遙かな旅 原民喜 附やぶちゃん注
[やぶちゃん注:初出は『女性改造』昭和二六(一九五一)年二月号。民喜は、この翌月の三月十三日に鉄道自殺した。死後の二年後の昭和二八(一九四三)年三月、角川書店刊「原民喜作品集」第二巻に、彼の残した目次通り、「美しき死の岸に」の一篇として再録された。詩篇挿入部はブログのブラウザ上の不具合を考え、行を短くしてある。禁欲的にパートの最後に注を附した。
最後の「雲雀」……これは、知る人ぞ知る、彼の秘かな最後の思い人であった祖田祐子宛遺書の冒頭にある、『とうとう僕は雲雀になつて消えて行きます 僕は消えてしまひますが あなたはいつまでも お元気で生きて行つて下さい』を直ちに想起させ、死の前年の春の玉川での彼女らと遠藤周作とのボート遊びの思い出(『新潮』昭和三九(一九六四)年五月発行に載った遠藤周作「原民喜」に詳細が描かれる。私は盟友民喜を追懐した周作の一篇を民喜論の第一の名品と信じて止まない。教員時代、一度だけ、この全文を生徒に朗読したことがある。恐らく、こんなことをした国語教師は今も昔もそう多くはあるまい、と思う)の中の民喜の肉声『ぼくはね、ヒバリです』『ヒバリになっていつか空に行きます』という呟きに繋がるのである……]
遙かな旅
夕方の外食時間が近づくと、彼は部屋を出て、九段下の俎橋から溝川に添ひ雉子橋の方へ歩いて行く。着古したスプリング・コートのポケツトに両手を突込んだまま、ゆつくり自分の靴音を数へながら、
汝ノ路ヲ歩ケ
と心に呟きつづける。だが、どうかすると、彼はまだ自分が何処にゐるのか、今が何時なのか分らないぐらい茫然としてしまふことがある。神田の知人が所有してゐる建物の事務室につづく一室に、彼が身を置くやうになつてから、もう一年になるのだが、どうかすると、そこに身を置いて棲んでゐるといふことが、しつくりと彼の眼に這入らなかつた。どこか心の裏側で、ただ涯てしない旅をつづけてゐるやうな気持だつた。……夜の交叉点の安全地帯で電車を待つてゐると、冷たい風が頰に吹きつけてくる。街の灯は春らしく潤んでゐて、電車は藍色の空間と過去の時間を潜り抜けて、彼が昔住んでゐた昔の街角とか、妻と一緒に歩いてゐた夜の街へ、訳もなく到着しさうな気がする。
[やぶちゃん注:この冒頭パートは神田神保町の能楽書林(盟友丸岡明の自宅であり、当時の『三田文学』発行所)の一室に下宿していた、昭和二三(一九四八)年一月(同年、民喜四十三歳)から翌昭和二十四年(年末に『三田文学』編集を辞し、翌年一月に吉祥寺に転居した)の間の景である。
「外食時間」外食券食堂で食事をする時刻。外食券食堂は第二次世界大戦中の昭和一六(一九四一)年から戦後にかけて、主食の米の統制のため、政府が外食者用に食券を発行し(発券に際しては米穀通帳を提示させた)、その券(ここに出るように真鍮製。紙では容易に偽造出来てしまうからであろう)を持つ者に限り、食事を提供した食堂。というより、これ以外の飲食店には主食は原則、一切配給されなかった。私がかつて古本屋で入手した昭和二〇年(一九四五)年十月の戦後最初の『文芸春秋』復刊号の編集後記には、調理人の手洟や蛆が鍋の中で煮えている、という凄絶な外食券食堂の不潔さを具体に訴える内容が記されてあった。小学館の「日本大百科全書」梶龍雄氏担当の「外食券食堂」の項によれば、戦後、外食券は闇値で取引されることも多くなり、昭和二二(一九四七)年入浴料が二円の当時、一食一枚分の闇値が十円もしたという例もある。しかし昭和二五(一九五〇)年ごろより食糧事情が好転、外食券利用者は激減し、飲食店が事実上、主食類を販売するようになってからは形骸化し、昭和四四(一九六九)年には廃止された、とある。因みに、私は昭和三二(一九五七)年生まれであるが、「券」も「食堂」も記憶には全くない
「俎橋」(まないたばし)は皇居東北直近の現在の東京都千代田区靖国通りの日本橋川上流に架かり、東側の神田神保町と西側の九段を繫ぐ。
「雉子橋」(きじばし)は俎橋の凡そ四百五十メートル下流に架橋された橋。九段南と一ツ橋の間を繫ぐ。彼が歩いて居るのは恐らく左岸(神田側)である。]
彼は妻と死別れると、これからさきどうして生きて行けるのか、殆ど見当がつかなかつた。とにかく、出来るだけ生活は簡素に、気持は純一に……と茫然としたなかで思ひ耽けるだけだつた。棲みなれた千葉の借家を畳むと、彼は広島の兄の家に寄寓することにした。その時、運送屋に作らせた家財道具の荷は七十箇あまりあつた。郷里の家に持つて戻ると、それらは殆ど縄も解かれず、土蔵のなかに積重ねてあつた。その土蔵には妻の長持や、嫁入の際持つて来たまま一度も使用しなかつた品物もあつた。それらが、八月六日の朝、原子爆弾で全焼したのだつた。田舎へ疎開させておいた品物は、荷造の数にして五箇だつた。
妻と死別れてから彼は、妻あてに手記を書きつづけてゐた。彼にとつて妻は最後まで一番気のおけない話相手だつたので、死別れてからも、話しつづける気持は絶えず続いた。妻の葬ひのことや、千葉から広島へ引あげる時のこまごました情況や、慌しく変つてゆく周囲のことを、丹念にノートに書きつづけてゐるうちに、あの惨劇の日とめぐりあつたのだつた。生き残つた彼は八幡村といふところへ、次兄の家族と一緒に身を置いてゐた。恐しい記憶や惨めな重傷者の姿は、まだ日毎目の前にあつた。そのうち妻の一周忌がやつて来た。豪雨のあがつた朝であつた。秋らしい陽ざしで洗ひ清められるやうな朝だつた。彼は村はづれにあるお寺の古畳の上に、ただ一人で坐つてゐた。側の火鉢に煙草の吸殻が一杯あるのが、煙草に不自由してゐる彼の目にとまつた。がらんとした仏前に、お坊さんが出て来て、一人でお経をあげてくれた。
妻が危篤に陥る数時間前のことだつた。彼は妻の枕頭で注射器をとりだして、アンプルを祀截らうとしたが、いつも便ふ鑢がふと見あたらなくなつた。彼がうろたへて、ぼんやりしてゐると、寝床からじつとそれを眺めてゐた妻は、『そこにあるのに』と目ざとくそれを見つけてゐた。それから細い苦しげな声で、『あなたがそんな風だから心配で耐らないの』と云つた。
殆ど死際まで、眼も意識も明析だつたのだ。『あなたがそんな風だから心配で耐らないの』といふ言葉は、その後いつまでも彼の肺腑に絡みついて離れなかつた。が、流転のなかで彼は一年間は生きて来たのだつた。寺を出ると、道ばたの生垣の細かい葉なみに、彼の眼は熱つぽく注がれてゐた。
たとへば私はこんな気持だ 束の間の
睡りから目ざめて 睡る前となにか違
つてゐることにおののく幼な子の瞳。
かりそめの旅に出た母親の影をもとめ
て 家のうちを捜しまはる弱々しい少
年。咽喉のところまで出かかつてゐる
切ないものを いつまでも喰ひしばつ
て。
彼は自分の眼をいぶかるやうに、ひだるい山の上の空を眺めることがあつた。空がひだるいのではなかつた、どうにもならぬ飢餓の日々がつづいてゐたのだ。こほろぎのやうに瘦せ細つて行く彼は、自分の洗濯ものを抱へては小川の岸で洗つた。やがて冬になると、川水は指を捩ぐほど冷たくなつた。彼の掌は少年のやうに霜焼で赤くふくれ上つた。火の気のない二階で一人ふるへながら、その掌を珍しげにしみじみ眺めた。暗い村道の上にかぶさる冬空に、星が冴えて一めんに輝いてゐるのも、彼の眼に沁みた。浅い川の細い流れに残つてゐる雪も、彼の胸底に残るやうだつた。が、いつまでもそんな風に、その村でぼんやりしてゐることは許されなかつた。兄や姉は彼に今後の身の処置をたづねた。『あなたも長い間、辛苦したのかもしれないけど、今日まで辛苦しても芽が出なかつたのですから、もう文学はあきらめなさい。これからはそれどころではない世の中になると思ひますよ。』さう云つてくれる姉の言葉に対して、彼はただ黙つてゐるばかりだつた。
[やぶちゃん注:民喜は妻芳恵(明治四四(一九一一)年~昭和一九(一九四四)年:民喜より六つ年下)とは民喜二十八の昭和八(一九三三)年に見合結婚、当初は池袋と淀橋区(現在の新宿区)に、次いで翌年の初夏にここに出る千葉県登戸に転居した。昭和一四(一九三九)年に九月に芳恵が発病、被爆・敗戦の前年である昭和一九年(一九四四)年九月に肺結核と糖尿病のために逝去していた。被爆・敗戦当時、民喜は満三十九であった。
「郷里の家」生家である広島県広島市幟町(のぼりちょう)(現在の中区幟町)。当時は三男信嗣が家を継いでいた(長男・次男は当時、既に故人)ここで民喜は被爆するも(ここは爆心地からたった一・二キロメートルしか離れていなかった)、九死に一生を得たのであった。
「八幡村」恐らくは広島県の旧山県郡八幡村。現在の北広島町内。
「次兄」とあるが、四男守夫。民喜の直ぐ上の兄で三つ年上。当時、広島在住。文学好きで、民喜十五の時から既に一緒に同人誌を発行するなど、仲の良い兄であった。
「捩ぐ」は「ねぢまぐ(ねじまぐ)」であろう。
「姉」当時、存命していた姉は三女千代(民喜より三つ年上)だけである。]
翌年の春、彼は大森の知人をたよつて上京した。その家の二階の狭い板敷の一室に寝起するやうになつたが、ここでも飢餓の風景はつづいた。罹災以来、彼はもう食べものに好き嫌ひがなくなつてゐた。どんな嫌なものも、はじめは眼をつむつたつもりで口にしてゐると、餓ゑてゐる胃はすぐに受けつけた。子供の時から偏食癖のあつた彼は妻と一緒に暮すうち、少しつつ食べものの範囲は拡がつてゐた。だが、まだ彼の口にしないものはかなりあつた。それが、今では何一つ拒むことが許されなかつた。彼は自分の変りやうに驚くことがあつた。そんな驚きまで彼は妻あての手記に書込んでゐた。
その板敷の上で目がさめると、枕頭の回転窓から隣家のラジオの音楽がもれてくる。今日も飢じい一日が始まるのかと思ひながら、耳に這入つてくる音楽はあまりに優しかつた。彼は音楽の調べにとり縋るやうに、うつとりと聴き入るのだつた。恐ろしい食糧事情のなかで、他人の家に身を置いてゐる辛さは、刻々に彼を苛んだ。じりじりした気分に追はれながら、彼は無器用な手つきで、靴下の修繕をつづけた。そんな手仕事をしてゐると、比較的気持が鎮まつた。それから、机がはりの石油箱によつかかつてはペンを執つた。朝毎に咳の発作が彼を苦しめた。
妻の三回忌がやつて来た。朝から小雨がしきりに降つてゐたが、気持を一新しようと思つて、彼は二ケ月振りに床屋へ行つた。床屋を出て大森駅前の道路に出ると、時刻は恰度二年前の臨終の時だつた。坂の両側の石崖を見上げると、白い空に薄が雨に濡れてゐた。白い濁つた空がふと彼に頰笑みかけてくれるのではないかと思はれた。彼は買つて戻つた梨と林檎(そんなものを買へるお金の余裕もなかつたのだが)を石油箱の上において、いつまでも見とれてゐた。
おまへはいつも私の仕事のなかにゐる。
仕事と私とお互に励ましあつて 辛
苦を凌がうよ。云ひたい人には云ひ
たいことを云はせておいて この貧
しい夫婦ぐらしのうちに ほんとの
生を愉しまうよ。一つの作品が出来
上つたとき それをよろこんでくれ
るおまへの眼 そのパセチツクな眼
が私をみまもる。
その二階の窓から隣家の庭の方を見下ろしながら、ひとり嘆息することがあつた。あそこには、とにかくあのやうな生活がある、それだのにどうして自分には、たつた一人の身が養へないのだらうか。彼は行李の底から衣類をとり出して古着屋へ運んだり、焼残つたわづかばかりの書籍も少しつつ手離さねばならなかつた。日没前から電車に揉まれて、勤先の三田の学校まで出掛けて行く。焼跡の三田の夕暮は貧しい夜学教師のとぼとぼ歩くに応はしかつた。そして彼は冷え冷えする孤絶感の底で、いつもかすかに夢をみてゐた。
焼跡に綺麗な花屋が出来た。玻璃越
しに見える花々にわたしは見とれる。
むかしどこかかういふ風な窓越し
に お前の姿を感じたこともあつた
が 花といふものが こんなに幻に
似かよふものとは まだお前が生き
てゐたときは気づかなかつた。
翌年の春、彼は大森の知人の家からは立退きを言渡されてゐた。が、行くあてはまるでなかつた。彼は中野の甥の下宿先に転り込んで、部屋を探さうとした。気持ばかりは急つたが貸間は得られなかつた。中野駅前の狭い雑沓のなかを歩き廻つたり、雨に濡れて並ぶ外食券食堂の行列に加はつてゐると、まだ戦火に追はれて逃げ惑つてゐるやうな気がした。中野駅附近のひどく汚ないアパートの四畳半を彼が借りて移つたのは秋のはじめだつた。が、その部屋を譲渡した先住者は一時そこを立退いてはゐたが、荷物はまだそのままになつてゐた。先住者と彼との間にゴタゴタがつづいた。こんな汚ない、こんな小さな部屋でさへ、自分には与へられないのだらうか、と彼は毎夜つづく停電の暗闇のなかに寝転んで嘆いた。もうこの地上での生存を拒まれつくされた者のやうにおもへた。
わたしのために祈つてくれた 朝で
も昼でも夜でも 最後の最後まで
祈つてゐてくれた おそろしくおご
そかなものがたちかへつてくる。荒
野のはてに日は沈む……生き残つて
部屋はまつ暗。
いつも暗黒な思考にとざされてゐたが、ふと彼はその頃アパートの階下の部屋で、子供をあやしてゐる若い母親らしい女の声を聞き覚えた。心のなかに何の屈托もなささうな、素直で懐しい声だつた。ふと彼はそれを死んだ妻に聞かせたくなるほど、心の弾みをおぼへた。その声をきいてゐると、まだ幸福といふものがこの世に存在してゐることを信じたくなるのだつた。宿なしの彼が、中野から神田神保町へ移れたのは、その年の暮であつた。
戦火を免れてゐるその界隈は都会らしい騒音に満ちてゐた。事務室に続くその一室は道路に面してゐて、絶えず周囲は騒々しかつたが、とにかく彼は久振りにまたペンを執ることが出来た。そこへ移つてから、ある雑誌の編集をしてゐた彼は、いつのまにか沢山の人々と知りあひになつてゐた。彼が大森の知人をたよつて上京した頃、東京に彼は三人と知人を持つてゐなかつた。一週間も半月も誰とも口をきかないで暮してゐたのだつた。それが今では殆ど毎日いろんな人と応対してゐた。彼は人と会ふとやはり疲れることは疲れた。が、ぎこちないなりにも、あまり間誤つくことはなくなつてゐた。
『あなたが人と話してゐるのは、いかにも苦しさうです。何か云ひ難さうで云へないのが傍で見てゐても辛いの』と、以前妻はよく彼のことをかう評したものだ。そして、人と逢ふ時には大概、妻が傍から彼のかはりに喋つてゐた。が、今ではもう人に対して殆ど何の障壁も持てなかつた。賑やかな会合があれば、それはそのまま娯しげに彼の前にあつた。だが、何もかも眼の前を速かに流れてゆくやうだつた。
どうして自分にはたつた一人の身が養へないのだらうか……とその嘆きは絶えず附纏つたが、ぼんやりと部屋に寝転んで休憩をとることが多かつた。自分で自分の体に注意しなければ……と誰かがそれを云つてくれてゐるやうな気もした。どうかすると、どうにもならぬ憂鬱に陥ることもあつた。が、さういふ時も彼には自分のなかに機嫌をとつてくれるもう一人の人がゐた。
ある夜、代々木駅で省線の乗替を待つてゐると、こほろぎの声があたり一めんに聞えた。もう、こほろぎが啼く頃になつたのかと、彼は珍しげに聞きとれた。が、それから暫くすると、神保町の道路に面したその部屋にも、窓から射してくる光線がすつかり秋らしくなつてゐた。彼は畳の上に漾ふ光線を眺めながら、時の流れに見とれてゐた。
一夏の燃ゆる陽ざしが あるとき た
めらひがちに芙蓉の葉うらに縺れてゐ
た 燃えていつた夏 苦しく美しかつ
た夏 窓の外にあつたもの
死別れまたたちかへつてくるこの美し
い陽ざしに
今もわたしは自らを芙蓉のやうにおも
ひなすばかり
彼は鏡台とか簞笥とか、いろんな小道具に満ちた昔の部屋が、すぐ隣にありさうな気もした。だが、事務室の雑音はいつも彼を現在にひきもどす。その現在の部屋はいつまでも彼に安住の許されてゐる場所ではなかつた。『死』の時間は彼のすぐ背後にあつた。
その年も暮れかかつてゐた、ある夕方、彼のところへKがひよつこり訪ねて来た。Kは彼の部屋に這入るといきなり、
『昔の君の下宿屋を思ひ出すな』と云つた。学生時代の友人だつたが、その後十年あまりもお互に逢ふことがなかつた。Kが近頃京都からこちらへ移転して来て、ある出版屋に勤めてゐるといふことを彼も聞いてはゐた。
『君は昔とさう変つてゐないよ』とKは珍しげに呟く。生きてゐればかうして逢ふ機会もやつて来たのかと、彼もしきりに思ひ耽けつた。
Kはそれから後は時折訪ねてくれるやうになつた。
[やぶちゃん注:「翌年の春、彼は大森の知人をたよつて上京した」昭和二一(一九四六)年四月に上京、当時の東京都大森区馬込(現在の大田区馬込地区)の詩人で生涯の盟友であった長光太(ちょうこうた)宅に寄寓している。
「勤先の三田の学校」「夜学教師」民喜は上京後、ほどなく、慶応義塾商業学校・工業学校夜間部の嘱託英語講師となった。
「翌年の春、彼は大森の知人の家からは立退きを言渡されてゐた。が、行くあてはまるでなかつた。彼は中野の甥の下宿先に転り込んで、部屋を探さうとした」昭和二二(一九四七)年春、民喜は当時、中野区打越町に下宿していた甥の所に長光太宅から移っている。以後、本文にあるように盟友丸岡明の神田神保町の能楽書林の一室に腰を落ち着けるまで、同書店を含め、各所を転々とすることとなった。
「急つた」「あせつた(あせった)」。
「間誤つく」「まごつく」。
「ある雑誌の編集」上京した前年昭和二十一年の十月から民喜は『三田文学』の編集に携わるようになっていた(編集室は能楽書林)。
「K」第一候補としては文芸評論家山本健吉(明治四〇(一九〇七)年~昭和六三(一九八八)年:民喜より二歳下)がまず挙げられるか? 「広島市立中央図書館」作成の「広島文学資料室」の「原民喜の世界」の内の「民喜をめぐる人々」によれば、慶大文科予科時代に民喜と知り合い、『大学卒業後は改造社に入社。以後出版社、新聞社に勤めながら評論活動を行な』ったとある(本文にKは「ある出版屋に勤めてゐる」とあるのと一致すると思われる)。但し、彼は昭和九(一九三四)年五月に(民喜の新婚の新宿時代)、『向かいに住んでいた民喜夫妻らと同時に特高警察により逮捕され、この事件の際』、民喜夫妻から絶交を申し渡されたが(山本の過去の経歴からの連座による民喜夫妻の勘違いの検挙であったが、山本が民喜を救わんがために『彼の没常識ぶりを刑事に強調した』ことによると山本は述べている。ここは「青土社版全集年譜に載る山本の記載の孫引き)、戦後、『遠藤周作の計らいにより和解した』とある。本文に「その後十年あまりもお互に逢ふことがなかつた」というのは実は絶交していたからとすれば、納得出来る。しかし、彼ではないかも知れない(イニシャル「K」の友人は彼には他にもいるからである)。誤っている場合は、御教授を乞うものである。]
翌年の春、彼の作品集がはじめて世の中に出た。が、彼はその本を手にした時も、喜んでいいのか悲しんでいいのか、はつきりしなかつた。……彼が結婚したばかりの頃のことだつた。妻は死のことを夢みるやうに語ることがあつた。若い妻の顔を眺めてゐると、ふと間もなく彼女に死なれてしまふのではないかといふ気がした。もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残らう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために……と突飛な烈しい念想がその時胸のなかに浮上つてたぎつたのだつた。
夕方、いつものやうに彼は九段下から溝川に添つて歩いてゐた。雉子橋の上まで来たとき、ふとだし抜けに誰かに叫びとめられた。忙しげに近づいて来るのはKだつた。
『その辺でお茶飲まう』と、Kは彼の片腕を執るやうにしてせかせか歩きだした。その調子に二十代の昔の面影があつた。
『散歩してゐたのだよ』と彼は笑ひながら白状した。
『わかつてるよ。こんな時刻にこんなところ散歩なんかしてゐる人間は君位のものさ』と、Kは別に驚きもしなかつた。が、ふと、彼のオーバーに目をとめると珍しげにかう云つた。
『そのオーバーは昔から着てゐたぢやないか。学生時代の奴だらう』
『違ふよ。卒業後拵へたのだ』と、彼は首を振つた。着てゐるスプリングコートは彼が結婚した年に拵へたもので、今では生地も薄れ、裏の地はすつかり破れてゐた。肩のところは外食券食堂の柱の釘にひつかかつて裂けてゐたし、ポケツトの内側もボロボロになつてゐた。そのスプリング・コートを拵へたばかりの頃だつた。彼は妻と一緒に江の島へ行つたことがある。汽車に乗つた頃から、ふと急に死の念想が彼につきまとつた。明るい海岸を晴着を着た妻と一緒に歩きながらも、自分は間もなく死ぬのではないかと、……その予感に苛まれつづけた。ヒリヒリと神経のなかに破り裂けようとするものを抑へながら、彼は快活さうに振舞つてゐた。その春の一日は美しい疼のやうに彼に灼きつけられてゐた。
不安定な温度と街のざわめきのなかに、何か彼を遠方に誘ひかけるものがあるやうでならなかつた。ふと、ある日、彼は風邪をひいてゐた。解熱剤を飲んで部屋に寝転んでゐたが、面会人があれば起きて出た。外食の時刻には、ふらふらの足どりで雨の中を歩いた。それから夜は早目に灯を消して寝た。かうした佗しい生活にも今はもう驚けなかつた。が、さうしてゐると昔、風邪で寝ついて妻にまめやかに看護された時のことが妙に懐しくなつた。すぐ近くにある町医に診察してもらふのに、わざわざ妻に附添つて行つてもらつた。『赤ん坊のやうな人』と妻はおもしろげに笑つた。
彼の眼には夕方の交叉点附近で街を振返ると、急に人々の服装が春らしくなつてゐて、あたりの空気が軽快になつてゐるのに驚くことがあつた。焼残つた街はたのしげに生々と動いてゐるのだつた。だが、たえず雑音のなかに低い嘆きとも憧れともつかぬ、つぶやきがきこえた。ふとある日彼は雲雀の声がききたくなつた。青く焦げるやうな空にむかつて舞上る小鳥の姿が頻りに描かれた。彼は雲雀になりたかつた。一冊の詩集を残して昇天できたら……。大空に溶け入つてしまひたい夢は少年の頃から抱いてゐたのだ。できれば軽ろやかにもう地上を飛去りたかつた。
だが、何かはつきりしないが、彼に課せられてゐるものが、まだ彼を今も地上にひきとめてゐるやうだつた。
ある日、彼は多摩川へ行つてみようと思ひたつと、すぐ都電に乗つた。電車の窓から見える花が風に揺れてゐた。渋谷まで来ると、駅の前は大変な砂ぼこりだつた。だが、彼は引返さなかつた。多摩川園で下車すると、川原に吹く風はまだ少し冷たく、人もあまり見かけなかつた。彼は川原に蹲つて、暫く水の流れを眺めてゐた。昔彼が学生だつた頃、このあたりには二三度来たことがある。堤の方へ廻ると、彼は橋の上を歩いて行つた。はじめ、その長い橋をゆつくり歩いて行くに随つて、向岸にある緑色の塊りが彼の魂をすつかり吸ひとるやうな気持がした。
どこか遠くへ、どこまでも遠くへ……。しかし、橋の中ほどで立ちどまると、向岸の茫とした緑の塊りは、静かに彼を彼の方へ押しもどしてくれるやうだつた。
[やぶちゃん注:思うに、この最後のシークエンスは冒頭の注で述べた、昭和二五(一九五〇)年の春の、祖田祐子さんとその従妹、そして盟友遠藤周作とのボート遊びの思い出から自分以外の人物を消し去って、詩人の孤独孤高な景を再構成した画面のように私には感じられて仕方がないのである。
「翌年の春、彼の作品集がはじめて世の中に出た」昭和二四(一九四九)年二月能楽書林刊の「夏の花」を指す。
「彼が結婚した年」既に述べたが、民喜の佐々木芳恵(因みに文芸評論家佐々木基一は彼女の弟である)との結婚は昭和八(一九三三)年三月であるから、十六年前である。因みに彼の慶応大学英文科(主任教授西脇順三郎(!)、同級に瀧口修造(!)がいた)卒業は昭和七年三月である。
「疼」「うづき(うずき)」或いは同義の「ひひらぎ(ひいらぎ)」で読んでいよう。前者か。「驚けなかつた」はママ。「驚かなかつた」の誤植が疑わられるが、校合対象がないので暫くママとする。
最後に。
このエンディングは原民喜の詩群「かげろふ断章」(全篇は私の「原民喜全詩集」 を参照されたい)の「昨日の雨」の中に出る、
梢
ふと見し梢の
優しかる
みどり煙りぬ
ささやかに
という一篇を直ちに連想させる。]