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2016/03/23

北條九代記 卷之八 將軍家御臺逝去 付 左近大夫時賴泰村が館を退き歸る 竝 時賴泰村和平

      ○將軍家御臺逝去

         左近大夫時賴泰村が館を退き歸る

         時賴泰村和平

さる程に、左近大夫時賴は、如何にもして、泰村が野心を宥(なだ)め、世を靜めばやと思はれければ、先づ泰村が次男、駒石丸(こまいしまる)を時賴の養子たるべき旨、約諾あり。されども、泰村愈(いよいよ)兄弟獨歩(どくぼ)の威(ゐ)を施し、將軍家の嚴命を用ひず、無禮にして、奢(おごり)に長じ、兄弟一族等(ら)が振舞、諸人、彈指(つまはじき)をぞ致しける。かゝる所に、去ぬる五月十三日、將軍賴嗣の御臺所、卒(そつ)したまふ。日比、御惱(なやみ)重かりければ、大法祕法、醫針灸治(いしんきうぢ)、樣々術(じゆつ)を盡すといへども、更にその驗(しるし)なく、終に、はかなくなり給ふ。今年まだ十八歳、花の僅(わづか)に綻(ほころ)びて、盛(さかり)を待つだに遙(はるか)なるを一朝の嵐(あらし)に散落ちて、憂き世の歎(なげき)を殘し給ふ。故武藏守経時の墓の傍(かたはら)に埋み奉りけるこそ悲しけれ。御一族の愁傷は申すも中々愚(おろか)なり。時賴、御輕服(ごけいふく)にて、若狹前司泰村が亭に寄宿し給ふ。同二十七日に至(いたつ)て、三浦の一族殘(のこり)なく、泰村が家に群集(つどひあつ)る。時賴の御前に、伺候(しこう)するにもあらず、拜禮を遂(とぐ)るにもあらで、奥深く居寄(ゐよ)せて、額(ひたひ)を合せて、私評(さゝやき)けるこそ覺束(おぼつか)なけれ。夜に入りて、鎧(よろひ)、腹卷(はらまき)の音、耳もとに聞えけり。日比、逆心の企(くはだて)有る由、告知(つげしら)する人多しといへども、差(さし)て信用なきの所に、今、既に符合せりと思合(おもひあは)せ、侍一人に太刀を持(もた)せ、潛(ひそか)に本所に歸り給ふ。泰村、大に驚き、寢食を忘れて案居(あんじゐ)たり。翌日、夜に入りて、時賴の方より、近江〔の〕四郎左衞門尉を使として三浦が許に遣(つかは)され、氏信、行向(ゆきむか)うて伺見(うかゞひみ)るに、若狹前司親類一族、面々に兵具を用意し、弓矢、旗棹(はたざを)、鎧櫃(よろひびつ)、數を盡して竝べたり。氏信、かくと案内しければ、泰村、出合ひて、仰(おほせ)の旨を承り、さて御返事と思しくて、申しけるは、「この間、世上物騷(ぶつさう)の事、泰村が身の上と覺え候。泰村が兄弟、皆、他門の宿老に越(こえ)て、正五位〔の〕下に叙せられ、その外の一族共(ども)、大概は官位を帶(たい)し、守護職數ヶ國、莊園數千町、三浦一家の榮運、こゝに極り、上天の加護、測難(はかりがた)し。讒訴(ざんそ)の愼(つゝしみ)なきに非ず。口惜くこそ候へ」といひければ、氏信、聞きて、「如何に、左樣には思召し候やらん。御料(おんとが)なき趣(おもむき)は、靜に申させ給ふべし。御一族の御中に、何か隔(へだて)の候べき」とて座を立ちて出でければ、泰村、送りて出られ、「宜しきやうに申させ給へ」とて内に入りけり。氏信、歸りて、用意の次第、悉く申入れたり。時賴は舊老の輩(ともがら)に密談して、愈(いよいよ)用心嚴(きびし)くぞせられける。翌日未明(びめい)より、近國の御家人等(ら)、馳參(はせさん)じて、時賴の館(たち)の四方、雲霞の如く打圍(かこ)み、非常を誡(いまし)め、門々を堅めて、守護しけり。若狹前司泰村、この由を聞きて、時賴の方へ使を立てて申しけるは、閭巷(りよかう)の謳歌、他人の讒濫(ざんらん)に付けて、泰村が一家親屬(しんぞく)、無實の科(とが)を蒙る事、恐(おそれ)なきにあらず。毛頭(まうとう)の野心を存せずといへども、催(もよほ)し給ふ所、頗(すこぶ)る物騷(ぶつさう)なり。只深く本(もと)を正(たゞ)され候べし。御不審、晴れられ候はば、國々の御家人等を、追返し給ふべきなり。若(もし)、又、他の上を誡(いまし)めらるべき事あらば、御大事、如何にも貴命(きめい)に隨ひ奉るべき旨をぞ、申し送りける。泰村、内々相催す事あるに依て、三浦の一族、諸国の領所より、追々に馳參る。時賴の御方には、當時、伺候の輩は云ふに及ばす。諸方の御家人等、日を追ひて參重(まゐりかさな)りて、鎌倉中に充滿す。同五日、時賴は、萬年馬(まんねんうまの)入道、平左衞門入道盛阿(じやうあ)を以て、御書を泰村に遣さる。「世上の物騷、只事にあらず。偏(ひとへ)に天魔の所爲(しよさ)なるべし。貴殿を誅伐(ちうばつ)せしむべき構(かまへ)あるの由、更に非據(ひきょ)の雜説(ざふせつ)なり。この上は、日來(ひごろ)、別心あるべからず。今、何ぞ、怨を起すべきや」とて誓言(せいごん)を加へて送られけり。盛阿入道、和平の子細を述(のべ)しかば、泰村は御書を讀みて喜悦の餘(あまり)、三度頂戴して、返事の趣、具(つぶさ)に申渡(まうしわた)しければ、和平、既に調ひ、盛阿、座を立ちて歸參しけり。三浦の郎従等は安堵の思(おもひ)を致して、喜ぶ事、限(かぎり)なし。然れども、泰村が舍弟光村、家村、彌(いよいよ)心奢(おご)りて野心を捨(すつ)る事なし。運命の招く所、力及ばぬ次第なりと眉を顰(ひそ)むる計(ばかり)なり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十八の宝治元(一二四七)年五月六日・十三日・二十一日・二十七日・二十八日、六月一日・二日・三日・四日・五日などに基づく。

「駒石丸」結局、宝治合戦で自刃しているようである。

「將軍賴嗣の御臺所」第五代将軍藤原頼嗣の正室であった檜皮姫(ひわだひめ 寛喜二(一二三〇)年~宝治元(一二四七)年)。北条泰時長男であった北条時氏の娘で母は松下禅尼。北条経時・時頼の妹であった。この二年前の寛元三(一二四五)年七月二十六日、十五歳で六歳の新将軍頼嗣の正室として嫁がさせられている。ウィキの「檜皮姫」によれば、『この婚姻成立によって、頼経の正室・竹御所の死後に失われた北条氏の将軍家外戚の地位を復活させた』とあるが、『時頼が執権職を継いで将軍派との対立が激化する中、檜皮姫は病床に伏し、加持祈祷の甲斐なく』死去したとある。当時の頼嗣は未だ満七歳の少年である。

「故武藏守経時の墓の傍(かたはら)に埋み奉りける」将軍家正室とはいえ、実際には未だ少女で処女であったろうから、別格である泰時以外に強い血縁者の墳墓がなく、兄の墓に側墓されたものであろう(何となくでも確かに「悲しけれ」という感じがする)。その墓所も今や失せているから(恐らくは現在の鎌倉文学館のある谷戸と推定される)……

「輕服(けいふく)」正しくは「っきやうぶく(きょうぶく)」と読む。通常は遠縁の者などの死去によって生ずる軽い服喪、及び、その期間中に着用する略式の喪服を指す。既に述べた通り、檜皮姫は時頼の妹であって近親であるが、そこは将軍家の正室という格の相違が働き、厳重に服喪するのは却って分不相応であったものかも知れない。

「若狹前司泰村が亭に寄宿し給ふ」時頼の、この見え透いた行動こそが、私が時頼を生理的に嫌いな理由の核心にある。ここでは数日間、時頼が三浦邸にいたように読めるが、「吾妻鏡」によれば、寄宿しに入ったのは五月二十七日で、その日の夜のうちに、逃げ出しているのである。

「腹卷」勘違いしてはいけない。これは鎧の一種で、最も簡便にして軽量な造りでありながら腹部が細くなって身体に密着し、腰から下を防御する草摺も細かく分かれて、足の自由が大鎧等に比べて、各段によく、白兵戦に適合した動き易い実用第一の鎧である。暗殺される拝賀の式の早朝、かの大江広元が、不審にも涙まで流して、実朝に対し、装着して行かれるのがよろしいと突如言ったのもこの「腹巻」であった。お暇な方は、藪野史(ふびと)いクソ小説「雪炎」を御笑覧あれ。

「侍一人に太刀を持せ、潛に本所に歸り給ふ」何で! 物騒で警護厳重なはずの三浦邸からコッソリ(!)脱出、出来るんダイ! 嘘コケ! 因みに、三浦屋敷は八幡宮の東北の現在の横浜国大附属が建っている附近、御所の「西御門」(現在地名がこれ)に相当する場所にあった。従って近いちゃあ、ごく近いんである。デモネ……どうもこの話、如何にも嘘つっぽい謀略の感じが、ひどく嫌いなんだよなぁ……

「翌日」誤り。事実は三日後の六月一日(「吾妻鏡」に記載有り)。寄宿は五月二十七日であるが、同寛元五年の五月は小の月で二十九日で終るからである。

「近江四郎左衞門尉」は「氏信」と同一人物。佐々木氏信(承久二(一二二〇)年~永仁三(一二九五)年)のこと。ウィキの「佐々木氏信」によれば、『佐々木氏支流京極氏の始祖であり、京極 氏信(きょうごく うじのぶ)とも。父は佐々木信綱、母は北条義時の娘とされる』。承久二(一二二〇)年、『後に近江の守護へと任ぜられる佐々木信綱と、その正室である執権北条義時の娘との間に』四男として『生まれたとされる。母は武蔵国河崎庄の荘官の娘とする説もある』。仁治三(一二四二)年に『父が死去し、江北に在る高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡と京都の京極高辻の館を継ぐ。これにより子孫は後に京極氏と呼ばれるようにな』った。この後の文永二(一二六五)年には『引付衆、翌年には評定衆に加わり』、弘安六(一二八三)年には『近江守へと任ぜられ』た。『鎌倉の桐ヶ谷(きりがや)にも住んでおり、桐谷(きりたに)氏とも呼ばれた』とある。

「莊園數千町」誤り。「吾妻鏡」には「數萬町」とある。面積単位の一町は〇・九九ヘクタールでほぼ一ヘクタールに近いので、数万ヘクタールと言い変えてよい。東京ドームは四・七ヘクタールだそうだから、仮に六万ヘクタールとすると、ドーム一万二千八百三十三個分弱になる。

「靜に申させ給ふべし」兵や武具を集めるのではなく、穏やかに言葉で潔白を御弁明なされれば宜しゅう御座いましょう。

「御一族の御中」北条得宗家と御一族の御仲であられますのですから。

「何か隔の候べき」時頼様がどうして貴殿を遠ざけ、隔てること、これ、御座いましょうや? 御座いませぬ。

「舊老」古くからの家臣連。

「翌日」六月二日。

「閭巷(りよかう)の謳歌」鎌倉の巷(ちまた)に於ける喧(かまびす)しい落首のような節をつけてがなる諷刺歌。具体的には三浦への罵詈雑言、悪口(あっこう)である。

「他人の讒濫」他人が三浦一族を陥れるためにする洪水のように流れ溢れる讒言の数々。

「只深く本(もと)を正(たゞ)され候べし」どうか、ただただお願い致しまするは、ただ一つ、このような一触即発の異常極まりない事態となっている大本(おおもと)、その原因を、糺され、お確かめになって下さいまするように。

「他の上を誡(いまし)めらるべき事あらば、御大事、如何にも貴命(きめい)に隨ひ奉るべき」私ではない、誰か他の幕府に弓成す豪族を誅伐なさらねばならない――そのために異様な数の御家人が我が屋敷はおろか、鎌倉中に参集しているというのであるならば――我ら三浦一族挙げて、その不届き者誅殺の御大事のために、御命令に喜んで従い申し上げて、兵を挙げまするので、御命令下されい。

「同五日」六月五日。

「萬年馬(まんねんうまの)入道」得宗被官の一人であるらしい以外は不詳。

「平左衞門入道盛阿(じやうあ)」平盛綱。既出既注であるが、再掲する。平盛綱(生没年不詳)は得宗家家司で後の内管領長崎氏の祖。ウィキの「平盛綱」によれば、『執権が別当を兼ねる侍所の所司を務める。承久の乱や伊賀氏の変の処理において実務能力を発揮して北条泰時・経時・時頼ら鎌倉幕府執権の北条氏に家司として仕え』て、三代の執権を助けた。『承久の乱の後に幕府の「安芸国巡検使」として安芸国に赴き、同国国人の承久の乱当時における動静を調べて泰時に報告したことなどは、その事跡の一つである』。元仁元(一二二四)年には『泰時の命令を受けて北条氏の家法を作成したとされる。御成敗式目制定の奉行も務め、初の武家成文法の制定に関与し』ている。文暦元(一二三四)年には『家令の地位に就いて、後世その子孫が幕府内管領の長崎氏として発展する礎を築いた』。仁治三(一二四二)年に出家隠退、「吾妻鏡」によれば建長二(一二五〇)年の三月には既に逝去していることが知られているものの、詳細は不明。後、第九代執権北条貞時によって正応六(一二九三)年四月に滅ぼされた平頼綱(平禅門の乱)は彼の孫である(頼綱の滅亡後は同一族の長崎光綱が惣領となり、得宗家執事となった。鎌倉幕末期に権勢を誇った長崎円喜はその光綱の子に当たる)。

「更に非據(ひきょ)の雜説(ざふせつ)なり」(三浦が北条得宗家を攻めようとしているといった)流言飛語は全く以って根拠のない、妄説デマゴークである。

「別心あるべからず」貴殿(三浦泰村)に背くような気は毛頭あろうはずが、ない。

「今、何ぞ、怨を起すべきや」今ここで、何の理由があって、何の目的で、貴殿に恨みを抱くはずがあろうか?! いや、ない!

「泰村は御書を讀みて喜悦の餘、三度頂戴して、返事の趣、具(つぶさ)に申渡(まうしわた)しければ、和平、既に調ひ、盛阿、座を立ちて歸參しけり」「三度頂戴」三度も押し戴いて。かなり有名な話だが、このまやかしの和平交渉が確かに成立したかのように見えたその日(実は三浦一族滅亡の日であった)、泰村は食べかけていた朝飯の湯漬けを、緊張のあまり、グェーと吐いた、とされる(次の章で「吾妻鏡」の原文を示すが、五日の条にそれが出る)。]

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