甲子夜話卷之一 51 松平御補佐〔越中守〕、伊豆巡見のとき白猿を見る事
51 松平御補佐〔越中守〕、伊豆巡見のとき白猿を見る事
松平樂翁、宴席にての物語には、某先年蒙リㇾ命ヲて、伊豆國の海邊を巡見するとて山越せしとき、何とか云〔名忘〕所に抵り、暫し休ひ居せしとき、其處は前に谷ありて、向は遙に森山を見渡し、廣き芝原の所ありしに、何か白きものゝ人の如く見ゆるが、森中より出來りぬ。夫に又うす黑き小きものゝ、數多く從ひ出く。遙に隔りたるゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、折ふし携へる遠目鏡にて視しに、白きと見えしは其大さ人にひとしき猴にて、純白雪の如し。小き者は尋常の猴にて大小あり。其數四五十にも及なん。彼白猴を左右よりとりまきて居けり。白猴は石上に腰をかけて、某が通行を遠望する體なり。いかにも奇なることゝ思ひしが、風と彼白猴を鳥銃にて打取んと思ひ、持せつる鳥銃をと傍の者に申せしに、折ふし先の宿所へ遣て其所には無し。その内はや猴は林中に入ぬ。奇異のことゆへ、其邊の里長に尋させしに、里長の答には、白猴この山中に住候こと、いまだ聞及ばずと。これは山靈にや有りけんなど語られし。此日、谷文晁も陪坐せしが、晁云ふ、其行に從ひしが、共に親く見しと也。
■やぶちゃんの呟き
「松平御補佐〔越中守〕」「松平樂翁」松平定信。
「巡見」巡見使としての公務。ウィキの「巡見使」によれば、『江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使のこと。大きく分けると、公儀御料(天領)及び旗本知行所を監察する御料巡見使と諸藩の大名を監察する諸国巡見使があった』とある。
「猴」「さる」。猿。
「白猴」音なら「びやくこう(びゃっこう)」であるが、どうもピンとこない。以下総て、「はくえん」(白猿)と私は当て読みしたい。底本には特に編者ルビはない。
「體」「てい」。
「風と」「ふと」。
「鳥銃」底本編者に従い、「てつぱう(てっぽう)」と当て読みしておく。
「持せつる」「もたせつる」。
「先の宿所へ遣て其所には無し」これはたまたま山越えで時間が掛かるために、重い銃を背負った従者は先駆けして、その日の宿所に先に参って着御の準備をしていたものと思われる。
「里長」「さとをさ」。
「山靈」「やまれい」と訓じておく。
「谷文晁」「たにぶんてう(たにぶんちょう)」(宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四一)年)は画家で奥絵師。恐らくはこの当時は定信付きの絵師であったのであろう。ウィキの「谷文晁」によれば、二十六歳で『田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世した』。三十歳の時、『田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、その近習となり』、『定信が隠居する』文化九(一八一二)年まで『定信付として仕えた。寛政五(一七九三)年には定信の江戸湾巡航に随行し』、「公余探勝図」を『制作する。また定信の命を受け、古文化財を調査し図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に従事し古書画や古宝物の写生を行った』とある。しかし、先の巡見使が若年寄を責任者とし、若年寄の支配下にあった使番一名が正使となっていることからすると、この話は松平定信がかなり若い時、老中になる遙か以前でなくてはならない。ところが、定信が老中首座となるのは、文晁が御付き絵師となるのは、それより後の天明七(一七八七)年である。どうも、文晁がその時一緒だったという辺りは、私にはちょっと怪しい感じがするのだが? 如何?
「陪坐」「ばいざ」。陪席(身分の高い人と同席すること)に同じい。