北條九代記 卷之八 筑後左衞門次郎知定勸賞に漏るゝ訴
○筑後左衞門次郎知定勸賞に漏るゝ訴
今度謀叛の與黨等(ら)、落失せたる輩、所々に隱(かくれ)ゐたるを、皆、生捕りて參(まゐら)せ、各首をぞ切られける。宗徒(むねと)の人々の妻子共、殘りなく探出(さがしいだ)し、子供は刺殺し、後家は尼にぞなされたる。御味方の軍士は、程に隨ひて勸賞あり。中にも筑後左衞門次郎知定(ともさだ)は、去りぬる五日、筋替橋にして、前司泰村が郎從岩崎兵衞尉友宗とて、大力の剛者(がうのもの)を打取りて、その賞を望む所に、何者か云ひ出しけん、「知定は、泰村が家人ながら緣者なり。五日の未明(びめい)には、館(たち)の囘(めぐり)を經(へ)て、合戰敗北の期(ご)に及びて、自害したる岩崎が首を拾うて、御味方に參りし者なり。却つて罪科に處せらるべし。何ぞ勸賞あるべき」とぞ沙汰しける。平左衞門尉入道盛阿、奉行として、知定を決せらる。知定、申すやう、「岩崎と戰ふ時、大曾禰(おほそね)左衞門尉長泰、武藤左衞門尉景賴等、能く見たる事にて候、彼兩人に尋ねらるべし」とは申しけれども、御疑(うたがひ)、決せられず。知定一人、勸賞に漏れて、讒者(ざんしや)を憤り、運命を恨みて月日を送り、同九月十一日、一紙(し)の狀を整へて、時賴に奉る。先考累家勲功(せんかうるいけくんこう)のこと、知定自身忠勤の旨、細細(こまごま)と書きて、讒(さかしら)する人を恨みたる詞の奧に、「昔、朱雀〔の〕院の御宇、承平二年に、平將軍將門、東國に叛逆す、同三年正月十八日、參議右衞門〔の〕督藤原忠文(ふじはらのたゞぶん)は、征夷大將軍の宣(せん)を蒙(かうぶ)り、關東に下向せしが、未だ下著(げちやく)せざる以前に、二月二十四日、藤原秀郷(ひでさと)、已に將門を討ちしかば、忠文は路次より歸浴す。三月九日、秀卿(ひでさと)、貞盛等に賞を行はるゝ所に、小野(おのゝ)宮殿、仰に、賞の疑(うたがは)しきは行ふべからずとあり。九條殿は忠文下著以前に、逆徒滅亡すと云ふとも、勅定の功に隨ひて、何ぞ棄置(すてお)かれん。罪の疑しきは刑せず、功の疑しきは賞せよと候とあり。然れども、小野宮殿の御義に依て、忠文が賞の沙汰なし。忠文は九條殿の恩言を深く感じて、富家(ふけ)の願契狀(けいじやう)を九條殿に進じ、小野宮殿を怨み奉りて卒去せしかば、其靈の致す所、九條殿は家榮え、小野宮殿は跡絶え給ひき」とこの趣(おもむき)を書進(かきしん)じけるを、時賴、御覽じて、勳功の奉行に子細を聞召(きこしめ)し、同十一月十一日に、筑後〔の〕左衞門〔の〕次郎知定を召出し、武藤左衞門尉景賴、證人として、恩賞行はれ、一處懸命の地を賜り、喜悦の眉(まゆ)をぞ開きける。
[やぶちゃん注:「三月九日、秀卿(ひでさと)」はママ。原典を見てもママ。「郷」の原作者の誤字である。「吾妻鏡」巻三十八の宝治元(一二四七)年六月十二日・十四日・十七日、九月十一日、十一月十一日の条に拠る。個人的には何だか、あんまり好きでない場面である。
「筑後左衞門次郎知定」八田(茂木)知定。かの幕府創成期の有力御家人八田知家の三男知基に始まる茂木氏で、その知基の子が知定。彼は妻が三浦泰村の娘であった。
「知定は、泰村が家人ながら緣者なり」これはおかしい。「家人」とは家臣としか読めず、「ながら」は接続助詞で同時併存の方の、「~であると同時に」の意である。前注した通り、彼は泰村の娘を妻としているから「緣者」ではあるが、茂木家は家臣ではない。実際、「吾妻鏡」でも緣者としか言っていない。筆者、筆が滑ったか。
「一紙(し)の狀」「吾妻鏡」には「和字」(総て平仮名書き)であるとする。
「先考累家勲功」八田知定に始まる幕府創成まで遡る先祖累代の手柄。
「承平二年」九三二年。この年号はどこから出たものか、よく判らない。「吾妻鏡」もこの年としているから、筆者はそのまま無批判にかくしたものらしいが、これはどうかんがえてもおかしい(この年では将門の平氏内部での私闘さえ未だ始まっていないからである)。これは恐らく、将門が新皇を名乗る、天慶二(九三九)年(年末十二月のこと)の「吾妻鏡」の誤りである。
「藤原忠文」(貞観一五(八七三)年~天暦元(九四七)年)。「ただぶみ」とも読む。ウィキの「藤原忠文」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『延喜四年(九〇四年)従五位下に叙せられる。のち、左馬頭・左衛門権佐・右少将等武官を務める一方で、紀伊権介・播磨介・讃岐介と地方官を兼ねた。延長四年(九二六年)従四位下・摂津守に叙任されて以降、丹波守・大和守と畿内の国司及び修理大夫を経て、天慶二年(九三九年)に参議として公卿に列』した。『天慶三年(九四〇年)関東で反乱を起した平将門を追討するため、右衛門督・征東大将軍に任じられ、六十八歳の高齢ながら将門追討の責任者となる。しかし、忠文が関東に到着する前に将門は平貞盛・藤原秀郷らに討たれていた。翌天慶四年(九四一年)今度は瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友を追討するため征西大将軍に任ぜられている『忠文は老齢を押して平将門の乱鎮圧のために東国へ向かったものの、東国到着の前に将門が討伐されてしまったために、大納言・藤原実頼』(昌泰三(九〇〇)年~天禄元(九七〇)年)本文に出る「小野宮殿」。後に関白、藤原長者ともなった)が嘉賞(かしょう:よしとして褒め讃えること)に『反対し、忠文は恩賞を得られなかった。忠文はこれに不満を持ち、辞任を申し出るが許されなかった。その後、天暦元年(九四七年)六月に忠文が没すると、同年十月に実頼の娘・述子(村上天皇の女御)が、十一月には実頼の長男・敦敏が相次いで死去したために、忠文の怨霊が実頼の子孫に祟ったと噂されたという。このことから忠文は悪霊民部卿とも呼ばれ、その霊を慰めるため宇治に末多武利』(またふり)『神社が創建された』とある。
「九條殿」藤原師輔(延喜八(九〇九)年~天徳四(九六〇)年)ウィキの「藤原師輔」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『摂政・関白・太政大臣として長く朝政を執った藤原忠平の次男として生まれる。延長八年(九三〇年)頃醍醐天皇の第四皇女で四歳年上の勤子内親王に密通、のち正式に婚姻が勅許され、臣下として史上初めて内親王を降嫁された。承平・天慶年間(九三一年~九四七年)に累進して参議を経て、権中納言となる』。『平将門が乱を起こした時、藤原忠文が征東大将軍に任じられたが、交戦する前に乱は平定されてしまった。朝廷では功が論じられ、兄の実頼は忠文には功がないのだから賞すべきではないと主張した。これに対して、師輔は「罪の疑わしきは軽きに従い、賞の疑わしさは重きをみるべきだ。忠文は命を受けて京を出立したのだから、賞すべきである」と論じた。実頼は持説に固執した。世論は師輔こそが長者の発言であるとした』。『その後、大納言に転じ、右近衛大将を兼ね、従二位に進んだ』。『天暦元年(九四七年)朱雀天皇が譲位し村上天皇が即位する。兄の実頼が左大臣となるに従い右大臣に任じられ、正二位に叙された。出世のほうは嫡男である実頼が常に先を行くが、「一苦しき二」(上席である兄実頼が心苦しくなるほど優れた次席の者)とまで言われ、朝廷の実権は実頼よりも師輔にあった。師輔は村上天皇が東宮の時代から長女の安子を妃に入れており、その即位とともに女御に立てられ、よく天皇を助けた。安子は東宮の憲平親王を生んで中宮となり、他に為平親王・守平親王を生んでいる。皇太子の外戚となった師輔は朝政を指導し、村上天皇の元で師輔らが行った政治を天暦の治という』とある。
「勅定の功」征夷大将軍に任ぜられた誉れ。
「罪の疑しきは刑せず、功の疑しきは賞せよ」「書経」の「大禹謨(だいうぼ)」に出る文句。「罪疑惟輕、功疑惟重。與其殺不辜、寧失不經。」(罪の疑はしきは惟(こ)れ、輕くし、功の疑はしきは惟れ、重くす。其の不辜(ふこ)を殺さんよりは、寧ろ、不經(ふきやう)を失はんとす)に基づく。「不辜」は「無辜」で罪のない人、「不經」はそれだけなら、「法律に適合しないこと」であるが、ここは「不經を失はんとす」で法律を曲げた方がよい、の謂い。犯した罪のはっきりしない場合は軽い刑にする方がよく、功績が疑わしい場合にはまず重く賞した方がよい、の意。
「富家(ふけ)の願契狀」「ぐわんけいじやう(がんけいじょう)」で、九条家が富み栄えることを言祝ぎ、それを神に誓約した御札。]
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