絶體ゼツ命 DADADA ダダイ 原民喜
絶體ゼツ命 DADADA ダダイ 糸川旅夫
糸川が廣島へ歸つたのは去年の暮れであります。さてさて糸川が毎日貧乏貧乏貧乏貧乏と天を睨んだトコロで始まらないね。君。僕大糸川旋夫は絶對ゼツ命DAよ。丁度救世軍のじ善鍋でお金が燒いてあつたるは去年の暮でした。豐原秋子孃萬歳。みなさん拍手。ドロドンドロドン。僕も去年の昨夜某カフエーで若き異性同志のひそかごとを見ました。その時は俺は十錢でコーヒーを飮んでたンダ。それでその夜歸つてから眠られなかつた大苦勞した。なんの苦勞なんかするものか。糸川のバカ。糸川のタワケ。下駄をはいて行つて來い。はいお父さま。何の御用。トころで廣島は日本一の○○です。ワタシは○○○○○ト思ヒマシタ。アナアキー穴をあけえ。北風。まんとのえり。ぬげ、ぬがぬか。ピストルぞ。ドンドン、あれえ。ダダは狂氣と思ふか。中田信雄よ君はベルモツトを飮め、俺は千日前で地獄極楽を見物して感あり。鬼ほど痛快な生物はあるまい。お釋迦樣の變體性の想像力はジツに地極獄樂において初めて滿足しなさつた。さすが印度宮殿の榮華にあきた苦勞人だけある。なむあみなむあみ。ダダダダ、タイ燒、大入まんじゆ。一つお賣致しまホ。ドレ糸川旅夫をタワケと斷定する奴はその奴こそタワケであらうぞ。こんなダダイズムがタワケに見える奴は馬の屁(へ)にキスするタワケ者なることゆめ疑ひあるましぞヨ。今日はいゝ天氣だね。一つ俳句會
絶體絶命に馬を食ふ素川さま
旅夫は旅からカラスで歸つタ
ダダ一尺ダダ二尺しまひは一丈
なむあみと海老のフライ月夜哉
豐原秋子女傑あり廣島の日和
ピヨピヨノと秋から冬に暗く小鳥
もんでもんでアンマのいねむり
一文二文とためた三井銀行ケチ
大田洋子小説書くその日の鯨哉
日進館クラリネツト吹き泣く
ドイツもコイツもあつけ顏やイ
子供が猿を生んダ子供はケしからぬ生物
ひひひひと舌を出した狂人らみな滿足して飯を食ふ
一月元旦哉
以上この俳句はダダイズムより出發したものなり。これにつきては後日詳述するところあらんよ。
[やぶちゃん注:念のため。「○」による伏字はママ(恐らくは原民喜自身の確信犯)。「お釋迦樣の變體性の想像力はジツに地極獄樂において初めて滿足しなさつた」の「地極獄樂」も確信犯の造語用字。「疑ひあるましぞヨ」「まし」もママ。
初出は大正一四(一九二五)年一月三日発行『藝備日々新聞』。
「豐原秋子」不詳。識者の御教授を乞う。
「中田信雄」不詳。識者の御教授を乞う。
「素川」不詳。熊本の生まれのジャーナリスト鳥居素川(とりいそせん 慶応三(一八六七)年~昭和三(一九二八)年)がいるが、彼かどうかは不明。
「一尺」三〇・三センチメートル。
「一丈」三・〇三メートル。
「大田洋子」(明治三九(一九〇六)年~昭和三八(一九六三)年)は広島県出身の小説家。本名は大田初子。ウィキの「大田洋子」によれば、八歳の時、『父母が離婚したので親戚の大田家の籍に入る』。大正一二(一九二三)年、『進徳実科高等女学校(現在の進徳女子高等学校)研究科卒業。小学校教師として江田島に赴任した』ものの、六ヶ月で退職、大正一五(一九二六)年に結婚したが、『一児を残して出奔。尾道や大阪などで女給として働きつつ小説を書く』。『のち上京し、『女人芸術』に作品を発表』、昭和一四(一九三九)年、『海女』で『中央公論』の懸賞小説に一等入選』、昭和一五(一九四〇)年には「桜の国」で『朝日新聞』の『一万円懸賞小説に一等入選』した。昭和二〇(一九四五)年八月四日、『疎開で広島市に帰郷中、被爆する。占領軍による報道規制の中』で「屍の街」「人間襤褸(らんる)」(私は本作を優れた原爆文学の一冊と思う)を書いて、『原爆作家としての評価を確立』した。しかし、『原爆の後遺症により体調を崩し、創作に行き詰まり』、昭和三十年代から作風を転換、「八十歳」「八十四歳」など老母を主人公に私小説的心境小説を発表した。死因は入浴中の心臓麻痺とされる。
「日進館」恐らくは広島市堀川町の繁華街新天地にあった漫才などが興行された演芸場(元は無声映画の映画館)のことと思われる。]
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