北條九代記 卷之八 宗尊親王關東御下向 付 相撲
○宗尊親王關東御下向 付 相撲
宗尊親王は、後嵯峨院第一の皇子、御母は准后平朝臣棟子(むねこ)と申す。蔵人勘解由(かげゆの)次官棟基(むねもと)の娘なり。仁治三年に、京都にして御誕生あり。建長四年正月八日、仙洞に於いて御元服あり。御加冠の後に、三品に叙せらる。加冠は左大臣藤原兼平公なり。攝政殿下兼經公、即ち、親王の御袍(おんうはぎ)、御笏(おんしやく)を奉り給ふ。御年十一歳なり。鎌倉の執權相摸守時賴、陸奥守重時、申受(まうしう)くるに依て、關東御下向の事、催(もよほし)、沙汰あり。同三月十九日、仙洞を出でて、六波羅に入り給ふ。八葉の御車なり。これより御輿を奉り、東路(あづまぢ)に赴き給ふ。月卿雲客(うんかく)竝に武士の輩、供奉し奉る。上皇、潛に粟田口に御幸有りて、御覧ぜらる。四月一日、鎌倉に著きて、時賴の館に入りたまふ。同五日に征東大將軍に任ぜらる。同十四日はじめて鶴ゲ岡八幡宮に社參あり、供奉の行粧(かうさう)、又、近代の壯觀なり。御下向の後、政所始(はじめ)あり。兩國司、著座、相摸守時賴、陸奥守重持、參らる。三獻(こん)の儀式、吉書(きつしよ)御覧じて、後に御弓始(はじめ)あり。閏五月一日、將軍家の御前にして、酒宴あり、近習の人を召出(めしいだ)され、醉(えひ)に和(くわ)し興(きよう)に乘(じよう)ず、相摸守時賴、申されけるは、「近年關東の有樣、武藝、廢(すた)れ、自門(じもん)、他家ともに、其職にもあらず、才藝を好み、武家の禮法を取忘(とりわす)るゝ事、頗る比興(ひきよう)といふべし。然れば弓馬の藝に於いては、漸々以(もつ)て試みらるべし。先(まづ)常座に付いて、相撲の勝負を召奇(めしよ)せらるべきかし、とありしかば、將軍家、御入興有りて、然るべき輩を召奇(めしよ)せて、相撲六番をぞ御覽じける。勝(かち)には御劍を下され、御衣を賜る、負(まけ)には大盃にて酒をたまふ。この比(ごろ)の御遊興なりと、上下、喜び奉る。奉公の諸人、面々に弓馬の藝を嗜(たしな)むべき由、仰出され、御所中に觸(ふ)れられたり。鎌倉の風儀(ふうぎ)、改(あらたま)りたる心地して、何となく賑(にぎは)ひ、貴賤共(とも)に人柄(ひとがら)、治(をさま)りてぞ覺えける。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻四十二の建長四(一二五二)年三月十九日、四月一日・五日・十四日及び建長六年閏五月一日の条などに基づく。
「相撲」「すまふ」とルビする。
「准后平朝臣棟子(むねこ)」平棟子(?~徳治三(一三〇八)年)。当初四条天皇の内侍として出仕したが、天皇が亡くなったため、新たに後嵯峨天皇に仕えて宗尊親王を産む。大変な美貌の持ち主で天皇の寵愛厚く、仁治三(一二四二)年四月には掌侍(ないしのじょう)に任じられ、寛元三(一二四五)年には典侍(ないしのすけ)に進む。建長二(一二五〇)年十月には従二位を授けられ、後年従一位准三后に上った。晩年は京極殿に居住し、京極准后と呼ばれた(ウィキの「平棟子」に拠る)。
「蔵人勘解由(かげゆの)次官棟基」平棟基(生没年不詳)は鎌倉前期の廷臣。桓武平氏高棟王流の右大弁平棟範の子。官位は正五位下・木工頭(もつくのとう:主に宮中の造営及び材木採集を掌り、各職工を支配した木工寮の長官)。代々、有能な弁官を輩出している家柄で、「今鏡」に於いて『日記の家』と称された有力地下人(実務官僚)の家系であった。五位蔵人・勘解由次官・木工頭を歴任した。但し、参照したウィキの「平棟基」によれば、『棟基は早世したため』、幕府将軍外祖父としての『恩恵を受けることはなかった』とある。
「建長四年」一二五二年。
「左大臣藤原兼平」鷹司兼平(安貞二(一二二八)年~永仁二(一二九四)年)のこと。関白近衛家実四男。有職故実に通じ、能書家としても知られた。
「攝政殿下兼經」近衛兼経(承元四(一二一〇)年~正元元(一二五九)年)のこと。やはり近衛家実の子。彼は嘉禎三(一二三七)年に九条道家の娘仁子を娶って、長年、不仲だった近衛家と九条家の和解に努め、同年には道家から四条天皇の摂政の地位を譲られている。暦仁元(一二三八)年には左大臣を辞したが、引き続き摂政を務め、翌年には従一位に叙せられている。仁治三(一二四二)年に四条天皇が崩御すると、後嵯峨天皇の関白に転じたが、西園寺公経の圧力によって、二条良実にその地位を譲った。後に義父とともに関東申次に就任したものの、道家が失脚すると、兼経も巻き添えを食らって、関東申次を解任されてしまう。しかし、ともに失脚した一条実経(良実の弟)の後釜を埋める形で、宝治元(一二四七)年に後深草天皇の摂政に再任されている。この建長四(一二五二)年の十月に、前に出た異母弟鷹司兼平に摂政を譲り、正嘉元(一二五七)年に出家、法名を「真理(しんり)」と号し、余生を宇治岡屋荘で過ごした(主にウィキの「近衛兼経」に拠る)。
「袍(うはぎ)」衣冠束帯の際に着用する盤領(まるえり)の上衣。
「御笏(おんしやく)」束帯を着る際に右手に持つ、威儀を整えるための細長い板。当初は式次第などを紙に書いて裏に貼っておき、合法的カンニング・ペーパー、備忘用として用いられたが、後は全くの儀礼具となった。材質は木或いは象牙製。なお、「笏」の「シャク」という読みは、本来の字音「コツ」が「骨」に通うのを忌んで、その長さが「一尺」ほどあるところから「尺」の音を借りたともされる。
「同三月十九日」建長四(一二五二)年三月十九日。
「仙洞」上皇の御所。
「八葉の御車」「はちえふのみくるま」。「網代車(あじろぐるま)」の一種で、車の箱の外装に、青地に黄色で、「八弁の蓮の花」即ち「八葉」の紋様を散らした牛車(ぎっしゃ)を指し、摂関・大臣から地下(じげ:六位以下の役人)に至るまで、広く用いられた。
「月卿雲客」厳密には公卿及び殿上人を指すが、ここは高位高官ととっておいてよいと思う。
「政所始」「御弓始」以下、正月や新築等の際に行われたそれではなく、新将軍就任に行われたそれらである。
「兩國司」以下の「相摸守時賴、陸奥守重持」のこと。
「三獻(こん)の儀式」酒肴を出して、式礼で三杯飲ませた上で膳一切を下げ、それを三度繰り返す儀式。
「吉書(きつしよ)」初めて出す儀礼的な政務命令書を閲覧する儀式。事前に政所などから選ばれた奉行(主に執事或いは執事代などの上級右筆相当職員)が吉書を作成しておき、これをただ、将軍が総覧し、花押を記すのが定式。
「自門」北条家。
「其職」武家職である本来の武士が当然身につけているものとしての武芸本来の面目。
「比興(ひきよう)」この熟語は、本来は「詩経」のいう「漢詩六体」の内の「比」と「興」を指し、他のものに「喩えて」「面白く」表現することから、元は「おもしろいこと・おかしいこと」を指したが、ここでの用法はその軽さが悪く転じた、「いぶかしいこと・不都合なこと」「つまらないこと・下らないこと」の謂いとなったものである。
「召奇(めしよ)せ」後にもある通り、ママ。「召し寄せ」。
「この比(ごろ)の御遊興なり」「近年拝ませて戴いた中では、たぐい稀れなる、まさしく武家の棟梁の御祝いの席に相応しい美事なる御遊興の様にて御座った」というの諸人の感嘆である。暗に前に出た、あり得ない頼嗣の退位理由を、見え見えで揶揄して、無理矢理正当化している場面ではある。そもそもが鎌倉到着時の彼は、未だ満九歳である。小学四年生が「相撲(すまい)は面白うおじゃるの!」と、笑いながら、剣や酒盃を力士に賜うさまを想像してみよう。可愛くはあっても、その場に漂う、ある政治の腐った臭いには、これ、嗅覚を失った私でさえ、鼻が曲がりそうだ。
「人柄」宝治合戦や将軍譲位で、荒れ荒んでいたところの鎌倉の民草の心地(ここち)。]
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