北條九代記 卷第八 前將軍賴經入道御歸洛
○ 前將軍賴經入道御歸洛
同七月十一日、前將軍賴經入道、鎌倉を立ちて、歸洛の旅に赴き給ふ。御送(おんおくり)の大名十五人、路次(ろじ)の行粧(かうさう)、きらびやかなり。年月、往馴(すみな)れたまひける鎌倉山の雲霞(くもかすみ)、晴れぬ思(おもひ)を駿河(するが)なる、富士の高峯の白雪も、今日(けふ)御覽する御名殘(おんなごり)、又何時(いつ)かはと詠(なが)め遣り、由井の渡(わたり)や、島田の宿(しゆく)、月も寫(うつ)るか池田の宿、矢作(やはぎ)の河原もの凄く、萱津(かやづ)、墨俣(すのまた)、打過ぐれば、涙はいとゞ垂井(たるゐ)の宿、浮世の夢は醒井(さめがゐ)に、續く鏡(かゞみ)の曇(くもり)なき、世は末廣(すゑひろ)き野路(のぢ)の里、勢多の長橋、打渡り、打出(うちで)の濱より見渡せば、昔(むかし)、長等(ながら)の山の端(は)も、只こゝもとに寄すると云ふ、波は湖水にたゝみつゝ、夕日を洗ふも面白し。四〔の〕宮河原を今越えて、身は賴なき水の上(うへ)、粟田口(あはだぐち)に著(つ)き給ひ、是より直(すぐ)に夜を籠めて、同七月二十七日、祇園の大路(おほぢ)を經て、六波羅の御館(みたち)若松殿に入らせ給ふ。八月一日、供奉(ぐぶ)の人々、御暇(おんいとま)賜りて、關東に下向あり。その中に、三浦能登〔の〕前司、只一人、御簾(みす)の前に留(とゞま)りて、何事にかありけん、數刻を移して対談し、立出る時には、數行(すかう)の落涙、押難(おさへがた)く、この二十餘年の御眤(おんなじみ)に、御名殘を惜(をし)み奉るも理(ことわり)に覺えける所に、その後、光村は人々を語(かたら)ひ、「面々相構(あひかまへ)へて、今一度、賴經公を、鎌倉へ返(かへし)入れ奉るべき御計(はからひ)を致し給へ」と私語(さゝや)きけるも覺束(おぼつか)なし。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十七の寛元四(一二四六)年七月十一日・十六日・十八日・二十一日・二十二日・二十三日・二十四日・二十七日・二十八日及び八月十二日などに基づく。「寛元の政変」による無念の頼経帰京を、七五調で行路の地名を掛詞にしつつ、非常に美事に詠み込んだ道行文に仕立ててある。
「同七月十一日」寛元四(一二四六)年七月十一日。
「行粧」通常は「ぎやうさう(ぎょうそう」。行装とも書く。外出や旅の際の服装・装束。
「年月、往馴れたまひける」実朝暗殺後(建保七(一二一九)年一月二十七日)、承久元(一二一九)年(建保七年四月十二日改元)七月十九日、僅か満一歳未満で鎌倉に下著、同三年の承久の乱を経て、翌禄二(一二二六)年の将軍宣下で八歳で鎌倉幕府第四代将軍となり、第四代執権北条経時によって寛元二(一二四四)年に五歳の嫡男頼嗣に将軍職を譲位させられた。実にこの京都送還まで、二十七年をこの鎌倉で過ごした。
「由井の渡」由比宿。断崖絶壁で東海道の難所と言われた、現在の静岡県静岡市清水区由比。
「島田の宿」現在の静岡県島田市。「吾妻鏡」に七月十六日着とする(以下、同様)。
「池田の宿」現在の静岡県磐田市池田に比定される中世の宿駅。天竜川の渡船場。十八日。
「矢作の河原」旧矢作宿である現在の愛知県岡崎市。矢作川の水運で栄えた。二十一日。
「萱津」現在の愛知県あま市甚目寺 (じもくじ)にあった中世鎌倉街道の定宿駅。「かやつ」「かいつ」などとも呼称した。二十二日。
「墨俣」現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣。二十三日。
「垂井の宿」現在は岐阜県不破郡垂井町にあった宿駅。後に中山道の宿場となった。二十四日。
「醒井」現在の滋賀県米原市内にあった醒井宿。やはり後の中山道の宿駅。
「鏡」現在の滋賀県竜王町にあった東山道・中山道で栄えた宿駅「鏡の宿」。二十六日。
「野路の里」現在の滋賀県草津市野路町。京に近く、東山道・東海道が通る交通の要衝であった。二十七日。「吾妻鏡」によれば、入京するには日が悪かったことから、昼にここに宿っておいて、夜半に出立している。
「打出の濱」現在の滋賀県大津市松本町付近の琵琶湖岸の名称。歌枕。
「長等の山」現在の滋賀県大津市の三井寺の後背の山名。歌枕。
「四宮河原」現在の京都市山科区を南流する四宮川と東西に走る東海道が交差する附近に広がっていた河原。交通の要所で平安末期には市が立っていた。
「六波羅の御館若松殿」現在の京都市東山区若松町に六波羅探題北方に在任していた北条重時の私邸があったと考えられているが、後に陰謀を疑われて父同様に送還された頼嗣も入洛後にここ、若松殿に入っている。六波羅直近で監視がし易かったためでもあろう。彼らは実際には送還後、暫くはここに軟禁状態にあったとする情報もネット上にはある。「吾妻鏡」には二十八日の午前四時頃に粟田口を経て入洛、とある。
「八月一日」以下の盟約は「吾妻鏡」の八月十二日の条に記載されてある(後掲)。
「三浦能登前司」三浦光村(元久元(一二〇五)年~宝治元(一二四七)年)は三浦義村四男。ウィキの「三浦光村」によれば、『幼少時代は僧侶にすべく鶴岡八幡宮に預けられ、公暁の門弟となるが、後に実家である三浦氏に呼び戻されたようである』。「吾妻鏡」での光村の初見は建保六(一二一八)年九月であるが、『将軍御所での和歌会の最中に鶴岡八幡宮で乱闘騒ぎを起こして出仕を停止させられた』という不名誉な『記事である。この段階では幼名の「駒若丸」を名乗っており、この後に元服して光村と改名した。「光」の字は烏帽子親子関係を結んだ名越光時から偏諱を受けたものとされている』。貞応二(一二二三)年には『北条重時・結城朝広とともに新将軍・三寅(後の九条頼経)の近習に任じられる。以後』、二十年の長きに渡って『頼経の側近として仕え』、寛元二(一二四四)年に『頼経が息子頼嗣に将軍職を譲ると、光村はこれを補佐する意図を以って鎌倉幕府評定衆の一人に加えられた。光村は武芸に秀でると共に管弦に優れ、藤原孝時から伝授を受けた琵琶の名手であった』。既に見てきた通り、第三代『執権北条泰時が死去すると、幕府は執権北条氏派と将軍派に分裂して対立を続け』、寛元四(一二四六)年に『将軍九条頼経を擁する名越光時ら一部評定衆による』第五代『執権北条時頼排除計画が発覚する』(還元の政変)。『この計画には光時の烏帽子子である光村も加担していたが、時頼は北条氏と三浦氏の全面衝突を避けたいと言う思惑から、光村の問題は不問に付し』、『京に護送される頼経の警護を命じた』。ここでも「吾妻鏡」から引くように、『光村は鎌倉に戻る際に頼経の前で涙を流し、「相構へて今一度鎌倉中に入れ奉らんと欲す」と語り、頼経の鎌倉復帰を誓ったという』。『また、この時に頼経の父で朝廷の実力者である九条道家と通じたとする見方もある。光村は道家を後ろ盾とした反北条・将軍派の勢力をまとめる急先鋒として、北条氏に危険視されていた』。翌宝治元(一二四七)年五月二十八日、妖しくも『頼経が建立した鎌倉五大明王院』を殊更に尊崇厚遇したとあって、「吾妻鏡」の同日の条からは、『これが世を乱す源になったとされ』、同年六月、『ついに鎌倉で三浦一族と北条氏一派との武力衝突が起こると、光村は先頭に立って奮戦し、兄泰村に決起を促すが、泰村は最後まで戦う意志を示さず』、『時頼と共に和平の道を探り続けた。だが総領泰村の決起がないまま』、『安達氏を中心とする北条執権方の急襲を受けた三浦氏側は幕府軍に敗れ、残兵は源頼朝の墓所・法華堂に立て籠もった。光村は「九条頼経殿が将軍の時、その父九条道家殿が内々に北条を倒して兄泰村殿を執権にすると約束していたのに、泰村殿が猶予したために今の敗北となり、愛子と別れる事になったばかりか、当家が滅ぶに至り、後悔あまりある」と悔やんだとされている。光村は兄の不甲斐なさを悔やみ、三浦家の滅亡と妻子との別れを嘆きながら、最後まで意地を見せ、敵方に自分と判別させないように自らの顔中を刀で削り切り刻んだのち、一族と共に自害した(宝治合戦)』。
「覺束なし」(そのような不穏な盟約をし、しかもそれを内緒話とはいえ周囲に語ったなどとは、一体、どのようなつもりなのか)不審である。これから先どうなるのかひどく気がかりである、の謂いである。
最後の頼経と光村の盟約のシークエンスだけを「吾妻鏡」から見よう。
○原文
十二日戊戌。相摸右近大夫將監自京都皈參。是入道大納言家御歸洛之間。所被供奉也。此外人々同還向。去月廿七日五更〔廿八日分也〕。經祗園大路。著御于六波羅若松殿。今月一日。供奉人等進發。而能登前司光村殘留于御簾之砌。數尅不退出。落涙千行。是思廿餘年昵近御餘波之故歟。其後。光村談人々。相搆今一度欲奉入鎌倉中云々。
○やぶちゃんの書き下し文
十二日戊戌。相摸右近大夫將監、京都より歸參す。是れ、入道大納言家御歸洛の間、供奉せらる所なり。此の外の人々、同じく還向(げかう)す。去ぬる月、廿七日、五更〔廿八日分なり〕、祗園大路を經て、六波羅若松殿に著御。今月一日、供奉人等、進發す。而るに能登前司光村、御簾の砌(みぎり)に殘留し、數尅、退出せず。落涙千行す。是れ、廿餘年昵近(ぢつきん)の御餘波(おんなごり)を思ふの故か。其の後、光村、人々に談ずらく、
「相ひ搆へて、今一度、鎌倉中へ入れ奉らんと欲す。」
と云々。
・「相摸右左近大夫將監」「右近」は「左近」の誤り。北条時定(?~正応三(一二九〇)年)は北条泰時長男時氏の三男。第五代執権北条時頼の同母弟。
・「五更」午前四時頃。
……そもそもがこんなアブナい話がよりによって「吾妻鏡」に暴露されているのか? どうも、まさに直前に名前が出されている時定辺りが実は間者を廻してるんじゃないの? と勘繰りたくなるのは私だけだろうか?]