北條九代記 卷之八 陸奥守重時相摸守時賴出家 付 時賴省悟
○陸奥守重時相摸守時賴出家 付 時賴省悟
同じく八年三月十一日、陸奥守重時、政務を辭して出家せらる。法名觀覺とぞ號しける。同四月十四日、陸奥守政村、執権の事を承り、政所始あり。この人は、重時入道の舍弟とて、共に泰時の連枝(れんし)なり。廉直(れんちよく)の政道、諸人の心に叶ひけるにや、又將軍の武威、耀くの故にや、久しく關東、靜にして、最(いと)寛(ゆるやか)にぞ覺えける。康元元年十一月二十三日、相摸守時賴、最明寺にして飾(かざり)を落(おと)し、法名覺了房道崇(だうそう)とぞ號しける。生年三十歳。日比の素懷(そくわい)と聞えたり。時賴の嫡子は、未だ幼稚(えうち)におはしければ、執權をば重時入道の次男、武藏守長時に預け讓られけり。しかるに、時賴は往初、寶治の初(はじめ)、蜀の隆蘭溪(りうらんけい)、日本に來りて佛心を弘通(ぐつう)せらる。寛元四年、鎌倉の壽福寺に下向あり。相州時賴、政事の暇(いとま)、相看(しやうかん)して、佛法の大道(たいだう)を問ひ給ふ。去ぬる建長二年に、建長寺を建立し、同五年十一月二十五日に、落慶供養を遂げられ、道隆(だうりう)禪師を以て開山とせらる。後に蜀の僧、普寧兀菴(ふねいごつあん)の本朝に來りしを、鎌倉に招請し、巨福山(こふくさん)建長寺に留(とゞ)めて、參禮(さんらい)し、見性(けんしやう)せん事を望まれしに、政務を止めて工夫を凝(こら)し、懇(ねんごろ)に指示せられしかば、森羅萬像(しんらばんざう)、山河大地、自己と無二無別の理を明めらる。普寧、即ち、「靑々たる翠竹、盡(ことごと)く是(これ)、眞如(しんによ)、欝々(うつうつ)たる黄花、般若(はんにや)にあらずと云ふ事なし」と示されしに、時賴入道、言下に契悟(けいご)し、「二十年來、旦暮(たんぼ)の望(のぞみ)、滿足す」とて、九拜歓喜せられけり。猶、この後も、國家静謐(せいひつ)の政事(せいじ)を聞きて、人民安穩の仁德を專(もつぱら)に心に籠められ、世間、出世、諸共(もろとも)に、身の上にぞ治行(をさめおこな)はれける。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻四十三の建長五(一二五二)年十一月二十五日、及び、建長八(一二五六)年三月十一日、四月十四日、及び、康元元(一二五六:建長八年十月五日改元)年十一月二十三日の他、湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、「将軍記」「日本王代一覧」及び「元亨釈書」を基にしているとある。
「省悟」「せいご」と読む。一般名詞としては「反省して過ちを悟ること」であるが、ここは本文の「契悟」に同じい。悟達。
「同じく八年」建長八(一二五六)年だが、十月五日に康元に改元している。
「陸奥守重時、政務を辭して出家せらる」この五年後の弘長元(一二六一)年六月一日に重時は病に倒れる。「吾妻鏡」によると、「於厠被見怪異之後。心神惘然」(厠(かはや)に於いて怪異(けい)を見らるるの後、心神網然(ばうぜん)」となったとあり、以後は「瘧病(ぎやくへい)」(「吾妻鏡」六月十六日の条。マラリア様症状を指す)のような症状となったとする。その後、一度恢復したように見えたが、それから五ヶ月後の十一月三日に極楽寺の別邸で病死している。満六十三歳で、死因は不明であるが、六月の病いの再発とも考えられる。「吾妻鏡」によれば、「自發病之始。抛万事。一心念佛。住正念取終」(発病の始めより、万事を擲(なげう)ち、一心に念佛し、正念(しやうねん)に住して終(つひ)を取る」)記され、熱心な念仏信者であった重時らしい最後であった(「吾妻鏡」とウィキの「北条重時」を参考にした)。
「康元元年十一月二十三日、相摸守時賴、最明寺にして飾(かざり)を落(おと)し、法名覺了房道崇(だうそう)とぞ號しける」ウィキの「北条時頼」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、この年、『連署の北条重時が辞任して出家』すると、三月三十日附で『重時の異母弟・北条政村を新しい連署に任命』七月には『内々のうちに出家の準備を始め』ている。八月十一日に庶長子時輔が元服、九月十五日になると、『当時流行していた麻疹に』時頼自身が罹患、『九月二十五日に時頼は回復したが、娘も同じ病気にかかって十月十三日に早世し』ている。さらに十一月三日には時頼は赤痢に感染、十一月二十二日には小康状態となったが、ここで『時頼は執権職を初め、武蔵国務・侍所別当・鎌倉小町の邸宅を義兄の北条長時に譲った。この時、嫡子の時宗はまだ六歳という幼児であったため、「眼代」(代理人)として長時に譲ったとされている。十一月二十三日』に北鎌倉の最明寺(廃寺。現在の明月院はその塔頭の後身)『で出家し、覚了房道崇と号した(最明寺入道ともいわれる)』。但し、『引退・出家したとはいえ、幕府の実権は依然として時頼の手にあった。このため、出家引退の目的は嫡子・時宗への権力移譲と後継者指名を明確にするためで、朝廷と同じ院政という状況を作り上げる事だったとされている。時頼の出家と同時に結城朝広・結城時光・結城朝村・三浦光盛・三浦盛時・三浦時連・二階堂行泰・二階堂行綱・二階堂行忠らが後を追って出家したが、これは幕府の許可しないうちに行なわれたため、出仕停止の処分を受けた。十一月三十日、時頼は逆修の法要を行なって死後の冥福を祈り、出家としての立場を明確にした』。『康元二年(一二五七年)一月一日、幕府恒例の儀式は全て時頼が取り仕切り、将軍の宗尊親王も御行始として時頼屋敷に出かけた。これは時頼が依然として最高権力者の地位にあった事を示している。二月二十六日には時宗の元服が行なわれた。この二年後には時宗の同母弟・宗政も元服し、さらにその二年後には時宗・宗政・時輔・宗頼の順に子息の序列を定めた。これは正室と側室の子供の位置づけを明確にし、後継者争いを未然に防ぐ目的があった』。『このように引退したにも関わらず、時頼が政治の実権を握ったことは、その後の北条氏における得宗専制政治の先駆けとなった。時頼と重時は引退したとはいえ、それは名目上の事でしかなく、幕府の序列は相変わらず』一位・二位であって、『時頼の時代に私的な得宗への権力集中が行なわれて執権・連署は形骸化した』と言える。彼はこの出家から七年後の弘長三(一二六三)年十一月二十二日に最明寺北亭にて、享年三十七の若さで死去した。出家隠居ながら、実権を行使し続けた彼には、とてものこと、諸国回国なんぞしている暇は、これ、なかったのである。
「寶治の初、蜀の隆蘭溪、日本に來りて佛心を弘通せらる」「寶治」(一二四七年から一二四九年)「の初」とあるが、南宋からの渡来僧蘭溪道隆(らんけいどうりゅう 一二一三年~弘安元(一二七八)年:臨済宗。在日滞留のまま、建長寺で没した)の来日は宝治に改元される「寛元」四(一二四七)年その年であった。「弘通」仏教を広く普及させること。
「建長二年に、建長寺を建立し、同五年十一月二十五日に、落慶供養を遂げられ」奇行の「建長二年」は建長三(一二五〇)年の誤り。竣工落慶は正しい。
「普寧兀菴(ふねいごつあん)」南宋からの渡来僧兀庵普寧(ごったんふねい 一一九七年~一二七六年:臨済宗)。ウィキの「兀庵普寧」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『無準師範に師事。文応元年(一二六〇年)』、知友であった蘭渓道隆の『招きにより来日し、博多の聖福寺に入った。鎌倉幕府執権北条時頼の要請により鎌倉建長寺二世となる。建長寺の本尊は地蔵菩薩であるが、兀庵は地蔵菩薩は自分より下位であるとして礼拝しなかったという。時頼は兀庵に師事して参禅・問法を重ね』、『印可を受けた。弘長三年(一二六三年)、時頼が亡くなると支持者を失い、文永二年(一二六五年)に帰国してしまった。晩年は温州(浙江省)の江心山龍翔寺に住んだ』。『当時としては先鋭的な思想を持ち、難解な講釈を行ったことから、日本語の慣用句の「ごたごた」(元の単語は「ごったんごったん」)の語源になった』とも言われる。ただ、彼は殆んど日本語を解さなかったとも言われ、時頼の受けた印可というもの、これ、如何ほどのものか、と時頼嫌いの私は実は大いに怪しんでいるのである。
「見性(けんしやう)」禅に於いて、修行により人間の持つところの見かけ上の心の在り方を克服して、人の中に本来もともと備わっているところの「仏の真理」を見極めることを指す。私も判って注している訳ではない。悪しからず。
「森羅萬像(しんらばんざう)」文字も読みもママ。森羅万象。
「無二無別の理」「理」は「ことわり」悟達とは唯一無二、たった一つの道筋しかないという絶対の真理。
「「靑々たる翠竹、盡(ことごと)く是(これ)、眞如(しんによ)、欝々(うつうつ)たる黄花、般若(はんにや)にあらずと云ふ事なし」「眞如」は、あるがままの姿。仏の真理としての実体。「欝々たる」は美しくこんもりと茂ったさま。「般若」は、サンスクリット語の「智慧」の漢訳語で、人が真の生命に目覚めた際にのみ生み出される根源的な叡智。世界窮極の真理を知る力及びその力そのものを指す。さてもこれはネット検索を掛けると、後の明の禅宗の伝灯相承を中心とした仏教通史の書である那羅延窟学人瞿汝稷(くじょしょく)編になる「指月録」(一六〇二年刊)に「禪話」として出る、『靑靑翠竹、盡是法身。鬱鬱黃花、無非般若』と同文である。古くからあった禅語と思われ、兀庵普寧の創始した公案とは私には思われない。
「契悟」仏法に契(かな)うこと。仏法の真理と一体になること。悟ること。
「旦暮(たんぼ)」毎日。
「世間」俗世間、現世の在りよう。その認識。
「出世」仏の世界の在りよう。その認識。
「治行」修行。]
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