原民喜没後六十五周年追悼「その表情――原民喜さんのこと――」梅崎春生
原民喜没後六十五周年追悼「その表情――原民喜さんのこと――」梅崎春生
[やぶちゃん注:本作は『近代文学』昭和二八(一九五三)年六月号に発表された。底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第七巻」を用いた。
原民喜(明治三八(一九〇五)年~昭和二六(一九五一)年)は敗戦から六年も経った昭和二十六年の今日、三月十三日の午後十一時三十一分、国鉄中央線吉祥寺駅と西荻窪駅間で鉄道自殺を遂げた。私は、十八の時、単身出た東京で、旧番地から彼の最後の住家の位置を探し出し、そこから彼が投身自殺をした場所まで歩いたことがある。それほどには私の偏愛する作家であるということである。サイト創設の頃に手掛けた「原民喜全詩集」や「原民喜句集(杞憂句集)」 もある。
本作は短い随筆乍ら、民喜の風貌とその核心を確かに捉(つら)まえて『髣髴』とさせて呉れている佳品と私は思う。
傍点「ヽ」の「だめ」はブログ版では太字とした。
原民喜が神田神保町の能楽書林に住んでいたのは、一九七八年青土社刊「原民喜全集」の年譜によれば、昭和二二(一九四七)年、四十二歳の頃に短期間、間借りしていたと出るが、翌昭和二十三年の項の冒頭一月に『神田神保町の丸岡明宅に移る』とあり、後掲するように、これは実は丸岡の実家でもあった「能楽書林」と同義と思われ、二年後の昭和二十五年一月に最後の住み家となった武蔵野市吉祥寺二四〇六、川崎方へ転居している。これなら「広島市立中央図書館」のサイト「広島文学資料室」の「原民喜の世界」の「民喜をめぐる人々」にある、昭和二三(一九四八)年から二年間、『民喜が下宿しており』とあるのと完全に一致し、春生が民喜に逢ったのも、この二年間(昭和二三(一九四八)年一月から昭和二四(一九四九)年末まで)の間と考えられる。この頃の春生は、まさに最初の油ののったピークと言え、『戦後派作家として積極的な活動が目立った』(沖積舎版全集年譜昭和二三年の項末尾より)時期であった。
「丸岡明」(明治四〇(一九〇七)年~昭和四三(一九六八)年)は東京出身で慶応大学仏文科卒の小説家(民喜は英文科卒で彼の先輩に当たる)。昭和五(一九三〇)年に『三田文学』に「マダム・マルタンの涙」を発表、戦後、『三田文学』に復刊に尽力する一方(民喜も昭和二一(一九四六)年十月から昭和二十四年末まで同誌の編集人を勤めている)、実家の経営する「能楽書林」を継ぎ、能楽の普及と外国への紹介にも努めた。民喜の盟友で彼をよく支え、民喜をモデルとした「贋きりすと」(昭和二六(一九五一)年)などの著作もある。
「弟」とあるが、梅崎春生には当時(三男忠生は終戦直前に戦地で自殺している)、四男の栄幸、五男信義、六男健がいるが、単なる推測(能楽書林は能楽関係を中心とする出版社であるから)ながら、これは観世流能楽師となる(或いはなっていた)五男の信義氏か。
「親狎」親しみ狎(な)れること。近づき馴染むこと。
梅崎春生の小説「山名の場合」は、『新潮』昭和二六(一九五一)年十一月号が初出であるから、原の自死後の作品である。
「原民喜全集」とあるが、これは同年三月に刊行された角川書店の「原民喜作品集」(全二巻)を指しているものと思われる(芳賀書店版「原民喜全集」(全二巻)の刊行は昭和四〇(一九六五)年八月で、奇しくも同年七月に梅崎春生は逝去している)。【2016年3月13日公開 藪野直史】]
その表情
――原民喜さんのこと――
原民喜さんと顔を合わせたのは、せいぜい四度か五度。会話はほとんどしたことがない。僕が話しかけても、あの人はろくに返事をしないからである。アアとかエエとか、その程度の返事だけ。
最初会ったのは、能楽書林の応接間。丸岡明さんから紹介された。二言三言話し合ったと思う。二度目も能楽書林。その頃僕の弟が能楽書林に勤務していたので、それを訪ねて土間で立話をしていると、原さんが外出先から戻って来た。(原さんは能楽書林の二階の一室に住んでいた。)そこで僕は、靴を脱いで上ろうとする原さんに呼びかけて、あいさつをすると、原さんは、びくっとしたように僕の方を向いた。そして僕の顔をじっと見詰めた。その時の彼の表情が、僕を大変困らせた。
すなわち原さんの顔には、この前一度顔を合わせたにも拘らず、僕に対する親近とか親狎(しんこう)の色は全然あらわれていないのである。といって、その反対のもの、警戒とか敵意の気配も全くない。全然空気を見ているようなまなざしで、僕を見詰めている。仮面のような無表情さではない。表情はある。表情はあるのだが、対人的な表情でなく、言わば絶対的な表情なので、その表情で眺められているところの僕ははなはだ困り、どういう表情をつくって対していいものやら、心の中でじたばたした。生憎こちらは俗人の表情しか出来ないものだから、頰を歪ませたり意味ないことを呟いたり、はたから見れば大層見苦しかったことだろう。原さんは三十秒ほどその僕を見詰め、そしてふいと顔を外らし、黙って奥の方に入って行った。だから僕は罌粟粒みたいに惨めになってしまった。
あんな面白い見物(みもの)はなかったと、あとで弟が大笑いをした。
このことあって以来、対人的にはあれはなかなか有効な方法であることを悟り、僕もそういう表情を練習したり工夫したりしているが、人工的にはなかなかうまく行かないようだ。素質がないとだめのようである。
この表情のことは、小説にも二三用いた。『山名の場合』という小説で、五味司郎太という主人公がそんな顏付きをすることを書いてみた。しかし、どうも原さんのあの眼付きを髣髴(ほうふつ)させることは出来なかった。
この度、原民喜全集を読み返すと、僕は何よりも彼の表現の的確さに驚く。どんな微細なもの隠微なものをも、彼は見逃さず、確実にとらえて、それを表現に定着する。これはその背後に、なみなみならぬ強い凝視力を必要とするものだ。原民喜は単に弱々しい詩人ではない。つまり原さんは、ああいう眼付きや表情で、いろんなものをちゃんと見抜いていたんだろうな。眼の曇った俗人よりも、ある意味でははるかに幸福な生き方を原さんはしたんだと思う。
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