「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 暖簾の奥ものゆかし北の梅 芭蕉
本日 2016年 3月 8日
貞享5年 2月 7日
はグレゴリオ暦で
1688年 3月 8日
園女(そのめ)亭
暖簾(のうれん)の奥ものゆかし北の梅
「笈日記」より。「笈の小文」には不載。真蹟懐紙では前書を「一有が妻」とする。斯波一有(しばいちゆう)は伊勢の医師で俳人、俳号は渭川で園女の夫であった。斯波園女(寛文四(一六六四)年~享保一一(一七二六)年)は伊勢山田の神官の娘。同地の医師一有に嫁し、この二年後(貞享五年は九月三十日に元禄に改元する)の元禄三(一六九〇)年になって初めて蕉門入っている(従ってこの時点では芭蕉の門弟ではないので注意)。その二年後に夫と大坂に移住した。元禄七(一六九四)年九月二十七日、園女は折から大坂を訪れていた芭蕉を自宅に招き、そこでも芭蕉は「白菊の目に立てゝ見る塵もなし」という花に譬えた園女へのオマージュを捧げている(但し、芭蕉の死因説の一つに、この時の園女邸の句会で供された茸の中毒というのがあり、当時は園女自身や門弟たちもそう信じていたとされる。私の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉 ――本日期日限定の膽(キモ)のブログ記事――319年前の明日未明に詠まれたあの句――」などを参照されたい)。
初案は、
暖簾(のうれん)の奥物ふかし北の梅
であったとする(山本健吉氏。園女編・宝永三(一七〇六)年頃(?)の「菊のちり」に依るもの)。
「奥もの」は奥向きで「北」の方、貴人の奥方の居室の方の意である。芭蕉が通された客間から夫人の私室が暖簾越しに「垣間見」えたのである。何とも言えぬ秘そやかな恋句を感じさせる佳句ではないか。サイト「俳諧」の「笈の小文」によれば、園女は本句に、
松ちりなして二月の頃 園女
と付けているとする。
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