北條九代記 卷之八 三浦式部大夫流鏑馬を射る
〇三浦式部大夫流鏑馬を射る
同八月十五日、鶴ヶ岡の放生會は、例年の舊式として、缺減(けつげん)なく行はる。總じて神の御事は、祭禮の儀式、定まりて、凶年にも耗(へら)さじ、豐年にもまさらずといへり。將軍家は、御車にて、供奉の輩(ともがら)、花を飾り、先陣後陣の隨兵等(ら)、行列を調へ、馬場の棧敷(さんじき)に入御まします。流鏑馬十六騎、揚馬(あげうま)終りて、十人の射手の中に、工藤〔の〕六郎、俄(にはか)に心地を痛(いたは)りけり。 神事(じんじ)違例に及ぶ條、御桟敷に於いて御沙汰あり。雅樂(うたの)左衞門尉時景を御使として、駿河式部〔の〕大夫家村に、この射手を勤むべき由、仰せらる。家村、辭退申しけるやうは、「亡父義村存生の時、一兩度この役を勤仕(きんじ)せしめ候へども、既に廢亡(はいばう)多年に隔(へだた)り、假令(たとひ)、禮式を習ふことありしも、年闌(とした)け候へば、叶ふべしとも覺へず候。况(まし)て當日の所作に於いては指當(さしあたつ)て身に堪へず」とぞ申しける。將軍賴嗣は、家村が兄、若狹(わかさの)前司泰村を召して、「如何にも家村に、今日の役、確(たしか)に勤めさまうさるべし」ととの上意なり。泰村、座を立ちて、家村が座の前に行向ひ、「只兎に角仰せに隨ひ奉れ」と再三、諷詞(ふうし)を加へたり。家村、申しけるは「豫(かね)て誘(こしら)ふることだにも、時に取りては過(あやまち)あるものにて候。思ひ掛けざる今日の事、いかで御請(おんうけ)申すべき。その上、射馬(しやば)も候はず。然るべき人に仰付けらるべし」といふ。泰村、聞きて、「射馬に於いては用意あり」とて、深山路(みやまぢ)といふ名馬に、鞍置て、流鏑馬舍(やぶさめや)に引立てたり。家村は辭するに道なくして、自(みづから)、敷皮(しきがは)取りて、下手(しもて)の埒(らち)に副(そ)へ、流鏑馬舍に向ひければ、貴賤上下、この儀式を見て、故實ありと稱歎す。家村、既に布衣(ほい)を脱ぎて、射手の裝束(しやうぞく)引繕(ひくつくろ)ひ、件の馬に取乘(とりのつ)て、第四番に打出でたり。その躰(てい)、誠に古き堪能(かんのう)にも恥しからず、由々敷(ゆゝしく)ぞ見えにける。既に射訖(をは)りて、布衣を著替(きか)へて本座にかへる。人人の美談、時の壯觀、將軍を初め奉り、御感の御使を下されければ、當家他門、是を賀せずと云ふことなし。將軍家、御歸座(きざ)あり。夜に入りて家村を御所に召され、御引出物を下されけり。弓矢の冥加、是に過(すぎ)ず。「あはれ、今日仕(つかまつり)、損(そん)ずるには、腹を切りても飽くまじきに、頗る奇特(きどく)の振舞なり」と、舎兄泰村も悦(よろこび)の眉をぞ開かれける。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十七の寛元四(一二四六)年八月十五日及び十六日の条に基づく。三浦一族滅亡の期は近い(五章後)。これは最後の三浦一族栄光の清々しいワン・シーンなのである。
「三浦式部大夫」「駿河式部大夫家村」三浦家村(?~宝治元(一二四七)年)。三浦義村四男。泰村・光村の弟。宝治合戦後は遺体が確認されずに行方不明ともされる。若き日より弓の名手として知られ、和歌も上手く、定家の覚え目出度かったとされる。
「缺減なく」例年と同じく、完全な形で欠けたり、省略されたりすることなく。続く以下の如何にもな解説も実は本シークエンスへの伏線である。さればこそ、次のシーンの射手の不具合というのが神事を滞らす凶事と捉えられるのである。
「將軍家」頼嗣は当時、未だ満六歳である。
「揚馬」これから行う流鏑馬で最後に走る馬の披露。
「工藤六郎」「吾妻鏡」では個人名を挙げていないし、「工藤六郎」なる人物の名も「吾妻鏡」の行列の名簿には挙がらない。リアリズムを出すための筆者の演出のようである。その代り、「吾妻鏡」には病名を「霍亂(かくらん)」とする。日射病・熱中症の類いである。リアリティを望むなら何故、筆者はこの病名を出さなかったのか、今度は逆に不審である。
「神事違例」定めの十名の射手が一人欠けてしまって神事の礼式に反するのである。
「雅樂左衞門尉時景」藤原姓と思われるが、事蹟不詳。
「諷詞」それとなく戒める内容の言葉。
「深山路」この馬の固有名詞も「吾妻鏡」にはない。名前からは頗る脚力のある馬であろう。
「流鏑馬舍」流鏑馬のコースの起点に建てられた小屋。古絵図を見ると、鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の西方(現在の源氏池側)の北側に設置されていたのを確認は出来る。
「埒」馬場の両側に設けられた柵。こにシーンで――自身が伺候するために坐っていた「床子(しょうじ)」(背もたれのない腰掛け)から立ち上がり、そこに敷いていた敷皮(しきがわ)を取って手に持ち、馬場の下手(南側)に設けられた柵に沿ってスタート・ラインまで自分で静かに歩み、そしておもむろに控えの流鏑馬舎へと入って行く――というのが、流鏑馬射手の古式の礼法であったのである。恐らくは、他の九人はそれをさえちゃんとしていなかった(知らなかった)射手が殆んどであったことを物語っているのである。でなくてどうして、このシークエンスに「貴賤上下、この儀式を見て、故實ありと稱歎す」るはずがろう。騎射のシーンではなく、この静かなプレ・シーンこそがこの場の面目なのである。
「布衣(ほい)」本来は狩衣のことであったが、平安中期以降、五位以上が絹の紋織物の狩衣を、六位以下が無文のそれを用いる制法が生まれ、後者を前者の狩衣と区別するために布衣と称するようになり、ひいてはそれが六位以下の身分を示す語としても用いられた。なお、江戸時代の文献では「布衣を許す」という語をしばしば見かけるが、この鎌倉幕府においては、将軍出行の際には随行の大名が布衣を着用、警衞の武士は直垂(ひたたれ)であったのが、その後に両者の格が逆転し、江戸幕府では正装として将軍以下諸大名の四位以上が直垂、狩衣を従四位以下の諸太夫、布衣を無位無官で御目見以上、という区分が引かれたことによる(以上は主に小学館「日本大百科全書」を参照した)。
「第四番に打出でたり。その躰(てい)、誠に古き堪能(かんのう)にも恥しからず、由々敷(ゆゝしく)ぞ見えにける」「吾妻鏡」(十六日の条)は、
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○原文
見物之輩悉以屬目於馬場下之方。相待家村所爲。家村改布衣行粧。著射手裝束。鏑者泰村之鏑也。矢与鏃己之宇津保矢幷加利俣也。然後駕于件深山路。打出于第四番打出之所。至三的之際。其躰不耻古堪能云々。人々美談。時之壯觀也。
○やぶちゃんの書き下し文
見物の輩(うから)、悉く以つて目を馬場下の方(かた)へ屬(つ)け、家村の所爲を相ひ待つ。家村、布衣(ほうい)の行粧(ぎやうさう)を改め、射手の裝束を著す。鏑(かぶら)は泰村の鏑なり。矢と鏃(やじり)は己(おの)が宇津保矢(うつほや)幷びに加利俣(かりまた)なり。然る後、件(くだん)の深山路に駕し、第四番の打出の所に打ち出でて、三的(みまと)際(きは)に至る。其の躰(てい)、古き堪能(かんのう)に耻(は)ぢずと云々。
人々、美談す。時の壯觀なり。
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とする。騎射を読者に想像させた確信犯の筆致は、却って筆者のオリジナリティと自負を感じさせると言えよう。]
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