ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より)(Ⅸ)
「ねえ、旦那さま」とルケリヤはまた云ひ出した。「さつき眠れるかとお訊ねになりましたね? なる程、わたしは稀(たま)にしか眠りませんけど、でも、寢た時にはきつと夢を見ます――いゝ夢をね! 夢の中では、いつだつて病氣のことはございません。いつも達者で若くつて‥‥たゞ一つ悲しいことには、眼が醒めて、氣持ちよく伸びをしようと思ひますと――どつこい、まるで鎖で縛られたやうなんでございます。いつでしたか、それはそれは有難い夢を見ましたつけ! なんならお話やたしませうか? では聞いて下さいまし。――ふいと見ると、わたしは野原の中に立つてゐるのでございます。まはりには裸麥が一面に生えてをりましてね、よく熟れて背が高く黃金色(きんいろ)をしてをります!‥‥そばには赤い犬がついてをりましたが、それが意地の惡い、とても意地の惡いやつでして、のべつわたしに嚙みつかう、嚙みつかうと致します。さて、わたしは手に鎌を持つてゐるのでございます。しかもたゞの鎌ではなくて、紛れもないお月樣なのでございます。ほら、月がよく鎌みたいになりますね、あれですの。この月でもつて、わたしは裸麥をすつかり綺麗に刈つてしまはなければなりません。たゞ暑いので、身體がぐつたりして、それにお月さまが目眩しくつて堪りませんし、妙に億劫なのでございます。ところが、周りには矢車菊が生えてゐましてね、とても大きな輪(りん)なんですの! それが急にみんなわたしの方へ頭をふり向けました。わたしはこの矢車菊を摘んでやりませうと考へました。ヷーシャが來るつて約束しましたから、丁度さいはひ、まづ花環を拵へよう、刈るのはその後でも間に合ふから、と思ひましてね。矢車菊を摘みにかゝりました。ところが幾ら摘んでも摘んでも、花は指の間からどこかへ消えて行くのです。どうしても駄目! 花環は編めないぢやありませんか。さうかうしてゐる中に、誰やらわたしの方へ來る足音が聞こえます。すぐ傍まで來て、ルーシャ! ルーシャ! と呼ぶのでございます‥‥あゝ、困つた、間に合はなかつた! とわたしは考へました。でも、同じことだ、矢車菊の代りにお月樣を頭に被らう、と思ひまして、飾頭巾のやうにお月樣を被りますと、急にわたしの身體が光り出して、野原が一面に明るくなりました。ふと見ると――麥の穗先きを傳はつて矢のやうに早く走つて來るものがある――でも、それはヷーシャではなくて、當の基督樣なのでございます! どうしてそれが基督樣と分つたか、それは云へません。繪に描いてあるやうなお姿とも違ひますけれど、とにかくさうなのです! お鬚がなくて、背の高い、若い方で、まつ白な着物をきていらつしやいましたが、たゞ帶だけが金なのでございます――わたしの方へお手を差し伸べて仰しやるには、『怖がることはない、美しく着飾つたわしの花嫁、わしの後からついておいで。お前は天國で輪舞(ホロヲード)の音頭を取つて、極樂の歌を唄ふのだ。』わたしはいきなりそのお手に吻(くち)をつけました。犬は不意にわたしの足に嚙みつきました‥‥けれど、その時わたしたちは虛空へ舞ひ上がりました! 基督樣が先きに立つていらつしやる‥‥そのお翼が鷗のやうに長くて、空いつぱいに擴がつてゐます――わたしはその後からついて參りました。そこで犬もわたしの足から離れなければなりませんでした。その時はじめて、この犬はつまりわたしの病氣なのだ。でも天國に行けば、こんなものの居場所は、なくなるのだといふことが、やつと分かつたのでございます。」
ルケリヤはちよつと口を噤んだ。
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