。澁谷(しぶや)の一族等(ら)、左近將監時賴の館(たち)の面中(おもてなか)下馬の橋を警固して、人の往還を留めたり。太宰少貮は、御用に參らんとて、五十餘騎にて行懸(ゆきかゝ)る所に、澁谷が家子金刺(かなざしの)五郎、押留(おしとゞ)めて申しけるは、「御所へ参り給ふ上は、この所をば通し申すまじ。北條殿へ御參(まゐり)の事にて候らはば兎角に及ばず候」と云ふ。少貮聞きて、「子細こそあるらめ。將軍家へ參るべき者を、爰に押留め申されんには、打破りても通り候はん」とて色めき立ちて見えしかば、愈(いよいよ)物騷(ぶつさう)にて、諸軍、峙(そばだ)ちて甲冑を著(ちやく)し、旗を差上げ、北條家に馳せ參ずる者、雲霞の如くなりければ、少貮、是を見て、叶ふまじくや思ひけん、引返し道を替へて、將軍家にぞ奉りける。後に聞えけるは、前〔の〕武藏守泰時の舍弟、名越(なごや)遠江守朝時(ともとき)入道生西(しやうさい)は、去年四月六日に卒(そつ)せらる。行年五十三。この人は若年の時より、文武の才ありて、有道(いうだう)を行はれ、國政(こくせい)の柱とも賴まれけるに、未だ半白(はんぱく)にして、逝去せられ侍りければ、公私の諸人、上下、惜(をし)まぬはなかりけり。その嫡子、越後守光時は、父の遺跡(ゆゐせき)を繼ぎながら、前(さきの)將軍賴經に近習し、時賴を討つて執權を奪ひ、威勢を天下に振はんと企てたり。この事、忽に露顯しけり。左近將監時賴は、用心彌(いよいよ)嚴しく、甲冑の軍士數千騎集(あつま)り、館の四面を警固しけり。翌日、卯刻計(ばかり)に、但馬〔の〕前司定員(さだかず)は、御所の使者とて、參られしを、諏訪(すはの)兵衞入道、尾藤太(びとうだ)平(へいの)三郎左衞門尉等に仰せて、館の内には入れられず。定員、是非なく歸り參る。かゝる所に、越後守光時は、將軍家の御前にありけるを、この曉方(あけがた)、家人(けにん)參りて喚び出し、白地(あからさま)に退出し、逆心(ぎやくしん)を起しけれども、一族兄弟、一人も同意するものなければ、力及ばず、髻(もとゞり)を切りて、髮(たぶさ)を時賴の方に送る。但馬前司定員も、光時に一味しければ、身の科(とが)を遁れん爲(ため)、俄に出家致しけり。秋田(あいだの)城〔の〕介義景に預けられ、前司定員が子息兵衞〔の〕大夫定範(さだのり)共に、一向(ひたすら)、囚人(めしうど)の如くなり。同六月十三日、入道越後守光時、法名蓮智とぞ號しける。越後の國務所帶を沒収(もつしゆ)し、その身をば、伊豆國に流し遣し、そのほか餘黨の輩(ともがら)、皆、流罪にぞ行はれける。光時が舍弟、時章(ときあきら)は、初より野心なき事と諸人も存知する上は、名越(なごや)の家を相續す。時賴、是よりして、威勢高く耀きて、天下の權(けん)を執り治めて、賴嗣を扶翼致されけり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」寛元四(一二四六)年三月二十一日・二十三日、四月十九日、閏四月一日・二日、五月二十四日・二十五日、六月十三日などに基づく。

「同四年三月二十三日、武藏守經時、病氣、既に危急に及ぶ。去年の冬より、黃疽と云ふ病に罹りて、惱みまうされしか」第四代執権北条経時は慢性の肝疾患らしきものを患っていたようで、「去年の冬」よりも前、前年寛元三(一二四五)年五月二十九日の「吾妻鏡」に既に「武州有御不例。令患黃疸給」(武州、御不例有り。黄疸を患はしめ給ふ)と出、九月二十七日には「武州不例再發給之處。今日酉尅俄絶入。鎌倉中驚騷也。」(武州の不例、再發し給ふの處、今日、酉の尅、俄かに絶へ入る。鎌倉中、驚騷(きやうさう)なり。)とあって、一時的な意識喪失さえ起こしている。ここに出る「傍に候ずる人迄も、面の色、黃になりて」というのは筆者の誇張表現と読みめるが(「吾妻鏡」にはない)、しかしこれを事実と仮定すると今一つ、黄疸症状を示す感染症(例えばA型肝炎)なども疑い得る。

「舍弟左近大夫將監時賴」経時は時頼の同母兄である。執権移譲時、時頼は満二十歳であった。

「佐々目山の麓に葬送す」「新編鎌倉志卷之五」の「御所入」の項に、

   *

御所入(ごしよのいり) 此の谷(やつ)の内にあり。古老の云、平の經時の住せし所也と。按ずるに、【光明寺記主の傳】に、平の經時、佐介が谷に隠居し、專修念佛して卒(そつ)すとあり。經時の墓、佐々目の山の麓にあり。此の所より遠からず。

   *

付図(リンク先の「佐介谷」の前に掲げてある)を見る限りでは、現在の銭洗弁天への登り道の下方南の平地であるが、「御所入」とは如何にも奇妙な地名である。通常「御所」は大臣・将軍、親王以上の皇族の居所や本人を指すが、そのような人物が当地に居を構えた記録はない。「鎌倉攬勝考卷之一」の「地名」にある「御所入」の項では、先の「佐介谷」に引用されている北条時盛の屋敷をこことし、寛元四年に、ここに前将軍頼経が入御したことと、更にやはり同所「入道勝圓」の屋敷に文永三年七月、宗尊親王が渡御されたという「吾妻鏡」の記事を引き合いに出して「御所入」を説明しているのだが、どうも説得力に欠くように思われる。これでは市内には無数の「御所入」が出現することになろう。東京堂出版の「鎌倉事典」の「御所入」では、『常盤にある「殿ノ入」「御所之内」などという地名は、執権北条政村邸、浄明寺の「御所ノ内」は足利氏に由来するものであろう』とし、『鎌倉には、ほかにも御所谷などの地名が残されていて、いずれもが有力武将の屋敷跡とされている』と記すのだが、やはり私には目から鱗とはいかない。もっと説得力のある見解を求む。「佐々目の山の麓」とは、甘繩神明社の東の尾根を隔てた佐々目ヶ谷の奥の峰を言うか。そこならば確かにこの御所入からは一キロもなく、遠くない。また、そこに北条経時の墳墓があったことは、「鎌倉攬勝考卷之九」の「北條武藏守平經時墳墓」の記載に明らかである。以下に引用する。

    *

經時は、兼て別業を佐々目谷へ構へ、寛元四年四月十九日、病に依て職を辭し、執權を弟時賴に讓り、落髮し、同年閏四月朔日に卒す。佐々目山の麓に葬り、後此所に梵字を營み、長樂寺と號すとあり。今は其墳墓しれず。

    *

第四代執権北条経時の墓は現在、彼が開基である海岸に近い光明寺のやや高台にある。ところが「新編鎌倉志卷之七」の光明寺の項には経時墓の記載がない。これは一体、何を意味するのであろう。按ずるに、この卷之五の記載によって、「新編鎌倉志」の時代には「攬勝考」の言う長楽寺の跡さえ既になかったが、辛うじて経時の墓はそこにあったことが分かる(『經時の墓、佐々目の山の麓にあり。此の所より遠からず』)。しかし、「攬勝考」の頃にはその墳墓が消失していた(『今は其墳墓しれず』)。しかしそれ以前の何時の頃にか、彼の墓石の一部はこの佐々目ヶ谷から光明寺に移されていた。ところが光明寺開山塔と一緒にそれを置いたがために、「攬勝考」の頃には、少なくとも一般には、それが経時の墓との認識がなされていなかったのではなかろうか。識者の御教授を乞うものである。

「仁治三年」経時は仁治三(一二四二)年六月十五日の泰時の死去に伴い、翌十六日に経時は数え十九歳で執権となっている。

「同五月二十四日、鎌倉中俄に物騷しく」実際には「吾妻鏡」では既にこの前月、経時葬送から十六日後の閏四月十八日の条に、「亥尅。俄鎌倉中物忩。介冑士滿衢云々。及曉更靜謐。旁有巷説等云々。」(亥の尅、俄かに鎌倉中、物忩(ぶつそう)。介冑(かいちゆう)の士、衢(ちまた)に滿つと云々。曉更に及びて靜謐す。旁々(かたがた)巷説等有りと云々。)とあり、翌々日の二十日の条にも、「近國御家人等。馳參不知幾千万。連日騷動不靜謐云々。」(近國御家人等、馳せ參ずること、幾千万を知らず。連日、騷動して靜謐せずと云々。)とあるのが、名越(北条)光時による反乱未遂及び、それに連座して「大殿」、即ち、前(さき)の第四代将軍藤原頼経(頼嗣に譲位させられ、出家した後も彼は鎌倉に留まっていた)が鎌倉から追放された事件、「寛元の乱」或いは「寛元の政変」、所謂、「宮騒動」の始まりである。因みに、私はこの最後の呼称がどうも好きでない。何故、「宮」なのかが不明だからである。ウィキの「宮騒動」にも、『宮騒動と称される理由は『鎌倉年代記裏書』で「宮騒動」と号すとあるためだが、「宮」を用いる由来は不明』で、『事件の背後にいた九条頼経は九条家の一族で「宮」と称されることはあり得ず、結果的にこれより』、この六年後、『摂家将軍の追放と親王将軍の誕生へとつながったためではないかと』はされているとある。

「澁谷の一族」渋谷氏は相模国高座郡(現在の藤沢市と綾瀬市)にあった「渋谷荘」が元(分流が武蔵に移住して東京の渋谷の発祥となった)であったが、和田義盛の乱で和田方につき、一族の多くが殺され、渋谷荘地頭職も失った。しかしこの「寛元の政変」の活躍以降、宝治合戦・霜月騒動と一貫して北条得宗家御家人として活躍することとなる。

「下馬の橋」当時の北条得宗邸の推定位置から見て、二の鳥居付近の扇川に架けられていたという「中の下馬橋」と思われる(因みに、「上の下馬橋」は源平池に架かる橋、現行の知られた下馬四ツ角の橋は「下の下馬橋」と称されていたらしい)。

「太宰少貮」狩野為佐(かのうためすけ 養和元(一一八一)年~弘長三(一二六三)年)ウィキの「狩野為佐」によれば、『為佐の前半生は定かではないが、文暦元』(一二三四)年、五十四歳で『評定衆に任じられてからは昇進を重ねていく』。嘉禎二(一二三六)年に民部小丞、翌同三年には『従五位下に叙爵され、肥後守に任官した。また、この頃に為光から為佐へ改名している』。翌四年に従五位上、延応元(一二三九)年には、大宰少弐、仁治二(一二四一)年に正五位下に任じられたが寛元四(一二四六)年に、この『宮騒動に連座したことで評定衆を解任された』ものの、建長五(一二五三)年には引付衆を務めて返り咲いている。

「名越遠江守朝時入道生西」北条朝時(建久四(一一九三)年~寛元三(一二四五)年)は第二代執権北条義時の次男。名越流北条氏の祖。祖父北条時政の名越邸を継承したことから「名越次郎朝時」とも呼ばれる。参照したウィキの「北条朝時によれば、貞応三(一二二四)年に異母兄泰時(側室の子)が第三代代執権となると、翌嘉禄元(一二二五)年に越後守となり、嘉禎二(一二三六)年九月には『評定衆に加えられるが、初参の』後、即、『辞退しており、幕府中枢から離脱する姿勢を見せている』(それまでの複雑な生活史はリンク先を参照されたい)。六年後の仁治三(一二四二)年五月、『泰時の病による出家に伴い、朝時も翌日に出家して生西と号した。朝時の出家の直接的な理由は不明だが、泰時の死の前後、京では鎌倉で合戦が起こるとの噂が流れ、将軍御所が厳重警護され鎌倉への通路が封鎖された事が伝わっており、朝時を中心とした反執権勢力の暗闘があった事によると見られている』とある。

「半白」白髪かあるが、それが未だ頭髪の半ばであること。中年・初老。

「越後守光時」北条朝時の嫡男名越(北条)光時(生没年未詳)。北条氏名越(なごえ:現行の読み方)流の祖とされる。ウィキの「北条光時」より引くと、「保暦間記」によれば、『光時は時頼の執権就任に対抗し、「我は義時の孫なり。時頼は曾孫なり。」と述べたという。結局頼経派は敗北し、頼経は時頼によって京都へ送還され、光時は出家して弟らと共に時頼に降伏し、所領を没収されて伊豆国江間郷へ配流となった。この得宗家と名越家の対立はその後も続き』、文永九(一二七二)年二月に蒙古襲来の危機を迎えていた鎌倉と京で起こった北条氏一門の内紛(二月騒動)では、鎌倉幕府八代執権北条時宗の命によって謀反を企てたとして鎌倉で結局、この時許された朝時の弟の名越時章及びその弟教時が討伐された。

「卯刻」午前六時頃。

「但馬前司定員」藤原定員(生没年未詳)は幕府官僚。第四代将軍九条頼経に京から随従した近臣。将軍御所を奉行したが、ここに出るように、この「寛元の政変」で執権北条時頼の元への弁明の使者となるも失敗、安達義景にお預けとなった後、出家している。

「秋田(あいだの)城介義景」安達義景(承元四(一二一〇)年~建長五(一二五三)年)は安達景盛嫡男で、子に安達泰盛、覚山尼(北条時宗室)がいる。参照したウィキの「安達義景によれば、『義景の「義」の一字は義景が』一五歳の元仁元(一二二四)年に『没した北条氏得宗家当主鎌倉幕府第二代執権『北条義時からの拝領と思われ、義時晩年の頃に元服したと考えられている』。『義時亡き後は、北条泰時(義時の子)から経時と時頼三代の執権を支え、評定衆の一人として重用された。幕府内では北条氏、三浦氏に次ぐ地位にあり』、第四代将軍『藤原頼経にも親しく仕え、将軍御所の和歌会などに加わっている。この頃の将軍家・北条・三浦・安達の関係は微妙であり、三浦氏は親将軍派、反得宗の立場であるのに対し、義景は北条氏縁戚として執権政治を支える立場にあった』。『父・景盛が出家してから』十七年後、『将軍頼経が上洛した年に、義景は』二十九歳で「秋田城介」を継承した(本文の読みの「あいだ」は、「秋田」は古く「あきだ」「あくだ」等とも呼称したので、それが音変化したものか)。仁治三(一二四二)年、『執権・泰時の命を受けて後嵯峨天皇の擁立工作を行ない、新帝推挙の使節となった』。この「寛元の政変」で『執権北条時頼と図って反得宗派の北条光時らの追放に関与した。将軍家を擁する三浦氏と執権北条時頼の対立は、執権北条氏外戚の地位をめぐる三浦泰村と義景の覇権争いでもあ』ったため、宝治元(一二四七)年には『三浦氏との対立に業を煮やして鎌倉に戻った父景盛から厳しく叱咤されている。宝治合戦では嫡子・泰盛と共に先陣を切って戦い、三浦氏を滅亡に追い込んだ』。『時頼の得宗専制体制に尽力した義景は格別の地位を保ち、時頼の嫡子・時宗は義景の姉妹である松下禅尼の邸で誕生している。義景の正室は北条時房の娘で、その妻との間に産まれた娘(覚山尼)は時宗の正室となる。また、長井氏、二階堂氏、武藤氏など有力御家人との間にも幅広い縁戚関係を築いた』とある。]

譚海 卷之一 琉球國木香花の事

琉球國木香花の事

琉球國より先年獻上せし薔薇を木香花と號す。吹上の庭に植へられし珍花也。香氣十里に聞ゆと云。

[やぶちゃん注:「木香花」バラ目バラ科バラ亜科バラ属モッコウバラ(木香茨/木香薔薇)Rosa banksiaeウィキの「モッコウバラより引く。『中国原産のバラ。種小名は植物学者ジョゼフ・バンクスの夫人にちなむ』。『常緑つる性低木。枝には棘がないため扱いやすい。花は白か淡い黄色で、それぞれ一重咲と八重咲があり』、直径二~三センチメートルの『小さな花を咲かせる。開花期は初夏で一期性。黄花の一重や白花には芳香はある。一般的にモッコウバラといった場合には、黄色の八重咲を指す』。現在は『庭園などで、アーチやフェンスなどに用いる。生育が早く、大量に花をつけるため、大きなモッコウバラの開花時は圧巻である。バラの短所である棘がなく、病気、害虫にも強くバラとして理想的な性質を持っているが、一方、一期咲であること、黄花の八重咲に芳香がないこと、白と黄色しか花色がない事などの短所もある。そのために植える場所の選定や、芳香性のあるバラと組み合わせるなどの工夫が必要である』とあるから、ここに出るのは、黄花の一重咲きか白花体である。なお、ウィキの「バラによれば、本邦では、『日本はバラの自生地として世界的に知られており、品種改良に使用された原種のうち』三種類『(ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナシ)は日本原産である』。『古くバラは「うまら」「うばら」と呼ばれ、『万葉集』にも「みちのへの茨(うまら)の末(うれ)に延(ほ)ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」という歌がある。『常陸国風土記』の茨城郡条には、「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。常陸国にはこの故事にちなむ茨城(うばらき)という地名があり、茨城県の県名の由来ともなっている』。『江戸時代初期に、仙台藩の慶長遣欧使節副使・支倉常長が西洋からバラを持ち帰った。そのバラは、伊達光宗の菩提寺の円通院にある光宗の霊廟「三慧殿」の厨子に描かれたため、同寺は「薔薇寺」の通称で呼ばれるようになった』。『江戸時代には職分を問わず園芸が流行ったが、バラも「コウシンバラ」「モッコウバラ」などが栽培されており、江戸時代に日本を訪れたドイツ人ケンペルも「日本でバラが栽培されている」ことを記録している。また、与謝蕪村が「愁いつつ岡にのぼれば花いばら」の句を残している』とある(下線やぶちゃん)。本書は寛政七(一七九五)年自序であるから、実際には、これが「モッコウバラ」自体の初渡来というわけではないように思われ、調べてみると江戸初期には入っていたようである。ただ、この時のそれが非常に香りの高いものであったのであろう。

「十里」三十九キロメートル強。漢文的誇張である。]

譚海 卷之一 薩州唐人村峽竹桃の事

薩州唐人村峽竹桃の事

薩摩南海の地に唐人村とて一村有。先年漂着の華人夏に土着し、子孫繁殖し一村と成(なり)たるとぞ。今五百人計り有(あり)といへり。又薩州には峽竹桃(けふちくたう)の大樹あり、馬場の並木にありと云。南天竹などいふ皆(みな)垣にあむ事也とぞ。

[やぶちゃん注:底本では標題及び本文中の「峽竹桃」の「峽」の字の右に『(夾)』と訂正注する。

「峽竹桃」リンドウ目キョウチクトウ科キョウチクトウ亜科 Nerieae 連キョウチクトウ属セイヨウキョウチクトウ亜種キョウチクトウ Nerium oleander var. indicum。インド原産で、日本へは中国を経て、江戸中期に伝来したとされる。

「唐人村」現在の鹿児島県鹿児島市内の唐湊(とそ)か。ウィキの「唐湊によれば、『町名の由来は唐の船が付いた湊であったという説や、唐人が住んでいたという説がある』と記す。

「南天竹」キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica の漢名。中国原産で、日本では西日本・四国・九州に自生しているが、古くに渡来した栽培種が野生化したものだとされている、とウィキの「ナンテンにある。]

譚海 卷之一 常州筑波山の事

常州筑波山の事

○筑波山は朝暮の景變態さだめがたし。登山四時さはりなし。女人も登山する也。男體(なんたい)女體(によたい)とて兩峯ありて、山上まで五十町ありと。その麓の下妻の大久司令常ものがたりなり。

[やぶちゃん注:「筑波山」現在の茨城県つくば市北端にある。標高八百七十七メートル。西側の男体山(標高八百七十一メートル)と東側の女体山(標高八百七十七メートル)からなる。ウィキの「筑波山」の「歌垣と『万葉集』」の項によれば、『筑波山は古来より農閑期の行事として大規模な歌垣(かがい)が行われ、近隣から多数の男女が集まって歌を交わし、舞い、踊り、性交を楽しむ習慣があった。これは今年の豊穣を喜び祝い、来る年の豊穣を祈る意味があった』。「常陸国風土記」には、『筑波山における歌垣について、富士山との比較で次のような話を載せている。諸国をめぐり歩く神祖尊(みおやのみこと)が、新嘗の日に富士山を訪ねた。ところが富士の神は新嘗祭で忙しいからと一夜の宿を断った。神祖尊は嘆き恨んで、「この山は生涯冬も夏も雪が降り積もって寒く、人が登れず、飲食を供える者もなくしよう」といい、今度は常陸の筑波山に行き宿を乞うた。筑波山は新嘗祭にもかかわらず、快く宿を供し、飲食を奉った。喜んだ神祖尊は』、「……『天地(あめつち)とひとしく 月日と共同(とも)に 人民(たみぐさ)集い賀(よろこ)び 飲食(みけみき)豊かに 代々(よよ)絶ゆることなく 日々に弥(いや)栄え 千秋万歳(ちあきよろずよ) たのしみ窮(きわま)らじ」と歌った。それから富士山はいつも雪に覆われて登る人もなく、筑波山は昼も夜も人が集い、歌い飲食をするようになったという』。「常陸国風土記」の成立は養老年間(七一七年~七二四年)だが、『このころすでに筑波山に男女が集う嬥歌(かがい・歌垣(うたがき))の場であったことがわかる』とし、「万葉集」第九巻一七五九番収録の高橋虫麻呂作の歌を引く(一部を正字化した)。

鷲の棲む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 未通女(をとめ)壯士(をとこ)の 行き集ひ かがふかがひに 人妻に 吾(あ)も交はらむ わが妻に 人も言問へ この山を 領(うしは)く神の 昔より 禁(いさ)めぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 言(こと)も咎むな

以下、「現代語訳」(改行を省略)。『鷲の棲む筑波山の裳羽服津の津のほとりに、男女が誘い合い集まって、舞い踊るこの歌垣(かがい)では、人妻に、私も性交しよう。我が妻に、人も言い寄ってこい。この山の神が昔から許していることなのだ。今日だけは目串(めぐし、不信の思いで他人を突き刺すように見ること)はよせよ、咎めるなよ。』

『と、歌垣への期待で興奮する気持ちが素直にのびのびと詠われる』とある。

「五十町」五・四五キロメートル。

「下妻」現在の茨城県西部にある下妻(しもつま)市。筑波山西麓。

「大久司令」読みも職分も不詳。識者の御教授を乞う。]

甲子夜話卷之一 50 那須與一扇的玉蟲が詠歌の事

50  那須與一扇的玉蟲が詠歌の事

一日小笠原平兵衞と會して四方の話をせし中に、予、那須與一が扇の的射たりしことを云出したるに、小笠原云よう、此時かの玉蟲が詠たる歌ありと云。何に出たるやと聞ば、『盛衰記』にありと云。乃これを見に曰。源氏はあ射たり射たりと譽めければ、船にもとよみにて有ける。紅の扇の水に漂ふ面白さに、玉蟲は、

 

 時ならぬはなやもみぢを見つるかな

      芳野はつせの麓ならねど

 

其あとに義經此賞にとて、與一に引出ものをやりけることを記して、與一弓矢とる身の面目、屋嶋の浦にぞきはめたり。近き代の人、

 

 あふぎをばうみのみくづとなすの殿

      ゆみの上手は與一とぞきく

 

戰軍の中、女もやさしきことなり。狂哥も今時の詠とは違て優なることなり。『盛衰記』は誰人も見るものなれど、見ぬ人は知らじと書つく。

■やぶちゃんの呟き

「那須與一」「14 那須與一、後豫州に住せし事」を参照。また、私の藪野直史野人化4周年記念+ブログ・アクセス670000突破記念 火野葦平 海御前 附やぶちゃん注」の与一関連の注も是非とも参照されたい。

「小笠原平兵衞」江戸時代は旗本で弓馬礼法師範家として、小笠原平兵衛家(元、赤沢氏。騎射を礼式)と小笠原縫殿助(ぬいのすけ)家(歩射を礼式)が存在し、現在の小笠原流宗家はこの平兵衛家。没年から見ると小笠原常亮か常高か。

「玉蟲」屋島の戦いの那須与一のエピソードで、船の舳先に立ってこの扇の的を射てみよと手招きして挑発した平家の女官玉虫前(たまむしのまえ)。宮中一の美女であったとされる。平家滅亡後、鬼山御前と名を変えて、平家の落人が隠れ住んだとされる五家荘(現在の熊本県八代市泉町内)の近く、現在の八代市泉町(いずみまち)の岩奥(いわおく)にあって、源氏の追手を防いだとされ、奇しくも、追討にやって来た与一の嫡男と恋におちたとする伝説なども残る。

「盛衰記」「源平盛衰記」。内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)では第四十二の「屋島合戰 付 玉蟲立ㇾ扇與一射ㇾ扇事」に出る。「J-TEXT」ので原文が読める。当該箇所を恣意的に正字化して示す(頭は少し前から。一部の表記を直し、注記を省略した)。

   *

十二束二つ伏の鏑矢を拔出し、爪やりつゝ、滋籐の弓握太なるに打食、能引暫固たり。源氏の方より今少打入給へ打入給へと云。七段計を阻たり。扇の紙には日を出したれば恐あり、蚊目の程をと志て兵と放。浦響くまでに鳴渡、蚊目より上一寸置て、ふつと射切たりければ、蚊目は船に留て、扇は空に上りつゝ、暫中にひらめきて、海へ颯とぞ入にける。折節(をりふし)夕日に耀て、波に漂ふ有樣(ありさま)は、龍田山の秋の暮、河瀬の紅葉に似たりけり。鳴箭は拔て潮にあり、澪浮州と覺えたり。平家は舷を扣て、女房も男房も、あ射たりあ射たりと感じけり。源氏は鞍の前輪箙を扣て、あ射たりあ射たりと譽ければ、舟にも陸にも、どよみにてぞ在ける。紅の扇の水に漂ふ面白さに、玉蟲は、

  時ならぬ花や紅葉をみつる哉芳野初瀨の麓ならねど

平家侍に、伊賀平内左衞門尉(へいないざゑもんのじよう)が弟に、十郎兵衞尉家員と云者あり。餘りの面白さにや、不感堪して、黑絲威(くろいとをどし)の冑に甲をば著ず、引立烏帽子(ひきたてえぼし)に長刀を以、扇の散たる所にて水車を廻し、一時舞てぞ立たりける。源氏是を見て種々(しゆじゆ)の評定あり。是をば射べきか射まじきかと。射よと云人もあり。ないそと云者もあり。是程(これほど)に感ずる者をば、如何無ㇾ情可ㇾ射、扇をだにも射る程の弓の上手なれば、増て人をば可ㇾ弛とはよも思はじなれば、な射そと云人も多し。扇をば射たれ共武者をばえいず、されば狐矢にこそあれといはんも本意なければ、只射よと云者も多し。思々の心なれば、口々にとゞめきけるを、情は一旦の事ぞ、今一人も敵を取たらんは大切也とて、終に射べきにぞ定めにける。與一は扇射すまして、氣色して陸へ上けるを、射べきに定めければ、又手綱引返て海に打入、今度は征矢を拔出し、九段計を隔つゝ、能引固て兵と放。十郎兵衞家員が頸の骨をいさせて、眞逆に海中へぞ入にける。船の中には音もせず、射よと云ける者は、あ射たりあ射たりと云、ないそと云ける人は、情なしと云けれ共、一時が内に二度の高名ゆゝしかりければ、判官大に感じて、白驄馬(さめむま)に、〈尾花毛馬也〉黑鞍置て與一に賜。弓矢取身の面目を、屋島の浦に極たり。近き代の人、

  扇をば海のみくづとなすの殿弓の上手は與一とぞきく

   *

譚海 卷之一 尾州八事山無住法師靈の事

 尾州八事山無住法師靈の事

○尾州夜乙(やごと)山といへるは、眞言宗の寺にて無住法師入定せし地なり。今も其靈有、二三十年前無住其むらの人に連夜夢に見えて、この山ちかき内に崩るべし、徙居(しきよ)せよといふ事を告(つげ)たり。村民徙居せし後果して山くづれたりとかや、無住上人猶死なずといへり。

[やぶちゃん注:「八事山」「八事(やごと)」自体が現在の愛知県名古屋市瑞穂区・昭和区・天白区に跨った、かつて「八事山」と呼ばれた丘陵一帯の地名である。ここは但し、「やごとさん」と読んで、現在の名古屋市昭和区八事本町にある真言宗八事山興正寺(こうしょうじ)、通称、「八事観音」を指す(但し、本尊は大日如来)。私も結婚したての頃、名古屋瑞穂の出身の妻と亡き義父・義母と四人で親しく跋渉した思い出がある。

「無住法師」無住(むじゅう 嘉禄二(一二二七)年~正和元(一三一二)年)は仏教説話集「沙石集」や「雑談集(ぞうだんしゅう)」で知られる名僧。字は道暁、号は一円。鎌倉幕府御家人宇都宮頼綱の妻の甥。ウィキの「無住より引くと、『臨済宗の僧侶と解されることが多いが、当時より「八宗兼学」として知られ、真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていた』。『梶原氏の出身と伝えられ』、十八歳で『常陸国法音寺で出家。以後関東や大和国の諸寺で諸宗を学び、また円爾に禅を学んだ。上野国の長楽寺を開き、武蔵国の慈光寺の梵鐘をつくり』、弘長二(一二六二)年に尾張国長母寺(ちょうぼじ)を『開創してそこに住し』、八十歳の時、『寺内桃尾軒に隠居している。和歌即陀羅尼論を提唱し、話芸の祖ともされる』とあるが、興正寺住持の事蹟は調べ得なかった。但し、無住伝記の中心的資料である明和七(一七七〇)年に刊行された「無住国師道跡考」は、この八事山興正寺諦忍律師が執筆し、近世の無住伝の白眉として評価が高い、と「北勢線の魅力を探る会」主催の北勢線の魅力を探る報告書(PDF)にはあるので、何らかの関係があったことは窺える。識者の御教授を乞うものである。

「徙居」転居。「徙」は「移徙」で「わたまし」と訓じ、貴人の転居・転宅を意味する。]

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 紙衣の濡るとも折らん雨の花 芭蕉

本日  2016年 3月 7日

     貞享5年 2月 6日

はグレゴリオ暦で

    1688年 3月 7日

 

   路草(ろさう)亭

紙衣(かみぎぬ)の濡(ぬ)るとも折らん雨の花

 

「笈日記」(支考編・元禄八(一六九五)年奥書)より。「笈の小文」には載らない。真蹟懐紙では、

 

   久保倉右近會 雨降

 

紙子(かみこ)着て濡るとも折らん雨の花

 

とある。これが初案であろうが、如何にも直線的な説明であって生硬に過ぎる。

 「路草」は伊勢神宮外宮の高級神官久保倉盛僚(もりとも)の俳号。新潮日本古典集成「芭蕉句集」の今栄蔵氏の注によれば、彼の屋敷は『外宮北御門に程近い所』にあったとある。「紙衣」と「紙子」は同義で厚手の紙を糊で継いで作った主に旅の防寒着。柿渋を塗って加工してはあるものの、雨には弱い。それが「濡るとも」――濡れるのも厭わず、桜花を手折りに嬉々としてお呼ばれ致しました――と響き合う挨拶句である。山本健吉氏の「芭蕉全句」では本句は「新古今和歌集」の藤原家隆の一首(五三七番歌)、

 

   千五百番歌合に

露時雨(つゆしぐれ)洩(も)る山かげの下紅葉(したもみぢ)濡(ぬ)るとも折らん秋のかたみに

 

をインスパイア、『紅葉から花に翻し、「春のかたみに」の余情を匂わせている』と評されておられる。

2016/03/06

明日は

多分、ブログ790000アクセス突破――記念テクストは意想外のもの(注が)を用意してある――お楽しみ……♪ふふふ♪……では、お休み。よい夢を……

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第二章 進化論の歷史(4) 四 ライエル(地質學の原理)

     四 ライエル(地質學の原理)

Lyell

[ライエル]

 [やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 然るに同じ千八百三十年にイギリス國の地質學大家サー、チャールス、ライエルといふ人の著した「地質學の原理」と題する有名な書物の第一版が出版になつたが、この書物の弘まるに隨ひ、キュヴィエーの天變地異の説は全くその根抵を失ふに至つた。ライエルが「地質學の原理」の中に説いたことの大要を摘んでいつて見ると、「凡そこの地球の表面には開闢以來隨分大きな變動があつて、山が海になり海が山になつた處もある。高い山の頂上に浪の跡があつたり、また山の中腹から蛤や魚類の化石が出たりするのは、疑もなく昔そこが海岸或は海底であつた證據であるが、かやうに變つたのは、決して一時に急に起つたことではなく、絶えず少しづゝ次第次第に變つて、長い年月を歷て遂に斯く著しい度に達したのであらう。元來カントラプラス等の唱へ始めた霞雲説に隨えば、我が地球の屬する太陽系統は最初は極めて熱度の高い瓦斯の大きな塊であつたのが、次第に凝つて、中心は太陽となり、周邊には大小無數の遊星が出來た。この地球も素よりその一部分であるから、初はやはり熱度の極高い瓦斯の塊、次には岩石を熔かしたやうな極めて熱い液體の塊となり、次にその塊の表面が少し凝固して固形體の薄い地殼が出來たのである。かやうなことは素より實際傍で見て居たものがある譯ではないから、この説は無論假想の説には相違ないが、餘程多くの地質學上の事實はこの説によつて容易に説明することが出來る故、他に尚一層適當な説がない以上は、先づこの説を眞と見倣して置くより外には仕方がない。現今でも處々に火を噴き煙を出す山があること、處々に温泉の湧き出ること、及びどこでも地面を深く掘れば据るほど底が益々温くなつて、平均十六間位を掘る毎に攝氏の一度ずつの割合で温度が昇ることなどから考へて見ると、地球の内部は今でも尚火の塊であるらしく、また表面にある固形の地殼はこの火の塊が漸々冷却した結果として生じたものと思はれるが、總べて何物でも冷えると容積が減ずるものであるから、この地球も追々冷えて行く中に少しづゝ容積が減じて收縮し、收縮すれば表面の地殼には是非とも皺(しわ)が出來る。その有樣は全く林檎の實を長く捨て置くと、水分が蒸發して全體が縮小し、そのため表面に皺が生ずるのと同じ理窟である。我々から見れば、山は頗る高く、海は驚くべく深いが、凡そ一間位の直徑を有する地球の雛形を造つて、その表面に陸と海とを正しい割合に造れば、數千尋の深海も數萬尺の高山も僅に一分に足らぬ凸凹に過ぎぬ。それ故地球の表面にある海陸の凸凹の割合は到底林檎の皮の表面にある凸凹ほどに著しいものではない。このやうな瑣細な凸凹は地球が少し冷えれば直に出來るべき筈で、少しも驚くには當らぬ。」

 「總べて地殼の變化は上述の如く、地球の冷えて行くに隨ひ、何萬億年かの間に表面に皺が生じて、漸々山と海との區別が出來、その區別が追々著しくなることの外には、たゞ風雨の働、河海の働等の如き我々が日夜目の前に見て居るやうな尋常一樣の自然現象の結果として起つたものである。風が吹き雨が降る毎に、山の表面にある岩石は少しづゝ碎けて泥砂となつて谷へ落ち、河の水に流されて海へ出で、河の出口の處に沈澱して年々新しい層を造ることは、我々の現在處々で見る所である。我が國で何々新田といふやうな名の附いてある處は、多くは斯くして出來た地處である。かやうに泥沙の沈澱によつて生じた層は、最初は無論水平に出來るが、地球が少しづゝ冷却して地殼に皺が殖えるに伴なひ、後には褶(ひだ)をなして種々の方向に傾斜し、一部は山の頂となつて現れ、他の部は後の層に理められて深く地面の下に隱れるやうになる。かの高い山の頂上から魚類や貝類の化石の出るのは全く右の如き變動によるので、決して一時に急劇な天變地異があつた結果ではない。尤も先年の西印度の噴火や數年前の櫻島の破裂のやうなこともあるが、之は地球の全面から見れば實に極めて小部分で、大體を論ずる場合には殆ど勘定に入れるに及ばぬ程である。」

 「地球の表面に山が海になつた處、海が山になつた處があるのは、決して變動が劇烈であつた結果ではない。たゞ變動の時が極めて長く續いたからである。現今と雖も、毎日風雨・水流等の働により地球の表面に變動の止む時はないが、その變動が急劇でないから、餘り人の目に立たぬ。併し、實際絶えず行はれてあること故、幾萬年も幾億年も引き續く間には、かの「塵も積れば山」といふ諺の如く、その結果は實に驚くべき程になることは疑ない。地球の表面が今日の有樣になつたのは、全く毎日起る所の普通の變動が積り積つた結果と考えなければならぬ」。

 ライエルが種々の實例を擧げて右の如くに論じたので、キュヴィエーの天變地異の説は全く打ち破られてしまつたが、地球上にある動植物を悉く殺し靈してしまふやうな天變地異が一度も無かつたとすると、化石の動植物と現今生きて居る動植物とはその間に如何なる關係を持つて居るものであるか。古代の動植物と現今の動植物との相異なる[やぶちゃん注:「あひことなる(あいことなる)」と訓じている。丘先生はしばしば使用されるので注意されたい。]所を見ると、或は生物の種屬は時とともに多少變化するものではなからうかとの疑問は、更に改めて研究を要することになつた。

[やぶちゃん注:特に注さないが、ライエルの説の梗概として、鉤括弧で勿体ぶって括ってある中に、「何々新田」とか「櫻島の破裂」とかあるのは、丘先生の御愛嬌というべきものであろう。

「ライエル」スコットランド出身の地質学者で法律家でもあったチャールズ・ライエル(Charles Lyell 一七九七年~一八七五年)。近代的地質学の基礎となる「斉一説」(せいいつせつ uniformitarianism:自然に於いて過去に作用した過程は現在、観察されている過程と同じであろうと想定する考え方)を広めた人物として知られる。チャールズ・ダーウィンの友人でもあり、彼の自然淘汰説の着想にも影響を与えた。以下、参照したィキの「チャールズ・ライエルより引く。父は『植物学をたしなんでおり、幼きライエルに最初に自然の研究というものを示してみせた。ライエルは少年期をイングランドのニューフォレスト (New Forest) のバートリー・ロッジ (Bartley Lodge) で過ごし、自然界に対して大いに興味を抱くことになった』。『オクスフォード大学の Exeter College に通い、地質学と出会い、ウィリアム・バックランドの指導のもと、熱心に打ち込んだ』。一八一六年に卒業、『法律へと仕事を変えたものの、地質学との』「二足の草鞋」を履くことになり、一八二二年には『ライエルの最初の論文 On a Recent Formation of Freshwater Limestone in Forfarshire を発表』、結局、一八二七年頃には『法律の仕事には見切りをつけ、地質学のキャリアの長い道のりへと足を踏み出したのであった』。一八三〇年に『ロンドンのキングズ・カレッジで地質学の教授の職に就いた』。一八三〇年から一八三三年にかけてここで語られている「地質学原理」 Principles of Geology)の初版(全三巻・計約千二百ページもの大著)を出版、『これはライエルの最初の出版物であると同時に最も知られた出版物でもあり、ライエルの地質学理論家としての地位を確立したものである』。この「地質学原理」が、『「斉一説」 uniformitarianism の学説、すなわち、その数十年前にジェームズ・ハットンによって提唱されていたアイディアを、広く世に知らしめることにつながった』。一八四〇年代には『ライエルはアメリカ合衆国とカナダへと旅した。この体験が彼の有名な』、旅行と地質学を結びつけた読み物『を生むことになった』(一八四五年の Travels in North America と一八四九年以降の A Second Visit to the United States)とある。

「カント」かのドイツの哲学者で自然地理学者でもあったエマヌエル・カント(Immanuel Kant 一七二四年~一八〇四年)。

「ラプラス」フランスの数学者で天文学者でもあったピエール・シモン・ラプラス(Pierre Simon Laplace 一七四九年~一八二七年)。数理論を天体力学に適用し、太陽系の起源に関して星雲説(後注参照)を唱えた。解析学を確率論に応用する研究も行い、メートル法制定にも尽力した。

「霞雲説」星雲説。一七五五年にカントが唱え、一七九六年にラプラスが補説した、太陽系の起源についての仮説。緩やかに回転する高温の星雲状のガス塊が冷却収縮するにつれて回転を速めて環を生じ、その環が球状に凝集して各惑星となり、中心に残ったガス体が太陽になったといする説。

「十六間位」約二十九・一メートル。

「一間位」約一・八メートル。

「數千尋」一尋(ひろ)は約一・八メートルであるから、千メートル以上。チャレンジャー海淵は水面下一万九百十一メートルとされるから、この数値はショボ過ぎ。

「數萬尺」一尺は約三十・三センチメートルであるから、一万八千メートル以上。エベレストでも八千八百五十メートルだし、そもそもが地球の半径が六千三百七十一キロメートルだから、この高さは逆に誇大に過ぎる。

「一分」一分(ぶ)は三・〇三ミリメートル。

「先年の西印度の噴火」西インド諸島の中のウィンドワード諸島に属するマルティニーク(Martinique)島にある活火山プレー山(フランス語:Montagne Pelée 。「禿山」の意。マルティニークはは現在もフランスの海外県)。一九〇二年に大噴火を起こし、当時の県庁所在地であったサン・ピエールは全滅、約三万人が死亡、二十世紀に起った火山災害中、最大であったことで知られる(以上はウィキの「プレに拠った。当時の噴火の経過と影響はリンク先に詳細に述べられてある)。

「數年前の櫻島の破裂」大正三(一九一四)年一月十二日に始まった桜島の噴火。凡そ一ヶ月間に亙って、繰り返し、頻繁に爆発が起こり、多量の溶岩が流出した。この一連の噴火による死者五十八名に及んだ。流出した溶岩の体積は約一・五立方キロメートル、溶岩に覆われた面積は約九・二平方キロメートルに及び、『溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡』(最大距離四百メートル・最深部百メートル)『で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになった。また、火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地で観測され、軽石等を含む降下物の体積は』約〇・六立方キロメートル、『溶岩を含めた噴出物総量は』約二立方キロメートル(約三十二億トンで東京ドーム約千六百個分に相当)『に達した。噴火によって桜島の地盤が最大』約一・五メートル『沈降したことが噴火後の水準点測量によって確認され』ている、とある(以上はウィキの「桜島」に拠った。当時の噴火の経過と影響はさらにリンク先に詳細に述べられてある)。]

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅷ) 昭和三(一九二八)年 (全)

 昭和三(一九二八)年

 

 

 

 一月六日 金曜 

 
◇かもはかや無き名を三十一文字に

  かへしまつらむことの葉もなし

 

◇はずかしやまゐらせし香のほそけむり

  白とか書きて龍年の春

 

◇八十九四十と年は違へども

  香きくはなの友となりけり

 

[やぶちゃん注:「はずかし」はママ。短歌の前の日記の末尾に、

 

堀江氏老母八十九歳、君子に茶の湯を教ゆ。余線香を送りしに、歌送り來る。

 古きものゝ香をりゆかしく老の身に

  めくみたまひてきくぞうれしき八十九、雄子、杉山樣。

 

とあるのに続く、恐らくは久作の心の内のこの老母との相聞歌である。但し、一首目の「かもはかや無き」、二首目の「白とか書きて」というのは私が馬鹿なのか、意味が判らない。識者の御教授を乞う。なお、昭和三年は「戊辰(つちのえたつ)」である。夢野久作、満三十九歳の年であった。]

 

 

 

 一月八日 日曜 

 

◇冬の日の空しき空を渡りはてゝ

  金茶の色に沈みゆくかな

 

 

 

 一月九日 月曜 

 

◇うつろなる自分の心を室の隅に

  ヂット見つむるストーブの音。

 

 

 

 二月十九日 火曜 

 

町を出て人無き草の野に寢ねて

吾が靑空よと呼びかけてみる

 

 

 

 二月二十二日 水曜 

 

春淺み厨の隅に音するは冬の名殘りの風からずか

戸の羽に物音するはぬす人か冬の名殘りの風かあらずか

 

[やぶちゃん注:「戸の羽」不詳。]

 

 

 

 二月二十三日 木曜 

 

せことわれとうたひふみゆくはるのくさ

 やまかけにほふしのゝめのころ

 

 

 

 二月二十六日 日曜 

 

風のみは冬の名殘りの心地して

 星の光りのやうにうるめき

 

 

 

 二月二十八日 火曜 

 

◇春殘みわびしいといふにあらねども雲の底を流るゝものを

 

 思ふとおふにあらねど春殘みうす雲の底を日の流るゝ

 

 

 

 三月四日 日曜 

 

窓の外の松の木ぬれを動かして

くもりの空ゆ風いでにけり

 

[やぶちゃん注:「こぬれ」は「木末」と書き、「「木(こ)の末(うれ)」の転。「梢」に同じい。万葉以来の古語。]

 

 

 

 四月十六日 月曜 

 

人格は瘠せてシヨンボリ祈りして

 冷たい寢床にもぐり込む哉

 

 

 

 五月十四日 月曜 

 

◇ピストルが俺の眉間を睨みつけた

  ズドンと云つたアッハッハッハ

 

◇黑い黑い祕密の核を春の□

 ひとり指さして赤い舌出す

 

[やぶちゃん注:「黑い黑い」の後半は底本では踊り字「〱」。前の一首は、同年十一月号『獵奇』に載った「獵奇歌」の一首、

 

ピストルが俺の眉間を睨みつけて

 ズドンと云つた

  アハハのハツハ

 

の初稿。二首目の「□」は判読不能字。]

 

 

 

 五月十七日 木曜 

 

◇毎日毎日、向家の屋根のペンペン草を

  見ていた男が狂人になつた。

 

[やぶちゃん注:「毎日毎日」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

 

 

 五月十九日 土曜 

 

◇工女うたひてかへりひそやかに

  梨の花散る夜となりにけり

 

◇カルモチン紙屑籠に投入れて

  又取り出してヂツトながむる

 

◇死なむにはあまりに弱き心より

  人を殺さむ心となりしか

 

[やぶちゃん注:二首目は、やはり同年十一月号『獵奇』に載った「獵奇歌」の、

 

カルモチンを紙屑籠に投げ入れて

 又取り出して

  ジツと見つめる

 

の初稿。]

 

 

 

 五月二十一日 月曜 

 

◇ドラッグの蠟人形全身を想像してみて

  冷汗流す

 

◇白く塗つた妻の横顏に書いてある戀は

  極度の誤解である

 

◇啞の女が口から赤ん坊生んだげな

  その子の父の袖を捉えて

 

◇檻獄に這入らぬ前も出た後も

  同じ靑空に同じ日が照ってゐる

 

◇闇の中から血まみれの猿がよろよろと

  よろめきかゝる俺の良心

 

◇波際に猫の死骸が齒を剝いて

  夕燒けの空を冷笑してゐた

 

[やぶちゃん注:第五首目の「よろよろ」の後半は底本では踊り字「〱」。一首目は、やはり同年十一月号『獵奇』に載った「獵奇歌」の中の一首、

 

ドラツグの蠟人形の

 全身を想像してみて

  冷汗ながす

 

の初稿。そこで注した通り、「ドラッグ」は麻薬中毒患者の部分ムラージュのこと。三首目も、同号『獵奇』の同じ「獵奇歌」の、

 

啞の女が

 口から赤ん坊生んだゲナ

  その子の父の袖をとらへて

 

の初稿。四首目及び五首目は同年十月号『獵奇』の「獵奇歌」に載る、

 

監獄に

 はいらぬ前も出た後も

同じ靑空に同じ日が照つてゐる

 

と、

 

闇の中から血まみれの猿が

 ヨロヨロとよろめきかゝる

俺の良心

 

の初稿。最後の一首は、ずっと後の昭和一〇(一九三五)年十月号『ぷろふいる』の「獵奇歌」に載る、

 

波際の猫の死骸が

乾燥して薄目を開いて

夕日を見てゐる

 

がかなり酷似した類型歌で、初稿だったのかも知れない。]

 

 五月二十二日 火曜 

 

◇白い蝶が線路を遠く横切って

  汽車がゴーと過ぎて吾が戀おはる

 

◇自轉車の死骸が空地に積んである

  乘った奴の死骸も共に

 

[やぶちゃん注:以上の二首は、同年十月号『獵奇』の「獵奇歌」に載る(順序は逆)、

 

白い蝶が線路を遠く横切つて

 汽車がゴーと過ぎて

血まみれの戀が殘る

 

自轉車の死骸が

 空地に積んである

乘つてゐた奴の死骸も共に

 

の初稿。]

 

 

 五月二十三日 水曜 

 

◇靑空の隅からヂッと眼をあけて

  俺の所業を睨んでゐる奴

 

◇ニセモノのパスで電車に乘つてみる

  超人らしいステキな氣持ち

 

[やぶちゃん注:やはり二首とも、同年十月号『獵奇』の「獵奇歌」に載る(但し、順序は逆)、

 

靑空の隅から

 ジツト眼をあけて

俺の所業を睨んでゐる奴

 

ニセ物のパスで

 電車に乘つてみる

超人らしいステキな氣持ち

 

の初稿。]

 

 

 五月二十四日 木曜 

 

◇見てはならぬものをみてゐる吾が姿

  ニヤリ笑ってふり向いてみる

 

◇抱きしめる其瞬間にいつも思ふ

  あの泥沼の底の白骨

 

[やぶちゃん注:やはり二首とも、同年十月号『獵奇』の「獵奇歌」に載る(但し、順序は逆)、

 

見てはならぬものを見てゐる

 吾が姿をニヤリと笑つて

ふり向いて見る

 

抱きしめる

 その瞬間にいつも思ふ

あの泥沼の底の白骨

 

の初稿。]

 

 

 

 五月二十六日 土曜 

 

◇すれちがつた今の女が眼の前で

  血まみれになるまひるの紅茶

 

[やぶちゃん注:同年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」の中の一首、

 

すれちがつた今の女が

 眼の前で血まみれになる

  白晝の幻想

 

の初稿であるが、初稿の方が遙かによい。]

 

 

 

 五月二十七日 日曜 

 

◇闇の中にわれとわれとがまっくろく

  睨み合ったきり動くことが出來ぬ

 

◇倉の壁の木の葉の影が出雲の形になつて

  赤い血汐したゝる

 

◇枕元の花に藥をそゝぎかけて

  ほゝえみて眠る肺病の娘

 

[やぶちゃん注:これらは先に示した、後の昭和五(一九三〇)年五月号『獵奇』に載る、現行の「獵奇歌」の一部にされている、十首連作の「血潮したゝる」の原型となったもののように私には感じられる。例えば一首目は同「血潮したゝる」の一首目の、

 

闇の中に闇があり

又闇がある

その核心から

血潮したゝる

 

と通底し、二首目は同「血潮したゝる」の八首目の、

 

日の影が死人のやうに

縋り付く倉の壁から

血しほしたゝる

 

と類似するし、なおも三首目は同「血潮したゝる」の七首目の、

 

水藥を

花瓶に棄てゝアザミ笑ふ

肺病の口から

血しほしたゝる

 

と響き合うからである。]

 

 

 

 五月二十八日 月曜 

 

◇心臟が切り出されたまゝ動いてゐる

  さも得意氣にたつた一人で

 

◇眞夜中に心臟が一寸休止する

  わるい夢を見るのだ

 

[やぶちゃん注:同年十月号『獵奇』の「獵奇歌」の最後の一首、

 

倉の壁の木の葉が

 幽靈の形になつて

生血がしたゝる心臟が

切り出されたまゝ

 

とごく親しい臭いがする。何故なら、二首目の方はその二首前にある、

 

眞夜中に

 心臟が一寸休止する

その時にこはい夢を見るのだ

 

の完全な初稿であるからである。]

 

 

 

 五月三十日 水曜 

 

◇血だらけの顏が沼から這ひ上る

  私の曾祖父に斬られた顏が

 

◇窓の際になめくじのやうな雲が出て

  見まいとするけど何だか氣になり

 

[やぶちゃん注:「なめくじ」はママ。二首ともに同年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に載る(但し、順序は逆)、

 

血だらけの顏が

 沼から這ひ上る

  俺の先祖に斬られた顏が

 

地平線になめくぢのやうな雲が出て

 見まいとしても

  何だか氣になる

 

の初稿。]

 

 

 

 六月四日 月曜 

 

◇水の底で胎兒は生きておりてゐる

  母は魚に食はれてゐるのに

 

◇わが首を斬る刃に見えて

  生血が垂れる監房の窓

 

[やぶちゃん注:二首ともに同年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に載る、

 

水の底で

 胎兒は生きて動いてゐる

  母體は魚に喰はれてゐるのに

 

日が暮れかゝると

 わが首を斬る刃に見えて

  生血がしたゝる監房の窓

 

の初稿。一首目は直ちに「ドグラ・マグラ」の中の「胎兒の夢」を連想させるが、まさに、この昭和三年も久作は後に「ドグラ・マグラ」となる「狂人の解放治療」(日記本文では専ら「狂人」と記す)の改作・増筆に費やしていることが日記本文から判る。]

 

 

 

 六月五日 火曜 

 

◇あの娘を空屋で殺して置いたのを誰も知るまい……藍色の空

 

◇けふも沖があんなに靑く透いてゐる誰か溺れて死んだんだべ

 

◇棺の中で死人がそっとあくびしたその時和尚が咳拂ひした。

 

[やぶちゃん注:三首目の「拂」は底本の用字。最初の二首は同年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に載る(但し、逆)、

 

あの娘を空屋で殺して置いたのを

 誰も知るまい

  藍色の空

 

けふも沖が

 あんなに靑く透いてゐる

  誰か溺れて死んだだんべ

 

の初稿。三首目は翌十月号『獵奇』の「獵奇歌」に載る、

 

棺の中で

 死人がそつと欠伸した

その時和尚が咳拂ひした

 

の初稿。]

 

 

 

 六月六日 水曜 

 

◇一番に線香立てに來た奴が俺もと云ふて息を引取る

 

◇若い醫者が乃公の生命預つたといふてニヤリと笑ひくさつた。

 

◇くら暗で血みどろの俺にぶつかつたあの横路次のハキダメの横で

 

[やぶちゃん注:「乃公」普通は「だいこう」或いは「ないこう」で、一人称の人代名詞として、男性が目下の者に対して、或いは尊大な表現として「自分」をさしていう語で、「我が輩」と言ったニュアンスであるが、ここは後に示す決定稿から「おれ」と訓じておく。三首とも、同年十月号『獵奇』の「獵奇歌」に載る、

 

一番に線香を立てに來た奴が

 俺を…………

………と云うて息を引き取る

 

若い醫者が

 俺の生命を預つたと云うて

ニヤリと笑ひ腐つた

 

だしぬけに

 血みどろの俺にぶつかつた

あの横路地のくら暗の中で

 

の初稿。]

 

 

 

 六月六日 水曜 

 

◇頭の中でピチンと硝子が割れた音イヒ……と俺が笑ふ聲。

 

◇日の中に日のあり又日のありわが涙つひにあふれ出てし哉。

 

◇白い乳を出させやろうとてタンポヽを引き切る氣持ち彼女の腕を見る。

 

[やぶちゃん注:「出てし哉」はママ。

一首目と三首目は、同年十月号『獵奇』の「獵奇歌」の、

 

頭の中でピチンと何か割れた音

 イヒヽヽヽヽ

……と……俺が笑ふ聲

 

白い乳を出させようとて

 タンポヽを引き切る氣持ち

彼女の腕を見る

 

の初稿。]




 六月十日 日曜 

 

◇あんな無邪氣な女がおれは恐ろしい

  ヒヨツト殺したくなる困るから

 

◇肩に手をソツと置かれてハつとして

  ハツトして自分の心をヂツと見つむる

 

[やぶちゃん注:一首目の下句は「ヒヨツト殺したくなると困るから」の脱字か?]

 

 

 

 六月二十日 水曜 

 

◇打ち割つた皿の中から血走つた

  卵の黃味が俺を白睨んでゐる。

 

[やぶちゃん注:「白睨んでゐる」はママであるが、「白」は「睨」の誤字を抹消し忘れたものではないかと私は思う。さらにこれは実に「杉山萠圓」名義で十三年前の大正五(一九一六)年三月号の短歌雑誌『心の花』に載った、

 

血ばしつた卵の黃味のおそろしやまん中の眼のわれをにらめる

 

の「獵奇歌」風のインスパイアであることが判る。]

 

 

 

 六月二十二日 金曜 

 

◇いつの世の名殘りの夢を見るやらん

  ほのかにえみてねむるおさなご

 

[やぶちゃん注:「おさなご」はママ。]

 

 

 七月三十一日 火曜 

 

◇眼の玉を取り出すまいとまはたきす

  □□の朝のまばゆき眼ざめ

 

[やぶちゃん注:「□□」は底本の判読不能字。]

 

 

 

 八月十六日 木曜 

 

◇足の甲を蜂が刺したと思つたら

  パンのカケラがくつ付いてゐた

 

 

 

 九月十四日 金曜 

 

◇ポプラ鳴る秋空高くポプラ鳴る

  はるかに透きとほる國を戀しつゝ

 

 

 

 九月十七日 月曜 

 

◇友の來てピストルを買はぬかと語る

  その友かなし秋のまひる日

 

◇車中にて今一人向ふに煙草吸ふ男

  われ見かへれば彼も見かへる

 

 

 

 九月十八日 火曜 

 

◇誰か和歌を文字の戲れといふものぞ

  歌をしよめば悲しきものを

 

 

 

 九月十九日 水曜 

 

◇吾を見て、吾兒の笑ふ悲しさよ

  笑はむとすればいよいよ悲し。

 

[やぶちゃん注:「いよいよ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

 

 

 九月二十一日 金曜 

 

◇口づけしつゝ時計の音をきいてゐる

  わが心をば彼女は知らず

 

 

 

 九月二十二日 土曜 

 

◇ベンチから追ひ立てられた腹癒せに

  ほかのベンチへの字に寢る

 

 

 

 九月二十七日 水曜 

 

◇秋つく日あかるき空の中に立ちて

  つめたき帽子冠りてみるかな

 

◇わが冠る古き帽子の内側に

  汗ひえびえと義は來にけり

 

[やぶちゃん注:「ひえびえ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

 

 

 

 九月二十九日 土曜 

 

◇室の隅で女が髮を梳くやうな

  ため息するやうな梅雨の夜の雨

 

◇闇の中で猛獸と額つけ合って

  睨み合ってゐる惡酒の酔心地

 

 

 

 九月三十日 日曜 

 

◇戀したら相手を拷殺してしまへ

  さうしてヂツと生きてゐてみよ

 

◇眼の前を蜘蛛が這ひまはる

  まん丸い淸い明月の中を

 

 

 

 十月八日 月曜 

 

◇美しきけだものを見る心地する

  眞晝のさなかに生娘見れば

 

[やぶちゃん注:因みに、この日の日記には「押し絵の奇蹟」の原稿を清書した旨の記載がある。翌日の日記には『新靑年來る。「死後の戀」評よし』とあって、作歌としての彼の油の乗り切って居る感じがよく伝わってくる。]

 

 

 

 十月十一日 水曜 

 

◇いろいろな鬼胎の標本指して

  キタイですねと云へど笑はず

 

[やぶちゃん注:「鬼胎」奇形胎児。]

 

 

 

 十月十四日 日曜 

 

◇瞳とづれば曠野の涯に

  一本の鋭き短刀落ちたるが見ゆ

 

◇赤い血がどうしても出ぬ自烈渡さ

  いくら瀨戸物をたたきこわしても

 

[やぶちゃん注:「自烈渡さ」「じれつたさ」であるが、「焦れったさ」であるから完全な当て字である。]

 

 

 

 十月十五日 月曜 

 

◇人と馬ひやゝかに歩み秋の空

  靑ずみ渡る野のはてを行く

 

◇室の内外物音もなし秋まひる

  わが心ヂツとわがみつめ居る

 

[やぶちゃん注:日記本文に『誤て今日の日記を、十六日につける。一旦ゴマかせり。』とある。夢野久作、律義なるかな!]

 

 

 

 十月十七日 水曜 

 

秋の空あまりに淸く靜かなる得堪えで秋の花やこぼるゝ

 

[やぶちゃん注:「堪えで」はママ。歌の前の日記の最後に、『子供の病氣位、氣にかゝるものはなし、いたはしく悲しきはなし。』と記している。翌十八日の日記に、三男の「參綠」(日記では「三六」と記される)がジフテリアの診断が下されている。]

 

 

 

 十月三十一日 水曜 

 

◇秋の風眼をすがめつゝ雲を見ます

  悲しき父となり給ひしか

 

[やぶちゃん注:言わずもがな、夢野久作の父、右翼の巨魁杉山茂丸(元治元(一八六四)年~昭和一〇(一九三五)年)であるが、彼は久作の死ぬ前年まで生きている。なお、この日の日記には『終日、押絵の原稿。後半書き疲れて二字就寢。』とあり、先の清書という記事は出来上がった部分までのそれであることが判る。「押絵の奇蹟」の脱稿は日記から十一月五日で、発表は翌昭和四(一九二九)年一月の『新青年』であった。「ドグラ・マグラ」の産みに苦しみつつ、かくも同時並行であれらの名作を創造していた久作に、今更ながら、舌を巻かざるを得ない。]

 

 

 十一月十九日 月曜 

 

[やぶちゃん注:この日の日記に詩歌の記載はないが、以下の通り、「ドクラ・マグラ」の作者にしてかくありと感ずる、非常に印象的な芥川龍之介評が載るので特異的に全文を掲載する。]

 

雨しとゞ降り、又黃色なる日照り、あたたかし。井戸車の音、汽車の音、雲の下に高らかに響く。菌生えつらめ。

 芥川龍之介氏を崇拜する若き人多からむと、佐藤君云ふ。さもありなむ。氏の文には、神經衰弱が生む特有の無機的藥品の香と、靜電氣の如き感觸あればなり。

 吾に良心無し、唯、神經のみありの一語の如き一例也。殘けれど痛々し。故にわかり易し。

 

[やぶちゃん注:「佐藤君」というのは喜多流教師の、喜多流シテ方能楽師梅津只圓の弟子であった佐藤文次郎(素圓)のことか?

「吾に良心無し、唯、神經のみあり」言わずもがな乍ら、芥川龍之介侏儒言葉」の中の名アフォリズム(リンク先は私オリジナルの完全合成版)、

   *

 

   わたし

 

 わたしは良心を持つてゐない。わたしの持つてゐるのは神經ばかりである。

 

   *

 

を指す。]

 

 

 

 十一月二十日 火曜 

 

◇すゝき原風いつまでも晝の月

 

 

 

 十一月二十一日 水曜 

 

◇靑山のその彼方なる靑山に

  冬のまひるの月出でにけり

 

 

 

 十二月二十三日 日曜 

 

◇逢ふて又別れし夢の路の霜

  あかつきとほき名殘なりけり

 

[やぶちゃん注:この日、知人の母の訃報があったことが日記に記されてあるが、本歌との関連があるか。]

 

 十二月二十八日 金曜 

 

◇餠をつく數を子供等皆數へ

 

 

 

 十二月二十九日 土曜 

 

◇胸のはてなく白き砂原に

  裸身の女がノタウチまはる

 

2016/03/05

ちかえもん

NHKの「ちかえもん」はこの二十年の糞NHKの中で最高のドラマやで!

――視聴者「万吉」より!――

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第二章 進化論の歷史(3) 三 キュヴィエー(天變地異の説)

     三 キュヴィエー(天變地異の説)

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[キュヴィエー]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 このキュヴィエーといふ人はラマルクよりは二十五年も後に生れた人であるが、非常な勉強家で、馬車で路を往來する時にも常に手帳と鉛筆とを持つて何か書いて居たといふ位であるから、著書も頗る多く、動物に關する一個一個の事實を知つて居たことは實に驚くべき程であつた。その外、尚世事にも長じた人と見えて、終には我が國でいへば文部省の局長といふ位な役を務め、男爵を授けられ、華族に列したが、この人の學術上の功績の多くある中で、特に擧ぐべきものは、動物比較解剖の研究と化石の調査とである。

Housanndoubutu_2

[放散動物

一 くらげ  二 いそぎんちゃく  三 ひとで]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 リンネーの分類法は單に動植物の名稱を探り出すに使利なやうに造つただけのもの故、その分ち方は頗る人工的で、恰も支那や日本で昔から用ゐて居る禽獸蟲魚といふ位なものに過ぎず、例へば蛤でも蚯蚓(みみづ)でも、章魚(たこ)でも、海鼠でも、甚だしきは盲鰻といふ魚までも、皆蟲類といふ中に混じて入れてあつたが、キュヴィエーは比較解剖の結果に基づいて、全動物界を大別して四門とした。即ち獸類・鳥類・魚類を始め、蛇・蛙・蜥蜴(とかげ)・蠑螈(ゐもり)に至る迄、凡そ身體の中軸に脊骨のある動物を總括して脊椎動物と名づけ、蝶・蜂・蜘蛛・蜈蚣(むかで)・蝦・蟹の類より蚯蚓・「ごかい」に至るまで、凡そ身體に關節のある動物を總括して關節動物と名づけ、章魚・烏賊(いか)を始め、榮螺(さざえ)・田螺(たにし)・蛤・「あさり」等の如き身體の柔かな貝類は皆之を總括して軟體動物と名づけ、また、「うに」・「ひとで」・「くらげ」等の如き動物は、身體に頭と尻との區別もなく總べての器官が皆放散狀に竝んであるため、まるで盥や傘と同じやうにたゞ表と裏との差別があるばかりで、前後左右は少しも違はず、何方を前へ向けても少しも差支のない形のもの故、之を總括して放散動物と名づけた。尤も動物を脊椎動物と無脊椎動物とに區別することだけは、既にラマルクの行つて居たことであるが、かやうに全動物界を四つに大別して之に門といふ名稱を附けたのは、全くキュヴィエーが始めてで、之が今日行はれて居る動物自然分類法の土臺である。またキュヴィエーは高等動物の化石を丁寧に調べてその性質を明にし、「化石の骨」と題する大部の書物を著して、終に今日の所謂古生物學を起した。

 抑々化石とは、いふまでもなく、古代に生活して居た生物の遺體であるが、かやうに氣の附いたのは比較的近世のことで、耶蘇紀元より數百年も前に當るギリシヤ時代の哲學者には却つて化石の眞性を知つて居た人もあつたやうに見えるが、その後には種々の牽強附會な説が行はれ、降つて千七百年代に至つても世人は化石に對しては實に笑ふべき考を抱いて居た。例へば、或る人々は化石を以て單に造化の戲であるなどと言つて濟ませ、また或る人々は天地の間には精氣とでもいふベきものがあつて、この物が動物の體内に入れば子となり、誤つて岩石中に入れば石の螺(にし)、石の蛤などに成ると論じ、甚だしきに至つては、神は天地開闢の際に諸種の動物を造るに當り、眞の動物を造る前に先づ泥を以て試驗的にその形を造つて見て、氣に入らぬものは之を山中へ投げ捨てたのが、今日化石となつて殘つて居るのであると論じた人々さへあつた。今から考へて見ると餘り馬鹿げて居て、殆ど信ぜられぬ程であるが、その頃は耶蘇教の勢力が非常に盛であつたために、科學が全く衰へて、甚だしき迷信が世に行はれ、耶蘇教の坊主の中には、粘土でヘブライ文字を造り、瓦に燒いて之を山中に埋めて置き、數年の後に之を自分で掘り出して神樣の御直筆であると言つて一儲けしようと計畫した山師などがあつた位の世の中であるから、實際かやうな考が行はれて居たのも不思議はない。併しその後化石に關する知識が追々進歩し、ラマルクが貝類の化石を調べ、キュヴィエーが獸類、魚類等の化石を調べるに及んで、化石は愈々古代の動物の遺體であるといふことが確になり、最早之に就いて疑を插む人は一人も無くなつた。

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[スウィス國で發見した山椒魚の化石]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 前にも述べた通り、キュヴィエーは全く動物種屬不變の説を主張した人であるが、自分の研究の結果、化石の性質が明になるに隨ひ、嘗てリンネーの書いて置いた如くに、生物の種類の數は最初神が造つただけよりないといふ説をそのまゝに保つことが出來なくなつた。それはこの以前から化石は古代の動物の遺體であると考へた人は幾らもあつたが、觀察が極めて粗漏で、骨骼の形狀の區別なども丁寧に調べず、象の骨を掘り出して之を人間の骨であると思ひ誤り、昔は何物も皆大きくて、人間などもこの骨から考へて見ると、少くとも我々よりは三層倍も大きかつたに違ひないなどと言つて居た位で、その一例には、スウィス國の某といふ醫者は、一種の大形の山椒魚の化石を發見したが、之を人間の骨と思ひ違へ、化石となつて出る位であるから、之は全くノアの大洪水の時に溺死した人間の骨であらう。天地開闢の時、神樣が御造りなされたアダムエバ兩人の子孫が盛に繁殖し、追々惡事を働くやうになつたので、神樣が大に御怒り遊ばし、數百日の間續けて雨を降らして、善人ノアの一族を除くの外、罪人どもを悉く退治しておしまひになつたが、この骨はその節の罪人の一人に相違なからうといつて、「洪水に出遇うた人間」といふ意味の學名を附け、「後の世の罪人どもよ、この骨を見て汝等の罪を悔い改めよ」といふやうな優しい歌まで書き添へて、この發見を同國の學術雜誌上に報告したことがある。人間の骨骼は素より十分に知つて居て、他の動物の骨との相違は直に解るべき筈の醫者でさへ、かやうな具合故、たとひ化石は古代の動物の遺體であると氣が附いても、なかなかそれがどのやうな動物であつたやら種屬の識別などは無論出來ず、大概今日の動物と同じやうな種類であらうと推察して誰も濟まして居つた。然るにキュヴィエーの精密な調査に據ると、化石となつて出て來る動物は、現今生きて居る動物とは確に全く種屬が異なつて居て、同じく化石といふ中でもその出る地層地層に隨つて皆種屬が互に相違して居ることが解つた。そこでこの化石となつて掘り出される動物はいつ造られ、いつ死に絶えたもので、また現今の

動物とは如何なる關係を有して居るものであるかといふ疑問は、是非とも起らざるを得なかつたが、キュヴィエーは自分の説も打ち消さずまた化石の因緣も明瞭に説明するには如何したらば宜しかろうと頻に苦しんだ後、遂に一の新説を案じ出した。その説の大略次の如くである。

 「現在生きて居る動物の種屬は皆開闢のとき神が造つただけのものであるが、この開闢といふことは動植物に就いては決してたゞ一囘に限られた譯ではなく、實は幾度もあつた。而して毎囘開闢の前には山が海になり、海が山になつて、天地も覆るかと思はれる程の大變動によつて、その時まで住んで居た動植物は一時に悉く死に絶えてしまひ、その跡に更に新しい一揃の動植物が造られたのである。故に現今の動物と化石として掘り出される動物とは、兩方とも神に造られたには相違ないが、その造られた時が全く違ひ、古い方が悉く死に絶えて仕舞つた後に、新しい方が別に造られたものであるから、その間には何の關係もない。今日高い山の頂上から魚類の化石や貝類の化石が出て來るのは、そこが以前に海であつた證據で、その化石の形が如何にも苦みに堪へず跳ね廻つた如き有樣であるのは、海が山になるときの變化が極めて急劇であつた徴である。最初の世界開闢以來今日に至るまでには、少くとも十四五囘は地球の表面に斯かる大變動があつて、その度毎にそのとき住んで居た動物は皆死に絶え、僅に化石となつて今日まで殘つて居るのである」と、かやうに論じて、キュヴィエーは自分の主張して居た動物種屬不變の説を立て通さうと盡力した。この説は地球の表面には幾度も非常に急劇な大變動があつたものと假定するのであるから、先づ「天變地異の説」とでも名づけて置いたら宜しからう。

 今日から思ふと、キュヴィエーの天變地異の説は素より確乎たる證據もなく、隨分牽強附會極まる説のやうに思はれるが、その頃學者間に於けるキュヴィエーの勢力は實に大したものであつたから、この不思議な假想説も暫時世人の信仰する所となつた。尤もラマルク以後にも動物進化の説を唱へて居た人は多少あつて、その中でもフランス國のジョッフルア・サンチレールといふ學者などは、動物の形狀・性質は外界の狀態に應じて變化して行くものであると論じて、大にキュヴィエーの説に反對し、幾度もパリー學士會院の講堂で公開の討論を行つた。併し何をいふにも、キュヴィエーの方は一個一個の事實を知つて居ることは非常なものであつたのと、また一方ではサンチレールの動物進化の説は甚だ不完全であつたのとで、千八百三十年七月三十日の討論の席で、終に表面上全くキュヴィエーの勝利に定まつた。

 かやうなことがあつたので、益々キュヴィエーの勢が好くなり、キュヴィエーの唱へる議論ならば一も二もなく人が之を信ずる有樣となつて、かの天變地異の説も暫くは全盛の姿であつた。

[やぶちゃん注:「キュヴィエー」フランスの博物学者ジョルジュ・キュヴィエ/バロン・ジョルジュ・レオポルド・クレティアン・フレデリック・ダゴベール・キュヴィエ(Baron Georges Léopold Chrétien Frédéric Dagobert Cuvier 一七六九年~一八三二年)。ウィキの「ジョルジュ・キュヴィエ」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『退役して年金で暮らす将校』の子として生まれた。『キュヴィエ家はプロテスタントで、ジュラ山脈部のフランス・スイス国境地帯から宗教迫害の結果移住してきた家系である』。『シュトゥットガルトのカルルスシューレ(当時設立された軍人養成校)で四年間学んだ後、エリシー伯爵家の家庭教師をした。エリシー伯爵はフェカンの近くで夏を過ごすのを恒例にしていたが、それが縁で当時フェカンに蟄居していた農学者アンリ=アレクサンドル・テシエの知遇を得た。テシエがパリに住む友人たち宛に紹介状を書いてくれた結果、キュヴィエは著名な博物学者であるエティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールと文通した後、一七九五年に国立自然史博物館の比較解剖学教授の助手に採用されることになった』。『またキュヴィエは同年に設立されたフランス学士院の会員に選出された。一七九六年からパンテオン中央学校(École Centrale du Pantheon)で教鞭をとりはじめ、四月に学士院の集会が開催されると彼の最初の古生物学の論文となる文章を発表した。これが後に一八〇〇年に『現存および化石のゾウ種についての覚書』Mémoires sur les espèces d'éléphants vivants et fossiles の名で出版されることになるものである』。『一七九八年に初めての著書『動物の自然史基礎編』Tableau élémentaire de l'Histoire naturelle des animaux を出版した。これは彼がパンテオン中央学校で行った講義の要約であったが、おそらくは彼の動物界の自然分類の基礎となっており、最初にして全般的な説明となっているとみなすことができるものである』。『一七九九年にルイ・ジャン=マリー・ドバントンの後を継いでコレージュ・ド・フランスの自然史教授となった。翌年出版した『比較解剖学教程』Leçons d'anatomie comparéeは、初め二巻をアンドレ・デュメリル(フランス語版)の、残り三巻をジョルジュ・ルイ・デュヴェルノワの協力のもと執筆したものだが、古典的研究と位置づけられている』。『一八〇二年パリ植物園の正規の教授となった。同年、学士院の代表として、公教育の視学監督官に任命された。この後者の立場で彼は南フランスを視察していたが、一八〇三年初頭に学士院の物理学および自然科学部門の終身書記に選出された結果、視学監督官の職を辞任し、パリへ戻った』。『主要な古生物学と地学の調査の結果は最終的に二つの別々の研究として世に送り出された。一つは有名なRecherches sur les ossements fossiles de quadrupedes で一八一二年』に『パリで出版され、一八二一年と一八二五年に改訂された。もう一つはDiscours sur les revolutions de la surface du globe で一八二五年パリで出版され』たが、その後の『四色八つ折り判の本の一八一七年の初版及び一八二九年から一八三〇年までの五巻の内の二巻目の形で出版されたRegne animal distribué d'après son organisation』は非常に『高い評価』を得た。『この古典的な研究でキュヴィエは現生及び化石動物での彼の全ての調査の結果を具体化した。全ての研究は昆虫綱を除き彼のものであり、それは友人のピエール・アンドレ・ラトレーユの支援によるものだった』。一八二一年には『「早まった声明」と呼ばれるものをした。彼は著書の中で「大型哺乳動物の新種発見はもはや有り得ないだろう」と述べた。しかし実際にはキュヴィエの声明以降も多くの発見がされている』。『動物学と古生物学の自らの独自調査とは別に、キュヴィエは学士院の終身秘書及び全体の公教育の関連として莫大な量の仕事を行ない、それらの殆どは最終的に出版された。一八〇八年彼はナポレオン・ボナパルトにより、フランスへ加えられたアルプスとライン川の向こうの地区のより高い教育状態の樹立を調査し、そして中央の大学と提携する方法を報告する任務で帝国大学の評議会へ配置され』、その議長も三度務めている。その後も、『学士院終身秘書の地位で、キュヴィエは多数の科学アカデミーの死去したメンバーのエロージュ・ジストリック(éloges historiques:歴史的賞賛)だけでなく、多数の物理学、自然科学史の報告書の筆者と』もなっている。『ナポレオンの没落(一八一四年)に先立ってキュヴィエは国務省の議会に認められ、その地位はブルボン家の復古にも影響を受けなかった。彼は学長に選ばれ、その地位で公教育評議会の仮の会長として活動し、その一方でルター派としてプロテスタント神学部を監督していた。一八一九年内政委員会の会長に任命され、死ぬまでその職に就いていた』。『一八二六年にレジオン・ドヌール勲章を得、一八三一年にはルイ・フィリップにより貴族に昇格、その後国務省議会の会長に任命される。一八三二年の初め内務相に指名されたが、五月にコレラによって死亡した』。『彼の研究は、比較解剖学に基づき、ひとつには現在の動物の分類を行い、また化石との比較から古生物学を大きく推し進めた。彼は動物の体はその各部分が機能に結びついた構造を持ち、それらが互いに関連して統一的な仕組みをもつと見た。そこから、器官や骨のひとつからも、その動物の全体像が知れると言っている』。『キュヴィエは次の三つの事項の探求に今度は特に専念した。一つは軟体動物門の構造と分類の関係、二つ目は魚類の比較解剖学と系統的位置、そして三つ目は主として化石哺乳類と爬虫類、次に同じグループに属する現生動物の骨学』で(下線やぶちゃん)、『軟体動物に関する彼の研究は一七九二年に始まったが、この部門の殆どの回想録は一八〇二年から一八一五年の間にAnnales du museum で発表された。それらは後にMémoires pour servir de l'histoire et a l'anatomie des mollusques として一冊に集約されて一八一七年パリで出版された』。『キュヴィエの魚の調査は一八〇一年に始まり、最終的に五千種の魚について記述されたHistoire naturelle des poissons を出版する結果となり、それはキュヴィエとアシーユ・ヴァレンシアンヌ(Achille Valenciennes)の共同研究で』、『この調査の領域では彼は回想録の長い一覧を発表した。それは一部は絶滅動物の骨に関係し、一部は現生動物の骨格の観察結果特に構造及び化石との類似点を詳細を述べている。その二番目のカテゴリーにはインドサイの、バク、ケープハイラックス、カバ、ナマケモノ、マナティーなどと関係する多数の論文が含まれるだろう。前のカテゴリーではより多数の回想録が含まれ、モンマルトルの始新世の地層の絶滅哺乳類、化石種のカバ、絶滅種のオポッサム(Didelphys gypsorum)、メガロニクスやメガテリウム等の地上生大型ナマケモノ、ホラアナハイエナ、プテロダクティルス、絶滅種のサイ、ホラアナグマ、マストドン等の絶滅種のゾウ、化石種のマナティーとアザラシ、ワニ目、カメ目、魚類、鳥類の化石の形式についての論文が含まれる』。『彼の比較解剖学は、徹底的に実証主義に基づいたものであった。それ以前の比較解剖学は自然哲学的な色彩を強く持つもので、さまざまな動物の構造を比較し、相同器官などの概念を作り出した一方で、ともすれば恣意的な解釈に陥りがちであった。たとえばサンティレールは節足動物の歩脚と脊椎動物の肋骨を相同とみなし、それによって両者の体制が同じであるとの論を述べたのに対して、キュヴィエは何度も討論を行い、これを打ち破った。彼は生物の構造を機能に結び付けて理解することを目指し、生物体の各部分は互いに関連し、機能的に結びついていると述べた。この考えが化石研究にも生かされたといっていいだろう』。『哺乳類に関係する古生物学分野は本質的にキュヴィエにより作られ確立されたとも言える。彼は上記のように、比較解剖学において、各部分が機能的に結びついているとの判断を持った。たとえば肉食獣は牙がとがっており、その代わりにあごは張らない。逆に草食獣では発達した臼歯があり、あごは張る。そのような推察や判断によって、通常バラバラに出土する化石を組み立て、古生物を復元することを行った。彼以前に、骨を組み立てることを考えたものはいなかった』。『同時に、彼はラマルクの進化論に強く反対したことでも知られる。彼は古生物が時代によって異なるものから構成されることを明らかにしたが、これを複数回にわたる天変地異による絶滅と、その後の入れ替わりによるという、いわゆる「天変地異説」を唱え、進化によって生物の変化することを認めなかった』。『しかしながら、このことは彼の考え方が保守的であった事を示すとは必ずしも言えないようである。むしろキュヴィエは当時次第に意識されるようになっていた実証主義的な科学の方法にのっとっており、その範囲では種の不変性が明らかであった。そのため、逆に思弁的な研究に基づいて提出されたラマルクの論には納得できなかったというのである』とある。

「かやうに全動物界を四つに大別して之に門といふ名稱を附けたのは、全くキュヴィエーが始めてで、之が今日行はれて居る動物自然分類法の土臺である」ウィキの「門(分類学)」によれば、『従来、英語などでは門を、動物学ではphylumと呼び、植物学では国際植物命名規約(現在の国際藻類・菌類・植物命名規約)に基づきdivisionと呼んだ。東京規約(国際植物命名規約の』一九九四年の『版)から、植物学でもphylumと呼ぶことが認められたが、現在でもdivisionと呼ぶことが多い』。『phylumの語源はギリシア語のphylaiで、原義は古代ギリシアの都市国家において血縁に基づき決められた投票グループのことである。ヘッケルがGenerelle Morphologie der Organismen (1866) で導入した語であるが、概念としてはキュヴィエが用いたembranchement(「分岐」)と同義であるdivisionの原義は「分ける」である』とある(下線やぶちゃん)。

『「化石の骨」と題する大部の書物』先の引用に出た、一八二一年刊の「Recherches sur les ossements fossiles de quadrupedes」(四脚を有する化石骨に関する研究)。

「耶蘇教の坊主の中には、粘土でヘブライ文字を造り、瓦に燒いて之を山中に埋めて置き、數年の後に之を自分で掘り出して神樣の御直筆であると言つて一儲けしようと計畫した山師などがあつた」直ぐに引っ張り出せないが、私の読んだ記憶(これと全く同じ内容で化石した文字の図入り。確か荒俣宏氏の著作だったか)では、内心憎んでいた神父か牧師かを陥れるために、ある農夫が永年月で信用させ、仕組んだこととして読んだ。

「大形の山椒魚」とあるが、ここは両生綱有尾目サンショウウオ上科オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属Andrias の属する(次注も参照)オオサンショウウオ類の化石種であり、サンショウウオ上科 Cryptobranchoidea のサンショウウオの大型種ではないので注意されたい。

「洪水に出遇うた人間」これについては、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑3 両生・爬虫類」(平凡社一九九〇年刊)の「オオサンショウウオ」の項から以下を引いておく(ピリオド・コンマを句読点に代え、学名部分を斜体とした)。

   *

【アンドリアス】オオサンショウウオの学名には奇妙な由来がある。このなかまは現在アンドリアスという属名を与えられているが、元来これは化石で出た巨大なサンシヨウウオ(絶滅種)につけられた名だった。しかしその後日本と中国で〈生きている化石〉が発見され、これら現生種に対し、1837年に博物学者J.J.vonトゥデイが、Megalobatrachusの属名を与えた。しかし化石種とほとんど差がないので、最近は現生種もアンドリアスに含められるようになった。

 そのようになった理由は、オオサンショウウオがかつてヨーロッパにもひろく生息していたためである。だから次のような奇妙な事件が起きても不思議ではない。

 1726年のこと、ノアの洪水以前の人骨をやっきになってさがしていたスイスの博物学者J.J.ショィヒツァーはボーデン湖畔のエニンゲンの石切場で脊椎動物の化石を発見した。彼はすでにイクチオサウルスの骨を人間のものと見誤ったことがあったが、今度は疑いもなく〈ノアの洪水で溺れ死んだ昔の罪ぶかい人間の哀れな骨格〉だと信じた。そして、Homo tristis deluvi testes(大洪水を目撃した哀れな人類)と名づけた。当初は誰もこの説を疑わなかったが、18紀後半にドイツのヨハン・ゲスナーが人骨であることを否定し、大きなナマズの骨だと主張した。もっとも、彼は実地に魚類の骨格と比較したわけでもなかったら しいが、支持する者は多かった。

 しかし、この〈ナマズの骨〉説が完全に打ち消されるのは、キュヴィエが化石の研究をはじめてからである。1811年、彼はショイヒツァーの発見した骨が人骨でもナマズの骨でもなくて,巨大なサンシヨウウオの骨であることをあきらかにした。なお、この骨は大英博物館にあったがのちにハーレムの博物館に移された。石川千代松は《はんざき調査報告》(1903/明治36)のなかで、〈しょいふつえる氏が之これを見て人骨なりと断定せしは実に奇なること〉と述べている.

 ちなみにオオサンショウウオの化石を発見したショイヒツァーは,有能な翻訳家でもあった。問題のオオサンショウウオが生きている土地日本の動植物を西洋で初めてとりあつかったケンペルの《日本誌》(原稿として残されたままであった)を英訳出版したのが彼だったことは、オオサンショウウオにまつわる奇話のひとつだろう。この経緯からもわかるように、日本のオオサンショウウオは〈生きた化石〉としてヨーロッパを騒がせた動物となったのである。

   《引用終了》

荒俣氏らしい博物学的なすこぶる面白い記載である。

「ジョッフルア・サンチレール」フランスの博物学者エティエンヌ・ジョフロア・サンティレール(Étienne Geoffroy Saint-Hilaire 一七七二年~一八四四年)。パリの自然史博物館教授。比較解剖学で優れた業績を挙げ、器官及び組織の相同関係を明らかにして、動物界には共通した「構造の単一のプラン」があると説いたが、この点に就いて自らが自然史博物館に招いたキュビエと対立、ここに記された一八三〇年に有名な論争を行った(かのドイツの文豪にして自然科学者でもあったゲーテはサンチレールに賛同している)。ジョフロア・サンチレールはまた、「前成説」(個体発生に於いて成体の総ての構造や形態が発生の当初にすでに決定されていて発生が進むに連れてそれが展開するに過ぎないとする古典的発生説)を否定する目的で奇形学の研究を始め、ニワトリ胚を用いて実験的奇形の創出を試みている。「tratologie」(テラトロジィ:奇形学)の語も彼が最初に用いたとされる。主著に『解剖哲学』(一八一八年~一八二〇年)がある(小学館「日本大百科全書」の八杉貞雄氏の記載に拠る)。

「千八百三十年七月三十日の討論の席で、終に表面上全くキュヴィエーの勝利に定まつた」これは「国際基督教大学」のサイト内の「キリスト教と文化研究所」にある「『Newsletter 科学史フォーラム』1号より」に載る、東京水産大学助教授金森修氏の「ジョフロワ・サン=ティレール論」が詳しい。それによれば(半角数字を全角に替えさせて戴いき、一部に私が下線を引いた)、

   《引用開始》

 それまでのジョフロワの議論はキュヴィエの4界論の一つ、脊椎動物内部での相同を探すというものだったが、20年代になると彼は一層大胆になり、脊椎動物と体節動物との間の相同を探そうとする。昆虫の外骨格を脊椎動物の内骨格と並行的に論じて、内骨格の内部に内臓系がすべて入ってしまったものが昆虫に他ならないと彼は主張した。つまり脊椎動物の肋骨が昆虫の足に他ならないとしたのである。この種の仕事はそれ以降多くの類似事例をよぶことになった。

 1830年2月から4月にかけて行われた王立科学アカデミーでの論争には以上のような背景があった論争のきっかけはある若い二人の博物学者が提案した軟体動物と脊椎動物との相同論にあった。それをジョフロワは自らの「体制一致」論をさらに敷衍するものとして好意的に注釈した。だがそれまで自らの4界論が蹂躙されても我慢していたキュヴィエはついに公衆の面前で立ち上がり、頭足類とは二つ折りに折り曲げられた脊椎動物に他ならないとするその論考の趣旨が動物学的に成立しないということを強く主張した。論争は、相同というジョフロワの概念がもつ曖昧性に触れられた後で舌骨などの専門的問題にいたり、しかも双方が何ら歩み寄りの姿勢を示さなかったので、4月にはジョフロワの提案で中断された。ジョフロワは直ちにその論争を自ら『動物哲学の原理』という冊子にまとめた。二人は、以後キュヴィエが1832年に逝去するまで、対立することをやめようとはしなかった。32年にキュヴィエが亡くなっても、その後ジョフロワは12年間も生きることになる。だが晩年の彼は、大量の著作を執筆したにもかかわらず、同僚科学者からはあまり相手にされない存在になっていった。その冗長な文体なども否定的に働いたのかもしれないが、何よりも30年代の彼は自らの本来の研究分野である動物学を離れて、植物のこと、さらには物理学のことにまで言及するようになっていたというのがその最大の原因だった。だが晩年の特徴を最も明らかにするその種の著作の内の一つ『自然哲学の総合的、歴史的、生理学的概念』(1838)は、確かに燃焼と帯電という二力の拮抗によって宇宙の全物質の離合集散を説明するという大ざっぱな議論仕立てをもつ思弁的物理学にすぎないとはいえ、見方を変えればそれは近代初期以降無数に繰り返された自然哲学的思弁の伝統を正統的に引き継ぐものだともいえた。ジョフロワはまだアカデミー論争での時点では、自らをいわゆる自然哲学者とは見なさないでいたが、この頃にはほとんど意識的に自分を自然哲学者と規定するようになっていた。分析よりは総合を重んじ、単なる事実収集ではなく、収集は単なる出発点なのであり、その後の大胆な仮説形成にこそ科学の神髄があると信じたジョフロワは、自らのその信念に突き動かされるようにして、晩年の10年あまりを自然哲学の錬磨に捧げた。ただなにぶんにもその自然哲学は動物学という周知の領域を離れ、物理学的言説のなかで展開されたものであるだけに、大まかにすぎ、自然哲学的伝統のなかでもやや遅蒔きの印象は免れないものではあった。ただ、電気力に霊感を受けるというのはラマルクにも見られたことであり、しかも若年時エジプト旅行をした際に、魚類の電気器官を調査したことから一種特異な自然哲学的思弁をしたという事実もあるので、電気論が全く脈絡なしに突然でてきたものだったとはいえない。さらには奇形形成の調査の過程で動物体を正中線を中心にした一種の面対称物体として捉え、その両側にある類似要素が互いに引き合うということを、彼は生物の原理としていたという事実があるので、彼の電気的引力論は奇妙なことに奇形学的背景ももっていたともいえる。そのようにみていくと、彼の晩年の「自己帰一性原理」を中心とした大局的な物理論は必ずしも荒唐無稽な思いつきにすぎないとはいえなくなる。むしろそれは長年の動物学的・奇形学的調査と、若年時の電気への思い入れなどが長い間に熟成された果てにでてきた、彼にとっては自然な流れだったのだと考えたい。彼のなかに当時の、徐々に弱まりつつあった自然哲学的伝統の最後の偉大なきらめきを見て取るのは見当はずれなことではない

   《引用終了》

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進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第二章 進化論の歷史(2) 二 ラマルク(動物哲學)

     ニ ラマルク(動物哲學)

Lamarck

[ラマルク

(老後盲目になりたり)]

 

 ダーウィン以前に動物進化の理を説いた人々の中で、最も有名なのはフランス國のラマルクである。この人は今より百八十二年前、即ち千七百四十四年に生れ、パリー市の「植物園」といふ動物園で動物學の教授を勤め、一生涯比較的低い位置で終つたが、實は餘程の學者で、特に下等動物の比較解剖、貝類の化石などを深く研究して、之に就いてなかなか大部の著述をした人であるが、自身の研究の結果、その頃世に行われて居た生物種屬不變の説は全く誤であることに心附き、その反對の事實を證據立て、且その理由を説明しようと頻に工夫を凝らした末、遂に千八百九年即ち當人六十五歳の時に「動物哲學」と題する一書を著して、己れの説を世に公にした。この書物は今日我々が讀んで見ると、全く當今の進化論と同じやうな所もあつて、頗る面白く思はれ、その頃にしては誠に珍しい本であるが、かやうにその時世よりは遙に進み過ぎて居たので、世人が之を解することが出來なかつたため、且はその當時この人よりも高い位置にあり、隨つて世間に對して勢力の尚強かつた人等が皆舊式の生物種屬不變の説を持つて居たため、折角苦心して書いたこの書も出版後五十年許の間は全く世に顧みらるるに至らなかつた。ラマルクがこの書で論じたことの大要は略々次の如くである。

 「現在、世の中に生きて居る動物は、孰れの種類を取つて見てもその生活の有樣に適した身體を持つて居ないものはない。例へば蝙蝠に翼のあるのは飛翔に適し、鼹鼠(もぐら)の掌の平たくて鋤の如きは地を掘るに適し、蟷螂(かまきり)の前足の鎌に似たのは蟲を捕へるに都合よく、「ばつた」の後足の太いのは跳(は)ねるのに必要である。語を換へていへば、各動物ともに日々用ゐる部分は皆善く發達して十分その働きをなすに適して居るが、斯く身體の外形は皆その動物の生活の模樣に應じて居るに拘らず、之を解剖してその構造を調べて見ると、蝙蝠と鼹鼠、又は蟷螂と「ばつた」とは實に極めて互に善く似て居て、恰も同一の鑄型(いがた)に入れて造つたものを、單に少しづつ或は延ばしたり、或は縮めたりして造つたかと思はれる程である。かの蝙蝠の翼を見るに、指が五本備はつてある具合(ぐあひ)は丸で我々人間の手の通りであるが、たゞその指が非常に長く延びて、その間に薄い皮が張つて居る。また鼹鼠の掌を見るに、之も指が五本備はつてある具合は我々人間の手に少しも違はぬが、たゞ指の節が皆短くてその代りに爪が大に發達して居る。若しこゝに一人の飴屋があつて、既に飴を以て人間の手の形を造つたと假定したらば、之を直して蝙蝠の翼にするには單に指を引き延ばしてその間に薄い皮を張れば宜しい。また之を直して鼹鼠の掌にするには單に指を押し縮めて爪を太くすれば宜しい。總べて動物の身體はかやうな流儀に出來て居て、數種の動物が皆同一の模型を基とし、各種とも常に用ゐる處だけが特別に發達して、そのため種種の相違が起つた如くに見える場合が頗る多いが、之は若し天地開鬪の際に神が各種の動物を別々に造つたものとしたらば、殆ど譯の解らぬことで、之には何か他に理由がありさうなものである。若し眞に神が初めから別々に造つたものならば、蝙蝠の翼はたゞ飛ぶといふ目的に適ふやうに、また鼹鼠の掌はたゞ地を掘るといふ目的に適ふやうに、各々根本から別の仕組を立てて造りさうなものであるのに、飛ぶための翼も掘るための掌も、同一の模型を多少延ばしたり縮めたりしたかと思はれるやうな形に出來て居るのは、誠に不思議といはざるを得ない。所で、人間などを見ると常に用ゐる部分が特別に發達するやうで、鍛冶屋は常に腕を餘計に働かすから、腕の筋肉・骨骼ともに非常に發達し、車夫は絶えず脚を用ゐるから、脚の筋肉・骨骼ともに著しく大きくなるが、他の動物とても理窟は之と同樣で、やはり常に用ゐる器官は益々發達して大きくなるに違ない。また人間の方では車夫の子孫が必ず皆車夫になるに限らず、鍛冶屋の子孫が必ず皆鍛冶屋になるといふ譯でもないから、皆その當人一代の間に用ゐる器官が少し大きくなるだけであるが、動物の方では親・子・孫と代々略々同じやうな生活をなし、蝙蝠は先祖代々空を飛び、鼹鼠は先祖代々地を掘り、急に習性の變ずることは極めて稀であつて、代々同一の器官ばかりを特別に働かせるから、その結果としてその器官は代を重ねるに隨ひ益々發達して大きくなるであらう。若しさやうであるとしたらば、蝙蝠の指の長いのは代々空を飛ぶために指を延ばした結果、鼹鼠の爪の太いのは代々地を掘るために爪を用ゐた結果ではあるまいか。また蟷螂の前足の太いのは鍛冶屋の腕の太いのと同じく「ばった」の後足の太いのは車夫の脚の太いのと同じで、常に之を働かすから益々發達し、代を重ねるに隨ひ愈々著しくなつて、終に今日見るが如き形に成つたのではあるまいか」。

 「之に反して少しも用ゐぬ器官は次第次第に衰へるもので、怪我などをして久しく臥て居ると、身體には他に何の異狀がなくても、脚は次第に細くなつて、終には全く起きて立つことも出來なくなるが、駝鳥の翼が極めて短くて到底飛ぶ役に立たず、鼹鼠の眼が甚だ小くて到底見る役に立たぬ等は、全く之と同やうな理窟で、久しく少しも用ゐぬから、次第次第に退化して斯くの如くになつたのではなかろうか。常に頸を延ばして水底の餌を探る鶴は頸が非常に長くて鼻は甚だ短いが、鼻で自由自在に物を拾う象は鼻が頗る長くて頸は最も短い。善く飛ぶ鳥は足が弱く、善く走る鳥は翼が小い。總べてこれらの現象は、皆常に用ゐる器官が發達し、常に用ゐぬ器官が衰えた結果とより外に思はれぬ。

 「斯くの如く動物の身體は丁寧に調べて見ると、皆常に用ゐる器官が益々發達し、常に用ゐぬ器官が漸々衰へて、遂に今日の姿になつた如くに見えるが、果してその通りならば、蝙蝠の先祖は決して今日の蝙蝠の如き發達した翼を持つて居なかつたに相違なく、また鼹鼠の先祖は決して今日の鼹鼠の如き發達した爪を持つて居なかつたに相違ない。その先祖は如何なる形のものであつたかは十分に解らぬが、動物は各種類ともに決して今日我々の見る通りの形で、世界開闢の際に突然神によつて造られたものではなく、長い年月の間に少しづゝ變化して今日の如きものとなつたといふことだけは、斷言が出來る。即ち動物の各種類は決して一時の創造によつて急に現れ出たものでなく、一歩一歩の進化によつて長い年月の間に漸々出來上つたものである」。

 ラマルクの考の大體は以上述べた如く、その要點は、第一には動物の各種類は長い年月の間に形狀が次第に變化して今日の有樣になつたといふこと、第二には動物の形狀の漸々變化するは主として各器官の用・不用に基づくとのことであるが、この考を以て種々の動物の形狀を觀察すると、一應尤もに思はれる點が隨分多くあり、今日より見れば甚だ不完全な説明には相違ないが、その時代の考としてはなかなか面白いものであつた。併しその頃フランスにはキュヴィエーといふ博物學の大家があつて、この人が全くリンネー流の生物種屬不變の説を主張したので、ラマルクの説は遂に行はれなかつた。

[やぶちゃん注:「ラマルク」博物学者ジャンバティスト・ピエール・アントワーヌ・ド・モネ、シュヴァリエ・ド・ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck 一七四四年~一八二九年)は「biology」(生物学)という語を真に現代の意味で最初に使用した人物の一人。ウィキの「ジャン=バティスト・ラマルク」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『ラマルクは貧しい下級貴族の家に生まれ、従軍の後に博物学に関心を持ち、フランスの植物相に関する多数の著書を著した。これによって、ビュフォンの関心を引き、フランス自然誌博物館の職に就く事になった』。『一七八九年、フランス革命が起きた際に彼はこれを熱烈に歓迎し、貴族の称号を破り捨てたりした(終生革命の意義を擁護したことから後世の革命思想家に大きな影響を与えた)。一七九九年にフランスの科学アカデミーの会員となり、一七九三年に自然史博物館に入って昆虫などの研究しているうちに無脊椎動物の専門家になった。 一八〇〇年無脊椎動物の分類によって、進化論者たることを宣言した』。『植物研究に専念した後、彼は無脊椎動物(彼が作ったもう一つの言葉である)の管理者となった。彼は一連の公開講座を開いた。一八〇〇年までは、彼は種の不変を信じていた』が、『一八〇一年刊の『無脊椎動物の体系』でキュヴィエの天変地異説を批判』、『一八〇二年に「生物学」(biologie)という用語を作り、脊椎動物と無脊椎動物を初めて区別した』(この時点でリンネの体系を批判的に正しく改良したと言える。パートの「リンネー」の私の注を参照のこと)。『パリの軟体動物に関する研究の後、彼は次第に、長い時間の中で、種が変化するものであるとの確信を持つに至った。彼はその説明を考え、大筋を彼の一八〇九年の著作『動物哲学』の中に記した。彼の進化論は一般に用不用説と呼ばれる』。『ただし、この『動物哲学』は学術書ではなく、啓蒙書・教科書的な書物である。この書の内容は、ラマルクが新しく唱えた説ではなく、当時博物学界で一定の支持を得ていた説であり、彼はそれを大衆に広めたにすぎない。また、この書の主題も用不用説ではなく、もっと広く進化と遺伝全体について論じたものである』。ラマルクは一八二〇年に失明したが、二人の娘に助けられて『無脊椎動物誌』七巻を完成させている』。『彼の研究の重要な成果の一つは、明らかに無脊椎動物の分類体系である。また、彼が進化の考えを得たのもこの研究であるとされる』。『無脊椎動物については、ほとんど手付かずの状況であったらしい。リンネの体系では無脊椎動物門は昆虫類と蠕虫類に分けられていただけであった。一七九七年に発表した体系ではこれを五綱に分け、一八〇一年の「無脊椎動物の体系」では七綱とした。『動物哲学』ではさらに十綱とし、これは現在の体系にかなり近づいている。また、彼はこれらを体制の高度さの順に配置し、進化の考えをそこに見せている』。『ラマルクは、現在では普通、獲得形質の遺伝という不名誉な遺伝の法則に関わって思い出されるだろうが、チャールズ・ダーウィンやそういった人達は、彼のことを進化論の初期の提唱者として知っている。例えば、ダーウィンは一八六一年にこう書いている』。『「ラマルクは、この分野での説が多大な関心の的となった最初の人物である。この正に祝福されるべき博物学者は、彼の考えを一八〇一年に初めて出版した』……『彼は無機的世界だけでなく、生物の世界でもあらゆる物が変化する可能性があり、そこに奇跡が絡む訳ではない事に対し、初めて注意を喚起したという点で、偉大な貢献をした。」』。実は『ラマルクは自然発生説を信じていた』が、しかも『このことが彼の進化論に決定的な意味を持っていた。彼は最古に発生した生物が現在もっとも進化した生物であると考えていたのである。彼の進化論はその信念との整合性のためのものである』。『彼は個々の個体がその生涯に応じて体を変化させ、変化の一部がその個体の子孫に継承されることで生物は進化していくと考えた。子孫はその親より進んだ位置から一生を始められるから、有利な方向へ進化する事が出来る。適応の生じる機構としては、彼は、個々の個体がその種の能力をよく使う事でそれを増加させ、またある物を使わない事でそれを失うと説いた。進化に関するこの考えは、全てが彼独自のものではないが、彼はダーウィン以前の進化論の責任を一人で背負い込む形となっている』。『ラマルクは、二つの法則をまとめている』。

『発達の限界を超えていない動物であれば、如何なるものでも、頻繁かつ持続的に使用する器官は、次第に強壮に、より発達し、より大きくなり、その力はその器官を使用した時間の比率による。これに対して、いかなる器官でも、恒常的な不使用は、僅かずつ弱々しくなり、良くなくなり、次第にその機能上の能力がなくなって、時には消失する場合もある』。

『それぞれの個体で、自然に獲得したものや失ったものの全ては、それがその品種が長い間置かれていた環境の影響によるものであっても、そしてそこから生じた特定器官の優先的な使用や恒常的な不使用の影響によるものであっても、獲得された形質が両性に共通であるか、少なくとも子供を作る個体に共通ならば、それらは、その個体の生殖による新しい個体に保持される。そしてある個体が獲得した形質は、次第に同種の他の個体にも共有される』。

さても、このの『法則が「用不用説」の用不用の部分に』、の『法則が「獲得形質の遺伝」にあたる(下線やぶちゃん)。この二つの仮説と前述の自然発生説によって、同時代に様々な発展段階の生物があることを説明しようと試みた』。『ラマルクは、そのような世代の継承を、前進的なものであると見なし、それにより、単純な生物がより複雑で、ある意味で完全なものへと、時間をかけて(彼のいう仕組みによって)変化するのであると考えた。彼はこのように目的論的(目的に方向を定めた)過程を、生物が進化によって完全なものに成る間に経ると信じていた。彼はその生涯、論争を続けた。古生物学者のジョルジュ・キュビエの反進化論的意見に対する彼の批判の為には孤独である事を厭わなかった』。『今西錦司はラマルクの議論の中に中立的な形質についての議論が欠けていることから批判的』ではあったが、その『獲得形質が同種他個体によって共有されていくという議論をさして、集団遺伝学の萌芽ではないかと』も指摘している。ラマルクを『擁護する者は、今日、彼は不公平な非難を浴びていると考えている。生物の進化に関する何の枠組みも存在しない時代に、彼が生物の進化を認めた事を彼らは強調する。彼はまた、機能が構造より先行するという、当時の進化論者の主張の文を批判している。他方、獲得形質の遺伝に付いては、現在では広く反駁を受けている。ワイスマンはこの説への反証として、ネズミの尻尾を切る実験を行い、負傷が子孫には伝わらない事を示した。ユダヤ人やその他の宗教的集団では、何百世代にも亘って割礼を行って来たが、彼らの子孫に包皮が少なくなったとは聞いていない。しかしながら、ラマルクは負傷や切除を真の獲得形質とは見做して居らず、動物自身の必要性から生まれたもののみが伝わると考えていた』。『今日において、個体がその生涯の間に身に付けた形質が子孫に伝わるとの考えは、部分的に認められている。ごく最近までは、近代の遺伝学的知見に照らして、成立しないと考えられていたが、生殖質と他の性質が分離している動物門はともかく、単細胞生物や他の門において個体の生涯中におきた突然変異などがもとによって獲得された形質は条件によってはその細胞が繁殖すれば遺伝される。また非突然変異であってもエピジェネティクスという遺伝的機構等、幾つかの発見で、それが全く見当外れとは言えなくなった。従って、進化のある局面では、ラマルキズムの出番もあるのかも知れない。他に現代的な見方では、文明の進化に関するミーム』(meme:人々の脳から脳へとコピーされる情報であり、また社会・文化を形成する様々な情報(習慣・技能・知識・物語などの人から人へと転写される情報)として分析される対象体)『の考えは、ラマルク風の非遺伝子的な遺伝形式である』。また、アメリカの古生物学者で科学史家としても知られるスティーヴン・ジェイ・グールド(Stephen Jay Gould 一九四一年~二〇〇二年)は、『人間の文化的進化の本性は学んだことを書いたり教えたりすることで次の世代に伝えることができるという点でラマルク的である、と述べ』ている。『彼の進化論の基礎をなす思想として、「生物は前進的に姿を変えてゆく能力がその中に備わっている」という点が上げられる。そこまで言わずとも、生物自身に自分を変える性質を認める立場はラマルキズムと言われる』。『彼の進化論が生まれた背景として、彼が実は新しくなかったからではないか、との見方がある。彼自身は、自然哲学的な思想を背景として持っており、当時次第に明らかとなってきた、科学における実証主義的な傾向を嫌っていたようである。当時、彼のことを「最後の哲学者」ということがあったが、これは当時ですら古くなった彼への揶揄の意が込められていたらしい』。『彼の推論は、多くの事実に基づいてはいるが、それらは彼が無脊椎動物の研究などから着想した前進的進化の存在を前提として配置されているとも取れる。また、彼の進化に関する仮説は、それなりに検証可能な体はなしているが、実際にはそれに関する検証や実験は行われていない。彼においては諸動物の比較検討から、前進的進化があったと判断できれば、それで証拠として十分だったのであろう。むしろ実証主義的な研究を固持したキュヴィエからは、そのような姿勢が納得できなかったということもあるようである』。『ラマルクは進化という概念を支持し人々の関心を呼び起こした、とダーウィンは「種の起源」第三版で彼を讃えた。それだけでなく用不用説を受け入れ、またそれが実際に起こるものだと説明するために、自らのパンゲン説』(パンゲネシス(pangenesis):ダーウィンが唱えた形質遺伝に関する仮説。動植物の体の各部・各器官の細胞には自己増殖性の粒子であるジェミュール(gemmule)なる物質が含まれているとし、この粒子が各部に於いて獲得した形質の情報を内部に溜め込み、その後、それは血管や道管を通して生殖細胞に集まって子孫に伝えられ、子孫においてまた、体の各器官に分散していって親の特徴・形質が伝わるとする説)『を部分的に拡張することまでした。ダーウィンと多くの同時代人もまた獲得形質の遺伝を信じており、その考えは遺伝子伝達の細胞内機構が発見されるまでは、よりもっともらしい仮説だった。(ついでながら、ダーウィンは、遺伝の仕組みが分かっていないことから、自説が不完全なものであることは認識していた。)』とある。

「斯く身體の外形は皆その動物の生活の模樣に應じて居るに拘らず、之を解剖してその構造を調べて見ると、蝙蝠と鼹鼠、又は蟷螂と「ばつた」とは實に極めて互に善く似て居て、恰も同一の鑄型(いがた)に入れて造つたものを、單に少しづつ或は延ばしたり、或は縮めたりして造つたかと思はれる程である」「蝙蝠」は現在、

 脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱ローラシア獣上目翼手(コウモリ)目 Chiroptera

に属する(因みに近代以前、少なくとも江戸時代の先に出た小野蘭山の「本草綱目啓蒙」などでは「かはほり」として「ムササビ」(哺乳綱齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista)と共に鳥類に分類されてある)。一方、「鼹鼠」(「鼹」は音「エン・オン」で単体で「もぐら」の意)は現在、

 哺乳綱トガリネズミ形目モグラ科 Talpidae

で、他方、「蟷螂」と「ばった」はそれぞれ、

節足動物門昆虫綱カマキリ目 Mantodea

 昆虫綱直翅目バッタ目雑弁(バッタ)亜目 Caelifera

に属するから、孰れの類似性もこれは現在の「平行進化」ではなくて確かに原型は同じである。]

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第二章 進化論の歷史(1) 序・一 リンネー(生物種屬不變の説)

 

    第二章 進化論の歷史

 

 進化論の大意を話すには、先づ生物進化の考の起つて來た歷史を一通り述べて置いた方が、之を了解する上に都合が宜しいやうに思はれるから、ダーウィンが彼の有名なる「種の起源」といふ書物を公にするに至つたまでの進化論の歷史を、極めて簡單に述べて見よう。尤も進化論の歷史といへば殆ど動物學の歷史といつても宜しいやうなもので、その最も古い所は紀元前三百何十年かのアリストテレス時代から説き起さなければならぬが、こゝではたゞ生物の進化に關する考が如何に時と共に變遷し來つたかを明にするのが主であるから、歷史上の詳細な事蹟は一切省いていはず、人名の如きもたゞその時々の思想の代表者とも見るべき人の名を僅に三つ四つ掲げるだけに止める。

[やぶちゃん注:「アリストテレス」(ラテン語:Aristotelēs 前三八四年~前三二二年)]は古代ギリシャの博物学的哲学者で自然学研究の中では特に生物学、特に動物学に強い興味を示した。ウィキの「アリストテレス」によれば、動物学の『その研究の特徴は系統的かつ網羅的な経験事実の収集である。数百種に亘る生物を詳細に観察し、かなり多くの種の解剖にも着手している。特に、海洋に生息する生物の記述は詳細なものである。また、鶏の受精卵に穴を空け、発生の過程を詳しく観察している。 一切の生物はプシューケー』(和訳では「霊魂」)『を有しており、これを以て無生物と区別されるとした。この場合のプシューケーは生物の形相であり』、『栄養摂取能力、感覚能力、運動能力、思考能力によって規定される』『また、感覚と運動能力をもつ生物を動物、もたない生物を植物に二分する生物の分類法を提示し』、『』人間は理性(作用する理性〔ヌース・ポイエーティコン〕、受動理性〔ヌース・パテーティコン〕)によって現象を認識するので、他の動物とは区別される、としている』(そのために以下に見るように分類学上では「人類」が「胎生四足類」と区別して別立てされてある)。私の所持する岩波書店刊アリストテレス「動物誌上」(島崎三郎訳一九六八年)の「訳者序」によれば、その分類大綱は、

   *

 有血動物(赤い血液を持つ動物。但し、第七章で「総ての有血動物は背骨を持つ」としているので現行の「脊椎動物」と同義的である。彼は分類では四足を限定的に重視した)

  人類

  胎生四足類(被毛類)

  卵生四足類(被甲類(爬虫類)と現行の両生類であるが、後者は記載が少ない)

  鳥類(被羽類)

  魚類(被鱗類)

(中間型として「猿類」(人類に近い胎生四足類)・「鯨類」(胎生肺呼吸であるが魚類に近い)を挙げ、コウモリやダチョウは四足類と鳥類の中間生物、「蛇類」は魚類とともに「無足類」として足のない「蜥蜴類」とした)

 無血動物(赤い血を持たない動物であるが、但し、アリストテレスはそれに代わる体液の存在を認めている。

 ㋐ 軟体動物(頭足類)

 ㋑ 軟殻類/硬皮類(甲殻類)

 ㋒ 有節類(所謂、「虫類」。昆虫類・多足類・蛛形類などの節足動物に、環形動物・扁形動物・円形動物をも含む)

 ㋓ 殻皮類/貝殻類(貝類に加えてウニ類やホヤ類を含む)

 ㋔ 前記に含まれないヒトデ・ナマコ・イソギンチャク・クラゲ・カイメン等の『最下等の、植物に近い動物』(『特に名称はないが、一五五二年にイギリス人ウォットン』固着性水生動物の総称として『Zoophyta(植虫類)と名付けたもの』に近い。引用は島崎氏のそれ)

   *

実にこれらの古典的で見た目だけの杜撰な分類体系は中世まで絶対視され、「無血動物」に至っては、後掲されるラマルクが一七九四年に同動物群の中の『環虫類に赤血を有するものがある、という矛盾から、有血動物を脊椎動物、無血動物を無脊椎動物と呼ぶ』ようになる『まで、実に、二千年以上も』この「無血動物」という術語は用いられてきた(引用は島崎氏のそれ)。]

 

 凡そ動物でも植物でも親・子・孫といふ樣な近い一代づゝの間には、少しも著しい變化を見ることなく、代々子は全く親の如く、親は全く祖父母の如くであるやうに思はれるから、我々は通常生物は何代歷ても其の形狀・性質ともに少しも變化の起らぬやうな心持ちがして、生物の種類は長い年月の間には進化するものであるや否やといふ疑問が、胸に浮ぶことさへ殆ど決してない。それ故、昔から誰も馬の先祖は何處までも今のと全く同じやうな馬、犬の先祖は何處までも今のと全く同じやうな大であると思つて居て、尚その先の先祖はと尋ねたら、天よりや降りけん、地よりや湧きけんとでも言つて、之を知らぬことを白狀するか、又耶蘇教の人ならば天地開闢の時に神樣がかやうに御造りなされたものぢやと答へるより外には仕方がなかつた。我が國などでは今日と尚かやうな考を持つて居る人が甚だ多いやうであるが、之は決して素人ばかりがさやうであつた譯ではなく、動植物を專門に研究して居た西洋の學者等も昔はやはり皆この通りで、近代分類的博物學の元祖といはれるスウェーデン國のリンネーといふ大家でさへかやうな考を持つて居て、その著書の中に「凡そ地球上にある生物の種類の數は天地開闢の時に天帝が造つただけ有る」と明に書いて置いた。 

 

     一 リンネー(生物種屬不變の説)

Rinne

[リンネー]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 リンネーといふ人は、今より二百七年前即ち西暦千七百七年に生れ、中學校で餘り成績が宜しくなかつたため、父親が靴屋へ奉公に遣らうとした所を、或る醫者に助けられて醫科大學に入學したが、生來博物學的の天才があつたものと見え、忽ちその方面に發達して、後にはウプサラ大學の博物學教授となつた人で、我が國でいへば、小野蘭山とか飯沼慾齋とかいふやうな多識家であつた。漸く二十八歳許の時に「システマ、ナツレー」即ち「博物綱目」とでも譯すべき表題の書物を著したが、この書によつて博物學に一大改革が行はれた。それは何かといふに、その頃までは各國ともに動植物の名稱には皆自國の俗語を用ゐ、同じ犬のことでも國々により「ドッグ」とか「シャン」とか「フンド」とか又は「カネ」とか「ぺルロ」とか「サバカ」とか名づけ、其の上、山の犬とか、野の犬とか、耳の長い犬とか、尾の短い犬とかいふやうに、隨意に形容詞などを附けて用ゐて居たから、動植物各種の名稱が實に種々雜多で少しも一定せず、隨つて一疋の蟲一本の草を採つて來ても、是が何といふ蟲か、何といふ草か、探し出すことが殆ど出來なかつた所へ、リンネーは其の頃世の中に知られて居ただけの動植物の種類を悉くこの一册の書物の中に纏めて掲げ、動物界・植物界ともに先づ之を若干の綱に大別し、更に綱を分ちて若干づゝの目とし、各目中に若干の屬を置き、總べての種類を分類して、この中のどこかに編入し、屬・種ともに皆ラテン語の名稱を附け、各種には之を識別するに必要な點だけを短く書き添へて檢索に使にし、また學術上に用ゐる動槇物の名稱は恰も人間に姓は何、名は某と二つ名前がある如くに必ず屬名と種名とを竝べて書くことに定めて、所謂學名の形か一定したが、斯ういふ調法な書物が出來たから、誰でも自分で動物・植物の名稱を探し出すことが極めて容易になり、「システマ、ナツレー」一册さへ持つて居れば、山へ行つても野へ行つても、禽獸草木の名が直に解るやうになつた。植物學で今日でも尚用ゐて居る「林氏綱目」といふのは即ちこの書である。またその頃この書で探して見ても到底知れぬ程のものならば、之は無論まだ世に知られて居ない新種であるから、新に名を附け、之にリンネー流の型(かた)に隨つて簡單な特徴を書き添へて公にすれば、世人は皆之を承認した。それ故に新種發見を以て何よりの名譽と心得る人等は誰も彼も皆採集を試み、一つでも餘計に新種を發見して新しい名を附けやうと互に競爭したので、この書の出版になつた後は博物學といへば全く分類・記載だけの學問の如き有樣となり、この書も常に訂正增補せられて終に第十二版まで出來、其の著者なるリンネーは實に斯學の泰斗と仰がれ、非常な大學者として世に尊敬せられるに至つた。斯くの如く著しい勢力の有つたリンネーの著書の中に、動植物の種類は最初神が造つたそのまゝのもので、增(ふ)えもせず減(へ)りもせず、少しも變化したことのないものであると明に書いてあつたから、その頃博物學を修める人々は、之を金科玉條と心得、偶々生物の種類は長い年月の間には多少變化するものであらうといふやうな考を出す人が有つても、誰も之を相手にしない程であつた。併し十八世紀の終より十九世紀の始に至る頃には、實際生物進化の事實に氣が附き、且相當の理論を考へて之を説明しようと試みた學者が全くないことはなかつた。

[やぶちゃん注:「リンネー」「分類学の父」と呼ばれるスウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネ(Carl von Linné /ラテン語名:カロルス・リンナエウス Carolus Linnaeus 一七〇七年~一七七八年)。牧師だった父親はアマチュアの植物学研究家で熱心な園芸愛好家でもあり、若き日の彼は実父から多くの植物の名を教えて貰い、結局その影響を強く受けている(丘先生の叙述は父親の実像をかなり捻じ曲げている)。ウィキの「カール・フォン・リンネ」から引くと、『それまでに知られていた動植物についての情報を整理して分類表を作り』、その著書「自然の体系」(Systema Naturae:一七三五年刊)において、『生物分類を体系化した。その際、それぞれの種の特徴を記述し、類似する生物との相違点を記した。これにより、近代的分類学がはじめて創始された』。『生物の学名を、属名と種小名の』二語の『ラテン語で表す二名法(または二命名法)を体系づけた。ラテン語は「西洋の漢文」であり、生物の学名を』二語の『ラテン語に制限することで、学名が体系化されるとともに、その記述が簡潔になった。現在の生物の学名は』現在も『リンネの考え方に従う形で、国際的な命名規約』『に基づいて決定されている』。『分類の基本単位である種のほかに、綱、目、属という上位の分類単位を設け、それらを階層的に位置づけた。後世の分類学者たちがこの分類階級をさらに発展させ、現代おこなわれているような精緻な階層構造を作り上げた』。また、当時、『火星を表す惑星記号の「」を生物学で雄(オス)を表す記号として使い始めた』のも彼の発案によるものである。但し、「自然の体系」では、特に植物分類法として「雄蕊(おしべ)」の性質で「綱」を分け、「雌蕊(めしべ)」の性質で「目」を分けるという画期的な「雌雄蕊(しゆうずい)分類法」(sexualsystem)によって注目されたものだが、現在の植物分類ではこの分類手法は捨てられており、リンネはクジラを「魚類」に分類する誤りも犯した(実際、リンネは動物分類は苦手であった)。そもそもがリンネの時代には「生物進化」概念が無いことから、彼の分類体系は専ら形態上の見た目の類似異同の差異によるという限界があったのである。以下、「日経ナショナル ジオグラフィック」公式サイト内の「リンネ 植物にかけた情熱の人」に、リンネは『生物の起源については当時の主流だった神による創造説を心から信じ、自然の研究は神が創造した世界の神秘的秩序を明らかにする作業だと考えていた。特別に信心深かったわけではなく、自然界に神の意志以外の力は一つも存在しないと妄信しているわけでもなかった。リンネが今日でも偉大な科学者と尊敬されている理由は、自然の多様性に高い価値を認め、すべてを解明しようとしたからだ。人類は世界中のあらゆる生物を発見し、名前をつけ、数え、理解し、ありがたく鑑賞しなければならないというのが、リンネの信条だった』とある。

「ウプサラ大学」スウェーデンのウプサラ(Uppsala)にある、一四七七年に創設された北欧最古の大学。

「小野蘭山」(享保一四(一七二九)年~文化七(一八一〇)年)本草家。二十五歳で京都丸太町に私塾衆芳軒を開塾、多くの門人を教え、七十一歳にして幕命により江戸に移って医学校教授方となった。享和元(一八〇一)年~文化二(一八〇五) 年にかけ、諸国を巡って植物採集を行い、享和三(一八〇三)年七十五歳の時に自己の研究を纏めた「本草綱目啓蒙」を脱稿した。本草一八八二種を掲げた大著で三年かけて全四十八巻を刊行、日本最大の本草学書になった。衰退していた医学館薬品会を再興、栗本丹洲とともにその鑑定役ともなっており、親しい間柄であった。後にこの本を入手したシーボルトは、蘭山を『東洋のリンネ』と賞讃した(ウィキの「小野蘭山」に拠る)。

「飯沼慾齋」(いひぬま(いいぬま)よくさい 天明二(一七八二)年~慶応元(一八六五)年)医師で本草学者。「リンネ」の植物分類法を最初に採用した草木図説を出版した。伊勢国亀山(現在の三重県亀山市)出身。ウィキの「飯沼慾斎によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『小野蘭山について本草学を学んだ。後、宇田川榛斎に入門し蘭学を修め、大垣に帰り蘭方医を開業し名声を博した、文政十一年(一八二八年)には人体解剖もおこなっており、本業の医家としても先駆者であった。六十歳を過ぎても壮健で知識欲旺盛であり、自ら慾斎と号したことでもその意欲が覗い知ることが出来る。『草木図説』執筆の傍ら六十八歳で自ら種痘を試み、七十歳を越してから門人とともに写真術の研究をはじめ、八十歳では、博物学・医学・本草学の知識を広めようとシーボルトと会見せんとした(シーボルトの帰国で実現しなかった)。最晩年には、足を傷めたが、山駕籠に乗っては深山まで植物採集に出かけたという』。「草木図説」は『草部二十巻・木部十巻・禾本沙草無花部十巻からなり、生前に刊行されたのは、草部二十巻のみであったが、その価値は、時代を経ても色あせることなく海外でも高く評価されていた』。『牧野富太郎も増訂草木図説を昭和に入ってから出版しているほどで、まして木部の刊行は実に死後百二十年たった昭和五十二年(一九七七年)のことであった』とある。

『二十八歳許の時に「システマ、ナツレー」即ち「博物綱目」とでも譯すべき表題の書物を著したが、この書によつて博物學に一大改革が行はれた』言わずもがなかも知れないが、少しく詳しく言うと、この初版によって一気に改革が行われた訳では当然、ない。一七三五年(二十八歳)に動物・植物・鉱物の三界を扱って分類を試みた「自然の体系」(Systema Naturae 第一版)を出版、「動物命名法」の基準はその二十三年後に出た第十版(一七五八年刊)に発表され、他に一七三七年の「植物の属」(Genera Plantarum)、一七五三年の「植物の種」(Species Plantarum:この第一版が「植物命名法」の基準となった)といった刊行と流布の結果の「一大改革」であった。以上のデータは「東京大学農学部図書館」公式サイト内の『東京大学農学部創立125周年記念農学部図書館展示企画 農学部図書館所蔵資料から見る「農学教育の流れ」』にある鈴木和夫氏のCarl von Linne (カール・フォン・リンネ) 1707-1778に拠った。それによれば、「自然の体系」に於いて植物種は七千七百種を定めたとあり、宮内庁公式サイト内にある、現天皇陛下の「リンネ誕生300年記念行事での基調講演」(英国・平成一九(二〇〇七)年五月二十九日・於ロンドン・リンネ協会)の「仮訳)」によれば、他に「植物界」は二十四綱に、「動物界」は「四足動物」・「鳥類」・「両生類」・「魚類」・「昆虫」・「蠕虫」の六綱に、「鉱物界」は「岩石」・「鉱物」「採掘物」の三綱に分類した、とある。

「或る醫者に助けられて」確かに、ウィキの「カール・フォン・リンネ」には、『若い頃には、父親や母方の祖父と同様に聖職者となる予定であった。彼は町の内科医から教えられた植物学に興味を持ち、ルンド大学』(現在のスウェーデン南部のスコーネ県ルンド市にある国立大学。現在のスウェーデン領土内の大学としては二番目に古い)へ入学、一年後にはウプサラ大学へと移ったが、『この間に、リンネは植物の分類の基礎が花のおしべとめしべにあると確信するようになり、短い論文を書いて助教授となった』とはある。但し、前注の私の疑義も参照のこと。

「シャン」シィアン。フランス語の「犬」の意の「chien」。

「フンド」フント。ドイツ語の「犬」の意の「Hund」。

「カネ」カーネ。イタリア語の「犬」の意の「cane」。

「ぺルロ」スペイン語の「犬」の意の「perro」。

「サバカ」サバーカ。ロシア語の「犬」の意の「собака」(ラテン語転写:sobaka)。]

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― お子良子の一もとゆかし梅の花 芭蕉

本日  2016年 3月 5日

     貞享5年 2月 4日

はグレゴリオ暦で

    1688年 3月 5日

 

神垣(かみがき)の内に、梅一木(ひとき)も無し。如何に故有ることにやと、神司(かみづかさ)などに尋ね侍れば、唯だ何とは無し、自(おのづか)ら梅一本(ひともと)も無くて、子良(こら)の館(たち)の後ろに一もと侍る由を語り傳ふ。

 

お子良子(こらご)の一もとゆかし梅の花

 

「笈の小文」(順列操作がなされている)。サイト「俳諧」の「笈の小文」によれば、この日に伊勢神宮外宮を参詣し、その折りの句と比定されてある。富山奏氏は「新潮日本古典集成 芭蕉文集」注で嘱目吟ではないと断定されている。これはしかし、恐らく、この日の句作ではなく、後日の回想吟だという謂いではなく、実際に子良の館で梅を現認しての吟ではないの謂いである(前書からもそれは判る)。何故なら、僧形の芭蕉は伊勢神宮には入れず、旧外宮正殿のあった場所の南百メートル余に置かれた僧尼遥拝所から外宮を拝むしかなく、およそ神聖な(後述)子良の館なんぞを見ることは絶対に出来ないからである。

「神垣」伊勢神宮の神域。

「唯だ何とは無し」ただ何となく気がついて見るとないだけであって、別段理由はない、の意。

「子良の館」「お子良子」の「子良(こら)」と「御(お)子良子」は同義で、小学館の「日本大百科全書」の中西正幸氏の「子良(こら)」の項によれば(下線やぶちゃん)、伊勢神宮の『古い職掌の一つ。物忌(ものいみ)の別名。「子等」とも記すように、物忌の子供たちを総称したもの』。延暦二三(八〇四)年撰「延暦儀式帳」によれば、『皇大(こうたい)神宮に九物忌(大物忌(おおものいみ)・宮守(みやもり)・地祭(とこまつり)・酒作(さかとこ)・清酒作(きよさかとこ)・滝祭(たきまつり)・御塩焼(みさき)・土師器作(はじものつくり)・山向(やまげ))』が、『豊受大神宮には六物忌(大物忌・御炊(みかしぎ)・御塩焼・菅裁(すがたち)・根倉(ねぐら)・高宮(たかのみや))』が配され、他の『諸別宮にも』各一名の『童男や童女が置かれている。大物忌をとりわけ大子良(おこら)と称し、大物忌・宮守・地祭を三色物忌(みくさのものいみ)という。その所役は大御饌(おおみけ)の調備や奉奠(ほうてん)、正殿の開閉扉にかかわる御鎖(みかぎ)の手附初(てつけぞめ)など、もっとも神聖かつ重要なもので、禰宜(ねぎ)にも勝る祭祀(さいし)上の特権を有する。天照大御神(あまてらすおおみかみ)に朝夕近侍するためつねに厳重な斎戒・禁忌が要求され、肉親の死に際して解任されるなど、いささかも穢(けがれ)が許されなかった。幼童であるため、祭典の奉仕にあたっては物忌父(ものいみのちち)や母良(もら)・副嫗(そえのうば)などの介添え役が加わり、子良の員数も歴史を経るにつれて、しだいに減少した』とあり、所謂、神饌(みけ)や神域での神聖な行為に従事する童子であるが、諸注は圧倒的に少女・未婚の少女と記す(芭蕉の頃には少年は廃されていたかも知れないが、確言は出来ない。少年を奉仕してはいけない理由はない)。少なくとも、そうした神聖な空間内に従事する実に――幼い童子――であるが故にこそ、決定的な可憐さを添えた「ゆかし」であるのであり、一部の注で安易に「巫女(みこ)」とするのは厳密には間違いであると言うべきである。現行は勿論、当時でも「巫女」は年齢上限がもっと上と思われ、ここに出る真の清浄可憐な雰囲気は生み出せないと私は思うからである。「子良の館」というのはそうした「子良」が斎戒(物忌)をして待機するために設けられた詰所で、上記の記載にも参考にさせて戴いた、こちらの個人サイト内の「伊勢で詠んだ二十の発句の鑑賞の為に!(1)松尾芭蕉と伊勢神宮外宮」によれば、江戸時代には北御門(きたみかど)の鳥居を過ぎた右側辺りに子良館(こらたち)と呼称して存在したが、現在は明治政府によって取り壊されてしまい、存在しないとある。

 真蹟詠草に、

 

梅稀(まれ)に一もとゆかし子良の館(たち)

 

とあるのが初案(山本健吉「芭蕉全句」)であるが、実際に詠じて見ると、これはそれぞれ句がブツブツと切れて後味が悪く、句意の清浄可憐と致命的に齟齬し、「新潮日本古典集成 芭蕉句集」の今栄蔵氏の指摘するように「稀」と「一もと」との同義重複という強い難点もある。

 土芳は「三冊子」の本句の説の中で、

 

師のいはく、「むかしより、此所に連俳の達人多く句をとどむ、終に、此梅のことをしらず」、と悦ばしく聞出ける也。風雅の心がけより此事とゞまるを思ひしれば、やすからぬ所なり。

 

と記している。実は芭蕉会心の作であったことがここから窺えるのである。それにしても確かに、一本だけはそこある、というのだから、訳もなく、禁忌ではなかったということになろうが、しかしそれは逆に、厳しい斎戒の場に一本だけというところに選ばれた神聖性が隠されていると読むべきである。伊勢神宮の古式の中には梅一本(ひともと)の由縁がきっとあったに違いないと私は思うのである。

「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 何の木の花とはしらず匂ひかな 芭蕉

本日  2016年 3月 5日

     貞享5年 2月 4日

はグレゴリオ暦で

    1688年 3月 5日

 

   伊勢山田

 

何の木の花とはしらず匂ひかな

 

「笈の小文」より(順列操作されてある)。この日、芭蕉は伊勢神宮外宮を参拝した(貞亨五年二月中旬発杉山杉風宛書簡に『其元、御無事と見え候而(にて)、歳旦、伊勢にて一覽、珎重(ちんちやう)に存候。拙者、無事に越年いたし、今程山田に居申候。二月四日參宮いたし、當月十八日、親年忌御座候付、伊賀へかへり候て、暖氣に成(なり)次第、吉野へ花を見に出立(いでたた)んと心がけ、支度いたし候』とある)。次の句の注でも記すが、彼は僧形であるから、直接の正殿参拝は許されず、旧外宮正殿の南百メートルほどのところにあった僧尼遥拝所からの参拝であった。西行の「山家集」に載る、

 

 何事のおはしますかは知らねども忝なさに涙こぼるる

 

のインスパイアであるが、西行も同じく遥拝せねばならなかったはずであり、実はこの一首や芭蕉の句は、僧尼遥拝所の物理的な微妙な距離感が基にあって、それがしかも同時にある感覚上のパースペクティヴ、人界と神域との見えながら届かぬという時空間を創り出し、しかもそれが、芭蕉の場合、嗅覚上のそれ(これを梅の花の香とするような解釈には私は従わない。次句「お子良子(こらご)の一もとゆかし梅の花」を見よ。但し、後掲する付句はそれではある。しかしそれは付け句である以上、シチュエーションを変えるのは当然であって本句解釈の素材足り得ない)にメタモルフォーゼさせてあるところが妙味である。

 山本健吉氏の「芭蕉全句」によれば、これは山田の益光亭で興行した八吟歌仙の発句で、

 

 何の木の花とはしらず匂ひかな    芭蕉

    こゑに朝日を含むうぐひす   益光

 

と付けているとある。即ち、本句は外宮遥拝のエクスタシーを益光亭庭前にあったであろう梅の花の香に添えて仕立て替えした挨拶句ではあるのである。山本氏は続けて、この益光のそれは『朝日に匂う梅の花に鶯の囀りを付けたもののようである。それにこの花は西行の「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」の歌を踏まえていると思われる。この句は芭蕉のいわゆる「大国に入つての句」(赤冊子)の代表句ともいうべき品格を持っている』と絶賛する。私の同感である。

2016/03/04

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第一章 進化論とは何か(5) 五 説明には尚議論あること / 第一章 進化論とは何か~了

     五 説明には尚議論あること

 

 前に述べた通り、生物進化の事實は多少生物學を修めた者より見れば最早決して疑ふべからざるものであるが、生物進化の起るは如何なる理由によるかと其の原因を尋ねると、之に對する説明はまだ決して十分なものとはいはれぬ。生物進化の理由を説明しようと試みた人は、ダーウィン以前にも多少ないこともなく、ダーウィン以後には隨分多數にあつたが、その説く所は孰れも或る一部の事實には適するが到底生物進化の全部を説明するには足らぬ。それ故、今日と雖も多數の學者はこの不足を補はんがため、各々或る假説を考へ出して進化の理由を説明せんと試みて居るが、一方の事實が善く説明が出來るかと思へば、他の方で差支が出來たりして、中々滿足に行かず、甲の論者が或る假説を提出すれば、乙の論者は其の説の不都合なる點を擧げて、相辯じ相駁していつ形付くやら解らぬ有樣である。今日進化論者の相爭うて居る問題は一部は斯くの如き理論的のものであるが、之も如何に決着したとて一向生物進化の事實を左右する樣な結果を生ずることはない。恰も何故地球が圓いかといふ問題に對して學者間に如何に爭があらうとも、地球の圓いといふ事實には少しも影響を及ぼさぬと同じことで、たゞ適當な説の出るまでは生物進化の理由が十分に解らぬといふまでである。

 斯くの如く生物進化の理由を説明するために、今まで人の考へ出した假説は種々あるが、今日の所、最も簡單で、最も多數の事實を明瞭に説明し、且差支の生ずる場合の最も少いと著者の考へるのは、やはりダーウィンの述べたままの自然淘汰の説である。ダーウィンの有名な著書「種の起源」が出版になつてから今年は已に六十七年にも成ること故、その間には隨分考を凝らした學者も多數になり、特に最近二十數年間には遺傳や變異に關する實驗研究の結果、種々の著しい事實が發見せられ、そのためまたもダーウィン説に對する學者仲間の考へが餘程變つて來た。併し著者は近來の著名な新説を悉く熟讀し判斷して見て、尚大體に於てはダーウィンの説を最も適切なりと考へるから、本書に於ては理論に關する部は略々ダーウィンの考へた如くに述べる積りである。六十七年前にダーウィンの説いた所といへば、如何にも古い説の如くに聞えるが、著者が最近に發見せられた事實や、最新の學説までを考へに入れて著者が、今日最も適切であると思ふ説を述べるのであるから、一面にはまた最も新しい説と見倣すことも出來よう。

[やぶちゃん注:既注であるが、「種の起源」(原題「On the Origin of Species」)は一八五九年十一月二十四日(安政六年十一月一日相当)に出版されている。本書初版刊行の明治三七(一九〇四)年の僅か四十五年前のことで、本底本の刊行は大正一四(一九二五)年九月である。]

 また最初に生物進化の證據となるべき事實を述べて生物進化の眞なることを明にし、次に之を解釋するための理論を説くのが順序であるかも知れぬが、斯くすると理論を説明するために再び前の事實を掲げる必要が生じ、實際に於て記事が重複する憂があるから、本書に於ては使宜上この順序を倒にし、先ず生物進化の原因に對するダーウィンの説を略述し、次に進化論の根本たる生物進化の事實を證明する積りである。

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第一章 進化論とは何か(4) 四 事實の疑ふべからざること

     四 事實の疑ふべからざること

 

 凡そ事實と名づけるものは二種の別がある。一は直接に目で見え、特に證明するにも及ばぬもので、他の一は直接には見えぬが、目前の事實を集め、之より理を推して考へると是非ともかやうでなければならぬと思はれるもの、即ち間接に知り得べきものである。一例を擧げて見るに、ゴム球の圓いことは誰も直接に目で見える事實であるが、之に反して地球の圓いといふことは目前に現れた種々の事實を考へた後に間接に知り得べき事實である。我々は地球の表面を離れることが出來ず、隨つてゴム球を見る如くに地球の圓いことを一目に見ることは出來ぬが、地球の圓いといふことは、今日の開化した人間から見れば最早少しも疑ふべからざる事實であつて、之を疑ふのはたゞ知識の足らぬ未開の人間ばかりである。未開の人間は地球に關する知識の範圍が極めて狹く、僅に自分の住所の近邊だけより知らぬ故、大抵世界は何處まで行つても際限のない平坦なものと思ひ、なかなかその球形なることなどには考へ及ばない。然るに人智が進んで陸には鐵道を敷き、海には汽船を通はせる樣になると、唯地球の圓いことを確に知るのみならず、地球を餘り大きく感ぜぬ樣になる。生物學に於ても全く之と同然で、或る事實は直接に見えるが、又或る事實は目前の事實より推し考へて、始めて間接に知ることが出來る。直接に目を以て見ることの出來るのはたゞ短い時間に狹い場所の中で起る現象だけであるが、到底一目に見渡し切れぬ程の廣さに亙る事實または到底一生涯の間に經驗し切れぬ程の長時間に起る現象等と雖も、知識の進むに隨ひ、殆ど直接に見ると同樣に確に之を知ることが出來る。進化論で述ベる所の生物進化の事實の如きは略々この類に屬するもので、生物界に關する知識の足らぬ間は、素より之に氣も附かず、また了解も出來ぬが、今日生物學上の現象を一通り知つて居る人から見れば、地球の圓いといふことと同じく、最早少しも疑ふことの出來ぬ性質のものである。かやうに學問上確定したことでありながら、今日に至つても尚この事實が世に十分に認められるに至らぬのは、たゞ生物に關する普通の知識が世上に廣まつて居ないのに基づくこと故、本書には主として生物進化の證據ともいふべき事實を、生物學の各方面から幾つづゝか選み出して順次に之を記載する積りである。

 然しながら、ここに既に確定した事實と言つたのは、たゞ生物は次第次第に進化して今日の姿に達したものであるといふ極めて大體のことだけであつて、その詳細に至つてはまだなかなか十分には解(わか)らぬ。例へば一個の生物を取つて、その生物は如何に進化して今日の有樣に達したものであるかと尋ねると、確に答へられる場合は甚だ少い。現今尚生物學者が互に説を異にして居るのは、斯かる詳細の點に就いてである。前に例に引いた地球のことに比べていつて見れば、地球の圓いといふことは最早疑ふべからざる事實であるが、實際地球の表面には山もあり海もあつて、決して幾何學でいふやうな眞の球形ではない。まだ高さの十分に測定してない山や、深さの精密に知れて居ない海は、到る處に澤山ある。生物學の方も全く之と同樣で、生物の進化し來つた事實は最早疑ふことは出來ぬが、蚤(のみ)は如何なる先祖から如何に進化して出來たものであるか、蚊は如何なる先祖から如何に進化して出來たものであるかと、詳しく尋ねるとまだ解らぬことが頗る多い。併し山や海の測量が悉く出來上らなくとも地球の圓いことが明瞭に知られる如く、蚊や蚤の進化の經路が細かく解らなくても生物が總べて進化し來つたものであることは、今日既に斷言することが出來る。

[やぶちゃん注:「蚤(のみ)は如何なる先祖から如何に進化して出來たものであるか」現在の研究では、節足動物門昆虫綱隠翅(ノミ)目 Siphonaptera に属するノミ類は、長翅シリアゲムシ目シリアゲムシ科 Panorpidaeのシリアゲムシ類から進化したものとされる。東京都杉並区の「マスナガ動物病院」の「知って得するノミの話」によれば、『長翅目から進化した双翅目(ハエ類)とも近縁で』、『ノミの祖先は、哺乳動物や鳥類の排泄物や羽』毛『を餌としていたと考えられて』おり、『その祖先が進化の途中で動物寄生性を獲得し、最も最近この世に現われた最も進化した昆虫』で、『羽を失した代わりにとてつもない脚力を身につけ、動物の身体で最 も栄養に富む血液を餌として、劣悪な環境にも生き延びる生命力を身につけ』て、『数え上げたらきりがないぐらい進化の王道を進んで来た昆虫なので』あるとある。目から蚤!

「蚊は如何なる先祖から如何に進化して出來たものであるか」「MY CODE」のコラム『地球上で最も人間の命を奪う生物は「蚊」その恐ろしい進化とは?』によれば、デング熱で一躍知られるようになった侵入種(私は二十年以上前から本邦に侵入していたとふんでいる)双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ナミカ亜科ヤブカ属シマカ亜属ネッタイシマカ Aedes (Stegomyia) aegypti には、『ヒトを好む家屋周辺型の蚊は、人のにおいに高濃度で含まれる化合物(スルカトン)のにおいを敏感に感じるための、特殊に進化した遺伝子を持っていることがわかりました。これは、人以外の血を好む森林型の蚊はもっておらず、人の血を好む家屋周辺型のみに見られる特別な進化でした』。『ネッタイシマカにはもともと人以外の生物の血を吸う森林型しかいなかったのですが、どこかのタイミングで突然変異が起こり、人の血だけを好む、我々にとっては吸血鬼ともいえるような種類の蚊が誕生したと考えられます』とあるのが進化絡みでは目を引く。また、何故、吸血してもヒトが痒くならない非アレルギー性の麻酔唾液を持つ蚊が優勢を保たなかったのかを独特の進化論で考察した徳保隆夫氏のサイト「妖精現実 フェアリアル faireal.net」の蚊の妖精学が優れて面白い。必読! 目から蚊!]

 今日進化論者が尚互に相爭うて居る所は、總べてかやうな稍々詳細なことばかりで、孰れに決着しても決して生物進化の大事實を左右するやうな影響を及ぼすものではない。然るに世の中には進化論者が今日尚或る點に就いて議論を戰はして居るのを見て、進化論の根本たる生物進化の事實までがまだ疑問中のものであるかの如くに考へて居る人もあるが、是は全く誤解に基づくことといはなければならぬ。

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第一章 進化論とは何か(3) 三 進化の事實とその説明との區別

     三 進化の事實とその説明との區別

 

 されば生物の進化を論ずるに當つては、進化の事實とその原因・理由等を説明する理論とを十分に區別して置かねばならぬ。進化の事實といふのは前にも述べた通り、生物の各種類は長い年月の間には次第に變化すること、及び初一種の生物より起つた子孫も長い年月の間には次第に數種に分れ得ることであるが、此等は孰れも生物界に現れた實際の事實から歸納して論じたことであるから、唯廣く通ずる事實とでもいふべきものであつて、決して人間が勝手に思ひ付いた理論ではない。それ故此等の事實は多少生物界の事實を知つて居る人は誰も疑ふことの出來ぬ性質のもので、之を疑ひ又は之をないと思ふ人のあるのは、全く生物界の事實が廣く世間に知られて居らぬからである。若し生物界の現象に關する知識が世間一般に普及したならば、生物進化の事實を疑ふ人は無論一人も無くなつてしまふ。之に反して進化の事實を説明する理論の方は、素より人間が僅に一部を研究した結果、考へ出したことであるから、まだ不十分の點は幾らもあり、尚研究の進むに隨ひ、增補せられ改正せられることも屢々あるべき筈のもので、決して既に完結したものでもなければ又全部動かすべからざる程に確定したものでもない。寧ろまだ僅に基礎が置かれただけのものといつて宜しからう。然るに、世間では進化の事實も、之を説明する理論も、一所に混じてしまうて、進化の事實までも或る一派の人々の思ひ付いた空論であるかの如くに考へて居る人も少くない樣であるが、之は勿論大きな間違といはねばならぬ。畢竟我が國では昔から自然界の實物を觀察し研究することが少しも行はれず、研究といへばたゞ書物を讀み文宇を解することに止まり、論とか説とかいへば、皆机に向つて案じ出した空論ばかりであつたから、世人も習慣上、論とか説とかいへば、總べてかやうなものであると考へるに至つたので、我が國從來の學問の仕方から考へて見ると、進化論といふ表題を見て、やはり孟子の性善説とか佛教の原人論とかいふものと同じ樣な、單に或る人の考へ出したものかと、世人の思ふのも決して無理ではないが、本書に於て今より説かうとする進化論の如きは、決してかやうなものではなく、その大部分はたゞ實際の事實をそのまゝに記述するに過ぎぬ。このことは特に初より讀者に斷つて置かねばならぬことである。

[やぶちゃん注:「原人論」これは「げんにんろん」と読む。元は唐の僧圭峰宗密(けいほうしゅうみつ 七八〇年~八四一年)の著作。正しくは「華厳原人論」(一巻)と言う。仏教を排斥した韓愈の「原人」(人の本質を原(たず)ねるの意で、仏教に毒された世界から儒家道徳の根源的本質を求めることを述べた)説に対して華厳宗の宗旨によって人間の起源を考究し,仏教が儒教や道教などよりも優れている由縁を説明したもの。]

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第一章 進化論とは何か(2) 二 進化論の内容

     二 進化論の内容

 

 さて、世開には進化論を聞きかじり、普通の猿が進歩して人間になつたといふ説であると早呑込みをして、喋々其の謬にして信ずるに足らぬことを辯ずる人も澤山あるが、進化論は決して左樣なことを主張するものではない。また、いつか或る雜誌の論説の中に、菊は培養によつて幾らでも變形が出來るが、幾ら變形しても菊はやはり菊であつて、決して牡丹にも瞿麥にも成らぬ。して見ると進化論とやらいふ喧しい議論も一向當てにはならぬと書いてあつたが、是も前のと全く同樣な間違で、菊が變じて牡丹や瞿麥にならぬというても、決して之が進化論の反對の證據となるものではない。

[やぶちゃん注:「喋々」「(てふてふ(ちょうちょう)」で、頻りに喋(しゃべ)るさま。

「謬」「あやまり」と訓じていよう。

「瞿麥」学術文庫版は『けし』とルビするが、本熟語に被子植物門双子葉植物綱モクレン亜綱ケシ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum の意味はない。これは遺憾ながら、同編集者が原文の「瞿麥」を「罌粟」(けし:最初の字が「瞿」とよく似て見える)と誤読したものかと思われる、トンデモ・ルビである。通常、「瞿麥」(音「クバク」)はナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属 Dianthus の仲間の総称、或いは同属の代表種の一つであるカワラナデシコ Dianthus superbus var. longicalycinus 、或いは同ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis の異名である。「菊」「牡丹」と来て、日本人なら「常夏」の撫子と私は自然に読める。ここは「なでしこ」と訓ずるべきところである。因みに、個人サイト「科学図書館」にあるPDF(第十二版)でも『なでしこ』とルビされてある。]

 然らば、進化論とは如何なるものであるかといふに、一言でいへば、進化論とは、動物・植物ともに何の種類でも長い年月の間には次第に變化するものである。而して如何なる點が如何なる方向に向つて變化するかは、その時々の事情で定まることで、最初より確定しては居ないから、たとひ同一の先祖から生じた子孫でも、長い間相異なつた方面に向つて變化すれば、次第次第に相遠ざかり、終には全く相異なつた數種に分れてしまふものであるといふ説に過ぎぬ。之だけは生物界に實際現れて居る事實であるから、凡そ生物學を修めた人ならば、誰も皆眞實と認めざるを得ぬことで、之に就いて反對の考を持つて居る生物學者は最早一人もない。今日學者等の頻に議論を戰はして居るのは、總べて是より尚數歩も進んだ先の假説上又は理論上のことばかりである。

 併し、進化論は事實として述べる所は右だけであるが、生物學上の一個一個の事實を多く集め、之より歸納して上述の如き生物界全部に通ずる廣き事實に達するだけでは、まだ十分に滿足は出來ない。必ずこの事實の起る原因・法則を考へ出して、之を説明することを試みねばならぬ。西洋にも「物の原因を知り得る人は幸なり」といふ諺が昔からあるが、我々人間には物の原因が知りたいといふ慾が、生れながら備はつてあるから、たゞ或る事實の存在を證明しただけではこの慾が承知しない。必ず何故にその事實が起るかといふ原因を研究せずには居られぬ。今日世人がダーウィンといへば進化論のことを思ひ、進化論といへばダーウィンの説であると考へるに至つたのは、全くダーウィンが生物進化の事實を證明して進化論の基を定めると同時に、その事實に對する適當な説明を與へ、其の起る原因を示して、大に此の慾を滿足せしめ得たからである。

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第一章 進化論とは何か(1) 序/一 進化論といふ言葉の意味

新補 進化論講話

           理學博士 丘 淺次郎 著

 

    第一章 進化論とは何か

 

 進化論といふ言葉は、近頃では頗る盛に用ゐられ、書物や雜誌でも屢々讀み、また談話や講演でも屢々聞くやうになつたが、さて進化論とは何のことであるかと尋ねると、人々によつて往々著しく違つた意味に用ゐられ、中には自分で是が進化論であると思ふものを勝手に定めて、頻に主張したり攻擊したりして居る人も、まだ澤山あるやうに見える。それ故進化論の大意を陳べるに當つては、先づ是非とも進化論とは如何なるものであるか、進化論といふ言葉を世人は如何に用ゐるか、また如何なる點まで進化論者の説が悉く一致し、如何なる點に於いて尚議論を戰はして居るかを最初に確めて、進化論の意義を明にし、僅め誤解を防いで置くことが必要である。

 

     一 進化論といふ言葉の意味

 

 進化といふ言葉は、西洋の學問が我が國へ輸入せられてから新に造られたもので、無論外國語の飜譯であるが、その原語には二通りの意味がある。一は單に進歩とか發展とかいふことで、たゞ時の經るに隨つて變化し來つたことを指すのであるから、進化といふ言葉をこの意味に用ゐれば、宇宙の進化、地球の進化、乃至は下駄の進化、煙草入の進化などといへぬこともない。但しこの場合には變遷とか歷史とかいうのと全く同意味である。他の一は親・子・孫と長く代を重ねる間に次第に性質の變化して行くことをいうので、之は前のとは違ひ、生殖法によつて種屬を繼續して行く生物だけに限り用ゐるべきものである。十九世紀の中頃より非常に喧しくなつた進化論は無論後者の方であるが、何事でも少しく評判が高くなると、直にその名を借りるものが出來て、恰も電氣應用の盛な時には電氣帶や電氣菓子などが賣り出され、ラヂウムが流行すればラヂウム石鹸やラヂウム煎餅の店が出來る如くに、進化といふ言葉も種々の方面に用ゐられるやうに成つた。然しながら生物界に於ては多くの代を重ねる間に漸々變化することだけを進化と名づけ、一疋の生物が生長するに隨つて形の變ることは決して進化とはいはぬ。例へば蟹は蝦の如きものから進化したとか、人間は猿の如きものから進化したとかいふが、決して蝶は「いもむし」の進化したもの、大人は子供の進化したものとか、または籾が進化して稻になる、柿の種子が進化して柿の木になるなどとはいはぬ。同一の言葉を二つ以上の異なつた意味に使ふことは、混雜を生じて間違ひの基となる故、如何なる場合にも避くべきであるが、進化といふ言葉も生物學上に用ゐる意味に一定して、宇宙や地球の今までの變化を述べるときには、變遷とか、歷史とか、別の言葉を用ゐるのが至當であると思ふ。それ故著者は進化といふ言葉を斯樣に狹く解釋して、たゞ生物界にのみ當てて用ゐる。

[やぶちゃん注:ここに出る以下の怪しげなものは自然許容放射線のレベルだからまだどうということはないが、三・一一の直後でさえも経済界の耄碌した大物が少量の放射線ならばかえって体にいいなどとトンデモ発言をしていたのを思い出す。今も環境大臣でさえもあの馬鹿さ加減だ。半最早、人類はとっくに曲がり角を曲がってとうに腐ってしまった。
 
「漸々」通常は「ぜんぜん」或いは「やくやく」と読み、次第次第に・徐々に・だんだんに・順次にある事態が進んでいくさまを指すが、この「やくやく(漸漸)」の転訛ともされるのが現在の「漸(やうや(ようや))く」であり、違和感のある方は私はこの二字で「ようやく」と読んで何ら問題ないと考えている。

「ラヂウム石鹸」ラジウム(正確にはラドン)含有鉱石の微粉末を混ぜたり、ラドン温泉水を配合した石鹸。微量の自然放射線は健康美肌効果に好いという放射線ホルミシス(radiation hormesis)の一種で現在も盛んに販売されている。「ラヂウム石鹸」で検索してみればよい。これで深刻な放射線障害は起こるまいが、別に普通の石鹸で私はよい。なお、私は放射線ホルミシスを声高に言うDNAレベルや長期的観察を無視した科学者の背後には、似非科学を国民の情報操作や意識操作の手段としている政治家や経済人の翳を常に感ずる。

「ラヂウム煎餅」ラドン温泉水を用いて作った煎餅。ネット記載を見ると、現在でもこの名で売られている場所(温泉)がある。福島県福島市の飯坂温泉や山形県米沢市の小野川温泉では現在も温泉卵を「ラジウム玉子」の名で売っており、人気がある。私も飯坂で自分で茹でて食った。]

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 目次

[やぶちゃん注:以下、目次であるが、リーダと頁数は省略した。]

 

新補 進化論講話 目次

 

第一章 進化論とは何か

 一 進化論といふ言葉の意味

 二 進化論の内容

 三 進化の事實とその説明との區別

 四 事實の疑ふべからざること

 五 説明には尚議論あること

第二章 進化論の歷史

 一 リンネー(生物種屬不變の説)

 二 ラマルク(動物哲學)

 三 キュヴィエー(天變地異の説)

 四 ライエル(地質學の原理)

 五 ダーウィン(種の起源)

第三章 人の飼養する動植物の變異

 一 犬の變種

 二 鳩の變種

 三 他の動物の變種

 四 植物の變種

 五 何故變種を合して一種と認めるか

第四章 人爲淘汰

 一 淘汰の方法

 二 遺傳性のこと

 三 變異性のこと

 四 選擇のこと

 五 其の結果

第五章 野生の動植物の變異

 一 昆蟲類の變異

 二 鳥類の變異

 三 他の動物の變異

 四 内臟の變異

 五 習性の變異

 六 植物の變異

第六章 動植物の增加

 一 增加の割合

 二 アメリカの牛馬

 三 オーストラリヤの兎

 四 植物の急に增加せる例

 五 自然界の平均

第七章 生存競爭

 一 競爭の避くべからざること

 二 無意識の競爭

 三 異種間の競爭

 四 同種内の競爭

 五 生物相互の複雜な關係

第八章 自然淘汰

 一 優勝劣敗

 二 簡單より複雜に進むこと

 三 高等動物と下等動物

 四 所謂退化

 五 生物の系統

 六 雌雄淘汰

第九章 解剖學上の事實

 一 不用の器官

 二 哺乳類の前肢

 三 獸類の頸骨

 四 血管並に心臟の比較

 五 鯨の身體構造

第十章 發生學上の事實

 一 發生中にのみ現れる器官

 二 退化した動物の發生

 三 發生の初期に動物の相似ること

 四 發生の進むに隨いて相分れること

 五 生物發生の原則

第十一章 分類學上の事實

 一 種の境の判然せぬこと

 二 幾段にも分類を要すること

 三 所屬不明の動植物

 四 所謂自然分類

第十二章 分布學上の事實

 一 南アメリカアフリカオーストラリヤ

 二 マダガスカル島とニュージーランド

 三 ガラパゴス島とアソレス

 四 洞穴内の動物

 五 飛ばぬ鳥類の分布

 六 ウォレース

 七 津輕海峽と宗谷海峽

第十三章 古生物學上の事實

 一 古生物學の不完全なこと

 二 地層毎に化石の種類の異なること

 三 鳥類の先祖

 四 馬の系圖

 五 他の動物進化の實例

 六 貝塚の貝

第十四章 生態學上の事實

 一 野生動植物の通性

 二 攻擊の器官

 三 防禦の器官

 四 保護色

 五 警戒色と擬態

 六 氣候の變化に對する準備

第十五章 ダーウィン以後の進化論

 一 事實の益々確となつたこと

 二 理論の比較的に進まぬこと

 三 ハックスレーヘッケル

 四 ウォーレスヴァイスマン

 五 ロマーネストヴィッツヒ

 六 最近の狀況

第十六章 遺傳性の研究

 一 メンデルド、フリース

 二 遺傳する性質の優劣

 三 遺傳する性質の分離

 四 各性質の獨立遺傳

 五 突然變異説

第十七章 變異性の研究

 一 食物による變異

 二 温度による變異

 三 注射による變異

 四 周圍の色による變異

 五 特殊なる習性の變異

 六 住處の廣さによる變異

第十八章 反對説の略評

 一 自然淘汰無能説

 二 生殖物質繼續説

 三 後天的性質非遺傳説

 四 遺傳單位不變説

第十九章 自然に於ける人類の位置

 一 人體の構造及び發生

 二 人體の生活現象

 三 精神及び言語

 四 人は獸類に一種であること

 五 人は猿類に屬すること

 六 血淸試驗上の證據

 七 猿人の化石

第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響

 一 進化論と哲學

 二 進化論と倫理

 三 進化論と教育

 四 進化論と社會

 五 進化論と宗教

 

附錄 進化論に關する外國書

 

新補 進化論講話 目次

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(2) 神蛇一目の由來

     神蛇一目の由來

 社傳と土地の口碑とが相容れざる場合に、一方は文書の形を其へ他方は空に行はれて居る爲に、或は又強ひて公けに爭はうとしなかつた故に、後者を負けとするのが今までは普通の例であつた。併し此類の民間の風説は、假に巧みに作爲する者があつたとしても、弘く之を信じ且つ記憶せしめることは容易で無い。殊に其内容に於て必ずしも愉快ならず、單に信者の悔恨と畏怖とを要求するが如き物語が、地を隔て且つ若干の細部の相異を以て、處々に流傳する場合に在つては、少なくとも之を一つの社會現象として、其起源を尋ねて見た上で無いと、さういふ速斷は出來ぬ筈である。そればかりで無く文書は通例後代のものであつて、果して確かなる根據があるか否かを、檢討せられたかつた例が多い。多度別宮の祭神の如きも、僅かに古語拾遺の註に、天目一箇命は筑紫伊勢兩國の忌部が祖なりとあるのが、恐らくは唯一つの證跡であつて、若し前に一目龍の言ひ傳へが無かつたら、之を此御社の神に歸することも、六つかしかつたらうとさへ考へられる(一)而うして所謂伊勢忌部の如何なる部曲であつたかは、まだ何人も説明し得ないことだが、果して同族の一學者齋部廣成氏の説く所が正しかつたとすれぱ、所謂片目の龍の言ひ傳へも、亦彼等が後裔の記憶から出たものと、想像することが出來るのである。

[やぶちゃん注:「同族の一學者齋部廣成氏の説く所」本文に出る官人斎部広成の「古語拾遺」の注記載のこと。

「部曲」ここは「かきべ」と読む。漢語の「部」「曲」は秦漢時代の軍隊の構成単位用語で、後に「部曲」と連ねて部隊・兵士・部下という意味に使われるようになったものであるが、本邦では「部民」とも表記して「かきべ」と訓じ、律令制以前の豪族の私有民(中国の「奴婢」)を意味した。但し、彼らは令制の家人や奴婢とは異なり、一定の職業を有し、ほぼ村落を単位として豪族に仕え、租税を納め、賦役に従い、その隷属する主家の名に「部」の字を附して名字とした自営の民であった。]

 播磨で天目一箇命を始祖とした家の言ひ傳へには、神が蛇形を現じたまふといふことは説かなかつたが、同じ系統の賀茂の神話に在つては、別雷神の名に依つて御父の雷神であつたことを知り、同じく箸塚の物語に於ては、御諸山の大神は美麗小蛇となつて、姫が櫛笥の中に居たまふとあるを見たのである(二)故に若し伊勢にも此類の御筋を誇らんとする者が居たならば、それが記憶せられて現今の口碑の元を爲したとも考へ得るのである。蛇を祭り狐を拜むといふ信仰の本源は、もう少し親切な態度を以て考察せられねばならぬ。巫覡代表の力が既に衰へて後は、人は屢々幻しに人の形を示したまふ神を見るやうになつたが、それは元來凡俗に許されざることであつた。乃ち神が色々の物の姿を借りて、現れたまふと説明せられた所以であつて、同時に又生牲の儀式の最初の動機が、近世の思想に由つて解し難い理由であらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「別雷神」賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)。賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神。記紀神話には登場しない。ウィキの「賀茂別雷命によれば、「山城国風土記」逸文には、『賀茂建角身命の娘の玉依姫が石川の瀬見の小川(鴨川)で遊んでいたところ、川上から丹塗矢が流れてきた』ので、『それを持ち帰って寝床の近くに置いたところ玉依日売は懐妊し、男の子が生まれた。これが賀茂別雷命である。賀茂別雷命が成人し、その祝宴の席で賀茂建角身命が「お前のお父さんにもこの酒をあげなさい」と言ったところ、賀茂別雷命は屋根を突き抜け天に昇っていったので、この子の父が神であることがわかったという。丹塗矢の正体は乙訓神社の火雷神であったという』。但し、『神名の「ワケ」は「分ける」の意であり、「雷を別けるほどの力を持つ神」という意味であり、「雷神」ではない』ともある。

「箸塚」所謂、箸墓伝説(現在の奈良県桜井市にある箸墓古墳に纏わるもの)の一部。大物主神(三輪山神)との神婚譚で知られる孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の話で、ウィキの「倭迹迹日百襲姫命によれば、「日本書紀」に、『百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山』(みもろやま:三輪山の別名)『に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという』とある。

「巫覡」「ふげき」「巫」は女の「かんなぎ」を、「覡」は男の「かんなぎ」を指す。神に仕えて神意を伺って神おろしなどをするシャーマン。「かんなぎ」の語意は「神和」または「神願」ともいう。]

 神が次々に靈の宿りを移したまふ場合には、それを同種の木石蟲魚鳥獸等の、極めて尋常なるものと差別すべく、外部に現れたる何等かの象徴が無ければならなかつた。或は單なる狀況の奇瑞もあつたらうが、通例は其形に就いて奇異とすべき點が見出され、それがやがては神の名となつて、永く傳へられたものゝやうである。目一つといふ神が一方に天岩屋戸の金工でも無く、忌部祖神の一つでも無く、又神龍の本體でも無かつたなら、或は文字に基いてどんな自由なる推測も出來るか知らぬが、久しい年代に亙つて我々が神を隻眼と考へた事例は餘りに多く、しかも其説明は制限せられて居たのである。故に先づ古今の比較に由つて、どうして其樣な想像が弘く行はれたかを、尋ねて見る必要が大いにあつたのである。

 多度の一目連がもと地中の蟄龍であつて、たまたま土工の熊手の尖に觸れて、片目を傷けたといふ説明は荒唐である。或は神代に熊手があつたといふ證據を示せなどゝ、難題を掛けられぬとも限らぬが、不思議に之に似た話は國々の神蛇譚に多い。其二三を言へば飛驒の萩原の諏訪神杜は、佐藤六左衞門たる者金森法印の命を受けて、社を遷して城を築かんとした時に。靈蛇出現して路に當つて動かなかつたので、梅の折枝を揮つて之を打つと、蛇は眼を傷けて退き去つたとあつて、今以て氏子は梅の木を栽ゑることを忌んで居る(三)阿波の福村の池の大蛇は、月輪兵部に左の眼を射られ、其靈祟(たゝり)を爲して池の魚今も悉く片目である(四)駿河の足久保と水見色との境の山には、一つの池があつて三輪同系の傳説をもつて居た。昔水見色の杉橋長者が娘に、夜な夜な通ふ男があつて、栲(たく)の絲を襟に縫ひつけて其跡を繫ぎ、終に此池の主であることを知つた。長者憤りに堪へずして多くの巨石を水中に投じ、蛇はそれが爲に一眼を失ひ、其緣に因つて今も池の魚が片目であるといふ(五)即ち神ならば自然に此の如しと言つて、少しも疑ふ者は無かつたらうに、何れも特に人間の手に由つて、後に形を改めて目一つになつたといふのが、注意すべき要點ではないかと思ふ。佐渡の金北山の御蛇河内(おへびかうち)に於て、順德院上皇御幸の時、山路に蛇を御覽なされ、斯んな處でも蛇の眼は尚二つあるかと仰せられた故に、其以後此地の蛇は皆片目になつたといふなども(六)其例外とは言ふことが出來ぬ。誤解にもせよそれは思召に基き、土地の名をさへ御蛇の河内と呼んで居るからである。

[やぶちゃん注:「駿河の足久保と水見色」静岡県静岡市葵区足久保地区と、その西で接する山間部の葵区水見色(みずみいろ)。同接触点には高山という山があるが、地図上や航空写真では池らしきものは見えない。しかしこの一帯は「静岡市高山市民の森」となっており、水源があってもおかしくない。面白いのは足久保地区には「美和」の地名が現存し、同地区を流れる川に沿った街道は「美和街道」、近くには「三輪神社」もあることである。しかもこの近くには「鯨ヶ池」という如何にも妖しげな名の池があるのである。そこで更に調べてみると、静岡市の準公式サイトらしき「オクシズ」内に高山の池(高山・市民の森)があり、まさにこの池こそがそれであり、逃げ入ったのはまさに別のこの「鯨ヶ池」とが判明した。

   《引用開始》

モリアオガエルやトンボ、ミズバショウなどたくさんの生き物や植物が観察できます。また、この池には竜伝説があります。

【高山の池 竜伝説】

昔、水見色に杉橋長者とよばれた豪家があった。そこの一人娘に夜な夜な通う美しい若者があった。心配した母は娘にタフ(藤の繊維で、織った布)の糸をその若者の着物の裾につけて、その行方をうかがわせた。糸をたどっていくと足久保の高山の古池に消えている。長者は池の主が娘に通ってなやましていることを知って大変に怒り、焼石をたくさん投げ入れた。池の主の青竜はこらえきれず、逃げだして、鯨ヶ池にはいりこんだ。竜はこの時、焼石で片眼を失った。それで鯨ヶ池の魚は皆片眼だというのである。

(「静岡市の史話と伝説」より)

   《引用終了》

「栲」「たく」と読んだ場合、これは楮(こうぞ:双子葉植物綱イラクサ目クワ科コウゾ属コウゾ Broussonetia kazinoki × Broussonetia papyrifera)の古名である。これを「たへ(たえ)」(音は「カウ(コウ)」)と読んだ場合は、コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera などの繊維で織った白い布、或いは広く布類の総称とはなる。]

(一) 現に神名帳考證には鈴鹿郡の天一鍬田神を以て、この忌部の祖神とし、多度の一目連は又別の神だと説いて居る。

[やぶちゃん注:「神名帳考證」(じんみやうちやうかうしやう(じんみょうちょうこうしょう))と読む。出口(度会)延経著になる、「延喜式神名帳」に記載された神社(式内社)を考証した書物。全八巻。享保一八(一七三三)年刊。

「天一鍬田神」「あめのひとくは(くわ)たかみ」と訓じておく。ちくま文庫全集版は『あまのひとくわがたがみ』とルビする。]

(二) 雷神受胎談の國々の變化に就ては、民族二卷六七五頁以下に説いて置いた。故にこゝには主として其一二の例が目一つ神であつた點を説明したいと思ふ。

(三) 益田郡誌四一九頁及五六七頁。

(四) 郷土研究一ノ五六九頁。

(五) 安倍郡誌七九三頁。

[やぶちゃん注:「安倍郡誌」「安倍郡」は静岡県の旧郡。概ね、現在の静岡市葵区の大部分に相当する。「静岡県安倍郡誌」大正三(一九一四)年安倍郡時報社編刊。]

(六) 茅原鐡藏老人話。

[やぶちゃん注:「茅原鐡藏」一目小僧(十七)に既出既注。同章は本章と内容が大いに被っているので、再読されたい。]

2016/03/03

因みに

因みに――完全に引き込んでいる僕は――その僕への復讐として――四月よりなり手の少ない町内会の役員(任期二年)を引き受けることにした――実にしょぼいこと極まるアンガジュマンさ――

たった一人でも

たった一人でも僕の電子テクストを待っている人がいる限りは、僕は頑張らねばならぬ。それが僕のアンガジュマン(自己拘束)だからだ――

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(1) 多度の龍神

 目一つ五郎考

     多度の龍神

 加藤博士の新説に勇氣づけられて、自分のまだ完成せざる小研究を公表する。けだし此假定たるや、將來の事實蒐集者に由つて、段々と支援せられて行く望みがあると共に、たつた一つの反證によつてすら、根こそげ覆へされるかも知れぬ至つて不完全たるものではあるが、既に「民族」誌上の問題となつた以上は、早曉最も正しい解決に導かずには置かぬであらう。さうして民俗學の速かなる成長は、自分たちの切たる祈願である故に、之に向つては如何なる供物でも惜しいとは思はぬのである。

[やぶちゃん注:「加藤博士」宗教学者で文学博士の加藤玄智(げんち 明治六(一八七三)年~昭和四〇(一九六五)年)。陸軍士官学校教授を経て、母校東京帝国大学助教授。後に国学院大教授などを歴任し、宗教学・神道学を講義した。ここは彼の「天目一箇神に関する研究」を指し、金属神の天津麻羅(あまつまら:「古事記」にのみ登場する鍛冶神)を念頭に置いて物を生み出す男性器(マラ)から天目一箇神を一つ目(片目)と見る説を指すようである。ここは新曜社二〇〇一年刊の飯島吉晴著「一つ目小僧と瓢箪――性と犠牲のフォークロア」のレビューを参考にした。]

 上古の神の名に意外の暗示があるといふことは、前代多數の國學者に由つて承認せられて居る。若し他には一つも解説の手掛かりが無いといふ樣な場合には、或は微々たる語音の分析を試みて迄も、所謂言靈(ことだま)の神祕を尋ねる必要があるかも知れぬ。單に古人が謎詞を以て露骨を避けたらうといふ想像だけなら、宗教行爲の自然にも合したことであつて、加藤氏の方法は要領を得て居るのであるらう。たゞ天目一箇命の問題に付ては、別に若干の搜査を費すべき粗雜な資料が保存せられて居る。大正五六年の交、自分は其資料の著明たる一部分を、雜誌と新聞とに陳列して置いたことがある(一) それは何れも有りふれた印刷書に散見したものを、拾ひ上げたゞけの手數に過ぎなかつたが、少なくとも神に目の一つなる神があることを、人が信じて居た時代が久しいといふことだけは、色々の方面から證據立てゝ置いたつもりである。故に例へば播磨風土記の一つの神名を、生殖信仰の暗示とする前か後には、明かに之と兩存し得ない他の多くの言ひ傳へを、一應は始末しなければならなかつたのである。併し忙しい専門家にそんな手數を望むのは無理だ。故に自分の如き前からの行掛かりある者が。料理番給仕人の役目をするのは是非無いことである。

[やぶちゃん注:「謎詞」ちくま文庫全集版では『なぞことば』とルビする。

「天目一箇命」ちくま文庫全集版では『なぞことば』とルビするが、私は先行注に則り、「あめのまひとつのみこと」と訓じておく。]

 出來るだけ單純に物を考へて見ようと力めるのがよいと思ふ。先づ最初に天目一箇神が古今一柱しか無かつたといふ考は、資は根據が無いから止めなければならぬ。時と處とを異にした二つの傳承が、同じ系統の家族に由つて、しかも内容を改めて錄進せられたといふことは、極端に想像し難いことだからである。即ち或種の神樣にはさういふ御名を奉る風、若くは神自らしか名乗りたまふ風が、稍弘く行はれて居たと解すべき史料である。それでは如何たる特徴に基いて、其名が發生したとするかといふと、第一次には此日本語の正面の意味、即ち御目が一つだからマヒトツと稱へたものと解して、それでは理窟に合はぬか否かを、吟味して見るの他はあるまい。我民族には限らぬ話だが、神が一つ目だといふ信仰は、少しづゝ形を變へて今日まで傳はつて居る。信仰そのものを否認せぬ以上、それは珍しくも怪くも無い現象であつた。

[やぶちゃん注:「一柱」ちくま文庫全集版では『ひとはしら』とルビする。

「神自らしか名乗りたまふ風」ママ。「神自らしか名乗りたまはぬ風」の謂いであろう。]

 主として日本の手近の實例を擧げて見るならば、伊勢桑名郡多度山の權現樣、近世江戸人の多くの著述に一目連と記す所の神は、雨を賜ふ靈德今尚最も顯著であつて、正しく御目一箇なるが故に、此名ありと信ぜられて居る。現在は式内多度神社の別宮であるが、曾ては本社の相殿に祭られて、往々にして主神と混同する者があつた。新らしい社傳には祭神を天目一箇命とある。即ち亦神代史の作金者と同一視せんとする例であつて、此推測には些しの根據はあつたが(二)雨乞に參請する近國の農人たちは少なくともさうは考へて居なかつた。神は大蛇である故に之を一目龍と謂ひ(三)昔山崩れがあつた後、熊手の尖が當つて片目龍となり、それから今の權現池に入れ奉つて祭ることになつたなどゝ言ふさうである(四)兎に角に畏こき荒神であつて、大なる火の玉となつて出でゝ遊行し、時としては暴風を起して海陸に災ひした(五)即ち雨師といふよりも元は風伯として、船人たちに崇敬せられて居たらしいのである(六)最初は恐らくは海上を行く者が、遙かに此山の峯に雲のかゝるを眺めて、疾風雷雨を豫知したのに始まり、後次第に平和の目的に利用する樣になつたのであらう。さうすると斯ういふ威力のある神の名を、目一つと呼ぶに至つた理由は、固よりファリシズムでは無かつたのである。

[やぶちゃん注:「多度山」「たどやま/たどさん」で、山としては三重県桑名市と岐阜県海津市に跨る標高
四百三メートルの山を指す。現在の三重県桑名市多度町多度にある多度大社は本来はこの山を御神体とするものであったと考えられている。先行する「一目小僧(十八)」の「一目連の社」の私の注も参照されたい。

「相殿」「あひ(あい)どの/でん」と読み、同じ社殿に二柱以上の神を合わせて祀った、その社殿を指す。

「尖」ちくま文庫全集版では『さき』とルビする。

「畏き」「かしこき」。

「ファリシズム」phallicism。男根崇拝。

 なお、以下の注は底本では全体が概ね二字下げのポイント落ちである。注の総てが私の認知の中にある訳ではないが、注に注すれば芋蔓式になるので、先に注したものは避け、極力、禁欲した。]

 

(一) 「郷土研究」四卷八號「一眼一足の怪」、同十一號「片目の魚」、同十二號「一つ目小僧」等、竝びに東京日日新聞大正六年八月下旬以後、二十數回に連載した「一目小僧」談の中に、各「目一つ神」の古今幾つかの記事を引用して置いた。

(二) 姓氏錄右京神別下に、桑名首は天津彦根命の男、天久之比命の後也とあるのを、郡名同じきに由つて直ちに此社の神とし、それから轉じて又の御名天目一箇命ともいふのであるが、社家以外の者には諒解し難い理論である。主神を天津彦根命とした最初の事情も明かで無いが、或は古い口傳でもあつたと見るべきであらうか。しかも父子別神といふことすら、山下の民は考へて居ないのである。

[やぶちゃん注:「天久之比命」「あめのくしひのみこと」。「山下の」は「さんかのたみ」と読んでおく。多度山の麓の多度大社を信仰する民草の謂い。]

(三) 市井雜談集上に、此山龍片目の由。依之一目龍といふべきを土俗一目連と呼び來れり云々。

[やぶちゃん注:「市井雜談集」宝暦一四(一七六四)年刊の林自見編著の随筆。]

(四) 民族一巻一一一六頁、澤田四郎作君の報告に依る。

[やぶちゃん注:「澤田四郎作」(明治三二(一八八九)年~昭和四六(一九七一)年)は奈良県生まれ。大正一〇(一九二一)年に東京帝国大学医学部に入学、細菌学を専攻したが、この頃に石神信仰の研究に熱中し、千葉・茨城・山梨・神奈川の近村を歩く。また、この頃、孤高の考古学者森本六爾を訪ねたり、「考古学研究会」に参加、柳田國男に個人雑誌を送り、柳田との交流を始めた。大正一五(一九二六)年に同医学部を卒業後は同大医学部小児科教室に入局、小児科学を研究したが、まさに柳田の本論文が公にされた昭和二(一九二七)年に柳田國男を訪問、これを契機として民俗学を生涯のライフワークに位置づけ、調査・研究に励んだ。昭和五(一九三〇)年には医学博士号を受け、翌年、大阪市西成区に小児科医を開業、休暇をみては、近畿地方を中心に精力的に民俗調査を行った。昭和九(一九三四)年には柳田國男の勧めにより、宮本常一らとともに「大阪民俗談話会」を発足、会長に就任、また、昭和一一(一九三六)年に「京都帝国大学民俗学会」及び「兵庫県民俗研究会」との合同による「近畿民俗学会」が結成されると、その会長に就任した。昭和一六(一九四一)年、応召により満州に駐屯、各地の陸軍病院で勤務したが、敗戦でシベリアに抑留、昭和二二(一九四七)年に帰国後、昭和二四(一九四九)年には「近畿民俗学会」を再開、毎月一回の例会を欠かさず続けて亡くなるまで会長を務めた。澤田の自宅は民俗学の研究集会にも度々利用されて柳田國男・渋沢敬三など多くの民俗学者が寄寓した(はてなキーワード記載に拠った)。]

(五) 上社の扉開くを望んで、一目連の遊行を知るといふ話があり(周遊奇談四)、又は扉は無くして簾のみを懸け、神出遊の際には其簾が飛散るといふ傳へなどもあつた(緘石錄三)。

[やぶちゃん注:「周遊奇談」昌東舎著の文化三(一八〇六)年刊のそれか。

「緘石錄」ちくま文庫全集版では『かんせきろく』とルビする。【2020年11月6日追記】本書については、私には長く不詳の書物であったが、後の柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 四 百合若と八束脛』に再度、出現し、そこで他の方の御探索と御教授により、遂に書誌や現物が明らかとなったので、是非、参照されたい。

(六) 北國地方でも不時の暴風を一目連といふと閑田次筆卷一にあり、市井雜談集には物の一齊に疾く倒るゝを一目連とこいふとある。

[やぶちゃん注:「閑田次筆」文化三(一八〇六)年刊の伴蒿蹊(ばんこうけい)著になる「閑田耕筆」の続編。全四巻。紀実・考古・雑話に分類し、古物・古風俗の図を入れて収めてある。]

丘淺次郎「進化論講話」 藪野直史附注 始動

進化論講話   丘淺次郎   藪野直史附注

 

[やぶちゃん注:「生物學講話」の電子化完結に伴い、今一つの丘先生の名著「進化論講話」の電子化注に入る。

 本作は本邦に於いて一般大衆向けに書かれた初の進化論の概説書で、初版は明治三七(一九〇四)年一月に東京開成館から発行された。

 本テクストは、国立国会図書館デジタルコレクションの中の、同じ東京開成館から大正一四(一九二五)年九月に刊行された、その『新補改版』(正確には第十三版)を底本として、画像を視認した。それ以前の版が国立国会図書館デジタルコレクションにはあるが、内容が進化論である以上、ここは初版ではなく、最も新しい版を底本として選んだ。

 なお、時間を節約するため、個人サイト「科学図書館」にある、既にPDF化された(但し、こちらは第十二版でしかも新字新現代仮名遣に直されてある)を加工用テクストとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。ただ、すでに冒頭の『新補改版はしがき』からして、上記PDF版とは微妙に表現が異なっている箇所がかなりある。試みに、比較されたい

 「生物學講話」同様、一部に用いられてある右下の小さな踊り字「〻」は「々」に代え、「く」「〲」については正字化した。底本の外国人のカタカナの人名の右傍線は下線とし、図のキャプションも同じく[ ]で挟んだ。図は概ね底本のものを用いるが、一部で昭和五一(一九七六)年講談社学術文庫刊の「進化論講話」(上・下二巻本)の図に差し替えるものも出て来るかも知れない。なお、外国のカタカナ表記の地域・地帯・地名には右二重傍線が引かれてあるが、ブログでは二重線が引けないため、下線太字に変えてある

 

 

理學博士 丘淺次郎 著

 

新補 進化論講話

 

      東京開成館發行

 
 

Hatonohensyu

[鳩の變種

1 かはらばと  2 キャリヤー

3 つかひばと  4 パウター

5 ファンティル 

6 タンブラー  7 さかげ

8 モルタ    9 えりまき]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。

「かはらばと」動物界脊索動物門脊椎動物亜門鳥綱ハト目ハト科カワラバト属カワラバト Columba livia は我々が普段、普通に「ハト」と呼んでいる基本種。ドバト。以下の変種は概ね、本種を人間が飼育調教などをして品種改良したものであるが、本種自体も学術的には本邦の在来種ではない。

「キャリヤー」イングリッシュ・キャリアなどの類か。こちらのshow taimu氏のブログの「イングリッシュキャリア」に『特に羽色が黒だとカラスに近い体型』とあるのと絵が一致するように思われる(リンク先には写真有り)。

「つかひばと」伝書鳩。

「パウター」図から見て、これは「ポーター」(Pouter)のことである。ウィキの「ポーターによれば、家畜化されたカワラバトで、『大きなサイズと長い足、空気で膨らんだ素嚢が特徴である』。『その特異な外見から、主に観賞用として育成される。育成の発祥は分かっていないが、ヨーロッパでは少なくとも』四百年以上は『育成されている』とある。

「ファンティル」「ファンテイル」=「fantail」で、幅広の扇(ファン)形をした尾がを持つ孔雀鳩(くじゃくばと)のこと。

「タンブラー」鳩飼育のサイトを見る限り、宙返りするように調教飼育して生まれた品種か。

「さかげ」逆毛。

「モルタ」不詳。ただ、体型から見て、これはどうも食用に「改良」された種なのではないかと私には見受けられる。識者の御教授を乞う。

「えりまき」襟巻。ここまでくると実にヒトという種の変態性がよく判る。]

 

    新補改版はしがき

 

 本書の第一版を公にしたのは、去る明治三十七年の春で、恰も日露戰爭の始まつた際であつたから、今から算へると已に滿二十年以上の昔となつた。

 初めこの書物を著した趣意は、第一版の序に書いて置いた通り、なるべく廣く進化論を普及せしめるためであつた。それ故、生物學上の素養がなくては到底解らぬやうな事項は一切省いて置いたが、かやうな事項を略しても、進化論の骨髓だけを了解するには少しも差支はない。

 抑々進化論は十九世紀中人間の思想に最も偉大な變化を起した學問上の原理で、今日普通の教育ある人は誰も心得て居るべき筈のものであるに、我が國には通俗に之を述べた書物がまだ甚だ少い。本書の第一版の現れた頃には、この種類の書物は他に一種もなかつたが、それより二十年を經た今日になつても、尚著しく增加したことを聞かぬ。之を西洋諸國の大小幾十通りも通俗書があつて、小僧でも職人でも小學校さへ濟ませた者ならば、誰でも進化論の大要を容易に知り得るのに比べると、實に雲泥の相違である。之は、一つには國語の性質も異なり、文字の難易に相違のあるにも因ることであらうが、我が國に於ける進化論の普及の程度が外國に比してまだ大に及ばぬは明である。

[やぶちゃん注:イギリスの自然科学者チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin 一八〇九年~一八八二年)が進化論を明確に主張した「種の起源」(原題「On the Origin of Species」)は一八五九年十一月二十四日(安政六年十一月一日相当)に出版されている。本書初版刊行の明治三七(一九〇四)年の僅か四十五年前のことであった。]

 進化論は元來生物學上の原理であるから、生物學を修める者は皆之を知つて居るが、その基礎とする事實が悉く專門的のもの故、生物學者以外にはまだ十分に了解せられて居ないやうである。若し進化論が生物學の範圍内だけに限られて、他に影響を及ぼさぬやうなものならば、之でも宜しいが、進化論は人間といふ考を根柢から改め、そのため總べての思想に著しい變動を起し、社會の進歩・改良の上に大關係を有するもの故、決して生物學者だけが之を知つて居れば宜しいといふやうなものではない。進化論が、まだ確定せぬ假説ででもあるならば、之を世聞一般に披露するには及ばぬが、學問上では既に確定した事實と認められて居るもので、之を世間で知らぬのは單に生物學上の知識の行き渡らぬに因ること故、社會の進歩・發達の上に有益なものであると認めた以上は、之を普及せしめることは、生物學を修めた者の義務であらう。著者は初めかやうな考から本書の著述を思ひ立つたのであつた。

 斯くて本書の第一版を公にした所が、その以前に通俗的に書いた進化論の書物が一册もなかつたため、且は世人の思想が已に進歩して、進化論を要求する程度までに達して居たために、世上より意外の歡迎を受け、數十名の讀者からは懇篤な書狀を贈られ、數名の讀者は態々著者を自宅または教室に訪問せられた。中には遙々米國から丁寧な禮狀を送られた方もあつた。これらは皆本書が幾分かなりとも進化論の普及に役に立つた徴とも見るべきことと考へて、著者は甚だ滿足に感じた。隨つて屢々版を重ねる必要も生じて、明治四十年の第七版では從來用ゐ來つた四號活字を十二ポイントに改め、紙數を減じ、圖版を加へ、同四十四年の第十版では更に多少の訂正を施した外に新圖を增しなどしたが、大體の仕組は、最初のままで遂に今日に及んだのである。

[やぶちゃん注:「態々」老婆心乍ら、「わざわざ」と読む。

「四號活字」十四ポイント相当。約五ミリメートル。

「十二ポイント」約四・二ミリメートル。]

然るに、その間には生物學の各方面とも著しく進歩し、特に進化論とは最も關係の深い遺傳の實驗的研究が頗る盛になり、その結果から立論して、生物進化に就いて隨分異なつた學説を唱える人も生じ、これらの學説が追々我が國の雜誌上に紹介せられやうになつたから、如何に通俗を主とする書物でも、かやうな新研究の要點だけは書き加へて置いた方が、宜しからうと考へるに至つた。それ故、全部の仕組を少しく變更し、特に後半に屬する部を書き直して、簡單ながら最近研究の結果を附け加へ、その時代に相當するものと爲すやうに勉めた。若し之によつて、近來唱へ出された種々の新學説に對して、公平な觀念を與へることが出來たならば、誠に幸である。

[やぶちゃん注:「唱へ出された」底本は「唱へ出さたれ」。誤植と断じて特異的に訂した。]

 本書は、全部を分つて二十章としてあるが、尚之を大別すれば、第一章・第二章は前置きで、第三章より第八章まではダーウィンの自然淘汰説、第九章より第十四章までは生物進化論の證據、第十五章より第十八章までは遺傳・變異等に關する近年の研究、第十九章・第二十章は進化論を人間に當て嵌めて論じたものである。併し、全部揃つた上で論旨の通ずるやうにと勉めて書いたもの故、一部分づゝに離しては素より完結したものでない。また以上各部の中には多少性質の違つたものがある。即ち第一章・第二章の前置き、第九章より第十四章までの「生物進化の證據」及び第十九章の「自然に於ける人類の位置」などは、孰れも單に有りのまゝの事實を述べたのである故、之に對して反對を唱へることは恐らく出來ぬであらうが、第三章より第八章までの自然淘汰説に就いては之と異なつた説を有する人が幾らもある。たゞ著者は生物進化の説明にはこの説が最も適切であると考へるので、之を採つたのである。第十五章より第十八章までに述べたことは當時尚研究の最中で、今後新しい結果を見ることも頗る多からうから、之に基づいた學説の如きも尚餘程批評的に觀察することが必要である。最後の第二十章に論じたことは、著者が執筆の際に胸に浮んだことを書き連ねたもの故、その中の或る部分に對しては正反對の考を抱いて居る讀者が有るかも知れぬ。これらに就いては誤解のないやうに、本文の中でそれぞれ注意して置いた積りであるが、念のためこゝにも斷つて置く。

 尚一つ斷つて置くべきことは、本書はなるべく多數の人に生物進化の要點だけを傳へたいと考へて書いたもの故、些細な點は單に總括して述べた處もあれば、また便宜上僅少の例外を無視して説いた處もある。併し、人の顏を畫くには眉の毛か二本づゝ畫くには及ばず、又鼻の孔の代りに點だけを打つて置いても一向構はぬ如く、大體を示す場合には之で少しも差支はない。一本一本の眉の毛を説明して居るやうなことでは、却つて顏全體の要點が顯れぬ。第二章の「進化論の歷史」の如きは特にこの筆法で書いたもの故、殆ど一筆書きの畫のやうなもので、單に思想變遷の筋路だけを寫したに過ぎぬ。また第十五章以後の遺傳・變異に關する處なども、之を詳に書けば種々の專門的の書式を用ゐねばならず、斯くては徒に讀者を倦眞節結果を生ずるから、思ひ切つて大に節略し、極めて大體のみを述べることにした。

 卷末に進化論及び、遺傳・變異等に關する外國書の中で最も善いと認めるもの若干を掲げて置いた故、委しく知ろうと欲する讀者は、これらの書によつて更に學ぶが宜しい。

 

 大正十四年六月

           著  者  識

丘淺次郎 生物學講話 目次

[やぶちゃん注:以下、「目次」であるが、リーダと頁数は省略する。サイト版もよろしく! なお、本日2016年3月3日より、丘淺次郎進化論講話」藪野直史附注』をブログで新たにカテゴリを作って始動した。今度は、そちらもよろしく御愛顧の程、お願い申し上げる。

 

生物學講話 目次

 

 第一章 生物の生涯

  一 食うて産んで死ぬ

  二 食はぬ生物

  三 産まぬ生物

  四 死なぬ生物

  五 生物とは何か

 第二章 生命の起り

  一 個體の起り

  二 種族の起り

  三 生物の起り

  四 刹那の生死

 第三章 生活難

  一 止まつて待つもの

  二 進んで求めるもの

  三 餌を作るもの

  四 殺して食ふもの

  五 生血を吸ふもの

  六 泥土を嚥むもの

  七 共食ひ

 第四章 寄生と共棲

  一 吸著の必要

  二 消化器の退化

  三 生殖器の發達

  四 成功の近道

  五 共棲

 第五章 食はれぬ法

  一 逃げること

  二 隱れること

  三 防ぐこと

  四 嚇かすこと

  五 諦めること

 第六章 詐欺

  一 色の僞り

  二 形の僞り

  三 擬 態

  四 忍びの術

  五 死んだ眞似

 第七章 本能と智力

  一 神經系

  二 反射作用

  三 本能

  四 智力

  五 意識

 第八章 團體生活

  一 群集

  二 社會

  三 分業と進歩

  四 協力と束縛

  五 制裁と良心

 第九章 生殖の方法

  一 雌雄異體

  二 雌雄同體

  三 單爲生殖

  四 芽生

  五 分裂

  六 再生

 第十章 卵と精蟲

  一 細胞

  二 原始動物の接合

  三 卵

  四 精蟲

  五 受精

 第十一章 雌雄の別

  一 別のないもの

  二 解剖上の別

  三 局部の別

  四 外觀の別

  五 極端な例

 第十二章 戀愛

  一 細胞の戀

  二 暴力

  三 色と香

  四 歌と踊

  五 緣組

 第十三章 産卵と姙娠

  一 卵生

  二 胎生

  三 子宮

  四 羊膜

  五 胎盤

 第十四章 身體の始

  一 卵の分裂

  二 胃狀の時期

  三 體の延びること

  四 節の生ずること

  五 脊骨の出來ること

 第十五章 胎兒の發育

  一 全形

  二 顏

  三 腦髓

  四 手足

  五 陰部

 第十六章 長幼の別

  一 變態

  二 えび類の發生

  三 鰻の子供

  四 幼時生殖

  五 世代交番

 第十七章 親と子

  一 産み放し

  二 子の保護

  三 子の養育

  四 命を捨てる親

  五 親を食ふ子

 第十八章 教育

  一 教育の目的

  二 鳥類の教育

  三 獸類の教育

  四 人間の教育

  五 命の貴さ

 第十九章 個體の死

  一 死とは何か

  二 非業の死

  三 壽命

  四 死の必要

  五 死後の命

 第二十章 種族の死

  一 劣つた種族の滅亡

  二 優れた者の跋扈

  三 歷代の全盛動物

  四 その末路

  五 さて人間は如何

 

 附錄 生物に關する外國書

甲子夜話卷之一 49 秋元但州爲人の事

49 秋元但州爲人の事

秋元但州は性質剛直の人なりき。其話には、明和九辰年、都下大火のとき、我桔梗大手の御門番なりしが、炎燄甚しく、其邊危かりし折節、御門外の南にあたる邸宅は不ㇾ殘燒落、遂に和田倉御門へ火移り、御門外の往來、出べき路を失ひ、兒女は叫喚すれども、桔梗御門より内往來を許さぬ場なれば、入ること能はず。此時我、御目付某〔名字忘〕に云には、事此如く急なり。人命に易べからず。我預の所なれば開門いたし、諸人を通すべしと云たれど、某とかくの挨拶なし。因て大手の御門番某も〔姓名忘〕、近火ゆへ詰居たれば、人を馳て我が預の御門は非常の事ゆへ人を通すべく存候。其御門も通りぬけ仰付らるべしと言遣たれど、此も亦挨拶遲々す。我思よう、事急なり、棄置べからずと、自身大手に往き、御門番某と直對すれども、とかく上を憚りて遲々す。かく爲る中に、松平右近將監〔館林侯武元、老職〕大火に因て御殿を出で、百人番の出張所に着坐し居らるるを見つけ、直に馳行て、武元に申には、拙者かくかく申に誰々も挨拶せず候へども、開門いたす可しと言へば、流石武元尤に存候。早々開かるべしと答ふ。因御門を開きたれば、千萬の人蘇生の心地して、老若男女走り入る。大手も是を見て開門す。此事世に喧しきまで賞讚せり。

■やぶちゃんの呟き

「秋元但州」出羽山形藩第二代藩主で館林藩秋元家第八代当主の秋元但馬守永朝(つねとも 元文三(一七三八)年~文化七(一八一〇)年)。既出既注

「爲人」「ひととなり」。

「明和九辰年」壬辰(みずのえたつ)。グレゴリオ暦一七七二年。但し、この明和九年十一月十六日(グレゴリオ暦一七七二年十二月十日)に安永に改元している。この改元自体が同年中に続いて起こった火事風水害が「明和九年(めいわくねん)」即ち、「迷惑年」によるとされたことに依る。

「都下大火」明暦の大火、文化の大火と共に江戸三大大火の一つと言われる明和の大火、通称、行人坂の火事のこと。放火による。明和九(一七七二)年二月二十九日に目黒行人坂大円寺(現在の目黒区下目黒一丁目付近)から出火、南西風に煽られて延焼、完全な鎮火は二日後の三月一日。ウィキの「明和の大火」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『二十九日午後一時頃に目黒の大円寺から出火した炎は南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの、午後六時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。三十日の昼頃には鎮火したかに見えたが、三月一日の午前十時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅した』。『類焼した町は九百三十四、大名屋敷は百六十九、橋は百七十、寺は三百八十二を数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災』、『老中になったばかりの松平定信の屋敷も類焼した』。死者約一万五千人、行方不明者は四千人を超えた。『「明暦三年、明和九年、文化三年各出火記録控」によると、出火元は目黒の大円寺。放火犯は武州熊谷無宿の真秀という坊主。火付盗賊改長官である長谷川宣雄(長谷川平蔵の父親)の配下によって四月頃に捕縛される。明和九年六月二十二日に市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された』とある。

「桔梗大手」桔梗見附門(内桜田門)。の門の瓦にあった江戸城を建造した太田道灌の桔梗家紋に由来。桔梗門は江戸城本丸方面へ通じる門で、現在、この門の先に皇宮警察本部が置かれているため、一般人は門の中に入ることは出来ない。さて――現在、この記事と同じことが起こったら――皇宮警察は開門するだろうか?……♪ふふふ♪……

「炎燄」音では「エンエン」であるが、ここは二字で「ほのほ(ほのお)」(「炎」も「燄」も「ほのお」の意であるから)と当て読みしておく。

「和田倉御門」和田倉見附門。馬場先門の北、大手門の南にあった。

「易べからず」「かふべからず」。

「我預」「わがあづかり」。

「詰居」「つめゐ」。大火事なので、普段と違って早くから門に直々に出て、詰めていたのである。

「馳て」「はせて」。

「言遣たれど」「いひやりたれど」。

「棄置べからず」「すておくべからず」。

「直對」「ぢきたい」。

「かく爲る中に」「かくするうちに」。

「松平右近將監〔館林侯武元、老職〕」陸奥棚倉藩藩及び上野館林藩主で、幕府の寺社奉行・老中をも務めた松平右近衛将監(うこんえのしょうげん)武元(たけちか 正徳三(一七一四)年~安永八(一七七九)年)。延享三(一七四六)年に西丸老中(徳川家治付)となって、上野国館林に国替され、同時に右近衛将監に遷任、延享四(一七四七)年に西丸老中から本丸老中に転じ、宝暦一一(一七六一)年には老中首座となっていた。

「百人番の出張所」百人番所。現在の、大手門から大手三の門を抜けたところの左手に復元されてある。大手三の門を守衛した江戸城本丸御殿最大(長さ五十メートルを超える)の検問所。「鉄砲百人組」と呼ばれた根来組・伊賀組・甲賀組・廿五騎組の四組が交代で詰めていた。各組とも与力二十人、同心百人が配置されていて、昼夜を問わず、警護に当った。同心連が常時百人詰めていたところからの呼称とされる(以上は「千代田区観光協会」公式サイト内の百人番所に拠った)。

「直に」「ぢきに」。直(ただ)ちに。

「馳行て」「はせゆきて」。

「申には」「まうすには」。

「誰々も」「たれたれも」。誰(たれ)一人として。

「流石」「さすが」。

「尤に存候」「もつともにぞんじさふらふ」。

「開かるべし」「ひらかるべし」。御開門なされてよろしい。

「因」「よりて」或いは「よつて」。

「喧しきまで」「かまびすしきまで」。五月蠅(うるさ)いくらい。

譚海 卷之一 加州城下町宮村與兵衞の事

 加州城下町宮村與兵衞の事

○同國城下の町人に宮村與兵衞といふものあり。易學に妙を得たり。四十二歳にて八月十五夜月前に易觀(み)ながら卒したり。兼(かね)て平日いひけるは、我は八月十五夜に生れて、又同日に死ぬる事なりといひけるよし、晩年には鳥獸のたぐひ機(き)をわすれて常に馴親(なれした)しみけり。梁(はり)を走る鼠抔(など)を手を擊(うち)て呼(よぶ)時は、やがて掌に握られて留(とどま)りをる程也。身上(しんしやう)富有(ふいう)なれども毎日つづれを着て鍋(なべ)をうりありき、晝七つ時には歸宿し、即(すなはち)美服に着かへ方丈の樓上に坐し易をのみ見てくらしける。樓居の美麗言語同斷なり。友來れば樓上に對坐し、睡(すい)生(しやう)ずれば客に對しながら暫時假寢する計(ばか)り也。一生平臥(へいぐわ)せし事なし。人の善惡をいひたる事なし。たまたま鳥獸の聲などに就(つき)て未前を卜(ぼく)するに一(いつ)もたがふ事なし。日本の地理は掌をさすごとく談ぜしとぞ。後に國守の聽(ちやう)に達し目見得(おめみえ)を許され、三千石給(たまは)るべきよし成(なり)しを固辭してうけず。武術は心得たるやと問(とは)れしに、生來刀劍の術學(まなび)たる事なけれども、人を恐れたる事覺侍(おぼえはべ)らずとて、手裏劍(しゆりけん)にて庭中の鳥を命ぜらるゝまゝにうちたり。只二人扶持づつ給はりて城下にあらば足り侍るべしと願(ねがひ)て、其(その)席にてもとどりを切(きり)て退出せしなり。妻あれ共(ども)兩人逢(あひ)たる計(ばか)りにて寡居(くわきよ)の人の如く、一子有(あり)、男子にて愛せしが、其子七歳の時庭にあそび、松の枝をとりて西より來る狗(いぬ)に投(なげ)かけしをみて、忽(たちまち)刀をぬき切著(きりつけ)せしとぞ。いかなる事にや其意知(しり)がたし。生質(せいしつ)施(せ)を好み、乞兒(こつじ)貧窮の者に至るまで金錢を與へずといふ事なし。かつて云けるは我もし志(こころざし)の如くなる事をえば、郭注莊子の書は日本になきやうにすべし、此(この)書ほど今時の機に逢(あひ)て、人をそこなふものはあらじと云けるよし。至人(しじん)の所爲(しよゐ)に近き事多しと人のかたりし。

[やぶちゃん注:「機」これは「心の働き」、人間に対する警戒心の謂いであろう。

「つづれ」「綴れ衣(ごろも)」で、破れた部分を継ぎ接ぎした衣服、襤褸(ぼろ)の衣服。「晝七つ時」これは定時法で、申の刻午後四時前後。

「一生平臥せし事なし」これは横臥して寝ると呼吸が困難になって窒息する肺や気管支等の奇形によるものであった可能性がある。ヴィクトリア朝時代のイギリスで「エレファント・マン」として知られたジョゼフ・ケアリー・メリック(Joseph Carey Merrick 一八六二年~一八九〇年:現在では極めて稀な先天性筋骨格系障害であるプロテウス症候群が疑われている)がそうだったし、私の教え子の女性も重度の喘息によって物心ついたころから一度も横になって寝たことがない(積み上げた布団に依りかかって睡眠をとる)子がいた。

「手裏劍にて庭中の鳥を命ぜらるゝまゝにうちたり」命ぜられたとは言え、無益な殺生がこの主人公宮村与兵衞らしくないが、国守の褒美を固辞した無礼の振る舞いなればこそ、ここで敢えて無益な殺生によって自身で自身を断罪する根拠を作り上げたものと私は読む。さればこそ「其席にてもとどりを切て」出家の体(てい)を成し、「退出」したものと読めるからである。但し、かれはあくまで易学の士であって、真に出家したものではないと読める。国守がかくも優遇しようとし、髻(もとどり)もあったとすれば、彼は相応の武士身分であったことが判る。

「妻あれ共兩人逢たる計りにて」妻はあるが、妻と彼とはごく時たま、顔を見合わせるばかりの関係で。

「西より來る狗に投かけしをみて、忽刀をぬき切著せしとぞ」易学の専門家なればこその「西」であって、西方浄土とは無関係であろう。

「郭注莊子の書」西晋期の郭象(かくしょう 二五二年~三一二年)の注した「荘子(そうじ)」のこと。大事なのは、書物としての「荘子」を否定しているのではなく、郭が注した「荘子」の注釈書を焚書せよ、と言っている点に注意されたい。そもそもが易学のバイブルである「易経」は老荘思想に基づいたものである。ウィキの「郭象によれば、彼はまさに「荘子」に注したことで知られるのであるが、そこに現われた彼の思想は、『「独化」「自得」などといった語に象徴されるように道のあるべき流れに従って「おのずと生まれた」有なるものを崇める姿勢を見せた。また、人間の道徳観念は生得的に備わる(「仁義は自ら是れ人の惰性なり。」)ものであるとも説いた』が、『史書の記載するところによれば「郭象は軽薄な人間であり、向秀の『荘子』注が世に知られていないことをいいことに、これに若干の加除を行った上で、自分の著作と偽って『荘子』注を著した」という。これの真偽については古来議論があるが、余嘉錫『世説新語箋疏』では「向秀の注が残っていないのでもはや検証のしようがない」と述べている』とあるのであるが、この宮村与兵衞は、彼の解釈や注が悉く荘子(そうし)の「荘子(そうじ)」の本質を誤っていると断じていることに着目されたい。荘子好きの私としてはここは是非とも、「宮村注莊子」を残して欲しかったものである。

「今時の機」こちらの「機(き)」は、現代の事象生成消滅や人の心の働きの謂いであろう。

「至人の所爲」「至人」はまさに「荘子」逍遙遊篇の「至人は己(おのれ)なし」に基づく成語で、十分に道を修め、その極致に達した人の意で、「所爲」は(そうした「至人」の)成せる行い・振る舞いの意。]

生物學講話 丘淺次郎 附錄 生物學に關する外國書 /「生物學講話」藪野直史電子化注完結!

 

[やぶちゃん注:以下は講談社学術文庫版(昭和五十六(一九八一)年刊の本人の意思とは無関係に改題された「生物学的人生観」(上・下二巻 八杉龍一序))では省略されている。] 

 

      附 錄 生物學に關する外國書 

 

 先に著した進化論講話の例に倣うて、本書と内容の相似た通俗的の外國書を幾種か選び出し、その表題を掲げて讀者の參考に供したいと考へたが、本書と同じやうな仕組に書き綴つた書物はまだ何國にもないので、本書を讀み終つた讀者に引き續いて讀むに適するものとして特に紹介すべき書物は一册も見當らぬ。生物の攻擧、防禦の方法とか、寄生・共棲の狀態とか、雌雄の關係とか、胎兒の發育とかいふやうに一部分づゝに分けて見れば、これに關する書物や論文は素より夥しくある。そして、その多數は全く專門的の研究報告として公にせられたもので、一般の人が讀むには適せぬが、また誰にもわかるやうに通俗的に書いた書物も決して少くはない。次に掲げるのは、かやうな書物の中から、偶然著者の手近にあつたもの若干を選んだのであるから、他に比して特にこれ等が宜しいと考へたわけでもないが、いづれも本書の内容の一部を更に詳しく述べた如きもので、參考としては十分の價値を有するもののみである。

[やぶちゃん注:「進化論講話」明治三七(一九〇四)年刊。当時最新のダーウィンの進化論を初めて一般人向けに解説したもの。因みに、本書の最後で、当該生物の生存に有利に働いた特異形質が過度に発達し過ぎた結果、逆にその種属を滅亡へと導いた、それはヒトという種に於ける脳(智力)と手(道具)の於いても例外ではないとする、一種、悲観的な文明的批評、人類の未来観を述べておられるのは、丘先生の独自の進化学説である。科学技術と名打った「手」(道具)が人倫や科学という領域を遙かに凌駕して増殖、ロボット兵士の「技術」が実現し、クローンによって人間を創造する禁断の「技術」も手に入れ、最初の人類が「手」にした「火」が遂にはチェレンコフ光の「業火」となって人類自身を死滅させるに至るであろう現在、丘先生の憂鬱は実にまことに正しかったのだと私は今、思っているのである。なお、今回のこの「生物學講話」電子化注の終了後には、引き続き、その「進化論講話」の電子化注に遷りたいと不肖、私は目論んでいることをここに告白しておく。] 

 

 1 Hesse und Donein, Tierbau und Tierleben

     (ヘッセ、ドフライン合著、動物の構造と生活)

 二册物の大きな書物で讀み終るにはなかなか手間が掛かるが、動物の習性や外界との關係をこの位によく書いてゐるものは恐らく他にないであらうから、獨逸語によつて生物學の通俗書を讀まうとする人には、第一にこの書を薦めたい。挿畫も良いものがなかなか多い。本書に掲げた圖の中にもこの書物から寫したものが幾つもある。著者は兩人とも獨逸の大學教授で、ドフラインの方は嘗て一度日本へも來て、澤山の動物を採集して歸つた。同氏の著した Ostasien-Fahrt といふ旅行記は日本の動物のことが種々書いてあつて面白い。

[やぶちゃん注:一九一〇年刊。

「ヘッセ」ドイツの動物学者で生態学者リヒャルト・ヘッセ(Richard Hesse  一八六八年~一九四四年)。

「ドフライン」ドイツの動物学者で生態学者フランツ・テオドール・ドフライン(Franz John Theodor Doflein 一八七三 年~一九二四年)。彼と日本の関係については、「日本分類学会連合」公式サイト内の藤田敏彦氏の「フランツ・ドフラインと相模湾の深海動物」に詳しい。

Ostasien-Fahrt」前記の藤田氏の記載に全五百十一頁の『「東亜紀行」(Ostasienfahrt, 1906)』と出、『ドフライン自身が行った相模湾の深海動物の調査とその結果についても詳しく述べられている』とある。] 

 

 2 Brehm, Tierleben (ブルーム著、動物誌)

第四版が一九二二年に完成した。十三册もある大部な書物である故、始めから終りまで讀み通すには適せぬが、有らゆる動物の種類を網羅し、その生活狀態を通俗的に記載してあるから、讀みたい處だけを拾ひ讀みにしても、頗る面白い。大勢の學社が分擔して筆を執り各々得意とする種類を引き受けて書いたもので、獸類と鳥類との部は特に詳しい。圖畫も立派なものが多數に入れてゐる。通俗的の博物書としては恐らくこれに匹敵するものは他になからう。

[やぶちゃん注:「ブルーム」ドイツの動物学者アルフレート・エドムント・ブレーム(Alfred Edmund Brehm 一八二九年~一八八四年)。ウィキの「アルフレート・ブレーム」によれば、現在は「ブレーム動物事典」と訳されているようで、独題は「Brehms Tierleben」、英題は「Brehm’s Life of Animals」とあり、第一版は全六巻で「Illustrirtes Thierleben」というタイトルで、一八六四年から一八六九年にかけて出版され、第二版は全十巻となって一八七六年から一八七九年にかけて「Brehms Thierleben」と改題されて出版された。第二版で『追加されたグスタフ・ミュッェルらのイラストは、チャールズ・ダーウィンに「これまで見たなかで、最も優れている」と評されている』。この第二版は一八八二年から一八八四年に再出版されており、続いて第三版が一八九〇年から一八九三年にかけて出版された。この事典は各国語に翻訳され、二十世紀になってからも、要約して一巻に纏めた本なども出版されている、とある。]

 

 3 Hanstein, Tierbiologie (ハンスタイン著、動物生態學)

 これは第一に掲げた書物と同樣の事柄を遙に小規模に編纂したもので、中位の書物一册となつて居る。通讀するにはまづ手頃なものであらう。

[やぶちゃん注:著者も書誌も不詳。識者の御教授を乞う。] 

 

 4 Semper, Animal Life (センペル著、動物の生活)

 萬國科學叢書中の一册で、主として外界から動物の身體に及ぼす影響を論じてある。著者は已に故人であるが、嘗てフイリッピン群島や南洋のパラオ島へ採集に來て種々の動物の生活狀態を研究した有名な大學教授であつた。同じ書物が英語、佛蘭西語、獨逸語で出版せられてあるからどれでも隨意に選むことが出來る。

[やぶちゃん注:一八八一年刊。英訳は正確には「Animal life as affected by the natural conditions of existence」(自然状態に於いて影響を受ける動物の生活)。

「センペル」ドイツの動物学者で探検家カール・ゴットフリート・センペル(Karl Gottfried Semper 一八三二 年~一八九三年)。一八六八年にヴュルツブルク大学の動物学及び比較解剖学教授となっている。] 

 

 5 Romanes, Animal Intelligence (ロマーネス著、動物の智慧)

 表題の通り主として獸類・鳥類等の智力に關する實驗觀察が掲げてある。少しく古い書物ではあるが、今日と雖も一讀の價値はある。卷末の猿の日記などもなかなか面白い。前のと同じく萬國科學叢書中の一册でゐる。

[やぶちゃん注:一八八一年刊。

「ロマーネス」カナダ生まれのイギリスの進化生物学者で生理学者であったジョージ・ジョン・ロマネス(George John Romanes 一八四八年~一八九四年)ウィキの「ジョージ・ロマネス」によれば、彼は『比較心理学の基盤を作り、ヒトと動物の間の認知プロセスと認知メカニズムの類似性を指摘した。姓はロマーニズとも表記される』。『彼はチャールズ・ダーウィンの学問上の友人の中でもっとも若かった。進化に関する彼の見解は歴史的に重要である。彼は新たな用語「ネオダーウィニズム」を提唱した。それはダーウィニズムの現代的に洗練された新たな形を指す用語として、今日でもしばしば用いられている。ロマネスの早すぎる死はイギリスの進化生物学にとって損失であった。彼の死の』六年後に『メンデルの研究は再発見され、生物学は新たな議論の方向へ歩み出した』。『ロマネスはカナダのオンタリオ州キングストンで、スコットランド長老派の牧師ジョージ・ロマネスの三男として生まれた。二歳の時に両親はイギリスに帰国し、彼はその後の人生をイギリスで過ごした。当時の英国の博物学者の多くと同様、彼も神学も学んだが、ケンブリッジで医学と生理学を専攻することを選んだ。彼の一家は教養があったが、彼自身の学校教育は風変わりであった。彼はほとんど学校教育を受けず、世間について知識がないまま大学に入学した』。一八七〇年にゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジを卒業している。『最初にチャールズ・ダーウィンの注意をひいたのはケンブリッジにいるときであった。ダーウィンは「あなたがとても若くて大変嬉しい!」と言った。二人は生涯』、『友人でありつづけた。生理学者マイケル・フォスターの紹介で、ロマネスはユニバーシティ・カレッジ・ロンドンのウィリアム・シャーペイとジョン・バードン=サンダーソンのもとで無脊椎動物の生理学について研究を続けた』。一八七九年、三十一歳の『時にクラゲの神経系の研究を評価され、ロンドン王立協会の会員に選出された』。『青年であった頃、ロマネスは敬虔なキリスト教徒だった。そして最後の病気に間にいくらか信仰を取り戻したようであるが、彼の人生の半ばはダーウィンの影響によって不可知論者であった』。『彼が晩年に書いた未完の原稿では、進化論が宗教を捨てさせたと述べている』。『ロマネスは死去する前にオックスフォード大学で公開講座を開始した。それはしばらく後にロマネス・レクチャーと名付けられ、現代でも引き続き行われている』。一八九二年の『初回には首相グラッドストンが、第二回には友人のトマス・ハクスリーが講義を行った。テーマは科学だけでなく、政治、芸術、文学など幅広い。チャーチルやルーズベルト、ジュリアン・ハクスリー、カール・ポパーなども講義を行っている』。『ロマネスはしばしば進化の問題に取り組んだ。彼はほとんどの場合、自然選択の役割を支持した。しかし彼はダーウィン主義的進化に関する次の三つの問題を認めた』。一つは、『自然の中の種と人工的な品種の変異の量の違い。この問題は特にダーウィンの研究に関連する。ダーウィンは進化の研究に主に家畜動物の変異を扱った』。二つ目は、『同種を識別するために役立つ構造は、しばしばどんな実用的な重要性も持たない。分類学者は分類の目安にもっとも目立ちもっとも安定した特徴を選んだ。分類学者には役に立たなくても、もっと生き残りに重要な形質があるかも知れない』。三点目が、『自由交配する種がどのようにして分裂するかという問題。これは融合遺伝に関する問題で、ダーウィンをもっとも困らせた問題である。これはメンデル遺伝学の発見によって解決され、さらに後のロナルド・フィッシャーは粒子遺伝が量的形質をどのように生み出すかを論じた』。『ダーウィンはその有名な本のタイトルに反して自然選択がどのように新種を造り出すのかを明らかにしなかったが、ロマネスはこの点を鋭く指摘した。自然選択は明らかに適応を作り出すための「機械」であり得たが、新種を造り出すメカニズムは』何か? に対する『ロマネス自身の回答は「生理的選択」と呼ばれた。彼の考えは、繁殖能力の変異が親の形態の交雑防止の主な原因で、新種の誕生の主要な要因である、ということだった。現在、多数派の見解は地理的隔離が種分化の主要な要因(異所的種分化)で、交雑種の生殖能力の低下は第二以降の要因と考えられている』とある。] 

 

 6 Fabre, Souvenirs entomologiques (ファーブル著、昆蟲の話)

 昆蟲の生活狀態を極めて面白く書いたもので出版は少しく古いが、讀者をして恰も詩か小説でも讀んで居る如き感じを起さしめるとの評判がある。著者は一九一五年の十月九十二歳の高齡で死んだ。

[やぶちゃん注:フランスの偉大な昆虫学者で博物学者ジャン=アンリ・カジミール・ファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre 一八二三年~一九一五年)は同時に作曲活動をも成し、プロヴァンス語文芸復興の詩人としても知られる(ウィキの「ジャン・アンリ・ファーブル」に拠った)。「昆虫記」(Souvenirs entomologiques)は一八七八年から一九〇七年にかけて実に三十年近くを費やして完成された名著である。ファーブルがダーウィンの進化論に強く反対していたことは夙に知られる。] 

 

 7 Reuter, Djurens Själ (ロイテル著、動物の精神)

 著者は一九一三年に死んだロシヤ國領へルシンキ大學の教授で、特に昆蟲の社會的生活の起りなどを研究した人でゐる。この書は小さな書物で、スウェーデン語で書いてあるが、獨逸語に譯したものも殆ど同時に出版せられた。

[やぶちゃん注:一九〇七年刊。

「ロイテル」フィンランドの動物学者Odo Morannal Reuter(一八五〇 年~一九一三 年:発音不詳につき、カタカナ音写を控えた)。] 

 

 8 Groos, Spiele der Tiere (グロース著、動物の遊戲)

 種々の動物、特に鳥類、獸類の幼時に於ける遊戲を調べて書いたもので、著者自身が直接に觀察した譯ではないが、多くの書物に散在してある材料を一册に纏めてあるから、讀む者には大に便利である。

[やぶちゃん注:一八九六初版。

「グロース」ドイツの哲学者・心理学者であったカール・グロース(Karl Groos 一八六一年~一九四六年)。] 

 

 9 Krall, Denkende Tiere (クラル著、考へる動物)

 近頃有名になつたエルバーフェルドの馬に就いて、飼主自身が著した書物である。この馬の智力に關しては種々の議論もあるが、多數の動物學者の實驗證明する所によると考へる力の有ることは決して疑はれぬやうに見える。

[やぶちゃん注:一九一二年刊。「第七章 本能と智力 四 智力」の図と図版のキャプションを参照。

「エルバーフェルド」エルバーフェルト(Elberfeld)は、現在はドイツ連邦共和国ルール地方の工業都市、ノルトライン=ヴェストファーレン州ヴッパータール(Wuppertal)と呼称が変わった。

「クラル」カール・クラール(一八六三年~一九二九年)。彼に就いてはドイツ語版ウィキはある。お読みになれる方はどうぞ。私は読めないのでこれ以上の注を附すことは避ける。] 

 

 10 Minot, On Growth, Age, and Death (マイノット著、生長、老年及び死)

 著者はアメリカ大學の解剖學の教授である。この書に書いてあることは、生長。老年、死等に關するその人の意見であるが、死を論ずる如き場合には大に參考となるであらうと思はれる。

[やぶちゃん注:一九〇八年刊。なお、文中の「アメリカ大學」は「アメリカの大學」の脱字であろう。

「マイノット」アメリカの解剖学者で発生学者のチャールズ・セジウィック・マイノット(Charles Sedgwick Minot 一八五二年~一九一四年)。一八八六年に顕微鏡用切片標本を作成するための自動回転式ミクロトームを発明したことで知られる。一八九二年にハーバード大学教授、一八九七年には全米科学アカデミー会員にも選出されている(以上の事蹟は日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」に拠る)。] 

 

 右の外になほ讀んで面白く、且人生に一する思考の材科どなるべき通俗的生物學書の多くあるべきことはいふに及ばぬ。但し、Biolody, Biologie 等の文字を表題として掲げた書物は、大概動物學・値持學の教科書を合本にした如き體裁のものが多く、隨つて一般の人が卷の終りまで興味を以て讀み通すやうに出來て居るものは極めて少い。考へて讀みさへすれば、如何なる書物でも思想の材料にならぬものはなからうが、わからぬ術語なふぉが頻繁に出て來ては了解も困難で、それだけ興味も殺がれるから、生物學と銘打つた外國書はなるべく後に廻した方が宜いやうである。

[やぶちゃん注:底本は「Biology」が「Biolody」となっているが、誤植と断じて訂した。] 

 

 11 Korschelt, Lebensdauer, Altern und Tod

              (コルシェルト著、壽命、老衰と死)

 一九二四年に增補第三版が出來た。表題の事項を念入りに、且獨立の考へで取り扱ふてある。讀んで見て頗る面白い書物で、單細胞生物の老衰現象を説いて居る邊などは、單細胞生物には死はないなどと簡單に論ずる人々に對して大に參考になると思はれる。

[やぶちゃん注:初版は一九一七年刊。

「コルシェルト」ドイツの動物学者ユーゲン・コルシェルト(Eugen Korschelt 一八五八年~一九四六年)。]

 

 12 Meissenheimer, Geschlecht und Geschlechter

              (マイセンハイメル著。性と兩性)

 性に關する書物は近來澤山に出來たが、本書は大部でもあり、挿圖も多く、事實を記載してあることの精密な點では恐らく群を拔いたものであらう。苟しくも、性に就いて論ずる人が一度は必ず目を通して置くべき書物である。

[やぶちゃん注:一九二一年刊。

「マイセンハイメル」ドイツの動物学者ヨハネス・マイゼンハイマー(Johannes Meisenheimer 一八七三年~一九三三年)。丘先生の綴りはママ。] 

 

 13 Alverdes, Tiersoziologie (アルヴェルデス、動物社會學)

 一九二五年の出版で、比較的小さな書物ではあるが、動物界に見られる各種の社會を悉く網羅して、いづれも簡單に短かく、述べてある。

[やぶちゃん注:「アルヴェルデス」ドイツの動物学者で心理学者のフリードリヒ・アルヴェルデス(Friedrich Alverdes 一八八九年~一九五二年)。] 

 

 14 Wheeler, Social Life among the lnsects

              (ホイーラー著、昆蟲の社會生活)

  一九二四年の出版。著者は有名な蟻の研究者であるだけ、本書に載せてあることも、多くは、著者自身の實地觀察にかゝるもの故、それだけ安心して讀める。人間の社會を研究する人々にも大に參考になる點が多からうと思はれる。

[やぶちゃん注:「ホイーラー」アメリカの昆虫学者ウィリアム・モートン・ホゥイーラー(William Morton Wheeler  一八六五年~一九三七年)。] 

 

 15 Hempelmann, Tielpsychologie (ヘンペルマン著、動物心理學)

 一九二六年出版の最も新らしい書物である。原始動物から哺乳類に至るまで、各類の動物に就いて、まづ分類の順序に從ふてその心理を述べ後半に於て更にこれを總論的に取扱ふて居る。處々に著者の主觀に過ぎはせぬかと感ずる點もあるが、從來の比較心理の書物とは大に違ふて居るから、確に一讀の價値を有する。

[やぶちゃん注:書名の綴りがおかしい。ドイツ語の著者のウィキを見ると、「Tierpsychologie vom Standpunkte des Biologen. Leipzig 1926.」とある。

「ヘンペルマン」ドイツの動物学者フィリードリヒ・ヘンペルマン(Friedrich Hempelmann 一八七八 年~一九五四年)。] 

 

[やぶちゃん注:以下、底本の奥附。底本では全体が長方形の太枠に囲まれており、「著作権/所有」(「所有」は底本は左右均等割付)の横書二行は四角い枠に囲まれてある。「株式会社は二行割注型。字配は再現していない。]

大正五年一月一日印   刷 大正 五年一月五日發  行

大正十五年七月一日四版印刷 大正十五年七月五日四版發行

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         著作者     丘 淺次郎

生 定     東京市小石川區小日向水道町八十四番地

物 價 著    發行者 株式会社 東京開成館

學 金 作 所  印刷者  代表者 松本繁吉

講 五 權 有 東京市小石川區小日向水道町八十四番地

話 圓     發行所  株式会社 東京開成館

 〔振替貯金口座〕東京第五參貮貮番

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 大阪市東区心齊橋通北久寳寺町角

   販 賣 所         三木 佐肋

 東京市日本橋區數寄屋町九番地

                 林 平次郎

2016/03/02

生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(6) 五 さて人間は如何 /「生物學講話」本文終了

     五 さて人間は如何

 

 今日地球上に全盛を極めて居る動物種族はいふまでもなく人間である。嘗て地質時代に全盛を極めた各種族はいづれも一時代限りで絶滅し、次の時代には全く影を隱したが、現今全盛を極めて居る人間種族は將來如何に成り行くであらうか。著者の見る所によれば、かやうな種族は皆初め他種族に打ち勝つときに有効であつた武器が、その後過度に發達して、そのため終に滅亡したのであるが、人間には決してこれに類することは起らぬであらうか。未來を論ずることは本書の目的でもなく、また著者のよくする所でもないが、人間社會の現在の狀態を見ると一度全盛を極めた動物種族の末路に似た所が明にあるやうに思はれるから、次に聊かそれらの點を列擧して讀者の參考に供する。

 

 人間が悉く他の動物種族に打ち勝つて向ふ處敵なきに至つたのは如何なる武器を用ゐたに因るかといふに、これは誰も知る通り、物の理窟を考へ得る腦と、道具を造つて使用し得る手とである。もしも人間の腦が小さくて物を工夫する力がなかつたならば、到底今日の如き勢を得ることは不可能であつたに違ない。またもしも人間の手が馬の足の如くに大きな蹄で包まれて、物を握ることが出來なかつたならば、決して他の種族に打ち勝ち得なかつたことは明である。されば腦と手とは人間の最も大切な武器であるが、手の働と腦の働とは實は相關連したもので、腦で工夫した道具を手で造り、手で道具を使うて腦に經驗を溜め、兩方が相助けて兩方の働が進歩する。如何に腦で考へてもこれを實行する手がなければ何の役にも立たず、如何に手を働かさうとしても、豫め設計する腦がなかつたならば何を始めることも出來ぬ。矢を放ち、槍で突き、網を張り、落し穴を掘りなどするのは、皆腦と手との聯合した働であるが、かゝることをなし得る動物が地球上に現れた以上は、他の動物種族は到底これに勝てる見込みがなく、力は何倍も強く牙は何倍も鋭くとも終に悉く人間に征服せられて、人問に對抗し得る敵は一種もなくなつた。かくして人間は益々勢を增し全盛を極めるに至つたが、その後はたゞ種族内に激しい競爭が行はれ、腦と手との働の優つた者は絶えず腦と手との働の劣つたものを壓迫して攻め亡し、その結果としてこれらの働は日を追うて上達し、研究はどこまでも深く、道具はどこまでも精巧にならねば止まぬ有樣となつた。人はこれを文明開化と稱へて現代を謳歌して居るが、誰も知らぬ間に人間の身體や社會的生活狀態に、次に述べる種族の生存上頗る面白からぬ變化が生じた。

 

 まづ身體に關する方面から始めるに、腦と手との働が進歩してさまざまのものを工夫し製作することが出來るやうになれば、寒いときには獸の皮を剝ぎ草の纎維を編みなどして衣服を纒ひ始めるであらうが、皮膚は保護せられるとそれだけ柔弱になり、僅の寒氣にも堪へ得ぬやうになれば更に衣服を重ね、頭の上から足の先まで完全に被ひ包むから、終には一寸帽子を取つても靴下を脱いでも風を引く程に身體が弱くなつてしまふ。また人間が自由に火を用ゐ始めたことは、すべて他の動物に打ち勝ち得た主な原因であるが、食物を煮て食ふやうになつてからは齒と腸胃とが著しく弱くなつた。野生の獅子や虎には決してない齲齒が段々出來始め、生活が文明的に進むに隨うてその數が殖えた。どこの國でも下層の人民に比べると、貴族や金持には齲齒の數が何層倍も多い。嗜好はとかく極端に走り易いもので、冬は沸き立つやうな汁を吹きながら吸ひ、夏は口の痛むやうな氷菓子を我慢して食ふ。盬や砂糖を純粹に製し得てからは、或は鹹過ぎる程に鹽を入れ、或は甘過ぎる程に砂糖を加へる。これらのことや運動の不足やなほその他の種々の事情で胃腸の働は次第に衰へ、蟲樣垂炎なども頻繁に起り、胃が惡いといはねば殆ど大金持らしく聞えぬやうになつた。住宅も衣服と同じく益々完全になつて、夏は電氣扇で冷風を送り冬は曖房管で室内を温めるやうになると、常にこれに慣れて寒暑に對する抵抗力が次第に減じ、少しでも荒い風に觸れると忽ち健康を害するやうな弱い身體となり終るが、これらはすべて腦と手との働が進んだ結果である。

[やぶちゃん注:「齲齒」「うし」と読んでいようが、正確には「くし」が正しい読み方。虫歯のこと。「齲」一字でも「むしば」と訓ずる。

「蟲樣垂炎」虫垂(突起)炎。確かに、進化の過程の中で肉食動物が摂餌対象の変化によって盲腸が退化したことは事実であるが、文明化して贅沢をしたり運動しなくなったりした結果として虫垂炎が多発するようになったという丘先生の謂いは、ちょっと説得力を欠くように思われる。なお、「盲腸炎」という謂い方は誤りで、盲腸は右下腹部の上行結腸(大腸)の一番下窪んだ箇所の名称で、その盲腸の端から細長く飛び出しているのが「虫垂」である。その昔、診断の遅れなどから開腹手術した際、既に虫垂が化膿や壊死を起こして盲腸に癒着していて、見た目が盲腸自身の炎症疾患のように見えた誤認からの呼称である。]

 

 智力が進めば、病を治し健康を保つことにもさまざまの工夫を凝らし、病原黴菌に對する抵抗力の弱い者には人工的に抗毒血淸を注射してこれを助け、消化液分泌の不足する者には人造のヂヤスターゼやペプシネを飮ませてこれを補ふが、自然に任せて置けば死ぬべき筈の弱いい者を人工で助け生かせるとすれば、人間生來の健康の平均が少しづつ降るは勿論である。醫學が進歩すれば一人一人の患者の生命を何日か延し得る場合は多少增すであらうが、それだけ種族全體の健康狀態がいつとはなく惡くなるを免れぬ。文明人の身體が少しづつ退化するのは素より他に多くの原因があつて、決して醫術の進歩のみに因るのではないが、智力を用ゐて出來るだけ身體を鄭重に保護し助けることは確にその一原因であらう。身體が弱くなれば病に罹る者も殖え、統計を取つて見ると、何病の患者でも年々著しく數が增して行くことがわかる。

[やぶちゃん注:「ペプシネ」脊椎動物の胃に存在する蛋白質分解酵素(プロテアーゼ)であるペプシン(pepsin)の服用薬であろうが、実は読者は恐らく、明治一一(一八七八)年から資生堂が売り出した「健胃強壮」を謳った怪しげな「ペプシネ飴」のことを想起したのではあるまいか? 「ペプシネ飴」の成分や薬効は早稲田大学図書館公式サイト内の「古典籍総合データベース」の画像で読める。御関心のある向きはお読みあれ。]

 

 他種族を壓倒して自分らだけの世の中とすれば、安全に子孫を育てることが出來るために、人口が盛に殖えて忽ち劇しい生活難が生ずる。狹い土地に多數の人が押し合うて住めば、油斷しては直に落伍者となる虞があるから、相手に負けぬやうに絶えず新しい工夫を凝らし、新しい道具を造つて働かねばならず、そのため、腦と手とは殆ど休まるときがない。その上智力が進めば如何なる仕事をするにも大仕掛けの器械を用ゐるから、その運轉する響と振動とが日夜神經を惱ませる。かくて神經系は過度の刺戟のために次第に衰弱して病的に鋭敏となり、些細なことにも忽ち興奮して、輕々しく自殺したり他を殺したりする者が續々と生ずる。神經衰弱症は野蠻時代には決してなかつたもので、全く文明の進んだために起つた特殊の病氣に相違ないから、これを「文明病」と名づけるのは直に理に適うた呼び方である。

[やぶちゃん注:「神經衰弱症」という疾患(病態)自体は現在、精神疾患の名称として用いられていない。以下、ウィキの「神経衰弱」から引用する。神経衰弱(しんけいすいじゃく、英: Neurasthenia)は、一八八〇年に『米国の医師であるベアードが命名した精神疾患の一種である』。『症状として精神的努力の後に極度の疲労が持続する、あるいは身体的な衰弱や消耗についての持続的な症状が出ることで、具体的症状としては、めまい、筋緊張性頭痛、睡眠障害、くつろげない感じ、いらいら感、消化不良など出る。当時のアメリカでは都市化や工業化が進んだ結果、労働者の間で、この状態が多発していたことから病名が生まれた。戦前の経済成長期の日本でも同じような状況が発生したことから病名が輸入され日本でも有名になった』。『病気として症状が不明瞭で自律神経失調症や神経症などとの区別も曖昧であるため、現在では病名としては使われていない』のである。ここで着目してよいのは、その当時であっても具体的症状として眩暈・筋緊張性頭痛・睡眠障害・消化不良といった身体症状が挙げられ、それに付随する形で強迫感や焦燥感を伴う不定愁訴がある、即ち、現在の心身症とほぼ同等のものを念頭に置いてよいということである。丘先生はしかし、当時の一般的な感覚からは恐らくは、もっと重い自律神経失調症や神経症的病態、即ち、真正の神経症や精神病をも包含して述べていると見て良かろう。但し、その場合、必ずしもそれは「文明病」ではなく、原始社会や近世以前にも幾らもあったことは述べておかねばならない。問題は近代よりも前やもっと古えにあってはそれらを必ずしも「病い」と分類していたわけではないのであるが、それはここで注すべきことではないので、以上の注で留めおくこととする。]

 

 競爭の勞苦を慰めるむめの娯樂も、腦の働が進むと單純なものでは滿足が出來ぬやうになり、種々工夫を凝らして濃厚な劇烈なものを造るが、これがまた強く神經を剌戟する。芝居や活動寫眞などはその著しい例であるが、眞實の生存競爭の勞苦の餘暇を以て、假想人物の生存競爭の勞苦を我が身に引き受けて感ずるのであるから、無論神經系を安息せしむべき道ではない。また人間は勞苦を忘れるために、酒・煙草・阿片などの如きものを造つて用ゐるがどれは種族生存のためには素より有害である。およそ娯樂にはすべて忘れるといふことが要素の一つであつて、芝居でも活動寫眞でもこれを見て喜んで居る間は自分の住する現實の世界を暫時忘れて居るのであるが、酒や煙草の類は實際の勞苦を忘れることを唯一の目的とし、煙草には「忘れ草」といふ名前さへ附けてある。そしてかく忘れさせる働を有するものはいづれも劇毒であるから、常にこれを用ゐ續ければ當人にも、子孫にも身體精神ともに害を受けるを免れぬ。阿片の如きは少時これを用ゐただけでも中毒の症狀が頗る著しく現れる。酒の有害であることは誰が考ヘても明であるから、各國ともに禁酒の運動が盛に行はれるが、暫くなりとも現實の世界から逃れて夢幻の世界に遊ぶことが何よりの樂みである今日の社會に於ては、飯を減らし著物を脱いでも、酒や煙草を止められぬ人間が、いつまでも澤山にあつて、その害も長く絶えぬであらう。そしてこれらは他の動物種族では決して見られぬ現象である。

[やぶちゃん注:『煙草には「忘れ草」といふ名前さへ附けてある』嫌煙運動の盛んになった現今では最早、死後であるが、煙草は別名で「相思草(そうしそう)」とか「返魂草(はんごんそう」、「忘れ草」とか「思い草」という別名を持っていた。]

 

 なほ生活難が增すに隨ひ、結婚して家庭を造るだけの資力が容易には得られぬから、自然晩婚の風が生じ、一生獨身で暮す男女も出來るが、かくては勢ひ風儀も亂れ、賣笑婦の數が年々增加し、これらが日々多數の客に接すれば痳病や梅毒は忽ち世間一體に蔓延して、その一代の人間の健康を害ふのみならず、子供は生まれたときから既に病に罹つたものが澤山になる。その他、智力によつて工夫した避姙の方法が下層の人民にまで普く知れ渡れば、性慾を滿足せしめながら子の生まれぬことを望む場合には盛にこれを實行するであらうから、教育が進めば自然子の生まれる數が減ずるが、蕃殖力の減退することは種族の生存からいふと最も由々しき大事である。子の生まれる數が減れば生活難が減じて、却つて結構であると考へるかも知れぬが、なかなかさやうにはならぬ。なぜといふに珊瑚や苔蟲の群體ならば百疋の蟲に對して百疋分の食物さへあれば、いづれも滿腹するが、人間は千人に對して千五百人分の食物があつても、その多數は餓を忍ばねばならぬやうな特殊の事情が存するから、人數は殖えずとも競爭は相變らず劇しく、體質は以上述べた如くに次第に惡くなり行くであらう。

[やぶちゃん注:「賣笑婦」本書初版は大正五(一九一六)年刊。売春防止法の施行は昭和三二(一九五七)年四月一日で猶予期間を経て、完全施行は翌昭和三十三年四月一日附。

「痳病」真正細菌プロテオバクテリア門βプロテオバクテリア綱ナイセリア目ナイセリア科ナイセリア属淋菌 Neisseria gonorrhoeae に感染することによって発症する性行為感染症(STD)の淋病のこと。ウィキの「淋病」によれば、「淋」とは『「淋しい」という意味ではなく、雨の林の中で木々の葉からポタポタと雨がしたたり落ちるイメージを表現したものである。淋菌性尿道炎は尿道の強い炎症のために、尿道内腔が狭くなり痛みと同時に尿の勢いが低下する。その時の排尿がポタポタとしか出ないので、この表現が病名として使用されたものと思われる』とあり、感染した女性が妊娠出産する場合、その『新生児は出産時に母体から感染する。両眼が侵されることが多く、早く治療しないと失明するおそれがある』とある。

「梅毒」真正細菌スピロヘータ門スピロヘータ綱スピロヘータ目スピロヘータ科トレポネーマ属梅毒トレポネーマ Treponema pallidum に感染することによって発症するSTD。ウィキの「梅毒」の「先天性梅毒」の項によれば、『妊娠中、または出産時に感染する症例である。感染した幼児の』三分の二は『症状が表れない状態で生まれてくる。生後数年で、一般的に、肝臓、脾臓の増大、発疹、発熱、神経梅毒、肺炎といった症状が表れる。治療がなされない場合、鞍鼻変形、ヒグメナキス徴候、剣状脛、クラットン関節と言われる後期先天性梅毒の症状が表れる』とある。医学書によると、胎児の経胎盤感染の全リスクは凡そ六十から八十%とある。]

 

 次に道德の方面に就いて考へるに、これまた腦と手との働の進むに隨ひ段々退歩すべき理由がある。智力のまだ進まぬ野蠻時代には通信や運輸の方法が極めて幼稚であるから、戰爭するに當つて一群となる團體は頗る小さからざるを得なかつた。隊長の命令の聞える處、相圖の旗の見える處より外へ出ては仲間との一致の行動が取れぬから、その位の廣さの處に集まり得るだけの人數が一團を造つて、各々競爭の單位となつたが、かゝる小團體の内では、各人の行動がその團體に及ぼす結果は誰にも明瞭に知れ渡り、團體の生存に有利な行爲は必ず善として賞せられ、團體の生存に有害な行爲は必ず惡として罰せられ、善の隱れて賞せられず、惡の顯れずして罰を免れる如きことは決してなく、善のなすべき所以、惡のなすべからざる所以が極めて確に了解せられる。且かゝる小團體が數多く相對立して劇しく競爭すれば、惡の行はれることの多い團體は必ず戰に敗けて、その中の個體は殺されるか食はれるかして全部が滅亡し、善の行はれることの多い團體のみが勝つて生き殘り、それに屬する個體のみが子孫を遺すから、もしもそのまゝに進んだならば、自然淘汰の結果として終には蟻や蜂の如き完全な社會的生活を營む動物となつたかも知れぬ。しかるに腦の働と手の働とが進歩したために、通信や運輸の方法が速に發達し、これに伴うて競爭の單位となる團體は次第に大きくなり、電話や電信で命令を傳へ、汽車や自動車で兵糧を運搬するやうになれば、幾百萬の兵隊をも一人の指揮官で動かすことが出來るために、いつの間にか相争ふ團體の數が減じて各團體は非常に大きなものとなつた。所で團體が非常に大きくなり、その中の人數が非常に多數になると、一人づつの行動が全團體に及ぽす結果は殆どわからぬ程の微弱なものとなり、一人が善を行うてもそのため急に團體の勢がよくなるわけでもなく、一人が惡を行うてもそのため遽に團體が衰へるわけでもなく、隨つて善が隱れて賞せられねことも屢々あれば、惡が免れて罰せられぬことも屢々あり、時としては惡を行うた者が善の假面を彼つて賞に與ることもある。かやうな狀態に立ち至れば、善は何故になさねばならぬか、惡は何故になしてはならぬかといふ理窟が頗る曖昧になつて來る。小さな團體の内では惡は必ず顯れて嚴しく罰せられるから、潜に惡を行うたものは日夜劇しく良心の苛責を受けるが、團體が大きくなつて惡の必ずしも罰せられぬ實例が澤山目の前に竝ぶと、勢ひ良心の刄は鈍くならざるを得ない。また團體が大きくなるに隨ひ、團體間の競爭に於ける勝負の決するのに甚しく時間が取れ、競爭は絶えず行はれながら、一方が全滅して跡を止めぬまでには至らぬ。即ち敗けても兵士の一部が死ぬだけで、他は依然として生存するから、團體を單位とした自然淘汰は行はれず、その結果として團體生活に適する性質は次第に退化する。大きな團體の内では、各個人の直接に感ずるのは各自一個の生存の要求であつて、國運の消長の如きは衣食足つて後でなければ考へて居る餘裕がない。そして個人を單位とする生存競爭が劇しくなれば、自然淘汰の結果として益々單獨生活に適する性質が發達し、自分さへ宜しければ同僚はどうなつても構はぬといふやうになり、かゝる者の間に立つては良心などを持ち合さぬ者の方が却つて成功する割合が多くなる。各個人がかくの如く利己的になつては、如何に立派な制度を設け、如何に結構な規約を結んでも、到底完全な團體生活が行はれるべき望はない。團體的生活を營む動物でありながら、追々團體生活に適せぬ方向に進み行くことは、種族の生存に取つては極めて不利益なことであるが、その原因は全く團體をして過度に大ならざるを得ざらしめた腦と手との働にある。

 

 更に財産に關する方面を見るに、手を以て道具を用ゐる以上は何事をなすにも道具と人とが揃はねばならず、人だけがあつても道具がなくては殆ど何も出來ぬ。「かはをそ」ならば自分の足で水中を游ぎ、自分の目で魚を捕へるが、人間は船に乘り櫓を漕ぎ、網で掬ひ、龍に入れるのであるから、この中の一品が缺けても漁には出られぬ。僅に櫓に掛ける一本の短い綱が見付からなくても岸を離れることが出來ぬ。かゝる場合には、取れた魚の一部を與へる約定で隣の人からあいて居る櫓や綱を借りるであらうが、これが私有財産を貸して利子を取る制度の始まりである。そして物を貸して利子を取る制度が開かれると、道具を造つて貸すことを專門とする者と、これを借りて働くことを專門とするものとが生ずるが、腦と手との働が進んで次第に精巧な器械を造るやうになると共に、器械の價は益々高く勞働の價は益々安く、器械を所有する者は法外の收入を得るに反し、器械を借りる者は牛馬の如くに働かねばならぬやうになる。共同の生活を營む社會の中に、一方に何もせずに贅澤に暮すものがあり、他方には終日汗を流しても食ヘ者がゐるといふのは、決して團體生活の健全な狀態とは考へられぬ。蒸氣機關でも機織り器械でも發電機でも化學工業でも、著しい發明のある毎に富者は益々富み貧者は益々貧しくなつた所から見れば、今後も恐らく文明の進むに隨ひ最少數の極富者と大多數の極貧者とに分れ行く傾が止まぬであらうが、それが社會生活の各方面に絶えず影響を及ぼし、身體にも精神にも著しい喫化を引き起す。しかもそれがいづれも種族生存の上に不利益なことばかりである。

 

 前に健康や道德に關して今日の人間が如何なる方面に進みつゝあるかを述べたが、貧富の懸隔が甚しくなればすべてこれらの方面にも直接に影響する。極富者と極貧者とが相隣して生活すれば、男女間の風儀なども直に亂れるのは當然で、餓に迫つた女が富者に媚びて婬を責るのを防ぐことは出來ず、貧者は最も安價に性慾の滿足を求めようとするから、それに應ずる職業の女も殖え、世間一般に品行が亂脈になれば花柳病が盛に蔓延して終には殆ど一人も殘らずその害毒を被るであらう。その他富者は飽いて病を得、貧者は餓えるえて健康を保ち得ず、いづれも體質が次第に下落する。現に文明諸國の貧民には榮養不良のために抵抗力が弱くなつて、些細な病にも堪へ得ぬものが夥しくゐる。また富者は金を與へて如何なることをも敢へてし、貧者は金を得んがために如何なることをも忍ばざるを得ぬから、その事柄の善か惡かを問ふ暇はなく、道德の觀念は漸々薄らいで、大概の惡事は日常のこととして人が注意せぬやうになつてしまふが、これでは到底協力一致を旨とする團體生活には適せぬ。

 

 國内の人民が少數の富者と多數の貧者とに分れ、富者は金の力によつて自分らのみに都合のよいことを行へば、貧者はこれを見て決し默つては居ず、富者を敵として憎み、あらゆる方法を講じてこれを倒さうと試み、貧者と富者との間に妥協の餘地のない劇しい爭鬪が始まる。教育が進めば貧者と雖も智力に於ては決して富者に劣らぬから、自分の境遇と富者の境遇とを比較して、なぜかくまで相違するかと考へては不滿の念に堪へず、現今の社會の制度を悉く富者のみに有利な不都合千萬なものと思ひ込み、全部これを覆さうと企てる者も大勢出て來る。今日社會問題と名づけるものにはさまざまの種類があるが、その根本はいづれも經濟の問題であるから、貧富の懇隔が益々甚しくなる傾のある間は到底滿足に解決せられる見込みはなからう。かくの如く、一團體の内が更に幾つもの組に分れて互に相憎み相鬪ふことは、團體生活を營む種族の生存に取つては頗る有害でゐるが、その根源を質せば皆初め手を以て道具を用ゐたのに基づくことである。

 

 要するに、今日の人間は最初他の動物種族を征服するときに有効であつた武器なる腦と手の働が、その後種族内の競爭のためにどこまでも進歩し、そのため身體は弱くなり、道德は衰へ、共同生活が困難になり、貧富の懸隔が甚しくなつて、不平を抱き同僚を呪ふ者が數多く生じ、日々團體的動物の健全なる生活狀態から遠ざかり行くやうに見受ける。これらのことの實例を擧げるのは煩しいから省くが、毎日の新聞紙上に幾らでも掲げてあるから、この點に於ては世界中の新聞紙を本章の附錄と見倣しても差支はない。今日地球上の人間は幾つかの民族に分れ、民族の間にも個人の間にも腦と手とによる劇しい競爭が行はれて居るから、今後もなほ智力は益々進み器械は益々精巧にならうが、この競爭に一歩でも負けた民族は忽ち相手の民族から劇しい壓迫を蒙り極めて苦しい位置に立たねばならぬから、自己の民族の維持繼續を圖るには是非とも腦と手とを働かせ、發明と勤勉とによつて敵なる民族に優ることを努めねばならぬ。かく互に相勵めば所謂文明はなほ一層進むであらうが、その結果は如何といふに、たゞ民族と民族、個人と個人とが競爭するに用ゐる武器が精鋭になるだけで、前に述べた如き人間種族全體に現れる缺陷を救ふためには何の役にも立たぬであらう。人間の身體や精神が漸々退化する傾のゐることに氣の附いた學者は既に大勢あつて、人種改善とか種族の衞生とかいふことが、今日では盛に唱へられて居るが、以上述べた如き缺陷はいづれも腦と手との働が進んだむめに當然生じたもの故、同じ腦と手との働によつて今更これを救はうとするのは、恰も火を以て火事を消し、水を以て洪水を防がうとするのと同じやうで、結局は到底その目的を達し得ぬであらう。「知つて居ることは何の役にも立たず、役に立つやうなことは何も知らぬ」といふたファウストの歎息はそのま々人種改良學者らの最後の歎息となるであらうと想像する。但し、幾多の民族が相睨み合うて居る現代に於ては少しでも相手の民族よりも速く退化するやうなことがあつては、忽ち敵の迫害のために極めて苦しい地位に陷らざるを得ぬから一方腦と手との力によつて相手と競爭しながら、他方にはまた腦の働、手の働の結果として當然生ずべき缺陷を出來るだけ防ぐやうに努めることが目下の急務でゐる。いづれの民族も結局は、腦の過度に發達したために益々生存に不適當な狀態に赴くことを避けられぬであらうが、いま敵よりも先に退化しては、直に敵のために攻められ苦められるべきは明でゐるから、その苦みを免れようとするには是非とも、更に腦と手とを動かせ、工夫を凝らし力を盡して、身體・精神ともになるべく長く健全ならしめることを圖らねばならぬ。人間全體が終には如何になり行くかといふやうな遠い將來の問題よりも、如何にして我が民族を維持すべきかといふ問題の方が目前に迫つて居るから、應急の手段としては、やはり入種改善や種族衞生を學術的に深く研究して、出來る限りの良法を實地に試みるの外はない。かくして、一方に於ては智力によつて、軍事・殖産等の方面を進歩せしめ、他方に於ては同じく智力によつて生活狀態の退化を防ぐことを努めたならば、遽に他の民族のために亡される運命には恐らく遇はぬであらう。

[やぶちゃん注:哀しいことであるが、この時代の発言としては、この最後の謂いは仕方のないもの、寧ろ、削ごく当然のものと勘案せねばなるまい。

『「知つて居ることは何の役にも立たず、役に立つやうなことは何も知らぬ」といふたファウストの歎息』ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe  一七四九年~一八三二年)の戯曲「ファウスト」(Faust)の第一部(一八〇八年発表)に出るファウスト自身の台詞の一節(第一〇六五節)。森鷗外訳で台詞全体を示し、当該箇所に私が下線を引いた(底本は昭和三(一九二八)岩波文庫版を用いた。節番号は省略した。踊り字「〱」は正字化した)。

   *

ファウスト いや。この迷の海から浮き上がることがあらうと、

まだ望んでゐることの出來るものは、爲合(しあはせ)だ。

なんでも用に立つ事は知ることが出來ず、

知つてゐる事は用に立たぬ。

併しこんな面白くない事を思つて、

お互に此刹那の美しい幸福を縮(ちぢ)めるには及ばぬ。

あの靑い烟に取り卷かれている百姓家が、

夕日の光を受けてかゞやいているのを御覽。

日は段々ゐざつて逃げる。けふ一日ももう過去に葬られ掛かる。

日はあそこを驅けて行つて、又新しい生活を促すのだ。

己の此體に羽が生えて、あの跡を

どこまでも追つて行かれたら好からう。

さうしたら永遠なる夕映(ゆふばえ)の中に、

靜かな世界が脚下に横はり、

高い所は皆紅に燃え、谷は皆靜まり返つて、

白銀(しろかね)の小川が黃金(こがね)の江に流れ入るのが見えよう。

さうしたら深い谷々を藏(ざう)してゐる荒山(あらやま)も、

神々に似た己の歩(あゆみ)を礙げることは出來まい。

己の驚いて睜つた目の前に、潮の温まつた

幾つかの入江をなした海原が、早くも廣げられよう。

それでもとうとう女神は沈んでしまふだらう。

只新しい願望が目醒める。

女神の永遠なる光が飮みたさに、

夜(よる)を背(せ)にし晝を面(おもて)にし、

空を負ひ波に俯して、己は驅ける。

あゝ。美しい夢だ。しかし夢は消え失せる。

幻に見る己の翼に、眞實の翼が出來て

出合ふと云ふことは容易ではない。

兎に角この頭の上で、蒼々とした空間に隱れて、

告天子が人を煽動するやうな歌を歌ふとき、

樅の木の茂つてゐる、險しい巓の上の空に、

鷲が翼をひろげて漂ってゐるとき、

廣野の上、海原の上を渡つて

鴻雁が故郷へ還るとき、

感情が上の方へ、前の方へと

推し進められるのは、人間の生附(うまれつき)だ。

   *

幾つか「・」で注しておく。

・「礙げる」「さまたげる」と読む。

・「睜つた」「みはつた(みはった)」と読む。「瞠る」に同じい。

・「とうとう」はママ。但し、後半は底本では踊り字「〱」である。「到頭」であるから、本来、歴史的仮名遣では「たうとう」であって、踊り字の使用は出来ない箇所である。

・「告天子」「かうてんし(こうてんし)」と読む。雲雀(ひばり)の別名。

・「巓」「いただき」。

・「鴻雁」野生の雁(がん)、或いは、「鴻」が大きな雁(がん)で「雁」は小さな雁を指すとも、或いは種としては鳥綱カモ目カモ科 Branta 属カナダガン Branta Canadensis を指したりするようであるが、そもそもが英訳や高橋義孝氏の訳(新潮文庫版)を見る限り、ここは鶴(ツル)である。]

 

 以上の如く考へて後に更に現今の人間を眺めると、その身體には明に過度に發達した部分のあることに氣附かざるを得ない。前に鹿の或る種類ではその滅亡する前に角が大きくなり過ぎ、虎の或る種類では同じく牙が大きくなり過ぎことを述べたが、人間の身體では腦が確に大きくなり過ぎて居る。人間はいつも自分を標準として物を判斷し、人體の美を論ずるに當つても斷金法などと稱する勝手な法則を定めどれに適うたものを圓滿な體格と見倣すが、虛心平氣に考へて見ると、重さ四五瓩、長さ一・六米の身體に重さ一・三五瓩、直徑一七糎餘もあるやうな大きな腦が具はり、これを包むために、顏面部よりも遙に大きな頭蓋骨の發達して居る有樣は、前に述べた鹿の角や虎の牙と相似たもので、いづれも、ほゞ極端に達して居る。もしも彼の鹿が、角の大き過ぎるために滅亡し、彼の虎が牙の長過ぎるために滅亡したものとすれば、人間は今後或は腦が大きくなり過ぎたために滅亡するのではなからうかとの感じが自然に浮ぶが、これは強ち根據のない杞憂でもなからう。已に現今でも胎兒の頭が大きいために難産の場合が澤山にあり、出産の際に命を失ふ者さへ相應にゐる位故、萬一この上に人間の腦が發達して胎兒の頭が大きくなつたならば、それだけでも出産に伴ふ苦痛と危險とが非常に增し、自然の難産と人工的の避妊とのために生殖の率が著しく減ずるに違ない。母が子を産むのは生理的に當然のことで、本來は何の故障もなしに行はるべき筈のものであるのに人間だけは、例外として非常な危險がこれに伴ふのは、確に人間が種族の生存上不利益な方向に進み來つた證據と考へねばならぬ。本書の始にもいうた通り、およそ物は見やうによつて種々に異なつて見えるもので、同一の物に對しても觀察する人の立つ場處を換へると全く別の感じが起る。人間種族の將來に關してもその通りで、人間のみを見るのと、古今の諸動物に比較して見るのとでは大に趣が違ひ、また同じく生物學的に論じても一人一人に考へ方は著しく異なるであらう。それで他の人々が如何に考へるかは知らぬが、著者一人の見る所は、まづ以上略述した如くである。              (をはり)

[やぶちゃん注:「斷金法」不詳乍ら、恐らくは例の古代ギリシャ以来最も調和的で美しい比とされた「黄金分割」に基づくような、怪しげな美的身体比説であろうと思われる。]

卒業式召集令状夢

多くの卒業式が行われた昨夜――こんな夢を見た――

どこかの高校の卒業式である。

僕は教員だが、警備担当で式場の外にいる。

[やぶちゃん注:事実、僕は、国旗国歌斉唱が義務づけられて以降、担任の時以外は常にあらゆる式典会場には入らず、真っ先に警備担当を自ら名乗り、合法的に国旗を仰がず、国歌を歌っていない(一度だけ最後の担任の際、国歌斉唱があったが、私は右手拳を胸に当てがい、口パクで「ラ・マルセイエーズ」を歌っていたことをここに告白しておく。これは私が教員になった際、「国旗に最敬礼したり「君が代」を歌うようなことはしてくれるな」という少年航空兵として特攻を志願して生き残った父との約束を守ったのである。]

式の最中に教え子のS君が呼び出されて、再び戻って来た。ハンドボール部だった屈強な身体の彼は満面の笑みを浮かべて、式場の入口で僕に向かってこういった。

「先生! 御国の御役に立つときが遂に参りました!」

S君の手には「日本国」からの正式な召集令状が握られていた。

僕は彼の肩に優しく右手を掛けると、優しく静かに、こう言った。

「君は未だ見ぬ好きな人を愛し、自らの子をもうけ、その子を育み、幸せな家庭を創らねばならないのです。それがヒトとしての君の当然絶対の成すべき義務です。決して死んではなりませんよ。」

すると、S君の笑顔は寸時に崩れ、彼の目からは大粒の涙が零れ落ちた。

S君は何か言おうとするのだが、嗚咽のために言葉にならないのであった。

そのまま僕はS君を抱きしめた。……

「S君」は私の高校時代の同級生のハンドボール部のエースだった人物が演じていた。今日の夕刻、横浜緑ヶ丘時代(生徒はどの学校の子もそれぞれに好きだったけれど、僕個人の教員人生の中では三十三年であそこでの9年間が一番楽しかった)の十数年前のバスケット・ボール部の教え子と逢うことになっている。それも影響していよう。そしてなにより、この妙な僕の最後の台詞は明らかに近く完結しようとする丘浅次郎先生の「生物学講話」に基づく謂いであることが判る。いや、しかし、僕はそれはまっとうな真理だと考えている。僕は遂に子を持たなかったが――







2016/03/01

生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(5) 四 その末路

      四 その末路

 

 以上若干の例で示した通り、地質時代に一時全盛を極めた動物種族は、その後必ず速に滅亡して次の時には全く影を止めぬに至つたが、これは一體如何なる理由によるか。一度すべての敵に打ち勝ち得た種族はなぜそのまゝに次の時まで優勢を保ち續け得ぬのであらうか。この問に對しては、前にも述べた如くまだ何らの定説が發表せられたことを聞かぬ。少くとも何人をも滿足せしめ得るやうな明瞭な解決を試みた人はまだないやうに見受ける。どの種族も全盛時代の末期には必ず何らかの性質が過度に發達して、そのため生存上却つて不都合が生じ、終に滅したかの如くに見える所から考へて、或る人は生物には一度進歩しかゝつた性質はどこまでもその方面に一直線に進み行く性が具はつてゐると説き、これを直進性と名づけ、一度盛に發展した動物の種族が進み過ぎて終に滅亡したのは、全く直進性の結果であると唱へたが、これは單に不可解のことに名稱を附けただけで、わからぬことは依然としてわからぬ。次に説く所は著者一人の考である。

 

 およそ生存競爭に勝つて優勢を占める動物種族ならば、敵に優つた有効な武器を具へて居ることはいふまでもないが、その武器は種族の異なるに隨うてそれぞれ違ふ。或は筋力の強さで優るものもあらう。または牙と爪との鋭さで優るものもあらう。或は感受の鋭敏なこと、走ることの速なこと、皮膚の堅いこと、毒の劇しいこと、蕃殖力の旺盛なこと、その他何らかの點で敵に優つたために、競爭に勝つを得たのであらうから、全盛を極める種族には各々必ずその得意とする所の武器がある。さて生物各種の個體の數が平常著しく殖えぬのは他種族との競爭があるためで、もし敵がなかつたならば忽ちの間に非常に增加すべき筈であるから、すべての敵に勝ち終つた種族は盛に蕃殖して個體の數が限りなく殖えるであらう。そして個體の數が多くなれば生活が困難になるのを免れず、隨つて同種族内の個體間もしくは團體間の競爭が劇烈にならざるを得ないが、その際各個體は如何なる武器を以て相鬪うであらうかといふに、やはりその種族が嘗て他種族を征服するときに用ゐたのと同じものを用ゐるに違ない。即ち筋力で他種族に打ち勝つに種族ならば、その個體が相戰ふにも同じく筋肉によるであらう。また爪と牙とで他種族を亡した種族ならば、その個體間に於てもやはり爪と牙とによる戰が行はれるであらう。個體間に劇しい競爭が行はれる結果として、これらの武器益々強くなり大きくなるであらうが、いづれの器官でも體部でも過度に發育すると却つて種族生存のためには不利益なことになる。例へば筋力の強いことによつて敵を悉く征服した種族が、敵のなくなつた後に更に個體間で筋力の競爭を續けて益々筋力が增進したと想像するに、筋力が強くなるには筋肉の量が增さねばならぬが、筋肉が太くなればその起點・著點となる骨も大きくなり隨つて全身が大きくならねばならぬ。角力取りが普通の人間より大きいのも、力委せに敵を締め殺す大蛇が毒蛇類よりも遙に大きいのも、主として筋肉發育の結果である。かやうな種族内の競爭では身體の少しでも大きいものの方が力が強くて勝つ見込みがあらうが、身體が大きくなればそれに伴うてまた種々の不便不利益なことが生ずる。即ち日々の生活に多量の食物を求めねばならず、生長には非常に手間がかかり、隨つて蕃殖力は極めて低くなる。その上「大男總身に智惠が廻り兼ね」といふ通り、體が重いために敏活な運動が出來ず、特に曲り角の處で身の輕い小動物の如くに急に方向を變へることは惰性のために到底不可能となるから、小さな敵に攻められた場合には恰も牛若丸に對する辨慶の如くに忽ち敗ける虞がある。されば身體の大きいことも度を超えると明に種族生存のために不利益になるが、他種族の敵がなく同種族内の個體同志のみで筋力の競爭をなし續ければ、この程度を超してなほ止まずに進むことを避けられぬ。直進性とはかゝる結果を不可思議に思うて附けた空名に過ぎぬ。また牙が大くて鋭いためにすべて他の種族を壓倒し得た種族が、敵のなくなつた後に更に個體間で牙による競爭を續けたならば、牙は益々大きく鋭くなるであらうが、これまた一定の度を超えると却つて種族の生存上には不利益になる。なぜといふに、およそ如何なる器官でも他の體部と關係なしに、それのみ獨立に發達し得るものは決してない。牙の如きももし大きくなるとすれば、その生じて居る上顎・下顎の骨からして太くならねばならず、顎を動かすための筋肉も、その附著する頭骨も大きくならねばならぬが、頭が大きく重くなれば、これを支へるための頸の骨や頸の筋肉まで大きくならねばならず、隨つてこれを維持するために動物の負擔が餘程重くなるを免れぬ。即ち他に敵のない種族の個體が牙の強さで互に競爭し續ければ、牙と牙に關係する體部とはどこまでも大きくなり、終には畸形と見倣すべき程度に達し、更にこの程度をも通り越して進むの外はない。その有樣は歐米の諸強國が大砲の大きさを競爭して妙な形の軍艦を造つて居るのと同じである。何事でも一方に偏すれば他方には必ず劣る所の生ずるのは自然の理であるから、牙の大きくなることも度を超えて極端まで進むと却つて種族の生存には不利益となり、他日意外の敵に遭遇した場合に脆くも敗北するに至るであらう。

 

 以上は單に一二の場合を想像して理窟だけを極めて簡單に述べたのであるが、實際地質時代に一時全盛を極め後急に絶滅したやうな動物種族を見ると、その末路に及べば必ず身體のどこかに過度に發達したらしい部分がある。或は身體が大き過ぎるとか、牙が長過ぎるとか、角が重過ぎるとか、甲が厚過ぎるとか、とかく生存に必要と思はれるより以上に發育して殆ど畸形に近い姿を呈し、恐らくそのために却つて生存が困難になつたのではなからうかと考へられるものが頗る多い。從來はかやうなことに對し直進性といふ名を附けたたりして居たが、著者の考によれば一方のみに偏した過度の發育は全く他種族の壓迫を蒙らずに自己の種族のみで個體間または團體間に劇しい競爭の行はれた結果である。他種族と競爭して居る間は種族の生存に不利益な性質が發達する筈はないが、すべて他の種族を征服して對等の敵がなくなると、その後は種族内で競爭を續ける結果として、嘗て他種族に打ち勝つときに有効であつた武器が過度に進歩し、殆ど畸形に類する發育を遂げるであらう。個體間の競爭で勝負の標準となる性質が、競爭の結果過度に進むを免れぬことは、日常の生活にも屢々見掛ける。例へば女の顏の如きも色が白くて唇の赤いのが美しいが、男の愛を獲んと競爭する結果、白い方は益々白く塗つて美しい白の程度を通り越し、赤い方は益々赤く染めて美しい赤の程度を通り越し、白壁の如くに白粉を塗り、玉蟲の如くに紅を附けて得意になつて居る。當人と、痘痕(あばた)も靨(えくぼ)に見える情人とはこれを美しいと思うて居るであらうが、無關係の第三者からはまるで怪物の如くに見える。新生代の地層から掘り出された牙の大き過ぎる虎や、角の重過ぎる鹿なども恐らくこれと同じやうに同僚間の競爭の結果過度の發達を遂げたものであらう。

 

 一方に過度の發育を遂げれば、これに伴うて他方には過度の弱點の生ずるを免れぬであらうから、これが或る程度まで進むと、今まで遙に劣つて居る如くに見えた敵と競爭するに當つて、自分の不得意とする方面から攻められると脆く敗北する虞が生ずる。前にも述べた通り、優れた種族とはいづれも自分の得意とする方面だけで敵に優るもの故、得意とせぬ方面に甚しい缺陷が生じたならば、種族の生存はそのため頗る危險となるに違ない。一時全盛を極めた動物種族がその末路に及んで遙に劣つた敵にも勝ち得ぬに至つたのは、右の如き狀態に陷つたためであらう。その上一時多くの敵に勝つやうな種族は必ず專門的に發達し、身體各部の分業も進んだものであるから、もし外界に何らかの變動が起り、温度が降るとか、濕氣が增すとか、新な敵が現れるとか、從來の食物がなくなるとかいふ場合には、これに適應して行くことが餘程困難で、そのため種族の全滅する如きことも無論屢々あつたであらう。

 

 要するに著者の考によれば、生物各種族の運命は次の三通りの外に出ない。競爭の相手よりも遙に劣つた種族は無論競爭に敗れて絶滅するの外はない。また競爭の相手よりも遙に優つた種族はすべての競爭者に打ち勝ち、天下に敵なき有樣に達して一時は全盛を極めるが、その後は必ず自己の種族内の個體間の競爭の結果、始め他の種族を征服するときに有効であつた武器や性質が過度に發達し、他の方面にはこれに伴ふ缺陷が生じて却つて種族の生存に有害となり、終には今まで遙に劣れる如くに見えた敵との競爭にも堪へ得ずして自ら滅す亡するを免れぬ。たゞ敵から急に亡されもせず、また敵を亡し盡しもせず、常に敵を目の前に控へて、これと對抗しながら生存して居る種族は長く子孫を殘すであらうが、その子孫は長い年月の間には自然淘汰の結果絶えず少しづつ變化して、いつとはなしに全く別種と見倣すべきものとなり終るであらう。ニイチエの書いたものの中に「危く生存する」といふ句が有つたやうに記憶するが、長く種族を繼續せしめるには危い生存を續けるの外に途はない。「敵國外患なければ國は忽ち亡びる」といふ通り、敵を亡し盡して全盛の時代に蹈み込むときは、即ちその種族の滅亡の第一歩である。盛者必滅・有爲轉變は實に古今に通じた生物界の規則であつて、これに漏れたものは一種としてあつた例はない。以上述べた所は、これを一々の生物種族に當て嵌めて論じて見ると、なほ細かに研究しなければならぬ點や、まだ説明の十分でない處が澤山にあるべきことは素より承知して居るが、大體に於て事實と矛盾する如きことは決してないと信ずる。

[やぶちゃん注:『ニイチエの書いたものの中に「危く生存する」といふ句が有つたやうに記憶する』これはフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche 一八四四年~一九〇〇年)が一八八二年に刊行した、かの「永劫回帰説」を示し、「神は死んだ」と記したアフォリズム形式の「悦ばしき知識」(Die fröhliche Wissenschaft)の「第四書」の「二八三」章の一節であろう。所持する一九九三年刊筑摩書房ちくま刊学芸文庫版「ニーチェ全集」第八巻の信太正三氏の当該箇所の訳文を引くと、『――生存から最大の収穫と最大の享受とを刈り入れるる秘訣は、危険に生きるということだからだ!』(太字「危険に生きる」の箇所は底本では傍点「ヽ」)とある。原文は「gefährlich leben!」(ゲフェーアリヒ・レーベン!)か。]

生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(4) 三 歷代の全盛動物

      三 歷代の全盛動物

 

 地殼を成せる岩石には火成岩と水成岩との區別があるが、水成岩の方は長い間に水の底に泥や砂が溜まり、それが次第に固まつて岩と成つたもの故、必ず層をなして相重なり、各層の中にはその地層の出來た頃に生存して居た生物の遺骸が化石となつて含まれてある。地質學者は水成岩の層をその生じた時代の新舊に從ひ、始原代・古生代・中生代・新生代の四組に大別し、更に各代のものを若干の期に細別するが、これらの各時代に屬する水成岩の層を調べて見ると、その中にある化石には頗る稀な珍しい種類もあれば、また非常に澤山の化石が出て、恐らくその頃地球上の到る處に多數に棲息して居たらうと思はれる種類もある。個體の數や身體の大きさや構造の進んだ點などから推して、その頃全盛を極めて居たに相違ないと思はれる種族がいづれの時代にも必ずあるが、かゝる種族の中から最も著しいもの若干を選び出して、次に簡單に述べて見よう。

[やぶちゃん注:「火成岩」地球内部に出来たマグマが地表に噴出したり、地下の種々な場所に貫入して冷却・固結して出来た岩石の総称。化学組成や生成される時の状態によって分類され、地下深所で固結したものを「深成岩」(花崗岩など)、地表或いは地表近くで固結したものを「火山岩」(安山岩・玄武岩など)、前二者の中間の地下で固結したものを「半深成岩」と称する。

「水成岩」成層岩。堆積作用によって形成された岩石。自然の機械的な堆積作用による砕屑(さいせつ)岩(砂岩・礫岩など)、化学的堆積作用による化学的沈殿岩(チャート・岩塩など)、有機的又は生化学的堆積作用による有機的堆積岩(石灰岩・石炭など)等に分かれる。

「始原代」現行の地質時代の最も古い時代区分。古生代カンブリア紀が始まる約 五億四千二百万年前までのおよそ四十億年以上の期間を指す。古い時期から「始生代」・「原生代」と二区分することがある。この時代の岩石は世界の楯状地を形成して分布し、大部分が片麻岩・結晶片岩などの変成岩や花崗岩などの深成岩であるが、後期の先カンブリア時代後期の岩石には各種の堆積岩がある。原始大気中に遊離酸素が存在しなかった時代から始まり、酸素が増加する約二十億年前、初めて超大陸が形成されて地殻内の全マントル対流が始まったのが約十九億年前とされる。酸素を作るシアノバクテリア(cyanobacteria:現行の藍色細菌門 Cyanobacteria の藍藻類で、単細胞或いは糸状で核膜を持たない。色素によって光合成を行う)によるストロマトライト(stromatolite:糸状体状の原核微生物の群集が作る堆積構造に由来する岩石)の出現は約二十七億年前とされ、この頃には既に生命活動があったと推定されている。

「古生代」約五億四千二百万年前から約二億五千百万年前の期間に亙る時期の総称。古い時期から「カンブリア紀」・「オルドビス紀」・「シルル紀」・「デボン紀」・「石炭紀」・「ペルム紀」に区分される。海棲無脊椎動物が繁栄し、後半には魚類・両生類も発生発展した。植物界では多様な藻類やシダ類の繁栄期である。

「中生代」今から約二億四七〇〇万年前から約六五〇〇万年前までの間で、古い時期から「三畳紀」・「ジュラ紀」・「白亜紀」に三分されする。陸上では裸子植物や巨大爬虫類が全盛となり、鳥類・哺乳類・被子植物が出現、海中では軟体動物のアンモナイトや原初の斧足類などが繁栄した。

「新生代」今から約六千五百万年前から現在までの時代を指す。「第三紀」・「第四紀」に二分される。哺乳類や被子植物類が発達して繁栄、末期には人類も出現した。]

Sanyoutyu

[三葉蟲]

Anmonaite

[アンモン石]

[やぶちゃん注:以上の二図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 古生代の岩石から掘り出される「三葉蟲」の類もその頃には實に全盛を極めて居たものと見えて、世界諸地方から夥しく發見せられる。我が國では極めて稀であるが、支那の山東省邊からは非常に澤山出て、板の形に割つた岩石の表面が全部三葉蟲の化石で一杯になつて居ることが珍しくない。三葉蟲にも澤山の種や屬があつて、小さいのは長さ三粍にも及ばず、大きいのは三〇糎以上にも達するが、いづれも「かぶとがに」と船蟲との中間の如き形で、裏から見ると「わらぢむし」に似て足が多數に生えて居る。この類は古生代にはどこでも頗る盛に繁殖したやうであるが、不思議にもその後忽ち全滅したものと見えて、次なる中生代の地層からは化石が一つも發見せられぬ。それ故もし或る岩石の中に三葉蟲の化石があつたならば、その岩石は古生代に屬するものと見倣して間違はない。かくの如く或る化石さへ見れば直にその岩石の生じた時代を正しく鑑定し得る場合には、かやうな化石をその時代の「標準化石」と名づける。中生代の地層から掘り出される「アンモン石」といふ化石は、「たこ」・「いか」などに類する海産軟體動物の貝殼で、形が恰も南瓜の如くであるから、俗に「南瓜石」と呼ぶ地方もある。これもその時代には全盛を極めたものと見えて、種の數も屬の數も頗る多く、懷中時計程の小さなものから人力車の車輪位の大きなものまで、世界の各地方から多數に發見せられる。我が國の如きはその最も有名な産地である。今日生きて居る動物で稍これに似た貝殼を有するものは僅に「あうむ貝」の類のみであるが、「さざえ」や「たにし」の貝殼とは違ひ、扁平に卷いた殼の内部は澤山の隔壁があつて多くの室に分れて居る。そして「アンモン石」では隔壁と外面の壁との繫ぎ目の線が實に複雜に屈曲して美しい唐草模樣を呈し、その點に於ては如何にも發達の極に達した如くに見える。この類も中生代の終までは全盛を極めて居たが、その後忽ち全滅したと見えて、次なる新生代の岩石からは一つもその化石が出ぬから、地層の新古を識別するための標準化石として最も重要なものである。

[やぶちゃん注:「三葉蟲」節足動物門三葉虫綱 Trilobita に属するトリロバイト類。ウィキの「三葉虫」から引く。『多数の体節を持ち、各体節に一対の付属肢が備わっていたと考えられている。甲羅(背板)の特徴は、縦割りに中央部の中葉(axis)とそれを左右対となって挟む側葉(pleura(e))となっており、この縦割り三区分が三・葉・虫の名称の由来となっている。また、頭部(cephalon)、胸部(thorax)、尾部(pygidium)といった横割りの体区分も認められる。頭部と尾部は一枚の"甲羅"(背板)であり(ただし、脱皮時には頭部は最大』五つの『パーツに分割される)、胸部は』二基から六〇基を超える『甲羅(背板:特に胸節(thoracic segment)と呼ぶ)で構成されている』。『中葉はアーチ状に盛り上がり、側葉の内側は平坦である。より派生的なグループでは側葉の外側が腹側(生物体の下側)へと傾斜する傾向を持つ。このため、生物体が腹側へと丸まった時に胸節側葉部の外側域が重なり合い、甲羅(背板)でほぼ球状に生体部を覆うこととなる防御姿勢(enrollment)の構築が可能となる。誤解が多いので述べておくが、球状にならなくても防御姿勢というので注意を要する。頭部には、通常複眼が左右に』一対『あるが、頭部に対する相対的なサイズは様々であり、盲目化した種もさまざまな系統で知られている。口は頭部中葉域の腹側にあり、より腹側にある石灰質のハイポストーマ(hypostome)で覆われた状態であったと考えられている。そのため、開口部は体の後方を向いていたと考えられている』。『また、頭部・胸部・尾部の付属肢間で形態的差異はほとんどない。現在の節足動物甲殻類のカニやエビなど、さらに陸生の昆虫やムカデなどに認められるいわゆる口器とされる特殊化した付属肢は存在しない』。『触角以外の付属肢は基本的に二肢型であり、主に歩行に用いたであろう内肢と、その基部の肢節(注:甲殻類の肢節(coxa)ではない)より生物体の外側へと分岐し』、『櫛歯状の部位を有する外肢で構成される』。『目のレンズは全身の外骨格と同じ方解石(カルサイト)という鉱物でできており、多数の個眼を持ち、その数は数百に及ぶ。ほとんどの種では正面と両側面の視覚が優れていたことが明らかにされている』。『基本的には、海底を這ったり、泳いだりして生活していたものと想像されている。一部に、泥に潜っていたとか、浮遊性であったと推測されているものもある。多くは腐食生活者であるが、一部の種は捕食者である。例えば、オレノイデス(Olenoides)』『の成長は、硬い外骨格は成長につれて伸びることができないので、古い殻を脱ぎ捨て新しい殻に変える脱皮によって行われ、脱皮ごとに細部の構造が変わっていった』と考えられている。『現在、発見されている三葉虫の化石のうちで最も大きいものは全長』六〇センチメートルもあるものから、小さいものでは一センチメートルに満たず、幼生化石では、最も小さなそれは直径〇・二ミリメートルとされる。『幼生は胸部の体節が少なく、成長につれて体節を増やしたことが考えられる。また、ノープリウスに近い形の浮遊性の幼生らしいものも発見されている』。一九七〇年代までは、『三葉虫を節足動物のなかでもっとも原始的な群とする見解が主流であった。しかし、それ以降に北米のバージェス動物群やグリーンランドのシリウス・パセット動物群や中国の澄江(チェンジャン)動物群の記載分類学的および系統学的研究が活発に行われることで、節足動物の初期進化についての議論が活発化した。その流れのなかで、三葉虫が節足動物のなかで最も原始的といった解釈は自然消滅的に支持されなくなっていった。ただし節足動物の大きな区分として、甲殻類、多足類、昆虫類と鋏角類に並ぶ一群としての位置はほぼ認められている。それらの間の類縁関係については定説がない。古くは三葉虫から触角が退化して鋏角類が生じたとの説があり、カブトガニがその直接の子孫だと言われたこともあるが、現在では認められない』。古生物学の分類学的辞書ともいえる「Treatise of Invertebrate Paleontology」においては、『三葉虫種全てを三葉虫綱(Class Trilobita)としてまとめている。三葉虫の化石は、ほとんどのものが背側に備わった石灰質の"甲羅"(背板)のみが化石化しているため、分類の定義は背板上の形質に頼らざるを得ない。これは、付属肢などの生体部の形状を重要視して分類同定を行う現生の節足動物群とは根本的に異なるので注意が必要である。つまり不完全な記載分類学的研究ではあるが、その研究の歴史は古く』、十八世紀後半には『三葉虫を節足動物の中の独立したグループとする見解が提出され、また分類学の始祖とされるスウェーデンのカール・フォン・リンネも三葉虫を数種記載している。ただし現今では新種報告の数が著しい減少傾向にあるとされ、主流となる三葉虫研究の方向性の転換も求められているようである。この長い記載分類学の歴史を経た現在、三葉虫綱では』八の目(研究者によっては九から十目とする見解もある)、百七十を超える科、そして一万を超える『種とする見解が主流である』。『三葉虫綱における高次分類群間の類縁関係については』、一九五〇年代以降に『飛躍的に増加した個体発生過程の情報を用いた研究結果に頼るところが大きい。しかしながら、化石化されない生体部の情報がほぼ完全に欠如しているといったデメリットなどにも起因し、研究者間の見解の一致には未だ遠く、今後も大幅な改訂があるかもしれない』。以下その三葉虫綱八目を示しておく(特徴の詳細はリンク先を参照されたい)。

 アグノスタス目 Agnostida

 レドリキア目 Redlichiida

 コリネクソカス目 Corynexochida

 アサフス目 Asaphida

 ファコプス目 Phacopida

 プロエトゥス目 Proetida

 プティコパリア目 Ptychopariida

 リカス目 Lichida

三葉虫の『衰退、絶滅の正確な理由はわかっていないが、多様性、生息数が減少しはじめたシルル紀およびデボン紀にサメを含む魚類が登場、台頭していることと何らかの関係があるという説がある。それでも一部の系統は命脈を保ち続けていたが最終的にペルム紀末期の大量絶滅に巻き込まれる形で絶滅した』とある。

「かぶとがに」節足動物門鋏角亜門節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ属カブトガニ Tachypleus tridentatus であるが、以前、本種の幼生は三葉虫に似ているとされ、「三葉虫型幼生」の名もあり、実際にサンヨウチュウと系統的に近いと思われたこともあったが、現在ではこの生物学的近縁性は全く否定されているので注意されたい。因みに、私は似ているとは全く思わない。

「船蟲」節足動物門甲殻綱等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目フナムシ科フナムシ属フナムシ Ligia exotica 。形状の近似(私は丘先生には悪いが似ているとは思わない)に過ぎない全くの別種である。

「わらぢむし」節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目 Ligiamorpha下目 Armadilloidea 上科ワラジムシ科 Porcellio属ワラジムシ Porcellio scaber などの類であるが、これも他人の空似であって全く縁故はない。化石から復元されたそれ脚部も私は必ずしも似ているとは思われない。以上の三種の喩えは、一般向けとしても形態学的博物学の観点からも私は不適切であり、肯んじ得ない。

「標準化石」示準化石。英語「index fossil」。

「アンモン石」アンモナイト(ammonite)。古生代のデボン紀に出現して中生代に栄え、中生代の終りに絶滅した螺旋型の軟体動物門頭足綱菊石(アンモナイト)亜綱に属する生物種の総称。現行ではアンモナイト亜綱はオルドビス紀から生息する後注する「あうむ貝」を含むオウムガイ亜綱 Nautiloidea の中から分化したものと考えられている。ウィキの「アンモナイトによれば、『アンモナイトの殻(螺環)の外観は一見しただけでは巻き貝のそれと同じようにみえるが、注意深く観察するとそうではない。一般的なアンモナイトの殻は、巻き貝のそれと共通点の多い等角螺旋(対数螺旋、ベルヌーイ螺旋)構造を持っていることは確かであるが、螺旋の伸張が平面的特徴を持つ点で、下へ下へと伸びていき全体に立体化していく巻き貝の殻とは異なり、巻かれたぜんまいばねと同じような形で外側へ成長していくものであった(もっとも、現生オウムガイ類がそうであるように縦巻きである)』。『また、殻の表面には成長する方向に対して垂直に節くれ状の段差が多数形成されていることが多い』。『巻き貝との違いは殻の断面からもわかる。螺旋が最深部まで仕切り無くつながっている巻き貝の殻の内部構造に対し、アンモナイトの場合、螺旋構造ではあるが多数の隔壁で小部屋に区切られながらの連なりとなっている』。『この構造は、現生オウムガイ類の殻と相似性をなしており、このことからアンモナイトは頭足類であると考えられた』。『殻(螺環)の内部は、現生オウムガイ類』『同様、軟体部が納まる一番外側の大部屋(住房;じゅうぼう)と、その奥にあって浮力を担う小部屋(気房;きぼう)の連なりとで構成されている。住房と気房とは細い体管(連室細管)によってつながり、ガス交換がなされていたはずである』。『気房は、数学的規則性(ベルヌーイ螺旋)をもって配置される隔壁(セプタ、septa)によって奥から順次区分される造りになっている。そこにあった体液は排出され、代わりに空気が採り込まれることで中性浮力』『が発生する。これによって気房は魚の鰾(ひょう。浮き袋)に相当する器官として働いていたと考えられる。この説から、たとえ巨大な種であっても行動に不自由は無かったと推測できる』。『現生オウムガイ類の飼育研究から、殻の成長に伴って軟体部が断続的に殻の口のほうへ移動し、その後に残された空洞は最初は体液で満たされているものの浸透圧が作用して体液が自然に排除される仕組みであったと推測されており、積極的にガスを分泌するのではないと考えられている。現生オウムガイ類との相違点として、現生オウムガイ類の隔壁が殻の奥に向かってくぼむのに対してアンモナイトの隔壁は殻の口の方向に突出する傾向があること、隔壁間の空洞を連結する連室細管は現生オウムガイ類では隔壁の中央部を貫通するのに対してアンモナイトでは殻の外側に沿っていることが多いことなどが挙げられる』。『縫合線が菊の葉のような模様を描き出し』、さらに『隔壁はしばしば殻の本体と接する縁の部分で複雑な襞(ひだ)状に折れ込んでいる。これは、ダンボールや波板、H形鋼などと同様、殻の強度を高めつつ軽量化を図るという相矛盾する課題を達成するための仕組みである。殻の内面に現れた隔壁と接する縫合線(Suture Line)の形状は年代による差異が明確で、後代のものほど複雑になっており(一部例外あり)、分類学上重視される形質の一つである』。『この縫合線はまた、複雑に入り組んだ自然の織りなす模様となってアンモナイト化石に美術的価値を生み出してもいる。幾何学的で、かつ、どこか植物的でもあるその模様は、日本や中国では菊の葉を連想され、アンモナイトが「菊石」と呼ばれる由来となった。殻皮』『を剥がして磨きをかけることによって商品化されるものである』。『通常のアンモナイトの殻は同一平面に螺旋に巻いた渦巻状の形態である。ところが中生代も後期の白亜紀に入ると、「異常巻き」と呼ばれる奇妙な形の種が数多く見られるようになってくる。細長く伸びたようなものや、紐がもつれたような非常に複雑な形状のものなど、様々な形態が現れ(ニッポニテスが有名。左の画像参照)、過去の研究者を悩ませた。これらは系統進化上の寿命なるものが尽きることで引き起こされた一種の末期的な畸形(きけい)の症状であると見なすのが旧来の説だったが、現在は浅海域が発達した白亜紀という時代の環境に因を求め、そこに生じた複雑なニッチ(生態的地位)に適応して様々な生活型のアンモナイトが分化した結果であるという説が唱えられている』。「巨大アンモナイト」の項。『ンモナイト亜綱の動物は、殻の直径で数センチから十数センチメートル程度のものが多い。しかし、中には大きな種も存在し、ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州の白亜紀後期層から発見された史上最大のアンモナイト』とされるアンモナイト目アンモナイト亜目デスモセラス科パラプゾシア・セッペンラデンシス(パキディスクス・セッペンラデンシスParapuzosia seppenradensisPachydiscus seppenradensis)などは殻の直径が二メートルに『達するものであった』とある。

「南瓜石」「一般財団法人 地球の石科学財団 奇石博物館」公式サイト内の「奇石博物館 収蔵品」の中にここに、確かにアンモナイトが「カボチャ石」として紹介されてある。それには『かつては異常巻きアンモナイトと呼ばれ、巻きがほどけて立体的になったもの』とある。確かに南瓜っぽくはある。

「あうむ貝」頭足綱オウムガイ亜綱 Nautiloidea(四鰓亜綱 Tetrabranchia)オウムガイ目オウムガイ科オウムガイ属 Nautilus 

 オウムガイ Nautilus pompilius

 パラオオウムガイ Nautilus belauensis

 ヒロベソオウムガイ Nautilus scrobiculatus

 コベソオウムガイ Nautilus stenomphalus

 オオベソオウムガイ Nautilus macromphalus

 キレフオウムガイ Nautilus pompilius repertus

(他に、Nautilus pompilius × Nautilus stenomphalus と言った交雑種がある模様)及び

オウムガイ科アロノーチラス属 Allonautilus

を立てる説もあるようだが、英語版ウィキを見ると、このタイプ種はAllonautilus scrobiculatus でヒロベソオウムガイNautilus scrobiculatusのシノニムと思われる。但し、同属には同英語ウィキに

 Allonautilus perforatus(和名不明)

という種が示されてある。日本語版ウィキの「オウムガイ」の記載によれば、『生きている化石のひとつで』、『殻に入った頭足類で、南太平洋〜オーストラリア近海に生息し、水深およそ』百~六百メートルに棲息する。『深海を好むというイメージもあるが』、水深が八百メートルを『超えた所では殻が水圧に耐えきれず壊れてしまう。その祖先(アンモナイトに近い)は』四億五千万年前から五億年前に『誕生し、それからほとんど進化していないとされる生物である』。『餌を捕食するために』九十本ほどの『触手を使い、触手にあるたくさんの皺でものに付着する。触手のうち、上面にある二つの触手の基部が分厚くなって融合し、帽子のような形状を作り殻の口に蓋をする働きを持つ。何かに付着する以外には、触手を運動に使わない』。『眼は短い柄の先に付いて、外側が平らになった独特の形を持つものであるが、これはピンホールカメラ方式である。すなわち、タコやイカのカメラ眼とは異なり、レンズの構造がないため、視力はよくない。水の中に落ちた化学物質には素早い動きを見せる』。『イカやタコと同じく漏斗(ろうと)と呼ばれる器官から噴き出す水を推進力にして、体を軽く揺すりながらゆっくりと運動する。主な餌は死んだ魚介類や脱皮した殻などである。俊敏に移動できないので、イカやタコのように生きた魚介類を捕まえて食べることができない。イカやタコとは異なり、墨汁の袋は持っていない』。『また、タコやイカが一年、もしくは数年で死んでしまうほど寿命が短いのに対し、オウムガイの寿命は長く、十数年~二十年近くも生きるといわれるが、それは殻の生成による時間がかかることによる成長の遅さが起因しており、それは殻を完全に退化させ、成長速度を速めたタコやイカと対照的である』。『オウムガイの殻は、巻き貝のそれによく似て見えるが、内部の構造は大きく異なる。巻き貝の殻は、奥までが一続きでほとんど奥まで肉が入っているのに対し、オウムガイの殻の内部には規則正しく仕切りが作られ、細かく部屋に分けられている。もっとも出口に近い部屋が広く、ここに体が収まり、それより奥は空洞である』。『この空洞の部分にはガスと液体が入っており、浮力をそこから得ている。このガスと液体の容積の比率を調節することによって自分自身の全体としての比重を変化させて浮力の調整をして』いるが、『ガスと液体の容積の調整は弁のような機構的な構造によるものではなく』、『液体の塩分濃度を変化させることによる浸透圧の変化によって水分を隔壁内外へ移動させる事で行う。そのために海水中での深度調整の速度は他の海洋生物に比べると遅い』。『死んで肉が無くなると殻が持つ浮力のために浮かびやすく、海流に乗って長距離を流される事もあり、日本沿岸にもよくその殻が漂着する』。『頭足類であるから、タコやイカに近いことになるのだが、イカとタコには多くの類似点が認められるのに対してオウムガイは異なるところが多い。そのため独立した亜綱に分類されている』。『殻の形態や構造は中生代のアンモナイトにも似ているが、むしろそれより古く、古生代のチョッカクガイ』(直角貝:頭足綱オウムガイ亜綱直角石(オルトセラス)目 Orthocerida に属する直線的な殻を持つ化石生物群。オルドビス紀中期の示準化石)『などと共通の祖先を持つ(アンモナイトはイカやタコに近縁とされる)。チョッカクガイの化石は示準化石に指定されているが、現生のオウムガイと違い、殻は槍の先のように真っ直ぐに伸びていた。因みに、オウムガイがチョッカクガイの直系の子孫にあたるという説もあったが、現在では否定されている』。『日本語のオウムガイは、殻を正位置に立てた場合、黒い部分(生息時は、ここに「ずきん」が被っている)がオウムの嘴に似ている為にこの名がついたものである。英名はノーチラス(Nautilus)で、ギリシャ語の』「水夫」に由来するとされる。『ガスの詰まった殻内部の容積を調節して浮き沈みする仕組みは潜水艇と同様である。そのため、ジュール・ヴェルヌは『海底二万里』に登場する潜水艦にこの名を使い、また現実の多くの潜水艦にもこの名が使われた(特にアメリカの原子力潜水艦が有名)』とある。]

Kabutouo

[冑魚]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 以上は兩方ともに無脊椎勤物の例であるが、次に脊椎動物に就いて見ると、古生代の魚類、中生代の爬蟲類、新生代の獸類などには、それぞれその時代に全盛を極めて居た種族が澤山にある。まづ古生代の魚類を見るに、今日の普通の魚類とは大に違うて光澤のある厚い骨のやうな鱗を被つた種類が多く、スコットランドの赤色砂岩から出た化石の如きは、「かに」か「えび」かの如くに全身厚い甲冑を著けて殆ど魚類とは見えぬ。勿論陸上へは昇り得なかつたが、魚類以上の水棲動物がまだ居なかつた時代故、かゝる異形の魚類は到る處の海中に無數に棲息して實に全盛を極めて居た。通俗の地質學書に古生代のことを「魚の時代」と名づけてあるのも尤な次第である。しかしその後に至つて皆忽ち絶滅して、今日これらの魚類に聊かでも似て居るのは、僅に「てふざめ」などの如き硬鱗魚類が數種あるに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:「甲魚」「かぶとうを(うを)」と訓じているらしい(学術文庫ルビから)。「甲冑魚(かっちゅうぎょ)」のこと。古生代に棲息した硬く厚い外骨格を持った魚類で翼甲類及び板皮類に属した。翼甲類は脊索動物門脊椎動物亜門(又は頭蓋亜門)無顎上綱翼甲綱 Pteraspidomorphi に属する魚類の総称で約五億年前のカンブリア紀後期からオルドビス紀前期に出現したが、この類の殆ど総ての種(プテラスピスPteraspis・アストラスピスAstraspis・アランダスピスArandaspisなど)は絶滅してしまったが、現生のヌタウナギ類(無顎口上綱ヌタウナギ綱ヌタウナギ目ヌタウナギ科ヌタウナギ属 Eptatretusの仲間)の祖先であるとする説がある一方、別系統であるとする説がある。板皮類は魚類上綱の一綱Placodermiで、古生代シルル紀の後期から石炭紀の初期にかけて生息した。頭部と胸部は厚い装甲に覆われ、頭甲と胸甲は左右で関節化し、軟骨魚類や硬骨魚類に見られるような歯を持たず、顎骨板が露出して、鉈(なた)状を成しており、これで獲物を嚙み切ったと推定される。殆どが肉食性と思われ、その代表的なものは節頸類(コッコステウス目)である。全長数メートルに達したと思われるダンクルオステウス Dunkleosteus が有名である(概ね、小学館「日本大百科全書」に拠る)。]

Kyouryuu1

[中生代の大「とかげ」]

Kyouryuu2

[中生代の大「とかげ」]

[やぶちゃん注:以上の二図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 中生代に於ける爬蟲類の全盛の有樣は更に目覺ましいもので、陸にも海にも驚くべき大形の種類が勢を擅にして居た。今日では爬蟲類といふと、龜・蛇・「とかげ」などの類に過ぎず、熱帶地方には幾らか大きなものも居るが、普通に見掛けるものは小さな種類ばかりであるから、全盛時代に於ける爬蟲類の生活狀態は到底想像も出來ぬ。ヨーロッパやアメリカの中生代の地層から掘り出された爬蟲類の化石を見ると陸上を四足で匍ひ歩いた種類には、長さ二〇餘米に及び脛の骨一本だけでも殆ど人間程あるもの、また「カンガルー」の如く後足だけで立つた種類には、高さが五米以上に達するもの、また蝙蝠の如く前足が翼の形となつて空中を翔け廻つた種類には、兩翼を廣げると優に五米を超えるものがあり、その他形の奇なるもの姿の恐しいものなど實に千變萬化極まりない有樣であつた。しかもそれが皆頗る數多く掘り出され、べルギーのベルニッサールといふ處からは長さ一〇米もある大「とかげ」の化石が二十五疋も一處に發掘せられた。ブリュッセル博物館の特別館内に陳列してあるのはこれである。中生代にはまだ獸類も鳥類も出來始まりの頗る幼稚な形のもののみであつたから、陸上でこれらの恐しい爬蟲類の相手になつて競爭し得る動物は一種もなかつたに相違ない。更に海中では如何といふに、こゝにも爬蟲類が全盛を極めて魚の如き形のもの、海蛇の如き形のものなどさまざまの種類があり、大きなものは身長が七米一三米にも達してゐて、恰も今日の鯨の如くにしかも今日の鯨よりは遙に多數に到る處の海に游泳して居た。通俗の書物に中生代のことを「爬蟲類の時代」と名づけてあるのも決して無理ではない。かやうに中生代には非常に大きな爬蟲類が水中・陸上ともに全盛を極め、殆ど爬蟲類にあらざれば動物にあらずと思はれるまでに勢を得て居たが、その後に至りいづれも遽に滅び失せて、次なる新生代まで生き殘つたものは一類としてない。特に不思議に感ぜられるのは海産「とかげ」類の絶滅したことで、陸産の方ならば或は新に現れた獸類などに攻め亡されたかも知れぬといふ疑があるが、海中に鯨類の生じたのは新生代の中頃であつて、海産「とかげ」類の斷絶してから遙に後のこと故これらは決して新な強敵に出遇うて敗けて亡びたのではない。それ故なぜ自ら滅び失せたか今までたゞ不可解といふばかりであつた。

[やぶちゃん注:「陸上を四足で匍ひ歩いた種類には、長さ二〇餘米に及び脛の骨一本だけでも殆ど人間程あるもの」これはもう、図を見れば一目瞭然、約一億五千万年前の中生代ジュラ紀後期に棲息していた爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱恐竜上目竜盤目竜脚形亜目竜脚下目ディプロドクス科アパトサウルス属 Apatosaurusの一種である(一科一属)大型草食性恐竜、

アパトサウルス・エクスセルスス Apatosaurus excelsus (Marsh, 1879c) Riggs, 1903

である。同種は旧シノニムをブロントサウルス・エクスセルススBrontosaurus excelsus とも称し私の世代には、この「ブロントサウルス」の方が遙かに通りがよい(但し、現在の古生物学ではこの属名のシノニム自体は全く無効となっている)。本邦の子供向けの恐竜図鑑の通称「カミナリリュウ(雷竜)」もずっと今以って親近感があると言える。現在では他に、

アパトサウルス・アジャクス Apatosaurus ajax Marsh, 1877(本属の模式種)

アパトサウルス・ロウイサエ Apatosaurus louisae Holland, 1915

アパトサウルス・パルヴス Apatosaurus parvus (Peterson et Gilmore, 1902)

の四種が立てられてある。因みに丘先生の引いた挿絵は古生物学者オスニエル・チャールズ・マーシュ(Othniel Charles Marsh 一八三一年~一八九九年)の手になる「Brontosaurus excelsus」(現在のApatosaurus excelsus)の骨格見取図(一八九六年)に生体時の推定輪郭線を附したものであることが、ウィキの「アパトサウルス」に示された原図から判る。同原図はパブリック・ドメインなので以下に示す。比較されたい。但し、これは百二十年前の当時の知見による恣意的な作図であり、正確なものではない(特に脚部の骨や爪など)ので注意が必要である。同ウィキによれば、『属名(ラテン語)Apatosaurus は古代ギリシア語』の『(アパーテー)「騙す、まやかす」』の意に、(サウロス)「とかげ」の語を合成した『語で、「惑わせ竜」とでもいった含意』で、『模式種の種小名 ajax は、ギリシア神話の英雄である大アイアース』『に由来する』『ほか、excelsus はラテン語で「高みなる」「気高い」「上位の」といった意味。 louisae 「ルイーズの」はアメリカの実業家アンドリュー・カーネギーの妻ルイーズ・カーネギー(Louise Carnegie)への献名。parvus はラテン語で「小さな」の意であるが、元の学名 Elosaurus parvus』(エロサウルス・バルヴス)『からの継承である』とある。約一億五千万年前の分布域は単独大陸として北半球に存在した現在の北アメリカ大陸西部地域に相当し、全長は約二十一~二十六メートルにも及び、体重は推定試算方法によって幅があるが、凡そ二十四 トンから三十二トンという見積もりが出ている。本属類は『群れを成して移動し、森林の木の葉を常食していたものと考えられ』ている。一九六〇年代までは、『あまりに体重が大きいため、陸上を歩くことができず、湖沼に棲息していたという見方が定説となっていて、下肢骨が重く脊椎骨に多くの空洞があって重心が低位置にあること、首が長いこと、鼻孔が頭の上部に開口していることなどが水中生活に適応した証拠とされていた。その後、アメリカ人古生物学者ロバート・T・バッカーらの研究により、陸棲であったことが明らかになっている』とある。

Brontosaurus_skeleton_1880s

『「カンガルー」の如く後足だけで立つた種類には、高さが五米以上に達するもの』五メートル以上という立脚時の高さから考えると、六千八百五十万年前から約六千五百五十万年前の中生代白亜紀末期の現在の北アメリカ大陸地域に生息していた(但し、起源は原ユーラシア大陸とされる)肉食恐竜

爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱恐竜上目竜盤目獣脚亜目テタヌラ下目ティラノサウルス上科ティラノサウルス科ティラノサウルス属ティラノサウルス・レックス(タイプ種)Tyrannosaurus rex

及びその近縁種しか考え難いのであるが(それ以外の二足歩行をすることを特徴とする獣脚亜目 Theropodaのトカゲや恐竜類は後ろ足で立った際の高さがこんなに大きくならないと思う)、しかしこれが挿絵に掲げられたものであるとすると、どう見ても、この頭骨がティラノサウルス属ではない気が私はする。

獣脚亜目ケラトサウルス下目ケラトサウルス科ケラトサウルス属 Ceratosaurus

なら高さは合うが、頭骨上顎や後肢の大腿部の構造が違う。

獣脚亜目テタヌラ下目アロサウルス上科アロサウルス科アロサウルス属 Allosaurus

も頭部が異なる。どうもこれは、竜盤目獣脚亜目に拘っているのが問題なのかも知れんと思い、あくまで先細りの頭部骨格を恐竜類の海外骨格標本サイトで縦覧するうち、かなり似ているものを見出した。

恐竜上目鳥盤目鳥脚亜目ハドロサウルス上科ハドロサウルス科ハドロサウルス亜科エドモントサウルス属 Edmontosaurus

である。ハドロサウルス科 Hadrosauridae はそもそもが「カモノハシリュウ(鴨の嘴竜)」として知られ、鴨のように長く平たい口吻部が特徴的な草食恐竜であり、本頭骨とよく一致する。ウィキの「エドモントサウルス」によれば、本属は体長は成体で九メートル程度が一般的だが、種によっては十三メートル、三・五トンに達したものもいたとあり、二足歩行時の本記載に合致する範囲である。中生代白亜紀マーストリヒト期(約七千百万~約六千五百万年前)の現北アメリカ大陸西部域相当に棲息した。英文ウィキのEdmontosaurus annectensにある、やはり、オスニエル・チャールズ・マーシュの手になる「Edmontosaurus annectens」の骨格復元スケッチを以下に示す。頭頂部が扁平に過ぎ、後脚股間部分の骨格に違いが認められはするが、獣脚亜目のズングリした頭骨と比すれば、遙かに本挿絵に似ていると私は信ずる。これが精一杯。もしアサッテのトンデモ比定であるならば、是非とも識者の御指導を乞うものである。

Large_marsh_claosaurus

「蝙蝠の如く前足が翼の形となつて空中を翔け廻つた種類」爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱翼竜上目翼竜目 Pterosauria の初めて空を飛んだ脊椎動物である中生代の爬虫類翼竜の類。主な種は、ウィキの「翼竜」によれば、

ランフォリンクス Rhamphorhynchus

(『ジュラ紀に出現した。長い尾の先が菱形になっていたが、これは飛行時に舵の役割をしたのではないかとする説がある。翼開長は最大』百七十五センチメートル』)

プテロダクティルス Pterodactylus

(『ジュラ紀に出現した。翼開長は』五十〜七十五センチメートルほど。)

プテラノドン Pteranodon

(『白亜紀の北アメリカに出現した。翼開長は』七・五メートルにも『及ぶ大型の翼竜で、大きなくちばしをもち、頭部の後ろにも大きな突起がある』)

ケツァルコアトルス Quetzalcoatlus

(『白亜紀の北アメリカに出現した。翼開長は』十二メートルにも『及び、目下空を飛んだ最大の動物とされている。属名はアステカ神話の神ケツァルコアトルに由来する』。体重は七十キログラム程度と推定されている)

ダルウィノプテルス Darwinopterus

(中国北東部で出土し、研究によって二〇〇九年に新種として認定された。大きさはカラスほどの小型翼竜)

丘先生の言及しているのはプテラノドンPteranodon である。

「べルギーのベルニッサール」ベルギー王国のワロン地域エノー州のベルニッサール(Bernissart)。そこのにあるサンバルベ炭坑で発見された。

『長さ一〇米もある大「とかげ」の化石』「ブリュッセル博物館の特別館内に陳列してある」ベルニッサールのサンバルベ炭坑で発見された、

爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱恐竜上目鳥盤目鳥脚亜目イグアノドン上科イグアノドン科イグアノドン属 Iguanodon

の恐竜研究史の最初期に発見された鳥脚類の一種である。和名は「禽竜(きんりゅう)」。ウィキの「イグアノドンによれば、『イグアノドンを発見したのはイギリスの田舎医者だったギデオン・マンテル(Gideon Mantell)である。マンテルは相当な古生物マニアで、医師業の傍ら自ら化石を取りに出かけていたという。マンテルの収集した化石コレクションは当時のイギリスでも有数のものだった。ある日、診察の帰りに工事で掘り返された道路を見ていたところ、巨大な歯と取れる化石を発見、すぐさま博物学者ジョルジュ・キュヴィエなど専門家の下に意見を仰ぎに行った。ところがキュヴィエらはサイか、象の歯としか捉えず、マンテルは納得しなかった。その後、爬虫類であるイグアナの歯と化石の特徴が一致することを突き止めたマンテルは、その化石が古代に生きた巨大な爬虫類のものであるとし、「イグアナの歯」を意味する学名、Iguanodon(イグアノドン)を与えた』。『このイグアノドン発見譚には、最初の発見者は、マンテル本人ではなく往診に付き添った妻であるとするものもある。じつのところ、マンテルはある書簡では自分が発見したと書き、別の書簡では妻が発見したと書き残している。また、生前の友人、知人と交わした会話でも、発見者については自分であるとも妻であるとも述べている。はたして実際の第一発見者が誰であるのかは興味を惹く問題であり、これまでにも何度か調査が行われたが、結局結論は出ていない』。『マンテルが想像したイグアノドンは、鼻先に角を持ち、長大な尾、イグアナのような体躯をしていた。イグアナをモデルとした結果、マンテル・イグアノドンは、体長』七十メートルという『非常に巨大な生物となってしまった。体長はともかく、その後長くマンテル・イグアノドンのスタイルはしばらく受け継がれることになる』。一八七八年に『ベルギーのエノー州にあるベルニサール炭鉱から』三十体以上の『完全な全身骨格化石が発見され、イグアノドンの復元についての研究が大きく進んだ。現在この化石はベルギー王立自然史博物館に展示されている』。『実際のところ、一般的な現生爬虫類であるイグアナと、絶滅した古生物であるイグアノドンの間には生物学的になんら関係はない。歯の形が似ているぐらいのものである』。実体長は七~九メートル。『イグアノドンは他の一般的鳥脚類と同様にくちばし(鳥のようなくちばしではなく、骨格の一部をなす骨)を持ち、竜脚類に比べ発達した数百本の臼歯があった。上顎には歯列を左右に動かすことができる関節があった。こうした構造は、固定され上下するのみの下顎の歯列との間に側方剪断力を生み』、『植物を効率的に剪断、すり潰す事が出来た』。『比較的短い前肢と長めの後肢を持つ。イグアノドンのもっとも大きな特徴はその前肢にある。親指は殆どが長さ』十五センチメートルほどの、『円錐状の鋭くとがった骨からできていて、マンテルが角と見ても仕方がなかった。実際には、骨に更に角質の爪がかぶるので更に長くなる。これが親指だと判明した当時は肉食恐竜に対する唯一の防御方法として知れ渡っていたが、現在では柔軟性の高い』第五指(小指)と『共に藪の中で好みの葉を寄せる時に使われたのではないかと考えられている。実際、捕食動物に襲われた際、この親指を武器として使える余裕があったかどうかは疑問である』。『イグアノドンはマンテルの頃に』四足歩行、後に二足歩行で『復元されるようになり、現在では再び』四足歩行に『戻っている。これは前肢の』五本の指の内、真ん中の三本に、『手の甲側へ深く曲げることのできる特殊な関節を持っていることが分かったためである。イグアノドンは通常』は四足歩行し、『体重の軽い若い個体や急ぐ時などは』二足歩行を『していたのだろうと考えられている』。『イグアノドンの尾の断面は縦長になっているため、かつては尾を使って泳ぐ水生動物と考えられたこともあったが、現在では陸生であったとされる』。復元とその復元図は伊藤裕一氏の「イグアノドン復元の話」(PDF)に詳しい。因みに、地図を見ると、ベルニッサールには「イグアナドン通り」(!)という街路名がある。

「海中では如何といふに、こゝにも爬蟲類が全盛を極めて魚の如き形のもの、海蛇の如き形のものなどさまざまの種類があり、大きなものは身長が七米一三米にも達してゐて、恰も今日の鯨の如くにしかも今日の鯨よりは遙に多數に到る處の海に游泳して居た」これはまず、

爬虫綱魚竜目 Ichthyosauria

で、『イルカに似ており(収斂進化参照)大きい歯を持っていた。中生代の大部分に亘って生存していた』。約二億五千万年前に、恐竜(約二億三千万年前に出現)よりもやや早くに出現し、九千万年前、恐竜より約二千五百万年早く絶滅している。『三畳紀前期に魚竜は、陸棲爬虫類のいずれかより進化して水棲になった。これはイルカを含むクジラ類の進化と並行的である。現時点で魚竜がどのような陸棲爬虫類から進化したかは不明である。双弓類に属するのは間違いないが、その二大系統である鱗竜形類(トカゲ・ヘビや首長竜を含む系統)や主竜形類(カメおよびワニや恐竜を含む系統)には属さず、それ等が分岐する以前の、より古い系統に発するのではないかとされる。魚竜はジュラ紀に特に繁栄した』(以上はウィキの「魚竜」に拠る)。次の「海蛇の如き形のもの」以下は、

双弓亜綱首長竜目 Plesiosauria

に属するプレシオサウルス類を指しているものと思われる。ウィキの「首長竜」によれば、『中生代三畳紀後期に現れ、ジュラ紀、白亜紀を通じて栄えた水生爬虫類の一群の総称。多くは魚食性だったと思われる。その名の通り大半は首が長いが、クロノサウルス』(後述)『やリオプレウロドン』(首長竜目プリオサウルス亜目プリオサウルス科リオプレウロドン属 Liopleurodon 。現行では平均体長七~十メートルほど。形状や生態はウィキの「リオプレウロドン」を参照されたい)『のような首が短い種もある。非常に長い時間をかけて繁栄し続けたが、他の大型水生爬虫類同様、中生代の最後の大量絶滅を乗り切れずに絶滅した』。『一部の種、例えばエラスモサウルス』属Elasmosaurus『の仲間では首(頸)が体より長い。その他の種でも胴や尾を含めた長さと同じくらいのものが多かった。四肢は完全に鰭状に変化しており、尾は短く、水生生活に適応していた。当時の水中の生態系での頂点に君臨していたと考えられる。主に魚食性であったが、アンモナイトやオウムガイ等も食べていた事、また、機会があれば海面近くに飛来したプテラノドンなどの翼竜や陸上の恐竜、他の海棲爬虫類も捕食した事が近年の研究で分かっている』。『首長竜については未だ多くの謎がある。その筆頭格が、「首長竜は陸に上がって産卵したか」「そもそも首長竜は陸に上がる事ができたか」というものである。肺呼吸をする海棲爬虫類が卵を産む場合には、ウミガメ』(爬虫綱双弓亜綱カメ目潜頸亜目ウミガメ上科 Chelonioidea)『やエラブウミヘビ』(爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科エラブウミヘビ属エラブウミヘビ Laticauda semifasciata)など『のウミヘビのように陸に上がらなければならず、そうでなければ海面で幼体を産む必要がある。首長竜の骨格構造では陸に上がる事は不可能とする見解があるが、反論として陸に上がる事は可能だったとする説もあり、賛否は分かれている』。『魚竜の場合、胎児を持つ化石や出産中に死亡した化石が発見されており、最初から予想されていた胎生であることは既に証明されているが、首長竜の場合は卵の化石はもとより、魚竜のように胎児を持つ化石や出産中の化石も長らく未発見であり、結論が出せない状況にあった。しかし、アメリカの研究チームが』一九八七年に『発掘された首長竜の一種であるプレシオサウルス類の化石を分析したところ、体内に』一匹の子供の骨格が残っていることが二〇一一年に判明しており、『これにより、首長竜は胎生であり、陸に上がって産卵する卵生ではなかったことが証明されたと研究チームは結論付けている。ちなみに子供の体長は約』一・五メートルで、親の体長(約四・七メートル)と『比べて非常に大きく、しかも子供はまだ成長過程にあったと見られ、最終的に子供は親の体長の』四割を超える(約二メートル)まで『成長してから出産された可能性があると見られている。このように、首長竜は大型の子供を』一度に一匹だけ『産むタイプの生物であったと見られることから、首長竜は同じタイプのクジラと同じように群れを作って手厚い子育てをしていた可能性もあると研究チームは語っている』とある。丘先生の「大きなものは身長が七米一三米にも達してゐ」たというのは、そこに出た、最大級の、

首長竜目プリオサウルス亜目プリオサウルス科クロノサウルス Kronosaurus

を指していよう。ウィキの「クロノサウルス」によれば、『属名の由来はギリシャ神話の神クロノス。クロノスはゼウスの父であり、息子による権威の簒奪を予言されたため『自分の子供達を次々と丸呑みして腹中に封じてしまう』という逸話があり、巨大な顎をもつこの生物の名前として採用された。ゼウスの父クロノス自体が時間の神クロノスと混同される事が良くあるため、しばしば「時のトカゲ」と和訳されることがあるが』、『厳密に言えば誤りである』(私もそう思い込んでいた)。『首長竜は『首が長く頭が小さいグループ』(プレシオサウルス亜目)と『首が短く頭が大きいグループ』(プリオサウルス亜目)に大別されるが、クロノサウルスは後者における最大級のもので』、頭骨は三メートル近くもあり、『全長はローマー(Romer)の推定によれば』十二・八メートルとされるが、二〇〇三年Kearによって『行われた他のプリオサウルス類化石との比較から、実際にはもっと小さく』、九~十メートル程度『であった可能性が示唆されている』。また、『吻は長く伸びた三角形となり、顎には長さ』約二十五センチメートルに『達する鋭い歯を多数持っていた。胃の内容物の痕跡から、魚介類や他の海棲爬虫類を主食にしていた事が判明している。鰭脚は後ろが大きい。胴体は硬く引き締まり、尾は短いが、上部には鰭があったと推定されている。全部の鰭脚と尾の鰭で舵取りを行っていたとされる』とある。

『かやうに中生代には非常に大きな爬蟲類が水中・陸上ともに全盛を極め、殆ど爬蟲類にあらざれば動物にあらずと思はれるまでに勢を得て居たが、その後に至りいづれも遽に滅び失せて、次なる新生代まで生き殘つたものは一類としてない。特に不思議に感ぜられるのは海産「とかげ」類の絶滅したことで、陸産の方ならば或は新に現れた獸類などに攻め亡されたかも知れぬといふ疑があるが、海中に鯨類の生じたのは新生代の中頃であつて、海産「とかげ」類の斷絶してから遙に後のこと故これらは決して新な強敵に出遇うて敗けて亡びたのではない。それ故なぜ自ら滅び失せたか今までたゞ不可解といふばかりであつた』現在、この時期の大量絶滅の原因は、小惑星が地球に衝突し、『発生した火災と衝突時に巻き上げられた塵埃が太陽の光を遮ることで、全地球規模の気温低下を引き起こし、大量絶滅につながったという説(隕石説)が最も有力であり、ユカタン半島で発見されたチクシュルーブ・クレーターがその隕石落下跡と考えられている』とウィキの「大量絶滅」の「白亜紀末」の項にある。更に詳しくはウィキの「K-T境界」Cretaceous-Paleogene boundary(クリテイシャスペェィリィアヂィーン・バゥンダリー):地質年代区分の用語で、約六千五百五十万年前の中生代と新生代の境目に相当し、顕生代(カンブリア紀以後の古生代・中生代・新生代を含む時代)に於いて五回発生した大量絶滅の中で最後の事件をも指す)を参照されたい。]

Manmos

[マンモス]

Kodainoootunojika

[古代の大角鹿

アイルランドの新生代後期の地層から掘り出した化石に基づいてその生きた姿を想像して畫いた圖である 左右の角の尖端の距離が約五米 角と頭骨だけでも重さ百二十瓩以上]

Sekkijidaimanmos

[石器時代の「マンモス」の繪]



Sabeltiger

[牙の大き過ぎる虎の頭骨]

 

[やぶちゃん注:以上の四図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 次に新生代に於ける獸類を見るに、これまた一時は全盛を極めて居た。今日では陸上の最も大きな獸といふとまづ印度産とアフリカ産との象位であるが、人間の現れる前の時代には今の象よりも更に大きな象の種類が澤山にあり、その分布區域も熱帶から寒帶まで擴がつて居た。シベリヤの氷原からはときどき「マンモス」と名づける大象の遺骸が發掘せられることがあるが、氷の中に埋もれて居たこととて、恰も冷藏庫の内に貯藏してあつたのと同じ理窟で、何十萬年か何百萬年も經たに拘らず、肉も皮も毛も生きて居たときのまゝに殘つて居る。レニングラードの博物館にある完全な剝製の標本はかやうな材料から製作したものでゐる。我が國でもこれまで處處から「マンモス」その他の象の化石、犀の化石、素性のわからぬ大獸の頭骨などが掘り出されたことを考へると、太古には今日と違うて恐しい大きな獸類が多數に棲息して居たに違ない。また食肉類には今日の獅子や虎よりも更に大きく、牙や爪の更に鋭い猛獸が澤山に居た。ブラジルの或る地方から掘り出された一種の虎の化石では上顎の牙の長さが三〇糎程もある。鹿などの類にも隨分大きな種類があつて、左右の角の南端の距離が四米以上に達するものもあつた。その他この時代にはなほさまざまの怪獸が到る處に跋扈して世は獸類の世であつたが、その後人間が現れてからは大體の種族は忽ち滅亡して、今日では最早かやうなものは一種も見ることが出來ぬやうになつた。「マンモス」などが暫く人間と同時代に生活して居たことは、石器時代の原人が遺した彫刻にその繪のあるのを見ても確に知られる。

[やぶちゃん注:「印度産とアフリカ産との象」インド産は、

アフリカ獣上目長鼻(ゾウ)目ゾウ科アジアゾウ属アジアゾウ亜種インドゾウ Elephas maximus indicus

で、アフリカ産は、

ゾウ科アフリカゾウ属アフリカゾウ Loxodonta Africana

を指す。たまには子供向けに両者の違いを示す。

 

アフリカゾウは、

 ・耳が大きな三角形を成す

 ・鼻先の上下に突起を有する

 ・頭頂部が平たい

 〇前足の蹄(ひづめ)が四つで後ろ足が三つ

 ・肩と腰が有意に盛り上がっていて背中は窪んでいる

 ♂♀ともに前方にカーブした牙を持ち、では三メートル以上に延びる

 

のに対し、インドゾウを含むアジアゾウ(アジアゾウ属 Elephas )では、

 

 ・耳が小さな四角形を成す

 ・鼻の尖端は上だけに突起を有する

 ・頭頂部は左右に二つのピークを持つ

 〇前足の蹄は五つで後ろ足が四つ

 ・背中が丸い

 牙は極めて短く、には牙がないこともある

 

点である(以上は「富士サファリパーク」公式サイト内の「アフリカゾウとアジアゾウの比較」を参照した)。

「人間の現れる前の時代には今の象よりも更に大きな象の種類が澤山にあり、その分布區域も熱帶から寒帶まで擴がつて居た」ウィキの「ゾウ目」によれば、『長鼻類は、すでに絶滅した原始的な哺乳類のグループである顆節目(かせつもく) Condylarthra から分岐したと考えられる』。『化石は古第三紀初期』(五千万年以上前)まで『遡ることができ、現在知られる最古のものとして、モロッコの暁新世層から出土したフォスファテリウムがある。とはいえ、最近の遺伝子などを基にした研究では長鼻類はじめアフリカ獣類に含まれる哺乳類は白亜紀には顆節目を含む北方真獣類とは既に分岐していた独自グループであるとの説も有力になりつつある。これによれば長鼻類含むアフリカに起源をもった有蹄草食哺乳類達(現生のものは長鼻目、海牛目、岩狸目)は祖先を共有する一群とされ、これは近蹄類と呼ばれる。更にこの中でも長鼻目と海牛目の両者は、より近縁同士であるとみられ、これらをまとめてテティス獣類と呼ぶ。化石から知られる初期の長鼻類が、初期の海牛類同様に水陸両棲傾向が強い(現在で言えばカバのような)植物食動物であったとみられることも、この見方を補強している。『』当時、アフリカ大陸はテチス海によって他の陸地(ユーラシア)から隔てられており、長鼻類を含むアフリカ獣類は、この隔絶された大陸で、独自の進化を遂げた』。『始新世には、アフリカのヌミドテリウム、バリテリウム、モエリテリウム(メリテリウム)、インド亜大陸(当時、インドはテチス海を挟みアフリカに近い位置にあった島大陸だった)のアントラコブネ類など、非常に原始的な長鼻類が何種か知られている。これらは遠浅で温暖な海であったテチス海の海岸沿いを中心に棲息していたと思われる。始新世末期から漸新世にかけて、長鼻目はデイノテリウム亜目(ダイノテリウム亜目)と、現生のゾウ類に連なるゾウ亜目とに分岐した』。『中新世になると、新しい造山運動によってテチス海が分断され、アフリカとヨーロッパが地続きとなった。長鼻類はこのときにできた陸橋を通って、分布域を広げた。世界各地に数十種に及ぶ長鼻類が分布し、中新世は長鼻類の最盛期となった』。二つの『亜目のうち、デイノテリウム類は、アジア・ヨーロッパに分布域を広げ、中新世から更新世にかけて繁栄したが、更新世に姿を消した。その特徴は、下あごから湾曲しながら腹側後方へ伸びる、独特の牙(門歯の発達したもの)にあった』。『デイノテリウム類には肩高』四メートルに『及ぶものもあり、インドリコテリウムに次いで、史上』二番目に『サイズの大きな陸生哺乳類とされることもある』。『一方、ゾウ亜目は中新世以降、著しく発展した。プラティベロドンやアメベロドンなどのシャベルキバゾウがこれに含まれる。系統関係はまだ議論の途上にあるが、漸新世にマムート科(マストドン類)』(mammutidae)『が分岐し、中新世に基幹的なグループとして、やはり下あごのシャベル状の牙を特徴とするゴンフォテリウム科が派生した。ゴンフォテリウム類は非常に繁栄し、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、北アメリカに広く分布していた。日本からもアネクテンスゾウ、ミヨコゾウ、センダイゾウなどが発掘されている。また、ステゴドン科とゾウ科は、このゴンフォテリウム科からさらに分化したものと考えられる。鮮新世以降まで存続したゾウ亜目のグループでは、一般的にサイズの著しい大型化が見られる』。最新の知見では、現生種のゾウに似た種は、二千六百万年ほど『前に現れたと考えられるようになった。これらの種の進化は、主に頭骨とあごの比率および牙と大臼歯の形状に関わるものであった。初期のゾウ類の多くは、上下のあごに』一対ずつ、計四本の短い牙をもっていた。中新世後期(約七百万年前)に『ゴンフォテリウム類から生じたと考えられるプリムエレファスは、マンモス類と現代のゾウ類の直接の祖先に当たるとされる。』約五百万年前に『世界的な寒冷化が始まると、ほとんどの長鼻類はこれに適応できず、多くの種は絶滅した』。『氷河期にも、現生ゾウ類によく似たマンモスやマストドンのような寒冷化に適応した種が少なからず存在したが、人類による狩猟が盛んになった更新世を迎え、その多くが絶滅している。特に更新世の末期、地球の急速な温暖化が進行したこともあってか、寒冷化に適応していた種は完全に姿を消した』。『古生物学者たちは、およそ』百七十種の『化石種を長鼻目に分類している』とある。

「マンモス」アフリカ獣上目ゾウ目ゾウ科ゾウ亜科アジアゾウ族マンモス属 Mammuthus に属する絶滅種群。ウィキの「マンモス」によれば、『現生のゾウの類縁だが、直接の祖先ではない』。約四百万年前から一万年前頃(絶滅時期は諸説ある)までの『期間に生息していた。巨大な牙が特徴で、種類によっては牙の長さが』五・二メートルに『達することもある。日本では、シベリアと北米に生息し太く長い体毛で全身を覆われた中型のケナガマンモス』(Mammuthus primigenius)『が有名だが、実際にはマンモスは大小数種類あり、シベリア以外のユーラシア大陸はもとより、アフリカ大陸・アメリカ大陸に広く生息していた。特に南北アメリカ大陸に生息していたコロンビアマンモスは、大型・短毛で、かつ最後まで生存していたマンモスとして有名である』。最古のマンモスは約五百万~四百万年前の『北アフリカにおいて生まれたと考えられて』おり、七百万~六百万年前に『アフリカゾウ属(Loxodonta から、「インドゾウとマンモスの共通の祖先」が分岐した。さらに』六百万~五百万年前に、『その「インドゾウとマンモスの共通の祖先」から、アジアゾウ属 Elephas)とマンモス属 Mammuthus)に分岐した』。Mammuthus subplanifrons は、約四百万~三百万年前に『生息したとされる最古のマンモスの一種で、南アフリカ共和国、ケニヤなどから化石が出土している。チャド、リビア、モロッコ、チュニジアで見つかった Mammuthus africanavus も最古期のマンモスと信じられ、一説に』約四百八十万年前に『生存したとされるが、出土したのは臼歯と牙のみであり、これら「最古のマンモス」については異論もある』。約三百万~二百五十万年前、『アフリカからヨーロッパに北上して移住する過程で、マンモスは新しい種 Mammuthus meridionalis を誕生させた。さらに、アジア、シベリアを経て』、約百五十万年前には『北米大陸まで広がった。当時シベリアとアラスカの間にベーリング海峡は存在せず陸続き(ベーリング地峡)だったため、自由に往来ができた』。『更新世末期にあたる』約四万年前から数千年前の間に『多くの大型哺乳類と共にマンモスは絶滅した。最後のマンモスは』紀元前一七〇〇年頃、『東シベリアの沖合にある北極海(チュクチ海)上のウランゲリ島で狩猟されたという説が提起されている』。『原因は未確定であるが、有力な仮説として氷河期末期の気候変動に伴う植生の変化を原因とする説がある』。約一万年前に『氷河期が終わり高緯度地域の気温が』十度程度『上昇した。この温暖化以前のシベリアは乾燥した大地で柳やイネ科の草が生息する草原が広がっていた。シベリアで発見されたマンモスの胃の内容物からイネ科の植物がマンモスの主食であり、他にキンポウゲ科やヨモギ類などを食べていたと推測される。ところが温暖化に伴って湿潤化し、一年の半分は大量の雪が降り積もる植物の生育に適さない大地へと変貌していった。マンモスの食料となる草木は激減し、マンモスもシベリアから消えていった、というストーリーである』。『その他の有力な仮説としては、ヒトの狩猟の対象になったことを原因とするものがある。アメリカ大陸に』一万年前後から『人類が進出した。人類がマンモスハンティングに使用したクロビス石器が登場する』一万一千年頃と『相前後してマンモスは地上から姿を消し始める。シミュレーションによれば、アメリカ大陸に人類が進出して』八百年ほどで『マンモスは絶滅している。子供を一度に』一頭しか『うまない大型動物であるマンモスは狩猟圧に弱い動物である』。『また、アメリカ大陸のコロンビアマンモスの化石の検証から伝染病説が最近の有力な仮説として提唱されている。これはアメリカ大陸でマンモスの化石と一緒に発見された矢じり(人間による狩猟の証拠)は全体で』七件しか『ないにもかかわらず、病変と見られる大腿骨の変形が』八割近くの『化石で確認されていることによる。この伝染病の原因は人間が連れてきた家畜であり、そのため人類がアメリカ大陸に上陸した直後にマンモスは絶滅したが、決して人類の狩猟のみによって絶滅したのではないという説である。上記のほかに』、約四万年前の『超新星爆発によって絶滅したとする説も存在する』。『ただし、ウランゲリ島』(北極海、東シベリア海とチュクチ海との間にあるロシア領の島)『でのマンモスの絶滅については、最新の研究で人類の到達する』約百年前に『マンモスが絶滅していたと考えられること、遺伝的多様性も維持されていたという調査結果から環境の緩やかな変化や狩猟によってではなく、巨大な嵐、細菌、ウィルスといった突発的な事件によってマンモスは絶滅したのではないかという説も出されている』。二〇一二年五月九日発行の「英国王立協会紀要」に『史上最小のマンモス』(肩高百二十センチメートル、体重三百十キログラム)がクレタ島で三百五十万年前まで『生息していたという研究が発表された』。また、『寒冷地には今なおマンモスが生息可能な環境があるとされ、近代に古生物として認知される以前から目撃情報がある』として、一五八〇年に『シベリアで山賊退治の騎士達が毛の生えた大きな象を目撃』、一八八九年にはアラスカで体高六メートル、体長九メートルのマンモスを射殺し、当該個体は六本もの牙を持っていたという。二十世紀初頭になっても、一九二〇年、『シベリアのタイガ地帯で猟師が巨大な足跡と糞を発見、足跡を追ううちに巨大な牙と赤黒い毛を持つ象を発見』と記す。こういう記載があるから、ウィキペディアは好き!

『我が國でもこれまで處處から「マンモス」その他の象の化石、犀の化石、素性のわからぬ大獸の頭骨などが掘り出された』」先のウィキの「マンモスによれば、日本では十三点の化石が発見されており、その内、十二点が北海道での発見で、残り一点は島根県日本海の海底約二百メートルから引き揚げられた標本であるとする。『加速器分析計による放射性炭素年代測定が行われ』、八点が測定可能で、得られた結果は約四万八千年前から二万年前までであった。これらの結果から、約四万年前より古い化石と約三万年前より新しい年代を示す化石に分けられ、約三万五千年前あたりを『示す化石はなかった。マンモスに替わってナウマンゾウが生息していた時代ではないかと推測されている』とある。ウィキの「ナウマンゾウによれば、ゾウ科パレオロクソドン属ナウマンゾウ  Palaeoloxodon naumanni は、肩高二・五メートル~三メートルで、『現生のアジアゾウと比べ、やや小型である。氷河期の寒冷な気候に適応するため、皮下脂肪が発達し、全身は体毛で覆われていたと考えられている。牙(切歯)が発達しており、雄では長さ』約二百四十センチメートル、直径十五センチメートルほどに『達した。この牙は小さいながらも雌にも存在し、長さ』約六十センチメートル、直径は六センチメートルほどであった。『最初の標本は明治時代初期に横須賀で発見され、ドイツのお雇い外国人ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann』(一八五四年~一九二七年:東京帝国大学地質学教室初代教授)『によって研究、報告された』。その後、大正一〇(一九二一)年には、『浜名湖北岸、遠江国敷知郡伊佐見村佐濱(現在の静岡県浜松市西区佐浜町)の工事現場で牙・臼歯・下顎骨の化石が発見された』。『京都帝国大学理学部助教授の槇山次郎は』、大正一三(一九二四)年に『それがナルバダゾウ Elephas namadicus の新亜種であるとしてこれを模式標本とし、日本の化石長鼻類研究の草分けであるナウマンにちなんで Elephas namadicus naumannni と命名した。これにより和名はナウマンゾウと呼ばれることになった』。戦後の昭和三七(一九六二)年から昭和四十年まで、長野県野尻湖で実施された四次に亙る『発掘調査では、大量のナウマンゾウの化石が見つかった。このときまでナウマンゾウは熱帯性の動物で毛を持っていないと考えられていたが、野尻湖発掘により、やや寒冷な気候のもとにいたことが明らかになった』。昭和五一(一九七六)年には、『東京の地下鉄都営新宿線浜町駅付近の工事中』、地下約二十二メートルのところから三体の『ナウマンゾウの化石が発見された。この化石は浜町標本と名付けられ、頭蓋や下顎骨が含まれている。出土地層は』約一万五千年前の『上部東京層で』、『他にもナウマンゾウの化石は、東京都内だけでも田端駅、日本銀行本店、明治神宮前駅など』二十箇所以上で『発見されている』。また、一九九八年のこと、『北海道湧別町東芭露(ひがしばろう)の林道沿いの沢で奇妙な形の石を隣村から山菜取りに来ていた漁師が発見』、『湧別町教育委員会に寄贈した。同委員会は札幌の北海道開拓記念館に石(化石)の調査を依頼した。北海道ではマンモスは』六~四万年前に、ナウマンゾウは約十二万年前に『生息していたと考えられていたので』、約三万五千年前の『マンモスの臼歯化石であると発表された。しかし』、二〇〇二年に『琵琶湖博物館の鑑定でナウマンゾウのものであり、北海道でもマンモスと入れ替わりながらナウマンゾウが生息していた新しい事実が明確になった』とある。後の「犀の化石」というのは不詳。体長三メートルほどの現生種スマトラサイに近縁と考えられているサイの新種で、本邦で化石が出、ウマ目サイ科スマトラサイ属ニッポンサイ Dicerorhinus nipponicus と命名された種の、化石発見は昭和四一(一九六六)年のことである。戦前にサイの化石発見があったという事実に行き当たらなかった(本書の初版の刊行は大正五(一九一六)年)。識者の御教授を乞う

「ブラジルの或る地方から掘り出された一種の虎の化石では上顎の牙の長さが三〇糎程もある」獣亜綱ネコ目ネコ亜目ネコ科マカイロドゥス亜科スミロドン属 Smilodon の所謂、「サーベルタイガー」のことであろう。ウィキの「スミロドンによれば、『新生代新第三紀鮮新世後期から第四紀更新世末期』の約三〇〇万~十万年前の『南北アメリカ大陸に生息していたサーベルタイガーの一種』で、一般に「サーベルタイガー」と呼ばれた中でも『最後期に現れた属である。アメリカ大陸間大交差によって北アメリカから南アメリカに渡った一種』。体長は一・九~二・一メートル、体高一~一・二メートルであるが、『南アメリカに進出したグループの方がより大型であった』。「サーベルタイガー」の名の元となる二十四センチメートルにも『及ぶ牙状の長大な上顎犬歯を持つ』。『この犬歯の断面形状は楕円であり、後縁は薄く鋸歯状になって』おり、『これは強度と鋭利さを兼ね備えた構造であり、獲物にこれを食い込ませる際の抵抗は小さくなっている。また下顎は』百二十度まで『開き、犬歯を効率よく獲物に打ち込むことができた』。『しかし、この犬歯は現生のネコ科の様に骨を噛み砕ける強度は持っておらず、硬い骨にぶつかるなどして折損する危険を回避するため、喉元の気管など柔らかい部位を狙ったと推定される』。『前肢と肩は非常に発達しており、獲物を押さえ込んだ上で牙を打ち込むのに適した形態であった。また発達した肩は、牙を打ち込む際の下向きの強い力を生み出す事が出来たとされる』。『しかし一方、発達した前肢に比べて後肢が短く、ヒョウ属の様な現代のネコ科の大型捕食者ほど素早く走ることは出来なかったとされる。そのためマンモスのような動きの遅い大型動物やマクラウケニアなどの弱った個体や幼体を群れで襲い、捕食していたと考えられている。群れを形成していた事の傍証としては、怪我をして動けない個体が暫く生きながらえていたという例が挙げられる。これは、他の個体から餌を分け与えられていたものと推測されている』。『スミロドンの食性については、大きく発達した犬歯をもつため、柔らかい肉や内臓のみを食べたとする説のほか、上下の顎を噛み合わせる事が困難であるから獲物の血を啜ったとする説』、『スカベンジャー(腐肉食者)とする説もある』が、『スミロドンの骨格には獲物と戦った際についたとおぼしき損傷の跡が見られるものも多いことから、プレデター(捕食者)であったとする説が主流である』。『大型の犬歯と発達した前肢は、確かに大型獣を捕殺するのに極めて適応した形態であった。しかしながら走行という面においては、走行と捕殺の機能を高次に兼ね備えた新しいタイプの捕食者に大きく水をあけられてしまう事を意味した。地球が寒冷化し、大型草食獣が減少しつつある時代においては、かれらは時代遅れの存在となっていた』。タールピット(自然に出来たタールの池)に『嵌った獲物を狙い、自らも沼に脚を取られて死んだとおぼしき化石も発見されている』。『絶滅時期にはヒトはまだアメリカ大陸に進出していないので、間接的にヒトの影響があったとする説には根拠がない』とある。

「鹿などの類にも隨分大きな種類があつて、左右の角の南端の距離が四米以上に達するものもあつた」ここで丘先生が出されたのは、獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科シカ亜科メガロケロス属Megalocerosの仲間、或いは同属オオツノシカ Megaloceros giganteus のこと。ウィキの「オオツノシカより引く。二百万年前~一万二千年前『(新生代第三紀鮮新世後期 - 第四紀更新世末)のユーラシア大陸北部に生息していた大型のシカ。オオツノジカとも記される。マンモスや毛サイと並んで氷河期を代表する動物として知られる。和名はこの属の特徴である巨大な角の後枝から。学名も同様に「巨大な枝角」を意味する。なお、日本で発掘されるヤベオオツノシカ(Sinomegaceros yabei)は別属別種であり、単にオオツノシカと呼ぶ場合は大陸産の本種を指す』。最大の個体では肩高約二・三メートル、体長三・一メートルに『達した大型のシカ。その名の通り巨大な角を持つ。角の差し渡しは最大』三・六メートル以上、重量は五十キログラムを『超えるといわれる。この角を支えるため、首筋から肩にかけての筋肉が発達していた。この角は発情期において性的ディスプレイ及び闘争の手段として使われたと思われる。それによって傷を負い、動けなくなって餓死したと思われる個体の化石も発見されている。現生のヘラジカも大型の角を持つが、両者の類縁は遠い』。『旧石器時代の壁画にかれらの姿が描かれている。おそらく人類の狩の対象になったと思われる』。『ヨーロッパからアジアの中北部に生息。特にアイルランドの泥炭地帯から多数化石が発見されている。そのため、かつてはアイルランドオオツノシカなどとも呼ばれた。氷河周辺の草地や疎林などで暮らしていたと思われる』。『長野県野尻湖では、ナウマンゾウとならび、数多くの化石が発見されている』(下線やぶちゃん。学術文庫版ではここはメートルではなく『二間』となっており、これは三・六三六メートルでぴったり一致する)。

「怪獸」私は面白いと思うのだが、丘先生がこの言葉を本書で使ったのはここが何と初めてである。]

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