進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第一章 進化論とは何か(2) 二 進化論の内容
二 進化論の内容
さて、世開には進化論を聞きかじり、普通の猿が進歩して人間になつたといふ説であると早呑込みをして、喋々其の謬にして信ずるに足らぬことを辯ずる人も澤山あるが、進化論は決して左樣なことを主張するものではない。また、いつか或る雜誌の論説の中に、菊は培養によつて幾らでも變形が出來るが、幾ら變形しても菊はやはり菊であつて、決して牡丹にも瞿麥にも成らぬ。して見ると進化論とやらいふ喧しい議論も一向當てにはならぬと書いてあつたが、是も前のと全く同樣な間違で、菊が變じて牡丹や瞿麥にならぬというても、決して之が進化論の反對の證據となるものではない。
[やぶちゃん注:「喋々」「(てふてふ(ちょうちょう)」で、頻りに喋(しゃべ)るさま。
「謬」「あやまり」と訓じていよう。
「瞿麥」学術文庫版は『けし』とルビするが、本熟語に被子植物門双子葉植物綱モクレン亜綱ケシ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum の意味はない。これは遺憾ながら、同編集者が原文の「瞿麥」を「罌粟」(けし:最初の字が「瞿」とよく似て見える)と誤読したものかと思われる、トンデモ・ルビである。通常、「瞿麥」(音「クバク」)はナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属 Dianthus の仲間の総称、或いは同属の代表種の一つであるカワラナデシコ Dianthus superbus var. longicalycinus 、或いは同ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis の異名である。「菊」「牡丹」と来て、日本人なら「常夏」の撫子と私は自然に読める。ここは「なでしこ」と訓ずるべきところである。因みに、個人サイト「科学図書館」にあるPDF(第十二版)でも『なでしこ』とルビされてある。]
然らば、進化論とは如何なるものであるかといふに、一言でいへば、進化論とは、動物・植物ともに何の種類でも長い年月の間には次第に變化するものである。而して如何なる點が如何なる方向に向つて變化するかは、その時々の事情で定まることで、最初より確定しては居ないから、たとひ同一の先祖から生じた子孫でも、長い間相異なつた方面に向つて變化すれば、次第次第に相遠ざかり、終には全く相異なつた數種に分れてしまふものであるといふ説に過ぎぬ。之だけは生物界に實際現れて居る事實であるから、凡そ生物學を修めた人ならば、誰も皆眞實と認めざるを得ぬことで、之に就いて反對の考を持つて居る生物學者は最早一人もない。今日學者等の頻に議論を戰はして居るのは、總べて是より尚數歩も進んだ先の假説上又は理論上のことばかりである。
併し、進化論は事實として述べる所は右だけであるが、生物學上の一個一個の事實を多く集め、之より歸納して上述の如き生物界全部に通ずる廣き事實に達するだけでは、まだ十分に滿足は出來ない。必ずこの事實の起る原因・法則を考へ出して、之を説明することを試みねばならぬ。西洋にも「物の原因を知り得る人は幸なり」といふ諺が昔からあるが、我々人間には物の原因が知りたいといふ慾が、生れながら備はつてあるから、たゞ或る事實の存在を證明しただけではこの慾が承知しない。必ず何故にその事實が起るかといふ原因を研究せずには居られぬ。今日世人がダーウィンといへば進化論のことを思ひ、進化論といへばダーウィンの説であると考へるに至つたのは、全くダーウィンが生物進化の事實を證明して進化論の基を定めると同時に、その事實に對する適當な説明を與へ、其の起る原因を示して、大に此の慾を滿足せしめ得たからである。
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