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2016/03/21

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第三章 人の飼養する動植物の變異(6) 五 何故變種を合して一種と認めるか

     五 何故變種を合して一種と認めるか

 

 以上述べた通り、我々の飼養するものは動物でも植物でも一種として變種のないものはない。而してその變種間の相違は遙に野生の二種の動物或は植物間に於けるよりも著しいものがある。前に例に擧げたパウターといふ胸を脹らす鳩とファンテイルといふ尾を擴げる鳩との相違、或は小豆色牡丹咲の朝顏と黄色の朝顏との相違は、確に「きじ」と「やまどり」との相違、或は茶と山茶花との相違よりは甚だしい。若しこれらの動物・植物がどこかの山中に自生して居たならば、我々は決して之を以て各々同一種中に含まれる二變種と見倣すことなく、必ず皆別々の種類と認めるに違ひない。試に大根といふものを全く見たことのない人がアフリカの眞中で細根と宮重とを發見したと假に定めて見るに、彼は決して鼠の尾の如き細根大根も角力取の腕のやうな宮重大根も同一種に屬するものであるとの考を起す氣遣はない。直に之を以て二種の全く相異なつた種類と見倣すであらう。然らば我々は何故今日若し野生であつたならば必ず二種とするに相違ない程に明に形狀の異なつたものを常に同一種に屬する二變種と認めて居るのであるか。我々が細根大根も宮重大根も植物學上、「大根」と名づける一種の中に入れてたゞその變種と見倣すのは、全く昔は細根とか宮重とかいふ區別はなく、たゞ單に大根といふ一種一通りだけより無かつたのが、人が長く培養して居る中に、細根も出來、宮重も出來たことを我々が知つて居るからである。またパウターもファンテイルも動物學上「かわらばと」と名づける一種の中に入れて、たゞその變種と見倣すのは、全く研究の結果パウターもファンテイルも同一の先祖即ち今日野生して居る「かわらばと」の先祖より生じた子孫で、初めはパウター、ファンテイル等の區別もなかつたのが、長く人間に飼はれて居る中に漸々斯く形狀の異なつたものが出來たのであることを我々が信じて居るからである。これと同樣で朝顏ならば如何やうな形狀を持つたものでも皆野生の「朝顏」といふ一種の蔓草から變化して出來たもので、鷄ならば如何樣な變種でも皆今日尚印度地方に生存する野生の「鷄」といふ一種の鳥から變化して出來たものである。羊でも豚でも、小麥でも人參でも、皆昔はたゞ野生の一種であつたのを人間が長い間飼養し培養したので、今日見る如き種々の形のものが出來たのである。斯くの如く我々は飼養動植物の素性を知り、今こそ種々に形狀・性質が違つては居るが、その先祖は各々一種であったことを覺えて居るから、之を一種と見倣し、その中で形狀の異なつたものを區別するために、各々に特別の名稱を附けて、之を變種として置くに過ぎぬ。畢竟、我々の飼養し培養する動植物は一種毎に多くの異なつた形狀のものを含むが、これらは皆同一の先祖より降つた[やぶちゃん注:「くだつた(くだった)」。以降、しばしば丘先生は「進化した・変異した」の出で用いるので注意されたい。]子孫で、たゞ人に養はれた爲に今日見る如き種々の形のものが出來たのであるといふことが、動植物學上明に解つて居る故、之を集めて一種と見倣すのである。一代一代の間の變化、即ち親と子との間、子と孫との間の相違は、殆ど目に見えぬ程であつても「塵も積れば山」といふ諺の通り、多くの代を重ねる間には動物・植物とも著しく變化し得るものであることは、これらの飼養動植物の例を見れば、實に明白な毫も疑ふことの出來ぬ事實である。

[やぶちゃん注:一つだけ言っておくと、前の注で見たように、現行の一般に知られる「蜜柑」である「ウンシュウミカン」とそれ以前の「キシュウミカン」は学名が異なることで判る通り、種が異なるものと認識されており(変種でさえない)、丘先生の十把一絡げの謂いから外れる。現在はアイソザイム分析やDNA解析によって、人為改良によるとされて同一種扱いであったものも、或いは別種となる可能性も完全には否定は出来ないように私は思う。]

 この事だけは流石に昔の生物種屬不變の説を唱へた人々にも知れて居たから、彼等は飼養動植物は神が態(わざ)々人間のために造つたものであるから、之は特別である。この類だけは人間の白由に變化せしめ得るものであると論じて、之を例外とした。併し之は素より少しも根據の無い説である。なぜといふに今日人の飼養して居る動植物は孰れも昔は一度野生であつたもので、中には比較的近い頃初めて人に養はれたものも少くない。歷史の出來た以後に人の飼養し始めた動植物を數へると、隨分澤山あるが、皆相當に多くの變種が既に出來て居る。野生動物といひ、飼養動物といふのも、畢竟人間が之を飼ひ始めるか飼はずに捨て置くかによつて定まる相違で、素より根本から之は野生動物、之は飼養動物と、判然した區別がある譯ではない。獅子や虎のやうな猛獸でさへ養へば馴れて藝をする位であるから、どのやうな動物でも飼つて飼へぬことはあるまい。して見ると人間の飼ふために神が特別に造つた動物だけは代々多少變化するが、その他の動物は決して變化しないものであるといふ論は、少しも據(よりどころ)のないものと認めねばならぬ。植物に就いても之と全く同樣である。

 以上の如き説は今日より見れば實に取るに足らぬ説で、改めて辯駁するに及ばぬものであるが、生物種屬不變の説を主張した人等でさへ飼養動植物だけは例外としたのを見ても、如何に飼養動植物の變化が顯著であるかが解る。飼養動植物には一種毎に大抵多くの變種のあることはこの章に述べた通りであるが、孰れの場合でも變種といふものは決して初めより變種として存在したものではなく、人間が飼養し始めてから後に漸々變化して生じたものである。この一事だけから考へても動植物の形質は決して萬世不變のものでないことが確である。

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