飯田蛇笏 山響集 昭和十五(一九四〇)年 春
昭和十五年
〈昭和十五年・春〉
禱る窓かもめ瀟洒に年立ちぬ
年新た嶺々山々に神おはす
老の愛水のごとくに年新た
松すぎし祝祭の灯にゆき會へり
獸園の日最中にして羽子の音
遣羽子にものいふ眼(まみ)を見とりけり
柴垣を罩めたる雲に機はじめ
[やぶちゃん注:「罩めたる」「こめたる」で、前後に掛けてあるようであるが、どうも気に入らぬ。]
雲こめて巖濡れにけり松の内
雲水宋淵大菩薩下山
大嶺より雲水きたる松納
奥嶺路に春たち連るゝ山乙女
港路に復活祭の馬車を驅る
クロス垂る市場(いちば)の婆々も聖週間
舷梯に耶蘇祝祭の花を提ぐ
膚に耀る聖土曜日の頸飾り
頰あかきグリルのをとめ聖周期
護謨樹と寶石復活祭の飾り窓
復活祭ふところに銀(ぎん)一と袋
[やぶちゃん注:ユダの報酬を皮肉に思い出したものか。]
泊船祝日
濤に浮き昇天祭の陽は舞へり
思想ありけさ春寒のめを瞠(みは)る
れいらくの壁爐古風に聖母祭
聖燭の夜をまな妻が白鵞ペン
陶に似て窓のアルプス聖母祭
マリヤ祀る樹林聖地の暮雪かな
壁爐冷え聖母祀祭の燭幽か
脣(くち)赤きニグロ機嫌に聖母祭
ともしつぐ灯にさめがたき寢釋迦かな
常樂會東國(あづま)の旅に出てあへり
[やぶちゃん注:「常樂會」は「じやうらくゑ(じょうらくえ)」で、狭義には釈迦入滅の日とされる陰暦二月十五日に興福寺・四天王寺・金剛峰寺などで行う涅槃会(ねはん)を特に指して言うが、ここは広義の普通に二月十五日に行われている涅槃会の謂いであろう。「涅槃會」としては初五の音に合わないからというだけのことか。]
お涅槃に女童(めろ)の白指觸れたりし
眞つ赤なる涅槃日和の墓椿
山霞みして奥瀑のひゞきけり
さるほどに樝子(しどみ)咲く地の蒼みけり
[やぶちゃん注:「樝子」バラ目バラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ属クサボケ(草木瓜)Chaenomeles
japonica 。]
彌生盡山坂の靄あるごとし
堰おつるおとかはりては雪解水
師を追うて春行樂の女づれ
弟子ひとり花園あるき師を思ふ
春の夢さめざめと師の泣き給ふ
[やぶちゃん注:「さめざめ」の後半は底本では踊り字「〱」。]
春寒く蘖ながく伸びにけり
天目山懐古
嶺々嶮(こゞ)し春やむかしの月の金(きん)
[やぶちゃん注:「嶮(こゞ)し」「凝(こご)し」で、岩などがごつごつしていることを形容する上代からの古語。]
K―社春の神事
巫女(かむなぎ)に冴返りたる燭の華
[やぶちゃん注:「K―社」何故、このような匿名にしているのかが、私には不審。]
植林すこゝろに春の世は豐か
植林の暾影靑雲にしみ透る
[やぶちゃん注:「暾影」既注。「ひかげ」で朝日の意。]
植林の娘が笠に相聞歌一つ
植林の春を小霰降りてやむ
春雲光り思ひ倦むとき植林歌
きゞす啼き娘らの植林歌春を趁ふ
[やぶちゃん注:「趁ふ」「おふ」(追ふ)。]
植林を終ふ娘らが手をみな垂れぬ
植林の唐鍬をうつ谺はや
植林のこだまあおそびて五百重山
[やぶちゃん注:「五百重山」「いほへやま(いおえやま)」幾重にも積み重なっている山並みのこと。]
春霜の草鞋になじむ晨(あした)かな
雞舍(とや)灯り春の行人なつかしむ
祝祭の嶺々はうす色梅の牕(まど)
岨の梅日は蕩々と禽啼かず
柴垣はぬれ白梅花うすがすむ
谷の梅栗鼠は瀟洒に尾をあげて
溪聲の聾するばかり白梅花
谷梅にまとふ月光うすみどり
小晝餐(ランチ)終へ出る霽色に薔薇さけり
[やぶちゃん注:「霽色」「せいしよく(せいしょく)」で雨が上がりのすっかり晴れ渡った景色の意。「晴色」に同じい。]
やはらかに月光のさす白薔薇
薔薇咲き詩に倦みがたきしづごころ
白薔薇さきそろふ暾のうるほへり
冷え冷えと綠金ひかる薔薇の蟲
[やぶちゃん注:「冷え冷え」の後半は底本では踊り字「〱」。]
靑草の凪ぎ蒸す薔薇の花たわゝ
日輪にひゞきてとべる薔薇の蟲
草濡れて薔薇培ふほとりかな
福々と鬱金薔薇の大蕾
ぬれいろに夜晝となく緋薔薇咲く
うす紅に霑ふ薔薇の末ら葉かな
[やぶちゃん注:「末ら葉」「うらば」と読む。草木の先端の葉。万葉以来の古語。]
鎌新た靑若茎の薔薇をきる
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