進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第二章 進化論の歷史(5) 五 ダーウィン(種の起源) / 第二章~了
五 ダーウィン(種の起源)
[ダーウィン]
[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]
千八百五十九年の十一月二十四日即ち今より凡そ五十五年前にダーウィンがその著書「種の起源」の第一版を公にした時までの生物進化論の歷史の大要は略々右に述べた通りである。世間では進化論といへば一口にダーウィンの説であるやうに考へる人もあるが、以上述べた所で解る通り、生物進化の説はダーウィンより餘程以前にフランス國のラマルク、サンチレールなどが既に唱へて居つたものである。併し、進化の事實は如何にして起つたものであるかといふ説明は兩人とも甚だ不十分で、ラマルクはたゞ器官の用・不用に基づくものであると説き、サンチレールは外界の狀態に變化が起れば之が直に動物の形狀・性質に變化を起すものであると論じたのみであつた。然るにダーウィンはたゞ進化の事實を丁寧に集めて之を確實に證據立てたのみならず、之を説明するために自然淘汰の説といふものを考へ出したが、この自然淘汰の説は生物進化の事實の説明に適すること前の二説とは雲泥の相違で、生物學上そのときまで説明の出來なかつた餘程多くの事實も之がために容易にその理由を知ることが出來たから、忽ち學者間に非常な信用を得て、この説により説明の出來ぬ現象は生物界に一つもないといふて喜んだ人も澤山に出來た。
ダーウィンの人物・經歷及びその著書「種の起源」を公にするに至つた顚末等の中には大に我等後進者の心得となる點があるやうに思はれるから、ダーウィンの唱へ始めた説を紹介する前に、少しその事を述べて置きたい。ダーウィンの生れたのは今より百十七年前即ち千八百九年の二月十二目であるが、その年は不思議にも始めて動物の進化を説いた書物「動物哲學」が出版になつた年である。生長して後、エジンバラ・ケンブリッジなどの大學で修業し、二十二歳の時「ビーグル」といふ世界探檢船に乘り組んで殆ど六年間地球上の各地を探檢して歸つたが、その頃から健康が餘り勝れなくなつたので、三十三歳の時ロンドンから汽車で行けば一時間もかからぬ程の處にあるダウンといふ村に家を買つてそこに引籠り、市中の雜沓を避け、一生涯靜に學問の研究ばかりに力を盡して、終に去る明治十五年即ち千八百八十二年の四月十九日に世を去つた。ダーウィンは「ビーゲル」號航海の節、世界の各地に於て、動物・植物・地質等を實見する開に生物種屬の起源に就いて種々の疑が起つたから、之を十分に研究して見ようと決心して、イギリスに歸つてからも頻にこの事を考へた結果、三十四五歳の頃、既に自然淘汰の理に氣が附き、一通り之を書き綴つて人に見せたこともあつたが、併しかやうな新説は輕々しく世に出すべきものでないと思ひ、その後益々生物學上の事實を集め、この説の適否を試し、十五六年も研究を積んだ後、干八百五十九年即ち自身の五十歳の時に至り漸く之を公にした。之を近頃の學者が漸く昨日思ひ附いたことを今日直に出版するのに比べると、實に雲泥の相違である。また干八百五十九年に之を公にしたのも全く或る偶然の出來事が起つたからであつて、若しその事がなかつたならば、「種の起源」の出版も、或は尚數年間後れたかも知れぬ。
こゝに偶然の出來事といふのは、千八百五十八年に至り、ダーウィンの外に尚一人自然淘汰の理を發見した人が出て來たことである。この人はウォレースといふ大探檢家で、南アメリカに四年、東印度諸島に八年も留まつて、博物の研究に從事したが、その中動物の生態及び分布の有樣などから考へて、殆どダーウィンの説と全く同樣な説を思ひ付き、之を一篇の論文に書き綴つてダーウィンの手許まで送り屆け、之を學術雜誌上に公にするやうに依賴して來た。ダーウィンは之を受取つて讀んで見ると、中に書いてあることは自分が、十四五年も前から考へて居たことと殆ど寸分も違はぬから、大に驚いて之をフッカー・ライエルなどいふ大家に見せ、どうしたら宜しかろうと相談した。所が、これらの人々は、かねてダーウィンがこの問題に就いて研究して居たことを知つて居るから、ダーウィンに勸めて自然淘汰の理を短く書かせ、之を彼のウォレースから送つて來た論文と同一號の林那學士會雜誌に竝べて掲載し、同時に世に公にさせた。併し生物進化の事實の證明、自然淘汰の理窟などは孰れもなかなかの大論であつて、到底右の雜誌上に掲げた論文位で盡すことの出來るものでないから、更にダーウィンは急いで從來研究の結果の大要を書き綴り、一册の書として翌年の十一月に出版したが、之が即ち有名な「種の起源」である。
斯くの如く實際自然淘汰の説を唱へ出したのはダーウィンとウォレース二人同時であつたが、ダーウィンの方は既に十四五年も前から考へて居たことでもあり、また、翌年に至り立派な一册の書物を出したりして、ウォレースに比べると、考が遙に周到であつたから、ウォレースは快く自然淘汰發見の功を全くダーウィン一人に讓つて少しも爭らしいことをせぬのみならず、後に自分の著した進化論の書物の表題まで「ダーウィニズム」と附けたのは、實に量の寛い君子の心掛で、かの僅の功を相爭ひ互に罵詈し誹謗する人々の根性とは到底日を同じうして論ずることは出來ぬ。
それからまたこの「種の起源」といふ書物が實に感服に堪へぬ本である。四百何十頁位の中本ではあるが、著者が序文にも書いて置いた通り、之は眞の摘要であつて、十倍も大部な書物が書ける程に十分な材料が集まつて居る中から、最も必要な部分だけを選み出して、短く書いたものである。而してその中の議論の仕樣がまた非常に鄭重で、餘程控へ目にしてある具合は、僅の事實を基として空論の上に空論を積み上げる流儀とは全く正反對で、實に後世生物學を修める者等の好き模範といつて宜しい。たゞ多くの事實を餘り短く詰めて書いたから、全編餘り實質があり過ぎて、常に輕い書物を讀み慣れて居る人々には、之を咀嚼し消化するのに多少骨が折れるのは據(よんどころ)ないことである。
以上、略述した通り、今日我々の有する生物進化の考は決して突然生じたものでなく、十八世紀の末頃より漸々發達して來たものであるが、その中生物進化の事實に關することは最初は單に假説に過ぎなかつたのが、ダーウィンの研究によつて略々確となり、ダーウィン以後の多數の學者の研究によつて愈々確乎として動かぬものとなつたのであるから、之はダーウィンが與つて大に力あるには相違ないが、結局生物學全體が著しく進歩した結果といはねばならぬ。それ故、生物進化論を以てダーウィン説と見倣すことは決して穩當ではないが、之に反して生物進化の理由を説明するための自然淘汰の説は全くダーウィンが初めて考へ出したものである故、之は眞のダーウィン説と名づくべきものである。我我はこの説によつて初めて何故生物は進化し來つたかといふ原因の一部を察することが出來る。斯くの如く生物進化の事實と、之を説明するための自然淘汰説とは、全く別物で決して混同すべきものではない。自然淘汰説は今後の研究によつて如何に改められるか知らぬが、たとひこの説が全く誤謬として打破られたと假定しても、生物進化の事實は依然として存し、少しも之によつて動かされることはない。
[やぶちゃん注:「ダーウィン」以下、ウィキの「チャールズ・ダーウィン」から主に前半生(「種の起源」の公刊とウォーレスとの絡みの部分まで)を詳しく引く。異例に長い引用になるが、本書の性質上、不可欠と考えた。時間を惜しまれる方は、下線部のみだけでも拾い読みされたい。万一、ウィキから引用の範囲を越えているという疑義があれば、リンクのみにして総てを削除する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した。下線は総てやぶちゃん)。まず、「概要」部。『エディンバラ大学で医学、ケンブリッジ大学でキリスト教神学を学んでいるときに自然史への興味を育んだ。五年にわたるビーグル号』(H.M.S. Beagle:H.M.S. は Her Majesty's Ship の略。「女王陛下の船」。英国海軍軍艦を表わす艦船接頭辞)『での航海によって、チャールズ・ライエルの斉一説を理論と観察によって支持し、著名な地理学者となった。またその航海記によって人気作家としての地位を固めた。ビーグル号航海で集めた野生動物と化石の地理的分布は彼を悩ませ、種の変化の調査へと導いた。そして一八三八年に自然選択説を思いついた。そのアイディアは親しい数人の博物学者と議論されたが、より広範な研究に時間をかける必要があると考えた』。『理論を書き上げようとしていた一八五八年にアルフレッド・ラッセル・ウォレス』(後注する)『から同じアイディアを述べた小論を受け取った。二人の小論は即座に共同発表された。一八五九年の著書』「種の起源」(On the
Origin of Species)は『自然の多様性のもっとも有力な科学的説明として進化の理論を確立した』。「人間の由来と性に関連した選択」(The
Descent of Man, and Selection in Relation to Sex:1871)及び、続く「人及び動物の表情について」(The
Expression of the Emotions in Man and Animals:1872)では『人類の進化と性選択について論じた。植物に関する研究は一連の書籍として出版され、最後の研究はミミズが土壌に与える影響について論じている』。『ダーウィンの卓越性はみとめられ、十九世紀において王族以外で国葬が執り行われた五人のうちの一人となった。ウェストミンスター寺院でジョン・ハーシェルとアイザック・ニュートンの隣に埋葬されている』。以下、詳細な前半生の事蹟。地質学者(存命中、一貫した自称でもあった)で生物学者でもあったチャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin 一八〇九年二月十二日(文化五年十二月二十七日相当)~一八八二年(明治十五年)四月十九日)は『イングランドのシュロップシャー州シュルーズベリー』(Shrewsbury)『にて、裕福な医師で投資家だった父ロバート・ダーウィンと母スザンナ・ダーウィン』『の間に、六人兄弟の五番目の子供(次男)として生まれた。父方の祖父は高名な医師・博物学者であるエラズマス・ダーウィンであり、母方の祖父は陶芸家・企業家であるジョサイア・ウェッジウッドである』(あのイギリス最大の陶器会社「ウェッジウッド」(Wedgwood)の創設者)。『子供のころから博物学的趣味を好み、八歳の時には植物・貝殻・鉱物の収集を行っていた。父ロバートは祖父とは異なり博物学に興味はなかったが、園芸が趣味だったため幼少のダーウィンは自分の小さな庭を与えられていた。また祖父と同名の兄エラズマスは化学実験に没頭しており』、『ダーウィンに手伝わせた。ダーウィンは兄をラズと呼んで慕った』。『一八一八年からシュルーズベリーの寄宿舎校で学んだ後、十六歳(一八二五年)の時に父の医業を助けるため』、親元を離れ、『エディンバラ大学で医学と地質学を学』んだが、『血を見る』『のが苦手で、麻酔がまだ導入されていない時代の外科手術になじめず、また昆虫採集などを通じて実体験に即した自然界の多様性に魅せられていたことから、アカデミックな内容の退屈な講義になじめず、学位を取らずに一八二七年に大学を去ることになる。この頃、南米の探検旅行に同行した経験がある黒人の解放奴隷ジョン・エドモンストーンから動物の剥製製作術を学んだ。ダーウィンは彼を「非常に感じが良くて知的な人」と慕った。これは後にビーグル号の航海に参加し生物標本を作る際に役立った。二学年目にはプリニー協会(急進的な唯物論に魅せられた博物学の学生たちのクラブ。古代ローマの博物学者大プリニウスにちなむ)に所属し、海生生物の観察などに従事した。ダーウィンはロバート・グラントの海洋無脊椎動物の生活環と解剖学の研究を手伝った。ある日、グラントはジャン=バティスト・ラマルクの進化思想を称賛した。ダーウィンは驚いたが、その頃祖父の著作を読み類似した概念を、そしてその考えが論争的であることを知っていた。大学の博物学の授業は地質学の火成説と水成説論争などを含んでいたが退屈だった。また植物の分類を学び、当時ヨーロッパで最大のコレクションを誇ったエディンバラ大学博物館で研究を手伝った』。『エディンバラ大学で良い結果を残せず、父はダーウィンを牧師とするために一八二七年にケンブリッジ大学クライスト・カレッジに入れ、神学や古典、数学を学ばせた。ダーウィンは牧師なら空いた時間の多くを博物学に費やすことが出来ると考え』、『父の提案を喜んで受け入れた。しかしケンブリッジ大学でも』、はとこであった『ウィリアム・ダーウィン・フォックスとともに必修ではなかった博物学や昆虫採集に傾倒した。フォックスの紹介で聖職者・博物学者ジョン・スティーブンス・ヘンズローと出会い親しい友人、弟子となった。ダーウィンは学内では、ヘンズローが開設した庭園を二人でよく散歩していたことで知られていた。後にヘンズローとの出会いについて、自分の研究にもっとも強い影響を与えたと振り返っている。また同じく聖職者で地層学者だったアダム・セジウィッグに学び、層序学に並々ならぬ才能を発揮した。同時に当時のダーウィンは神学の権威ウィリアム・ペイリーの』「自然神学」を読み、そのデザイン論『(全ての生物は神が天地創造の時点で完璧な形でデザインしたとする説)』を『信じた。自然哲学の目的は観察を基盤とした帰納的推論によって法則を理解することだと記述したジョン・ハーシェルの新しい本や、アレキサンダー・フンボルトの科学的探検旅行の本を読んだ。彼らの「燃える熱意」に刺激され、熱帯で博物学を学ぶために卒業のあと同輩たちとテネリフェへ旅行する計画を立て、その準備としてアダム・セジウィッグのウェールズでの地層調査に加わった。また、ビーグル号で博物学者としての任務を果たす準備ともなった』。『この時代には音楽や狩猟(ただし、後者は後に「残酷だから」とやめることになる)を趣味としていた。また一年目の一八二七年夏にはジョサイア二世やその娘で将来の妻になるエマ・ウェッジウッドとヨーロッパ大陸に旅行し、パリに数週間滞在している。これは最初で最後のヨーロッパ大陸滞在だった』。『一八三一年に中の上の成績でケンブリッジ大学を卒業した。 多くの科学史家はこの両大学時代をダーウィンの人生の中でも特に重要な時期だったと見ているが、本人はのちの回想録で「学問的にはケンブリッジ大学も(エディンバラ大学も)得る物は何もなかった」と述べている』。『一八三一年にケンブリッジ大学を卒業すると、恩師ヘンズローの紹介で、同年末にイギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船することになった。父ロバートは海軍での生活が聖職者としての経歴に不利にならないか、またビーグル号のような小型のブリッグ船は事故や遭難が多かったことで心配し、この航海に反対したが、叔父ジョサイア二世の取りなしで参加を認めた。専任の博物学者は他におり、ロバート・フィッツロイ艦長の会話相手のための客人としての参加だったため、海軍の規則にそれほど縛られることはなかった。しかし幾度か艦長と意見の対立があり、のちに「軍艦の中では、艦長に対して 通常の範囲で意見表明するのも反乱と見なされかねなかった」と述べている』。『ビーグル号は一八三一年十二月二十七日にプリマスを出航した。南米に向かう途中にカーボヴェルデに寄港した。ダーウィンはここで火山などを観察し、航海記録の執筆を始めている。そのあと南米東岸を南下し』、『バイーアを経てリオデジャネイロに立ち寄ると、正式な「艦の博物学者」だった艦医マコーミックが下船したため、非公式ながら』、『ダーウィンがその後任を務めることになった。ビーグル号が海岸の測量を行っている間に、内陸へ長期の調査旅行をたびたび行っている。モンテビデオを経て出航からおよそ一年後の一八三二年十二月一日にはティエラ・デル・フエゴ島についた。ビーグル号はこの島から若い男女を連れ帰り、宣教師として教育し連れ帰ってきていたが、ダーウィンはフエゴ島民と宣教師となった元島民の違いにショックを受けた。フエゴ島民は地面に穴を掘ったようなところに住み、まるで獣のようだ、と書き記している。東岸の調査を続けながら一八三四年三月にフォークランド諸島に立ち寄ったとき、ヘンズローから激励と標本の受け取りを知らせる手紙を受け取った』。『一八三四年六月にマゼラン海峡を通過し、七月に南米西岸のバルパライソに寄港した。ここでダーウィンは病に倒れ、一月ほど療養した。ガラパゴス諸島のチャタム島(サン・クリストバル島)に到着したのは一八三五年九月十五日であり、十月二十日まで滞在した。当時のガラパゴス諸島は囚人流刑地だった。ダーウィンは諸島が地質学的にそう古いものとは思えなかったため(現在ではおよそ五百万年と考えられている)、最初』、ゾウガメ(カメ目潜頸亜目リクガメ上科リクガメ科リクガメ属ガラパゴスゾウガメ Geochelone nigra 及び同亜種類。但し、Chelonoides 属とする説もある)は『海賊たちが食料代わりに連れてきたものだと考えていたが、ガラパゴス総督からゾウガメは諸島のあちこちに様々な変種がおり、詳しい者なら違いがすぐに分かるほどだと教えられ、初めてガラパゴス諸島の変種の分布に気づいた。なお、この時、ダーウィンがガラパゴス諸島から持ち帰ったとされるガラパゴスゾウガメ、ハリエットは百七十五歳まで生き、二〇〇六年六月二十二日に心臓発作のため他界している』。『一般にはガラパゴス諸島でダーウィンフィンチ』(鳥綱スズメ目フウキンチョウ科 Thraupidae の仲間。フィンチ類(Finches)に似ていることからかく呼称するが、フィンチはスズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科 Fringillidae で別な種群である)『の多様性から進化論のヒントを得たと言われているが、ダーウィンの足跡を研究したフランク・サロウェイによれば、ダーウィンはガラパゴス諸島滞在時にはゾウガメやイグアナ(ガラパゴスリクイグアナおよびウミイグアナ)』(前者は爬虫綱有鱗目トカゲ亜目イグアナ下目イグアナ科イグアナ亜科オカイグアナ属ガラパゴスリクイグアナ Conolophus subcristatus、後者はイグアナ亜科ウミイグアナ属ウミイグアナ Amblyrhynchus cristatus)、『マネシツグミ』(狭義には鳥綱スズメ目スズメ亜目スズメ小目ヒタキ上科マネシツグミ科マネシツグミ Mimidae Bonaparte)に、『より強い興味を示した。しかしまだ種の進化や分化に気がついていなかったので、それは生物の多様性をそのまま記載する博物学的な興味だった。鳥類の標本は不十分にしか収集しておらず、それらが近縁な種であるとも考えておらず(ムシクイ』類(現行ではスズメ亜目スズメ小目 Passerida に分類される旧世界ムシクイ類(Old World Warblers)の多様な科群に含まれる鳥類の総称)『など別の鳥の亜種だと考えていた)、どこで採取したかの記録も残していなかった。ガラパゴス総督から諸島の生物の多様性について示唆を受けたときには既に諸島の調査予定が終わりつつあり、ダーウィンはひどく後悔している。鳥類標本については後に研究に際して同船仲間のコレクションを参考にせざるを得なかった。また標本中のフィンチ類やマネシツグミ類がそれぞれ近縁な種であると初めて発見したのは、帰国後に標本の整理を請け負った鳥類学者のジョン・グールドだった』(引用で後述される)。『一八三五年十二月三十日にニュージーランドへ寄港し、一八三六年一月にはオーストラリアのシドニーへ到着した。その後、インド洋を横断し、モーリシャス島に寄港した後』、『六月にケープタウンへ到着した。ここでは当時ケープタウンに住んでいた天文学者のジョン・ハーシェルを訪ねている。またヘンズローからの手紙によって、イギリスでダーウィンの博学的名声が高まっていることを知らされた。セントヘレナ島ではナポレオンの墓所を散策している。八月に南米バイーアに再び立ち寄ったが天候の不良のため内陸部への再調査はかなわなかった。カーボヴェルデ、アゾレス諸島を経て一八三六年十月二日にファルマス港に帰着した。航海は当初三年の予定だったが、ほぼ五年が経過していた』。『後にダーウィンは自伝で、この航海で印象に残ったことを三つ書き残している。一つは南米沿岸を移動すると、生物が少しずつ近縁と思われる種に置き換えられていく様子に気づいたこと、二つめは南米で今は生き残っていない大型の哺乳類化石を発見したこと、三つ目はガラパゴス諸島の生物の多くが南米由来と考えざるを得ないほど南米のものに似ていることだった。つまりダーウィンはこの航海を通して、南半球各地の動物相や植物相の違いから、種が独立して創られ、それ以来不変の存在だとは考えられないと感じるようになった。またダーウィンは』、航海中にライエルの「地質学原理」を読み、『地層がわずかな作用を長い時間累積させて変化するように、動植物にもわずかな変化があり、長い時間によって蓄積されうるのではないか、また大陸の変化によって、新しい生息地ができて、生物がその変化に適応しうるのではないかという思想を抱くに至った』。『ダーウィンはこの航海のはじめには自分を博物学の素人と考えており、何かの役に立てるとは思っていなかった。しかし航海の途中で受け取ったヘンズローの手紙から、ロンドンの博物学者は自分の標本採集に期待していると知り自信を持った。サロウェイは、ダーウィンがこの航海で得た物は「進化の証拠」ではなく、「科学的探求の方法」だったと述べている』。『ダーウィンが帰国したとき、ヘンズローが手紙をパンフレットとして博物学者たちに見せていたので科学界ですでに有名人だった。ダーウィンはシュールズベリーの家に帰り家族と再会すると急いでケンブリッジへ行きヘンズローと会った。ヘンズローは博物学者がコレクションを利用できるよう』、『カタログ作りをアドバイスし、植物の分類を引き受けた。息子が科学者になれると知った父は息子のために投資の準備を始めた。ダーウィンは興奮し』、『コレクションを調査できる専門家を探してロンドン中を駆け回った。特に保管されたままの標本を放置することはできなかった』。『十二月中旬にコレクションを整理し』て、『航海記を書き直すためにケンブリッジに移った。最初の論文は南アメリカ大陸がゆっくりと隆起したと述べており、ライエルの強い支持のもと』、一八三七年一月に『ロンドン地質学会で読み上げた。同日、哺乳類と鳥類の標本をロンドン動物学会に寄贈した。鳥類学者ジョン・グールドはすぐに、ダーウィンがクロツグミ、アトリ、フィンチの混ぜあわせだと考えていたガラパゴスの鳥たちを十二種のフィンチ類だと発表した。二月にはロンドン地理学会の会員に選ばれた。ライエルは会長演説でダーウィンの化石に関するリチャード・オーウェンの発見を発表し、斉一説を支持する種の地理的連続性を強調した』。『一八三七年三月、仕事をしやすいロンドンに移住し、科学者やチャールズ・バベッジのような学者の輪に加わった。バベッジのような学者はその都度の奇跡で生命が創造されたのではなく、むしろ生命を作る自然法則を神が用意したと考えていた。ロンドンでダーウィンは自由思想家となっていた兄エラズマスと共に暮らした。エラズマスはホイッグ党員』(Whig:英国の政党。一六八〇年頃、都市部の商工業者や中産階級を基盤に形成され、議会の権利や民権の尊重を主張、トーリー党と対立しつつ、英国議会政治を発展させた。一八三〇年代に自由党と改称)で、『作家ハリエット・マティノーと親しい友人だった。マティノーは貧しい人々が食糧供給を越えて増えることができないように行われた、ホイッグ党の救貧法改正の基礎となったトマス・マルサスのアイディアを推進した。またダーウィンの友人たちが不正確で社会秩序にとって危険だと言って退けたグラントの意見にも耳を傾けた』。『ダーウィンの調査結果を議論するために行われた最初の会合で、グールドは異なる島から集められたガラパゴスマネシツグミが亜種ではなく別の種』(スズメ目マネシツグミ科マネシツグミ属ガラパゴスマネシツグミ Mimus parvulus)だったこと、ダーウィンフィンチの『グループにミソサザイ』(スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes)『が含まれていたことを告げた。ダーウィンはどの標本をどの島から採集したか記録を付けていなかったが、フィッツロイを含む他の乗組員のメモから区別する事ができた。動物学者トーマス・ベルはガラパゴスゾウガメが島の原産であると述べた。三月中旬までにダーウィンは絶滅種と現生種の地理的分布の説明のために、「種が他の種に変わる」可能性を考え始めた。七月中旬に始まる「B」ノートでは変化について新しい考えを記している。彼はラマルクの「一つの系統がより高次な形態へと前進する」という考えを捨てた。そして生命を一つの進化樹から分岐する系統だと見なし始めた。「一つの動物が他の動物よりも高等だと言うのは不合理である」と考え』、『種の変化に関する研究を発展させると同時に、研究の泥沼に入り込んでいった。まだ航海記を書き直しており、コレクションに関する専門家のレポートの編集も行っていた。ヘンズローの協力でビーグル号航海の動物記録の大著を完成させるための一千ポンドの資金援助を政府から引き出した。ダーウィンは南アメリカの地質に関する本を通してライエルの斉一説を支持する、気の遠くなるような長い時間が存在したことを認めた。ヴィクトリア女王が即位したちょうどその日、一八三七年六月二十日に航海記を書き終えたが』、『修正のためにまだ出版できなかった。その頃』、『ダーウィンは体の不調に苦しんでいた。九月二十日に「心臓に不快な動悸」を覚えた。医者は全ての仕事を切り上げて二、三週間は田舎で療養するよう勧めた。ウェッジウッド家の親戚を訪ねるためにシュールズベリーを尋ねたが、ウェッジウッド家の人々は航海の土産話を聞きたがり』、『休む暇を与えなかった。九ヶ月年上のいとこエマ・ウェッジウッドは病床の叔母を看護していた。ジョスおじ(ジョサイア・ウェッジウッド二世)は地面に沈み込んだ燃えがらを指して、ミミズの働きであることを示唆した。十一月にロンドン地質学会でこの話を発表したが、これは土壌の生成にミミズが果たす役割を実証的に指摘した最初のケースだった』。『ウィリアム・ヒューウェルは地質学会の事務局長にダーウィンを推薦した。一度は辞退したが、一八三八年三月に引き受けた。ビーグル号の報告書の執筆と編集に苦しんでいたにもかかわらず、種の変化に関して注目に値する前進をした。プロの博物学者からはもちろん、習慣にとらわれずに』、『農民やハトの育種家などからも実際の経験談を聞く機会を逃さなかった。親戚や使用人、隣人、入植者、元船員仲間などからも情報を引き出した。最初から人類を推論の中に含めており、一八三八年三月に動物園でオランウータンが初めて公開されたとき、その子どもに似た振る舞いに注目した。六月まで何日も胃炎、頭痛、心臓の不調で苦しんだ。残りの人生の間、胃痛、嘔吐、激しい吹き出物、動悸、震えなどの症状でしばしば何もすることができなくなった。この病気の原因は当時何も知られておらず、治癒の試みは成功しなかった。現在、シャーガス病』(Chagas' disease:原虫トリパノソーマ・クルージ
Trypanosoma cruzi の感染を原因とする人獣共通感染症。中南米において発生する。哺乳類吸血性である半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目トコジラミ下目サシガメ上科サシガメ科 Reduviidae のサシガメ類をベクター(媒介)とする。私はダーウィンはビーグル号の航海中に南米で捕獲したサシガメを飼育し、餌として自分の血を吸わせており、それが感染源であるとする話を読んだことがある)、『あるいはいくつかの心の病が示唆されているが、明らかになっていない。六月末にはスコットランドに地質調査のために出かけた。平行な「道」が山の中腹に三本走っていることで有名なグレン・ロイを観察した。後に、これは海岸線の痕だ、と発表したが、氷河期にせき止められてできた湖の痕だと指摘され自説を撤回することになった。この出来事は性急に結論に走ることへの戒めとなった。体調が完全に回復すると』、『七月にシュールズベリーに戻った』。『姉キャロラインとエマの兄ジョサイア三世が一八三八年に結婚すると、ダーウィンも結婚を意識し始めた。一八三八年七月に、動物の繁殖を書き留めたノートに将来の見通しについて二つの走り書きをした。“結婚”と“結婚しない”。利点には次のように書いた。「永遠の伴侶、年をとってからの友人……いずれにせよ犬よりまし」。欠点については次のように書いた。「本のためのお金が減る、おそろしいほどの時間の無駄」』。『結局ダーウィンは十一月にプロポーズし、一八三九年一月に結婚した。父から戒められていたにもかかわらず』、『ダーウィンは自分の非宗教的な考えを話した。エマは受け入れたが、愛情を伝えあう手紙のやりとりで、二人の差異を共有しあう率直さをほめると同時に、自分のユニテリアン』(Unitarian:キリスト教で、三位一体説を否定し、神の唯一性を強調するグループ。従って、イエス・キリストを宗教指導者としては認めるものの、神としての超越性は否定している)『の強い信仰と夫の率直な疑念によって二人が来世で離ればなれにするかも知れないと懸念を打ち明けた。エマは信仰心が篤く』、『「いくら追求しても答えが得られないこと、人が知る必要のないことにまで必要以上に科学的探求をもちこまないでほしい」とも書いている。ダーウィンがロンドンで家を探している間にも病気は続いた。エマは「もうこれ以上悪くならないで、愛しのチャーリー、私がいっしょにいてあなたを看病できるようになるまで」と手紙を書き、休暇を取るよう訴えた。結局』、『ガウアー通りに家を見つけ、クリスマスにはその「博物館」へ引っ越した。一八三九年一月二十四日にダーウィンはロンドン王立協会の会員に選出され、五日後の一月二十九日にメアの英国国教会でユニテリアン式にアレンジされた結婚式が行われた。式が終わると二人はすぐに鉄道でロンドンへ向かった。十二月には長男ウィリアムが誕生した』。『一八三九年にはビーグル号航海の記録がフィッツロイ艦長の著作と合わせた三巻本の一冊として出版され』、『好評を博した。これは一八四三年までに全五巻の』「ビーグル号航海の動物学」(Zoology
of the Voyage of H.M.S. Beagle)として『独立して出版され、その後も改題と改訂を繰り返した。続いて一八四二年から「ビーグル号航海の地質学」全三巻が出版された。『ロンドンで研究を続けているときに、トマス・マルサスの『人口論』第六版を読んで次のように述べ』ている。
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『一八三八年十一月、つまり私が体系的に研究を始めた十五ヶ月後に、私はたまたま人口に関するマルサスを気晴らしに読んでいた。動植物の長く継続的な観察から至る所で続く生存のための努力を理解できた。そしてその状況下では好ましい変異は保存され、好ましからぬものは破壊される傾向があることがすぐに私の心に浮かんだ。この結果、新しい種が形成されるだろう。ここで、そして私は機能する理論をついに得た』(「自伝」)
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『マルサスは人間の人口は抑制されなければ等比数列的に増加し、すぐに食糧供給を越え破局が起きると主張した。ダーウィンはすぐにこれをド・カンドルの植物の「種の交戦」や野生生物の間の生存のための努力に応用して見直し、種の数がどのようにして大まかには安定するかを説明する準備ができていた。生物が繁殖のために利用できる資源には限りがあるので、好ましい変異を持った個体はより生き延び彼らの子孫にその変異を伝える。同時に好ましくない変異は失われるだろう。この結果、新種は誕生するだろう。一八三八年九月二十八日にこの洞察を書き付け』、「くさびのようなもの」と『記述した』。「『弱い構造は押し出され、適応的な構造は自然の経済の隙間に押し込められる』」の謂いである。『翌月一杯をつかって、農民がもっともすぐれた個体を繁殖へ用いるのと比較し、マルサス的自然が「可能性」によって変異を取り上げ、その結果「新たに獲得した構造のあらゆる部分は完全に熟練しており完璧だ」と述べた。そしてこのアナロジーを自分の理論でもっとも美しい部分と考えた』。『ダーウィンは今や自然選択の理論のフレームワークを持っていた。彼の研究は畜産学から植物の広範な研究まで含んだ。種が固定されていないという証拠の発見、アイディアの細部を洗練するための調査を行った。十年以上、この研究はビーグル号航海の科学的なレポートを出版するという主要な仕事の陰で行われていた』。『一八四二年のはじめにライエルに宛てて自分の考えを伝え、ライエルは盟友が「各々の種の始まりを見る事を拒否する」と記した。五月には三年の研究を経て』、『珊瑚礁に関する研究を発表した。それから「ペンシルスケッチ」と題して理論を書き始めた。九月にはロンドンの不衛生と喧噪を避けてロンドン近郊のダウン村に引っ越した。一八四四年一月十一日にジョセフ・ダルトン・フッカーに自分の理論を「殺人を告白するようなものですが」と添えて打ち明けた。フッカーは次のように答えた。「私の考えでは、一連の異なる点の生成と、漸進的な種の変化があったのかも知れない。私はどのように変化が起こったのかあなたの考えを聞けて嬉しい。こんなに早くこの問題で安心できるとは思わなかった。」『七月までには早く死んだときに備えて「スケッチ」を二百三十ページの「エッセイ」に拡張し、もしもの時には代わりに出版するよう妻に頼んだ。十一月には匿名で出版された進化に関する著書』「創造の自然史の痕跡」(Vestiges
of the Natural History of Creation)『が幅広い論争を引き起こした。この本は一般人の種の変化に対する関心を引き起こし、ベストセラーとなった。ダーウィンはその素人のような地質学と動物学の議論を一蹴したが、同時に自身の議論を慎重に見直した。一八四六年には地質学に関する三番目の本を完成させた。それから海棲無脊椎動物の研究を始めた。学生時代にロバート・グラントとともに行ったように、ビーグル号航海で収集したフジツボを解剖し分類した。美しい構造の観察を楽しみ、近縁種と構造を比較して思索した』。『一八四七年にフッカーはエッセイを読み、ダーウィンが望んだ重要な感想を書き送ったが、継続的な創造行為へのダーウィンの反対に疑問を呈し、まだ賛同しなかった。一八五一年にはもっともかわいがっていた娘のアニーが十歳で死去した。八年にわたるフジツボの研究は理論の発展を助けた。彼は相同性から、わずかに異なった体の器官が新しい環境で必要を満たすように十分機能することを発見した。またいくつかの属でオスが雌雄同体個体に寄生していることを発見し、二性の進化の中間的な段階を示していることに気付いた』。『一八四八年には父ロバートが没した。医者として成功した父をダーウィンは生涯敬愛していた。この頃のダーウィン家は父や叔父の残した財産の運用で生計を立てていた。百ポンドで中流の暮らしができた当時に、夫妻は父と叔父から九百ポンドの支援を受けていて、晩年には年八千ポンドの運用益があったと言われる。ダーウィンと同じように医者を目指し挫折した兄エラズマスものちにダウンに移住し、父の遺産で優雅な隠遁生活を送っていた。一八五〇年には世界航海から帰国したトマス・ハクスリーと知り合っている』。『一八五三年に王立協会からロイヤル・メダルを受賞し、生物学者としての名声を高めた。一八五四年に再び種の理論の研究を始め、十一月には子孫の特徴の差異が「多様化された自然の経済の位置」に適応していることで上手く説明できると気付いた』。ダーウィンは、『生物の進化は、すべての生物は変異を持ち、変異のうちの一部は親から子へ伝えられ、その変異の中には生存と繁殖に有利さをもたらす物があると考えた。そして限られた資源を生物個体同士が争い、存在し続けるための努力を繰り返すことによって起こる自然選択によって引き起こされると考えた』。また、『遺伝については』パンゲネシスシス(pangenesis)という『説を唱えて説明した。これは「ジェミュール」』(Gemmules)『という微小な粒子が体内を巡り、各器官で獲得した情報を蓄え、生殖細胞に集まり、特徴・形質が子に受け継がれ、子の体において各器官に分散することで親の特徴を伝える、という説である。ダーウィンは、ラマルクと同じように獲得形質の遺伝を支持していたのである』。『メンデルの遺伝の法則は当時まだ知られていなかった。当時は遺伝物質の融合説(遺伝を伝える物質があったとしても、それは子ができる過程で完全に融合する)が広く知られていたが、ダーウィンはメンデルが行った実験と同じように、スイートピーの交雑実験で形質が必ずしも融合するわけではないとつき止めていた。しかしフリーミング・ジェンキンが行った変異は融合するから集団中に維持されないという批判に上手く応えることができ』なかったため、生涯、『ダーウィンを悩ませた。また変異がどのように誕生するのかを説明することもできなかった。ダーウィンは当時の多くの科学者と同じく進化と発生を区別しておらず、食物や発生中の刺激によって新たな変異が生まれると考えた。この問題は後に突然変異が発見されるまで解決されなかった』。『自然選択を万能な物と見なしたウォレスはクジャクの羽やゴクラクチョウの長い尾羽など、一見生存の役に立ちそうもない性質にも適応的な意味があるのだろうと考えた。ダーウィンはその可能性を否定もしなかったが、多くの生物で雌がパートナー選びの主導権を握っていることに気づいており、生存に有利でない性質も雌の審美眼のようなもので発達することがあるのではないかと考えた。そして自然選択説とは別に性選択説を唱えた。さらに性比(多くの生物で雄と雌の比率が一対一になるが、一部の生物では偏りがあること)や性的二型の問題を初めて科学的に考察する価値があると考えた。特に性比に関しては生物進化の視点から説明できると考え、後に頻度依存選択(頻度依存淘汰、生存と繁殖可能性が自然環境に左右されるのではなく、グループ中のその性質の多寡に依存する、つまりある性質が「少数派である」ことだけで生存と繁殖に有利に働くこと)と呼ばれることになる概念を先取りしていた。しかし、これらの問題は複雑なので後世に残した方が安全だろうとのべ、明確な答えを残さなかった』。『新たな種が形成されるメカニズムを種分化と呼んだが、どのようなメカニズムでそれが起きるのかは深く追求しなかった。そのため彼の死後、自然選択だけで種分化が起きるかどうかで議論が起こった』。『一八五六年のはじめに卵と精子が種を海を越えて拡散するために海水の中で生き残れるかどうかを調べていた。フッカー』(後注する)『はますます種が固定されているという伝統的な見方を疑うようになった。しかし彼らの若い友人トマス・ハクスリーははっきりと進化に反対していた。ライエルは彼らの問題意識とは別にダーウィンの研究に興味を引かれていた。ライエルが種の始まりに関するアルフレッド・ウォレスの論文を読んだとき、ダーウィンの理論との類似に気付き、先取権を確保するためにすぐに発表するよう促した。ダーウィンは脅威と感じなかったが、促されて短い論文の執筆を開始した。困難な疑問への回答をみつけるたびに論文は拡張され、計画は『自然選択』と名付けられた「巨大な本」へと拡大した。ダーウィンはボルネオにいたウォレスを始め』、『世界中の博物学者から情報と標本を手に入れていた。アメリカの植物学者エイサ・グレイは類似した関心を抱き、ダーウィンはグレイに一八五七年九月に『自然選択』の要約を含むアイディアの詳細を書き送った。十二月にダーウィンは本が人間の起源について触れているかどうか尋ねるウォレスからの手紙を受け取った。ダーウィンは「偏見に囲まれています」とウォレスが理論を育てることを励まし、「私はあなたよりも遥かに先に進んでいます」と付け加えた』。『一八五八年六月十八日に「変異がもとの型から無限に離れていく傾向について」と題して自然選択を解説するウォレスからの小論を受け取ったとき、まだ『自然選択』は半分しか進んでいなかった。「出鼻をくじかれた」と衝撃を受けたダーウィンは、求められたとおり』、『小論をライエルに送り、ライエルには』、「『出版するよう頼まれてはいないが』、『ウォレスが望むどんな雑誌にでも発表すると答えるつもりです』」『と言い添えた。その時』、『ダーウィンの家族は猩紅熱で倒れており』、『問題に対処する余裕はなかった。結局』、『幼い子どもチャールズ・ウォーリングは死に、ダーウィンは取り乱していた。この問題はライエルとフッカーの手に委ねられた。二人はダーウィンの記述を第一部(千八百四十四年の「エッセー」からの抜粋)と第二部(一八五七年九月の植物学者グレイへの手紙)とし、ウォレスの論文を第三部とした三部構成の共同論文として一八五八年七月一日のロンドン・リンネ学会で代読した』。『ダーウィンは息子が死亡したため』、『欠席せざるをえず、ウォレスは協会員ではなく』、『かつマレー諸島への採集旅行中だった。この共同発表は、ウォレスの了解を得たものではなかったが、ウォレスを共著者として重んじると同時に、ウォレスの論文より古いダーウィンの記述を発表することによって、ダーウィンの先取権を確保することとなった』。[やぶちゃん注:以下、「『種の起源』への反響」の前半部は略す。]『ウォレスが一八五八年に送った最初の手紙では(初めてウォレスがダーウィンに手紙を送ったのは一八五六年頃と言われる)、種は変種と同じ原理で生まれるのではないか、そして地理や気候の要因が大きいのではないか、という物だった(当時の創造論では種は神が作った不変なものだが、亜種や変種は品種改良などで誕生しうるという説が強かった)。しかし同年に再び送られてきた次の手紙ではマルサスの『人口論』が反映されており』、『ダーウィンの自然選択説に近いものになっていた。しかしこの頃』、『ダーウィンは生態的地位や適応放散にまで考察が及んでいた。翌年出版された『種の起源』を読んだウォレスは「完璧な仕事で自分は遠く及ばない」と述べている』。『ダーウィンの親しい友人グレイ、フッカー、ハクスリー、ライエルでさえ様々な留保を表明したが、それでも若い次世代の博物学者たちと供に常にダーウィンを支持し続けた。ハクスリーが宗教と科学の分離を主張する一方で、グレイとライエルは和解を望んだ。ハクスリーは教育における聖職者の権威に対して好戦的に論陣を張り、科学を支配する聖職者と貴族的なアマチュアの優位を転覆しようと試み』[やぶちゃん注:以下、一部を省略した。]、『二年にわたる』それは、遂に『「保守派」を追放することに劇的に成功した』。『ダーウィンは自然選択の発見をウォレスに断りなく共同発表としたことを、手柄の横取りと受け止められることを畏れた。しかしウォレスはむしろその行為に満足し、ダーウィンを安心させた。自然選択以外は多くの点で意見を異にしていたにもかかわらず、ウォレスとダーウィンの友好的な関係は生涯続いた。しかし当事者以外でこの行為を誤解した者もおり、手柄を横取りしたという批判を避けることはできず、この形の批判は現在でも残存している。ダーウィンは後年、生活に困窮していたウォレスを助けるため、グラッドストン首相に年金下付を働きかけるなど支援を行っている』[やぶちゃん注:以下、続きは引用したウィキの「チャールズ・ダーウィン」で読まれたい。]。
「ウォレース」ウィキの「アルフレッド・ラッセル・ウォレス」の冒頭概要のみを引く。アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)は、『イギリスの博物学者、生物学者、探検家、人類学者、地理学者。アマゾン川とマレー諸島を広範囲に実地探査して、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、ウォレス線を特定した。そのため時に生物地理学の父と呼ばれることもある。チャールズ・ダーウィンとは別に自身の自然選択を発見した結果、ダーウィンは理論の公表を行った。また自然選択説の共同発見者であると同時に、進化理論の発展のためにいくつか貢献をした』十九世紀の『主要な進化理論家の一人である。その中には自然選択が種分化をどのように促すかというウォレス効果と、警告色の概念が含まれる』。『心霊主義の唱道と人間の精神の非物質的な起源への関心は当時の科学界、特に他の進化論の支持者との関係を緊迫させたが、ピルトダウン人ねつ造事件の際は、それを捏造を見抜く根拠ともなった』。『イギリスの社会経済の不平等に目を向け、人間活動の環境に対する影響を考えた初期の学者の一人でもあり、講演や著作を通じて幅広く活動した。インドネシアとマレーシアにおける探検と発見の記録は』「マレー諸島」(The Malay Archipelago:1869)として出版され、十九世紀の『科学探検書としてもっとも影響力と人気がある一冊だった』。彼に就いては、「ナショナルジオグラフィック」(二〇〇八年十二月号)の「特集:ダーウィンになれなかった男」が詳細にして核心を突いており、お薦めである。
「フッカー」イギリスの植物学者ジョセフ・ダルトン・フッカー(Joseph Dalton Hooker 一八一七年~一九一一年)。南極・インド・シッキム地方などを調査し、多くの植物標本を収集、一八七三年から一八七八年はロンドン王立協会の会長も務めた。参照したウィキの「ジョセフ・ダルトン・フッカー」の「進化論との関わり」の項には(アラビア数字を漢数字に代えた。一部、ダーウィンの引用記載と重なるが、そのまま引いた。一部、記載に不備がある箇所を操作した。下線は総てやぶちゃん)、『フッカーは南極探検航海から帰ると、自分で採集した植物標本の分類の合間にダーウィンのビーグル号航海の植物標本の整理も請け負うことになった。フッカーは出航前に一度ダーウィンと会っていたが、一八四三年末から文通で意見を交わすようになった。そしてわずか二ヶ月後の一八四四年はじめには、ダーウィンはフッカーに「殺人を告白するようなものですが、種は変化すると確信しました」と書き送っている。フッカーはおそらく科学者としてはダーウィンの理論を初めて明かされた人物である。その頃から二人は家族ぐるみで親交を深めるようになっていった。一八四七年には自然選択説の概要を受け取り、意見を求められている。フッカーは大量の生物学や地質学の資料、そしてロンドンの科学界の情報をダウン村に隠棲していたダーウィンに送っている。彼らの文通はダーウィンが理論を発展させる過程を通して続いた。後にダーウィンはフッカーを「私が共感を得つづけることができた、たった一人の人物(iving soul)」だと表現した。リチャード・フリーマンは二人の関係について次のように書いた。「フッカーはチャールズ・ダーウィンのもっとも偉大な友人であり心を許せる人であった」』。『初めて自然選択説の概要を見たときには全く賛成しておらず、その後十年にわたって自然選択説の第一の批判者であった。一八五三年の著書では種は不変であると述べている』。しかし、「種の起源」と『同時期に出版された』『エッセイで』『彼は』『自然選択説への支持を表明し、科学界から認められた人物の中でダーウィンを公的に支持した最初の人物となった。科学史家の松永俊男はフッカーの転換を一八五九年の初頭と指摘している』。『一八五八年にダーウィンがアルフレッド・ラッセル・ウォレスから自然選択説を述べた論文を受け取ると、ダーウィンの長年の研究を知っていたフッカーはチャールズ・ライエルと共に、自然選択説を共同発表することを勧め、同年のロンドン・リンネ協会で欠席したダーウィンの代わりに二人の論文を代読した』。『一八六〇年六月にオックスフォード博物館で進化について歴史的な討論会が行われた。サミュエル・ウィルバーフォース主教、ベンジャミン・ブローディ、ロバート・フィッツロイはダーウィンの理論に対して反対し、トマス・ハクスリーとフッカーは擁護した。当時の多くの解説によれば、ウィルバーフォースの主張にもっとも効果的に応えたのはハクスリーではなくフッカーであった』。『フッカーは一八六八年にイギリス学術協会の会長を務めた。ノリッジで行われた会議での会長演説でフッカーはダーウィンの理論を支持した。彼はトマス・ハクスリーとも親友であ』った。『一九〇九年の『種の起源』五十周年記念講演には』、『すでに九十歳を超えているにもかかわらず』、出席、『講演を行っ』ている、とある。]
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