譚海 卷之一 常州筑波山の事
常州筑波山の事
○筑波山は朝暮の景變態さだめがたし。登山四時さはりなし。女人も登山する也。男體(なんたい)女體(によたい)とて兩峯ありて、山上まで五十町ありと。その麓の下妻の大久司令常ものがたりなり。
[やぶちゃん注:「筑波山」現在の茨城県つくば市北端にある。標高八百七十七メートル。西側の男体山(標高八百七十一メートル)と東側の女体山(標高八百七十七メートル)からなる。ウィキの「筑波山」の「歌垣と『万葉集』」の項によれば、『筑波山は古来より農閑期の行事として大規模な歌垣(かがい)が行われ、近隣から多数の男女が集まって歌を交わし、舞い、踊り、性交を楽しむ習慣があった。これは今年の豊穣を喜び祝い、来る年の豊穣を祈る意味があった』。「常陸国風土記」には、『筑波山における歌垣について、富士山との比較で次のような話を載せている。諸国をめぐり歩く神祖尊(みおやのみこと)が、新嘗の日に富士山を訪ねた。ところが富士の神は新嘗祭で忙しいからと一夜の宿を断った。神祖尊は嘆き恨んで、「この山は生涯冬も夏も雪が降り積もって寒く、人が登れず、飲食を供える者もなくしよう」といい、今度は常陸の筑波山に行き宿を乞うた。筑波山は新嘗祭にもかかわらず、快く宿を供し、飲食を奉った。喜んだ神祖尊は』、「……『天地(あめつち)とひとしく 月日と共同(とも)に 人民(たみぐさ)集い賀(よろこ)び 飲食(みけみき)豊かに 代々(よよ)絶ゆることなく 日々に弥(いや)栄え 千秋万歳(ちあきよろずよ) たのしみ窮(きわま)らじ」と歌った。それから富士山はいつも雪に覆われて登る人もなく、筑波山は昼も夜も人が集い、歌い飲食をするようになったという』。「常陸国風土記」の成立は養老年間(七一七年~七二四年)だが、『このころすでに筑波山に男女が集う嬥歌(かがい・歌垣(うたがき))の場であったことがわかる』とし、「万葉集」第九巻一七五九番収録の高橋虫麻呂作の歌を引く(一部を正字化した)。
鷲の棲む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 未通女(をとめ)壯士(をとこ)の 行き集ひ かがふかがひに 人妻に 吾(あ)も交はらむ わが妻に 人も言問へ この山を 領(うしは)く神の 昔より 禁(いさ)めぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 言(こと)も咎むな
以下、「現代語訳」(改行を省略)。『鷲の棲む筑波山の裳羽服津の津のほとりに、男女が誘い合い集まって、舞い踊るこの歌垣(かがい)では、人妻に、私も性交しよう。我が妻に、人も言い寄ってこい。この山の神が昔から許していることなのだ。今日だけは目串(めぐし、不信の思いで他人を突き刺すように見ること)はよせよ、咎めるなよ。』
『と、歌垣への期待で興奮する気持ちが素直にのびのびと詠われる』とある。
「五十町」五・四五キロメートル。
「下妻」現在の茨城県西部にある下妻(しもつま)市。筑波山西麓。
「大久司令」読みも職分も不詳。識者の御教授を乞う。]