ツルゲーネフ原作米川正夫譯「生きた御遺骸」(「獵人日記」より)(Ⅱ)
「飛んでもないことを、ルケリヤ、」と私はやつとのことで口を切つた。「一體それはお前どうしたんだね?」
「とんでもない災難が降りかゝりましてね! どうかあなた、つまらない事ではございますが、旦那さま、お厭でも私の不仕合せな身の上話を聞いてやつて下さいまし――まあ、そこの桶へお掛けなすつて――もそつと近く、でないと、私の聲がお聞えになりませんから。でも、わたしずゐぶん聲が出るやうになりましたわ! それはさうと、あなた樣にお眼にかゝれて、こんな嬉しいことはございません! 一體どうして、このアレクセーエフカなどへいらつしやいましたのでせう?」
ルケリヤは極く小さな弱々しい聲ではあつたが、澱みなしに話し續けた。
「獵師のエルモライが、こつちへ引つぱつて來たんだよ。が、それよりお前の話を聞かうぢやないか‥‥」
「わたしの災難のお話でございますか? 宜しうございます、旦那樣。もう大分前のことで、六年か七年ぐらゐにもなりませう。わたしはその時分ヷシーリイ・ポリャコフと許婚の約束が出來たばかりなのでございました――覺えていらつしやいますか、押出しのいゝ、髮の毛の房々と捲いた人で、お母樣に使はれて食堂番を勤めてをりましたが? でも、あの時分あなたは村にいらつしやいませんでしたね、モスクワへ學問をしに行つておしまひになつて。わたしとヷシーリイはお互にとても好き合つてゐましてね、わたしあの人のことが寢た間も頭を離れませんでした。丁度春のことでしたが、ある晩ふと、どうしたのか‥‥もう夜明けに間もないのに‥‥どうしても寢られないのでございます。庭では鶯が、それこそうつとりする程いゝ聲で啼いてゐるんですの!‥‥わたしは堪らなくなつて起き出しましてね、入口の上り段のとこまで聞きに出ました。鶯は一生懸命に高音を張つて啼き立ててゐます‥‥すると不意に、誰かヷシーリイらしい聲でわたしを呼んでるやうな氣がしました、小さな聲で『ルーシャ』とこんな風にね‥‥わたしは不圖その方へ眼をやりましたが、やはり半分夢見ごゝちだつたと見えて、足を踏みはづしたのでございます、高い上り段からまつ直ぐ下へ落ちてしまひまして、いきなり地べたへ身體を打つけたので! でもその時は大した怪我もなかつたやうな氣がしましたので、やがて起き上がつて、自分の部屋へ歸つて來たやうな譯ですが、でも、何かしらの中の方で――お腹の中で――千切れたやうな按配でございました‥‥ちよつと一つ息をつがして下さいまし‥‥暫くの間‥‥旦那さま。」
ルケリヤは口を噤んだ。私は驚きの眼を瞠つて彼女を眺めた。私が驚いたのはほかでもない、彼女が殆んど樂しさうに、嘆聲や溜め息など洩らすことなく、しひて同情を求めようともせずに、物語をつゞけたことである。
「それからといふもの、」とルケリヤは言葉を續けた。「わたしは次第に瘦せ細つて參りまして、肌の色が黑みがかつて來ました。歩くことも骨が折れるやうになりますし、その中にやがては全然(まるで)兩足が利かなくなりましてね、立つことも坐ることも叶ひません。始終横になつてばかりゐたいのでございます。飮み食ひも氣が進みませず、だんだん惡くなる一方でした。奧さまは、あの御親切な方ですから、方々のお醫者さまにもかけて下さるし、病院にまでやつて下さいました。けれど、一向に驗が見えません。第一、わたしの病氣が何の病ひやら、それを見立てるお醫者さまが一人もないのでございます。でも、いゝといふことなら何でもして下さいました。鐡を燒いて背中に當てたり、川の氷を割つてその中へ浸けたり――でも、やつぱり効き目がありません。たうとう私は身體がこつこちになつてしまひました‥‥そこで、御主人さま方も、もうこのうへ療治をしても仕方がない、かと云つて、お邸へ片輪者を置いとくわけにもゆかない、といふことになりましてね‥‥まあ、こちらへ送られて來たのでございます――それに、こゝには身寄りの者もをりますので。かういふ次第で、御覽の通りの有樣でをります。」
ルケリヤはもう一度口を噤んで、又もや微笑みを見せようとした。
「それは、しかし恐ろしいこつたね、お前の身の上は!」と私は叫んだが‥‥それ以上なんと云つていゝか分からないで、かう訊ねた。
「で、ヷシーリイ・ポリャコフはどうしたんだね?」
この問ひはおそろしく馬鹿げてゐた。
ルケリヤは心持ち眼をわきへ外らした。
「ポリャコフがどうしたかですつて? 暫くしほしほしてゐましたが、やがてほかの娘と、グリンノエ村から來た娘と夫婦(いつしよ)になりました。グリンノエを御存じでいらつしやいますか? わたしどものところからさう遠くはございません。娘はアグラフェーナと申しました。あの人はとてもわたしを可愛がつてくれたのですけれど、何分、若い男のことでございますから、いつまでも獨り身で居るわけには參りません。それかとて、わたしがどうしてあの人の配偶(つれあひ)になれませう? でもあの人はちやんとした、氣だてのいゝお内儀さんを見つけて、今では子供たちまでありますからね。すぐ近所の地主さまのところで、番頭を勤めてをります。あなたのお母樣が身元證明の書きものをつけて、暇をおやりになつたものですから、お庇で大そう具合がいゝさうでございますよ。」
「それでお前はかうして、いつもいつも臥てばかりゐるのかい?」と私はまた訊ねた。
「さやう、旦那さま、かうして臥せつてをりますのも、足かけ七年目でございます。夏はこの小屋に寢て居りますが、寒くなると、風呂場の入口の間に移してくれますので、そこに臥てをります。」
「誰がお前の看病をしてゐるんだね? 誰か世話をしてくれる人があるの?」
「はい、こゝにも親切な人達が居りましてね、わたしのやうなものでも放つては置きません、それに看病と申しても知れたもので、食べる方は、もう食べるといふ程でもありませんし、水なら、ほれ、そこにございます、その湯呑みの中にいつも淨(きれ)いな清水が用意してありますので。湯呑みには自分で手が屆きます。片方の腕はまだ利きますから。それから、こゝに小さな女の子がをりますの。孤兒でしてね、これがひよいひよいと見舞ひに來てくれます、有難いことに。つい今し方もそこに居りましたつけが‥‥お會ひになりませんでしたか? それはそれは可愛い娘(こ)で、色白なんでございますよ。その手が花を持つて來てくれますの、わたしが大好きなもんですから、その、花がねえ。こゝには庭の花といつてはございません。もと有つたのですけれど、絶えてしまひましてね。でも、野の花だつていゝものでございますよ。匂ひなんか庭の花よりいゝ位ですもの。まあ、あの鈴蘭にしましても‥‥どれだけ氣持ちがいゝやら!」
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