甲子夜話卷之一 49 秋元但州爲人の事
49 秋元但州爲人の事
秋元但州は性質剛直の人なりき。其話には、明和九辰年、都下大火のとき、我桔梗大手の御門番なりしが、炎燄甚しく、其邊危かりし折節、御門外の南にあたる邸宅は不ㇾ殘燒落、遂に和田倉御門へ火移り、御門外の往來、出べき路を失ひ、兒女は叫喚すれども、桔梗御門より内往來を許さぬ場なれば、入ること能はず。此時我、御目付某〔名字忘〕に云には、事此如く急なり。人命に易べからず。我預の所なれば開門いたし、諸人を通すべしと云たれど、某とかくの挨拶なし。因て大手の御門番某も〔姓名忘〕、近火ゆへ詰居たれば、人を馳て我が預の御門は非常の事ゆへ人を通すべく存候。其御門も通りぬけ仰付らるべしと言遣たれど、此も亦挨拶遲々す。我思よう、事急なり、棄置べからずと、自身大手に往き、御門番某と直對すれども、とかく上を憚りて遲々す。かく爲る中に、松平右近將監〔館林侯武元、老職〕大火に因て御殿を出で、百人番の出張所に着坐し居らるるを見つけ、直に馳行て、武元に申には、拙者かくかく申に誰々も挨拶せず候へども、開門いたす可しと言へば、流石武元尤に存候。早々開かるべしと答ふ。因御門を開きたれば、千萬の人蘇生の心地して、老若男女走り入る。大手も是を見て開門す。此事世に喧しきまで賞讚せり。
■やぶちゃんの呟き
「秋元但州」出羽山形藩第二代藩主で館林藩秋元家第八代当主の秋元但馬守永朝(つねとも 元文三(一七三八)年~文化七(一八一〇)年)。既出既注。
「爲人」「ひととなり」。
「明和九辰年」壬辰(みずのえたつ)。グレゴリオ暦一七七二年。但し、この明和九年十一月十六日(グレゴリオ暦一七七二年十二月十日)に安永に改元している。この改元自体が同年中に続いて起こった火事風水害が「明和九年(めいわくねん)」即ち、「迷惑年」によるとされたことに依る。
「都下大火」明暦の大火、文化の大火と共に江戸三大大火の一つと言われる明和の大火、通称、行人坂の火事のこと。放火による。明和九(一七七二)年二月二十九日に目黒行人坂大円寺(現在の目黒区下目黒一丁目付近)から出火、南西風に煽られて延焼、完全な鎮火は二日後の三月一日。ウィキの「明和の大火」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『二十九日午後一時頃に目黒の大円寺から出火した炎は南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの、午後六時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。三十日の昼頃には鎮火したかに見えたが、三月一日の午前十時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅した』。『類焼した町は九百三十四、大名屋敷は百六十九、橋は百七十、寺は三百八十二を数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災』、『老中になったばかりの松平定信の屋敷も類焼した』。死者約一万五千人、行方不明者は四千人を超えた。『「明暦三年、明和九年、文化三年各出火記録控」によると、出火元は目黒の大円寺。放火犯は武州熊谷無宿の真秀という坊主。火付盗賊改長官である長谷川宣雄(長谷川平蔵の父親)の配下によって四月頃に捕縛される。明和九年六月二十二日に市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された』とある。
「桔梗大手」桔梗見附門(内桜田門)。の門の瓦にあった江戸城を建造した太田道灌の桔梗家紋に由来。桔梗門は江戸城本丸方面へ通じる門で、現在、この門の先に皇宮警察本部が置かれているため、一般人は門の中に入ることは出来ない。さて――現在、この記事と同じことが起こったら――皇宮警察は開門するだろうか?……♪ふふふ♪……
「炎燄」音では「エンエン」であるが、ここは二字で「ほのほ(ほのお)」(「炎」も「燄」も「ほのお」の意であるから)と当て読みしておく。
「和田倉御門」和田倉見附門。馬場先門の北、大手門の南にあった。
「易べからず」「かふべからず」。
「我預」「わがあづかり」。
「詰居」「つめゐ」。大火事なので、普段と違って早くから門に直々に出て、詰めていたのである。
「馳て」「はせて」。
「言遣たれど」「いひやりたれど」。
「棄置べからず」「すておくべからず」。
「直對」「ぢきたい」。
「かく爲る中に」「かくするうちに」。
「松平右近將監〔館林侯武元、老職〕」陸奥棚倉藩藩及び上野館林藩主で、幕府の寺社奉行・老中をも務めた松平右近衛将監(うこんえのしょうげん)武元(たけちか 正徳三(一七一四)年~安永八(一七七九)年)。延享三(一七四六)年に西丸老中(徳川家治付)となって、上野国館林に国替され、同時に右近衛将監に遷任、延享四(一七四七)年に西丸老中から本丸老中に転じ、宝暦一一(一七六一)年には老中首座となっていた。
「百人番の出張所」百人番所。現在の、大手門から大手三の門を抜けたところの左手に復元されてある。大手三の門を守衛した江戸城本丸御殿最大(長さ五十メートルを超える)の検問所。「鉄砲百人組」と呼ばれた根来組・伊賀組・甲賀組・廿五騎組の四組が交代で詰めていた。各組とも与力二十人、同心百人が配置されていて、昼夜を問わず、警護に当った。同心連が常時百人詰めていたところからの呼称とされる(以上は「千代田区観光協会」公式サイト内の「百人番所」に拠った)。
「直に」「ぢきに」。直(ただ)ちに。
「馳行て」「はせゆきて」。
「申には」「まうすには」。
「誰々も」「たれたれも」。誰(たれ)一人として。
「流石」「さすが」。
「尤に存候」「もつともにぞんじさふらふ」。
「開かるべし」「ひらかるべし」。御開門なされてよろしい。
「因」「よりて」或いは「よつて」。
「喧しきまで」「かまびすしきまで」。五月蠅(うるさ)いくらい。