北條九代記 卷之八 伊具入道射殺さる 付 諏訪刑部入道斬罪
○伊具入道射殺さる 付 諏訪刑部入道斬罪
正嘉元年二月二十六日、相州時賴入道の嫡子正壽丸、七歳にして、將軍家の御所に於て元服あり。武蔵守長時以下、一門御家人、参集(まゐりつど)ふ。親王將軍家、即ち、宗の字を下されて、時宗と號せらる。同八月十六日、將軍家鶴ヶ岡八幡宮に御社參あり。馬場の流鏑馬(やぶさめ)以下、例の如く行はれ、既に還御ありければ、日暮れて黃昏(くわうこん)に及び、燈(ともしび)を取る比になりて、伊具(いぐの)四郎入道、今日、供奉の役を勤めて、山〔の〕内の家に歸る所に、建長寺の門前にして、射殺(いころ)されたり。誰とは知らず、蓑笠を著(き)て、馬に乘たる人、下部(しもべ)一人、召倶(めしぐ)して、伊具〔の〕入道が左の方より行違(ゆきちが)ひて通りしが、田舍より鎌倉に參る人と覺えし。かくて伊具は馬より落て、一言(ごん)をも云はず、その儘、死にけるを、郎從、驚きて引越(ひきおこ)さんとするに、大の矢に當りけりとは知られけり。鏃(やじり)に毒を塗りて射込みたりと見えて、五躰の支節(つぐぶし)、離々(はなればなれ)になりて、石瓦(いしかはら)を袋に入(いれ)たる如くなり。相州時賴入道に訴へければ、諏訪(すはの)刑部左衞門入道を召捕(めしと)りて、對馬前司氏信(うぢのぶ)に預けらる。平判官康賴入道が孫、平内左衞門尉俊職(としもと)、牧(まきの)左衞門入道等が一味同意の所爲(しよゐ)なりと風聞す。諏訪入道、陳(ちん)じ申しけるは、「昨日(きのふ)、平内左衞門、牧左衞門入道兩人、某(それがし)の家に會合(くわいがふ)して、終日(しうじつ)、酒宴し、物語致して、門より外へは出で申さず。爭(いかで)この事を存すべき」と兩人を證據(しようこ)に立てたり。平内俊職、牧入道を召して問(とは)るゝに、確(たしか)に證人に立ちたりければ、是非の理(ことわり)、明難(あきらめがた)し。然るに、日比、御評定の義あるに依(よつ)て、諏訪〔の〕刑部入道が古(いにしへ)の所領の地を召上(めしあげ)て、伊具に付けられしかば、諏訪と伊具と不會(ふくわい)して、互(たがひ)に物をも云はざりけり。この上、又、「射殺(いころ)したる矢束(やづか)の延びたると、射(い)やうの品と頗る世の常の所爲(しよゐ)にあらず、手垂(てだれ)の射手の業(わざ)と覺ゆ。諏訪が所爲、疑(うたがひ)なし」と評定あり。諏訪が下部(しもべ)を捕へて、水火の責(せめ)に及び、強く拷問して、「汝が主の刑部入道、既に白狀しけり。この上は何か隱すべき、落ちよ落ちよ」と責(せめ)しかば.、下部なれども忠義ありて申すやう、「諏訪殿は斯樣の拷問に恥をかくよりは、科(とが)を負うて死せんと思ひて白狀せられ候ひぬらん。我等は下﨟(げらう)なれば、拷問の恥をも痛まず。知ぬ事をば爭(いかで)か申すべき。諏訪殿、既に白狀し給ひなば、重(かさね)て我等を拷問せられても詮(せん)なき事か」と申ける程に、慥(たしか)には知難(しりがた)し。相州時賴入道、竊(ひそか)に、諏訪〔の〕刑部入道一人を御前に召され、直に仰ありけるは、「伊具入道が殺されし事、御邊(ごへん)の所爲(しよゐ)なる申、下部の高太郎、白狀せし上は、疑(うたがひ)なき事なり。去りなから、その子細を有(あり)の儘に申さるべし。品(しな)に依りて、御命の事は申宥(まうしなだ)めて助け參(まゐら)せん」とありければ、その時、諏訪人道、涙を流して申しけるは、「是、日比、宿意(しゆくい)あるに依(よつ)て、今は堪忍(かんにん)も成難(なりがた)く、隙(ひま)を狙ひて、かく仕りて候」とぞ申しける。時賴、聞給ひ、「神妙(しんべう)に候。如何にも御前を申調へて見候はん」とて、奥に入り給ひ、不敏ながらも天下の法令なれば力なし、同九月二日、諏訪〔の〕刑部入道は首を切られ、平内左衞門尉は、薩摩方(がた)、硫黃(いわう)ゲ島へ流され、牧(まきの)入道は、伊豆國にぞ流し遣されける。
祖父(おほぢ)康賴は、俊寛等と同じく硫黃ヶ島に流され、孫の平内俊職、此所(こゝ)に流されたりしは、定(さだめ)て因緣(いんえん)あるらめと思合(おもひあは)せて覺束(おぼつか)なし。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻四十七の康元二(一二五七)年二月二十六日、及び、巻四十八の正嘉二(一二五八)年八月十六日・十七日・十八日と、九月二日等に基づく。私の好きな「吾妻鏡」中の犯罪事件記録の一つである。
「相州時賴入道の嫡子正壽丸」「しやうじゆまる(しょうじゅまる)」は、後の第八代執権となる北条時宗(建長三(一二五一)年弘安七(一二八四)年)の幼名。
「同八月十六日」誤り。翌正嘉二(一二五八)年八月十六日。
「山〔の〕内の家に歸る所に、建長寺の門前にして」若い頃、「吾妻鏡」でこの部分を読んだ時には、この暗殺事件の現場を、勝手な自身の印象から、ロケーションを亀ヶ谷坂切通で想定していた。何故なら、建長寺門前に降りる当時の旧巨福呂坂切通(現行の切通の西の高い峰を越えるルート)は、雪の下方向からの登りがかなりきつく道幅も狭いからである(亀ヶ谷坂も亀がひっくり返るぐらいだからきついことはきついが)。しかし乍ら、今回、現場を再考してみると、伊具の屋敷がどこにあったか不明ながら、山ノ内の亀ヶ谷坂を越えて、また建長寺方向に戻ったところにあるというのは頗る不自然である。亀ヶ坂から普通に言う山ノ内地区へは左折するか、そのまま北へ向かうとしか考えにくいのである。即ち、亀ヶ谷坂を登って「山ノ内」に帰るには「建長寺門前」は通らないのである。ここは旧巨福呂坂切通を想定するしかない。同切通しも殺人現場となった建長寺門前では相応にかなり広かったとも推定出来る。
「伊具(いぐの)四郎入道」名不詳。伊具流北条氏の一門とは思われる。ウィキの「北条氏 (伊具流)」によれば、第二代執権北条義時四男の北条有時を祖とし、有時が得宗領として『陸奥国の伊具郡』(陸奥国(後に磐城国)で現在も宮城県の郡名として残る)『を領有したことから伊具流を創設した』。『有時は義時の側室の所生であり、また病のために政治活動を引退したことから、伊具家は要職就任者を出す家の中での家格は低く、多くの子孫の中で幕府要職に就いたのは有時の子・通時の子である斎時のみであった。その他には』「建治三年記」十二月十九日の『条で、六波羅探題評定衆に「駿河次郎」という人物があり、駿河守であった有時の一門、伊具家の人物であると見られている』とあるのみ。
「蓑笠を著て、馬に乘たる人、下部一人、召倶して、伊具入道が左の方より行違ひて通りしが、田舍より鎌倉に參る人と覺えし」これについては、「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条の注で、『伊具の所従が』、向こうからやって来る主従二人を、『田舎から来た人と思ったのは「右側通行」しているからであろう。武器の主体が刀ではなく弓なので、平和時には』弓手(ゆんで:左手)ではなく、馬手(めて:右手)に『相手を置く「左側通行」が一般的であったのだろう』という非常に鋭い注が附されてある(下線やぶちゃん)。
「支節(つぐぶし)」読みは原本もママ。節々。関節の接ぐ節々(ふしぶし)の謂いである。「石瓦(いしかはら)を袋に入たる如くなり」というのは、全身の筋肉部が硬直を示し乍らも、しかも全身の関節部は逆にぐだぐだになっているという症状を示すようである。ともかくも即効性の非常に強力な神経毒(シナプス遮断か)が用いられたことを指しているように私には思われるが、毒物の特定は私には出来ない。識者の御教授を乞う。
「諏訪(すはの)刑部左衞門入道」名不詳。得宗被官で御内人の泰時の側近、法名の「蓮仏」の名で「吾妻鏡」に多出する諏訪盛重の遠い血縁者か?
「對馬前司氏信」佐々木氏信(承久二(一二二〇)年~永仁三(一二九五)年)のこと。既出既注であるが、再掲する。ウィキの「佐々木氏信」によれば、『佐々木氏支流京極氏の始祖であり、京極
氏信(きょうごく うじのぶ)とも。父は佐々木信綱、母は北条義時の娘とされる』。承久二(一二二〇)年、『後に近江の守護へと任ぜられる佐々木信綱と、その正室である執権北条義時の娘との間に』四男として『生まれたとされる。母は武蔵国河崎庄の荘官の娘とする説もある』。仁治三(一二四二)年に『父が死去し、江北に在る高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡と京都の京極高辻の館を継ぐ。これにより子孫は後に京極氏と呼ばれるようにな』った。この後の文永二(一二六五)年には『引付衆、翌年には評定衆に加わり』、弘安六(一二八三)年には『近江守へと任ぜられ』た。『鎌倉の桐ヶ谷(きりがや)にも住んでおり、桐谷(きりたに)氏とも呼ばれた』とある。
「平判官康賴入道」平康頼(久安二(一一四六)年~承久二(一二二〇)年)は信濃権守中原頼季の子。官位は六位・左衛門大尉。最後は後白河法皇の近習として北面に仕えた。ウィキの「平康頼」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『明法道(法律)の家柄である中原氏に生まれる。十代で平保盛(平清盛の甥)の家人となる。保盛は長寛元年(一一六三年)正月二十四日付で、越前国の国司に任ぜられており、十八歳の康頼も越前国に派遣されて、この頃に主君から平姓の賜与を受けたと思われる。保盛は仁安元(一一六七)年』、『尾張国の国司に転任し、康頼を目代に昇格させて派遣した』。『尾張国知多郡野間の荘には平治の乱で敗走の途中に相伝の家人により湯殿で非業の死を遂げた源義朝(源頼朝の父)の墓があったが、誰も顧みる者も無く荒れるに任せていた。康頼はこの敵将の墓を修理して堂を立て、六口の僧を置き不断念仏を唱えさせ、その保護のために水田三十町歩を寄進した。もちろん、国司・保盛の許可を得てしたことであろうが、当時、この噂は京にも聞こえ後白河上皇の耳にも達して、平康頼なる人物は目代ながら、武士道の礼節をわきまえた頼もしい若者との深い印象を与え、近習に取立てた。また清盛はじめ平家一門の人々からも、敵将の墓を修理して保護した康頼を、武士の鑑、一門の名を高めたとして好評判であった。任官と同時に、上皇の近習にとり立てられ半月もたたない仁安四年(一一六九年)一月十四日、後白河上皇十二回目の熊野参詣には、早くも近習として供を命ぜられている』。また、嘉応元(一一七〇)年四月二十日、『後白河上皇は、平清盛と同伴で東大寺に参詣したが、康頼ら七人の衛府役人が随行している。また後白河上皇は今様を非常に愛好しており、多くの公家や官人にも教えていたが、康頼も門弟の一人で、しかも美声で声量もあり、抜きん出た歌い手であった。その点でも、上皇から特に目をかけられていたようである。検非違使・左衛門大尉に任ぜられ、平判官と称した』。『安元三年(一一七七年)六月には、鹿ケ谷の山荘で藤原成親・西光・俊寛らの平家打倒の密議に参加。しかし、多田行綱の密告により策謀が漏れて康頼も捕縛され、俊寛・藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流された』。(鹿ケ谷の陰謀)平家物語によると、『信仰心の厚かった康頼は配流にあたり出家入道し性照と号した。配流先で京を懐かしむ日々の中、成経と康頼は千本の卒塔婆に望郷の歌を記し海に流すことを思い立つ。一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着き、これに心を打たれた平清盛は赦免を行う。治承二年(一一七八年)に赦免船が来島し、成経と康頼は赦免され京へ戻るが、俊寛は許されなかった』。『平家滅亡後、文治二年(一一八六年)には源頼朝によって、阿波国麻殖保』(おえのほう)の保司(ほうし:国衙領の一種である「保(ほう)」を管理する在庁官人)『に任命され』、
康頼は『京より三人の家人を』伴って、森藤(現在の徳島県吉野川市鴨島町森藤(もりとう)と思われる)の『地に下向した。康頼はすでに四十一歳になっていた』。『康頼は承久二年(一二二〇年)頃、自らの生涯七十五年間におきた出来事を記録し、一通を京都の雙林寺へ送り、一通は玉林寺に残し、その年に大往生した』。方一丁(かたいっちょう)の土地、通称、一町地(いっちょうじ)で(以上の読みは私の推定)『火葬される。遺言で家人の鶴田氏が康頼神社を建て』(徳島県吉野川市鴨島町森藤に「康頼神社」として現存する)、『主君を神として祀り』、『代々祭司を務めた。康頼神社の脇に墓がある。遺骨は分骨されて、京都東山の雙林寺にも埋葬された。康頼神社の脇に三基の五輪塔があるが、康頼の母、康頼、俊寛の三人のものという。清盛の怒りが解けず、鬼界が島に一人残された俊寛は、数年後に都から、はるばる訪ねて来た弟子の有王の世話をうけながら、自ら絶食して生命を絶った。有王は主人を火葬して骨を持ち帰り、高野山に埋葬したが、康頼はその分骨をゆずり受けて、壇の下に葬ったとも言われている』とある。
「平内左衞門尉俊職」ウィキの「平康頼」には(アラビア数字を漢数字に代えた)、前注のかれの祖父である康頼の嫡男『平清基は承元年中に保司職を継承した。鎌倉三代将軍・源実朝が死去する頃には、幕府は執権の北条氏が頼朝以来の有力な御家人・門葉を排除し、実権を掌握していた。後鳥羽上皇は諸国の広大な荘園を再び取り返そうと、全国の武士に北条義時追討の院宣を下した。上皇側の予想に反し思うように兵は集まらず、圧倒的な鎌倉の大軍を支えることが出来ず、それぞれの国元へ逃げ帰った。この戦いで阿波の佐々木経高と高重の父子は討死して果て、六百余の兵のほとんどは阿波へ帰らなかった。阿波国に対しては佐々木氏に代わって、小笠原長清を阿波守に任じた。長清は阿波へ入り居城を攻め、ほとんど兵のいない鳥坂城は炎上し、経高の二男高兼は城を捨て山中に逃げたが、小笠原氏は高兼の生存を許さなかったため、一族と家臣達が百姓となって、この地に住む事を条件に、自ら弓を折り腹を切って自害した。神山町鬼篭野地区にある弓折の地名は、高兼が弓を折って自害した所で、同地に多い佐々木姓は、かっての阿波守護職、近江源氏佐々木経高の後裔達であるといわれる。一方、麻植保では清基が保を没収され、保司職を解任された。そして清基に代わって小笠原長清の嫡男・小笠原長経が阿波の守護代及び、麻植保の地頭に補任された。理由は清基が麻植保の兵をつれて、佐々木氏に従って上皇軍に加わっていたというのである。事実清基は、承久の乱に上京していたが、上皇軍には加わらなかったと申し立て、保司を解任されたのを不服として、長経と論争をおこし、無実を鎌倉へ訴えて、長経と対決裁判をした。長経の申し状によれば、清基は承久三』(一二二一)『年夏、上皇方へ加わるために上京し、和田朝盛と共に戦場へおもむいたと申し立て、証拠の書状などを提出した。これに対して清基は、叔父の中原仲康が、和田朝盛と朋友であったから対面したが、かの兵乱には自分はもとより、麻植保の衆も参加していないと主張した。しかし長経の提出した証拠の仲に、清基から経高に出した手紙があり、軍に加わる内容が書かれていたため、裁判の結果は清基が破れた』。その清基の子で康頼の孫に当たる、この平俊職は、官職を失い、『浪々の身となり京に出たが、承久の乱の敗者には仕官先もなく、賊徒の輩と徒党を組み、伊具四郎を毒矢で射殺し捕らえられた。首謀者の諏訪刑部左門は斬首となり、俊職と牧左衛門は、昔、祖父の康頼が流されていた鬼界ヶ島に流されて消息を絶ち、森藤の平家は絶家した』とある(下線やぶちゃん)。しかし気になるのは「吾妻鏡」に、彼がアリバイ工作に加担して処罰される理由として彼が『公人(くにん)』でありながら、そうしたおぞましい犯罪に加担したことを挙げていることである。中世に於ける「公人」とは、①朝廷に仕えて雑事をした下級役人/②幕府の政所・問注所・侍所 などに属して雑事をした下級職員/③大社寺に属して雑事をした者を指すが、ここで唐突にただ『公人』とぽつんと言った場合、これはもう、②の幕府の下級官吏としか読めない。とすると、俊職は犯行当時、上記引用のような無官の浪人だったのではなく、下級職ではあっても、れっきとした幕府の役人であったと考えるのが正しい。とすれば、それなりの家格の所属であったと考えるのが至当で、であるからこそ、とんでもなく遠い硫黄島配流という重罰が下されるのだと考えねばならぬ。ともかくも何とも、謂い難く、哀れでは、確かに、ある。
「牧(まきの)左衞門入道」不詳ながら、牧氏は第一代執権北条時政の後妻牧の方の実家の家筋である。即ち、実はこの事件の被害者も複数の加害者(主犯一人及び下僕を含む共犯三人)も実は総てが個人(或いはその直の家系)が、これ、皆、北条氏被官であった可能性が頗る高いのである。さればこそ、「吾妻鏡」にも事件の経緯と経過及び処断までが細かく書かれているのではないか? だからこそ、この私怨による事件の初動捜査が即座に行われ(被疑者逮捕は事件発生の翌日で重要参考人聴取も同日)、被疑者とその共同正犯とも疑われる下僕の拷問を含む本格的尋問が二日目、解決が異様にスピーディに行われているのではないか? と私は思うのである。
「不會」仲違(なかたが)いして、会おうともしないこと。不和。
「矢束(やづか)延びたること」射殺に用いた矢の長さが半弓(後の「吾妻鏡」で注するが、流鏑馬を演ずる弓の名手たる伊具が油断して警戒しなかったのは、馬上の蓑をつけた男(実は狙撃者)が弓を持っているようには見えなかったことによる)から放たれたとは通常では考えられないほど、異様に長いものであること。
「射(い)やうの品と頗る世の常の所爲(しよゐ)にあらず」物理上の異様な矢の長さだけでなく、そうした定式外の普通でない矢を射た状況も、下僕の証言から見て、普通の人間の弓の射方では到底、考えられないこと。
「手垂(てだれ)の射手」よほどの弓の名手。されば被疑者である諏訪は当時、世評にあってもとんでもない弓の名人として知られていた人物なのであろう。
「諏訪殿は斯様の拷問に恥をかくよりは、科(とが)を負うて死せんと思ひて白狀せられ候ひぬらん。我等は下﨟(げらう)なれば、拷問の恥をも痛まず。知ぬ事をば爭(いかで)か申すべき。諏訪殿、既に白狀し給ひなば、重(かさね)て我等を拷問せられても詮(せん)なき事か」――主人諏訪殿は『このような非道にして屈辱的な拷問を受けて恥をかくよりは、無実であってもその冤罪を負うて死んだ方がましだ』とお思いになって、偽りの、冤罪の「白状」をなさったに違い御座いません。我らは、このような下郎なれば、如何なる拷問をも恥と思うことも、痛くも苦しいとも思うことなど御座いませんし、それで嘘偽りを吐こうとも思いませぬ。知らぬことを、どうして知っているなどと申すことが出来ましょうや! さらに申すなら、主人諏訪殿が、まっことこれ、既にして白状しなさったとするのならば、重ねてこのように、下賤の我らを拷問にかけたとて、これ、何の意味も御座らぬではありませぬか?!――
「下部の高太郎」「吾妻鏡」にこの名で出る。
「品(しな)に依りて」その申し分を聴き、場合によっては。
「御命の事は申宥(まうしなだ)めて助け參(まゐら)せん」増淵勝一氏の訳では、『死罪の件は考慮するように(評定衆に)申して助け申そう』とある。
「宿意」恨み。
「薩摩方(がた)、硫黃ゲ島」現在の薩南諸島北部に位置する島で、鹿児島県鹿児島郡三島村の大字硫黄島。一説に前に出した俊寛。康頼らが流された薩摩国鬼界ヶ島に同定されてもいる。
「覺束(おぼつか)なし」その悪業の因縁を考えると何とも厭な感じがして不快で、淋しい。
以下、「吾妻鏡」正嘉二(一二五八)年の本件に関わる条を順に引く。
○原文
八月大十六日壬辰。雨降。將軍家御參鶴岳宮寺。馬場流鏑馬以下儀如例。事終還御。相州禪室自御棧敷令還給之後。及秉燭之期。伊具四郎入道歸山内宅之處。於建長寺前被射殺訖。著蓑笠令騎馬之人。相具下部一人。馳過伊具左方。自田舍參鎌倉之人歟之由。伊具所從等存之。落馬之後知中于矢之旨云々。塗毒於其鏃云々。
○やぶちゃんの書き下し文
十六日壬辰。雨、降る。將軍家、鶴岳宮寺に御參。馬場の流鏑馬以下、儀例のごとし。事終りて還御す。相州禪室、御棧敷(さじき)より還りらしめ給ふの後、秉燭(へいしよく)の期(ご)に及んで、伊具四郎入道、山ノ内の宅へ歸るの處、建長寺の前に於いて射殺され訖んぬ。蓑笠を著し、騎馬せしむるの人、下部(しもべ)一人を相ひ具し、伊具が左方を馳せ過ぐ。『田舍(ゐなか)より鎌倉へ參るの人か』の由、伊具が所從等、之れを存ず。落馬の後、矢に中(あた)るの旨を知ると云々。毒於其の鏃に塗ると云々。
・「相州禪室」北条時頼。
・「秉燭(へいしよく)の期」「燭」を「秉 (と) る」(取る)の意で、火の点し頃。夕刻。同日はグレゴリオ暦に換算すると九月二十一日である。例えば今年二〇一六年九月二十一日の横浜の日没は五時四〇分である。事件発生はその前後と読める。
○原文
十七日癸巳。天晴。依伊具殺害之嫌疑。虜諏方刑部左衞門入道。所被召預對馬前司氏信也。亦平内左衞門尉俊職〔平判官康賴入道孫。〕。牧左衞門入道等。同意令露顯云々。是昨日。件兩人々數會合于諏方。終日傾數坏凝閑談。而諏方伺知伊具歸宅之期。白地起當座。馳出路次射殺之後。又如元及酒宴云々。今日。被相尋之處。差昨日會衆。爲證人依論申子細。又被問兩人。各一旦承伏云々。此殺害事。人推察不可覃之處。以諏方舊領被付伊具之間。確執未止歟。其上云箭束云射樣。已揚焉。頗越普通所爲。依之嫌疑御沙汰出來云々。
○やぶちゃんの書き下し文
十七日癸巳。天、晴る。伊具殺害の嫌疑(けんぎ)に依つて、諏方(すはの)刑部左衞門入道を虜(とら)へ、對馬(つしまの)前司氏信に召し預けらるる所なり。亦、平内(へいないの)左衞門尉俊職(としもと)〔平(たいらの)判官(はんがん)康賴入道が孫。〕・牧(まきの)左衞門入道等(ら)が同意露顯せしむと云々。
是れ、昨日、件(くだん)の兩人の人數(にんず)、諏方に會合(くわがふ)し、終日、數坏(すはい)を傾け、閑談を凝(こ)らす。而して諏方、伊具の歸宅の期(ご)を伺ひ知りて、白地(あからさま)に當座(たうざ)を起ち、路次(ろし)へ馳せ出でて射殺すの後、又、元のごとく、酒宴に及ぶと云々。
今日、相ひ尋ねらるるの處、昨日の會衆(くわいしゆ)を差して、證人と爲(な)し、子細を論じ申すに依つて、又、兩人に問はる。各々、一旦、承伏すと云々。
此の殺害の事、人の推察、覃(およ)ぶべからざるの處、諏方が舊領を以つて伊具に付らるるの間、確執(かくしふ)、未だ止まざるか。其の上、箭束(やつか)と云ひ、射樣(いやう)と云ひ、已に揚焉(けちえん)なり。頗る普通の所爲(しよゐ)に越ゆ。之れに依つて、嫌疑の御沙汰、出來(しゆつたい)すと云々。
・「白地(あからさま)に」突然に。
・「路次」道筋。諏訪(諏方)の屋敷は建長寺から程遠からぬ位置にあったのであろう。
・「子細を論じ申す」非常に細かく弁解しては無実を訴える。
・「一旦、承伏す」参考人招致して尋問したところ、直ちに諏訪の証言通りに一緒に酒盛りをしており、中座などはしなかった旨の証言をした。
・「掲焉(けちえん)」著しいさま・目立つさまで、ここはよほどの弓術の手練れの仕業であることは明白であることを断言した表現。なお、「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条の注及び須川益雄氏のサイト「日本の武器兵器」の半弓その他の記載を参考にすると、当時の大弓は二メートル十三センチほどもあり、これではすれ違った際に、伊具に弓を持って狙っていることが美濃から上下孰れかが突き出てしまって伊具に判ってしまうことから(伊具も流鏑馬を演じる弓の名手であることを忘れてはいけない)、使用した矢は異様に長いものの、弓自体は『半弓と思われる』(「歴散加藤塾」注)とある。なお、「半弓」と言っても、実際に半分の長さなのではなく、長さは一メートル六〇センチと本弓の四分三程度の長さがあり、矢長は約七十二センチメートル(大弓(本弓)の矢は凡そ一メートル)である。或いは、諏訪はこの半弓で、しかも一メートル前後の異様に長い大弓用の矢を敢えて狙撃用として使用したものかも知れない。でなければ捜査官が「異様に長い矢」とは言わないと思うのである。]
○原文
十八日甲午。天晴。諏方刑部左衞門入道被召置之。雖被加推問。敢不承伏。所本執。仍召取所從男〔號高太郎。〕被推問之。任法之處。屈氣不能言。結句相誘之。主人已令獻白狀畢。爭可論申哉之由。奉行人雖盡問答。件男云。主人者兼而顧糺問之恥辱。仍申歟。於下﨟之身者。更不痛其恥。任實正所論申也。但主人白狀之上。不及重御問歟云々。
○やぶちゃんの書き下し文
十八日甲午。天、晴る。諏方刑部左衞門入道、之れを召し置き、推問を加へらると雖も、敢へて承伏せず。本より執(しふ)する所なり。仍つて、所從の男(をのこ)〔高太郎と號す。〕を召し取り、之れを推問せらる。法に任するの處、氣を屈して、言ふに能はず。結句、之れを相ひ誘(こしら)へ、
「主人、已に白狀を獻(けん)ぜしめ畢んぬ。爭(いかで)か論じ申すべけんや。」
の由、奉行人、問答を盡くすと雖も、件(くだん)の男、云はく、
「主人は兼ねて糺問の恥辱を顧(かへりみ)る。仍つて申すか。下﨟の身に於ては、更に其の恥を痛(いた)まず。實正(じつしやう)に任せ論じ申す所なり。但し、主人白狀の上は、重ねて御問に及ばざらんか。」
と云々。
・「執する」意固地になって冤罪を主張する。
・「法に任する」当時の合法的とされた拷問を加えたことを示す。
・「氣を屈して」拷問によっても、一切吐かず、逆にすっかり体力・気力を失ってしまい。
・「相ひ誘(こしら)へ」「相ひ」は対象のあることを示す接頭語で、「こしらへ」は「宥(なだ)めすかす」「懐柔する」であるが、ここは既にお分かりの通り、主人が自白したという嘘を述べて、彼から共犯者である自白、或いは、犯人の近くにいたことの秘密の暴露に相当する証言を引き出そうとする違法(これは当時でも拷問とセットになってしまっては違法の謗りは免れまい)な取り調べを行ったのである。
・「實正(じつしやう)」(私が知っている、見たままの)確かなこと。偽りや間違いのない事実、真実の状況。
この後には「吾妻鏡」では以下八月の無関係な記事が三日分載る。次の九月二日の条は、この八月が大の月(三十日)だから、前の八月十八日からは凡そ半月、十四日後となる。
○原文
二日戊申。終日終夜雨降。暴風殊甚。今日。諏方刑部左衞門入道所被梟罪也。此主從共以遂不進分明白狀。爰相州禪室被廻賢慮。以無人之時。潛召入諏方一人於御所。直被仰含曰。被殺害事被思食之上。所從高太郎承伏勿論之間。難遁斬刑之旨。評議畢。然而忽以不可終其身命之條。殊以不便也。任實正可申之。就其詞加斟酌。欲相扶之云々。于時諏方且喜抑涙。果宿意之由申之。禪室御仁惠雖相同于夏禹泣罪之志。所犯既究之間。不被行之者。依難禁天下之非違。令糺断給云々。又平内左衞門尉。牧左衞門入道等流刑。就中俊職爲公人與此巨惡之條。殊背物義之間。被配流硫黄島云々。治承比者。祖父康賴流此島。正嘉今。又孫子俊職配同所。寔是可謂一業所感歟。
○やぶちゃんの書き下し文
二日戊申。終日終夜、雨、降る。暴風、殊に甚し。今日、諏方刑部左衛門入道、梟罪(けうざい)せらるる所なり。此の主從、共に、以つて遂に分明の白狀を進ぜず。爰(ここ)に相州禪室、賢慮を廻らされ、人無(ひとな)きの時を以つて、潛かに諏方一人を御所へ召し入れ、直(ぢき)に仰せ含められて曰はく、
「殺害(せつがい)せらるる事、思し食(め)さるるの上、所從、高太郎、承伏、勿論の間、斬刑(ざんけい)を遁れ難きの旨、評議し畢んぬ。然れども、忽(たちま)ちに以て、其の身命(しんみゃう)を終(お)ふべきの條(ぜう)、殊に以つて不便(ふびん)なり。實正(じちしやう)に任せ、之れを申すべし。其の詞(ことば)に就き、斟酌(しんしやく)を加へ、之れを相ひ扶(たす)けんと欲す。」
と云々。
時に諏方、且つは喜びて涙を抑(おさ)へ、宿意を果すの由、之れを申す。禪室の御仁惠、夏禹(かう)、罪に泣くの志しに相ひ同じと雖も、犯す所、既に究(きは)まるの間、之を行はれずんば、天下の非違(ひゐ)を禁(いまし)め難きに依つて、糺断せしめ給ふと云々。
又、平内左衞門尉・牧左衞門入道等、流刑す。
就中(なかんづく)に、俊職は公人、爲(ため)に此の巨惡に與(くみ)するの條、殊に物義(ぶつぎ)に背くの間、硫黄島(いわうじま)へ配流被ると云々。
治承の比(ころ)は、祖父康賴、此の嶋に流され、正嘉の今、又、孫子(まご)俊職、同所へ配せらる。寔(まこと)に是れ、一業所感(いちがふしよかん)と謂ひつべきか。
・「夏禹(かう)、罪に泣く」は、伝説の夏の聖王禹が、犯罪者を罰するに際しても、憐れんで涙を流した、という故事に基づく謂い。「説苑」(ぜいえん:前漢の劉向の撰(編)に成る故事説話集)の「君道」などに載る。……しかし……時頼は「禹」ほどにゃあ、共感出来ねえな! おらぁ、やっぱ、時頼は大(でえ)嫌(きれ)えだ!!!]
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