進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第一章 進化論とは何か(3) 三 進化の事實とその説明との區別
三 進化の事實とその説明との區別
されば生物の進化を論ずるに當つては、進化の事實とその原因・理由等を説明する理論とを十分に區別して置かねばならぬ。進化の事實といふのは前にも述べた通り、生物の各種類は長い年月の間には次第に變化すること、及び初一種の生物より起つた子孫も長い年月の間には次第に數種に分れ得ることであるが、此等は孰れも生物界に現れた實際の事實から歸納して論じたことであるから、唯廣く通ずる事實とでもいふべきものであつて、決して人間が勝手に思ひ付いた理論ではない。それ故此等の事實は多少生物界の事實を知つて居る人は誰も疑ふことの出來ぬ性質のもので、之を疑ひ又は之をないと思ふ人のあるのは、全く生物界の事實が廣く世間に知られて居らぬからである。若し生物界の現象に關する知識が世間一般に普及したならば、生物進化の事實を疑ふ人は無論一人も無くなつてしまふ。之に反して進化の事實を説明する理論の方は、素より人間が僅に一部を研究した結果、考へ出したことであるから、まだ不十分の點は幾らもあり、尚研究の進むに隨ひ、增補せられ改正せられることも屢々あるべき筈のもので、決して既に完結したものでもなければ又全部動かすべからざる程に確定したものでもない。寧ろまだ僅に基礎が置かれただけのものといつて宜しからう。然るに、世間では進化の事實も、之を説明する理論も、一所に混じてしまうて、進化の事實までも或る一派の人々の思ひ付いた空論であるかの如くに考へて居る人も少くない樣であるが、之は勿論大きな間違といはねばならぬ。畢竟我が國では昔から自然界の實物を觀察し研究することが少しも行はれず、研究といへばたゞ書物を讀み文宇を解することに止まり、論とか説とかいへば、皆机に向つて案じ出した空論ばかりであつたから、世人も習慣上、論とか説とかいへば、總べてかやうなものであると考へるに至つたので、我が國從來の學問の仕方から考へて見ると、進化論といふ表題を見て、やはり孟子の性善説とか佛教の原人論とかいふものと同じ樣な、單に或る人の考へ出したものかと、世人の思ふのも決して無理ではないが、本書に於て今より説かうとする進化論の如きは、決してかやうなものではなく、その大部分はたゞ實際の事實をそのまゝに記述するに過ぎぬ。このことは特に初より讀者に斷つて置かねばならぬことである。
[やぶちゃん注:「原人論」これは「げんにんろん」と読む。元は唐代の僧圭峰宗密(けいほうしゅうみつ 七八〇年~八四一年)の著作。正しくは「華厳原人論」(一巻)と言う。仏教を排斥した韓愈の「原人」(人の本質を原(たず)ねるの意で、仏教に毒された世界から儒家道徳の根源的本質を求めることを述べた)説に対して華厳宗の宗旨によって人間の起源を考究し,仏教が儒教や道教などよりも優れている由縁を説明したもの。]
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