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2016/03/23

北條九代記 卷之八 御所追込の狼藉

      ○ 御所追込の狼藉

同十二月二十八日の暮方に、男一人、御所の臺所に走逃(はしりに)げて、徨(うろた)へたる有樣なり。跡より追續(おひつゞ)いて、太刀拔持(ぬきもゆ)て蒐入(かけい)りければ、有合せける下部共、「是(これ)はそも何者ぞ。御所の内に人を追込みて、狼藉を致す曲者かな」とて、上下騷動しける所に、晝番(ひるばん)伺候の侍の中に、松田彌〔の〕三郎常基をりあひて、「惡(にく)き奴原(やつばら)が振舞かな。喧嘩にもあれ科人(とがにん)にもあれ、御所の御内へ蒐入るこそ狼藉なれ。理非は後にたゞさるべし」とて蒐入ながら打伏せて、搦取(からめと)りて引出す。左近〔の〕將監時賴、この由を聞き給ひ、平左衞門尉、諏訪兵衞入道二人を差進(さししん)じて、事の子細を尋問(たづんと)はしめらる。追込みたりし者、申しけるは.「是は紀伊七郎左衞門尉重經が所從(しよじう)等(ら)にて候。某(それがし)が名をば藤太と申す者にて候。重經が丹後國宮津の所領より、運送の役(やく)を勤むる人夫(にんぷ)彦五郎と申す者、去ぬるころ、荷物財産を負ひながら、道より缺落(かけおち)仕り候。その行方を尋ね候所に、只今米町(こめまち)の邊にて、見合せければ、この者、逸足(いちあし)を出して、逃延(にげの)び候を、遁(のが)さじと思ふ所存計(ばかり)にて、時に臨んで度を失ひ、跡に付けて推參(すゐさん)仕りて候」とぞ申ける。彦五郎は陳(ちん)ずるに道なし。兩使、子細を聞届(きゝとど)け立歸りて、かくと申す。時賴、仰せけるは、「主人重經が自身の所爲(しよゐ)にはあらずといへども、郎等に心を入れて遣はす上は、狼藉の科(とが)は重經にあり」とて、丹後の所領を沒收(もつしゆ)せられ、郎等は追放(はな)ち、彦五郎は斬られけり。さても松田彌三郎、神妙(しんべう)の振舞なりと感ぜられ、太刀一振をぞ下されける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十七の寛元四(一二四六)年十二月二十八日の条に基づく。

「平左衞門尉」既出既注の内管領長崎氏の祖である平盛綱。

「諏訪兵衞入道」北条氏得宗被官の御内人諏訪盛重。法号を蓮仏と称した。

「丹後國宮津」現在の京都府宮津市一帯。

「缺落」運搬していた年貢(「吾妻鏡」に「所領德分物運送疋夫」(所領德分の物、運送の疋夫)とある。名は出ない)を奪取して逐電したことを指す。

「米町」「新編鎌倉志卷之七」の「大町〔附米町〕」の項に、

大町(をほまち)は、夷堂橋(えびすだうばし)と逆川橋(さかがはばし)の間(あいだ)の町なり。大町の四つ辻より西へ行く横町(よこまち)を、米町(こめまち)と云。大町・米町の事、【東鑑】に往々見へたり。

とある。この逆川橋は大町四ツ角(本文の「四つ辻」)から横須賀線を渡って材木座へと向かうと、朱色の魚町橋を渡った左側に路地があり、入ってすぐの所に架橋されている(「逆川」という名は、この滑川の支川が地形の関係からこの部分で大きく湾曲して、海と反対、本流滑川に逆らうように北方向に流れているために付けられたもの)。鎌倉幕府は商業活動への社会的認識の未成熟と要塞都市としての軍事的保安理由から、建長三(一二五一)年に御府内に於いては指定認可した小町屋だけが営業が出来るという商業地域限定制を採り、大町・小町・米町・亀ヶ谷の辻・和賀江(現在の材木座辺りか)・大倉の辻、気和飛坂(現・仮粧坂)山上以外での商業活動が禁止された。その後、文永二(一二六五)年にも再指定が行われて、認可地は大町・小町・魚町(いおまち)・穀町(米町)・武蔵大路下(仮粧坂若しくは亀ヶ谷坂の下周辺か)・須地賀江橋(現在の筋違橋)・大倉の辻とされている。

「逸足(いちあし)を出して」突然に駆け出して。

「陳ずるに道なし」一切、反論のしようがなかった。

「心を入れて遣はす」明確に追手を命じて追跡させた。

「科」御所への不法侵入罪と騒擾罪。

「松田彌三郎、神妙の振舞」下賤の者の御所侵入であるから、二人ともに有無を言わさず、斬り捨ててもよかったものを、殺さずに捕縛したことを指す。その結果として背後関係が明らかになり、郎等とは言え、主人の命に忠実に従った藤太の命は救われ、ただの追放で済んだからである。但し、「吾妻鏡」には藤太の名も処分内容も記されてはいない。名君とされ、能「鉢木」で知られる、隠居後に隠密に廻国したとさえするプレ時頼伝説ともいうべきとってつけたような、多分に創作的作為的な挿話のように私には見える。但し、実は隠居後の時頼は、「吾妻鏡」の記載を見る限り、鎌倉御府内を一歩も出た形跡はなく、鎌倉版水戸黄門の大嘘なんである!(序でに言っておくと、かの徳川光圀も生涯で旅したのは実はまさにこの鎌倉へのたった一回だけであったことを御存じか?! その成果がかの新編鎌倉志」なのである。リンク先の私の冒頭注を参照されたい)。そもそもが、時頼執権就任前後の「吾妻鏡」は時頼の正統性を保証するために書かれた創作とする考え方が現代では強く、私も強くそれを支持するものである。……まあしかし、「吾妻鏡」が創作とすれば、時頼の廻国があったとしても別段、いいわけで、論理矛盾を引き起こすことにはなるか?……だが逆に、立ち位置を変えて見れば、時頼遊行伝承(古くは「増鏡」「太平記」などに所収。但し、「鉢木」の話は載らず、恐らく完全なでっち上げ。そもそもが如何にもな話で嘘臭さがプンプンする)は寧ろ、時頼をよいしょするにはとってもイイ話であって、それを「吾妻鏡」に書かないのは却って竜頭蛇尾ということにもなる。だから、時頼のかの廻国伝承自体が南北朝以後に後付けで偽作創作されたものであることが判るとも言えよう。]

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