ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より)(Ⅷ)
「まあ、好きなやうにするがいゝ、好きなやうに、ルケリヤ。私はたゞお前のためを思つて云つただけなんだから‥‥」
「分かつてをります、旦那さま、わたしのためを思つて下さるのですとも。でも、御親切な旦那樣、他人(ひと)を助けるなんて誰に出來るものですか? 誰が他人の心の中まで立ち入れますもんで。人間は自分で自分を助けるより仕方がございませんよ! 早い話が、旦那は本當になさりますまいけれど‥‥時折りかうして獨りで休んで居りますと‥‥まるでこの世に生きてゐるのは、わたしよりほか誰もゐないやうな氣が致します。たゞもうわたしひとりだけが生きた人間みたい! すると、何だか有難い後光でもさして來るやうな按配で‥‥ふつと考へ込んでしまひます――しかも奇妙なことを考へますので!」
「どんな事をそのとき考へるの、ルケリヤ?」
「それは、旦那さま、とてもお話し出來ません。御得心の行くやうに云へません。それに、あとになると忘れてしまふものですから。まるで雲のやうにふわつと來て、夕立ちみたいに降りかゝるんですの、すると何とも云へないほど爽々しい、いゝ氣持ちになるのですけれど、さてそれが何だつたか、一向に譯がわかりません! でも、こんな氣が致します。もしわたしの周圍に人が居りましたらこんな事はちつともなくつて、自分の不仕合せといふよりほか、なんにも考へないのぢやないかつて。」
ルケリヤはやつとのことで溜め息をついた。胸も手足と同じやうに、彼女のいふことを聞かなかつたのである。
「お見受け申しますと、旦那さま、」と彼女はまた始めた。「あなたはわたしを大そう可哀そうに思つて下さるやうでございますが、どうぞあんまり氣の毒がらないで下さいまし、ほんとに! 打ち明けてお話いたしますけれど、早い話が、わたしは今でもどうかすると‥‥ねえ、お覺えでもございませうが、昔わたしもそれは陽氣な娘でしたね? 蓮つ葉な娘でしたもの!‥‥それで、まあどうでせう? わたしは今でも歌をうたひますの。」
「歌を?‥‥お前が?」
「えゝ、歌をね、古い歌を、輪舞のや、皿占ひ〔皿の下に物を置いて占ふ時の囃し歌〕のや、いろんな歌を! わたしはそんなのを澤山知つてをりまして、今でも忘れませんから。でもねえ、普通の踊歌は唄ひません。今のやうな身の上になつて見ますと、そんなのは具合が惡うございましてね。」
「それをどんな風に歌ふの? 心の中で?」
「心の中でも、それから聲を立てても。大きな聲は駄目ですけれど、でも、ちやんと分かるやうにね。それ、さつきお話しましたでせう――女の子が一人わたしのところへ遊びに來るつて、孤兒ですが、でもね、物分りのいゝ子でして。それでわたし、その子に歌を教へてやりましたの。もう四つばかりちやんと覺えました。本當にはなさいませんか? ちよつと、待つて下さいまし、わたしが今‥‥」
ルケリヤは身構へに息を深く吸ひ込んだ‥‥この半ば死んだやうな生き物が歌をうたはうとしてゐる、かう考へると私は思はずぞつとした。けれど、私が一言も云ひ出さない中に、長く尾を引いた、漸く聞き取れるか取れないかの、しかも澄み切つた正確な音が、私の耳に響いて來た‥‥つゞいて第二、第三の音。ルケリヤは『草野の中で』を歌つてゐるのであつた。化石したやうな顏の表情を變へず、眼さへきつと据ゑて歌つてゐる。この哀れな、精一杯の、細い煙のやうに打ち慄へる聲は、人の心を動かさねば止まぬ響きを帶びてゐた。彼女はその魂を殘らず注(そゝ)ぎ出したかつたである。私はもう恐れを感じなかつた。言葉に盡くせぬ憐愍の情が私の胸を緊めつける。
「あゝ、だめです!」と彼女は不意に云つた。「力が續きません‥‥旦那樣のおいで下すつたのがあまり嬉しくつて。」
彼女は眼を閉ぢた。
私はその小さな冷たい指の上に手を載せた‥‥彼女は私をちらと見上げた。――古代彫刻でも見るやうな、金色の睫毛に翳(かげ)られた暗い瞼は、ふたゝび閉ぢられてしまつた。間もなく、その眼は薄闇の中で輝きはじめた‥‥眼は涙に濡れてゐる。
私は相變らず、身じろぎさへもしなかつた。
「まあ、わたしとしたことが!」とルケリヤは、思ひがけない力の籠つた調子で不意に口を切つた。そして眼を大きく見開きながら、瞬きで涙をふり拂はうとした。「よくまあ、恥づかしくない! なんといふことでせう? もう永らくこんな事はなかつたんですのに‥‥去年の春、ヷーシャ・ポリャコフが訪ねて來た、あの日以來のことで。あの人がそこに腰かけて、話をしてゐた間は、何のこともありませんでしたが、行つてしまつた後で、獨りきりになると、怺へ性なしに泣き出してしまひました! 一體どこからこんなものが出て來るのでせう!‥‥尤も、わたしたち女の涙なんて、たゞ同樣のもので、他愛なく出るものですけれどね。ねえ、旦那さま、」とルケリヤは云ひ足した。「多分ハンカチをお持ちでいらつしやいませうね‥‥お氣持ちが惡いでせうけれど、わたしの眼を拭いてやつて下さいませんか。」[特別やぶちゃん字注:「怺へ性」は「こらへしやう(こらえしょう)」と読む。堪(こら)え性に同じい。]
私は急いでその望みを叶へてやつた。そしてハンカチを殘して置いてやつた。彼女は初め辭退して‥‥こんなものを頂いて何といたしませう? と云ふのであつた。ハンカチは極く質素なものながら、淨(きれ)いでまつ白だつた。やがて彼女は弱々しい指で摑むと、もうそれきり放さうとしなかつた。私は二人を包んでゐる暗がりに馴れて來たので、彼女の顏の輪郭をはつきりと見分けることが出來、靑銅色(ブロンズ)の皮膚に滲み出してゐる徴かな紅(くれなゐ)の色にさへ氣がついた。そして、少なくとも私にはさう思はれたのだが、その昔の美しかつた名殘りを、その顏に見つけ出すことができたのである。