譚海 卷之一 尾州八事山無住法師靈の事
尾州八事山無住法師靈の事
○尾州夜乙(やごと)山といへるは、眞言宗の寺にて無住法師入定せし地なり。今も其靈有、二三十年前無住其むらの人に連夜夢に見えて、この山ちかき内に崩るべし、徙居(しきよ)せよといふ事を告(つげ)たり。村民徙居せし後果して山くづれたりとかや、無住上人猶死なずといへり。
[やぶちゃん注:「八事山」「八事(やごと)」自体が現在の愛知県名古屋市瑞穂区・昭和区・天白区に跨った、かつて「八事山」と呼ばれた丘陵一帯の地名である。ここは但し、「やごとさん」と読んで、現在の名古屋市昭和区八事本町にある真言宗八事山興正寺(こうしょうじ)、通称、「八事観音」を指す(但し、本尊は大日如来)。私も結婚したての頃、名古屋瑞穂の出身の妻と亡き義父・義母と四人で親しく跋渉した思い出がある。
「無住法師」無住(むじゅう 嘉禄二(一二二七)年~正和元(一三一二)年)は仏教説話集「沙石集」や「雑談集(ぞうだんしゅう)」で知られる名僧。字は道暁、号は一円。鎌倉幕府御家人宇都宮頼綱の妻の甥。ウィキの「無住」より引くと、『臨済宗の僧侶と解されることが多いが、当時より「八宗兼学」として知られ、真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていた』。『梶原氏の出身と伝えられ』、十八歳で『常陸国法音寺で出家。以後関東や大和国の諸寺で諸宗を学び、また円爾に禅を学んだ。上野国の長楽寺を開き、武蔵国の慈光寺の梵鐘をつくり』、弘長二(一二六二)年に尾張国長母寺(ちょうぼじ)を『開創してそこに住し』、八十歳の時、『寺内桃尾軒に隠居している。和歌即陀羅尼論を提唱し、話芸の祖ともされる』とあるが、興正寺住持の事蹟は調べ得なかった。但し、無住伝記の中心的資料である明和七(一七七〇)年に刊行された「無住国師道跡考」は、この八事山興正寺諦忍律師が執筆し、近世の無住伝の白眉として評価が高い、と「北勢線の魅力を探る会」主催の「北勢線の魅力を探る報告書」(PDF)にはあるので、何らかの関係があったことは窺える。識者の御教授を乞うものである。
「徙居」転居。「徙」は「移徙」で「わたまし」と訓じ、貴人の転居・転宅を意味する。]
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