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2016/03/26

北條九代記 卷之八 西園寺家繁榮 付 時賴相摸守に任ず

 

      ○西園寺家繁榮  時賴相摸守に任ず

泰村、叛逆して、三浦の家門滅亡の事、時賴、飛脚を以(もつ)て京都に注進せらる。六波羅より、西園寺太政大臣實氏公を以て奏聞(そうもん)あり。一條道家公は、前將軍賴經上洛の事に依(よつ)て、密(ひそか)に三浦光村に仰せ合さるゝ趣(おもむき)ありけるに付て、關東と昵(むつま)じからず。實氏公は愈(いよいよ)北條家と交(まじはり)を通ぜらるゝ故に、西園寺の威勢、既に淸華(せいくわ)の中に秀でて、攝家を輕(かろん)じけり。同七月に、北條相摸守重時は、六波羅を出でて、鎌倉に歸り參らる。時賴の招き給ふを以てなり。諸事の政務を相談し、連署(れんじよ)等(とう)、萬端の沙汰、諸共(もろとも)に勤められ、兩執權にぞなりにける。重時は、相摸守を改(あらため)て、陸奥守になり、時賴を相摸守にぞなされける。重時の一男長時を武蔵守に任じて、六波羅に居らしめ、畿内西國の沙汰を執行(とりおこな)はしむ。この時、國家の諸事、禁中の政(まつりごと)、叙位除目(ぢもく)の事までも、皆、武家よりして沙汰せしかば、主上は幼(いとけな)くおはしまし、上皇は只、所々の御幸、御慰(なぐさみ)に月日を送らせ給ひけり。建長三年七月に、將軍家從三位に叙せられ、左近衞〔の〕中將に任じ、相摸守時賴を正五位〔の〕下に叙せらる。同十二月二十六日、近江大夫判官氏信、武藤左衞門尉景賴兩人、潛(ひそか)に聞出して、謀叛人了行法師、矢作(やはぎの)左衞門尉、長(ちやうの)次郎左衞門尉久連(ひさつら)等を生捕りて、時賴に參らする。推問(すゐもん)せられしに、此者共、白狀しけるは、「前將軍賴經、京都に上り給ひて後、潛に諸方の武士を語らひ、世を亂さんと企て給ふ。我等、その仰(おほせ)に同意し、三浦一族の輩に、内々契約の事ありけれども、事、更に合期(がふご)し難く、世の變(へん)を相待つ所に、運命此所に極(きはま)り、生捕られ參らせたり」と申しければ、囚人(めしうど)は、信濃四郎左衞門尉行忠に預けらる。是(これ)に依て、鎌倉中、物騷しく、近國の御家人雲霞の如く馳せ集りしを、時賴、出合ひて對面し、禮義を致され、皆國々に返されけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の巻三十八の宝治合戦以降の記載を参考にしながら、「吾妻鏡」本文としては少し飛んで、巻四十一の建長三(一二五一)年七月四日、十二月二十六日・二十七日の他、参照した湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、「日本王代一覧」や「将軍記」の記載に基づくとある。湯浅氏の論文によれば、『道家が賴経の一件で光村に加担し関東と不和になったこと、西園寺実氏が、北条家と和すことによって勢いを増したこと、北条家が禁中を取り仕切るようになったことは』、「日本王代一覧」に依拠し、『十二月二十六日の氏信・景賴の謀叛は、賴経と三浦家に加担したものであるとするが、これは』「将軍記」にも『「前将軍賴経、京都にをひて世をみださんと思給ふと云々」』とあって、「保暦間記」『にも「将軍賴経、京都にして世を乱んとある由」』『を了行法師が白状したとある』。また「北条九代記」のここでは「日本王代一覧」に拠って、『西園寺家の繁栄の背景について、三浦光村に通じていた道家が零落し、北条家と親交あった西園寺家が次第に威勢を増したと述べ、それに従い、時賴・重時両執権が禁中の政治にまで介入するようになったと述べ』ている、と記しておられる。

「西園寺太政大臣實氏」既出既注

「一條道家」既出既注

「淸華(せいくわ)」現行では「せいぐわ(せいが)」と濁るのが一般的。「清華家(せいがけ)」で公卿の家格の一つを指す。最上位である摂関家(摂家)に次ぐもので、大臣家の上に位する。大臣・大将を兼ね、太政大臣に昇ることが出来る格である。一般に辞書類では三条(転法輪(てぼりん)三条)・今出川・大炊御門(おおいのみかど)・花山院・徳大寺・西園寺・久我(こが)の七家とされるが、この時期には必ずしも固定されていたものではないようである(また、後には醍醐・広幡を加えて「九清華」とも称した)。例えば、ウィキの「清華家」には、『清華家に相当する家格はすでに院政期には成立している。大臣・大将・皇后などの地位は、摂関政治期には当然摂関とその近親が独占するものであった。しかし後三条天皇の治世以降、摂関家が外戚の地位を失い、代わって外戚となった家系が、のちに清華家と呼ばれることになる家格の原形をつくった。したがって、清華家の家格は大臣・大将に昇進できるということのほかに「娘が皇后になる資格がある」ということも見逃してはならない。平清盛・源頼朝はいずれも清華家の家格を獲得していたのであり、そのゆえにこそその子弟は大臣・大将(平重盛、源実朝など)となり』、『皇后(平徳子)となることができた。足利義満以後の歴代室町殿が大臣・大将を歴任したこともこの文脈で理解しなければならない。なおいわゆる「七清華」は、清華家の家格を有する多数の家系(たとえば藤原北家閑院流の山階家・洞院家、村上源氏顕房流の土御門家・堀川家)が中世を通じて断絶したり』、『清華の家格を失ったりした結果、最終的に』七家しか『残らなかったことを意味しており、はじめから家系が固定していたわけではない』という記載があるからである。なお、「華族」(かぞく/かそく/かしょく)は本来、古くは、この清華家の別名であった。

「同七月」宝治元(一二四七)年七月三日に出京、十七日、鎌倉着(「吾妻鏡」)。

「北條相摸守重時は、六波羅を出でて、鎌倉に歸り參らる。時賴の招き給ふを以てなり。諸事の政務を相談し、連署(れんじよ)等(とう)、萬端の沙汰、諸共(もろとも)に勤められ、兩執權にぞなりにける」ウィキの「北条重時」によれば、『宝治合戦において、重時の動向は不明であるが、接点のない時頼と重時』(彼は時頼の祖父泰時の弟に当たるが、二十九歳も年上であり、しかも六波羅探題勤めが十七年と長かった)『の間には母方が同じ比企氏であり、高野山にいた安達景盛の介在があったと思われる。三浦氏滅亡後』、五十歳の『重時は時頼の要請により鎌倉へ戻り、叔父時房死後に空席となっていた連署に就任し、時頼を補佐した。六波羅探題北方は次男の長時が就任した。重時の長女葛西殿は時頼の正室となり、後の』第八代『執権北条時宗を生ん』でいる。

「長時」重時次男で、後の第六代執権(時頼から時宗への中継ぎ的就任に過ぎず、得宗ではないので本「北條九代」には含まれない)となった北条(赤橋)長時(寛喜二(一二三〇)年~文永元(一二六四)年)。

「主上」後深草天皇。宝治元(一二四七)年当時は、未だ満四歳。

「上皇」後嵯峨上皇。宝治元(一二四七)年当時は二十七歳。ウィキの「後嵯峨天皇」によれば、『即位した天皇は宮廷の実力者である西園寺家と婚姻関係を結ぶことで自らの立場の安定化を図り』、寛元四(一二四六)年に在位たった四年で『皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、院政を開始。この年、政治的に対立関係にあった実力者・九条道家が失脚したこともあって、上皇の主導によって朝廷内の政務が行われることになった。以後、姉小路顕朝・中御門経任ら実務担当の中級貴族を側近に登用して院政が展開されていくことになる』。正元元(一二五九)年にはまだ十二歳の『後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である恒仁親王(亀山天皇)への譲位を促し』ている(翌年に実際に譲位)。『後嵯峨上皇の時代は、鎌倉幕府による朝廷掌握が進んだ時期であり、後嵯峨上皇による院政は、ほぼ幕府の統制下にあった』。但し、『宝治合戦直後には北条時頼以下幕府要人が「公家御事、殊可被奉尊敬由」』(「吾妻鏡」宝治元年六月二十六日条)『とする合意を行って、後嵯峨院政への全面的な協力を決定している。また、摂家将軍の代わりに宗尊親王を将軍とすることで合意する(宮将軍)など、後嵯峨院政と鎌倉幕府を掌握して執権政治を確立した北条氏との間での連携によって政治の安定が図られた時期でもあった』とある。筆者の言うような、「只、所々の御幸、御慰に月日を送らせ給」うていた訳では、実は、ない。

「建長三年」一二五一年。

「七月に、將軍家從三位に叙せられ」「吾妻鏡」の七月四日の記事に拠るが、それを読むと、任命は以下も含めて、前月六月二十七日附である(後深草天皇の新居落成転居(遷幸)の褒美)。

「近江大夫判官氏信」佐々木氏信。

「了行法師」「りやうぎやうほふし(りょうぎょうほうし)」。鈴木小太郎氏のブログ「学問空間」の「了行」に、この捕縛事件の三年後の、建長六(一二五四)年六月二十五日に『了行法師は自身が造立した京都の持仏堂・宿所などを如意寺の造営に寄進しているが』、『この了行法師という人物は勧請に長けた人物であったものの』、まさにこの時、『幕府の顛覆を図り、勧進に託して同志を募っていたという嫌疑により逮捕されている(『鎌倉年代記』裏書)。この事件により処刑されたものがいなかったことから冤罪であったとみられるが、了行法師が自身が得意とするところの勧請をもって如意寺再興事業に関与し、それによって』、先に『如意寺の復興を行なった』『隆弁や北条時頼の覚えを良くする意図があったのかもしれない』と記されておられる(下線やぶちゃん)。ただ、「吾妻鏡」の記載はここが「法師」で、建長六年六月二十五日の条は「法印」となっていること(「了行」法号はそれほど特異とは言えないし、歴史資料で法号が同名の僧というのはゴマンといる。例えばかの公暁などは師としている師匠に「定暁(じょうぎょう)」という僧が同名別人で二人いるのである)、また、何よりも「吾妻鏡」の謀反人逮捕の翌日(建長三年十二月二十七日)の条で、『被誅逆叛之衆。又有配流之者』(逆叛の衆を誅さる。又、配流の者有り)とあるのが、かなり気になっている。これを見る限りでは、謀反人の死刑は、確かに行われているからである(但し、この三名に執行されたかどうかは分からない。私は「鎌倉年代記」を所持しないので、そこの記載確認は出来ない)。なお、私の所持する平成二二(一九九〇)年かまくら春秋社刊「読んで分かる中世鎌倉年表」にこの一件が載り、『了行・矢作常氏(やはぎつねうじ)・長久連(ちょうひさつら)らが謀反を計画したとして捕えられる。了行らは、宝治合戦で没落した三浦氏や千葉氏の残党であり、京都の藤原(九条)道家・頼経父子が計画に関与していたとされる』とあって、彼が道家の強いバックを持っていたとしたら、死罪は免れたと読めないことはない。しかし寧ろ、彼の捕縛後の道家の死はやはり不審(次章で筆者も述べている。寧ろ、大きな道家の謀略の背景を知っているという点(更にはそれに先手を打つことを考えていた幕府側の機略の塩梅からも)に於いても、彼は自白後に処刑された可能性の方が私は遙かに大きいと思う。さらに同記載には「了行」の脚注があって、それによれば、『(生没年未詳)下総國の千葉氏の庶流出身の僧。京都の九条大御堂を拠点に活動し、藤原(九条)道家と関係があったとされる』とある。またウィキの「九条道家の死の直前の項には、この建長三年末の事件を指して、孫である第五代将軍頼嗣『と足利氏を中心とした幕府転覆計画が発覚し、それに道家が関係しているという嫌疑がかかる。道家はその中で』翌年の二月二十一日に死去してしまう(次章参照)。『策謀が頓挫したばかりか鎌倉幕府側に謀議が露見し、時頼からの追及を受けて晩年は憔悴しきっていた』とある。

「矢作左衞門尉」「吾妻鏡」には『千葉介が近親』の割注がある。矢作六郎左衛門尉常氏か矢作左衛門尉胤氏が考えられ(二人とも先に滅ぼされた千葉秀胤の縁者であるが、秀胤の祖父の弟の子である常氏の方がより近親である)、前の引用から常氏で採る。

「長次郎左衞門尉久連」不詳。私は足利家絡み(後の南北朝時代の足利尊氏・直義兄弟の分裂では長氏の一部が内部対立しており、この時の長氏の連中の名は悉く「連」を最後に持つからである)ではないかと推理している。

「事、更に合期(がふご)し難く、世の變(へん)を相待つ所に」「合期」は物事が思った通りに上手く行くことの意で、「前の将軍頼経公再擁立(は同時に少なくとも北条得宗家の殲滅を意味すると考えてよい)の企て、これ一向に上手く行かず、(頼みの綱、謀議の主たる三浦一族も滅ぼされてしまい)、それでも世の形勢に大きな変化の起こるのを、ひたすら待っていたけれども」という謂いであろう。しかし、最大の対得宗抵抗勢力であった三浦一族滅亡から、既に四年経っている。こいつら(幾ら調べても、相応な武力勢力とも思われない)の謂いは何だか私は間抜けているとしか思われない。四郎左衞門尉行忠」二階堂行忠。「吾妻鏡」には彼の名もこの預かり記載もない。]

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