柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(2) 神蛇一目の由來
神蛇一目の由來
社傳と土地の口碑とが相容れざる場合に、一方は文書の形を其へ他方は空に行はれて居る爲に、或は又強ひて公けに爭はうとしなかつた故に、後者を負けとするのが今までは普通の例であつた。併し此類の民間の風説は、假に巧みに作爲する者があつたとしても、弘く之を信じ且つ記憶せしめることは容易で無い。殊に其内容に於て必ずしも愉快ならず、單に信者の悔恨と畏怖とを要求するが如き物語が、地を隔て且つ若干の細部の相異を以て、處々に流傳する場合に在つては、少なくとも之を一つの社會現象として、其起源を尋ねて見た上で無いと、さういふ速斷は出來ぬ筈である。そればかりで無く文書は通例後代のものであつて、果して確かなる根據があるか否かを、檢討せられたかつた例が多い。多度別宮の祭神の如きも、僅かに古語拾遺の註に、天目一箇命は筑紫伊勢兩國の忌部が祖なりとあるのが、恐らくは唯一つの證跡であつて、若し前に一目龍の言ひ傳へが無かつたら、之を此御社の神に歸することも、六つかしかつたらうとさへ考へられる(一)而うして所謂伊勢忌部の如何なる部曲であつたかは、まだ何人も説明し得ないことだが、果して同族の一學者齋部廣成氏の説く所が正しかつたとすれぱ、所謂片目の龍の言ひ傳へも、亦彼等が後裔の記憶から出たものと、想像することが出來るのである。
[やぶちゃん注:「同族の一學者齋部廣成氏の説く所」本文に出る官人斎部広成の「古語拾遺」の注記載のこと。
「部曲」ここは「かきべ」と読む。漢語の「部」「曲」は秦漢時代の軍隊の構成単位用語で、後に「部曲」と連ねて部隊・兵士・部下という意味に使われるようになったものであるが、本邦では「部民」とも表記して「かきべ」と訓じ、律令制以前の豪族の私有民(中国の「奴婢」)を意味した。但し、彼らは令制の家人や奴婢とは異なり、一定の職業を有し、ほぼ村落を単位として豪族に仕え、租税を納め、賦役に従い、その隷属する主家の名に「部」の字を附して名字とした自営の民であった。]
播磨で天目一箇命を始祖とした家の言ひ傳へには、神が蛇形を現じたまふといふことは説かなかつたが、同じ系統の賀茂の神話に在つては、別雷神の名に依つて御父の雷神であつたことを知り、同じく箸塚の物語に於ては、御諸山の大神は美麗小蛇となつて、姫が櫛笥の中に居たまふとあるを見たのである(二)故に若し伊勢にも此類の御筋を誇らんとする者が居たならば、それが記憶せられて現今の口碑の元を爲したとも考へ得るのである。蛇を祭り狐を拜むといふ信仰の本源は、もう少し親切な態度を以て考察せられねばならぬ。巫覡代表の力が既に衰へて後は、人は屢々幻しに人の形を示したまふ神を見るやうになつたが、それは元來凡俗に許されざることであつた。乃ち神が色々の物の姿を借りて、現れたまふと説明せられた所以であつて、同時に又生牲の儀式の最初の動機が、近世の思想に由つて解し難い理由であらうと思ふ。
[やぶちゃん注:「別雷神」賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)。賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神。記紀神話には登場しない。ウィキの「賀茂別雷命」によれば、「山城国風土記」逸文には、『賀茂建角身命の娘の玉依姫が石川の瀬見の小川(鴨川)で遊んでいたところ、川上から丹塗矢が流れてきた』ので、『それを持ち帰って寝床の近くに置いたところ玉依日売は懐妊し、男の子が生まれた。これが賀茂別雷命である。賀茂別雷命が成人し、その祝宴の席で賀茂建角身命が「お前のお父さんにもこの酒をあげなさい」と言ったところ、賀茂別雷命は屋根を突き抜け天に昇っていったので、この子の父が神であることがわかったという。丹塗矢の正体は乙訓神社の火雷神であったという』。但し、『神名の「ワケ」は「分ける」の意であり、「雷を別けるほどの力を持つ神」という意味であり、「雷神」ではない』ともある。
「箸塚」所謂、箸墓伝説(現在の奈良県桜井市にある箸墓古墳に纏わるもの)の一部。大物主神(三輪山神)との神婚譚で知られる孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の話で、ウィキの「倭迹迹日百襲姫命」によれば、「日本書紀」に、『百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山』(みもろやま:三輪山の別名)『に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという』とある。
「巫覡」「ふげき」「巫」は女の「かんなぎ」を、「覡」は男の「かんなぎ」を指す。神に仕えて神意を伺って神おろしなどをするシャーマン。「かんなぎ」の語意は「神和」または「神願」ともいう。]
神が次々に靈の宿りを移したまふ場合には、それを同種の木石蟲魚鳥獸等の、極めて尋常なるものと差別すべく、外部に現れたる何等かの象徴が無ければならなかつた。或は單なる狀況の奇瑞もあつたらうが、通例は其形に就いて奇異とすべき點が見出され、それがやがては神の名となつて、永く傳へられたものゝやうである。目一つといふ神が一方に天岩屋戸の金工でも無く、忌部祖神の一つでも無く、又神龍の本體でも無かつたなら、或は文字に基いてどんな自由なる推測も出來るか知らぬが、久しい年代に亙つて我々が神を隻眼と考へた事例は餘りに多く、しかも其説明は制限せられて居たのである。故に先づ古今の比較に由つて、どうして其樣な想像が弘く行はれたかを、尋ねて見る必要が大いにあつたのである。
多度の一目連がもと地中の蟄龍であつて、たまたま土工の熊手の尖に觸れて、片目を傷けたといふ説明は荒唐である。或は神代に熊手があつたといふ證據を示せなどゝ、難題を掛けられぬとも限らぬが、不思議に之に似た話は國々の神蛇譚に多い。其二三を言へば飛驒の萩原の諏訪神杜は、佐藤六左衞門たる者金森法印の命を受けて、社を遷して城を築かんとした時に。靈蛇出現して路に當つて動かなかつたので、梅の折枝を揮つて之を打つと、蛇は眼を傷けて退き去つたとあつて、今以て氏子は梅の木を栽ゑることを忌んで居る(三)阿波の福村の池の大蛇は、月輪兵部に左の眼を射られ、其靈祟(たゝり)を爲して池の魚今も悉く片目である(四)駿河の足久保と水見色との境の山には、一つの池があつて三輪同系の傳説をもつて居た。昔水見色の杉橋長者が娘に、夜な夜な通ふ男があつて、栲(たく)の絲を襟に縫ひつけて其跡を繫ぎ、終に此池の主であることを知つた。長者憤りに堪へずして多くの巨石を水中に投じ、蛇はそれが爲に一眼を失ひ、其緣に因つて今も池の魚が片目であるといふ(五)即ち神ならば自然に此の如しと言つて、少しも疑ふ者は無かつたらうに、何れも特に人間の手に由つて、後に形を改めて目一つになつたといふのが、注意すべき要點ではないかと思ふ。佐渡の金北山の御蛇河内(おへびかうち)に於て、順德院上皇御幸の時、山路に蛇を御覽なされ、斯んな處でも蛇の眼は尚二つあるかと仰せられた故に、其以後此地の蛇は皆片目になつたといふなども(六)其例外とは言ふことが出來ぬ。誤解にもせよそれは思召に基き、土地の名をさへ御蛇の河内と呼んで居るからである。
[やぶちゃん注:「駿河の足久保と水見色」静岡県静岡市葵区足久保地区と、その西で接する山間部の葵区水見色(みずみいろ)。同接触点には高山という山があるが、地図上や航空写真では池らしきものは見えない。しかしこの一帯は「静岡市高山市民の森」となっており、水源があってもおかしくない。面白いのは足久保地区には「美和」の地名が現存し、同地区を流れる川に沿った街道は「美和街道」、近くには「三輪神社」もあることである。しかもこの近くには「鯨ヶ池」という如何にも妖しげな名の池があるのである。そこで更に調べてみると、静岡市の準公式サイトらしき「オクシズ」内に「高山の池(高山・市民の森)」があり、まさにこの池こそがそれであり、逃げ入ったのはまさに別のこの「鯨ヶ池」とが判明した。
《引用開始》
モリアオガエルやトンボ、ミズバショウなどたくさんの生き物や植物が観察できます。また、この池には竜伝説があります。
【高山の池 竜伝説】
昔、水見色に杉橋長者とよばれた豪家があった。そこの一人娘に夜な夜な通う美しい若者があった。心配した母は娘にタフ(藤の繊維で、織った布)の糸をその若者の着物の裾につけて、その行方をうかがわせた。糸をたどっていくと足久保の高山の古池に消えている。長者は池の主が娘に通ってなやましていることを知って大変に怒り、焼石をたくさん投げ入れた。池の主の青竜はこらえきれず、逃げだして、鯨ヶ池にはいりこんだ。竜はこの時、焼石で片眼を失った。それで鯨ヶ池の魚は皆片眼だというのである。
(「静岡市の史話と伝説」より)
《引用終了》
「栲」「たく」と読んだ場合、これは楮(こうぞ:双子葉植物綱イラクサ目クワ科コウゾ属コウゾ Broussonetia kazinoki × Broussonetia papyrifera)の古名である。これを「たへ(たえ)」(音は「カウ(コウ)」)と読んだ場合は、コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera などの繊維で織った白い布、或いは広く布類の総称とはなる。]
(一) 現に神名帳考證には鈴鹿郡の天一鍬田神を以て、この忌部の祖神とし、多度の一目連は又別の神だと説いて居る。
[やぶちゃん注:「神名帳考證」(じんみやうちやうかうしやう(じんみょうちょうこうしょう))と読む。出口(度会)延経著になる、「延喜式神名帳」に記載された神社(式内社)を考証した書物。全八巻。享保一八(一七三三)年刊。
「天一鍬田神」「あめのひとくは(くわ)たかみ」と訓じておく。ちくま文庫全集版は『あまのひとくわがたがみ』とルビする。]
(二) 雷神受胎談の國々の變化に就ては、民族二卷六七五頁以下に説いて置いた。故にこゝには主として其一二の例が目一つ神であつた點を説明したいと思ふ。
(三) 益田郡誌四一九頁及五六七頁。
(四) 郷土研究一ノ五六九頁。
(五) 安倍郡誌七九三頁。
[やぶちゃん注:「安倍郡誌」「安倍郡」は静岡県の旧郡。概ね、現在の静岡市葵区の大部分に相当する。「静岡県安倍郡誌」大正三(一九一四)年安倍郡時報社編刊。]
(六) 茅原鐡藏老人話。
[やぶちゃん注:「茅原鐡藏」「一目小僧(十七)」に既出既注。同章は本章と内容が大いに被っているので、再読されたい。]