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2016/03/26

北條九代記 卷之八 光明峯寺道家公薨す 付 五攝家相分る

 

      ○光明峯寺道家公薨す  五攝家相分る

建長四年二月に、相摸守時賴、陸奥守重時、京都に使者を遣し、後嵯峨上皇へ申し入れらるる趣は、「將軍賴嗣、文武の才に昧(くら)く、遊興のこと鄙俗(ひぞく)に同じ。國家の政務、一向、愚(おろか)に渡らせ給ふ、是に依て、武威、甚(はなはだ)輕くして、諸人、重(おもん)じ奉らず。是、亂世の基(もとゐ)たり。然れば、第二の宮、宗尊(そうそん)親王を迎へ奉りて、鎌倉の主君に仰ぎ奉らば、宜(よろし)く太平の時を得奉るべし」とぞ申されける。この事、露計(ばかり)も存知たる人、是、なし。仙洞、潛(ひそか)に御沙汰有りて、第一の宮御下向あるべき旨、勅許ましましけり。同三月廿一日、三位中將賴嗣、鎌倉の御所を出でて、越後〔の〕守時盛(ときもり)入道が家に入り給ひ、同四月三日、若君以下を引倶して、京都に上洛し給ひけり。去ぬる二月に、光明峯寺前(さきの)攝政道家公、薨じたまふ。年六十一歳なり。是は賴經の父なるをもつて、北條義時、泰時の代には、武家の輩も重じて、威勢も帝王のごとくなりしが、賴經上洛し給ひて後は、北條家を怨み給ふ心有りて、三浦光村にも仰合せらるゝ事ありけり。然れども、將軍賴經の祖(おほぢ)なる故、關東より其儘、差置(さしおか)れける所に、了行法師が白狀の折節、薨じ給ひける事、疑心なきにあらず。武家より計(はから)ひ奉りけるにやと心ある人は怪(あやし)みけり。道家公の公達(きんだち)竝(ならび)に御孫忠家卿は、配流、解官せられ給ふ。その中に、二條良實公計(ばかり)、替る事なくおはします。これは道家公と御中、不和なり、良實公、常は、道家公の北條家を恨み給ひて、世を亂らんと企て給ふを歎き入りて、時々諫言せらるゝに依て、道家公、大に怒(いかつ)て、父子の間、御快(おんこゝろよか)らず。時賴、是を知る故に、何の御沙汰にも及ばざりき。道家公の御息長男教實(のりざね)公は、九條殿を相續(さうぞく)し、次男良實公は二條殿と號し奉り、三男實經公は一條殿と稱し、近衛、鷹司(たかつかさ)、相分れ、五攝家と稱する事、執柄(しつぺい)の勢を分たんが爲に、武家より計ひ定めける。王道、愈々衰敗に及ぶ。末世の有樣こそ心憂けれ。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻四十一の建長四(一二五二)年二月二十日・二十七日、三月五日・二十一日、四月三日の他、参照した湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、「日本王代一覧」や「将軍記」の記載に基づくとある。湯浅氏の論文によれば、本篇では、『時頼が頼嗣の愚昧を理由に譲位を奏して』おり、また、道家の薨去については「吾妻鏡」では、『「かの薨御の事と云々。説等あり。武家籌策あるべきの期なりと云々」(二月二十七日)と述べているが』、「北条九代記」に於いては、『「頼経上洛し給ひて後は、北条家を怨み給ふ心有て、三浦光村にも仰せ合せらるゝ事ありけり。然れども、将軍頼嗣の祖父なるゆへ、関東より其まゝ差置れける所に、了行法師が白状のおりふし薨じ給ひけること、疑心なきにあらず。武家より計らひ奉りけるにやと、心ある人は恠みけり」』『と、頼経と三浦一族の乱との関わりや、道家の死の真相について、より具体的な言及がある。これは』「日本王代一覧」に拠った言説であるとされ、『また、時頼が道家と良実の不和を計らって五摂家を設立したとし、武家の介入により王道がいよいよ衰退したという説も』「日本王代一覧」に拠ったものと指摘しておられる。

「光明峯寺道家」号は「くわうみやうぶじ(こうみょうぶじ)」と読む。既にさんざん注した九条道家の号であり、「光明峯寺関白」と通称された。この号は現在の京都市東山区今熊野南谷町付近にその頃に存在した、九条道家により嘉禎三(一二三七)年に建立された光明峯寺に因む。後の応仁の乱で焼き払われて消滅、廃寺となった。

「五攝家」本来の「摂家」は摂政関白の家柄で、藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った五家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。ウィキの「摂家」によれば、この「五摂家」は本文記載以後に正式に成立したもので(後に引用するように、厳密には多少の変遷がある)、『藤原北家の良房が人臣初の摂政に任官して以後、その子孫の諸流の間で摂政・関白の地位が継承されたが、のちに道長の嫡流子孫である御堂流(みどうりゅう)がその地位を独占するようになった。平安時代末期、藤原忠通の嫡男である基実が急死すると、その子基通がまだ幼少であったことから、弟の基房が摂関の地位を継いだために、摂関家は近衛流と松殿流に分立』、『さらに、平安末期の戦乱によって基房・基通ともに失脚し、基房の弟である兼実が関白となったことで、九条流摂関家が成立した。この』三流の内、『松殿流の松殿家は松殿師家が摂政になって以降、結果的には摂政・関白を出すことなく何度も断絶を繰り返して没落し、摂家には数えられなかった』。『その結果、摂関家として近衛・九条の両流が残り、近衛流は殿下渡領以外の摂関家領のほとんどを掌握した。九条流は天皇の外戚としての血縁関係と、自家からも将軍を輩出するほどの鎌倉幕府との良好な関係によってもたらされた摂関就任の実績によってようやく摂関家としての地位を安定化させ』、『反対に藤原師長(頼長流)や松殿忠房(師家の弟)も摂関就任の可能性があったにも関わらず就任することが出来ず摂関家としての地位を確立できなかったことなど、流動的な状況が長く続いた』。『のち、近衛流摂関家からは嫡流の近衛家並びに、兼平により鷹司家が成立。さらに九条流摂関家からは、道家の子実経および教実・良実により、それぞれ一条家および九条家・二条家が成立』、建長四(一二五二)年に『鷹司兼平が関白に就任』、文永一〇(一二七三)年には『政変によって一度は失脚した九条忠家(教実の遺児)も関白に就任してその摂家の地位が確認されたことで、「五摂家」体制が確立されることになる』とある。

「將軍賴嗣、文武の才に昧(くら)く、遊興のこと鄙俗(ひぞく)に同じ……」言っておくが、この藤原頼嗣の将軍譲位と宗尊(むねたか)親王下向要求(同文書を持った使の京への進発は建長四(一二五二) 年二月二十日である)当時、頼嗣の生誕は延応元(一二三九)年十一月二十一日、実に未だ満十二歳である。この誹謗中傷レベルの譲位理由が如何に理不尽なものであるか、お判り戴けよう。

「第二の宮、宗尊(そうそん)親王」(仁治三(一二四二)年~文永一一(一二七四)年)は先の天皇である後嵯峨天皇の第一皇子(但し、母方の身分が低かったため、皇位継承の望みはなかった)。これで直後に鎌倉幕府第六代征夷大将軍となるのであるが、彼は実は皇族で初めての征夷大将軍着任者であった。なお、本書では以下、一貫して彼の名を「そうそん」と音読みし、現行の我々のように「むねたか」とは訓じていないので注意。言わずもがなであるが、音読みは本邦ではその人物への強い敬意を示すのでおかしくも何ともないのである。

「越後守時盛」北条(佐介)時盛。北条時房長男。

「了行法師が白狀の折節、薨じ給ひける事、疑心なきにあらず。武家より計ひ奉りけるにやと心ある人は怪みけり」前章の「了行法師」の私の注を参照のこと。「武家より計ひ奉りける」とは、幕府方がおぞましくも、秘密裏に暗殺し申し上げて病死と見せかけたのではあるまいか、という猜疑である。ウィキの「九条道家」にも、『死因は病死と言われているが、頼嗣失脚の報を聞いてそのまま卒倒して死去したとする説や、隠然たる影響力を持つ道家の存在を苦々しく思った幕府によって暗殺されたとする説もある』と載るが、確かに以前の彼に北条得宗を殲滅する謀略は確かにあったと考え得るものの、すでに失脚した彼をここで謀殺する価値は私は殆んど認められないと思う(殺(や)るのなら頼経を殺っておいた方が遙かに後顧の憂いが、ない)。

「祖(おほぢ)」祖父。

「公達」ここは摂関家・清華家などの子弟・子女を指す。但し、「配流、解官せられ給ふ」とあるが、これは恐らくは翌年に摂政を罷免される、良実(後注)の弟一条実経(貞応二(一二二三)年~弘安七(一二八四)年)の寛元五(一二四七)年)のことであろう。但し、彼は入配流されていないし、後の文永二(一二六五)年には関白に再任されてもいるから、この謂いはおかしい。彼は父道家と不仲だった兄良実とは対照的に父に溺愛された。

「御孫忠家」九条忠家(寛喜元(一二二九)年~建治元(一二七五)年)。道家の長男であった摂政関白左大臣の故九条教実(文暦二(一二三五)年に享年二十五の若さで死亡)の長男。ウィキの「九条忠家によれば、父『教実が急逝したため、祖父・九条道家によって育てられる。道家は忠家を自己の後継者として位置づけ』、嘉禎三(一二三七)年には『自己の猶子とするとともに当代一の学者である菅原為長に諱を選ばせ』ている。翌嘉禎四年の『元服も九条家の祖である藤原忠通・兼実の先例に従って実施され、同日に正五位下に叙せられ』以後、権中納言・権大納言・左近衛大将・内大臣を歴任、寛元四(一二四六)年十二月には右大臣となった。仁治三(一二四二)年に『崩御した四条天皇とは、ちようど同年配であり、騒々しいほどの遊びばかりで朝夕を過ごしていた』という。『道家の忠家の将来に対する期待は大きく』、仁治三(一二四二)年の置文(当時、一族や子孫に対して現在及び将来に亙って遵守すべきことを書き記した文書。近世以後の遺言の原型とされるもの)には『寵愛していた三男の一条実経に摂関の地位を継がせることと記す一方で、その後の摂関には忠家を就けることを指示している。また』、寛元四(一二四六)年五月に『忠家が病に倒れた時には春日大社に対して「就中小僧子孫雖多、可継家之者是也、為嫡孫故也」と記した願文』『を納めて、自らの後継者であることを明記している』。建長二(一二五〇)年には道家は処分状を作成、『まず家長者を一条実経とするものの、次は九条忠家が継いで、互いの子孫が摂関の地位を失わない限りはそのうちでもっとも官職の高い人物(一門上首)が継ぐこと、子孫の断絶あるいは摂関の地位に就けずに子孫が摂家の資格を失った場合には、家長者はその所領を没収できるものとした。ただし、これらの規定は実経が年長でかつ摂関経験者であることを背景にしたもので、既に右大臣の地位に就いていた忠家も当然摂関の地位に就くことを前提にして作成されたと考えられている』とある。ところが、まさにこの了行による未然の謀反の暴露に『際して九条家が関与を疑われ、従兄弟にあたる鎌倉幕府将軍九条頼嗣は解任され、忠家自身も』、同建長四年七月二十日に『後嵯峨上皇の勅勘を受けて右大臣を解任となる。この騒動の最中の』二月には『祖父・道家も急死して九条家は再起不能の打撃を受けたのである』。ただ、その後の文永一〇(一二七三)年五月五日、関白宣下・藤氏長者となって復帰を果たし、同年十二月には従一位に叙位された。しかし、この間に既に二十一年もの月日が経過していたため、『公家社会では既に摂関の資格を失った人とみなされていた忠家の就任には強い反発が起こった』。『また、後嵯峨法皇没後に実質上の治天の君となった亀山天皇も後宇多天皇に譲位するまで忠家に一座宣旨を与えなかった。この就任の背景には忠家を勅勘した後嵯峨法皇が崩御したことを機に息子・忠教の義兄である関東申次西園寺実兼が当時の鎌倉幕府執権北条時宗に忠家復権への支持を働きかけが行われた可能性が高く、朝廷内部の事情による人事ではなかったことがあったとみられている』。翌文永十一年の正月には、摂政に就任するも、同六月には同職を辞職、その扱いも『異常なものであったとされている』但し、『短い在任期間とはいえ、薨去の』二年前に『九条流継承の条件である「摂関就任を果たした」ことによって、九条家の摂家としての地位を確立させたことにより、その後の一族の運命を大きく変えることと』はなった、とある(下線やぶちゃん)。しかし、ここにも「配流」の処罰はない。不審である。

「二條良實」二条良実(建保四(一二一六)年~文永七(一二七一)年)。極位極官は従一位関白左大臣。ウィキの「二条良実」より引く。『摂政関白左大臣九条道家の次男、母は太政大臣西園寺公経』(きんつね)『の女。兄に摂政関白左大臣九条教実、弟に四代鎌倉将軍藤原頼経、摂政関白左大臣一条実経』がいる。『父と母方の祖父が朝廷の実力者であったことから、数え』十五の『若さで従三位となり』、二十の時には既にして内大臣となった。『ところが父道家は良実をあまり愛さず、むしろその弟にあたる一条実経を偏愛するようになる。それでもこの頃の朝廷では祖父で関東申次の西園寺公経が道家を上回る実力を持っていたこともあって、後嵯峨天皇が践祚した』仁治三(一二四二)年には『公経の推薦で関白に任じられるまでに至った。ところが公経が死去すると朝廷は道家によって掌握され、このため』、寛元四(一二四六)年一月、父の命によって、『やむなく関白を実経に譲ることを余儀なくされた』。この年、鎌倉では『北条一門の名越光時が前将軍の頼経を擁して執権北条時頼に謀反を起こす計画が事前に発覚して関係者が処分されるという事件が起こった(宮騒動)。頼経は京都に送還されることとなり、この一件で父の道家も朝廷から去ることが避けられなくなり、またこれにともなって実経までもが関白辞任を余儀なくされるにいたった。良実は父と疎遠な関係にあったことからこの時の処分には含まれなかったが、これを道家は良実が時頼と内通して自分たちを貶めたと猜疑し、良実を義絶してしまった』。『しかし道家が死ぬと再び勢力を盛り返し』、弘長元(一二六一)年には『再び関白となる』。文永二(一二六五)年に『関白職を弟の実経に譲ったが、なおも内覧として朝廷の実権を掌握した』と記す。

「道家公の御息長男教實公は、九條殿」ウィキの「藤原によれば、彼は『将軍源実朝が暗殺され』、『源頼朝の血統が絶えると、父母が頼朝の縁戚にあたる九条家の子弟が摂家将軍として迎えられることになった』が、『その際に教実もその候補に擬せられたが、結局次弟の頼経が将軍に迎えられることとなり、自身は九条家を相続することになった。九条家はこの教実の代に分裂し、三弟の良実が二条家の、と四弟の実経が一条家の祖となったため、以後の教実の系統を特に後九条家と呼ぶこともある』とある。

「次男良實公は二條殿」ウィキの「二条良実」よれば、『良実は居所を二条京極第に置いたことから、良実を祖とする五摂家の系統は二条家と号した』とするが、当時の記録によって確認出来る『良実の邸は二条富小路』にあったともある。

「三男實經公は一條殿」既に注した通り、彼は父道家に溺愛され、仁治三(一二四二)年には一条室町にあった道家の第を譲られている。

「近衛」平安末期の関白藤原忠通の子基実に始まり、その子基通以来、近衛氏を称した。基通は鎌倉時代初期に親幕府派九条兼実 (基実の弟)と対抗した。また、学者を多く出した家柄でもある。家号は基実の殿第の名に由来するが、また、近衛大路に面する宮門号に因んで「陽明家」とも称した。

「鷹司」。近衛家実の子兼平を祖とし、その邸が鷹司室町にあったので鷹司を家名とした。

「執柄(しつぺい)の勢を分たんが爲」執柄はここでは狭義の摂政・関白の異称で、その政治上の権力を分散させるために、の意。]

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