北條九代記 卷之八 相摸の守時賴入道政務 付 靑砥左衞門廉直 / 卷第八~了
〇相摸の守時賴入道政務 付 靑砥左衞門廉直
相州時賴入道は、國政、邪(よこしま)なく、人望、誠(まこと)にめでたく、内外に付けて私なしと雖も、奉行、頭人、評定衆の中に、動(やゝ)もすれば私欲に陷(おちい)りて、廉直を謬(あやま)る事あり。如何にもして正道に歸らしめ、世を太平の靜治(せいぢ)に置いて、萬民を撫育(ぶいく)せばやとぞ思はれける。此所(こゝ)に靑砥(あをとの)左衞門尉藤綱とて、廉恥正直(れんちしやうぢき)の人あり。その先租を尋ぬれば、本(もと)は伊豆の住人大場(おほばの)十郎近郷(ちかさと)は、承久の兵亂に宇治の手に向ひて、目を驚(おどろか)す高名しければ、その勸賞(けんじやう)に、上總國靑砥莊を賜りけり。是より相傳して、靑砥左衞門尉藤滿(ふじみつ)に至り、この藤綱は妾(おもひもの)の腹に生れて、殊更、末子なりければ、父藤滿もさのみに思はず、然るべき所領もなし。出家に成れとて、十一歳にて眞言師に付けて、弟子となす。幼(いとけな)き時より、利根才智ありて、學文(がくもん)を勤めけるが、如何なる所存にや、二十一歳の時、還俗(げんぞく)して、靑砥孫三郎藤綱とぞ名乘ける。近き傍(あたり)に行印法師とて儒學に名を得たる沙門あり。數年隨逐(ずゐちく)して、形(かた)の如くに勤めたり。相州時賴の三島詣ありけるに、藤綱生年二十八歳、忍びて供奉致し、下向道に赴き給ふ所に、人々の雜具共(ざふぐども)を牛に取付(とりつけ)て、鎌倉に歸るとて、片瀨川(かたせがは)の川中にて、この牛、尿(いばり)しけるを、藤綱、申しけるは、「哀れ、己(おのれ)は守殿(かうのとの)の御佛事の風情しける牛かな。」と打笑ひて通りける。侍共、聞付けて、咎問(とがめとひ)しかば、藤綱、申すやう、「さればこそ比比(このごろ)、數日、雨降(ふら)ず、田畠(たはた)、葉を枯し、諸氏、飢(え)を悲(かなし)む所に、この牛、尿(いばり)をせば、田畠の近き所にてもあらで、川中にて捨(すて)流しつる事よ。夫(それ)、鎌倉中に名德智行(めいとくちかう)の高僧達、貧にして飢(うえ)に臨む輩(ともがら)いくらもあり、無智破戒の愚僧の、金銀に飽き滿ちたるも多くあり。然るに、去ぬる春の御佛事には、破戒無智の富僧(ふそう)計(ばかり)を召して御供養ありて、實に佛法を修學(しゆがく)し、持戒高德の名僧をば供養なし。この御佛事は慈悲の作善(さざん)にはあらで、只、名聞の有樣なり」とぞ語りける。二階堂信濃〔の〕入道、是を聞傳へ、實(げに)もと思ひければ、事の次(つひで)に、この由を時賴にぞ語られける。時賴入道、聞き給ひて、「實に(げに)も彼(か)の者が申す所、道理至極せり、凡そ作善佛事と云ふも、慈悲を專(もつぱら)として、萬民を悦ばしめ、貧(まづし)きを救ひ、乏(ともし)きを助けてこそ、衆生を利する道とはなるべけれ。去ぬる春の佛事供養は、當家、頭人(とうにん)、評定衆の末子(はつし)などの僧に成りたる者共なれば、財寶に不足あるべからず、侈(おごり)を極め、學に怠り、道德もなき者共ぞかし、學德道行(だうぎやう)ある貧僧(ひんそう)は、賤(いやし)むとはなしに召さざりき。この事を豫(かね)て分別せざりけるは、我が大なる誤(あやまり)なり。かく申したるは、誰人にてやあるらん、その者の心中、奥床し」とて尋ねらるゝに、靑砥〔の〕前〔の〕左衞門尉が末にて三郎藤綱と云ふ者なりと申さるゝに、軈(やが)て召出して、「今より後は當家に奉公せよ」とて、召抱(めしかゝ)へられしより、政道の器量ありと見知り給ひ、後には評定衆の頭(かしら)になされ、天下の事、大小となく、口入(こうじふ)して、富(とん)で侈(おご)らず、威(ゐ)ありて猛(たけ)からず。遊樂を好まず。身の爲には財寶、妄(みだ)りに散(ちら)さず。數十ヶ所の所領を知行せしかば、財寶は豐(ゆたか)なりけれども、衣裳には細布(さみ)の直垂(ひたたれ)、布(ぬの)の大口(おほくち)、朝夕の饌部(ぜんぶ)には乾したる魚、燒鹽(やきしほ)より外はなし。出仕の時は、木鞘卷(きざやまき)の刀を差し、叙爵の後は、木太刀に弦袋(つるぶくろ)をぞ付けたりける。我が身には少(すこし)の過差(かさ)もせずして、公儀の事には千萬の金銀をも惜まず。飢えたる乞食(こつじき)、凍(こゞ)えたる貧者には、分に隨ひて物を與へ、慈悲深き事、佛菩薩の悲願にも等しき程の志なり。親しきに依て非を隱さず、私を忘れて、正直を本とす。邪欲奸曲(じやよくかんきよく)の輩、自(おのづから)恥恐(はぢおそ)れて、行跡を直(なほ)し、志を改め、上に婆沙羅(ばさら)の費(ついえ)を省(はぶ)き、下に恨むる庶民なし。かゝる人を見しりて召し出し、天下の奉行とせられたりける時賴入道の才智こそ、猶、末代には有難き人ならずや。夜光垂棘(やくわうすうゐきよく)の珠(たま)ありとも、見知る者なき時は、珠は石に同じかるべし。藤綱が廉直仁慈の德を治めしも、時賴、知り給はずは、匹夫(ひつぷ)の中に世を終(をは)るべし。文王は呂望(りよぼう)を知りて、高祖は張良を師とせらる。時賴入道は靑砥〔の〕左衞門〔の〕尉藤綱を得て、太平の政道を助けられ給ふこそ有難けれ。同十月十二日、將軍家の仰として、嘉祿元年より仁治三年に至る迄、御成敗(ごせいばい)の式法(しきはふ)は、「三代將軍竝に二位禪尼の定め置かれし所を改め行ふべからず。慥(たしか)に旨を守るべし。無禮不忠は人外(にんぐわい)の所行なり。邪欲奸詐(かんさ)は非法の行跡(かうせき)なれば、奉行、頭人、殊に愼み申さるべし。摠じて大酒遊宴に長じ、分(ぶん)に過ぎたる婆沙羅(ばさら)を好み、傾城(けいせい)、白拍子(しらびやうし)に親しみ、強緣(がうえん)、内奏(ないそう)、專ら誡(いまし)むべし、雙六(すごろく)、四一半の勝負は、博奕(ばくえき)の根元として、奉公を怠るの初(はじめ)、盜賊を企つるの起(おこり)なれば、諸侍、堅く停止(ちやうじ)すべし。萬一、背く輩は法に依て行ふべし」とぞ觸れられける。是より、上を恐れ、威に服して、暫く、非道の訴へなく、淳朴(じゆんぼく)の風に歸しけるは、政德の正しき所なり。
[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、『青砥藤綱の廉直ぶりについては、『将軍記』『太平記評判秘伝理尽鈔』に拠る。『北条九代記』ではそれら藤綱の話に、『吾妻鏡』』(巻四十八の正嘉二(一二五八)年十月十二日の条)『『将軍記』の、先代の成敗式法を遵守すとの記事を併せ、時賴が藤綱を得て政徳正しい政治を行ったと述べる』とある。実は私はこの章に関しては、以前に、「新編鎌倉志卷之六」の「固瀨村〔附固瀨川〕」の私の注の中で全電子化注(現代語訳附)を済ませている(六年前のあの頃、「北條九代記」の電子化注がここに到達するとは実は私は思っていなかった)。今回はそれを再校正し、電子化注「卷第八」完遂の記念に、現代語訳も添えて示すこととした(現代語訳を添えた関係上、語釈は今までよりも相対的に禁欲的になっている。疑問な語句は現代語訳で極力、明らかになるように訳しているつもりである)。但し、最初に述べておくが、この鎌倉の青砥橋で著名な青砥藤綱という人物、ここではまことしやかな系譜も示されているのだが、実は一種の理想的幕府御家人の思念的産物であり、複数の部分的モデルは存在したとしても、実在はしなかったと考えられている。時頼をことさらに際立たせるために創作された、いぶし銀的なバイ・プレイヤーとも言えるように私は感じている。
「相州時賴の三島詣ありけるに」北條時賴は建長三(一二五一)年に三島社を勧請、三島本社に参詣しているが、三島市の公式HPの「三島アメニティ大百科」の「三嶋大社周辺」にある「三嶋大社を崇敬した武将」の項に、翌年の建長四(一二五二)年の旱魃の夏にも自ら大社に参詣して雨乞いをしたとする記事があり、このシークエンスにぴったりくるのはこの建長四年である。
「藤綱生年二十八歳」この年齢の時賴による登用エピソードについては、もっとあり得そうもないものとして、北条時賴が鶴岡八幡宮に参拝したその夜に夢告があって、即座に藤綱を召し、左衛門尉を受授、引付衆(評定衆とも)に任じたが、その折り、藤綱自身がこの異例の抜擢を怪しんで理由を問うたところ、夢告なることを知って、「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである。」と任命を辞し、時賴はその賢明な返答に感じたともある(以上はウィキの「青砥藤綱」を参照した)。
「守殿(かうのとの)」は「長官君」などとも書き、「かみのきみ」の音変化したもの。国守・左右衛門督などを敬っていう語。時賴は寛元四(一二四六)年の幕府執権就任後に相模守となっている。
「二階堂信濃入道」政所執事二階堂行実(嘉禎二(一二三六)年~文永六(一二六九)年)のこと。引付衆となったが、短期間で卒去した。
「評定衆の頭になされ」現在知られる評定衆一覧記録には青砥の名は見当たらない。
「夜光垂棘の珠」春秋時代の晋(しん)の国で産したという宝玉。夜光を発する垂れ下がった棘(とげ)のようなものというから、六角柱状の水晶か、鍾乳石の類いか。「韓非子十過」に基づく成句「小利を以て大利を殘(損)そこなふ」の話に現れる。晋の献公は虢(かく)を伐(う)とうとしたが、そのためには虢の同盟国である虞(ぐ)を通らねばならなかった。そこで賢臣荀息の一計により、晋代々の宝である垂棘の璧(へき)と、名馬の産地であった屈の馬を虞公に贈って安全を確保しようとした。虞の家臣宮之奇は虞と虢は車の両輪であり、虢が滅べば、遠からず我が国も滅亡の憂き目に逢うとして諌めるが、宝玉と駿馬に目が眩んだ虞公は領内の通過を許可してしまう。荀息は、ほどなく虢を滅ぼし、その三年後には同じ荀息によって虞は滅ぼされ、璧と馬はかつてのままの状態で献公の手に戻ったという故事。「眼前の利益に目を奪われ、真の利益を失う」の意で用いる。
「同十月十二日、將軍家の仰として」は正嘉二(一二五八)年十月十二日の宗尊将軍の発布した御成敗式目追加法の禁令を指す(「同」は前項「伊具の入道射殺さる」以下の正嘉二年の記事を受ける)。「吾妻鏡」正嘉二年十月十二日に、
十二日丁亥。晴。今日評議。被仰出曰。自嘉祿元年至仁治三年御成敗事。准三代將軍幷二位家御成敗。不可及改沙汰云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日丁亥。晴。今日の評議に仰せ出されて曰く、「嘉祿元年より仁治三年に至る御成敗の事、三代將軍幷びに二位家の御成敗に准じ、改め、沙汰に及ぶべからずと云々。
とある。実は本話に用いられた「吾妻鏡」素材は、ここだけと言ってよい。
「四一半」とは双六から鎌倉時代に発生した賭博の一種で、時代劇などで知られる二つの骰子を振って偶数・奇数を当てる丁半賭博。駒を用いた双六に比して遙かに勝負が早い。
□やぶちゃんの現代語訳
〇相模の守時頼入道の政務の様態 付 青砥左衛門藤綱の私欲なく正直なこと
相州時頼入道様は、天下の執権としての政務には一切の瑕疵(かし)なく、その人望たるや、国に遍(あまね)く行き渡り、如何なる場面に於いても私心をお持ちにはなられなかったが、奉行や引付衆長官たる頭人及び評定衆の中には、ややもすれば、私利私欲に陥り、正道を外れて誤った行いに走る者があった。故に、時頼入道様は、『何とかして道義の正しき道に帰せしめ、天下を太平の静かな治の中に安んじて万民を真心を以て慈しみ育みたいものだ。』と常々、お感じになっておられた。
さて、ここに青砥左衛門尉(さえもんのじょう)藤綱と言って、清廉潔白で恥の何たるかを弁(わきま)えた極めて正直な人物があった。その先租を尋ねれば、その始祖は伊豆の住人大場十郎近郷(おおばのじゅうろうちかさと)という者で、承久の兵乱の際、幕府軍の宇治の攻め手に加わって、目を驚かす高名を成したがため、その恩賞として上総の国青砥荘(しょう)を賜ったという。それより代々相伝して、青砥左衞門尉藤滿(ふじみつ)に至って、この藤綱が生まれたのであった、彼は側室の子で、尚且つ、末子であったがため、父藤満もさして大事にしようとは思わず、然るべき所領も与えられなかった。「出家になれ」と命じて、十一歳で真言宗の師に付けて、その弟子と成さしめた。幼い時から才気煥発、真言の法理もしっかりと修めたのであったが、いったい如何なる所存であったものか、二十一歳の時、突如、還俗して、青砥孫三郎藤綱と名乗った。それでも、彼の住まいの近くに行印法師という儒学僧として名を成した者があり、数年の間は、この僧につき従って、とりあえずは儒家の教えなんどを学んではいた。
ある時、相州時頼入道様の三島詣(もうで)が御座ったが、藤綱は当年二十八歳、その非公式の供奉人として潜り込んでいた。参拝を終えられての途次、供奉の人々が旅中の用具などを牛に背負わせ、まさに鎌倉へと帰らんとする、かの片瀬川渡渉の砌(みぎ)り、その川中にて、この牛が勢いよく、
――ジャアアアッーーー!
と、尿(いばり)をした。それを見て、藤綱が言うことには、
「――ああっ! 己(おのれ)は! 守殿(こうのとの)が催された御仏事とまるで変わらぬ仕儀を致す牛じゃのぅ!」
と笑いながら牛の横を渉って通る。
これを傍らにいた他の供奉の侍どもが聞き咎め、
「如何なる謂いか?」
と詰問したところが、藤綱が言うことには、
「――さればとよ。この数日は雨も降らず、田畑はすっかり葉を枯らしてしまい、諸民、悉く飢え悲しむ折りから、この牛が尿(いばり)をするに、それが肥やしとなろう田畑の近き所にてひるにはあらで、あろうことか、川の中にて無駄に捨て流した、ということを、我ら、言うておるのよ。――さても、鎌倉中には正しき名徳にして智行高邁の秀でた僧たちで、まさに今、貧しく飢えて御座る輩(やから)がいくらも、おる。――また逆に、無智蒙昧にして平然と破戒しおる愚劣なるなる似非僧で、金銀に飽き満ちておる者どもも多く、おる。――然るに、去ぬる春の御佛事にては、そうした破戒無智の金満僧ばかりを召されての御供養をなさって御座った。真(まこと)の仏法を修学し、持戒堅固徳高き名僧を、その供養に列せらるることは、これ、なかった。――さればこそ、この御仏事は真の仏法の慈悲の作善にはあらず――ただ、外見ばかりを取り繕うた――空疎愚昧なる仕儀であったということじゃて!」
と語ったのであった。
二階堂信濃入道が、その折りの侍の一人から、このことを伝え聞いて『尤もなる謂いじゃ』と思ったによって、ことの序でに、この一部始終を、かの時頼入道様に上奏致いた。
時頼入道様はその話をお聞きになられると、
「……まっこと、彼(か)の者の申すところ、至極、尤もなる道理で、ある。凡そ、作善仏事というものは、ひたすら慈悲を主眼と致いて、万民に喜悦を与え、貧しき者を救い、とかく物の乏しき者に物品を与え助けてこそ、これ、衆生を利する道とは言うのである。……しかるに、去ぬる春の仏事供養にては、当家の頭人や評定衆の末子などで僧に成ったる者どもをのみ、これ、招聘致いたれば、彼らは、財宝に不足ある者にては、これ、全くなく、それどころか、奢侈(しゃし)を極め、学問を怠っておる、道徳の「ど」の字もなき者どもであったぞ。……学徳優れ、道心堅固なる貧しい苦行僧らをば……賤しんだわけでは御座らぬが……確かに一人として招かなんだ。……このことを前もって自覚することが出来なかったことは、我が大いなる誤りである。――かく申したるは、それ、誰人(たれぴと)にてあるか!? その者の心中、まことにおくゆかしいことじゃ!」
と御下問あらせられたので、二階堂信濃人道が、
「青砥の前の左衛門尉が末子にて三郎藤綱と申す者にて御座いまする。」
と申し上げたところが、即座に彼をお召し出しになられて、
「――今より後は北条が当家に奉公せよ。」
と、藤綱は家士として召し抱えられたので御座った。
さて、それ以来、時頼入道様はこの藤綱に政道を司る器量ありとお見抜きになられて、後には評定衆の頭(かしら)となされ、藤綱は、天下の事、その大小に拘わらず、その見解と意見を述べる立場となった。
藤綱はあっという間に豊かになったが、それでも一切、これ、驕り昂ぶることなく、評定衆頭人(とうにん)という権威を持ちながら、決してそれを振り回さない。遊興はこれを好まず、自分のためには財産を妄りに浪費することもなかった。後には数十ヶ所の所領を支配していたから、実質的な財産は相当に豊かにはなったけれども、衣裳は常に細い糸で織った麻布の直垂(ひたたれ)に、麻布製の裾の開いた大口(おおぐち)の袴(はかま)で、朝夕の食膳には乾した魚と焼き塩以外には載せない。出仕の時は、素朴な木鞘巻(きざやまき)の刀を差し、左衛門尉の官位を受けてから後でも、豪華な太刀を嫌い、木太刀に申訳程度の飾りとして弦袋(つるぶくろ)のような籐(とう)で出来た袋を被せたものを佩いていた。己がためには些かの贅沢をすることもない代わりに、公儀の御事に対しては、これ、己が千万の金銀を使うことをも、かつて一度として惜むことがなかった。飢えた乞食や凍えた貧者を見れば、その飢えと貧に応じて物を与え、その慈悲深いことと言ったら、仏菩薩の衆生済度の悲願にも等しい程の志しであった。しばしば地位を得た者に見られるような、親しい者だからといってその者の非を隱すといった庇(かば)い立てをすることなどは金輪際なく、ひたすら『私(わたくし)』を忘れて『正直』なることを人生の根本とした。さればこそ、彼の周囲に御座った、邪(よこしま)なる我欲から悪巧(わるだく)みをせんとする輩(やから)は、これ、一人残らず、自(おのづか)ら恥じ恐れて、己が行跡(ぎょうせき)を直(なお)し、志しを改め、上の者たちには奢侈(しゃし)の浪費を抑えさせたがために、下にも恨む庶民がいなくなった。
さても何より、このように藤綱の人物を見抜いて召し出し、天下の奉行となされた時頼入道様という、才智ある御仁こそ、なお後代には稀有(けう)の御人(おひと)ではあるまいか? 夜光垂棘(やこうすいきょく)の珠(たま)がこの世に存在しても、それが名玉夜光垂棘であるということを認識出来る者がいない時は、貴い宝珠も、ごろた石と同じであろう。藤綱が清廉潔白で仁徳と慈悲心を美事修めていても、時頼入道様がその存在を発見なさらなかったならば、つまらぬ侍どもの中で凡庸なる人生を終えていたであろう。周の文王は太公望呂尚(ろしょう)を見出され、漢の高祖沛公(はいこう)は功臣張良を軍師となさった。時頼入道様は青砥左衛門尉藤綱を得、太平の政道を彼によって輔弼(ほひつ)させなさったことは誠に稀有の幸甚(こうじん)であったのである。
同正嘉二年十月十二日、宗尊将軍の仰せとして、
「嘉禄元年より仁治三年に至るまで、幕府御裁決の方式は、源頼朝様・頼家様・実朝様三代将軍并に二位の禪尼政子様の定め置かれたところのものを、一切、変更してはならない。確実にこの旨を守らねばならない。無礼・不忠は人間に非ざるものの所行(しょぎょう)ある。邪(よこしま)なる我欲とそれに発する種々の悪巧(わるだく)みは、一切が不法行為であるからして、奉行・頭人(とうにん)らは、殊に謹んで伺候(しこう)するようにせねばならない。総じて、大酒を呑んで遊宴にうつつを抜かし、分に過ぎた奢侈(しゃし)を好み、傾城(けいせい)や白拍子(しらびょうし)に親しみ、要人との縁故(えんこ)を恃(たの)んで利を求めたり、己を利するためにする卑劣なる内密の奏上(そうじょう)などは、これ、厳(げん)に慎まねばならない。双六(すごろく)、四一半(しいちはん)の勝負は、賭博の元凶であり、奉公や伺候の怠慢の始まりとなり、ひいては盗賊へと身を持ち崩し、悪事を企てる元ともなるによって、総ての侍(さむらい)は、堅くこれを禁止とする。万一、これに背く輩(やから)は、法に従って厳然と処罰される。」
と御成敗式目追加法たる御禁令をお出しになられた。これ以来、諸人は悉くお上(かみ)を恐れ、正しき権威に誠心(せいしん)から服従し、暫くの間は、話にならない馬鹿げた訴えも、これ、一つとしてなく、純朴にして正しき気風が、ここ鎌倉中に満ち満ちたのは、時頼入道様がなされ、藤綱が支えた幕政の正しかったことを如実に現わしているのである。]
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