「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 梅の木に猶やどり木や梅の花 芭蕉
本日 2016年 3月 9日
貞享5年 2月 8日
はグレゴリオ暦で
1688年 3月 9日
網代民部雪堂に會ふ
梅の木に猶やどり木や梅の花
「笈の小文」より。同紀行では先に示した「枯芝ややや陽炎の一二寸」の後に俳文を挟んで後に掲げる「丈六に陽炎高し石の上」以下六句を挟むが、恣意的な時系列操作が成されてある。
時日同定はいつもの、サイト「俳諧」の「笈の小文」に拠った。それによれば、本句は芭蕉と雪堂の二吟付合で、「蕉翁句集草稿」(土芳自筆・宝永五(一七〇八年)か六年頃の稿)に、
梅の木の猶やどり木や梅の花 芭蕉
見るにけ高き雨の靑柳 雪堂
と載る由の記載がある。真蹟懐紙では前書が、
網代民部息(そく)雪堂會(せつだうのくわい)
父が風雅を添ふ
とある(新潮日本古典集成「芭蕉句集」に拠る)。
網代民部雪堂は正しくは「足代」で、伊勢俳壇の重鎮足代弘員(ひろかず)。伊勢神宮外宮の三方家の御師(おんし:特定の寺社に所属し、その社寺への参詣者の案内・参拝・宿泊等の世話をする職。通常は「おし」と読むが、伊勢神宮のそれは別して「おんし」と呼んだ)。伊東洋氏の「芭蕉DB」の同句解説では、『彼の父弘氏(ひろうじ)は神風館と号し、談林派の俳人として当地に名を馳せた。梅の木は梅の老木で父神風館』(じんぷうかん:弘氏の俳号)『を指し、咲いた梅の花は息子雪堂を指して挨拶吟とした』ものと注されておられる。弘氏はこの五年前の天和三(一六八三)年に没している。
この「やどり木」は所謂、ビャクダン目ビャクダン科ヤドリギ属ヤドリギ Viscum album なんどではなく(山本健吉氏は「芭蕉全句」ではそのように捉えているとしか読めないが、私は採らない)、老梅の幹から如何にも初々しい梅の小枝の伸び出でて美しく芳しい花の咲くさまを喩えて父子二代の風流への賛辞としたものと読むべきであると私は思う。
« 「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 暖簾の奥ものゆかし北の梅 芭蕉 | トップページ | 進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第二章 進化論の歷史(5) 五 ダーウィン(種の起源) / 第二章~了 »