北條九代記 卷之八 三浦泰村權威 付 景盛入道覺地諷諫
〇三浦泰村權威 付 景盛入道覺地諷諫
三浦若狹前司泰村は、駿河守義村が嫡子にて、累世(るゐせい)の大名なり。北條泰時には婿(むこ)なり。一家の門葉なるに依(よつ)て、國家の政務を相談せらる。秋田城介(あいだのじやうのすけ)義景は、藤九郎盛長には孫なり。城介景盛入道覺地(かくぢ)が嫡子なりければ、家門に於いて人に恥ず。當時の執權時賴に親(したし)ければ、たがひに威(ゐ)を爭ひ、泰村、義景、兩人が中、快(こゝろよか)らず。このころ、北條相摸守重時は、久しく在京し、六波羅の成敗、西國の仕置(しおき)を勤め、政事に鍛錬(たんれん)ある故に、鎌倉に喚下(よびくだ)し、政務の事を談ずべき由、時賴、申されけれども、泰村、一向に許容せず。しかるに泰村は、時賴に親むやうに見えながら、舎弟光村、家村、以下の一族は、前將軍賴經を慕ひ參(まゐら)せ、時賴に野心を挾(さしはさ)むこと、色に顯(あらは)れて見えにけり。秋田城介景盛入道覺地は、年比、紀州高野山に居住し、この間、鎌倉に歸りて甘繩(あまなは)の家にあり。左近將監時賴の第(てい)に參りて、内々仰合(おほせあは)さるゝ旨あり。子息義景、孫の九郎泰盛を、覺地入道、呼寄(よびよ)せて、種々諷詞(ふうし)を加へける中に、「三浦の一族は、當時の威勢、肩を竝ぶる人なし。頗る傍若無人なり。某(それがし)が家に於ては、對揚(たいやう)にも及ぶまじ。内々思慮あるべき所に、子も孫も、同じ心に武道に怠りて遊興に陷り、うかうかとして月日を送る事、言語道斷の振舞なり。今、若、大事出來すとも、何の用に立つべしとも覺えず。世の笑種(わらひぐさ)となるより外の事、あるまじ。返(かへ)す返(がへ)すも奇怪なり」と申されしは、心ありける諷詞なり。義景も泰盛も、頭(かうべ)を※れ(うなだ)れて敬屈(けいくつ)す。潜(ひそか)に武具を用意せさせ、内々祕計(ひけい)を廻らしける。[やぶちゃん字注:「※」=(にんべん)+{(「つくり」の上部)「弓」+(「つくり」の最下部)「一」}。]
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十八の宝治元(一二四七)年四月十一日の条の他、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、「日本王代一覧」巻五、「将軍記」巻四、「保暦間記」も参照しており、湯浅氏は『三浦泰村と秋田城介義景と不仲のこと等は『日本王代一覧』に拠る。『保暦間記』にも、「其比、関東にも分に随て憍る類もあり。三浦の駿河守か子に、若狭守泰村と申は、時賴縁有けるに依て、憍を成す事夢双也。又、秋田城介義景も、さる子細有て権を執けり。二人中悪して、煩多かりけり」』とある、と記しておられる。
「北條泰時には婿なり」「婿」は不審。妹の婿ではある(あった)。今風に言うなら、姻族で義理の弟に相当する(但し、実年齢では一歳、泰時の方が上である)。泰時は三浦義村の嫡男であった泰村の妹である、矢部の禅尼(文治三(一一八七)年~康元(一二五六)年)が泰時の前の正室であって(離縁理由は不明)、彼女が生んだ時氏は泰時の長男で嫡子であり(但し、早世したために執権にはなっていない)、時氏が賢母として知られた正妻松下禅尼(これがまた安達景盛の娘であった)との間に産んだ長男が第四代執権経時で、次男が第五代執権北条時頼なのである。
「秋田義景」既注であるが、再掲しておく。安達義景(承元四(一二一〇)年~建長五(一二五三)年)は安達景盛嫡男で、子に安達泰盛(後注参照)、覚山尼(北条時宗室)がいる。参照したウィキの「安達義景」によれば、『義景の「義」の一字は義景が』一五歳の元仁元(一二二四)年に『没した北条氏得宗家当主鎌倉幕府第二代執権『北条義時からの拝領と思われ、義時晩年の頃に元服したと考えられている』。『義時亡き後は、北条泰時(義時の子)から経時と時頼三代の執権を支え、評定衆の一人として重用された。幕府内では北条氏、三浦氏に次ぐ地位にあり』、第四代将軍『藤原頼経にも親しく仕え、将軍御所の和歌会などに加わっている。この頃の将軍家・北条・三浦・安達の関係は微妙であり、三浦氏は親将軍派、反得宗の立場であるのに対し、義景は北条氏縁戚として執権政治を支える立場にあった』。『父・景盛が出家してから』十七年後、『将軍頼経が上洛した年に、義景は』二十九歳で「秋田城介」を継承した(本文の読みの「あいだ」は、「秋田」は古く「あきだ」「あくだ」等とも呼称したので、それが音変化したものか)。仁治三(一二四二)年、『執権・泰時の命を受けて後嵯峨天皇の擁立工作を行ない、新帝推挙の使節となった』。この「寛元の政変」で『執権北条時頼と図って反得宗派の北条光時らの追放に関与した。将軍家を擁する三浦氏と執権北条時頼の対立は、執権北条氏外戚の地位をめぐる三浦泰村と義景の覇権争いでもあ』ったため、宝治元(一二四七)年には『三浦氏との対立に業を煮やして鎌倉に戻った父景盛から厳しく叱咤されている。宝治合戦では嫡子・泰盛と共に先陣を切って戦い、三浦氏を滅亡に追い込んだ』。『時頼の得宗専制体制に尽力した義景は格別の地位を保ち、時頼の嫡子・時宗は義景の姉妹である松下禅尼の邸で誕生している。義景の正室は北条時房の娘で、その妻との間に産まれた娘(覚山尼)は時宗の正室となる。また、長井氏、二階堂氏、武藤氏など有力御家人との間にも幅広い縁戚関係を築いた』とある。当時三十七歳。
「藤九郎盛長」安達盛長は知る人ぞ知る頼朝配流以来の腹心中の腹心。
「城介景盛入道覺地」安達景盛(?~宝治二(一二四八)年)。法号は「覚智」とも。これも既注ながら再掲する。頼朝の直参安達盛長(保延元(一一三五)年~正治二(一二〇〇)年)の嫡男。以下、ウィキの「安達景盛」によれば、この事件を詳細に「吾妻鏡」が記録した背景には『頼家の横暴を浮き立たせると共に、頼朝・政子以来の北条氏と安達氏の結びつき、景盛の母の実家比企氏を後ろ盾とした頼家の勢力からの安達氏の離反を合理化する意図があるものと考えられる』とある(以下の引用ではアラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『建仁三年(一二〇三年)九月、比企能員の変で比企氏が滅ぼされると、頼家は将軍職を追われ、伊豆国の修禅寺に幽閉されたのち、翌年七月に北条氏の刺客によって暗殺された。景盛と同じ丹後内侍を母とする異父兄弟の島津忠久は、比企氏の縁戚として連座を受け、所領を没収されているが、景盛は連座せず、頼家に代わって擁立された千幡(源実朝)の元服式に名を連ねている。比企氏の縁戚でありながらそれを裏切った景盛に対する頼家の恨みは深く、幽閉直後の十一月に母政子へ送った書状には、景盛の身柄を引き渡して処罰させるよう訴えている』。『三代将軍・源実朝の代には実朝・政子の信頼厚い側近として仕え、元久二年(一二〇五年)の畠山重忠の乱では旧友であった重忠討伐の先陣を切って戦った。牧氏事件の後に新たに執権となった北条義時の邸で行われた平賀朝雅(景盛の母方従兄弟)誅殺、宇都宮朝綱謀反の疑いを評議する席に加わっている。建暦三年(一二一三年)の和田合戦など、幕府創設以来の有力者が次々と滅ぼされる中で景盛は幕府政治を動かす主要な御家人の一員となる。建保六年(一二一八年)三月に実朝が右近衞少将に任じられると、実朝はまず景盛を御前に召して秋田城介への任官を伝えている。景盛の秋田城介任官の背景には、景盛の姉妹が源範頼に嫁いでおり、範頼の養父が藤原範季でその娘が順徳天皇の母となっている事や、実朝夫人の兄弟である坊門忠信との繋がりがあったと考えられる。所領に関しては和田合戦で和田義盛の所領であった武蔵国長井荘を拝領し、平安末期から武蔵方面に縁族を有していた安達氏は、秋田城介任官の頃から武蔵・上野・出羽方面に強固な基盤を築いた』。『翌建保七年(一二一九年)正月、実朝が暗殺されると、景盛はその死を悼んで出家し、大蓮房覚智と号して高野山に入り、実朝の菩提を弔うために金剛三昧院を建立して高野入道と称された。出家後も高野山に居ながら幕政に参与し、承久三年(一二二一年)の承久の乱に際しては幕府首脳部一員として最高方針の決定に加わり、尼将軍・政子が御家人たちに頼朝以来の恩顧を訴え、京方を討伐するよう命じた演説文を景盛が代読した。北条泰時を大将とする東海道軍に参加し、乱後には摂津国の守護となる。嘉禄元年(一二二五年)の政子の死後は高野山に籠もった。承久の乱後に三代執権となった北条泰時とは緊密な関係にあり、泰時の嫡子・時氏に娘(松下禅尼)を嫁がせ、生まれた外孫の経時、時頼が続けて執権となった事から、景盛は外祖父として幕府での権勢を強めた』。ここに出る通り、『宝治元年(一二四七年)、五代執権・北条時頼と有力御家人三浦氏の対立が激化すると、業を煮やした景盛は老齢の身をおして高野山を出て鎌倉に下った。景盛は三浦打倒の強硬派であり、三浦氏の風下に甘んじる子の義景や孫の泰盛の不甲斐なさを厳しく叱責し、三浦氏との妥協に傾きがちだった時頼を説得して一族と共に三浦氏への挑発行動を取るなどあらゆる手段を尽くして宝治合戦に持ち込み、三浦一族五百余名を滅亡に追い込んだ。安達氏は頼朝以来源氏将軍の側近ではあったが、あくまで個人的な従者であって家格は低く、頼朝以前から源氏に仕えていた大豪族の三浦氏などから見れば格下として軽んじられていたという。また三浦泰村は北条泰時の女婿であり、執権北条氏の外戚の地位を巡って対立する関係にあった。景盛はこの期を逃せば安達氏が立場を失う事への焦りがあり、それは以前から緊張関係にあった三浦氏を排除したい北条氏の思惑と一致するものであった』。『この宝治合戦によって北条氏は幕府創設以来の最大勢力三浦氏を排除して他の豪族に対する優位を確立し、同時に同盟者としての安達氏の地位も定まった。幕府内における安達氏の地位を確かなものとした景盛は、宝治合戦の翌年宝治二年(一二四八年)五月十八日、高野山で没した』。彼については『醍醐寺所蔵の建保二年(一二一三年)前後の書状に景盛について「藤九郎左衞門尉は、当時のごとくんば、無沙汰たりといえども広博の人に候なり」とある。「広博」とは幅広い人脈を持ち、全体を承知しているという意味と見られ、政子の意志を代弁する人物として認識されていた。宝治合戦では首謀者とも目されており、高野山にあっても鎌倉の情報は掌握していたと見られる』。『剛腕政治家である一方、熱心な仏教徒であり、承久の乱後に泰時と共に高山寺の明恵と接触して深く帰依し、和歌の贈答などを行っている。醍醐寺の実賢について灌頂を授けられたという』。一方、当時から彼には頼朝落胤説『があり、これが後に孫の安達泰盛の代になり、霜月騒動で一族誅伐に至る遠因とな』ったと記す。……既出の頼長頼朝誤殺説といい、まあ、とんでもない親子ではある……。
「當時の執權時賴に親ければ」以上の姻族関係から時頼の母方の祖父が安達家の御大たる景盛「覺地」(覚智)であり、伯父(或いは叔父。松下禅尼の年齢が不詳なため)がこの安達泰景、その子、則ち、時頼の従兄弟が泰盛ということになる。しかも泰景の長女、泰盛の妹が潮音院殿(覚山尼(かくさんに))で、彼女は後に時頼嫡男である従兄弟の第八代執権時宗の正室となるのである。そうして面倒なことに、当時の三浦主家当主である三浦泰村は、時頼の父方の祖母の兄なのである。
「北條相摸守重時」(建久九(一一九八)年~弘長元(一二六一)年)は第二代執権北条義時三男で第三代執権泰時は異母兄。六波羅探題北方や鎌倉幕府連署などの幕府要職を歴任した。当時、満四十九歳。
「六波羅の成敗」六波羅探題は、承久の乱の戦後処理に始まり、西国御家人及び京の警備・朝廷監視・裁判処罰権を行使出来た機関である。但し、「成敗」には政務を執るというフラットな意味もある。
「西國の仕置」西国での諸事務・諸事件の処理・処置。
「鍛錬六波羅探題で西日本の政務一般を一手に引き受け、総てに亙って実務経験を積み、熟練していたことを指す。
「舎弟光村、家村」孰れも既出既注。
「前將軍賴經を慕ひ參せ、時賴に野心を挾むこと、色に顯れて見えにけり」これらのシークエンスは先行する章で既出。
「甘繩」現在の神奈川県鎌倉市長谷にある甘繩神明宮 (あまなわしんめいみや)近くに安達邸はあった。
「内々仰合(おほせあは)さるゝ旨」内々に密談・密約を交わしたことを指す。無論、三浦主家一族を根絶やしにせねばならぬことの説得と具体な謀議である。「吾妻鏡」にかく載るのであるが、密約したことが載り、三浦に対する軍事上の防衛行動に移れ! と、その子や孫を叱り飛ばした安達家の内輪のことまでが「吾妻鏡」に書かれていると言うこと自体、実に奇妙なこと、「吾妻鏡」の極度に高い創作性が窺われる部分である。
「九郎泰盛」安達泰盛(寛喜三(一二三一)年~弘安八(一二八五)年)は義景の子(三男であるが嫡子となった。当初から「九郎」と呼ばれているが、これは盛長以降の安達家嫡子の呼称である)。この後に秋田城介(あいだのじょうのすけ)を継ぎ、評定衆・越訴(おっそ)奉行(幕府職名で、越訴(敗訴人が裁判に誤りがあるとの理由を以って上訴・再審請求をすることをいう)の受理・再審に当たった臨時職。審理が始まると引付奉行人の中から一~二名が選ばれて頭人の指揮に従った)などを勤めて祖父景盛以来続く、幕政の実権を握った。弘安七(一二八四)年、北条時宗の死去に追従して出家し、仏典刊行や高野山参道の町石建立に尽くしたが、その後、内管領(うちかんれい)であった平頼綱と対立、翌年十一月十七日に発生した霜月騒動で、頼綱方の先制攻撃を受け、自害、開幕以来の有力御家人として、最後まで幕府内に権勢を揮ってきた安達家も遂にこれを以って絶滅した。この当時は未だ満十六歳であった。
「對揚」匹敵。対抗。
「敬屈」「きやうくつ(きょうくつ)」とも読み、「磬屈」とも書く(「磬折(けいせつ)」とも)。腰を深く曲げて、最高度の敬礼することを指す。
以下、「吾妻鏡」を引く。寳治元(一二四七)年四月十一日の条を引く。
○原文
十一日甲午。日來高野入道覺地連々參左親衞御第。今日殊長居。内々有被仰合事等云々。又對于子息秋田城介義景殊加諷詞。令突鼻孫子九郎泰盛云々。是三浦一黨當時秀于武門。傍若無人也。漸及澆季者。吾等子孫定不足對揚之儀歟。尤可廻思慮之處。云義景。云泰盛。緩怠禀性。無武備之條。奇怪云々。
○やぶちゃんの書き下し文
十一日甲午。日來(ひごろ)、高野入道覺地、連々(れんれん)、左親衞の御第(おんだい)に參る。今日、殊に長居し、内々仰せ合はさるる事等有りと云々。
又、子息 秋田城介義景に對し、殊に諷詞(ふうし)を加へ、孫子(まご)九郎泰盛を突鼻(とつぴ)せしむと云々。
「是れ、三浦の一黨は當時武門に秀(ひい)で、傍若無人なり。漸(やうや)く澆季(げうき)に及ばば、吾等が子孫、定めて對揚(たいやう)の儀に足らざらんか。尤も思慮を廻らすべきの處、義景と云ひ、泰盛と云ひ、緩怠(くわんたい)の稟性(ひんせい)、武備無きの條、奇怪。」
と云々。
・「突鼻せしむ」お叱り付けになられた。
・「澆季」現代仮名遣いでは「ぎょうき」と発音する。「澆」は「軽薄」、「季」は「末(すえ)」の意で、道徳が衰えて乱れた世・世の終わり・末世であるが、ここは「世も末じゃ!」のガツンとくる捨て台詞である。]
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