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« 生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(3) 二 優れた者の跋扈 | トップページ | 生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(5) 四 その末路 »

2016/03/01

生物學講話 丘淺次郎 第二十章  種族の死(4) 三 歷代の全盛動物

      三 歷代の全盛動物

 

 地殼を成せる岩石には火成岩と水成岩との區別があるが、水成岩の方は長い間に水の底に泥や砂が溜まり、それが次第に固まつて岩と成つたもの故、必ず層をなして相重なり、各層の中にはその地層の出來た頃に生存して居た生物の遺骸が化石となつて含まれてある。地質學者は水成岩の層をその生じた時代の新舊に從ひ、始原代・古生代・中生代・新生代の四組に大別し、更に各代のものを若干の期に細別するが、これらの各時代に屬する水成岩の層を調べて見ると、その中にある化石には頗る稀な珍しい種類もあれば、また非常に澤山の化石が出て、恐らくその頃地球上の到る處に多數に棲息して居たらうと思はれる種類もある。個體の數や身體の大きさや構造の進んだ點などから推して、その頃全盛を極めて居たに相違ないと思はれる種族がいづれの時代にも必ずあるが、かゝる種族の中から最も著しいもの若干を選び出して、次に簡單に述べて見よう。

[やぶちゃん注:「火成岩」地球内部に出来たマグマが地表に噴出したり、地下の種々な場所に貫入して冷却・固結して出来た岩石の総称。化学組成や生成される時の状態によって分類され、地下深所で固結したものを「深成岩」(花崗岩など)、地表或いは地表近くで固結したものを「火山岩」(安山岩・玄武岩など)、前二者の中間の地下で固結したものを「半深成岩」と称する。

「水成岩」成層岩。堆積作用によって形成された岩石。自然の機械的な堆積作用による砕屑(さいせつ)岩(砂岩・礫岩など)、化学的堆積作用による化学的沈殿岩(チャート・岩塩など)、有機的又は生化学的堆積作用による有機的堆積岩(石灰岩・石炭など)等に分かれる。

「始原代」現行の地質時代の最も古い時代区分。古生代カンブリア紀が始まる約 五億四千二百万年前までのおよそ四十億年以上の期間を指す。古い時期から「始生代」・「原生代」と二区分することがある。この時代の岩石は世界の楯状地を形成して分布し、大部分が片麻岩・結晶片岩などの変成岩や花崗岩などの深成岩であるが、後期の先カンブリア時代後期の岩石には各種の堆積岩がある。原始大気中に遊離酸素が存在しなかった時代から始まり、酸素が増加する約二十億年前、初めて超大陸が形成されて地殻内の全マントル対流が始まったのが約十九億年前とされる。酸素を作るシアノバクテリア(cyanobacteria:現行の藍色細菌門 Cyanobacteria の藍藻類で、単細胞或いは糸状で核膜を持たない。色素によって光合成を行う)によるストロマトライト(stromatolite:糸状体状の原核微生物の群集が作る堆積構造に由来する岩石)の出現は約二十七億年前とされ、この頃には既に生命活動があったと推定されている。

「古生代」約五億四千二百万年前から約二億五千百万年前の期間に亙る時期の総称。古い時期から「カンブリア紀」・「オルドビス紀」・「シルル紀」・「デボン紀」・「石炭紀」・「ペルム紀」に区分される。海棲無脊椎動物が繁栄し、後半には魚類・両生類も発生発展した。植物界では多様な藻類やシダ類の繁栄期である。

「中生代」今から約二億四七〇〇万年前から約六五〇〇万年前までの間で、古い時期から「三畳紀」・「ジュラ紀」・「白亜紀」に三分されする。陸上では裸子植物や巨大爬虫類が全盛となり、鳥類・哺乳類・被子植物が出現、海中では軟体動物のアンモナイトや原初の斧足類などが繁栄した。

「新生代」今から約六千五百万年前から現在までの時代を指す。「第三紀」・「第四紀」に二分される。哺乳類や被子植物類が発達して繁栄、末期には人類も出現した。]

Sanyoutyu

[三葉蟲]

Anmonaite

[アンモン石]

[やぶちゃん注:以上の二図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 古生代の岩石から掘り出される「三葉蟲」の類もその頃には實に全盛を極めて居たものと見えて、世界諸地方から夥しく發見せられる。我が國では極めて稀であるが、支那の山東省邊からは非常に澤山出て、板の形に割つた岩石の表面が全部三葉蟲の化石で一杯になつて居ることが珍しくない。三葉蟲にも澤山の種や屬があつて、小さいのは長さ三粍にも及ばず、大きいのは三〇糎以上にも達するが、いづれも「かぶとがに」と船蟲との中間の如き形で、裏から見ると「わらぢむし」に似て足が多數に生えて居る。この類は古生代にはどこでも頗る盛に繁殖したやうであるが、不思議にもその後忽ち全滅したものと見えて、次なる中生代の地層からは化石が一つも發見せられぬ。それ故もし或る岩石の中に三葉蟲の化石があつたならば、その岩石は古生代に屬するものと見倣して間違はない。かくの如く或る化石さへ見れば直にその岩石の生じた時代を正しく鑑定し得る場合には、かやうな化石をその時代の「標準化石」と名づける。中生代の地層から掘り出される「アンモン石」といふ化石は、「たこ」・「いか」などに類する海産軟體動物の貝殼で、形が恰も南瓜の如くであるから、俗に「南瓜石」と呼ぶ地方もある。これもその時代には全盛を極めたものと見えて、種の數も屬の數も頗る多く、懷中時計程の小さなものから人力車の車輪位の大きなものまで、世界の各地方から多數に發見せられる。我が國の如きはその最も有名な産地である。今日生きて居る動物で稍これに似た貝殼を有するものは僅に「あうむ貝」の類のみであるが、「さざえ」や「たにし」の貝殼とは違ひ、扁平に卷いた殼の内部は澤山の隔壁があつて多くの室に分れて居る。そして「アンモン石」では隔壁と外面の壁との繫ぎ目の線が實に複雜に屈曲して美しい唐草模樣を呈し、その點に於ては如何にも發達の極に達した如くに見える。この類も中生代の終までは全盛を極めて居たが、その後忽ち全滅したと見えて、次なる新生代の岩石からは一つもその化石が出ぬから、地層の新古を識別するための標準化石として最も重要なものである。

[やぶちゃん注:「三葉蟲」節足動物門三葉虫綱 Trilobita に属するトリロバイト類。ウィキの「三葉虫」から引く。『多数の体節を持ち、各体節に一対の付属肢が備わっていたと考えられている。甲羅(背板)の特徴は、縦割りに中央部の中葉(axis)とそれを左右対となって挟む側葉(pleura(e))となっており、この縦割り三区分が三・葉・虫の名称の由来となっている。また、頭部(cephalon)、胸部(thorax)、尾部(pygidium)といった横割りの体区分も認められる。頭部と尾部は一枚の"甲羅"(背板)であり(ただし、脱皮時には頭部は最大』五つの『パーツに分割される)、胸部は』二基から六〇基を超える『甲羅(背板:特に胸節(thoracic segment)と呼ぶ)で構成されている』。『中葉はアーチ状に盛り上がり、側葉の内側は平坦である。より派生的なグループでは側葉の外側が腹側(生物体の下側)へと傾斜する傾向を持つ。このため、生物体が腹側へと丸まった時に胸節側葉部の外側域が重なり合い、甲羅(背板)でほぼ球状に生体部を覆うこととなる防御姿勢(enrollment)の構築が可能となる。誤解が多いので述べておくが、球状にならなくても防御姿勢というので注意を要する。頭部には、通常複眼が左右に』一対『あるが、頭部に対する相対的なサイズは様々であり、盲目化した種もさまざまな系統で知られている。口は頭部中葉域の腹側にあり、より腹側にある石灰質のハイポストーマ(hypostome)で覆われた状態であったと考えられている。そのため、開口部は体の後方を向いていたと考えられている』。『また、頭部・胸部・尾部の付属肢間で形態的差異はほとんどない。現在の節足動物甲殻類のカニやエビなど、さらに陸生の昆虫やムカデなどに認められるいわゆる口器とされる特殊化した付属肢は存在しない』。『触角以外の付属肢は基本的に二肢型であり、主に歩行に用いたであろう内肢と、その基部の肢節(注:甲殻類の肢節(coxa)ではない)より生物体の外側へと分岐し』、『櫛歯状の部位を有する外肢で構成される』。『目のレンズは全身の外骨格と同じ方解石(カルサイト)という鉱物でできており、多数の個眼を持ち、その数は数百に及ぶ。ほとんどの種では正面と両側面の視覚が優れていたことが明らかにされている』。『基本的には、海底を這ったり、泳いだりして生活していたものと想像されている。一部に、泥に潜っていたとか、浮遊性であったと推測されているものもある。多くは腐食生活者であるが、一部の種は捕食者である。例えば、オレノイデス(Olenoides)』『の成長は、硬い外骨格は成長につれて伸びることができないので、古い殻を脱ぎ捨て新しい殻に変える脱皮によって行われ、脱皮ごとに細部の構造が変わっていった』と考えられている。『現在、発見されている三葉虫の化石のうちで最も大きいものは全長』六〇センチメートルもあるものから、小さいものでは一センチメートルに満たず、幼生化石では、最も小さなそれは直径〇・二ミリメートルとされる。『幼生は胸部の体節が少なく、成長につれて体節を増やしたことが考えられる。また、ノープリウスに近い形の浮遊性の幼生らしいものも発見されている』。一九七〇年代までは、『三葉虫を節足動物のなかでもっとも原始的な群とする見解が主流であった。しかし、それ以降に北米のバージェス動物群やグリーンランドのシリウス・パセット動物群や中国の澄江(チェンジャン)動物群の記載分類学的および系統学的研究が活発に行われることで、節足動物の初期進化についての議論が活発化した。その流れのなかで、三葉虫が節足動物のなかで最も原始的といった解釈は自然消滅的に支持されなくなっていった。ただし節足動物の大きな区分として、甲殻類、多足類、昆虫類と鋏角類に並ぶ一群としての位置はほぼ認められている。それらの間の類縁関係については定説がない。古くは三葉虫から触角が退化して鋏角類が生じたとの説があり、カブトガニがその直接の子孫だと言われたこともあるが、現在では認められない』。古生物学の分類学的辞書ともいえる「Treatise of Invertebrate Paleontology」においては、『三葉虫種全てを三葉虫綱(Class Trilobita)としてまとめている。三葉虫の化石は、ほとんどのものが背側に備わった石灰質の"甲羅"(背板)のみが化石化しているため、分類の定義は背板上の形質に頼らざるを得ない。これは、付属肢などの生体部の形状を重要視して分類同定を行う現生の節足動物群とは根本的に異なるので注意が必要である。つまり不完全な記載分類学的研究ではあるが、その研究の歴史は古く』、十八世紀後半には『三葉虫を節足動物の中の独立したグループとする見解が提出され、また分類学の始祖とされるスウェーデンのカール・フォン・リンネも三葉虫を数種記載している。ただし現今では新種報告の数が著しい減少傾向にあるとされ、主流となる三葉虫研究の方向性の転換も求められているようである。この長い記載分類学の歴史を経た現在、三葉虫綱では』八の目(研究者によっては九から十目とする見解もある)、百七十を超える科、そして一万を超える『種とする見解が主流である』。『三葉虫綱における高次分類群間の類縁関係については』、一九五〇年代以降に『飛躍的に増加した個体発生過程の情報を用いた研究結果に頼るところが大きい。しかしながら、化石化されない生体部の情報がほぼ完全に欠如しているといったデメリットなどにも起因し、研究者間の見解の一致には未だ遠く、今後も大幅な改訂があるかもしれない』。以下その三葉虫綱八目を示しておく(特徴の詳細はリンク先を参照されたい)。

 アグノスタス目 Agnostida

 レドリキア目 Redlichiida

 コリネクソカス目 Corynexochida

 アサフス目 Asaphida

 ファコプス目 Phacopida

 プロエトゥス目 Proetida

 プティコパリア目 Ptychopariida

 リカス目 Lichida

三葉虫の『衰退、絶滅の正確な理由はわかっていないが、多様性、生息数が減少しはじめたシルル紀およびデボン紀にサメを含む魚類が登場、台頭していることと何らかの関係があるという説がある。それでも一部の系統は命脈を保ち続けていたが最終的にペルム紀末期の大量絶滅に巻き込まれる形で絶滅した』とある。

「かぶとがに」節足動物門鋏角亜門節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ属カブトガニ Tachypleus tridentatus であるが、以前、本種の幼生は三葉虫に似ているとされ、「三葉虫型幼生」の名もあり、実際にサンヨウチュウと系統的に近いと思われたこともあったが、現在ではこの生物学的近縁性は全く否定されているので注意されたい。因みに、私は似ているとは全く思わない。

「船蟲」節足動物門甲殻綱等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目フナムシ科フナムシ属フナムシ Ligia exotica 。形状の近似(私は丘先生には悪いが似ているとは思わない)に過ぎない全くの別種である。

「わらぢむし」節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目 Ligiamorpha下目 Armadilloidea 上科ワラジムシ科 Porcellio属ワラジムシ Porcellio scaber などの類であるが、これも他人の空似であって全く縁故はない。化石から復元されたそれ脚部も私は必ずしも似ているとは思われない。以上の三種の喩えは、一般向けとしても形態学的博物学の観点からも私は不適切であり、肯んじ得ない。

「標準化石」示準化石。英語「index fossil」。

「アンモン石」アンモナイト(ammonite)。古生代のデボン紀に出現して中生代に栄え、中生代の終りに絶滅した螺旋型の軟体動物門頭足綱菊石(アンモナイト)亜綱に属する生物種の総称。現行ではアンモナイト亜綱はオルドビス紀から生息する後注する「あうむ貝」を含むオウムガイ亜綱 Nautiloidea の中から分化したものと考えられている。ウィキの「アンモナイトによれば、『アンモナイトの殻(螺環)の外観は一見しただけでは巻き貝のそれと同じようにみえるが、注意深く観察するとそうではない。一般的なアンモナイトの殻は、巻き貝のそれと共通点の多い等角螺旋(対数螺旋、ベルヌーイ螺旋)構造を持っていることは確かであるが、螺旋の伸張が平面的特徴を持つ点で、下へ下へと伸びていき全体に立体化していく巻き貝の殻とは異なり、巻かれたぜんまいばねと同じような形で外側へ成長していくものであった(もっとも、現生オウムガイ類がそうであるように縦巻きである)』。『また、殻の表面には成長する方向に対して垂直に節くれ状の段差が多数形成されていることが多い』。『巻き貝との違いは殻の断面からもわかる。螺旋が最深部まで仕切り無くつながっている巻き貝の殻の内部構造に対し、アンモナイトの場合、螺旋構造ではあるが多数の隔壁で小部屋に区切られながらの連なりとなっている』。『この構造は、現生オウムガイ類の殻と相似性をなしており、このことからアンモナイトは頭足類であると考えられた』。『殻(螺環)の内部は、現生オウムガイ類』『同様、軟体部が納まる一番外側の大部屋(住房;じゅうぼう)と、その奥にあって浮力を担う小部屋(気房;きぼう)の連なりとで構成されている。住房と気房とは細い体管(連室細管)によってつながり、ガス交換がなされていたはずである』。『気房は、数学的規則性(ベルヌーイ螺旋)をもって配置される隔壁(セプタ、septa)によって奥から順次区分される造りになっている。そこにあった体液は排出され、代わりに空気が採り込まれることで中性浮力』『が発生する。これによって気房は魚の鰾(ひょう。浮き袋)に相当する器官として働いていたと考えられる。この説から、たとえ巨大な種であっても行動に不自由は無かったと推測できる』。『現生オウムガイ類の飼育研究から、殻の成長に伴って軟体部が断続的に殻の口のほうへ移動し、その後に残された空洞は最初は体液で満たされているものの浸透圧が作用して体液が自然に排除される仕組みであったと推測されており、積極的にガスを分泌するのではないと考えられている。現生オウムガイ類との相違点として、現生オウムガイ類の隔壁が殻の奥に向かってくぼむのに対してアンモナイトの隔壁は殻の口の方向に突出する傾向があること、隔壁間の空洞を連結する連室細管は現生オウムガイ類では隔壁の中央部を貫通するのに対してアンモナイトでは殻の外側に沿っていることが多いことなどが挙げられる』。『縫合線が菊の葉のような模様を描き出し』、さらに『隔壁はしばしば殻の本体と接する縁の部分で複雑な襞(ひだ)状に折れ込んでいる。これは、ダンボールや波板、H形鋼などと同様、殻の強度を高めつつ軽量化を図るという相矛盾する課題を達成するための仕組みである。殻の内面に現れた隔壁と接する縫合線(Suture Line)の形状は年代による差異が明確で、後代のものほど複雑になっており(一部例外あり)、分類学上重視される形質の一つである』。『この縫合線はまた、複雑に入り組んだ自然の織りなす模様となってアンモナイト化石に美術的価値を生み出してもいる。幾何学的で、かつ、どこか植物的でもあるその模様は、日本や中国では菊の葉を連想され、アンモナイトが「菊石」と呼ばれる由来となった。殻皮』『を剥がして磨きをかけることによって商品化されるものである』。『通常のアンモナイトの殻は同一平面に螺旋に巻いた渦巻状の形態である。ところが中生代も後期の白亜紀に入ると、「異常巻き」と呼ばれる奇妙な形の種が数多く見られるようになってくる。細長く伸びたようなものや、紐がもつれたような非常に複雑な形状のものなど、様々な形態が現れ(ニッポニテスが有名。左の画像参照)、過去の研究者を悩ませた。これらは系統進化上の寿命なるものが尽きることで引き起こされた一種の末期的な畸形(きけい)の症状であると見なすのが旧来の説だったが、現在は浅海域が発達した白亜紀という時代の環境に因を求め、そこに生じた複雑なニッチ(生態的地位)に適応して様々な生活型のアンモナイトが分化した結果であるという説が唱えられている』。「巨大アンモナイト」の項。『ンモナイト亜綱の動物は、殻の直径で数センチから十数センチメートル程度のものが多い。しかし、中には大きな種も存在し、ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州の白亜紀後期層から発見された史上最大のアンモナイト』とされるアンモナイト目アンモナイト亜目デスモセラス科パラプゾシア・セッペンラデンシス(パキディスクス・セッペンラデンシスParapuzosia seppenradensisPachydiscus seppenradensis)などは殻の直径が二メートルに『達するものであった』とある。

「南瓜石」「一般財団法人 地球の石科学財団 奇石博物館」公式サイト内の「奇石博物館 収蔵品」の中にここに、確かにアンモナイトが「カボチャ石」として紹介されてある。それには『かつては異常巻きアンモナイトと呼ばれ、巻きがほどけて立体的になったもの』とある。確かに南瓜っぽくはある。

「あうむ貝」頭足綱オウムガイ亜綱 Nautiloidea(四鰓亜綱 Tetrabranchia)オウムガイ目オウムガイ科オウムガイ属 Nautilus 

 オウムガイ Nautilus pompilius

 パラオオウムガイ Nautilus belauensis

 ヒロベソオウムガイ Nautilus scrobiculatus

 コベソオウムガイ Nautilus stenomphalus

 オオベソオウムガイ Nautilus macromphalus

 キレフオウムガイ Nautilus pompilius repertus

(他に、Nautilus pompilius × Nautilus stenomphalus と言った交雑種がある模様)及び

オウムガイ科アロノーチラス属 Allonautilus

を立てる説もあるようだが、英語版ウィキを見ると、このタイプ種はAllonautilus scrobiculatus でヒロベソオウムガイNautilus scrobiculatusのシノニムと思われる。但し、同属には同英語ウィキに

 Allonautilus perforatus(和名不明)

という種が示されてある。日本語版ウィキの「オウムガイ」の記載によれば、『生きている化石のひとつで』、『殻に入った頭足類で、南太平洋〜オーストラリア近海に生息し、水深およそ』百~六百メートルに棲息する。『深海を好むというイメージもあるが』、水深が八百メートルを『超えた所では殻が水圧に耐えきれず壊れてしまう。その祖先(アンモナイトに近い)は』四億五千万年前から五億年前に『誕生し、それからほとんど進化していないとされる生物である』。『餌を捕食するために』九十本ほどの『触手を使い、触手にあるたくさんの皺でものに付着する。触手のうち、上面にある二つの触手の基部が分厚くなって融合し、帽子のような形状を作り殻の口に蓋をする働きを持つ。何かに付着する以外には、触手を運動に使わない』。『眼は短い柄の先に付いて、外側が平らになった独特の形を持つものであるが、これはピンホールカメラ方式である。すなわち、タコやイカのカメラ眼とは異なり、レンズの構造がないため、視力はよくない。水の中に落ちた化学物質には素早い動きを見せる』。『イカやタコと同じく漏斗(ろうと)と呼ばれる器官から噴き出す水を推進力にして、体を軽く揺すりながらゆっくりと運動する。主な餌は死んだ魚介類や脱皮した殻などである。俊敏に移動できないので、イカやタコのように生きた魚介類を捕まえて食べることができない。イカやタコとは異なり、墨汁の袋は持っていない』。『また、タコやイカが一年、もしくは数年で死んでしまうほど寿命が短いのに対し、オウムガイの寿命は長く、十数年~二十年近くも生きるといわれるが、それは殻の生成による時間がかかることによる成長の遅さが起因しており、それは殻を完全に退化させ、成長速度を速めたタコやイカと対照的である』。『オウムガイの殻は、巻き貝のそれによく似て見えるが、内部の構造は大きく異なる。巻き貝の殻は、奥までが一続きでほとんど奥まで肉が入っているのに対し、オウムガイの殻の内部には規則正しく仕切りが作られ、細かく部屋に分けられている。もっとも出口に近い部屋が広く、ここに体が収まり、それより奥は空洞である』。『この空洞の部分にはガスと液体が入っており、浮力をそこから得ている。このガスと液体の容積の比率を調節することによって自分自身の全体としての比重を変化させて浮力の調整をして』いるが、『ガスと液体の容積の調整は弁のような機構的な構造によるものではなく』、『液体の塩分濃度を変化させることによる浸透圧の変化によって水分を隔壁内外へ移動させる事で行う。そのために海水中での深度調整の速度は他の海洋生物に比べると遅い』。『死んで肉が無くなると殻が持つ浮力のために浮かびやすく、海流に乗って長距離を流される事もあり、日本沿岸にもよくその殻が漂着する』。『頭足類であるから、タコやイカに近いことになるのだが、イカとタコには多くの類似点が認められるのに対してオウムガイは異なるところが多い。そのため独立した亜綱に分類されている』。『殻の形態や構造は中生代のアンモナイトにも似ているが、むしろそれより古く、古生代のチョッカクガイ』(直角貝:頭足綱オウムガイ亜綱直角石(オルトセラス)目 Orthocerida に属する直線的な殻を持つ化石生物群。オルドビス紀中期の示準化石)『などと共通の祖先を持つ(アンモナイトはイカやタコに近縁とされる)。チョッカクガイの化石は示準化石に指定されているが、現生のオウムガイと違い、殻は槍の先のように真っ直ぐに伸びていた。因みに、オウムガイがチョッカクガイの直系の子孫にあたるという説もあったが、現在では否定されている』。『日本語のオウムガイは、殻を正位置に立てた場合、黒い部分(生息時は、ここに「ずきん」が被っている)がオウムの嘴に似ている為にこの名がついたものである。英名はノーチラス(Nautilus)で、ギリシャ語の』「水夫」に由来するとされる。『ガスの詰まった殻内部の容積を調節して浮き沈みする仕組みは潜水艇と同様である。そのため、ジュール・ヴェルヌは『海底二万里』に登場する潜水艦にこの名を使い、また現実の多くの潜水艦にもこの名が使われた(特にアメリカの原子力潜水艦が有名)』とある。]

Kabutouo

[冑魚]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 以上は兩方ともに無脊椎勤物の例であるが、次に脊椎動物に就いて見ると、古生代の魚類、中生代の爬蟲類、新生代の獸類などには、それぞれその時代に全盛を極めて居た種族が澤山にある。まづ古生代の魚類を見るに、今日の普通の魚類とは大に違うて光澤のある厚い骨のやうな鱗を被つた種類が多く、スコットランドの赤色砂岩から出た化石の如きは、「かに」か「えび」かの如くに全身厚い甲冑を著けて殆ど魚類とは見えぬ。勿論陸上へは昇り得なかつたが、魚類以上の水棲動物がまだ居なかつた時代故、かゝる異形の魚類は到る處の海中に無數に棲息して實に全盛を極めて居た。通俗の地質學書に古生代のことを「魚の時代」と名づけてあるのも尤な次第である。しかしその後に至つて皆忽ち絶滅して、今日これらの魚類に聊かでも似て居るのは、僅に「てふざめ」などの如き硬鱗魚類が數種あるに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:「甲魚」「かぶとうを(うを)」と訓じているらしい(学術文庫ルビから)。「甲冑魚(かっちゅうぎょ)」のこと。古生代に棲息した硬く厚い外骨格を持った魚類で翼甲類及び板皮類に属した。翼甲類は脊索動物門脊椎動物亜門(又は頭蓋亜門)無顎上綱翼甲綱 Pteraspidomorphi に属する魚類の総称で約五億年前のカンブリア紀後期からオルドビス紀前期に出現したが、この類の殆ど総ての種(プテラスピスPteraspis・アストラスピスAstraspis・アランダスピスArandaspisなど)は絶滅してしまったが、現生のヌタウナギ類(無顎口上綱ヌタウナギ綱ヌタウナギ目ヌタウナギ科ヌタウナギ属 Eptatretusの仲間)の祖先であるとする説がある一方、別系統であるとする説がある。板皮類は魚類上綱の一綱Placodermiで、古生代シルル紀の後期から石炭紀の初期にかけて生息した。頭部と胸部は厚い装甲に覆われ、頭甲と胸甲は左右で関節化し、軟骨魚類や硬骨魚類に見られるような歯を持たず、顎骨板が露出して、鉈(なた)状を成しており、これで獲物を嚙み切ったと推定される。殆どが肉食性と思われ、その代表的なものは節頸類(コッコステウス目)である。全長数メートルに達したと思われるダンクルオステウス Dunkleosteus が有名である(概ね、小学館「日本大百科全書」に拠る)。]

Kyouryuu1

[中生代の大「とかげ」]

Kyouryuu2

[中生代の大「とかげ」]

[やぶちゃん注:以上の二図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 中生代に於ける爬蟲類の全盛の有樣は更に目覺ましいもので、陸にも海にも驚くべき大形の種類が勢を擅にして居た。今日では爬蟲類といふと、龜・蛇・「とかげ」などの類に過ぎず、熱帶地方には幾らか大きなものも居るが、普通に見掛けるものは小さな種類ばかりであるから、全盛時代に於ける爬蟲類の生活狀態は到底想像も出來ぬ。ヨーロッパやアメリカの中生代の地層から掘り出された爬蟲類の化石を見ると陸上を四足で匍ひ歩いた種類には、長さ二〇餘米に及び脛の骨一本だけでも殆ど人間程あるもの、また「カンガルー」の如く後足だけで立つた種類には、高さが五米以上に達するもの、また蝙蝠の如く前足が翼の形となつて空中を翔け廻つた種類には、兩翼を廣げると優に五米を超えるものがあり、その他形の奇なるもの姿の恐しいものなど實に千變萬化極まりない有樣であつた。しかもそれが皆頗る數多く掘り出され、べルギーのベルニッサールといふ處からは長さ一〇米もある大「とかげ」の化石が二十五疋も一處に發掘せられた。ブリュッセル博物館の特別館内に陳列してあるのはこれである。中生代にはまだ獸類も鳥類も出來始まりの頗る幼稚な形のもののみであつたから、陸上でこれらの恐しい爬蟲類の相手になつて競爭し得る動物は一種もなかつたに相違ない。更に海中では如何といふに、こゝにも爬蟲類が全盛を極めて魚の如き形のもの、海蛇の如き形のものなどさまざまの種類があり、大きなものは身長が七米一三米にも達してゐて、恰も今日の鯨の如くにしかも今日の鯨よりは遙に多數に到る處の海に游泳して居た。通俗の書物に中生代のことを「爬蟲類の時代」と名づけてあるのも決して無理ではない。かやうに中生代には非常に大きな爬蟲類が水中・陸上ともに全盛を極め、殆ど爬蟲類にあらざれば動物にあらずと思はれるまでに勢を得て居たが、その後に至りいづれも遽に滅び失せて、次なる新生代まで生き殘つたものは一類としてない。特に不思議に感ぜられるのは海産「とかげ」類の絶滅したことで、陸産の方ならば或は新に現れた獸類などに攻め亡されたかも知れぬといふ疑があるが、海中に鯨類の生じたのは新生代の中頃であつて、海産「とかげ」類の斷絶してから遙に後のこと故これらは決して新な強敵に出遇うて敗けて亡びたのではない。それ故なぜ自ら滅び失せたか今までたゞ不可解といふばかりであつた。

[やぶちゃん注:「陸上を四足で匍ひ歩いた種類には、長さ二〇餘米に及び脛の骨一本だけでも殆ど人間程あるもの」これはもう、図を見れば一目瞭然、約一億五千万年前の中生代ジュラ紀後期に棲息していた爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱恐竜上目竜盤目竜脚形亜目竜脚下目ディプロドクス科アパトサウルス属 Apatosaurusの一種である(一科一属)大型草食性恐竜、

アパトサウルス・エクスセルスス Apatosaurus excelsus (Marsh, 1879c) Riggs, 1903

である。同種は旧シノニムをブロントサウルス・エクスセルススBrontosaurus excelsus とも称し私の世代には、この「ブロントサウルス」の方が遙かに通りがよい(但し、現在の古生物学ではこの属名のシノニム自体は全く無効となっている)。本邦の子供向けの恐竜図鑑の通称「カミナリリュウ(雷竜)」もずっと今以って親近感があると言える。現在では他に、

アパトサウルス・アジャクス Apatosaurus ajax Marsh, 1877(本属の模式種)

アパトサウルス・ロウイサエ Apatosaurus louisae Holland, 1915

アパトサウルス・パルヴス Apatosaurus parvus (Peterson et Gilmore, 1902)

の四種が立てられてある。因みに丘先生の引いた挿絵は古生物学者オスニエル・チャールズ・マーシュ(Othniel Charles Marsh 一八三一年~一八九九年)の手になる「Brontosaurus excelsus」(現在のApatosaurus excelsus)の骨格見取図(一八九六年)に生体時の推定輪郭線を附したものであることが、ウィキの「アパトサウルス」に示された原図から判る。同原図はパブリック・ドメインなので以下に示す。比較されたい。但し、これは百二十年前の当時の知見による恣意的な作図であり、正確なものではない(特に脚部の骨や爪など)ので注意が必要である。同ウィキによれば、『属名(ラテン語)Apatosaurus は古代ギリシア語』の『(アパーテー)「騙す、まやかす」』の意に、(サウロス)「とかげ」の語を合成した『語で、「惑わせ竜」とでもいった含意』で、『模式種の種小名 ajax は、ギリシア神話の英雄である大アイアース』『に由来する』『ほか、excelsus はラテン語で「高みなる」「気高い」「上位の」といった意味。 louisae 「ルイーズの」はアメリカの実業家アンドリュー・カーネギーの妻ルイーズ・カーネギー(Louise Carnegie)への献名。parvus はラテン語で「小さな」の意であるが、元の学名 Elosaurus parvus』(エロサウルス・バルヴス)『からの継承である』とある。約一億五千万年前の分布域は単独大陸として北半球に存在した現在の北アメリカ大陸西部地域に相当し、全長は約二十一~二十六メートルにも及び、体重は推定試算方法によって幅があるが、凡そ二十四 トンから三十二トンという見積もりが出ている。本属類は『群れを成して移動し、森林の木の葉を常食していたものと考えられ』ている。一九六〇年代までは、『あまりに体重が大きいため、陸上を歩くことができず、湖沼に棲息していたという見方が定説となっていて、下肢骨が重く脊椎骨に多くの空洞があって重心が低位置にあること、首が長いこと、鼻孔が頭の上部に開口していることなどが水中生活に適応した証拠とされていた。その後、アメリカ人古生物学者ロバート・T・バッカーらの研究により、陸棲であったことが明らかになっている』とある。

Brontosaurus_skeleton_1880s

『「カンガルー」の如く後足だけで立つた種類には、高さが五米以上に達するもの』五メートル以上という立脚時の高さから考えると、六千八百五十万年前から約六千五百五十万年前の中生代白亜紀末期の現在の北アメリカ大陸地域に生息していた(但し、起源は原ユーラシア大陸とされる)肉食恐竜

爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱恐竜上目竜盤目獣脚亜目テタヌラ下目ティラノサウルス上科ティラノサウルス科ティラノサウルス属ティラノサウルス・レックス(タイプ種)Tyrannosaurus rex

及びその近縁種しか考え難いのであるが(それ以外の二足歩行をすることを特徴とする獣脚亜目 Theropodaのトカゲや恐竜類は後ろ足で立った際の高さがこんなに大きくならないと思う)、しかしこれが挿絵に掲げられたものであるとすると、どう見ても、この頭骨がティラノサウルス属ではない気が私はする。

獣脚亜目ケラトサウルス下目ケラトサウルス科ケラトサウルス属 Ceratosaurus

なら高さは合うが、頭骨上顎や後肢の大腿部の構造が違う。

獣脚亜目テタヌラ下目アロサウルス上科アロサウルス科アロサウルス属 Allosaurus

も頭部が異なる。どうもこれは、竜盤目獣脚亜目に拘っているのが問題なのかも知れんと思い、あくまで先細りの頭部骨格を恐竜類の海外骨格標本サイトで縦覧するうち、かなり似ているものを見出した。

恐竜上目鳥盤目鳥脚亜目ハドロサウルス上科ハドロサウルス科ハドロサウルス亜科エドモントサウルス属 Edmontosaurus

である。ハドロサウルス科 Hadrosauridae はそもそもが「カモノハシリュウ(鴨の嘴竜)」として知られ、鴨のように長く平たい口吻部が特徴的な草食恐竜であり、本頭骨とよく一致する。ウィキの「エドモントサウルス」によれば、本属は体長は成体で九メートル程度が一般的だが、種によっては十三メートル、三・五トンに達したものもいたとあり、二足歩行時の本記載に合致する範囲である。中生代白亜紀マーストリヒト期(約七千百万~約六千五百万年前)の現北アメリカ大陸西部域相当に棲息した。英文ウィキのEdmontosaurus annectensにある、やはり、オスニエル・チャールズ・マーシュの手になる「Edmontosaurus annectens」の骨格復元スケッチを以下に示す。頭頂部が扁平に過ぎ、後脚股間部分の骨格に違いが認められはするが、獣脚亜目のズングリした頭骨と比すれば、遙かに本挿絵に似ていると私は信ずる。これが精一杯。もしアサッテのトンデモ比定であるならば、是非とも識者の御指導を乞うものである。

Large_marsh_claosaurus

「蝙蝠の如く前足が翼の形となつて空中を翔け廻つた種類」爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱翼竜上目翼竜目 Pterosauria の初めて空を飛んだ脊椎動物である中生代の爬虫類翼竜の類。主な種は、ウィキの「翼竜」によれば、

ランフォリンクス Rhamphorhynchus

(『ジュラ紀に出現した。長い尾の先が菱形になっていたが、これは飛行時に舵の役割をしたのではないかとする説がある。翼開長は最大』百七十五センチメートル』)

プテロダクティルス Pterodactylus

(『ジュラ紀に出現した。翼開長は』五十〜七十五センチメートルほど。)

プテラノドン Pteranodon

(『白亜紀の北アメリカに出現した。翼開長は』七・五メートルにも『及ぶ大型の翼竜で、大きなくちばしをもち、頭部の後ろにも大きな突起がある』)

ケツァルコアトルス Quetzalcoatlus

(『白亜紀の北アメリカに出現した。翼開長は』十二メートルにも『及び、目下空を飛んだ最大の動物とされている。属名はアステカ神話の神ケツァルコアトルに由来する』。体重は七十キログラム程度と推定されている)

ダルウィノプテルス Darwinopterus

(中国北東部で出土し、研究によって二〇〇九年に新種として認定された。大きさはカラスほどの小型翼竜)

丘先生の言及しているのはプテラノドンPteranodon である。

「べルギーのベルニッサール」ベルギー王国のワロン地域エノー州のベルニッサール(Bernissart)。そこのにあるサンバルベ炭坑で発見された。

『長さ一〇米もある大「とかげ」の化石』「ブリュッセル博物館の特別館内に陳列してある」ベルニッサールのサンバルベ炭坑で発見された、

爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱恐竜上目鳥盤目鳥脚亜目イグアノドン上科イグアノドン科イグアノドン属 Iguanodon

の恐竜研究史の最初期に発見された鳥脚類の一種である。和名は「禽竜(きんりゅう)」。ウィキの「イグアノドンによれば、『イグアノドンを発見したのはイギリスの田舎医者だったギデオン・マンテル(Gideon Mantell)である。マンテルは相当な古生物マニアで、医師業の傍ら自ら化石を取りに出かけていたという。マンテルの収集した化石コレクションは当時のイギリスでも有数のものだった。ある日、診察の帰りに工事で掘り返された道路を見ていたところ、巨大な歯と取れる化石を発見、すぐさま博物学者ジョルジュ・キュヴィエなど専門家の下に意見を仰ぎに行った。ところがキュヴィエらはサイか、象の歯としか捉えず、マンテルは納得しなかった。その後、爬虫類であるイグアナの歯と化石の特徴が一致することを突き止めたマンテルは、その化石が古代に生きた巨大な爬虫類のものであるとし、「イグアナの歯」を意味する学名、Iguanodon(イグアノドン)を与えた』。『このイグアノドン発見譚には、最初の発見者は、マンテル本人ではなく往診に付き添った妻であるとするものもある。じつのところ、マンテルはある書簡では自分が発見したと書き、別の書簡では妻が発見したと書き残している。また、生前の友人、知人と交わした会話でも、発見者については自分であるとも妻であるとも述べている。はたして実際の第一発見者が誰であるのかは興味を惹く問題であり、これまでにも何度か調査が行われたが、結局結論は出ていない』。『マンテルが想像したイグアノドンは、鼻先に角を持ち、長大な尾、イグアナのような体躯をしていた。イグアナをモデルとした結果、マンテル・イグアノドンは、体長』七十メートルという『非常に巨大な生物となってしまった。体長はともかく、その後長くマンテル・イグアノドンのスタイルはしばらく受け継がれることになる』。一八七八年に『ベルギーのエノー州にあるベルニサール炭鉱から』三十体以上の『完全な全身骨格化石が発見され、イグアノドンの復元についての研究が大きく進んだ。現在この化石はベルギー王立自然史博物館に展示されている』。『実際のところ、一般的な現生爬虫類であるイグアナと、絶滅した古生物であるイグアノドンの間には生物学的になんら関係はない。歯の形が似ているぐらいのものである』。実体長は七~九メートル。『イグアノドンは他の一般的鳥脚類と同様にくちばし(鳥のようなくちばしではなく、骨格の一部をなす骨)を持ち、竜脚類に比べ発達した数百本の臼歯があった。上顎には歯列を左右に動かすことができる関節があった。こうした構造は、固定され上下するのみの下顎の歯列との間に側方剪断力を生み』、『植物を効率的に剪断、すり潰す事が出来た』。『比較的短い前肢と長めの後肢を持つ。イグアノドンのもっとも大きな特徴はその前肢にある。親指は殆どが長さ』十五センチメートルほどの、『円錐状の鋭くとがった骨からできていて、マンテルが角と見ても仕方がなかった。実際には、骨に更に角質の爪がかぶるので更に長くなる。これが親指だと判明した当時は肉食恐竜に対する唯一の防御方法として知れ渡っていたが、現在では柔軟性の高い』第五指(小指)と『共に藪の中で好みの葉を寄せる時に使われたのではないかと考えられている。実際、捕食動物に襲われた際、この親指を武器として使える余裕があったかどうかは疑問である』。『イグアノドンはマンテルの頃に』四足歩行、後に二足歩行で『復元されるようになり、現在では再び』四足歩行に『戻っている。これは前肢の』五本の指の内、真ん中の三本に、『手の甲側へ深く曲げることのできる特殊な関節を持っていることが分かったためである。イグアノドンは通常』は四足歩行し、『体重の軽い若い個体や急ぐ時などは』二足歩行を『していたのだろうと考えられている』。『イグアノドンの尾の断面は縦長になっているため、かつては尾を使って泳ぐ水生動物と考えられたこともあったが、現在では陸生であったとされる』。復元とその復元図は伊藤裕一氏の「イグアノドン復元の話」(PDF)に詳しい。因みに、地図を見ると、ベルニッサールには「イグアナドン通り」(!)という街路名がある。

「海中では如何といふに、こゝにも爬蟲類が全盛を極めて魚の如き形のもの、海蛇の如き形のものなどさまざまの種類があり、大きなものは身長が七米一三米にも達してゐて、恰も今日の鯨の如くにしかも今日の鯨よりは遙に多數に到る處の海に游泳して居た」これはまず、

爬虫綱魚竜目 Ichthyosauria

で、『イルカに似ており(収斂進化参照)大きい歯を持っていた。中生代の大部分に亘って生存していた』。約二億五千万年前に、恐竜(約二億三千万年前に出現)よりもやや早くに出現し、九千万年前、恐竜より約二千五百万年早く絶滅している。『三畳紀前期に魚竜は、陸棲爬虫類のいずれかより進化して水棲になった。これはイルカを含むクジラ類の進化と並行的である。現時点で魚竜がどのような陸棲爬虫類から進化したかは不明である。双弓類に属するのは間違いないが、その二大系統である鱗竜形類(トカゲ・ヘビや首長竜を含む系統)や主竜形類(カメおよびワニや恐竜を含む系統)には属さず、それ等が分岐する以前の、より古い系統に発するのではないかとされる。魚竜はジュラ紀に特に繁栄した』(以上はウィキの「魚竜」に拠る)。次の「海蛇の如き形のもの」以下は、

双弓亜綱首長竜目 Plesiosauria

に属するプレシオサウルス類を指しているものと思われる。ウィキの「首長竜」によれば、『中生代三畳紀後期に現れ、ジュラ紀、白亜紀を通じて栄えた水生爬虫類の一群の総称。多くは魚食性だったと思われる。その名の通り大半は首が長いが、クロノサウルス』(後述)『やリオプレウロドン』(首長竜目プリオサウルス亜目プリオサウルス科リオプレウロドン属 Liopleurodon 。現行では平均体長七~十メートルほど。形状や生態はウィキの「リオプレウロドン」を参照されたい)『のような首が短い種もある。非常に長い時間をかけて繁栄し続けたが、他の大型水生爬虫類同様、中生代の最後の大量絶滅を乗り切れずに絶滅した』。『一部の種、例えばエラスモサウルス』属Elasmosaurus『の仲間では首(頸)が体より長い。その他の種でも胴や尾を含めた長さと同じくらいのものが多かった。四肢は完全に鰭状に変化しており、尾は短く、水生生活に適応していた。当時の水中の生態系での頂点に君臨していたと考えられる。主に魚食性であったが、アンモナイトやオウムガイ等も食べていた事、また、機会があれば海面近くに飛来したプテラノドンなどの翼竜や陸上の恐竜、他の海棲爬虫類も捕食した事が近年の研究で分かっている』。『首長竜については未だ多くの謎がある。その筆頭格が、「首長竜は陸に上がって産卵したか」「そもそも首長竜は陸に上がる事ができたか」というものである。肺呼吸をする海棲爬虫類が卵を産む場合には、ウミガメ』(爬虫綱双弓亜綱カメ目潜頸亜目ウミガメ上科 Chelonioidea)『やエラブウミヘビ』(爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科エラブウミヘビ属エラブウミヘビ Laticauda semifasciata)など『のウミヘビのように陸に上がらなければならず、そうでなければ海面で幼体を産む必要がある。首長竜の骨格構造では陸に上がる事は不可能とする見解があるが、反論として陸に上がる事は可能だったとする説もあり、賛否は分かれている』。『魚竜の場合、胎児を持つ化石や出産中に死亡した化石が発見されており、最初から予想されていた胎生であることは既に証明されているが、首長竜の場合は卵の化石はもとより、魚竜のように胎児を持つ化石や出産中の化石も長らく未発見であり、結論が出せない状況にあった。しかし、アメリカの研究チームが』一九八七年に『発掘された首長竜の一種であるプレシオサウルス類の化石を分析したところ、体内に』一匹の子供の骨格が残っていることが二〇一一年に判明しており、『これにより、首長竜は胎生であり、陸に上がって産卵する卵生ではなかったことが証明されたと研究チームは結論付けている。ちなみに子供の体長は約』一・五メートルで、親の体長(約四・七メートル)と『比べて非常に大きく、しかも子供はまだ成長過程にあったと見られ、最終的に子供は親の体長の』四割を超える(約二メートル)まで『成長してから出産された可能性があると見られている。このように、首長竜は大型の子供を』一度に一匹だけ『産むタイプの生物であったと見られることから、首長竜は同じタイプのクジラと同じように群れを作って手厚い子育てをしていた可能性もあると研究チームは語っている』とある。丘先生の「大きなものは身長が七米一三米にも達してゐ」たというのは、そこに出た、最大級の、

首長竜目プリオサウルス亜目プリオサウルス科クロノサウルス Kronosaurus

を指していよう。ウィキの「クロノサウルス」によれば、『属名の由来はギリシャ神話の神クロノス。クロノスはゼウスの父であり、息子による権威の簒奪を予言されたため『自分の子供達を次々と丸呑みして腹中に封じてしまう』という逸話があり、巨大な顎をもつこの生物の名前として採用された。ゼウスの父クロノス自体が時間の神クロノスと混同される事が良くあるため、しばしば「時のトカゲ」と和訳されることがあるが』、『厳密に言えば誤りである』(私もそう思い込んでいた)。『首長竜は『首が長く頭が小さいグループ』(プレシオサウルス亜目)と『首が短く頭が大きいグループ』(プリオサウルス亜目)に大別されるが、クロノサウルスは後者における最大級のもので』、頭骨は三メートル近くもあり、『全長はローマー(Romer)の推定によれば』十二・八メートルとされるが、二〇〇三年Kearによって『行われた他のプリオサウルス類化石との比較から、実際にはもっと小さく』、九~十メートル程度『であった可能性が示唆されている』。また、『吻は長く伸びた三角形となり、顎には長さ』約二十五センチメートルに『達する鋭い歯を多数持っていた。胃の内容物の痕跡から、魚介類や他の海棲爬虫類を主食にしていた事が判明している。鰭脚は後ろが大きい。胴体は硬く引き締まり、尾は短いが、上部には鰭があったと推定されている。全部の鰭脚と尾の鰭で舵取りを行っていたとされる』とある。

『かやうに中生代には非常に大きな爬蟲類が水中・陸上ともに全盛を極め、殆ど爬蟲類にあらざれば動物にあらずと思はれるまでに勢を得て居たが、その後に至りいづれも遽に滅び失せて、次なる新生代まで生き殘つたものは一類としてない。特に不思議に感ぜられるのは海産「とかげ」類の絶滅したことで、陸産の方ならば或は新に現れた獸類などに攻め亡されたかも知れぬといふ疑があるが、海中に鯨類の生じたのは新生代の中頃であつて、海産「とかげ」類の斷絶してから遙に後のこと故これらは決して新な強敵に出遇うて敗けて亡びたのではない。それ故なぜ自ら滅び失せたか今までたゞ不可解といふばかりであつた』現在、この時期の大量絶滅の原因は、小惑星が地球に衝突し、『発生した火災と衝突時に巻き上げられた塵埃が太陽の光を遮ることで、全地球規模の気温低下を引き起こし、大量絶滅につながったという説(隕石説)が最も有力であり、ユカタン半島で発見されたチクシュルーブ・クレーターがその隕石落下跡と考えられている』とウィキの「大量絶滅」の「白亜紀末」の項にある。更に詳しくはウィキの「K-T境界」Cretaceous-Paleogene boundary(クリテイシャスペェィリィアヂィーン・バゥンダリー):地質年代区分の用語で、約六千五百五十万年前の中生代と新生代の境目に相当し、顕生代(カンブリア紀以後の古生代・中生代・新生代を含む時代)に於いて五回発生した大量絶滅の中で最後の事件をも指す)を参照されたい。]

Manmos

[マンモス]

Kodainoootunojika

[古代の大角鹿

アイルランドの新生代後期の地層から掘り出した化石に基づいてその生きた姿を想像して畫いた圖である 左右の角の尖端の距離が約五米 角と頭骨だけでも重さ百二十瓩以上]

Sekkijidaimanmos

[石器時代の「マンモス」の繪]



Sabeltiger

[牙の大き過ぎる虎の頭骨]

 

[やぶちゃん注:以上の四図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 次に新生代に於ける獸類を見るに、これまた一時は全盛を極めて居た。今日では陸上の最も大きな獸といふとまづ印度産とアフリカ産との象位であるが、人間の現れる前の時代には今の象よりも更に大きな象の種類が澤山にあり、その分布區域も熱帶から寒帶まで擴がつて居た。シベリヤの氷原からはときどき「マンモス」と名づける大象の遺骸が發掘せられることがあるが、氷の中に埋もれて居たこととて、恰も冷藏庫の内に貯藏してあつたのと同じ理窟で、何十萬年か何百萬年も經たに拘らず、肉も皮も毛も生きて居たときのまゝに殘つて居る。レニングラードの博物館にある完全な剝製の標本はかやうな材料から製作したものでゐる。我が國でもこれまで處處から「マンモス」その他の象の化石、犀の化石、素性のわからぬ大獸の頭骨などが掘り出されたことを考へると、太古には今日と違うて恐しい大きな獸類が多數に棲息して居たに違ない。また食肉類には今日の獅子や虎よりも更に大きく、牙や爪の更に鋭い猛獸が澤山に居た。ブラジルの或る地方から掘り出された一種の虎の化石では上顎の牙の長さが三〇糎程もある。鹿などの類にも隨分大きな種類があつて、左右の角の南端の距離が四米以上に達するものもあつた。その他この時代にはなほさまざまの怪獸が到る處に跋扈して世は獸類の世であつたが、その後人間が現れてからは大體の種族は忽ち滅亡して、今日では最早かやうなものは一種も見ることが出來ぬやうになつた。「マンモス」などが暫く人間と同時代に生活して居たことは、石器時代の原人が遺した彫刻にその繪のあるのを見ても確に知られる。

[やぶちゃん注:「印度産とアフリカ産との象」インド産は、

アフリカ獣上目長鼻(ゾウ)目ゾウ科アジアゾウ属アジアゾウ亜種インドゾウ Elephas maximus indicus

で、アフリカ産は、

ゾウ科アフリカゾウ属アフリカゾウ Loxodonta Africana

を指す。たまには子供向けに両者の違いを示す。

 

アフリカゾウは、

 ・耳が大きな三角形を成す

 ・鼻先の上下に突起を有する

 ・頭頂部が平たい

 〇前足の蹄(ひづめ)が四つで後ろ足が三つ

 ・肩と腰が有意に盛り上がっていて背中は窪んでいる

 ♂♀ともに前方にカーブした牙を持ち、では三メートル以上に延びる

 

のに対し、インドゾウを含むアジアゾウ(アジアゾウ属 Elephas )では、

 

 ・耳が小さな四角形を成す

 ・鼻の尖端は上だけに突起を有する

 ・頭頂部は左右に二つのピークを持つ

 〇前足の蹄は五つで後ろ足が四つ

 ・背中が丸い

 牙は極めて短く、には牙がないこともある

 

点である(以上は「富士サファリパーク」公式サイト内の「アフリカゾウとアジアゾウの比較」を参照した)。

「人間の現れる前の時代には今の象よりも更に大きな象の種類が澤山にあり、その分布區域も熱帶から寒帶まで擴がつて居た」ウィキの「ゾウ目」によれば、『長鼻類は、すでに絶滅した原始的な哺乳類のグループである顆節目(かせつもく) Condylarthra から分岐したと考えられる』。『化石は古第三紀初期』(五千万年以上前)まで『遡ることができ、現在知られる最古のものとして、モロッコの暁新世層から出土したフォスファテリウムがある。とはいえ、最近の遺伝子などを基にした研究では長鼻類はじめアフリカ獣類に含まれる哺乳類は白亜紀には顆節目を含む北方真獣類とは既に分岐していた独自グループであるとの説も有力になりつつある。これによれば長鼻類含むアフリカに起源をもった有蹄草食哺乳類達(現生のものは長鼻目、海牛目、岩狸目)は祖先を共有する一群とされ、これは近蹄類と呼ばれる。更にこの中でも長鼻目と海牛目の両者は、より近縁同士であるとみられ、これらをまとめてテティス獣類と呼ぶ。化石から知られる初期の長鼻類が、初期の海牛類同様に水陸両棲傾向が強い(現在で言えばカバのような)植物食動物であったとみられることも、この見方を補強している。『』当時、アフリカ大陸はテチス海によって他の陸地(ユーラシア)から隔てられており、長鼻類を含むアフリカ獣類は、この隔絶された大陸で、独自の進化を遂げた』。『始新世には、アフリカのヌミドテリウム、バリテリウム、モエリテリウム(メリテリウム)、インド亜大陸(当時、インドはテチス海を挟みアフリカに近い位置にあった島大陸だった)のアントラコブネ類など、非常に原始的な長鼻類が何種か知られている。これらは遠浅で温暖な海であったテチス海の海岸沿いを中心に棲息していたと思われる。始新世末期から漸新世にかけて、長鼻目はデイノテリウム亜目(ダイノテリウム亜目)と、現生のゾウ類に連なるゾウ亜目とに分岐した』。『中新世になると、新しい造山運動によってテチス海が分断され、アフリカとヨーロッパが地続きとなった。長鼻類はこのときにできた陸橋を通って、分布域を広げた。世界各地に数十種に及ぶ長鼻類が分布し、中新世は長鼻類の最盛期となった』。二つの『亜目のうち、デイノテリウム類は、アジア・ヨーロッパに分布域を広げ、中新世から更新世にかけて繁栄したが、更新世に姿を消した。その特徴は、下あごから湾曲しながら腹側後方へ伸びる、独特の牙(門歯の発達したもの)にあった』。『デイノテリウム類には肩高』四メートルに『及ぶものもあり、インドリコテリウムに次いで、史上』二番目に『サイズの大きな陸生哺乳類とされることもある』。『一方、ゾウ亜目は中新世以降、著しく発展した。プラティベロドンやアメベロドンなどのシャベルキバゾウがこれに含まれる。系統関係はまだ議論の途上にあるが、漸新世にマムート科(マストドン類)』(mammutidae)『が分岐し、中新世に基幹的なグループとして、やはり下あごのシャベル状の牙を特徴とするゴンフォテリウム科が派生した。ゴンフォテリウム類は非常に繁栄し、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、北アメリカに広く分布していた。日本からもアネクテンスゾウ、ミヨコゾウ、センダイゾウなどが発掘されている。また、ステゴドン科とゾウ科は、このゴンフォテリウム科からさらに分化したものと考えられる。鮮新世以降まで存続したゾウ亜目のグループでは、一般的にサイズの著しい大型化が見られる』。最新の知見では、現生種のゾウに似た種は、二千六百万年ほど『前に現れたと考えられるようになった。これらの種の進化は、主に頭骨とあごの比率および牙と大臼歯の形状に関わるものであった。初期のゾウ類の多くは、上下のあごに』一対ずつ、計四本の短い牙をもっていた。中新世後期(約七百万年前)に『ゴンフォテリウム類から生じたと考えられるプリムエレファスは、マンモス類と現代のゾウ類の直接の祖先に当たるとされる。』約五百万年前に『世界的な寒冷化が始まると、ほとんどの長鼻類はこれに適応できず、多くの種は絶滅した』。『氷河期にも、現生ゾウ類によく似たマンモスやマストドンのような寒冷化に適応した種が少なからず存在したが、人類による狩猟が盛んになった更新世を迎え、その多くが絶滅している。特に更新世の末期、地球の急速な温暖化が進行したこともあってか、寒冷化に適応していた種は完全に姿を消した』。『古生物学者たちは、およそ』百七十種の『化石種を長鼻目に分類している』とある。

「マンモス」アフリカ獣上目ゾウ目ゾウ科ゾウ亜科アジアゾウ族マンモス属 Mammuthus に属する絶滅種群。ウィキの「マンモス」によれば、『現生のゾウの類縁だが、直接の祖先ではない』。約四百万年前から一万年前頃(絶滅時期は諸説ある)までの『期間に生息していた。巨大な牙が特徴で、種類によっては牙の長さが』五・二メートルに『達することもある。日本では、シベリアと北米に生息し太く長い体毛で全身を覆われた中型のケナガマンモス』(Mammuthus primigenius)『が有名だが、実際にはマンモスは大小数種類あり、シベリア以外のユーラシア大陸はもとより、アフリカ大陸・アメリカ大陸に広く生息していた。特に南北アメリカ大陸に生息していたコロンビアマンモスは、大型・短毛で、かつ最後まで生存していたマンモスとして有名である』。最古のマンモスは約五百万~四百万年前の『北アフリカにおいて生まれたと考えられて』おり、七百万~六百万年前に『アフリカゾウ属(Loxodonta から、「インドゾウとマンモスの共通の祖先」が分岐した。さらに』六百万~五百万年前に、『その「インドゾウとマンモスの共通の祖先」から、アジアゾウ属 Elephas)とマンモス属 Mammuthus)に分岐した』。Mammuthus subplanifrons は、約四百万~三百万年前に『生息したとされる最古のマンモスの一種で、南アフリカ共和国、ケニヤなどから化石が出土している。チャド、リビア、モロッコ、チュニジアで見つかった Mammuthus africanavus も最古期のマンモスと信じられ、一説に』約四百八十万年前に『生存したとされるが、出土したのは臼歯と牙のみであり、これら「最古のマンモス」については異論もある』。約三百万~二百五十万年前、『アフリカからヨーロッパに北上して移住する過程で、マンモスは新しい種 Mammuthus meridionalis を誕生させた。さらに、アジア、シベリアを経て』、約百五十万年前には『北米大陸まで広がった。当時シベリアとアラスカの間にベーリング海峡は存在せず陸続き(ベーリング地峡)だったため、自由に往来ができた』。『更新世末期にあたる』約四万年前から数千年前の間に『多くの大型哺乳類と共にマンモスは絶滅した。最後のマンモスは』紀元前一七〇〇年頃、『東シベリアの沖合にある北極海(チュクチ海)上のウランゲリ島で狩猟されたという説が提起されている』。『原因は未確定であるが、有力な仮説として氷河期末期の気候変動に伴う植生の変化を原因とする説がある』。約一万年前に『氷河期が終わり高緯度地域の気温が』十度程度『上昇した。この温暖化以前のシベリアは乾燥した大地で柳やイネ科の草が生息する草原が広がっていた。シベリアで発見されたマンモスの胃の内容物からイネ科の植物がマンモスの主食であり、他にキンポウゲ科やヨモギ類などを食べていたと推測される。ところが温暖化に伴って湿潤化し、一年の半分は大量の雪が降り積もる植物の生育に適さない大地へと変貌していった。マンモスの食料となる草木は激減し、マンモスもシベリアから消えていった、というストーリーである』。『その他の有力な仮説としては、ヒトの狩猟の対象になったことを原因とするものがある。アメリカ大陸に』一万年前後から『人類が進出した。人類がマンモスハンティングに使用したクロビス石器が登場する』一万一千年頃と『相前後してマンモスは地上から姿を消し始める。シミュレーションによれば、アメリカ大陸に人類が進出して』八百年ほどで『マンモスは絶滅している。子供を一度に』一頭しか『うまない大型動物であるマンモスは狩猟圧に弱い動物である』。『また、アメリカ大陸のコロンビアマンモスの化石の検証から伝染病説が最近の有力な仮説として提唱されている。これはアメリカ大陸でマンモスの化石と一緒に発見された矢じり(人間による狩猟の証拠)は全体で』七件しか『ないにもかかわらず、病変と見られる大腿骨の変形が』八割近くの『化石で確認されていることによる。この伝染病の原因は人間が連れてきた家畜であり、そのため人類がアメリカ大陸に上陸した直後にマンモスは絶滅したが、決して人類の狩猟のみによって絶滅したのではないという説である。上記のほかに』、約四万年前の『超新星爆発によって絶滅したとする説も存在する』。『ただし、ウランゲリ島』(北極海、東シベリア海とチュクチ海との間にあるロシア領の島)『でのマンモスの絶滅については、最新の研究で人類の到達する』約百年前に『マンモスが絶滅していたと考えられること、遺伝的多様性も維持されていたという調査結果から環境の緩やかな変化や狩猟によってではなく、巨大な嵐、細菌、ウィルスといった突発的な事件によってマンモスは絶滅したのではないかという説も出されている』。二〇一二年五月九日発行の「英国王立協会紀要」に『史上最小のマンモス』(肩高百二十センチメートル、体重三百十キログラム)がクレタ島で三百五十万年前まで『生息していたという研究が発表された』。また、『寒冷地には今なおマンモスが生息可能な環境があるとされ、近代に古生物として認知される以前から目撃情報がある』として、一五八〇年に『シベリアで山賊退治の騎士達が毛の生えた大きな象を目撃』、一八八九年にはアラスカで体高六メートル、体長九メートルのマンモスを射殺し、当該個体は六本もの牙を持っていたという。二十世紀初頭になっても、一九二〇年、『シベリアのタイガ地帯で猟師が巨大な足跡と糞を発見、足跡を追ううちに巨大な牙と赤黒い毛を持つ象を発見』と記す。こういう記載があるから、ウィキペディアは好き!

『我が國でもこれまで處處から「マンモス」その他の象の化石、犀の化石、素性のわからぬ大獸の頭骨などが掘り出された』」先のウィキの「マンモスによれば、日本では十三点の化石が発見されており、その内、十二点が北海道での発見で、残り一点は島根県日本海の海底約二百メートルから引き揚げられた標本であるとする。『加速器分析計による放射性炭素年代測定が行われ』、八点が測定可能で、得られた結果は約四万八千年前から二万年前までであった。これらの結果から、約四万年前より古い化石と約三万年前より新しい年代を示す化石に分けられ、約三万五千年前あたりを『示す化石はなかった。マンモスに替わってナウマンゾウが生息していた時代ではないかと推測されている』とある。ウィキの「ナウマンゾウによれば、ゾウ科パレオロクソドン属ナウマンゾウ  Palaeoloxodon naumanni は、肩高二・五メートル~三メートルで、『現生のアジアゾウと比べ、やや小型である。氷河期の寒冷な気候に適応するため、皮下脂肪が発達し、全身は体毛で覆われていたと考えられている。牙(切歯)が発達しており、雄では長さ』約二百四十センチメートル、直径十五センチメートルほどに『達した。この牙は小さいながらも雌にも存在し、長さ』約六十センチメートル、直径は六センチメートルほどであった。『最初の標本は明治時代初期に横須賀で発見され、ドイツのお雇い外国人ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann』(一八五四年~一九二七年:東京帝国大学地質学教室初代教授)『によって研究、報告された』。その後、大正一〇(一九二一)年には、『浜名湖北岸、遠江国敷知郡伊佐見村佐濱(現在の静岡県浜松市西区佐浜町)の工事現場で牙・臼歯・下顎骨の化石が発見された』。『京都帝国大学理学部助教授の槇山次郎は』、大正一三(一九二四)年に『それがナルバダゾウ Elephas namadicus の新亜種であるとしてこれを模式標本とし、日本の化石長鼻類研究の草分けであるナウマンにちなんで Elephas namadicus naumannni と命名した。これにより和名はナウマンゾウと呼ばれることになった』。戦後の昭和三七(一九六二)年から昭和四十年まで、長野県野尻湖で実施された四次に亙る『発掘調査では、大量のナウマンゾウの化石が見つかった。このときまでナウマンゾウは熱帯性の動物で毛を持っていないと考えられていたが、野尻湖発掘により、やや寒冷な気候のもとにいたことが明らかになった』。昭和五一(一九七六)年には、『東京の地下鉄都営新宿線浜町駅付近の工事中』、地下約二十二メートルのところから三体の『ナウマンゾウの化石が発見された。この化石は浜町標本と名付けられ、頭蓋や下顎骨が含まれている。出土地層は』約一万五千年前の『上部東京層で』、『他にもナウマンゾウの化石は、東京都内だけでも田端駅、日本銀行本店、明治神宮前駅など』二十箇所以上で『発見されている』。また、一九九八年のこと、『北海道湧別町東芭露(ひがしばろう)の林道沿いの沢で奇妙な形の石を隣村から山菜取りに来ていた漁師が発見』、『湧別町教育委員会に寄贈した。同委員会は札幌の北海道開拓記念館に石(化石)の調査を依頼した。北海道ではマンモスは』六~四万年前に、ナウマンゾウは約十二万年前に『生息していたと考えられていたので』、約三万五千年前の『マンモスの臼歯化石であると発表された。しかし』、二〇〇二年に『琵琶湖博物館の鑑定でナウマンゾウのものであり、北海道でもマンモスと入れ替わりながらナウマンゾウが生息していた新しい事実が明確になった』とある。後の「犀の化石」というのは不詳。体長三メートルほどの現生種スマトラサイに近縁と考えられているサイの新種で、本邦で化石が出、ウマ目サイ科スマトラサイ属ニッポンサイ Dicerorhinus nipponicus と命名された種の、化石発見は昭和四一(一九六六)年のことである。戦前にサイの化石発見があったという事実に行き当たらなかった(本書の初版の刊行は大正五(一九一六)年)。識者の御教授を乞う

「ブラジルの或る地方から掘り出された一種の虎の化石では上顎の牙の長さが三〇糎程もある」獣亜綱ネコ目ネコ亜目ネコ科マカイロドゥス亜科スミロドン属 Smilodon の所謂、「サーベルタイガー」のことであろう。ウィキの「スミロドンによれば、『新生代新第三紀鮮新世後期から第四紀更新世末期』の約三〇〇万~十万年前の『南北アメリカ大陸に生息していたサーベルタイガーの一種』で、一般に「サーベルタイガー」と呼ばれた中でも『最後期に現れた属である。アメリカ大陸間大交差によって北アメリカから南アメリカに渡った一種』。体長は一・九~二・一メートル、体高一~一・二メートルであるが、『南アメリカに進出したグループの方がより大型であった』。「サーベルタイガー」の名の元となる二十四センチメートルにも『及ぶ牙状の長大な上顎犬歯を持つ』。『この犬歯の断面形状は楕円であり、後縁は薄く鋸歯状になって』おり、『これは強度と鋭利さを兼ね備えた構造であり、獲物にこれを食い込ませる際の抵抗は小さくなっている。また下顎は』百二十度まで『開き、犬歯を効率よく獲物に打ち込むことができた』。『しかし、この犬歯は現生のネコ科の様に骨を噛み砕ける強度は持っておらず、硬い骨にぶつかるなどして折損する危険を回避するため、喉元の気管など柔らかい部位を狙ったと推定される』。『前肢と肩は非常に発達しており、獲物を押さえ込んだ上で牙を打ち込むのに適した形態であった。また発達した肩は、牙を打ち込む際の下向きの強い力を生み出す事が出来たとされる』。『しかし一方、発達した前肢に比べて後肢が短く、ヒョウ属の様な現代のネコ科の大型捕食者ほど素早く走ることは出来なかったとされる。そのためマンモスのような動きの遅い大型動物やマクラウケニアなどの弱った個体や幼体を群れで襲い、捕食していたと考えられている。群れを形成していた事の傍証としては、怪我をして動けない個体が暫く生きながらえていたという例が挙げられる。これは、他の個体から餌を分け与えられていたものと推測されている』。『スミロドンの食性については、大きく発達した犬歯をもつため、柔らかい肉や内臓のみを食べたとする説のほか、上下の顎を噛み合わせる事が困難であるから獲物の血を啜ったとする説』、『スカベンジャー(腐肉食者)とする説もある』が、『スミロドンの骨格には獲物と戦った際についたとおぼしき損傷の跡が見られるものも多いことから、プレデター(捕食者)であったとする説が主流である』。『大型の犬歯と発達した前肢は、確かに大型獣を捕殺するのに極めて適応した形態であった。しかしながら走行という面においては、走行と捕殺の機能を高次に兼ね備えた新しいタイプの捕食者に大きく水をあけられてしまう事を意味した。地球が寒冷化し、大型草食獣が減少しつつある時代においては、かれらは時代遅れの存在となっていた』。タールピット(自然に出来たタールの池)に『嵌った獲物を狙い、自らも沼に脚を取られて死んだとおぼしき化石も発見されている』。『絶滅時期にはヒトはまだアメリカ大陸に進出していないので、間接的にヒトの影響があったとする説には根拠がない』とある。

「鹿などの類にも隨分大きな種類があつて、左右の角の南端の距離が四米以上に達するものもあつた」ここで丘先生が出されたのは、獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科シカ亜科メガロケロス属Megalocerosの仲間、或いは同属オオツノシカ Megaloceros giganteus のこと。ウィキの「オオツノシカより引く。二百万年前~一万二千年前『(新生代第三紀鮮新世後期 - 第四紀更新世末)のユーラシア大陸北部に生息していた大型のシカ。オオツノジカとも記される。マンモスや毛サイと並んで氷河期を代表する動物として知られる。和名はこの属の特徴である巨大な角の後枝から。学名も同様に「巨大な枝角」を意味する。なお、日本で発掘されるヤベオオツノシカ(Sinomegaceros yabei)は別属別種であり、単にオオツノシカと呼ぶ場合は大陸産の本種を指す』。最大の個体では肩高約二・三メートル、体長三・一メートルに『達した大型のシカ。その名の通り巨大な角を持つ。角の差し渡しは最大』三・六メートル以上、重量は五十キログラムを『超えるといわれる。この角を支えるため、首筋から肩にかけての筋肉が発達していた。この角は発情期において性的ディスプレイ及び闘争の手段として使われたと思われる。それによって傷を負い、動けなくなって餓死したと思われる個体の化石も発見されている。現生のヘラジカも大型の角を持つが、両者の類縁は遠い』。『旧石器時代の壁画にかれらの姿が描かれている。おそらく人類の狩の対象になったと思われる』。『ヨーロッパからアジアの中北部に生息。特にアイルランドの泥炭地帯から多数化石が発見されている。そのため、かつてはアイルランドオオツノシカなどとも呼ばれた。氷河周辺の草地や疎林などで暮らしていたと思われる』。『長野県野尻湖では、ナウマンゾウとならび、数多くの化石が発見されている』(下線やぶちゃん。学術文庫版ではここはメートルではなく『二間』となっており、これは三・六三六メートルでぴったり一致する)。

「怪獸」私は面白いと思うのだが、丘先生がこの言葉を本書で使ったのはここが何と初めてである。]

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