詩 原民喜
詩 原 民喜
風見は廻る靑空に
謹ばしげに輕やかに
屋根の上なる靑空に
廻る風見に音もなし
○
眩しきものの照るなべに
夜の相ぞおそろしき
靑ざめはてし魂は
曙にして死ぬるべし
○
罪咎なれば耐え得べし
こんこんこんこんあさぼらけ
米をとぐ音聞こえ來る
いかでか我は睡むらざる
○
うつつけものが鳥ならば
すういすういと泳ぐべし
けふやきのうやまたあすや
春惜しむ人や榎に隱れけり
[やぶちゃん注:昭和三(一九二八)年九月発行の『四五人会雑誌』十三号に掲載された文語定形詩。
底本は一九七八年青土社刊「定本 原民喜全集 Ⅱ」を用いたが、戦前の作品なので恣意的に正字化した。底本の「拾遺集」の中では文語定形詩は特異点である。
第一連二行目の「謹ばしげに」は、思うに「よろこばしげに」と訓じているように思われる。「つつばしげに」とは言わないし、音数律も不整合で、そもそもが風見鶏の動きと「輕やかに」の表現と、謹(慎)ましいさまというは、寧ろ、齟齬する(と考える)からである。恐らく民喜は、「慶賀」「祝賀」などの語から、「謹賀」の「謹」にそのような意味があると誤認して用いたのではなかろうか。但し、「謹」にそのような「よろこぶ」(慶ぶ・喜ぶ)の謂いは、ない。
第二連一行目の「なべに」は、恐らくは上代の接続助詞「なへに」が中古に誤って濁音化したもので、「~につれて・~とともに・~と同時に」の謂いであろう。彼(風見)にとって「眩し」く「照る」のは具体には夜の冷たく青い月光、或いは霊の妖しい鬼火ででもあろう(と私は読む)。
第三連二行目の「こんこんこんこん」は韻律の響きとしては面白いが(但し、一字字余りであって最終行を除く七五調破格の特異点)、意味は難解である。まずは時系列から「夜の相」と「あさぼらけ」の経過と採って、「昏昏」(意識のないさま/よく眠っているさま/暗くてはっきりとしないさま/暗愚なさま)が想起さるが、しかしこれは同時に次行の「米をとぐ」から、晩春の小川流れのオノマトペイアとも連動する。孰れにせよ、なかなか上手い手法と私は思う。
第四連一行目・二行目も興味深い。――「うつつけもの」――「現(うつつ)」(現実の自分の状態/普通の「けもの」が目覚めるべき朝――但し、彼は「睡ら」ないのである。前段末尾は反語である。彼は永遠に睡ることのない「風見」鶏だから――になって見れば)では「けもの」(獣)たる「鳥」の形をした自分である。さればこそ、「夜の相」から解き放たれたなら、どうだ! 一つ! 「風見」鶏の「鳥」ではあっても、「うつつ」(醒めた状態)となったなら、小川の流れの響きのよさに(前連を受ける)、いっそ、そこを「すういすうい」と泳ぐがよかろう!――と私は読む。
最終連最終行は難しい。カメラ・ワークが全く異なり、有意なパースペクティヴがある。韻律も確信犯で発句(五七五)形式でここだけせめて二字下げにしたいぐらいである(その方が恐らく読み易く、朗読し易い)。惜春の情はあらゆる人類文芸の濫觴の一つ乍ら、この「榎」の蔭に「隱れ」ている「人」は、ゆかしい。永遠に眠らぬ地獄の「風見」は詩人自身であり、この榎に木隠れするのは、詩人の永遠の恋人、「遂ひ逢はざりし人の面影」(伊東静雄「水中花」より)ででもあったか――
この詩篇の内、第二連と第三連は後に「かげろふ断章」として一部詩篇が纏められた際、「不眠歌」としてほぼ相同形で載せられてある。
また、最終連も同じ「かげろふ断章」(「不眠歌」の次の次)に「晩春」という題でほぼ相同で独立して載せられてある。私の「原民喜全詩集」を参照されたい。]

