進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第一章 進化論とは何か(5) 五 説明には尚議論あること / 第一章 進化論とは何か~了
五 説明には尚議論あること
前に述べた通り、生物進化の事實は多少生物學を修めた者より見れば最早決して疑ふべからざるものであるが、生物進化の起るは如何なる理由によるかと其の原因を尋ねると、之に對する説明はまだ決して十分なものとはいはれぬ。生物進化の理由を説明しようと試みた人は、ダーウィン以前にも多少ないこともなく、ダーウィン以後には隨分多數にあつたが、その説く所は孰れも或る一部の事實には適するが到底生物進化の全部を説明するには足らぬ。それ故、今日と雖も多數の學者はこの不足を補はんがため、各々或る假説を考へ出して進化の理由を説明せんと試みて居るが、一方の事實が善く説明が出來るかと思へば、他の方で差支が出來たりして、中々滿足に行かず、甲の論者が或る假説を提出すれば、乙の論者は其の説の不都合なる點を擧げて、相辯じ相駁していつ形付くやら解らぬ有樣である。今日進化論者の相爭うて居る問題は一部は斯くの如き理論的のものであるが、之も如何に決着したとて一向生物進化の事實を左右する樣な結果を生ずることはない。恰も何故地球が圓いかといふ問題に對して學者間に如何に爭があらうとも、地球の圓いといふ事實には少しも影響を及ぼさぬと同じことで、たゞ適當な説の出るまでは生物進化の理由が十分に解らぬといふまでである。
斯くの如く生物進化の理由を説明するために、今まで人の考へ出した假説は種々あるが、今日の所、最も簡單で、最も多數の事實を明瞭に説明し、且差支の生ずる場合の最も少いと著者の考へるのは、やはりダーウィンの述べたままの自然淘汰の説である。ダーウィンの有名な著書「種の起源」が出版になつてから今年は已に六十七年にも成ること故、その間には隨分考を凝らした學者も多數になり、特に最近二十數年間には遺傳や變異に關する實驗研究の結果、種々の著しい事實が發見せられ、そのためまたもダーウィン説に對する學者仲間の考へが餘程變つて來た。併し著者は近來の著名な新説を悉く熟讀し判斷して見て、尚大體に於てはダーウィンの説を最も適切なりと考へるから、本書に於ては理論に關する部は略々ダーウィンの考へた如くに述べる積りである。六十七年前にダーウィンの説いた所といへば、如何にも古い説の如くに聞えるが、著者が最近に發見せられた事實や、最新の學説までを考へに入れて著者が、今日最も適切であると思ふ説を述べるのであるから、一面にはまた最も新しい説と見倣すことも出來よう。
[やぶちゃん注:既注であるが、「種の起源」(原題「On the
Origin of Species」)は一八五九年十一月二十四日(安政六年十一月一日相当)に出版されている。本書初版刊行の明治三七(一九〇四)年の僅か四十五年前のことで、本底本の刊行は大正一四(一九二五)年九月である。]
また最初に生物進化の證據となるべき事實を述べて生物進化の眞なることを明にし、次に之を解釋するための理論を説くのが順序であるかも知れぬが、斯くすると理論を説明するために再び前の事實を掲げる必要が生じ、實際に於て記事が重複する憂があるから、本書に於ては使宜上この順序を倒にし、先ず生物進化の原因に對するダーウィンの説を略述し、次に進化論の根本たる生物進化の事實を證明する積りである。
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